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【事件名】ジョン万次郎像の氏名表示権侵害事件(2) 【年月日】平成18年2月27日 知財高裁 平成17年(ネ)第10100号 著作者人格権確認等請求控訴事件(本訴)、平成17年(ネ)第10116号(反訴) (原審・東京地裁平成15年(ワ)第13385号) (口頭弁論終結日 平成17年12月1日) 判決 控訴人・当審反訴原告(以下「一審被告」ということがある。) X 訴訟代理人弁護士 藤井正夫 同 浦中裕孝 同 圓道至剛 被控訴人・当審反訴被告(以下「一審原告」ということがある。) Y 訴訟代理人弁護士 永島孝明 同 安國忠彦 同 明石幸二郎 主文 1 本件控訴を棄却する。 2 当審における反訴請求を棄却する。 3 当審における訴訟費用は控訴人の負担とする。 事実及び理由 第1 一審被告(控訴人・当審反訴原告)の求めた裁判 1 控訴の趣旨 (1) 原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。 (2) 被控訴人の請求をいずれも棄却する。 2 当審における反訴請求の趣旨 当審反訴原告が原判決別紙物件目録1及び2記載の各銅像について、著作者人格権(氏名表示権)を有することを確認する。 3 訴訟費用は、第1、2審を通じて被控訴人(当審反訴被告)の負担とする。 第2 事案の概要 1 幕末から明治にかけて活躍した中濱万次郎(通称ジョン万次郎)の銅像は、昭和43年7月11日に建立され、高知県土佐清水市足摺岬公園内に設置されている。その台座部分等には、制作者として一審被告の通称である「X」と記入されている。 一方、駿河銀行元頭取Pの銅像は、昭和45年に建立され、静岡県沼津市青野の岡野公園内に設置されている。その台座部分には、制作者として「X」と記入されている。 2 本件訴訟は、彫刻家である一審原告が、一審被告から原判決別紙物件目録1記載の中濱万次郎の銅像(昭和43年完成。以下「ジョン万次郎像」という。)及び同2記載のPの銅像(昭和45年完成。以下「P像」という。なお、上記2体の銅像をまとめて「本件各銅像」ともいう。)の制作を依頼され、その塑像を制作したにもかかわらず、上記各銅像の台座部分に前記のとおり「X」が表示されているとして、一審被告に対し、@本件各銅像について一審原告が著作者人格権(氏名表示権)を有することの確認と、A銅像の所有者ないし管理者(以下「所有者等」という。)である土佐清水市長又は株式会社駿河銀行に対し各銅像の制作者が一審原告であること及びその表示をY(一審原告)に改めるよう通知すること、並びに、B謝罪広告を、それぞれ求めた事案である。 3 原審の東京地裁は、平成17年6月23日、一審原告の上記請求のうち、@と、Aのうち一審被告に対し原判決別紙通知目録(1)及び(2)記載の通知をさせる限度において認容し、その余の請求を棄却した。 そこで、一審被告が敗訴部分を不服として本件控訴を提起するとともに、当審において新たに反訴を提起し、本件各銅像について一審被告が著作者人格権(氏名表示権)を有することの確認を求めたものである。 第3 当事者の主張 1 当事者双方の主張は、次に付加するほか、原判決の「事実及び理由」欄の第2の2及び第3記載のとおりであるから、これを引用する。 2 当審における一審被告(控訴人・当審反訴原告)の主張 (1) 本件各銅像の著作者についての認定の誤り ア ジョン万次郎像につき (ア) 制作への複数関与者が存在する場合と著作権法14条 本件のように創作的表現を行ったと主張するものが複数関与する場合であって、その一方当事者につき著作権法14条による推定が働いている場合にあっては、推定を受けない他方当事者が自らの単独著作を主張するためには、双方とも著作者である可能性がある以上、当該著作物が自らの著作物であることを主張・立証することに加え、当該著作物が推定を受けている者の著作物ではないことまでを主張・立証する必要がある。すなわち、推定を受けない他方当事者は、自らが「事実行為としての創作行為」を行ったことを主張・立証するだけでは足りず、推定を受ける一方当事者の当該著作物に対する関与の態様が、「事実行為としての創作行為」を行ったといえる程度に至っていないこと(当該著作物に推定を受ける一方当事者の創作的要素が一切残っていないこと)を主張・立証する必要があるのである。そして、推定を受ける一方当事者が「事実行為としての創作行為」を行ったといえる程度には至っていないことにつき、他方当事者(一審原告)が立証できなかった場合には、理論的には、共に著作者であるか、又は、共同著作物の要件を備えれば当該著作物は共同著作物となることになる。 そもそも、本件においては、事実行為として一審被告・一審原告の双方が本件各銅像の制作に携わっていることについては、当事者双方に争いはない。すなわち、一審原告は、一審被告が本件各銅像につき粘土付け等の行為を行った事実は認めており、また、一審被告も一審原告が本件各銅像の制作に関与した事実を認めている。そして、本件各銅像に一審被告署名が付されている以上、一審原告の単独著作を認定するためには、一審原告は、本件各銅像に対する自らの関与の態様からして、一審原告が「事実行為としての創作行為」を行ったといえる程度に至っていることを主張・立証すべきことに加え、本件各銅像に対する一審被告の関与の態様からして、一審被告が「事実行為としての創作行為」を行ったといえる程度に至っていないこと(当該著作物に一審被告の創作的要素が一切残っていないこと)を主張・立証する必要があったのであり、また、この一審原告の主張に沿った認定を原審が行うためには、本件各銅像に対する一審被告の関与の態様からして、一審被告が「事実行為としての創作行為」を行ったといえる程度に至っていないこと(当該著作物に一審被告の創作的要素が一切残っていないこと)を認定する必要があったのである。上記判断方法の下では、本件各銅像につき、一審被告による創作的要素が一切残っていないことを一審原告が立証できない限り、本件各銅像の著作者は一審被告である(少なくとも一審被告は共同著作者である)と認定されるべきである。 しかるに、原判決は、著作者が一審被告か一審原告のいずれか一方であることを当然の前提として、私的鑑定書に依拠しつつ、当事者の供述の信用性のみを根拠として、著作権法14条の推定を覆して一審原告の単独著作を認めるという立論をしているが、その判断手法は誤りであり、正当な判断過程を経た場合には、一審被告が著作者でないとはいえず、少なくとも一審被告・一審原告の双方が著作権者であるとの認定が正当な結論である。 (イ) 鑑定書について a 原判決は、一審原告が提出したC鑑定(甲68)、D鑑定(甲69)及びE鑑定(甲42)を採用し、一方で一審被告が提出したF鑑定(乙69)、G鑑定(乙72の1、2)及びH鑑定(乙130)のいずれも採用できないとした上で、一審原告が提出した各鑑定(主にC鑑定)に依拠して、本件各銅像の著作者は一審原告であるとの結論を導いている。しかしながら、そもそも本件につき、原判決のように鑑定の結果に全面的に依拠した事実認定を行うことには、以下のとおりの問題がある。 まず、第1の問題点として、本件のような美術品の著作者を判断するに当たって、鑑定がどれほどの役割を果たし得るか疑問であるという点が挙げられる。そもそも、美術品については、鑑定する者の感性(感覚的要素)によって「似ている」、「似ていない」等の判断が区々となり得るのであって、実際に、本件において訴訟に提出された各鑑定は、いずれも専門家によってなされているにもかかわらず、その判断は分かれているのである。そして、本件各銅像の場合、これが肖像であること、つまり特定の人物の容貌・姿態などを写し取った彫刻であることから、その鑑定の困難さは通常の彫刻家自身の作品とは比べものにならないはずである。さらに、本件訴訟において提出された各鑑定が、いずれも写真に基づいて行われており、本件各銅像の実物に基づいた鑑定がなされているわけではないことも各鑑定の証拠価値を限定的なものにしているといえる。なぜならば、写真では、@立体を平面としてとらえることから、その凹凸等を見る者が正確に認識できるわけではなく、また、Aレンズを通して物体を撮影することから不可避的に生じる「収差」による歪みの問題が存するからである。 第2の問題点として、当事者の提出した私的鑑定の結果に依拠することの危険性の問題が挙げられる。これは、仮に鑑定書が作品の著作者の認定に当たって一定の役割を果たし得るとしても、一方当事者の提出する鑑定書については、その鑑定人と当該鑑定を依頼しこれを提出する当該一方当事者との間に、何らかの人的関係が存することが通常であり、それゆえ、一方当事者の提出した鑑定の結果のみを採用し、他方当事者の提出した鑑定の結果をすべて排除するのでは、当該採用された一方当事者に偏った判断がなされる危険が高い。 第3の問題点として、本件訴訟のように、本件各銅像の制作に一審被告・一審原告の双方が関与したことが明らかな事案において、一方当事者の作風に「似ている」か否かの鑑定を行って、その結果、一方の当事者のみの著作であると断定している鑑定にどれほどの信用性がおけるのか疑問であるという点が挙げられる。すなわち本件のように双方とも事実行為としての創作行為を行った可能性がある場合、一方当事者の作風に「似ている」か否か、という鑑定は余り意味がないといえる。例えば、ある銅像の顔と手の部分をAが制作し、着物部分をBが作成した場合には、双方とも著作者となる(共同著作物)はずのところ、その顔の部分のみを取り上げて、Aの作風に似ているから当該銅像は全体としてAの作品であると結論づける鑑定があるとして、その結論が誤りであることは論をまたない。同様に、着物部分のみを取り上げて、Bの作風に似ているから当該銅像は全体としてBの作品であると結論づけることもまた誤りなのである。 b C鑑定についての問題点 C鑑定には、上記aで述べた問題点がいずれも妥当する。すなわち、C鑑定の対象は本件各銅像という肖像であること、その鑑定の材料は写真であること、一審原告という一方当事者の提出した私的鑑定にすぎないこと、一方当事者たる一審原告の作風と本件各銅像の作風との一致点を指摘することで、一審原告の単独著作を結論づけていること、等の問題が指摘できるのである。 また、C鑑定の問題点として、理由を付すことなく、断定的判断を示す点が挙げられる。例えば、同鑑定3頁には、「大型塑造彫刻作品を造る場合に、イメージを固める意味で習作として寸法の小さな作品を予め制作することは、作家によってはありうる。」とあるが、「大型塑造彫刻作品」がどの程度の規模のものを指しているのかは不明であるし、「作家によっては」というのがどの範囲の作家に妥当するのかが明らかにされておらず、また根拠・具体例を示すことなく「寸法の小さな作品」を制作しないケースがあり得るかのような見解を示しているのである。他にも、同鑑定4頁には、「写真から推察すると、ほぼエスキースは完成に近い状態である。」などと、根拠を示さずに意見を述べており、その鑑定における論理性の欠如は、他の諸鑑定と大差ない。 c D鑑定についての問題点 D鑑定についても、上記aで述べた問題点がいずれも妥当する。すなわち、D鑑定の対象は本件各銅像という肖像であること、その鑑定の材料は写真であること、一審原告という一方当事者の提出した私的鑑定にすぎないこと、一方当事者たる一審原告の作風と本件各銅像の作風との一致点を指摘することで、一審原告の単独著作を結論づけていること、等の問題が指摘できるのである。 d E鑑定についての問題点 E鑑定は、日本人の顔を「中落ち型」、「中高型」、「中間型」等に分類する手法に基づいて、非常に大胆かつ独創的な見解が示されており、また「曲がり癖」なる概念も持ち出されているなどの特徴を有する。これらの見解の当否はともかくとして、美術の鑑定にはこのように鑑定する者の感性(感覚的要素)が多分に影響するのであって、既述のとおり、その証拠価値には一定の限界があることが、E鑑定から読み取れるというべきである。 (ウ) 一審被告の供述の信用性について 原判決は、ジョン万次郎像の制作に関する一審被告の供述について、押し並べてその信用性が低いものととらえ、証拠として採用していないが、その判示内容は、不合理な事実認定に立脚するものであって、是認し得ない。 (エ) 一審原告の供述の信用性について 原判決は、一審原告のジョン万次郎像に関する供述の信用性について、結論として「ジョン万次郎像の制作に関し、原告の供述は概ね一貫しており、供述の変遷はほとんど認められないし、他の客観的な証拠との間に矛盾はない。」として、その信用性を全面的に肯定している。しかしながら、一審原告の供述の信用性に関する原判決の認定には、問題が多く、一審原告の供述の信用性は認められないというべきである。 (オ) 以上の検討のとおり、原判決がジョン万次郎像の著作者を一審原告と認めた理由はいずれも不合理であって、原判決の判示内容は失当である。ジョン万次郎像の制作者は一審被告であり、一審被告が著作者と認められるべきである。 イ P像につき (ア) 制作への複数関与者が存在する場合の判断手法については、上記ア(ア)で述べたとおりである。 (イ) 鑑定書について P像について、原判決の各鑑定書に関する判断の問題点については、ジョン万次郎像に関する上記ア(イ)のaないしdに述べたとおりである。 (ウ) 一審被告の供述の信用性について 原判決は、P像の制作に関する一審被告の供述について、押し並べてその信用性が低いものととらえ、証拠として採用していないが、その判示内容は、不合理な事実認定であり、またその理由において誤りや不備があるので、是認し得ない。 (エ) 一審原告の供述の信用性について 原判決は、「原告の供述はいずれも、原告が妻に宛てた手紙等の内容と概ね一致しており、また客観的な事実との矛盾もなく、信用することができる。」と判示している。しかし、当該部分の判示内容は、不合理な事実認定であり、またその理由において誤りや不備があるので、是認し得ない。一審原告の供述には不自然な部分が複数認められ、その供述の信用性は認められないというべきである。 (オ) 以上の検討のとおり、原判決がP像の著作者を一審原告と認めた理由はいずれも不合理であって、原判決の判示内容は失当である。P像の制作者は一審被告であり、一審被告が著作者と認められるべきである。そして、仮に評価の問題として、一審原告のP像に対する関与の程度からして、一審原告が著作者に該当すると評価されるとしても、そのことは一審被告が著作者でないことを意味するものではなく、一審被告が事実行為としての創作行為を行ったことが認められないとの立証のない本件においては、一審被告が(又は一審被告も)著作者であることは肯定されるべきである。 (2) 一審被告名義での公表に関する合意の存在 ア 一審被告と一審原告との間には、本件各銅像につき、一審被告名義で公表することについての明示又は黙示の合意(以下「本件合意」という。)が存在した。 イ ジョン万次郎像について (ア) ジョン万次郎像につき本件合意が存在したことは、以下の各事実から認められる。 a ジョン万次郎像に一審被告署名が明確に入っていること ジョン万次郎像の台座部分に、その完成時より一審被告の署名が入っている事実は、甲4から明らかである。また、この事実と同様の意味を有するものとして、ジョン万次郎像に備え付けられた石板に、同作品の制作者として一審被告の名前が記載されていることも挙げられ、これは甲79により明らかである。 b 一審原告自身、当初より一審被告署名の存在を認識していたこと そもそも、一審原告は、昭和43年7月ころ、ジョン万次郎像の完成式典の1週間くらい前に、足摺岬に赴き、ジョン万次郎像の据え付け作業に立ち会い、また、同月の完成式典にも参列している。これらの事実からして、一審原告が、ジョン万次郎像の一審被告署名と一審被告が制作者として記載された石板を確認していたことは明らかであり、一審原告は、ジョン万次郎像が制作された当時から、ジョン万次郎像に一審被告署名が入っていることを認識していたといえ、また同像に備え付けられた石板に一審被告が制作者として記載されていることを認識していたといえる。この事実について、一審原告はその陳述書(甲66)8頁において、「私は、万次郎像の制作直後から、万次郎像の地山部分や台座、あるいは備え付けの石板などにXのサインが入っていることは薄々感じていたかもしれません。」として、これを自認し、また、原審における一審原告本人尋問においても、自らのサインがない理由を問われ「これは、この注文を受けたXが、ないほうがいいと言ったんだと思います」、「支払の都合上、サインがないほうがいいと言ったと思います」(原告本人尋問調書1頁)と供述し、ジョン万次郎像の制作者としての署名は、受注者である一審被告とすることにつき合意があったことを明確に認めている。 c 30年以上もの長期にわたり異議を述べていなかったこと 上記のとおり、ジョン万次郎像には一審被告の署名が明確に入っており(備え付けの石板にも同趣旨の記載があり)、一審被告は、その事実をジョン万次郎像が制作された当時から認識していたにもかかわらず、これに対して30年以上もの長期にわたり、何ら異議を述べていなかった。 d ジョン万次郎像に一審原告のサインがないこと 一審原告は、自分が作った作品には自分のサインを入れるのが通常であるところ、それにもかかわらず、ジョン万次郎像にはサインを入れていない。その理由として、一審原告は、上記のとおり、原審における一審原告本人尋問において、一審被告との話し合いの結果、一審原告のサインを入れないことにしたと供述している。 (イ) 以上のように、ジョン万次郎像には当初より一審被告の署名が入っており、かつ、その事実を一審原告は当初より認識していたにもかかわらず、30年以上もの長期にわたり何ら異議を述べていなかったこと、一審原告が自らの作品であれば自分のサインをいれるのが通常であるのにこれを入れていないこと、その理由として一審原告は一審被告からジョン万次郎像に一審原告のサインを入れない方がよいと言われたためであるとしていること等の事情からすれば、一審被告と一審原告の間には、ジョン万次郎像を一審被告名義で公表することとし、一審原告は同像の著作者としての権利を主張しない旨の合意が存在したことが認められ、これに反する証拠はない。 ウ P像についての本件合意の存在 (ア) P像につき本件合意が存在したことを裏付ける以下の各事実が認められる。 a P像に一審被告の署名が明確に入っていること P像に、一審被告の署名が入っている事実は、甲7から明らかである。 b P像に一審原告のサインがないこと 一審原告は、自分が作った作品には自分のサインを入れるのが通常であるところ、それにもかかわらず、P像には、ジョン万次郎像の場合と同様に台座部分にはサインを入れていない。一審原告は、P像の頭部という一般の人には見にくいところに「Y」と読める紋様を入れているが、これは自らが制作に関与したことを示すためにした行為にすぎず、本件合意の存在を否定するものではない。 (イ) 以上のように、P像につき、一審原告が自らの作品であれば台座部分等に自分のサインを入れるのが通常であるのにこれを入れておらず、その代わりに頭部という一般の人には見にくいところに紋様を入れていること(他の作品ではこのようなケースはないこと)、及び、当初より一審被告の署名が入っていたこと(その事実を一審原告は当初より認識していたにもかかわらず、30年以上もの長期にわたり、何ら異議を述べていなかったことは、ジョン万次郎像の場合と同様である)等の事情からすれば、一審被告と一審原告の間には、P像を一審被告名義で公表することとし、一審原告は同像の著作者としての権利を主張しない旨の合意が存在したことが認められる。 エ 本件合意の有効性及びその効果 そもそも、著作者人格権の一内容としての氏名表示権は、「著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著作者名を表示しないこととする権利」(著作権法19条1項)であるとされている。そして、この定義からすれば、著作者には自らの著作物に著作者名を表示するかしないか、表示するとしていかなる表示をするかについての処分権限を有するものと考えられる。このように、法が著作者に対して、その氏名表示権の行使として著作者名を表示しないことも許容していることからすれば、著作者が自らの意思により(氏名表示権の行使として)著作物にその氏名を表示しないこととした上で、他者との合意により、当該他者の氏名を自らの著作物に表示させることにつき、その有効性を否定すべき理由はない。 次に、本件合意の効果について検討すると、本件各銅像を一審被告名義で公表することとし、一審原告は本件各銅像の著作者としての権利を主張しない旨の合意が存在することの効果として、仮に一審原告が本件各銅像の著作者(ないし共同著作者)であったとしても、一審原告は一審被告のみをその著作者として表示する義務を負うことになり、一審原告が本件各銅像の著作者(ないし共同著作者)であるという事実を本件合意に反して第三者に対して明らかにすることは許されないことになるという効果は、当然に含まれているというべきである。 以上のとおりであるから、仮に一審原告が本件各銅像の著作者(ないし共同著作者)であったとしても、本件合意の効果として、一審原告はその事実を第三者に対して明らかにすることは許されず、したがって、本件通知請求は認められないことになる。 (3) 本件通知請求について ア 原判決は、本件通知請求を認容する前提として、本件各銅像の著作者は一審原告であると認定したが、この事実認定が誤りであることは、既に詳述したとおりである。また、仮に本件各銅像に対する一審被告の関与の態様からして一審被告は本件各銅像の共同著作者であって、一審原告も本件各銅像の著作者であるとしても、原判決の認めた本件通知請求の内容(原判決別紙通知目録(1)及び(2)の各記載内容)は、一審被告が制作者(共同著作者)でないことをその内容とするものであるから、誤った内容であり、したがって、このような内容の本件通知請求は認容されるべきではない。さらに、本件においては、本件各銅像の制作に一審被告・一審原告の双方が関与しているところ、同人らの間には、本件各銅像につき、本件各銅像を一審被告名義で発表することについての合意(本件合意)が存在したのであって、本件合意の効果として、一審原告が本件各銅像の著作者(ないし共同著作者)であるという事実を第三者に対して明らかにすることは許されないというべきである。 イ 著作権法115条の解釈・適用の誤り 著作権法115条は、名誉回復等のために「適当な措置」を認めているのであって、当然のことながら、当該措置が名誉回復等に直接に役立つことが必要である(直接に名誉回復等に役立つ措置こそが「適当」な措置なのである。)。ところが、本件通知請求を認めても、本件通知請求を認めない場合と比して、一審原告の名誉回復等に役に立つといった事情は本件では認められない。仮に、本件通知請求を認めることにより本件各銅像の所有者等に対し本件各銅像の真の著作者が誰であるかを知らしめることで、「原告が本件各銅像の著作者であることを確保」できるという理由であれば、これは一審原告が確定判決を得た上で、一審原告自らが所有者等に通知すればよく、原判決のいう「原告と本件各銅像の所有者との紛争を未然に防止することにもつながる」とする点についても、「原告と本件各銅像の所有者との紛争」とは何を想定しているのか、また、一審被告が本件通知請求にかかる通知をすれば当該紛争を避けられる合理的見込みがあるのか、などについては全く不明である。結局、本件通知請求を認めたとしても、これにより一審原告の名誉回復等には直接に役立たず、したがって本件通知請求に係る通知は「適当な措置」には該当しないのである(当然のことながら、過去にも、同様の通知請求を認めた裁判例等は見当たらない。)。 また仮に本件合意が認められないと仮定しても、著作権法115条に基づく名誉回復等の措置が認められるための要件として、侵害者の「故意又は過失」が要求されるところ、本件では一審被告は本件合意が存在すると考えて本件各銅像に署名を行っていたのであり、本件合意が存在すると信じるにつき相当の理由があるので、一審被告には一審原告の著作者人格権を侵害する故意も過失も認められず、そうである以上、同法115条に基づく本件通知請求は認められるべきではないことになる。 (4) 権利濫用等であることについて 本件の事情にかんがみれば、本件においては、一審被告が一審原告の氏名表示権に基づく権利行使が行われないと信頼すべき正当な事由が存在するというべきであって、権利失効の原則に基づき、一審原告の著作者人格権に基づく各請求は認められるべきではない。また、権利失効と評価できなくても、権利濫用(民法1条3項)として、一審原告の著作者人格権に基づく各請求は否定されるべきである。 (5) 当審における反訴請求について 前述のとおり、本件各銅像の著作者は一審被告であるのに、一審原告はそれを争うので、一審被告が本件各銅像について著作者人格権(氏名表示権)を有することの確認を求める。 3 当審における一審原告(被控訴人・当審反訴被告)の主張 一審被告の当審における主張は、以下に述べるとおり、いずれも失当であり、本件控訴及び当審における反訴請求はいずれも棄却されるべきである。 (1) 本件各銅像の著作者について ア 著作権法14条についての一審被告の主張(上記2(1)ア(ア))は、主張立証責任の原則及び著作者の概念を全く無視するものである。著作権法14条は、法律上の推定規定であり、これが権利推定規定か事実推定規定かという議論はともかくとして、自ら創作したことを主張立証しさえすれば、同条の推定が覆されることについて争いはない。このことは、当該著作物が共同制作か否かで争われているかどうかによって何ら消長を来すものではない。むしろ、著作権法14条の推定が争点となる事案は、本件のような共同制作の場合など、相手方の何らかの関与がある場合がほとんどであって、一審被告の主張が著作権法14条の解釈を著しく誤るものであることは実際的にも明らかである。また、一審被告は、当該著作物が推定を受けている者の著作物ではないことまでを主張立証する必要があるとまで主張するが、これは、ないことの証明、すなわち悪魔の証明を求めるものであり、このような立証責任の分配が民事訴訟において認められないことも明白である。 イ 本件において鑑定結果が分かれたのは、一審被告より提出された各鑑定書(乙69、72、130)が、判断能力の劣る鑑定人によって根拠もなく結論づけられたことが原因であって、感性によって判断が分かれているわけではない。作風に基づく美術品鑑定は、単に似る、似ないの検討ではなく、美術専門家である鑑定人が自らの創作行為の経験から裏付けられた客観的な結論を述べるものである。美術専門家といえども、当然ながらすべて同等の力量を持っているわけでなく、自らの創作行為の経験が鑑定結果にあらわれることは、美術鑑定に限ることではない。一審被告より提出された鑑定書の内容を見る限り、当該鑑定書の鑑定人が果たして本件鑑定を行うだけの能力を持ち合わせているかは極めて疑問であり、原判決が一審被告の提出する鑑定書に証明力を見いださなかったのも当然である。また、一審被告は、本件各銅像の場合、特定の人物の容貌・姿態などを写し取った彫刻であることから、その鑑定の困難さは通常の彫刻家自身の作品とは比べものにならないとも主張するが、いかなる根拠に基づいてこのような主張を行うのか全く不明である。本件各銅像は人物を対象とした具象彫刻作品であり、抽象的なイメージを基にした彫刻作品とは異なるのであるし、当事者双方が共に具象彫刻作品の写真を数多く提出し鑑定資料は豊富にあるから、鑑定が十分可能である。 なお、一審被告は、そのほかにも、美術品鑑定という観点から、本件訴訟において提出された各鑑定が、いずれも写真に基づいて行われており、本件各銅像の実物に基づいた鑑定がなされているわけではないことも、各鑑定書の証拠価値を限定的なものにしているなどと主張する。すなわち、一審被告は、写真では、@立体を平面としてとらえることから、その凹凸等を見る者が正確に認識できるわけではないこと、また、Aレンズを通して物体を撮影することから不可避的に生じる収差による歪みの問題が存することなどを主張し、写真による鑑定の限界を指摘する。しかし、@写真は立体を平面としてとらえるのではなく、立体を撮影してとらえた結果がプリントという平面になるのであって、平面的にとらえるものではない。立体を撮影したものであれば、視覚効果として立体と認識することは自明であって、不鮮明でない限り、撮影されたその立体から作風を判断することは十分に可能である。また、A撮影による収差など目視的な影響を全く与えないことは経験則上明らかである上、物理的な数値でその価値を測り得ない芸術の分野においては、かかる収差が写真に写し出された作風を損ない鑑定を不可能とする事情とは到底ならない。 また、一審被告は、私的鑑定の危険性について主張するが、特別な「人的関係」による鑑定内容の歪みは、とりもなおさず鑑定内容に対する批判に帰着するから、鑑定内容の信用性が精査されるべきであって、「人的関係」の危険性を抽象的に論じても無意味である。 さらに、一審被告は、当事者双方のいずれかが著作者であるという場合のほかに、双方とも事実行為としての創作行為を行った可能性がある場合、一方当事者の作風に似ているか否かという鑑定は余り意味がないというが、本件では、双方が制作に関与しているといっても、一審原告が創作行為を行い、一審被告は一審原告の指示に従い粘土付け等を行ったにすぎず、思想、感情等を表現するという知的精神活動の側面での一審被告の寄与が何ら存在しないものと認定されているのである。一審原告提出の各鑑定書も、本件各銅像からは一審原告の作風のみ見いだすものと結論づけるのであるから、もとより一審被告による創作的関与は認められないのである。一審被告の創作的関与が認められない以上、一審被告が創作した可能性を前提とする上記批判はそもそも当たらない。 ウ 本件各銅像の制作者については、原判決が正当に認定したとおり、一審原告のみである。これに対し、一審被告は、原判決の事実認定に誤りがあることをるる主張するが、その主張内容は、根拠のない瑣末な主張に終始するものである。 (2) 一審被告名義での公表に関する合意の存在に対し ア 一審被告は、原審において、自らを単独の著作者と主張していたのみであるところ、「本件合意」は、一審原告が単独著作者又は共同著作者であることを前提とした主張であり、原審における一審被告の主張とは全く相容れない。一審被告は、控訴審に至って初めて、予備的に「本件合意」の主張を行うものであり、このような審理経過に照らせば、一審被告による「本件合意」の主張は、明らかに時機に後れた防御方法であって、却下を免れないものである。 イ また、本件において、一審被告主張の本件合意が認められる余地はない。一審被告は、本件合意の存在について、本件各銅像に一審被告の署名が付されていたこと、一審原告が署名当時からこれを認識していたこと等の事情から本件各銅像のいずれについても、本件合意が認められると主張する。しかし、著作権法19条2項の規定がありながら、その逆に該当する、氏名表示権に関して著作者の意思により侵害不成立となる場合が明定されていないのは、著作者でない者を著作者として掲げることは、著作者が同意を与えたとしても、公衆を欺くものであって刑事罰の対象にもなることから(同法121条)、著作者の完全な自由に委ねることはできないとされたためであり、別人を著作者として掲げる契約が締結されたとしても、公序良俗に反し無効となるとされている。このような氏名表示権の法的性質にかんがみても、一審被告が主張するような単純かつわずかな事実関係のみで、本件合意が認定されることなど、経験則上あり得ない。 本件において、一審原告は、P像の頭頂部に「Y」とサインを入れ、自らが著作者であることを表示し、一審被告自身もこのことを昭和45年8月ころに制作依頼者であるIより伝え聞いたことを認めているのである。そうすると、一審原告が、P像、更にはジョン万次郎像についても、いずれ著作者人格権(氏名表示権)に基づく権利行使を行うに至り得ることは想像に難くなく、一審原告が本件合意をしたとは黙示的にも認定し得ないのである。 ウ そもそも、氏名表示権が著作者人格権の一内容であること自体から必然的に、他人名義で公表することを旨とする合意も、著作者としての権利不行使の合意も、いずれもその一身専属権という性質上、なし得ないというべきであり、本件合意は無効である。これに対し、一審被告は、著作権法19条が氏名表示権の行使の一内容として、明文を以て著作者の変名を表示することや著作者名を表示しないことも認めていることにかんがみれば、真の著作者名を表示することが公益上の理由からも求められていると解することは妥当でないと主張するが、著作権法は、真の著作者の変名表示や非表示を認めるにすぎず、真の著作者ではない者を著作者と表示することまでも許容する趣旨ではないから、一審被告の上記主張は著作権法の趣旨を無視した独自の見解であって、失当である。 (3) 本件通知請求について ア 一審被告は、@本件通知請求を認めることにより、本件各銅像の所有者等をして本件各銅像の真の著作者が誰であるかを知らしめるためであれば、一審原告が自ら通知し、また、本件各銅像の所有者等がマスコミを通じて本件各銅像の著作者を一審原告であると認識できるのであるから、本件通知請求を認めても「一審原告が本件各銅像の著作者であることを確保」することにならない、A本件通知請求を認めても、原判決がいう「一審原告と本件各銅像の所有者との紛争を未然に防止することにもつながる」といった具体的事情はない、B「著作者であることを確保するための措置」とは著作者の名誉回復等に直接に役立つものでなければならないところ、本件通知請求を認めても、本件通知請求を認めない場合と比して、一審原告の名誉回復等に直接役に立つといった事情は本件では認められない、などと主張する。 しかし、これらの論拠には理由がない。まず、上記@について、駿河銀行は、マスコミを通じて当然に事情を知悉しているにもかかわらず何らコメントすら出していない。一方、土佐清水市においても、乙158からも明らかなように、「経緯がすっきりしないことは残念だが、判決が確定すれば、作者名の訂正を行いたい」と述べて、苦慮の選択の末、裁判所の判断に委ねざるを得ないことを述べているのである。このような事情において、本件各銅像の制作者として表示されている一審被告自らが著作者ではないことを認める旨の通知を行うことは、本件各銅像の所有者にとって何よりも適切に氏名表示を訂正することができるよりどころなのである。したがって、本件通知請求により、本件各銅像の所有者である土佐清水市や駿河銀行がその意見を尊重し、確実に制作者の氏名表示を訂正することになるのであるから、本件通知請求を認めることは「一審原告が本件各銅像の著作者であることを確保」することに直接的につながるものなのである。また、上記Aについても、土佐清水市や駿河銀行は、現在制作者として表示されている一審被告の承諾がない限り、制作者表示を変更することを躊躇することは想像に難くなく、その場合、一審被告は本件訴訟で勝訴したとしても、土佐清水市や駿河銀行に対し、その経緯を説明し、場合によっては、これらを被告として新たな訴訟を提起しなければならないという迂遠な結果となりかねない。そうであれば、本件通知請求は、本件紛争を終局的に解決するための最も実効的な手段であり、原判決が指摘するとおり「一審原告と本件各銅像の所有者との紛争を未然に防止することにもつながる」ことは論をまたないのである。さらに、Bについても、本件通知によって初めて本件各銅像の制作者の氏名表示が訂正されるのであろうから、本件通知請求は、本件紛争を終局的に解決するための実効的な手段なのである。そして、氏名表示が訂正される結果、一審原告の名誉が真に回復されることになるのである。したがって、本件通知請求は、一審原告の名誉回復等に直接かつ最も役に立つ手段なのである。 イ 既に述べたとおり、本件では「本件合意」を認める余地はなく、また、いずれ一審原告が著作者人格権を行使するであろうことは当然認識し得たはずである。しかも、一審被告自身、控訴審にいたって初めて「本件合意」を主張しているのである。そうであれば、一審被告において「本件合意」が存在すると信じるにつき相当の理由があるとは到底認められず、一審被告には一審原告の著作者人格権を侵害する故意も過失も認められないとの主張は全く理由のないものである。 本件において、一審被告は一貫して、一審原告が本件各銅像の著作者であることを全面的に争い、また、一審原告の著作者人格権を否定しているのである。かかる主張態度にかんがみても、著作者であることを確保するための適当な措置を講ずるための要件である故意又は過失が認められることは明白である。 (4) 権利濫用等の主張に対し そもそも、一身専属権である著作者人格権の行使及び不行使は、当該著作者の自由であり、このような著作者人格権が、第三者との関係で権利失効又は権利濫用とされることは法理論的にあり得ない。また、一審被告が主張する「本件の事情」がいかなる事情を指すのかは明らかではないが、仮に、前記の「本件合意」に関して主張を繰り返した事実を指すというのであれば、全く失当な主張である。前記のとおり、一審原告が、本件各銅像の著作者としての権利を主張しない旨の「本件合意」を行なったという事実は、明示的にはもちろん、黙示的にも認め得ないものである。付言すれば、一審原告は、P像の頭頂部に「Y」とサインを入れて自らが著作者であることを表示し、一審被告もこの事実を知悉していたのであり、一審被告は、本件各銅像について、いずれ一審原告が著作者人格権(氏名表示権)に基づく請求を行うことを容易に予想できたと認められることはあっても、一審被告において、一審原告による著作者人格権の行使がもはや行われないものと信頼すべき正当事由は存在しないのである。 よって、本件において、権利失効又は権利濫用と評価されるような前提事実を欠いており、本件通知請求を含め一審原告の一審被告に対する各請求について権利失効の原則や権利濫用の法理が適用される余地はない。 (5) 一審被告の主張(5)(当審における反訴請求について)に対し 本件各銅像の著作者が一審被告であることは争う。その理由は、これまで述べてきたとおりである。 第4 当裁判所の判断 1 当裁判所も、一審原告の本訴請求は、原判決主文第1項ないし第3項の限度で理由があると判断する。その理由は、当審における一審被告(控訴人・当審反訴原告)の主張に対する判断として付加するほか、原裁判の「事実及び理由」第4記載のとおりであるから、これを引用する。 また、一審原告の当審における反訴請求については、前記本訴請求に対する判断において説示したとおり、本件各銅像の著作者は、一審被告ではなく一審原告であると判断する。 2 当審における一審被告(控訴人・当審反訴原告)の主張に対する判断 (1) 本件各銅像の著作者 ア 著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」をいい(著作権法2条1項1号)、著作者とは、「著作物を創作する者をいう」のであるから(同項2号)、美術品である本件各銅像については、本件各銅像を創作した者をその著作者と認めるべきである。そして本件各銅像のようなブロンズ像は、塑像の作成、石膏取り、鋳造という3つの工程を経て制作されるものであるが、その表現が確定するのは塑像の段階であるから、塑像を制作した者、すなわち、塑像における創作的表現を行った者が当該銅像の著作者というべきである。そこで、以上の見解に立って、以下の検討を進める。 イ 制作への複数の関与者が存在する場合と著作権法14条との関係(一審被告の主張ア(ア)、イ(ア)) 一審被告は、創作的表現を行ったと主張するものが複数関与する場合であって、その一方当事者につき著作権法14条による推定が働いている場合にあっては、推定を受けない他方当事者が自らの単独著作を主張するためには、双方とも著作者である可能性がある以上、当該著作物が自らの著作物であることを主張・立証することに加え、当該著作物が推定を受けている者の著作物ではないことまでを主張・立証する必要がある、と主張する。 著作権法14条は、「著作物の原作品に、又は著作物の公衆への提供若しくは提示の際に、その氏名若しくは名称(以下「実名」という。)又はその雅号、筆名、略称その他実名に代えて用いられるもの(以下「変名」という。)として周知のものが著作者名として通常の方法により表示されている者は、その著作物の著作者と推定する。」と規定しているところ、ジョン万次郎像においては一審被告の通称である「X」と(甲4、乙63)、P像においては「X」と(甲6。「X」は「X」の誤記と認める。)、それぞれ記入されているから、一審被告は、上記規定により、本件各銅像の著作者であるとの推定を受けることになる。 ところで、上記規定は、著作者として権利行使しようとする者の立証の負担を軽減するため、自らが創作したことの立証に代えて、著作物に実名等の表示があれば著作者と推定するというものであるが、同規定の文言からして「推定する」というものにすぎず、推定の効果を争う者が反対事実の証明に成功すれば、推定とは逆の認定をして差し支えないことになる。この理は、創作的表現を行ったと主張するものが複数関与する場合であっても異なるところはないというべきであって、一審被告の上記主張は、独自の見解というほかなく、採用することができない。 そして、原裁判及び後に述べる説示のとおり、原審及び当審における各証拠を精査すれば、本件各銅像の塑像制作について創作的表現を行なった者は一審原告のみであって、一審被告は塑像の制作工程において一審原告の助手として準備をしたり粘土付け等に関与しただけであると認めることができるのであるから、一審原告はいわば反対事実の証明に成功したのであった、同規定にかかわらず、一審被告に対し自らが著作者であることを主張できることになる。 ウ 事実認定に関する一審被告の主張について (ア) 鑑定書について(一審被告の主張ア(イ)、イ(イ)) 一審被告は、原判決のように鑑定の結果に全面的に依拠した事実認定を行うことには問題があると主張し、その理由として、@美術品については、鑑定する者の感性(感覚的要素)よって判断が区々となり得ること、A本件訴訟において提出された各鑑定はいずれも写真に基づいて行われており、実物に基づいたものではないこと、B当事者の提出した私的鑑定は、鑑定人とこれを依頼した当事者との間に何らかの人的関係が存することが通常であり、一方当事者に偏った判断がなされる危険が高いこと、C当事者双方が関与したことが明らかな本件においては、一方当事者の作風に「似ている」か否かということには余り意味がないこと、などを挙げる。 しかし、本件各銅像の著作者を一審被告ではなく一審原告であるとの原判決の認定は、一審原告が提出したC鑑定(甲68)、D鑑定(甲69)及びE鑑定(甲42)のみに全面的に依拠した結果ではなく、これら各鑑定書のほか、本件各銅像が制作された当時やり取りされた葉書や手紙(甲10、11、20、21、38、45、47等)、写真(甲70、乙15、16等)、ジョン万次郎像の碑文及びその原稿(甲18、19)、契約書(甲50)及び受領書(甲51の1〜6)、一審被告の元妻であったJが別件訴訟において本件訴訟前に提出した陳述書(甲43。その内容は、時系列に従って記載された詳細なものである。)等の多数の客観的証拠や、原審における原告本人尋問の結果、その他の関係各証拠等をも総合して検討した上でなされたものであり、その認定に関する詳細な説示は、十分に首肯することができる。鑑定の結果に全面的に依拠した事実認定である旨の一審被告の上記非難は、原判決を正しく理解しないものであるというほかない。 加えて、一審被告が鑑定について問題があると指摘する上記@ないしCの点については、美術品に係る鑑定について一般的には一審被告が指摘するような問題が存在するとしても、これらは鑑定を評価するに当たって考慮すれば足りることであり、鑑定自体に意味がないということはできない。そして、上記各鑑定は、いずれも豊富な経験を有する彫刻家によりなされたものであり、そこに述べられている見解は、いずれも原判決(34頁1行目〜36頁2行目)が説示するとおり、首肯し得るものである。 なお、一審被告は当審において乙161(F作成の平成17年11月28日付鑑定書)、162(K作成の2005年(平成17年)11月1日付け鑑定書〔異議申立書〕)及び163(同人作成の2005年(平成17年)11月1日付け「異議申し立て書」)を提出し、乙161には彫刻の鑑定が難しいこと及び大作制作の困難さ等について、乙162、163にはC鑑定及びD鑑定についての批判等が記載されているが、これらの証拠を考慮しても、上記認定を左右するに足りない。 (イ) 一審被告及び一審原告の供述の信用性について(一審被告の主張ア(ウ)(エ)、イ(ウ)(エ)) 一審被告は、原審本人尋問における一審原告の供述の信用性は認められないのに対し、一審被告の供述の信用性は肯定されるべきであるとして、るる主張する。 しかしながら、原審本人尋問における一審原告の供述は、変遷もほとんどなく、おおむね一貫し、他の客観的な証拠との間に矛盾がなく、信用できるものと認められるのに対し、一審被告の供述は、質問によって変遷し、一貫性がなく、他の客観的な証拠との間に矛盾も多く、信用性に乏しいことは、原判決(37頁8行目〜47頁下7行目、52頁下5行目〜56頁7行目)が説示するとおりである。 (ウ) なお、一審被告は、本件各証拠には一審被告がジョン万次郎を自ら制作した事実が現れており、そのほか、原判決には採証法則違反があると主張し、当審において乙151(L作成の平成17年8月23日付け陳述書)等を提出する。 しかしながら、乙151は、ジョン万次郎像の塑像の制作に係る具体的な事実が記載されているものではなく、その他、一審被告が当審において提出した各証拠を精査しても、本件各銅像の塑像制作についての創作的表現を行った者は一審原告であり、一審被告は塑像の制作工程において一審原告の助手として準備を行ったり、粘土付け等に関与したにすぎないとの上記認定を左右しない。 (2) 一審被告名義での公表に関する合意の有無について ア 一審被告は、一審原告が本件各銅像に一審被告の署名が入っていたことを当初より認識していたにもかかわらず、30年以上もの長期にわたり何ら異議を述べていなかった等の事情からすれば、一審被告と一審原告との間には、本件各銅像につき、一審被告名義で公表することについての明示又は黙示の合意(本件合意)が存在したことが認められ、本件合意の効果として、一審原告はその事実を第三者に対して明らかにすることは許されず、したがって、本件通知請求は認められないことになると主張する。 これに対し、一審原告は、本件の審理経過に照らせば、一審被告による「本件合意」の主張は、明らかに時機に後れた防御方法であって、却下を免れないものであると主張する。 イ まず一審被告の前記主張が時機に後れたものであるかどうかについて検討すると、一審被告が当審に至り上記主張を追加したからといって、当然に訴訟の完結を遅延させることはないのみならず、現に特段の立証方法の追加がなされた事実は認められないから、時機に後れたとする一審原告の上記主張は採用することができない。 ウ そこで、進んで本件合意に関する一審被告の上記主張について検討する。 本件各銅像が制作された経緯はジョン万次郎像について原判決26頁8行目ないし33頁下3行目、Pについて同48頁12行目ないし52頁16行目のとおりであり、一審原告は、ジョン万次郎像についてはその制作直後から像の台座部分に一審被告のサインがあり、その備え付け石板にも、制作者として一審被告の名前が記入されていることは認識していたが、一審被告と注文者との関係を考慮して異議を述べなかったにすぎない。一方、P像について一審原告は、制作者が同原告であることの証拠を残そうという思いと、ジョン万次郎像について一審被告から報酬を受領していないことに対する抗議の気持ちから、P像の頭頂部に「Y」と一審原告のサインを刻したのであり、これらの事情に照らせば、明示的にはもちろん、黙示的にも、一審被告が主張するような本件合意が成立したとまで認めることはできない。 加えて、著作者人格権としての氏名表示権(著作権法19条)については、著作者が他人名義で表示することを許容する規定が設けられていないのみならず、著作者ではない者の実名等を表示した著作物の複製物を頒布する氏名表示権侵害行為については、公衆を欺くものとして刑事罰の対象となり得ることをも別途定めていること(同法121条)からすると、氏名表示権は、著作者の自由な処分にすべて委ねられているわけではなく、むしろ、著作物あるいはその複製物には、真の著作者名を表示をすることが公益上の理由からも求められているものと解すべきである。したがって、仮に一審被告と一審原告との間に本件各銅像につき一審被告名義で公表することについて本件合意が認められたとしても、そのような合意は、公の秩序を定めた前記各規定(強行規定)の趣旨に反し無効というべきである。 一審被告は、著作権法19条が氏名表示権の行使の一内容として、明文を以て著作者の変名を表示することや著作者名を表示しないことも認めていることを理由に、真の著作者名を表示することが公益上の理由からも求められていると解することは妥当でないとも主張するが、著作権法は、真の著作者の変名表示や非表示を認めるにすぎず、真の著作者ではない者を著作者と表示することまでも許容する趣旨ではないから、一審被告の上記主張は採用することができない。 (3) 本件通知請求の当否について ア 一審被告は、原判決は本件各銅像の著作者が一審原告であることを前提として本件通知請求を認容したが、その前提が誤りである、あるいは、仮に一審被告が本件各銅像の共同著作者であって一審原告も本件各銅像の著作者であるとしても、原判決の認めた本件通知請求の内容(原判決別紙通知目録(1)及び(2)の各記載内容)は、一審被告が制作者(共同著作者)でないことをその内容とするものであるから、誤った内容であると主張する。 しかしながら、本件各銅像の著作者が一審原告であり、一審被告は共同著作者とも認められないことは上記認定のとおりであるから、一審被告の上記主張は、その前提自体が誤りであるというほかない。 イ また、一審被告は、本件合意の効果として一審原告が本件各銅像の著作者(ないし共同著作者)であるという事実を第三者に対して明らかにすることは許されないというべきであるとも主張するが、本件合意が認められないこと、仮に本件合意が認められるとしてもそのような合意が無効であることは、上記(2)ウのとおりである。 ウ さらに、一審被告は、本件通知請求を認めても、本件通知請求を認めない場合と比して、一審原告の名誉回復等に役に立つといった事情は本件では認められず、本件通知請求を認めたとしても、これにより一審原告の名誉回復等に直接に役立たないから、本件通知請求に係る通知は著作権法115条にいう「適当な措置」には該当しないと主張する。 なるほど、本件各銅像の所有者等である土佐清水市や駿河銀行は、本件訴訟の当事者ではないから、本件通知がなされたからといってこれに従う法的義務はないが、本件判決により現に制作者として表示されている一審被告から本件通知がなされれば(一審被告が任意にこれを履行しないときは、民事執行法174条によりこれを擬制することができる。)、土佐清水市又は駿河銀行は本件各銅像の制作者表示を変更することが容易になると認められ、そうである以上、本件通知が一審原告の名誉回復のため適当な措置ということになる。したがって、原判決の認めた本件通知請求は著作権法115条にいう「適当な措置」として認められるものと解すべきである。 エ また一審被告は、著作権法115条に基づく名誉回復等の措置が認められるためには侵害者の「故意又は過失」が要求されるところ、本件では一審被告は本件合意が存在すると考えて本件各銅像に署名を行っていたのであり、本件合意が存在すると信じるにつき相当の理由があるので、一審被告には一審原告の著作者人格権を侵害する故意も過失も認められないとも主張する。 しかし、本件合意が成立したと認められないことは上記のとおりであるところ、上記認定の本件各銅像が制作された経緯(ジョン万次郎像について原判決26頁8行目〜33頁下3行目、P像について同48頁12行目〜52頁16行目)に照らせば、一審被告は、本件各銅像に署名を行なった際、一審原告が本件各銅像の著作者であることを認識し得たことは明らかであり、それにもかかわらず将来一般に展示されることが予定されている本件各銅像に署名を行ったものであるから、一審被告には、一審原告の著作者人格権(氏名表示権)を侵害することにつき、少なくとも過失があったものと認められる。したがって、一審被告の上記主張も理由がない。 (4) 権利濫用等の有無について 一審被告は、本件の事情にかんがみれば、本件においては、一審被告が一審原告の氏名表示権に基づく権利行使が行なわれないと信頼すべき正当な事由が存在するというべきであって、権利失効の原則に基づき、あるいは権利濫用(民法1条3項)として、一審原告の著作者人格権に基づく各請求は否定されるべきであると主張する。 しかし、上記のとおり氏名表示権については、著作者の自由な処分にすべて委ねられているわけではなく、むしろ、著作物には真実に即した著作者の氏名表示をすることが公益上の要請から求められていることにかんがみると、一審原告が本件各銅像に一審被告の署名が入っていたことを当初より認識していたにもかかわらず30年以上の間何ら異議を述べていなかった等の事情があるとしても、一審被告は依頼者から本件各銅像の制作について高額の報酬を受領しながら、原告に対し何らの制作報酬も支払わないまま今日まで経過してきたこと、その後、一審被告とその元妻J(昭和34年2月23日に婚姻し平成7年10月9日に離婚。子2人。甲58)との離婚に関する給付金請求訴訟の過程で、平成14年5月8日ころ一審被告が一審原告を助手呼ばわりし(甲8、9)、一審原告の名誉感情を毀損したことを発端として本訴に至ったこと等の事情を総合考慮すれば、本件においては、一審被告が一審原告の氏名表示権に基づく権利行使が行われないと信頼すべき正当な事由が存在するとまでは認められず、また、一審原告の本訴請求が権利濫用に該当するということもできない。 3 結論 以上によれば、原判決は相当であって、一審被告の本件控訴及び当審における反訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとして、主文のとおり判決する。 知的財産高等裁判所 第2部 裁判長裁判官 中野哲弘 裁判官 岡本岳 裁判官 上田卓哉 |
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