判例全文 line
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【事件名】著者死亡後の出版許諾契約事件(2)
【年月日】令和6年1月10日
 知財高裁 令和5年(ネ)第10060号 損害賠償請求、同反訴請求控訴事件
 (原審・東京地裁令和3年(ワ)第15628号(本訴)、令和4年(ワ)第10112号(反訴))
 (口頭弁論終結日 令和5年11月14日)

判決
控訴人兼被控訴人(一審原告・反訴被告) X(以下「原告」という。)
同訴訟代理人弁護士 阿部浩基
控訴人兼被控訴人(一審被告・反訴原告) 株式会社現代書館(以下「被告」という。)
同訴訟代理人弁護士 北村行夫
同 宮澤真志


主文
1 原告の本件控訴を棄却する。
2 被告の本件控訴を棄却する。
3 原告は、被告に対し、78万1345円及びこれに対する令和4年5月10日から支払済みまで年3%の割合による金員を支払え。
4 被告の当審におけるその余の請求をいずれも棄却する。
5 当審における訴訟費用は、本訴反訴を通じこれを6分し、その5を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
6 この判決は、第3項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由
 用語の略称及び略称の意味は、本判決で付するもののほかは、原判決に従う。
第1 控訴の趣旨
1 原告の控訴の趣旨
(1)原判決中、原告敗訴部分を取り消す。
(2)被告は、原告に対し、330万円及びこれに対する令和3年7月29日から支払済みまで年3%の割合による金員を支払え。
(3)訴訟費用は、第1、2審を通じ、被告の負担とする。
(4)第2項につき仮執行宣言
2 被告の控訴の趣旨
(1)原判決中、被告敗訴部分を取り消す。
(2)原告は、被告に対し、142万1345円及びこれに対する令和4年5月10日から支払済みまで年3%の割合による金員を支払え。
(3)訴訟費用は、第1、2審を通じ、原告の負担とする。
(4)仮執行宣言
第2 事案の概要
1 事案の要旨
(1)Aは、平成14年頃に被告から依頼を受け、出版社である被告から書籍として出版することを予定して、武士道に関する本件書籍の原稿の執筆をしていたが、完成前の平成27年12月頃、死亡した。Aの妻である原告は、Aの有する本件書籍の出版に関する権利義務を全て相続し、被告との間で本件書籍の出版に向けた交渉をしたが、出版に係る契約(以下「出版契約」又は「出版許諾契約」という。)の締結に至らず、本件書籍は出版されなかった。
(2)本訴は、原告が、被告とA又は原告との間で本件書籍の出版契約が締結されていないにもかかわらず、被告がインターネット上で本件書籍の出版予告を行ったことが、@本件書籍の原稿の著作者であるAの著作者人格権(公表権)を侵害し、又は、A原告の自己決定権を侵害したと主張して、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償請求として、330万円及びこれに対する不法行為の後の日である令和3年7月29日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年3%の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
(3)反訴は、被告が、@平成18年頃、Aとの間で、本件書籍を独占的に出版する旨の本件出版許諾契約1を締結し、Aの死後は原告が本件書籍の原稿の著作権及び本件出版許諾契約1上の地位を承継したにもかかわらず、又は、A本件書籍に係る最終稿を被告が原告に送付した令和2年10月26日までに、原告と被告との間で本件書籍の本件出版許諾契約2が成立したにもかかわらず、原告が、令和3年12月22日、本件書籍の出版を拒絶したことにより、出版することができなくなったと主張し、本件出版許諾契約1又は2に係る債務不履行に基づく損害賠償請求として、142万1345円及びこれに対する催告の後の日である令和4年5月10日(反訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年3%の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
(4)原判決は、原告の本訴請求及び被告の反訴請求をいずれも棄却し、双方が控訴した。
 なお、被告は、控訴審において、反訴請求について、前記(3)の債務不履行に基づく損害賠償請求権に加え、前記(3)と同額の商法512条に基づく相当報酬請求及び契約締結上の過失に基づく損害賠償請求を選択的に追加した。
2 前提事実
 以下のとおり補正するほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第2事案の概要」の2(原判決3頁7行目から5頁13行目まで)に記載するとおりであるから、これを引用する。
(1)3頁13行目の「被告は出版社であり、」を「被告は、図書出版及び販売並びにこれに附帯する一切の業務等を目的とする株式会社である。」と改める。
(2)3頁23行目末尾に「原告は、本件書籍の原稿及び出版等に係る権利義務の全てを、Aから相続した。」を加える。
(3)4頁12行目の「これらを併せて「本件予告」という。」を「これらの出版予告及び紹介記事を併せて「本件予告」という。」と改める。
(4)5頁8行目の「甲1、2、13」を「甲1、2、13、14」と改める。
3 主な争点(争点7から9までは、当審で追加された争点)
(1)本件出版許諾契約1の成否(争点1)
(2)本件出版許諾契約2の成否(争点2)
(3)被告に生じた損害及びその額(争点3)
(4)著作者人格権(公表権)侵害の有無(争点4)
(5)自己決定権侵害の有無(争点5)
(6)原告に生じた損害及びその額(争点6)
(7)商法512条に基づく報酬請求権の存否(争点7)
(8)商法512条に基づく報酬請求権に係る消滅時効の成否(争点8)
(9)契約締結上の過失に基づく損害賠償請求権の存否(争点9)
4 前記争点に関する当事者の主張
 当審における当事者の補充主張を踏まえ以下のとおり補正し、後記5において争点7から9までに係る当審における当事者の追加主張を付加するほかは、原判決の「事実及び理由」中の5頁21行目から10頁25行目までに記載するとおりであるからこれを引用する。
(1)6頁11行目の「加除修正」を「加筆修正」と改め、13・14行目の「本件出版許諾契約1における印税等の経済的条件は、被告の通常の条件によるものとされた。」を「なお、本件出版許諾契約1の合意の内容は、Aから被告に対する独占的な複製許諾であり、印税等の経済条項を含むものではない。そして、前記アの経緯からするとAと被告との間では、Aが最初に原稿を作成した時点において、本件書籍が著作物として完成することを停止条件とする複製許諾の合意があったというべきであり、未完成原稿が作成されたことにより条件が成就し、又は、遅くとも、後記ウのとおり原告が相続後に最終稿を作成して被告に送付した令和元年7月9日頃には、上記条件が成就し、複製許諾を内容とする本件出版許諾契約1の効力が生じた。」
(2)7頁3行目の「また、」から4行目末尾までを「また、著作物が完成しておらず、複製許諾の対象が確定していないのに、停止条件付きとはいえ、複製許諾契約が成立することはあり得ない。」と改める。
(3)7頁15行目の末尾に「仮にそうでないとしても、原告が話合いを拒絶する意思を明示した同年12月16日までに本件出版許諾契約2が成立した。なお、本件出版許諾契約2の内容は、複製合意と有償契約としての印税等の経済的条件を含むものである。」を加える。
(4)10頁3・4行目の「自己決定権」を「人格権の一内容である自己決定権」と改め、11行目の末尾に改行して、次のとおり加える。
 「 そして、原告が、令和2年12月16日付け内容証明郵便(前提事実(3)の通告書)により、被告に対し、直ちに出版予告を削除するよう求め、直ちに出版予告の削除がされない限り出版契約を締結することはない旨通告したのにもかかわらず、被告は、原告の要請に応じなかった。しかも、被告が、被告ウェブサイトから本件予告を削除したと主張する令和3年12月23日よりも後の令和4年10月29日時点においても、インターネットで検索すると、本件書籍の情報が掲載されているばかりか、ウィキペディアには出版された本として掲載されている(甲21)。虚偽の情報の掲載が継続されたことにより、原告自身が偽情報を流した信用のできない人物であるとの非難を受けることも想定されるところであり、原告にとって極めて不愉快である。」
(5)10頁13行目の末尾に「被告は、令和3年12月23日、被告ウェブサイトから本件予告を削除し、出版予告の情報を登録していたJPROやTRCといった機関に対し、登録の削除を依頼しており、本件予告は取下げ済である。各書店や書籍販売サイト等が予告の削除をするかどうかは被告が差配できるものではなく、インターネット上に本件書籍の情報が残っていることは、被告の不法行為を基礎付ける事実とはなり得ない。」を加える。
5 当審における当事者の追加主張
(1)商法512条に基づく報酬請求権の存否(争点7)
(被告の主張)
ア 被告は株式会社であり、書籍出版のために編集行為等を行う「商人」に当たるところ(会社法5条、商法4条1項、502条6号)、被告が本件書籍の出版のために行ってきた作業は、「その営業の範囲内において他人のために行為をしたとき」に当たるから、被告は原告に対し、商法512条に基づく相当報酬請求権を有する。
イ 被告は、本件書籍を出版するために、著者であるAからの聞き取りや録音物の反訳等による原稿の作成協力、校閲・校正、版下の作成のほか、本文や見出し、カバー、帯、コラムや掲載写真、あとがき、著者略歴、奥付、タイトル、販売価格等についての協議や修正作業と、これによる最終稿の確定及び本件書籍の出版予告などの作業(以下、これらの作業を「本件編集作業等」という。)を行った。
 本件編集作業等は、出版社である被告にとって、少なくとも営業上の利益または便宜を図るための行為に当たることは明らかであり、「その営業の範囲内」における行為である。
ウ 被告は、A及び原告が自らの著作物たる本件書籍を出版するために本件編集作業等を行ったのであり、客観的にみて、被告が他人であるA及び原告のためにする意思をもって行ったものである。その結果、被告は、本件書籍の完成した版下データを取得しており、現に本件編集作業等により利益を得ている。そうすると、被告の行った本件編集作業等は、「他人のために行為をした」ことに当たる。
エ 本件編集作業等に対する「相当な報酬」は、争点3において主張した損害額と同額であり、具体的には、@原稿作成のための「テープ起こし・原稿入力」費用26万円(乙20)、A「原稿訂正制作」費用14万円、B「組版」費用26万2900円(乙21)、C「校正」費用13万7445円(乙22)、D「装幀」費用12万1000円(乙23)及びE「編集」費用50万円の合計142万1345円である。
(原告の主張)
 被告の主張するもののうち、@「テープ起こし・原稿入力」については、証拠(乙20)が本訴提起後に作成されたものであって信用性が乏しく、立証として不十分である。また、A「原稿訂正制作」費用とE「編集」費用については、具体的な作業内容、作業量、作業時間が不明であり、主張・立証が不十分である。
 AE以外の作業のうち、@「テープ起こし・原稿入力」及びC「校正」については原告のために行ったものといえるが、B「組版」及びD「装幀」については、出版社である被告が行うべき作業であるから、原告のために行った行為とはいえない。
 仮に被告の主張する@〜Eの作業が原告のために行われたものであるとしても、これらの行為に係る費用を、著作権者が出版社に支払うという慣行はない。出版社は、本を刊行することで利益を得るのであって、校正等の作業は、著作者に対しては、出版契約に伴う無償のサービスとして行うものである。このような無償で行うことが予定されている行為に商法512条の適用はない。
(2)商法512条に基づく報酬請求権に係る消滅時効の成否(争点8)
(原告の主張)
 報酬請求権はそれぞれの作業ごとに発生したと考えるべきであり、@原稿作成のための「テープ起こし・原稿入力」費用については、被告が支払をしたのが平成17年12月であり、A「原稿訂正制作」費用についても同時期に行われた作業に係るものであって、これらに係る報酬請求権については、発生から5年又は10年が経過しているので、消滅時効を援用する。
 本件書籍の出版計画は、Aの死亡によりいったん白紙に戻ったというべきであり、少なくとも上記の各作業については、原告が相続した後に行われた作業と一連一体のものとみることはできない。
(被告の主張)
 商法512条に基づく報酬請求権の発生時期は、早くとも原告が相続した原稿を被告に送付した令和元年7月9日頃であり、遅くとも版下データを原告が取得した同年12月18日であるから、時効期間は経過していない。本件の報酬請求権は、原告の不当な契約交渉拒否によって現実化したものであり、一括して消滅時効が起算されるべきである。
(3)契約締結上の過失に基づく損害賠償請求権の存否(争点9)
(被告の主張)
 Aと被告との間で条件付複製許諾の合意(本件出版許諾契約1)がされていたこと、被告から本件書籍の出版が予定されていたこと、令和2年8月26日に提示された被告契約書案について、原告が、何ら異議を述べることなく、その後も被告との間で校正その他の出版に受けた作業を積み重ねた上、販売価格等について強い意見や希望を述べていたことに照らすと、少なくとも同日頃、被告は、原告との間で被告契約書案に沿った契約が締結されることを期待し得る状況にあり、その期待は合理的なものであった。
 そうすると、原告は、この合理的な期待を裏切らないよう、契約締結を妨げる事情がある場合にはそれを被告に伝え、契約をしない可能性があることを警告し、誠実に契約交渉をすべき注意義務があった。ところが、原告は、被告契約書案を受領してから2か月もの間、警告等をすることもなく本件書籍の販売価格や造本に関する意見や希望を強く述べておきながら、後になって契約交渉を拒否し、上記注意義務に違反した。
 したがって、原告には、上記注意義務違反により被告に生じた損害を賠償する義務がある。損害額は、争点3において主張した損害額と同じであり、その内訳は前記(1)(被告の主張)エの@〜Eと同じである。このうち、B「組版」、C「校正」、D「装幀」及びE「編集」に要した費用については、被告契約書案を受領した令和2年8月26日以降に原告が誠実交渉義務を怠ったことにより生じたものであり、とりわけB〜Dについては、原告が警告等をしていれば、被告がこれらの費用を支出することはなかったことが明らかである。
(原告の主張)
 原告と被告との間で契約締結に至らなかったのは、条件が折り合わなかったことによるものであって、原告の責任ではない。被告は、原告の意思確認も行わず、契約締結前に印刷を強行しようとしたり、契約内容について譲歩の姿勢を見せることなく原告を一方的に説き伏せようとしたりしていたことから、原告が不信感を抱き、合意することができなかったのである。
 仮に、原告に契約締結上の過失が認められるとしても、被告の主張する損害のうち、原告が早期に出版契約をしない旨の意思表示をしていたとした場合に回避することができる可能性があったのは、B〜Eのみである。もっとも、そのうちE「編集」に要した費用については、その額についての具体的な立証がない。
 また、契約締結に至らなかった原因は被告にもあるのであるから、仮に原告に責任があるとしても、5割の過失相殺をすべきである。
第3 当裁判所の判断
1 認定事実
 認定事実は、以下のとおり補正するほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第3当裁判所の判断」(以下「原判決の第3」という。)の1(原判決11頁1行目から16頁4行目まで)に記載するとおりであるから、これを引用する。
(1)11頁9行目冒頭から11行目末尾までを「Aは、未完成原稿につき更に検討、加筆をしたいと考えていたが、体調不良により原稿を完成させることができないでいた。Aは、平成19年11月、被告代表者宛ての葉書(乙17)において、医師と相談の結果、とにかく体調の回復が先決であるとの結論に達し、回復次第、また取り組む旨の意向を明らかにしていた。しかし、Aは、その後、体調を回復して執筆を再開し、原稿を完成することはなかった。」と、12行目の「乙20、26」を「乙17、20、29」と、17・18行目の「原稿を電子メール(乙14)により送信した。」を「原稿を、Bを介して、電子メール(乙14)により送信した。なお、原告と被告との間の、電子メールによるやり取りは、全てBを介して行われた。」と、19行目を「被告は、上記原稿を用いて版下データを作成し、同年12月18日頃、原告に対し、これを送付して、校正確認をするよう依頼した。」と、それぞれ改める。
(2)12頁2・3行目の「いかが致しましょうか。」を「如何しましょうか。」と、26行目の「乙26、29」を「乙12、26、29」と、それぞれ改める。
(3)13頁4・5行目の「いずれも書籍販売サイトである」を「書籍の販売又はレビューサイト等である」と、9行目から10行目までを「本件予告には、本件書籍の書籍名及び著者名(A)が記載されているほか、一部のサイトにおいては、発売予定時期、価格、著者紹介が記載されるなどしており、さらに一部のサイト(甲3、6、8、13、14)には、本件書籍の内容の説明として、」と、11行目の「甲3、6、8、13、14」を「甲3〜14」と、それぞれ改める。
(4)14頁6行目の「令和2年10月13日、2回にわたり」を「同年10月13日から14日にかけて、3回にわたり」と改め、24行目冒頭から15頁5行目末尾までを次のとおり改める。
 「原告契約書案は、被告契約書案と同一の書式を用いつつ、次の各部分について被告契約書案の内容を変更するものであった。
 著作物使用料および支払方法(5条1項)について
 印税率を税込定価の8%とし、支払時期を発行月の6か月後とすること(被告契約書案では、それぞれ7%、8か月後)
 著作物使用料の支払対象数から除外する部数(5条3項)について
 200部とすること(被告契約書案(5条2項)では100部)
 贈呈部数(第7条)について
 初版第一刷の際に30部とすること(被告契約書案では5部)
 契約の有効期間(第15条)について
 初版発行後満3年間とすること(被告契約書案では5年間)」
(5)15頁26行目の「本件予告を継続し」を「被告ウェブサイトを含む各ウェブサイトにおける本件予告の掲載を継続し」と改める。
(6)16頁3行目の「同月23日」を「令和3年12月23日」と改める。
2 本訴請求について
 当裁判所も本訴請求は理由がないものと判断する。その理由は、以下のとおり補正するほかは、原判決の第3の3(原判決18頁5行目から20頁23行目まで)に記載するとおりであるから、これを引用する。
(1)18頁20行目の「本件予告は」を「本件予告の被告ウェブサイトを含む各ウェブサイトへの掲載は」と、26行目の「本件予告により」を「本件予告を公表することにより」と、それぞれ改める。
(2)19頁16行目の「本件予告は」を「本件予告の公表は」と、21行目の「すなわち、」から20頁7行目末尾までを削る。
(3)20頁15行目から17行目までを次のとおり改める。
 「 原告は、インターネット上に本件書籍に係る情報等が残存していると主張するが、これらの事情を踏まえても上記判断を左右しない。
 なお、原告は、自己決定権について本件書籍の出版の時期等を決定する権利であると主張しているところ、原告は自らの意思により本件書籍の出版を取りやめることができているのであるから、本件書籍の出版の時期等を決定する権利が侵害されたとはいえない。
 したがって、原告は、被告に対し、自己決定権侵害の不法行為に基づく損害賠償請求権を有しない。」
3 反訴請求について
 当裁判所は、反訴請求について、被告が原告に対し、78万1345円及びこれに対する令和4年5月10日から支払済みまで年3%の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるものと判断する。その理由は、次のとおりである。
(1)本件出版許諾契約1及び2に基づく損害賠償請求について
ア 本件出版許諾契約1の成否(争点1)について
 被告は、平成18年頃、Aとの間で、本件書籍について、Aが被告による独占的な出版を許諾することを内容とする本件出版許諾契約1を締結した旨を主張する。
 補正の上引用した原判決の第3の1のとおり、Aが、被告の依頼により本件書籍の原稿作成に取り掛かり、平成18年頃には、被告と協力して9割程度の完成度の未完成原稿を作成するに至ったという経緯に鑑みれば、Aと被告との間では、遅くとも同年頃には、本件書籍の出版に係る出版許諾契約を締結することが予定されていたということができる。
 しかし、Aは、平成19年11月の時点で、なお未完成原稿を更に検討し、加筆する意向を明らかにしていたのであるから、Aにおいて、未完成原稿のままの状態で出版許諾契約を締結する意向があったとはにわかに認めがたい。そして、Aと被告との間で本件書籍の出版に係る出版許諾契約書その他の書面が作成されていないこと、両者間で、経済的条件等の重要な点について協議されたことがうかがえないこと、被告代表者は、原審における被告代表者尋問において、Aとの間で出版許諾契約の締結やその際の経済的条件等について話をしたことは一度もない旨陳述したことを併せ考慮すると、Aと被告との間で、平成18年頃までに、本件書籍の出版に係る契約が成立していたと認めることはできない。
 被告は、Aと被告との間で合意された本件出版許諾契約1は、停止条件付の独占的な複製許諾を内容とするものであって、経済条項を含まないものであったと主張する。しかし、出版のための著作権者と出版社との間の合意は、著作物の利用許諾の範囲やその対価等の内容を定めた上で行われるのが通常の姿であって、前記未完成原稿の作成に至る経緯は、Aにおいて、いかなる条件であっても被告に対して著作物の独占的な利用を許諾する旨の意思表示をしていたであろうことを認めるに足りる事情とするには不十分である。他にAにおいて、被告に対し、上記のような許諾をしたことを認めるに足りる証拠もない。そうすると、Aと被告との間で、平成18年頃、単なる事実上の期待にとどまらず、独占的な出版を許諾することを内容とする法的拘束力のある契約として、本件出版許諾契約1が成立したと認めることはできない。
イ 本件出版許諾契約2の成否(争点2)について
 以下のとおり補正するほかは、原判決の第3の2(2)(原判決16頁26行目から17頁25行目まで)に記載するとおりであるから、これを引用する。
(ア)17頁16・17行目の「署名押印しなかった。また、」を「署名押印せず、また、被告に対し、被告契約書案のとおりに契約すると述べたことはなかった。そして、」と改める。
(イ)17頁20・21行目の「本件出版許諾契約2の締結を前提としなければ不合理であるとまではいえない。」を「上記の点をもって、原告が被告契約書案のとおりに契約する旨の黙示の意思表示をしていたと評価することはできない。」と改める。
ウ 小結
 以上のとおり、原告又はAと被告との間で、本件出版許諾契約1又は2が成立したものとは認められないから、その余の点につき論ずるまでもなく、被告は、原告に対し、本件出版許諾契約1又は2の債務不履行に基づく損害賠償請求権を有しない。
(2)商法512条に基づく報酬請求について
ア 商法512条に基づく報酬請求権の存否(争点7)
(ア)被告は、図書出版及び販売並びにこれに附帯する一切の業務等を目的とする株式会社であり(前提事実(1)参照)、「商人」に当たる。
 そして、補正の上引用した原判決の第3の1(1)〜(4)及び(6)〜(8)(11頁2行目から12頁9行目まで、13頁1行目から15頁6行目まで)のとおり、被告は、本件書籍の出版のための作業として、平成18年頃までに、Aから聴取した内容の録音を外部業者に委託して反訳し、字句の修正を行い、原告がAを相続した後である令和元年7月9日以降は、原告が推敲し、体裁を整えた完成版として、同日送付した本件書籍の原稿に基づき、同年12月18日頃には校正確認用の版下データを作成し、令和2年10月26日頃までの間、原告の意見を聴きながら校正作業を行い、表紙その他の装幀を含め、印刷をすれば出版可能な状態にまで体裁を備えた最終的な印刷原稿(甲17)を作成した。これらの作業は、被告の営業の範囲内におけるものであり、また、客観的にみて、当時、その著作物の複製及び譲渡等を出版社である被告に許諾することを前提に、自らの著作物を広く公衆に提供する意思を有していたと認められるA及び原告のためにする意思をもって行われたものである。
 そうすると、被告が行った上記作業は、商法512条の「商人がその営業の範囲内において他人のために」した行為であると認められるから、被告は、原告に対し、相当額の報酬を請求することができる。
(イ)証拠(乙21〜23、被告代表者)によると、被告は、本件書籍の原稿の最終稿の作成に至るまでの間に、Aから聴取した内容の録音の反訳費用(テープ起こし・原稿入力費用)として、平成17年12月に、外部業者に対し、26万円を支払ったこと(乙20)、令和元年7月9日以降、令和2年10月末頃までに最終的な印刷原稿を完成するまでの間、版下データの作成の外部業者への依頼費用(DTP組版作業)として26万2900円を要したこと(乙21)、校正作業の外部業者への依頼費用(校正費用)として13万7445円を要したこと(乙22)、装幀(表紙等のデザイン)作業の外部業者への依頼費用として12万1000円(乙23)を要したことがそれぞれ認められ(いずれも税込み)、これらの合計金額は78万1345円である。そうすると、被告は、原告に対し、少なくとも同額の報酬請求権(以下「本件報酬請求権」という。)を有すると認めるのが相当である。
(ウ)a 被告は、上記のほかに、「原稿訂正制作」費用14万円及び「編集」費用50万円の合計64万円についても商法512条に基づく報酬として請求しているが、これらについては、報酬の根拠となる作業が行われたことやその内容、作業量及び相当な報酬額を的確に認めるに足りる証拠はないから、上記各費用相当額を報酬額に含めることはできない。
b 原告は、被告が外部業者に対し、「テープ起こし・原稿入力」として26万円を支払ったことについて立証が不十分であると主張するが、外部業者により作成された報酬受領証明書(乙20)の内容に不自然なところはなく、本訴提起後の令和4年3月31日に作成された証拠であることをもって直ちに信用性が乏しいとはいえない。また、原告は、「組版」及び「装幀」は、出版社である被告が行うべき作業であり、原告のために行った行為とはいえないとも主張する。しかし、これらの作業は、商人である被告が、その営業の範囲内で、当時、著作物の出版を望んでいた原告のために行った作業というべきであるから、同主張は採用することができない。さらに、原告は、校正等の作業は通常は無償で行われるものであるから商法512条の適用はないとも主張するが、これらの作業に対する報酬は、通常は出版後の売上から回収されることが予定されているというにすぎず、著作者との関係において、無償で行われることが慣行であるということはできないし、当時、著作物の出版を望んでいた原告のために行われた行為であることに変わりはない。そうすると、原告の主張はいずれも採用することができない。
(エ)したがって、被告は原告に対し、商法512条に基づく本件報酬請求権により78万1345円を請求することができる。
イ 商法512条に基づく報酬請求権に係る消滅時効の成否(争点8)
(ア)原告は、被告に対し、商法512条に基づく本件報酬請求権の一部について、当審の口頭弁論において陳述された令和5年7月25日付け準備書面及び同年11月11日付け準備書面により、消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
(イ)被告は、本件書籍の出版のために行った作業についての報酬を請求しているところ、出版のための作業に対する対価は、出版社が自ら出版する場合には、通常、書籍の売上から回収されるものであって、それ以前に著者に報酬の支払を求めることはない。したがって、本件報酬請求権について権利行使することが可能となったのは、原告と被告との間の交渉が決裂して本件書籍の出版がされないことが確定した時点であり、具体的には、原告代理人弁護士から、被告に対し、本件予告の削除を要求する内容証明郵便(通告書。甲1)が被告に到着した令和2年12月17日以降であるというべきである。したがって、被告が原告に対し、令和5年6月19日付け控訴理由書により商法512条に基づく報酬請求をした時点(原告が同文書を受領した同月22日)においては、民法166条1項1号所定の5年の時効期間は経過していないので、本件報酬請求権が時効により消滅したとは認められない。
(ウ)原告は、商法512条の報酬請求権は、作業ごとに発生したと考えるべきであると主張するが、被告の行った作業はいずれも本件書籍の出版という一つの目的のために行われた作業であって、通常、各作業について別個に報酬を請求することは想定されていない。また、本件書籍の出版に向けた被告の作業は、Aの死後においても原告がAを相続することにより、被告において継続して実施されており、相続の前後において、当該作業の目的が本件書籍の出版であることやその他の条件についても特段の変更がされたことはうかがえないから、被告の行った作業は、本件書籍の出版のため相続の前後を通じて継続して行われた一連のものと評価するのが相当である。そうすると、前記アにおいて報酬請求をすることが認められる被告の各作業に係る報酬については、本件書籍が出版されないことが確定した時点で、その全てを対象とする一つの報酬請求権が発生したというべきであるから、前記原告の主張は採用することができない。なお、仮に、本件報酬請求権のうち平成29年法律第44号及び同第45号の施行日である令和2年4月1日前にされた商行為によって生じた債権の消滅時効の期間については、同法4条7項の規定によりなお従前の例によると解した場合でも、同法による改正前の商法522条の規定により消滅時効期間は5年であり、平成29年法律第44号附則10条4項によりなお従前の例によることとされる場合における同法による改正前の民法166条1項の規定によれば、消滅時効は、権利を行使することができる時から進行する。そして、権利行使が可能となったのは、前記のとおり、本件書籍の出版がされないことが確定した令和2年12月17日以降であるから、結局のところ、前記(イ)の結論には変わりはない。
(エ)したがって、本件において、商法512条に基づく報酬請求権が時効により消滅したとは認められない。
(3)契約締結上の過失に基づく損害賠償請求権の存否(争点9)について
 被告は、原告が令和2年8月26日に被告契約書案を提示されてから2か月の間、被告に対し、契約をしない可能性があることを警告しなかったこと等が注意義務違反に当たると主張し、確かに、原告は、被告契約書案を示された際に特段の異議を述べてはいないことは認められる。しかし、原告が、同日以降、原告契約書案を送信した同年10月28日までの間、被告に対し、被告契約書案の内容で契約を締結すると述べた事実も認められないから、被告は、当時、被告契約書案の内容どおりに契約が締結されるかどうかはなお未確定であることを認識し得たということができる。また、当該2か月の期間中、原告と被告は、本件書籍の出版に向けた校正作業を継続していたが、その間、原告において被告契約書案の内容でよいと考えていると被告に誤信させるような言動を積極的にしていたことを認めるに足りる証拠はない。そうすると、仮に被告において被告契約書案どおりの内容で契約が締結されるという期待を有していたとしても、当該期待は、事実上の期待にすぎず、いまだ法的保護に値するものということはできない。そして、証拠(甲16、18、乙6〜12)によると、その後、原告が、被告契約書案に記載された印税率その他の契約条件について、原告契約書案を提示し、これについての譲歩の姿勢を見せることはなかったものの、他方で、被告も被告契約書案を交付した際に提示した契約条件から譲歩することはなかったことが認められ、その結果、原告と被告との間での契約交渉が進まず、契約締結に至らなかったのであるから、原告が、一方的に契約締結を拒否したということはできない。
 そうすると、原告が、契約締結上の過失に基づく損害賠償義務を負うと認めることはできない。
4 結論
 以上の次第で、原告の本訴請求をいずれも棄却した原判決は相当であるから、原告の本件控訴を棄却することとし、被告の債務不履行に基づく損害賠償反訴請求には理由がないからこれを棄却した原判決は相当であって被告の本件控訴には理由がないからこれを棄却し、被告が当審において選択的に追加した反訴請求のうち、商法512条に基づく相当報酬請求については、被告が原告に対し、78万1345円及びこれに対する令和4年5月10日から支払済みまで年3%の割合による金員の支払を求める限度で理由があるからその限度で認容し、その余の請求には理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。

知的財産高等裁判所第2部
 裁判長裁判官 清水響
 裁判官 浅井憲
 裁判官 勝又来未子
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