判例全文 line
line
【事件名】ノンフィクション「捜す人」類似表現事件(2)
【年月日】令和6年5月30日
 知財高裁 令和5年(ネ)第10100号 損害賠償請求控訴事件
 (原審・東京地裁令和3年(ワ)第28914号)
 (口頭弁論終結日 令和6年2月15日)

判決
控訴人 X
同訴訟代理人弁護士 水口瑛葉
被控訴人 Y
同補助参加人株式会社 文藝春秋
上記両名訴訟代理人弁護士 喜田村洋一
同 藤原大輔


主文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人に対し、346万円及びこれに対する平成30年8月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要等
1 事案の要旨
 本件は、ドキュメンタリー映画「Life」(以下「本件映画」という。)の著作者である控訴人が、被控訴人が書籍「捜す人 津波と原発事故に襲われた浜辺で」(以下「本件書籍」という。)を執筆し、被控訴人補助参加人にこれを出版、販売させた行為により、本件映画に係る控訴人の著作権(翻案権)、著作者人格権(同一性保持権及び氏名表示権)及び人格権又は法的保護に値する人格的利益がそれぞれ侵害されたと主張して、被控訴人に対し、各不法行為による損害賠償請求権に基づき、損害賠償金合計346万円及びこれに対する平成30年8月10日(本件書籍の販売開始日)から支払済みまで平成29年法律第44号による改正前の民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
 原判決は、被控訴人が本件書籍を執筆等したことは、本件映画に係る控訴人の翻案権、同一性保持権、氏名表示権を侵害するものではなく、控訴人の人格権又は人格的利益を侵害するものでもないとして、控訴人の請求を棄却した。
 控訴人は、原判決を不服として控訴した。
2 前提事実(当事者間に争いがないか、掲記の証拠により認定した。)
(1)本件映画(甲1)
 本件映画は、控訴人が企画し、平成28年12月頃までに制作して完成させ、平成29年2月頃に公開した115分間のドキュメンタリー映画であり、その著作者は控訴人である。
 本件映画は、東日本大震災(以下、単に「震災」ということがある。)に伴う津波により家族が犠牲となったA(以下「A」という。)やB(以下「B」という。)の言動や、同人らに関係する出来事等を控訴人が直接撮影した映像を中心とし、その他、東京電力の関係者であるC(以下「C」という。)に関係する映像等を含んで、構成されている。
(2)本件書籍(甲2)
 本件書籍は、被控訴人が執筆し、出版社である被控訴人補助参加人が平成30年8月に出版、販売した299頁のノンフィクション作品であり、著者として被控訴人の氏名が表示されている。
 本件書籍は、震災の発生直後から平成29年にかけて、A、B、C、地元ラジオ局のアナウンサーやこれらの者に関係する人物がそれぞれ経験した出来事等をオムニバス形式で記述して構成されている。
(3)本件映画と本件書籍の表現の対比
 本件映画には、別紙著作物対比表の「控訴人著作物」欄各記載の映像と音声(以下、「場面」欄記載の数字等に応じて「控訴人映像1」などといい、併せて「控訴人各映像」という。)がある。
 本件書籍には、別紙著作物対比表の「被控訴人著作物」欄各記載の記述等(以下、「場面」欄記載の数字等に応じて「被控訴人記述1」などといい、併せて「被控訴人各記述」という。)がある。
3 争点
(1)本件書籍の執筆、出版及び販売により、本件映画に係る控訴人の翻案権が侵害されたか(争点1)
(2)本件書籍の執筆、出版及び販売により、本件映画に係る控訴人の同一性保持権及び氏名表示権が侵害されたか(争点2)
(3)本件書籍の執筆、出版及び販売により、控訴人の人格権又は法的保護に値する人格的利益が侵害されたか(争点3)
(4)控訴人が受けた損害の額(争点4)
第3 争点に関する当事者の主張
1 争点1(本件書籍の執筆、出版及び販売により、本件映画に係る控訴人の翻案権が侵害されたか)について
(控訴人の主張)
(1)本件書籍が本件映画に依拠していること
 被控訴人は、本件書籍の執筆に先立ち、及び執筆中に、少なくとも6回、本件映画を視聴した。また、被控訴人は、控訴人に対し、本件映画を観ながらその場面を自分で見てきたかのように書きたいなどと述べて、本件映画のDVDを提供するよう何度も求めた。控訴人は、後記(2)に述べるAへのインタビュー、住民説明会、卒業式、Aの自宅解体等の現場に立ち会い、自ら問いかけをするなどして発言等を獲得し、これらを映像化しているのに対し、被控訴人は、これらの場面に立ち会っておらず、関係者に対して事後的に形式的な取材をしたにとどまる。そして、後記(2)に述べるとおり、本件映画と本件書籍との共通点は非常に多い。これらからすると、被控訴人は、本件映画に依拠して本件書籍を執筆したことが明らかである。
(2)控訴人各表現と被控訴人各表現の同一性を有する部分がいずれも創作的表現であること
 別紙著作物対比表の「場面」欄記載の各場面(以下、同欄記載の番号等に応じて「場面1」などという。)において、控訴人各映像と被控訴人各記述は、特に同対比表に下線部を施した部分は同一であり、その余の部分も本質的部分が共通しており、実質的に同一である。
 そして、次に個別に主張するとおり、これらの同一性を有する部分はいずれも創作的表現であるといえる。
ア 場面1について
 控訴人は、震災から約1年が経過した平成24年3月15日、初めてAに対してカメラを向けてインタビューを実施した。震災直後のAは、多くの者の取材を受け付けていなかったが、控訴人は、Aと真摯に向き合い、時間をかけて信頼関係を構築し、その心情に配慮して種々の工夫を施して撮影を開始し、ようやくAから発せられたのが「置いてきぼりだ、ここは」との発言である。これは、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、この発言を中心に、人がいない福島県南相馬市の風景や、津波被災地に一軒だけ残るAの自宅の映像を重ね、本件映画のタイトルへとつなぐ等の工夫を施して控訴人映像1としたものである。したがって、控訴人映像1は創作的表現といえる。
イ 場面2について
 控訴人映像2は、控訴人からの「当時、奥さんは妊娠中で?」という問いを契機に、Aが、津波により亡くなった長女の火葬に妻が立ち会えなかったことを振り返り、少し時間を経て妻の心情に気付いて自分が駄目な夫であると感じたことや、東京電力に対する怒りが出てきたこと等を発言する場面を中心としている。これは、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、この発言を、Aがその後、Cほか東京電力の関係者と交流していく様子を描く伏線とする意図で用い、Aの妻や二女の横顔の映像を重ねる等の編集上の工夫をして控訴人映像2としたものである。したがって、控訴人映像2は創作的表現といえる。
ウ 場面3について
 控訴人映像3は、Aが、津波により行方不明となっている者を捜索する活動を継続していることについて、捜す人がいなければ、見つかる可能性はゼロであり、捜す人がいれば、ゼロではないとの旨を発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、平成25年2月17日、Aにインタビューをして収録したものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、これを、捜索にかけるAの想いの強さを伝え、また、震災から5年9か月を経てAやその仲間が行方不明の女児の遺骨を見つけるという本件映画の最終場面への伏線とする意図で用い、平成24年の捜索風景等の映像を重ねる等の編集上の工夫をして控訴人映像3としたものである。したがって、控訴人映像3は創作的表現といえる。
エ 場面4について
 控訴人映像4は、Aが、津波により行方不明となったままの長男が見つからないのは、長男がAを生かすためにわざと出てこない、見つからないようにしているのではないか、仮に早い段階で長男が見つかっていたら、Aは妻が二女を妊娠していることなど関係なく自分で死んでいたと思う旨を発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、平成25年6月29日、Aに対し、我が子の死に直面した心情という最もつらい問いをあえて行い、対話の中で収録したものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、同日に収録した約1時間の映像のうち、長男がどうしても見つからないことについて語った上記発言を選択し、全く別の機会に撮影したAが海岸を歩く映像と重ねる編集上の工夫も行い、控訴人映像4としたものである。したがって、控訴人映像4は創作的表現といえる。
オ 場面5について
 控訴人映像5は、Aが、震災から4年余りが過ぎた平成27年3月24日、いまだ津波で行方不明となったままの二女を捜索しているBに関連して、困っている人がいるのに日本は何もしない、他方でテレビでは「絆」等の言葉がよく使われており、その差がありすぎるとの旨を発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、Aに対し、かつてAが「置いてきぼり」と述べた心情をBの姿にも見たのではないか、Bの存在によりAに変化はあったか等を問いかけて収録したものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、Aの性格を魅力的に描くためにこれらの発言を選択し、Bが捜索活動を行う地区の空撮映像とBが一人で歩く映像とを重ね合わせて、Aが語る理不尽さを分かりやすく示す編集上の工夫も行い、控訴人映像5としたものである。したがって、控訴人映像5は創作的表現といえる。
カ 場面6について
 控訴人映像6は、Aが、周囲の人の「普通」の日常が目に入るのがつらくてフェイスブックをやめた旨を発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、平成26年2月9日、当時、精神的に最も不安定な状態にあったAの心情を具現化することが必要と考え、築き上げてきた信頼関係を前提に、様々な角度から問いかけて収録したものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、周囲の者ですら深くは知り得なかったAの状態の深刻さを示すためにこの発言を選択し、被災したAの自宅を背景とする編集上の工夫も行い、控訴人映像6としたものである。したがって、控訴人映像6は創作的表現といえる。
キ 場面7について
 控訴人映像7は、Aが、誕生日からすれば本来小学校に入学するはずだった長男のためにかばん(ランドセル)を買って、これをAの妻が持ち、長男の写真を二女が持って写真を撮った旨を発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、平成26年6月9日、Aの自宅の祭壇に置かれていたランドセルを見て、Aに問いかけて収録したものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、時の経過が必ずしも悲しみを癒やすものとは限らないことを表すためにこの発言を選択し、Aが撮影したという家族写真を背景とする編集上の工夫も行い、控訴人映像7としたものである。したがって、控訴人映像7は創作的表現といえる。
ク 場面8について
 控訴人映像8は、中間貯蔵施設に関して平成26年6月14日に福島県郡山市で実施された住民説明会におけるBと環境省担当者の発言や表情等を中心としている。控訴人は、説明会開始前のBの様子から終了後のBへのインタビューまで撮影を続け、Bや環境省担当者の発言のみならず、その表情、様子を収録した。控訴人は、約1時間50分にわたる映像の中から、Bの静かな憤りが伝わるように特定の部分を選択し、テンポよく見せるような編集上の工夫も行い、控訴人映像8としたものである。したがって、控訴人映像8は創作的表現といえる。
 被控訴人は、被控訴人記述8において、住民説明会におけるBの表情や心情等について記載しているが、この住民説明会に参加しておらず、Bに対して取材を行ったとしても、B自身が住民説明会における自らの発言の際の自らの表情等についてまで取材時に語ることができたとは思われない。被控訴人は、本件映画を観て、上記発言時のBの険しい表情、環境省担当者の動揺などを知ることができ、被控訴人記述8として記載することができた。それは、控訴人が、本件映画において、Bの表情を捉えたからであり、Bの発言だけでなく、表情等も併せて伝えることに意味を認めたからであり、被控訴人記述8は、控訴人の創作的表現を下敷きに被控訴人が文章化したものである。
ケ 場面9について
 控訴人映像9は、控訴人からの「おかしいことに怒れるって、昔からそういうタイプだったんですか」という問いを契機に、Aが「正義感のクソもなかった」と発言する場面を中心としている。この発言も、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、震災前後のAの生き方の変化を表すためにこの発言を選択し、編集上の工夫を行って控訴人映像9としたものである。したがって、控訴人映像9は創作的表現といえる。
コ 場面10−@について
 控訴人映像10−@は、長女の同級生が小学校の卒業式を迎えるに当たり、長女に代わって卒業証書を受け取ることとしたAが、当日の朝、「落ち着かない」と発言し、また、たばこを吸うなど落ち着かない様子を妻にたしなめられる場面を中心としている。この卒業式には、大勢の報道陣が詰め掛けていたが、当日の朝、自宅でのAの様子を撮影した者は控訴人以外になく、控訴人だから撮影できた発言、様子である。控訴人は、Aは実際には落ち着かない様子を短時間に繰り返し見せたわけではないが、場面をつなぎ合わせて臨場感を見せるなどの編集上の工夫も行い、控訴人映像10−@としたものである。したがって、控訴人映像10−@は創作的表現といえる。
サ 場面10−Aについて
 控訴人映像10−Aは、上記卒業式に先立ち、Aが小学校から受領した手紙について説明し、心情を発言する場面を中心としている。この手紙は、小学校が長女についても卒業証書を授与する提案を含むものであって、Aが控訴人を信頼していたからこそ、その存在と内容を明らかにしたものである。控訴人は、誰も描くことができないAの細やかで複雑な心情を描くためにこの場面を収録、選択して控訴人映像10−Aとしたものである。したがって、控訴人映像10−Aは創作的表現といえる。
シ 場面10−Bについて
 控訴人映像10−Bは、小学校の教室において、Aが長女の卒業証書を受領する場面を中心としている。控訴人は、特にAの表情のアップを中心に撮影し、約32分の収録映像のうち、卒業証書を受け取る場面、Aが涙を流して挨拶する場面、二女が場の空気を和ませてAや他の者に笑顔が見られる場面等を意識的に選択して、ナレーションを入れない約4分の控訴人映像10−Bとした。したがって、控訴人映像10−Bは創作的表現といえる。
 本件書籍にも、卒業式当日の様子が描かれているが、Aの発言だけでなく、保護者のすすり泣く状況、Aの二女が「おしっこ」と言った後のAやAの妻、周囲の反応が記載されている。控訴人はこの卒業式に立ち会い取材しているが、被控訴人は、この卒業式に立ち会っておらず、2年以上経過した後で、Aに対する取材を行っている。Aは、自身の発言に加えて、一定の周囲の状況について語ることは可能だろうが、保護者がすすり泣く様や、「おしっこ」と聞こえた直後の自身の反応、妻の表情や動きまでを思い返して発言することができたかについては、A自身もできなかったと後に控訴人に述べている。被控訴人記述10―Bにおける保護者のすすり泣く状況、Aの二女が「おしっこ」と言った後のAやAの妻、周囲の反応の描写は、本件映画を見たことから記載できたものであって、控訴人映像10―Bの創作的表現を下敷きに被控訴人が文章化したものである。
ス 場面11について
 控訴人映像11は、Aの妻が、長女と長男は大きな波が来て海に連れていかれたと二女に説明しているが、二女はこれに対して「ふーん」と話しているなどと発言する場面を中心としている。Aの妻は、当時、控訴人以外の者から取材を受けることはなく、これらの発言は、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、震災後に生まれた二女の存在を一つの主題として、同人が経験していない震災や、会ったことのない姉、兄をどう受け止めていくかを描くことを意図し、これらの発言を選択して、別の日に撮影した二女が遺骨に話しかける映像を重ね合わせるなどの編集上の工夫も行い、控訴人映像11としたものである。したがって、控訴人映像11は創作的表現といえる。
セ 場面12について
 控訴人映像12は、平成26年5月4日、Aが、一般に開放した菜の花畑で子供たちが遊ぶ様子を見て、悲しくて泣けてくるのではなく、嬉しくて泣けてくるなどと笑いながら発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、Aに対し、「特にでも、子供たちが笑ってるって、やっぱり。」と問いかけて収録したものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、Aが震災で負った心の傷を乗り越えていく過程を描く本件映画に不可欠な場面としてこれらの発言を選択し、長男の形見ともいえる鯉のぼり、子供たちの笑顔、Aの背後から日光が射す映像を重ねるなどの編集上の工夫も行い、控訴人映像12としたものである。したがって、控訴人映像12は創作的表現といえる。
ソ 場面13について
 控訴人映像13は、Aが、自宅の解体を控え、震災の年を最後に立ち入っていなかった長女の部屋に立ち入り、長女の遺品を片付けていく場面を中心としている。控訴人は、Aと二人きりで長女の部屋に入ってこれらの場面を撮影しており、控訴人とAとの強い信頼関係がなくては記録に残ることはなかった場面である。控訴人は、Aが我が子の死に向き合う重要な場面と捉え、約2時間の映像のうち、かつての長女の生活がかいま見える物品や、それを見つめるAの表情、後ろ姿など映像を厳選して1分47秒からなる控訴人映像13としたものである。したがって、控訴人映像13は創作的表現といえる。
 本件書籍にも、自宅の解体工事の前に、Aが長女の遺品を整理しながら語っている場面の記載があるが、控訴人が解体工事前にA宅で取材をしているのに対し、被控訴人は、被控訴人自身の目で被災したA宅を一度も確認したことがなく、その空間に足を踏み入れたことがないばかりか、その大きさや間取り、被災状態などについても直接見て取材をすることが不可能であった。本件映画では、遺品整理をするAがため息をする瞬間も描かれているが、被控訴人記述13にも「小さなため息をつきながら」と、その場にいたかのような記述がされている。被控訴人の取材において、Aは解体工事前の遺品整理の場面を思い返しながらため息をしたことまで述べることができたとは考えられず、被控訴人は、本件映画の表現に依拠して、被控訴人記述13を行ったものである。
タ 場面14について
 控訴人映像14は、Aが、長女や長男の声を思い出すことができなくなっているなどと発言する場面を中心としている。この発言は、控訴人が、自宅の解体と、子らへの記憶が薄れていくことを結び付ける意図をもって、「(自宅が)なくなってしまうと、思い出せなくなっちゃうんじゃないか、とか?」と問いかけて収録されたものであり、控訴人の問いにより初めて得られたものである。控訴人は、長女や長男が遊んでいたおもちゃの映像を重ねるなど編集上の工夫も行い、控訴人映像14としたものである。したがって、控訴人映像14は創作的表現といえる。
チ 場面15について
 控訴人映像15は、Aの自宅が解体される様子と、これを目の当たりにしたAの表情等を中心としている。控訴人は、平成28年2月1日、2日、11日、12日、15日及び28日の合計6日にわたって撮影を実施した。そして、Aが自宅裏手や新居の中から解体の様子を見て、また、目を背けたり涙を流したりする場面等を選択し、時系列に捉われることなく配置して緊迫感を出すなどの工夫も行い、控訴人映像15としたものである。したがって、控訴人映像15は創作的表現といえる。
ツ 場面16について
 控訴人映像16は、Aが、家族も自宅も守ることができなかった旨を発言する場面を中心としている。控訴人は、平成27年6月6日、長く自宅の解体を回避してきたが、いよいよその決断を迫られたAの無念さを表すものとしてこの発言を選択し、Aの父の遺影、被災前後の自宅の映像を重ねる等の編集上の工夫も行い、控訴人映像16としたものである。したがって、控訴人映像16は創作的表現といえる。
テ 場面17について
 控訴人映像17は、津波による行方不明者を捜索していたところ、人の歯と骨が見つかったこと及びBが「これ、治療してある」と述べる場面を中心としている。この場面は、平成28年12月11日、Bが二女のものとみられる遺骨を発見し、初めてこれを手にした場面であるが、この場面を撮影したのは控訴人ただ一人である。Bの反応が冷静であったことの意外さを含め、現実は時に人間の想像を超えるものであることを表現する意図をもってこれらの映像を選択し、映像の順序や字幕を付加して臨場感を出す等の編集上の工夫も行い、控訴人映像17としたものである。
 したがって、控訴人映像17は創作的表現といえる。
(3)本件書籍に接する者が、本件映画の表現上の本質的な特徴を直接感得することができること
 本件映画と本件書籍とは、その媒体のほか、登場人物や事実の配列等が異なっているが、骨格をなす全体のストーリー構成や主要な登場人物は同じであり、当事者への取材のみでは知り得ない情景の描写があるから、本件書籍に接した者は、全体として、本件映画の表現上の本質的な特徴を直接感得することができるというべきである。
(4)小括
 以上のとおり、本件書籍は、本件映画に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的な表現に修正等を加えて新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が本件映画の表現上の本質的な特徴を直接感得することができるものといえるから、本件映画を翻案したものといえる。
 原判決は、控訴人各映像の複数の場面につき、「現実に存在した出来事や状況などの事実に関するもの」とし、「本件映画と本件小説は同じ事実を描写している」とした上で、「個々の、現実に存在した出来事や状況などの事実を表現それ自体であるということはできない」とし、「同じ事実を描写したことをもって、本件映画と本件小説の表現が共通するとはいえない」とした。しかし、ある事象は、人の五感の作用を通じて覚知されるものであり、更にその人の持つ過去の経験や知識、又は事象との関わりの深さや価値観の違い等によっても全く異なったものとして覚知され、その覚知されたものが「事実」として扱われる。そして、ある事象を覚知する人は複数存在し得るので、覚知された内容は同一であるとは限らず、その意味での「事実」は複数存在し得るから、ある事象についての「事実」が常に単一であり、誰の目から見ても、この世に絶対的な存在として一つしか存在し得ないかのような前提は誤りである。例えば、地震や津波、卒業式といった事象について、それらに立ち会った人が覚知する内容は様々であることから、地震や津波、卒業式という出来事に関する事実は、決して単一ではあり得ない。
 覚知された内容を言語や映像などの方法で具現化する場合、そこには具現化しようとする者の意識が反映される。言語の場合であれば、それは単語や修飾の選択、又は口語体か文語体か、一文の長短などの選択として表れ、映像の場合であれば、焦点の合わせ方、画角の設定、フィルターの有無、効果音の有無などの選択として表れる。こうした意識の反映を通じて具現化されたもののうち、創作性のあるものが「表現」として保護され、ありふれたものであれば保護の対象外とするのが法の考え方である。ある出来事や状況を、詳しく描写した場合には、その描写の方法がまさに創作性のある表現になり得る。映像表現は、取材対象者の発した発言内容だけで成立しているわけではなく、また、音声だけで成り立っているわけでもなく、取材対象者の発言内容のみならず、そのときの同人の表情や状況を描写するか否か、どう描写するかが、控訴人独自の視点による創作性のある表現である。
 本件映画では、控訴人は、例えば、Aに対する質問をあらかじめ用意し、Aが回答した内容につき、控訴人の企画、方針等に応じて取捨選択し、更に表現上の加除訂正等を加えて映像を作成したものであって、その過程においてAが手を加えていないのであるから、Aは本件映画作成のための素材を提供したにとどまる。本件映画におけるAの発言が媒体に化体したところのものは、Aによる表現ではなく、控訴人による表現であって、被控訴人はこのような表現を模倣したものである。
(被控訴人の主張)
(1)創作性を有しない部分においてのみ同一性を有するにすぎないこと
 本件映画及び本件書籍は、いずれもAやBの行動、その際の心情・感情等、表現上の創作性の入り込む範囲のない歴史的事実を題材に描くものであり、記述やエピソードが重複することは当然の帰結である。歴史的事実を題材に描いた両作品においては、「表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分」において同一性を有するにすぎない場合がしばしばあり得るから、本件書籍が本件映画を翻案したものかを判断するに当たっては、そのような観点から検討されるべきである。
 そして、控訴人が主張する各場面において、本件映画と本件書籍とが同一性を有する部分は、Aや関係者が経験した客観的事実や、これらの者が特定の感情等を抱いたその感情の内容、又はそれを述べたという客観的事実にとどまっている。これらの同一性を有する部分は、事実であって表現それ自体ではないか、Aらの思想又は感情を表現したものであって控訴人の思想又は感情を表現したものではないか、又は特定の人物の感情等の表現としてありふれたものであるから、いずれも創作性を有しない部分にすぎない。
 控訴人の主張は、控訴人が膨大な労力をかけて得たインタビュー映像には、いずれも控訴人なりの狙いや意図があり、インタビューの結果得られた情報に著作物性・創作性が認められるということに基礎をおくものと解される。しかし、その狙いや意図といった要素は、著作権法上保護されないアイデアの範ちゅうにとどまるものである。インタビューの結果得られた情報は、客観的事実ないしその際に取材対象者が抱いた思いや感情といういわば歴史的事実(ファクト)であって、一定の狙いや意図によって当該ファクトを得たとしても、そのファクトは、控訴人が独占的に使用できるものではない。
 したがって、本件書籍が本件映画を翻案したものということはできない。
(2)本件映画の表現上の本質的な特徴の同一性が維持されていないこと
 本件映画は、控訴人がAやその家族に密着取材して、その時々の感情を自ら語ってもらうことを中心とした映像作品であり、密着取材時当時のAやBの感情に焦点が描かれている。
 他方、本件書籍は、東日本大震災の発生当時のA、Bの行動や家族が被害を受けた経緯、その後の捜索活動等の個別具体的な事実関係を詳細に描くなど、本件映画とは表現の視点や観点も、具体的な描き方も大きく異なっている。また、本件書籍では、A及びB以外のみならず、本件映画に登場していない人物についても著述し、事実関係の取捨選択も異なっている。
 したがって、本件書籍においては、本件映画の表現上の本質的な特徴が維持されているとはいえず、本件映画を翻案したものということはできない。
2 争点2(本件書籍の執筆、出版及び販売により、本件映画に係る控訴人の同一性保持権及び氏名表示権が侵害されたか)について
(控訴人の主張)
 前記1のとおり、本件書籍は、本件映画の表現上の本質的な特徴を維持しつつ、著作者である控訴人の意に反して変更、切除その他の改変を加えたものであるから、本件書籍が執筆、出版されたことにより、控訴人の同一性保持権が侵害されたといえる。
 また、本件書籍には、原著作物の著作者である控訴人の氏名が表示されていないから、本件書籍が執筆、出版されたことにより、控訴人の氏名表示権が侵害されたといえる。
(被控訴人の主張)
 いずれも争う。
3 争点3(本件書籍の執筆、出版及び販売により、控訴人の人格権又は法的保護に値する人格的利益が侵害されたか)について
(控訴人の主張)
 控訴人は、当時の勤務先を退職し、経済的困窮や被ばくのリスクを負いながら、長い年月をかけて被災地の人々と信頼関係を築き、同じ時間を共有し、現地の状況や人々の生きざまを約450時間にわたって記録し、その中から選び抜いた映像を約2時間にまで編集し、本件映画を作品として完成させたものである。これは、控訴人が築いてきた信頼関係や、控訴人の視点、問題意識、問いかけ等がなければ知られることがなかった発言や出来事の映像により成り立っているものである。このような控訴人の思想性や表現活動は、それ自体が人格権を構成し、又は法的保護に値する人格的利益といえる。
 他方、被控訴人は、控訴人の意に反することを明確に認識しながら、地元説明会や卒業式、A宅の解体など、本件映画の場面を観て、これを引き写すような形で本件書籍を執筆、出版した。このような行為は、控訴人が有する上記人格権又は法的保護に値する人格的利益を侵害するものである。
(被控訴人の主張)
 争う。
4 争点4(控訴人が受けた損害の額)について
(控訴人の主張)
 上記1〜3の翻案権侵害、同一性保持権・氏名表示権侵害及び人格権又は人格的利益の侵害について、被控訴人には、少なくとも過失が認められるところ、これらの侵害行為により控訴人が受けた損害の額は、次のとおり、合計346万円である。
(1)翻案権侵害による損害額165万円
 本件書籍の定価1650円×出版部数1万部×被控訴人の収入10%として算定した。
(2)同一性保持権、氏名表示権の各侵害による損害額(慰謝料)併せて75万円
(3)人格権又は人格的利益の侵害による損害額(慰謝料)75万円
(4)弁護士費用相当損害額31万円
(被控訴人の主張)
 いずれも争う。
第4 当裁判所の判断
1 争点1(本件書籍の執筆、出版及び販売により、本件映画に係る控訴人の翻案権が侵害されたか)について
(1)著作物の翻案とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして、著作権法は、思想又は感情の創作的表現を保護するものであるから、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案に当たらないと解するのが相当である(最高裁平成11年(受)第922号同13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。
(2)これを本件についてみると、控訴人各映像と被控訴人各記述とで共通するとされる部分につき、被控訴人各記述に接する者が控訴人各映像の表現上の本質的な特徴を直接感得することができるものであるならば、翻案に当たるといえ、他方、当該部分につき、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体ではなく、又は表現上の創作性がないときは、翻案には当たらないと解すべきこととなる。
 以上の観点から、控訴人各映像と被控訴人各記述とを、その共通すると主張される部分について検討する。
ア 場面1について
 控訴人映像1と被控訴人記述1とは、@Aの周りには自衛隊の捜索が来ていないこと、A原発事故のみが注目されて津波被害の点は注目されないこと、Bそのような状況の下で、Aが「置いてきぼりだ、ここは」との心情を抱いたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@及びAは、客観的事実であるか、又はAがそのような事実認識をしていたという点において、事実又は思想と評価されるものであり、表現それ自体とはいえない。Bは、Aが有した心情すなわち思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。控訴人は、控訴人とAとの信頼関係や、控訴人の問いかけにより、Aが上記心情を抱くに至った点を指摘するが、共通する部分である「置いてきぼりだ、ここは」との心情そのものは、Aの思想というほかはなく、これを控訴人による創作的な表現ということはできない。また、これらの配列順序は、@、Aの事実又は思想を背景にBの思想が示されるという関係にあるという点で独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述1は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像1と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
イ 場面2について
 控訴人映像2と被控訴人記述2とは、@Aの妻は長女の火葬に立ち会ってその骨を拾うことができなかったこと、AAは、百か日法要頃から、妻の気持ちに気付き、自らを駄目な夫だと感じたこと、BAは、その頃、東京電力に対する怒りの気持ちが出てきたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@は事実であって表現それ自体ということはできない。A及びBは、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体でないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。控訴人は、控訴人の問いによりAの発言が得られた点を指摘するが、Aが持つ上記思想の表現方法としてはありふれた部分のみが共通しているにとどまる。また、これらの配列順序は、時系列に沿ったものであるほか、@の事実を背景にA及びBの思想が示されるという関係にあるという点で独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述2は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像2と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
ウ 場面3について
 控訴人映像3と被控訴人記述3とは、Aが、捜索する人がいなければ見つかる可能性はゼロだが、捜索する人がいれば可能性はゼロではないとの趣旨の発言が示されている点において共通する。
 しかし、この共通する点は、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体でないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述3は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像3と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
エ 場面4について
控訴人映像4と被控訴人記述4とは、@Aは、長男が自分を生かすために出てこないのではないかと思ったこと、AAは、長男が見つかったら自ら命を絶とうと考えていたこと、BAは、長男がそのようなAの気持ちを知って、あえて出てこないのではないかと思ったことが、これらの順序で示されている点、また、C上記@〜Bの心情とともに、Aが海岸を歩いている描写がある点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@〜Bは、いずれもAの思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。また、これらの配列順序それ自体には、表現上の創作性を認めることはできない。Cは、行方が知れないままの長男を思う心情を語る場面において、海岸を歩く様子を描写することは、ありふれた表現であって、表現上の創作性があるとはいえない。控訴人は、Aが語る映像と海岸を歩く映像とは別の機会に収録したものであることを指摘するが、Aが海岸を歩きながら上記@〜Bの心情を抱いたことが客観的事実ではないとしても、表現上の創作性がない部分において共通するにとどまることに変わりはない。
 そうすると、被控訴人記述4は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像4と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
オ 場面5について
 控訴人映像5と被控訴人記述5とは、@Bが一人で二女を捜索していたこと、AAは、そのようなBの境遇につき、困っている人がいるのに、日本は何もしないと考えていること、Bそのような状況と、テレビで「絆」などと言われている状況とに理不尽さを感じていることが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@は事実であって表現それ自体ということはできない。A及びBは、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体でないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。また、これらの配列順序は、@の事実を背景にA及びBの思想が示されるという関係にあるという点でありふれており、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。控訴人は、Aの発言とBの映像を重ね合わせて、Aが語る理不尽さを分かりやすく示したことを指摘するが、そのような控訴人映像5の表現上の特徴が、被控訴人記述5と共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述5は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像5と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
カ 場面6について
 控訴人映像6と被控訴人記述6とは、@Aがフェイスブックをやめたこと、Aその理由として、フェイスブックに表示されるのが「みんなの普通」であり、それは理解しているが、それを見るのがつらいと感じたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@は事実であって表現それ自体ということはできない。Aは、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。また、これらの配列順序も、@の事実の理由としてAの思想が示されるという関係にあるという点で独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述6は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像6と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
キ 場面7について
 控訴人映像7と被控訴人記述7とは、@長男が小学校の入学式を迎えるはずであった4月が到来したこと、AAは、小学校の入学式のときには、みんな自宅の前で写真を撮ると考えていること、BAの妻がランドセルを、二女が長男の写真を持ち、自宅の前で写真を撮ったこと、及びCAから提供を受けた上記Bの写真が、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@及びBは事実であって表現それ自体ということはできず、Cは控訴人の著作物ではない。Aは、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても創作性を有するとはいえない。また、これらの配列順序も、@の事実を迎えたことから、Aの思想に基づきBの事実が行われ、その結果がCとして示されている関係にあるという点で独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述7は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像7と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
ク 場面8について
 控訴人映像8と被控訴人記述8とは、@環境省による説明会が行われたこと、ABが、睨むような表情で、「私自身、土地を売るとか貸すとか、全く今考えられない状況で」、「津波で家族が流されて、今も一人見つからない状況で、捜し続けていますし」、「ちょっと人に手渡すというのは考えられない」旨を述べたこと、B環境省担当者が「本当に返す言葉もございません。」、「今、そういうお話を初めて直接聞かせていただきまして、非常に、どう申していいか分からないというのが正直なところで」旨を述べたこと、CBが、「ただそれ(中間貯蔵施設)を作るに当たって、国なり東電なり、誠意が全く感じられない」旨を述べたこと、D環境省担当者が「そういう誠意がないと言われれば、お詫びするしかないと思っております」旨を述べたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点は、いずれも客観的事実を中心とするものである。表現にわたる部分についても、@のうち「睨むような表情」との部分は、発言する者の表情を表現する方法としてはありふれたものであるし、A〜Dの各発言による表現自体は、各発言者による言語の表現の範囲に限って共通しているにとどまる。また、これらの発言の選択及び配列のうち、配列については、Bによる質疑応答を紹介し、これを時系列に沿って示すという点で独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできないし、被控訴人記述8には、Bや環境省担当者の発言内容の選択として、同人らの他の発言も記載されており、取捨選択が必ずしも控訴人映像8とは共通していないから、表現上の創作性が認められる部分において共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述8は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像8と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
ケ 場面9について
 控訴人映像9と被控訴人記述9とは、Aが、自身について、もともとは正義感が少しもなかった旨を述べる様子が示されている点において共通する。
 しかし、この共通する点は、Aの自己認識という思想であって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、自分には以前正義感はなかったと思うが現在はそうでもないとの趣旨を示す表現としてありふれたものであって、表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述9は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像9と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
コ 場面10−@について
 控訴人映像10−@と被控訴人記述10−@とは、@Aが、卒業式の朝に、落ち着かない様子でたばこを吸っていたこと、AAの妻がAをたしなめたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@及びAは、ともに事実であって表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、落ち着かない様子を示すためにたばこを吸い、また妻がこれをたしなめたとすることは、表現としてありふれており、表現上の創作性を認めることはできない。控訴人は、Aは実際には落ち着かない様子を短時間に繰り返し見せたわけではないことを指摘するが、Aが短時間で落ち着かない様子を見せたことが客観的事実ではないとしても、表現上の創作性がない部分において共通するにとどまることに変わりはない。
 そうすると、被控訴人記述10−@は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像10−@と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
サ 場面10−Aについて
 控訴人映像10−Aと被控訴人記述10−Aとは、@Aが、長女が通っていた小学校の担任教員から手紙を受領したこと、AAが、小学校の卒業式に行くと、震災当時小学校2年生だった長女の同級生が成長しているのを見ることとなるが、それはつらいことであり、長女を想像してしまうだろうと考えていることが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@は事実であって表現それ自体ということはできない。Aは、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。控訴人は、控訴人とAとの信頼関係があって初めて手紙の存在やAの心情が明らかにされた点を指摘するが、@が事実である点に変わりはないし、Aについては、上記の共通する部分に関していえば、Aが持つ上記思想の表現方法としてはありふれた部分のみが共通しているにとどまる。また、これらの配列順序も、@の事実を受けてAの思想が示されるという関係にあるという点で独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述10−Aは、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像10−Aと同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
シ 場面10−Bについて
 控訴人映像10−Bと被控訴人記述10−Bとは、@小学校の教室で、担任教員が、「卒業証書を授与される者。6年、D」と呼んだこと、A涙ぐんだAが「はい」と返事をして前に出て、その隣にAの妻が長女の遺影を持って並んだこと、BAが、長女の同級生に対し、「4年前にDは天国に行った」、「卒業式を開いてくれて、ありがとうございます」、「Dと友達でいてくれて、ありがとうございます。」、「今日は、卒業おめでとうございます」旨を述べたこと、C教室にいる者の中にすすり泣く者がいたこと、Dその後、二女が「ママ、おしっこ」と話し、教室が和んだこと、EAは、帰宅後、自宅の祭壇に卒業証書を置いたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点はいずれも事実であって表現それ自体ということはできない。これらの事実の配列順序は、時系列に沿ったものであって、独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。また、@〜B及びDの事実は、当日起きた事実の中でも核心的な出来事であるし、その事実に重ねて泣いた者がいたというCの事実や帰宅後のAの行動であるEの事実を選択したこと自体にも、表現上の創作性を認めることはできない。控訴人は、Aの表情のアップを中心に撮影した点などを指摘するが、そのような控訴人映像10−Bの表現上の特徴が、被控訴人記述10−Bと共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述10−Bは、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像10−Bと同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
ス 場面11について
 控訴人映像11と被控訴人記述11とは、@Aの妻が、二女に対し、長女は大きな波が来て、海に連れていかれちゃったと説明したことがあること、A二女は、その説明に対して、「ふーん」という反応であったことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点は、いずれも事実であって表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、Aの妻による言語の表現の範囲に限って共通しているにすぎず、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。また、これらの配列順序自体も、独創的なものとはいい難く、表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述11は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像11と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
セ 場面12について
 控訴人映像12と被控訴人記述12とは、@一般に開放した菜の花畑を訪れた人々が笑っているのを見て、Aも笑っていたこと、AAが、悲しいから泣けるのではなくて嬉しいから泣けてくる旨を述べたことが示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@は事実であって表現それ自体ということはできない。Aは、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。控訴人は、Aが心の傷を乗り越えていく過程を描く意図をもってこの発言を選択し、鯉のぼりや子供たちの笑顔、Aの背後から射す日光の映像を重ねるなどの編集上の工夫を行った点を指摘するが、そのような控訴人映像12の表現上の特徴が、被控訴人記述12と共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述12は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像12と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
ソ 場面13について
 控訴人映像13と被控訴人記述13とは、@旧自宅の解体を控えたAが、震災の年以降、初めて、旧自宅の長女の部屋に入ったこと、A長女の部屋には、長女が使用していた机、ベッド、ノート等が置かれていたこと、BAが、ため息をつきながら遺品を整理していったことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点は、いずれも事実であって表現それ自体ということはできない。控訴人は、控訴人とAとの信頼関係がなくては記録に残ることはなかった場面であることを指摘するが、共通する部分が事実であって表現それ自体ではないことに変わりはない。また、これらの事実の選択及び配列も、いずれも核心となる出来事を中心に選択し、時系列に沿って配列したものであり、独創的なものとはいい難く、それら自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述13は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像13と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
タ 場面14について
 控訴人映像14と被控訴人記述14とは、Aが、長女や長男の声を思い出せなくなっている旨を述べたことが示されている点において共通する。
 しかし、この共通する点は、Aが発言した事実又はAの認識たる思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。控訴人は、長女や長男が遊んでいたおもちゃの映像を重ねるなどの編集上の工夫を行った点を指摘するが、そのような控訴人映像14の表現上の特徴が、被控訴人記述14と共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述14は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像14と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
チ 場面15について
 控訴人映像15と被控訴人記述15とは、@Aの旧自宅が解体されていく様子、AAがその様子を見つめていたこと、BAが目を背けて新居の中に入り、そこから解体の様子を見つめたり、また目を背けたりしながら、涙を流したことが示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点のうち、@及びAは、いずれも事実であって表現それ自体ということはできない。Bのうち、旧自宅の解体を目にしたAが目を背け、新居の中に入ったことや、新居の窓から作業の様子を見たり見なかったりし、また涙を流したことは、いずれも事実であって表現それ自体ではない。そして、これらの事実を「見ては背け、背けては見る。それを繰り返すうちに、涙が滲み出てきた。」などと記述することは、表現方法としてはありふれており、控訴人映像15と共通する部分において表現上の創作性が認められるとはいえない。控訴人は、Aの旧自宅の解体を合計6日にわたって撮影し、選択した場面を時系列にとらわれずに配置して緊迫感を出すなどの工夫を行った点を指摘するが、そのような控訴人映像15の表現上の特徴が、被控訴人記述15と共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述15は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像15と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
ツ 場面16について
 控訴人映像16と被控訴人記述16とは、Aが、自分は自宅も家族も守ることができなかった旨の心情を述べたことが示されている点において共通する。
 しかし、この共通する点は、Aの思想を中心とするものであって、表現それ自体ではないか、表現にわたる部分であっても、控訴人の思想が創作的に表現された部分が共通しているとはいえない。控訴人は、Aの無念さを表すためにこの発言を選択し、Aの父の遺影や被災前後の自宅の映像を重ねるなどの工夫を行った点を指摘するが、そのような控訴人映像16の映像に係る表現上の特徴が、被控訴人記述16と共通しているとはいえない。
 そうすると、被控訴人記述16は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像16と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
テ 場面17について
 控訴人映像17と被控訴人記述17とは、@Bが、人の歯と骨とみられるものを発見したこと、ABが、その歯について、「これ、治療してある」と述べたことが、これらの順序で示されている点において共通する。
 しかし、これらの共通する点は、いずれも事実であって表現それ自体ということはできない。控訴人は、この場面を撮影したのは控訴人のみであること、Bの反応が冷静であったことの意外さを含め、現実は時に人間の想像を超えるものであることを表現する意図をもって映像を選択し、編集上の工夫を行った点を指摘するが、控訴人のみが撮影した事実であったとしても、事実であることに変わりはないし、控訴人が意図し、工夫した編集等の控訴人映像17の表現上の特徴が、被控訴人記述17と共通しているとはいえない。また、事実の配列順序も時系列に沿ったものであり、独創的なものとはいい難く、それ自体に表現上の創作性を認めることはできない。
 そうすると、被控訴人記述17は、表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、控訴人映像17と同一性を有するにすぎないから、翻案には当たらない。
(3)以上によると、別紙著作物対比表の控訴人各映像と被控訴人各記述とは、いずれも表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において同一性を有するにすぎないから、本件書籍は、本件映画を翻案したものとはいえない。
 控訴人は、本件映画と本件書籍とは、骨格をなす全体のストーリー構成や主要な登場人物が同じであり、当事者への取材のみでは知り得ない情景の描写があるから、本件書籍に接した者は、全体として、本件映画の表現上の本質的な特徴を直接感得することができる旨主張するが、全体のストーリー構成や主要な登場人物は、具体的な表現ではなくアイデアであって、これらが共通することをもって翻案に当たるということはできない。
 また、本件映画には、控訴人が時間をかけてAにいわゆる密着取材をして信頼関係を醸成し、同時進行で収録していった種々の事実が記録されており、控訴人の取材、撮影によって明らかになった事実や思想が多く収録されているとみられるところ、被控訴人が本件映画を数回鑑賞し、控訴人に対してそのDVDの提供を複数回にわたって求めていたこと(甲3の2〜9、甲22、乙12、原審における控訴人本人尋問の結果)や、上記にみた控訴人各映像と被控訴人各記述との共通点等に照らすと、被控訴人が、本件書籍の執筆に際し、本件映画に依拠したこと自体は否定できない。しかし、既にみたとおり、これらの共通点は、いずれも表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分であるから、本件書籍は、本件映画に依拠した部分があるとはいえても、本件映画を翻案したものとまではいえない。
 したがって、本件映画に係る翻案権が侵害された旨の控訴人の主張には理由がない。
2 争点2(本件書籍の執筆、出版及び販売により、本件映画に係る控訴人の同一性保持権及び氏名表示権が侵害されたか)について
 前記1のとおり、本件書籍が本件映画を翻案したものとはいえないことに照らすと、被控訴人が本件書籍を執筆し、出版したことにより、本件映画に係る控訴人の同一性保持権又は氏名表示権が侵害されたとはいえず、控訴人の主張には理由がない。
3 争点3(本件書籍の執筆、出版及び販売により、控訴人の人格権又は法的保護に値する人格的利益が侵害されたか)について
 控訴人は、被控訴人が本件書籍を執筆し、出版したことにより、控訴人の人格権又は法的保護に値する人格的利益が侵害されたと主張し、人格権又は法的保護に値する人格的利益の具体的内容としては、本件映画に表出された控訴人の思想性又は表現活動をいう旨主張する。
 しかし、控訴人の思想性又は表現活動のうち本件映画に表出された具体的表現に係る権利又は利益は、著作権法が保護しようとする法益そのものであって、前記1及び2のとおり、本件書籍の執筆及び出版により本件映画に係る著作権又は著作者人格権が侵害されたとは認められない以上、控訴人が主張するところの人格権又は法的保護に値する人格的利益が侵害されたとはいえない。そして、本件全証拠によっても、他に、被控訴人が、控訴人の思想や表現活動を、受忍限度を超える態様で妨害したなどの具体的な事実関係を認めることはできない。
 したがって、人格権又は法的保護に値する人格的利益が侵害された旨の控訴人の主張には理由がない。
4 結論
 以上によると、その余の争点につき検討するまでもなく、控訴人の請求には理由がないから、これを棄却した原判決は相当であり、本件控訴には理由がない。
 よって、本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

知的財産高等裁判所第1部
 裁判長裁判官 本多知成
 裁判官 遠山敦士
 裁判官 天野研司


別紙 著作物対比表
line
 
日本ユニ著作権センター
http://jucc.sakura.ne.jp/