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【事件名】教科書「新しい日本の歴史」盗用事件(2) 【年月日】平成27年9月10日 知財高裁 平成27年(ネ)第10009号 書籍出版差止等請求控訴事件 (原審・東京地裁平成25年(ワ)第9673号) (口頭弁論終結日 平成27年6月16日) 判決 控訴人(一審原告) X 訴訟代理人弁護士 福本修也 被控訴人(一審被告) 株式会社育鵬社 被控訴人(一審被告) 株式会社扶桑社 被控訴人(一審被告) Y1 被控訴人(一審被告) Y2 4名訴訟代理人弁護士 奈良次郎 同 奈良輝久 同 若松亮 同 林紘司 同 堂免綾 被控訴人(一審被告) Y3 訴訟代理人弁護士 土居伸一郎 主文 1 本件各控訴をいずれも棄却する。 2 控訴費用は控訴人の負担とする。 事実及び理由 用語の略称及び略称の意味は、本判決で付するもののほか、原判決に従い、原判決で付された略称に「原告」とあるのを「控訴人」に、「被告」とあるのを「被控訴人」と、適宜読み替える。 第1 控訴の趣旨 1 原判決を取り消す。 2 被控訴人らは、被控訴人書籍1を出版、販売又は頒布してはならない。 3 被控訴人育鵬社及び被控訴人扶桑社は、被控訴人書籍1を廃棄せよ。 4 被控訴人らは、控訴人に対し、各自、6031万5750円及びこれに対する平成23年3月30日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 5 訴訟費用は、第1、2審とも、被控訴人らの負担とする。 第2 事案の概要 1 事案の要旨 (1) 本件請求の要旨 本件は、控訴人が、被控訴人らに対し、@被控訴人らにおいて共同して制作して出版した被控訴人書籍中の個別の記述が、控訴人において制作した控訴人書籍中の個別の記述に係る著作権(複製権及び翻案権)及び著作者人格権(同一性保持権及び氏名表示権)を侵害するとして、[1]著作権法112条1項及び2項に基づき、<1>被控訴人らに対して被控訴人書籍1(市販本)の出版等の差止めを、<2>被控訴人書籍1の発行者である被控訴人育鵬社及び被控訴人扶桑社に対して被控訴人書籍1の廃棄をそれぞれ求めるとともに、[2]著作権及び著作者人格権侵害に係る共同不法行為に基づき、被控訴人らに対し、著作権侵害に係る損害賠償金5131万5750円、著作者人格権侵害に係る慰謝料300万円及び弁護士費用600万円の合計6031万5750円とこれに対する被控訴人書籍2(教科書)の教科書検定の合格日である平成23年3月30日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求め、さらに、予備的に、A一般不法行為に基づき、慰謝料300万円と上記@[2]と同旨の遅延損害金の支払を求める事案である。 (2) 原審の判断等 原審請求は、翻案権侵害と著作者人格権(同一性保持権及び氏名表示権)侵害の不法行為に基づく差止め、廃棄及び損害賠償請求のみであったところ、原判決は、控訴人書籍中の控訴人各記述とこれに対応する被控訴人書籍の被控訴人各記述とで記述内容が共通する部分について、控訴人各記述には創作性が認められないとして、控訴人の請求をいずれも棄却した。 控訴人は、これを不服とし控訴したが、当審において、翻案権並びに同一性保持権及び氏名表示権の侵害と主張する記述を、被控訴人記述1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47に限定する一方で、上記記述(21か所)に係る複製権侵害と、被控訴人各記述(47か所)すべてに係る一般不法行為に基づく損害賠償請求を、請求原因に追加した。 2 前提となる事実 本件の前提となる事実は、次のとおり補正するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の第2(事案の概要)の「2 前提事実」に記載のとおりである。 @ 原判決5頁5行目の次に次のとおり加える。 「(4) 控訴人書籍へのアクセス 被控訴人書籍制作に当たり、控訴人書籍も資料として参照されている。〔弁論の全趣旨〕 (5) 被控訴人各記述の使用 被控訴人育鵬社は、被控訴人書籍を改訂し、「新編 新しい日本の歴史」を編集、制作し、この書籍は、平成26年度検定に合格し、平成27年に発行された。同書籍には、被控訴人各記述は用いられていない。〔甲47、弁論の全趣旨〕」 A 原判決26頁(別紙対比表項目1)の「被告書籍」欄3行目の「約5千年前」を「約5000年前」に改める。 B 原判決29頁(別紙対比表項目2)の「原告書籍」欄5行目の「稲」を「穂」に改める。 C 原判決46頁(別紙対比表項目14)の「被告書籍」欄9行目の「院政(C)」を「院政」に、同10行目の「64〜65頁」を「64頁」にそれぞれ改める。 D 原判決52頁(別紙対比表項目18)の「被告書籍」欄10行目から同11行目にかけての「桶狭間」の次に「(愛知県)」を加え、同15行目の「1、573(天正元)年」を「1573(元亀4)年」に、同33行目から同53頁1行目にかけての「キリスト教徒」を「キリスト教」に、同52頁の「原告書籍」欄28行目の「1、573(天正元)年」を「1573(天正元)年」にそれぞれ改める。 E 原判決54頁(別紙対比表項目19)の「被告書籍」欄末尾に「(95頁)」を加える。 F 原判決55頁(別紙対比表項目20)の「被告書籍」欄12行目の「なしとげ」を「成しとげ」に、同16行目の「15万あまりの」を「15万人あまりの」にそれぞれ改める。 G 原判決57頁(別紙対比表項目21)の「被告書籍」欄7行目末尾に「このような自治によって、農村の治安は保たれていました。」を加える。 H 原判決58頁(別紙対比表項目22)の「被告書籍」欄1行目の「新聞の開発」を「新田の開発」に、同13行目の「土佐(高知県)沖の」を「土佐(高知県)の」にそれぞれ改める。 I 原判決65頁(別紙対比表項目26)の「被告書籍」欄29行目の「1860(万延元)年」を「1860(安政7)年」に、同30行目の「浪士たち」を「浪士」にそれぞれ改める。 J 原判決68頁(別紙対比表項目28)の「被告書籍」欄20行目の「対抗しようと」を「抵抗しようと」に改める。 K 原判決73頁(別紙対比表項目32)の「被告書籍」欄9行目から10行目にかけての「死者・行方不明者は10万数千人」を「死者・行方不明者10万数千人」に改める。 L 原判決80頁(別紙対比表項目36)の「被告書籍」欄9行目から10行目にかけての「進出する」を「軍を進める」に改める。 M 原判決87頁(別紙対比表項目40)の「被告書籍」欄3行目の「216〜217頁」を「217頁」に改める。 N 原判決91頁(別紙対比表項目43)の「被告書籍」欄18行目から19行目にかけての「(WTO)」を削る。 O 原判決94頁(別紙対比表項目45)の「被告書籍」欄7行目の「戦った」を「戦いました」に改める。 3 争点 本件の争点は、下記第3、2の当審における控訴人の新たな主張を加えて、次のとおりとなる。 (1) 被控訴人各記述が控訴人各記述を「翻案」したものか否か (2) 被控訴人各記述が控訴人各記述を「複製」したものか否か (3) 被控訴人書籍の単元構成が控訴人書籍の単元構成を「翻案」又は「複製」したものか (4) 控訴人が有する著作者人格権(同一性保持権・氏名表示権)の侵害の有無 (5) 一般不法行為の成否 (6) 各被控訴人の責任原因 (7) 損害発生の有無及びその額 第3 当事者の主張 当事者の主張は、下記1のとおり原判決を補正し、下記2のとおり当審における当事者の主張を付加するほかは、原判決の「事実及び理由」欄の第3(争点に関する当事者の主張)に記載のとおり(その引用に係る原判決別紙対比表の各該当欄の記載を含む。)である。 1 原判決の補正 @ 原判決5頁20行目及び21行目を次のとおり改める。 「(2) 被控訴人各記述が控訴人各記述を翻案したものであることに関する控訴人の主張は、原判決別紙対比表の項目1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47の『原告主張』欄に記載のとおりである。」 A 原判決7頁1行目及び2行目を次のとおり改める。 「(2) 被控訴人各記述が、控訴人記述1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47を翻案したものであるとの控訴人の主張に対する被控訴人らの反論は、原判決別紙対比表の項目1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47の『被告主張』欄に記載のとおりである。」 B 原判決25頁(別紙対比表項目1)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「B控訴人記述1に、縄文人が1万数千年前に土器を作り始めていたことを記載したのは、中国が一番古い歴史と文化を持つ上位の国、朝鮮半島の諸国が次に古い歴史と文化を持つ中位の国、日本が歴史の浅い最下位の国、という三層世界観に囚われることなく、忠実な事項の選択を行ったことによるものであり、歴史教科書としての創作性が顕れている。」 原判決25頁(別紙対比表項目1)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「縄文人が1万数千年前に土器を作り始めていたという歴史的事実を記載したことによって創作性が認められることはない。」 C 原判決28頁(別紙対比表項目2)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「B控訴人記述2だけが、稲作が、縄文時代後半と紀元前4世紀ころの二段階に開始され、いずれも、朝鮮半島を経由せず中国大陸から直接伝来したものであるとの史実を詳しく正確に伝えている。これは、 控訴人記述2が、すべての文化は中国、朝鮮半島、日本という順序で流れるという三層世界観から自由であることによるものであり、歴史教科書として、優れた創作性を発揮している。」 原判決29頁(別紙対比表項目2)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「B稲作が、縄文時代後半と紀元前4世紀ころの二段階に開始されたことを記載しても、それは、単に、一般的な歴史上の事実の簡潔な記述にとどまり、そこに控訴人の主観を読み取ることはできない。」 D 原判決53頁(別紙対比表項目19)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述19は、秀吉による大阪城築城を『全国を統治しようとする意思を示した』と位置付けるものであるが、これは、控訴人の独創にほかならない。また、秀吉の関白就任を『天皇から全国の統治をまかされた』と表現することも、朝廷の権威という意味の中身を、中学生にイメージしやすくするために、控訴人が用いた独創的な表現である。」 原判決54頁(別紙対比表項目19)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「秀吉による大阪城築城を『全国を統治しようとする意思を示した』としたのは、控訴人の歴史的認識をそのまま直接記載したものであり、歴史的認識の表現としても、ごく平凡でありふれたものである。秀吉の関白就任を『天皇から全国の統治をまかされた』と表現したのも、歴史的事実を簡潔に表現したものであり、歴史的事実の表現方法としても、ごく平凡でありふれたものである。」 E 原判決55頁(別紙対比表項目20)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述20の『全国統一を果たし、秀吉の意気はさかんだった』は、秀吉が暴挙とも言える朝鮮出兵を敢行した個人的な精神的背景事情を、読み手に具体的にイメージさせるために施した工夫であり、その表現は極めて個性的・独創的である。」 F 原判決61頁(別紙対比表項目24)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述24は、『1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時対立していたオランダの長崎商館の引き渡しを求め、オランダ人2人をとらえるなどの乱暴をはたらいた(フェートン号事件)。』と詳しく、かつ、印象的に記述することによって、当時の厳しい国際情勢を生き生きと生徒に伝えることができるのである。ここにおける、『乱暴をはたらいた』という表現は、教科書としては個性的なものである。」 原判決61頁(別紙対比表項目24)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「『乱暴をはたらいた』という表現は、一般によく用いられる表現であって、平凡かつありふれた表現である。」 G 原判決66頁(別紙対比表項目27)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述27の『新政府軍は天皇の軍隊を示す錦の御旗を先頭におし立て、官軍(朝廷軍)としての権威を背景に有利に戦いを進め』との表現は、新政府側の勝因としての天皇の権威を象徴的に表す『錦の御旗』を引用したものであって、他の教科書には見られない独創的なものである。これと、『天皇のもとにつくられた新政府の指導者に任命されたのは、倒幕派の公家と武士たちだった』ことを取り上げることにより、幕末維新期における天皇権威の重要さが浮き彫りになり、歴史教科書として優れた個性を発揮している。」 原判決66頁(別紙対比表項目27)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「『錦の御旗』が天皇の権威を象徴し、これを新政府軍が利用したことは、一般的にもよく知られている歴史的事実であり、その事実をそのまま記載しても、創作性の根拠とはなり得ない。」 H 原判決74頁(別紙対比表項目33)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述33は、『関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側のしわざだとして、満鉄沿線都市を占領した』との表現は、教科書では通常用いないくだけた表現を用いることで、関東軍による自作自演を表現自体から直接感得することができるものであり、極めて個性的な表現である。」 原判決74頁(別紙対比表項目33)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「『しわざである』との表現は、それが、くだけた表現であるか以前に、一般によく用いられる表現であって、個性などなく、平凡かつありふれたものである。」 I 原判決76頁(別紙対比表項目34)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述34は、『日本と中国との間あいだで停戦協定が結ばれ』たとの記述を、『満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガン』を掲げたことの前に配列することで、中学生が、満州における産業発展を理解することを助けたものであり、個性が顕れたものであるといえる。」 原判決76頁(別紙対比表項目34)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「『日本と中国との間あいだで停戦協定が結ばれ』たとの歴史的事実をそのまま記載したとしても、歴史的教科書として個性を発揮したとはいえない。」 J 原判決78頁(別紙対比表項目35)の「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述35は、『このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。』と表現することにより、虐殺を認めているようでありつつ、虐殺否定派の存在も視野に入れているようにも読める、もっともバランスのとれた記述となっており、歴史教科書として優れた個性を発揮している。」 原判決78頁(別紙対比表項目35)の「被告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「南京事件の犠牲者数等についての論争が続いていることは、一般的によく知られた事実であり、この事実をそのまま記載しても、創作性の根拠にはなり得ない。」 K 原判決90頁(別紙対比表項目43)の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」の末尾に改行の上、次のとおり加える。 「控訴人記述43は、『東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通し、西ヨーロッパにまで共産主義の影響をおよぼしはじめた。アメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成した。』『いっぽう、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年に東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成した。』と記載することにより、アメリカが、日本の占領政策を変更して自由主義陣営を構成する強力な一員として育成する方向へと舵を切った背景を深く理解させるため、単に、アジアにおける冷戦に言及するに留まらず、一見日本とは無関係に見える欧州での米ソ冷戦の厳しい対立を関連させており、際だって個性的で独創的なものである。」 2 当審における当事者の主張 (1) 控訴人書籍の創作性の基準(争点(1)に関し) ア 控訴人 控訴人書籍の単元本文は、全体が中学歴史教科書としての一個の作品であり、そして、一般書籍とは作品としての属性が全く異なる。すなわち、中学歴史教科書の各単元は、各教科書の著者が独自の視点で無数の歴史的事実の連鎖の中から時代を切り取って単元構成を定め、その中に取り上げるべき事項を選択し、論理的な配列と表現の工夫によって記述することで、読者である中学生をして、我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てることを目的とする作品であり、あらかじめ、読者、用途及び目的が明確に定まっている特殊ジャンルにある書籍である。この特殊書籍である中学歴史教科書における事項選択に表された個性・創作性を、一般書籍を引き合いに出して否定することはできない。 また、歴史教科書が、一般的に、生徒が理解しやすい平易な文章表現になるのは当然のことであり、そのような表現であることゆえに創作性がないとすることは、教科書には著作権が成立しないというに等しい。個々な表現は平易であっても、独創的な事項の選択・配列、論理構成等を備えた平易な記述には、創作性が認められるべきものである。 イ 被控訴人ら 歴史教科書は、歴史的事実が格別の評価、意見を入れることなく叙述されているものであり、教育的効果にかんがみて記述する歴史的事実を選択するという行為を超えた著者の思想又は感情が顕れることは、通常ない。ある歴史的事実を歴史教科書において記載する選択をしたことにより、他の歴史教科書が当該歴史的事実を記載する選択ができなくなるとしたら、他社は歴史教科書を制作することができなくなり、実質上、歴史的事実の記述を一人の者に独占させることになる。 (2) 複製権侵害(争点(2)) ア 控訴人 「複製」とは、既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製することをいい、この再製とは、既存の著作物と同一性のあるものを作成することをいうが、同一性の程度については、完全に同一である場合のみではなく、多少の修正増減があってもよく、実質的に同一であればよい。 被控訴人各記述は、控訴人各記述の複製でもあるから、被控訴人らは、控訴人の有する複製権を侵害する。通常、別人が独自に文章を作成すれば、3行どころか、1行又は2行とて同一の文章にはならないはずである。 イ 被控訴人ら 翻案権侵害が認められない以上、複製権侵害も認められない。 控訴人各記述と被控訴人各記述とは、単に、似ている部分があるというにすぎず、それも、長くても3行程度である。被控訴人書籍と控訴人書籍とは、基本的な歴史観を共通にする歴史教科書であり、取り上げる歴史的事実がある程度共通するのは当然であるし、教科書としての特性上、他社の教科書と2〜3行程度の表現が等しくなることもよくあるから、被控訴人書籍と控訴人書籍の表現が似ていても、不思議なことではない。 (3) 単元構成の翻案又は複製(争点(3)) ア 控訴人 (ア) 単元62 控訴人書籍は、単元62に、「第一次世界大戦」との見出しの下に第一次世界大戦の開始と日本の参戦と二十一か条要求を一緒に記述するとともに、この点だけを記載し、単元63に、「ロシア革命と大戦の終結」との見出しの下に他の事項を記述している。すなわち、控訴人書籍は、第一次世界大戦期間(1914〜18)を前半(1914〜16)と後半(1917〜18)との2単元に分け、単元62で日本の参戦と二十一か条要求を、単元63でロシア革命に対応するシベリア出兵を取り上げることで日本との関わりを国際政治に限定して記述し、大戦景気などの国際政治にかかわらない事項は、別単元に記載した。 控訴人書籍の上記単元構成は、他社とは異なる極めて個性的・創作的な単元立てであり、創作性が認められる。 (イ) 単元79 控訴人書籍は、東西冷戦、占領政策の転換と独立回復を1単元でまとめることにより、第二世界大戦後の世界的な冷戦構造を知らしめ、戦後日本の独立と復興に冷戦が与えた重大な影響を、グローバルな視点で理解させるものである。 控訴人書籍の上記単元構成は、他社とは異なる極めて個性的・創作的な単元立てであり、創作性が認められる。 イ 被控訴人ら (ア) 単元62 控訴人の主張は、争う。 (イ) 単元79 単元79は、時系列に沿ったありふれた配列をしているにすぎない。 (4) 一般不法行為の成否(争点(5)) ア 控訴人 仮に、被控訴人らの行為が著作権侵害又は著作者人格権侵害に当たらないとしても、被控訴人各記述(被控訴人記述1〜被控訴人記述47)は、いずれも、控訴人各記述(被控訴人記述1〜控訴人記述47)に依拠・模倣して制作されたものであり、基本的な単元構成が類似しているのみならず、単元内に記述する事項の選択・配列及び具体的表現も酷似している。 そうすると、被控訴人らは、控訴人の執筆に基づく成果物に対する執筆者利益を不正に利用して利益を得たものであり、被控訴人らの行為は、公正な競争として社会的に許容される限度を超えるものとして不法行為を構成する。 これにより、控訴人の被った精神的苦痛は、300万円が相当である。 イ 被控訴人ら 著作権法が対象としている法領域においては、不法行為法についての法秩序につつき完結的な選択・決定がされており、規定の欠缺はないから、原則として、一般不法行為に基づく補充は認められない。 そして、控訴人各記述が、一般不法行為法で保護すべき程度の労力や費用をかけたものとはいえないこと、控訴人各記述自体に独立の経済的価値があるとはいえず、実際にも、控訴人が控訴人各記述から大きな経済的価値を得たこともないこと、逆に、本件において一般不法行為を認めるならば、人類の遺産ともいうべき歴史的事実を控訴人に独占させ、同一の歴史的事実を表現することが過度に制約されるという弊害が生じる。これらにかんがみると、一般不法行為を認めるべき例外的事情はない。 第4 当裁判所の判断 当裁判所も、控訴人の請求は、当審における控訴人の主張を踏まえても、いずれも棄却すべきものと判断する。 その理由は、次のとおりである。 1 争点(1)(被控訴人各記述が控訴人各記述を「翻案」したものか否か) (1) 翻案について 原判決の「事実及び理由」欄の第4、1(1)(翻案について)に記載のとおりである。 (2) 教科書及びその検定について 原判決の「事実及び理由」欄の第4、1(2)(教科書及びその検定について)に記載のとおりである。 ただし、原判決13頁22行目の「狩猟・採取」を「狩猟・採集」に改める。 (3) 歴史教科書の個々の記述について 特定の著作物と他の著作物との間で著作権又は著作者人格権(著作権等)の侵害の有無を判断しようとする場合、表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分において同一性を有するにすぎないときには、複製又は翻案には該当しないのであるから、著作権等を侵害されたと主張する者は、自らの著作権等が侵害されたとする表現部分を特定した上で、まず、その表現部分が創作性を有していることを明らかにしなければならない。この点、原判決別紙対比表項目1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47の各「原告主張」欄の小項目「■【原告書籍の表現の視点】」に記載された控訴人の主張が、記述内容に関する著者のアイディアや制作意図ないし編集方針、あるいは、歴史観又は歴史認識に創作性があるという趣旨であれば、それ自体は表現ということができないから、いずれも失当である。当裁判所の検討に当たっては、当該視点に基づいて記されたとする具体的な記述について、表現上の創作性の有無を検討する。 まず、控訴人は、被控訴人書籍の特定の単元の記述の一部が控訴人書籍の特定の単元の一部の記述の著作権等を侵害すると主張しているのであるから、上記の手法(いわゆる「ろ過テスト」)に従うならば、控訴人各記述のうち被控訴人各記述に対応する部分(後述のとおり、その多くは、切れ切れとなった文章表現を全体的に観察した場合にうかがうことのできる観念的な共通性にすぎない。)が、それぞれ単独で創作性を有していることを、更に明らかにしなければならない。 前記(1)のとおり、歴史上の事実又は歴史上の人物に関する事実(歴史的事項)の記述であっても、その事実の選択や配列、あるいは歴史上の位置付け等において創作性が発揮されているものや、歴史上の事実等又はそれについての見解や歴史観をその具体的記述において創作的に表現したものについては、著作権法の保護が及ぶことがある。 ところで、前記(2)のとおり、中学校用歴史教科書については、文部科学大臣が公示する教科用図書検定基準並びに文部科学省が作成した中学校学習指導要領及びその解説により、法令上及び事実上、その記述内容及び方法が相当程度に制約されているほか、想定される読者が中学生であることによる教育的配慮から、その記述事項は、通常、一般的に知られている歴史的事項の範囲内から選択される。その一方で、歴史教科書として制作された書籍だからといって、教科書としてだけ用いられるわけではなく(被控訴人書籍1は、一般に市販されている。)、歴史教科書に係る著作権の侵害の有無が問題となる書籍が歴史教科書に限られるわけでもない(被控訴人書籍1は、歴史教科書ではない。)。そうすると、歴史教科書は、簡潔に歴史全般を説明する歴史書に属するものであって、一般の歴史書と同様に、その記述に前記した観点からみて創作性があるか否かを問題とすべきである。すなわち、他社の歴史教科書とのみ対比して創作性を判断すべきものではなく、一般の簡潔な歴史書と対比しても創作性があることを要するものと解される。 そして、簡潔な歴史書における歴史事項の選択の創作性は、主として、いかに記述すべき歴史的事項を限定するかにあるのであり、選択される歴史的事項は一定範囲の歴史的事実としての広がりをもって画されている。したがって、同等の分量の他書に一見すると同一の記述がなかったとしても、それが、他書が選択した歴史的事項の範囲内に含まれる事実として知られている場合や、当該歴史的事項に一般的な歴史的説明を補充、付加するにすぎないものである場合には、歴史書の著述として創意を要するようなものとはいえない。控訴人の創作性基準に関する主張は、上記説示に反する限り、採用することができない。 以下、他社の歴史教科書に同様の表現があるか否かの点を中心に、控訴人各記述の創作性を検討するが、これは、他社の歴史教科書が同等の分量を有する歴史書として、もっとも適切な対比資料であり、他社の歴史教科書に同様の表現があることは、当該表現がありふれたものであることの客観的かつ明白な根拠だからである。 (4) 項目1(縄文時代)について ア 控訴人記述記述1(判決において、文章に番号を付して、分説した。以下同じ。」)。 「@日本列島は食料にめぐまれていたので、人々は大規模な農耕や牧畜を始めるにはいたらなかった。 A今から1万数千年前も前から、日本列島の人々はすでに土器をつくりはじめていた。Bこれは、世界で最古の土器の一つである。Cこの時代の土器は、表面に縄目の文様がつけられたものが多いことから、縄文土器とよばれている。Iそれらの多くは深い鉢で、煮炊きなどに用いられた。J男たちは小動物の狩りと漁労に出かけ、女たちは植物の採集と栽培にいそしみ、年寄りは火のそばで煮炊きの番をするといった生活の場面が想像される。 D縄文土器が用いられていた、1万数千年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代とよび、D´このころの文化を縄文文化とよぶ。 E当時の人々は、数十人程度の集団で、小高い丘を選んで生活していた。F住まいは、地面を掘って床をつくり、柱を立てて草ぶきの屋根をかけた、竪穴住居とよばれるものだった。G人々が貝殻などの食べ物の残りかすをすてた跡である貝塚からは、土器の破片や石器が発見され、当時の生活のようすをうかがうことができる。H青森県の三内丸山遺跡からは、約5千年前の大きな集落の跡が見つかっている。」 イ 被控訴人記述1(判決において、文章に番号を付して、分説した。以下同じ)。 「@このように日本列島は、豊かな自然環境にめぐまれ、食料となる動植物が豊富だったため、植物は栽培されていましたが、大規模な農耕や牧畜は始められていませんでした。 A今から1万数千年前、人々は、食物を煮炊きしたり保存したりするための土器をつくり始めました。Cこれらの土器は、その表面に縄目の模様(文様)がつけられることが多かったため、のちに縄文土器とよばれることになります。Bこれは世界で最古の土器の一つで、D縄文土器が使用されていた1万数千年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代とよび、このころの文化を縄文文化といいます。 E縄文時代の人々は、数十人程度の集団で暮らしていました。F住まいは、地面に掘った穴に柱を立て、草ぶきの屋根をかけた竪穴住居でした。G人々が、骨や貝殻など、食べ物の残りを捨てたごみ捨て場は貝塚とよばれ、そこから出土する土器や石器などからは、当時の人々の生活のようすがうかがえます。 H青森県の三内丸山遺跡からは、約5000年前の巨大な集落跡が発見され、…(以下2行にわたり三内丸山遺跡の説明)」 ウ 事項選択 控訴人記述1と被控訴人記述1との共通事項は、@日本列島は食料に恵まれていたため、大規模な農耕や牧畜が始められていなかったこと、A日本列島で1万数千年前から土器が作られ始めていたこと、Bこの土器は、世界で最古の土器の一つであること、Cこの土器を縄文土器と呼ぶこと、D縄文土器が作られていた1万数千年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代と呼び、D´縄文時代の文化を縄文文化と呼ぶこと、E縄文時代には、人々は数十人程度の集団で生活していたこと、F縄文時代の人々の住まいは、竪穴住居だったこと、G貝塚から出土する土器や石器などから当時の生活の様子がうかがえること、H三内丸山遺跡から約5千年前の大きな集落跡が見つかったこと、であると認められる。これらは、いずれも、縄文時代について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる。実際、少なくとも、上記@と同旨の事項が、東京書籍の平成8年検定の歴史教科書(以下、他社教科書は年号の略号と発行社名で略記する。)、平13・平17東京書籍に、同Aと同旨の事項が、平13・平17大阪書籍、平13・平17日本書籍に、同Bと同旨の事項が、平8・平13帝国書院に、同Dと同旨の事項が、平13・平17大阪書籍に、同Eと同旨の事項が、平8帝国書院に、同Hと同旨の事項については、平13帝国書院、平13清水書院、平17日本書籍にそれぞれ記載されている(甲41、乙45。なお、同CD´FGが縄文時代の説明として取り上げるべき事項であることは、明白であるから、個々に掲載教科書を摘記することはしない。以下の記述でも、明白な場合には、個々の教科書を掲記することはしない。)。 したがって、控訴人記述1の事項の選択は、ありふれたものと認められる。 なお、他社の歴史教科書に掲載されてある事項であれば、それらが、控訴人書籍とは異なる単元や小単元をまたがるものであっても、その選択は、ありふれた選択にすぎない。なぜなら、他社の歴史教科書に記述された事項は、いずれもありふれたものであって、ありふれたものの中からは、どれを選択してもありふれた事項の選択だからである。以下も同様であるから、この説示を繰り返すことはしない。 エ 事項の配列 控訴人記述1@〜Hは、歴史的事項を単純に説明する文が羅列されているだけであるから、その配列は、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述1@〜Hは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 なお、ありふれた表現は、一般に、複数存在するのであるから、歴史的事項を説明する表現に他の表現を選択する余地があるとしても、そのことを理由として、直ちに個性の発揮が根拠付けられるものではない。以下も同様であるから、この説示を繰り返すことはしない。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述1は、控訴人記述1@の指摘から書き始めることにより、暗い遅れた時代であるとの縄文時代のイメージから解放されるという独自の創作性がある旨を主張する。しかしながら、控訴人記述1@は、単元2「縄文文化」の小見出し「豊かな自然のめぐみ」の項の末尾に記載されているものであり、控訴人記述1A〜Hは、「縄文土器の文化」の項に記載されているのであるから、上記主張は、控訴人記述1@〜H全体についての創作性の主張としては、前提を誤るものであって失当である。 また、控訴人は、控訴人1@の具体的表現に創作性がある旨を主張するが、ありふれた言い回しにすぎず、そこに創作性を見出すことはできない。 さらに、控訴人は、控訴人記述1Aは、三層世界観に囚われていない歴史教科書としての創作性の顕れである旨を主張するが、上記ウのとおり、他社の教科書に同旨の事項の記載があるから、そこに創作性を見出すことはできない。 控訴人の上記主張は、いずれも、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述1は、被控訴人記述1と共通する部分に創作性が認められない。 (5) 項目2(稲作開始)について ア 控訴人記述2 「@すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、A畑や自然の水たまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、B紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にもゆっくりと広がり、C海づたいに東北地方にまで達した。 D稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。E人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。E´稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、F収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられた。Gムラでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われた。」 イ 被控訴人記述2 「@わが国には、すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、A畑や自然の湿地で栽培が行われていました。Bその後、紀元前4世紀ごろまでに、灌漑用の水路をともなう水田での稲作が、大陸や朝鮮半島から九州北部にもたらされると、稲作はしだいに広がり、C東北地方にまで達しました。 D本格的な稲作が始まると、人々は平野や川のほとりに住み、ムラ(村)をつくるようになりました。E人々は協力して作業を行い、木のすきやくわで水田を開き、E´石包丁で稲の穂をつみ取って収穫しました。F稲穂は湿気やねずみを防ぐため高床式倉庫で保存されました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述2と被控訴人記述2との共通事項は、@縄文時代に大陸から稲がもたらされたこと、A初めは畑や自然の水たまりでの栽培が行われていたこと、B紀元前4世紀ころまでに、灌漑用水路を伴う水田稲作が九州北部に伝わったこと、C稲作が東北地方まで達したこと、D人々が平地に村を作るようになったこと、E人々が協力して作業を行い、木のすきやくわで水田を開いたこと、E´石包丁で稲穂をつみ取ったこと、F稲穂は高床式倉庫で保存されたことであると認められる。これらは、稲作の開始について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる。実際、少なくとも、上記@と同旨の事項は、平13・平17帝国書院、平8・平13・平17大阪書籍、平8・平13・平17日本書籍に、同Aと同旨の事項は、平13教育出版に記載されている(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述2の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述2@〜Fは、歴史的事項が時系列・因果列に従って配列されているだけであるから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述2@〜Fは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述2は、控訴人記述2@から書き出して縄文時代に既に稲作が始まっていることを記述したところに創作性がある旨を主張するが、縄文時代に稲作が始まっていることを、その経過に即して稲作の伝来という形に言い改めても、格別の創作性が生じるものではない。 また、控訴人は、控訴人記述2は、稲作が契機となって人々の生活、社会、技術、文化に重大な影響を与えるという流れが分かるような創作的表現となっている旨を主張するが、上記ウ〜オのとおり、事項の選択、事項の配列及び具体的表現においてありふれたものであるから個性が発揮されているとはいい難い。 さらに、控訴人は、控訴人記述2が、稲作が2段階にわたり、いずれも大陸から直接伝来すると記述していることは、三層世界観に囚われていない歴史教科書としての創作性の顕れである旨を主張する。しかしながら、控訴人記述2@は、それだけからでは、稲作が大陸から直接もたらされたとしているのかは不明である。さらに、控訴人記述2Bも、稲作が大陸から直接もたらされたとしているのかは不明であるところ、かえって、同Bに関する図版(24頁)には、水田稲作の伝来ルートとして、大陸から直接のものと、朝鮮半島を経由したものとの2つのルートが記載されている。控訴人記述2に、控訴人の主張するような歴史観が記述されているとはいい難く、控訴人の主張は、その主張の前提を誤るものである。 控訴人の上記主張は、いずれも、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述2は、被控訴人記述2と共通する部分に創作性が認められない。 (6) 項目9(記紀・風土記)について ア 控訴人記述9 「律令国家のしくみが整うと、@国のおこりや歴史を書物にまとめようとする動きがおこった。Aまず、『古事記』がつくられ、A´民族の神話と歴史がすじみち立った物語としてまとめられた。Bついで、『日本書紀』が完成し、B´国家の正史として、歴代の天皇の系譜とその事績が詳細に記述された。 D二つの歴史書は、天皇が日本の国を治めるいわれを述べたものであるが、その中で語られる神話・伝承からは、当時の人々の信仰やものの考え方を知ることができる。 Cさらに朝廷は、国司に命じて、地方ごとに伝説や地理、産物を調べて『風土記』をつくらせ、各地のようすを記録させた。」 イ 被控訴人記述9 「律令政治のしくみが整い、国際交流もさかんになるなか、わが国にも国家としての自覚が生まれ、@国のおこりや歴史をまとめようとする動きがおこりました。 Aまず、『古事記』がつくられ、Bついで朝廷の事業として『日本書紀』が編さんされました。A´『古事記』は民族の神話と歴史として伝えられたものを記録した、文学的な価値の高い物語であり、B´『日本書紀』は国家の正史として、歴代の天皇とその歴史が年代順に記されたものです。 Cさらに朝廷は、国司に命じて、地方ごとに伝説や地理、産物などを調べさせ、『風土記』を編集させました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述9と被控訴人記述9との共通の事項は、@国のおこりや歴史をまとめようとする動きが起こったこと、A「古事記」は、民族の神話と歴史を物語としてまとめたものであること、B「日本書紀」は、国家の正史として、歴代天皇とその歴史が記されたものであること、C朝廷は、地方ごとに伝説や地理、産物などを記した「風土記」を作らせたことであると認められる。これらは、記紀・風土記について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述9の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述9@〜Cは、歴史的事項を単純に説明する文が羅列されているだけであるから、その配列は、ありふれたものといえる。 オ 具体的表現形式 控訴人記述9@〜Cは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述9は、「古事記」と「日本書紀」をそれぞれ個別に説明した点に創作性がある旨を主張するが、「古事記」「日本書紀」をまとめて説明しても、「古事記」と「日本書紀」をそれぞれ個別に説明しても、いずれも歴史的事項の説明にすぎないから、そのような形式面によって新たな創作性が生じることはない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述9は、被控訴人記述9と共通する部分に創作性が認められない。 (7) 項目10(国分寺建立)について ア 控訴人記述10 「@聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、A日本のすみずみにまで仏教の心を行き渡らせることによって、国家の平安をもたらそうとした。B都には全国の国分寺の中心として東大寺を建て、大仏の建立を命じた。C大仏開眼の儀式は、インドの高僧を招いてはなやかに行われた。Dこれらの事業は莫大な資金を必要としたが、人々は協力して完成させた。」 イ 被控訴人記述10 「@聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、A日本のすみずみに仏教をゆきわたらせることで、政治や社会の不安をしずめ、国家に平安をもたらそうとしました。Bまた、都には全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、金銅の巨大な仏像(大仏)をつくりました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述10と被控訴人記述10との共通の事項は、@聖武天皇が国ごとに国分寺と国分尼寺を置いたこと、A仏教で国家に平安をもたらそうとしたこと、B全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、大仏を造ったことであると認められる。これらは、国分寺・東大寺について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述10の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述10@〜Bは、歴史的事項を単純に説明する文が羅列されているだけであるから、その配列は、ありふれたものといえる。 オ 具体的表現形式 控訴人記述10@〜Bは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述10Aは、聖武天皇の内心の思いを推察して表現した創作的なものである旨を主張する。しかしながら、聖武天皇が仏教の力で国を守ろうと考え、国家の平安を願ったことは、複数の他社の歴史教科書にも記載されている一般的な歴史的事項であるところ(甲41、乙45)、国を守るために仏教の力を借りることは、仏教を広く布教すること、すなわち、仏教に対する信仰心を民衆に広げることと同義であるから、「仏教の力」とあるところを「仏教の心を行き渡らせる」としたからといって、異なる歴史的事項を記述するとか、独自の歴史認識・歴史観を記述しているとか、独自の個性的な表現をしたとはいえず、その表現に創作性が生じるものではない。 控訴人の上記主張は、採用することはできない。 キ 小括 以上から、控訴人記述10は、被控訴人記述10と共通する部分に創作性が認められない。 (8) 項目15(鎌倉幕府の成立)について ア 控訴人記述15 「@その後、義経が頼朝と対立し、平泉(岩手県)の奥州藤原氏のもとにのがれると、頼朝はその勢力を攻めほろぼして、東北地方も支配下に入れた。 A1192(建久3)年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命された。B頼朝は鎌倉に、簡素で実際的な武家政治の拠点を築いた。これを鎌倉幕府とよび、C鎌倉に幕府が置かれた約140年間を、鎌倉時代という。」 イ 被控訴人記述15 「@頼朝は、平泉にのがれた義経を奥州藤原氏に討たせ、続いて奥州藤原氏を攻めほろぼすと、A1192(建久3)年、朝廷から征夷大将軍に任命されました。B頼朝は鎌倉に武家政治の拠点を築いたので、これを鎌倉幕府とよび、C幕府が鎌倉に置かれた約150年間を鎌倉時代といいいます。」 ウ 事項の選択 控訴人記述15と被控訴人記述15との共通の事項は、@義経が平泉に逃れ、頼朝は奥州藤原氏を攻め滅ぼしたこと、A1192年、頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命されたこと、B頼朝は、鎌倉に武家政治の拠点を築き、これを鎌倉幕府と呼ぶこと、C鎌倉に幕府が置かれた期間を鎌倉時代ということであると認められる。これらは、鎌倉幕府の成立について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述15の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述15@〜Cは、歴史的事項を時系列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述15@〜Cは、いずれも、歴史的事実を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述15Aは、頼朝が朝廷によって征夷大将軍に任命されたことを記述したことに創作性がある旨を主張するが、頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命されたとの事実は、複数の他社の歴史教科書に記載されている、ありふれた事項である(甲41、乙45)。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述15は、被控訴人記述15と共通する部分に創作性が認められない。 (9) 項目17(南蛮貿易とキリシタン大名)について ア 控訴人記述17 「@16世紀末には、ポルトガル人に続いて、フィリピンを拠点とするスペイン人も日本にやって来た。A日本人は、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人とよんだ。B彼らは、日本に火薬、時計、ガラス製品などヨーロッパの品々や、中国産の生糸・絹織物をもたらした。C他方、日本は当時、世界有数の銀の産出国だったので、C´南蛮人たちは日本で銀を手に入れて、Iアジア各地との交易に用いた。Dこれを南蛮貿易という。 E南蛮貿易の利益に着目した西日本の大名たちの中には、Fキリスト教を保護し、みずから入信する者もあらわれた。彼らをキリシタン大名という。J最初のキリシタン大名となった九州の大村氏は、長崎を開港してイエズス会に寄進した。K長崎は、貿易と布教の拠点となり、その後もヨーロッパとの窓口の役割を果たすようになった。 Lキリシタン大名の保護を受けて、長崎、山口、京都などには教会(南蛮寺)もつくられるようになり、キリスト教は西日本を中心に広がった。 G1582(天正10)年には、3人のキリシタン大名が、4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った(天正遣欧使節)。H少年たちは3 年がかりでローマに着き、大歓迎を受け、Mヨーロッパでは日本に対する関心が高まった。Nこの時期から、日本人の東南アジアへの進出も本格化した。」 イ 被控訴人記述17 「@16世紀末、ポルトガル人に続き、スペイン人も日本にやって来るようになりました。A彼らは南蛮人とよばれ、平戸(長崎県)や長崎などに来航し、貿易が始まりました。B南蛮人は、中国産の生糸や絹織物、ヨーロッパの火薬、鉄砲、ガラス製品、毛織物、時計などをもたらしました。C一方、鉱山開発により世界有数の銀の産出国になっていたC´日本は銀を輸出しました。Dこれを南蛮貿易といいいます。 E九州各地の大名は、貿易による利益のため領内での宣教師の活動を許可しました。Fしかし、大名の中には、キリスト教を保護するだけでなく、自らキリスト教の信者になる者もあらわれました(キリシタン大名)。 G1582(天正10)年、九州の大友宗麟ら3人のキリシタン大名は、4人の少年をスペイン国王とローマ教皇のもとへ派遣しました(天正遣欧使節)。H少年たちは3年がかりでローマにつき、大歓迎を受けました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述17と被控訴人記述17との共通の事項は、@ポルトガル人とスペイン人が日本にやって来たこと、A彼らが南蛮人と呼ばれたこと、B南蛮人は、ヨーロッパの火薬、時計等や、中国の生糸・綿織物等をもたらしたこと、C日本が世界有数の銀の産出国であったこと、D銀の輸出と生糸、鉄砲等の交換を南蛮貿易ということ、E大名が貿易の利益に着目したこと、F大名の中には、キリスト教を保護するだけでなく、自ら信者になる者も現れたこと、G3人のキリシタン大名が4人の少年をローマ教皇のもとに送ったこと(天正遣欧使節)、H少年たちは、3年がかりでローマに着き、大歓迎を受けたことであると認められるが、これらは、南蛮貿易及びキリシタン大名について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。 なお、控訴人記述17Cと同旨の事項は、他社の歴史教科書には取り上げられていない。しかしながら、銀の産出量が世界有数であることは、銀の輸出と密接に関連する事項であるから(なお、銀の国内需要にも左右されるから、銀の産出量と輸出量とが単純に比例するわけではない。)、控訴人記述17Cは、控訴人記述17C ´の銀の輸出という歴史的事項の説明に包含される程度のことであり、事項の選択についての創作性を生じさせるものではない。 したがって、控訴人記述17の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述17@〜Hは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述17@〜Hは、いずれも、歴史的事実を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述17HMの記述に創作性がある旨を主張するが、同Hは、複数の他社の歴史教科書に記載のある事項であり(甲41、乙45)、同Mは、被控訴人記述17との共通の選択事項ではない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述17は、被控訴人記述17と共通する部分に創作性が認められない。 (10) 項目19(秀吉の天下統一)について ア 控訴人記述19 「@織田信長の全国統一の事業を受けついで完成したのが、信長の家臣であった豊臣秀吉である。A備中(岡山県)高松城の毛利方の軍勢と対陣していた秀吉は、本能寺の変の知らせに接すると、ただちに毛利方と和議を結び、Bいち早く軍を引き返して、明智光秀を討った。Cさらに、織田家のほかの有力な家臣たちとの争いにも勝利し、信長の後継者としての地位を確立した。 D1583(天正11)年に、秀吉は、信長の安土城を手本にした、巨大な大阪城の建造に着手し、全国を統治しようとする意思を示した。Eこのあと、秀吉は朝廷から関白の位を得ることに成功した。Fこれによって秀吉は、天皇から全国の統治をまかされたとして、全国の大名を次々に降伏させた。G1590(天正18)年には、秀吉に対抗する大名がいなくなり、全国統一の事業は完成した。」 イ 被控訴人記述19 「H尾張の貧しい農家に生まれた豊臣秀吉は、@信長の家臣として才能を発揮し、織田方有数の武将として、その地位をかためていきました。A備中(岡山県)で毛利方の軍勢と対戦していた秀吉は、本能寺の変を知ると、ただちに毛利方と和を結び、B京都で明智光秀を討ちました。Cその後も、織田方の有力な家臣たちとの戦いを勝ちぬき、信長の後継者の地位を確立しました。 D1583(天正11)年、秀吉は壮大な大阪城の築城を開始して、全国統治の意思を示しました。E1585(天正13)年には、朝廷から関白に任命され、翌年には太政大臣に任じられました。F関白となった秀吉は、天皇から全国の統治をまかされたとして全国の大名に停戦を命じ、これに従わなかった九州の島津氏などを攻めて降伏させ、G1590(天正18)年には、関東の北条氏をほろぼし、奥州を平定して、全国統一をなしとげました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述19と被控訴人記述19との共通の事項は、@秀吉が信長の家臣であったこと、A秀吉は、本能寺の変を知ると直ちに毛利方と和議を結んだこと、B秀吉が明智光秀を討ったこと、C秀吉が織田家の有力な家臣たちとの争いに勝利し、信長の後継者としての地位を確立したこと、D秀吉が巨大な大阪城の築城に着手して、全国統一の意思を示したこと、E秀吉が朝廷から関白の位を得たこと、F秀吉が、天皇から全国の統治を任されたとして、全国の大名を降伏させたこと、G秀吉が全国統一を完成したことであると認められるが、これらは、秀吉の天下統一について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述19の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述19@〜Gは、歴史的事項が、時系列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものといえる。 オ 具体的表現形式 控訴人記述19@〜Gは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述19ABは、秀吉の中国大返しの史実をダイナミックな行動として印象深く述べたものである旨を主張するが、同ABと同旨の表現が、少なくとも、平8・平13・平17清水書院に記載されているから(甲41、乙45)、ありふれたものにすぎない。 また、控訴人は、控訴人記述19Dにおいて、秀吉の大阪城築城を「全国を統治しようとする意思を示した」と位置付けたことは、控訴人の独創である旨を主張する。しかしながら、秀吉が大阪城を築城してこれを全国統一の拠点にしたことは、複数の他社の歴史教科書に記載されているところ(甲41、乙45)、大阪城を全国統一の拠点にすることは、大阪城を全国統一の拠点とする意思を示すこと、すなわち、秀吉に全国統治の意思があることとにほかならないから、大阪城を築城することを控訴人記述19Dのように「全国を統治しようとする意思を示した」としたからといって、異なる歴史的事項を記述するとか、独自の歴史認識・歴史観を記述しているとか、独自の個性的な表現をしたとはいえず、その表現に創作性が生じるものではない。 さらに、控訴人は、控訴人記述19Fにおいて、秀吉の関白就任を「天皇から全国の統治をまかされた」と表現することが独創的な表現である旨を主張するが、秀吉が天皇により関白に任ぜられ天皇の権威を利用して全国統一に当たったことは、複数の他社の歴史教科書に記載されており(甲41、乙45)、これは、「天皇から全国の統治をまかされた」ことと同義であるから、秀吉の関白就任を「天皇から全国の統治をまかされた」としたからといって、異なる歴史的事項を記述するとか、独自の歴史認識・歴史観を記述しているとか、独自の個性的な表現をしたとはいえず、その表現に創作性が生じるものではない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述19は、被控訴人記述19と共通する部分に創作性が認められない。 (11) 項目20(秀吉の朝鮮出兵)について ア 控訴人記述20 「A約100年ぶりに全国統一を果たし、秀吉の意気はさかんだった。@秀吉は、中国の明を征服し、I天皇とともに大陸に移り住んで、東アジアからインドまでも支配しようという巨大な夢をもつにいたった。B1592(文禄元)年、秀吉は、15万あまりの大軍を朝鮮に送った。C加藤清正や小西行長などの武将に率いられた秀吉の軍勢は、たちまち首都の漢城(現在のソウル)を落とし、朝鮮北部にまで進んだ。Dしかし、朝鮮側の李舜臣が率いる水軍の活躍、民衆の抵抗、明の朝鮮への援軍などで、不利な戦いとなり、明との和平交渉のために兵を引いた(文禄の役)。 Eしかし、明との交渉はととのわず、1597(慶長2)年、秀吉はふたたび約14万の大軍を派遣した。Fところが、今度は朝鮮南部から先に進むことができず、翌年、秀吉が死去し、兵を引きあげた(慶長の役)。G2度にわたって行われた出兵により、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒廃した。Hこの出兵に、莫大な費用と兵力をついやした豊臣家の支配はゆらいだ。」 イ 被控訴人記述20 「Jまた、秀吉は海外進出をこころざし、フィリピンや台湾などに服属を求める手紙を送りました。@さらに明への出兵を計画し、朝鮮に服属と明への出兵の道案内を求めました。 A全国統一を成しとげ、意気さかんだった秀吉は、B1592(天正20)年、明への出兵の案内を断った朝鮮に、15万人あまりの大軍を送りました。C秀吉軍は、首都漢城(現在のソウル)を落とすなど優勢でしたが、D李舜臣が率いる朝鮮水軍の活躍や民衆の抵抗、明の援軍などで戦いは不利となり、明との講和をはかって兵を引きました(文禄の役)。Eしかし、明との交渉はまとまらず、1597(慶長2)年、秀吉はふたたび朝鮮に14万人あまりの大軍を送りました。Fところが、苦戦を強いられたうえ、翌年には秀吉が病死したため撤兵しました(慶長の役)。G朝鮮出兵で、朝鮮の国土や人々の生活はいちじるしく荒廃しました。Hまた、この失敗は、豊臣政権がくずれる原因の一つとなりました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述20と被控訴人記述20との共通の事項は、@秀吉が明の征服を計画したこと、A秀吉が全国統一をなし遂げ、意気盛んだったこと、B秀吉が朝鮮に15万人余りの大軍を送ったこと、C秀吉の軍勢が首都漢城を落としたこと、D李舜臣が率いる水軍の活躍、民衆の抵抗、明の援軍などで不利な戦いとなり、明との和平のために兵を引いたこと(文禄の役)、E秀吉が1597年に再び14万人の大軍を派遣したこと、F翌年の秀吉の死去により、兵を引き上げたこと(慶長の役)、G朝鮮出兵により朝鮮の国土や人々の生活が著しく荒廃したこと、H朝鮮出兵で豊臣家の支配が揺らいだことであると認められる。これらは、秀吉の朝鮮出兵について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述20の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述20@〜Hは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述20@〜Hは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述20は、秀吉の朝鮮出兵に「侵略」の語を使うことを排除した点に創作性がある旨を主張する。しかしながら、ある記述に当たり、その記述に多く用いられる特定の用語を用いないというだけでは、通常、単なる記述に当たってのアイディアであり、表現されたものとはいえないから、著作権による保護の対象とはならない。 また、控訴人は、控訴人記述20Aの「秀吉の意気はさかんだった」との記載は、個性的・独創的なものである旨を主張する。しかしながら、朝鮮出兵が秀吉の国内統一の勢いの延長にあったことは、少なくとも、平17東京書籍、平17帝国書院、平13・平17大阪書籍、平8・平13・平17日本書籍、平8日本文教出版に記載があるから(甲41、乙45)、秀吉の内心を推察して「秀吉の意気はさかんだった」と表現しても、新たな歴史的事項を控訴人記述20に付け加えるようなものとはいえず、当初の歴史的事項の説明に包含される程度のことにすぎないといえ、事項の選択についての創作性を生じさせるものではない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述20は、被控訴人記述20と共通する部分に創作性が認められない。 (12) 項目24(フェートン号事件・モリソン号事件)について ア 控訴人記述24 「F19世紀に入ると、イギリスとアメリカの船も、しばしば日本の近海に出没するようになった。@1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時対立していたオランダの長崎商館の引き渡しを求め、オランダ人2人をとらえるなどの乱暴をはたらいた(フェートン号事件)。Gこのように、日本はヨーロッパの国際情勢の変化に影響されるようになった。 Aいっぽう、北太平洋では、アメリカの捕鯨船の活動がさかんになり、B日本の太平洋岸にこれらの船が接近して、水や燃料を求めるようになった。C幕府は、海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年には、異国船打払令を出した。Dそのため、幕府は、1837(天保8)年、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民をとどけにきたアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払った(モリソン号事件)。 E蘭学者の高野長英や渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知って、幕府の措置を批判した。しかし、幕府は彼らをきびしく処罰した(蛮社の獄)。」 イ 被控訴人記述24 「H18世紀末のヨーロッパでは、フランス革命により共和国となったフランスが勢力を強めオランダを征服しました。Iイギリスはこの機会にオランダの海外拠点をうばおうとして、東アジアへの動きを活発化させました。 @1808(文化5)年には、イギリスのフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を連れ去り、食料をうばうなどの乱暴をはたらくという事件がおこりました(フェートン号事件)。 A一方、北太平洋ではアメリカの捕鯨活動がさかんになっていました。Bこれらの船は、わが国に接近して、水や燃料の補給を求めるようになりました。Cこれに対し幕府は、海岸防備をかためるとともに、1825(文政8)年には異国船打払令を出して、鎖国政策を守ろうとしました。 D1837(天保8)年、日本人の漂流民を救助して、わが国に送り届けようとしたアメリカ船モリソン号が、異国船打払令によって砲撃される事件がおきました(モリソン号事件)。Eこれに対し、高野長英や渡辺崋山などの蘭学者は、西洋の強大な軍事力を知って、異国船打払令を批判する本を書いたため、幕府は彼らをきびしく処罰しました(蛮社の獄)。」 ウ 事項の選択 控訴人記述24と被控訴人記述24との共通の事項は、@1808年に、イギリスのフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人を捕えるなどの乱暴を働いたこと(フェートン号事件)、A北太平洋では米国の捕鯨船の活動が盛んになったこと、Bこれらの船が日本に接近して、水や燃料を求めるようになったこと、C幕府は海岸防衛を固め、1825年には異国船打払令を出したこと、D幕府が、1837年に日本の漂流民を届けにきた米国船モリソン号を砲撃したこと(モリソン号事件)、E蘭学者の高野長英や渡辺崋山が西洋の強大な軍事力を知って、幕府の措置を批判したが、幕府は彼らを厳しく処罰したこと(蛮社の獄)であると認められる。上記CEが江戸幕府の鎖国政策について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることは明らかであり、また、少なくとも、上記@と同旨の事項は、平8帝国書院に、上記Aと同旨の事項は、平8帝国書院、平13日本文教出版に、上記BDと同旨の事項も、複数の他社の歴史教科書に記載されている(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述24の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述24@〜Eは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものといえる。 オ 具体的表現形式 控訴人記述24@〜Eは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述24は、フェートン号事件やモリソン号事件をめぐる対外関係を、中学校歴史教科書として初めて包括的に記述した点に創作性がある旨を主張する。しかしながら、控訴人の上記主張は、要するに、フェートン号事件とモリソン号事件の両事件を、その背景、周辺事情も含めて詳しく取り上げて1か所の記述にまとめて説明したというにすぎないところ、控訴人記述24は、上記ウのとおり、事項の選択として創作性が認められないのであるから、控訴人の主張するところによって控訴人記述24に創作性が生じるとはいえない。 また、控訴人は、控訴人記述24@の「乱暴をはたらいた」という表現は、歴史教科書としては個性的なものである旨を主張する。しかしながら、上記「乱暴をはたらいた」というのは、文脈上、その直前の「とらえる」ことを再度言い換えただけの表現であり、表現としての個性を発揮する余地がほとんどなく、「とらえる」ことに対する言い換えとしても、ありきたりのものである。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述24は、被控訴人記述24と共通する部分に創作性が認められない。 (13) 項目26(尊王攘夷運動)について ア 控訴人記述26 「@幕府が通商条約に調印したことに対し、朝廷の意向を無視し外国に屈服したことになるとの批判がわき上がった。Aそれは、朝廷を盛り立てる尊王と、外国を打ち払うべしとする攘夷の要求が結びついた、尊王攘夷運動に発展していった。 B条約の締結を推進した幕府の大老井伊直弼は、前水戸藩主徳川斉昭や、長州藩(山口県)の吉田松陰など尊王攘夷派100人あまりに、はげしい弾圧を加えた(安政の大獄)。Cしかし、1860(万延元)年、井伊直弼は江戸城に出勤する途上、桜田門の近くで、安政の大獄に憤った水戸藩などの浪士たちに暗殺された(桜田門外の変)。Dこの事件で幕府の権威はますます失われた。」 イ 被控訴人記述26 「@幕府が外国との条約を結んだことに対し、朝廷の意向に逆らって外国に屈服したものであるとの批判がわきおこりました。Aやがてこうした批判は、天皇を敬い朝廷をもり立てようとする尊王思想と、外国を打ち払おうとする攘夷論とが結びついた尊王攘夷運動へと発展していきました。 Bこのような幕府への批判に対し、井伊直弼はきびしい態度でのぞみました。公家や大名の中には役職を解かれたり、処罰される者が相つぎ、長州(山口県)の吉田松陰や越前(福井県)の橋本佐内など、100人あまりに激しい弾圧が加えられました。これを安政の大獄といいます。 Cこれに対し、尊王攘夷派は1860(安政7)年、水戸藩(茨城県)などの浪士を中心として、江戸城桜田門外で井伊直弼を襲い、暗殺しました(桜田門外の変)。 Dこの事件によって、幕府の権威はさらに低下しました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述26と被控訴人記述26との共通の事項は、@条約調印に対し、朝廷の意向を無視して外国に屈服したことになるとの批判がわき上がったこと、A尊王と攘夷の要求が結びついて尊王攘夷運動に発展したこと、B井伊直弼が100人余りに激しい弾圧を加えたこと(安政の大獄)、C1860年、井伊直弼が水戸藩などの浪士に暗殺されたこと(桜田門外の変)、Dこの事件で幕府の権威がますます失われたことであると認められる(甲41、乙45)。これらは、尊王攘夷運動について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる。なお、控訴人記述26Dと同旨の記述は、少なくとも、平8・平13・平17日本書籍に存する(甲41、乙45)。 エ 事項の配列 控訴人記述26@〜Dは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述26@〜Dは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述26@Aは、尊王攘夷運動が広がった動機を創作的に表現したものである旨を主張するが、ごく一般的な言い回しにすぎない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述26は、被控訴人記述26と共通する部分に創作性が認められない。 (14) 項目27(戊辰戦争)について ア 控訴人記述27 「@天皇のもとにつくられた新政府の指導者に任命されたのは、倒幕派の公家と武士たちだった。A徳川慶喜はこれに加えられず、新政府に領地の返上を命じられた。B旧幕府軍は、この命令に怒り、1868(慶応4)年1月、京都の鳥羽・伏見で、薩長両藩を主体とする新政府軍に戦いを挑んだが敗れた(鳥羽・伏見の戦い)。 C西郷隆盛は新政府軍を率いて旧幕府軍を追撃し、両軍の争いは全国的な内戦に発展した。D新政府軍は天皇の軍隊を示す錦の御旗を先頭におし立て、官軍(朝廷軍)としての権威を背景に有利に戦いを進め、江戸を占領した。Eそのさい、新政府軍の西郷隆盛と幕府側の勝海舟が話し合い、江戸城を無血開城した。 H内戦はその後、東北にもおよび、会津藩では16〜17歳の少年19人が自刃する白虎隊の悲劇を生んだ。F翌年5月、幕府側の最後の拠点であった北海道・函館の五稜郭が新政府の手に落ち、旧幕府軍は滅亡した。Gこの1年半におよぶ内戦を戊辰戦争という。」 イ 被控訴人記述27 「@天皇を中心とした新政府の中枢は、倒幕派の公家と大名・武士でかためられました。A新政府はさらに、徳川慶喜の官職と領地の返上を命じました。Bこの処置に憤った旧幕府側は、1868(慶応4)年1月、京都で新政府軍に戦いを挑み、敗れました(鳥羽・伏見の戦い)。 C勝利を収めた西郷隆盛らは、新政府軍を率いて旧幕府軍を追撃し、各地で戦いが行われました。D大政奉還によって、大名に対する権威を失った旧幕府軍に対して、錦の御旗をなびかせた新政府軍は官軍(天皇側の軍勢)として戦いを有利に進めました。E江戸城は無血開城し、人々の安全は守られました。F官軍は翌年、北海道・函館の五稜郭に立てこもる榎本武揚を中心とする軍勢を降伏させ、内戦に終止符を打ちました。Gこの一連の戦いを戊辰戦争といいます。」 ウ 事項の選択 控訴人記述27と被控訴人記述27との共通の事項は、@天皇の下に造られた新政府の指導者が倒幕派の公家と武士だったこと、A新政府が徳川慶喜に領地の返上を命じたこと、B鳥羽・伏見の戦い、C西郷隆盛が新政府軍を率いて旧幕府軍を追撃し、全国的な戦いになったこと、D新政府軍は、天皇の軍隊を示す錦の御旗を用いて、官軍として有利に戦いを進めたこと、E江戸城が無血開城したこと、F新政府軍が函館の五稜郭を落とし、旧幕府軍を滅亡させたこと、Gこの内戦を戊辰戦争ということであると認められる。これらは、戊辰戦争について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められる(甲41、乙45)。なお、控訴人記述26Dの、「天皇の軍隊を示す錦の御旗を先頭に押し立てて」との記載は、新政府軍が官軍としての立場にあったとの事項の中に包含される事項といえ、事項の選択として独立にその創作性を検討すべきこととはいえない。 したがって、控訴人記述27の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述27@〜Gは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述27@〜CE〜Gは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 他方、控訴人記述27Dは、天皇の権威を象徴的に表す「錦の御旗」を引用し、「錦の御旗を先頭におし立て」という他社の歴史教科書には見られない表現を用いている。しかしながら、「錦の御旗」は歴史的事項に係る用語であり、それ自体は著作権の対象にはならない。そして、旗を掲げることに関する表現の中で、「先頭におし立て」との記述はごく一般的なものといえる。そうすると、「錦の御旗を先頭におし立て」との表現に、著者の個性が発揮されているとは認められない。 したがって、結局、控訴人記述27@〜Gのすべての具体的表現が、ありふれたものということになる。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述27@は、幕末維新期における天皇権威の重要さが浮き彫りにされる個性的な表現である旨を主張するが、同@と同旨の記載は、少なくとも、平17東京書籍、平8・平13・平17日本書籍、平8・平13・平17清水書院に記載されており(甲41、乙45)、ありふれたものにすぎない。 また、控訴人は、控訴人記述27@〜Bは、幕府が鳥羽・伏見の戦いに追い込まれた経緯を明瞭に記載しているところに表現上の創作性がある旨を主張するが、控訴人記述27@については上記のとおりであり、同ABについても複数の他社の歴史教科書に記載があり(甲41、乙45)、ありふれたものにすぎない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述27は、被控訴人記述27と共通する部分に創作性が認められない。 (15) 項目28(第一次世界大戦)について ア 控訴人表現28 「H日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、ふたたびヨーロッパへの進出をはかった。Iそのため、ヨーロッパの情勢は緊迫した。@ドイツはすでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいたが、強力に海軍力を拡大して、海外発展に努めた。Aこれをおそれたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907年、三国協商が成立してドイツを包囲した。Jヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていった。 Bこのころ、バルカン半島では、民族の独立をめざす運動が高まった。Cこの地域に利害関係をもつ列強は、独立運動を利用して勢力をのばそうとした。Dそのためバルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』とよばれ、一触即発の緊張した状態が続いていた。Eロシアはセルビアなどのスラブ民族を支援し、オーストリアと対立していた。 F1914年、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアのサラエボで、親露的なセルビアの一青年に暗殺された事件(サラエボ事件)をきっかけに、G三国協商側と三国同盟側があいついで参戦し、第一次世界大戦が始まった。」 イ 被控訴人表現28 「@ヨーロッパでは、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んだドイツが急速に国力を増大させ、イギリスの優位をおびやかすようになりました。 A一方、日英同盟によって、どこの国とも組まない孤立政策を転換したイギリスは、日露戦争後ふたたびヨーロッパに関心を向け始めたロシア、そしてフランスに接近し、1907年、三国協商を成立させ、ドイツの動きに対抗しました。 Bバルカン半島では、独立をめざす諸民族のあいだで対立と抗争が激しくなっていました。C列強は独立運動を利用して勢力拡大をはかったため紛争が絶えず、Dバルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』とよばれました。E特にセルビア人などスラブ系の民族は、ロシアの力を背景にオーストリアに抵抗しようとしました。 F1914年、オーストリアの皇太子夫妻がサラエボでセルビアの青年に暗殺されました(サラエボ事件)。この事件をきっかけに、セルビアとオーストリアの戦争が始まると、G三国協商、三国同盟の各国もそれぞれの側に参戦し、第一次世界大戦が始まりました。」 ウ 項目の選択 控訴人記述28と被控訴人記述28との共通の事項は、@ドイツが国力を増大させており、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んだこと、Aイギリスがフランス、ロシアに接近し、1907年に三国協商を成立させて、ドイツに対抗したこと、Bバルカン半島では、民族の独立を目指す運動が高まったこと、C列強が独立運動を利用して勢力を伸ばそうとしたこと、Dバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたこと、Eロシアがセルビアなどのスラブ民族を支援したこと、Fサラエボ事件、G三国協商側と三国同盟側が参戦し、第一次世界大戦が始まったことであると認められるが、これらは、第一次世界大戦の勃発について取り上げるべき事項としてごく普通のものであると認められ(甲41、乙45)、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述28@〜Gは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述28@〜Gは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述28B〜Eは、第一次世界大戦の原因となった列強と民族運動との関連を明確にする独自性がある旨を主張するが、同旨の事項は、複数の他社の歴教科書に記載されており(甲41、乙45)、ありふれたものにすぎない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述28は、被控訴人記述28と共通する部分に創作性が認められない。 (16) 項目29(日本の参戦と二十一か条要求)について ア 控訴人記述29 「@日英同盟を結んでいた日本は、三国協商の側について参戦し、ドイツに宣戦布告した。A日本は、ドイツの租借地であった中国の山東半島の青島や太平洋上の赤道以北の島々を占領した。Bまた、ドイツの潜水艦が敵国の協商側の商船を警告もなく無制限に攻撃する作戦を開始すると、日本は駆逐艦隊を地中海に派遣した。 Hいっぽう、中国は青島からの日本軍の撤退を求めてきた。Cそれに対し日本は、1915(大正4)年、ドイツがもっていた山東省の権益の引きつぎ、関東州の租借期限の延長などを中国に要求した。D中国側は、日本人顧問の受け入れなど、秘密とされた要求事項(条項事項)の内容を、列強の介入を期待して内外に知らせ、『二十一か条要求』と名づけた。Eイギリスとアメリカは日本に抗議したが、F日本は最後通告を発して、希望条項をのぞいて受け入れさせたので、G中国国内の反日世論は高まった。」 イ 被控訴人記述29 「@わが国は、日英同盟に基づき三国協商側に立ち、ドイツに宣戦布告して、Aドイツの租借地だった山東半島の青島や太平洋上のドイツ領の島々を占領しました。Bさらに協商側の要請で地中海に艦隊を派遣し、商船などの警護に当たりました。 C大戦のさなか、わが国は、山東省のドイツ権益を日本が引きつぐことや、関東州・南満州鉄道(満鉄)の租借期限の延長などを中華民国政府に要求しました(二十一か条の要求)。Dそのうち、中国政府への日本人顧問の受け入れなどは、希望条項という理由で、日本は列強に通知しませんでしたが、中国はこれを列強に知らせて抵抗しました。 Eイギリスとアメリカは、日本が中国での独占的地位を得ようとしているとして非難しました。Fわが国は希望条項を撤回しましたが、最後通告を発して中国に強硬な姿勢でのぞみ、要求の多くを受け入れさせました。G中国では日本への反発が強まり、反対運動もおこりました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述29と被控訴人記述29との共通の事項は、@日本が日英同盟に基づき三国協商側に付いて、ドイツに宣戦布告をしたこと、A日本がドイツの租借地であった山東半島の青島や太平洋上の島々を占領したこと、B日本が商船の保護のために艦隊を地中海に派遣したこと、C二十一か条の要求、D中国が日本人顧問の受入れなどの事項を列強に知らせたこと、Eイギリスと米国が日本に抗議したこと、F日本が最後通告を発して、希望条項を除いて中国に受け入れさせたこと、G中国の反日世論が高まったことであると認められる。上記@ACEGが、第一次世界大戦への日本の参戦と二十一か条の要求について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることは明らかである(甲41、乙45)。また、少なくとも、上記Bと同旨の事項については、平8日本文教出版に、上記Fと同旨の事項が、平8帝国書院、平8・平13・平17大阪書籍に記載されており(甲41、乙45)、ありふれたものにすぎない。 控訴人記述29Dは、控訴人書籍にのみ記載のあることであるが、その歴史的背景は、日本から中国側に対する21か条から成る要求のうち、日本は、列強の利権を侵害する可能性のあった7か条を希望条項とし、これを列強には秘密とすることを中国側に要求したものの、中国側がこのことを列強側に暴露しため、米英が日本の要求を非難することになったものと認められる(乙12)。そうすると、控訴人記述29Dは、控訴人記述29Eの原因を記述したものであり、控訴人記述29CEの二十一か条の要求と米英の対応という歴史的事実の説明に包含される事項といえ、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきこととはいえない。 したがって、控訴人記述29の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述29@〜Gは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述29@〜Gは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであり、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述29Dは、従来の歴史教科書では書かれてこなかった点を明らかにした点に創作性がある旨を主張するが、同Dは、上記ウのとおり、選択としてありふれた事項に含まれるのであり、選択について新たな創作性が生じるものではない。 したがって、控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述29は、被控訴人記述29と共通する部分に創作性が認められない。 (17) 項目33(満州事変)について ア 控訴人記述33 「@昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいた。Aその保護と関東州および満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。 G関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州への支配を強めようとすると、B中国人による排日運動もはげしくなり、H列車妨害や日本人への迫害などが頻発した。Iさらに日本にとって、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた。Jこうした中、関東軍の一部将校は満州を軍事占領して問題を解決する計画を練りはじめた。」 「C1931(昭和6)年9月、関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、満鉄の線路を爆破し、これを中国側のしわざだとして、満鉄沿線都市を占領した。D政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、E関東軍は、全満州の主要部を占領し、政府もこれを追認した(満州事変)。 K満州で日本人が受けていた不法行為の被害を解決できない政府の外交方針に不満をつのらせていた国民の中には、関東軍の行動を支持する者が多く、陸軍には多額の支援金が寄せられた。F1932(昭和7)年3月、関東軍は満州国建国を実現し、のちに清朝最後の皇帝であった溥儀を満州国皇帝の地位につけた。」 イ 被控訴人記述33 「@昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいて、Aその保護と南満州鉄道(満鉄)などの警備のため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が置かれていました。 L済南での日本軍との衝突以降、中国では、国民党が中心となって、日本の中国権益の解消をめざす排日運動が強化されました。B排日運動の激化に対し、M日本国内では日本軍による満州権益確保への期待が高まりました。 C1931(昭和6)年9月、満州を軍事占領して問題を解決しようとした関東軍は、奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破し、これを中国のしわざとして、軍事行動をおこしました(満州事変)。 D日本政府は不拡大方針を発表し、関東軍の動きをおさえようとしました。しかし、E関東軍は満州全土を占領し、F翌年には満州国を建国し、清朝最後の皇帝であった溥儀がその元首の座に就きました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述33と被控訴人記述33との共通の事項は、@昭和初期の満州に既に20万人以上の日本人が住んでいたこと、A満州在住の日本人保護と満州鉄道の警備のために1万人の陸軍部隊(関東軍)が置かれていたこと、B排日運動が激しくなったこと、C1931年9月に関東軍が柳条湖で満州鉄道の線路を爆破し、これを中国側のしわざとし、軍事行動を起こしたこと、D日本政府は不拡大方針を採ったこと、E関東軍が全満州を占領したこと、F満州国が建国され、溥儀が皇帝の地位に就いたことことであると認められる。上記BCEFは、満州事変について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである(甲41、乙45)。また、上記@については、時期・人数はともかく、満州に日本人が在住していることは、他社の歴史教科書でも当然の大前提としていると認められる。そして、少なくとも、同Aと同旨の事項は、関東軍の人数を除いて、平13大阪書籍、平8・平13・平17清水書院に、同Dと同旨の事項は、平8・平13・平17清水書院、平17帝国書院、平17教育出版にそれぞれ記載されており(甲41、乙45)、ありふれたものである。 そうすると、満州在住の日本人の人口及び関東軍の人数については、控訴人書籍のみに記載があることになるが、そのような満州在住の日本人や関東軍の概況は、満州在住の日本人及び関東軍という歴史的事項の説明に包含される事項にすぎないから、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきこととはいえない。 したがって、控訴人記述33の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述33@〜Fは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述33@〜Fは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであり、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述33は、同@のような書き出しをした点に具体的表現の創作性があると主張するが、満州国建国前に満州に日本人が在住していることは、当然の前提であるから、それを冒頭に持ち出すことはありふれた構成にすぎず、創作性を認めることはできない。 また、控訴人は、控訴人記述33Cの「中国側のしわざだとして」とした表現が極めて個性的である旨を主張するが、同一の表現が、少なくとも、平8・平13大阪書籍、平13・平17日本書籍、平8・平13・平17日本文教出版にみられる(甲41、乙45)。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述33は、被控訴人記述33と共通する部分に創作性が認められない。 (18) 項目34(リットン調査団)について ア 控訴人記述34 「Gアメリカをはじめ各国は、満州事変をおこした日本を非難した。@国際連盟は満州にイギリスのリットン卿を団長とする調査団を派遣した。Aリットン調査団の報告書は、満州に住む日本人の安全と権益がおびやかされていた事実は認めつつも、B日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。Cすでに満州国を承認していた日本政府は、1933(昭和8)年、この勧告を拒否して国際連盟を脱退した。 Dその後、日本と中国とのあいだで停戦協定が結ばれ、E満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのもと、H日本の重工業の進出などにより経済成長をとげ、中国人などの著しい人口の流入もあった。Fしかし実際には、満州国の実権は関東軍がにぎっており、I抗日運動もおこった。」 イ 被控訴人記述34 「@国際連盟は満州にリットン調査団を派遣しました。A調査団は中国側の排日運動を批判し、日本の権益が侵害されていた事実は認めましたが、B満州国を認めず、日本軍の撤兵を要求しました。C国際連盟も同様の結論を出しましたが、日本はこれを受け入れず、1933(昭和8)年、連盟の脱退を表明しました。D同年、日本と蒋介石の国民政府とのあいだに停戦協定が結ばれ、満州事変は一応の決着をみました。 E『王道楽土』『五族協和』『共存共栄』をスローガンに掲げる満州国は、F実質的には日本が支配する国でしたが、J中国本土や朝鮮などから多くの人々が流入し、産業が急速に発展しました。K日本からも企業が進出し、開拓団が入植しました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述34と被控訴人記述34の共通の事項は、@国際連盟が満州にリットン調査団を派遣したこと、A調査団が、満州の日本人の権益が脅かされれていたことを認めたこと、B日本軍の撤兵を勧告したこと、C日本がこの勧告を拒否して国際連盟を脱退したこと、D日本と中国との間で停戦協定が結ばれたこと、E満州国が「五族協和」「王道楽土」のスローガンを掲げたこと、F満州国の実権を日本又は関東軍が握っていたことであると認められる。上記@BCFについては、満州国及び日本の国際連盟脱退について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである(甲41、乙45)。そして、少なくとも、上記Aと同旨の事項は、平23教育出版に、同Eについては、「王道楽土」のスローガンを掲げたことが、平8・平13教育出版にそれぞれ掲載されている(甲41、乙45)。なお、平23教育出版は、控訴人書籍発行後に検定を受けた教科書であるが、控訴人書籍発行後から平23教育出版検定のわずかな期間に、社会一般の歴史認識や歴史観に大きな変更があったことをうかがわせる事情も認められないから、平23教育出版を社会一般の歴史認識等を認定する資料として参酌することに差支えはない。また、平8・平13教育出版と異なり、控訴人書籍は、満州国が「五族協和」のスローガンを掲げたことを記載しているが、満州国において掲げられたスローガンとして具体的に何を取り上げるかによって、新たな選択の創作性が生じるものではない。 控訴人記述34Dは、控訴人書籍のみに記載があることであるが、その歴史的背景は、1933年5月に日中軍事停戦協定が結ばれ、これにより満州事変が終息したことと認められる(乙52)。そうすると、控訴人記述34Dは、満州事変という独立の歴史的事項の定義の一部を述べたにすぎず、満州事変を取り上げることがありふれた選択である以上、同Dを取り上げることによって新たな選択の創作性が生じるものではない。 したがって、控訴人記述34の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述34@〜Fは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述34@〜Fは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述34は、同Dの記述を、同Eの記述の前に配列することで、満州における産業発展を理解することを助けたものであり、個性が顕れたものである旨を主張するが、ありふれた配列にすぎない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述34は、被控訴人記述34と共通する部分に創作性が認められない。 (19) 項目35(「支那事変」・「南京事件」)について ア 控訴人記述35 「@また日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5千人の軍を駐屯させていた。A1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおきた。Jこれをきっかけに、翌日にはB中国軍と戦闘状態になったA´(盧溝橋事件)。K事件そのものは小規模で、現地解決がはかられたが、C日本側も大規模な派兵を決定し、L国民党政府もただちに動員令を発した。Mこうして、以後8年間にわたるD日中戦争が始まった。 E同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおき、これをきっかけに日中間の衝突が拡大した。N日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏するだろうと考え、F12月、南京を占領した。Gしかし、蒋介石は奥地の重慶に首都を移し、抗戦を続けた。」 「Hこのとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。Iなお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」 イ 被控訴人記述35 「@日本は義和団事件のあと、条約により北京周辺に5000人の軍を駐屯させていました。A1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍は何者かに銃撃を加えられ、B中国側と撃ち合いとなりましたA´(盧溝橋事件)。Oこれに対して日本政府は不拡大方針をとる一方で、C兵力の増強を決定しました。Pその後も日本軍と国民政府軍との戦闘は終わらず、E8月には日本軍将校殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大しました。Qここにいたって日本政府は不拡大方針を撤回し、D日本と中国は全面戦争に突入していきました(日中戦争)。F日本軍は12月に首都・南京を占領しましたが、G蒋介石は奥地の重慶に首都を移し、徹底抗戦を続けたため、長期戦に突入しました。」 「Hこのとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。Iこの事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」 ウ 事項の選択 控訴人記述35と被控訴人記述35とは、それぞれの記述事項の趣旨、位置付けが異なり、共通点がほとんど見られないが、あえてその共通事項を認定するならば、@日本が、義和団事件の後、条約によって北京周辺に5000人の軍を駐屯させていたこと、A1937年7月に盧溝橋で日本軍に何者かが発砲する事件が起きたこと、B上記Aの事件の後に中国軍と戦闘になったこと、C日本側が大規模な派兵を決定したこと、D日中戦争が始まったこと、E同年8月の上海での日本人将校殺害事件をきっかけに衝突が拡大したこと、F12月に日本軍が南京を占領したこと、G蒋介石は重慶に首都を移し、抗戦したこと、H南京占領時に、日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出たこと(南京事件)、I南京事件の犠牲者数などの実態については様々な見解があり、論争が続いていることであると認められる。このうち、上記A〜DF〜Iは、日中戦争及び南京事件について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである(甲41、乙45)。また、少なくとも、上記@については、兵員数を除いて、同旨の記載が、平13・平17大阪書籍、平17日本文教出版にあり、上記Eについては、1937年8月に上海に戦火が拡大したとの記載が、平17・平23教育出版にある(甲41、乙45)。 北京周辺に駐屯していた兵員数及び南京に戦火が拡大したきっかけとなった日本人将校殺害事件については、控訴人書籍のみに記載があることであるが、そのような兵員数や戦火拡大のきっかけとなった事件の説明は、北京に兵員が駐屯していたことや南京に戦火が拡大したという歴史的事項の説明の中に包含される事項にすぎないから、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきことではない。 したがって、控訴人記述35の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述35@〜Gは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているだけであり、控訴人記述35HIは争いのある歴史的事項について脚注で補足説明を加えただけだけであるから、いずれも、ありふれた構成である。 オ 具体的表現形式 控訴人記述35@〜Gは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。控訴人記述35HIは、南京事件の死傷者数について論争があるという現状を簡単に説明しているだけであり、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述35Eは、上海に戦火が拡大したのが中国側による戦争拡大のための挑発・謀略であるとの視点を提示する創作的なものである旨を主張するが、同記述をみても、これに接した者が控訴人が主張するようなことを読み取れるとはいい難く、主張の前提を欠く。 また、控訴人は、控訴人記述35HIは、虐殺肯定派と虐殺否定派の両者に配慮されたバランスのよい記述として優れた個性を発揮している旨を主張するが、南京事件の死傷者数について論争があることは、広く知られていることであり、それをそのまま記載したに等しい上記記述は、ありふれた表現にすぎない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述35は、被控訴人記述35と共通する部分に創作性が認められない。 (20) 項目36(北進論・南進論)について ア 控訴人記述36 「@1939年、アメリカは日米通商航海条約を延長しないと通告した。A石油をはじめ、多くの物資をアメリカからの輸入に依存していた日本は、Dしだいに経済的に苦しい立場に追いこまれた。 B日本の陸軍には、北方のロシアの脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったが、B´このころから、東南アジアに進出して石油などの資源を獲得しようとする、南進論の考えが強まっていった。Cしかし、日本が東南アジアに進出すれば、そこに植民地をもつイギリス、アメリカ、オランダ、フランスと衝突するのはさけられなかった。」 イ 被控訴人記述36 「A日本は石油をはじめとする多くの物資をアメリカにたよっていましたが、@アメリカは、1939(昭和14)年には日米通商航海条約の廃棄を通告し、対日輸出制限をしだいに強化しました。 B一方、わが国の陸軍には、ソ連の脅威に対抗する北進論の考え方がありましたが、B´東南アジアに進出しようという南進論が強くなりました。 Cしかし、東南アジアに軍を進めるということは、そこに植民地をもつアメリカ、イギリス、オランダ、フランスとの対立を深めることを意味していました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述36と被控訴人記述36との共通の事項は、@米国が日米通商航海条約を終わらせる旨を通告したこと、A日本が石油を初めとする多くの物資を米国に依存していたこと、B陸軍にはソ連(ロシア)の脅威に対抗する北進論の考え方があったが、B´東南アジアに進出する南進論が強まったことこと、C東南アジアへの進出が、植民地を持つ英米蘭仏との衝突に繋がることであると認められる。上記同B´Cは、太平洋戦争について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである(「南進論」との用語又は同旨の表現の例も、平13大阪書籍、平13・平17日本書籍、平8日本文教出版、平8・平13・平17清水書院に認められる〔甲41、乙45〕。)。また、同Aと同旨の事項は、少なくとも、平8清水書院に記載があり、ありふれたものである(甲41、乙45) 上記Bに関連するものとして、平13・平17帝国書院には、ソ連との間に日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保した上で東南アジアへの進出を進めようとしたとの記載がある(甲41、乙45)。 そうすると、米国が日米通商航海条約を延長させなかったこと及び陸軍にソ連の脅威に対抗する考えが強かったこと(控訴人記述36は、これを「北進論」としている。)については、控訴人書籍のみに記載があることになる。 しかしながら、日米通商航海条約破棄は、米国からの輸入に依存していたが日本が経済的苦境に陥ったことの原因として知られているから、その説明の中に包含される事項にすぎず、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきことではない。また、ソ連の脅威に対抗する考えが強かった主体を陸軍と記載することも、ソ連の脅威に対抗する考えが強かったとの説明の中に包含される周知の事項にすぎないから、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきことではない。 したがって、控訴人記述36の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述36@〜Cは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎずないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述36@〜Cは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述36B〜Cは、「南進論」「北進論」との政策論を採り入れることで、日本が欧米諸国の権益と衝突することになった経緯を創作的に表現している旨を主張するが、北方の脅威を取り除き、資源確保のために南方に進出したという表現手法は、「北進論」との用語を用いないものの、平13・平17帝国書院に既に顕れていることであり、控訴人の創作した表現とはいえない。 また、控訴人は、控訴人記述36は、中学校歴史教科書に「日米通商航海条約」「北進論」との用語を用いた点に個性が表れていると主張するが、特定の歴史的事項の説明に用いる一般的用語には選択の幅はないから、ある歴史的事項の選択がありふれたものである場合には、当該歴史的事項に対応する用語を用いたことにより独自の創作性は生じない。上記用語はいずれも一般的な歴史用語と認められ、また、歴史的事項の選択がありふれたものである以上、上記用語を用いたことにより創作性が生じることはない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述36は、被控訴人記述36と共通する部分に創作性が認められない。 (21) 項目43(冷戦)について ア 控訴人記述43 「@1945(昭和20)年10月、連合国は、2度の世界大戦への反省に立ち、新たな戦争を防ぐための国際組織として、国際連合(国連)を結成した。Gしかし、戦争の芽はなくならなかった。A東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通し、西ヨーロッパにまで共産主義の影響をおよぼしはじめた。Bアメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成した。 Cいっぽう、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年に東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成した。Hドイツも東西に分断され、D世界はアメリカが率いる自由主義陣営とソ連が率いる共産主義陣営が勢力を争う、冷戦の時代に突入した。 E中国では日本の敗戦後、それまで抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、国共内戦を再開した。E1949年には毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立した。Fいっぽう、蒋介石が率いる国民党政府は台湾にのがれた。」 イ 被控訴人記述43 「@1945年10月、連合国は、戦時中からのアメリカの構想に従って、新たな国際機構として国際連合(国連)を設立しました。 Aしかし、ソ連は、戦時体制をゆるめず、東ヨーロッパの共産主義支配を強め、世界的な共産主義運動を支援しました。I国連もソ連の拒否権のために有効に機能しませんでした。 Bアメリカは、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行うとともに、軍事面では1949年には北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。C一方、核兵器の開発に成功したソ連も、1955年に東ヨーロッパ諸国とワルシャワ条約機構を結んでNATOに対抗し、D冷戦(冷たい戦争)とよばれる対立が深まりました。 J冷戦はアジアにもおよび、E中国では日本軍の撤退後、ソ連の援助を受けた共産党が、アメリカの支援する国民政府を破り、1949年、毛沢東を主席とする中華人民共和国が建国されました。F一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述43と被控訴人記述43との共通の事項は、@1945年10月、連合国が国際組織として国際連合を結成したこと、Aソ連が各国の共産主義運動を支援したこと、B米国は、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年には北大西洋条約機構を結成したこと、Cソ連も原子爆弾を保有し、1955年に東欧諸国とワルシャワ条約機構を結成したこと、D冷戦が生じたこと、E中国では共産党が勝利し、中華人民共和国が成立したこと、F蒋介石の率いる国民党が台湾に逃れたことであると認められるが、これらは、国際連合設立及び冷戦について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである(甲41、乙45)。 したがって、控訴人記述43の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述43@〜Fは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎずないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述43@〜Fは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述43Aは、東欧などに対するソ連の共産主義支配を創作的に表現する旨を主張するが、一般的ないい回しにすぎないと認められる。 また、控訴人は、控訴人記述43A〜Cは、米国が、日本の占領政策を変更し、日本を自由主義陣営を構成する強力な一員として育成する方向へと舵を切った背景を深く理解させる個性的で独創的な表現である旨を主張するが、複数の他社の歴史教科書が、同旨の事項を記載しているのであり(甲41、乙45)、ありふれたものにすぎない。 キ 小括 以上から、控訴人記述43は、被控訴人記述43と共通する部分に創作性が認められない。 (22) 項目44(朝鮮戦争・独立回復)について ア 控訴人記述44 「@朝鮮半島では1948年、南部にアメリカが支持する大韓民国、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がつくられ対立した。Lこうして冷戦は東アジアへと広がった。」 「A冷戦が始まると、アメリカは、日本の経済発展をおさえる政策を転換し、共産主義に対抗するため、日本を発展した経済力をもつ自由主義陣営の強力な一員として育てる方針に変えた。 B1950年6月、北朝鮮は、南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如として韓国へ侵攻した。C韓国軍と、マッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍がこれに反撃したが、戦況は一進一退をくり返し、D戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続いた(朝鮮戦争)。E日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出動したあとの治安を守るために、日本はGHQの指令により警察予備隊を設置した。Fまた、日本はアメリカ軍に多くの物資を供給し、日本経済は息を吹き返した(朝鮮特需)。」 「M朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは、基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えた。G1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由主義陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結んだ。Iさらにアメリカと日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、米軍の駐留を認めた。 H1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。 Nソ連は、国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため、日ソ間で平和条約は締結できず、J1956年10月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復した。Kこれでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰した。」 イ 被控訴人記述44 「@戦後、米ソによって分割占領された朝鮮半島では、占領分割線である北緯38度線をはさみ、南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。 B1950年、北朝鮮はソ連の支援のもと、武力統一をめざし韓国に侵攻しました。C不意を打たれた韓国軍は南部に後退しましたが、米軍を中心とする国連軍の支援を得て、逆におし返しました。Oその後、北朝鮮には中国が加勢し、C戦いは一進一退をくり返し、D1953年に休戦協定が結ばれました(朝鮮戦争)。 A冷戦が激化するに従い、アメリカの占領政策は、日本を自由主義陣営の一員として強化する方向に向かいました。E朝鮮戦争が勃発し、駐留していた米軍が朝鮮半島に出動すると、GHQは日本政府に、警察予備隊を組織する指令を出しました。P警察予備隊はその後、保安隊を経て自衛隊へと発展しました。Fまた、朝鮮戦争で、米軍がわが国に大量の軍需品を注文したことにより、日本経済は急速に回復し始めました(朝鮮特需)。 G1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、わが国は自由主義諸国など48か国とのあいだにサンフランシスコ平和条約を締結し、H翌年4月28日に主権を回復しました。I同時に、日米安全保障条約(日米安保条約)も結ばれ、Qアメリカが日本および東アジアの平和と安全を保障するとともに、I占領終了後も日本国内に米軍基地が置かれることになりました。 Jまた、1956(昭和31)年、日ソ共同宣言が出され、ソ連との国交が回復しました。Kこの結果、ソ連が賛成に回り、日本の国際連合加盟が実現しました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述44と被控訴人記述44とは、記述内容がかなり異なり、両者の間には年表程度の共通点しか見られないが、あえてその共通事項を認定するならば、@朝鮮半島に、南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立したこと、A米国が日本を自由主義陣営の一員として育てる方針になったこと、B1950年、ソ連の支持を受けた北朝鮮が韓国へ侵攻したこと、C韓国軍に米軍主体の国連軍が加わり、戦いが一進一退を繰り返したこと、D1953年に休戦協定が結ばれたこと、E日本に駐留する米軍が朝鮮に出動し、日本がGHQの指令により警察予備隊を設置したこと、F朝鮮特需により日本経済が回復したこと、G日本が、1951年9月、自由主義陣営など48か国とサンフランシスコ講和条約を結んだこと、H1952年4月28日、日本が独立を回復したこと、I日米安全保障条約が結ばれ、日本が米軍の駐留を認めたこと、J1956年の日ソ共同宣言で、日本がソ連と国交を回復したこと、Kソ連の反対がなくなり、日本が国連に加盟したことであると認められるが、これらは、朝鮮戦争と日本の国際社会復帰について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである(甲41、乙45)。 エ 事項の配列 控訴人記述44@〜Jは、歴史的事項が、時系列に従って配列れているにすぎないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述44@〜Jは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述44は、同Bにおいて北朝鮮が韓国に侵攻したことを明確にした点に創作性がある旨を主張するが、同旨の記述は、複数の他社の歴史教科書で取り上げられており、「侵略」「侵攻」とするものに限っても、少なくとも、平13・平17東京書籍、平13・平17日本書籍がある(甲41、乙45)。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述43は、被控訴人記述43と共通する部分に創作性が認められない。 (23) 項目45(ベトナム戦争)について ア 控訴人記述45 「@1965年、アメリカは、インドシナ半島の共産主義化を警戒し@´、南ベトナムを支えるため、直接軍隊を派遣し、A中国やソ連が支援する北ベトナム軍や南ベトナムの反政府勢力と戦った(ベトナム戦争)。Dしかし、勝利を収めることができず、B1973年、アメリカ軍はベトナムから撤退した。C2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立した。」 イ 被控訴人記述45 「@1965年には、インドシナ半島の共産化をくい止めるため、@´アメリカは南ベトナム軍を援助する軍を送り、A中国、ソ連、北ベトナムが支援する南ベトナムの反政府勢力や北ベトナム軍と戦った(ベトナム戦争)。Eしかし、長引く戦争に、米国の世論はこの戦争への介入反対へと傾き、B1973年にアメリカ軍は撤退しました。C1975年、北ベトナムは南部に侵攻し、南ベトナムを併合しました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述45と被控訴人記述45との共通の事項は、@1965年、米国がインドシナ半島の共産主義化を警戒して、@´南ベトナムに軍隊を派遣したこと、A中国やソ連が支援する北ベトナム軍や反政府勢力と戦ったこと(ベトナム戦争)、B1973年に米軍がベトナムから撤退したこと、C1975年、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合したことであると認められる。上記@´〜Cは、ベトナム戦争について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることが明らかである。また、上記@に関連するものとして、複数の他社の歴史教科書に、共産主義国であるソ連や中国が北ベトナムを支援し、米国が南ベトナムを支援し、両者が対立していたことが記載されている(甲41、乙45)。これに照らせば、米国が南ベトナムに軍隊を派遣した直接の目的が、南ベトナムの共産主義化防止であることは、複数の他社の歴史教科書にも記載されているに等しいといえる。そうであれば、これを敷衍して、米国のベトナム介入の一般的な動機を付加することは、米国の南ベトナムへの軍隊派遣という歴史的事項の説明に包含されるものであり、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきことではない。 したがって、控訴人記述45の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述45@〜Cは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているたにすぎずないから、ありふれたものである。 オ 具体的表現形式 控訴人記述45@〜Cは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであるから、その具体的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述45@は、従来の教科書が明確にしてこなかった米国がベトナム戦争を戦った動機を明確にする点に創作性がある旨を主張するが、上記のとおり、同@を選択したことには創作性は認められない。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 キ 小括 以上から、控訴人記述45は、被控訴人記述45と共通する部分に創作性が認められない。 (24) 項目47(湾岸戦争)について ア 控訴人記述47 「@1990年8月、イラク軍が突然クウェートに侵攻し、A翌年1月、Bアメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦って、クウェートから撤退させたA(湾岸戦争)。Cこの戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動には参加せず、D巨額の財政援助によって大きな貢献をしたが、E国際社会はそれを評価しなかった。F国内では日本の国際貢献のあり方について深刻な議論がおきた。」 イ 被控訴人記述47 「G中東ではイラン・イラク戦争に続き、A1991年に湾岸戦争がおこりました。@イラクのクウェート侵攻に対し、B国連決議に基づくアメリカなどの多国籍軍が編成され、イラク軍を敗退させました。Dこのとき、日本は巨額の戦費を負担しましたが、C憲法の規定を理由に人員を派遣しなかったためH国際社会の評価は低く、I国際貢献のあり方があらためて問われる結果となりました。」 ウ 事項の選択 控訴人記述47C〜Fを通覧すれば、同EFの趣旨は、軍事行動に参加しないで財政援助だけをしても国際社会の評価は得られない点に課題を残したことをいうものであって、他方、被控訴人記述47CDHIを通覧すれば、同HIの趣旨は、戦費を負担しても人員を派遣しなければ国際社会の評価が得られない点に課題を残したことをいうものである。そうすると、控訴人記述47と被控訴人記述47とは、@イラクがクウェートに侵攻したこと、A1991年に湾岸戦争が起こったこと、B米国等の多国籍軍がイラク軍を撤退させたこと、C日本が憲法を理由にして人員を派遣しなかったこと、D日本が巨額の財政援助をしたこと、E財政援助だけでは国際社会の肯定評価を得ることはなかったこと、F国際貢献のあり方が国内で問われたことの限度で共通すると認められる。このうち、上記@〜Bが、歴史教科書が湾岸戦争について取り上げるべき事項としてごく普通のものであることは明らかである(甲41、乙45)。また、上記Dと同旨の事項は、平8・平成13日本書籍に記載されている(甲41、乙45)。 そうすると、上記CEFについては、控訴人書籍のみが記載があることになる。 しかしながら、日本が湾岸戦争に当たって財政援助のみを行った理由とこれに対する国際評価は、控訴人記述47Dの歴史的事項の説明に包含される周知の事項にすぎないから、事項の選択について独立にその創作性を検討すべきことではない。 したがって、控訴人記述47の事項の選択は、ありふれたものである。 エ 事項の配列 控訴人記述47@〜Cは、歴史的事項が、時系列・因果列に従って配列されているにすぎず、同D〜Gは、それに対する付加事項の説明であるから、ありふれた構成である。 オ 具体的表現形式 控訴人記述47@〜Cは、いずれも、歴史的事項を単純に説明するにすぎないものであり、また、同D〜Gは、湾岸戦争をめぐる社会的事象を簡単に説明しているだけであり、その具体的的表現は、ありふれたものである。 カ 控訴人の主張について 控訴人は、控訴人記述47D〜Gは、従来の歴史教科書が避けてきたテーマを大胆に取り入れた点に、教科書としての創作性があると主張するが、その主張を採用することができないのは、上記ウのとおりである。 キ 小括 以上から、控訴人記述47は、被控訴人記述47と共通する部分に創作性が認められない。 (25) まとめ その外、控訴人がるる主張するところも採用することはできない。 以上のとおりであるから、被控訴人記述1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47は、創作性がないから、「著作物」(著作権法2条1項1号)には該当せず、その翻案も認められない。 したがって、その余の点について判断するまでもなく、控訴人の翻案権侵害に基づく請求は、理由がない。 2 争点(2)(被控訴人各記述が控訴人各記述を「複製」したものか否か)について 上記1のとおり、被控訴人記述1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47は、創作性がないから、「著作物」(著作権法2条1項1号)には該当せず、その複製も認められない。 したがって、その余の点について判断するまでもなく、控訴人の複製権侵害に基づく請求は、理由がない。 3 争点(3)(被控訴人書籍の単元構成が控訴人書籍の単元構成を「翻案」又は「複製」したものか)について (1) 単元62 控訴人は、控訴人書籍の単元62(項目28・29と同一部分)の構成が、他社とは異なる極めて個性的・創作的なものであり、創作性がある旨を主張する。 証拠(甲3)によると、単元62付近の控訴人書籍の構成は、次のとおりと認められる。 「第5章 世界大戦の時代と日本 第1節 第一次世界大戦の時代 62 第一次世界大戦 第一次世界大戦の始まり(記載内容は、項目28のとおり) 日本の参戦と二十一か条要求(記載内容は、項目29のとおり) 63 ロシア革命と大戦の集結 ロシア革命(ロシア革命、ソビエト政府成立、革命反対勢力との内戦等の説明) シベリア出兵(シベリア出兵の説明) 総力戦(総力戦の説明) 大戦の終結(ヨーロッパ、日本、米国に与えた影響等の説明) 64 ベルサイユ条約と大戦後の世界 ベルサイユ条約と国際連盟(ベルサイユ条約と国際連盟の設立の説明) アジアの独立運動(インド、朝鮮、中国での独立運動の説明) 日本の大戦景気(大戦景気、財閥の伸興等の説明) 65 政党政治の展開 … ・・・」 上記構成は、第一世界大戦期間中の歴史的事実のうち、直接的に同大戦に関するものを時系列に従って2つに分割し、前半を単元62に、後半を単元63に割り振り、その余の第一世界大戦期間中の歴史的事実を、同大戦終結後の歴史的事実の説明をする単元64に振り替えたにすぎないものであり、ごくありふれた構成にすぎない。 控訴人は、この構成が他社の歴史教科書と異なる点に個性の発揮がある旨を主張するが、ありふれた表現は複数存在する場合もあるから、他社の歴史教科書と異なることをもって直ちに個性の発揮が根拠付けられるわけではなく、控訴人書籍の単元構成がありふれたものであることは、上記のとおりである。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 したがって、単元62の構成には、創作性が認められない。 (2) 単元79 控訴人は、控訴人書籍の単元79(項目43・44と同一部分)の構成が、他社とは異なる極めて個性的・創作的なものであり、創作性がある旨を主張する。 証拠(甲3)によると、単元79付近の控訴人書籍の構成は、次のとおりと認められる。 「第5章 世界大戦の時代と日本 第1節 第一次世界大戦の時代 ・・・ 第2節 第二次世界大戦の時代 ・・・ 第3節 日本の復興と国際社会 78 占領下の日本と日本国憲法 占領の開始 ・・・ 日本国憲法 ・・・ 79 占領政策の転換と独立の回復 国際連合と冷戦の開始(記載内容は、項目43と項目44の「東アジアへと広がった。」まで) 占領政策の転換(記載内容は、項目44の「冷戦が始まると、」から「(朝鮮戦争)」まで) 独立の回復(記載内容は、項目44の「朝鮮戦争をきっかけに、」から以降) 80 米ソ冷戦下の日本と世界 冷戦の進行 ・・・ 経済復興と日米安保条約改定 ・・・ 」 単元79の構成は、おおむね、@連合国軍による占領開始(1945年8月)及び日本国憲法施行(1947年5月)との単元78に記載されている歴史的事項と、A経済復興達成(1956年)、安保条約改定(1960年1月)、ベルリンの壁建設(1961年)、キューバ危機(1962年)及びベトナム戦争(1965年)との単元80に記載されている歴史的事項との間に生じた、B国際連合成立(1945年10月)、北大西洋条約機構結成(1949年)、ワルシャワ条約機構結成(1955年)、中華人民共和国成立(1949年)、朝鮮戦争(1950年〜1953年)、サンフランシスコ講和条約(1951年9月)、日ソ共同宣言(1956年)という歴史的事項が記載されているというものであり、上記@とAとの間にほぼ位置する歴史的事項を一単元の中にまとめたからといって、時系列にまとめられるものを1か所に記載したというごくありふれた構成にすぎない。 他社の歴史教科書と構成が異なることをもって直ちに個性の発揮の根拠となるものでないことは、上記のとおりである。 控訴人の上記主張は、採用することができない。 したがって、単元79の構成には、創作性が認められない。 (3) まとめ 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、控訴人の単元構成に係る翻案権又は複製権侵害に基づく請求は、理由がない。 4 争点(4)(控訴人が有する著作者人格権(同一性保持権・氏名表示権)の侵害の有無)について 上記1のとおり、被控訴人記述1、2、9、10、15、17、19、20、24、26、27〜29、33〜36、43〜45及び47は、創作性がないから、「著作物」(著作権法2条1項1号)には該当せず、その著作者人格権の侵害は認められない。 したがって、その余の点について判断するまでもなく、控訴人の著作者人格権侵害に基づく請求は、理由がない。 5 争点(5)(一般不法行為の成否)について 控訴人は、仮に、被控訴人らに著作権侵害・著作者人格権侵害が成立しないとしても、被控訴人らは控訴人各記述に係る控訴人の執筆者利益を害したものであるから、不法行為が成立する旨を主張する。 しかしながら、控訴人の主張する控訴人各記述に係る控訴人の執筆者利益とは、どのような法的性質であるのか必ずしも明確とはいえないところ、控訴人各記述が表現として法的保護に値するか否かは、まさに著作権法が規定するところである。そして、控訴人各記述が、上記1ないし3のとおり、具体的表現のみならず、その単元構成、事項の選択・配列等も含めて、著作権法によって保護される表現に当たらない以上、これら表現を控訴人が独占的、排他的に使用し得るわけではないから、被控訴人各記述に控訴人各記述に似たところ又は共通するところがあったとしても、被控訴人の権利又は利益が害されたことにはならない。したがって、ただ単に、被控訴人各記述に控訴人各記述に似たところ又は共通するところがあるというだけでは、被控訴人各記述を用いることが公正な競争として社会的に許容する限度を超えるということはできない。 控訴人の一般不法行為に基づく請求は、理由がない。 6 総括 以上から、その余の争点について判断するまでもなく、控訴人の請求は、いずれも理由がない。 第5 結論 よって、本件各請求をいずれも棄却した原判決は相当であり、本件各控訴はいずれも理由がないから棄却することとして、主文のとおり判決する。 知的財産高等裁判所第2部 裁判長裁判官 清水節 裁判官 中村恭 裁判官 中武由紀 |
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