判例全文 line
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【事件名】フラダンス振り付けの著作物性事件
【年月日】平成30年9月20日
 大阪地裁 平成27年(ワ)第2570号 著作権侵害差止等請求事件
 (口頭弁論終結日 平成30年5月15日)

判決
原告 P1
同訴訟代理人弁護士 苗村博子
同 田中敦
訴訟復代理人弁護士 倉本武任
被告 有限会社九州ハワイアン協会
同訴訟代理人弁護士 寺尾幸治


主文
1 被告は、別紙被告教室目録記載の施設を始めとする被告が被告に所属する会員へのフラダンスの指導又はフラダンスの上演を行う日本国内の各施設において、別紙振付け目録記載6、11、13、15ないし17の各振付けを、自ら上演してはならず、かつ、被告に所属する会員又はその他第三者をして上演させてはならない。
2 被告は、原告に対し、43万3158円及びこれに対する平成29年11月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は、これを5分し、その3を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
5 この判決は、第2項に限り、仮に執行することができる。
6 原告のために、この判決に対する控訴のための付加期間を30日と定める。

事実及び理由
第1 請求
1 被告は、別紙被告教室目録記載の施設を始めとする被告が被告に所属する会員へのフラダンスの指導又はフラダンスの上演を行う日本国内の各施設において、別紙振付け目録記載の各振付けを、自ら上演してはならず、かつ、被告に所属する会員又はその他第三者をして上演させてはならない。
2 被告は、別紙被告教室目録記載の施設を始めとする被告が被告に所属する会員へのフラダンスの指導又はフラダンスの上演を行う日本国内の各施設において、別紙楽曲目録記載の各音楽著作物を、次の方法により演奏してはならない。
(1)歌手をして歌唱させる方法
(2)楽器奏者にウクレレ、ギター、ベース、キーボード、ドラムセット、パーカッション等の楽器を演奏させる方法
(3)録音物再生装置を操作して再生する方法
3 被告は、原告に対し、250万3440円及びこれに対する平成29年11月1日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 被告は、原告に対し、385万1910円及びこれに対する平成27年3月26日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 請求の要旨
 ハワイに在住するクムフラ(フラダンスの師匠ないし指導者)である原告は、従前、フラダンス教室事業を営む被告と契約を締結し、被告ないし被告が実質的に運営する九州ハワイアン協会(以下「KHA」という。)やその会員に対するフラダンス等の指導助言を行っていたが、両者の契約関係は解消された。本件は、原告が、被告に対して、以下の請求をする事案である。
(1)原告は、被告が、被告の会員に対してフラダンスを指導し、又はフラダンスを上演する各施設において、別紙振付け目録記載の各振付け(以下、番号に従って「本件振付け1」のようにいい、これらを総称して「本件各振付け」という。)を被告代表者自らが上演し、会員等に上演させる行為が、原告が有する本件各振付けについての著作権(上演権)を侵害すると主張して、被告に対し、著作権法112条1項に基づき、本件各振付けの上演の差止めを請求する(第1の1項)。
(2)原告は、被告が、被告の会員に対してフラダンスを指導し、又はフラダンスを上演する各施設において、別紙楽曲目録記載の各楽曲(以下、番号に従って「本件楽曲1」のようにいい、これらを総称して「本件各楽曲」という。)を演奏する行為が、原告が有する本件各楽曲についての著作権を侵害すると主張して、被告に対し、著作権法112条1項に基づき、本件各楽曲の演奏の差止めを請求する(第1の2項)。
(3)原告は、被告が、本件各振付けを上演し又は被告の会員等に上演させた行為(上記(1))及び本件各楽曲を演奏した行為(上記(2))が、原告の著作権を侵害すると主張して、被告に対し、不法行為に基づき、平成26年11月から平成29年10月までの害賠償金642万2464円(使用許諾料相当額409万2120円及び弁護士費用233万0344円)の一部として250万3440円及びこれに対する不法行為の後の日である平成29年11月1日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を請求する(第1の3項)。
(4)原告は、被告との間で、KHA等が平成26年秋に開催するワークショップ等において被告ないしKHAの会員に対してフラダンス等の指導を行うことを内容とする準委任契約(以下「本件準委任契約」という。)を締結していたところ、被告が同契約を原告に不利な時期に解除したと主張して、被告に対し、民法656条、651条2項本文に基づき、損害賠償金385万1910円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成27年3月26日から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を請求する(第1の4項)。
2 前提事実(当事者間に争いがないか、後掲証拠又は弁論の全趣旨により容易に認められる。)
(1)当事者
 原告は、ハワイに在住する「クムフラ」と呼ばれるフラダンスの師匠ないし指導者であり、自らフラダンスの振付けの創作や楽曲の作詞・作曲を行い、フラダンス及びタヒチアンダンスの指導や楽曲の提供を行う者である。
 被告は、ハワイ音楽を通したフラダンスの教授、イベントの企画、開催等を行う会社であり、九州ハワイアン協会(KHA)を実質的に運営してフラダンス教室の運営事業を行っている。KHAは、本部教室及び所属のインストラクターが開いた教室において、会員(KHAの会員は被告の会員であるともいえる。)に対するフラダンスの指導を行っている(甲2)。
 有限会社中四国ハワイアン協会(以下「本件別会社」という。)は、中四国ハワイアン協会(以下「CSHA」という。)を実質的に運営して、フラダンス教室の運営事業を行う会社であり、被告とは、規約等を記載した手帳を共同発行する(甲2)など密接な関係にある。
(2)原告と被告との契約関係
 原告は、昭和63年頃、被告の前代表者(以下「被告前代表者」という。)から、フラダンスの指導を依頼され(甲39の2、乙29)、以来、KHAの会員に対し、自ら振り付けたフラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行うなどし、遅くとも平成21年末までには、被告との間で、月額1000アメリカドル(以下単に「ドル」という。)の報酬で、少なくとも被告から求められれば被告ないしKHAやその会員に対してフラダンスの指導助言を行うことを内容とするコンサルティング契約(以下「本件コンサルティング契約」という。)を締結していた。
 また、原告は、被告との間で、本件コンサルティング契約とは別に、KHAの会員に対し、KHAが年間3回ないし4回程度九州・中国地方の各都市で開催するワークショップ等において、フラダンス及びタヒチアンダンスの直接指導を行う準委任契約をその都度契約し、別途の報酬の支払を受けてきた(甲1、2の2、3、39の2、乙28)。原告は、これらの指導を行うに当たり、日本でKPDAという団体を組織し、KPDAがKHAと提携するという形をとっていた。
 また、原告は、CSHAとも上記と同様の関係にあり、ワークショップ等については、CSHAは、KHAが九州地方の各都市でワークショップ等を開催するのと同時期に、中国・四国地方の各都市で同じカリキュラムのワークショップ等を開催しており、原告は、CSHAの会員に対し、CSHAが開催するワークショップ等においても、フラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行うなどしてきた。
(3)原告によるフラダンスの本件各振付けの作成及び本件各楽曲の作詞作曲とKHAでの上演及び演奏
 フラダンスはハワイの民族舞踊であり、その振付けはハンドモーションとステップから構成されている。原告は、遅くとも平成26年1月までに、本件各楽曲を作詞作曲するとともに、それら又は他者が作詞作曲した楽曲について、フラダンスの振付けである本件各振付けを作り、それ以降、KHAの会員に対してそれらの振付けを指導助言し、KHAの会員は、本件各振付けを、原告から直接指導を受けるワークショップのほか、ホイケ(フラフェスティバル)、フラパーティ及びコンペティションと呼ばれるKHA主催のイベントで上演したり、これらのイベントに参加するための練習として教室で上演したりすることがあり、その際に本件各楽曲が演奏されることがあった。
 本件各楽曲及び本件振付け1ないし4(以下「本件振付け1等」という。)は、原告が著作権を有する著作物であり、被告もこれを認めている。これに対し、本件振付け6、11、13、15ないし17(以下「本件振付け6等」という。)が著作物性を有するか否かについては争いがある。
 本件振付け6等の内容は、別紙振付け目録別添6、11、13、15ないし17の各第3記載のとおりであり、上記各振付けに対応する楽曲に係る歌詞は、別紙振付け目録別添6、11、13、15ないし17の各第1記載のとおりである(甲21、22、32、40、45、50及び弁論の全趣旨)。
(4)平成26年秋のワークショップの開催中止
 原告は、平成26年3月、被告との間で、KHA及びKPDAが同年秋に九州地方の各都市で開催するワークショップ等(以下「本件ワークショップ等」という。)において、KHAの会員にフラダンス(KHA開催分)及びタヒチアンダンス(KPDA開催分)の指導等を行う契約(本件準委任契約)を締結した。本件ワークショップ等は、同年10月2日から同月9日までの間に合計5都市及び同月22日から同月26日までの間に合計3都市という日程で行われる予定であった(甲23の2)。
 また、この間の同年10月10日から同月21日までの期間、原告は、これまでと同様に、CSHA及びKPDAが中国・四国地方の各都市で開催するワークショップ等において、CSHAの会員に対し、フラダンス(CSHA開催分)及びタヒチアンダンス(KPDA開催分)の指導を行うこととなっていた(甲23の2)。
 しかし、被告は、同年9月17日、本件ワークショップの開催中止を決定し、原告に対し、本件準委任契約を解除する旨の意思表示をした(以下「本件解除」という。)。
 他方、原告は、CSHAの会員に対しては、同月10日から同月21日までの間に開催されたワークショップ等において、予定どおりフラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行った。
(5)原告と被告の契約関係の解消
 原告は、平成26年6月頃、被告に対し、被告との契約関係を解消する意向を示し、被告がこれを受け入れたことから、本件コンサルティング契約は同年10月31日をもって終了した。
 原告は、被告との契約関係の解消に当たり、以後は自ら作ったフラダンスの振付けをKHAの会員が上演することを禁止する意向を示したが、被告は、契約関係解消後も原告が作った振付けを使用することができると考えたことから、同年11月1日以降も、少なくとも、本件各振付けのうち本件振付け6等をホイケ等において使用することがあった(乙61ないし82、84ないし134。なお、同日以降に被告が本件振付け1等を使用し、本件楽曲を演奏することがあったか否かについては、争いがある。)。
3 争点
(1)著作権侵害に係る請求(第1の1項ないし3項)関係
(各請求に共通の争点)
ア 本件振付け6等の著作物性(争点1)
イ 本件各振付けの著作権の譲渡又は永久使用許諾の有無(争点2)
(差止請求に固有の争点)
ウ 被告が本件各楽曲を演奏し、本件各振付けを上演し又は上演させるおそれの有無(争点3)
(損害賠償請求に固有の争点)
エ 被告による本件各楽曲及び本件振付け1等に係る著作権侵害行為の有無(争点4)
オ 被告の故意又は過失の有無(争点5)
カ 原告の損害額(争点6)
(2)民法651条2項本文に基づく損害賠償請求(第1の4項)関係
ア 本件解除が原告にとって不利な時期にされたものか(争点7)
イ 本件解除についてやむを得ない事由があったか(争点8)
ウ 原告の損害の有無及び額(争点9)
第3 争点に関する当事者の主張
1 争点1(本件振付け6等の著作物性)について
(原告の主張)
 本件振付け6等が創作的であるか否かは、振付者である原告の個性が表現されたものといえるか否かについて振付け全体を通して判断すべきである。
 この点、原告による本件振付け6等に対応する楽曲の解釈が独自のものであるため、本件振付け6等の各振付けは、原告の個性が表現されたものである。現に、本件振付け6等は、そのハンドモーションやステップの中に、原告が独自に創作したもの又は先代のクムフラが独自に創作したものを受け継いだものがあったり、既存のハンドモーションであっても当該歌詞を表現する際に用いるハンドモーションとしては一般的ではないものがあったりするなど、他の振付けとは異なっているから、原告の個性が表現されたものである。
 これを本件振付け6等について個別に見ると、別紙本件振付け6に関する主張対比表、別紙本件振付け11に関する主張対比表、別紙本件振付け13に関する主張対比表、別紙本件振付け15に関する主張対比表、別紙本件振付け16に関する主張対比表、別紙本件振付け17に関する主張対比表の、「原告の主張」欄記載のとおりであり、本件振付け6等の振付けは、他の振付けには見られない特徴的な振付けがあるなど、原告の個性が表現されたものである。
 したがって、本件振付け6等は、それぞれ全体として著作物性を有する。
 (被告の主張)
(1)本件振付け6等が創作的であるか否かは、当該振付けが平凡かつありふれたものではないか否かによって判断すべきである。
 この点、フラダンスの振付けは、楽曲の歌詞に対応した既存のハンドモーション、既存のステップ、これらをアレンジしたものを組み合わせて構成するものであるため、おのずから限られた幅の範囲内に収束したものになるところ、本件振付け6等も、現にそのようなものであって独創性を欠く以上、著作物性を有するとはいえない。
(2)著作権法によって保護されるのは、思想又は感情自体ではなく、これらが外面に現れた表現であるから、本件振付け6等に対応する楽曲の解釈が独自のものであっても、本件振付け6等の著作物性が直ちに肯定されるわけではない。また、上記(1)で指摘したようにフラダンスの振付けにおける選択の幅が狭いことに照らせば、本件振付け6等の著作物性を肯定することは第三者の自由を過度に制約するものであって、妥当ではない。
(3)以上を本件振付け6等について個別に見ると、別紙本件振付け6に関する主張対比表、別紙本件振付け11に関する主張対比表、別紙本件振付け13に関する主張対比表、別紙本件振付け15に関する主張対比表、別紙本件振付け16に関する主張対比表、別紙本件振付け17に関する主張対比表の、「被告の主張」欄記載のとおりであり、本件振付け6等の振付けは、他の振付けにも見られたり、既存のハンドモーションどおりの動作であったりするなど独自性・独創性を欠くものである。
 したがって、本件振付け6等が著作物性を有するとはいえない。
2 争点2(本件各振付けの著作権の譲渡又は永久使用許諾の有無)について
(被告の主張)
 被告は、本件各振付けの著作権のいずれについても、原告に対して一括して金員を支払うことによって、その譲渡又は永久使用許諾を受けている。
 (原告の主張)
 否認する。
3 争点3(被告が本件各楽曲を演奏し、本件各振付けを上演し又は上演させるおそれの有無)について
(原告の主張)
 被告は、平成26年11月以降も、本件各楽曲を演奏し、本件各振付けを上演しているから、今後も被告が本件各楽曲を演奏し、本件各振付けを上演するおそれがある。
(被告の主張)
 被告は、本件各楽曲及び本件振付け1等について、原告が著作権を有することを認めており、平成26年11月以降、KHAの会員に対してフラダンスを指導するに際し、本件各楽曲を演奏したことや本件振付け1等を上演したことはなく、今後も演奏する予定はない。したがって、被告が本件各楽曲を演奏し、本件振付け1等を上演するおそれはない。
4 争点4(被告による本件各楽曲及び本件振付け1等に係る著作権侵害行為の有無)について
(原告の主張)
 被告は、平成26年11月以降も、本件各楽曲を演奏し、本件振付け1等を上演している。
(被告の主張)
 否認する。
5 争点5(被告の故意又は過失の有無)について
(原告の主張)
 被告が、本件各振付けを演じれば原告から著作権侵害行為に当たるという指摘がされることを認識しながらこれを演じていることなどに照らせば、本件各振付けに係る著作権侵害行為に少なくとも過失があることは明らかである。
(被告の主張)
 被告は、本件振付け6等に著作物性があるという確たる認識を有していなかったから、本件振付け6等に係る著作権侵害行為に過失があったとはいえない。
6 争点6(原告の損害の有無及び額)について
(原告の主張)
(1)使用許諾料相当額
ア フラダンスの世界では、振付けを創作したクムフラが助言や指導を行わない形で当該振付けの使用を許諾するということは通常行われていない。原告も、被告と本件コンサルティング契約を締結することにより、原告が創作した振付けをKHAの会員がホイケ(フラフェスティバル)、フラパーティ及びコンペティションで上演したり、これらのイベントに参加するための練習として教室で上演したりすることを包括的に許諾し、そうであるからこそ、KHAの会員に対し、当該振付けを上演するために必要な助言や指導を行うことがあった。したがって、本件コンサルティング契約の報酬は、原告が創作した振付けの使用許諾料の趣旨を含むものである。
 そして、原告は、KHAの会員に対する助言や指導のほとんどをワークショップの際に行っており、その助言や指導に対する対価については、本件コンサルティング契約とは別個に被告との間で締結した準委任契約の報酬の形で受け取っていた。そうすると、本件コンサルティング契約の報酬(月額1000ドル)の実質は、その全額が原告が創作した振付けの使用許諾料であって、ワークショップ以外で行う助言や指導に対する対価はその中に織り込まれていたと見るべきである。
 したがって、本件各振付け及び本件各楽曲に係る使用許諾料相当額は、著作権侵害期間(36か月間:平成26年11月1日から平成29年10月31日までの間)を踏まえると、3万6000ドル(日本円に換算すると、409万2120円)に上る。
イ なお、原告が、従前から、曲目数やその上演回数の如何を問わず、月額使用許諾料を1000ドルとしてきたことに照らせば、本件各振付けが被告が上演した原告が創作した振付けのうちの一部であるからといって、本件各振付け及び本件各楽曲に係る使用許諾料相当額が1000ドルの一部にとどまるとすることは相当ではない。
(2)弁護士費用相当額
 本件訴訟に係る弁護士費用相当額は、本件各振付け(10曲分の振付け)及び本件各楽曲(3曲の楽曲)に係る差止請求の訴額である2080万円(13×160万円)に不法行為(著作権の侵害)に基づく損害賠償請求の請求額250万3440円の合計額である2330万3440円の1割に相当する額を下らない。したがって、本件訴訟に係る弁護士費用相当額は、233万0344円である。
(被告の主張)
(1)使用許諾料相当額
ア 本件コンサルティング契約の内容は、原告が、KHAの会員に対するフラダンスの指導をする被告から求められれば、被告に対する助言等を行うといういわゆる顧問契約のようなものにとどまり、原告が主張するような使用許諾まで含むものではないから、その報酬の中には原告が創作した振付けの使用許諾料としての趣旨は含まれていない。その他原告は、被告との間で、原告が創作した振付けの使用許諾料について合意したことはない。結局のところ、原告は、被告に対し、原告が創作した振付けを無償で使用させることを承諾していたのである。
 このような原告が創作した振付けの使用許諾料に関する原告と被告間の許諾例踏まえると、本件各振付け及び本件各楽曲に係る使用許諾料相当額は0円とするのが相当であり、仮に0円でないとしても、これに近い低廉な額とすべきである。
イ なお、本件コンサルティング契約の委託内容には、原告が、KHAの会員に対するフラダンスの指導をする被告からの求めに応じて、被告に対する助言等を行うことが含まれている以上、本件コンサルティング契約の報酬の中には上記助言等を行うことについての対価の趣旨が含まれており、月額1000ドル全額が、原告が創作した振付けの使用許諾料の趣旨であるはずはない。
(2)弁護士費用相当額
 否認ないし争う。本件各楽曲については演奏しておらず、これに対応する本件振付け1ないし3並びに本件振付け4についても上演していないことから、これらに係る差止請求には理由がない以上、同差止請求に係る弁護士費用相当額の請求には理由がない。
7 争点7(本件解除が原告にとって不利な時期にされたものか)について
(原告の主張)
 本件解除が本件ワークショップ等の開催直前にされたことにより、原告は、本件ワークショップ等が予定されていた時期に他の代替業務を行うことができず、それによる収入も得られなかった。したがって、本件解除は、原告にとって不利な時期にされたものである。
(被告の主張)
 争う。
8 争点8(本件解除についてやむを得ない事由があったか)について
(被告の主張)
 本件ワークショップ等に対する申込者数(申込みの締切りは平成26年9月10日)が、平成24年及び平成25年の秋に開催されたワークショップ等の参加者数を踏まえると、極めて少なかったことから、これを開催しても採算が取れないことが見込まれた。また、平成26年8月以降、インストラクター及び当該インストラクターから指導を受ける生徒がKHAを退会する事態が相次いでいた。
 そして、これらの原因は、原告が、同月に、被告を誹謗中傷したり、原告から指導を受けた振付けが今後演じられなくなると誤信させたりする内容の書面(甲13)を作成してKHAのインストラクター等に配布するとともに、被告を退職してKHAと競合組織となる西日本ハワイアン協会を立ち上げようとしていた者と結託して、KHAの会員の引抜きを図ったことにあった。
 このような状況下で本件ワークショップ等を開催すると、採算が取れないだけでなく、原告が本件ワークショップ等で被告に対する誹謗中傷を行うなどすることにより、KHAからの退会者がさらに増加することが予想された。したがって、営利企業である被告が、同年9月16日に至って本件準委任契約を解除することを決め、その翌日に被告に対して本件準委任契約を解除する旨の意思表示をしたことはやむを得なかったというべきである。
(原告の主張)
 そもそも、本件ワークショップ等を開催しても採算が取れない見込みであったことが本件準委任契約を解除した主たる理由であるかのようにいう被告の主張は信用し難い。
 この点はおくとしても、被告が指摘する書面(甲13)を原告が作成した理由は、長年指導してきたKHAのトップインストラクターに対し、被告との関係を解消する経緯とこれに関する自己の心情を説明することにあったのであって、被告を誹謗中傷しようとかKHAの会員を西日本ハワイアン協会に勧誘しようなどということにあったわけではない。また、クムフラの指導を離れた者が当該クムフラの振り付けた振付けを演じることができないということはフラダンスの世界におけるしきたりであるから、原告がKHAの会員に対して自ら指導した振付けを演じることを禁止することは正当である。
 そして、原告が、同年6月の時点で、被告に対し、KHAの会員に対して指導した振付けを演じるのを禁止する意向であることを伝えていたことに照らせば、原告がKHAの会員にその意向を伝えること自体は、被告も当然予想していたはずである。また、原告が被告との関係を解消することになれば、原告から指導を受けられることに魅力を感じていたKHAの会員が本件ワークショップ等に申し込むのを控えたり、それにとどまらずKHAから退会したりする可能性があることも、被告としても容易に予想できたことである。それでも被告は原告との関係を解消しつつ、本件ワークショップ等を開催することにしたのである。
 したがって、本件ワークショップ等を開催しても採算が取れないことやKHAからの退会者が相次いだことは、被告自ら招いただけでなく、当然に予想された事態であるにもかかわらず、被告はその開催時期直前に取り止めており、開催中止に伴う損害リスクを原告に転嫁することは許されない。
9 争点9(原告の損害の有無及び額)について
(原告の主張)
 本件準委任契約の解除が、本件ワークショップ等の準備を進めていた開催時期直前という原告に不利な時期に行われなければ、①原告は本件ワークショップ等の期間中(平成26年9月30日から同年10月9日までの間、及び、同月22日から同月27日までの間の合計16日間)に他のイベントに出演することができ、これによって少なくとも592万2240円(2日間のイベントに出演した際に得た収入74万0280円の8倍)の収入を得ることができたはずであるとともに、②本件ワークショップ等の準備のために費やした時間(45日間)を他のイベントに出演する時間に充てることができ、これによって少なくとも1665万6300円(2日間のイベントに出演した際に得た収入74万0280円の22.5倍)の収入を得ることができたはずである。
 したがって、被告が本件準委任契約を解除したことによって原告が被った損害額は、被告と合意した本件準委任契約の報酬額である3万1750ドル(日本円に換算すると、385万1910円)を下らない。
(被告の主張)
 原告は、本件ワークショップの間の平成26年10月10日から同月21日まで、CSHAの会員に対し、合計4都市で開催されたワークショップ等において、自ら振り付けたフラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行っており、原告が主張する②の損害に関していえば、いずれにせよ本件ワークショップ等に費やしたのと同等の準備期間が必要であった上、①の損害に関していえば、その前後に別のイベントに出演することはできなかった。
 したがって、被告が本件準委任契約を解除したことによって原告に損害が発生したとは認められない(なお、原告に支払われる予定であった本件準委任契約の報酬額は2万8750ドルである。)。
第4 当裁判所の判断
1 争点1(本件振付け6等の著作物性)について
(1)フラダンスの著作物性について
ア 著作権法10条1項3号は「舞踊の著作物」を著作物の例示として挙げており、これは、人の身体の動作の型を振付けとして表現するものである。そして、これについては、それを公衆に直接見せることを目的として上演する権利(上演権)が著作権の支分権として定められている(同法22条)
イ ハワイの民族舞踊のことをフラないしフラダンスというが、フラには古典フラと現代フラがあり、古典フラが、大昔からハワイ人の歴史の中でそれぞれの流派に大切に守られ受け継がれてきた詠唱(オリ)と踊り(フラ)から成るのに対し、現代フラは、19世紀以降に西洋文明の影響を受けてメロディーを取り入れて作り出され、いわゆるハワイアン音楽と共に発展したものである。本件で問題となっているのは現代フラであるが、現代フラでは、師匠であるクムフラ(クム)が自ら楽曲に振付けをして、自らの教室(ハーラウ)の生徒に教えている。(以上につき甲14[クムフラの陳述書])
 そして、ハワイの民族舞踊であるフラダンスの特殊性は、楽曲の意味をハンドモーション等を用いて表現することにあり(甲14)、フラダンスの入門書においても、フラは歌詞をボディランゲージで表現する(乙3)とか、ハンドモーションで歌詞の意味を表現し、ステップでリズムをとりながら流れを作るというのがフラの基本である(乙5)とされている。すなわち、フラダンスの振付けは、ハンドモーションとステップから構成されるところ、このうちハンドモーションについては、特定の言葉に対応する動作(一つとは限らない)が決まっており、このことから、入門書では、フラでは手の動きには一つ一つ意味がある(乙3)とか、ハンドモーションはいわば手話のようなもので、手を中心に上半身を使って、歌詞の意味を表現する(乙5)とされている。他方、ステップについては、典型的なものが存在しており(乙3ないし6の入門書では合計16種類が紹介されている。)、入門書では、覚えたら自由に組み合わせて自分のスタイルを作ることができる(乙3)とされている。
ウ これらのフラダンスの特徴からすると、特定の楽曲の振付けにおいて、各歌詞に対応する箇所で、当該歌詞から想定されるハンドモーションがとられているにすぎない場合には、既定のハンドモーションを歌詞に合わせて当てはめたにすぎないから、その箇所の振付けを作者の個性の表れと認めることはできない。
 また、フラダンスのハンドモーションが歌詞を表現するものであることからすると、ある歌詞部分の振付けについて、既定のハンドモーションどおりの動作がとられていない場合や、決まったハンドモーションがない場合であっても、同じ楽曲又は他の楽曲での同様の歌詞部分について他の振付けでとられている動作と同じものである場合には、同様の歌詞の表現として同様の振付けがされた例が他にあるのであるから、当該歌詞の表現として同様の動作をとることについて、作者の個性が表れていると認めることはできない。
 さらに、ある歌詞部分の振付けが、既定のハンドモーションや他の類例と差異があるものであっても、それらとの差異が動作の細かな部分や目立たない部分での差異にすぎない場合には、観衆から見た踊りの印象への影響が小さい上、他の振付けとの境界も明確でないから、そのような差異をもって作者の個性の表れと認めることは相当でない。また、既定のハンドモーションや他の類例との差異が、例えば動作を行うのが片手か両手かとか、左右いずれの手で行うかなど、ありふれた変更にすぎない場合にも、それを作者の個性の表れと認めることはできない。
 もっとも、一つの歌詞に対応するハンドモーションや類例の動作が複数存する場合には、その中から特定の動作を選択して振付けを作ることになり、歌詞部分ごとにそのような選択が累積した結果、踊り全体のハンドモーションの組合せが、他の類例に見られないものとなる場合もあり得る。そして、フラダンスの作者は、前後のつながりや身体動作のメリハリ、流麗さ等の舞踊的効果を考慮して、各動作の組合せを工夫すると考えられる。しかし、その場合であっても、それらのハンドモーションが既存の限られたものと同一であるか又は有意な差異がなく、その意味でそれらの限られた中から選択されたにすぎないと評価し得る場合には、その選択の組合せを作者の個性の表れと認めることはできないし、配列についても、歌詞の順によるのであるから、同様に作者の個性の表れと認めることはできない。
エ 他方、上記で述べたのと異なり、ある歌詞に対応する振付けの動作が、歌詞から想定される既定のハンドモーションでも、他の類例に見られるものでも、それらと有意な差異がないものでもない場合には、その動作は、当該歌詞部分の振付けの動作として、当該振付けに独自のものであるか又は既存の動作に有意なアレンジを加えたものいうことができるから、作者の個性が表れていると認めるのが相当である。
 もっとも、そのような動作も、フラダンス一般の振付けの動作として、さらには舞踊一般の振付けの動作として見れば、ありふれたものである場合もあり得る。そして、被告は、そのような場合にはその動作はありふれたものであると主張する。しかし、フラダンスのハンドモーションが歌詞を表現するものであることからすると、たとえ動作自体はありふれたものであったとしても、それを当該歌詞の箇所に振り付けることが他に見られないのであれば、当該歌詞の表現として作者の個性が表れていると認めるのが相当であり、このように解しても、特定の楽曲の特定の歌詞を離れて動作自体に作者の個性を認めるものではないから、個性の発現と認める範囲が不当に拡がることはないと考えられる。
オ ところで、フラダンスのハンドモーションが歌詞を表現するものであることからすると、歌詞に動作を振り付けるに当たっては、歌詞の意味を解釈することが前提になり、普通は言葉の通常の意味に従って解釈すると思われるが、作者によっては、歌詞に言葉の通常の意味を離れた独自の解釈を施した上で振付けの動作を作ることもあり得る。そして、原告は、その場合には解釈の独自性自体に作者の個性を認めるべきであると主張する趣旨のように思われる。しかし、著作権法は具体的な表現の創作性を保護するものであるから、解釈が独自であっても、その結果としての具体的な振付けの動作が上記ウで述べたようなものである場合には、やはりその振付けの動作を作者の個性の表れと認めることはできない。
 他方、被告は、たとえ歌詞の解釈が独自であり、そのために振付けの動作が他と異なるものとなっているとしても、当該解釈の下では当該振付けとすることがありふれている場合には、当該振付けを著作権法の保護の対象とすることは結局楽曲の歌詞の解釈を保護の対象とすることにほかならず許されないと主張する。しかし、歌詞の解釈が独自であり、そのために振付けの動作が他と異なるものとなっている場合には、そのような振付けの動作に至る契機が他の作者には存しないのであるから、当該歌詞部分に当該動作を振り付けたことについて、作者の個性が表れていると認めるのが相当である。そして、このように解しても、個性の表れと認めるのは飽くまで具体的表現である振付けの動作であって、同様の解釈の下に他の動作を振り付けることは妨げられないのであるから、解釈自体を独占させることにはならない。
 これに対し、歌詞の解釈が言葉の通常の意味からは外れるものの、同様の解釈の下に動作を振り付けている例が他に見られる場合には、そのような解釈の下に動作を振り付ける契機は他の作者にもあったのであるから、当該解釈の下では当該振付けとすることがありふれている場合には、当該歌詞部分に当該動作を振り付けたことについて、作者の個性が表れていると認めることはできない。
カ 以上のハンドモーションに対し、ステップについては、上記のとおり典型的なものが存在しており、入門書でも、覚えたら自由に組み合わせて自分のスタイルを作ることができるとされているとおり、これによって歌詞を表現するものでもないから、曲想や舞踊的効果を考慮して適宜選択して組み合わせるものと考えられ、その選択の幅もさして広いものではない。そうすると、ステップについては、基本的にありふれた選択と組合せにすぎないというべきであり、そこに作者の個性が表れていると認めることはできない。しかし、ステップが既存のものと顕著に異なる新規なものである場合には、ステップ自体の表現に作者の個性が表れていると認めるべきである(なお、ステップが何らかの点で既存のものと差異があるというだけで作者の個性を認めると、僅かに異なるだけで個性が認められるステップが乱立することになり、フラダンスの上演に支障を生じかねないから、ステップ自体に作者の個性を認めるためには、既存のものと顕著に異なることを要すると解するのが相当である。)。また、ハンドモーションにステップを組み合わせることにより、歌詞の表現を顕著に増幅したり、舞踊的効果を顕著に高めたりしていると認められる場合には、ハンドモーションとステップを一体のものとして、当該振付けの動作に作者の個性が表れていると認めるのが相当である。
キ 以上のようにして、特定の歌詞部分の振付けの動作に作者の個性が表れているとしても、それらの歌詞部分の長さは長くても数秒間程度のものにすぎず、そのような一瞬の動作のみで舞踊が成立するものではないから、被告が主張するとおり、特定の歌詞部分の振付けの動作に個別に舞踊の著作物性を認めることはできない。しかし、楽曲の振付けとしてのフラダンスは、そのような作者の個性が表れている部分やそうとは認められない部分が相俟った一連の流れとして成立するものであるから、そのようなひとまとまりとしての動作の流れを対象とする場合には、舞踊として成立するものであり、その中で、作者の個性が表れている部分が一定程度にわたる場合には、そのひとまとまりの流れの全体について舞踊の著作物性を認めるのが相当である。そして、本件では、原告は、楽曲に対する振付けの全体としての著作物性を主張しているから、以上のことを振付け全体を対象として検討すべきである。
 そしてまた、このような見地からすれば、フラダンスに舞踊の著作物性が認められる場合に、その侵害が認められるためには、侵害対象とされたひとまとまりの上演内容に、作者の個性が認められる特定の歌詞対応部分の振付けの動作が含まれることが必要なことは当然であるが、それだけでは足りず、作者の個性が表れているとはいえない部分も含めて、当該ひとまとまりの上演内容について、当該フラダンスの一連の流れの動作たる舞踊としての特徴が感得されることを要すると解するのが相当である。
ク 以上の考え方の下に、本件振付け6等の著作物性について個別に検討する(なお、上記のとおりステップについては基本的に作者の個性が認められないから、特に検討を要する場合に限り言及することとする。)。
(2)本件振付け6、11、13、15ないし17ごとの検討
ア 本件振付け6(楽曲:EPiliMai)
(ア)‘Auhea wale ana‘oe
a ‘Auheaは「どこに」、‘oeは、「あなた」の意味であり(乙54)、原告は、これを「あなたは何処にいるの」と訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①右腕を、掌を下に向け額の前にかざし、わきを開いて左肘を曲げて胸の前に持ち上げて水平に置き、体の向きを左前から右前に動かし、このときステップは、右足と左足を交互に2歩ずつ右へ踏み出し移動する、②次に、左腕を伸ばし、右肘を少し曲げて、両手を胸の高さで掌を同じ向き(前面やや下向き)に揃え、体の向きを右前から左前に動かす、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、体の向きとともに両腕を左へと動かす動作は「あなたはどこにいるのか?」という意味を表していると主張する。
 まず、①の動作について見ると、‘Auhea(どこに)に対応するハンドモーションは片手を額の前にかざすとされており(乙26)、乙12の振付けも、片手を額の前にかざしている。もっとも、①の動作は、額の前にかざさない方の手も曲げて胸の前に置いているのに対し、乙12や乙26では伸ばしている点が異なるが、片腕だけ曲げるところを両腕とも曲げることにするのはありふれた変更にすぎないから、これを有意な差異ということはできない。
 次に、②の動作について見ると、‘oe(あなた)のハンドモーションは、目の前にいる相手を片手の指先又は掌で指すものである(乙3、4)から、②の動作は、これを体の向きを変えつつ行うものであるが、その点も含めて甲25の左下及び右下の振付けと同様のものである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(イ)Ku’u lei oka pō
a Ku’uは「私の」、leiは、「(頭や首につけられる)花輪」、「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」、pōは「夜」の意味であり(乙33及び54)、原告は、これを「夜の私の愛しい人よ」と意訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①ややわきを開いて右肘を曲げ、右手を掌を下にして胸の前に水平に置き、左手は、掌を下に向けたままで、わきを開いて左肘を曲げ、前方から頭の上、頭の後ろを通って左胸の前へと動かし、このときステップは、右足左足を交互に2歩ずつ右へ踏み出し移動する、②次に、両手の掌を内向きにして両肘を曲げて、弾みを付けるように胸の前で両手を一度やや下に下ろし、両手の掌を上に返し両腕をゆっくりと同時に頭の上まで伸ばして掲げる、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作について見ると、原告は、この曲の中ではleiは首飾りの「レイ」と「愛しい人」の2つの意味を持っており、首飾りのレイを自分の方に掛ける動作により、「私がかけたこのレイは、心から大切に思う恋人であるあなたの象徴です」という意味を表していると主張する。しかし、片腕を前方から頭の上、頭の後ろを通って左胸の前へと動かすのはleiのハンドモーションであり(乙4)、他の部分も含めて、これらの動作は、甲25の右下の振付けと同様のものである。
 次に、②の動作について見ると、原告は、両腕をかかげることで暗い空又は天を表し、恋人が夜の闇の中にいることを表していると主張する。しかし、このような動作は、甲25の右下の振付けと同様のものである。これに対し、原告は、両手の掌を内向きにしている点を強調するが、その点も含めて甲25右下の類例と同様であるから、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ウ)Pō anu ho‘okahi no au
a Pōは「夜」、anuは「寒い」、ho‘okahiは「ただ一人の」、auは「私」の意味であり(乙54、3)、原告は、これを「夜は寒く私は一人」と訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①両手の掌を下に返して右肘を少し曲げ、そのまま両腕を下ろしながら胸の高さまで持って行き、胸の前で体に沿うように両腕を交差させて両手の掌を内側に向け、一連の動作は右に270度ターンするステップの中で行われる、②次に、ターンにより左斜め後ろを向いたまま、両腕を伸ばしきるまで下ろしながら左斜め後ろへ左足右足を交互に2歩ずつ前進する、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、右回りに回転しながら両腕を下ろし胸の前で交差させることで、暗い夜が続き、暗く寒くなっていることを表していると主張する。この点、甲25の他の振付け及び乙12の他の振付けはいずれも、手の動きについては本件振付け6と同様の動きをしているものの、その際にターンするものはない。ターンは通常のステップの一種ではある(乙5のスピンターン)が、「夜」や「寒い」といった静的な歌詞からターンすることはが通常想定されない上、両腕を降ろしながらターンすることによって体全体の躍動感を高めていることから、なお有意な差異があるというべきである。これに対し、被告は、手の動作が既存のハンドモーションであり、足の動作が既存のステップであり、これらを組み合わせた動作はありふれたものであると主張するが、上記のとおり採用できない。
 次に、②の動作について見ると、原告は、聴衆と反対(後ろ)に向かって歩いていくことで彼が孤独であることを表し、両腕を下ろすことで抱きしめる者がおらず一人で寒い夜を過ごしていることを表していると主張する。そして、この動作は、ここでの歌詞から想定されるものでない上、これと同様の動作を行っている類例は認められないから、本件振付け6独自のものであると認められる。これに対し、被告は、このような動作があらゆる舞踊においてありふれた動作であることを指摘するが、こうした被告の主張が採用できないことは、上記(1)エのとおりである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表現されていると評価できる。
(エ)Sweetheart mine E pili mai
a Sweetheart mineは「私の愛しい人」の英語、piliは「一緒に」、「親しい関係」、maiは「こちらへいらっしゃい」の意味であり(乙33、54)、原告は、これを「私の愛する人一緒に来て」と訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①両肘を内側に曲げ、掌を開いたまま胸の前で両手を一度くるりと回した後、少しわきを開いた状態で左肘を曲げたまま掌を上にして左手を胸の前に置き、右手は掌を上にして左胸の前から右斜め前の方向まで伸ばしていき、一連の動作は135度の右ターンの中で行われる、②次に伸ばした右手をやや戻し、左手を体の外側へ少し伸ばす。両手の人差し指を立て、両腕を体の外側へ伸ばし、両腕を伸ばしたまま、同時に体の前方へ持ってきて、胸の前で両手をくっつける、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作について、原告は、後ろを向いた状態から聴衆の方向(前)に歩いて戻り、掌を上に向けて胸の前から右手を伸ばしていくことは、彼の気持ちを恋人にあげるということを意味し、彼の恋人への愛が終わることなく永遠に続いていくことを表していると主張するところ、このような動作は、乙12の振付けと同様のものである。
 次に②の動作について、原告は、両腕を左右に伸ばしてから徐々に体の前に持って行き、体の前で両手をくっつけることで、彼らの愛が、彼らを一つにつなぎとめることができるほど強いものであることを示していると主張するところ、このような動作は、両手の人差し指を立て、体の前方へ持ってきて、胸の前で両手をくっつけるというe piliに対応するハンドモーションであり(乙26)、異なる楽曲ではあるが同じe piliの歌詞について行われている例もある(乙21ないし23)。これに対し、原告は、類例がないことをもって本件振付け6に独自性があると主張するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(オ)Inā‘o‘o ea‘o au
a ināは「もし…ならば」、‘oeは「あなた」、auは「私」の意味であり(乙54、3)、原告は、これを「もしあなたが一緒なら」と訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①左手を下に降ろして体に沿わせ、右手を、掌を上向きに返しながら、右斜め前へ向かって少しひじを曲げた状態から前に伸ばす、②次に、左斜め前に向かって掌を下にして左腕を伸ばし、右腕は、掌を下にして、わきを開いて軽く曲げた状態で左斜め方向を指す、③次に、伸ばした左腕を曲げて胸の前に戻し、体に沿うように胸の前で左手と右手の掌を内向きにして重ね合わせる、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①及び②の動作をみると、原告は、彼があなたと一緒にいられることを強く待ち望んでいる様子を表していると主張するところ、このような動作は、手の平全部で目の前にいる相手を指すという‘oe(あなた)に対応するハンドモーション(乙4)を左右それぞれ1回ずつ行うものである。そして、甲25の左下では同様のハンドモーションを右手2回と左手1回交互に行い、同右下では同様のハンドモーションを右手1回のみ行っている例があるから、同様のハンドモーションを左右それぞれ1回ずつ行うことに有意な差異があるとはいえない。
 次に、③の動作をみると、原告は、彼と恋人が一緒にいる状況を表現していると主張するところ、このような動作は、胸の前で手の平を自分の方に向けるというau(私)に対応するハンドモーションであり(乙3)、甲25の右下及び左下の例でもとられている振付けである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(カ)‘Ike i ke ahi o Makana
a ikeは「見る」、ahiは「炎」、Makanaは「マカナ」(地名)の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「私たちはマカナの炎を知るでしょう」と訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①右手は掌を下にして右目の横に添えて顔とともに左斜め上に向け、左手は左斜め上へ掌を下にしてまっすぐ伸ばす、②その後、伸ばした左手の肘付近に右手を添え、左手の手首を下に曲げて左腕を伸ばしたまま左斜め上から左斜め下までやや勢いよく降ろし、左腕を降ろすと同時に腰を落としてやや姿勢を低くとる、③次に、姿勢を低くしたまま両手を少し曲げた状態で胸の前で揃え、両手の掌で一度波打たせ、腰を上げて伸び上がりながら、左腕を伸ばした状態で体の横のやや斜め下、右腕も伸ばした状態で体の横のやや斜め上へ持っていき、再び両手の掌を一度波打たせる、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず①の動作についてみると、原告は、何かが起きることを予期すること、又はもうすぐ起きることを待っていることを表すもので、彼がこれから起きることを心から待ち望んでいることを表現していると主張するところ、この動作は、両手を目にかざし、片方の手の平と顔を外側に向けて、もう片方の手を伸ばすというike(見る)に対応するハンドモーションであり(乙4)、甲25の左下でも同様の動作を行い、同右下では同様の動作を左右交互に行っている。
 また、②及び③の動作について見ると、原告は、落ちてくるたいまつを掴み採ることが、一緒にいたいという燃え上がる愛の願望の象徴であることを表していると主張するところ、②の動作については、甲25の右下の例でも両手を上に上げてかがみながら低く降ろすから、上下方向の動作としては類似の例があるといえ(原告は、落ちてくるたいまつをつかみ取るという解釈に独自性があると主張するが、具体的表現として同様のものがある以上、解釈の独自性のみをもって振付けの独自性を認めることはできない。)、③の動作については、片手を前に伸ばし、もう片方の手を上に伸ばす「場所」のハンドモーション(乙5)の要素を備えている。
 しかし、①から③までの動作を一連のものとして観察すると、本件振付け6は、①の動作で体を大きく上に伸ばし、②の動作で大きく屈み、③の動作で再び大きく伸ばすという動作を組み合わせることにより、他の例には見られない体全体の躍動感のある振付けとなっており、個々の動作自体も、①の動作は片方の手を体を伸ばしながら真上近くまで高く上方に伸ばす点は類例になく、②の動作は両手を降ろす際の組み方において甲25の右下の例と同じではなく、③の動作も体を上に伸ばしている点で「場所」のハンドモーションそのままではなく、一連の振付けとして同様の組合せの類例は見当たらない。
c これらに鑑みると、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表現されていると認めるのが相当である。
 (キ)He makana ia na ke aloha
a makanaは「贈り物」、alohaは「愛」の意味であり(乙33、54)原告は、これを「それは愛の贈り物となるでしょう」と意訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①掌を正面に開いたまま右腕を右斜め上にまっすぐ伸ばし、同じく掌を正面に開いたまま左腕をやや曲げ気味で右腕に添う様に置き、右腕を曲げると同時に左腕を伸ばすことで両手の高さを入れ替える、②次に、腰を落としてややかがみ気味の姿勢になりつつ、両腕を同時にゆっくり曲げ、掌を内側に向けて両手首を胸の前で交差させる、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、先のマカナの山(Makana)を表す先の動作から贈り物(makana)を表す動作へと動いていくものであると主張するところ、ここの動作は、両手を高さを違えてかかげる「山」のハンドモーション(乙4)を左右交互に行っているものに類似している。しかし、ここでのmakana(贈り物)が直前のMakana(地名)との同音異義語であるとして、ここで「山」のハンドモーションを当てて①の動作と同様の動作を行っている例は見当たらず、甲25の右下及び左下の振付け、乙12の振付けでは、いずれも両手を胸の前に置いてから両手を前方に広げるという動作をしており、makana(贈り物)の歌詞からすればこれらの例が素直であり、ここで「山」のハンドモーションを当てることが歌詞の内容から通常想定されるわけでもない。これに対し、被告は、本件振付け6の動作があらゆる舞踊においてありふれた動作であることを指摘するが、こうした被告の主張が採用できないことは、上記(1)エのとおりである。
 次に、②の動作についてみると、原告は、贈り物という意味のマカナから愛を表す手を胸の前で交差させる動作へと動いていくもので、彼が恋人への愛の贈り物を贈ろうとしていることを表していると主張するところ、このような動作は、両手を広げたり前に突き出した状態から、右手を上、左手を下にして、胸の前でクロスするというaloha(愛)のハンドモーションであり(乙4)、甲25の左下の振付けと同様である。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、本件振付け6独自のものであって、原告の個性が表現されていると評価できるが、②の動作は、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ク)No nā kau a kau‘o‘oe a‘o au
a No nā kau a kauは「いつまでもずっと」、‘oeは「あなた」、auは「私」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「いつまでもずっとあなたと私」と訳している。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①掌を開いたまま上に向け右腕を右斜め上に、掌を開いて上に向けた状態で左腕を体の左側に、それぞれゆっくり伸ばしながら、右に360度ターンする、②次に、左腕を左斜め前へ掌を下にしてまっすぐ伸ばし、右腕は、わきを開き右肘をやや曲げ気味で掌を下に向け胸の横に添え、伸ばした左腕を曲げて掌を内側に向けて胸の前まで戻し、左手を上にし、重ならないように両手の掌を体に沿うように胸に前に置く、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、足をスライドさせるステップを8拍間行いつつ、腕を上側と外側に伸ばしていくことで、時間が流れていく様を表していると主張する。この点について、両腕を上側と外側に伸ばしていくという手の動きについては、甲25の左下及び右下の振付けも同様の動きをしているものの、その際にターンするステップを行っていない点で①の動作と異なり、他にこの箇所でターンするステップを行う類例は見当たらない。ターンは通常のステップの一種ではあるが、歌詞の語義や曲想からターンすることが通常想定されるわけでもなく、大きく両腕を広げながらターンすることによって類例にない体全体の躍動感を高めていることから、なお有意な相違というべきである。これに対し、被告は、手の動作は類例があり、足の動作は既存のステップであり、これらを組み合わせた動作はありふれたものであると主張するが、上記に照らして採用できない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、いつ何時でもあなたと私が永遠に一緒にいることを表していると主張するところ、片方の手を胸に添え、他方の手を前方に伸ばすのは‘oe(あなた)のハンドモーションであり(乙3、5)、胸の前で両手の掌を自分の方に向けるのはau(私)のハンドモーションであり、甲25の右下の振付けでも、‘oeにおいて片手と両手の違いがあるとはいえ、手を伸ばし、その後手を曲げて胸の前に戻している例がある。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち①の動作は原告の個性がなお表れていると評価できるが、②の動作は原告の個性が表れているとは評価できない。
(ケ)Sweetheart mine E pili mai
a 歌詞の意味は、上記(エ)と同様である。
b 本件振付け6では、大きく分けて、①両肘を内側に曲げ、掌を開いたまま胸の前で両手を一度くるりと回した後、左肘を曲げたままわきを開け、掌を上にして胸の前に置き、右手は掌を上にして左胸の前から右斜め前の方向に伸ばしていく、②次に、上記(エ)の②の動作をするという2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、愛する人を意味する心(ハート)の動作から作られていると主張するところ、甲25の左下及び右下は、いずれも両手を胸の前でクロスする動作(aloha〔愛〕のハンドモーションに似た動作)をしており異なるが、乙12では原告と同様の振付けがとられている。
 また、②の動作は、上記(エ)の②の動作と同様、e pili(一緒に)のハンドモーションによるもので、類例もある。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(コ)間奏
a 本件振付け6では、大きく分けて、①体の向きを90度右へ向けながら、わきを開けて左肘を曲げ、掌を下にして胸の前へ水平に置く。体の向きを90度右へ向けたところで、右手でスカートの右膝の辺りの裾を持ち、少し持ち上げる。その体勢のまま左に90度回転して再び正面を向く、②次に、左腕を左斜め前へ伸ばし、わきを開けて右肘を軽く曲げ、胸の前に置く。両手とも掌を下向きにし、両手の掌を一度ゆっくりと波打たせる、③最後に、掌を上向きにして、下からすくい上げるように右腕を右斜め前に伸ばし、その後左腕を同じように左斜め前に伸ばす、という3つのパートからなる動作をしている。
 この点、②の動作は、間奏に対応するハンドモーションであり(乙5の30ないし31ページ)、③の動作は、甲25の右下の振付けにおいて片手ずつではあるが同様の動作がされており、その相違が有意なものとはいえない。一方、①の動作については、甲25の他の振付け及び乙12の振付けに例がなく、他の曲に関する序奏、間奏、終奏の例を見ても、間奏の振付けとしてありふれたものであるとは認められない。
b したがって、間奏に対応する振付けは、①の動作については原告の個性が表現されていると評価できる。これに対し、被告は、本件振付け6は既存のハンドモーションであると主張する。しかし、上記aのとおり、本件振付け6には既存のハンドモーションどおりの部分もあるが、それ以外の部分も存在しており、15被告の主張は採用できない。
(サ)‘Auhea wale ana‘oe、Ku’u lei o ka pō、Pō anu ho‘okahi no au、Sweetheart mine、E pili mai、Inā‘o‘oe a‘o au、‘Ike i ke ahi o Makana、He makana ia na ke aloha、No nā kau a kau、‘o‘oe a‘o au、Sweethea rtmine、E pili mai(2番の歌詞)
 上記(ア)ないし(ケ)と同様である。
(シ)Sweetheart mine E pili mai(2回繰り返し)
a 1回目のSweetheart mineについて、本件振付け6では、直前の同じ歌詞の箇所とは異なり、両肘を曲げ、両手の掌を内向きにして胸の前で手首を交差させながら、右に360度ターンするという動作をしている。
 この動作は、両手を広げたり、前に突き出した状態から、右手を上、左手を下にして、胸の前でクロスするというaloha(愛)のハンドモーション(乙4)をターンしながら行っているものであり、Sweetheart mineという歌詞から一般に想定し得る動作であり、甲25の左下及び右下の振付けはいずれも、ターンを除き同様の動作をしている。ここでターンを加えるのは一定の工夫とはいえるが、終奏前に最後の歌詞が繰り返される場合に、ターンを加えて変化をつけるのは本件振付け17(後記カ)に対応する楽曲(Maunaleo)の終奏直前(後記カ(ナ)のaloha ē)でも甲46の右上、乙35の7、8の振付けに見られることであるから、ターンの有無は有意な相違とはいえない。
b また、2回目のSweetheart mineについて、本件振付け6では、左腕をまっすぐ伸ばして下におろし、右肘を曲げ、掌を内側にして人差し指・中指の先の辺りを一度口に当て、その後、掌を上にして右斜め前へゆっくりと右腕を伸ばし、このときステップは左足右足を交互に2歩ずつ左へ踏み出すという動作をしているところ、これは両手又は片手を口元に置いた後に手を前に伸ばすというaloha(愛)に対応する別のハンドモーションであり(乙3)、Sweetheart mineという歌詞から一般に想定し得る動作である。
c また、ここで2回繰り返されるE pili maiについては、上記(e)と同様、原告の個性が表れているとは評価できない。
d 以上からすると、ここでの繰り返し部分は、基本的に類例があるか歌詞から想定し得る動作であるということができる。
(ス)終奏
 上記(コ)と同様であり、原告の個性が表現されていると評価できる。
(セ)小括
 以上のとおり、本件振付け6には、完全に独自な振付けが見られる(上記(ウ)②、(キ)①〔及び(サ)〕)だけでなく、他の振付けとは有意に異なるアレンジが全体に散りばめられている(上記(ウ)①、(カ)、(ク)①、(コ)①〔及び(サ)〕)から、全体として見た場合に原告の個性が表現されており、全体としての著作物性を認めるのが相当である。
イ 本件振付け11(楽曲:Lei Ho’oheno)
(ア)序奏
a 本件振付け11では、①わきを開いて左肘を曲げ、左手の掌を下にして、胸の前に水平に持ってきて、右手は腰の右辺りのスカートの裾を握り、軽く持ち上げ、このとき、体は右斜め前に向ける、②次に、左腕をまっすぐ下ろし、右腕は掌を上に向け肩の高さで正面にまっすぐ伸ばし、このとき、体の向きは左斜め前に向ける、③その後、伸ばした右腕を、わきを開いて掌を下にしてゆっくり曲げ、胸の前で止め、以上の動きを、左右を逆にして行い、左右交互にさらに1回ずつ繰り返す、という動作をしている。
 これに対し、甲26の右上、左下及び右下の振付けでは、いずれも左右の手を交互に伸ばすものの、その前に他方の手は曲げることはないなど、本件振付け11のように片方の手を曲げ、その後もう片方の手を伸ばすという振付けは見られないところ、この違いは体全体の形に影響しているから有意な差異というべきである。片方の手を斜め前に伸ばし、もう片方の手を胸の前に掌を下に向けて置き、これを反対側も同様に行うという前奏ないし間奏のハンドモーション(乙5)も、片方の手を伸ばす前にもう片方の手を曲げるという動作をするものではなく、曲想から片方の手を伸ばす前にもう片方の手を曲げるという動作が通常想定されるわけでもない。
 これに対し、被告は、これらの動作はフラダンスにおけるありふれた動作であると主張する。しかし、そのことを認めるに足りる的確な証拠はない上、フランダンスにおけるありふれた動作であっても、序奏等の歌詞のない部分において行うことについてはありふれているといえない以上、被告の主張は採用できない。
b したがって、序奏に対応する振付けは、少なくとも既存の振付けやハンドモーションに異なる動作を組み合わせて有意なアレンジをしたものであるから、原告の個性が表れていると評価できる。
(イ)E ku’u pili aloha
a ku’uは「私の」、pilialohaは「親しい友の交わり」の意味であり(乙54)、原告は、これを「私の親愛なる友よ」と訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、①右手の掌を上にして右腕を胸の高さで右斜め前にまっすぐ伸ばし、左肘を曲げて、左手の掌を内側に向け左胸の前に置き、体の向きは、最初右側に向け、その後正面に向ける、②次に、正面に向いた後、両腕を肩の高さでまっすぐ正面に伸ばし、両手を互いに握り締めようとする動作を行う、③両肘を同時にゆっくりと曲げ、両手の掌を内側に向けて両腕の手首を胸の前で交差させる、という3つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、右手を横に伸ばして左手を胸のところに置き、その後に両手を握りしめてから「ポリ」(心)や胸の前で腕を交差させることで、とても親密な親愛なる友人への愛を表していると主張する。
 この点、②の動作は、上記ア(エ)で述べたe pili(一緒に)のハンドモーションとほぼ同様であり(乙26)、③の動作は上記ア(キ)で述べたaloha(愛)のハンドモーションである(乙4、5)が、甲26左下の振付けは②の動作を行い、同右上の振付けは③の動作を繰り返し行い、甲26の右下の振付けは両手を広げる動作をしてから②③の動作を行っているものの、いずれも①の動作を行っておらず、本件振付け11のように①から③の動作を全て行っている振付けは見られない。歌詞の語義や曲想から①の動作が通常想定されるわけでもない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、既存の振付けやハンドモーションに異なる動作を組み合わせてアレンジをしたもので、これにより体全体の動きが異なるから有意な差異というべきであり、原告の個性が表現されていると評価できる。被告は、①の動作はフラダンスにおけるありふれた動作であると主張するが、仮にそうであるとしても、①の動作をここの歌詞に対応する振付けとして行うことがありふれているわけではないことは上記aのとおりであるから、被告の主張は採用できない。
(ウ)Ku’u lei kau po’ohiwi
a Ku’uは「私の」、leiは「(頭や首につけられる)花輪」、「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」、Kauは「掛ける」、po’ohiwiは「肩」の意味であり(乙54)、原告は、これを「私の肩を飾るレイ」と訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、①わきを開いて両肘を曲げ、掌を内向きにして重ならないように胸の前に置き、その後、右腕はその状態で右手の掌を下に向け、左腕は、左肘をやや曲げたままで、頭の上から頭の後ろを通り、胸の前まで持ってくる、②次に、体を左斜め前に向け、わきを開いて両肘を曲げ、掌を下に向けて両手を肩の上に添え、その後、体を右斜め前に向け、掌が内側に向いた状態で、手先を少ししならせながら、肩の前を通るように両手を同時に下ろす、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらに動作について、原告は、左腕を頭の上から肩にかけて動かし、右手を胸の前に置くことで、肩にレイを掛けて装飾している仕草を表していると主張する。
 まず、①の動作についてみると、leiのハンドモーションは、上記ア(イ)で述べたとおり手を胸の下から持ち上げるようにレイを首に掛ける動作であり、片手でレイの下をささえ、他方の手で首に掛ける仕草をするものもあり(乙4)、甲26の右上、左下及び右下の振付けでは両手でレイを首に掛ける動作が行われているから、ここでの①の動作はこれらと同様のものである。
 次に、②の動作についてみると、po’ohiwi(肩)のハンドモーションは、目線を肩に向けながら、片手で軽く肩に触れるというものであり(乙4)、甲26の右上及び右下の振付けは、体を正面に向けたまま、両手を片方の片方の肩の上に添え、その後、もう片方の肩の上に添えるものであって、体を半身にねじりながら両手を同時に両肩の上に添えるという振付けは見られない(なお、甲26の左下の振付けはそもそも手を肩に添える動作が見られない。)。このように本件振付け11では、手を肩に添えるという既存の動作を基礎とするものではあるが、体を半身にねじりながら両手を同時に両肩の上に添えることにより類例とは異なる動的な変化が生じているから、この点においてなお一定程度の原告の個性が表れているというべきである。
(エ)Onaona i ka ihu
a Onaonaは「ここち良い香気」、ihuは「鼻」の意味であり(乙54)、原告は、これを「甘く優しい香り」と訳している。
b 本件振付け11では、左腕は肩の高さで左斜め前に伸ばし、左手の指をすぼめ上に向け、右腕を伸ばし、右手で左手の指先の先端を一度触れ、肩の高さで鼻の前を通るように右側へ動かし(鼻の前に右手の指先が来たときに、実際に息を吸い込んで匂いをかぐ。)、右手が右肩の前にきたところで、掌を下にして、右腕を右斜め前に伸ばすという動作をしている。
 このような動作について、原告は、左手を伸ばして親友の象徴である花をつかみ、右手をその花の先に触れてから自分の鼻のところにもってきて、甘く優しい香りがするその親友(花に象徴される親友)の香りをかぐことで、どれだけその親友が大切で近しい存在であるのかを表していると主張する。しかし、手を鼻に添えて香りをかぐという動作は、onaona(ここち良い香気)のハンドモーションであり(乙4、26)、甲26の左下及び右下の振付けでもされている上、ここでの動作は、本件振付け16(後記オ)に対応する楽曲(Māpu Mau Ke’Ala)に係る歌詞のうちここと同様の歌詞の「He'ala onaona kūpaoa」の「onaona」(後記オ(イ)の②の動作)に対応する甲33の左下の振付けと同様のものである。これに対し、原告は、本件振付け11と同様の動作を行う例がないかのように主張するが、上記のとおりであるから採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(オ)Nohea i ka maka
a Noheaは「かわいい」、makaは「目」の意味であり(乙54)、原告は、これを「愛らしい姿」と意訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、①右手の掌を下に向け、右腕を肩の高さで右斜め前に伸ばしたまま、左腕を、掌を内側に向け真上に伸ばす、②わきを開いて左肘を曲げ、左手の掌を左目の横に添えながら、右手の掌を上に返し、右腕を伸ばしたままで真上に持ち上げる、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、左手を天国(空の彼方)に向かって伸ばし、その手を自分の目のところに持ってくることで、「あなたが天からの贈り物であり、私はあなたを愛しています。」と告げているところを示していると主張する。
 この点、②の動作は、両手又は片手で目の辺りを触れるというmaka(目)に対応するハンドモーションである(乙4)ところ、甲26の他の振付けは、②の動作を行っているものの、①の動作を行っておらず、本件振付け11のように②の動作を行うほかに①の動作も行っている振付けは見られず、歌詞の語義や曲想から①の動作が通常想定されるわけでもない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、既存の振付けやハンドモーションに異なる動作を組み合わせてアレンジをしたものであり、これにより体全体の動きが異なるから有意な差異というべきであり、原告の個性が表れていると評価できる。
(カ)Liliko i ka ua kilihune
a Lilikoは「輝く」、uaは「雨」、kilihuneは「かすかな霧雨」の意味であり(乙37及び54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「風に吹かれた霧雨でキラキラと輝く」と訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、①右腕を、右手の掌を正面に向け上に伸ばしたままで、左手の掌を正面に向け、右手よりもやや低い位置まで持ち上げて添え、両掌を一度握り再び開き、その状態のまま、左に180度ターンして、後ろ向きになった状態で、再度、両掌を一度握り再び開く、②次に、両掌の指をヒラヒラと震わせながら、腰の高さまで徐々に右斜め下に下ろしていき、このとき、体は右に215度ターンさせ、後ろ向きの状態から右斜め前へ向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、踊り手が聴衆とは反対の方向(後ろ側)から前へ向いてターンしながら、両手をキラキラとさせる仕草をすることで、親友の周りで、ハワイ島のヒロという地方に降るその地方特有の霧雨(「カニレフア」という名前の雨)がキラキラ輝きながら風に乗って流れていく様子を表していると主張する。
 まず、②の動作は、両手をかかげて指先をぱらぱらと動かしながら両手同時に斜めに下ろすというua(雨)に対応するハンドモーション(乙3及び4)と同様であり、乙26の右下と左下では、両手又は片手で指先をぱらぱらと動かしながらS字状に下ろしている(これは乙3のuaのハンドモーションの解説において、S字を描くように下ろせば「霧」や「雪」を表現するとされていることに対応するものと認められる。)。したがって、②の動作は、uaのハンドモーションにターンを組み合わせたものである。
 また、①の動作は、歌詞に対応する特段のハンドモーションではないが、②の動作で両手を上から下に下ろす動作をとるためには、その前段階で両手を上に上げる動作が必要となるのは必然であり、甲26のその他の振付けでもそのような動作はされているから、ここでも相違はターンの有無にある。
 そして、ここでのターンは、体全体の動きと躍動感をもたらすものはあるが、甲26の右下の振付けでは、次の(キ)の歌詞のうち「kanilehua」に対応する箇所において、両手を上に伸ばした上で、ターンをしつつ指先をぱらぱらと動かしながら両手同時に斜めに下ろすという上記①②と同様の動作がされており、そこでのkanilehuaが「Hilo(ハワイ島の地名)に降る有名な霧のような雨の名前」の意味である(乙54)という歌詞の語義に照らせば、ここでのuaについてターンを組み合わせた①②の動作を有意なものということはできない。これに対し、原告は、①②の動作におけるターンが独自性を有するものであると主張するが、上記のとおり採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(キ)Kilipohe i ke kanilehua(lehuaのみ繰り返し)
a Kilipoheは「濡れている」、kanilehuaは「Hilo(ハワイ島の地名)に降る有名な霧のような雨の名前」(逐語では「lehuaの花が飲む(雨)」)、lehuaは、「'ōhi'aの木に咲く花」、「歌や伝説の中で有名なハワイ島の島花」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「カニレフアの雨で濡れている」と訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、最初のKilipohe i kekanilehuaの部分で、①左手の指をすぼめその指を上向きにし、右手は左手を支えるようにその下に添え、その手の状態のまま、体の向きを正面に戻しながら両手を高く左斜め上に伸ばす、②右手を左手より更に高く上げ、掌を正面に向け、左手の後ろで指をヒラヒラと震わせながら、胸の高さまで右斜め下方向に徐々に両手を下ろしていくという動作をし、続く繰り返しのlehuaの部分で、③左手の指をすぼめその指を上向きにし、右手は左手を支えるようにその下に添え肩の高さでまっすぐ前に伸ばし、右に360度ターンし、その後、同じ手の状態のまま、前に伸ばした両手を左斜め上へとゆっくり持ち上げる、という3つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、右手を添えつつ左手で親友の象徴である花をつかみ、その花をつかんだ手を高いところまで持ち上げる動作により、その親友への深い愛情を表現しており、天国の方向(空の彼方)から指を小刻みに震わせつつ下ろしていくことで、優しい風に運ばれてきた柔らかく降る明るい霧雨(カニレフアという名前の雨)を表すとともに、左手の指をすぼめ、その上で右手をヒラヒラと震わせながら徐々に下ろしていく動作は、カニレフアという名前の霧雨が、ハワイ島を象徴するレフアの花を新鮮に保たせていることを表していると主張する。
 まず、①の動作についてみると、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpua(花)に対応するハンドモーションと同様のもので(乙4、5、25)、両手を上に伸ばすのも次のua(雨)の動作の準備として必然的なものである。また、②の動作は、左手はpua(花)に対応するハンドモーションをしながら、右手は上記(カ)で述べたua(雨)に対応するハンドモーションをするものである。したがって、これらのうち、uaに対応するハンドモーションをすることは、Kilipoheやkanilehuaの上記の語義から想定されるものであり、甲26の他の振付けでもuaやその一種で霧雨のハンドモーションを取り入れている。しかし、この繰返し前の歌詞部分でpuaの要素を取り入れることは、Kilipoheやkanilehuaの語義とは直接関連せず、kanilehuaの逐語上の意味の中にlehuaという「花」の意味が込められているとしても、ここでpuaの要素を取り入れることは甲26の他の振付けにも見られないものであり、とりわけuaとpuaの要素を同時並行的に取り入れた動作は甲26の他の振付けに見られないものであるから、本件振付け11に独自のものであり、原告の個性が表現されていると評価できる。
 続いて、③の動作についてみると、手の動作は上記のpuaに対応するハンドモーションであるから、ここの歌詞(lehua)の語義から想定されるものであるものの、本件振付け11では、その際にターンするステップを行っているところ、甲26の他の振付けにはこのようにターンするステップを行うものはなく、ターンの有無による躍動感の違い無視できないから、これについても原告の個性が一定程度表れているというべきである。
c したがって、ここの振付けに対応する歌詞部分は、本件振付け11に独自のものであり、原告の個性が表現されていると評価できる。
(ク)E ku’u pili aloha、Ku’u lei kau po’ohiwi、Onaona i ka ihu、Nohea i ka maka、Liliko i ka ua kilihune、Kilipohe i ke kanilehua(2番の歌詞)
 上記(ア)ないし(キ)と同様である。
(ケ)Wewelo ke aloha i ka‘onohi
a Weweloは「はためく、浮動する」という語義を有するweloの変形であり、alohaは「愛」、‘onohiは「眼球」の意味であり(乙33及び54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「目の前に流れる愛」と訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、①わきを開いて両肘を上に軽く曲げ、両手の掌を正面に向けて顔の前へ揃え、その状態のまま右へ360度ターンする、②ターンを終るところで、わきを開いて右肘を曲げ、右手の掌を内向きにして右目の横に添え、左手の掌を上に向け左腕を肩の高さで左斜め前に軽く伸ばす、③次に、両肘を曲げて胸の前に持っていき、両手の掌を内側に向けて胸の前で両手首を交差させる、④次に、わきを開いて左肘を曲げ、左手の掌を内向きにして左目の横に添え、右手の掌を上に向け、右腕を右斜め上にまっすぐ伸ばし、わきを開いて右肘を曲げて、右手の掌を内向きにして右目の横に沿えつつ、左手の掌を上に向け、左腕をやや左斜め下にまっすぐ伸ばす、という4つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を顔の前において回転する動作は、愛情が目の前に浮かび上がり流れていく様子を表すとともに、「私を見てください。あなたに愛されるためにここにいます。」という気持ちを表現しており、体を回転させることで、時の経過とともに愛情が流れていく様子を表現していると主張するところ、このような動作は、歌詞から想定されるものではなく、甲26の他の振付けを始めとして同様の振付けはほかに見られないから、本件振付け11に独自のものというべきであり、これにより体全体の動きに有意な差異が生じている。
 他方、②の動作について見ると、‘onohi(眼球)の語義が、maka(目)と同様であり、makaに対応するハンドモーションが両手又は片手で目の辺りを触れるというものであること(乙4)に照らせば、ここの歌詞の語義から想定される動作であると認められる。
 また、③の動作についてみると、原告は、胸の前で両手を交差させる動作は、親友への深い愛情を表現していると主張するところ、この動作は、aloha(愛)に対応するハンドモーション(乙4、5)と同様であり、甲26の左下及び右下の振付けとも同様であると認められる。
 さらに、④の動作について見ると、②の動作と同様、ここの‘onohiとの歌詞の語義から想定される動作であると認められる。
c したがって、②から④については原告の個性が表れているとは認められないが、①については、本件振付け11に独自のものであって、原告の個性が表現されていると評価できる。
(コ)‘Ume’ume mai ho’i kau
a Ume、umeは「魅惑的な」、maiho’ikauは「最高」(maiだけだと「こちらへいらっしゃい」)の意味であり(乙4、33及び54)、原告は、これを「あなたはなんて魅力的なのだろう」と訳している。
b 本件振付け11では、左手の掌を上に向けて左腕を左斜め下に伸ばした状態のままで、右肘を曲げたまま右手の掌を上に向けて右胸の前まで下ろし、両手で手招きをするように腕を少し曲げつつ掌を2回揺らし、右手の掌を上に向けて右腕を右斜め下に伸ばし、左肘を曲げて左手の掌を上に向けて左胸の前に沿え、両手で手招きをするように腕を少し曲げつつ掌を2回揺らす、という動作をしている。
 この動作について、原告は、左右へ向いてそれぞれ両手で手招きするような仕草は、「早く来てほしい」と言っていることを表しており、親友がそれほどまでに誘惑的又は魅惑的である様を表現していると主張するところ、このような動作は、両掌を上に向け、右手は胸の前に構え、左手は左斜め前に伸ばし、誘い込むように手首からふわっと引き寄せて、胸の前に両掌をかざすというmai(こちらへいらっしゃい)のハンドモーション(乙5)を体の方向を入れ替えて繰り返すものであり、甲26の右下の振付けも繰り返しはないものの同様の動作をしている。これに対し、原告は、類例がないと主張するが、上記のとおり類例があるから採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(サ)E kahi lei ho’oheno
a kahiは「たった一つの」、leiは「(頭や首につけられる)花輪」、「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」、ho’ohenoは「愛する」、「(歌などの)愛情の表現」の意味であり(乙33及び54)、原告は、これを「私の愛する友よ」と意訳している。
b 本件振付け11では、大きく分けて、①わきを開いて両肘を曲げ、胸の前で重ならないように両手の掌を内側に向けて横に揃え、掌を一回波打たせ、そのまま両腕を肩の高さでまっすぐ正面に伸ばす、②次に、両腕を伸ばして両手の掌を揃えたまま、何かを持ち上げるように顔の前を通って頭の上まで上げていき、両手を上に伸ばしきった後、両手を揃えたまま両肘を曲げて頭の後ろへ動かし、両肘を曲げたまま、それぞれ左右の肩の前を通るように両手を下ろす、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、両手の指でレイを持ち上げてから、そのレイを肩に掛けるような仕草は、私が肩や胸にレイを掛けるのはあなただけですということを表していると主張するところ、まず、②の動作は、片手で行うleiのハンドモーション(乙4)を両手で行うものであり、甲26の左下及び右下の振付けと同様である。また、①の動作のように、②の動作の前提として両腕を正面に伸ばす動作は甲26の右下も行っており、その前に両掌を胸の前に揃える動作は、目立たない動作であり、両腕を正面に伸ばすための前提行為として有意な差異とはいえない。これに対し、原告は、レイを首に掛ける動作を行う前のこの別の動作を行う点に独自性があると主張するが、上記のとおり採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(シ)E ku’u pili aloha、Ku’u lei kau po’ohiwi、Onaona i ka ihu、Nohea i kama ka、Liliko i ka ua kilihune、Kilipohe i ke kanilehua、Wewelo ke aloha i ka‘onohi、‘Ume’ume mai ho’i kau、E kahi lei ho’oheno、E ku’u pili aloha、Ku’u lei kau po’ohiwi、Onaona i ka ihu、Nohea i ka maka、Liliko i ka ua kilihune、Kilipohe i ke kanilehua
 上記(ア)ないし(ク)、(コ)ないし(シ)と同様である。
(ス)終奏
 本件振付け11では、①左手の指をすぼめその指を上向きにし、右手は左手を支えるようにその下に添え、肩の高さで前に伸ばし、その状態で右に360度ターンし、②同じ手の状態のままで両手を左斜め上へゆっくり持ち上げ、③わきを開いて左肘を曲げ、左手の掌を下にして、胸の前に水平に持ってきて、右手は腰の右辺りのスカートの裾を握り、軽く持ち上げ、このとき、体は右斜め前に向け、左腕をまっすぐ下ろし、右腕は掌を上に向け肩の高さで正面にまっすぐ伸ばし、このとき、体の向きは左斜め前に向け、④わきを開いて右肘を曲げ、掌を下に向け右胸に置き、左腕を肩の高さで、掌を下に向け前へ伸ばし、最後は両手をおろす、という動作がされている。
 これらについては、そもそもこの部分において他にどのような振付けがなされているのかが不明であるから、他の例と比較して独自性があるのか否かが不明である上、原告自身も、特に創作性の高い部分としてこの箇所を指摘しているわけでもない。これらに鑑みると、これらに振付けに原告の個性が現れているとは認めるに足りないというべきである。
(セ)小括
 以上のとおり、本件振付け11には、完全に独自な振付けが見られる((キ)①②、(ケ)①〔及び(シ)〕)だけでなく、他の振付けとは異なるアレンジが全体に散見される((ア)、(イ)①、(ウ)②、(オ)、(キ)③〔及び(シ)〕)から、全体として見た場合に原告の個性が表現されており、全体としての著作物性を認めるのが相当である。
ウ 本件振付け13(楽曲:Ua Lanipili I Ka Nani O Papakōlea)
(ア)Ua lanipili i ka nani o Papakōlea
a Uaは「雨」、lanipiliは「ラニピリ」(地名)、naniは「美しい」、Papakōleaは「パパコレア」(地名)の意味であり(乙37、弁論の全趣旨)、原告は、これを「パパコーレアのラニピリの雨は美しい」と訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①両腕の肘を軽く曲げ、掌を正面に向け指を伸ばした状態で上に伸ばし、指先を小さく震わせながら胸の高さまで降ろす、②次に、掌を内に向け指先を伸ばした状態で右掌を左肩の前、左掌は右腰に添える、③次に、左腕は軽く肘を曲げ、掌を上に向け指先を軽く伸ばした状態で、肩の高さで左斜め前へ伸ばし、右腕は軽く肘を曲げ、掌を内側に向け指先を軽く伸ばした状態で上へ伸ばし、このとき、顔と目線を右腕を伸ばした方向へ向け、左斜め後ろを向く、④最後に、左斜め後ろを向いた状態のまま、両手の掌を正面に向け指先を伸ばし、両腕を上へ伸ばし、この時、最初は左手をやや高めに挙げ、次に右手をやや高めに上げて、左右の手の高さを入れ替え、顔と目線は両手の方へ向ける、という4つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、天国の方向(頭の上)から両手をゆっくりと下ろしてくることで、雨が降り注ぐ様子を表現していると主張するところ、この動作は、両手をかかげ、雨が降るように指先をパラパラと動かしながら、両手同時に上から下へ下ろすua(雨)のハンドモーション(乙4)であり、甲51の左下及び右下の振付けと同様のものである。これに対し、原告は、甲51の右下の振付けとは、手の動かす方向、角度、速さ、回数、その際の体の向き等が異なっており、独自性が見いだせると主張するが、原告が指摘する違いは、いずれも細かな相違であるから、原告の主張は採用できない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を胸の前で交差させる動作は、ラニピリの雨が人々に愛されていることを示すとともに、pili(親密さ)を表していると主張するところ、原告は、lanipiliをpili(一緒に、親しい)との掛詞として独自に解釈した上でこの振付けをしており、甲51の他の振付けを始めとして他に見られない動作であり、歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもないから、本件振付け13に独自のものであると認められる。
 次に、③④の動作について、原告は、交差させた腕を開いて後ろを向き、後ろを向いた状態で腕を伸ばすことで、パパコーレアの地域の美しさを表現していると主張するところ、③の動作については、Papakōlea(地名)という歌詞と関連する「場所」に対応するハンドモーションは、片手を上げ、上げた手の脇からもう一方の手を体の正面を通って水平に横に開くというものであり(乙3、5)、その結果両手がL字型になることに照らせば、場所に対応するハンドモーションにターンを加えたものである。そして、この箇所では甲51の右下の振付けもターンを加えていることからすると、ターンの有無が有意な差異とはいえない。
 次に、④の動作についてみると、上に伸ばしている左右の手の高さを入れ替えるという動作は、甲51の右下の振付けと同様である。本件振付け13では後ろを向いたままの状態で行うのに対し、甲51の右下の振付けではステップを踏みながら四方を向いて行うという点が異なるが、甲51の右下の振付けは後ろを向いて動作することもしているから、この箇所については、後ろを向いて動作を行うことに独自性があるとはいえない。これに対し、原告は、後ろを向いたままの状態で行っているか否かの違いを強調するが、そのことがこの箇所での有意な差異といえないことは上記のとおりである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①③④の動作は原告の個性が表れているとは評価できないものの、②の動作は、本件振付け13独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できる。
(イ)He nani uluwehi ke kui pua melia
a naniは「美しい」、uluwehiは「青々とした(水々しく茂った)美しい緑の草木」、pua meliaは「プルメリアの花」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「青々として美しいプルメリアの花で飾られている」と意訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①右腕は掌の向きを内側に向け、左腕は軽く肘を曲げ、掌を上に向け指先を軽く伸ばした状態で、肩の高さで左斜め前へ伸ばし、このとき、顔と目線は伸ばした左腕の方へ向ける、②次に、両腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、両手の掌は指先を伸ばし内側を向け、腰の高さから胸の高さまでにかけて左斜め前と右斜め前で一回ずつスクープ(下から上へ両手ですくい上げるような動作)させる、③左腕は軽く肘を伸ばした状態で、肩の高さで体の左前方向へ伸ばし、左手の掌は上に向け、人差し指と親指の指先をくっつけ、右腕は、右手の掌の親指と人差し指の指先をくっつけた状態で右手のすぐ上を右から左へと通過させ、その後、左掌は指先を伸ばし上に向け、右掌は指先を伸ばしすぼめて上を向けた状態で左掌の上に乗せ、左斜め前から右斜め前へ移動させる、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、原告は、①②の動作について、パパコーレアの地域の美しさと、たくさんのプルメリアの花が生い茂っている様子を表していると主張するところ、①の動作については、両腕がL字状になるという「場所」に対応するハンドモーションを上記(ア)③の動作と逆向きにターンしながら行うもので、甲51の他の振付けを始めとして同様の歌詞についても他に例のない動作であり、歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもないから、本件振付け13に独自のものであると認められる。これに対し、被告は、nani(美しい)に対応するハンドモーションであると主張するが、naniに対応するハンドモーションは両手又は片手を上から下に下ろすというものである(4、5及び26)から、被告の主張は採用できない。
 次に、②の動作についてみると、本件振付け15(後記エ)に対応する楽曲(Blossoms nani ho'i e)に係る歌詞のうちここと同様の歌詞の「Ua noho i ka malu i ka uluwehiwehi」の中の「uluwehiwehi」(後記エ(エ)の②の動作)に対応する甲41の左下の振付けと同様のものであるところ、uluwehiという歌詞の語義が、uluwehiwehi(uluwehiの重複形。乙37)という歌詞の語義と同義であることに照らせば、②の動作は歌詞から想定されるものである。
 次に③の動作についてみると、原告は、この動作は香り高いプルメリアの花をつないで美しいレイを作っている様子を表現していると主張するところ、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpua(花)に対応するハンドモーションには、片手だけで行うものもあれば(乙4)、両手で行うものもある(乙5、25)ところ、本件振付け13は、puaに対応するハンドモーションを両手で行うものである。本件振付け13は、両手をくっつけた状態でこれを行うところ、仮に、puaに対応するハンドモーションのうち両手で行うものが、両手をくっつけた状態では行わないものであったとしても、その差異は細かな部分での差異にすぎないから、有意な差異とはいえない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、本件振付け13独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できるものの、②及び③の動作は、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ウ)間奏
a 本件振付け13では、大きく分けて、①左腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし、左胸の前に添え、右腕は掌を下に向け指先を伸ばし、左掌の下から上へ内回りで回し、体の右側へ軽く肘を曲げた状態で伸ばす、②右腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばした状態で、右胸の前に添え、左腕は掌を下に向け指先を伸ばした状態で、右掌の下から上へ内回りで回し、体の左側へ軽く肘を曲げた状態で伸ばす、という2つのパートからなる動作をしている。
 このような動作は、本件振付け17(後記カ)に対応する楽曲(Maunaleo)の間奏(後記カ(カ))に対応する振付けの1つである甲46の左下、乙34の2番の振付けと同様のものである
b したがって、ここの間奏に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(エ)Uluʻohiʻohi nā pua melia no Anianikū
a Uluは「成長する」、ohiは「若さ」、「元気」、puameliaは「プルメリアの花」、Anianikūは「アニアニクー」(地名)の意味であり(乙37及び54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「青々と咲いているアニアニクーのプルメリア」と訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①体を右に向け、左腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし、左胸の前に添え、右腕は、右手の掌を下に向け指先を伸ばし、肘を軽く曲げた状態で、肩の高さで右側へ伸ばし、その後、再び体を正面に戻し、その動作に合わせ、右腕を軽く肘を伸ばした状態で正面に伸ばし、掌は上に向け指先をすぼめ、このとき、顔と目線を、伸ばした右腕の方へ向け、右腕の動きに合わせて後ろから正面へ動かす、②右腕は直前の動作の状態のまま、体を左に向け、左腕は掌を下に向け指先を伸ばし、肘を軽く曲げた状態で、肩の高さで左側へ伸ばし、その後、再び体を正面に戻し、その動作に合わせ、左腕を軽く肘を伸ばした状態で正面に伸ばし、左手の掌を上に向け指先をすぼめ、このとき、顔と目線を、伸ばした左腕の方へ向け、左腕の動きに合わせて後ろから正面へ動かす、③体の正面に伸ばした腕を、直前の動作の左右の掌がくっついた状態のまま、頭の高さまで同時にゆっくりと持ち上げ、このとき、顔と目線を両手の方へ向け、両手の動きに合わせて正面から上へ動かす、④掌を正面へ向け、指先を伸ばし、左右の腕をやや開くように、両腕を上へ伸ばす、という4つのパートからなる動作をしている。
 まず、①②の動作についてみると、原告は、たくさんのプルメリアの花が生い茂っている様子を表現していると主張するところ、本件振付け16(後記オ)に対応する楽曲(Māpu Mau Ke’Ala)に係る歌詞のうちここと同様の歌詞の「Ka pua'Awapuhi'auli'i」の中の「pua(花)」(後記オ(キ)の①の動作)に対応する甲33の左下の振付けと同様のものであるところ、ここでの歌詞が、直後のpuameliaと合わせて、プルメリアの花が力強く生い茂るとの意味であることに照らせば、この箇所でpuaに対応する振付けをすることは、歌詞や曲想から想定される動作である。
 次に、③④の動作についてみると、原告は、両手を高くかかげることで、美しいプルメリアの花をたたえており、続いて両手を広げてアニアニクーの場所を表現していると主張するところ、まず、③の動作についてみると、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpuaに対応するハンドモーションを行いながら、その手を上げていくというものであり、puaに対応するハンドモーションの若干のアレンジにすぎない。
 次に、④の動作についてみると、ここでの歌詞の振付けとして甲51の他の振付けに見られない動作ではあるが、アニアニクーが高地であること(弁論の全趣旨)からすると、本件振付け17(後記カ)に対応する楽曲(Maunaleo)のKohu’ahu’ao no ka ukaの「uka(高地の)」(後記カ(ウ)の②の動作)に対応する甲46の右上・右下、乙34の3の振付けと同様に、両手をかかげるのは歌詞から想定される動作というべきである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①から③の動作は、原告の個性が表れているとは評価できない。
(オ)I ka miliʻia e ka ua lanipili o Papakōlea
a miliは「手でさわる」、「愛撫する」、uaは「雨」、lanipiliは「ラニピリ」(地名)、Papakōleaは「パパコーレア」(地名)の意味であり(乙37、弁論の全趣旨)、原告は、これを「パパコーレアのラニピリの雨と絡み合っている」と訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①軽く肘を曲げ、掌をそれぞれ内側に向け指を伸ばした状態で、両腕を肩の高さで正面に伸ばし、両手の掌をシェイクさせながら、左右の掌を、右掌が上、左掌が上の順に縦に交差させる、②左腕を軽く肘を曲げ、左手の掌を正面に向け指先を伸ばした状態で上に伸ばし、右腕は、右手の掌を正面に向け指を伸ばした状態で左手の右下に添え、その後、左右の掌の高さを入れ替え、このとき、指先を軽く震えさせ、顔と目線の向きを、高く上げた方の掌に向けるように動かす、③体の向きを右回りに180度ターンし後ろを向き、その後、右腕は右手の掌を内側に向け、左腕は軽く肘を曲げ、左手の掌を上に向け指先を軽く伸ばした状態で、肩の高さで左斜め前へ伸ばし、左回りに180度ターンし再び前を向き、このとき、顔と目線は伸ばした左腕の方へ向け、左腕の動きに合わせて後ろから正面左斜め前へ動かす、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を前に伸ばして左手と右手の上下を入れ替えることで、二つのものが一緒になり絡み合っている様子を表現していると主張するところ、mili(愛撫する)のハンドモーションが両手の掌を上下に重ね合わせて揺らすものであること(乙26)からすると、その軽微なバリエーションにすぎないものである。
 次に、②の動作についてみると、原告は両手を上に伸ばして右手と左手の高さを入れ替えることでラニピリの雨を表現していると主張するところ、単純な動作ではあるが、ここでの歌詞や同様の歌詞の振付けとして甲51の他の振付けを始めとして他に見られない動作であり、両手をかかげて指先をぱらぱらと動かしながら両手同時に斜めに下ろすというua(雨)のハンドモーション(乙3及び4)とも異なるから、本件振付け13に独自のものである。
 続いて、③の動作についてみると、原告は、後ろ向きの状態から前に向き直して左腕を伸ばすことでパパコーレアの場所を表していると主張するところ、Papakōlea(地名)という歌詞に関連する「場所」に対応するハンドモーションが、片手を上げ、上げた手の脇からもう一方の手を体の正面を通って水平に横に開き(乙3、5)、その結果両手がL字型になるものであることに照らせば、③の動作はこれと同様のハンドモーションである。しかし、③の動作では、場所に対応するハンドモーションをしながら、180度ターンをして後ろを向き、さらに180度ターンをして前を向くものであるといえ、このような大きなターンを組み合わせることにより体全体の躍動感が生まれており、甲51の他の例にも見られない。これに対し、被告は、甲51の左下及び右下の振付けも、「場所」に対応するハンドモーションをターンしながら行っている旨主張する。しかし、甲51の左下及び右下の振付けがターンをしているとは認められないから、被告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、原告の個性が表れていると評価することはできないが、②の動作は、本件振付け13独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価でき、③の動作は、なお原告の個性が一定程度表れていると評価できる。
(カ)Ua lanipili i ka nani o Papakōlea、He nani uluwehi ke kui pua melia
上記(ア)及び(イ)と同様である。
(キ)I luna nānā Kalāwahine
a Lunaは「高い」、「高地の」、nānāは「~を見る」、Kalāwahineは「カラーワヒネ」(地名)の意味であり(乙37、弁論の全趣旨)、原告は、これを「その上にカラーワヒネが見える」と意訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①両腕は軽く肘を曲げ、両手の掌を下に向け、腰のあたりの前へ伸ばし、その後、手首を返し、掌を体の方へ向け、両腕をやや開いて伸ばし、同時に頭の上まで伸ばし、このとき、顔と目線も合わせて正面から上へ動かす、②両掌の指先を伸ばし正面に向け、右腕はまっすぐ上に伸ばし、左腕は、脇を開き、肘を曲げ、掌を左目の横に添え、このとき、顔と目線は伸ばした右腕の先へ向け、その後、左右の手の位置を入れ替え、左右対称の動作を行う、③体の向きを90度右に向け、右腕はまっすぐ上に伸ばし、左腕は脇を開き、肘を曲げ、掌を下に向け指先を伸ばし左胸の前に添え、その後、体の向きを更に90度右に向け、左右の手の位置を2回入れ替え、更に体の位置を90度右に向け、もう一度手の位置を入れ替えることで、左右の腕を交互に伸ばしつつターンを行い、このとき、顔と目線は、伸ばした方の腕の先へ向けるようにする、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両腕をゆっくりと下から上へ持ち上げていくことで、「上にあるもの」を表していると主張するところ、この動作は、甲51の他の振付けを始めとして他に例がないものの、luna(高い)の語義に照らせば両手を高く伸ばすのは自然な動作であるし、同様の意味のuka(高地の、乙36)について、本件振付け17(後記カ)に対応する楽曲(Maunaleo)に係る歌詞のうちここと同様の歌詞の「Kohuʻahuʻao no ka uka」の中の「uka」(後記カ(ウ)の②の動作)で、甲46の右上及び右下、乙34の3の振付けも両手を上げる類例があるから、歌詞から想定される動作であると認められる。
 次に、②の動作についてみると、原告は、片腕を上に伸ばしてもう片方の手を目の横に添え、視線を上に向けることで何かを見ていることを表していると主張するところ、nānāと同じく「見る」の意味のikeのハンドモーションが、両手を目にかざし、片方の掌と顔を外側に向けて、もう片方の手を伸ばすものであり(乙3)、甲51の右下の振付けも、片方の手を上に伸ばし、もう片方の手を目の横に添えるという動作は行っていることからすると、②の動作は、これらの「見る」に関する動作を左右の手の位置を入れ替えて行うにすぎず、これが有意な差異とはいえない。
 そして、③の動作は、ここと同様の歌詞の上記(ア)の「Ua lanipili i ka nani o Papakōlea」の中の「Papakōlea」((ア)④の動作)での甲51の右下の振付けと同様であるところ、Kalāwahineも、Papakōleaと同様に地名であることに照らせば、歌詞から想定される動作であると認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ク)He Anianikū me Pūowaina o Papakōlea
a Anianikūは「アニアニクー」という地名、Pūowainaは「プーオワイナ」という地名、Papakōleaは「パパコーレア」という地名であり(弁論の全趣旨)、原告もこれら3つの地名を並記して訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①体を左に向け、両腕は軽く肘を曲げ、掌を下に向け指先を軽く伸ばした状態で、腰の高さほどにやや開き気味で伸ばし、その後、左右の掌を内側に向け合わせ、頭の上の高さまで持ち上げ、顔と目線は両手の方へ向ける、②左腕は掌を内向きに上へ伸ばし、右腕は軽く肘を曲げ、掌を上に向け指先を軽く伸ばした状態で、肩の高さで前へ伸ばし、体の向きを右に90度向けながら、右手の位置を右斜め前まで移動させ、このとき、顔と目線は右手の方へ向け、右手の動きに合わせて左から右へ動かす、③両腕の肘を軽く曲げ、掌を下に向け指先を軽く伸ばし、肩の高さで前へ伸ばし、その状態のまま、伸ばした右手と右腕をゆっくり3回波打たせながら、右に360度ターンし、顔と目線は伸ばした右手の方へ向ける、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、体を横に向けて両足を交互に1歩踏み出しつつ、両腕を斜め下に伸ばした後に上に伸ばす動作により、アニアニクーの場所を表現していると主張するところ、高地にあるAnianikū(地名)という歌詞に関連するmauna(山)に対応するハンドモーション(左斜め前・腰の高さで両手を構え、右斜め上へ手を移動させる。乙5)どおりの動作を横向きで行うものであり、甲51の左下の振付けでも次の③の動作に対応する箇所で体の向きを変えながら同様の動作をしている。
 次に、②の動作についてみると、原告は、正面に向き直りつつ右手を前に伸ばすことでプーオワイナの場所を表現していると主張するところ、Pūowaina(地名)という歌詞に連する「場所」に対応するハンドモーション(乙5)と同様の動作を体の向きを変えながら行うものにすぎず、甲51の左下の振付けでも次の③の動作に対応する箇所で体の向きを変えながら同様の動作をしている。
 続いて、③の動作についてみると、ここと同じ歌詞の上記(ア)の「Ua lanipili i ka nani o Papakōlea」の中の「Papakōlea」((ア)④の動作)に対応する甲51の右下の振付けと、手を伸ばして回るという点である程度似ている。しかし、本件振付け13では伸ばした両手を波打たせながらステップを踏んで回るのに対し、甲51の右下の振付けでは左右の手を交互に伸ばし、その伸ばすタイミングで体の向きを変えて結果的に回っている点で異なっており、これらが組み合わさった違いは体全体の動きとしても異なっている。これに対し、被告は、ターンするのは既存のステップを組み合わせたにすぎないと主張するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①及び②の動作は、原告の個性が表れているとは評価できないが、③の動作は、類例と有意な差異があるから、なお原告の個性が一定程度表れていると評価できる。
(ケ)Ua lanipili i ka nani o Papakōlea、He nani uluwehi ke kui pua melia、間奏
 上記(ア)及び(イ)と同様である。
(コ)Ke aloha i kaʻohu、e Papakōlea
a alohaは「愛情」、ohuは「霧」、Papakōleaは「パパコーレア」(地名)であり(乙33及び36、弁論の全趣旨)、原告は、これを「愛しいパパコーレアの霧」と訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①左腕は、脇を開き、肘を曲げ、掌を下に指先を伸ばした状態で左胸の前に添え、右腕は、脇を開き、肘を曲げ、掌を下に指先を伸ばした状態で、左掌の周りを一周回し、掌を上向きに返し、軽く肘を曲げた状態で右斜め前に伸ばし、このとき、顔と目線は右手の方へ向け、右手の動きに合わせて左から右へ動かす、②両掌を体の方に向け、指を伸ばし、右手を右肩の上、左手を右肩の前に添え、その後、左右対称の動作を行い、両手を左肩に添え、このとき、顔と目線は、手を添える方の肩へ向ける、③体の向きを90度右に向け、左腕は、掌を下に向け、指先を伸ばし、肩の高さで体の左方向へ伸ばし、右腕は脇を開き、肘を曲げ、掌を下に指先を伸ばした状態で右胸の前に添え、その状態のまま、両腕をゆっくり波打たせ、顔と目線は、伸ばした左腕の先へ向け、右に180度ターンし、右腕を、掌を下に向け、指先を伸ばし、肩の高さで体の右方向へ伸ばし、左腕は脇を開き、肘を曲げ、掌を下に指先を伸ばした状態で左胸の前に添え、その状態のまま、両腕をゆっくり波打たせ、顔と目線は、伸ばした右腕の先へ向ける、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、胸の前で両手を回すことで心からの愛情と尊敬の気持ちを表現していると主張しているところ、このような動作は、甲51の左下の振付けと同様である。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を肩のところに添えることで降り注ぐ霧雨が体を美しく装飾している様子を表現していると主張するところ、これは、片方の肩からもう片方の肩へ片手を移動させるというleiに対応するハンドモーション(乙5)を両手で行うのと同様の動作である。そして、本件振付け17(後記カ)に対応する楽曲(Maunaleo)のここと同様の歌詞の「ʻOhuʻohu i ka Mālie」の中の「ʻohuʻohu」(後記カ(チ))に対応する乙34の3の振付けにおいて、レイを首に掛けるというleiに対応するもう一つのハンドモーション(乙4)が行われていることに照らせば、「ʻohu」に対応する振付けとして、leiに対応するハンドモーションを行うこと自体は類例があり、②の動作は、こうした類例を若干アレンジしたにすぎない。
 続いて、③の動作についてみると、原告は、体を横に向けて腕を正面に伸ばすことでパパコーレアの場所を表現していると主張するところ、ここでの歌詞や同様の歌詞の振付けとして甲51の他の振付けを始めとして他に見られず、Papakōleaという歌詞と関連する「場所」に対応するハンドモーション(乙5)とも異なる動作であり、歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもないから、本件振付け13に独自のものであると認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①及び②の動作は、原告の個性が表れているとは評価できず、③の動作は、本件振付け13独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できる。
(サ)ʻO ka noe a ka ua lanipili o Papakōlea
a noeは「霧」、uaは「雨」、lanipiliは「ラニピリ」(地名)、Papakōleaは「パパコーレア」(地名)であり(乙37及び54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「パパコーレアに降るラニピリの霧雨」と訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①右腕は、軽く肘を曲げた状態で、掌を正面に向け指先を伸ばし、頭よりもやや高い位置の右斜め前へ伸ばし、そこから腰の高さほどまで、アルファベットのSを描くように降ろしてきて、その際左腕は、掌を内側に向け、指先を軽く伸ばした状態で下に降ろしておき、顔と目線は、右手の方へ向け、右手の動きに合わせて上から下へ動かし、次に、左右を入れ替え、左腕は、軽く肘を曲げた状態で、掌を正面に向け指先を伸ばし、頭よりもやや高い位置の左斜め前へ伸ばし、そこから腰の高さほどまで、アルファベットのSを描くように降ろしてきて、その際右腕は、掌を内側に向け、指先を軽く伸ばした状態で下に降ろしてきて、顔と目線は、左手の方へ向け、左手の動きに合わせて上から下へ動かす、②両腕の肘を軽く曲げ、掌を下に向け指先を軽く伸ばし、肩の高さで前へ伸ばし、その状態のまま、伸ばした右手と右腕をゆっくり3回波打たせながら、右に360度ターンし、顔と目線は伸ばした右手の方へ向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左右の手を交互に、S字を描きながら上から下に下ろすことで、ラニピリと呼ばれる霧雨が降っている様子を表現していると主張するところ、両手を上げてS字を描くように下ろしていくという「霧」に対応するハンドモーション(乙3)を、片手ずつ行っているといえ、既存のハンドモーションを若干アレンジしたにすぎない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を伸ばして波打たせながらターンすることで、パパコーレアの場所の美しさを表現していると主張するところ、これは、上記(ク)の③の動作と同様の動作であるから、類例と有意な差異がある。これに対し、被告は、Papakōleaの歌詞に関連するaina(大地)に対応するハンドモーションを片手で行ったものであると主張する。しかし、ainaに対応するハンドモーションは、掌を地面に向けて、前から左右に開くというものであり(乙3、4)、②の動作とは異なっているから、被告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、原告の個性が表れているとは評価できず、②の動作は、なお原告の個性が一定程度表れていると評価できる。
(シ)Ua lanipili i ka nani o Papakōlea、He nani uluwehi ke kui puamelia、間奏
 上記(ア)ないし(ウ)と同様である。
(ス)Hū ana ka manaʻo、haʻimanawa
a manaʻo、は「思考」、haʻimanawaは「時を告げる」の意味であり(乙37)、原告は、これを「私の想いを告げます」と意訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①体の向きを右横へ向け、右腕は、軽く肘を曲げた状態で、掌を下向きに指先を伸ばし、体の向きと同じ方向に伸ばし、左腕は脇を開き、掌を下向きに指先を伸ばし、左胸の前に添え、手の形はそのままの状態で、体の向きを正面に戻し、伸ばした右腕を左腕と同じように、脇を開き、掌を下向きに指先を伸ばし、右胸の前に添え、このとき、顔と目線は、右手の方へ向け、右手の動きに合わせて動かし、次に、体の向きを左横へ向け、左腕は、軽く肘を曲げた状態で、掌を下向きに指先を伸ばし、体の向きと同じ方向に伸ばし、右腕は脇を開き、掌を下向きに指先を伸ばし、右胸の前に添え、手の形はそのままに、体の向きを正面に戻し、伸ばした左腕を、脇を開き、掌を外向きに指先を伸ばし、指先を左こめかみ付近に添える、②両掌を体の方へ向け、軽く指を伸ばした状態で口の前に一度添え、左斜め前方向へ肩の高さで、両手の掌を上に向け、両腕をゆっくり伸ばしてゆき、顔と目線は、両手の方へ向ける、③掌を下向きに返し、左斜め方向から右斜め方向へ、体の向きとともに右腕を動かしていき、このとき、顔と目線の向きは、伸ばした右手の方へ向け、右手の動きに合わせて左から右へ動かす、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左右交互に片腕を伸ばし、最後に左手をこめかみの横に添えることで、この楽曲に込められた作曲者の思いを表現していると主張するところ、manaʻo(思考)のハンドモーションは、右の人差し指を立てて額に当てるというものであり(乙3)、指をこめかみ付近に添えている部分だけ取り出せば、甲51の右下の振付けでも同様の動作が行われている。その他の部分は、目の前にいる相手を片手の指先又は掌で指すʻoe(あなた)のハンドモーション(乙3)と、胸の前で掌を自分の方に向けるというau(私)のハンドモーション(乙3)を交互に繰り返すものと思われるが、ここでの歌詞や同様の歌詞の振付けとして甲51の他の振付けを始め他に例がなく、mana’oという歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもないから、これは本件振付け13に独自のものである。
 次に、②の動作についてみると、原告は、口の前から両腕をゆっくり前に伸ばしていくことで、ストーリーを語っている様子を表していると主張するところ、これは、両手を口に添え、正面をゆったりと伸ばすというhaʻina(話す)に対応するハンドモーションと同様の動作である(乙5)。そして、ha’imanawa(時を告げる)の語義に照らせば、haʻiの語義から想定される動作であると認められ、甲51の左下の振付けでも片手で同様の動作をしている。
 続いて、③についてみると、原告は、両腕を伸ばして右腕を左から右にもってくることで、ストーリーがたった今述べられていることを表していると主張するところ、単純な動作ではあるが、ここでの歌詞や同様の歌詞の振付けとして甲51の他の振付けを始めとして他に見られず、歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもないから、これは本件振付け13に独自のものであると認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①③の動作は、本件振付け13に独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できるが、②の動作は、原告の個性が表れているとは評価できない。
(セ)Ha’inaʻia mai o ku’u mele o Papakōlea
a Ha’inaは「話す」、maiは「来る」「いらっしゃい」、ku’uは「私の」、meleは「歌」の意味であり(乙33、37及び54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「パパコーレアへの私の歌」と意訳している。
b 本件振付け13では、大きく分けて、①体を左斜め前に向け、左腕は、掌を内側に向け指を伸ばした状態で上に伸ばし、右腕は、掌を内側に向け指を伸ばした状態で口の前に添え、その後、右手の掌を上向きに、肩の高さで正面に伸ばし、左斜め前から右斜め前へ動かし、このとき、同時に体の向きも左斜め前から右斜め前へ動かす。顔と目線は右手の方へ向け、右手の動きに合わせて左から右へ動かす、②左腕は、脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばした状態で左胸の前に添え、右腕は、上に伸ばして肘を曲げ、掌を下に向け指先を伸ばした状態で、顔の前あたりから頭の上、首の後ろを通り、右胸の前に持ってきて添える)、③両腕の肘を軽く曲げ、掌を下に向け指先を軽く伸ばし、肩の高さで前へ伸ばし、その状態のまま、伸ばした右手と右腕をゆっくり3回波打たせながら、右に360度ターンし、顔と目線は伸ばした右手の方へ向ける、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、手を口の前に添えた後に、腕を前に伸ばして左から右にもってくることで、歌の中で自分のストーリーが述べられていることを表していると主張するところ、甲51の左下の振付けは、左手を上に伸ばし、右手を一旦口に添えた後、正面に伸ばしており、同様の動作をしている。もっとも、甲51の左下の振付けは、体の向きを左斜め前から右斜め前には動かしながら行っていない点で異なるが、本件振付け13も回転角度が大きいわけではないから、若干のアレンジにすぎず、有意な差異ということはできない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、肩からレイを掛ける動作をすることで「これが私のアロハのレイ」であることを表していると主張するところ、この歌詞及び同様の歌詞でleiに対応するハンドモーション(乙4)のような動作をしているものは、甲51の他の振付けを始めとして例がなく、ここの歌詞の語義や曲想からleiに対応するハンドモーションが通常想定されるわけでもないから、本件振付け13に独自のものであると認められる。これに対し、被告は、原告はこの箇所の歌詞を「レイ」と解釈した上で、そのために「lei」という既存の典型的なハンドモーションを当てはめたすぎないところ、解釈は著作権法により保護されないアイデアにすぎないから、その解釈に基づいて上記のハンドモーションを当てはめるだけの振付けに創作性はないと主張する。しかし、この主張が採用できないことは、(1)オで述べたとおりであり、この箇所での振付けに原告の個性が現れていると認められることは、上記のとおりである。
 続いて、③の動作についてみると、原告は、両手を前に伸ばして波立たせながらターンすることで、作曲者の故郷であるパパコーレアへの想い、その場所の美しさを表現していると主張するところ、これは上記(ク)の③の動作と同様の動作であるから、類例と有意な差異がある。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、原告の個性が表現されているとは評価できないが、②の動作は、本件振付け13独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価でき、③の動作は、類例と有意な差異があるから、なお原告の個性が一定程度表れていると評価できる。
(ソ)Ua lanipili i ka nani o Papakōlea、He nan iuluwehi ke kui pua melia、Ua lanipili i ka nani o Papakōlea、He nani uluwehi ke kui pua melia
 上記(ア)及び(イ)と同様である。
(タ)小括
 以上のとおり、本件振付け13には、完全に独自な振付けが少なからず見られる((ア)②、(イ)①、(オ)②、(コ)③、(ス)①③、(セ)②〔及び(カ)、(ケ)、(シ)、(ソ)〕)だけでなく、他の振付けとは有意に異なるアレンジもあり((オ)③、(ク)③、(サ)②、)セ)③)、全体として見た場合に原告の個性が表現されていると十分にいうことができる。
エ 本件振付け15(楽曲:Blossom nani ho'i e)
(ア)He blossom nani ho'i e(前奏前)
a 本件振付け15では、体の向きを正面に向けて立つという動作を行っているところ、歌出しの場面であり、その直後に前奏が続くことに照らせば、歌詞に対応した振付けをまだ開始せず、踊りを開始するまで正面を向いてじっとしているという動作はありふれたものというべきであり、原告も、踊り手が振りを始めるまで待っているところだとしており、乙32の3(甲41の左下。甲41での他の振付けはいずれも乙32にあるから、以下では乙32のみに言及する。)も軽く礼をした後は同様の動作をしている。
b したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(イ)前奏
a 本件振付け15では、右腕の脇を開き、右手の掌を下に向け、指を揃えて伸ばし右胸の前に添え、左腕は軽く肘を曲げ、指を曲げ左の腰の横に添え、次に左右の腕を入れ替え、左腕の脇を開き、左手の掌を下に向け、指を揃えて伸ばし左胸の前に添え、右腕は軽く肘を曲げ、指を曲げ右の腰の横に添える、という動作を行っている。このような動作は、乙32の1の振付けの動作と同様である。
b したがって、ここの前奏に対応する振付けは、類例があるから、原告の個性が表現されているとは評価できない。
(ウ)Ka'ala、ka mauna Ku kilakila
a Ka'ala、kamaunaは「カアラ山」(山の名)、kilakilaは「荘厳な」、「雄大な」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「カアラ山堂々とそびえている」と意訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①体の向きを右横へ向け、左腕をまっすぐ上へ伸ばし、左手の掌を正面に向けて指先を揃えて伸ばし、右腕は、脇を開き、肘を曲げ、右手の掌を正面に向けて指先を伸ばし、顔の右側に添え、顔と目線は、上に伸ばした左手の方へ向け、ステップは右足左足を交互に2歩ずつ後ろへ踏み、その後、右回りにターンし、体の向きを左横へ向け、右腕をまっすぐ上へ伸ばし、右手の掌を正面に向けて指先を揃えて伸ばし、左腕は、脇を開き、肘を曲げ、左手の掌を正面に向けて指先を伸ばし、顔の左側に添える、②右腕は同じ状態のまま、左腕を、脇を広げて肘を曲げ、体の前で地面と水平にし、左手の掌を下に向け指を揃えて伸ばし左胸の前に添え、続いて、左腕をまっすぐ上へ伸ばし、左手の掌を正面に向けて指先を揃えて伸ばし、右腕を、脇を広げて肘を曲げ、体の前で地面と水平にし、右手の掌を下に向け指を揃えて伸ばし右胸の前に添えることで、直前の動作から左右の腕を入れ替える、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作は、原告は、踊り手が左手を高くかかげ、その方向へと顔と目線を向けることでカアラ山を表していると主張するところ、この動作は、両手をかかげるというmaunaに対応するハンドモーション(乙4)をターンをしながら行うものである。そして、甲41の他の振付けを始めとして他の振付けは、maunaに対応するハンドモーションをターンをしながら行うわけではないが、速いテンポの楽曲に合わせてステップを踏み、体の動きも大きいことから、ここでのターンの有無が、受ける印象に有意な差異をもたらしているとは認められない。これに対し、原告は、他の振付けと異なることを強調するが、この点をもって有意な差異といえないことは上記のとおりである。
 次に、②の動作についてみると、原告は、腕をまっすぐ上に伸ばすことで、カアラ山がとても高くそびえ立つ山であることを表していると主張するところ、kilakilaに対応するハンドモーションは、片方の手を上に伸ばし、もう片方の手の肘を曲げるというものである(乙26)ことに照らせば、これを2回行っているにすぎないと認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(エ)Ua noho i ka malu i ka uluwehiwehi
a Uaは「雨」、nohoは「住む」、「滞在する」、maluは「陰に」、uluwehiwehiは「青々とした(水々しく生い茂った)」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「青々とした緑の陰に咲く」と意訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①右腕は直前の動作と同じ状態のまま、顔と視線をやや右斜め下へ向けつつ、左腕を上に伸ばし、肘を軽く曲げ、左手の掌を下に向け頭の上に添える、②体を左横に向けて、両腕を体の外から正面へ向かって同時に動かし、体の正面(胸の前あたり)で両手の掌を返して上に向けつつ、大きく水をすくう様な動きを1回行い、その後、体の向きを正面に戻しつつ、両腕を同時に持ち上げ、体が正面を向いた後に、両腕の肘を軽く曲げ、頭の上で物を持つような様な動きで、両手の掌を内側に向けて頭の高さまで持ち上げる、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左手を頭の上にかかげることで、木陰に入っていることを表していると主張するところ、乙32の1の振付けも体を揺らした後に、顔は正面を向けたまま同様の動作を行っている。そして、その動作の長短や顔の向きの違いは、細部の違いにすぎず、有意な差異を生じさせるものであるとは認められない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両腕を使って胸の辺りと頭の上で生い茂る木を表すことで、高く生い茂った森を表現していると主張するところ、両手で水をすくうような動作をする点は乙32の3及び4の振付けも同様の動作をしており、この後に両腕を同時に持ち上げる点も乙32の4が同様の動作をしている。後者については体の向きを変えながら行う点が異なるが、この箇所では、乙32の他の振付けも速いテンポの楽曲に合わせてステップを踏み、体の動きも大きいことから、ここでの体の向きの変化は類例と基礎を同じくする中で若干の変化を施したものにすぎず、有意な差異があるとはいえない。これに対し、原告は、他の振付けと異なることを強調するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(オ)He blossom nani ho'i e
a Blossomは「花」(英語)、naniは「美しい」、ho'iは「来てください」、「いらっしゃい」の意味であり(乙3、54)、原告は、これを「ブロッサム(花)の美しさが蘇る」と意訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①体の向きを右横に向け、右腕は後方へまっすぐ伸ばし、右手の指先をすぼめて上を向けながら、体の向きを左横に向けつつ、右腕を正面(体が左横を向いた状態で体の右の方向)へまっすぐ伸ばし、左腕は、脇を開いて肘を曲げ、左手の掌を上に向け指を伸ばし左胸の前に添える、②同じ体の向きと両腕の状態のまま、一度シェイク(招くように両手、両腕を一度波打たせる)した後、体の向きを正面へ向けつつ、両腕の脇を開いて肘を曲げ、両手の掌を自分の方に向け指を伸ばし、胸の前(右手の掌を右胸の前、左手の掌を左胸の前)に添える、という2つのパートからなる動作をしている。
 原告は、これらの振付けについて、花を右手で表現し、その花を後ろから前に、そして、「ポリ(精神的な意味での胸)」や胸の前に持ってくることで、祖母から聞かされた祖母自身の美しい思い出が永遠に生き続けていることを表していると主張する。
 まず、①の動作についてみると、指先をすぼめて上に向けるのはpua(花)のハンドモーションである(乙4)ところ、①の動作はこれを体の向きを変えつつ左右を入れ替えて行うものであるが、このような動作は、本件振付け16(後記オ)に対応する楽曲(Māpu Mau Ke’Ala)の同様の歌詞の「Ka pua'Awapuhi'auli'i」の「Kapua」(後記オ(キ)の①の動作)に対応する甲33の左下の振付けが同様の動作を行っている。そして、blossomの意味がpuaと同義であることに照らせば、①の動作は、歌詞から想定される類例のある動作であると認められる。
 次に、②の動作についてみると、両手で手招きをする点は、手の平を上向きにして、両手で手招きをするというho'i(来てください)に対応するハンドモーションどおりであり(乙3ないし5)、両手を胸の前に添える点は、au(私)のハンドモーションであるが、ho'iが「来てください」等の意味であることからすると、その行き先である「私」のハンドモーションをするのは歌詞と関連性がないわけではなく、乙32の4の振付けも同様の動作をしている。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(カ)Ho'olana i ka malie
a Ho'olanaは「浮かんでいる」、「漂っている」、malieは「静けさ」の意味であり(弁論の全趣旨)、原告は、これを「静けさの中に漂っている」と意訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①両腕の脇を開いて肘を曲げた状態のまま、両手の掌を内側に向けて指先を伸ばし、微笑んだ顔の両頬に添え、両手の掌を正面向きに返す、②両腕を、体の正面で腰の前あたりまで下にまっすぐ伸ばし、両手の掌を下に向け指先を伸ばし、その後、両腕を同じ状態のまま、左回りに360度ターンする、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告はこれによりブロッサムが皆に愛されており、幸せであることを表していると主張するところ、この動作は、歌詞からは導かれないpāpālina(笑う)のハンドモーションと同じ動作である(乙3)。したがって、この動作は歌詞から想定されるハンドモーションとはいえず、また、甲41の他の振付けを始めとして同様の歌詞について他に同様の例が見られないから、本件振付け15に独自のものであると認められる。これに対し、被告は、原告はこの箇所の歌詞を「幸せ」と解釈した上で、そのために「笑い」という既存の典型的なハンドモーションを当てはめたすぎないところ、解釈は著作権法により保護されないアイデアにすぎないから、その解釈に基づいて上記のハンドモーションを当てはめるだけの振付けに創作性はないと主張する。しかし、上記(1)オで述べたとおり、この被告の主張は採用できない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両腕を下に伸ばしてターンすることで、ブロッサム(花)が静けさの中にいることを表現していると主張する。ところで、malieのハンドモーションは、両手を下に広げるというものであり(乙26)、乙32の1及び3の振付けにも見られるものであるから、②の動作はこれをターンしながら行う点が異なるにすぎない。しかし、malieの意味が「静けさ」であることからすると、ターンのような大きな動作をすることは歌詞から想定し得ない動作であり、乙32の他の振付けでもせいぜい体の向きを変えるにとどまっていることからすると、この箇所でターンをすることは有意な差異と認められる。また、本件振付け15では、①の動作を行った後に、それとは別の②の動作を行っている一方、乙32の1及び3の振付けでは、継続して両手を下に伸ばすmalieの動作を行っており、このような動作の変化も併せ見ると、本件振付け15は、他の振付けとは有意な差異が生じているというべきである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、本件振付け15独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できる。
(キ)間奏
 上記(イ)と同様である。
(ク)Ka'ala、ka mauna Ku kilakila、Ua noho i ka malu i ka uluwehiwehi、He blossom nani ho'i e、Ho'olana i ka malie
 上記(ウ)ないし(カ)と同様である。
(ケ)間奏
a 本件振付け15では、体を正面に向け、右手の掌を下にして指先を伸ばし、右腕を右へ伸ばし、左腕は、脇を開いて肘を曲げ、左手の掌を下にして指先を伸ばし、左胸の前に添え、その両腕の状態のまま、両手の掌を一度シェイク(波打たせる)した後、左腕は同じ状態のまま、右腕の脇を開いて肘を曲げ、右手を右胸の前に添え、その時、胸の前で、両手の掌を同時に握り、ひもを結ぶような動作で、体の外側(左右)へ向かって一度引っ張り、続いて、左手の掌を下にして指先を伸ばし、左腕を左へ伸ばし、右腕は、脇を開いて肘を曲げ、右手の掌を下にして指先を伸ばし、右胸の前に添え、右腕は同じ状態のまま、左腕の脇を開いて肘を曲げ、左手を左胸の前に添え、その時、胸の前で、両手の掌を同時に握り、ひもを結ぶような動作で、体の外側(左右)へ向かって一度引っ張る、という動作を行っている。
 この動作は、間奏のハンドモーション(乙5)と同様のものであり、乙32の他の振付けとも同様である。しかし、ひもを結ぶような動作で両肘を外側に張り出すことは、間奏として他の楽曲も含めて見られない動作であり、上記の間奏のハンドモーションが優雅で静的な印象の動作である中で、その合間に一瞬のことではあるが上記のような小気味好い動的な動作を挿入することは、受ける印象に有意な差異を生じさせていることは否定できない。これに対し、被告は、両肘を外側に張り出すことは、lino(結ぶ)の既存のハンドモーションどおりである(乙4)と主張するが、そのようなハンドモーションを間奏の場面で行うこと自体に他の類例に見られない有意な差異があるから、被告の主張は採用できない。
b したがって、ここの間奏に対応する振付けは、類例に有意なアレンジを加えたものであるから、原告の個性が表れていると評価できる。
(コ)Wahiawa、e'ike'ia Leilehua
a Wahiawaは「ワヒアヴァ」(地名)、ikeは「見る」、Leilehuaは「レイレフア」(地名)の意味であり(弁論の全趣旨、乙54)、原告は、これを「ワヒアヴァのレイエフアを見て」と訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①左手の掌を上に向け指先を伸ばし、左腕を左斜め前にまっすぐ伸ばし、同時に、右手の掌を下に向け指先を伸ばし、右手を左斜め前にまっすぐ伸ばして、右手の掌を左手の掌の上に添え、その後、左腕は同じ状態のまま左手の指をやや上に向けて伸ばしつつ、右手の掌を内側に向け、右腕を伸ばしたまま真上へまっすぐ持ち上げる、②左腕は左斜め前へまっすぐ伸ばした状態のまま、左手の掌を下に向け、同時に、右腕の肘を曲げて右手を下し、右手の掌の指先を伸ばし下に向け、右目の横に添え、その後、右腕を右斜め前に伸ばしつつ、指先を伸ばして右手の掌を下に向け、左腕は、脇を開いて肘を曲げ、左手の掌の指先を伸ばし下に向けて左目の横に添える、③左手の掌を正面に向け指を伸ばし揃え、左腕を正面斜め上にまっすぐ伸ばし、右手は、右掌を正面に向け指を伸ばし揃え、右腕は、脇を開けずに肘を曲げて、右手の掌を左手の掌の右下に添える。両腕、両手ともに同じ状態のまま、左回りに360度ターンする、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告はこれによりワヒビヴァの地が持つ美しさや広がりを表現していると主張するところ、片方の手を上に伸ばし、もう片方の手を前に伸ばすという「場所」に対応するハンドモーションどおりであり(乙5)、Wahiawaが地名であることに照らせば、歌詞から想定される動作であると認められる。
 次に、②の動作についてみると、原告はこれによりワヒビヴァのレイレフアを見ていることを表現していると主張するところ、片手を目の近くに添えるというikeに対応するハンドモーション(乙4)を左右交互に行っているにすぎないと認められる。
 続いて、③の動作についてみると、原告はこれによりレイレフアの地の広がりを表現していると主張するところ、手を上にかかげるというmauna(山)に対応するハンドモーション(乙4)をターンしながら行うというものである。そして、甲41の他の振付けを始めとして他の振付けは、maunaに対応するハンドモーションをターンをしながら行うわけではないが、速いテンポの楽曲に合わせてステップを踏み、体の動きも大きいことから、ターンの有無が有意な差異を生じさせるとは認められない。これに対し、原告は、ターンの有無を強調するが、この箇所ではこれにより受ける印象に有意な差異が生じていない以上、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(サ)I wili'ia me ka lei kaulana
a wiliは、辞書的には「(ねじ、時計などを)巻く、ねじる」の意味であるが、ここでは「結ぶ、編む」の意味であり、leiは「(頭や首につけられる)花輪」、「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」の意味であり(乙33、弁論の全趣旨)、原告は、これを「有名なレイのようにともに結ばれている」と意訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①直前の動作の両腕の状態のまま、両腕の肘を曲げ、両手の掌の指先を伸ばし内側を向けて、顔の前と頭の上で両手を2回交差させながら、両手を顔の前から頭の上まで運び、両腕をまっすぐ上に伸ばす、②両腕を頭の上へまっすぐ伸ばしたまま、両手の掌の指先を合わせ、その後、脇を開いたまま両腕の肘を曲げて、両手を頭の後ろへ同時に下ろしていき、そのままの流れで、頭の後ろから両手を両肩の前に通しつつ、両腕を同時にさらに下に降ろし、両腕の脇を開き、肘を曲げた状態で、両手の掌を下に向け指先を伸ばして、胸の前(右手は右胸の前、左手は左胸の前)で指先を揃える、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらの振付けについて、原告は、両手を交差させながら上に伸ばしていき、頭の後ろから肩の前を通って下ろしてくることで、ワヒアヴァとレイレフアがどちらも有名な場所であり、それらの思い出がレイのように結びつけられていることを表していると主張する。しかし、まず、①の動作についてみると、乙32の4の振付けも胸の前で両手を交差させている点は同様であり、その手を上に伸ばすか否かの違いが有意な差異を生じさせるものとはいえない。これに対し、原告は、交差させる手の伸ばし方の違いを強調するが、上記に照らして採用できない。
 また、②の動作についてみると、レイを首に掛けるしぐさをするleiのハンドモーション(乙4)を両手で行うものであり、乙32の3の振付けと同様である。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表現されているとは評価できない。
(シ)He blossom neni ho'i e、Ho'olana i ka malie、間奏
 上記(オ)ないし(キ)と同様である。
(ス)Wahiawa、e'ike'ia Leilehua、I wili'ia me ka lei kaulana、Heblossom neni ho'i e、Ho'olana i ka malie、間奏
 上記(コ)及び(サ)、(オ)及び(カ)並びに(ケ)と同様である。
(セ)Pu'uloa o ka i'a hamau leo
a Pu'uloaは「プウロア」(地名。パールハーバーの古い呼び名)、okai'ahamauleoは「静かな魚」の意味であり(弁論の全趣旨)、原告は、これを「プウロア静かな魚」と訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①体の向きをやや右斜め前に向け、左手の掌の指先を伸ばし下に向け、左腕を左斜め前にまっすぐ伸ばし、同時に、右手の掌の指先を伸ばし下に向け、右腕を、左腕に添えるように左斜め前にまっすぐ伸ばし、続いて、体を右斜め前に向けたまま、右腕を、脇を開けたまま肘を曲げて、胸の前をなぞるように後ろに動かし、体の右側(右斜め後ろへ)まっすぐ伸ばし、このとき、右手は、掌の指先を伸ばして下に向けたままとし、顔と目線の向きは右手を見るように正面から後方へ動かす、②体の向きと右腕は同じ状態のまま、顔と目線の向きを左手へ向け、左腕を伸ばした状態のままで、左腕の掌を下から上へ1回大きくシェイク(波打たせる)させる、③体の向きと右腕はさらに同じ状態のまま、左腕は、脇を開いて肘を曲げ、左手の人差し指を立て口の前に添え、再び左斜め前へ左腕をまっすぐ伸ばし、左腕を伸ばすと同時に、右腕は、脇を開いて肘を曲げ、指先を伸ばし右手の掌を下に向け、右手を口の右横に添える、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、右腕を前から後ろに動かしてまっすぐ伸ばすことで、プウロアの地の広がりを表現していると主張するところ、この動作は、この箇所での乙32の他の振付けを始めとして類似の歌詞の振付けについても他に見当たらず、Pu'uloa(地名)の歌詞に関連する「場所」に対応するハンドモーションとも異なる動作であり、Pu'uloaの語義や曲想から通常想定される動作でもない。したがって、これは本件振付け15に独自のものであると認められる。これに対し、被告は、乙32の1の振付けと同様のものであると主張するが、左手を前に出して右手を前から後ろに動かす本件振付け15と、両手を開いては下ろすという動作を繰り返す乙32の1の振付けとではその動作に明らかな違いがあるから、被告の主張は採用できない。
 次に、②の動作についてみると、これについてもこの箇所での乙32の他の振付けを始めとして類似の歌詞の振付けについても他に見当たらず、歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもない。したがって、これは本件振付け15に独自のものであると認められる。
 続いて、③の動作についてみると、原告は、立たせた人差し指を口に当てることで静けさを表すとともに、プウロアの地が平和で穏やかなことを表し、口に添えた手を前へ動かすことには、「呼んでいること」又は「話し声」を意味しており、この一連の振付けでプウロアが静かな場所であることを表現していると主張するところ、乙32の1、4及び5の振付けでは、いずれも立たせた人差し指を口に当てる動作をしており、これはフラダンスに限らず一般に「静かに」を示す動作でもあり、また、乙32の1の振付けでは口に添えた手を前に動かす動作もしている。③の動作は、これらの動作を左右の手を入れ替えて行う点や、口に添えない方を手の位置において異なるが、これらの違いは乙32のその他の振付けにも見られる動作を基礎として若干のアレンジを施したにすぎず有意な差異を生じさせるものではないというべきである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①及び②の動作は、原告の個性が表現されていると評価できるが、③の動作は、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ソ)A me ka momi a ho'ohenoheno
a momiは「真珠」、ho'ohenohenoは「かわいがる」、「愛する」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「大切にされている真珠」と訳している。
b 本件振付け15では、体の向きを左斜め前に向けつつ、脇を閉じて両腕の肘を同時に曲げ、両手の掌を内側に向け指を伸ばした状態で、胸の前で交差させ、両腕の肘を曲げたまま両手で腕をさするように、両手をシェイク(上下に波打たせる)しながら、右手で左上腕部を、左手で右上腕部を同時になでおろし、直前の動作から流れるように、体の向きを右斜め前に向け、両手の掌を内側に向けて、両腕の肘を曲げて胸の前で交差した状態から、両手で腕をさするように、両手をシェイク(上下に波打たせる)しながら、右手で左上腕部を、左手で右上腕部を同時になであげてからなでおろす、という動作をしている。
 ここでの動作について、原告は、「真珠」を意味するmomiがblossom(花)の比喩として用いられており、両手を胸の前で交差させることで、花への大きな愛とその愛が永遠に大切に抱かれていることを表していると主張する。しかし、両手を胸の前で交差させるのは、ho'ohenohenoと同様に「愛」の意味を有するalohaのハンドモーションであり(乙4)、乙32の3の振付けも同様の動作をしている。ここでの動作は、この動作を左右の体の向きを入れ替えて2回行う点が異なるが、このような違いは歌詞の語義や乙32の3に見られる動作の軽微なバリエーションの範囲内で、有意な差異を生じさせるものではないというべきである。これに対し、原告は、体の向きの違いを強調するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(タ)He blossom neni ho'i e、Ho'olana i ka malie、間奏
 上記(オ)ないし(キ)と同様である。
(チ)Pu'uloa o kai'a hamau leo、A me ka momi a ho'ohenoheno、He blossom neni ho'i e、Ho'olana i ka malie、間奏
 上記(セ)及び(ソ)、(オ)及び(カ)並びに(ケ)と同様である。
(ツ)Ha'ina mai ana ka puana
a Ha'ina mai ana ka puanaは、「簡単な折り返し句を告げる」という意味である(乙33)が、原告の訳のとおり「話を終わります」と意訳されると認められる(弁論の全趣旨)。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①左手の掌を内側に向け指先を伸ばし揃えた状態で、左腕を真上にまっすぐ伸ばし、右腕は、脇を開いて肘を曲げ、右手の掌を下に向け指先を伸ばした状態で一度口の前に添えた後、右手を一度波打たせながら右腕を右斜め前へまっすぐ伸ばす、②右手の掌を内側に向け指先を伸ばし揃えた状態で、右腕を真上にまっすぐ伸ばし、左腕は、脇を開いて肘を曲げ、左手の掌を下に向け指先を伸ばした状態で一度口の前に添えた後、左手を一度波打たせながら左腕を左斜め前へまっすぐ伸ばす、③両腕を、やや脇を開けて肘を曲げて、ともに指先を伸ばして掌を内側に向けつつ、両手を同時に胸の前に持ってきて、両手の掌を内側に向け、両手の先を一度口に当てた後、両手の掌を上に向け指を揃え伸ばし、両腕を揃えてまっすぐ前へ伸ばして、前に伸びきってから両腕を左右に開き、体の斜め前まで動かす、という3つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、片方の腕をまっすぐ上に伸ばし、もう片方の手・腕を口元から前に伸ばしていくことにより、blossom(花)の思い出の美しさにまつわる物語を表していると主張する。しかし、③の動作のように両手を口元に添え、正面にゆったりと伸ばすのは、Ha'inaやpuanaのハンドモーションであるところ(乙5)、①及び②の動作はこれを左右の片手で交互に行うものであるが、このような①ないし③の動作は、乙32の1の振付けと同じであり、他の振付けでも上記のHa'inaやpuanaのハンドモーションと同様の動作をしている。①ないし③の動作は、乙32の1の振付けと体の向きが異なるが、類例と基礎を同じくしつつ若干の変化を施したものにすぎず、有意な差異を生じさせるものではないというべきである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(テ)I wili'ia me ka lei kaulana、He blossom nani ho'i e、Ho'olana i ka malie、間奏
 上記(ソ)並びに(オ)ないし(キ)と同様である。
(ト)Ha'ina mai ana ka puana、I wili'ia me ka lei kaulana、Heblossom nani ho'i e、Ho'olana i ka malie
 上記(ツ)、(ソ)並びに(オ)及び(キ)と同様である。
(ナ)Ka pua`ala onaona
a puaは「花」、`alaは「香気」、onaonaは「ここち良い香気」の意味であり(乙54)、原告は、これを「花の香りが漂っている」と意訳している。
b 本件振付け15では、大きく分けて、①体の向きを右横に向け、右腕を後方へまっすぐ伸ばした後、右手の指先をすぼめ上を向けながら、体の向きをやや右斜め前まで戻しつつ、体の右側を回すように右腕を右斜め前へまっすぐ伸ばし、このとき、左腕は、脇をいて肘を曲げ、左手の掌を上に向け指を伸ばし、左胸の前に添え、また、顔と目線の向きは、右手を見るように動かす、②直前の動作と体の向き、右腕が同じ状態のまま、左腕を、左手の指先を揃え下に向けた状態で、右斜め前へまっすぐ伸ばし、右手のすぼめた指先部分に一度触れた後、脇を開けたまま左腕の肘を曲げて、左手が鼻の前を通って右斜め前から左斜め前に動かし、左腕を左斜め前へまっすぐ伸ばす、という2つのパートからなる動作を行っている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、指先をすぼめた右手を後ろから前に持ってくることで、blossom(花)を表現していると主張するところ、この動作は上記(オ)(He blossom nani ho'i e)の①の動作と同様のものであるから、そこで述べたのと同様に、歌詞から想定される類例のある動作であると認められる。
 次に、②の動作についてみると、原告は、指先をすぼめた右手の先に左手で触れ、その左手を鼻の前を通って右から左へ動かすことで、blossom(花)の甘い香りがほのかに漂っていること、その香りを吸い込むことでblossom(花)のことを思い出すことを表していると主張するところ、この動作は本件振付け16に対応する楽曲である「Māpu Ma uKe’Ala」(後記オ)に係る同様の歌詞の「He'ala onaona kūpaoa」の「onaona(ここち良い香気)」(後記オ(イ)の②の動作)と同様のものであるから、そこで述べるのと同様、歌詞から想定される類例のある動作であると認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ニ)終奏
a 本件振付け15では、大きく分けて、①体を正面に向け、右手の掌を下にして指先を伸ばし、右腕を右へ伸ばし、左腕は、脇を開いて肘を曲げ、左手の掌を下にして指先を伸ばし、左胸の前に添え、その両腕の状態のまま、両手の掌を一度シェイク(波打たせる)した後、左腕は同じ状態のまま、右腕の脇を開いて肘を曲げ、右手を右胸の前に添え、その時、胸の前で、両手の掌を同時に握り、ひもを結ぶような動作で、体の外側(左右)へ向かって一度引っ張る、②左足をやや大きく一歩左斜め後ろに引き、体を左斜め前に向け、右腕を伸ばし、右手の指先を伸ばした状態で、体の右側で右回りの大きな円を描くように右手を動かし、その流れで右腕を真上へまっすぐ伸ばした後、右手の掌を上に向け、右腕を上から下ろしてやや右斜め前(体が左斜め前を向いた状態で体の右側)へ伸ばし、このとき、顔と目線の向きを右手に向け、右手で描かれた円に合わせて動かし、左腕は体に沿うようにまっすぐ下へ降ろす、という2つのパートからなる動作を行う。
 まず、①の動作についてみると、上記(ケ)の間奏と同様の動作であるから、類例に有意なアレンジを加えたものである。
 次に、②の動作についてみると、甲41の他の振付けを始めとして他に例がないものの、フラダンスに限らず舞踊の最後に観衆に挨拶する場面で一般的に見られるものであるから、曲想から想定される動作であると認められる。
b したがって、ここの終奏に対応する振付けのうち、①の動作は原告の個性が表れていると評価できるが、②の動作は原告の個性が表れているとは評価できない。
(ヌ)小括
 以上のとおり、本件振付け15には、完全に独自な振付けが見られる((カ)①、(セ)①②〔及び(ク)、(シ)、(ス)、(タ)、(チ)、(テ)〕)だけでなく、他の振付けとは有意な差異を生じさせる振付けも存在しており((カ)②、(ケ)、(ニ)①〔及び(ク)、(シ)、(ス)、(タ)、(チ)、(テ)〕)、全体として見た場合に原告の個性が表現されており、全体としての著作物性を認めるのが相当である。
オ 本件振付け16(楽曲:Māpu mau ke'ala)
(ア)前奏
a 本件振付け16では、右手は掌を下に向けて軽く肘を曲げ、胸の高さで体の正面へ伸ばし軽く揺らす。この際、左手はスカートの裾を握り腰の横に置き、左手の掌を下に向けて軽く肘を曲げ、胸の高さで体の正面へ伸ばし軽く揺らし、この際、右手はスカートの裾を握り腰の横に置く。
 このような動作は、本件振付け11(上記イ)に対応する楽曲(Lei Ho’oheno)の前奏(上記イ(ア))に対応する甲26の右下の振付けと同様のものである。
b したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(イ)He'ala onaona kūpaoa
a 'alaは「かおりのよい」、onaonaは「ここち良い香気」の意味であり、kūpaoaは「(ジャスミンのような)強い充満する香気」の意味であり(乙54)、原告は、これを「強く甘い香りが」と訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①両手の掌を体の内側に向け、両脇を開いてやや右手が左手の上になるように鼻の前に置き、その後両手を右斜め前に伸ばす、②次に、両手を伸ばしたところで、右手の掌を上に向け、指をすぼめ指先を上に向け、次に左手の掌を下に向け、鼻の前を通りながら左斜め前へ伸ばしていき、左手を伸ばしたところで掌を上に向ける、③次に、両手の掌を下へ向けて、両腕を左右に軽く伸ばし、左右から胸の高さで同時に正面へ伸ばす。正面に伸ばしたところで肘を曲げていき、鼻の前で両手を一度交差させ、さらに両腕を左右に開いてから同時に上に伸ばす、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を鼻のところから前に向かって動かす動作は、男性が運転中に窓から吹いてくる風に運ばれてきたジンジャーの香りをかいでいるところを表していると主張しているところ、onaona(ここち良い香気)のハンドモーションが両手を鼻の前に置くものであること(乙4、26)からすると、一般に「香り」との意味を有する歌詞について、両手を鼻の前に置く動作は歌詞の語義から想定されるものである。また、甲33の右上の振付けでも両手を鼻の前に置いた後に両手を前方に伸ばし広げる同様の動作をしている例がある。
 次に、②の動作について見ると、原告は、手を右側に向けて伸ばす際に、初めに右手で左手の先に触れることで、ジンジャーの花の香りが車の中全体を漂い続けることを表していると主張するところ、「香り」の意味の歌詞について片手で鼻を触る動作をすることは、この歌詞の甲33の他の振付けでも見られ、特に甲33の左下の冒頭部分のHe'alaに対応する振付けは、初めに右手で左手の先に触れる点も含めて②の動作と同様である。
 また、③の動作についてみると、原告は、腕を45度の角度で伸ばす一連の動作は、ジンジャーの花の香りがとても強く、徐々に車の中全体に香りが満ちていく様子等を表していると主張するところ、両手を正面に伸ばした状態から同時に上に伸ばすという動作は、甲33の左下の振付けでも同様の動作をしている。ここでの③の動作は、その途中に鼻の前で両手を一度交差させる点が異なるが、鼻を意識した動作を加えることは「香り」の意味を有する歌詞から想定される範囲内のことである。これに対し、原告は、鼻に置いたり、伸ばしたりする手が片手ではなく、両手である点に独自性がある旨主張するが、そもそも両手を鼻の前に置く動作は「香り」の意味持つonaonaのハンドモーションなのであるから、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ウ)e moani mai nei
a moaniは「(通常、香りを運んでくる)そよ風又は穏やかな風」、maiは「来る」、「いらっしゃい」、neiは「風のそよぎ」の意味であり(乙33及び54)、原告は、これを「こちらへ吹いてくる」と訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①上に伸ばした両腕の肘を曲げて頭上で一度交差させ、②腕を曲げたままの状態で、両手の指先を伸ばして掌を内側に向け、顔の前に持っていき、③その後、掌を上に向け両腕を正面に伸ばしていく、という3つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、①②の動作は、ジンジャーの香りがどのくらい強く車の中を満たしていて、彼がその素晴らしい香りを単に楽しんでいるかを表しており、③の動作は、次の歌詞に対応する動作を続く準備をしていると主張するところ、甲33の左下の振付けでも、①と同様の動作の次に、②とやや異なり両腕を胸の前に持って行き、その後③と同様に両腕を正面に伸ばす動作をしている。このような甲33の左下の振付けと上記①②③の振付けでは、②の部分において、両腕を持って行くのが顔の前か胸の前かという違いがあるが、手の位置が若干異なるにすぎない上、ここでの歌詞の語義からは香りを連想させる②の動作を想定できる。
 これに対し、原告は、①の動作の際に両腕を交差させる点、②の動作を正面を向いたまま行う点に独自性がある旨主張する。しかし、甲33の左下の振付けも小さいながら両腕を交差していると認められる。また、正面を向くのは最も基本的な姿勢であるから、それをもって原告の独自性と評価することはできない
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(エ)E kono mai ana ia‘u、e
a konoは「招く」、maiは「来る」、「いらっしゃい」、ia‘uは「私を」の意味であり(乙33及び54)、原告は、これを「まるで私を招いているように」と訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①体の向きを右斜め前に向け、右腕の肘を曲げて右手は胸の高さで体の横に添え、左腕を前に伸ばし、両手の掌を上向きにし、一度揺らした後、両肘を曲げ、両掌を内側に向けて胸の前まで引き寄せつつ、体の向きを正面に戻し、以上の動作を、左右を逆にして一回ずつ行う、②次に、両脇を開き、両掌を内側に向けて指先を伸ばし胸の前に添え、掌を上に向けた状態で両腕を同時に体の正面にまっすぐ伸ばし、両腕を伸ばした後、両肘を曲げて、両掌を内側に向けて指先を伸ばし胸の前に添えた状態に戻し、この際、顔や目線の向きは両手の指先を追うように動かし、以上の動作を二回繰り返す、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、繰り返し招き入れる動作をすることで、「私の元に来て。私の近くにあなたを招きます。」という意味を表していると主張するところ、mai(来る、いらっしゃい)のハンドモーションは、両手の掌を上に向け、片方の手を胸の前に構え、もう片方の手を斜め前に伸ばし、誘い込むように手首からふわっと引き寄せて、胸の前に両手の掌をかざすというものである(乙5)。そして、甲33の左下の振付けは前半部分で斜めから正面を向いた姿勢で、甲33の右下の振付けは後半部分で正面を向いた姿勢でこの動作をしており、①の動作は、この動作を前半は斜め向きの姿勢で、後半は正面を向いた姿勢でこれを行うものであり、上記のハンドモーションを基礎として若干の変化を施したものにすぎない。これに対し、原告は、①の動作の合間に両手を胸の前に置く点や、①の動作をターンすることなく行う点に独自性がある旨主張するが、上記に照らして採用できない。
 また、②の動作についてみると、原告は、手を前に伸ばしてから胸元に持ってくる動作を繰り返すことで、「香りが私を近くに呼び寄せる」等を表していると主張するところ、ia‘u(私を)と同様の意味を有するau(私)のハンドモーションが、胸の前で掌を自分の方に向けるというものであること(乙3)に照らせば、歌詞から想定される動作であり、甲33の右下の振付けもほぼ同様の動作をしている。これに対し、原告は、②の動作を両腕を胸の前に置いた状態から開始する点や、両腕を正面にまっすぐ伸ばす点、同じ動作を2回繰り返す点に独自性がある旨主張するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(オ)'Auhea‘oe、e ku'u nani
a 'Auheaは「どこに」、‘oeは「あなた」、ku'uは「私の」、naniは「美しい」の意味であり(乙54)、原告は、これを「あなたはどこにいるの私の美しい人」と訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①両手は、脇を開いた状態で胸の前から前方へ伸ばしながら、両掌を上向きにして胸の前で交差させた後、両腕を左右斜め前方向へ開くように伸ばす、②次に、左手の指先を上に伸ばした状態で左腕を真っ直ぐ上へ伸ばし、右腕を軽く曲げた状態で右手を腰のあたりに添え、その後、同じ右腕の状態のまま、伸ばした左手の掌を2回揺らしながら左腕をまっすぐ下へ降ろしていき、この際、顔や目線の向きは、左手の指先を追うように動かす、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を胸元で交差させた後、前方から外側へ両腕を伸ばす動作をすることで、「あなたはどこにいるの?香りはかぐことができるけど見ることはできない」という、何か又は誰かを探している様子を表していると主張するところ、この動作は、甲35の他の振付けには見られないが、楽曲「My Sweet Pikake Lei」(乙27)に係る歌詞のうち「Auhea」に対応する振付けである乙28の振付け、楽曲「Mele of mythical goddess」に係る歌詞のうち「Auhea」に対応する振付けである乙30の振付けに同様のものがあるから、①の動作は、「Auhea」に対応する振付けとして類例がある。これに対し、原告は、①の動作の類例がないかのように主張するが、上記のとおり採用できない
 次に、②の動作についてみると、原告は、手を体の右側で下に向かって動かすことで、友人である美しい女性(ナニ)を表していると主張するところ、この動作は、両手又は片手を上から下に下ろすnani(美しい)のハンドモーション(乙4、5及び26)や、甲33の右下の振付けと同様のものである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(カ)ku'u pua、e milika'a ai
a ku'uは「私の」、puaは「花」、miliは「手でさわる」、「かわいがる」、ka'aは「ころがす」の意味であり(乙37及び54)、原告は、これを「愛しい花よ」と意訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①左腕を体の左側、右腕を体の前に下ろし、両掌を下に向け、両肘を軽く曲げた状態で、両掌を一度波打たせ、その後、両腕を持ち上げながら体の正面に伸ばしつつ、右手の指先をすぼめて上に向け、左手の掌を上向きに右手の下に添える、②次に、両腕を正面に伸ばしきった後、両手の形はそのままで、両肘をゆっくり曲げて両手を胸の前まで戻し、この際、顔や目線は両手の方へ向け、両手の先を追うように動かす、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、手の振りによって、友人である美しい女性(ナニ)を象徴するものである「花」を表現していると主張するところ、この動作は、pua(花)のハンドモーションが片手又は両手の手をつまんで、上に向け、つぼみのような形を作るものであること(乙3及び4)から想定されるもので、甲33の左下及び右下の振付けも片手又は両手で同様の動作をしている。
 また、②の動作についてみると、原告は、上記の「花」を自分の胸の方へ持って行くことにより、「ナニ」がいかに繊細で壊れやすいかということ、彼女を抱きしめ、いたわりたいということを表していると主張するところ、mili(かわいがる)のハンドモーションが、胸の前で両掌を上下に重ねて揺らすこと(乙26)からすると、両手を胸の前に置くことは歌詞から想定されるもので、甲33の左下及び右下の振付けも同様の動作をしている。これに対し、原告は、(a)両腕をまっすぐ伸ばし、(b)正面を向いた状態のまま両腕を曲げる点、(c)指をすぼめていない方の手で指をすぼめた手を撫でずに添えるだけである点に独自性がある旨主張するが、(a)については甲33の左下の振付けも同様であるし、(b)(c)については、これらの点が異なるとしても、細かな部分の差異であるから、有意な差異であるとはいえないから、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表現されているとは評価できない。
(キ)Ka pua'Awapuhi'auli'i
a puaは「花」、'Awapuhiは「ハナショウガ」(ジンジャー)、'auは「グループ」、「群れ」、li'iは「小さな」の意味であり(乙54)、原告は、これを「繊細で優美なジンジャーの花」と訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①両手は直前の動作と同じ形のままで、再び両腕を体の正面に伸ばし、そのままの状態で右斜め後ろまでターン、②次に、体を正面の向きに戻しながら、左腕を曲げ、掌を下に向けた左手を鼻の前を通し、掌の向きを上へ返しながら左斜め前へ伸ばし、この際、顔や目線の向きは、左手の先を追うように動かす、③次に、左斜め前に伸ばした左腕を、掌を内側に向けつつ肘を曲げて鼻の前に寄せ、その後再び左斜め前へ伸ばし、掌は指をすぼめ上向きにし、その後、右腕を前に伸ばしたまま右から左へ動かし、右手の掌を上向きにして左手の下に添える、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、手の動作によって表される花がジンジャーの花であることを表していると主張するところ、この動作は、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpua(花)に対応するハンドモーション(乙4、5、25)と同様の動作に斜め後ろを向くターンを組み合わせたものである。
 次に、②の動作についてみると、原告は、花を表す左手に右手で触れて吸い込むことで、「ナニ」という女性の優しさを表していると主張するところ、この動作は、上記(イ)の「He'ala onaona kūpaoa」に対応する振付けの②の動作と同様のもので、「香り」の振付けであり、これ自体は上記(イ)の冒頭部分のHe'alaに対応する甲33の左下の振付けと同様である。
 次に、③の動作についてみると、原告は、カオのステップを踏みつつ、左手を唇に向かって持ってくることで、友人の繊細さ(か弱さ)への愛情を表していると主張するところ、この動作は、右手は、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpua(花)に対応するハンドモーションと同様の動作をしながら、左手は、息を吸い込みながら手を鼻先に持ってくるというonaona(ここち良い香気)に対応するハンドモーションと同様の動作をするものである。
 このように、上記①から③の振付けは、花と香りの要素から成っており、ここでの歌詞がpuaや'Awapuhiであることからすると、花の要素は歌詞から導かれるものといえ、香りの要素も花と関連するものではある。しかし、ここでの直接の歌詞は花のみであり、現に甲33の他の振付けを見ると、ここの歌詞に対応する振付けは、puaに対応するハンドモーションと同様の動作かそのアレンジといえる動作をせいぜい2つのパートからなる動作で行っていると評価できるにとどまり、ほかに本件振付け11のように香りに対応するハンドモーションを組み込んで、合計3つのパートからなる動作をしているものはない。特に③の動作は、花の要素と香りの要素を併せ備えたものとなっており、このような振付けは甲33の他の振付けには見られない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、既存のハンドモーションや歌詞の語義から想定されるハンドモーションを組み合わせたものであるとはいえ、その組み合わせに原告独自のものがあるから、原告の個性が表現されていると評価できる。これに対し、被告は、既存のハンドモーションの組み合わせにすぎず、独自性は認められない旨主張するが、上記に照らして採用できない。
(ク) Ikāhea mai ia'u
a kāheaは「呼ぶ」、maiは「来る」、「こちらへいらっしゃい」等、ia'uは「私に」の意味であり(乙33及び54)、原告は、これを「あなたは私を誘うように」と意訳している。
b 本件振付け16では、左腕は脇を開き、掌を正面に向け口の左横に添え、その左手の状態のまま、右腕は掌を下に向けて正面に伸ばし、右腕を正面に伸ばしたまま左斜め前から右斜め前へ、体の向きとともに動かしていき、この際、顔や目線の向きは、右手の先を追うように動かすという動作をしている。
 この動作について、原告は、左手を口の横に置き、右手を口から離していくことで、香りがまるで彼が探すように呼んでいること、招いていること、そして誘惑していることを表していると主張するところ、kāheaと同じく「呼ぶ」を意味するoleloのハンドモーションは、両手の指先を口元に置き、片方の掌を軽く上に返しながら差し出すというものである(乙3)から、kāheaについても、手を口元に置いた後に手を正面に伸ばすという動作とすることは歌詞から想定されるものである。そして、このように片手を口元に置き、他方の手を正面に伸ばす動作は、甲33の右上及び右下の振付けでも同様の例がある。これに対し、原告は、片方の手を口の横に添え、もう片方の手を正面に伸ばし、そのまま動かしていく点に独自性があると主張するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ケ)e walea me'oe、i lalia
a waleaは「楽しんで」、meは「~と一緒に」、'oeは「あなた」、laliaは「そこで」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「そこでリラックスして楽しむ」と訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①体を右斜め前に向け、左手の掌を下へ向けつつ、左腕の肘を曲げた状態のまま左手を胸の前まで下ろし、それと同時に右斜め前に伸ばした右腕を曲げて右掌を下に向けた状態で首の前辺りに置き、その後、両掌を上に向けつつ両腕を右斜め前にまっすぐ伸ばしていく、②次に、両腕を正面に伸ばし両掌を上に向けた状態のまま、両掌を4回波打たせながら、右斜め前から左回りに450度ターンし、左斜め前を向く、という2つのパートからなる動作をしている。
 原告は、①の動作について、右手をあごの下に置く動作によって、リラックスしていること、又は楽しんでいることを表しており、それに続く両腕を斜め前へ伸ばしていく動作は「あなたのことよ」ということ表していると主張し、②の動作について、両腕を斜め前に伸ばしたまま8拍子で足を動かして1周ターンを行うことで、男性が探しているものを見つけて欲しいという希望を表していと主張する。
 この点、甲33の他の振付けを始めとして、①②の動作のような動作は、他の振付けには見られない。そして、①②の動作は、目の前にいる人を指すという'oeに対応するハンドモーション(乙3ないし5)と同様の動作を一部に取り込んではいるものの、その前後の動作がwaleaやme'oeやlaliaという歌詞の語義や曲想から通常想定されるものではない。
 これに対し、被告は、甲33の他の振付けはいずれも両手を伸ばしている点で、本件振付け16と同様の動作をしており、本件振付け16が独自性を有するとはいえないと主張する。確かに、甲33の他の振付けにおいても両手を伸ばす局面自体はあるものの、その流れは本件振付け16とは全く異なっており、本件振付け16の類例と評価することはできない。したがって、被告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、本件振付け16独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できる。
(コ)Pulupe i ka ua
a Pulupeとは「すっかりびしょぬれの」の意味であり、uaは「雨」の意味であり(乙37及び54)、原告は、これを「雨に濡れて」と訳している。
b 本件振付け16では、正面に伸ばした両腕を、体の左側から上に持ち上げ、左腕は掌を内向きにして上に伸ばし、右腕は軽く肘を曲げて、右手の掌を内向きに指先を上に向け顔の前に置き、その後、伸ばした左腕を曲げ、同時に右腕を曲げて、両手を同じ位置(左肩の上辺り)まで降ろし、この際、顔や目線の向きは、左手の先を追うように動かし、以上の動作を、左右を逆にしてもう一度行う、という動作をしている。
 この動作について、原告は、上から優しく指を揺らしながら手を肩に下ろしていくことで、小雨がジンジャーの花を潤していることを表すとともに、友人の「優しさ」を同時に表現していると主張するところ、ua(雨)のハンドモーションは、両手をかかげ、雨が降るように指先をパラパラと動かしながら、両手同時に上から下へ下ろすものであり(乙4)、ここでの本件振付け16は、この動作を、両手を肩の上辺りまで下ろし、体勢を左右逆にして2回行うものである。そして、甲33の左下の振付けは、次のフレーズにかけてではあるが、本件振付け16と同様の動作をしている。
 これに対し、原告は、両手を下ろす際に掌を震わせない点、移動の少ないステップを用いている点に独自性があると主張する。確かに、甲33の左下の振付けとは、両手を下ろす際に掌を震わせるか否かという点で異なるものの、この点は細部の差異にすぎず、有意な差異とはいえない。また、移動の大きさの違いかについても、甲33の左下の振付けもさほど大きな移動をしているわけではないから、この点も有意な差異とはいえない。したがって、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(サ)le'ale'a kāua i ka nahele、e
a le'ale'aは「喜び」、「楽しみ」の意味であり、kāuaは「我々」の意味であり、naheleは「森林」の意味であり(乙54)、原告は、これを「私たちは森の中喜びを見つけた」と意訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①体の向きを左斜め前へ向け、右腕は肘を曲げて掌を内側に向け、右手の指先を上にして左肩に添え、左腕は、腕を下ろした状態で肘を軽く曲げ、左掌を内に向け、腰の右側に添え、この際、顔の向きは、正面を向いた状態を保つ、②体の向きを左に向け、右腕を体の前方で上に伸ばし、右掌を内側に向け、左腕は左斜め前に、左掌を上に向けて軽く伸ばし、その状態を保ちながら右回りに360度ターンする、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、この愛撫の動作により、友人である女性、及びその友人を象徴する「花」とともにいることが、幸せであること等を表していると主張するところ、この動作は、両手を胸の前で交差させるというle'ale'a(喜び)に対応するハンドモーション(乙26)と同様の動作である。これに対し、原告は、類例がないから独自性があると主張するが、上記のとおり、①の動作は既存のハンドモーションどおりである以上、原告が指摘する点は、独自性を認める根拠とはならない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、腕を上の方向に伸ばしていくことで、広大な周囲の状況を表していると主張するところ、両手を上げるところまでは甲33の左下及び右下の振付けと同様であるが、両手でL字型を作り、その状態でターンをするという振付けはほかに見られない。ターンは通常のステップの一種ではあるが、歌詞の語義や曲想からターンすることが通常想定されるわけでもなく、両手を広げてL字型を作りながらターンすることによって躍動感や広がり感を高めていることから、なお原告の個性が一定程度表れていると評価するのが相当である。これに対し、被告は、甲33の他の振付けと同様であるから独自性を有しないと主張するが、上記に照らして採用できない。
(シ)Ua ho'i akula ka Helena
a Uaは動詞の前にきて完了した行為を示す不変化詞、ho'iは「出発する」、「行く」、akulaは話し手から離れた方向を表す不変化詞、Helenaは「特徴、顔」の意味であり(甲60の1及び2、乙37及び54)、原告は、これと(ス)の歌詞を併せて「愛しい花の姿は行ってしまったけれど」と意訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①顔と体を右斜め前に向け、右腕は脇を開き、肘を曲げ、右掌を下に向け胸の前に添え、左腕は脇を開き軽く曲げ腰の左側に添え、以上の動作を左右逆にしてもう一度行う、②次に、体を左斜め前に向けた状態で、左腕は肘を曲げて脇を開き、左掌を下に向け胸の前に添え、体を正面に向け直しながら、右腕は肘を曲げて脇を開き、右掌を内側に向けまず左の頬に添え、その後に掌を外に返しながら右の頬へと移動させ、右掌を外に向けた状態で右の頬に添え、この際、顔は正面を向いた状態を保つ、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、遠くをみつめながら手を胸元に置くことで、彼女の身体的な存在は無いということを表していると主張するところ、甲33の右上の振付けは、肘を曲げていない方の手を前に伸ばしており、①の動作のように肘を曲げていない方の手を軽く曲げて腰に添えるわけではない点が異なるとはいえ、この点を除けば同様の動作を行っている。そして、この相違は、これにより体の動きの差異が大きく異なるわけでもないから、有意な差異とはいえない。これに対し、原告は、肘を曲げていない方の手を前に伸ばさないという点に独自性があると主張するが、上記に照らして採用できない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、顔の前に沿うように掌を動かすことで、彼女の顔のイメージは、彼の心の中に永遠に生き続けるという意味を表していると主張するところ、甲33の右上の振付けは、頬に添えない方の手を曲げずに前に伸ばしており、②の動作のように頬に添えない方の肘を曲げているわけではない点が点が異なっているとはいえ、この点を除けば同様の動作を行っている。そして、上記の①の動作の場合と同様、この違いが有意な差異とはいえない。これに対し、原告は、片方の頬に添えた手をもう片方の頬に移動させる点、頬に添えない方の手を曲げる点、顔を正面に向ける点に独自性があると主張するが、前者は細部の目立たない相違にすぎず、後者も体全体の動きに影響しない程度の相違にすぎないから、いずれも有意な相違とはいえず、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ス)o ka pua ho'oheno
a uaは「花」、ho'ohenoは「愛する」、の意味であり、原告は、(シ)の歌詞と併せて、「愛しい花の姿は行ってしまったけれど」と意訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①両手の指を伸ばして掌を外に向け、右手が左手よりやや高い位置となる状態を保ちつつ、両手を左斜め上にまっすぐ伸ばす、②左上に伸ばした両腕を、胸の正面の位置にくるまで同時に下ろしつつ、両手の掌を返しつつ指をすぼめながら指先を上に向け、胸の正面の位置で両腕を揃えて右斜め前へ伸ばす、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、友人である「ナニ」を表すジンジャーの花を象徴するシンボルの動きをすることで、想い出は永遠に大切に残るものであることを表していると主張している。
 この点、②の動作は、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpua(花)に対応するハンドモーションと同様のものである(乙4、5、25)。
 他方、①の動作は、甲33の他の振付けを始めとして他の振付けには見られない動作であり、pua(花)に対応するハンドモーションとは異なる動作であり、両手を胸の前で交差するというho'oheno(愛する)に対応するハンドモーション(乙26)とも異なる動作であり、歌詞の語義や曲想から通常想定される動作でもない。これに対し、被告は、本件振付け16の動作は、甲33の他の振付けに見られるものであるから、独自性を有しないと主張するが、上記のとおり①の動作は甲33の他の振付けには見られないものであるから、被告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は本件振付け16に独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できるが、②の動作は原告の個性が表れているとは評価できない。
(セ)Māpu mau mai ke'ala anuhea
a Māpuとは「香気(特に風に吹かれて漂う香気)」、mauは「常に」「不変の」の意味であり、maiは「来る」、ke'alaは「香気」、anuheaは「(森林地帯の高地のような)涼しく快い香り」を意味し(乙33及び54)、原告は、これを「清々しい香りが今もまだ残っている」と意訳している。
b 本件振付け16では、大きく分けて、①両手の掌を内側に返しつつ、右斜め前に伸ばした両腕を引き戻し、両手の指を伸ばして掌を内側に向け、右手を鼻の前、左手をその下に添え、その後、再び両腕を右斜め前に伸ばしつつ、右手の指をすぼめながら、指先を上に向ける、②次に、右斜め前に両腕を伸ばした後、右手をそのままの状態に保ち、左手の先で右手の先に触れた後で左腕を顔の前に引き寄せ、左掌を下側に向け鼻の前に添え、そこから左腕を左斜め上にまっすぐ伸ばし、その後、左腕を顔の前に引き寄せ、左掌を下側に向け鼻の前に添え、そこから再度左腕を左斜め上にまっすぐ伸ばす、という2つのパートからなる動作をしている。
 これら動作について、原告は、両手を鼻の前に寄せた後で再び伸ばしたり、右手で表現した花に左手で触れ、左手を花の前を通って上へ伸ばすことで、友人を象徴する「花」は枯れて消え去ってしまったけれど、爽やかな香り、すなわち大切な友人との思い出は残り続けるということを表現していると主張している。
 まず、①の動作についてみると、指をすぼめる点を除けば、甲33の右下の振付けと同様の動作である。そして、その指をすぼめるという点は、手をつまんで上に向けてつぼみのような形を作るというpua(花)に対応するハンドモーションと同様のものである(乙4、5、25)ところ、甲33の左下の振付けでも、次の②に対応する箇所で、片手ではあるが、手を花の前に置いた後で指をすぼめつつ前に伸ばす動作をしており、この歌詞の部分でpuaのハンドモーションを取り入れた動作を行うことには類例があるから、上記の差異が有意なものとはいえない。これに対し、原告は、①の動作では両手を鼻の前に添えた後に再び両腕を左右に開いているわけではない点で独自性を有すると主張するが、伸ばした両手を一緒に鼻の前に添え、その後再び両手を伸ばす点では甲33の右下の振付けと同様であり、原告が指摘する点は些細な相違にすぎないから、原告の主張は採用できない。
 次に、②の動作についてみると、甲33の左下の振付けが、前の①の動作に対応する箇所で同様の動作をしており、上記(イ)の「He'ala onaona kūpaoa」に対応する箇所でも同様の動作をしている。②の動作の最後では、左手を再度鼻の前に添えて伸ばすという動作がされているが、これは直前の動作の反復にすぎないから、類例との間で有意があるとはいえない。これに対し、原告は、②の動作が甲33の他の振付けには見られない点で独自性を有すると主張するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、既存の振付けや歌詞から想定される振付けであるから、原告の個性が表現されているとは評価できない。
(ソ)He'ala onaona kūpaoa、e moani mai nei、E kono mai ana ia u、e、'Auhea‘oe、e ku'u nani、ku'u pua、e milika'a ai、Ka pua'Awapuhi'auli'i、I kāhea mai ia'u、e walea me'oe、i lalia、Pulupe i ka ua、le'ale'a kāua i ka nahele、e、Ua ho'i akula ka helena、o ka pua ho'oheno、Māpu mau mai ke'ala anuhea、Māpu mau mai ke'ala anuhea
 上記(イ)ないし(セ)と同様である。
(タ)終奏
a 本件振付け16では、大きく分けて、①右手は掌を下に向けて軽く肘を曲げ、胸の高さで右腕を体の正面へ伸ばし軽く揺らし、この際、左手はスカートの裾を握り腰の横に置き、左手の掌を下に向けて軽く肘を曲げ、胸の高さで左腕を体の正面へ伸ばし軽く揺らし、この際、右手はスカートの裾を握り腰の横に置く、②両手の掌を下に向け、両腕を体の左右を通って正面へ伸ばしていき、正面で両掌を揃え、その後に両腕を体の横へ降ろす、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作は、(ア)の前奏に対応する振付けの1つである甲26の右下の振付けと同様である。次に、②の動作は、甲33の左下の振付けと同様である。
b したがって、終奏に対応する振付けは、原告の個性が表現されているとは評価できない。
(チ)小括
 以上のとおり、本件振付け16には、完全に独自な振付けが見られる((キ)、(ケ)、(ス)①〔及び(ソ)〕)上、他の振付けとは有意に異なるアレンジもある((サ)②〔及び(ソ)〕)から、全体として見た場合に原告の個性が表現されており、全体としての著作物性を認めるのが相当である。
カ 本件振付け17(楽曲:Maunaleo)
(ア)He aloha nō’o Maunaleo
a alohaは「愛する」、Maunaleoは「マウナレオ」(山の名前)の意味であり(乙33、弁論の全趣旨)、原告は、これを「本当に愛しい山マウナレオ」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①左腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし左胸の前に添え掌を上に返し、右腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし、左胸の前に添えた左掌の周りを一周回し、掌を上に返しながら、体の前から回すように右方向へ肘を伸ばし、顔と目線の向きは、はじめは左下へ向け、体の右方向へ右腕を伸ばす直前に右へ向ける、②体の向きを右斜め前に向け、指先を伸ばして掌の下に向けた状態で両手を伸ばしつつ、腰の前あたりに降ろし、掌を下に向けたまま、両手の掌を揃えて平行に揃えて腰の前あたりに置くような動作をしてから、両手の掌を返して前に向け、その後両手の掌を左右にゆっくり少し開き、このとき、顔と目線は、両手の方へ向けてから、斜め上に向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、右手で心(ハート)を差し出すような動作をすることで、愛されているものを表していると主張する。しかし、ここでのHealohaに対応する①の動作は、本件振付け13(上記ウ)に対応する楽曲(Ua Lanipili I Ka Nani O Papakōlea)の同様の歌詞の「Ke aloha i kaʻohu、e Papakōlea」の中の「aloha」(上記ウ(コ)の①の動作)に対応する甲51の左下の振付けと同様のものであるから、「aloha」の歌詞から想定される動作であると認められる。
 次に、②の動作についてみると、原告は、マウナレオの山の裾野を両手で表現し、目線の動きによってマウナレオの山の壮大さを表していると主張するところ、完全に立っているか立膝であるかの違いを除けば、甲46の右下の振付けも立膝の姿勢をとりながら同様の動作をしており、これを立ち姿で行う②の動作に有意な差異があるとはいえない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(イ)I lohia e ke kilihuna
a lohiaのうちのlohiaは「きらめき」、kilihunaは「かすかな霧雨」の意味であり(乙36、54)、原告は、これを「かすかに煌めく霧雨」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①体の向きを右斜め前に向けたまま、両手は掌を正面に向け指を伸ばした状態で、両腕を、軽く肘を曲げ正面の上に伸ばし、この時、最初は右掌を左掌よりもやや高くし、その状態のまま、両掌を一度握りしめ再び指先を伸ばし開き、次に、左掌と右掌の位置を入れ替え、再度両掌を一度握りしめ再び指先を伸ばし開き、このとき、顔と目線の向きは両手の先へ向ける、②指を揃えて両掌を開き、掌を前に向け、両腕をやや斜め前へ伸ばし、その後、両掌の高さを揃えて掌を前に向けたまま、両掌の指を細かく震わせつつ、左右の掌を同時にゆっくりと降ろしてきて、このとき、顔と目線の向きは両掌の方へ向け、両掌の動きに合わせて、上から下へ降ろしてくる、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手をかかげて、掌を握り、開くことで、きらめいている様子を表現していると主張するところ、乙35の6の振付けも、両手をかかげて、左右の手の高さを交互に入れ替える点で同様のもので、掌を握ったり開いたりするか否かに違いがあるにすぎず(被告はこの点の違いもないと主張するが採用できない)。上記の違いは細かなものであるから有意な差異があるとはいえない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を細かく震わせながら下へ降ろすことで、風にふかれて光輝く霧雨を表現していると主張するが、両手をかかげて指先をぱらぱらと動かしながら両手同時に斜めに下ろすというua(雨)に対応するハンドモーション(乙3、4)と同様の動作であるところ、ua(雨)とkilihuna(かすかな霧雨)の歌詞の語義が同義であることに照らせば、歌詞から想定される動作であると認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ウ)Kohu’ahu’ao no ka uka
a ʻahuは「(肩マント・シャツ・コートのような)上半身や肩部をおおう衣服や外被」、ukaは「高地の」の意味であり(乙36)、原告は、これを「高地にかけられたコートのよう」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①体を正面に向け、右腕は、脇を軽く閉じて肘を曲げ、右手の指を揃えて伸ばし、指先を体の方へ向け、右肩の上あたりに持ってきて、これと同時に、左腕も、脇を軽く閉じて肘を曲げ、左手の指を伸ばし、左掌を体の方へ向けつつ右肩の前へ持ってきて、続いて、右手と左手の位置を代えて、左右対称の動作を行い、このとき、顔と目線は、両手の位置に合わせて、右から左へ動かす、②両手の掌を正面に向け指を伸ばした状態で、体の正面斜め前に伸ばし、このとき、右腕は軽く肘を曲げて、右掌を左掌よりもやや下に置く。顔と目線は、伸ばした両手の指先へ向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を使い交互に肩に添えることで、繊細に織り込まれたコートが肩にかけられている様子を表していると主張する。ʻahuが肩部を覆う外被の意味であり、甲46の左下の振付け及び乙35の6の振付けでも両手を同時に両肩を持っていく動作をしていることから、手を肩に持って行く動作自体はありふれたものである。しかし、上記の類例はいずれも両手を肩に持って行くのが一瞬であるのに対し、①の動作は、両手をまず片方の肩に持っていき、その後両手をもう一方の肩に持っていくのであって、体全体の動きが異なり、この違いから受ける印象はかなり異なる。したがって、①の動作は、歌詞の語義や既存の振付けと基礎を同じくしつつ、そのアレンジにおいて有意な差異があるというべきである。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を高くかかげることで高地の高さを表現していると主張するところ、ukaが「高地」の意味であり、甲46の右上・左下、乙34の3の振付けも両手をかかげる点は同じであり、左右の手の上げる高さに違いがあるという点に違いがあるにすぎない。そして、その違いも僅かなものであるから、有意な差異があるとはいえない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は原告の個性が表れていると評価できるが、②の動作は原告の個性が表れているとは評価できない。
(エ)He kamalani kamaehu kau i ka hano ē
a kamalaniは「お気に入りの子供」、kamalani kamaehu kauは「大切にされ」、「i ka hano ē」は「崇められる」の意味であり(乙36、弁論の全趣旨)、原告は、これを「大切にされ、力と強さを崇められる」と意訳している。
b 本件振付け17では、体を右側へ向け、左腕はまっすぐ下へ降ろしスカートを軽く握り、右掌を開いて上に向け、右腕は肘を軽く曲げた状態で体の右側へ伸ばし、そのまま流れるように、右腕を少し前に回して体の右斜め前に伸ばし、顔と目線は、右手の指先に向け、右手の動きに合わせて動かし、右手と右腕は直前の動作と同じ状態のまま、左掌を上に向け、指先を伸ばした状態で、左腕を左斜め前上に向けてゆっくりと伸ばしていき、顔と目線は、左斜め上に向ける、という動作をしている。
 この動作について、原告は、右腕を体の右横から斜め前に伸ばすことによって、マウナレオ(母親)が人々に大切にされていることを表しており、左手を高くかかげることで、マウナレオ(母親)が人々から尊敬されていることを表現していると主張する。このように本件振付け17では、片方の手を横に伸ばし、その手を横から斜め前に伸ばし、その後もう片方の手を上に伸ばしているところ、3つの手の伸ばし方を個別に取り上げればこれと同様の振付けも見られるものの、この3つの手の伸ばし方をこのように組み合わせた振付けは他に見られず、歌詞や曲想から通常想定される動作であるともいえず、また、体全体の動きとしても大きなものであるから、なお有意な差異があるというべきである。これに対し、被告は、手の伸ばし方には類例があると主張するが、被告の主張は、上記判断を左右するものではない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表現されていると評価できる。
(オ)He kamalei、kamahiwa pā i ka lani ē kalani  ē
a Kamaleiは「かわいい子供」、「最愛の子供」、laniは「天国」の意味であり(乙4、36)、原告は、これを「尊敬され大切にされる天国に触れるように」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①右腕の脇を開き、肘を曲げ、右掌を下に向け指先を伸ばした状態で右胸の前に水平に添え、右手をその状態としたまま、左手は、左掌を下に向け指先を伸ばし、左腕を左斜め前に伸ばした状態から頭の上の方へ動かし、左手を頭の上から首の後ろ、左肩の前を通るように降ろしていき、左胸の前まで持ってきたところで、左掌を下に向けて指を揃えて伸ばし、胸の前で左掌と右掌との指先をつき合わせるように揃え、顔と目線の向きは、はじめはやや右下へ向け、左手が首の後ろを通った辺りから左側へ動かし、両手の掌を揃えた際には指先の方へ向ける、②両掌を同時に返して体の方へ向け、指先を上に伸ばした状態で、左右同時に両腕を正面上までゆっくりと同じ高さまで伸ばしきり、顔と目線は、両手の動きと合わせて上に向けていき、次に、指先を伸ばした状態で掌を正面に返し、両掌を正面に向けて左右同じ高さを保ったまま、体の前を通って両腕をゆっくり体の横まで降ろしていき、顔と目線は、両手の動きと合わせて下へ降ろしていき、正面を向いた状態で動きを止める、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左手で体にレイを掛ける動作をすることで、マウナレオ(母親)が、人々から尊敬され、大切にされていることを表していると主張する。レイを首に掛けるしぐさというこの振付けは、leiという音が含まれているkamaleiという歌詞の振付けとして、leiに対応するハンドモーション(乙4)を行うものと考えられるところ、甲46の左下の振付けも、首に掛けたレイにやさしく触れるようなイメージで片方の肩からもう片方の肩へ手を移動させるというleiに対応する別のハンドモーション(乙5)を行っていることに照らせば、leiという音が含まれているkamaleiという歌詞の振付けとして、leiに対応するハンドモーションを行うことについては類例があると認められる。そうすると、①の動作は、他に類例のある歌詞の解釈に基づいて、その解釈に対応するハンドモーションの一つを当てるものにすぎないから(上記(1)オ)、ここでの歌詞にそのような振付けを当てることに原告の個性が現れていると認めることはできない
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手をゆっくりと胸の前から空の方へかかげることで、天国(神様に愛されていること)を表現していると主張するところ、lani(天国)に対応するハンドモーションは、両手を高く上げ、合わせてから広げる(乙4)、手を上に伸ばし、その後その手をクロスさせて開く(乙5)というものであり、甲46の他の振付けもいずれも両手を上にかかげてクロスするなどしている。②の動作は、両手を伸ばした後に合わせたりクロスさせたりしないという点でこれらと異なるものの、歌詞の語義や既存の振付けと基礎を同じくする中での微差というべきであり、この違いに有意な差異は認められない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(カ)間奏
a 本件振付け17では、大きく分けて、①左腕は下に降ろし、スカートを軽く握り、右腕は軽く肘を曲げ正面へ伸ばし、右掌を下へ向け、右手の指先を正面へ伸ばしつつ、右腕をゆっくりと一度シェイクさせ、顔と目線は右斜め前へ向ける、②左腕の脇を開き、左腕の肘を曲げ、左掌を下に向け指先を伸ばした状態で左胸の前に水平に添え、右腕は下におろし、スカートを軽く握る。顔と目線は左斜め前へ向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、本件振付け11に対応する楽曲である「Lei Ho’oheno」に係るイントロに対応する振付けの1つである甲26の右下の振付けと同様のものである。
 次に、②の動作についてみると、乙35の10の振付けと同様のものである。
b したがって、ここの間奏に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(キ)He aloha nō’o Maunaleo、I lohia e ke kilihuna、Kohu’ahu’ao no ka uka、He kamalani kamaehu kau i ka han oē、He kamalei、kamahiwa pā i ka lani ē、ka lani ē、間奏
 上記(ア)ないし(カ)と同様である。
(ク)Po’ohina i ka’ohukolo
a Po’oは「頭」、hinaは「しらがの」、ohuは「霧」、koloの意味であり(乙36)、原告は、これを「銀色の霧に覆われている」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①脇を広げて両腕の肘を曲げ、両掌の指先を伸ばし、両掌を頭の左右で内側に向け、両掌をこめかみ横の髪の生え際に一度当ててから、両掌を返して内側に向けた状態で、両腕を同時にゆっくりと上に伸ばし、顔と目線は正面斜め上へ向ける、②顔の正面斜め上の位置で、両掌を軽く開き、右掌を左掌のやや上に置いた後、両掌を回転させるよう上下の位置を2回入れ替えつつ、左足右足を交互に2歩ずつ左へ踏み出し左周りに一周ターンし、顔と目線は正面斜め上に向けた状態を保つ、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を額に添え、髪の毛の生え際辺りをなでることで、母親の銀色になった髪の毛を表現していると主張するところ、この動作は、甲46の左下の振付けと同様である。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を回しつつターンを行うことで、山の高いところが霧に覆われている様子を表現していると主張するところ、両手をかかげて回す動作は甲46の左下の振付けと同様であり、乙35の11では同様の動作をターンしながら行っているから、類例があると認められる。これに対し、原告は、ターンの有無による違いを強調するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ケ)Kahiko no ka poli’olu
a Kahiko no kaは「飾る装飾品」、poliʻoluは「穏やかな心」の意味であり(弁論の全趣旨)、原告は、これを「穏やかな心を飾る装飾品」と訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①右腕の脇を開き、肘を曲げ、右掌を体の方に向け指先を伸ばした状態で右胸の前に添え、左腕は脇を開き、肘を曲げ、左掌を体の方に向け指先を伸ばした状態で首の後ろに添え、その後、左手と右手の位置を入れ替え、左右対称の動作を行い、顔と目線は、両手の動きに合わせて、右斜め下、続いて左斜め下へ向ける、②左腕の脇を開き、肘を曲げ、左掌を体の方に向け指先を伸ばした状態で左胸の前に添えつつ、右腕も脇を開き、肘を曲げ、右掌を体の方に向け指先を伸ばした状態で、右掌を左掌の上に一度添え、その後左掌の下に添え、顔と目線は、胸の前に置かれた両手の方(正面やや斜め下)へ向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左右交互に、片方の手を胸の前、もう片方の手を首の後ろに置くことで、レイなどの装飾品によって飾られていることを表していると主張する。この動作は、歌詞から想定されるものではなく(kahiko[装飾品]はその一種であるlei[レイ]と関連性を有する語であるが、ここの動作はleiのハンドモーション[乙4、5]とも異なる。)、他に類例も見られないから、本件振付け17に独自のものであると認められる。これに対し、被告は、既存のleiのハンドモーションどおりであると主張する。しかし、leiのハンドモーションは、レイを首に掛けるしぐさ(乙4)、首にかけたレイにやさしく触れるイメージで左肩から右肩に手を移動させる(乙5)というものであるから、①の動作はこれらと異なり、その些細なアレンジともいえないものであるから、被告の主張は採用できない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を胸(ポリ、心[ハート]を表す)の前に置くことで、その装飾品が愛とともに与えられることを表現していると主張するところ、両手を胸の前に置く動作は甲46の左下及び右下の振付けと同様であり、同左下の振付けは、置いた左右の手の上下位置を回しながら入れ替える点でも②の動作とは目立たない差異にすぎない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、本件振付け17独自のものであり、原告の個性が表現されているは評価できるが、②の動作は、原告の個性が表れているとは評価できない。
(コ)Apo’ia e nā kualono
a apoは「取り巻く」、kualonoは「山頂に近い領域」の意味であり(乙36、54)、原告は、これを「囲まれている尾根に抱かれ」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①右掌の指先を伸ばし、右腕を体の横に降ろし、左掌の指先を伸ばし下に向けた状態で、左腕を、やや左斜め前へまっすぐ伸ばし、顔と目線は左手の先へ向け、左腕を伸ばし切った後、すばやく左腕の肘を曲げ、体の向きを右から右後ろへ向けつつ、右腕の肘も同時に曲げながら、体が後ろを向いた状態で、両掌を内向きに指を伸ばした状態で胸の前で交差させる、②左掌の指先を伸ばし体の前へ向けた状態で、左腕を正面斜め上へ伸ばし、右掌も指先を伸ばし正面を向けた状態で、右腕を正面斜め上に伸ばし、このとき、右腕の肘を軽く曲げ、右掌を左掌のやや下(顔の前あたり)の位置に置き、顔と目線は両手の指先の方へ向け、この一連の動作は、体が正面と反対側(左斜め後ろ側)に向いた状態で行う、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左手を伸ばして体の向きを変えることで、周囲を囲まれて包み込まれている様子を表していると主張するところ、この動作は、甲46の左下の振付け及び乙34の2の振付けと同様である。
 次に、②の動作についてみると、原告は、後を向いたまま両手をかかげることで、マウナレオの尾根を表現していると主張するところ、両手をかかげる動作は乙34の3ないし5でも行われているが、正面と反対側を向いた状態のまま動作を行うことは、本件の証拠にある様々な振付けを通覧する限り特異な例であり、この違いは有意な差異というべきである。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は原告の個性が表れているとは評価できないが、②の動作は、原告の個性が表れていると評価できる。
(サ)He hi’ina、hi’alo、aloha ē
a hi’iは「(子供などを)胸に抱きかかえる」、alohaは「愛する」の意味であり(乙33、36)、原告は、これを「抱きして近くに愛する」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①左斜め前へ体を向け、右腕を左斜め前へまっすぐ伸ばして、伸ばし切ったところで、物をつかみ取るように一度右手のこぶしを素早く握り、その後、右腕の肘を曲げ、右掌を軽く握った状態で、胸の前に添える。左腕は軽く肘を曲げた状態で下に降ろし、スカートを軽く握り、顔と目線は、右手の方へ向け、右手の動きに合わせて動かす、②左手を同じ状態のまま、右腕を、軽く肘を曲げ、右掌を開きつつ、掌を上に向け指先を伸ばした状態で再び左斜め前に伸ばし、体の前を回すように右斜め前まで移動させ、このとき、顔と目線は、直前の動作と同じく右手の先へ向け、右手の動きに合わせて左から右へ動かす、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらについて、原告は、直前の尾根に囲まれている動作から向きを変え、右手を伸ばしてつかみ取り、それを胸(ハート)の方にもってくることで、誰かへの愛おしい気持ちを表現していると主張する。
 まず、①の動作についてみると、胸に持ってくる手の拳を握っているか否かの違いを除けば、乙35の8の振付けと同様であり、この違いに有意な差異があるとはいえない。
 次に、②の動作についてみると、本件振付け13(上記ウ)に対応する楽曲(Ua Lanipili I Ka Nani O Papakōlea)の甲51の左下の振付けにおいて、「Ke aloha i ka’ohu、e Papakōlea」の中の「aloha」(上記ウ(コ)の①の動作)に対応する振付けと同様のものであるから、「aloha」の歌詞から想定される動作であると認められる。これに対し、原告は、胸に持ってくる手の拳を握っているか否かの違いを強調するが、体の動きとしては細部の目立たない相違にすぎないから、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(シ)Hi’ipoli、hi’ilei、hi’ilani ē hi’ilani ē
a hi’iは「(子供などを)胸に抱きかかえる」、leiは「(頭や首につけられる)花輪」、「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」、laniは「天国」の意味であり(乙4、36)、原告は、これを「心から愛おしく、大切で高貴」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①左斜め前へ体を向け、左腕を左斜め前へ伸ばし、伸ばしきったところで、物をつかみ取るように一度左手のこぶしを素早く握り、左腕の肘を曲げ、左掌を軽く握った状態で、胸の前に添え、右腕は軽く肘を曲げた状態で下に降ろし、スカートを軽く握り、顔と目線は、左手の方へ向け、左手の動きに合わせて動かす、②右手を同じ状態のまま、左掌を開いて体の方に向け、指先を伸ばした状態で、左腕をまっすぐ上に伸ばし、顔と目線は、左手の方へ向け、左手の動きに合わせて上へ動かし、右手を同じ状態のまま、左掌を正面に向けて返し、体の前を通って左腕をゆっくり体の横まで降ろしていき、顔と目線は、左手の動きと合わせて下へ降ろしていき、正面を向いた状態で動きを止める、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左腕を伸ばして、もう一度つかみとり、胸(ハート)の方へ近づけることで、母親への深い愛情を表現していると主張するところ、胸に持ってくる手の拳を握っているか否かの違いを除けば、乙35の8の振付けと同様であり、この違いは細部の目立たない差異にすぎないから、有意な差異とはいえない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、天国の方向へ左腕を伸ばしいくことで、最愛の人への感謝の気持ちを表し、そこから掲げた腕をおろしていき、次の動作につなげていると主張するところ、lani(天国)に対応するハンドモーションは、両手を高く上げ、合わせてから広げる(乙4)、手を上に伸ばし、その後その手をクロスさせて開く(乙5)というものであり、乙34の3及び5の振付けも両手を上にかかげている。これに対し、②の動作は、掲げるのが片手である点で異なるが、同じ動作を片手で行うか両手で行うかはありふれた変化にすぎず、この違いも有意な差異とはいえない。これに対し、原告は、他の振付けとの違いを強調するが、上記に照らして採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ス)間奏
 上記(カ)と同様である。
(セ)Po’ohina i ka’ohu kolo、Kahiko no ka poli’olu、Apo’ia e nā kualono、He hi’ina、hi’alo、aloha ē、Hi’ipoli、hi’ilei、hi’ilani ē、hi’ilani ē、間奏
 上記(ク)ないし(ス)と同様である。
(ソ)Eia ku’u lei aloha
a ku’uは「私の」(乙54)、leiは「(頭や首につけられる)花輪」、「〈比喩〉最愛の子供〔妻・夫・恋人・弟・妹〕」、alohaは「愛する」の意味であり(乙33、54)、原告は、これを「これは私の大切なレイ」と訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①左手と左腕は直前の動作と同じ状態のまま、右腕の脇を開き、肘を曲げ、右掌を開いて下へ向け、胸の前に添え、そのとき、両掌の指先を伸ばして胸の前で水平に揃え、両手の指先同士が触れる程度の状態とする、②両掌を同時に内側へ返し、両手を揃えたまま、両腕を同時に上へ伸ばし、頭の後ろへ回してから、それぞれ両肩の前を通して胸へまで降ろし、顔と目線の向きは、両手の先へ向けて、両手の動きに合わせて胸の前から上へ動かし、両手を肩まで降ろしたところでやや左下へ向ける、という2つのパートからなる動作をしている。
 これらについて、原告は、両手を胸の前から上にかかげていき、首の後ろから型の前を通して降ろしていくことで、レイを掛ける人をどれだけ愛しているか、非常に深い愛情を示していると主張する。
 まず、①の動作についてみると、胸の前で掌を自分の方に向けるというwau又はau(私)に対応するハンドモーションである(乙3)ところ、kuʻuという歌詞の語義がwau又はauと同義であることに照らせば、歌詞から想定される動作であると認められ、甲35の右下の振付けでも同様の動作をしている。
 次に、②の動作についてみると、レイを首に掛けるしぐさというleiのハンドモーション(乙4)を両手で行うものであり、乙34の4の振付け、乙35の6ないし7、11の振付けと同様である。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(タ)No Maunaleo i ka nani
a Maunaleoは「マウナレオ」(山の名前)、naniは「美しい」の意味であり(乙54、弁論の全趣旨)、原告は、これを「美しいマウナレオ」と訳している。
b 本件振付け17では、体の向きを斜め右前に向け、両手を揃えたまま両腕を同時に腰の前までまっすぐ伸ばし、指先を伸ばして両掌を下へ向け、続いて、両掌を同時に返して正面へ受け、胸の前辺りで両手を左右にゆっくりと開き、顔の向きは、両手の方へ向け、両手を左右に開くところで斜め上へ向ける、という動作をしている。
 このような動作について、原告は、両腕を胸の前で左右に開くことで山の裾野を表現し、視線を上にもってくることで、マウナレオの力強さ、雄大さ、美しさを表現していると主張するところ、同様の歌詞である上記(ア)の「He aloha nō ʻoMaunaleo」の歌詞の中の「Maunaleo」の歌詞に対応する振付けにおいて、甲46の右下の振付けも立膝の姿勢をとりながら同様の動作をしており、これを立ち姿で行う②の動作はありふれた変化にすぎず、その点に有意な差異があるとはいえないから、「Maunaleo」の歌詞から想定される動作であると認められる。これに対し、原告は、動作を完全に立って行うか否かの違いを強調するが、姿勢としては立ち姿の方がむしろ通常のものであり、これにより有意な差異が生じているとはいえないから、原告の主張は採用できない。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(チ)ʻOhuʻohu i ka Mālie
a Ohuは「霧」、Mālieは「マリエの風」の意味であり(乙36、弁論の全趣旨)、原告は、これを「マリエの風に讃えられる」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①体を正面に向け、左腕は、脇を軽く閉じて肘を曲げ、左手の指を揃えて伸ばし、指先を体の方へ向け、左肩の上あたりに持ってきて、これと同時に、右腕も、脇を軽く閉じて肘を曲げ、右手の指を伸ばし、右掌を体の方へ向けつつ左肩の前へ持ってきて、続いて、右手と左手の位置を代えて、左右対称の動作を行い、このとき、顔と目線は、両手の位置に合わせて、左から右へ動かす、②腰の高さ辺りから頭の上まで、両腕の肘を軽く曲げて両掌の指先を伸ばした状態で、右腕、左腕、右腕の順に、下から上に内回りで半円を描くように交互に揺らしながら、両腕を持ち上げていき、顔と目線は、両手の動きに合わせて下から上に動かす、という2つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、左右交互に両手を肩に添えることで、山にレイがかかっているように、マウナレオに霧がかかっている様子を表現していると主張するところ、この動作は、首に掛けたレイにやさしく触れるようなイメージで片方の肩からもう片方の肩に手を移動させるというleiに対応するハンドモーション(乙5)であると認められる。Ohuʻohu(霧)の歌詞の箇所でleiの動作をとる振付けは、歌詞から導かれるものではないが、乙34の3の振付けも、レイを首に掛けるしぐさというleiに対応する別のハンドモーション(乙4)を行っていることに照らせば、’Ohuの歌詞の振付けにleiのハンドモーションを行うことについては類例があると認められる。そうすると、①の動作は、他に類例のある歌詞の解釈に基づいて、その解釈に対応するハンドモーションの一つを当てるものにすぎないから(上記(1)オ)、そのような振付けを当てることに原告の個性が表れていると認めることはできない。
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を回すように動かしながら上にあげていくことで、やわらかい風が吹き上げている様子を表現していると主張するところ、Mālie(マリエの風)という歌詞と関連するmakani(風)のハンドモーションは、両手を伸ばして片手でつむじの上に塩を描くように回すもので、強い風や嵐のときは両手を頭上に上げて大きく回すというものであり(乙3)、甲46の右上の振付けもこのハンドモーションと同様の動作をしている。しかし、②の動作は、右腕、左腕、右腕の順に下から上に内回りで半円を描くように交互に揺らしながら両腕を持ち上げていくというもので、体全体の動きが異なり、その違いから受ける印象に有意な差異が認められるから、風をイメージする振付けの中でも、本件振付け17独自のものと認めるのが相当である。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けのうち、①の動作は、原告の個性が表れているとは評価できないが、②の動作は、本件振付け17独自のものであるから、原告の個性が表現されていると評価できる。
(ツ)He kamalani kamaehu kau i ka hanoē、He kamalei、kamahiwa pā i ka lani ē、ka lani ē、間奏
 上記(エ)ないし(カ)と同様である。
(テ)Eia ku’u lei aloha、No Maunaleo i kanani、’Ohu’ohu i ka Mālie、He kamalani kamaehu kau i ka hano ē、He kamalei、kamahiwa pā i ka lani ē
 上記(ソ)ないし(チ)並びに(エ)及び(オ)と同様である。
(ト)No Maunaleo ke aloha kū i ka la’i ē
a Maunaleoは「マウナレオ」(山の名前)、alohaは「愛する」、la’iは「静けさ」という意味であり(乙33、弁論の全趣旨)、原告は、これを「マウナレオは深い愛の静寂さがある」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①両掌の指先を伸ばし、正面を向けた状態で両腕を上に伸ばし、右腕の肘を軽く曲げて、右掌を左掌のやや下に添え、顔と目線は両手の方へ向ける、②両掌を体の方へ返し、両腕の肘を同時に曲げて、両手を胸の前で交差させる、③両掌を下に向け、肘を軽く曲げつつ、腰の高さで両腕を前へ伸ばし、腰の高さで、両掌を下へ向けたまま、両手を左右にゆっくりと開き、顔と目線は左手の方へ向ける、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①の動作についてみると、原告は、両手を高くかかげることで、マウナレオの高くそびえたつことを表現していると主張するところ、乙35の6及び8の振付けと同様の動作である、
 次に、②の動作についてみると、原告は、両手を胸の前で交差させることで、マウナレオ(母親)への深い愛を表現していると主張するところ、これは、両手を胸の前でクロスするというaloha(愛)に対応するハンドモーションである(乙5)。
 続いて、③の動作についてみると、原告は、両手を腰の高さで前に伸ばし、掌を下に向け、ゆっくり左右に広げることで、静けさを表していると主張するところ、ここでのlaʻi(静けさ)と同義のmālie(静かな)に対応するハンドモーションが両手を下に広げるものであること(乙26)に照らせば、laʻiという歌詞から想定される動作であると認められる。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ナ)Aloha ē、aloha ē
a alohaは「愛する」の意味であり(乙33)、原告は、これを「愛するあなた本当に愛しい」と意訳している。
b 本件振付け17では、大きく分けて、①左腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし左胸の前に添え掌を上に返し、右腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし、左胸の前に添えた左掌の周りを一周回し、右掌を上に返しながら、体の前を回すように右斜め前へ右腕を伸ばしていき、顔と目線は、はじめは両手の方(やや左下)へ向け、右手を右斜め前に伸ばしていくところで右斜め前へ向ける、②右手は同じ状態のまま、左腕の脇を閉じて肘を曲げ、左掌の指先を伸ばし一度口に当ててから、左掌を上に向けた状態で左腕を左斜め前へまっすぐ伸ばしていき、顔と目線は、左斜め前に向ける、③左腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、掌を下に向け指先を伸ばし左胸の前に添え左掌を上に返す。右腕は脇を開き、肘を曲げた状態で、右掌を下に向け指先を伸ばし、左胸の前に添えた左掌の周りを一周回し、右掌を上に返しながら、体の前を回すように右斜め前へ右腕を伸ばしていき、顔と目線は、はじめは両手の方(やや左下)へ向け、右手を右斜め前に伸ばしていくところで右斜め前へ向け、この一連の動作を、右回りのターンをしながら行う、④右手は同じ状態のまま、左腕の脇を閉じて肘を曲げ、左掌の指先を伸ばし一度口に当ててから、左掌を上に向けた状態で左腕を左斜め前へまっすぐ伸ばしていき、顔と目線は、左斜め前に向ける、という4つのパートからなる動作をしている。
 これらの動作について、原告は、胸の前で腕を回して右手を右斜め前に伸ばしていく動作、左手を口に一度あてて左斜め前に伸ばしていく動作もいずれも、永遠に続く愛を表現していると主張する。
 まず、①の動作についてみると、甲35の左下の振付けは間奏で同様の振付けをしており、また、本件振付け13(上記ウ)に対応する楽曲(Ua Lanipili I Ka Nani O Papakōlea)の間奏(上記ウ(ウ))に対応する振付けの1つである甲51の左下の振付けも同様のものであるところ、「Aloha ē、aloha ē」の直後が終奏であることに照らせば、曲想から想定される動作であると認められる。
 次に、②の動作についてみると、手を口元に置いた後に手を前に伸ばすというalohaに対応するハンドモーション(乙3)と同様である。続いて、③の動作についてみると、上記①の動作をターンをしながら行うというものであるところ、ここは単純に①の動作と同じ動作を繰り返すことをしない点に工夫は見られるものの、そのために通常のターンを組み合わせることに有意な差異があるとはいえない。
 さらに、④の動作についてみると、上記②の動作と同様である。
c したがって、ここの歌詞に対応する振付けは、原告の個性が表れているとは評価できない。
(ニ)終奏
a 本件振付け17では、大きく分けて、①左腕は下に降ろし、スカートを軽く握り、右腕は軽く肘を曲げ正面へ伸ばし、右掌を下へ向け、右手の指先を正面へ伸ばしつつ、右腕をゆっくりと一度シェイクさせ、顔と目線は右斜め前へ向け、左腕の脇を開き、左腕の肘を曲げ、左掌を下に向け指先を伸ばした状態で左胸の前に水平に添え、右腕は下におろし、スカートを軽く握り、顔と目線は左斜め前へ向ける、②体を右側へ向け、指先を伸ばして左掌を下に向けた状態で、左腕を胸の高さでまっすぐ右側に伸ばし、伸ばしきったところで一度シェイクし(波打たせ)、このとき、顔と目線は体の左側(ステージの正面側)へ向け、続いて、体を左側に向け、指先を伸ばして右掌を下に向けた状態で、右腕を胸の高さでまっすぐ左側に伸ばし、伸ばしきったところで一度シェイクし(波打たせ)、このとき、顔と目線は体の右側(ステージの正面側)へ向ける、③体の向きを斜め右斜め前に向け、指先を伸ばして掌の下に向けた状態で両手を伸ばしつつ、腰の前あたりに降ろし、掌を下に向けたまま、両手の掌を揃えて平行に揃えて腰の前あたりに置くような動作をしてから、両手の掌を返して前に向け、その後両手の掌を左右にゆっくり少し開き、このとき、顔と目線は、両手の方へ向けてから、斜め上に向ける、という3つのパートからなる動作をしている。
 まず、①及び②の動作についてみると、原告は、①及び②の動作について、楽曲全体の解釈、イメージ、楽曲全体のテンポ、リズム等を考慮しつつ、楽曲の旋律を表現したと主張するところ、①の動作は上記(カ)の間奏と同様の動作であるから、類例があり、②の動作は、乙35の10の振付けと同様の動作である。続いて、③の動作についてみると、原告は、この楽曲のモチーフであるマウナレオの裾野を表現していると主張するところ、冒頭の「He aloha nō ʻoMaunaleo」の歌詞(上記(ア))の中で「Maunaleo」に対応する振付けと同様であるから、類例自体は存在しており、楽曲のタイトルが「Maunaleo」であることに照らせば、これをエンディングの動作として選択することも曲想から想定し得ることである。b したがって、ここの終奏に対応する振付けは、原告の個性が表現されているとは評価できない。
(ヌ)小括
 以上のとおり、本件振付け17には、完全に独自な振付けが見られる((ケ)①、(チ)②〔及び(セ)、(テ)〕)上、他の振付けとは有意な差異があるアレンジもある((ウ)①、(エ)、(コ)②〔及び(キ)、(セ)、(ツ)、(テ)〕)から、全体として見た場合に原告の個性が表現されており、全体としての著作物性を認めるのが相当である。
2 争点2(本件各振付けの著作権の譲渡又は永久使用許諾の有無)について
 被告の元従業員であるP2と原告の通訳担当者との間のメールのやりとり(乙138)によれば、平成25年12月に、第三者が作曲したあるオリジナルソングに原告が振付けを施した件について、楽曲と振付けの著作権を被告に1曲3000ドルで譲渡することについてやりとりがなされたことが認められる。しかし、同月の段階では金額面で折り合いがつかず、平成26年1月9日のやりとり(乙139)では、原告側から著作権を双方が保有するとの提案がされた後、最終的にこの件がどのようにされたのかは明らかでなく、金員が実際に支払われたのかも明らかでない。
 また、仮にこれらのやりとりで当該楽曲については著作権が譲渡ないし永久使用許諾がされたのだとしても、本件各振付けについても同様にされたのか否かは明らかでない。
 そして、他に本件各振付けについて著作権が譲渡ないし永久使用許諾がされたと認めるに足りる証拠はないから、その事実は認められない。
3 争点3(被告が本件各楽曲を演奏し、本件各振付けを上演し又は上演させるおそれの有無)について
(1)前提事実記載のとおり、本件振付け6等については、被告は、その著作物性を否認し、原告との本件コンサルティング契約が終了した翌日の平成26年11月1日以後も、ホイケ等のイベントやそのための練習において使用していると認められる。したがって、本件振付け6等については、被告が今後も使用するおそれがあると認められる。なお、被告は、間奏等の歌詞のない部分については、本件振付け6等と同じ振付けによるわけではなく、インストラクター等が自由かつ臨機応変に踊っていると主張するが、そうであるとしても、間奏等を含めて本件振付け6等のとおり上演するおそれがあることは否定できない。
 そして、弁論の全趣旨によれば、ホイケ等のイベントやその練習においては、被告代表者やKHAの会員であるインストラクターがフラダンスを踊ることもあるものの、実際にフラダンスを踊るのは主としてKHAの会員であると認められるが、証拠(乙61ないし82、84ないし134)及び弁論の全趣旨によれば、①ホイケは、フラダンスの発表会であり、KHAでは、「フラフェスティバル」の名称で、各地区ごとに年1回、各教室に属する会員が、通常週に1回から2回のレッスンで、半年以上をかけて1曲の振付けを練習し、当日に他の教室の会員らの前で披露するもの、②コンペティションは、KHA所属の教室間で順位を競う大会で、各教室ではこれに先だって対象曲の練習が少なくとも数か月前から行われるもの(なお、これとは別に他団体との間で対外的に順位を競うコンペティションもあるが、平成26年11月1日以降にこの対外的なコンペティションは行われていない。)、③フラパーティーは、年末又は年始に各地区で行われるパーティで、参加したKHAの会員が曲に合わせて自由に踊るステージを中心として構成される場合が多いカジュアルなイベントであり、いずれもKHAが主催し、事前準備や当日のプログラムないし進行を差配するものであったと認められる。これらからすると、各イベントにおける会員によるフラダンスの上演は、そのための練習も含めてKHAの管理の下で行われるものと評価し得るもので、これらのイベントによる発表や交流はKHAの会員の維持・増加のために行われるものと認められるから、会員による上演は、被告ないしKHAが上演させたものと評価し得るものである。
 したがって、被告には、本件振付け6等を自ら上演し又は会員等に上演させることにより、原告の著作権を侵害するおそれがあると認められる。
(2)他方、本件各楽曲及び本件振付け1等については、被告は原告の著作権を認めた上で、今後も使用する予定はないと主張しており、実際にも、平成26年11月1日以降のホイケ等のイベントでは使用されなかったと認められる(乙61ないし82、84ないし134)。したがって、本件各楽曲及び本件振付け1等については、被告が演奏し又は自ら上演し若しくは会員等に上演させるおそれがあるとは認められない。
(3)以上によれば、原告の本件各振付けの上演等の差止請求及び本件各楽曲の演奏の差止請求は、本件振付け6等の上演等の差止めを求める限度で理由がある。
4 争点4(被告による本件各楽曲及び本件振付け1等に係る著作権侵害行為の有無)について
 上記争点3についての判断のとおり、本件振付け6等については、被告が、本件コンサルティング契約が終了した翌日である平成26年11月1日以後に、ホイケ等のイベントにおいて自ら上演し又は会員等に上演させたことがあると認められる。なお、被告は、間奏等の歌詞のない部分については、本件振付け6等と同じ振付けによるわけではなく、インストラクター等が自由かつ臨機応変に踊っていると主張するが、仮に間奏等の振付けが本件振付け6等と異なるとしても、フラダンスが楽曲の歌詞を表現する舞踊であることからすると、歌詞のない部分の振付けの重要性は低いから、それにより著作権侵害を免れることにはならない。
 他方、本件各楽曲及び本件振付け1等については、同日以後に被告が演奏し又は自ら上演し若しくは会員等に上演させたことがあるとは認められない。
 したがって、平成26年11月1日以降の被告による著作権侵害行為として認められるのは、本件振付け6等(又はその間奏等以外の部分)を自ら上演し又は会員等に上演させたことにとどまるから、以下ではこれを前提に被告の損害賠償責任を検討する。
5 争点5(被告の故意又は過失の有無)について
 被告が、前提事実記載のとおり、本件振付け6等について原告から上演すること等を禁止するよう求められていたにもかかわらずこれらを上演する等していたという経緯に照らせば、本件振付け6等を上演する等した行為が原告の著作権を侵害することを予見することは可能であったというべきであるから、それらの振付けに係る著作権侵害行為について被告に少なくとも過失があると認められる。
 これに対し、被告は、本件振付け6等に著作物性があるという確たる認識を有していなかったことを根拠に、本件振付け6等に係る著作権侵害行為に過失はあったとはいえないと主張し、実際にも、被告は、平成26年10月の時点で、弁護士から、原告のフラダンスの振付けには原則として著作物性はないとの意見書を得ていたと認められる(甲3)。しかし、被告において本部長を務めていたP3が、クムフラがフラダンス教室において指導することをやめた後にも当該クムフラの創作した振付けを演じることができるか否かということが問題となっていた事例を聞き及んでおり(証人P3・28ページ)、上記のとおり被告は原告による振付けの著作物性についても問題意識を持っていたことからすると、舞踊の著作物が著作物の一つとして法文上明記される(著作権法10条1項3号)一方、フラダンスの振付けの著作物性を否定する確定判例もない中で、1通の弁護士の意見書を得ていたからといって、過失を免れるものではないというべきである。したがって、被告の主張は採用できない。
6 争点6(原告の損害の有無及び額)について
(1)本件コンサルティング契約の内容及び報酬の趣旨
ア 本件コンサルティング契約の内容に、被告がKHAの会員に対するフラダンスの指導に関する助言等を求めた場合に、原告がこれに応じることが含まれており、その報酬(月額1000ドル)がこの指導助言の対価の趣旨を含むことについては、当事者間に争いがない。
 他方、原告が、従前から、自ら創作した振付け及び作曲した楽曲をKHAの会員がホイケ(フラフェスティバル)、フラパーティ及びコンペティションと呼ばれるイベントで上演・演奏したり、これらのイベントに参加するための練習として教室で上演・演奏したりすることを許容していたことは明らかであるが、原告は、被告と本件コンサルティング契約を締結するに当たって、自ら創作した振付け及び作曲した楽曲の使用許諾料を、その報酬に含めることについて明示の合意をしたとは認められず、また、その他原告が、本件コンサルティング契約以外の場面で、被告との間で、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の使用許諾料の支払を受ける旨の明示の合意をしていたとも認められない。そのため、本件コンサルティング契約の内容として振付けや楽曲の使用許諾が含まれるか、その報酬が振付けや楽曲の使用許諾料としての趣旨を含むかが争点となっている。
イ そこでまず、原告が被告ないし被告を通じてKHAの会員に対して行っていた助言等の状況についてみると、証拠(甲63、64)及び弁論の全趣旨によれば、次のとおりと認められる。
(ア)原告は、KHAが年間3ないし4回程度開催するワークショップ等において、KHAの会員に対し、事前に周知した課題曲について、ハワイから同行させた「アラカイ」と呼ばれる補助者に振付けを披露させながら、振付けや楽曲について解説した上、参加者からの個別の質問に答える形で指導した。
(イ)原告は、ワークショップ等のために来日した機会に、コンペティションに参加するKHAの会員に対しても、コンペティションで上演する振付けや使用する衣装等について指導していた。
(ウ)原告は、ワークショップ等で来日した機会以外でもメール等により助言ないし指導を行っていたが、例えば、平成25年7月から平成26年10月までの間において、原告がワークショップの機会以外に行った被告ないし被告を通じたKHAの会員に対する助言等は、対外的なコンペティションでの楽曲、歌詞、衣装や髪型について、メールを通じた形で行われた合計5回のみであった(甲66ないし71)。
 これらの指導助言のうち、ワークショップ等におけるものについては、原告は、本件コンサルティング契約とは別にワークショップ等ごとに個別に準委任契約を締結し、報酬(その報酬額は、1時間当たり400ドルであった。甲23の2)を指導の対価として受け取っており、そのことについては、当事者間に争いがない。そして、これは上記の(ア)に関するものであるから、本件コンサルティング契約に基づく指導助言は、上記の(イ)及び(ウ)に関するものであったと認められる。この点について原告は、上記の(イ)の報酬もワークショップ等ごとの個別の準委任契約の報酬に含まれるとの趣旨の主張をするようにも解されるが、甲23の2によれば、ワークショップ等での報酬は、各カリキュラムのレッスン時間に基づいて算定されていたと認められるから、原告の主張は採用できない。
 そして、上記の(イ)は年3回から4回程度のワークショップ等の合間での指導にとどまり、上記の(ウ)は16か月の間に振付け自体ではない事柄についてわずか5回の助言指導にとどまるから、助言指導が全く行われなかった月もあったと考えられるのに対し、本件コンサルティング契約の報酬が月額1000ドルという定額であることからすると、本件コンサルティング契約は、原告が被告及びKHAの会員に対してフラダンスを指導する地位に継続的に就き、被告がKHAの会員に対するフラダンスの指導に関する助言等を求めれば原告から助言等を受けられるといういわば顧問契約的なものであり(被告も、甲11書面において、本件コンサルティング契約のことを「顧問契約」と称している。)、その報酬(月額1000ドル)も、上記のような助言等を現実に行ったこと自体に対する対価であるわけではなく、原告が上記のような地位に就くことや、助言等を求められればその都度助言等を行うということに対する対価の趣旨を含むいわば顧問料的なものであると認められる。
ウ ところで、甲14によれば、ハワイにおけるフラの文化においては、フラの振付けはハワイの文化や自然等への深い理解が必要であり、先代のクムフラの下で長年にわたり修行を積んで認められたクムフラのみができるとされており、クムフラの意に反して、振付けの内容をアレンジしたり、振付けを無断で使用したりすることは許されないとされていることが認められる。そして、原告は、平成18年2月発行の「フラ事典」(甲9)では、創立したハーラウがカウアイ島最大の生徒数を誇るハーラウとなっており、メリー・モナーク・フェスティバルでも上位入賞を果たすほど素晴らしいクムフラであると紹介され、平成20年2月発行の「フラの奥深い魅力とハワイの最新情報を満載したビジュアルマガジン」(甲8)では、カウアイ島を代表するハーラウのクムフラであるとしてインタビュー記事が掲載されるほど高い評価を受けているクムフラであり、本件での主張内容からしても、クムフラの一員として上記のようなハワイのフラ文化の規律を重んじる信条を有していると認められる。
 これらのことからすると、原告にとって、被告及びKHAの会員に対してフラダンスを指導する地位に継続的に就くということの意味は、原告が、現代フラのクムフラとして、被告ないしKHAを自己のハーラウとして受け入れ、自己が創作した振付けの使用を許諾し、その指導助言を行うということを一体として意味するのであり、他方、被告にとって、上記のような高名なクムフラである原告が指導者として顧問たる地位に就いているということは、KHAの正統性が根拠付けられるとともに、KHAに入会した暁には原告が創作した振付け及び作曲した楽曲を演じられるだけではなく、その原告自身から振付け指導も受けられるということをアピールすることができるという、利益を追求する営利企業である被告にとって大きなメリットを生むものであると考えられる。そうすると、本件コンサルティング契約は、単に、被告がKHAの会員に対するフラダンスの指導に関する助言等を求めれば原告に応じてもらえるというものにとどまらず、原告が被告ないしKHAのクムフラとして活動し、被告が原告のクムフラとしての地位や権威を幅広く利用するという、いわばクムフラ契約とでも称すべき契約であると解するのが相当である。したがって、その報酬には、原告が顧問(クムフラ)たる地位に就いていることに対する対価の趣旨だけでなく、このことと一体のものとして、上記のような助言等を求められればその都度これに応じてもらえるということに対する対価の趣旨はもちろん、原告に振付けの創作・楽曲の作曲をしてもらった上で、これらの使用許諾を受けることの対価の趣旨も含まれていると認めるのが相当である。したがって、原告は被告に対して本件振付け6等を無償で許諾していたわけではないから、その無断使用について使用許諾料相当額の損害が発生したと認められる。
(2)原告の損害額の算定
ア 上記(1)のとおり、原告が、被告に対し、本件コンサルティング契約により、自ら創作した振付け及び作曲した楽曲についての許諾の趣旨を含む月額報酬が1000ドルであったことは、本件の使用許諾料相当額を算定にするに当たって最も重視すべき事情である。
イ ところで、原告は、本件コンサルティング契約の月額報酬の全額が使用許諾料であると主張する。しかし、上記(1)のとおり、本件コンサルティング契約には、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の使用許諾以外の要素が含まれているから、使用許諾料は月額報酬の一部であったと認められる。
 次に、原告は、原告が被告のクムフラとなる本件コンサルティング契約を離れて振付けの使用許諾だけを行うことはあり得ないから、月額報酬の全額を使用許諾料相当額とするべきであると主張する。
 確かに、上記のとおり本件コンサルティング契約が、原告が被告ないしKHAのクムフラとして活動することを一体的に約する契約であり、原告がハワイのフラ文化を重んじる信条を有していることからすると、原告がクムフラの活動のうちの振付け及び楽曲の使用許諾だけを独立して契約するという事態は考え難いようにも見える。しかし、上記争点2の判断で見たとおり、原告は、平成25年12月から平成26年1月にかけて、被告との間で、自己が創作した振付けについて、その著作権を有償で被告に譲渡したり、共同保有したりする(これは実質的には永年使用許諾と同じことになる)ことの対価額を協議しているのであり、このことからすると、原告は、自己が創作した振付けについて、自己がクムフラとして関与・指導するか否かにかかわらず、その自由な使用権ないし処分権を被告に与えてこれを経済的に利用することを条件次第では認める考えを有していたと認められる。したがって、原告がクムフラの活動のうちの振付け及び楽曲の使用許諾だけを独立して契約するという事態はあり得たというべきであり、これに反する原告の主張は採用できない。
ウ そこで、被告が、本件コンサルティング契約におけるのと同様に、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲全般(本件振付け6等に限られない)の使用を行う場合の使用許諾料相当額を検討すると、上記のとおり、本件コンサルティング契約には種々の要素が含まれると認められるところ、被告が営むフラダンス教室事業にとって、会員がフラダンスを踊ることができるというのは根幹的なことであるから、本件コンサルティング契約において振付けの使用許諾が占める割合は高いものがあったと認められる。次に、本件コンサルティング契約に基づく指導助言は、ワークショップ等の機会を利用した指導や、メールでのわずかなものに限られていたから、それらが占める比重はさして高いものではなかったと認められる。他方、高名なクムフラである原告が指導者として顧問たる地位に就き、それによりKHAの正統性が根拠付けられるだけでなく、振付けの創作者たるその原告自身から振付け指導も受けられるということをアピールすることができる点は、被告が会員を集めるに当たり相当程度寄与したものと考えられるから、この点にも相応の比重があったと認められる。
 これらの点を考慮し、かつ、被告は、原告が自己が創作した振付けの使用をやめるよう求めたにもかかわらず、本件振付け6等の使用を継続したという経緯を併せ考慮すると、被告が、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲全般の使用を行う場合の使用許諾料相当額は、月間700ドルと認めるのが相当であり、原告の主張は採用できない。
エ 次に、上記(1)のとおり、本件コンサルティング契約の月額報酬は、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲を当該月において上演・演奏した振付け・楽曲数やその上演・演奏回数等にかかわりなく定額であったのに対し、本件で検討すべき原告の損害は、あくまで、具体的な著作権侵害行為に係る使用許諾料相当額、すなわち、本件振付け6等のみの上演による使用許諾料相当額である。このことからすると、上記月額700ドルの全額を本件での使用許諾料相当額と見るのは相当ではなく、原告が創作した振付け全体の被告による上演状況の中での、本件振付け6等の上演状況を踏まえて算定すべきである。そして、具体的には、本件での本件振付け6等の無断上演に係る使用許諾料相当額は、無断上演が行われた月について、月額使用許諾料相当額700ドルに、その月の原告による振付けの全上演回数に占める本件振付け6等の上演回数の割合を乗じることによって算定することとするのが相当である。
オ そこで、原告が損害賠償請求対象期間と主張する平成26年11月から平成29年10月の間について、KHAが開催したホイケ、フラパーティ及びコンペティションにおける本件各振付け及び本件各楽曲を始めとする原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況についてみると、証拠(乙61ないし82、84ないし134)及び弁論の全趣旨によれば、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「原告創作振付け・作曲楽曲の総数」欄記載のとおり、原告が創作した振付け・作曲した楽曲が合計732回上演・演奏されたことが認められ、本件各振付け及び本件各楽曲個別の状況については、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「本件振付け6(エ・ピリ・マイ)」欄、「本件振付け11(レイ・ホオヘノ)」欄、「本件振付け13(ウア・ラニピリ・イ・カ・ナニ・オ・パパコーレア)」欄、「本件振付け15(ブロッサム・ナニ・ホイ・エ)」欄、「本件振付け16(マプ・マウ・ケ・アラ)欄及び「本件振付け17(マウナレオ)」欄記載のとおり、6曲合計で90回上演されたと認められる。
 まず、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「月」欄が赤色で着色されている月は、当該月に開催されたイベントにおいて本件各振付け及び本件各楽曲のうちいずれかの振付け又は楽曲が少なくとも1回は上演又は演奏されている月であり、侵害該当月である。
 次に、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「月」欄が黄色で着色されている月は、当該月にそもそもイベントが開催されておらず、これに伴って本件各振付け及び本件各楽曲がイベントにおいては1回も上演又は演奏されていない月であるものの、KHA内のコンペティションに参加する会員が通常少なくとも数か月前から当該コンペティションで上演する振付けを教室で練習のために上演していることに照らせば、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「イベント」欄が黄色で着色されている「コンペ」のための練習として上演された月と認められるから、侵害該当月であると認めるのが相当である。
 さらに、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「月欄が青色で着色されている月は、当該月にそもそもイベントが開催されておらず、これに伴って本件各振付け及び本件各楽曲がイベントにおいては1回も上演又は演奏されていない月であるか、又はイベント自体は開催されているが、当該イベントにおいて本件振付け6等が1回も上演又は演奏されていない月であるものの、ホイケに参加する会員が通常少なくとも半年以上前から当該ホイケで上演する振付けを教室で練習のために上演していることに照らせば、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「イベント」欄が青色で着色されている「ホイケ」のための練習として上演された月と認められるから、侵害該当月であると認められる。
 他方、別紙「原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表」の「月」欄が緑色で着色されている月は、イベント自体は開催されているものの、当該イベントにおいて本件各振付け及び本件各楽曲が1回も上演又は演奏されていない月であるところ、当該月より後で最も近いところで開催されたホイケも半年以上後に開催されたものである上、パーティーにおいては、自由参加型のカジュアルなイベントであることから、その参加に向けて振付けの練習を重ねるとは認め難いことに照らせば、侵害該当月であるとまでは認められない。
カ そうすると、平成26年11月から平成29年10月の間(36か月間)の損害賠償請求対象期間のうち侵害該当月は、平成27年10月を除く合計35か月間であり、当該侵害該当月において、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲が上演・演奏された回数が726回(平成26年11月から平成29年10月までの間の36か月間に上演・演奏された回数の合計732回から、平成27年10月に上演・演奏された回数6回を控除した回数である。)、このうち本件振付け6等が上演された回数が90回(平成27年10月には、本件各振付け及び本件各楽曲は上演・演奏されていない。)である。これらを踏まえると、本件振付け6等の使用許諾料相当額は、700ドルに、侵害期間35か月間を乗じた上で、原告が創作した振付け及び作曲した楽曲が上演・演奏された回数(726回)に占める本件振付け6等が上演された回数(90回)の割合を乗じた3037ドル(1ドル未満切捨て)とするのが相当である(700×35×(90÷726)≒3、037)。
 もっとも、原告は、これを日本の通貨によって請求しているから、口頭弁論終結時の外国為替相場により外国の通貨から日本の通貨への換算する必要がある(最高裁昭和50年7月15日第三小法廷判決・民集29巻6号1029頁参照)。この点、本件口頭弁論終結日である平成30年5月15日の外国為替相場におけるレート(日本銀行発表・東京市場スポット中心相場)が1ドル109.7円であったことは公知の事実であるから、使用許諾料相当額は、日本円に換算すると、33万3158円(1円未満切捨て)となる(3、037×109.7≒333、158)。
(3)弁護士費用相当額
 上記(2)の認容額、被告の著作権侵害行為の差止請求が併合提起されていることを始めとする本件に現れた一切の事情を考慮すると、被告の著作権侵害行為と相当因果関係に立つ弁護士費用の損害額は、10万円と認めるのが相当である。
(4)小括
 以上によれば、原告の著作権侵害に基づく損害賠償請求は、43万3158円及びこれに対する不法行為の後である平成29年11月1日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。
7 争点7(本件解除が原告にとって不利な時期にされたものか)及び争点8(本件解除についてやむを得ない事由があったか)について
(1)判断の基礎となる事実関係
 前提事実、証拠(特に掲記した書証のほかは、原告本人及び甲39の2、証人P3、乙29、31及び38)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実関係が認められる。
ア 本件準委任契約締結前の状況
(ア)KHAの運営方法
 KHAは、熊本に本部と事務局を、九州地方や中国地方に支部を置き、本部教室において一般会員の指導を行うほか、インストラクター資格を取得した所属インストラクターが開いた教室で一般会員の指導を行い、インストラクター会員及び一般会員から会費を徴収している(甲2)。また、これらの日常的な指導とは別に、前記のとおり、年3回ないし4回程度、原告が来日して直接指導するワークショップを開催しており、それについては別途のレッスン料を徴収していた。また、KHAは、退会に関連して、「当協会は、所属していただいている会員様に協会の振りを使用し教えていただき、踊っていただいております。退会されますと当協会が楽曲現盤権を持っておりますので、当協会の振りを使用し、踊ることは出来ません。」との方針をとっていた(甲2)。
(イ)ワークショップ等に関する会計状況
 KHA及びKPDAがKHAの会員向けに開催するワークショップ等については、被告において、参加者から徴収したレッスン料(=売上高)から経費を差し引いた利益を取得しており、CSHA及びKPDAがCSHAの会員向け開催するワークショップ等については、本件別会社において、参加者から徴収したレッスン料(=売上高)からこれを差し引いた利益を取得していた。
 KHAの会員向けの開催分に係る平成24年及び平成25年の秋のワークショップ等に関する売上高等については、以下のとおりであった。
a フラダンスに関する売上高(KHA開催分)
(a)平成24年(乙44)
・参加者350名
・売上高834万6000円
(b)平成25年(乙45)
・参加者356名
・売上高870万3500円
b タヒチアンダンスに関する売上高(KPDA開催分)
(a)平成24年(乙58)
・参加者218名
・売上高303万5000円
(b)平成25年(乙59)
・参加者199名
・売上高279万円
c 売上原価
・KHA開催分に係る平成24年及び平成25年の秋のワークショップ等を開催するために要した売上原価(フラダンス関する分とタヒチアンダンスに関する分を併せたもの)は、568万2700円であった(弁論の全趣旨)。
イ 本件準委任契約締結後の状況
(ア)原告の被告に対する不信感
 原告は、平成24年10月に被告前代表者が死亡し、その娘である被告現代表者が被告の代表者となった以降(甲1)、被告現代表者及び同年1月に被告の本部長に就任したP3を中心とする現経営陣に不信感を抱くようになっていた(原告本人1、12ページ)。また、原告は、KHAでの報酬額が不当に低額であると考えるようになり、被告に対して増額を求めていたが、被告からは回答がされなかった(乙2、証人P3・2ページ)
(イ)本件準委任契約の締結及び原告からの乙2書面の交付
 原告は、平成26年3月、被告から、KHAが同年秋に開催する本件ワークショップ等において、フラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行うことについての委託を受け、これを承諾した(本件準委任契約の締結)。
 しかし、原告は、(ア)の事情から、現経営陣と共にKHAの会員にフラダンス及びタヒチアンダンスを指導していくことはできないと考えるようになった(原告本人1、15ページ)。そこで、原告は、同年6月18日、被告現代表者に対し、書面(乙2、以下「乙2書面」という。)を交付した(原告本人1ページ、証人P3・2、14、15ページ)。乙2書面の中には、報酬額についての交渉をしたが、その返信がなく、「このような私に対する返信の遅滞により、私の仕事はもうあなたの会社にとって重要ではないのだと信じるに至り、そして、この件についてのあなたの行動は私に不敬を示しているものと判断致しました。」、「九州ハワイアン協会クムフラ、及びKPDA主宰として、2014年4月15日をもってここに辞表を提出いたします。」との記載があるとともに、「KHAはその生徒が辞める時に、“今後KHAで習った振り付けを教えること、は許されません”と要求しています。私も同様の事を私の生徒であるP4さん、またその会社に対して要求致します。私はもうあなたのクムフラではありません。ゆえに26年間に渡り私が教えたフラ、及びタヒチアンの振り付けは今後一切使用しないでください。」との記載があった。
 これに対し、被告側は、原告からの報酬の増額要求や日頃の態度を好ましく思っていなかったため、同年10月の本件ワークショップを最後に原告との関係を解消することとした。なお、被告では、本件コンサルティング契約終了後も、原告が振り付けて指導した振付けを演じることはできると考えていた(証人P3・3ページ)。
(ウ)被告による甲36書面の配付
 被告は、平成26年6月には、本件ワークショップの対象曲3曲(A-1からA-3)のうち2曲については原告が作詞作曲を手掛けたもの(本件振付け2及び3、本件楽曲2及び3)とすることなど同年秋のワークショップ等の予定が具体的に決まったことから、同年7月末頃、「2014年秋のワークショップご案内」と題する書面等(乙24、甲36。以下「甲36書面」という。)を作成した(証人P3・2、3ページ)。甲36書面の中には、「インストラクターの方は、A-1、A-2の最低どちらか一つを受講していただくことが必須となっております。また、本部教室をご指導していただいております代講のインストラクターの皆様におかれましては、この機会に受講条件に合う曲を全て受講していただき、より質の高いレッスンを生徒様へご提供していただきたいと思います」との記載があるとともに、申込みの締切りが同年9月10日、振込みの締切りが同月19日との記載があった。
 被告は、同年8月上旬、KHAの会員に対し、甲36書面を送付した(証人P3・3ページ)。
(エ)原告の関係者による甲13書面の配付
a 原告は、同年7月27日、「九州ハワイアン協会トップインストラクターの先生方へ」から始まる書面(甲12、13。以下「甲13書面」という。)を作成した。甲13書面の中には、次の記載があった。
・「会長先生がお亡くなりになった後、新しくP4会長とP3さんが責任者として就任されました。そして私はこの事で様々な方向性が、KHAの会員の皆様、またP4会長のご家族にとってもかなり違うものになってきた、と思いました。会社にとっての大きな方向転換により、私は突然トップインストラクターの皆様、そしてKHAの会員の皆様にクムフラとしてもはやKHAに留まる事はできません、との旨をお伝えしなければならなくなったのです。この進もうとしている方向性は決して私の賛同するところではなく、クムフラとして、不穏な、尚且つ不快、悲惨な環境下で仕事はできない、と決心することとなった次第です。P4会長による責任者の人選に基づいて起こってきた不健全な、また悲惨な環境下では、私はKHAに留まることはできません。私は謹んで九州ハワイアン協会のクムを辞任させて頂きたいと思います。」
・「KHAから私が離れることにより、KHA会長であるP4さんに、私が26年間に渡り、与え続けてきた振り付けを使用することは、どうか止めて頂きたい、と申し出ました。この“振り付けを使わないでください”という決意は、KHAに属している会員の皆様を傷つけようと意図しているものではありません。これは私が離れてしまう以上、今後私の振り付けに関して、皆様に十分な指導ができなくなるからです。KHA会員の皆様、関係者の皆様に私がこれらの振り付けの生みの親であり、また責任者でもあるという事を心より理解して頂きたいと思います。この決定は私の心からの心情であり、私のフラとその文化に対する深い思いから下したものです。私はKHAのクムフラとして、会員の皆様を敬愛し、愛して参りました。この決定は決して皆様を見捨てるものではないという事をご理解頂きたいと思います。これはただ私の振り付け創作に対する心からの大切な創造性、その権利を守りたいだけなのです。」
・「この申し出は、2014年11月1日から実施されるものとします。この申し出がP4会長、またその他のいかなる人によって無視された場合は断固として対抗措置をとる所存です。この状況に対する救済策についての話し合いはお受けしたいと思っております。私の九州ハワイアン協会におけるクムフラとしての指導は2014年10月31日まで遂行致します。」
b 被告の元事務局長で、同年6月末で退職したP5は、原告の通訳担当者者らと共に、平成26年8月中旬、KHAの会員を対象として説明会を開催し、その際、その聴衆であるKHAの会員に対し、甲13書面を交付して説明し、設立を予定していた西日本ハワイアン協会についても説明した。(証人P3・4、12ページ。なお、原告は、同説明会で西日本ハワイアン協会についての説明がされたことを否認するが、原告が、甲13書面において、関係解消後はKHAにおいて原告が創作した振付けを使用することを禁止する旨と、KHA会員を見捨てるわけではなく救済策については話し合う旨を述べていることや、後記のとおりこの説明会の直後の同年9月5日に西日本ハワイアン協会を実質的に運営する新会社が設立されており、この説明会の時点で既に西日本ハワイアン協会がKHAに代わる会員の受け皿となることが企画されていたと推認されること、KHAが同年10月に発行した「九州ハワイアンだより」でも、甲13書面を配布した上記の説明会を「新会社説明会」としていること[甲3]からすると、原告の主張は採用できない。)。
 被告は、KHAの会員から、上記説明会において甲13書面が交付されたことを聞き及んだことから、同月下旬、甲13書面を入手した(証人P3・3、4ページ)。
(オ)被告による甲11書面の配付
 被告は、甲13書面を入手した後も、従前程度の参加者数がいれば採算の観点からは本件ワークショップ等を開催することは可能であり、原告から指導を受けた振付けに関しては「現盤権」を有しているため、本件コンサルティング契約終了後も、たとえ原告が演じることを禁止してもこれを演じることは可能であると考えていたことから、KHAの会員に対し、同月20日付けの「九州ハワイアン協会会員各位」から始まる書面(甲11。以下「甲11書面」という。)を配布して、被告の立場を説明した(証人P3・6ページ)。甲11書面の中には、次の記載があった。
・「大変残念ではありますが、長年にわたりフラの指導をいただいていたP1先生は10月のワークショップを最後に九州ハワイアン協会との顧問契約を終了することになりました。」
・「いままでの振り付けについてはそのまま使えますのでご安心ください」。
・「今後のフラアドバイザーですが今のこの時点で一人に決めることはせず、数人のクムフラとの出会いにおいて、会員様・協会との相性を考え、決めていきます。」
・「九州ハワイアン協会ではKPDAは継承できませんが協会主催のイベント・ホイケ以外では踊ることができます。」との記載があった。
(カ)インストラクター及び会員の退会
 同年8月下旬から同年9月上旬にかけて、KHAの会員から退会を希望する意向を示す書面が送付されてきた状況は、以下のとおりであった。
a 同年8月27日頃インストラクター1名(乙49)
b 同年9月3日頃
(a)インストラクター1名及びその教室の会員33名(乙50)
(b)インストラクター1名及びその教室の会員25名(乙51)
(c)インストラクター1名及びその教室の会員83名(乙52)
(キ)西日本ハワイアン協会の設立等
a 平成26年9月5日、P5を代表者として、フラダンスの教授等を目的とするレイ・プロダクション株式会社が設立され(乙53)、同社が西日本ハワイアン協会を実質的に運営するものとされた。同社には、原告の通訳担当者や、被告の従業員でKPDA事務局も担当していたP2やP6が参加した。
b P2は、同月6日、被告に無断で、九州ハワイアン協会事務局及びKPDA事務局名義で、「KPDA会員様各位」と題する文書を作成し、被告の会員に配布した(甲30)。そこには、次のような記載があった。
・「大変残念ではありますが、長年にわたりご指導を頂いておりましたP1先生が、10月のワークショップを最後に九州ハワイアン協会との顧問契約を終了されることになりました。」
・「九州ハワイアン協会(KHA)としての今後の対応」、「KHAでは2014年11月1日より、KPDAを継承致しません。」、「今まで習われた曲(ティアレクラス曲も含む)は、協会主催のホイケ以外では踊ることが出来ます。」
・「KPDA事務局としての今後の対応」、「KPDA事務局は2014年11月1日より、P1先生と新たに契約する新会社にて継承させていただきます。(KHAから離れます)」「KPDA事務局は、今まで通りのシステムを引き続き行わせて頂きますので、KPDA会員様へのワークショップ、ティアレクラス、ライセンス等のご案内も従来通りとなります。」
・「お問い合わせ窓口」、「2014年10月31日までは、KPDA事務局は九州ハワイアン協会内にてご対応させていただきます。2014年11月1日からは、新会社にてご対応させていただきます。新しい事務局の所在地・連絡先等は、10月のワークショップにて今後の詳細と共にお知らせさせていただきます。」
(ク)本件ワークショップ等の申込み状況
 平成26年9月10日、本件ワークショップ等の申し込みが締め切られた。申込状況からうかがわれる本件ワークショップ等に関する売上高等については、以下のとおりであった。
a フラダンスに関する売上高の見込み(乙46)
(a)申込者245名
(b)売上高の見込み623万6947円、
b タヒチアンダンスに関する売上高の見込み(乙60)
(a)申込者40名
(b)売上高の見込み54万円
c 売上原価
・本件ワークショップ等を開催するために要する売上原価(フラダンス及びタヒチアンダンスに関する分を併せたもの)は、平成24年及び平成25年と同額程度(568万2700円)が見込まれた(弁論の全趣旨)。
(ケ)本件解除
 被告は、本件ワークショップの申込み状況を見て、本件ワークショップの採算が取れないと考えるとともに、本件ワークショップが開催されれば、KHAへの誹謗中傷や原告の振付けが使えないという話や西日本ハワイアン協会への勧誘がなされるおそれがあると考え、本件ワークショップ等の開催を中止することとし、同年9月17日、原告に対し、本件準委任契約を解除する旨の意思表示をした。
 これに対し、原告は、同日、被告に対し、「非常に遅い通知」で、「私と私のスタッフに報酬の50%を補償することを要求」する旨の電子メールを送信した(乙19の2)。これに対し、P2は、同年10月1日、被告に無断で、原告の通訳に対し、「スタッフ&ペナルティFee」と題する電子メールを送信した(甲23の1)。そのメール本文には「WSPenalty$14、375」との記載があるとともに、添付されていた「2014Octworkshop」と題するエクセルファイルには、「Total73h$28、750」、「Penalty50%$14、375」という記載があった(甲23の2)。
 このようにして、KHAの会員向けの本件ワークショップ等は開催を中止されたが、CSHAの会員を対象とするワークショップ等は予定どおり開催され、原告はCSHAの会員に対して、自ら振り付けたフラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行った。
(1)その後の経緯
a 本件コンサルティング契約は、同年10月31日をもって、解除された。
b 平成26年11月1日以降、KPDAは西日本ハワイアン協会と提携し、原告はその会員に対して自ら振り付けたフラダンス及びタヒチアンダンスの指導等を行うほか、CSHAとの提携関係は従来どおり継続している。
(2)争点7(本件解除が原告にとって不利な時期にされたものか)について
 委任契約は、各当事者がいつでもその解除をすることができる(民法651条1項)が、当事者の一方が相手方に不利な時期に委任の解除をしたときは、その当事者の一方は、相手方の損害を賠償しなければならない(同条2項本文)。この趣旨は、委任契約が当事者間の人的な信頼関係を基礎とする契約であることから、各当事者は何らの理由なく契約を任意に終了させることができることとし、その意味で各当事者は契約継続に対する利益を保障されるものではないが、解除が不利な時期にされたために損害を受けたときは、解除した当事者は、相手方に対して、解除の時期が不利であったことによる損害を賠償する責任を負わせる点にある。このことからすると、「不利な時期」とは、その時期に契約が解除されることによって相手方に損害が生じる時期をいうと解され、本件のように受任者が有償での委任事務処理を業とする者の場合の委任者による解除においては、受任者が委任の継続することを予定して他の収入を得る機会を失った場合がこれに当たると解される。
 本件では、本件ワークショップ等は平成26年10月2日から同月9日までの間、及び、同月22日から同月26日までの間の開催を予定していたところ、本件解除がされた時期は同年9月17日である。そして、原告本人の供述(17ページ)によれば、この期間に他の仕事を手配するためには、2か月ないし3か月前に解除されることが必要であったと認められるから、本件解除は「不利な時期」にされたものと認めるのが相当である。
 なお、原告は、解除が本件ワークショップ等の1年前でなければ「不利な時期」に当たるとの趣旨の主張をするようにも思われるが、上記原告本人の供述に照らして採用できない。また、原告の主張は、本件ワークショップ等の準備に費やした時間が無駄になることをも「損害」として捉え、それが回避可能な時期として上記の主張をする趣旨であるようにも思われるが、原告はCHSAの会員に対して本件ワークショップ等における指導と同内容の指導をしなければならなかったことに照らせば、いずれにせよ上記の準備は必要であったといえるから、原告の主張はその前提において採用できない。
(3)争点8(本件解除についてやむを得ない事由があったか)について
ア 委任契約の任意解除が相手方に不利な時期にされ、そのために相手方が損害を受けた場合であっても、解除に「やむを得ない事由があったとき」は、解除をした者は相手方に生じた損害を賠償する責めを負わない(民法651条2項ただし書)。ここにいう「やむを得ない事由」とは、解除が不利な時期であったことにより相手方に生じた損害を賠償する責任を免れるための要件であるから、相手方に損害を甘受させてでも当該時期に解除したことがやむを得ないといえるだけの事情が必要であると解される。
イ 被告は、本件準委任契約を解除した理由として、本件ワークショップ等を開催すると、採算が取れないだけでなく、原告が本件ワークショップ等で被告に対する誹謗中傷を行うなどすることにより、KHAからの退会者が増加することが予想されたことを挙げ、これらが「やむを得ない事由」に当たると主張するのに対し、原告は、それらの解除理由を否認するとともに、それらが「やむを得ない事由」に当たることも否認する。
 そこで、本件解除に至る経緯を見ると、(1)で認定した事実のとおり、まず、被告は、平成26年6月18日に原告から乙2書面により指導関係解消の申し出を受け、その頃、本件ワークショップ等を最後に同年10月31日限りで原告との本件コンサルティング契約を解消することとした。この時点は、いまだ「不利な時期」とは認められない時期であるが、同年11月以降にKHAで原告の指導を受けられないのであれば、その直前の本件ワークショップへの参加者が例年より減少したり、KHAから退会する会員が出てきたりするであろうことは予測可能な事態である。にもかかわらず、被告は、なお本件ワークショップ等を開催する方針を維持したのであるから、被告が主張する本件解除の理由が、単にこの時点での予測が現実化したにすぎないものであれば、解除の時期が同年9月17日に至ったことについて、「やむを得ない事由」があるとはいえない。
 しかし、その後、上記(1)で認定したとおり、「不利な時期」に差し掛かった同年8月中旬に至って、原告の周囲の人々が甲13書面をKHAのトップインストラクター以外の一般会員に配布して、原告が本件コンサルティング契約の終了後は自ら創作した振付けをKHAが使用することを禁止する意向であることを表明し、それにとどまらず、KHA会員のための受け皿として西日本ハワイアン協会の設立が企画され、本件コンサルティング契約の解消前から同協会についての説明がされたことは、単に上記の予測が現実化したにとどまらない事態である。そして、これに対して被告は、同月20日付けの甲11書面を会員に配布して被告の立場を説明し、事態の収拾を図ったが、同月下旬から翌9月上旬にかけて、KHA所属のインストラクターとその傘下の会員からの退会申し出が続出し、同月5日にレイ・プロダクション株式会社が設立された翌日の同月6日には、後に西日本ハワイアン協会に移籍し、この時点でも既に移籍する予定であったと推認される被告の従業員であるP2が、本件コンサルティング契約の解消前であるにもかかわらず、被告に無断で甲30書面を配布し、同年11月以降はKPDAとの提携関係を新会社が承継する旨や、新しい事務局の所在地等は本件ワークショップ等の時に知らせる旨を告知しているのであって、本件ワークショップ等が、被告ないしKHAと競合する西日本ハワイアン協会の説明や勧誘の機会となる可能性が高まったといえる。そして、同年9月10日に本件ワークショップ等の参加申込みが締め切られると、フラダンスの申込者が例年は350名程度であったのが250名、タヒチアンダンスの申込者が例年は200名前後程度であったのが40名と大幅に減少したことが判明し、参加申込者数から見込まれる売上高(677万6947円)と想定される売上原価(568万2700円)からして、その他の諸経費も考慮すると採算がほとんど見込めない状態であったと認められる。そして、被告は、その1週間後の同月17日に本件解除を原告に通知したものである。
 以上の経緯からすると、被告が本件ワークショップ等を中止して本件準委任契約を解除した理由は、参加申込者数が少なかったために採算が見込めなかったことのほか、本件ワークショップ等を開催するとKHAから退会する者が更に増加することを懸念したことにあったと認められる。そして、特に後者の懸念は、既に「不利な時期」に差し掛かった後の平成26年8月中旬以降に、原告やその周囲の人々の行為によって高まり、そのことが前者の本件ワークショップ等の申込みにも影響を与えたと考えられ、それらが合わさった結果としての申込み状況が同年9月10日に判明したことからすると、被告が本件準委任契約を同月17日に解除したことには、それが原告にとって「不利な時期」にしたことについて「やむを得ない事由」があったと認めるのが相当である。
 この点について原告は、フラダンスの世界におけるしきたりからすると原告がKHAの会員に対して自ら指導した振付けを演じることを禁止することは正当であると主張するが、そうであるとしても、原告やその周辺の人々が、本件コンサルティング契約の解消前から、KHAの会員に対して、KHAに代わる受け皿としてKHAないし被告と競合する西日本ハワイアン協会の説明をし、実質的に勧誘となる行為をすることが正当であるとはいえず、それらがKHA会員の退会や本件ワークショップ等の申込人数に影響を及ぼす被告の懸念も合理的なものであるから、原告の上記主張は、上記判断に影響を及ぼすものではない。
(4)以上によれば、その余の点について検討するまでもなく、原告の民法651条2項本文に基づく損害賠償請求は理由がない。
8 結論
 以上の次第で、原告の請求は、被告に対し、著作権に基づき本件振付け6等の上演等の差止め、著作権侵害の不法行為に基づき43万3158円の損害賠償金及びこれに対する不法行為の後である平成29年11月1日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、その限度で認容することとし(なお、主文第1項については、仮執行宣言を付するのは相当でないから、これを付さないこととする。)、その余は理由がないことからいずれも棄却することとし、控訴期間の付加期間について民事訴訟法96条2項を適用して、主文のとおり判決する。

大阪地方裁判所第26民事部
 裁判長裁判官 髙松宏之
 裁判官 野上誠一
 裁判官 大門宏一郎


(別紙)被告教室目録(省略)

(別紙)振付け目録
1 楽曲名Awapuhi Sweet(アワプヒ・スウィート)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 訴状添付DVD-R記録のファイル1「Awapuhi Sweet」収録のとおり
2 楽曲名Ka Pua Loke Mae Ole(カ・プア・ロケ・マエ・オレ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 訴状添付DVD-R記録のファイル2「Ka Pua Loke Mae Ole」収録のとおり
3 楽曲名E Kaimana’alohi(エ・カイマナアロヒ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 訴状添付DVD-R記録のファイル3「E Kaimana’alohi」収録のとおり
4 楽曲名Nani O Kauai(ナニ・オ・カウアイ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 訴状添付DVD-R記録のファイル4「Nani O Kauai」収録のとおり
6 楽曲名E Pili Mai(エ・ピリ・マイ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 別添6記載のとおり
11楽曲名Lei Ho’oheno(レイ・ホオヘノ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 別添11のとおり
13楽曲名Ua Lanipili I Ka Nani O Papakōlea(ウア・ラニピリ・イ・カ・ナニ・オ・パパコーレア)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 別添13のとおり
15楽曲名Blossom Nani Ho’i e(ブロッサム・ナニ・ホイ・エ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 別添15のとおり
16楽曲名Māpu Mau Ke’Ala(マプ・マウ・ケ・アラ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 別添16のとおり
17楽曲名Mauna leo(マウナ・レオ)
 振付け創作者 原告
 振付けの内容 別添17のとおり
以上

別添6 振付け目録6 E Pili Mai(エ・ピリ・マイ)の振付けについて
別添11 振付け目録11 Lei Ho’oheno(レイ・ホオヘノ)の振付けについて
別添13 振付け目録13 Ua Lanipili I Ka Nani O Papakōlea(ウア・ラニピリ・イ・カ・ナニ・オ・パパコーレア)の振付けについて
別添15 振付け目録15 Blossoms nani ho'i e(ブロッサム・ナニ・ホイ・エ)の振付けについて
別添16 振付け目録16 Māpu Mau Ke’Ala(マプ・マウ・ケアラ)の振付けについて
別添17 振付け目録17 Maunaleo(マウナレオ)の振付けについて


(別紙)楽曲目録
(別紙)本件振付け6に関する主張対比表
(別紙)本件振付け11に関する主張対比表
(別紙)本件振付け13に関する主張対比表
(別紙)本件振付け15に関する主張対比表
(別紙)本件振付け16に関する主張対比表
(別紙)本件振付け17に関する主張対比表
(別紙)原告が創作した振付け及び作曲した楽曲の上演・演奏状況一覧表
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