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【事件名】「沖縄ノート」の“集団自決”名誉棄損事件
【年月日】平成20年3月28日
 大阪地裁 平成17年(ワ)第7696号 出版差止等請求事件

判決


主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由
第1 請求
1 被告株式会社岩波書店は、別紙書籍目録1及び同目録2記載の各書籍を出版、販売又は頒布してはならない。
2(1) 被告株式会社岩波書店及び被告Eは、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞及び日本経済新聞の各全国版に、別紙1記載の謝罪広告を別紙1記載の掲載条件にて各1回掲載せよ。
(2) 被告株式会社岩波書店は、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞及び日本経済新聞の各全国版に、別紙2記載の謝罪広告を別紙2記載の掲載条件にて各1回掲載せよ。
3(1) 被告株式会社岩波書店は、原告らに対し、各1000万円(うち各500万円については被告Eと連帯して)及びこれに対する平成17年9月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2) 被告Eは、原告らに対し、被告株式会社岩波書店と連帯して、各500万円及びこれに対する平成17年9月11日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 本件は、原告B及び原告Cの実兄であるDが、原告Bについては、被告らが出版し、若しくは執筆した別紙書籍目録1記載の書籍(以下「本件書籍(1)」または「太平洋戦争」という。)及び同目録2記載の書籍(以下「本件書籍(2)」または「沖縄ノート」といい、本件書籍(1)及び本件書籍(2)を併せて「本件各書籍」という。)により、D大尉については、本件書籍(2)により、太平洋戦争後期に座間味島、渡嘉敷島の住民に集団自決を命じ、住民を多数死なせながら、自らは生き延びたという虚偽の事実を摘示され、原告B及びD大尉の社会的評価を著しく低下させられ、その名誉を甚だしく毀損され、もって原告Bの人格権や、原告CのD大尉に対する人間らしい敬愛追慕の情を内容とする人格的利益が侵害されたとして、原告らが、被告株式会社岩波書店(以下「被告岩波書店」という。)に対し、人格権に基づき本件各書籍について出版販売頒布の差止め、また、被告岩波書店と被告Eに対し、不法行為に基づく謝罪広告の掲載及び慰謝料の支払い(被告岩波書店に対し各1000万円、被告Eに対し各500万円の各支払いを求めているが、両被告の債務は500万円の限度で不真正連帯債務である。)を求めている事案である。
2 前提となる事実(証拠によって認定した事実は各項末尾のかっこ内に認定に供した証拠を摘示し、その記載のない事実は、当事者間に争いのない事実である。)
(1) 当事者
ア 原告Bは、大正5年12月21日生まれの男性で、第二次世界大戦中の沖縄戦において、アメリカ合衆国軍隊(以下「米軍」という。)が最初に上陸した慶良間列島の座間味島で、第一戦隊長として米軍と戦った陸軍士官学校(52期)出身の元少佐である。
 また、原告Cは、同じ沖縄戦において、慶良間列島の渡嘉敷島で、第三戦隊長として米軍と戦った陸軍士官学校(53期)出身の元大尉であるD大尉(大正9年4月20日生、昭和55年1月13日死亡)の弟である(原告CがD大尉の弟であることについて、甲C1の1及び2)。
イ 被告岩波書店は、大正2年創業の各種図書の出版及び販売等を業とする株式会社であり、本件各書籍の出版をしている。
 また、被告Eは、芥川賞、ノーベル文学賞を受賞した作家であり、沖縄ノートの著者である。
(2) 第二次世界大戦における沖縄戦と座間味島及び渡嘉敷島における集団自決
 昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、昭和17年のミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられ、昭和19年7月にはサイパン島が陥落し、昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し、次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。
 昭和19年3月、南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され、同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し、この沖縄守備軍・第三二軍は「球部隊」と呼ばれていた。
 昭和20年3月23日から、沖縄は米軍の激しい空襲に見舞われ、同月24日からは艦砲射撃も加わった。慶良間海峡は島々によって各方向の風を防ぎ、補給をする船舶にとっては最適の投錨地であったことから、米軍の最初の目標は、沖縄本島の西55キロメートルに位置する慶良間列島の確保であった。米軍の慶良間列島攻撃部隊は、VA少将の率いる第77歩兵旅団であり、空母の護衛のもと、上陸作戦に臨んだ。
 慶良間列島には、座間味島、渡嘉敷島、阿嘉島などがあるところ、昭和19年9月、座間味島には原告Bが指揮する海上挺進隊第一戦隊(以下「第一戦隊」ともいう。)が、渡嘉敷島にはD大尉が指揮する海上挺進隊第三戦隊(以下「第三戦隊」ともいう。)が配備された。海上挺進隊は、当初、小型船艇に爆雷を装着し、敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが、結局出撃の機会はなく、前記船艇を自沈させた後は、海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。
 原告Bの守備する座間味島と、D大尉の守備する渡嘉敷島では、米軍の攻撃を受けた昭和20年3月25日から同月28日にかけて、それぞれ島民の多くが集団自決による凄惨な最期を遂げた(なお、以下では、原告Bが座間味島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「B命令説」といい、D大尉が渡嘉敷島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「D命令説」という。)。
(3) 本件各書籍の記述
ア 本件書籍(1)の記述
 「太平洋戦争」は昭和43年2月14日に発行され、その改訂版である「太平洋戦争第二版」は昭和61年11月7日に発行された。本件書籍(1)は、「太平洋戦争第二版」を文庫化し、発行されたが、現在まで合計1万1000部が発行された(本件書籍(1)が「太平洋戦争第二版」を文庫化したものであることは争いがなく、その余は甲A1、B7及び弁論の全趣旨)。
 本件書籍(1)には、その300頁8行目から、「座間味島のB隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため三〇名が生命を失った。」との記述(以下「本件記述(1)」という。)がある。
イ 本件書籍(2)の記述
(ア) 沖縄ノートは昭和45年9月21日に発行され、平成19年11月15日の第53刷まで増刷を重ね、現在まで、合計30万2500部が発行された(弁論の全趣旨)。
 本件書籍(2)には、その69頁10行目から、「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、VB著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。」との記述(以下「本件記述(2)」という。)がある。
(イ) 本件書籍(2)には、その208頁1行目から、「このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。」「おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。」との記述(以下「本件記述(3)」という。)がある。
(ウ) 本件書籍(2)には、その210頁4行目から、「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」「本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、そのおりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するような生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守備隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりがきたら、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。」「日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう?あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。」との記述(以下「本件記述(4)」という。)がある。
(エ) 本件書籍(2)には、その213頁3行目から、「おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したいと、『或る昂揚感』とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由をもつ。」との記述(以下「本件記述(5)」といい、本件記述(1)ないし本件記述(4)と併せて「本件各記述」という。また、本件記述(2)ないし本件記述(5)を併せて「沖縄ノートの各記述」という。)がある。
(4)ア 「太平洋戦争」が歴史研究書であり、本件記述(1)が公共の利害に関するものであることは当事者間に争いはなく、それがもっぱら公益を図る目的によるものであることについては、それが公益を図る目的も併せもってなされたものであるとの限度で当事者間に争いはない。
イ 沖縄ノートは、被告Eが、沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘し、その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和45年の時点において、沖縄の民衆の怒りが自分たち日本人に向けられていることを述べ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものである。
 沖縄ノートの各記述は、沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題としてとらえ返そうとしたものであり、沖縄ノートの各記述は公共の利害に関する事実に係るものである。
(5)ア 座間味島について
 「鉄の暴風」等の書籍には、それぞれ以下のような記述が存在する。
(ア) 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行
 「鉄の暴風」(41頁)には、「座間味島駐屯の将兵は約一千人余、一九四四年九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて、隊長はB少佐、守備隊長は東京出身のVC少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」との記述がある。
(イ) 「座間味戦記」(昭和32年ころ、「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)
 「座間味戦記」(7頁)には、「夕刻に至ってB部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」との記述がある。
 この「座間味戦記」は、座間味村が戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものである。
(ウ) 「秘録沖縄戦史」(昭和33年)VD著
 「秘録沖縄戦史」(229ないし231頁)には、「昭和二十年三月二十三日、座間味は米機の攻撃を受け、部隊が全滅するほどの被害を蒙り、住民から二十三人の死者を出した。村民たちは、焼跡に立って呆然とした。早速、避難の壕生活が始まった。その翌日も朝から部隊や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、B少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、忠魂碑前で自決せよ』と。」「B少佐の自決命令を純朴な住民たちは、そのまま実行したのである。その日、七五名が自決し多くの未遂者を出した。」との記述がある。
(エ) 「沖縄戦史」(昭和34年)VB著
 「沖縄戦史」(51,52頁)には、「B少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令した。」「日本軍は生き残った住民に対し『イモや野菜を許可なくして摘むべからず』というおそろしい命令を出した。兵士にも、食糧についてのきびしいおきてが与えられ、それにそむいた者は、絶食か銃殺という命令だった。このために三十名が生命を失ない、兵も住民もフキを食べて露命をつないでいた。」との記述がある。
(オ) 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(昭和43年)VE著
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(7,9,39頁)には、「戦闘に協力できる村民は進んで祖国防衛の楯として郷土の土を血で染めて散華し、作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、悲壮にも集団自決を遂げたのであります。」「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」「午後十時頃B部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」との記述がある。
(カ) 「秘録沖縄戦記」(昭和44年)VD著
 「秘録沖縄戦記」(156,158頁)には、「艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民に対し、B少佐からきびしい命令が伝えられた。それは『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。」「B少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日、七五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した」との記述がある。
(キ) 「沖縄県史第8巻」(昭和46年)琉球政府編集
 「沖縄県史第8巻」(411,412頁)には、「翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが、B少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。」「村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名はB少佐の命令を守って自決した。」との記述がある。
(ク) 「沖縄県史第10巻」(昭和49年)琉球政府編集
 「沖縄県史第10巻」(698,699,746頁)には、「午後十時ごろ、B隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑の前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた。」「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである。」「中にいる兵隊が、『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』と手榴弾がわたされた。」との記述がある。
イ 渡嘉敷島について
 「鉄の暴風」等の書籍には、それぞれ以下のような記述が存在する。
(ア) 「鉄の暴風」
 「鉄の暴風」(33ないし36頁)には、「D大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民に対するD大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。」「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令がDからもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令がDから伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。」「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。」「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、『自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、D大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。」との記述がある。
(イ) 「秘録沖縄戦史」
 「秘録沖縄戦史」(218頁)には、「友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』とD大尉から命令が発せられた。」との記述がある。
(ウ) 「沖縄戦史」
 「沖縄戦史」(48頁)には、「D大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。」との記述がある。
(エ) 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(107頁)には、「D少佐は島の西北端の高地へ守備隊の移動を命じ、島民は自決せよと命令した。」との記述がある。
(オ) 「秘録沖縄戦記」
 「秘録沖縄戦記」(148頁)には、「D隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。」との記述がある。
(カ) 「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和44年、「ドキュメント沖縄闘争WJ」所収、以下「戦闘概要」という。)
 「戦闘概要」(12,13頁)には、「昭和二〇年三月二七日、夕刻駐在巡査Mを通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」「間もなく兵事主任Nをして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが、D隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令したのか、その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二〇年三月二八日午前一〇時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二、三百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもってD陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時にD隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手留弾に二、三〇名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」との記述がある。
(キ) 「沖縄県史第8巻」
 「沖縄県史第8巻」(410頁)には、「いよいよ、敵の攻撃が熾烈になったころ、D大尉は『住民の集団自決』を命じた。」との記述がある。
(ク) 「沖縄県史第10巻」
 「沖縄県史第10巻」(689,690頁)には、「上陸に先立ち、D隊長は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりのM巡査を通じて命令した。M巡査は防衛隊員の手を借りて、自家の壕にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた。」「西山陣地に村民はたどり着くと、D隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。」「陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴弾を配り出した。自決をしようというのである。」との記述がある。
(ケ) 「家永第3次教科書訴訟第1審J証言」(昭和63年、「裁かれた沖縄戦VF編」所収)
 「家永第3次教科書訴訟第1審J証言」(287,288頁)には、「村の指導者を通して、軍から命令が出たというふうな達しがありまして、配られた手榴弾で自決を始めると、これが自決の始まりであります。」「当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして、そのつもりで自決を始めたわけであります。」「(直接その自決の命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい、直接聞きました。」との記述がある。
(コ) 「家永第3次教科書訴訟第1審VF証言」(昭和63年、「裁かれた沖縄戦VF編」所収)
 VFは、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。
 「家永第3次教科書訴訟第1審VF証言」(54,69頁)には、「米軍の上陸前にD部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと、それから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。VGさんなどは、『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」「兵事主任という役割は、大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。これは、D部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね。」との記述がある。
(サ) 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集
 「渡嘉敷村史」(197,198頁)には、「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であったN氏(戦後改姓してN)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二〇日、D隊から伝令が来て兵事主任のN氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。N氏は、軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉B三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在のM巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」「渡嘉敷島においては、D大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」との記述がある。
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
 本件の争点は、
@ 沖縄ノートの各記述は、原告B又はD大尉を特定ないし同定するようなものであるか(特定性ないし同定可能性の有無)
A 本件各記述が原告B及びD大尉の社会的評価を低下させるものであるか(名誉毀損性の有無)
B 本件各記述に係る表現行為の目的がもっぱら公益を図る目的であるか(目的の公益性の有無)
C 原告B及びD大尉が住民に集団自決を命じたか(真実性の有無)
D 被告らが、原告Bの自決命令及びD大尉の自決命令が真実であると信ずるについて相当の理由があるか(真実相当性の有無)
E 沖縄ノートの各記述は、D大尉に対する人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものであるか(公正な論評性の有無)
F 原告Cにつき、敬愛追慕の情の侵害があったか
G 損害の回復方法及び損害額
である。
 以上の争点に対する当事者の主張は、以下のとおりである。
1 争点@(特定性ないし同定可能性の有無)について
(1) 原告らの主張
ア 沖縄ノートの各記述が原告B又はD大尉を特定ないし同定するものであること
(ア) 本件記述(2)の「日本人の軍隊が命じた住民に対する自決」「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」との記述からは、座間味島の守備隊長が座間味島における自決命令を出したことが伺えるところ、座間味島の守備隊長が原告Bであることは日本の現代史を研究する者及び原告Bを知る者であれば誰でも知っている事実であるから、本件記述(2)は、原告Bを特定ないし同定するものである。
 また、本件記述(2)の「日本人の軍隊が命じた住民に対する自決」「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」との記述、本件記述(3)の「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」「『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」「戦友(!)ともども、渡嘉敷島の慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたと報じた」との記述、本件記述(4)の「慶良間の集団自決の責任者も」「渡嘉敷島に乗りこんで」「渡嘉敷島で実際におこったこと」「あの渡嘉敷の『土民』のようにかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だった」との記述及び本件記述(5)の「おりがきたとみなして那覇空港から降りたった、旧守備隊長」との記述からは、渡嘉敷島の守備隊長が渡嘉敷島における自決命令を出したことが伺えるところ、渡嘉敷島の守備隊長がD大尉であることは日本の現代史を研究する者及びD大尉を知る者であれば誰でも知っている事実であるから、沖縄ノートの各記述は、D大尉を特定ないし同定するものである。
(イ) ある記述における登場人物を特定の誰かと同定できるか否かの「同定可能性」の問題は、いわゆる匿名報道等における「匿名性」の問題と表裏をなすところ、匿名記事の「匿名性」の判断基準については、共同通信北朝鮮スパイ報道事件に係る東京地裁平成6年4月12日判決・判例タイムズ842号271頁が次のように判示している。
 「当該報道において報道の対象が特定されたというためには、その報道自体から報道対象が明らかであることを要し、仮に他の報道と併せて考察すれば報道対象が明らかとなる場合であっても、そのことから、直ちに当該報道が報道対象を特定して報じたものと認めるのは相当でない。」「ただし、当該報道媒体以外の実名報道が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、それが一般の読者の客観的な認識の水準となるから、多くの実名報道と同一性のある報道であると容易に判明する態様での匿名報道は、匿名性を実質的に失うものといわざるをえない。」
(ウ) 上記判例が示した「匿名性」の判断基準、すなわち「同定可能性」の判断基準は、原則として「その報道自体から報道対象が明らかであったことを要」するとするが、ここでの「報道」を本件に適合するよう「表現」と言い換えると、「その表現自体」には、当該表現が掲載されている書籍・論文における他の箇所の記述も含まれることはもちろん、当該表現が、それと一体をなすものとして引用している書籍等の記述も含まれると解される。当該引用によって一般読者が容易に引用書籍に当たり、その表現を読むことができるからであり、名誉毀損という観点からは、当該表現が収められた当該書籍の他の箇所を読む場合と選ぶところはないからである。
 この点、被告岩波書店を当事者とした知財高裁平成17年11月21日判決(甲C4)は、次のように判示し、名誉毀損表現における「同定可能性」の判断において引用文献の記述が参照されるべきことを、当然のこととして認めている。
 「被告書籍においては、引用部分7及び8には、「(京城三坂小学校記念文集編集委員会、二四二、四一二)」と記載されるのみであり、被告書籍巻末の参考文献一覧に掲げられた「京城三坂小学校記念文集編集委員会編『鉄石と千草』三坂会事務局、一九八三年」と併せることで当該記載の出典を特定し得るものの、当該記載の執筆者の氏名は記載されていない。しかし、本件文集には被引用部分7及び8に執筆者(寄稿者)の氏名が明記されており、本件文集は1500部が発行され、東京都千代田区yの新刊書販売書店で入手可能であったというのであるから、被告書籍に記載された本件文集の出典頁から、被引用部分7及び8の執筆者(寄稿者)を知ることが困難とはいえない。このような点を考慮すれば、被告書籍における引用部分7及び8の記述は、被引用部分7及び8の各執筆者(寄稿者)との関係では名誉毀損に該当する余地がある。」上記判決の特徴は、「被告書籍」には「執筆者の氏名」は記載されていないにもかかわらず、「被告書籍」に記載されたわずか1500部しか発行されていない文集の出典頁から、執筆者(寄稿者)を知ることができるという場合に名誉毀損が成立する余地を認めていることである。
(エ) これを本件について見るに、被告らが準備書面で自ら引用しているように、渡嘉敷島の集団自決命令を下したのはD大尉であると実名で記述した書籍等が多数出版されており、更には、沖縄ノートの各記述にあるように、渡嘉敷島で開催された慰霊祭へ出席しようとしたD大尉が、沖縄の組合活動家らから難詰される等して慰霊祭への出席を阻止されたという事件が複数の新聞、週刊誌、グラフ誌等でD大尉の実名をもって報道されていた。そして、被告Eも、当該事件を実名報道した新聞やグラフ誌等の記事を読んでいたことは、沖縄ノートの各記述から明らかである。
 以上の事実から、被告Eを含め国民の多くが渡嘉敷島の元守備隊長がD大尉であるということを認識していたと認めることができ、それが一般の読者の客観的な認識の水準となっていたと解される。したがって、沖縄ノートの各記述は、多くの書籍、新聞、週刊誌、グラフ誌等において実名を用いてなされた渡嘉敷島集団自決事件の記述と同一性のある記述であると容易に判明するから、匿名性を実質的に失っている。
 また、沖縄ノートの本件記述(2)のように、「沖縄戦史」という一般の読者が一般の図書館において容易に閲覧・入手できる書籍の記述を、その「端的に語るところによれば」と明示的に引用してその表現と一体をなしている場合、引用書籍の記述を考慮すべきことは明らかである。
 VB著「沖縄戦史」は渡嘉敷島の集団自決命令はD大尉が出したとし、座間味島の集団自決命令は原告Bが出したと断定的に記述しており、これを併せて読めば、沖縄ノートの各記述が原告B又はD大尉を特定ないし同定するものであることは明白である。
イ 被告らの主張に対する反論
(ア) 被告らは、沖縄ノートの各記述について、最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決・民集10巻8号1059頁(以下「最高裁昭和31年判決」という。)を引用し、一般読者の普通の注意と読み方を基準とすれば、それらがD大尉及び原告Bに対する記載だと同定し得ないことを理由に、沖縄ノートの各記述による名誉毀損等の不法行為は成立しない旨主張する。
 しかしながら、最高裁昭和31年判決は、「名誉を毀損するとは、人の社会的評価を傷つけることに外ならない。それ故、所論新聞記事がたとえ精読すれば別個の意味に解されないことはないとしても、いやしくも一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈した意味内容に従う場合、その記事が事実に反し名誉を毀損するものと認められる以上、これをもつて名誉毀損の記事と目すべきことは当然である。」と判示している。
 すなわち、「一般読者の通常の注意と読み方」は、新聞記事等の表現の「名誉毀損性」の有無に係る判断基準であり、出版物における当該記述が表現する登場人物が誰かを特定できるかという「同定可能性」の問題に関する判断基準ではない。被告らの前記主張は、表現の「名誉毀損性」と、表現の「匿名性」ないし「同定可能性」及び表現の「公然性」という異なる3つの次元の事柄を混同するものであり、失当である。
 また、作家・VHが知人をモデルに著述した小説「石に泳ぐ魚」の出版による名誉毀損の成否が争われた「石に泳ぐ魚」事件につき、一審の東京地裁平成11年6月22日判決・判例時報1691号91頁は、小説「石に泳ぐ魚」の登場人物である「朴里花」とモデルとなった知人の原告とを同定しうるか否かにつき、「一般の読者の普通の注意と読み方」を基準として判断すべきであるという被告らの前記主張と同様の主張に対し、次のように述べてこれを退けている。
 「弁論の全趣旨によれば、原告は著名人ではなく、芸大の一女子大学院生に過ぎないことが認められるから、一般の読者の大多数が原告の存在を知らず、したがって、一般の読者が原告と『朴里花』とを同定し得ないことは明らかである。しかしながら、不特定多数の者が講読する雑誌に掲載された小説上の特定の表現が、ある人にとって侮辱的なものか、又は、その者の名誉を毀損するか否かについては、『一般の読者の普通の注意と読み方』を基準とすべきであるとしても、その前提条件ともいうべき『表現の公然性』、すなわち、特定の表現がどの範囲の者に対して公表されることを要するかは、事柄の性質を異にする問題である。後者の問題は、特定の表現が『不特定多数の者』が知り得る状態に置かれることを要し、かつ、これをもって足りると解すべきであり、この要件は、本件においては、本件小説が不特定多数の者が講読する雑誌『新潮』に掲載されたこと自体によって、既に充足されているものというべきである。そして、原告と面識があり、又は、前に摘示した原告の属性の幾つかを知る読者が不特定多数存在することは推認するに難くないところ、これらの読者にとっては、『朴里花』と原告とを容易に同定し得ることは前判示のとおりである。被告新潮社及び被告VIの右主張は、表現の名誉毀損性ないし侮辱性の判断基準と表現の公然性の判断基準とを混同するものであって、採用することができない。」
 ちなみに、同判決は、控訴審の東京高裁平成13年2月15日判決・判例時報1741号68頁及び上告審の最高裁平成14年9月24日判決・判例時報1802号60頁で維持されている。
 沖縄ノートは、昭和45年9月から現時点まで37年間にわたり、30万部以上が一般の書店などで販売され、多数の読者に読まれており、その中には、旧軍の関係者や沖縄戦の研究者、そして集団自決に関して記述した他の書籍を読んだ者など、沖縄ノートの各記述が座間味島と渡嘉敷島の元守備隊長がそれぞれ原告BとD大尉を指すものであることを認識し得る不特定多数の者が存することを否定できない。
 したがって、被告らの前記主張は、「石に泳ぐ魚」事件判決における作家と出版社側の主張と同じく、「表現の名誉毀損性ないし侮辱性の判断基準と表現の公然性の判断基準とを混同するものであって、採用することができない」ことは明らかである。
(イ) また、同定情報の資料範囲につき、被告らが引用する東京地裁平成15年9月14日判決(乙14)および前橋地裁高崎支部平成10年3月26日判決(乙15)のいう「一般の読者が社会生活の中で通常有する知識や認識を基準として、その範囲内」にあるか、若しくは「一般の読者において通常知り得る事項」であるかという基準に照らしても、当時の「渡嘉敷島」「座間味島」の守備隊長という公的人事情報という「一定の情報」が与えられれば、これに基づき、各一人しかいない原告らと一般の読者が知り得ることは十分であり、また、本件記述(2)に引用されている前記「沖縄戦史」が同定情報の資料となることは明らかである。
(ウ) 小括
 以上のとおり、被告らが主張する「一般の読者の通常の注意と読み方」基準は、新聞記事等の表現の「名誉毀損性」の有無に係る判断基準であり、出版物における当該記述が表現する登場人物が誰かを特定できるかという「同定可能性」の判断基準ではなく、被告らの主張は、表現の「名誉毀損性」と、表現の「同定可能性」及び表現の「公然性」という異なる3つの次元の事柄を混同するものであって失当である。
 そして、「同定可能性」の判断基準は、原則として「その表現自体から表現対象が明らかであったことを要する」が、「当該報道媒体以外の実名報道が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、それが一般の読者の客観的な認識の水準となるから、多くの実名報道と同一性のある表現であると容易に判明する態様での匿名表現は、匿名性を実質的に失う」のであり、また、「当該表現が書籍等の記述を明示的に引用し、当該表現と一体をなしているとみなされる場合には、引用書籍等の記述も考慮して同定可能性を判断する」ものと解すべきである。
 そして、原告B及びD大尉が、それぞれ座間味島及び渡嘉敷島の元守備隊長であり、それぞれの島で生じた集団自決に係る命令を下したと記述した書籍等が多数あり、D大尉の慰霊祭出席をめぐる事件報道が新聞、週刊誌等で多数なされていたこと、そして本件記述(2)が明示的に引用している前記「沖縄戦史」に、D大尉及び原告Bの実名が記載されていることからすれば、沖縄ノートの各記述は、原告B又はD大尉を特定ないし同定するものである。
(2) 被告らの主張
ア 沖縄ノートの各記述は原告B又はD大尉を特定ないし同定するものではないこと
(ア) 沖縄ノートの各記述には、座間味島の守備隊長が自決命令を出したとの記述も原告Bを特定する記述もなく、また、渡嘉敷島の守備隊長が自決命令を出したとの記述もD大尉を特定する記述もない。
 一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、沖縄ノートの各記述が原告B及びD大尉についてのものと認識されることはない。
(イ) 前記東京地裁平成15年9月5日判決は、一般に販売されている雑誌による名誉毀損の成否が争われた事件について、「特定人に対し、雑誌記事よる名誉毀損の不法行為が成立するためには、当該記事の記載事実が当該特定人に関するものであるという関係が認められることが必要である。そして、当該記事が匿名記事であるときは、当該特定人に関する一定の情報に照らして判断したときに、匿名であってもなお当該特定人について記載したものと認められてはじめて、氏名を公表して書かれた記事と同様に名誉毀損成立の対象となりうるというべきである。そして、上記一定の情報とは、当該記事を掲載した雑誌が一般雑誌として販売されている場合には、一般の読者が社会生活の中で通常有する知識や認識を基準として、その範囲内にある情報であることが必要と解すべきである。」と判示し、ある表現が誰に関してなされたものであるかは「一般読者の普通の注意と読み方」を基準とすべきであると判断した最高裁昭和31年判決と同様の判断をした。
 また、前記前橋地裁高崎支部平成10年3月26日判決は、表現の特定性について、「新聞記事が特定人の名誉を毀損するものというためには、一般の読者が、一般的な知識をもとに当該記事を読んだ場合に、それ自体から、その記事中の人物が、氏名までは不明であっても、どのような特定の人物であるかが認識しうる程度の記事内容であることを要するものというべきところ、本件記事はこのような意味での特定性を欠いており、一般読者においてこれが原告についての記事であると認識することは不可能であるというべきである。」と判示し、最高裁昭和31年判決と同様の基準を用いて判断した。
イ 原告らの主張に対する反論
(ア) 原告らは、最高裁昭和31年判決が示す「一般読者の普通の注意と読み方」という基準は名誉毀損性の有無に係る基準であって同定可能性に関する基準ではないと主張し、被告らが、表現の「名誉毀損性」と、表現の「匿名性」ないし「同定可能性」及び表現の「公然性」という異なる3つの次元の事柄を混同していると主張する。
 しかし、当該表現が誰に関するものであるかは、まさに表現が他人の名誉を毀損するかという名誉毀損性の問題であって、表現が誰に関する者であるかを一般読者の普通の注意と読み方によって判断すべきであるとする主張には、何の混同もない。
 名誉を毀損するというのは、人の社会的評価を傷つけることに外ならないのであり、人の社会的評価が低下するというのは、表現の対象者を評価する外部の者による当該人物に対する社会的評価が低下するということである。ある表現が誰かの社会的評価を低下させるか否かは、その「誰か」が特定されなければ、当該表現に接した者にとって、表現の対象者の社会的評価が低下することはあり得ない。つまり、ある表現が他人の名誉を毀損するか(社会的評価を低下させるか)を判断する際、その表現が誰に関してなされたものかという表現の特定性の問題と、その表現が人の社会的評価を低下させるかという名誉毀損性の問題は、切り離して判断することは不可能であり、両者は一体のものである。
 したがって、表現の特定性と名誉毀損性は同一の基準で判断されなければならない。
 また、被告らは、沖縄ノートの各記述が公然性を欠くなどとは主張していない。
(イ) 原告らは、D大尉が自決命令を下したとの著作物が出版され、D大尉が渡嘉敷島の慰霊祭に出席しようとして沖縄県民の反対運動にあったことが報道されたことをもって、多くの国民が、渡嘉敷島の元守備隊長がD大尉であるということを認識していたと認めることができ、それが一般の読者の客観的な認識の水準となっていたと解されると主張する。
 しかし、渡嘉敷島の集団自決命令に関してD大尉の実名を記載した著作物が広く国民に読まれていたわけではなく、全国紙で報道された事実もない。
 したがって、渡嘉敷島の集団自決命令について記述した著作物が複数発行されていたとしても、渡嘉敷島の守備隊長がD大尉であることが国民の多くに認識されたとはいえず、渡嘉敷島の守備隊長がD大尉であるという認識が一般読者の客観的水準となっていたとは到底いえない。
 沖縄ノートの発行当時に匿名性が実質的に失われていたとする原告らの主張は誤りである。
(ウ) 原告らが引用する前記知財高裁平成17年11月21日判決は、引用された書籍に人物を特定する記載がある場合に、引用した書籍の人物を特定しない記述について特定人に対する名誉毀損が成立することを一般的に認めたものではない。
2 争点A(名誉毀損性の有無)について
(1) 原告らの主張
ア 本件記述(1)は、不特定多数の読者に対し、座間味島の守備隊長であった原告Bが部隊の食糧を確保するため平然と住民の生命を犠牲にした冷酷鬼のような人物であるという印象を与え、原告B個人の人格を非難し、その社会的評価としての名誉を毀損し、その名誉権と名誉感情を侵害するものである。
イ 本件記述(2)は、渡嘉敷島の集団自決がその守備隊長であったD大尉から発せられた命令によって発生し、座間味島の集団自決がその守備隊長であった原告Bから発せられた命令によって発生したとの事実を摘示したものと読み取れる。
 本件記述(3)ないし本件記述(5)は、本件記述(2)と同じく、渡嘉敷島の守備隊長であったD大尉が無慈悲な集団自決命令を出したというD命令説を間接的ないし黙示的に事実摘示する事実表現若しくはD命令説を前提とする意見論評で、「屠殺者」「戦争犯罪者」等の個人非難を向けるものである。
 こうした沖縄ノートの各記述は、原告B及びD大尉の社会的評価を著しく低下させるものである。
(2) 被告らの主張
ア 否認し、争う。
イ 沖縄ノートの各記述は、@集団自決命令が座間味島の守備隊長によって出されたことも、原告Bを特定する記述もなく、また、A集団自決命令が渡嘉敷島の守備隊長によって出されたことも、D大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、原告BやD大尉が集団自決を命じた事実を摘示したものではなく、原告B及びD大尉の名誉を毀損することはあり得ない。
3 争点B(目的の公益性の有無)について
(1) 被告らの主張
ア 「太平洋戦争」は、歴史研究書であり、本件記述(1)は、「戦争における人間性の破壊−『戦争の惨禍』上」と題する章において、日本軍の民間人に対する態度の例として記述されたものであり、もっぱら公益を図る目的によるものであることは明らかである。
イ 沖縄ノートは、沖縄の人々が「琉球処分」「皇民化教育」により日本国の体制に組み込まれ、太平洋戦争で本土防衛のための悲惨な戦場とされ多数の住民が犠牲となった上、戦後はサンフランシスコ条約によって米国の施政権下に残されて米国の前線基地とされ、核戦略体制の下で核兵器による恐怖の捨て石とされ、本土のため犠牲にされ続けてきたと指摘し、その沖縄について、「核つき返還」などが議論されていた昭和45年当時、沖縄の民衆の重く鋭い怒りの矛先が被告Eら日本人に向けられていることを述べ、そのような日本人であることを恥じ、自分を変えることはできないかと自問し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものである。そして、沖縄ノートの各記述も、沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題として捉え直したものである。
 したがって、沖縄ノートの各記述は、公共の利害に関する事実について、もっぱら公益を図る目的で書かれたものであることは明らかである。
(2) 原告らの主張
ア 「太平洋戦争」については、第2・2(4)アの限度で認める。
イ 沖縄ノートについては、第2・2(4)イの限度で認め、その余は否認し、争う。
 沖縄ノートの各記述の前提には、悲惨な集団自決が原告B及びD大尉による自決命令に基づくものであるという全く虚偽が置かれており、そして、そのことこそが被告Eの自問と卑下と自虐的反省の中核部分を占めていたのであり、したがって、その自問による反省が全く的外れな昏迷に深みに陥ってしまったのは、故無きことではない。
 したがって、原告らは、沖縄ノートの各記述が公共の利害に関する事実に係わることは認めるが、それがもっぱら公益を図る目的によるものであるとの主張は否認し、争う。
4 争点C(真実性の有無)について
(1) 被告らの主張
ア 背景事情
(ア) 前第2・2のとおり、慶良間列島には、昭和19年9月、陸軍海上挺進戦隊が配備され、座間味島に原告Bが隊長を務める第一戦隊、阿嘉島・慶留間島にO(以下「O隊長」という。)が隊長を務める第二戦隊、渡嘉敷島にD大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。昭和20年3月の米軍進攻当時、慶良間列島の守備隊はこれらの戦隊のみであった。
 これらの戦隊は、住民に対し、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食糧の供出・生産、炊事その他の雑役等を指示するとともに、住民の住居に兵士を同居させ、さらには住民の一部を軍の防衛隊に編入した(乙9・685ないし702頁、甲B5・181頁以下)。また、軍は、村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、全権を握り、住民に対し、軍への協力を、防衛隊長、村長、助役、兵事主任などを通じて命令した(甲B5・215頁)。このように、軍官民共生共死の一体化による総動員体制が構築されていた。
(イ) 座間味村では、防衛隊長兼兵事主任のP助役が、伝令役の防衛隊員であり役場職員であるVJを通じて軍の命令を住民に伝達していた(甲B5・96,212,215頁)。
 渡嘉敷村では、村長のQ(以下「Q村長」という。)、防衛隊長のVK、兵事主任のN(以下「N兵事主任」という。)らが軍の命令を住民に伝達していた(乙10・6頁、乙13・196,197頁)。
 兵事主任は、徴兵事務を扱う専任の役場職員であるが、軍の命令を住民に伝達する重要な立場にあった(乙13・197頁)。
 また、防衛隊は、陸軍防衛召集規則に基づいて防衛召集された隊員からなる軍の部隊そのものであり、沖縄では、昭和20年1月から3月の沖縄戦にかけて大々的な防衛召集がなされ、17歳から45歳の男子が召集の対象とされた(乙11・138ないし142頁)。
 したがって、兵事主任や防衛隊長の指示・命令は、軍の指示・命令そのものであった。
(ウ) 沖縄の日本軍は、玉砕することを方針としており、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、動員された住民に対しても、捕虜となることを許さず、玉砕を強いていた。
 座間味島では、昭和17年1月から、太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に住民が集められ、君が代を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行った。住民は、日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから、戦時下の日本国民としてのあるべき心得を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし。」と指示されていた(甲B5・97,98頁)。
(エ) 阿嘉島では、O隊長による自決命令があったが、これと、上記の軍官民共生共死の一体化の総動員体制を併せ考えると、後記のとおり、原告Bによる自決命令及びD大尉による自決命令もあったというべきである。
イ 座間味島について
(ア) 自決命令を示す文献等
a 「鉄の暴風」(乙2)
(a) 「鉄の暴風」は、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版された沖縄最初の戦記であり、沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会を相当回数開催するなどして住民から直接取材し、得られた証言をもとに執筆された。
 「鉄の暴風」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
(b) 原告らは、執筆者のVLが、神戸新聞において、原告Bの自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張するが、神戸新聞の記事のとおりVLが述べたか疑わしいし、沖縄タイムス社は、現在もなお、原告Bが自決命令を出したという見解を維持している。
b 「座間味戦記」(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収)
 「座間味戦記」は、座間味村が援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に提出した資料である。
 「座間味戦記」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
c 「秘録沖縄戦史」(乙4)
 「秘録沖縄戦史」は、戦争当時は警察官として軍部と協力すべき地位にあり、戦後は戦没警察官の調査を行い、その後は琉球政府社会局長として戦争犠牲者の救援事業に関わり、戦争当時の状況について調査を行ったVDが、自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料をもとに執筆したものである。
 「秘録沖縄戦史」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
d 「沖縄戦史」(乙5)
 「沖縄戦史」は、沖縄タイムス紙の編集局長であったVBが、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。
 「沖縄戦史」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
e 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(乙6)
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」は、座間味島における戦闘で死亡したVM兵長の兄であるVEが、戦後、座間味島に赴き、住民の供述をまとめたものである。
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
f 「秘録沖縄戦記」(乙7)
 「秘録沖縄戦記」は、「秘録沖縄戦史」(乙4)を執筆したVDが、内容を再検討し、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。
 「秘録沖縄戦記」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
g 「沖縄県史第8巻」(乙8)
 「沖縄県史第8巻」は、昭和40年から昭和52年にかけて、沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した全23巻中の1巻であり、昭和46年4月28日に琉球政府の編集により発行された。
 「沖縄県史第8巻」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
h 「沖縄県史第10巻」(乙9)
 「沖縄県史第10巻」は、「沖縄県史第8巻」と同様の沖縄の公式な歴史書であり、昭和49年3月31日に沖縄県教育委員会の編集により発行された。
 「沖縄県史第10巻」には、第2・2(5)ア記載のとおり、原告Bが座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
i 米軍の慶良間列島作戦報告書
 平成18年夏、米軍の慶良間列島作戦報告書が、関東学院大学のR教授によって発見された(乙35)。上記報告書には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述があり、座間味村の状況について、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」との記述がある。
 この報告書の記載を原告らの主張のとおりに、「民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶良間島の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして自決しなさい、と繰り返し言っていた。」と英訳したとしても、日本軍が慶留間島の住民に自決を指示していたことに変わりはない。
j 「沖縄県史第10巻」(乙9)等には、WD(乙9・738ないし739頁)、VN(乙9・746頁)、VO(乙9・741頁、乙50・34頁)、VP及びVQ(乙9・753頁)、S(甲B5・39,40,46頁、乙6・45頁、乙9・756頁)など、座間味島の集団自決が軍の命令で行われたことを示す手記等が記載されているほか、VR(乙53及び62)、VS(乙98)、VT(乙53)、VU(乙51、乙71の1及び2)、VV(乙71の2)らも、近時、新聞の取材に応じて、同趣旨を語るなどしている。
k 以上の資料から明らかなように、座間味島では昭和20年3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、兵事主任兼防衛隊長であるP助役の指示により、防衛隊員が伝令として、軍の玉砕命令がでたので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう軍(隊長)の命令を住民に伝達して回り、その結果集団自決に至った。
 そもそも、軍の絶対的支配下にあった座間味島において、原告Bの指揮下の防衛隊長であり、兵事主任であり、軍の命令を住民に伝達する立場にあったP助役が、軍、すなわち原告Bの命令なしに、勝手に住民に自決命令を出すなどということはありえず、軍の命令がなければ、幼いわが子を殺すことはなかったはずである。
 原告Bは、米軍が上陸してくることを認識しながら、住民を他に避難させたり投降させたりするなどの住民の生命を保護する措置をまったく講じていなかったが、このことは原告Bが住民を玉砕させることにしていたからにほかならない。原告Bは、昭和20年3月25日の夜、助役らに面接した際に住民が自決しようとしていることを認識しながら、これをやめるように指示、命令しなかったのも、あらかじめ住民に玉砕を指示、命令していたからにほかならない。
 以上のとおり、座間味島の住民の集団自決は、軍すなわち原告Bの自決命令によるものであることが明らかである。
(イ) 原告ら主張の文献、見解等に対する反論
a 原告Bの陳述書について
 「母の遺したもの」(甲B5)に紹介されているSの手記では、原告Bは、P助役らの申出を聞いた後、「今晩は一応お帰りください。お帰りください。」と答えただけであったとされており(甲B5・39頁)、原告Bの陳述書で原告Bが「決して自決するでない。共に頑張りましょう。」と述べたとされているのと重大な食い違いを示している。また、原告Bは役場職員らの訪問自体を覚えていなかった様子であったというのであるから(甲B5・262頁)、原告Bの陳述書の前記記載は信用できない。なお、Sの供述する原告Bの発言は、面談の際に原告Bが自決を命じなかったことを示すにすぎないことは後記eのとおりである。
b 昭和60年7月30日付け神戸新聞について
 昭和60年7月30日付け神戸新聞には、Sの話として、「B少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」と記載されているが、Sは、手記ではそのような事実を語っておらず、娘である証人G(以下「G証人」という。)もSからそのような話は聞いていない(甲B5・39,214頁)。神戸新聞の記事は、原告Bが神戸新聞の記者に働きかけて掲載させたものであり、Sの発言とされる部分も原告Bの言い分をもとに記載された疑いがある。
c VW主任専門員の見解について
 「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)の中の、VW専門員執筆の「座間味島集団自決に関する隊長手記」に、原告Bの手記である「戦斗記録」が掲載されたのは、原告Bの自決命令に疑問を呈する原告Bらの談話が神戸新聞に掲載され、当事者である原告Bの異議がある以上、史実を解明する史料とするためであって、「沖縄県史第10巻」の記述を修正したものではない。
 VWが「沖縄県史第10巻」の実質的修正を行ったとして原告らが引用する「沖縄史料編集所紀要」の末尾6行部分(甲B14・46頁)は、原告Bの文として記載されているものである。仮にこの部分がVWの見解として記載されているものであるとしても、Sが原告Bの自決命令はなかったと言明していることを付記するものにすぎない。
 原告らは、VWの見解が神戸新聞に記載されているとも主張するが、神戸新聞記載のVWのコメントは、VWに対する取材に基づくものではない。
d VXの証言について
 VXは、「証言」(甲B8)を作成し押印した記憶はなく、VXが作成し押印したものではないと述べている(乙17及び18)。
 VXは、その経営する旅館に宿泊した原告Bから、昭和62年3月26日、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、家内に見せるためだけだ。」と迫られたが、これを拒否した。同月27日、原告Bが同行した2人の男がVXに泡盛を飲ませ、VXは泥酔状態となった。VXは、この時に「証言」を書かされた可能性があるが、そうだとすれば、「証言」は仕組まれたものであり、VXの意思に基づくものではないことは明らかである。
 VXは、座間味島の集団自決があった当時、山口県で軍務についており、集団自決の経緯について証言できる立場になかったし、また、実兄であるP助役が自決命令を出したなどと証言するはずがない。
e 「母の遺したもの」について
 「母の遺したもの」によれば、Sは、G証人に対し、昭和52年3月になって、昭和20年3月25日夜に原告Bに会った際には原告Bの自決命令はなかった旨、告白するに至ったとされているが、そうであるからといって、昭和20年3月25日夜のSと原告Bの面会の際に原告Bの自決命令がなかったということにはなっても、原告Bの自決命令自体がなかったということにはならない。そして、S自身、自分が原告Bが自決を命じなかったと言ったことで軍の命令がなかったとされては困る、住民は軍の命令だったと思っていると述べ、第3次家永教科書訴訟の際の文部省の指示に怒りをあらわにしていた(乙63・5頁、乙65、G証人調書11頁)。
 S自身、軍の命令で弾薬箱を運搬するため出発する際、VY軍曹から、「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をやりなさい」と言われ、手榴弾を渡されており、この手榴弾で自決を図っている(甲B5・46頁、乙6・45頁、乙9・756頁)し、また、VZ一家らも日本兵から手榴弾を手渡されている。
 また、Sは、農家向けの月刊誌である「家の光」に投稿し、原告Bが自決命令を出したことを積極的に述べていた(乙19)。
f 住民の手記について
 WAの手記には、「阿嘉島駐屯のO隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていました」と記載されている(乙9・730頁)。O隊長らの玉砕指示は、慶良間列島に駐留していた日本軍が、軍官民共生共死の一体化の方針のもとに、米軍上陸時には玉砕するよう住民に指示していたことを示す証拠であり、原告Bの自決命令の根拠となる。
 VOの手記には、「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう」命令を受けたとの記載があり(乙9・741頁)、また、Sの手記には、軍曹から自決用に手榴弾を渡されていた旨の記載があり(乙9・756頁)、さらに、WBの手記には、WC少尉から「玉砕しよう」と言われた旨の記載がある(乙9・758頁)。
 原告らが引用していないその他の手記でも、VNの手記には「忠魂碑の前で玉砕するから集まれ」との連絡を受けたこと、壕の中で兵隊から手榴弾を渡されたこと、WDの手記には「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう連絡を受けた」こと、友軍から攻撃用兼自決用に剣をもらったこと、VP及びVQの手記には「全員忠魂碑前で玉砕するから集まるように私達の壕に男の人が呼びにきた」ことが、それぞれ記載されている(乙9・746,753頁)。
(ウ) 座間味村の公式見解と原告Bの対応
a 原告Bから「鉄の暴風」の記述の訂正と謝罪を求められた沖縄タイムス社は、座間味村村長に対し、昭和63年11月3日付けの文書(乙20)により、座間味島の集団自決についての座間味村の公式見解について照会した。
 これに対し、座間味村村長は、原告Bによる自決命令はあった、WEなど多くの証言者が自決命令があったと述べている、集団自決が村の助役の命令で行われた事実はない、VXは酩酊状態で原告Bに強要されて「証言」(甲B8)に押印した、援護法の適用のために自決命令を作為した事実はない旨の回答をした。この回答には、座間味村の沖縄県援護課宛ての文書(乙21の2)が添付されており、座間味村は、沖縄県援護課に対しても、同趣旨の回答をしていた。
 その後、沖縄タイムス社が、原告Bに対し、座間味村の上記公式見解を得たことを示したところ、原告Bは、「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑を住民にかけたということは歴史の汚点です。座間味村に対し見解の撤回を求めるようなことはしません。もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない。」と述べ、沖縄タイムス社に対して「鉄の暴風」の記述の訂正・謝罪要求はしないことを明言した(乙22)。
 このように、原告Bは、座間味村の上記公式見解を受け入れたのである。
b 原告らは、WEの「自叙伝」(乙28)に原告Bの自決命令の存在をうかがわせる記述は一切ないと主張する。
 しかし、「自叙伝」(乙28)には、「その時、今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった。」との記述がある(71頁)。また、「自叙伝」には、「3月26日座間味島に米軍が上陸以後の詳細については、沖縄市町村長會編地方自治七周年記念誌に登載されてあるので省畧する。」との記述もあるところ(67頁)、その「地方自治七周年記念誌」(乙29)には、「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった。」との記述がある。
(エ) 援護法適用のための捏造について
 原告らは、集団自決について援護法の適用を受けるため、座間味村が厚生省に陳情し、適用を拒否されたが、隊長命令があったのであればと示唆され、隊長命令があったことにして援護法の適用を受けるに至ったと主張する。
 しかしながら、集団自決の直後に米軍に保護された慶良間列島の島民が、捕虜になることなく自決するよう軍に命じられていたと証言していたことが、R教授が米国国立公文書館で発見した米軍歩兵第77師団砲兵隊の慶良間列島の作戦報告書に記載されており(乙35の1及び2)、昭和25年に刊行された「鉄の暴風」(乙2)にも、日本軍の隊長の命令によることが記載され、座間味島の住民の多くが当時からB隊長から自決命令が下ったと認識していた(甲B5・215頁、G証人調書)。すなわち、援護法の公布は昭和27年であるところ、集団自決が日本軍の隊長の命令によることは、援護法の適用が検討される以前である集団自決発生当時から座間味村及び渡嘉敷村当局や住民たちの共通認識となっていたから、原告らの前記主張は失当である。
 また、原告B及びD大尉の命令による集団自決は、当初から「戦闘協力者(参加者)」に該当するものとして、援護法による補償の対象とされていた。
 元大本営船舶参謀であり、復員後に厚生事務官となったWFは、「住民処理の状況」(乙36)において、援護法の適用の対象となる「戦闘協力者(参加者)」に該当するものとして、「慶良間群島の集団自決軍によつて作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、特殊の[ケース]であるが、沖縄における離島の悲劇である。自決者座間味村155名渡嘉敷村103名」を挙げている(乙36・43頁)。
 昭和32年5月の「戦斗参加者概況表」(乙39の5)においても、「座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決」が、戦闘参加者の20類型の1つとして挙げられている。
 その他、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(乙36)、「沖縄作戦講話録」(乙37)からも、集団自決が、当初から「戦闘協力者(参加者)」に該当するものとして援護法による補償の対象とされていたことが分かる。
ウ 渡嘉敷島について
(ア) 自決命令を示す文献等
a 「鉄の暴風」(乙2)
 「鉄の暴風」には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
 「鉄の暴風」の執筆者であるWGは、WHとWI以外の直接体験者からも取材しており、WGの取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。WGの「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したものである。
b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争WJ編」所収)
(a) 「戦闘概要」は、当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力の下、渡嘉敷村遺族会が編集したものである。
 「戦闘概要」には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。
(b) 「戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」(甲B23及び乙3、以下「戦争の様相」という。)との関係についての原告ら主張は根拠のない憶測にすぎない。
 「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、WKが詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用語、表現等)を直したと思われる箇所が見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓のQとされているのに対し「戦闘概要」では改姓後のWLとされていることなどから、「戦争の様相」が先に書かれたものであり、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25、「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」)。
 したがって、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたものであり、「戦闘概要」にD大尉の自決命令が明記されたとみることができる。
c 「秘録沖縄戦史」(乙4)
 「秘録沖縄戦史」には、「三月二十七日−『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令がD大尉から駐在巡査Mを通じて発せられた。安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合することは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。」「西山の軍陣地に辿りついてホツとするいとまもなくD大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃、泣くにも泣けない気持ちで北方の盆地に移動集結したのであった。」との記述があり、その後には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙4・217,218頁)。
d 「沖縄戦史」(乙5)
 「沖縄戦史」には、「大尉は」「西山A高地に部隊を集結し、さらに住民もそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまやD部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。」との記述があり、その後には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙5・48頁)。
e 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(乙6)
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
f 「秘録沖縄戦記」(乙7)
 「秘録沖縄戦記」には第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある。
g 「沖縄県史第8巻」(乙8)
 「沖縄県史第8巻」には、「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕刻、駐在巡査Mを通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するよう命じられた。」「D大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を、さらに北方盆地に移動集結しなければならなかった。」との記述があり、その後には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙8・410頁)。
h 「沖縄県史第10巻」(乙9)
 「沖縄県史第10巻」には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙9・689,690頁)。
i 「家永第3次教科書訴訟第1審J証言」(乙11「裁かれた沖縄戦VF編」所収)
 証人J(以下「J証人」という。)は、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時、沖縄キリスト教短期大学学長であり、戦争当時渡嘉敷島において、自ら集団自決を体験した者である。
 「家永第3次教科書訴訟第1審J証言」には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙11・286ないし288頁)。
j 「家永第3次教科書訴訟第1審VF証言」(乙11「裁かれた沖縄戦VF編」所収)
 VFは、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。
 「家永第3次教科書訴訟第1審VF証言」には、第2・2(5)イ記載のとおり、D大尉が渡嘉敷島の住民に自決命令を発したとする記述がある(乙11・54,55,69頁)。
k 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」(乙12)
 「朝日新聞記事(昭和63年6月16日付け夕刊)」は、渡嘉敷村役場のN兵事主任の、D大尉が指揮する日本軍の自決命令があった旨の供述を記載した新聞記事である。それには、「『島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た』。自転車も通れない山道を四キロの阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか、とNさんは回想する。『中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ』すでにない旧役場の見取り図を描きながら、Nさんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二メートルほどの道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ』。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。Nさんは、証言をそうしめくくった。三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。Nさんの記憶では、谷あいに掘られていたNさんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在のM(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。『命令というより指示だった』とはいうものの、今も本島に健在の元巡査はその『軍指示』を自分ができる限り伝えて回ったこと、『指示』は場所を特定せず『日本軍陣地の近く』という形で、D大尉から直接出たことなどを、認めている。その夜、豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示”通り、食糧、衣類など洞穴に残し、日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は『玉砕場』と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示”は当然ながら命令として、口伝えに阿波連へも届く。『集団自決』は、この渓流わきで、翌二十八日午前に起きた。生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次々に軍配布の手榴弾が爆発した。」との記述がある。
l 「渡嘉敷村史」(乙13)
 「渡嘉敷村史」は、渡嘉敷村の公式な歴史書として、平成2年3月31日、渡嘉敷村史編集委員会の編集により渡嘉敷村役場が発行したものである。そして、「渡嘉敷村史」には、渡嘉敷村役場のN兵事主任による供述を主な内容とする次のような記載がある。すなわち、「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であったN氏(戦後改姓してN)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二〇日、D隊から伝令が来て兵事主任のN氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。N氏は、軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉B三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在のM巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」「渡嘉敷島においては、D大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」(乙13・197,198頁)。
m 米軍の慶良間列島作戦報告書
 米軍の「慶良間列島作戦報告書」については、前4(1)イ(ア)i記載のとおりである。
n 以上の文献等からも、渡嘉敷島の集団自決の経緯が次のとおりであることは明らかである。すなわち、渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、D隊から伝令が来て、N兵事主任に対し、住民を役場に集めるよう命令した。N兵事主任が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が、部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の住民に対し手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは残りの1発で自決せよ。」と訓示した。そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した昭和20年3月27日、D大尉から兵事主任に対し「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ。」との命令が伝えられ、M巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた。さらに、同日の夜、住民が命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、同月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決が行われた。
 渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者はD大尉であり、陣中日誌(甲B19)から明らかなように、弾薬である手榴弾は、軍の厳重な管理の下に置かれていた武器である。兵器軍曹がD大尉の意思と関係なく、手榴弾を配布し、自決命令を発するなどということはあり得ないし、証人I(以下「I証人」という。)も、「軍の最高責任者であるD隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない」旨証言している(I証人調書25頁)。したがって、手榴弾配布の時点で、あらかじめD大尉による自決命令があったのである。なお、この点について、原告らは、WNの「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持ってきた」との供述(甲B39・374頁)を挙げて反論するが、わずか1人の、しかも盗んだとされる者とは別の人間の供述にすぎないし、また、盗んだとされる者は防衛隊員という手榴弾を正式に入手できる立場にあったから、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったことの根拠とはならない。
 D大尉が具体的にどのように自決命令を発したかは必ずしも明確でないが、前記第3・4(1)のとおり、軍は、住民に対し、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときには捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ指示していたから、この点からも、軍の自決命令すなわちD大尉の自決命令があったことは明らかである。
(イ) 原告ら主張の文献等に対する反論
a 「ある神話の背景」について
 「ある神話の背景」では、前記のとおり、集団自決の直接体験者から取材を行い執筆された「鉄の暴風」(乙2)を直接体験者からの取材に基づくものではないとしている(甲B18・51頁)。また、その著者であるVGは、取材過程においてN兵事主任に会ったことはないと記しているが(乙24・219頁)、VGの取材経緯を調査したVFが指摘しているように、VGが渡嘉敷島を調査した昭和44年当時、N兵事主任は、渡嘉敷島で2回ほどVGの取材に応じているのであり(乙11・14頁)、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てた著作である。
b 「陣中日誌」について
 「陣中日誌」(甲B19)は、昭和45年3月にD大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の同年8月に発行されたものであり、本来の陣中日誌ではない。D大尉自身が自決命令を否定している以上、D隊が戦後20年以上経過してから発行した「陣中日誌」(甲B19)に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。
c 「沖縄戦ショウダウン」について
 D大尉は、渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告のために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、D大尉は、これを捕らえて処刑し(乙8・411頁、乙13・200,201頁)、投降を呼びかけにきた少年2人を処刑し(乙8・411頁)、国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であったWOを、家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・411頁、乙9・693頁)。このように、D大尉は、罪のない住民を虐殺した人物であるにもかかわらず、「沖縄戦ショウダウン」は、D大尉を「立派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価している者の供述だけから執筆されたものであり、信用性がない。
d WPの供述について
 琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして、WPは、援護法を適用するために集団自決が軍の命令によるものであるとの虚偽の申請を行ったという趣旨の供述をしている(甲B35)。
 しかし、渡嘉敷島の集団自決は、前4(1)イ(エ)で主張したとおり、はじめから援護法の適用の対象となっていたことが明らかである。
 また、WPは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたと供述するが、この供述は、琉球政府の人事記録に反する。すなわち、WPは、昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され、中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し(乙56の1及び2)、昭和31年10月1日に南部福祉事務所に配置換えとなり(乙57の1及び2)、昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっている(乙58)。WPが社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月のことである(乙59)。
 さらに、WPは、D大尉の同意を得て、D大尉が集団自決を命じた文書を当時の厚生省に提出したと供述するが、現在の厚生労働省によれば、そのような文書は保有していないとのことである(乙60及び61)。援護法に基づく給付は現在も継続して行われているから、そのような文書が作成されていたのであれば、それが廃棄されて存在しないということはあり得ない。
 以上のことから、WPの供述は信用できない。
(ウ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者について
 原告らは、D大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたか全く不明であるとし、命令者・伝達者・受領者が分からない命令はあり得ないから自決命令で集団自決したとすることはできない旨主張する。
 しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記第3・4(1)ウ(ア)nのとおりであり、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(防衛隊員が伝達したことは明らかであるが)、D大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。
 また、原告らは、集団自決がQ村長の責任であるかのような主張をするが、仮にQ村長による演説があったとしても、それはD大尉の自決命令を伝達したにすぎない。
(エ) 自決命令の言い換えについて
a 原告らは、Q村長が命令の受領を明確にできない以上、Q村長の供述から自決命令を認定することは不可能である旨主張する。
 しかし、Q村長は、「沖縄県史第10巻」において、D大尉の命令によって軍陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に撃ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾で集団自決が行われたこと、Q村長自身防衛隊員から手榴弾を渡されたことなどを具体的に供述しており、Q村長が、D大尉が自決命令を出したことを明確にしていることは明らかである。
b また、原告らは、昭和63年になって突然、手榴弾の配布を自決命令であると語り始めたN兵事主任の供述も信用できない旨主張する。
 しかし、N兵事主任には供述を捏造する理由も必要性もなく、また、N兵事主任の供述は、前記のとおり、詳細である上、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である。また、「潮」1971年11月号(甲B21)の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・」とある。)、にわかに手榴弾を配布したことが自決命令であると言い出したということでは全くない。N兵事主任は、朝日新聞の記事(乙12)において、「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」との問いに対し、「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」と供述し、供述をした理由を明確にしている。そして、このことは原告がD大尉の命令がなかったことの根拠としているWQ「集団自決を追って」(甲B17)においても、「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて2個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかにせよということであった。」と記載されているところである。
(オ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計について
 原告は、D大尉が自決命令を出していたとすれば、集団自決後、自決に失敗した住民の治療のために衛生兵を派遣することはあり得ないし、また、恩賜の時計などD大尉の記念品が渡嘉敷村の資料館に飾られることもあり得ない旨主張する。
 しかし、Q村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、D大尉が自決命令を出したということが矛盾するわけではない。また、渡嘉敷村の資料館にD大尉の時計が飾ってあるとしても、D大尉が自決命令を出さなかったことの根拠となるわけではない。
(カ) 自決命令を記載していた文献の絶版等について
 「沖縄問題20年」が昭和49年に出庫終了となったのは、「ある神話の背景」によりD大尉の自決命令が虚偽であることが露見したからではない。「沖縄問題20年」の著者であるWJとWRは、昭和40年6月に「沖縄問題20年」を出版した後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両者は、昭和51年10月、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」を併せて「沖縄戦後史」を出版した。「沖縄問題20年」は、このような経緯から昭和49年に出庫終了となったのである。
 また、「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく、「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺進隊の隊長Dは、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」と記述しており、自決命令がなかったとしているわけではない。
(キ) 原告らは、渡嘉敷島の集団自決の経緯について、M巡査の説明(甲B16)とWQ記者の記事(甲B17)に基づいて主張しているが、両者の説明はいずれも信用性がない。
 まず、WQについては、いかなる対象についていかなる取材を行ったか明らかでないし、WQ自身認めるとおり、WQの記事は、星の想像に基づいたものにすぎない。
 M巡査については、集団自決の現場へ住民を集結させながら、状況をD大尉に報告するため自決はできないとして、自らは、集団自決の現場から少し離れたところから見ていたとされる人物であり(乙9・768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍やD大尉の命令によるものではなかったとしなければならない立場にある人物であるから、信用性がない。
(ク) 証人H及びI証人の各証言について
a I証人は、D大尉が自ら認めている住民を西山に集結させたことについても「知らない」と証言しており、また、常時D大尉の傍らにいたのではないことを認めており(I証人調書20頁)、D大尉による自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。
 また、I証人は、当時の行動について、3月28日の午前1時ころに陣地に到着し、午前3時前後にD大尉に対して状況を報告したとしているが(甲B66・14頁)、I証人は、「沖縄方面陸軍作戦」(乙55・248頁)にI証人が28日午前10時ころ戦隊本部に到着したと書かれていることについて、防衛研修所戦史室の調査に対しては午前10時と答えたかもしれないが後から考えると午前1時ころであると、一貫しない証言をしており(I証人調書17ないし19頁)、I証人の同日の行動についての証言は全体として信用性がない。
b 証人H(以下「H証人」という。)は、D大尉が住民に対する伝言として、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と伝言したことがあるかとの原告ら代理人の質問に対し、「これはあります」と答え(H証人調書5頁)、被告ら代理人の質問に対しては、そのように原告ら代理人の主尋問に答えたことについて記憶がない旨証言するなど(H証人調書11頁)、証言が一貫しておらず、D大尉が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言は信用できない。
 また、H証人は、D大尉自身が認めている住民に対する西山への避難命令について、知らなかったと証言しており(甲B67、H証人調書12頁)、H証人がD大尉の出した命令・指示を把握していなかったことが明らかであり、H証人も、D大尉による自決命令がなかったと証言できる立場にない。
 そして、H証人は、D大尉が、捕虜になることを許さないとして、伊江島の女性、朝鮮人軍夫、WOの処刑を口頭で命じたと証言しており(H証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、住民が捕虜になることがないよう、D大尉が自決命令を出したということは十分に考えられる。
(2) 原告らの主張
ア 真実性の証明の対象となる命令
 被告Eの論評の前提となった事実は、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」という論評を示すことができる中身を持った命令(以下「無慈悲直接隊長命令説」という。)であり、これと異なる命令について立証しても、真実性の立証とはならない。このことは、本件記述(1)にも同様のことがいえる。
 被告らは、手榴弾の交付を自決命令とする「手榴弾交付命令説」、軍官民共生共死の一体化という政治体制による強制的雰囲気が集団自決を生んだ「命令」と評する「政治体制命令説」、日本軍の指示、強制を自決命令とする「広義の命令説」を展開する。
 しかし、手榴弾交付命令説は、原告BやD大尉以外の者の手榴弾交付行為を、原告B及びD大尉の行為と評価するもので、これを立証しても、無慈悲直接隊長命令説の立証にはならない。
 また、政治体制命令説は、軍人の命令が、日本国内すべての人間の生死を徹底的にコントロールできるような政治体制であったということが前提となるはずであるが、そのような体制は旧ソ連や北朝鮮でも聞かない。
 広義の命令説は、原告B及びD大尉以外の者の命令・指示・誘導・示唆等から命令の存在を推認するものであり、内容として一定しないし、本来の立証対象となるべき無慈悲直接隊長命令説の範囲を都合良く拡大解釈するものである。
 被告らは、第3・4(1)ア記載の背景事情を軍の自決命令と結びつけているが、それは、極めて粗雑な議論である。また、阿嘉島のO隊長による自決命令も存在しないし、あったとしても原告Bによる自決命令及びD大尉による自決命令の根拠とはならない。
イ 援護法適用のための捏造
(ア)a 座間味島の集団自決が原告Bの自決命令によるものであるとされたのは、援護法の適用のためである。
 「母の遺したもの」(甲B5)には、概略、次のような記述がある。すなわち、「援護法は、軍人・軍属を対象に昭和27年に施行された法律で、翌年には米軍支配下にあった『北緯29度以南の南西諸島(奄美諸島と琉球諸島)に現存する者』にまで適用が拡大された。それによって、戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民間人には適用されなかった。」「ところが、昭和34年から、旧国家総動員法に基づいて徴用された者、あるいはそれ以外に軍の要請で戦闘に協力して死亡、または負傷した『戦闘参加(協力)者』に、準軍属という新しい枠が設けられて、結果的には20種のケースに適用されることになった。沖縄関係では、『集団自決』、スパイ嫌疑で日本軍に殺害された人、義勇隊参加、陣地構築、食糧供出、壕の提供、道案内、勤労奉仕などによる負傷者や、死亡者が含まれた。つまり、一般住民の死者たちに対して、単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりした人には補償がなされないが、『日本軍との雇用関係』にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、この戦争で亡くなった非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が、軍部と関わるものでなければならなかった。」「その結論を得るまでの作業として、まず厚生省による沖縄での調査がはじまったのが昭和32年3月末で、座間味村では、4月に実施された。役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問の1つ1つに、『はい、いいえ』で答えた。そして、『住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか』という内容の問いに、母は『はい』と答えたという。」「座間味村役所では、厚生省の調査を受けた後、村長を先頭に、集団自決の犠牲者にも援護法を適用させるよう、琉球社会局を通して、厚生省に陳情運動を展開した。」「陳情の成果なのか、昭和34年、戦闘参加者への援護法の適用とともに、慶良間諸島の6歳未満を含む集団自決の負傷者や遺族に、障害年金、遺族給年金が支給されるようになった。戦闘参加者に6歳未満を含めたのは、当初は集団自決だけで、他の戦争犠牲者には適用されなかったが、全県的な運動もあって、昭和56年以降は、壕の追い出しなどで犠牲になった6歳未満の子どもたちにも適用されている。」との記述がある。
b 渡嘉敷島の集団自決がD大尉の自決命令によるものであるとされたのも、援護法の適用のためである。
 琉球政府社会局援護課の元職員であるWPは、平成18年8月27日付け産経新聞において、渡嘉敷島の集団自決について、援護法の適用のために軍による命令ということにしたものであり、軍命令とする住民は1人もいなかったと述べた。
 WPは、昭和20年代後半から、琉球政府社会局援護課で、旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるために、渡嘉敷島で聞き取りを実施した。
 援護法では一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動したことにして準軍属扱いとすることを企図し、WPらが、D大尉が自決命令を出したとする書類を作成し、厚生省に提出した。これにより、集団自決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が、年金や弔慰金を受け取れるようになった。
c その他にも、原告Bの陳述書(甲B1)やWSの「第一戦隊長の証言」(甲B26)など、援護法適用のために、座間味島の集団自決を原告Bの命令によるものであることにしたこと及び渡嘉敷島の集団自決をD大尉の命令によるものであることにしたことを示す関係者の証言、文献等がある。
(イ)a 援護法が沖縄に適用されるに至った経緯は以下のとおりであり、この一連の事実は総合的に踏まえなければならないところ、被告らは、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、粗雑な推論をして事実を歪曲するものである。
 昭和27年4月
  援護法の公布。援護法の目的は、「軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」にあり、軍人軍属ではない一般住民は適用外となっていた。
 昭和27年8月
  政府が沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置。政府としても、将来的には援護法の沖縄への適用を考えていたため、主として援護業務推進のために、総理府内に「南方連絡事務局」を創設した。
 昭和28年3月
  北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる。琉球政府社会局に援護事務を主管する援護課が設置され、各市町村にも援護係が設置される。VXが座間味村の援護係に着任する。「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して、各市町村に遺族会が相次いで結成される。
 昭和28年9月
  琉球遺族連合会が日本遺族会の一支部として正式加入を認められる。
 昭和30年3月
  総理府事務官のWFが、援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任する。
 昭和31年3月
  中等学校生徒について、男子生徒は全員軍人、女子戦没学徒は軍属として死亡処理され、援護法の適用開始。
 昭和31年3月
  厚生省の援護課事務官が、沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れる。この際、Sに対する事情聴取も行われた。また、昭和31年ころまでに、渡嘉敷村において、WPが100名以上の住民から聞き取りを実施していた。その結果、原告Bの自決命令及びD大尉の自決命令が公認されることとなった。
 昭和32年7月
  厚生省が、一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し、住民の沖縄体験を20種類に類型化した「戦闘参加者概況表」にまとめる。その結果、軍の命令による「集団自決」に該当すれば、一般住民も兵士同様「戦闘参加者」と認定され、「準軍属」扱いされることになる。ただし、軍の命令を聞き分けられる「小学校適齢年齢の7歳以上」という年齢制限が設けられた。
 昭和38年10月
  6歳未満の集団自決者も「準軍属」として扱われるようになる。
b 「住民処理の状況」(乙36)は、「軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例」「比較的信憑性があり」というように、推測に基づく表現や信用性に一定の留保を付す表現がある。
 また、「沖縄作戦講話録」(乙37)は、「渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)」としており、「鉄の暴風」の記載(座間味島52名)や「住民処理の状況」(乙36)の記載(座間味村155名、渡嘉敷村103名)と大きく異なっている。このように、各文献、調査により自決者数が異なることから、集団自決以外の原因で死亡した住民の数も含まれていき、自決者数が増加していったことが疑われ、原告Bの自決命令及びD大尉の自決命令が虚偽であることを示している。
 さらに、「戦斗参加者概況表」(乙39の5)は、自決命令の主体を、単に「警備隊長」としており、その主体が原告B及びD大尉を指しているのか疑問である。
c 被告らは、「鉄の暴風」が出版された昭和25年には援護法適用の問題は発生していないと主張する。
 しかし、「ある神話の背景」(甲B18)にあるように、「鉄の暴風」出版前に、外地から帰還した者の家族の中で、ある家族は全滅し、ある家族は生きているという事実にさらされた際、島に残っていた者はその責任を追及されることになり、責任を回避するために集団自決が軍の命令によるものだとせざるを得ず、それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる。
ウ 座間味島について
(ア) 集団自決はP助役の命令で行われたこと
 「母の遺したもの」(甲B5)及びSの手記(甲B32)によれば、住民に対し、忠魂碑前に集合し玉砕するよう命令したのは、P助役であった。
 「母の遺したもの」には、概要、「そこで、Pが戦隊長を前に発した言葉は、『もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい』ということだった。Sは息が詰まるほど驚いた。しばらく沈黙が続いて。垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせ、片ひざを立ててじっと目を閉じて座っていた戦隊長はやおら立ち上がり、『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と、五人を追い返すように声を荒げて言い、申し入れを断った。五人はあきらめるより他なく、その場を引き上げていった。その帰り道、Pは突然、防衛隊の部下でもあるVJに向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉はSには聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そしてPはSにも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。P一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」との記述がある。
 座間味村の助役であったP助役が、自らの判断を、そう意図したことかどうかは分からないものの、軍の命令ととれるような形で、住民に指示したというのが実態であった。
 後述のVXの「証言」(甲B8)もこれを裏付けている。
(イ) 被告ら主張の文献に対する反論
a 「鉄の暴風」について
(a) 「鉄の暴風」の初版には、被告ら引用箇所の後に明らかに誤りである「隊長B少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」との記述があり(甲B6・41頁)、「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。座間味島の住民のVO、VN、WD、VP及びVQの手記(乙9)を見ると、このような風聞が成立したのは、忠魂碑前で玉砕するから集合するようにとの命令が、軍の自決命令であると信じられたからであることが分かる。
 また、沖縄タイムス社のVLは、昭和61年6月6日付けの神戸新聞(甲B10)の取材に対し、「『鉄の暴風』は戦後の落ち着かない中で、取材、執筆した経過があり、B命令説などについては、調査不足があったようだ。戦後、長い間、自決の命令者とされたBさんの苦悩についてはご同情申し上げる。今後の善後策としては、当時の執筆者らと十分に協議、誠意を持ってBさんの理解が得られるようにしたい。」と、「鉄の暴風」について出版経過と内容の杜撰さを認めている。
(b) 神戸新聞のWT記者は、沖縄タイムス社に対する電話取材を確かに行い、記事記載のコメントを確かにもらったと述べている(甲B34)。
 報道内容の社会的・歴史的重要性、沖縄タイムス社に対する影響力の大きさ、新聞記者の職業倫理からすれば、WT記者がVLのコメントを捏造するはずがない。沖縄タイムス社は、神戸新聞の記事に対して、抗議もしていない。
b 「座間味戦記」について
 座間味村当局が琉球政府及び日本国政府に提出した「座間味戦記」は、援護法の遺族補償を受けるために、集団自決が原告Bの命令によるものであるという事実の意図的改変を行ったものである。このことは、座間味村の総務課長を務め戦没者遺族の補償業務に尽力した担当者の供述(甲B8及び10)や「母の遺したもの」(甲B5)によって明らかとなっている。
c 「秘録沖縄戦史」等について
(a) VWの指摘(甲B14・37,46頁)を踏まえて検討すれば、「戦える者は男女を問わず先頭参加、老人子供は忠魂碑前で自決せよ」という内容を持つB命令説は、昭和32年ころの「座間味戦記」に初めて現れ、それが引用されて昭和43年、公開の文献である「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」に載ったことになる。
 また、B命令説を一般に広めることになった「秘録沖縄戦史」は、VWも指摘するとおり(甲B14・37頁)、座間味戦記の引用であり、「秘録沖縄戦史」の中身は、同じVDが昭和44年に著した「秘録沖縄戦記」の元版(乙7)でも大きな変更のないまま維持されている。
 さらに、昭和34年ころに著された「沖縄戦史」の記述は、「秘録沖縄戦史」とほぼ同様であり、「沖縄県史第8巻」の内容も「秘録沖縄戦史」の要約といってもよいものであり、VW自身が記載した「沖縄県史第10巻」は、「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(乙6)所収のSの「血ぬられた座間味島」を参考に書かれたものである(甲B14・37頁)。
 すなわち、以上の諸文献は、「座間味戦記」を淵源としている。そして、これらにより成立し定説化したB命令説は、後記のとおりのSの告白を端緒として破綻していく。
(b) したがって、「秘録沖縄戦史」、「沖縄戦史」、「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」、「秘録沖縄戦記」、「沖縄県史第8巻」、「沖縄県史第10巻」の各書籍は、「鉄の暴風」や「座間味戦記」などの虚偽の記述に基づいて書かれたものであり、独自の資料的価値はなく、もしくは、援護法の適用を受けるための口裏合わせによって生まれたものである。
d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について
 沖縄タイムスに掲載されている英文は、その一部だけが掲載されているだけで、全文が掲載されているわけでなく、一体どのような文脈の中で書かれた文書なのかは不明である。また、掲載部分は本件とは無関係な座間味村「慶留間島」のものであり、「座間味島」のものではない。さらに、これを訳したR教授は「tell 人to〜」を殊更に「命令した」と誤訳し、「Japanese Solider」という主語は、特定されない一般的な「日本の兵隊達」を意味するだけなのに、わざわざ軍命令が存在したと同じ意味であると解説している。しかし、英文は、「日本人の収容所には、おおよそ100人の民間人が含まれていた。二つの収容所が設置され、一つは男性用と女性・子供用である。尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶留間の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。」と訳すべきである。また、R教授によれば、「慶留間島」は命令で、「座間味」は指導であったということになる。
(ウ) 自決命令を否定する文献、見解等
a 原告Bの陳述書等
 原告Bの陳述書には、「問題の日はその3月25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役のP、収入役のWU、校長のWV、吏員のVJ、女子青年団長のS(後にS姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり、先ず助役のPさんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ、次々と悲惨な最後を遂げた由です。」との記載があり(甲B1・2,3頁)、本人尋問においても、同趣旨の供述をしている。
 なお、被告らは、原告Bの陳述書とSの手記との記述の相違を指摘する。しかし、原告Bが、P助役らからの住民の自決目的の弾薬・爆薬の求めの申出を断ったという出来事の核心部分については、両記述ともに一致しており、些末な点の相違を問題とすべきではない。
b 昭和60年7月30日付け神戸新聞(甲B9)
 昭和60年7月30日付け神戸新聞は、「絶望の島民悲劇の決断」との大見出し、「日本軍の命令はなかった関係者の証言」との小見出しの下、「助役とともに自決の前夜B少佐を訪れたS」「軍とともに生き延びたVT」「B少佐の部下だったWX」らの原告Bによる自決命令はなかったとする供述を掲載し、「これまで『駐留していた日本軍の命令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった。」と報道した。
 昭和60年7月30日付け神戸新聞の記事を書いたWTは、Sに対する電話取材を複数回行い、その際のSのためらいや原告Bに対する罪の意識が伝わってきたことを記憶していると述べている(甲B34)。
 神戸新聞が、原告Bだけの言い分をもとに、Sのコメントを捏造して掲載する理由など考えられない。
c VWの見解
(a) 原告Bが自決命令を出した旨の記載がある「沖縄県史第10巻」所収「沖縄戦記録2」の「座間味村」の解説を執筆したVWは、原告Bに宛てた親書の中で、「沖縄県史第10巻」が通史的な戦史や戦記とは異なり、一種の資料集であり、記述されている事柄は沖縄県の公式見解ではないこと、したがって、記述に事実誤認があれば修正することが可能であることを述べている。
 VWは、昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」に「座間味島集団自決に関する隊長手記」(甲B14・38頁)を発表し、その中で、昭和60年7月30日付け神戸新聞(甲B9)が、原告Bが自決命令を出したとする見解に疑問を呈したことを契機として、原告BやSに事実関係を確認するなどして、史実を検証し、原告Bの手記である「戦斗記録」(甲B14)を掲載した上、次のように記述して、「沖縄県史第10巻」を実質的に修正した。すなわち、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及びS氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在S氏は真相はB氏の手記の通りであると言明して居る。」と記述した。
 こうしたVWの見解は、昭和61年6月6日付け神戸新聞にも掲載されている。
(b) VWが「沖縄県史第10巻」を実質的に修正したと原告らが主張する上記引用部分は、その直前までの迫真の体験供述と異なり、客観的な内容、書きぶりに変わっており、原告BではなくVWが書いたことは明らかである。そして、上記引用部分は、それをVWが書いたのであれば、VWが「沖縄史料編集所紀要」発表当時、原告Bの手記及びSの説明を真実と考えていたと読まれて当然の結びとなっている。
 また、神戸新聞のWT記者は、VWに対する電話取材を行い、記事記載のコメントを確かにもらったと述べている(甲B34)。
d VXの「証言」
(a) 座間味村の遺族会長であり、当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめたVXは、原告Bに対し、昭和62年3月28日、「証言」と題する親書(甲B8)を手交した。この親書には、「昭和二十年三月二六日の集団自決はB部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役のPの命令で行なわれた。之は弟のVXが遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります」と記載されている。
 VXの談話は、昭和62年4月18日付けの神戸新聞にも記載されている。
(b) 被告らが主張する「証言」の作成経緯は全く理由がない。
 原告Bは、合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日、集団自決に関する座間味村の見解を尋ねるべく、村長のWYに会ったが、補償問題を担当していたVXに聞くように言われたため、1人でVXを訪ねた。原告BとVXは、面識があったため、再会を懐かしんだ。
 原告Bが訪問した理由を話すと、VXは、突然謝罪し、援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を語ったのである。
 「証言」(甲B8)は、このような経緯でVXが述べたことを文書にしてほしい旨、原告Bが依頼し、VX自身が一言一言慎重に言葉を選んで作成したものである。決して、原告Bが原稿を書き、VXに押印だけさせたものでもないし、泥酔状態のVXに無理矢理書かせたものでもない。原告Bが原稿を書いたのであれば、末尾宛名の「z」の字を間違えるはずがないし、VXが泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じるはずである。
 また、WEの息子であるVXは、集団自決当時、山口県にいたとしても、その後、村に帰ってから、集団自決の真相を知ったことは明らかであり、「証言」を作成する立場になかったとの被告ら指摘も当たらない。
 また、神戸新聞のWT記者は、VXに対する電話取材を確かに行い、記事記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34)。神戸新聞が、記事中で「Aさん」とされているVXのコメントを捏造する理由はない。VXから神戸新聞に対し抗議があったこともない。
e 「母の遺したもの」(甲B5)
 原告Bが自決命令を出したという根拠として、Sの手記である「血ぬられた座間味島」(乙6・39頁)があったが、Sの娘であるG証人は、「母の遺したもの」を著した。
 「母の遺したもの」には、前第3・4(2)イ(ア)記載のとおり、Sが、集団自決についての厚生省の調査の際、役人の質問に対して、「はい、いいえ」で答え、座間味島の集団自決が原告Bの命令によるものであるかとの問いに対しては、援護法の適用のために肯定したこと、Sが、G証人に対し、昭和52年3月26日、座間味島の集団自決が原告Bの命令によるものではなかった旨の告白をしたこと、Sが、集団自決の真相を公表するにはP助役の名をあげなければならず、P助役の遺族に迷惑がかかってしまうとの苦悩を抱えていたこと、Sと原告Bが昭和55年12月に面会し、援護法適用のために集団自決を原告Bの命令によるものだったことにした旨の会話をしたことなどが記載されている。
 また、被告らは、Sの農家向けの月刊誌である「家の光」への投稿で、Sが、原告Bの自決命令について積極的に述べていたと主張するが、「母の遺したもの」によれば、Sが「家の光」への投稿の際、真実でない原告Bの自決命令について記述すべきか悩んでいたことが分かるのであり、「家の光」の投稿にある原告Bの自決命令についての記述には証拠価値はない。
f 住民の手記
(a) 「沖縄県史第10巻」(乙9)に掲載されている、WZ(703頁)、WA(729頁)、VO(739頁)、S(755頁)、WB(757頁)及びXB(775頁)ら住民の手記を読めば、被告らの歴史認識が誤っていることが分かる。
(b) WAの手記についての被告らが引用する部分は、阿嘉島のO隊長の自決命令に関する記載であり、座間味島の集団自決とは関係がない。
 VOの手記については、自決命令の主体が記載されていない。P助役ら座間味村の幹部による命令を指していると解すべきである。
 Sの手記にあるVY軍曹らの手榴弾交付についての記載は、上意下達の命令ではなく、いよいよ米軍に殺されそうになったらどう行動すべきかという極限の場面の備えについて、個人的に教示された程度のものにすぎず、原告Bによる自決命令の根拠にはならない。
 WBの手記については、確かにWC少尉から「玉砕しよう」と言われた旨の記載があるが、これは、壕の中に米兵がやって来たという進退窮まった緊急場面でのことであり、WC少尉はすぐに「自分が命令をくだすまでは絶対に自決をしてはいけない」と言を改めている。
 VN、WD、VP及びVQの手記についても、自決命令の主体が記載されておらず、主体はP助役ら村の幹部を指していると解すべきである。
(エ) 座間味村の公式見解と原告Bの対応について
a(a) 被告らは、座間味村に対する照会に対し、WEなど多くの証言者から、自決命令があった旨の回答があった旨主張する。
 しかし、WEらの証言したとする内容は沖縄県史等に記録されておらず、また、昭和63年当時も、援護法による遺族給付を継続し、過去の受給についても違法と評価されることを避けるため、原告Bが自決命令を出したという事実を維持する必要があったから、座間味村が公式見解として原告Bによる自決命令があったという真実に反する回答をしたのも当然である。
(b) 原告Bは、沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日、原告Bが自決命令を出したとする記事の訂正と謝罪を要求した(甲B27)。これに対し、沖縄タイムス社のVLは、「事の是非を究明し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答をした。
 その後、沖縄タイムス社は、態度を一変させ、座間味村が集団自決は軍命令によるものであるとしていると主張した上、原告Bに対し、以後沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしないことを内容とする書面(甲B29)を示し、押印するよう求めてきた。
 これに対し、原告Bが強く非難したところ、沖縄タイムス社は、結局、原告Bが自決命令を出したのではないことを認め、謝罪したが、謝罪文の提出については即答を避けた。
b 被告らは、WEの「自叙伝」(乙28)に原告Bの自決命令があったことを示す記述があると主張する。
 しかし、WEの「自叙伝」には、原告Bの自決命令は記載されておらず、逆に、WEが一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程が生々しく記載されている。すなわち、「明くれば二四日午前九時からグラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居るP夫婦、XC1、XC2らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった。」「二五日まで間断なく空襲、砲撃は敢行され座間味の山は殆んど焼き尽し、住居も又一軒づつ焼かれてゆく姿に、ただ茫然とするばかりであった。丁度午前九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。途中機銃弾は頭をかすめてピュンピュン風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで来た。早速Pが来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさい』との事であったので、早速組合の壕に行ったら満員で中に入ることは出来なかったが、いつの間に壕に入ったかXD1、XD2、XD3、XD4の姿が判らなくなった。」との記載がある。
 この文章から明らかなように、玉砕する方がましではないかと言い出したのはWEであり、相談した家族は皆賛成している。つまり、玉砕が、軍の命令によらないで住民の自然な発意によって提起されたことがはっきり表れている。
c また、被告らは、第3・4(1)イ(ウ)aのとおり、原告Bが沖縄タイムス社が示した座間味村の公式見解を受け入れたと主張するが、原告Bは、沖縄タイムス社が座間味村の公式見解を盾に手応えのない返答を延々と繰り返したため、やむなく矛を収める趣旨で被告ら引用の発言をしたにすぎない。
エ 渡嘉敷島について
(ア) 集団自決の経緯
 M巡査の「沖縄県警察史」における記述(甲B16・772ないし775頁)及びWQの取材結果(甲B17・210ないし213頁)によれば、渡嘉敷島の集団自決の経緯は、概ね以下のようなものであったことが分かる。
a 昭和20年3月23日には初めて本格的な渡嘉敷島への空襲が行われ、村役場や郵便局が焼けた。同月25日には、艦砲射撃も加わった。Q村長は在郷軍人であり、M巡査は、沖縄本島に妻子を置いて単身1月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協力してきた住民が、これからどうすべきか相談するため、M巡査は、同月27日朝からD大尉を捜し回った。
b M巡査は、同月27日午後、夕方近くになって、西山の谷間の日本軍陣地で陣地構築の指示をしていたD大尉に会った。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。D大尉は、M巡査に対し、「島の周囲は敵に包囲されているから、逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難した方がよい。」と言った。そこで、M巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の1人からQ村長へ伝達をし、Q村長からも同様の伝達が出た。
c 渡嘉敷村の約3分の2の住民が、大雨の中を恩納川に沿って北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは、1時間遅れて西山に到着した。同月28日午前7時ころ、防衛隊の数人が西山盆地に集まれと叫び、住民は命令どおり200メートル離れた平坦な場所へ移動した。郵便局長、校長、助役、幹部十数人が、3時間ほど、これからどうするかについて協議した。話し合ううち、玉砕するしかないという結論になった。
d 具体的にどうするかという段階になって、全員が死ぬには手榴弾が足りなかったため、防衛隊の1人が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょう。」と申し出、防衛隊3人が出かけた。
 それから1時間後に、防衛隊が住民に対し玉砕の話を広めた。村の指導者は、それぞれ家族や親戚に玉砕の話をした。Q村長が全員の中央に立って、「敵に取り囲まれて逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳を唱え、笑って死のう。」と言った。
 手榴弾の炸裂音が起こった。
e 逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300人が、日本軍陣地へ向かったが、300メートルも進まないうちに、米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して「女、子どもは足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい。」と叫んだ。そこで防衛隊長であるVKとN兵事主任が、日本軍陣地に駆け込み、住民を撃ち殺すために機関銃を貸してほしいと願い出たが、そのような武器は持ち合わせていないと怒鳴りつけられた。住民の集団が日本軍陣地100メートルまで接近していたが、将校は、泣き叫ぶ住民に対し、抜刀して立ち去るよう威嚇した。
 住民は、恩納川の谷間へと散っていった。
f 西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連の人たちは、300人の集団が去った後、殺し合いを始めた。迫撃砲の炸裂音を聞きながら、なたや鎌を借りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺した。
 手榴弾で死にそこなった住民は、農具を凶器にして殺し合った。
 こうして集団自決があったのは、昭和20年3月28日の午後1時ころであった。
(イ) 手榴弾の交付について
a N兵事主任の手記や家永第3次教科書訴訟第1審におけるVGの証言からすれば、N兵事主任は、VGの調査当時、17歳未満の少年らに非常招集をかけて手榴弾を配った事実については全く表明していなかった。このことは、そうした事実がなかったことを示している。
 手榴弾の交付が自決命令の物的証拠であるとする論は、VFの評価であって、事実そのものではない。
 仮に手榴弾を交付していたのであれば、住民に操作方法の指導があったはずであるが、爆発した数より不発であった数の方が多いのは、操作方法の指導がなく、ひいては手榴弾の交付による自決命令がなかったからである。
b また、「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)によれば、WNは、「27日玉砕するから、本部に集まれと言われて集まった、家族が一か所に集まって座っていたら、義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」と供述しており(甲B39・374頁)、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていたとはいえない。
(ウ) 文献に対する反論
a 渡嘉敷島における住民の集団自決がD大尉の命令によるとの記述は、「鉄の暴風」(乙2)、「戦闘概要」(乙10)、「戦争の様相」(乙3、但し、これにはD大尉の自決命令それ自体の記載はない。)に記載され、その後に出版された「秘録沖縄戦史」(乙4)、「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(乙6)、「沖縄県史第8巻」(乙8)の記載は、「鉄の暴風」等を下敷きにして記載された。
b 「鉄の暴風」について
 「鉄の暴風」の記述は、原告Bを不明死扱いにした初版の記述(甲B6)や、沖縄タイムス社自ら調査不足を認めていること(甲B10)から、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しい。
 また、渡嘉敷島の集団自決の真相について調査したVGの「ある神話の背景」(甲B18)によれば、「鉄の暴風」の執筆者であるWGは、自らは渡嘉敷島に行かず、座間味村の助役であったWHと戦後南方から復員したWIを取材しただけであった。この2人はどちらも渡嘉敷島の集団自決を直接体験した者ではない。
 さらに、「鉄の暴風」には、その記述に本質的な誤りがある。「鉄の暴風」は、米軍の渡嘉敷島への上陸を3月26日午前6時ころとするが、防衛庁防衛研修所戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」によれば、3月27日午前9時8分から43分とされている。米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載され、その後に作成された「戦闘概要」や「戦争の様相」においても、米軍上陸が3月26日と誤って引用されている。
 米軍上陸という重大な事実を誤記するようでは戦史としての信頼性は全くなく、事実調査の杜撰さと併せて、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」が一様に信用できないことを示している。
 また、「鉄の暴風」には「西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いた」との記載があるものの、H証人は、西山A高地に地下壕がなかったことや、同日に将校会議など開かれていないことを明確に証言しているのであって(H証人調書6頁)、この点でも「鉄の暴風」は信用性に乏しい。
c 「戦闘概要」について
 「戦闘概要」は「戦争の様相」と前後の文章が全く同じであり、その内容が極めて酷似しているが、「戦闘概要」の「時にD隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」との一文だけは、「戦争の様相」には記載されていない。「戦闘概要」は私的な文献であり、「戦争の様相」は公的な文献であるから、「戦闘概要」という私的文書では自決命令が記載されていたのが、「戦争の様相」という公的文書とする段階で削除されたことは明らかである。
d 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について
 「慶良間列島作戦報告書」についての反論は、座間味島に関する主張と同旨である。
(エ) 自決命令を否定する文献、見解等
a D大尉の手記
(a) 自決命令を出したとされるD大尉は、「私は自決を命令していない」と題する手記を執筆し、次のとおり、自決命令を出していないと明言する(甲B2)。すなわち、「二十六日夜」「私たちは」「寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が『上陸はたぶん明日だ』と本部の移動を伝えると『では住民は?住民はどうなるんですか』という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住民の処置は頭になかった。そこで、『部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。」「二十七日、米軍の上陸開始、二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。」(甲B2・216,217頁)。
(b) D大尉は、座間味村がまとめた「座間味戦記」が「マスコミの目にとまるや」「つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、Dという大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。」「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば、事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか」「戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。彼らの書物を孫引きして、得々として“良心的”な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」と、現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。
b 「ある神話の背景」(甲B18)
 「ある神話の背景」によれば、「鉄の暴風」の記述は、当事者に対する取材も信用に足る証拠もないまま、著者の偏見と風聞に基づいて書かれたものであり、それが他の文献等に引用されることによって、D大尉の自決命令が沖縄の神話となっていったことが分かる。すなわち、軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であり、これを基に作成したのが「戦闘概要」である。「戦闘概要」には「鉄の暴風」と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ず、引用した際のものと思われる崩し字が「戦闘概要」に見られる。さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるが、「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものである(甲B18・48頁)。そして、これらの3つの資料は、米軍上陸の期日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず、同月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18・49頁)。
 「ある神話の背景」によれば、上記神話が生まれた背景は、次のとおりである。すなわち、生存者であり集団自決の音頭をとった村長であるという立場上、事件について説明責任を免れないQ村長が、遺族からの怨嗟の目から逃れ、責め苦を少しでも軽くするために、元村長としての責任を負担するよりも、集団自決を命じた下手人としてD大尉を選び、非難を向けた。このことは、Q村長の、D大尉やM巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や、事件当日の軍命令についてのあいまいで一貫性のない説明などからも窺われる。
 VWは、昭和58年に発行された「沖縄戦を考える」(甲B24)において、「VG氏は、それまで流布してきたD事件の“神話”に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。」「今のところVG説をくつがえすだけの反証は出ていない。」と評価している。
c 「陣中日誌」(甲B19)
 D隊が作成した陣中日誌によれば、自決命令があった形跡は全くなく、「三月二十九日」「悪夢の如き様相が白日眼前に洒された昨夜より自訣したるもの約二百名」(甲B19・13頁)とあるように、D隊が集団自決があったことを知ったのも、昭和20年3月29日になってからであった。
d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)
 沖縄出身の作家であるXEは、集団自決を目撃した米軍兵士XFの紹介する「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した(甲B44)。XEは、その取材過程において、D大尉が自決命令を出しておらず、XG、XH、M巡査、H証人らの供述または証言から、D大尉が立派な人物との評価を得ていることを知った。XEは、取材の結果、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることをDさんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、Dさんは世を去った」ことを確認した。
e H証人及びI証人の各証言
(a) H証人は、D大尉の側近として常にD大尉の側にいた者であるところ、D大尉による自決命令を反対尋問も踏まえて完全に否定した。
(b) I証人は、第三戦隊においては昭和20年3月23日の空襲と艦砲射撃が始まるまで陸上戦を予想していなかったと証言しているところ(I証人調書2,15頁)、陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を交付することなどあり得ず、同月20日に役場の職員から手榴弾の交付を受けたとするJ証人の証言は虚偽である。
 そして、I証人は、@集団自決の起こった3月28日は午前1時頃に主力部隊と合流したこと(I証人調書10頁)、A同日午前3時頃D大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なかったこと(同10頁)、B翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けたこと(同12頁)、CD大尉とは親密に連絡を取っていたが、8月15日の終戦に至るまでD大尉自身からも他の隊員からも、D大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないこと(同12頁)を証言している。
f WPの供述
 WPは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして、渡嘉敷島での聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と供述し、D大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作」り、その書類を当時の厚生省に提出した旨供述している(甲B35)。
g XIの供述
 渡嘉敷島の郵便局長であったXIは、「恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、XJ先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。」「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」と供述している(乙9・765頁)。
 XIの供述によれば、渡嘉敷村の責任者の協議の中から進退窮まった状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり手榴弾が配布された状況が明らかとなっており、軍やD大尉の命令など全く語られていない。
(オ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者が不在であること
 D大尉は、自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。また、恩納河原に避難中に住民に伝えられたとされる自決命令は、誰を通じて、住民の誰に伝えられたのか、全く不明である。命令者も受領者も伝達者も分からない命令はあり得ない。
 D大尉から自決命令が出されるとすれば、副官であったH証人を通じてであるはずであるが、前記のとおり、H証人は自決命令が出た事実を否定する(乙9・773頁上段)。H証人は、地下壕内の将校会議についても否定している。
 仮に自決命令が出たとすれば、その命令が村に伝達される経過が必要である。伝達役として考えられるのは、兵事主任、防衛隊長、駐在巡査であるが、Q村長によれば、渡嘉敷村において、軍から命令が村に伝達される場合の伝達者は、M巡査であった(甲B18)。M巡査はD大尉から自決命令が出たことを認めておらず(甲B16)、M巡査が自決命令を伝達していないことは明らかである。
 さらに、Q村長、N兵事主任、防衛隊長のVKのうち、誰が自決命令を受領したのか明らかにした資料はない。
(カ) 自決命令の言い換え
a Q村長は、住民を部隊の陣地に集合させておきながら出て行けというのは、住民に死ねというのと同じである旨発言しているが(甲B20)、部隊の陣地は戦闘のためのものであって、住民の避難場所としては危険であるし、軍の活動に支障が生じることから、部隊の陣地への集合を命じるはずがない。住民が軍の陣地に押しかけたとしたら、住民の安全のために退去を求めるのは当然のことである。
 したがって、Q村長のいう「軍の陣地からの退去要求」を自決命令とするのは無理な論理である。
 そもそも、Q村長は、他方で、「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた。」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。」とも述べており(乙9・768頁)、D大尉が住民を軍陣地に集合させたのでも、陣地から退去させたのでもないことは明らかであるし、乙第9号証に記載されたQ村長の供述からすれば、Q村長は、盆地への集合は住民を救うD大尉の得策と考えていたのであるから、Q村長にはD大尉が自決命令を出したという認識がなかった。
 むしろ、M巡査の説明(甲B16)によれば、住民が軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後であり、Q村長は、その際の退去要求を「死ねというのと同じ」と言っていることになる。よって、集団自決が始まるまでD大尉が自決命令を出していなかったことは明らかである。
b N兵事主任は、昭和63年になって、兵器軍曹が17歳未満の少年と役場職員に対し、手榴弾を、1発は攻撃用、もう1発は捕虜になるおそれのあるときの自決用として、2個ずつ配布した旨供述する。
 しかし、手榴弾の配布の事実自体疑わしいし、仮に事実だとしても、当時の日本国民の多くは、捕虜になるなら自決する覚悟を持っていたのであるから、捕虜になるおそれのあるときの自決用として手榴弾を配布したことからD大尉が自決命令を出したことにはならない。
 N兵事主任によれば、手榴弾の配布は3月20日ころということであるが、これを自決命令というのであれば、手榴弾配布の時点で、自決命令を受けたという認識が住民にあるはずであるが、「鉄の暴風」の記述によれば、住民の認識では自決命令は3月27日から28日にかけてであった。
 そもそも、N兵事主任は、これまで集団自決について語りながら、昭和63年になって突然、手榴弾の配布を自決命令と語り始めたのであり、信用性がない。
(キ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計
 第三戦隊は、渡嘉敷島の集団自決後、自決に失敗し負傷した住民のために、衛生兵を派遣した。D大尉が自決命令を出したとすれば、このようなことはあり得ない。
 また、渡嘉敷村資料館には、D大尉の陸軍士官学校卒業時の恩賜の時計や第三戦隊の軍医の遺品が、記念品として飾られている。これも、D大尉が自決命令を出していたとすればあり得ないことである。
(ク) 自決命令を記載していた文献の絶版等
 D大尉の自決命令を記述し、昭和40年6月に被告岩波書店から出版された「沖縄問題20年」は、その後出版されなくなった。これは、「ある神話の背景」により、D大尉の自決命令が虚偽であることが露見したからである。
 また、「太平洋戦争」は、昭和43年2月に被告岩波書店から出版され、そこでは、D大尉の自決命令が記述されていたが、昭和61年9月の第2版の増補発行にあたっては、D大尉の自決命令を含む渡嘉敷島の記述が完全に削除され、その後、平成12年7月に発行された文庫版においても、D大尉の自決命令の記述は削除されたままであった。これは、「太平洋戦争」の著者であるKと被告岩波書店が、D大尉の自決命令を虚偽であると認識していた証左である。
 さらに、「秘録沖縄戦記」は、平成18年10月に復刻版が出版され、原告Bの自決命令及びD大尉の自決命令のいずれも、削除されている。これは、原告Bの自決命令及びD大尉の自決命令が、史実の検証に耐えられなくなったということである。
5 争点D(真実相当性の有無)について
(1) 被告らの主張
ア 前4(1)で子細に主張したように、原告Bが住民に対して「自決せよ」との命令を出したことを内容とする文献が多数存在しているところ、本件各書籍中、座間味島における原告Bの自決命令に言及するものは本件書籍(1)である。
 本件書籍(1)は、昭和61年に出版された「太平洋戦争第二版」を平成14年に文庫化したものである。
 そして、「太平洋戦争第二版」が出版された昭和61年の時点において、原告Bにより自決命令が出されたとの事実は「歴史的事実」として承認されており、文部科学省は、座間味島や渡嘉敷島などの集団自決が日本軍隊長の自決命令によるものであることは、これまでの通説だったとし(乙95及び96)、軍の強制によるものであるとの教科書の記述の削除を求める検定意見も事実上撤回しているのであって、原告Bによる自決命令があったとの事実が真実であると信ずるにつき相当の理由があったことは明らかである。
 また、前4(1)で主張したとおり、D大尉が住民に対して「自決せよ」との命令を出したことを内容とする文献が多数存在しており、真実相当性については、原告Bによる自決命令と同様である。
イ 昭和60年7月30日付けの神戸新聞に原告Bの自決命令を否定する記事が掲載されたことによって、原告Bによる自決命令の虚偽性が明らかになったとはいえず、また、「母の遺したもの」によって、その虚偽性が広く知られるようになったともいえない。
ウ 昭和48年5月の「ある神話の背景」の出版によって、D大尉の自決命令を真実と信じる根拠が失われたということもない。
 昭和48年以降今日まで、D大尉の自決命令について記載した「鉄の暴風」や「沖縄県史第8巻」は訂正されていないし、昭和63年6月16日付け朝日新聞(乙12)には、渡嘉敷村のN兵事主任の供述が掲載されてD大尉の自決命令が肯定され、平成2年3月31日に出版された「渡嘉敷村史」(乙13)においても、D大尉による自決命令があったことが明記され、これらの記載は現在まで訂正されていない。
(2) 原告らの主張
ア 本件書籍(1)について
 原告Bが自決命令を出したとするB命令説は、昭和60年7月30日付けの神戸新聞(甲B9)に、Sの「B少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」との供述が掲載された時点で、その根拠は失われた。
 その後、昭和62年4月18日付け神戸新聞(甲B11)にVXの「証言」(甲B8)とインタビュー記事が掲載されたことによって、B命令説の虚偽が明らかとなり、これを真実と誤信する相当性は完全に失われることとなった。
 そして、平成12年、G証人の「母の遺したもの」(甲B5)が出版されたことによって、B命令説が虚偽であることが広く知られるようになった。
 したがって、本件書籍(1)については、出版された平成14年当初から不法行為が成立する。
イ 本件書籍(2)について
 D大尉が自決命令を出したとするD命令説は、その発端となった「鉄の暴風」初版が出版された昭和25年当時から、不確かな風説と伝聞に基づいて創作されたものであり、相当な根拠を欠くものであったが、昭和48年5月に「ある神話の背景」(甲B18)が出版され、「鉄の暴風」の不確実性が明らかにされた段階で、D命令説を真実と誤信する根拠は完全に失われた。
 したがって、本件書籍については、出版された昭和45年当時から不法行為を構成する違法有責な著作物であったとする余地がある。本件訴訟では、「ある神話の背景」が出版され、その相当性の欠如が明らかになった昭和48年5月以降に出版された第5刷以後の頒布につき、不法行為責任が生じる。
6 争点E(公正な論評性の有無)について
(1) 原告らの主張
 沖縄ノートの各記述は、D大尉に対する過剰かつ執拗な人格非難をするものである。
 例えば、沖縄ノートの各記述には、「生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたところであろう。人間としてそれをつぐなうことは、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」「一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」「しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。」「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」との表現があるが、これは、VGが「人間の立場を超えたリンチ」と評するように、人身攻撃に及ぶもので、適正な言論として保護されるべき公正な論評の域を完全に逸脱するものである。
(2) 被告らの主張
 沖縄ノートの各記述には、前1で主張したとおり、いずれもD大尉を特定する記載はなく、D大尉に対する人身攻撃たり得ない。
 本件記述(2)は、集団自決に表れている沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生という命題が、核戦略体制の下での今日の沖縄に生き続けており、集団自決の責任者の行動が、いま本土の日本人がそのまま反復していることであるから、咎めは我々自身に向かってくると問いかけるものであり、集団自決の責任者個人を非難しているものではない。
 本件記述(4)は、「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」と語っていた集団自決の責任者の内面を著者の想像力によって描き出すとともに、これは日本人全体の意識構造にほかならないのではないかと論評したものである。
 本件記述(5)は、アイヒマンが「或る昂揚感」とともにドイツ青年の間にある罪責感を取り除くために応分の義務を果たしたいと語ったように、渡嘉敷島の旧守備隊長が、日本青年の心から罪責感の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたいと語る光景を想像し、しかし実は日本青年が心に罪責の重荷を背負っていないことについてにがい思いを抱くと述べ、日本青年一般のあり様について論評したものである。本件記述(5)は、ドイツ青年と日本青年の罪責感を対比することが主眼であって、原告らが主張するように、D大尉を、「『屠殺者』やホロコーストの責任者として処刑された『アイヒマン』になぞらえられるような悪の権化」であると人格非難するものではない。
7 争点F(原告Cにつき、敬愛追慕の情の侵害があったか)について
(1) 原告らの主張
ア(ア) 一般的に死者の名誉が毀損されれば、それにより遺族は死者に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害され、不法行為が成立すると解すべきである。
 そして、摘示された当該事柄が、公共の利害に関する事実であり、かつ、事実摘示が公益を図る目的でなされた場合で、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、例外的に敬愛追慕の情の侵害について違法性が阻却され、不法行為が成立せず、また、真実であることが証明されない場合でも、行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときは、故意又は過失がなく、不法行為は成立しない。
 本件においては、被告らによって死者D大尉の名誉が毀損されたことにより、原告Cは、D大尉に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害されたものであり、不法行為が成立する。そして、不法行為の成立を否定する被告らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性又は事実を真実と信じるについての相当の理由の立証責任を負うのである。
(イ) 死者に対する名誉毀損行為により、遺族が死者に対する敬愛追慕の情を侵害され、精神的苦痛を被ったときに、遺族に対する不法行為として一般私法上の救済の対象となり得ることは、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決・判例時報1071号33頁、東京地裁昭和58年5月26日判決・判例時報1094号78頁においても認められている。
 さらに、大阪地裁平成元年12月27日判決・判例時報1341号53頁も、問題の報道が死者の名誉を著しく毀損し、かつ生存者の場合であればプライバシーの権利の侵害となるべき死者の私生活上他人に知られたくない極めて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露したものであり、そのような報道により遺族は死者に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されたものである旨認定し、遺族の敬愛追慕の情という人格的利益の侵害による不法行為が成立することを正面から認めている。この大阪地裁判決は、違法性阻却事由についても、名誉毀損一般に関する違法性阻却の判断(最高裁昭和41年6月23日判決)にならった枠組みを示している。すなわち、裁判例においても、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、要件を厳格にしたりする判断はなされていない。
(ウ) 死者に対する名誉毀損により敬愛追慕の情が侵害された場合の不法行為の成立要件について、被告らの引用する東京地裁平成17年8月23日判決(乙1)及び東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)の基準(以下「百人斬り訴訟判決基準」という。)は、真実を蔑ろにする基準であり不当であるし、東京高裁昭和54年3月14日判決・判例時報918号21頁を代表する「虚偽」で足りるとした裁判例を改悪した基準である。また、刑法上死者に対する名誉毀損罪の構成要件が「虚偽の事実を摘示」することとされていることとも齟齬する。
 百人斬り訴訟判決基準によれば、「虚偽の」歴史的事実の表現の自由を認めることになる。
(エ) また、被告らは、百人斬り訴訟判決と前記東京高裁昭和54年3月14日判決を挙げて、歴史的事実であることに基づく要件の厳格化を主張する。
 しかし、これらの裁判例は、いずれも死者が亡くなって相当の年月を経てから初めて、死者の名誉を害するような事実記載がある著作物が出版された事案であり、そのような相当に長い年月の経過があるという特殊事情に鑑み、「歴史的事実に移行した」事実については「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という判断から、立証責任の転換が図られたものである。
 本件の場合、沖縄ノートは、D大尉の生前に出版されたものであり、その時点では、摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではなく、「歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くない。
イ 原告Cは、13歳年上の兄で、優秀な軍人であり、親代わりとして家族の長のような存在であったD大尉を、幼き頃から強く尊敬していたところ、沖縄ノートの各記述は、原告CがD大尉に対して抱いていた人間らしい敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を回復不可能なまでに侵害した。
(2) 被告らの主張
ア(ア) 原告Cは、死者の名誉が毀損された場合に、遺族の死者に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害する不法行為が成立する場合があると主張するが、死者に対する敬愛追慕の情といった主観的感情を害したからといって、それだけで違法性を有し不法行為を構成するとはいえない。
(イ) 仮に、死者に対する遺族の敬愛追慕の情を害する不法行為が成立することがあり得るとしても、死者に対する遺族の敬愛追慕の情を害する程度が極めて顕著で、遺族の人権を違法に侵害すると評価すべき特別な場合に限られるべきである。すなわち、死者に対する敬愛追慕の情を侵害する不法行為の成立には、当該事実摘示が、死者の名誉を毀損するものであり、摘示した事実が虚偽であって、かつその事実が極めて重大で、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといえる場合に限り、違法となり、不法行為が成立すると解すべきである。
 また、死者に関する事実は、時の経過とともに歴史的事実となり、人々の論議の対象となり、時代によって様々な評価を与えられることになるものであり、死者の社会的評価を低下させる事柄であっても、歴史的事実探求の自由やこれについての表現の自由が重視されるべきであるから、歴史的事実に関する名誉毀損においては、虚偽性の要件については、一見明白に虚偽であること又は全く虚偽であることを要する。
(ウ) 前記東京高裁昭和54年3月14日判決も、「故人に対する遺族の敬愛追慕の情も一種の人格的利益としてこれを保護すべきものであるから、これを違法に侵害する行為は不法行為を構成するものといえよう。もっとも、死者に対する遺族の敬愛追慕の情は死の直後に最も強く、その後、時の経過とともに軽減していくものであることも一般に認めうるところであり、他面、死者に関する事実も時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくものということができるので、年月を経るに従い、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への配慮が優位に立つに至ると考えるべきである。」「年月の経過のある場合、右行為の違法性を肯定するためには、前説示に照らし、少なくとも摘示された事実が虚偽であることを要するものと解すべく、かつその事実が重大で、その時間的経過にかかわらず、控訴人の故人に対する敬愛追慕の情を受忍しがたい限度に害したといいうる場合に不法行為の成立を肯定すべきものとするのが相当である。」としている。
 また、前記東京地裁平成17年8月23日判決(以下「百人斬り訴訟1審判決」という。)も、「死者に対する遺族の敬愛追慕の情も、一種の人格的利益であり、一定の場合にこれを保護すべきものであるから、その侵害行為は不法行為を構成する場合があるものというべきである。もっとも、死者に対する遺族の敬愛追慕の情は死の直後に最も強く、その後、時の経過とともに少しずつ軽減していくものであると認め得るところであり、他面、死者に関する事実も時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくものともいえる。そして、歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから、たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても、相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合には、歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となると解される。それゆえ、そのような歴史的事実に関する表現行為については、当該表現行為時において、死者が生前に有していた社会的評価の低下にかかわる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分について、一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを摘示した場合であって、なおかつ、被侵害利益の内容、問題となっている表現の内容や性格、それを巡る論争の推移など諸般の事情を総合的に考慮した上、当該表現行為によって遺族の敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したものと認められる場合に初めて、当該表現行為を違法と評価すべきである。」としている。
 さらに、この百人斬り訴訟1審判決の控訴審判決である前記東京高裁平成18年5月24日判決は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為についての不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。
(エ) 本件においては、沖縄ノートの出版時点で、すでに自決命令から20年以上経過しており、提訴時には60年経過している。したがって、D大尉による自決命令は歴史的事実となっている。
イ(ア) 原告らは、前記のとおり、大阪地裁平成元年12月27日判決、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決及び東京地裁昭和58年5月26日判決を挙げて、虚偽性の面で立証責任の転換や要件の厳格化はない旨主張する。
 しかし、前記大阪地裁平成元年12月27日判決は、後天性免疫不全症候群に罹患して死亡した人物のプライバシー侵害に相当する事実及び名誉を毀損する事実を、その死からわずか10日後に報道した事案に関する判決であり、本件とは事案を異にする。この事件の場合、歴史的事実探求の自由あるいはこれについての表現の自由への慎重な配慮は必要ないため、上記判決は、生存している者に対する名誉毀損に準ずるものとして、真実性の立証責任を転換せず、また、要件も厳格化しない基準を採用したものと考えるべきである。
 また、前記大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決は、根拠のない憶測に基づく事実摘示、すなわち、虚偽事実の摘示を、敬愛追慕の情の侵害による不法行為の要件としている。
 さらに、前記東京地裁昭和58年5月26日判決は、摘示事実の真実性の立証責任について何ら言及しておらず、遺族の敬愛追慕の情の侵害が問題となる事案において真実性の立証責任を転換しないと判断したものではない。
(イ) 原告らは、本件各書籍が、D大尉の生前に出版されたものであり、その時点で摘示された事実は歴史的事実に移行したものではなく、歴史的事実探求の自由、表現の自由への配慮が優位に立つという価値判断が働く余地はない旨主張する。
 しかし、ある事実が歴史的事実となるか否かは、表現行為が表現の対象者の生前になされたかどうかとは直接の関係はない。死亡から事実摘示までの期間ではなく、当該事実が発生してから事実摘示までの期間が重要である。前記東京高裁昭和54年3月14日判決及び東京地裁平成17年8月23日判決も、死後、事実摘示がなされるまでの期間のみならず、当該事実が発生してから摘示されるまでの期間の経過を表現の自由への配慮の根拠としている。
8 争点G(損害の回復方法及び損害額)について
(1) 原告らの主張
ア(ア) 本件各書籍は、原告Bの社会的評価を著しく低下させ、その名誉を甚だしく毀損し、もって原告Bの人格権を侵害し、筆舌に尽くし難い精神的苦痛を与えた。
 本件書籍(2)は、D大尉の社会的評価を著しく低下させ、その名誉を甚だしく毀損してその人格権を侵害した上、原告Cが実兄であるD大尉に対して抱いていた人間らしい敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を回復不能なまでに侵害した。
(イ) 原告らの名誉回復と精神的苦痛を慰謝するためには、被告岩波書店は、本件各記述に対して訂正、謝罪広告を掲載し、原告らに慰謝料の支払いをする必要があり、被告Eは、沖縄ノートの各記述に対して訂正、謝罪広告を掲載し、原告らに慰謝料の支払いをする必要がある。
(ウ) 被告岩波書店が支払うべき慰謝料は、各原告に対してそれぞれ1000万円であり、被告Eが支払うべき慰謝料は、各原告に対してそれぞれ500万円である。
イ また、前記アのとおりであるから、人格権に基づく本件各書籍の出版、販売、頒布の差止めがなされる必要がある。
(2) 被告らの主張
ア 否認し、争う。
イ 名誉毀損を理由として出版を差し止めることは原則として許されず、特に公共の利害に関する事項については、表現内容が真実でないことが明白であるか、または専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合に限り、例外的に認められるものである(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁)。また、同判決は、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は物権の場合と同様に排他性を有する権利であるという理由により、人格権としての名誉権に基づき例外的に侵害行為の差止めを求めることができるとしているのであるから、死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由に出版を差し止めることはできないと解される。死者に対する敬愛追慕の情の侵害は、排他性を有する名誉権を侵害するものではなく、単なる不法行為にすぎず、差止請求の根拠とはなり得ない。
第4 当裁判所の判断
1 名誉毀損の成否の基準等について
(1) 本件は、冒頭で指摘したとおり、本件各書籍により原告B及びD大尉が太平洋戦争後期に座間味島、渡嘉敷島の住民に集団自決を命じ、住民を多数死なせながら自らは生き延びたという虚偽の事実を摘示され、原告B及びD大尉の社会的評価を著しく低下させられ、その名誉を毀損され、その人格権や敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたとして、損害賠償及び本件各書籍の出版の差止め等を求める訴訟である。
 人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償又は名誉回復のための処分を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。
(2) そこで、まず名誉毀損を理由とする損害賠償請求について検討するに、事実を摘示しての名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的がもっぱら公益を図るものである場合に、摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があったときには、その行為には違法性がなく、仮にその事実が真実であることの証明がなくても、行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失が否定され、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(最高裁昭和41年6月23日第1小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。もっとも、書籍の執筆、出版を含む表現行為一般について公益を図ることが唯一の動機であることが必要であるとすることは、実際上困難であるから、ここにいう「その目的がもっぱら公益を図るものである場合」というのは、書籍の執筆、出版について、他の目的を有することを完全に排除することを意味するのではなく、その主要な動機が公益を図る目的であれば足りると解するのが相当である。
 また、ある書籍中の記述が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは、当該記述についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきである(最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決・民集10巻8号1059頁参照)。
(3) 第2・2(3)イのとおり、沖縄ノートの各記述中には、事実を基礎とした意見ないし論評にわたる部分が存在している。
 ところで、公然と事実を摘示した場合に限定する刑法230条1項の名誉毀損罪と異なり、民事上の名誉毀損は、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を違法に低下させることによって成立するものであり、侵害の手段は格別限定されないから、意見ないし論評によっても、民事上の名誉毀損は、成立し得る。
 そして、ある事実を基礎としての意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的がもっぱら公益を図ることにあった場合に、その意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、その行為は違法性を欠くものというべきである(最高裁昭和62年4月24日第2小法廷判決・民集41巻3号490頁参照)。そして、仮にその意見ないし論評の前提としている事実が真実であることの証明がないときにも、行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失が否定され、不法行為は成立しないものと解するのが相当である(最高裁平成9年9月9日第3小法廷判決・民集51巻8号3804頁参照)。
 したがって、沖縄ノートの各記述中の事実を基礎とした意見ないし論評にわたる部分については、まず、その部分が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的がもっぱら公益を図ることにあったこと及びその意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であること若しくは真実相当性の証明があったかどうかを判断することになるが、この点は、名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件と重なる面がある。そして、これが認められた場合には、さらに人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものであるか否かを検討することとなる。
(4) 次に名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版等差止めの要件について検討する。
 人格権としての名誉権に基づく出版物の印刷、製本、販売、頒布等の事前差止めは、その出版物が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等に関するものである場合には、原則として許されず、その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り、例外的に許される(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。
 本件では、既に出版され、公表されている書籍の出版等差止めを求めるものであるから、表現行為の事前差止めに関する以上の要件のうち、損害発生に係る要件は、「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに」限定する必要はなく、被害者が重大な損害を被っていると評価されれば足りるものと解される。
 そして、本件で問題になっているのは、第2・2(1)アのとおり、太平洋戦争後期に座間味島で第一戦隊長として行動した原告B及び渡嘉敷島で第三戦隊長として行動したD大尉が、太平洋戦争後期に座間味島、渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたか否かであって、原告B及びD大尉は日本国憲法下における公務員に相当する地位にあったから、本件各書籍の出版の差止め等は、その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、被害者が重大な損害を被っているときに認められると解するのが相当である。
 この要件を名誉毀損を理由とする損害賠償請求のそれと比較した場合、真実性が認められないことが求められたり主張、立証責任の観点からも、原告らに責任が加重されていると考えられるのであって、名誉毀損を理由とする損害賠償請求が認められない場合に、名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版差止めが認められる余地は存しない。
 したがって、以下の争点についての判断に際しては、まず名誉毀損を理由とする損害賠償請求の成否についての判断を示し、それが認められる場合に、名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版差止めの要件について検討を進めることとする。
(5) 原告Cは、第2・2(1)アのとおり、D大尉の弟であり、本件請求は、D大尉の名誉が本件各書籍により侵害され、これにより原告CのD大尉に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする。
 ところで、死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求について、その要件が名誉毀損を理由とする損害賠償請求より加重されるか否かについては、原、被告らが第3・7で裁判例を引用するなどして主張するとおり、見解の対立があり、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為についての不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)のように、これを加重する見解も存している。
 しかしながら、死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求について、その要件が名誉毀損を理由とする損害賠償請求より軽減されるとする見解は存しないし、これを軽減すべき法的根拠は見出し難いから、それが軽減されるとは解されない。したがって、以下においては、まずD大尉に関する記述についても、通常の名誉毀損を理由とする損害賠償請求に関する要件を検討し、それが認められる場合に、さらに死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求の要件について検討を進めることとする。もとより、D大尉に関する記述について、通常の名誉毀損を理由とする損害賠償請求に関する要件を充足しない場合には、死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求の要件について検討を進める必要がないことは、以上の判示から明らかである。
(6) 本件で問題となっているのは、太平洋戦争後期に発生した座間味島、渡嘉敷島における住民の集団自決であり、それは、第2・2(2)のとおり、昭和20年3月25日から同月28日にかけて発生したものであって、後記第4・5(6)のとおり、歴史の教科書に採り上げられるような歴史的事実に関わるものであって、既に発生から60年を超える年月が経過していることから、当裁判所に顕著な平均余命を考えると、D大尉を含め、関係者の多くが既に死亡しているものと認められる。
 一方、第2・2(3)のとおり、K著の「太平洋戦争」は、昭和42年2月14日に発行され、その改訂版である「太平洋戦争第二版」は昭和61年11月7日に発行され、本件書籍(1)は、平成14年7月16日に文庫化されたものである。また、沖縄ノートについても、第2・2(3)のとおり、昭和45年9月21日には既に発行されているのであって、原告ら及びD大尉が本件各書籍若しくはその前身である書籍に関して司法的救済を求めることは、昭和45年には可能であったと認められる。
 本件で問題となっている太平洋戦争後期に発生した座間味島、渡嘉敷島における住民の集団自決に、原告B及びD大尉が関わったか否かについての実態の調査には、以上のとおり、既に時間の壁が存するといわざるを得ないし、当裁判所には、当事者双方が提出し、若しくは申請した書証、証人の取調べに判断の資料が限定されるという司法的な限界も存するのであって、当裁判所の行う事実の存否の解明には、こうした限界があることを指摘せざるを得ない。
 もとより当裁判所としては、前記事実の存否の解明それ自体が目的ではなく、これまで判示した損害賠償請求等の要件へのあてはめを立証責任を踏まえて判断することになる。その際、真実相当性の有無の判断に際しては、集団自決を体験したとする座間味島、渡嘉敷島の住民の供述やそうした記載を掲載している諸文献が重要な意味を有することは明らかである。
 しかしながら、先に判示したとおり、集団自決が発生して相当時日が経過し、関係者の多くが既に死亡していると考えられることから、集団自決を体験したと供述し、諸文献に記載されている座間味島、渡嘉敷島の住民やそうした記載を掲載している諸文献の作者に対して反対尋問権を行使し得ず、その弾劾ができない場合に遭遇せざるを得ない。このことは、そうした諸文献の重要性に鑑みると、原告らに不利益な側面を有しているといわざるを得ないが、それは原告ら及びD大尉が本件各書籍に関して司法的救済を求めることが遅滞したことに起因するものといわざるを得ない。
(7) 以上、種々指摘した点を踏まえて、各争点について検討を加えることとする。
2 争点@(特定性ないし同定可能性の有無)について
(1) 沖縄ノートの各記述の内容は、第2・2(3)イ記載のとおりであり、その記載がD大尉若しくは原告Bに関する記述であると特定ないし同定し得るか否かについて検討する。
(2) ところで、特定の書籍の一定の記述が他人の名誉を毀損するか否かを判断するに当たり、当該記述が当該他人の客観的な社会的評価を低下させるものであるか否かが問題になるのは、先に判示した法的基準に照らして明らかである。そして、当該記述が当該他人の客観的な社会的評価を低下させるためには、当該記述が当該他人若しくはこれを含む一定の人的集団等(以下、便宜上、この項において「当該他人」というに止める。)とが結びつくことが必要であることもいうまでもない。
 もとより、その記述が、ある事件を基礎に記載されているものの、具体的事件内容が文学的に昇華されるなどして、当該事件と当該他人とを結びつけることが困難な場合には、名誉毀損を論ずることはできないけれども、問題となる記述が、ある事件をそのままに題材とし、当該他人の氏名等の特定情報を明示していなかったとしても、当該事件がかつて大きく報道され、その後の入手可能な文献等にも、氏名等の特定情報が記載されているような場合、その報道に接し若しくは文献等を読み記憶を止めている者やその記述に接して改めて当該文献等を読んだ者などにとってみれば、当該記述と当該他人とが結びつけることは困難であると言い難い。したがって、後者の場合においては、当該記述は、他の公開された情報と結びつくことにより、当該他人の客観的な社会的評価を低下させることは十分にあり得ることである。
 もとより、以上のように当該他人と当該記述が結びつけられることにより生じた、氏名等の特定情報を明示していない記述に基づく名誉毀損の場合には、氏名等の特定情報を明示された記述の場合に比して、当該記述と当該他人等を結びつける範囲が狭くなるのが通常であり、侵害される客観的な社会的評価も一定の範囲内に限定される可能性は否定できないものの、表現の公然性は損なわれないと考えられ、先に記した範囲の狭さは損害評価において考慮されるにとどまるというべきである。
(3) これをまずD大尉について検討する。
 沖縄ノートの各記述は、著者である被告Eが沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題としてとらえ返そうとしたものであることは、第2・2(4)イ記載のとおりであり、沖縄ノートの各記述の内容は、第2・2(3)イ記載のとおりである。
 そして、沖縄ノートの各記述には、慶良間列島の集団自決の原因について、日本人の軍隊の部隊の行動を妨げず食糧を部隊に提供するために自決せよとの命令に発せられるとの記載(本件記述(2))や慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制させたと記憶される男である守備隊長との趣旨の記述(本件記述(3))などがあり、沖縄ノートの各記述は、渡嘉敷島における集団自決を命じたのが、当時の守備隊長であることが前提となっている。
 渡嘉敷島における集団自決が行われた際に、D大尉が渡嘉敷島の守備隊若しくは軍隊の長であることを記載し若しくは窺わすことができる書籍は、第2・2(5)イ記載の諸文献を始めとして、後記第4・5(2)イ記載のとおり、多数存在する上、沖縄ノートでも取り上げられたとおり、証拠(甲A4ないし7及び甲B2)によれば、D大尉は、昭和45年3月28日に渡嘉敷島で行われる戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたが、同日、「虐殺者Dを許すな」などと記載した張り紙を掲げた反対派の行動もあって那覇市から渡嘉敷島に渡る船に乗らなかったことが沖縄タイムス及び琉球新報の同日夕刊に報じられたこと、両夕刊には「D元大尉」と大書されていたこと、同月27日の神戸新聞でも、集団自決を命じたといわれるD大尉が那覇空港で民主団体等に責任を追及され大騒ぎになったと報道されたこと、アサヒグラフの同年4月17日号でも、D大尉は、元隊長として過去の責任追及を受け、慰霊祭に参加できなかったと報道されたこと、D大尉が「潮」(昭和46年11月号)に記載した手記でも、D大尉のことが週刊誌で数回取り上げられたことのほか、慰霊祭に参加できなかったことを記載していたことが認められる。さらに、沖縄ノートが引用するVB「沖縄戦史」には、第2・2(5)イ(ウ)のとおり、「D大尉」と明示した記載がある。
 以上の事実によれば、沖縄ノートの各記述に、後記5(2)イ記載の諸文献、前記沖縄タイムス及び琉球新報等の報道を踏まえれば、不特定多数の者が沖縄ノートの各記述の内容が、D大尉に関する記述であると特定ないし同定し得ることは否定できない。とりわけ、沖縄ノートで取り上げられた渡嘉敷島の守備隊長が渡嘉敷島に渡る船に乗船できなかったことなどを報じる前記沖縄タイムス及び琉球新報等の報道に接した者であれば、その関連づけは極めて容易であると認められる。
(4) 次に原告Bについて検討する。
 第2・2(3)イ記載のとおりの沖縄ノートの各記述は、主に慶良間列島の渡嘉敷島の元守備隊長に関する記載であることが認められる。
 しかしながら、沖縄ノートの本件記述(2)には、「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決」が日本人の軍隊の部隊の行動を妨げず食糧を部隊に提供するために自決せよとの命令に発せられるとの記載がある上、引き続き「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷島の酷たらしい現場」との記載があることは、第2・2(3)イ(ア)のとおりである。そうすると、沖縄ノートの本件記述(2)は、少なくとも原告Bをも対象とした記載と評価される。被告E自身、その本人尋問において、「自己欺瞞は、自分に対するごまかしです。そして、これは渡嘉敷、そして座間味島の、慶良間の2つの島の集団自決の責任者たちは、そのようなごまかし、すなわちこの集団自決の責任が日本軍にあるということを言いくるめる、ほかの理由があるかのように言いくるめるということを繰り返したことであろうというふうに書きました。」などのように供述するなどして、沖縄ノートが原告Bをも対象にしたことを自認している。
 そして、座間味村における集団自決が行われた際に、原告Bが座間味島に駐留する軍隊の長であることを記載し若しくは窺わすことができる書籍は、第2・2(5)ア記載の諸文献を始めとして後記5(2)ア記載のとおり、多数存在する上、この中に存し、沖縄ノートも引用するVB「沖縄戦史」には、第2・2(5)ア(エ)のとおり、「B少佐」と明示した記載がある。
 以上の事実によれば、沖縄ノートの各記述に、後記5(2)ア記載の諸文献を踏まえれば、不特定多数の者が沖縄ノートの本件記述(2)の内容は、第2・2(3)イ(ア)記載のとおりであり、その記載が原告Bに関する記述であると特定ないし同定し得ることは否定できない。
(5) 以上、検討したところによれば、特定性ないし同定可能性の有無についての被告らの主張は、理由がないというべきである。
3 争点A(名誉毀損性の有無)について
(1) 本件書籍(1)の発行年月日、発行部数及び本件記述(1)は、第2・2(3)アのとおりである。
 本件記述(1)には、「座間味島のB隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し」たなどとの記述があり、本件記述(1)は、原告Bが部隊の食糧を確保するために本来、保護してしかるべき老幼者に対して無慈悲に自決することを命じた冷徹な人物であるとの印象を与えるものであって、原告Bの客観的な社会的評価を低下させる記述であることは明らかである。
(2)ア 本件書籍(2)の発行年月日、発行部数及び沖縄ノートの各記述は、第2・2(3)イのとおりである。
イ 第2・2(3)イのとおり、沖縄ノートの69頁では、座間味島と渡嘉敷島でのそれぞれの集団自決を併せて慶良間列島の集団自決と包括的に捉えた上で、その原因が日本軍の命令によるものであるとして、集団自決命令の主体を特定人としないような記述がなされているものの、その記述の直後で、慶良間列島の集団自決を指して「この事件」とした上で、「この事件の責任者」が沖縄に対するあがないをしておらず、このような責任者の態度について「この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復している」との記述がなされているから、慶良間列島の集団自決について、自決命令を発した人物が存在するような記述の仕方となっている。
 また、第2・2(3)イのとおり、沖縄ノートの各記述においては、「渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」「『命令された』集団自殺を引き起こす結果をまねいたことがはっきりしている守備隊長」、「慶良間の集団自決の責任者」などとの表現が使用され、それ以外の部分でも、渡嘉敷島の集団自決の責任者が、渡嘉敷島の旧守備隊長である旨の記述が繰り返されているから、渡嘉敷島の守備隊長が渡嘉敷島の住民に対し自決命令を発したと読める記述となっていることが認められる。
ウ 沖縄ノートの各記述における座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長が、他の諸文献等と併せて考えると、それぞれ原告B及びD大尉であると特定ないし同定し得ることは、前2において判示したとおりである。
 本件記述(2)は、座間味島及び渡嘉敷島を含む慶良間列島での集団自決が日本軍の命令によるものであるとし、慶良間列島での集団自決の責任者の存在を示唆しているから、沖縄ノートの各記述の他の記載と併せて読めば、座間味島及び渡嘉敷島の守備隊の長である原告B及びD大尉が集団自決の責任者であることを窺わせるものである。したがって、本件記述(2)は、集団自決という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、原告B及びD大尉の客観的な社会的評価を低下させるものと認められる。
 本件記述(3)ないし本件記述(5)は、「渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」「慶良間の集団自決の責任者」などと記載し、D大尉が渡嘉敷島での集団自決を強制したことを前提とする記述になっており、集団自決という残忍な行為を強制したものとして、D大尉の客観的な社会的評価を低下させる記載であることは明らかである。
4 争点B(目的の公益性の有無)について
(1) 第4・1(2)のとおり、民事上の不法行為たる名誉毀損が違法性がないと判断されるためには、表現行為の目的が、もっぱら公益を図るものであることが必要となるが、書籍の執筆、出版を含む表現行為一般について、唯一の動機のみによってそれを行うことは実際上困難である。したがって、もっぱら公益を図るという要件は、他の目的を有することを完全に排除することを意味するものではなく、主要な動機が公益を図る目的であれば足りると解すべきである。
(2)アこれを本件について見るに、まず、本件書籍(1)については、それが歴史研究書であること、本件記述(1)が公共の利害に関するものであることは当事者間に争いがなく、それがもっぱら公益を図る目的によるものであることについては、公益を図る目的も併せもってなされたものである限度で当事者間に争いがない。以上の当事者間に争いがない事実に、証拠(甲A1及びB7)を総合すれば、本件書籍(1)の著者であるKは、「太平洋戦争」(第一版)の初版序において、太平洋戦争について、「総力戦として国民生活のあらゆる領域をその渦中にまきこまずにおかなかったこの戦争の経過を述べようとするならば、他の局部的主題を選ぶ場合と違い、当然、一九三一年以来の日本歴史の総体について述べなければならないことになるのはもとより、第二次世界大戦の一環としてのこの戦争の世界史的性格からして、相手側の国や関係中立国の国内事情およびそれらを基礎として織り出された国際関係史にまで筆を及ぼさなければ、太平洋戦争史の全貌は究めつくされないであろう。厳密に科学的な太平洋戦争史はそれらの要求を充たしたものでなければなるまいが、それは私のごとき視野狭く力のとぼしいものにとっては、到底実行できない注文である。しかし、それと同時に、日本史、なかんずく日本近代史の研究者の一人として、太平洋戦争の歴史的理解を回避することも、また許されないのではなかろうか。ことに私のように戦争中すでに一人前の国民として社会に出ていて戦後に生きのこった人間の場合、戦争中に、これに協力するか、便乗するか、面従腹背の態度で処するか、傍観するか、抵抗するか、なんらかの形で実践的に戦争を評価することなしにはすましてこられなかったはずであるから、その当時の実践的評価が今日からふりかえって正しかったかどうかを反省することをしないで現代の世界にまじめに生きていけるわけはないと思うし、まして日本史の研究者である以上、学問的見地からのきびしい反省を試みる義務があるとさえ思われるのである。太平洋戦争のトータルな学問的理解が私の能力を超えた、あまりにも過大なテーマであることを十分承知しながら、あえてこのようなテーマの書物を書く決心をしたのは、上のような内的動機があったからであった。」と記述していること、Kは、本件書籍(1)の引用文献から明らかなように、多数の歴史的資料、文献等を調査した上で「太平洋戦争」(第一版)から本件書籍(1)までの各書籍の執筆をしたことが認められるから、本件記述(1)に係る表現行為の主要な目的は、戦争体験者として、また、日本史の研究者として、太平洋戦争を評価、研究することにあったものと認められ、それが公益を図るものであることは明らかである。
 そして、そのような目的をもって執筆された本件書籍(1)を発行した被告岩波書店についても、その主要な目的が公益を図るものであったものと認められる。
イ 次に、本件書籍(2)について判断する。沖縄ノートの主題及び目的は、
第2・2(4)イのとおりであり、この当事者間に争いのない第2・2(4)イの事実に、証拠(甲A3、乙97及び被告E本人)を総合すれば、沖縄ノートは、被告Eが、沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘し、その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和45年の時点において、沖縄の民衆の怒りが自分たち日本人に向けられていることを述べ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものであること、沖縄ノートの各記述は、沖縄戦における集団自決の問題を本土日本人の問題としてとらえ返そうとしたものであることが認められ、これに沿うように、被告Eは、本人尋問において、@日本の近代化から太平洋戦争に至るまで本土の日本人と沖縄の人たちとの間にどのような関係があったかという沖縄と日本本土の歴史、A戦後の沖縄が本土と異なり米軍政下にあり、非常に大きい基地を沖縄で担っているという状態であったことを意識していたかという反省、B沖縄と日本本土との間のひずみを軸に、日本人は現在のままでいいか、日本人がアジア、世界に対して普遍的な国民であることを示すためにはどうすればよいかを自分に問いかけ、考えることが沖縄ノートの主題である旨供述している。そして、被告Eは、その本人尋問において、慶良間列島における集団自決について取り上げたことについて「私は慶良間列島において行われた集団自決というものに、歴史の上での日本、そして現在の日本、特に沖縄戦の間の日本、そして沖縄現地の人々との関係というものが明瞭にあらわれていると考えまして、それを現地の資料に従って短く要約するということをしております。」と供述し、また、D大尉による集団自決の問題を取り上げたことについて、「私は、今申しました第2の柱の中で説明いたしましたけれども、私は新しい憲法のもとで、そして、この敗戦後、回復しそして発展していく、繁栄していくという日本本土の中で暮らしてきた人間です。その人間が沖縄について、沖縄に歴史において始まり、沖縄戦において最も激しい局面を示し、そして戦後は米軍の基地であると、そして憲法は認められていない、その状態においてはっきりあらわれている本土と沖縄の間のギャップ、差異、あるいは本土からの沖縄への差別と、沖縄側から言えば沖縄の犠牲ということをよく認識していないと。しかし、そのことが非常にはっきり、今度のこの渡嘉敷島の元守備隊長の沖縄訪問によって表面化していると、そのことを考えた次第でございます。」と供述している。
 これらの事実及び第4・1(4)のとおり、原告B及びD大尉が日本国憲法下における公務員に相当する地位にあったことを考えると、沖縄ノートの各記述に係る表現行為の主要な目的は、前記の反省の下、日本人のあり方を考え、ひいては読者にもそのような反省を促すことにあったものと認められ、それが公共の利害に関する事実に係り、公益を図るものであることは明らかである。
 そして、そのような目的をもって執筆された本件書籍(2)を発行した被告岩波書店についても、その主要な目的が公益を図るものであったものと認められる。
(3) 以上によれば、本件各記述に係る表現行為の目的がもっぱら公益を図る目的であると認めることができる。
5 争点C及びD(真実性及び真実相当性)について
(1) 前記第2・2で認定した事実、後記第4・5(2)記載の文献等の書証に、証拠(甲A4ないし7、甲B3、25の1及び2、29、30、34、51、52の1及び2、53、63ないし65、68、75、76の1ないし4、77、97、乙2、3、11、16、18、21の1及び2、22ないし25、32、34、36ないし38、39の1ないし5、40の1ないし3、42、43の1及び2、48、49、56の1及び2、57の1及び2、58ないし60、69、97、I証人、H証人、J証人並びに原告B及び被告E各本人)を総合すれば、後記各文献等を評価する前提として次の事実が認められる。
ア 太平洋戦争当時の沖縄の状況、体制等
(ア) 沖縄全体の状況、体制等
a 昭和16年12月に始まった太平洋戦争は、昭和17年のミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられ、昭和19年7月にはサイパン島が陥落し、昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し、次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。
b 昭和19年3月、南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され、同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し、この沖縄守備軍・第三二軍は「球部隊」と呼ばれていた。
 第三二軍の司令官であったXKは、沖縄着任の際、沖縄における全軍に対し、訓示として、「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」と発した。このように、沖縄においては、防諜対策は、日本軍の基本的かつ重要な方針であった。第三二軍司令部の基本方針を受けて、各部隊においては、民間人に対する防諜対策が講じられた。例えば、沖縄本島中部に駐屯した第62師団の命令文書には、同師団の管轄区域は、土地柄としてデマが多く、また、軍機保護法による特殊地域と指定されているなど防諜上極めて警戒を要する地域であるとして、違反者が出ないよう万全の対策を講ぜよとの趣旨の命令が記載されている。そのほか、軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁じ、沖縄語を使用する者をスパイとみなし処分する旨の命令や、島嶼における作戦では原住民がスパイ行為をするから気を許してはならない旨の訓令などが出された。
 また、第三二軍は、昭和19年11月18日、沖縄県民を含めた総力戦体制への移行を急速に推進し、「軍官民共生共死の一体化」を具現するとの方針を発表した。
c 沖縄では、昭和20年1月から3月にかけて、大々的な防衛召集がなされ、防衛隊が組織された。防衛隊は、陸軍防衛召集規則に基づいて防衛召集された隊員からなる部隊であり、同規則上は17歳から45歳の男子が召集の対象とされ、沖縄の住民が、多数、防衛隊員として召集された。琉球政府社会局援護課の資料によれば、昭和20年3月6日付けの召集者だけでも1万4000人に上るとされており、昭和19年10月以降の防衛召集者は、2万人を超えた。
 昭和19年10月10日、沖縄本島を中心とする南西諸島は、米軍による大規模な空襲を受け、沖縄や沖縄における重要な軍事施設は大きな被害を被った。
d また、昭和17年1月から、太平洋戦争開始記念日である毎月8日が「大詔奉戴日」と定められ、君が代を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式が行われた。沖縄においても、住民は、日本軍や村長、助役らから、戦時下の日本国民としてのあるべき心得を教えられていた。
e 昭和20年3月23日から、沖縄は米軍の激しい空襲に見舞われ、同月24日からは艦砲射撃も加わった。慶良間海峡は島々によって各方向の風を防ぎ、補給をする船舶にとっては最適の投錨地であったことから、米軍の最初の目標は、沖縄本島の西55キロメートルに位置する慶良間列島の確保であった。米軍の慶良間列島攻撃部隊は、VA少将の率いる第77歩兵旅団であり、空母の護衛のもと、上陸作戦に臨んだ。
(イ) 慶良間列島の状況、体制等
a 慶良間列島は、沖縄本島・那覇の約20キロメートル西方に位置する、渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島などの島々の総称である。慶良間列島には、昭和19年9月、陸軍海上挺進戦隊が配備され、座間味島に原告Bが隊長を務める第一戦隊、阿嘉島・慶留間島にO隊長が隊長を務める第二戦隊、渡嘉敷島にD大尉が隊長を務める第三戦隊が駐留した。昭和20年3月の米軍進攻当時、慶良間列島に駐屯していた守備隊はこれらの戦隊のみであった。海上挺進隊は、当初、小型船艇に爆雷を装着し、敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが、結局出撃の機会はなく、前記船艇を自沈させた後は、海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。
 慶良間列島は、後記の集団自決発生当時、米軍の空襲や艦砲射撃のため、沖縄本島など周囲の島との連絡が遮断されており、敵の包囲・攻撃があったときに警戒すべき区域として戒厳令によって区画した区域である「合囲地境」ではなかったものの、事実上そのような状況下にあったとする文献もある。合囲地境においては、行政権及び司法権の全部又は一部を軍の統制下に置くこととされ、村の幹部や後記の防衛隊による指示は、軍の命令と捉えられていた。
 また、前記のとおり、後記の集団自決発生当時、慶良間列島は沖縄本島などとの連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあった。
 慶良間列島に配備された陸軍海上挺進戦隊は、もともと特攻部隊としての役割を与えられていたことから、米軍に発見されないよう、後記の特攻船艇の管理は厳重であり、その他の武器一般の管理についても同様であった。
b 座間味村は、渡嘉敷島の西方約2キロメートルに位置する座間味島、阿嘉島、慶留間島など複数の島々で構成される離島村である。昭和15年の統計によれば、座間味村の人口は約2350人であった。
 座間味村では、防衛隊長兼兵事主任のP助役が、伝令役の防衛隊員であり役場職員であるVJを通じて軍の指示を住民に伝達していた。兵事主任は、徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、軍の命令を住民に伝達する立場にあった。
 そのほか、住民は、Sが団長を務めた女子青年団などが中心となって、救護、炊事などで日常的に部隊に協力していた。
c 渡嘉敷村は、渡嘉敷島を中心として、その他複数の小島で構成されている。昭和19年当時、渡嘉敷村の人口は約1400人であった。
 渡嘉敷村では、Q村長、防衛隊長のVK、N兵事主任、M巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。
 昭和19年9月9日、XL少佐を隊長とする第三基地隊と呼ばれる約1000人の兵隊が、渡嘉敷村に上陸し、上陸後直ちに陣地構築に取りかかった。渡嘉敷村の村民も、国民学校の生徒を動員するなどして陣地構築作業に従事した。
 同月20日には、D大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が、渡嘉敷島に駐屯した。第三戦隊は、同年4月に海上特攻隊として編成された部隊であり、○レ(マルレ)と呼ばれる特攻船艇を約100隻保有していた。
 渡嘉敷村は、同年10月10日に空襲を受け、この空襲以降、慶良間列島の戦況は悪化していたが、このような状況下で、それまで徴用で陣地構築作業に従事していた男子77名が改めて召集され、兵隊とともに国民学校に宿営することとなった。そのほか、渡嘉敷村の婦人会や女子青年団は、救護班や炊事班などに徴用され、学童に対する授業は停止した状態であった。
 前記第三基地隊は、昭和20年2月中旬、特攻基地がおおむね完成に近づいたころ、勤務隊の一部と通信隊の一部とを第三戦隊の配下に残して、沖縄本島に移動した。
 その後、第三戦隊は、同年3月20日に陣地を完成させ、特攻船艇の点検も行い、米軍を迎え撃つばかりの状況となっていた。
イ 集団自決の発生
(ア) 座間味島
 座間味島は、昭和20年3月23日、米軍から空襲を受け、これにより、日本軍の船舶や座間味部落の多くが被害を受けた。座間味島は、同月24日、25日も空襲を受けた。
 住民は壕に避難するなどしていたが、同月25日夜、伝令役のVJが、住民に対し、忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。
 その後、同月26日、多数の住民が、手榴弾を使用するなどして集団で死亡した(従来、これを集団自決と呼んでいるが、後記諸文献に記載されているとおり、その実態は、親が幼児ら子を殺害し、子が年老いた親を殺害するなど肉親等による殺害であり、自決という任意的、自発的死を意味する言葉を用いることが適切であるか否かについては議論の余地がある。しかし、集団自決という言葉が後記諸文献で定着していると考えられるので(誤解を避ける意味でかぎ括弧付きで「集団自決」と表記しているものもあるけれども)、次の渡嘉敷島での事例も含めて、本判決では、以下において、集団自決と呼称することとする。)。自決を遂げた住民の正確な数については、後記(ウ)のとおり、明らかとなっていない。
(イ) 渡嘉敷島
 第三戦隊は、昭和20年3月25日、特攻船艇への爆雷の取付けやエンジンの始動も完了し、出撃命令を待っていたが、D大尉は出撃命令を出さなかった。結局、D大尉は、米軍に発見されるのを防止するためとして、特攻船艇をすべて破壊することを命じた。
 同月27日午前、米軍の一部が渡嘉敷島の西部から上陸した。
 D大尉は、米軍の上陸前、M巡査に対し、住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう指示し、これを受けて、M巡査は、防衛隊員とともに、住民に対し、西山陣地の方に集合するよう促した。
 渡嘉敷島の住民は、同月28日、防衛隊員などから配布されていた手榴弾を用いるなどして、集団で死亡した。死亡した住民の正確な数については、後記(ウ)のとおり、明らかとなっていない。
(ウ) 自決者の人数
 沖縄戦においては、戸籍簿をはじめとして多くの行政資料が焼失したため、住民の犠牲の全貌を明らかにすることは困難とされており、現在もなお、犠牲となった住民の正確な数は明らかとなっていないが、主な公的資料等では、集団自決の犠牲者数について、次のとおり記録されている。
 「鉄の暴風」では、厚生省の調査による座間味島及び渡嘉敷島の自決者の合計人数が約700人であったとされている(乙2・436頁)。
 「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」では、作戦遂行を理由に軍から自決を強要された事例として、座間味村155人、渡嘉敷村103人の自決者があったとされている(乙36・43頁)。
 「沖縄作戦講話録」では、援護法の戦闘協力者として昭和25年3月末までに申告された陸軍関係死没者4万8509人のうち14才未満の死没者1万1483人についてこれを死亡原因別に区分して、沖縄戦全体で「自決」313人となるとされている(乙37・4-20)。また、「沖縄作戦講話録」では、渡嘉敷村329人、座間味村284人の自決者があったとされている(乙37・4-31)。
 「沖縄県史第8巻」では、「集団自決」が613人とされている。
 「座間味村史上巻」では、座間味村の座間味部落だけで200人近い犠牲者がいるとされている(乙49・363頁)。
(エ) 座間味島及び渡嘉敷島以外の集団自決
 座間味島及び渡嘉敷島の集団自決のほか、数十人が昭和20年3月下旬に沖縄本島中部で、数十人が同月下旬に慶留間島で、約10人が同年4月上旬に沖縄本島西側美里で、100人以上が同月下旬に伊江島で、100人以上が同月下旬に読谷村で、十数人が同年4月下旬に沖縄本島東部の具志川グスクなどで、それぞれ集団自決を行った。
 以上のうちの慶良間列島の慶留間島には、前記のとおり、第二戦隊が駐留していたが、第二戦隊のO隊長は、昭和20年2月8日、住民に対し、「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し、同年3月26日、米軍の上陸の際、集団自決が発生した。
 以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかった。
ウ 日本軍による住民加害
(ア) 元大本営船舶参謀であった厚生省引揚援護局の厚生事務官WFの調査によれば、軍の住民に対する加害行為が各地で行われていた。
 例えば、WFは、「将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち入り、必要もないのに軍の作戦遂行上の至上命令である立退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕からの立退きを命じて己の身の安全を図ったもの、ただでさえ貧弱極まりない住民の個人の非常用糧食を徴発と称して掠奪するもの、住民の壕に一身の保身から無断進入した兵士の一団が無心に泣き叫ぶ赤児に対して此のまま放置すれば米軍に発見されるとその母親を強制して殺害させたもの、罪のない住民をあらぬ誤解、又は誤つた威信保持等のため『スパイ』視して射殺する等の蛮行を敢えてし、これが精鋭無比の皇軍のなれの果てかと思わせる程の事例」があったとし、また、「敵上陸以後、所謂『スパイ』嫌疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いている」として、軍による住民加害が多数あったとしている(乙36・18,19,25頁)。
 また、WFは、住民の死亡の内訳について、「友軍よりの射殺」「壕提供」があったとし、「壕提供」については、「一番圧倒的に死没者の多い壕の提供について若干申し上げます。これらの犠牲者は御承知の首里主陣地帯の崩壊に伴い、第2線陣地につくため、既に逃げ道のない住民が居住する自然壕を取り上げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当あるのであります。」としている(乙37・4-21)。
(イ) 日本軍は、渡嘉敷島において、防衛隊員であった国民学校のWO訓導が渡嘉敷島で身寄りのない身重の婦人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀するおそれがあるとして、これを処刑した。また、D大尉は、集団自決で怪我をして米軍に保護され治療を受けた二名の少年が米軍の庇護のもとから戻ったところ、米軍に通じたとして殺害した。さらにD大尉は、米軍の捕虜となりその後米軍の指示で投降勧告にきた伊江島の住民男女6名に対し、自決を勧告し、処刑したこともあった。さらに、渡嘉敷島では、日本軍が朝鮮人の軍夫を処刑したこともあった。
(ウ) そのほか、沖縄では、スパイ容疑で軍に殺された者など、多数の軍による住民加害があった。
(2) 集団自決に関する文献等
 第2・2(5)記載の各事実に、証拠(甲B1、2、4ないし6、8ないし14、16ないし24、26、27、31の1及び2、32、33、35ないし39、40の1ないし3、42ないし49、55、59ないし62、66、67、73、74、77、78、81、82の1ないし3、83、84、86ないし88、91、92の1ないし3、94、98、100、乙2ないし13、19、26、28ないし31、33、35の1及び2、41、44、45、47の1及び2、49ないし55、62ないし65、66の1及び2、67、68、70の1ないし3、71の1及び2、72、73、78ないし82、98、100、102、I証人、H証人、G証人、J証人並びに原告B本人)を総合すれば、座間味島及び渡嘉敷島における住民の集団自決に関する文献等について、以下の事実が認めることができる。
ア 座間味島について
(ア) B命令説について直接これを記載し、若しくはその存在を推認せしめる文献等としては、以下に記載するものがあげられる。
a 「鉄の暴風」(昭和25年)沖縄タイムス社発行
(a) 「鉄の暴風」は、その「まえがき」にあるように、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記である。そして、その第10版に掲載された「五十年後のあとがき」には、その取材方法等について、「戦後も五年目」で「資料らしい資料もなく、頼りになるのは、悲惨な戦争を生き抜いてきた、人々の体験談をきくのが唯一の仕事で、私(XMのこと)はWG記者と『公用バス』と称する唯一の乗物機関(実はトラックを改装したもの)を利用して国頭や中部を走り回ったことを憶えている。語ってくれた人数も多いが、話の内容は水々しく、且つほっとであった。もっと時間が経過すれば、人々の記憶もたしかさを喪っていたことであろう。戦争体験は、昨日のように生まなましく、別の観念の這入りこむ余地はなかった。」と記載されている。
(b) 「鉄の暴風」には、「座間味島駐屯の将兵は約一千人余、一九四四年九月二十日に来島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて、隊長はB少佐、守備隊長は東京出身のVC少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。」「この自決のほか、砲弾の犠牲になったり、スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて、座間味島の犠牲者は約二百人である。日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三カ所で歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降した。」として、原告Bが座間味島の忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた旨の記述がある(甲B6及び乙2・41頁、なお、以下では同じ文献が甲号証及び乙号証で提出されている場合には、便宜上一方の記載にとどめることとする。)。
(c) また、「鉄の暴風」には、本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており、昭和20年3月28日の箇所に、座間味島と渡嘉敷島で住民が集団自決したこと、厚生省の調査による両島の自決者の合計人数が約700人であったことが記載されている。
b 「地方自治七周年記念誌」(昭和30年)沖縄市町村長会発行「地方自治七周年記念誌」は、戦後における沖縄の政治、経済、教育、文化、社会その他の事情を総合して沖縄の全市町村の概要をまとめた記念誌である。
 「地方自治七周年記念誌」には、「戦闘記B少佐(隊長)の率いる約千五百名の日本陸軍部隊が初めて座間味村字座間味に本部を設置して離島の阿嘉島および慶留間島の各部落まで駐屯したのが一九四四年九月十日であつた。」「一九四五年三月二十四日土の臭も鼻をつく中で一晩を過ごして目を覚す頃にはすでに敵機の来襲である。」「心待ちに待った友軍機は遂に姿を見せず、おまけに夕刻からは艦砲射撃まで加えて来た。昼夜を徹しての艦砲射撃の連続であつた。恐怖の一夜を明かした二十五日も朝から艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない。山に谷に畑に砲弾、爆弾の炸裂する音は耳をつんざく程であった。相当数の艦船が港内に来ていると云う事を聞かされ、何んとも言えぬ悪感に背筋が冷くなつた。」「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑前において玉砕する様にとの事であつた。」「命令を受けた住民はそろつて指定の場所に集まつて来た。」「住民の内には米軍の上陸を知つて自決をはかり家族全員も刺殺した悲惨事もあり、天皇陛下万歳を三唱して各自持参せる毒薬(アヒサン)小刀、カミソリ、手榴弾で一挙に六十名も自決したのが内川山壕の惨事であつた。その壕では米軍の進撃によつてあわてふためいた住民に対し専ら慰撫激励に努めた村長XN、助役P、収入役WUの三役も妻子と共に自決に参加したのであつた。」として、原告Bが老人・子供に対して忠魂碑前での玉砕を命じた旨の記述がある(乙29・450,451頁)。
c 「自叙伝」(昭和31年)WE著
 「自叙伝」は、P助役の父親であるWEが著したとされる記録である。
 「自叙伝」には、「二十五日」「丁度午後九時頃直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した、明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。」「早速Pが来て家族の事を尋ねた。その時『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着換へて集合しなさいとの事であった。」として、P助役が父親であるWEに玉砕命令の予告をした旨の記述がある(乙28)。
 なお、WEの子であるVUも、後記nのとおり、前記状況について、陳述書に記載している。
d 「座間味戦記」(昭和32年ころ、「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)
 「座間味戦記」は、座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものである。
 「座間味戦記」には、「夕刻に至ってB部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」として、原告Bが住民に対して、若年者は最後まで戦い老人・子供は忠魂碑前で玉砕するよう指示した旨の記述がある(乙3・7頁)。
e 「秘録沖縄戦史」(昭和33年)VD著
 「秘録沖縄戦史」は、沖縄戦当時警察官であり、その後琉球政府社会局長となったVDが、自己の体験や、終戦の翌年沖縄警察部が行った戦没警察官の調査の際に収集された数多くの人の体験談や報告、琉球政府社会局長時代の援護業務のために広く集めた沖縄戦の資料などに基づいて執筆したものである(乙4・6頁)。
 「秘録沖縄戦史」には、「昭和二十年三月二十三日、座間味は米機の攻撃を受け、部隊が全滅するほどの被害を蒙り、住民から二十三人の死者を出した。村民たちは、焼跡に立って呆然とした。早速、避難の壕生活が始まった。その翌日も朝から部隊や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、B少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、忠魂碑前で自決せよ』と。」「B少佐の自決命令を純朴な住民たちは、そのまま実行したのである。その日、七五名が自決し多くの未遂者を出した。」として、原告Bが老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある(乙4・229ないし231頁)。
f 「沖縄戦史」(昭和34年)VB著
 「沖縄戦史」は、沖縄タイムス社の編集局長であったVBが、時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものであるところ、VBは、その「まえがき」に「この記録は、時事通信社代表取締役XO氏のすすめで、沖縄戦の正しい記録を一冊にまとめるつもりである。したがって、日・米両軍および現地沖縄に保存されている最も確実な資料に基づいて忠実な『沖縄戦史』とするように努力した。」と記載している。
 「沖縄戦史」には、「B少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令した。」「二十六日午前十時、掩護射撃の下にアメリカ軍の上陸がはじまった。日本守備軍は『番所山』に集結、夜になって斬込みを敢行するといわれたが、これは決行されず、斬込みの弾薬運搬のため先発した女子青年団員五名は、予定の時間になっても斬込隊は来ず、周囲にアメリカ軍の気配を感じ、捕虜になって恥をさらすより、死んで祖国を守ろうと、けなげにも、手榴弾で自決をとげた。二十七日の未明であった。」「村役場の首脳の自決も、二十七日であった。そのほか七十五名の純朴な住民たちが自決した。」「その後、日本軍は生き残った住民に対し『イモや野菜を許可なくして摘むべからず』というおそろしい命令を出した。兵士にも、食糧についてのきびしいおきてが与えられ、それにそむいた者は、絶食か銃殺という命令だった。このために三十名が生命を失ない、兵も住民もフキを食べて露命をつないでいた。」として、原告Bが老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある(乙5・51,52頁)。
 また、「沖縄戦史」には、本文の後に「沖縄戦日誌」と題して年表形式で事実経緯がまとめられており、昭和20年3月28日の箇所に、座間味村長、助役、収入役、住民175名が原告Bの命令により集団自決した旨記載されている(乙5・290頁)。
 なお、女子青年団員五名の手榴弾による自決は、「秘録沖縄戦史」にも同様の記載があるが、誤記であると認められる(乙9・702頁)。
g 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(昭和43年)VE刊行
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」は、座間味島における戦闘で死亡したVM兵長の兄であるVEが、戦後、座間味島に赴き、Sの昭和38年4月の「家の光」に掲載された手記(乙19)に接し、これに加筆した「血ぬられた座間味−沖縄緒戦死闘の体験手記」を掲載したほか、千代田印刷センターの編集者XP、XQが資料をとりまとめて刊行した書籍である。
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」には、出版当時の座間味村村長であるWYの序文として「戦闘に協力できる村民は進んで祖国防衛の楯として郷土の土を血で染めて散華し、作戦上足手まといになる老幼婦女子は軍の命令により、祖国日本の勝利を念じつつ、悲壮にも集団自決を遂げたのであります。」との記述があるほか、座間味村遺族会会長であるXRの序文として「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」との記述がある。また、本文中の前記「血ぬられた座間味−沖縄緒戦死闘の体験手記」には「午後十時頃B部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」として、原告Bが老人・子供に対して忠魂碑前に集合して玉砕するよう命じたとする記述がある(乙6・7,9,39頁)。
h 「秘録沖縄戦記」(昭和44年)VD著
 「秘録沖縄戦記」は、VDが、前記「秘録沖縄戦史」の内容を再検討し、琉球政府の援護課や警察局の資料、米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして改訂したものである。
 「秘録沖縄戦記」には、前記「秘録沖縄戦史」同様、「艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民に対し、B少佐からきびしい命令が伝えられた。それは『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は全員、村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。」「B少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日、七五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した」として、原告Bが老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じたとする記述がある(乙7・156,158頁)。
i 「沖縄県史第8巻」(昭和46年)琉球政府編集
 「沖縄県史第8巻」は、昭和40年から沖縄の公式な歴史書として、琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集、発行した別巻を含め、全24巻中の1巻(各論編7に当たり、沖縄戦通史とされる部分である。)で、昭和46年4月28日に刊行されたものである。
 「沖縄県史第8巻」には、「軍自らは」「現実とはうらはらの『大本営発表』でもって県民に幻想を抱かしめる欺瞞的行為をしながら、県民が作戦の邪魔になるからということで、安全保証も与えず県外や県内の山岳地帯への疎開を強制したり、あるいは集団自決を強要したり、また無実の県民をスパイ視したり、県民の住宅その他の建物の強制収用、食糧品の供出強要、ひいては避難壕の軍へのあけ渡しを要求する、などのことをしたものであった。」と記述され(乙30・48頁)、座間味島における集団自決について、「翌日二十四日夕方から艦砲射撃を受けたが、B少佐は、まだアメリカ軍が上陸もして来ないうちに『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』と命令した。」「村長、助役、収入役をはじめ、村民七十五名はB少佐の命令を守って自決した。」と記述され、原告Bが老人・子供に対して忠魂碑前で自決するよう命じた旨の記述がある(乙8・411,412頁)。
j 「沖縄県史第10巻」(昭和49年)琉球政府編集
(a) 「沖縄県史第10巻」は、「沖縄県史第8巻」と同様の沖縄の公式な歴史書の一部であり、昭和49年3月31日に発行され、「沖縄戦記録2」に当たる。
 沖縄県史の作成に関与したVFは、沖縄県史の資料価値等について「これは、客観性のある、極めて科学性のあるものだと思います。それはどういうことかと言いますと、戦争体験者の証言を語ったとおりに記載するという、そういう手法は採っておりません。私どもは、証言の客観性を高めるために、行政記録、外交資料、軍事記録、報道記録、第三者の証言などを突き合わせて、その客観性を高める努力をし、また一つの事件についても一人から聞取りをするということだけでなくて、場合によっては関係者の座談会などを開きまして、これを四方八方から光を当ててその客観性を保証できる、そういう証言をつくってきたつもりであります。」「で、多くの証言者−私自身について言いますと、おそらく一万人近い証言に接しております。それは私の個人の話でありまして、私のようなことをやっているのが」「百数十名、そういう努力を重ねてきている、集団討議を重ねてきている、ということです。」と語っている(乙11・28頁)
(b) 「沖縄県史第10巻」には、「午後十時ごろ、B隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑の前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた。」「ここでは部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである。」との記述がある(乙9・698,699頁)。
(c) 「沖縄県史第10巻」には、VWの記載として、Sらの自決について、前記「沖縄戦史」及び「秘録沖縄戦史」に誤記があり、前記「鉄の暴風」にも原告Bの死亡についての誤記があると指摘した上で、「このように、慶良間諸島の戦争記録のなかには、渡嘉敷島の集団自決の記述なども含めて、誤記と欠落が少なくない。本編の証言がそれらを訂正する資料ともなれば幸いである。」とし、後記lのとおり、集団自決の体験者の体験談が記載されている。
k 米軍の「慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)
 米軍の「慶良間列島作戦報告書」は、米軍歩兵第77師団砲兵隊が慶良間列島上陸後に作成したとされ、米国国立公文書館に保存されていた資料であり、平成18年夏、関東学院大学のR教授によって発見された。R教授によれば、この報告書には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述があり、座間味村の状況について、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」との記述があるということである(乙35の1及び2)。
l 体験者らの供述等
(a) 以上の文献のほか、「沖縄県史第10巻」には、WD(乙9・738,739頁)、VO(乙9・741頁)、VN(乙9・746頁)、VP及びVQ(乙9・753頁)など、座間味島の住民の体験談が紹介されている。
 すなわち、WDについては、「二十五日の晩、全員自決するから忠魂碑前に集まるよう連絡を受けたため、一番いい服を取り出してきれいに身支度を整えてから、子供たちの手をひきながら忠魂碑に向かいました。」「近くにいた兵隊さんが、『こんなに小さな島に米兵が上陸すると、どんなに逃げても袋のねずみとかわらないし、どうせいつかはみんな死んでしまうんだよ』といいました。それを聞くと、前に友軍から、もし米兵が上陸してきたら、この剣で敵の首を斬ってから死ぬように、ともらった剣を知り合いの男の人に、敵の首を斬るのは男がしかできないから、と上げてしまったのを非常に後悔してなりませんでした。」との体験談が掲載されている。
 VOについては、「二十三日から始まった戦闘は相変わらず衰えることなく、二十五日の晩の『全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう』連絡を受けた頃などは、艦砲射撃が激しく島全体を揺るがしている感じです。『このような激しい戦闘では生きる望みもないから』ということで、命令を受けると、みんなは一張らの服を取り出して身支度を整えました。」との体験談が掲載されている。
 VNについては、「二十五日の晩、忠魂碑の前で玉砕するから集まれ、との連絡を受けたため、今日は最後の日だから、と豚を一頭をつぶしみそ煮をして食べたが、なまにえであったにも拘らずひもじさも手伝ってか、あの時の味は何とも言えないおいしさでした。食事を終えてからきれいな着物をとりだし身づくろいをしてから、忠魂碑の前まで家族で行ってみるとだれもいない。しようがないので部落民をさがして近くの壕まで行ってみると、そこには部落民や兵隊らがいっぱいしている。私達の家族まではいると、あふれる状態でした。それでもむりにつめて、家族はまとまってすわれなかったが適当にあっちこちにすわることにした。中にいる兵隊が、『明日は上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。いざとなったらこれで死になさい』と手榴弾がわたされた。」との体験談が掲載されている。
 VP及びVQは、連名の体験談の中で、「二十五日の夜、母は私と弟の二人を残して、空襲のスキをねらっては家に戻り、二人の姉と妹をつれておにぎりをつくりに帰っていた。ちょうどその時、全員忠魂碑前で玉砕するから集まるよう私達の壕に男の人が呼びにきたため、小学校一年生である私は、母はいないしどうしていいものかわからないため、ただみんながむこうで死ぬのだというので、六歳の弟を連れて忠魂碑へと歩いていった。」と記述している。なお、ここにいう私は、体験談に記載された年齢から、VQ(当時8歳)と思われる。
(b) また、「座間味村史下巻」(乙50)や「沖縄の証言」(甲B45)にも、座間味島における集団自決の体験者の体験談が記載されている。
 XSは、「座間味村史下巻」に「三月二五日のこと、伝令が、敵の艦隊が安室島に上陸したことを伝えてきたのです。そしていよいよ、特幹兵が出撃することになりました。それで『私たちも武装しますから、皆さんの洋服を貸してください。それを着ますので、一緒に連れていって下さい』とせがんだのですが、『あなた方は民間人だし、足手まといになるから連れて行くわけにはいかない』と断られました。そして、『これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい』と、手榴弾を渡されました。」との体験談を寄せている。また、WD、VOが「沖縄県史第10巻」と同様の体験談を「座間味村史下巻」に寄せているほか、「住民は全員忠魂碑前に集まりなさいという連絡がはいりました。忠魂碑前に集まるということは、暗黙のうちに『玉砕』することだと認識していました」とするXTや「二五日の晩、激しい艦砲射撃のなかを、伝令がやってきて、忠魂碑前に集まるように言うわけです。とうとう玉砕するのかと思いながら壕を出て行」ったとするXUらの体験談も記載されている。
 さらに、VOの体験談が「沖縄の証言」(甲B45)にも掲載されるなど、体験者の供述は様々な文献で紹介されている。
(c) また、Sの手記は、様々な形で残されているが、「座間味村史下巻」(乙50・17頁)に「午後九時頃のことです。部隊全員が斬り込み隊となって、夜襲を敢行することになったのです。その出発間際に、私たちは斬込み隊長のXV中尉に呼ばれて『今夜半、斬込み隊は座間味の敵陣地を襲撃する。斬込み隊の生存者は稲崎山に集合することになっているので、お前たちは別働隊として、この弾薬を稲崎山の山頂まで運んでくれ。これで一緒に戦うんだ。また、VY軍曹からは『途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ』と手榴弾一個が渡されました。」と記載されているエピソードは、その他の手記(乙6・45頁、乙9・756頁、乙19等)にも記載されている。
m その他
(a) 沖縄タイムスは、昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長XRは、同月18日付けの回答書(乙21の1)で「部隊による『自決命令』は要請された。自決者の援護処理で事件の真相を執筆し、陳情書を作成された故WE氏、当時の産業組合長、元村長は部隊命令だとはっきり要請され、又、当時有力な村会議員であった故XW氏(初代村遺族会長)も厚生省ではっきりと部隊命令による自決と要請された。その他多くの証言者も部隊命令又は、軍命令と言っている。」「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分で勝手に作成できるものではな」いなどとし、添付された県援護課等への回答書(乙21の2)には、VOら証言者が15名記載されている。
(b) 「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(昭和53年、乙36)は、住民を援護法の適用対象とすることについて、昭和32年までに政府の調査した事項として軍によって自決を強要された慶良間列島のケースを挙げている。
n(a) また、座間味島の集団自決については、本件訴訟を契機とした新たな住民の供述や新聞報道等がある。
(b) P助役の妹であるVUは、陳述書に「昭和20年3月25日の夜のことでしたが、Pが外からXXの壕に帰ってきて、父盛永に向かって、『軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている』と言いました。そして、皆で玉砕しようねということになり、私が最後のおにぎりを作って、皆で食べ、晴れ着に着替え、身支度を整えました。」「座間味島の住民の集団自決は、私の兄のPが命令したものではなく、軍が命令したものであることは間違いありません。Pは、『軍の命令で玉砕するように言われている』と、はっきり言っていました。軍の命令がなければ大変可愛がっていた幼い子どもたちを死なせるようなことは決してなかったはずです。」「なお、私は、昭和20年3月23日の空襲のあと、外を歩いていたところ飛行機による爆撃があったので、爆撃から逃れるため、たまたま近くにあった民間の壕に避難しましたが、その壕にいた日本の兵隊から、『アメリカ軍が上陸しても絶対に捕まることなく、いさぎよく死になさい。捕まったら日本の恥だから、日本人らしく、日本の魂を忘れないように』『捕まったら強姦され、残酷に殺されるから、自分で死になさい』と言われました。日本軍の人たちは、米軍が上陸したら、私たち住民を絶対に捕虜にさせないため、自決させなければならないと思っていたようです。」と記載し、沖縄タイムスの取材に対してもP助役の言動等について同趣旨の供述をしている(乙51、71の1及び2)。
(c) VTは、その陳述書の中に、赤崎のため池「にXYという日本軍の中尉がやってきて、私たち島民に集まるように言いました。私たちを含め10人くらいがXY中尉のところに集まると、XY中尉は、私たちに『アメリカ軍が上陸しているが、もし見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい。』と指示しました。知恵の遅れた男の人が死にたくないと泣き出したのを覚えています。」と記載している(乙52)。
(d) VRは、その陳述書の中に、「『座間味村史』下巻61頁に、昭和20年3月25日に特幹兵が出撃するときに、特幹兵から『自決しなさい』といって私が手榴弾を渡されたことが書いてありますが、そのとおり間違いありません。特幹兵とは、第三中隊の壕にいた海上挺身戦隊(B戦隊長)の特別幹部候補生のことです。『栓を抜いてたたきつけると破裂するから、そうして自決しなさい』と教えられました。渡された場所は第三中隊の壕の前です。」「私の夫の妹のVSの話では、昭和20年3月25日の夜、妹たち家族が玉砕のため忠魂碑前に集まったときに、XZ伍長という人が、これで死になさいといって手榴弾を渡そうとしたということです。」「座間味島の集団自決は、村の幹部が軍の命令なしに勝手に行ったものでは決してないはずです。当時、村の三役は軍の指示や命令なしに勝手に行動することは許されませんでした。集団自決の責任は軍にあり、その隊長に責任がなかったとはいえないと思います。」と記載している(乙62)。
 また、「世界臨時増刊沖縄戦と『集団自決』」(平成20年1月、乙102)中のYAの「元日本兵は何を語ったか沖縄戦の空白」中には、「勤労奉仕で軍に協力したVRは『(米軍上陸を前に)一ヵ所に集まれと伝令が来たとき、それはもう皆で一緒に『死ね』と言われたものだと感じた』という。実際VO氏は米軍上陸の前日、陸軍船舶兵特別幹部候補生から『あなた方は足手まといになる』『いざというときにはこれで自決しなさい』と手榴弾を渡されていた。爆破のさせ方も教わった。」との記載がある。
(イ) B命令説について否定し、又はその存在の推認を妨げる文献等としては、以下に記載するものがあげられる。
a 原告Bの陳述書等
 原告Bの陳述書には、「問題の日はその3月25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役のP、収入役のWU、校長のWV、吏員のVJ、女子青年団長のS(後にS姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり、先ず助役のPさんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ、次々と悲惨な最後を遂げた由です。」との記載があり(甲B1・2ないし3頁)、原告Bは、本人尋問において、同趣旨の供述をしている。
 また、原告Bは、沖縄タイムスのVLに対し、昭和60年、B命令説を否定して抗議している。
b 昭和60年7月30日付け神戸新聞などの報道
 昭和60年7月30日付け神戸新聞は、「絶望の島民悲劇の決断」との大見出し、「日本軍の命令はなかった関係者の証言」との小見出しの下、関係者らが生き残った島民や日本軍関係者に尋ねた結果として、「助役とともに自決の前夜B少佐を訪れたS」「軍とともに生き延びたVT」「B少佐の部下だったWX」らの原告Bによる自決命令はなかったとする証言を掲載し、「これまで『駐留していた日本軍の命令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった。」と報道し、Sらのコメントを掲載した。
 昭和60年7月30日付け神戸新聞の記事を書いたWTは、Sに対する電話取材を複数回行い、その際のSのためらいや原告Bに対する罪の意識が伝わってきたことを記憶していると述べている(甲B34)。
 そのほか、昭和61年6月6日付けの神戸新聞は、「沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始めた。」として、後記「沖縄資料編集所紀要」(甲B14)を取り上げ、原告Bによる自決命令がなかった旨の報道をした(甲B10)。
c VWの見解
 VWは、「沖縄県史第10巻」所収「沖縄戦記録2」の「座間味村」の解説を執筆した者である。
 VWは、昭和60年10月、沖縄史料編集所の主任専門員として原告Bに宛てた親書の中で、「沖縄県史第10巻」が通史的な戦史や戦記とは異なり、一種の資料集であり、記述されている事柄は沖縄県の公式見解ではないこと、したがって、記述に事実誤認があれば修正することが可能であることを述べた(甲B25の1及び2)。
 そして、VWは、昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)で「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題して、B命令説が従来の通説であったが、前記昭和60年7月30日付けの神戸新聞の報道を契機として、原告BやSに事実関係を確認するなどして史実を検証したと述べ、原告Bの手記である「戦斗記録」を前記紀要に掲載した(甲B14)。
 また、前記紀要には、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及びS氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在S氏は真相はB氏の手記の通りであると言明して居る。」との記述がある(甲B14・46頁)。
 さらに、昭和61年6月6日付けの神戸新聞に、VWの談話として「Sさんらからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ。」「B命令説については訂正することになるだろう。」との記載がある(甲B10)。
d VXの「証言」(昭和62年)
 VXは、P助役の弟であり、原告ら主張によれば、「証言」と題する親書(甲B8)を作成した者とされている。
 この親書には、昭和62年3月28日付けで、「昭和二十年三月二六日の集団自決はB部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役のPの命令で行なわれた。之は弟のVXが遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります右当時援護係VX」との記載がある。
e 「母の遺したもの」(平成12年)G証人著
(a) 「母の遺したもの」は、座間味村の女子青年団員であったSの娘であるG証人がSからの告白を受けたとして執筆したものである。
(b) 「母の遺したもの」には、「沖縄敗戦秘録−悲劇の座間味島」に掲載されたSの手記の原告Bの集団自決命令について「母は…B氏に面会して『あなたが命令したのではありません』と告白しました。」との記載がある。(甲B5・8,9,250頁以下)。
(c) また、「母の遺したもの」には、概要、「そこで、Pが戦隊長を前に発した言葉は、『もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい』ということだった。Sは息が詰まるほど驚いた。しばらく沈黙が続いて。垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせ、片ひざを立ててじっと目を閉じて座っていた戦隊長はやおら立ち上がり、『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』と、五人を追い返すように声を荒げて言い、申し入れを断った。五人はあきらめるより他なく、その場を引き上げていった。その帰り道、Pは突然、防衛隊の部下でもあるVJに向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉はSには聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そしてPはSにも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。P一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」との記述がある。
(d) もっとも、第4・5(2)ア(ア)l(c)のように、「母の遺したもの」にも、VY軍曹からは「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており(甲B5・46頁)、この点では、「母の遺したもの」にも、座間味島での集団自決に軍が関係したことを窺わせる記述が存することが指摘されなければならない。
(e) さらに「母の遺したもの」には、援護法の適用に関連して、次のような記載がある。すなわち、「貧しいながらも住民の生活が落ちつきだした一九五七(昭和三二)年、厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協力)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母は島の長老から呼び出され、『B戦隊長から自決の命令があったことを証言するように』と言われたそうである。」「母がB戦隊長のもとへでかけた五人…のうちの唯一の生き残りということで、その場に呼ばれたのである。母はいったん断った。しかし、住民が『玉砕』命令を隊長からの指示と信じていたこともあり、母は断れずに呼び出しに応じた。」「厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末で、座間味村では、四月に実施された。役場の職員や島の長老とともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問の一つひとつに『はい、いいえ』で答えた。そして、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』という内容の問いに、母は『はい』と答えたという。」「座間味村役所…では、厚生省の調査を受けたあと、村長を先頭に『集団自決』の犠牲者にも『援護法』を適用させるよう、琉球政府社会局をとおして、厚生省に陳情運動を展開した。その時に提出した資料『座間味戦記』が私の手元にあるが、内容は一九四四(昭和一九)年九月の日本軍駐屯にはじまり、翌敗戦の年の阿嘉島住民が投降してくる八月下旬まで、座間味村での先頭の模様がタイプ文字およそ九千五百字で綴られている。主語は省略されているが、明らかに私の母の行動と思われる文章が数カ所に見られる。そしてこのなかに、『B部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑前に於て玉砕する様にとの事であった』というくだりが含まれている。」「その後、前述した『援護法』の適用を申請するため作成された公文書が出されるが、個人的に座間味島の『隊長命令説』を証言として書いたのが、実は私の母だった。一九六二(昭和三七)年、農家向けの月刊誌『家の光』で『体験実話』の懸賞応募の記事を見つけた母は、さっそく、軍の弾薬運びや斬込みの道案内をした体験を書いて応募した。日本本土はすでに高度成長に入っていたが、沖縄はなお米軍の支配下にあり、教育・文化の復興は取り残されていた。その沖縄の、さらに離島である座間味島に自由に入ってきた唯一の雑誌が、この『家の光』であった。隅から隅までむさぼるように『家の光』を読んでいたという母が、小さな囲み記事とはいえ募集告知を見逃すはずはなかった。原稿をまとめるにあたり、『自決命令』についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。落選すれば問題はないが、万一入選した場合は雑誌に掲載されることになっている。『集団自決』で傷害を負った人や遺族にはすでに国から年金や支給金が支給されており、証言を覆すことはできなかった。悩みに悩んでの執筆だったが、母の作品は入選し、翌年の『家の光』四月壕に掲載された。そのなかには、『[三月二五日]夕刻、B部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった』と記述されている。村役所から厚生省への陳情に使われた文書を引用したものだった。」「『集団自決』を仕事として書くためにやってきた娘に、自分の発言がもとで『隊長命令』という“ウソ”を書かせてはいけないと思ったのか、あるいは、死者の弔いが『三十三回忌』で終わってしまうことを意識してか、慰霊祭が終わった日の夜、母は私に、コトの成り行きの一部始終を一気に話し出した。B戦隊長のもとに『玉砕』の弾薬をもらいにいったが返されたこと、戦後の『援護法』の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。そして、『Bさんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい』との言った。」(甲B5・250ないし255、260、261頁)
f その他
(a) 前第3・4(2)ウ(ウ)fのとおり、原告らは、住民の手記には自決命令の主体が記載されていないことをもってB命令説を否定しているところ、座間味島の住民の供述を掲載する「潮だまりの魚たち」(平成16年、甲B59)にも、原告Bが住民に対して自決命令を出したことを明言する供述はない。
(b) 「週刊新潮」(平成18年、甲B46)のYBのコラムには、座間味島の集団自決について、概ね原告Bの供述に沿う事実経緯が記載され、B命令説を否定するYBの見解が記載されているが、記載内容からして、原告Bに対する取材や前記神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり、原告Bに対する取材を除き、YBが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められない。
イ 渡嘉敷島について
(ア) D命令説について直接これを記載し、若しくはその存在を推認せしめる文献等としては、以下に記載するものがあげられる。
a 前記「鉄の暴風」
 「鉄の暴風」には、「D大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民に対するD大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。」「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令がDからもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令がDから伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。」「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。」「恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、『自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ』といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、D大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。」として、D大尉が渡嘉敷島の住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙2・33ないし36頁)。
b 前記「秘録沖縄戦史」
 「秘録沖縄戦史」には、「三月二十七日−『住民は西山の軍陣地北方の盆地に集結せよ』との命令がD大尉から駐在巡査Mを通じて発せられた。」「安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない。盆地に集合することは死線に身をさらすことになる。だが所詮軍命なのだ。」「西山の軍陣地に辿りついてホツとするいとまもなくD大尉から『住民は陣地外に去れ』との命令をうけて三月二十八日午前十時頃、泣くにも泣けない気持ちで北方の盆地に移動集結したのであった。」「友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』とD大尉から命令が発せられた。」「場所を求めて、友軍陣地から三〇〇米の地点に約一五〇〇名が集結した。」「防衛隊員は二個ずつ手榴弾を持っていたのでそれで死ぬことに決めた」「一個の手榴弾のまわりに二、三十名が丸くなった。」「『天皇陛下バンザーイ』『バンザ…』」「叫びが手榴弾の炸裂でかき消された。肉片がとび散り、谷間の流れが血で彩られていった。」として、D大尉が住民に対して西山盆地への集合・軍陣地からの立ち去り・集団自決を命じたこと、防衛隊員が所持していた手榴弾を用いた自決が発生したことなどの記述がある(乙4・217,218頁)。
c 前記「沖縄戦史」
 「沖縄戦史」には、「大尉は」「西山A高地に部隊を集結し、さらに住民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとつて、いまやD部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし、D大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。」「住民の間に動揺がおこった。しかし、自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節であるなら、死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに従順な住民たちは、一家がひとかたまりになり、D部隊から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた。なかには、カミソリや斧、鍬、鎌などの鈍器で、愛する者をたおした者もいた。住民が集団自決をとげた場所は渡嘉敷島名物の慶良間鹿の水を飲む恩納河原である。ここで三百二十九名の住民がその生命を断ったのである。」として、D大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙5・48,49頁)。
d 前記「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」
 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」中の「沖縄作戦と座間味の戦い」の章には、「D少佐は島の西北端の高地へ守備隊の移動を命じ、島民は自決せよと命令した。谷底に追い込まれた住民達は『さあ、みんな、笑って死のう』というQ村長の悲壮な訣別の言葉が終わると、一発の手榴弾の周囲に集まった。手榴弾はあちらこちらで炸裂し、男や女の肉を散らした。死ねない者はお互いに根棒で殴り合い、カミソリで頸を切り、子を絞め、鍬で頭を割り、谷川の水を血で染めつくした。そこへ迫撃弾が炸裂した。思わず死をこわがり逃げ出す者も出て混乱が起こった。自決者三三〇、戦死者三〇余名を除いて、三三六名が未遂に終わった。」として、D大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙6・107頁)。
e 前記「秘録沖縄戦記」
 「秘録沖縄戦記」には、「秘録沖縄戦史」同様のD大尉の集結命令の記載のほか、「D隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。住民はこの期におよんで、だれも命など惜しいとは思わなかった。敵弾に倒れ、醜い屍をさらすよりは、いさぎよく自決したほうがいいと思い立つと、最後の死に場所を求めて、友軍陣地から三百メートルほどの地点に、約千五百人の島民が集まってきた。防衛隊員が二個ずつ手榴弾を持っていたので、それで死ぬことに決めた。一個の手榴弾の回りに、二、三十人の人々が集まった。『天皇陛下バンザーイ』の叫びが、手榴弾の炸裂音でかき消された。肉片が飛び散り、谷間はたちまち血潮でいろどられた。なかには、クワやこん棒で互いに頭をなぐりつけたり、かみそりで自分ののどをかき切って死んでいく者もあった。こうして三月二十八日午後三時、三百二十九人に島民が悲惨な自決を遂げた。村民はこの盆地をいまでも『玉砕場』と呼んでいる。」との記述があり、D大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙7・148頁)。
f 「戦闘概要」(昭和44年、WJ「ドキュメント沖縄闘争」所収)
 「戦闘概要」は、昭和28年3月28日、太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力のもと、渡嘉敷村遺族会が編集したもので、WJ「ドキュメント沖縄闘争」に転載、収録されている。
 「戦闘概要」には、「同年三月二七日午後、D隊長より、当時の村長と駐在巡査を通じて、住民は各自の壕を後にし、指定された西山の友軍陣地北方に集合せよとの命令伝達されたので、各自の壕を後にし、指定された西山軍陸地北方に集結した。同年三月二八日、午前一〇時頃、部隊より住民二〇名に対し、一個ずつの手留弾が渡され、午後一時頃皇國の万才と日本の必勝を祈り、一せいに玉砕した。」との記載のほか、「昭和二〇年三月二七日、夕刻駐在巡査Mを通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」「間もなく兵事主任Nをして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが、D隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令したのか、その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二〇年三月二八日午前一〇時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二、三百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもってD陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時にD隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり、事ここに至っては如何ともし難く、全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手留弾に二、三〇名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」「手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時、D隊長は壕の入口に立ちはだかり軍の壕へは一歩も入ってはいけない、速かに軍陣地近郊を去れと激しく構え、住民をにらみつけた。」として、D大尉が渡嘉敷島の住民に対して部隊陣地北方の盆地への集合・自決・軍の壕からの立ち去りを命じたとする記述がある(乙10・12,13頁)。
 D大尉が自決命令を出したとする「戦闘概要」の記述は、昭和45年に発行された「週刊朝日」(甲B20)にも引用されている。
g 前記「沖縄県史第8巻」
 「沖縄県史第8巻」には、「昭和二十年(一九四四)三月二十七日夕刻、駐在巡査Mを通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の陣地へ集合するように命じられた。その夜は物凄い豪雨で、住民たちは、ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつつ、老幼婦女子の全員が西山にたどりついた。ところがD大尉は『住民は陣地外に立ち去れ』と命じアメリカ軍の迫撃砲弾の炸裂する中を、さらに北方盆地に移動集結しなければならなかった。いよいよ、敵の攻撃が熾烈になったころ、D大尉は『住民の集団自決』を命じた。約千五百人の住民は、二、三〇人が一発の手榴弾を囲んで自決をはかった。互いに、クワや根棒で殺し合ったりした。あるいは剃刀で喉を切った。ここに自決したもの、三二九人を数える。」として、D大尉が住民に対して集団自決を命じたとする記述がある(乙8・410頁)。
h 前記「沖縄県史第10巻」
(a) 「沖縄県史第10巻」には、「上陸に先立ち、D隊長は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時赴任したばかりのM巡査を通じて命令した。M巡査は防衛隊員の手を借りて、自家の壕にたてこもる村民を集めては、西山陣地に送り出していた。」「西山陣地に村民はたどり着くと、D隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。」「陣地に配備されていた防衛隊員二十数人が現われ、手榴弾を配り出した。自決をしようというのである。」「村長、校長、兵事主任ら村のリーダーらが集って、相談ごとをしていた。そこで誰云うとなしに『天皇陛下万才』を三唱したり、『海行かば』を斉唱したりして、それがこだまするのだが、すぐ砲撃にかき消されていた。その時、渡嘉敷の人たちの間から炸裂音がした。それにつられて、村民らは一斉に手榴弾のピンを抜いて、信管をパカパカたたいていた。肉片がとび散り、山谷はたちまち血潮で彩どられていた。しかし、発火した手榴弾はそう多くはなかった。生き残っては大変と、手榴弾を分解して、火薬を喰べている者もいた。とうとう、死ねない者たちは、鍬や棒でお互い同士なぐり合い、殺し合っていた。男たちは、妻子や親を殺し、親戚の者にも手をつけていた。そのために、男手のある家族の被害は一番大きい。身内の者を片づけると、自分自身は立木に首を吊った。」との記述がある(乙9・689,690頁)。
(b) 渡嘉敷村長であったWLは、「沖縄県史第10巻」に掲載された「渡嘉敷村長の証言」に、「M巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、Dの命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われていたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。M巡査は私たちから離れて、三〇メートルくらいの所のくぼみから、私たちをじーっと見ていた。『貴方も一緒に…この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。『いや、私はこの状況をD隊長に報告しなければならないので自決は出来ません』といっていた。私の意識は、はっきりしていた。」「二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。」と記載している(乙9・768,769頁)。
i「家永第3次教科書訴訟第1審J証言」(昭和63年、VF編「裁かれた沖縄戦」所収)
(a) J証人は、渡嘉敷島の集団自決の体験者であり、東京地方裁判所昭和59年(ワ)第348号損害賠償請求事件(以下「家永教科書検定第3次訴訟第1審」という。)において、証人として渡嘉敷島の集団自決について証言した。
 「家永第3次教科書訴訟第1審J証言」には、「村の指導者を通して、軍から命令が出たというふうな達しがありまして、配られた手榴弾で自決を始めると、これが自決の始まりであります。」「実は、当時の役場の担当者に電話で確認を取りましたら、集団自決が起こる大体数日前ですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍の多分兵器軍曹と言っていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持って来て、手榴弾をもうすでに手渡していたようです。一人に二箇ずつ、それはなぜ二箇かと申しますと、敵の捕虜になる危険性が生じた時には、一箇は敵に投げ込んで、あと一箇で死になさいと。ですから、やはり集団自決は最初から日本軍との係わりで予想されていたことだということが分かるわけです。更に集団自決の現場では、それに追加されて、もう少し多く手榴弾が配られていると、しかし余り数は多くないものですから、私ども家族にはありませんでした。」「当時の住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして、そのつもりで自決を始めたわけであります。」「(直接その自決の命令が出たという趣旨の話を直接聞かれたのですか)はい、直接聞きました。」との記述がある(乙11・287,288頁)。
(b) VF編「裁かれた沖縄戦」には、J証人の「意見書軍国主義的皇民化教育の末路としての『集団自決』」が掲載されているが、そこには「一千名近くの住民が、一箇所に集められた。軍からの命令を待つ為である。阿波連の住民の幾人かが身の危険を感じて『集団自決』の惨事が起こる前にその現場を離れようとすると、駐在が刀を振り回して自決場へ再び追い込まれるという現象も起こったのである。勿論これは彼自身の意志に基づく行動ではなく、日本軍に仕組まれた計画の実践に他ならなかった。この事も『集団自決』が軍隊に強いられたものであって、住民の自発的行動でなかったことを証拠立てるものである。」「死刑囚が死刑執行の時を、不安と恐怖のうちに待つかのように、私共も自決命令を待った。いよいよ軍から命令が出たとの情報が伝えられた。配られた手榴弾で家族親戚同士が輪になって自決が行われたのである。」「『集団自決』は様々な要素のからみで生起した惨事である。天皇や国の為に死ぬことを教え込まれた国民的素地があったこと、捕虜になることへの恐怖心と恥意識、孤島で戦闘に巻き込まれて逃げ場を失い、精神的にも空間的にも追い詰められたという現実等が集団自決の要因となったのである。しかし何よりも日本軍が戦略的に住民を一箇所に集結せしめた結果、敵軍に包囲された瞬間に必然的に『集団自決』へと追い込まれたということは、重大な要因として挙げなければならない。D隊は戦略上島の住民を敵軍と接触させない等の理由から、一箇所に集結せしめたのである。従って我々住民が西山陣地の近くへ集結したのは、自らの自由意志によるものではなく、飽くまでも日本軍の意志によって強いられたものであった。」「更に極めて重大な問題は、『集団自決』用の手榴弾は誰が何時何所で住民に配ったかということである。」「村の当時の担当者の話しによると、村の青年団員と役場の職員凡そ二〇名から三〇名位が役場に集められて手榴弾を各自二個ずつ配られた。捕虜になるおそれのある時には一個は敵に投げ、他の一個で自決するようにと手渡されたという。従って『集団自決』の為の手榴弾は予め日本軍によって準備されたものである。手榴弾が予め手渡されたということは、軍によって『集団自決』への道が事前に備えられていたと言うことができるのである。同様の目的で防衛隊員にも手榴弾が二個ずつ手渡されていた。この事は住民が『集団自決』に追い込まれていく大きな原因となったのである。」といった記載がある(乙11・339、340、347、348頁)。
(c) J証人の体験談は、「潮」(昭和46年11月号、甲B21。なお、ここでは「渡嘉敷島でのいわゆる集団自決について、直接の指揮系統は未だ明確ではなく、D大尉は直接命令を下さなかったという説もあ」るとしている。)、「『集団自決』を心に刻んで」(甲B42)、平成19年6月22日付け毎日新聞(甲B77)、平成19年4月4日付け琉球新報(乙54)、「沖縄戦−県民の証言」(乙64)などにも掲載され、本件訴訟においても、家永教科書検定第3次訴訟第1審におけるのと同様の証言をしている。
j 「家永第3次教科書訴訟第1審VF証言」(VF編「裁かれた沖縄戦」所収)
 VFは、家永第3次教科書訴訟第1審における証言当時は沖縄国際大学の歴史学の教授であり、沖縄史料編集所に勤務した経歴を持ち、渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。
 「家永第3次教科書訴訟第1審VF証言」には、「米軍の上陸前にD部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって、いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと、それから、いわゆる集団的な殺し合いのときに、防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると、集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。VGさんなどは、『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども、兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」「兵事主任という役割は、大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。これは、D部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね。」との記述がある(乙11・54,69頁)。
 また、VFは、陳述書においても、同趣旨の記載をしている(乙68)。
k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集
(a) 「渡嘉敷村史」は、渡嘉敷村史編集委員会の編集により、渡嘉敷村役場が発行したものである。
 「渡嘉敷村史」には、「すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であったN氏(戦後改姓してN)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。@一九四五年三月二〇日、D隊から伝令が来て兵事主任のN氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。N氏は、軍の指示に従って『一七歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。Aそのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ。〉B三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山陣地近くに集結させよ〉というものであった。駐在のM巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。C三月二八日、恩納河原の上流フィジガーで、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。」「渡嘉敷島においては、D大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統制下に置かれていた。軍の命令が貫徹したのである。」として、D大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙13・197,198頁)。
(b) 昭和63年6月16日の朝日新聞夕刊(乙12)によれば、N真順は、朝日新聞の取材に対して同趣旨の供述をし、そうした供述をしたことに関して「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った。」と語ったとされる。
l その他
(a) そのほか、沖縄戦の研究者であるYCは、日本軍が、軍官民共生共死の一体化の方針のもとで住民をスパイ視して直接殺害したほか、集団自決を強制した旨の見解を主張している(乙31及び72)。
(b) また、渡嘉敷島の集団自決については、本件訴訟を契機とした新たな住民の供述や新聞報道等がある。
 例えば、渡嘉敷村の役場職員であったYDは、陳述書に、軍の陣地から防衛隊員が「伝令」と大声で叫びながらQ村長のもとへやってきて、何事かを告げ、その後Q村長が「天皇陛下万歳」と三唱して自決が始まった旨記載し、沖縄タイムスの取材に対して、軍から離脱した防衛隊員が軍の強要により自決した旨供述している(乙67、70の1ないし3)。
(イ) D命令説について否定し、又はその存在の推認を妨げる文献等としては、以下に記載するものがあげられる。
a D大尉の手記等
 D大尉は、「潮」(甲B2、昭和46年)に「私は自決を命令していない」と題する手記を寄せているほか、「週刊新潮」(昭和43年、甲B73)、昭和43年4月8日付けの琉球新報(乙26)の取材に応じた記録が残っている。D大尉は、「潮」(甲B2、昭和46年)に寄せた手記において、自決命令は出していない、特攻する覚悟であったため住民の処置は頭になかった、部落の係員から住民の処置を聞かれ、部隊が西山に移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいであろうと示唆した、これが自決命令を出したとされる原因だったかもしれないなどと供述し、D命令説を否定している。
b 「沖縄方面陸軍作戦」(昭和43年)防衛庁防衛研修所戦史室
 「沖縄方面陸軍作戦」は、慶良間列島における日本軍の作戦及び戦闘の状況についてまとめた防衛庁の資料である。
 「沖縄方面陸軍作戦」には、慶良間列島の集団自決について、「当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめて強かったことがその根本的理由であろう。」として、住民が軍の命令によってではなく自発的に自決に至ったとするような記述がある(乙55・252頁)。
c 「陣中日誌」(昭和45年)YE著
 「陣中日誌」は、第三戦隊の隊員であったYEによって編集されたものである。
 「陣中日誌」には、昭和20年3月28日の欄に「自訣は翌日判明したるものである。」との記述があり、その後に「三月二十九日曇雨悪夢の如き様相が白日眼前に洒された昨夜より自訣したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽し得ない情景であった。」との記述があり、軍の命令を示す記載はない(甲B19・13頁)。
d 「ある神話の背景」(昭和48年)VG著
 「ある神話の背景」は、作家のVGが、渡嘉敷島の住民やD大尉、第三戦隊の元隊員らに取材して執筆したものである。
 「ある神話の背景」には、軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であるところ、「鉄の暴風」は直接の体験者ではないWHとWIに対する取材に基づいて書かれたものであり、これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるとの記述、「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものであるとの記述がある(甲B18・48頁)。また、「ある神話の背景」は、前記3つの資料は、米軍上陸日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず、同月26日と間違って記載していると指摘している(甲B18・49頁)。
 VGは、その後、「正論」(平成15年、甲B4)、「沈船検死」(平成18年、甲B55)、「Voice」(平成19年、甲B49)、平成19年10月23日付け産経新聞(甲B84)、「WiLL」(平成20年1月号、甲B94)においても、「ある神話の背景」に示した見解を維持している。
e 「花綵の海辺から」(平成2年)YF著
 「花綵の海辺から」は、戦史研究家であるYFが執筆したものである。
 「花綵の海辺から」には、「D隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。YG大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民にくばったのは、米軍の上陸まえである。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであったD隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」として、D命令説を否定する記述がある(甲B36・27頁)。
f 「沖縄県警察史第2巻」(平成5年)沖縄県警本部発行
(a) 「沖縄県警察史第2巻」は、沖縄県警本部が発行した沖縄県の警察に関する資料である。
 「沖縄県警察史第2巻」には、M巡査の供述として、「私はD隊長にあった。『これから戦争が始まるが、私たちにとっては初めてのことである。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか』と相談した。するとD隊長は、『私たちも今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか静かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか』と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。」「私は住民の命を守るためにD大尉とも相談して、住民を誘導避難させたが、住民は平常心を失っていた。」「集まった防衛隊員たちが、『もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい』と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、『生きて虜囚の辱めを受けず』だったので、言っても聞かなかった。そこで、『じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長のところに連絡を取ってからその返事を待って、それからでも遅くはないのではないか』と言って部隊長の所へ伝令を出した。だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で『天皇陛下万歳、天皇陛下万歳』と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しょうと言うことになって、自分達で歩ける者は一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。その時友軍に、『危険だから向こうに行け』と言われて、元の場所に帰って来た。」との記述がある(甲B16・773ないし775頁)。
(b) M巡査は、後記kのとおり、沖縄タイムス(甲B60)にD大尉の直筆の手紙を紹介し、コメントした特嵩力に宛てた昭和58年6月8日付けの手紙(甲B61)でも、集団自決が軍命でもD大尉の命令でもないと記載するなどしている。
g 「沖縄戦ショウダウン」(平成8年)XE著
 「沖縄戦ショウダウン」は、平成8年6月1日から13回にわたって沖縄の地元紙である琉球新報に連載されていたXEのコラムである。このコラムでは、米軍第77歩兵師団の兵士であったXFが語ったものをXEが翻訳して掲載しているほか、渡嘉敷島の集団自決についてのXEの見解が述べられている。
 「沖縄戦ショウダウン」には、XEの記載した注の中で、XGやXH、M巡査が、D大尉について、立派な人だった、食料の半分を住民に分けてくれた、村の人でD大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことを記載し、援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったからD大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載している。取材源は明示していないものの、連載の5回目には、昭和20年3月28日の「夕刻、Q村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。北に向かって一礼し、『これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう』と話した。『天皇陛下万歳!』と皆、両手を上げて斉唱した」ことが記述されている(甲B44)。
h H証人及びI証人の各証言
(a) H証人は、第三戦隊の小隊長としてD大尉とともに渡嘉敷島を守備していた者である。
 H証人は、陳述書に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常にD隊長の傍におり」と記載した上で、証人尋問において、「沖縄県史第10巻」の体験談にD大尉の自決命令はない旨記載したことについて、正しい供述である旨証言し、「自決命令はいただいておりません。」などと証言している(甲B67)。
 H証人は、琉球新報のコラムにおいてもD大尉が自決命令を出していない旨述べている(甲B44)。
(b) I証人は、第三戦隊の中隊長としてD大尉とともに渡嘉敷島を守備していた者である。
 I証人は、集団自決の起こった昭和20年3月28日の自らの行動について、午前1時ころに主力部隊と合流した、同日午前3時ころにD大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なかった、翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けた、D大尉とは親密に連絡を取っていたが、同年8月15日の終戦に至るまでD大尉自身からも他の隊員からも、D大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないなどと証言している。
 I証人は、「WiLL」(平成17年12月号、甲B86)に「中隊長の見た現場」という論稿を寄せ、同趣旨を記載している。
i WPの供述
 WPは、琉球政府社会局援護課の職員であった者である。
 産経新聞の平成18年8月27日の夕刊は、WPが昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をした者であるとした上で、同人が渡嘉敷島での聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、D大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとの記事を掲載した(甲B35)。
 WPは、「正論」(平成18年、甲B38)の取材に対しても、同趣旨の供述をした。
j XIらの供述
(a) XIは、渡嘉敷島の郵便局長であった者である。
 XIは、「沖縄県史第10巻」に寄せた体験談に「恩納川原に着くと、そこは、阿波連の人、渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって、艦砲、迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ、わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ、そこに当っていました。そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、XJ先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。」「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」と記載した(乙9・765頁)。
(b) 元第三戦隊第一中隊付防衛隊のXHは、「沖縄県史第10巻」に寄せた体験談に「D隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、Dは自分の部下さえ指揮できない状態にきていたのです。私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いってました。ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきだということです。自発的にやったんだと思います。それに『はずみ』というものがあります。あの時、村の有志が『もう良い時分ではないか』といって、万才を三唱させていたといいますから、それが『はずみ』になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いたといいます。その時、村の指導者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、D隊長は追いやってと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります。」と記載した(乙9・781頁)。
k その他
(a) 以上の文献等のほか、D大尉が集団自決に対する関与について「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」とする手紙を紹介する報道(甲B60)や、この報道を受けて、M巡査が、昭和58年当時衆議院外務委員会調査室に勤務していた徳嵩力に宛てて、渡嘉敷島の集団自決は軍の命令、D大尉の命令のいずれによるものでもなかった旨記載した手紙(甲B61)、その手紙に対する徳嵩力の返事(甲B62)など、D命令説に消極的な報道、手紙等がある。
(b) また、本件訴訟を契機とした供述や新聞報道等もある。
 例えば、XGは、「正論」(平成18年11月号)において、渡嘉敷島の集団自決は軍の自決命令によるものではない旨供述している(甲B38)。
(3) 援護法の適用問題について
ア 原告らは、B命令説及びD命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。そして、(2)で指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、多数の諸文献、証言等が存するところ、原、被告らにおいては、その信用性等を争う諸文献等が存する。そして、原告の諸文献等の信用性批判の根幹に援護法の適用問題があるので、集団自決に関する諸文献等の信用性の判断に先立ち、まず援護法の適用問題について判断する。
イ 援護法が、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布されたことは、当裁判所に顕著であり、この当裁判所に顕著な事実に、証拠(甲B51、乙16、32、35の1及び2、36ないし38、39の1ないし5、47の1及び2、95並びに96)を併せ検討すれば、援護法の沖縄に対する適用経緯等について、次の事実が認められる。
(ア) 援護法は、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり、昭和27年4月30日に公布された。
(イ) 沖縄は米軍の占領下にあり、日本法を直ちに適用することができなかったため、日本政府は、同年8月、那覇日本政府南方連絡事務所を設置した。同所と米国民政府との折衝の結果、日本政府は、昭和28年3月26日、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。
 他方、琉球政府においては、同年4月1日、社会局に援護課が設置され、援護事務を取り扱うこととされた。
(ウ) 日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが、駐屯当初、日本軍は、公共施設や民家を宿舎として使用し、軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも、住民は、陣地構築や炊事・救護等で、軍に協力する立場にあった。また、沖縄戦は、島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため、軍と住民は、軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。
 このような事情により、住民を戦闘参加者と戦闘協力者に区分することは容易ではなかった。この点について、WFは、「複雑多岐な様相を帯びている沖縄戦では、戦斗協力者と有給軍属、戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を、如何なる一線で劃するか、誠に至難な問題が介在している。結局総ゆる事例について調査解明して最も明瞭なものから、逐次処理しつつ、其の範囲を縮少し、最後に左右いずれにするかの『踏み切り』をする以外にないように思われる。」としている(乙36・42頁)。
 戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省引揚援護局援護課の職員が沖縄を訪問し、沖縄戦の実態調査を行った。沖縄県の住民は、沖縄県遺族連合会が懇談会、協議会を開催するなど、集団自決について援護法が適用されるよう強く求め、琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運動を行った。
 以上の実態調査や要望を踏まえて、厚生省は、昭和32年7月、沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば、戦闘参加者の対象者は、@義勇隊、A直接戦闘、B弾薬・食糧・患者等の輸送、C陣地構築、D炊事・救護等の雑役、E食糧供出、F四散部隊への協力、G壕の提供、H職域(県庁職員・報道関係者)、I区村長としての協力、J海上脱出者の刳舟輸送、K特殊技術者(鍛冶工・大工等)、L馬糧蒐集、M飛行場破壊、N集団自決、O道案内、P遊撃戦協力、Qスパイ嫌疑による斬殺、R漁撈勤務、S勤労奉仕作業の20種類に区分され、軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果、約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。
 集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては、隊長の命令によるものか否かは、重要な考慮要素とされたものの、要件ではなく、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。
(エ) 加えて、座間味村の援助法の申請は15次にわたり、申請から認定まで最短で3週間、平均3か月で補償対象との判断が下された。渡嘉敷村役場で援護担当であったYHは、平成19年1月15日朝刊に掲載された沖縄タイムスの取材に対し、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が難しかったという記憶はない。」と語った。元琉球政府の社会局援護課の職員であったYIも、同じ取材に答えて、「二、三カ月後の認定は早い。平均的には三カ月六カ月かかっていた」「慶良間諸島は、沖縄戦の最初の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており、住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた。」と説明した。
ウ 前記認定事実によれば、昭和27年4月30日に公布された援護法が米軍の占領下にあった沖縄に適用されることとなったのは昭和28年3月26日であること、その後、琉球政府社会局に援護課が設置され、沖縄戦の実態調査が行われたこと、集団自決が戦闘参加者に該当することが決定されたのは昭和32年であること、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ、また、前記(2)ア(ア)で認定した事実並びに証拠(乙2、35の1及び2)によれば、援護法が公布された昭和27年4月30日より以前の昭和25年に発行された「鉄の暴風」に、原告B及びD大尉が住民に自決命令を出した旨の記述があること、昭和20年に作成された米軍の「慶良間列島作戦報告書」には、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」との記述があり、座間味村の状況について、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」との記述があること(このR教授の訳について原告が疑義を呈しているけれども、後記第4・5(4)エのとおり、原告らの主張するとおりに「慶良間列島作戦報告書」の該当部分を訳したとしても、軍が住民に自決を勧めていた事実は十分に認められる。)が認められる。
 これらの事実に照らすと、B命令説及びD命令説は、沖縄において援護法の適用が意識される以前から存在していたことが認められるから、援護法適用のために捏造されたものであるとする主張には疑問が生ずる。また、前記のとおり、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められるから、B命令説及びD命令説を捏造する必要があったのか直ちには肯定し難い。
エ(ア) ところで、前記のとおり、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとするWPは、渡嘉敷島での聞き取り調査について、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」ものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、D大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる(甲B35及び38)。
(イ) しかしながら、証拠(乙56の1及び2、57の1及び2、58並びに59)によれば、WPは、昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され、中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し、昭和31年10月1日に南部福祉事務所に配置換えとなり、昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっていること、WPが社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月であったことが認められ、これらの事実に照らすと、WPがこれに先立ち昭和29年10月19日以降援護事務の嘱託職員となっていたことを示す証拠(甲B63ないし65)を踏まえても、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとするWPに関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。
(ウ) 証拠(乙60及び61)によれば、本訴の被告ら代理人であるF弁護士は、平成18年12月27日付け行政文書開示請求書により、厚生労働大臣に対し、前記産経新聞に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、WP氏らが作成して厚生省に提出したとする故D元大尉が自決を命じたとする書類」の開示を求めたが、厚生労働大臣は、平成19年1月24日付け行政文書不開示決定通知書で「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした。」との理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。したがって、この点でもWPに関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。
オ (ア) P助役の弟であるVXが作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)には、「昭和二十年三月二六日の集団自決はB部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役のPの命令で行なわれた。之は弟のVXが遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります右当時援護係VX」との記載がある。
(イ) しかしながら、VXは、「別紙証言書は、私し(VX)が書いた文面でわありません」との書面(乙17)を残しているほか、証拠(甲B5、33、85、乙18、41、G証人及び原告B本人)によれば、昭和62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した原告BはVXの経営する旅館に宿泊したこと、VXは、原告Bから、昭和62年3月26日、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、家内に見せるためだけだ。」と迫られたが、これを拒否したこと、同月27日、原告Bが同行した2人の男がVXに泡盛を飲ませ、VXは泥酔状態となったこと、その際、原告Bは、VXに対し、自らが作成した「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決はB部隊長の命令ではなく助役Pの命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。昭和六十二年三月二十八日元座間味村役場事務局長VX」と記載された文書(甲B85)を示したこと、VXは、これを真似て前記昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を作成したことが、それぞれ認められる。こうした事実によれば、VXの昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)が、その真意を表しているのかは疑問である。
(ウ) 原告Bは、その陳述書(甲B33)で、VXが前記「証言」と題する親書(甲B8)を、その意思で作成したかのように記載する。そして、原告Bの陳述書(甲B33)では、「私はVX氏に、是非とも今仰った内容を一筆書いて頂きたいとお願いした。VX氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので、私は、お任せします、ただ、隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いしますとお答えしました。」「大手の清水建設に勤務され、その後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちのVX氏は、私の目の前で、一言々々慎重に『証言』(甲B8)をお書きになりました。」と記載されている。
 しかし、そのような作成状況であれば、前記「証言」と題する親書(甲B8)と酷似する文書(甲B85)が存すること自体不自然で、原告Bの陳述書(甲B33)は、この部分で措信し難いし、原告Bが沖縄タイムスのYJに前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況として語った内容(乙43の1及び2・5頁)とも異なり、措信し難い。すなわち、原告Bは、YJに対しては、「今度、忠魂碑を、部下の切り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。その時に聞いたら、彼はまあ、酔ってないとは言いませんが、彼がそういう風に私に『本当にBさん、ありがとうございました。申し訳ございません』とこうやってね、手をこうやってね、謝りながら書いたんですよ。『一筆書いてくれんか』って。『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』と。『だってあんたは役場におった人でいろいろ文書も書いたろうと。わかるだろう』と。『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』と言うから、『そうか』と、『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』と私は2、3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は『あ、分かった分かった、もういい。あとは私が書く』と言って、全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。まあ、よく聞いてくださいよ。それで結局私は『ありがとう』と。『ついでに判を押してもらえたらなあ』と言ったら、彼は商売しておるから店の事務所の机の上から判を持ってきて押して『これでいいですか』と。『ありがとう』と。『これはしかしBさん、公表せんでほしい』と言った。『公表せんと約束してくれと』と。私はそれについては『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚、知人には見せると。しかし公表ということについては、一遍私も考えてみよう』と。公表しないなんて私は言っておりませんよ。やっぱりこれはですね、沖縄の人に公表したら大変だろうけれども、内地の人に見せるぐらいは、しらせたいというのが私の気持ちだから。そういうふうなことで別れた。」「あの人はね、まあ言うたらやね、毎日、朝起きてから寝るまで酒を続けています。」と語っており、このYJに語った作成状況と原告Bの陳述書(甲B33)の前記記載内容は異なっており、原告Bの陳述書(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお、原告Bの陳述書(甲B33)には、沖縄タイムスのYJとの対談の経緯等についての記載もあるところ、この陳述書(甲B33)が被告らからの反論を踏まえて検討して書かれたものであるにもかかわらず(同1頁冒頭)、前記YJとの対談の経緯等は、乙第43号証の1及び2に照らして措信しがたく、この陳述書(甲B33)全体の信用性を減殺せしめる。)。
 また、前記のとおり、証拠(乙43の1及び2)によれば、原告Bが沖縄タイムスのYJに語った前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況では、VXがこれを酔余作成したことを認めている(乙43の2・5頁)。
(エ) そして、原告Bが沖縄タイムスのYJとの会談で認めていたとおり(乙43の1及び2)、VXは、座間味島で集団自決が発生した際、座間味島にいなかったのであって、前記「証言」と題する親書(甲B8)にあるように、「昭和20年3月26日の集団自決はB部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役のPの命令で行われた。」と語れる立場になかったことは明らかで、この点でも前記「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容には疑問がある。
 沖縄タイムスが、昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長XRは、同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答したことは、第4・5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。座間味村長XRは、前記回答書(乙21の1)で「VX氏も戦争当時座間味村に在住しておらず、本土の山口県で軍務にあった。」として、その記載に疑義を呈するとともに、「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い、「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んでなく、住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るのでしょうか。」とも記載している。
(オ) こうした事実に照らして考えると、VXが作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容は、「昭和20年3月26日の集団自決はB部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役のPの命令で行われた。」との部分も含めて措信しがたく、併せて、これに関連する原告Bの陳述書(甲B33)も措信し難い。
カ(ア) 「母の遺したもの」には、第4・5(2)ア(イ)eのとおり、「沖縄敗戦秘録−悲劇の座間味島」に掲載されたSの手記の原告Bの集団自決命令について、援護法の適用を求め、その適用を受けていた住民、遺族等に配慮して、「座間味戦記」の記載を引用したとの趣旨の記載がある。
(イ) しかしながら、第4・5(2)ア(イ)eに引用した「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば、Sは、座間味村の住民が玉砕命令の存在を信じていたことから、援護法適用の調査に「はい、いいえ」で答えたと語るにすぎず、集団自決に援護法を適用するために原告Bの自決命令が不可欠であったことや、「村の長老」から虚偽の供述を強要されたことなど援護法適用のために原告Bの自決命令をねつ造したことを直ちに窺わせるものではない。この点、G証人は、その陳述書に「隊長命令については、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に『はい』と答えたと書きましたが、それ以上に自分からは説明しなかったとのことです。」と、「母の遺したもの」の記載の趣旨を補足している(乙63・11頁)。
(ウ) そして、これまでに判示してきた援護法の適用についての事実からすれば、「母の遺したもの」から集団自決について援護法の適用のためにB命令説が捏造されたとまで認めることはできない。
キ 以上を総合すると、沖縄において、住民が集団自決について援護法が適用されるよう強く求めていたことは認められるものの、そのためにB命令説及びD命令説が捏造されたとまで認めることはできない。
(4) 集団自決に関する文献等の評価について
 (2)で指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、多数の諸文献、証言等が存するところ、原、被告らにおいては、その信用性等を争う諸文献等が存するので、真実性及び真実相当性の判断に先立ち、次に、そうした諸文献等の信用性等について判断する。
ア 「鉄の暴風」について
(ア) 第4・5(2)ア(ア)aに記載したとおり、「鉄の暴風」は、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものである。
 第4・5(2)ア(ア)aのとおり、XMが記載した「五十年後のあとがき」によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる。
 同じく「鉄の暴風」の執筆者であるWGは、沖縄タイムスに掲載された「沖縄戦に神話はない−「ある神話の背景」反論〈1〉」「同〈3〉」(甲B40の1)において、「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと、「鉄の暴風」が証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかったことを記載している。
(イ) 原告らは、「鉄の暴風」の初版には、「隊長B少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」との記述があり、「鉄の暴風」の集団自決命令に係る記述は、風聞に基づくものが多く信頼性に乏しいと主張し、確かに初版(甲B6・41頁)にそのような記述があることが認められる(これは証拠(甲B6及び乙2)によれば、第10版で訂正されていることが認められる。)。
 しかしながら、戦後の混乱の中、体験者らの供述をもとに執筆されたという性質上、住民ではない原告Bのその後などについては不正確になったとしてもやむを得ない面があり、そのことから、直ちに「鉄の暴風」全般の信用性を否定することは相当でないものと思われる。
(ウ) 原告らは、「鉄の暴風」について、米軍の渡嘉敷島への上陸を昭和20年3月26日午前6時ころとするが、「沖縄方面陸軍作戦」によれば正しくは同月27日午前9時8分から43分であって、米軍上陸という決定的に重大な事実が間違って記載されていると旨批判するところ、この批判は、第4・5(1)の認定事実に照らして、妥当するものと思われ、この点でも「鉄の暴風」の記述には、正確性を欠く部分があるといわなければならない。
 もっとも、「鉄の暴風」は、前記のとおり、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ、こうした誤記の存在が「鉄の暴風」それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる。すなわち、「鉄の暴風」の原告Bが「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた」との記載、D大尉が「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」と命じたとする部分については、これを聞いた者が十分特定されていないけれども、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については、第4・5(2)で子細に認定、判示した住民の体験談と枢要部において齟齬することはなく、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたとするXM、「鉄の暴風」の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たとするWGの見解を裏付ける結果となっており、民間から見た歴史資料として、その資料的価値は否定し難い。
(エ) もっとも、VGが著した「ある神話の背景」では、「鉄の暴風」は直接の体験者ではないWHとWIに対する取材に基づくものである旨の批判がなされている。
 この点、「鉄の暴風」の執筆者の1人であるWGは、沖縄タイムスに複数回連載した「沖縄戦に神話はない−「ある神話の背景」反論」(甲B40の1)の中で、WHとWIからは渡嘉敷島の集団自決について取材したのではなく、沖縄タイムスが集団自決について調査する契機となった情報提供者にすぎないと反論し、集団自決の証言者として取材した対象はQ村長など直接体験者であったとしている。「ある神話の背景」には、WIがWGから取材を受けた記憶はない旨述べたことが記述されているが(甲B18・51頁)、これは、前記のWGの反論と整合する側面を有している。
 そして、先に指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に至る経緯等については、第4・5(2)で子細に認定、判示した住民の体験談と枢要部において齟齬を来していないのであって、この事実からすると、「鉄の暴風」は直接の体験者ではないWHとWIに対する取材に基づくものである旨の批判には、疑問がある。
(オ) 以上のとおりであるから、「鉄の暴風」には、初版における原告Bの不審死の記載(これは甲B第6号証及び乙第2号証によれば、平成5年7月15日に発行された第10版では削除されていることが認められる。)、渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認めるのが相当である。
(カ) ところで、原告らは、執筆者のVLが、神戸新聞において、原告Bの自決命令について調査不足を認める旨のコメントをしていると主張し、原告Bの陳述書(甲B33)にも、昭和63年11月1日にYJと面接した際のことについて、「私の方から提出したVX氏の『証言』を前に、明らかに沖縄タイムス社は対応に困惑していました。そして遂には、応対した同社のYJ氏(以下「YJ氏」)が、謝罪の内容をどのように書いたら良いですかと済まなそうに尋ねて来たため、私が積年の苦しい思いを振り返りながら、また、自分自身の気持ちを確かめながら、自分の望む謝罪文を口述し、それYJ氏が書き取ったのです。」、「その後、昭和63年12月22日、私の上記要求に対する回答ということで、沖縄タイムス社大阪支社においてYJ氏ら3名と会談しました。私の方は前回と同様、YK氏に立ち会って貰いました。そうしたところ、沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ、『村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている。』と主張して私の言い分を頑として受け入れませんでした。」と記載している。
 先に認定したとおり、沖縄タイムスは、原告Bと面談した直後である昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長XRは、同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答しているのであり、こうした回答を待つことなく、VXが作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を示されただけで、困惑して謝罪したというのは、不自然の感を否定できない。仮に、原告Bが陳述書で記載するとおり、昭和63年11月1日にYJが謝罪したというのであれば、同年12月22日に態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、YJを批判するのが合理的であろうが、会談の記録を録音し、それを反訳した記録である乙第43号証の1及び2には、そうした状況の録音若しくは記載がない。加えて、証拠(乙43の1及び2)によれば、原告Bは、「日本軍がやらんでもええ戦をして、領土においてあれだけの迷惑を住民にかけたということは、これは歴史の汚点ですわ。」「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、VXさん、立派なひとですよ。それからSさん、私を救出してくれたわけですよ。結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない以上です。」と述べて、沖縄タイムスとの交渉を打ち切っているが、それは、原告Bがいうようなやりとりが昭和63年11月1日に沖縄タイムスとの間であったとすれば(さらに言えば、原告Bの主張を前提とすれば)、原告Bの名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追及をやめることは不合理であるといわなければならない。
 この点についての原告らの主張を踏まえても、「鉄の暴風」の戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を否定することはできない。
イ 「母の遺したもの」について
(ア) 「母の遺したもの」(甲B5)には、その第一部にSの手記である「血ぬられた座間味島」が収録されているところ、そこには、Sが昭和20年3月25日にP助役らと原告Bに会いに行った際のこととして、「助役は隊長に、『もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください』と申し出ました。」「私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように、つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま、じーっと目を閉じたっきりでした。」「私の心が、千々に乱れるのがわかります。明朝、敵が上陸すると、やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと、私は、最悪の事態を考え、動揺する心を鎮める事ができません。やがて沈黙は破れました。」「隊長は沈痛な面持ちで『今晩は一応お帰りください。お帰りください」と、私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました。」「ところが途中、助役はVJさんに、『各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…』」「後は聞き取れませんが、伝令を命じたのです。」との記述がある(甲B5・39,40頁)。この記述は、座間味島の住民が原告Bに集団自決を申し出、弾薬の提供を求めたのに対し、原告Bがこれを拒絶した内容になっており、原告Bが座間味島の住民の集団自決について、消極的であったことを窺わせないではない。
(イ) しかしながら、この記述は、原告Bが「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と述べたことを記述するのみで、「一応」という表現が付されていることや、P助役らの申出に対し、原告Bがしばらく沈黙したこと、原告BとP助役らの面会後の記述で、唐突にP助役がVJに伝令を命じた部分があること、肝心の伝令の内容が記述されていないことを考慮すると、原告Bとの面会の場面全体の理解としては、原告Bによる自決命令を積極的に否定するものではなく、P助役やSらの申出を受けた原告Bの逡巡を示すものにすぎないとみることも可能である。
 もっとも、この点について、原告Bは、その陳述書(甲B1)において、Sが語る同じ場面について、「問題の日はその3月25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役のP、収入役のWU、校長のWV、吏員のVJ、女子青年団長のS(後にS姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」「私は5人に毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』と。また、『弾薬、爆薬は渡せない。』と。折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり、先ず助役のPさんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ、次々と悲惨な最後を遂げた由です。」と記載しており(甲B1・2,3頁)、原告Bは、本人尋問において、同趣旨の供述をしている。
 しかしながら、Sの記憶するやりとりとして「母の遺したもの」に記載してあるのは、前記のとおりであり、かつ、Sが残したノート(甲B32)も、同様の記載にとどまっている。そして、G証人は、この点について、「武器提供は断ったとは言っていましたけれども、そういう最後まで生き残ってというふうなことは、もしBさんがおっしゃっていれば母はちゃんとノートに書いたと思います。」と証言している。こうした事実に、原告B作成の陳述書(甲B33)の記載内容の信用性についての、これまでの検討結果からすると、原告Bの供述等は、Sの記憶を越える部分について、信用し難い。
(ウ) ところで、証拠(甲B21、乙4、9及び50)によれば、Sが昭和20年3月25日に原告Bと面談した後、P助役に「役場の壕から重要書類を取ってきて、忠魂碑前に持ってくるように」と命じられたこと、Sは、妹やYLらを誘い、5人で書類を運ぶこととしたこと、Sらは、1回目の重要書類を運び終えたが、2回目に役場の壕に出かけた際、照明弾が投下され、艦砲射撃が激しくなったこと、Sらは、谷底に身を縮めていたことが認められる。そうすると、Sは、座間味島の集団自決の際、現場である忠魂碑前にいなかったことになり、原告Bと面談した後、原告Bはもちろん、集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから、直接的には原告Bの集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる。
(エ) したがって、(ア)記載の「母の遺したもの」の記述から、直ちにB命令説を否定できるものではないというべきである。もとより、「母の遺したもの」の記述からすれば、前記「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(VE刊行「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」所収)及び「沖縄敗戦秘録−悲劇の座間味島」(乙19)にある原告Bの自決命令の記載がSの体験談としては措信し難いことはいうまでもない。
 しかしながら、反面、第4・5(2)ア(イ)eで記載したとおり、「母の遺したもの」には、SがVY軍曹からは「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており(甲B5・46頁)、この記載は、日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有し、B命令説を肯定する間接事実となり得る。
ウ 「ある神話の背景」及びその指摘に係る文献について
(ア)a 「ある神話の背景」は、「鉄の暴風」「戦闘概要」「戦争の様相」の3つの資料は米軍の上陸日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず同月26日と誤って記載していると指摘し、「鉄の暴風」は直接の体験者ではないWHとWIに対する取材に基づいて書かれたものであり、これを基に作成したのが「戦闘概要」であり、さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるとの記述、「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは、「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから、記載から外したものであるとの記述がある。
 原告らは、この記載を踏まえて、「戦闘概要」という私的文書で記載されていた「時にD隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」との一文が公的な文献である「戦争の様相」においては削除されていると主張する。
b 「鉄の暴風」がそうした誤記をしていること、それをどう評価すべきかについては、先に判示したとおりであり、「鉄の暴風」が直接の体験者ではないWHとWIに対する取材に基づいて書かれたものであると認め難いのも、先に判示したとおりである。
c 先に判示したとおり、「戦闘概要」(乙10)は、昭和28年3月28日、太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力のもと、渡嘉敷村遺族会が編集したもので、WJ「ドキュメント沖縄闘争」に転載、収録されているものであり、「戦争の様相」(乙3)は「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」に収められた文書で、先に判示した「座間味戦記」も、同じく「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」に収められており、これらは援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に提出した資料である。
 そこで、「戦闘概要」(乙10)と「戦争の様相」(乙3)を比較すると、両者においては、単に記述されている事柄が共通しているだけでなく、その表現が全く同じであるか酷似している点が多数見られるなど、昭和20年3月27日から集団自決に至るまでの経緯の記述が酷似していることが認められるから、両者は、いずれか一方が他方を参考にして作成されたものであることが窺われる。
 この「戦闘概要」と「戦争の様相」の成立順序については、WKによれば、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用語、表現等)を直したと思われる箇所が見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓のQとされているのに対し「戦闘概要」では改姓後のWLとされていることなどから、「戦争の様相」が先に書かれたものであり、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられると分析されている(乙25)。
 このWKの分析は合理的な根拠を有するといえ、このような見解があることを踏まえると、「戦闘概要」と「戦争の様相」の成立順序については、「戦闘概要」が「戦争の様相」の後に書かれたものと断定することはできないものの、必ずしも原告らの主張のようにいうこともできない。
 もっとも、以上の類似性からすると、両者に独立の資料的価値を見出すことは困難であるというべきであって、真実性等の評価に当たっては、この点を十分踏まえる必要がある。
(イ) VWは、「青い海『慶良間諸島の惨劇−集団自決事件の意味するもの』」(昭和53年、甲B91、以下「青い海」という。)において「従来の記録が、事実関係のうえで多くの誤りを含んでいることはVG氏の『ある神話の背景』で指摘されたところである。」と、「沖縄戦を考える」(昭和58年、甲B24)において「VG氏は、それまで流布してきたD事件の“神話”に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。」「今のところVG説をくつがえすだけの反証は出ていない。」と、それぞれ評価している。したがって、D命令説を検討するに当たっては、「ある神話の背景」について、十分に検討する必要がある。
(ウ) もっとも、「ある神話の背景」は、D大尉や部隊の元隊員からの聞き取りに基づく記述が大部分を占めており、D大尉や元隊員らがD大尉による自決命令はなかった旨供述したことは記述されているものの、VG自身の見解としてD命令説を否定する立場を表明したものではない。実際、VGは、平成12年10月16日の司法制度改革審議会において、一般市民が裁判に参加する場合、法律用語を正確に理解していないために事件において人間の置かれた立場や心情を正しく理解できない危険があるという趣旨の意見を述べ、人間の語る言語を正確に理解することが困難である例として「ある神話の背景」の執筆作業を挙げ、「ある神話の背景」について説明する一連の発言の中で、沖縄の新聞記者から「D神話はこれで覆されたということになりますが」と言われた際に「私は一度もD氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えた旨の発言をしている(甲B3)。同様のことは、「正論」(平成15年9月号)に掲載された「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」と題する文中等でも記載している(甲B4、40の2及び55)。
(エ) VGは、「ある神話の背景」において、D大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。
 そして、VGは、家永教科書検定第3次訴訟第1審において証言した際、「ある神話の背景」の執筆に当たっては、N兵事主任へ取材をしなかったと証言しているところ(乙24・219頁、もっとも、VF「裁かれた沖縄戦」(乙11・14頁)は、VGがN兵事主任に取材したとする。)、それが事実であれば、取材対象に偏りがなかったか疑問が生じるところである。この点については、VFも、「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、VG氏の現地取材というのは、常識にてらしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら、『神話』の構成において不都合なものを切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる。」として批判している(乙11・14頁以下)。加えて、「ある神話の背景」は、「沖縄県史第8巻」や「沖縄県史第10巻」については特に反論していない。
(オ) 前記(イ)のとおり、VWは「ある神話の背景」を評価している。しかしながら、VWは、前記「青い海」において「私自身は、今のところ戦争責任追及の問題に言及する用意はないし、自決命令があったかどうかについてはさして興味がない。」とした上で、WQの指摘する、逃げ場のない無防備な小島の地理的状況・恐怖観念(やがて死ななければならぬ思案)・軍国主義教育による忠君愛国の精神・旧日本軍が常に発散させていた国民への圧力(黙っていてもある指示ができる状況−軍の意志を献身的に買って出て、さらにそれを末端へ促す可能性の強さ)・作戦と指導力のまずさ・敗色からくる狂気・沖縄県民への差別意識・非戦闘員の生命への無関心さ(軍優先の戦闘モラル)・責任を転嫁しやすい軍人階級の大義名分(利己的な虚栄心)・運命共同体の憎愛の狂気・弱肉強食のパターンといった原因の中に事実はほとんど網羅されているとし、こうした要因の中でも、旧日本軍が常に発散させていた国民への圧力を重視すべきであると述べて、全体として集団自決に対する軍の関与自体は肯定する見解を主張している(甲B91・86頁以下)。
(カ) 以上によれば、「ある神話の背景」は、命令の伝達経路が明らかになっていないなど、D命令説を確かに認める証拠がないとしている点でD命令説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、客観的な根拠を示してD命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない。
エ 米軍の「慶良間列島作戦報告書」について
 第4・5(2)ア(ア)kのとおり、米軍の「慶良間列島作戦報告書」は、米軍歩兵第77師団砲兵隊が慶良間列島上陸後に作成したとされ、米国国立公文書館に保存されていた資料であって、その資料価値は高いものと思われる。
 前記のとおり、R教授は、「尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」とその一部を訳しているのに対し、原告らは、「尋問された時、民間人達は、3月21日に、日本の兵隊達は、慶留間の島民に対して、米軍が上陸したときは、山に隠れなさい、そして、自決しなさいと言った、と繰り返し言っていた。」と訳すべきである旨主張する。
 しかし、仮に原告らの主張するように訳したとしても、日本軍の兵士達が慶留間の島民に対して米軍が上陸した際には自決するように促していたことに変わりなく、その訳の差異が本訴請求の当否を左右するものとは理解されない。
オ 昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)等について
(ア) VWが昭和61年発行の「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)に「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題して、B命令説が従来の通説であったが、前記昭和60年7月30日付けの神戸新聞の報道を契機として、原告BやSに事実関係を確認するなどして史実を検証したと述べ、原告Bの手記である「戦斗記録」を前記紀要に掲載し、また、前記紀要には、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及びS氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となって居ることがわかる。現在S氏は真相はB氏の手記の通りであると言明して居る。」との記述があることは、第4・5(2)ア(イ)cのとおりである。
(イ) 証拠(甲B14)によれば、前記「沖縄史料編集所紀要」のVWの記載は、「従来の“隊長命令説”は現地住民の証言記録を資料として記述されてきたのである。これに対し、一方の当事者であるB氏から“異議申立て”がある以上、われわれはこれを真摯に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである。以下に同氏の手記を掲載させていただき、筆者の当面の責をはたしたいと思う。」という内容の記述であると認められ、VW自身が主任専門員としてB命令説を積極的に否定する見解を主張しているものではなく、単に原告Bの言い分を紹介しているにすぎないと認められる。
(ウ) 原告らが、「沖縄県史第10巻」を実質的に修正したと主張するのは、「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)の「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及びS氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源となっていることがわかる。現在S氏は真相はB氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり)」という部分である。
 しかし、そもそも当該部分は、原告Bの手記に続けて項を改めることなく記述されているから、VWの記述であるか明らかでない上、末尾に「(戦記終わり)」との記載があり、「二、手記『戦斗記録』(B)」の一部を形成するものと認めるのが相当である。自らの手記を「B氏の手記」と表現することは原告Bが記載したとすれば不自然といえなくもないが、それはSの言動を表現した部分として理解すれば理解できなくはない。また、VWは、冒頭の紹介部分で、「なお、手記は後半に『戦後の苦悩』と題をあらためて、戦後、同問題をめぐって氏の周辺で起きた事柄の経緯を述べているが、紙幅の関係と、また論点を明確にする上でも、『戦斗記録』のみに絞って、後半部分は割愛させていただいた。」としており、当該部分がVWの評価とすると、この断り部分と齟齬する面が出てくる。
(エ) 結局、「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)は、文献的価値としては、原告Bの手記を掲載したことに意義を見出し得るにすぎないと認められる。
(オ) ところで、これに関連して、昭和61年6月6日付けの神戸新聞に、VWの談話として「Sさんらからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ。」「B命令説については訂正することになるだろう。」との記載がある(甲B10)。
 これについては、VW自身が、「私は神戸新聞の記者から電話一本もらったことはない。おそらくB氏の言い分と私の解説文の一部をまぜあわせて創作したのであろうが、誰がみても事実と矛盾する内容で、明白なねつ造記事である。」などとしており(乙44及び45)、前記神戸新聞の記事は、「沖縄史料編集所紀要」(甲B14)についての原告らの主張同様、VWの認識を示すものとは、およそ言い難い。
カ XIらの体験談
(ア) 「沖縄県史10巻」(乙9・765頁)に記載されたXIの集団自決に関する体験談中、事実を述べる部分で主なものとしては、恩納川原で米軍の攻撃を受けたこと、そこに防衛隊が現れたこと、XIも参加の上、村長・校長・防衛隊員ら渡嘉敷村の有力者が何らかの協議をしたこと、防衛隊員が住民に手榴弾を配布したこと、村長が何か言っていたこと、その後、住民が手榴弾を用いるなどして自決したこと、西山陣地に行ったものの、軍が陣地内に入れてくれなかったことなどであり、これらの事実は、D命令説を覆すものではない。
 そのほか、XIの体験談の記載は、村の有力者の協議内容や村長の発言が明らかでないなど、あいまいな部分があり、また、「防衛隊とは云っても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。」「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう状態に持っていったとは考えられませんでした。」などの部分は、XIの推測を述べたものにすぎない。
(イ) 「沖縄県史10巻」(乙9・781頁)に記載されたXHの体験談も、D大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく(XHの体験談以外にD大尉が部下を指揮できなくなっていたと語るものは、本訴で提出された書証等の中には存しない。)、多くはXHの観測を述べるものにとどまっている。
キ 「秘録沖縄戦記」
 「秘録沖縄戦記」は、平成18年に復刻版(甲B53)が出版されており、復刻版では、D大尉が自決命令を出したとする記述が削除されている。しかしながら、VDの長男であるYMの記載した復刻版のはしがきによれば、復刻版は、VDの死後に復刻出版されたものであると認められ、また、「一渡嘉敷村民の集団自決」の章に先立って、「本復刻版では『沖縄県史第10巻』(一九七四年)ならびに『沖縄資料編集所紀要』(一九八六年)を参考に、慶良間列島における集団自決等に関して、本書元版の記述の一部を削除した。集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい。」との記載がなされている。
 こうした記載を踏まえると、第4・5(2)ア(ア)e及びh記載のとおり、自己の体験や、終戦の翌年沖縄警察部が行った戦没警察官の調査の際に収集された数多くの人の体験談や報告、琉球政府社会局長時代の援護業務のために広く集めた沖縄戦の資料などに基づいて執筆されたとする「秘録沖縄戦史」及び「秘録沖縄戦記」の作者VDがD命令説についての見解を改めたのではなく、D命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめぐる紛争の存在を考慮して、復刻版を出版した遺族であるYMが慎重な態度をとったにすぎないものと認められ、「秘録沖縄戦記」の復刻版でD大尉が自決命令を出したとする記述が削除されていることで、「秘録沖縄戦史」及び「秘録沖縄戦記」の資料的価値に変更を認めることはできない。
ク その余の文献の評価
(ア) YBは、第4・5(2)ア(イ)f(b)のとおり、週刊新潮のコラムにおいて、座間味島の集団自決について概ね原告Bの供述に沿う事実経過を記載しているが、第4・5(2)ア(イ)f(b)で判示したとおり、その記載内容から原告Bに対する取材や前記神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり、原告Bに対する取材を除き、YBが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められないから、後記第4・5(5)ウのとおり、原告Bの供述等が措信し難い以上、その資料的価値は乏しいというほかない。
(イ) 陣中日誌(甲B19)は、その中に掲載された「編集のことば」によれば、第三戦隊本部付であったYEが基地勤務隊YN中尉が記録した本部陣中日誌と昭和20年4月15日から同年7月24日までを記録した第三中隊陣中日誌をもとに、昭和45年8月15日に編集、発行したものであるとしている。折しも、D大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7)、「陣中日誌」は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、その元となった資料は書証として提出されておらず、その転載の正確性を確認できない。
(ウ) 戦史研究家であるYFが執筆した「花綵の海辺から」には、第4・5(2)イ(イ)のとおり、「D隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。YG大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民にくばったのは、米軍の上陸まえである。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであったD隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」との記載がある。
 その「たぶん」D大尉が自決命令を出さなかったと考えた根拠は、甲B第36号証として提出された「花綵の海辺から」の一部からは、「沖縄県史10巻」(乙9・781頁)にD大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する体験談を記載されたXHの証言をあげる以外明確にされていない。「沖縄県史10巻」(乙9・781頁)に記載されたD大尉が部下を指揮できなかったことを指摘するXHの体験談の評価については、第4・5(4)カ(イ)のとおりであり、XHから聞かされたという遺族年金の支給という実益問題にも疑問があることは、第4・5(3)のとおりであって、YFの「たぶん」D大尉が自決命令を出さなかったという観測的な判断は、本訴において資料価値は低いものというほかない。
(エ) XEが平成8年に琉球新報に掲載したコラムである「沖縄戦ショウダウン」には、第4・5(2)イ(イ)gのとおり、XGやXH、M巡査が、D大尉について、立派な人だった、食料の半分を住民に分けてくれた、村の人でD大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載された部分及び援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったからD大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分がある。
 しかしながら、第4・5(1)のとおり、D大尉は、WO、米軍の庇護から戻った二少年、伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく、各処刑したことに関与し、住民に対する加害行為を行っているのであって、こうした人物を立派な人だった、村の人でD大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。そして、第4・2(3)で判示したとおり、D大尉は、昭和45年3月28日に渡嘉敷島で行われた戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたものの、反対派の行動もあって、沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったのであって、このことに照らしても村の人でD大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは疑問であって、その記載は一面的であるというほかない。
 また、援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったからD大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分についても、第4・5(3)で判示した事実によれば、根拠がないというべきである。
(5) H証人及びI証人の各証言等日本軍関係者の供述、体験談等についてアH証人の証言について
(ア) 第4・5(1)イ(イ)のとおり、米軍の上陸前、D大尉が住民に対して西山陣地へ集結するよう指示したことが認められ、第4・5(2)イ(イ)aのとおり、D大尉自身、部落の係員から住民の処置を聞かれ、部隊が西山に移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいであろうと示唆してとニュアンスにやや差異はあるものの、D大尉が住民に対して西山陣地へ集結するよう指示したことを、その手記に記載している。
 一方、H証人は、陳述書(甲B67)に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常にD隊長の傍にいた」と記載しているにもかかわらず、西山陣地への集結指示については、聞いていない、知らない旨証言し、陳述書(甲B67)にも「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした。」と記載している。この食い違いは、H証人の証言の信用性に疑問が生じさせるか、H証人がD大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしてもD大尉の自決命令を「聞いていない」「知らない」というH証人の証言からD大尉の自決命令の存在を否定することは困難であるということになる。
(イ) H証人は、「軍として手榴弾を防衛隊員の人に配っていたと、そういうことは御存じですか。」という質問に対し、「知りません。」と答え、さらに「それは全く知らないということですか。」という質問に対しては「はい。ぶら下げているのは見たのは見たんですが、配ったことについては全然わかりません。」と答えた。
 第三戦隊が住民に対して自決用等として手榴弾を配布したことは、第4・5(2)イ記載の各諸文献及びそれらに記載された住民の体験談から明らかに認められるものであり、第4・5(1)のとおり、補給路の断たれた第三戦隊にとって貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官を自称するH証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない。
(ウ) H証人は、原告ら代理人に対しては「沖縄県史10巻」の「副官の証言」の記載内容は事前に確認して間違いがないと証言していたにもかかわらず、「沖縄県史10巻」の「副官の証言」に「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来ていました。少年たちはD隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました。」との記載があり、第4・5(1)のとおり認められる米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、被告ら代理人に問われると、「正直言ってそれはわかりません。」「私は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょっとわかりません。」と答えた。
 また、伊江島の女性等を処刑したことについても、「沖縄県史10巻」の「副官の証言」に「伊江島の女性を私が処刑しました。伊江島の男女四人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕らえられて処刑されました。」などと記載があるにもかかわらず、「それは私、正直言って存じませんね、この処刑という。処刑ということについては私は存じません。」と証言した後、原告ら代理人の問いに対しては、「伊江島のこの処刑については、私は全然知らないんです。」「(知らないとはと聞かれて)それで、3名やっぱり処刑されて、それでも生き返りというとおかしいんですが、埋めたところから逃げていなくなったと。それをうちの将校が、Hおまえが逃がしたんだろうと、だから探してこいという命令を受けました。私はそのときはむかっとしたんですが、上官ですから、5人ぐらい兵隊を連れて捜しに行きましたら、もう伊江島の人は、本当にもう、何といいますか、呼吸も困難な状態にあったんです。それで話を聞いたら、もう軍刀よりはピストルでやってくれと、ピストルでもう殺してくれという話がありましたので、私がピストルで撃ちました。」などと証言し、原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない証言をしている。
(エ) 以上指摘した点を考えると、H証人の証言は措信しがたく、(ア)でも指摘したとおり、H証人の証言からD大尉の自決命令の存在を否定することは困難である。
イ I証人の証言について
(ア) 証拠(甲B66)によれば、I証人は、海上挺進戦隊第三戦隊の第三中隊長であった者であると認められる。そして、証拠(甲B66及びI証人)によれば、I証人は、陳述書(甲B66)あるいはその証人尋問において、昭和20年3月27日、D大尉から部隊の後退の援護を命ぜられ、午前9時すぎころに渡嘉敷島に上陸した米軍に対し、第三中隊に配属された基地隊のYO小隊を率いて交戦したこと、同月28日午前1時ころになって、ようやく第三戦隊の主力部隊と合流し、午前3時ころになって、D大尉と会ったこと、I証人は、同月28日、第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり、D大尉の側に常にいたわけでないこと、D大尉が住民に対して陣地の近くに来たらと言ったことも、当時、聞いていなかったことを記載し、若しくは証言した。もっとも、防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)では、「二十七日〇九〇〇ころ猛烈な砲爆撃の支援下に渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。第三中隊長I少尉(57期)は配属のYO小隊(勤務隊のYO春次郎少尉以下二八名)を指揮し、渡嘉志久東側高地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を射撃して前進を阻止したが、迫撃砲、機関銃の猛射を受け交戦約三〇分にしてYO少尉以下九名の戦死者を生じた。I中隊長はYO少尉に代わって小隊を直接指揮し、交戦を少時続けたのち一〇〇〇ころから撤退を開始し、二十八日一〇〇〇ころ戦隊本部に到着した」と記載されており、I証人が本隊と合流した時間に関しI証言と差異がある。
 第4・5(1)イ(イ)のとおり、I証人は、D大尉が住民を西山陣地の方に集合するように指示した昭和20年3月27日には、主力部隊と合流していないとのことであるから、同日のD大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。そして、翌28日の合流時間は、I証人の証言等と防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)との間で食い違いがあり、特定できないけれども、I証人の証言等によれば、同月28日、第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり、D大尉の側に常にいたわけでないことが認められ、同日のD大尉の言動を把握できる立場になかったことになり、D大尉の言動についての証言の評価に当たっては、この点を重視する必要がある。
(イ) I証人は、手榴弾に関し、陳述書(甲B66)に「手榴弾は軍が管理していましたが、一部を『防衛隊』の隊員に配布していました。」「『防衛隊』とは、防衛召集により部隊に編入された成人男子のことで、沖縄では昭和19年7月に編成されました。普段は家族と一緒に暮らしているのですが、いざという時には敵と戦わなければならず、軍人としての扱いを受けていました。そのために、軍は防衛隊員にも手榴弾を公布していたのです。あくまで戦闘に備えて交付していたのです。」「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用いられたのは、以上の理由によるもので、普段から防衛隊員が手榴弾を保持していたからです。決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのではありません。」(甲B66・5頁)と記載している。
 ところが、被告ら代理人の「しかしIさんは手りゅう弾の交付自体、それは御存じないんですね。」という問いに対しては「はい。」と答え、「交付の際にどういう命令が出てたということも御存じないということですかね。」という問いに対しては「そうです。」と答え、さらには手榴弾の交付時期に関する質問に対しては、「私は当事者ではありませんから、何月何日ごろということは私はここで申し上げることはできません。」と答えている。そうすると、I証人の証言は、手榴弾を交付した目的等を明示する陳述書(甲B66)の内容と齟齬し、手榴弾に関するI証人の陳述書(甲B66)の記載及びその証言には疑問を禁じ得ない。
(ウ) 以上のとおり、I証人は、昭和20年3月27日及び同月28日のD大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく、また、その陳述書(甲B66)に記載された手榴弾に関する記述は、I証人自身の証言と齟齬し、信用できない。
ウ 原告Bの供述等について
(ア) 原告B作成の陳述書である甲B第33号証の信用性に問題のあることは、既に第4・5(3)オ(ウ)及び(オ)、第4・5(4)ア(カ)、第4・5(4)イ(イ)で指摘したとおりである。
(イ) 原告Bは、その本人尋問において、第一戦隊では手榴弾を防衛隊員に配ったことも、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する一方、VY軍曹がSに手榴弾を交付したことについて、VY軍曹がSの身の上を心配して行ったのではないかと供述する(原告B本人調書3頁)。
 しかしながら、防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)によれば、第一戦隊の装備は、「機関短銃九のほか、各人拳銃(弾薬数発)、軍刀、手榴弾を携行」というものであることが認められ、原告B自身、本人尋問において、「短機関銃、ピストル、軍刀、手榴弾しかない装備だった」と述べている。しかも、第4・5(1)ア(イ)aのとおり、慶良間列島は沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を検討すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。軍の装備が不十分で、補給路が断たれていたことについては、後記第4・5(7)ウ(ウ)のとおり、同じ慶良間列島の渡嘉敷島でも同様の状況であったところ、I証人は、手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います。」と証言し、原告B自身も、一方で村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供述している。
 そうした状況で、第一戦隊長である原告Bの了解なしにVY軍曹がSの身の上を心配して手榴弾を交付したというのは、不自然である。しかも、第4・5(2)アに記載したとおり、VR(乙50・61頁、62)、宮原初子(乙9・746頁)、VS(乙62及び98)も、Sと同様に自決用に手榴弾を渡されたと体験談や陳述書等に記載しており、貧しい装備の戦隊長である原告Bが、そうした部下である兵士等の行動を知らなかったというのは、先に記載した事実に照らして考えると、極めて不自然であるというべきである。
(ウ) こうした事実に照らせば、原告B作成の陳述書(甲B33)及び原告B本人尋問の結果は、信用性に疑問があるというほかない。
エ D大尉の手記等について
(ア) D大尉は、「潮」(甲B2、昭和46年)に「私は自決を命令していない」と題する手記を寄せているほか、「週刊新潮」(昭和43年、甲B73)、昭和43年4月8日付けの琉球新報(乙26)で取材に応じた記録が残っている。
(イ) D大尉は、「潮」(甲B2)の「私は自決を命令していない」と題する手記(以下「D手記」という。)の中で、部落の係員に「『部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した。」とする一方、住民が集結していたことすら知らないと記載している。
 他方、「週刊新潮」(甲B73)の取材に対しては、D大尉は、「三月二十六日、米軍が上陸した時、島民からわれわれの陣地に来たいという申入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって、まったく陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分のはいれる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、二十八日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んで来た時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来て『機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい』というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮していたんでしょう。あの人は、シナ事変の時、伍長だったと聞いていたけど…。」「ところが、そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫び始めた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣声が敵に聞えて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで防衛隊に命じて泣声を静めさせようとしました。」と語っている。
 この両者を比べれば、住民が集結していたことを認識していたか否かという事実に関し、大きな違いを示しており、同じD大尉の認識としては、極めて不合理であるというほかない。
(ウ) 米軍の捕虜となっていた2人の少年の処刑に関して、D手記では、「二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されていなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうちYPというのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調べに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと、『ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ』といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。D隊が処刑したのではない。」と記載している。
 このD手記の記載の前段では、二人の少年が「どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできない」と言っているのに、後段になると、ここで自決する選択肢のほか、「阿波連に帰るか」ということも提案しているのであって、その判断は矛盾している。
 一方、「週刊新潮」(甲B73)の取材に対しては、D大尉は、「あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼らが歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。『あんたらは米軍の捕虜になったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい』といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。」と答えている。これをD手記と比較すると、少年達が投降勧告に来たかどうかの認識に差異があるし、死亡に至る経緯にもニュアンスに差異がある。そして、D手記等は、「沖縄県史10巻」の「副官の証言」にある「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ、本部につれられて来ていました。少年たちはD隊長に、皇民として、捕虜になった君たちは、どのようにして、その汚名をつぐなうかと、折かんされ、死にますと答えて、立木に首をつって死んでしまいました。」との記載(乙9・773頁)とも齟齬する。
 この二人の少年の処刑に関する記載に顕著なように、D手記は、自己に対する批判を踏まえ、自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である。
(エ) 以上、検討したところによれば、D手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできないというべきである。
(6) 沖縄戦に関する文部科学省の立場等
 証拠(甲B54、58、乙31、75及び76の各1ないし3、77ないし92、93の1及び2、94ないし96並びに98ないし100)によれば、沖縄戦についての教科書の記載や教科書検定等について、次の事実が認められる。
ア(ア) Kは、昭和55年度教科書検定において検定済みであった高校日本史用教科書「新日本史」に、沖縄戦に関して、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられた。」と記述していたが、この記述を、昭和58年度改訂検定の際、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死をとげたが、そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなかった。」と改めるための改訂検定申請をした。
 これに対し、当時の文部大臣は、沖縄戦における沖縄県民の犠牲については、沖縄戦の記述の一環として、県民が犠牲になったことの全貌が客観的に理解できるようにするため、もっとも多くの犠牲者を生じさせた集団自決のことを書き加える必要があるとした上で、そのような記述がないKの前記申請に係る記述は「全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調し過ぎているところはないこと」という検定基準に抵触するとの検定意見を付した。
 Kは、文部省の修正の求めに応じ、最終的に、「沖縄県は地上戦の戦場となり、約十六万もの多数の県民老若男女が、砲爆撃にたおれたり、集団自決に追いやられたりするなど、非業の死をとげたが、なかには日本軍のために殺された人びとも少なくなかった。」との記述に修正した。
(イ) その後、Kは、国に対し、昭和59年、教科書の記述の修正を強制されたことを理由として、損害賠償を求める訴訟を提起した(家永教科書検定第3次訴訟第1審)。この訴訟は最高裁まで争われ、その最高裁判決(最高裁平成9年8月29日大法廷判決・民集51巻7号2921頁)は、沖縄戦について、原審(東京高裁平成5年10月20日判決・判例時報1473号3頁)の認定した事実として、昭和58年度改訂検定「当時の学界では、沖縄戦は住民を全面的に巻き込んだ戦闘であって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したが、沖縄戦において死亡した沖縄県民の中には、日本軍よりスパイの嫌疑をかけられて処刑された者、日本軍あるいは日本軍将兵によって避難壕から追い出され攻撃軍の砲撃にさらされて死亡した者、日本軍の命令によりあるいは追い詰められた戦況の中で集団自決に追いやられた者がそれぞれ多数に上ることについてはおおむね異論がなく、その数については諸説あって必ずしも定説があるとはいえないが、多数の県民が戦闘に巻き込まれて死亡したほか、県民を守るべき立場にあった日本軍によって多数の県民が死に追いやられたこと、多数の県民が集団による自決によって死亡したことが沖縄戦の特徴的な事象として指摘できるとするのが一般的な見解であり、また、集団自決の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的であった」と指摘し、「右事実に照らすと、本件検定当時の学界においては、地上戦が行われた沖縄では他の日本本土における戦争被害とは異なった態様の住民の被害があったが、その中には交戦に巻き込まれたことによる直接的な被害のほかに、日本軍によって多数の県民が死に追いやられ、また、集団自決によって多数の県民が死亡したという特異な事象があり、これをもって沖縄戦の大きな特徴とするのが一般的な見解であったということができる。」「本件検定当時の学界の一般的な見解も日本軍による住民殺害と集団自決とは異なる特徴的事象としてとらえていたことは明らかである。」と判示した(当裁判所に顕著な事実である。)。
イ(ア) 文部科学省は、平成17年度教科書検定においては、沖縄戦の集団自決に関する記述について検定意見を付さなかったが、平成19年3月30日、平成18年度教科書検定において、7冊の申請教科書に対し、沖縄戦の集団自決に関する記述について、日本軍による自決命令や強要が通説となっているが、近年の状況を踏まえると命令があったか明らかではない旨の検定意見を付した。その結果、例えば、「山川出版社日本史A」の「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった。」との記載が「島の南部では両軍の死闘に巻き込まれて住民多数が死んだが、その中には日本軍によって壕を追い出されたり、自決した住民もいた。」と改められた。なお、壕からの住民追出し、住民に対する手榴弾の配布、スパイ容疑での住民殺害などに対する軍の関与については、検定意見は付されなかった。
(イ) T文部科学省初等中等教育局長(以下「T初等中等教育局長」という。)は、平成19年4月11日、衆議院文部科学委員会において、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが従来の通説であった、前記検定意見は、この通説について当時の関係者から色々な供述、意見が出ていることを踏まえて、軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないとの趣旨で付したものであり、日本軍の関与を否定するものではない旨の発言をした。
 また、YQ文部科学大臣は、同日、前記委員会において、前記検定意見について、日本軍の強制があった部分もあるかもしれない、当然あったかもしれない、なかったとは言っていない、日本軍の強制がなかったという記述をするよう要求するものではない旨発言した。
(ウ) U文部科学省大臣官房審議官(以下「U審議官」という。)は、同月24日の決算行政監視委員会第一分科会において、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言した。
(エ) T初等中等教育局長は、翌25日の教育再生特別委員会においても、前記(イ)と同様の発言をした。
(オ) 平成18年度教科書検定については、座間味村議会、渡嘉敷村議会、沖縄県議会などが、文部科学省に対し、前記イ(ア)の検定意見の撤回を求める意見書を提出し、このことが報道されたこともあり、集団自決に関する論争が起こった。
 これに対し、U審議官は、同年6月13日、軍の関与、責任は確かにある、検定意見の撤回は困難である旨述べた。
 平成18年度教科書検定をめぐる問題については、本訴口頭弁論終結時においては、結論が出ていない状況である。
(7) 本件各書籍の執筆にあたっての取材状況等
ア 本件書籍(1)の筆者であるKが、本件書籍(1)を著すのにあたり、本件書籍(1)の引用文献から明らかなように、多数の歴史的資料、文献等を調査した上で「太平洋戦争」(第一版)から本件書籍(1)までの各書籍の執筆をしたことが認められることは、第4・4(2)アのとおりである。そして、本件書籍(1)(甲A1)の313頁注(18)の記載からは、沖縄タイムス社「鉄の暴風」、VB「沖縄戦史」、「沖縄県史第10巻」、「渡嘉敷村史」等が参照されたことが推認される。
イ 本件書籍(2)の著者である被告Eは、その陳述書(乙97・2ないし4頁)に、「私は1965年(昭和40)文藝春秋社の主催による講演会で、二人の小説家と共に、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の著作を集めました。沖縄戦について書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見出すことはできませんでした。この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちに『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合ったジャーナリストXM氏、YJ氏、研究者YR氏、YU氏、YS氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っておられた、沖縄タイムス社のXM氏、戦後の沖縄史を現場から語られるYJ氏に多くを教わりました。」「沖縄戦について、戦後早いうちに記録され、出版された戦争の体験者の証言を集めた本を中心に読みました。それらのなかで1950年沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』を大切に考えました。理由は、私が沖縄でもっともしばしばお話をうかがったXM氏がこの本の執筆者のひとりで、経験者たちからの聴き書きが、一対一のそれはもとより、数人の人たちを一室に集めての座談会形式をとることもあったというような、詳細な話を聞いていたからです。もとよりXM氏の著作への信頼もあります。私は、それらに語られている座間味島、渡嘉敷島において行われた集団自決の詳細について、疑いをはさむ理由を持ちませんでした。」と記載し、本人尋問においても、「VBさんのご本、『沖縄戦史』という本を読みました。また沖縄タイムス社で編集、刊行されましたXM氏『鉄の暴風』という本を読みました。そして、この2冊の本のうち、特に『鉄の暴風』の実際の執筆に当たられましたXMさんという沖縄タイムス社の重要な人物ですが、その方に何度もお話を聞くために沖縄に参りました。そしてXMさんのご案内で沖縄タイムス社の資料を見せていただくこともありまして、ほかの書物を読まなかったということではございませんが、この『沖縄戦史』と『鉄の暴風』をもとにして考え、それについてその本を書いた人たちに実際に話を聞き、その上で今言ったような、これは日本人の軍隊の命令であるという結論に達しました。」と供述している。
(8) 文献等に基づく集団自決の理解
ア 以上(1)ないし(4)及び(6)で判示した事実を総合すれば、「沖縄ノート」が出版された昭和45年9月21日当時、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決については、B命令説及びD命令説が通説又は一般的見解であったということができる。
 「沖縄ノート」の出版後、文庫である本件書籍(1)の元となった「太平洋戦争第二版」が出版された昭和61年11月7日に至るまで、「沖縄ノート」の出版を1つの契機として、D大尉の私記を掲載した「潮」(昭和46年)、「ある神話の背景」(昭和48年)、「青い海」(昭和53年)、「沖縄戦を考える」(昭和58年)などのB命令説・D命令説に消極的な文献等が出され、また、原告B(乙66の1、昭和55年)、M巡査(甲B61、昭和58年)など集団自決の体験者らによる供述もなされ、さらに、B命令説・D命令説に消極的な見解を紹介した新聞報道(昭和60年7月30日付け神戸新聞など)がなされるなど、集団自決を中心に沖縄戦に関する論争が起こったことが認められる。
 しかしながら、B命令説及びD命令説に消極的な見解ばかりではなく、前記のとおり、「沖縄県史第10巻」(昭和49年)、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(昭和53年)などB命令説・D命令説に積極的な文献も出されて積極的な見解も随時出版されるなどしたものと認められる。
 そして、本件書籍(1)が出版された平成14年7月16日当時の議論状況を見ると、それまでに「母の遺したもの」(平成12年)などのB命令説に消極的な文献が出されたことによって、B命令説を否定する見解にも新たな根拠、資料が出されたといえる。
 そこで、そうした学説の状況、各種資料等を検討して、真実性及び真実相当性について、判断を加えていく。
イ 座間味島における集団自決について
(ア) 座間味島では、第4・5(1)イ(ア)のとおり、昭和20年3月23日、忠魂碑前に集合した多数の住民が集団で死亡したと認められ、その際に、軍事装備である手榴弾が利用されたことは、第4・5(2)ア(ア)で掲げた証拠から認めることができる。
 この集団自決を原告Bが命じたとの記載のある「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦史」、「沖縄戦史」等には、その取材源等は明示されておらず、VDのように、その作者が死亡しているような書籍については、座間味島で集団自決が発生して相当の年月が発生している現在では、その取材源等を確認することは困難で、本訴の提起が遅延した原告らには時間の壁があるというべきことについては、第4・1(6)で判示したとおりである。
 しかしながら、第4・5(2)ア(ア)で判示したとおり、「沖縄県史第10巻」、「座間味村史下巻」、「沖縄の証言」には、Sを始めとして、WD、VO、VN、VP及びVQ、XS、XUらの集団自決に関する体験談の記述があるほか、本件訴訟を契機とし、VU、VT、VRの体験談が新聞報道されたり、本訴に陳述書として提出されたりしている。そして、こうしたWDなど沖縄戦の体験者らの体験談等は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、また、多数の体験者らの供述が、昭和20年3月25日の夜に忠魂碑前に集合して玉砕することになったという点で合致しているから、その信用性を相互に補完し合うものといえる。また、こうした体験談の多くに共通するものとして、日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった場合には自決を促され、そのための手段として手榴弾を渡されたことを認めることができる(手榴弾の交付に関する原告Bの供述が措信し難いことは、第4・5(5)ウ(イ)で判示したとおりである。)。
(イ) 沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたことは、第4・5(1)ア(ア)で判示したとおりであり、このことは、第4・5(1)ウで判示した日本軍による住民に対する加害行為に端的に表れている。すなわち、@渡嘉敷島において、防衛隊員であった国民学校のWO訓導が渡嘉敷島で身寄りのない身重の婦人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀するおそれがあるとして、これを処刑したこと、AD大尉が集団自決で怪我をして米軍に保護され治療を受けた二名の少年が米軍の庇護のもとから戻ったところ、米軍に通じたとして殺害したこと、BD大尉が米軍の捕虜となりその後米軍の指示で投降勧告にきた伊江島の住民男女6名に対し、自決を勧告し、処刑したことは、他の要因も考え得るものの、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたことに通じる。
 そして、第4・5(1)イ(エ)で判示した第二戦隊のO隊長が昭和20年2月8日に慶留間島の住民に対して「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示した行為や第4・5(2)ア(ア)kに記載した米軍の「慶良間列島作戦報告書」の座間味村の状況についての「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」との記述も、前同様、他の要因も考え得るものの、慶良間列島に駐留する日本軍が米軍が上陸した場合には住民が捕虜になり、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができ、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたに通じる(「慶良間列島作戦報告書」の訳の問題に関しては、第4・5(4)エで判示したとおりであって、原告ら主張のように訳しても、以上の判断に差異を来さない。)。
(ウ) 原告Bが率い、座間味島に駐留した第一戦隊の装備は、「機関短銃九のほか、各人拳銃(弾薬数発)、軍刀、手榴弾を携行」というものであり、慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を比較すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められることは、第4・5(5)ウ(イ)で判示したとおりである。
 そして、原告Bが本人尋問において村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供述していることも、第4・5(5)ウ(イ)で判示したとおりであり、D大尉が率いた第三戦隊に関する証言ではあるが、I証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います。」と証言していることは、軍の規律、第一戦隊及び第三戦隊に共通する装備の乏しさを考えると、等しく原告Bにも妥当するものと考えられる。
(エ) こうした事実に加えて、第4・5(1)イ(エ)で判示したとおり、座間味島、渡嘉敷島を始め、慶留間島、沖縄本島中部、沖縄本島西側美里、伊江島、読谷村、沖縄本島東部の具志川グスクなどで集団自決という現象が発生したが、以上の集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかったことを考えると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認めるのが相当であって、第4・5(1)アで判示した事実を踏まえると、沖縄においては、第三二軍が駐屯しており、その司令部を最高機関として各部隊が配置され、第三二軍司令部を最高機関とし、座間味島では原告Bを頂点とする上意下達の組織であったと認められるから、座間味島における集団自決に原告Bが関与したことは、十分に推認できるというべきである。
(オ) もっとも、前記のとおり、「沖縄県史第10巻」、「座間味村史下巻」、「沖縄の証言」等に体験談を寄せているWDらの集団自決の体験者の供述等から、原告Bによる自決命令の伝達経路等は判然とせず、原告Bの言辞を直接聞いた体験者を本件全証拠から認められない以上、前記のとおり、取材源等は明示されていない「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦史」、「沖縄戦史」等から、直ちに本件書籍(1)にあるような「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ。」との原告Bの命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。
(カ) しかしながら、以上認定したように、原告Bが座間味島における集団自決に関与したものと推認できることに加え、第4・5(6)イのように、少なくとも平成17年度の教科書検定までは、高校の教科書にまで日本軍によって集団自決に追い込まれた住民がいたと記載され、U審議官は座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していたこと、第4・5(8)ア記載の学説の状況、第4・5(2)ア(ア)記載の諸文献の存在、そうした諸文献等についての信用性に関する第4・5(4)の認定、判断、第4・5(7)記載のK及び被告Eの本件各書籍の取材状況等を踏まえると、原告Bが座間味島の住民に対し本件書籍(1)記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから、本件各書籍の各発行時において、K及び被告らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認めるのが相当であり、それは本訴口頭弁論終結時においても径庭はない。
ウ 渡嘉敷島における集団自決について
(ア) 渡嘉敷島では、第4・5(1)イ(イ)のとおり、昭和20年3月25日、西山陣地北方の盆地に集合した多数の住民が集団で死亡したと認められ、その際に、軍事装備である手榴弾が利用されたことは、第4・5(2)イ(ア)で掲げた諸文献である書証から認めることができる。
 この集団自決をD大尉が命じたとの記載のある「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦史」、「沖縄戦史」等には、その取材源等は明示されていないことなどは、座間味島における集団自決について、先に判示したのと同様である。
 渡嘉敷島における集団自決についても、渡嘉敷村長であったWL、J証人、N、YDらの集団自決の体験者の体験談等があることは、第4・5(2)イ(ア)のとおりであり、これらの体験談等は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有することも、座間味島における集団自決について、先に判示したのと同様である。
(イ) 沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたことは、第4・5(1)ア(ア)で判示したとおりであり、第4・5(1)ウで判示したD大尉率いる第三戦隊の渡嘉敷島の住民らに対する加害行為は、そうした防諜行為に通じ、第4・5(1)イ(エ)で判示した第二戦隊のO隊長の言動、第4・5(2)ア(ア)kに記載した米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も、前同様、他の要因も考え得るものの、慶良間列島駐留の日本軍が米軍が上陸した場合には住民が捕虜になり、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができ、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたに通じることも先に判示したとおりである。
 第4・5(1)イ(イ)で判示したとおり、渡嘉敷島における集団自決は、昭和20年3月27日に渡嘉敷島に上陸した翌日である同月28日にD大尉の西山陣地北方の盆地への集合命令の後に発生しており、第4・5(1)ウで判示したD大尉率いる第三戦隊の渡嘉敷島の住民らに対する加害行為を考えると、D大尉が上陸した米軍に渡嘉敷島の住民が捕虜となり、日本軍の情報が漏洩することをおそれて自決命令を発したことがあり得ることは、容易に理解できる。D大尉は、第4・5(1)ウで判示したとおり、防衛隊員であった国民学校のWO訓導が渡嘉敷島で身寄りのない身重の婦人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀するおそれがあるとして処刑しているところ、これに反し、米軍が上陸した後、手榴弾を持った防衛隊員が西山陣地北方の盆地へ集合している住民のもとへ赴いた行動をD大尉が容認したとすれば、D大尉が自決命令を発したことが一因ではないかと考えざるを得ない。
(ウ) D大尉が率い、渡嘉敷島に駐留した第三戦隊の装備は、証拠(乙55)によれば、「機関短銃五(弾薬六〇〇〇発)のほか、各人拳銃(弾薬一銃につき四発)、軍刀、手榴弾を携行」であったと認められ、慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を比較すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められることは、第4・5(5)ウ(イ)で判示のと同様である。
 そして、第三戦隊に属していたI証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います。」と証言していることは、先に判示しているとおりであり、手榴弾が集団自決に使用されている以上、D大尉が集団自決に関与していることは、強く推認される。
(エ) こうした事実に加えて、先に座間味島における集団自決に関して判示したとおり、沖縄県で集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、集団自決は発生しなかったことを考えると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認めるのが相当であって、第4・5(1)アで判示した事実を踏まえると、沖縄においては、第三二軍が駐屯しており、その司令部を最高機関として各部隊が配置され、第三二軍司令部を最高機関とし、渡嘉敷島ではD大尉を頂点とする上意下達の組織であったと認められるから、渡嘉敷島における集団自決にD大尉が関与したことは、十分に推認できるというべきである。
(オ) もっとも、渡嘉敷島における集団自決の体験者の体験談等からD大尉による自決命令の伝達経路等は判然とせず、D大尉の下記の命令を直接聞いた体験者を本件全証拠から認められないことは、座間味島における集団自決と同様である上、前記のとおり、取材源等は明示されていない「鉄の暴風「秘録沖縄戦」、 史」、「沖縄戦史」等から、直ちに本件書籍(2)にあるような「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」とのD大尉の命令の内容それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ないことも、座間味島における集団自決における原告Bの命令と同様である。
(カ) しかしながら、(ウ)、(エ)で認定したように、D大尉が渡嘉敷島における集団自決に関与したものと推認できることに加え、第4・5(6)イのように、少なくとも平成17年度の教科書検定までは、高校の教科書にまで日本軍によって集団自決に追い込まれた住民がいたと記載され、U審議官は座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していたこと、第4・5(8)ア記載の学説の状況、第4・5(2)イ(ア)記載の諸文献の存在、そうした諸文献等についての信用性に関する第4・5(4)の認定、判断、第4・5(7)イ記載の被告Eの沖縄ノートの取材状況等を踏まえると、D大尉が渡嘉敷島の住民に対し本件書籍(2)にあるような内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから、本件書籍(2)の各発行時において、被告らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認めるのが相当であり、それは本訴口頭弁論終結時においても径庭はない。
エ 以上のとおり、原告B及びD大尉が座間味島及び渡嘉敷島の住民に対しそれぞれ本件各書籍にあるような内容の自決命令を出したことを真実と断定できないとしても、これらの事実については合理的資料又は根拠があるといえるから、本件各書籍の各発行時及び本訴口頭弁論終結時において、被告らが前記事実を真実であると信じるについての相当の理由があったものと認められ、被告らによる原告B及びD大尉に対する名誉毀損は成立せず、したがって、その余の点について判断するまでもなく、これを前提とする損害賠償はもとより、本件各書籍の出版等の差止め請求もまた理由がない。
6 争点E(公正な論評性の有無)について
(1) 第2・2(4)イのとおり、沖縄ノートは、被告Eが、沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘し、その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた昭和45年の時点において、沖縄の民衆の怒りが自分たち日本人に向けられていることを述べ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものである。
 被告Eも、第4・4(2)イで判示したとおり、本人尋問において、@日本の近代化から太平洋戦争に至るまで本土の日本人と沖縄の人たちとの間にどのような関係があったかという沖縄と日本本土の歴史、A戦後の沖縄が本土と異なり米軍政下にあり、非常に大きい基地を沖縄で担っているという状態であったことを意識していたかという反省、B沖縄と日本本土との間のひずみを軸に、日本人は現在のままでいいか、日本人がアジア、世界に対して普遍的な国民であることを示すためにはどうすればよいかを自分に問いかけ、考えることが沖縄ノートの主題である旨供述している。また、D大尉のことを沖縄ノートで取り上げたことについて、被告Eが本人尋問で「私は、今申しました第2の柱の中で説明いたしましたけれども、私は新しい憲法のもとで、そして、この敗戦後、回復しそして発展していく、繁栄していくという日本本土の中で暮らしてきた人間です。その人間が沖縄について、沖縄に歴史において始まり、沖縄戦において最も激しい局面を示し、そして戦後は米軍の基地であると、そして憲法は認められていない、その状態においてはっきりあらわれている本土と沖縄の間のギャップ、差異、あるいは本土からの沖縄への差別と、沖縄側から言えば沖縄の犠牲ということをよく認識していないと。しかし、そのことが非常にはっきり、今度のこの渡嘉敷島の元守備隊長の沖縄訪問によって表面化していると、そのことを考えた次第でございます。」と供述していることは、第4・4(2)イのとおりである。
(2)ア第2・2(3)イのとおり、沖縄ノートの各記述を見ると、「自己欺瞞と他者への瞞着の試み」「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」「かれのペテン」「およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない」「およそ人間のなしうるものと思えぬ決断」「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」など、かなり強い表現がD大尉に対して使用されていることが認められる。
イ(ア) これらの表現のうち「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」との部分について、被告Eは、罪の巨塊とは自決者の死体のことであり、文法的にみて、「巨きい罪の巨塊」が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできない旨供述する。
 しかしながら、沖縄ノートは、全体として文学的な表現が多用され、被告E自身、「巨塊」という言葉は日本語にはないが造語として使用した旨供述するように、必ずしも文法的な厳密さを一貫させた作品であるとは解されない。被告Eの供述を踏まえて沖縄ノートを精読すると被告Eの供述するような読み方も理解できないではないが、一般読者が普通の注意と読み方で沖縄ノートの各記述に当たった場合、「あまりにも巨きい罪の巨塊」との表現は、慶良間列島の集団自決を強制した守備隊長を批判する前後の文脈に照らし、渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を抱く者も存するものと思われる。
 もっとも、そうであるとしても、その表現は、集団自決を強制した罪の大きさを表現する方法として特徴ある表現ではあるものの、極端に揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現とまでいうことはできない。
(イ) そのほかの部分も、あくまでD大尉の実名を伏せたまま、「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題」「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのである」「われわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまう」として、沖縄ノートの前記主題に沿う形で記述を展開する中で使用されている表現にすぎない。
(ウ) また、沖縄ノートの各記述にD大尉の氏名が明示されていないのは、第4・2(3)のとおりであるが、被告Eは、沖縄ノートにD大尉の氏名を明示しなかったことについて、本人尋問において、「私はこの大きい事件は1人の隊長の個人の性格、個人の選択というふうなことで行われたものではなくて、それよりもずっと大きいものであって、すなわち日本人の軍隊、日本の軍隊の行ったこと、そういうものとしてこの事件があると考えておりましたものですから、特に注意深くこの隊長の個人の名前を書くということをいたしませんでした。」「(後の方で渡嘉敷島の守備隊長のことを日本人一般の資質の問題として書いたのかという問いに対して)後半の問題は、こういう経験をした人を通じて日本人一般の資質について書くと、あるいは私自身に対する自己批判も含めるという主題であります。ですから、今おっしゃったとおりです。」「その趣旨からも、むしろ名前を出すことは妥当でないと私は考えておりました。」と供述している。このことは、被告EがD大尉に対する個人攻撃の意図で沖縄ノートの各記述をしなかったことを推認せしめる。
(エ) そうすると、沖縄ノートの各記述は、守備隊長ひいては日本軍の行動を通して著者を含めた日本人全体を批判し、反省を促す構成となっているものと認められ、所々に「ペテン」など、文脈次第では人身攻撃となり得る表現もあるものの、前記の文章全体の趣旨に照らすと、その表現方法が執拗なものとも、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているともいえず、D大尉に対する個人攻撃をしたものとは認められない。
 加えて、証拠(甲A3)によれば、沖縄ノートは、沖縄戦という歴史的事実をその1つの対象として論評するものであると認められ、このような歴史的事実については、広く論評、表現の対象とされるべきものであることも考慮しなければならない。
(3) 以上によれば、沖縄ノートの各記述は、意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない。したがって、沖縄ノートの各記述中、意見ないし論評にわたる部分の名誉毀損を理由とする損害賠償請求も、また理由がない。
7 結論
 以上のとおりであるから、原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法61条、65条を適用して、主文のとおり判決する。

大阪地方裁判所第9民事部
 裁判長裁判官 深見敏正
 裁判官 島田佳子
 裁判官 永田雄一


(別紙)書籍目録

題名 太平洋戦争
著者 K
発行者 YT
発行所 株式会社岩波書店
発行年月日 平成14年7月16日 第1刷発行
      平成15年2月14日 第2刷発行
型式 縦 14.8p
   横 10.5p
   ページ 463ページ
定価 1400円


題名 沖縄ノート
著者 E
発行者 L
発行所 株式会社岩波書店
発行年月日 昭和45年9月21日 第1刷発行
      平成19年11月15日 第53刷発行
型式 縦 17.5p
   横 10.5p
   ページ 228ページ
定価 740円

(別紙1)謝罪広告
 E著「沖縄ノート」(岩波書店刊)において、慶良間列島の渡嘉敷島と座間味島でいわゆる「部隊長命令で、島民を集団自決させた」ことが真実であり、B少佐、D大尉が集団自決命令をくだした旨記載しましたが、これは事実に反するものです。これによりB少佐殿及びD大尉の遺族であるC殿の名誉を著しく毀損したことを認め、深くお詫び申し上げます。
 平成年月日
 E
 株式会社岩波書店
 B 殿
 C 殿

掲載条件
大きさ 二段抜き
左右 7センチメートル
子持掛囲み
見出し 二倍明朝体
本文 一倍明朝体
掲載場所 全国版 朝刊 社会面

(別紙2)謝罪広告
 K著「太平洋戦争」(岩波書店刊)において、慶良間列島の座間味島でいわゆる「部隊長命令で、島民を集団自決させた」ことが真実であり、B少佐が集団自決命令をくだした旨記載しましたが、これは事実に反するものです。これにより貴殿の名誉を著しく毀損したことを認め、深くお詫び申し上げます。
 平成年月日
 株式会社岩波書店
 B 殿

掲載条件
大きさ 二段抜き
左右 7センチメートル
子持掛囲み
見出し 二倍明朝体
本文 一倍明朝体
掲載場所 全国版 朝刊 社会面
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