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【事件名】「天台宗法則文」の出版権侵害事件 【年月日】平成17年12月26日 東京地裁 平成17年(ワ)第10125号 損害賠償請求事件 (口頭弁論終結日 平成17年10月31日) 判決 原告 日本ソアー株式会社 被告 A 同訴訟代理人弁護士 横山昭 同 岡本政明 同 小林和彦 主文 1 原告の請求を棄却する。 2 訴訟費用は原告の負担とする。 事実及び理由 第1 請求 被告は、原告に対し、5315万2000円及びこれに対する平成15年4月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 第2 事案の概要 本件は、原告が、被告に対し、Bらを著者とし、原告を発行所とする「天台宗開眼法要集」と題する書籍(以下「原告書籍」という。)についての出版権を原告が有するものであるところ、被告及びCが監修し、株式会社四季社(以下「四季社」という。)が発行する「天台宗祈願作法手文」と題する書籍(全4巻。以下「被告書籍」という。)の発行が、原告書籍についての原告の出版権を侵害するものであると主張して、民法709条に基づき、出版権の侵害による損害の賠償を求めた事案である。 1 前提となる事実(括弧内に証拠を掲示したもの以外は、当事者間に争いがない。) (1)当事者 原告は、書籍、雑誌等の出版、販売等を目的とする株式会社である。 被告は、東京都調布市所在の深大寺の住職である。 (2)原告書籍 原告書籍は、著者をB及びDとし、発行所を原告とする平成5年3月1日初版発行の書籍である(甲2)。 (3)被告書籍 被告書籍は、監修者を被告及びCとし、発行所を四季社とする平成15年4月10日初版第1刷発行の書籍である(甲4の1・2、5) 被告は、監修者の1人として、Cと共に被告書籍の編集に関与した。 (4)出版権の設定 Bは、原告に対し、平成5年3月1日、原告書籍について、期間を同日から平成25年2月28日までとする出版権を設定した(甲3)。 (5)法則文 原告書籍には、別紙掲載内容比較表下段記載の法則文(以下「本件法則文」という。)があり、被告書籍の第4巻「開眼・加持・撥遣作法」には、同比較表上段記載の法則文(以下「被告法則文」という。)がある(甲2、4の1・2、5)。 法則文とは、仏教において、法要に際し、その趣旨を述べる文言である。 2 争点 (1)出版権侵害の成否 ア 本件法則文の著作物性 イ 本件法則文と被告法則文の同一性 (2)損害の発生の有無及びその額 3 争点に関する当事者の主張 (1)争点(1)ア(本件法則文の著作物性)について (原告の主張) ア 本件法則文のうち、別紙侵害内容対比表記載の「原告の文章」欄の各表現(以下、同対比表中の番号に従って「原告表現1」などという。)が、著作物としての創作性を有する部分であり、各表現の具体的な創作性については、同対比表の「著作性」欄及び「創作部分の解説」欄に記載のとおりである。 本件法則文は、平成5年3月、Bが作成したものである。 法則文は、一般的には、僧侶等が各別に考案して唱えるものであるが、Bは、本件法則文を独自に創作的に表現した。 したがって、本件法則文は、著作物に当たる。 イ 別紙侵害内容対比表記載の「原告の文章」欄の各表現に創作性がないとの主張(後記「(被告の主張)」イ)について (ア) 位牌開眼法則の項 a 原告表現2 安樂集は、著者、年代不詳の古式な資料である。この資料に「盡法界」と同様の略し方を見つけたからといって、複写していないという証拠にはならない。 b 原告表現4 Bが選択し、組み合わせた以前にはない「道場、斉場、家屋」の用語には、現代の法要場所を認識する思い、法要を行う意志がある。昔の霊廟での法要では、「この道場」でこと足りたが、現代においては、法要参列者に違和感を抱かせるような場違いな法要になりかねない。 c 原告表現5 用語が一般慣用語であろうがなかろうが、原典にはなく、ここにおいては必要だという思想的観点からの追加は、明らかに創作である。 尊称は、様々で、「靈位」と限定する必要はないが、戒名などの呼び捨てと、「靈位」等の尊称を付するのとでは、心の持ち方において思想感情は全く異なる。 d 原告表現7 ルビを無視しては、伝統的な読み方ができない。しかも、口伝が様々である。 e 原告表現9 上記aと同旨 (イ) 石塔開眼法則の項 a 原告表現13 被告は、「擁護」を「おうご」と読み下すことはごく当たり前である、と主張するが、他の箇所にはルビを付さず、ごく当たり前である「擁護」についてのみルビを付している理由について説明がなく、自己矛盾である。 b 原告表現16 原典の文中にない用語で、現代の法要に適した表現は何かを様々に思索した結果挿入した語句は、立派な思想感情である。道場と靈域は、目的の異なる用語で、現代の法要における社会情勢を踏まえた思想、感情により変更したものである。 c 原告表現19 被告は、「輪圓」を「りんねん」と読み下すことはごく当たり前である、と主張するが、他の箇所にはルビを付さず、ごく当たり前である「輪圓」についてのみルビを付している理由について説明がなく、自己矛盾である。 (ウ) 塔婆開眼法則の項 a 原告表現24 上記(イ)bと同旨 b 原告表現27 尊称は、様々で、「靈位」と限定する必要はないが、戒名などの呼び捨てと、「靈位」等の尊称を付するのとでは、心の持ち方において思想感情は全く異なる。 (エ) 古佛撥遣法の項 a 原告表現29 被告の主張する寺に伝承される法則文は、天台宗として一般的ではない。「常用法儀集」及び「台門行要抄」は、原典としての汎用性を備えており、原告書籍の法則文は、これらをもとに、時代に適した語句を挿入し、編纂している。 b 原告表現30 被告が、「比叡山求法寺に伝承される法則文にある」とする「・・・尊像」(「・・・」は空欄)と表記せず、原告表現30の「○○尊像」を「○○(此の)尊像」と改変複写した理由について、明確な説明がない。 c 原告表現31 被告は、「妙用」や「巨益」を「みょうゆう」、「こやく」と読み下すことはごく当たり前である、と主張するが、これらの部分のみ原告と同じルビを付しており、矛盾している。 d 原告表現32 原告表現32の「金色剥落」は、金色と剥落をつなぎ合わせた造語であり、これは、一般的慣用語ではない。古佛発遣法則にこの用語を創作して用いたのはBであり、被告の複写行為以外に使用例は皆無である。「金色」と「剥落」に分解し、それぞれを一般用語であると述べるのは、詭弁にほかならない。 また、「A法則集」(乙17)は、原告書籍の発行より12年も後の平成17年8月21日に発行されたものであり、無意味である。 (オ) 古佛勸請法の項 被告が引用する法則文(乙16)は、古佛撥遣法であり、古佛勸請法とは別の法則文である。 ウ 原告書籍は、Bが天台宗で語り継がれてきた様々な経文の原典から、実際の法要において唱えるため、漢文から現代語に分かりやすく実践的に書き下ろした(現代語訳した)ものである。 この作成に当たっては、次のような観点から、創作的な工夫が凝らされている。すなわち、経本は、法要における、経本の読誦や作法による動作を通じた教義の実演のための翻訳読本であり、実演を補助するいくつかの要素として、直感的視認性、誤読経をさせない適切な文節区切り、文字を誤読しないためのルビ付けや送りがな、天台宗独特の音謡、延ばし・止めの表現、そして、各法要の対象や場所あるいは心得等を思想的に創作した用語が重要である。また、法則文原典の筆写による伝承内容や読み方の違いが生じ、漢文体の漢字の読み違いや不適切な文節区切りにより法則文の意味が不明になるなどの問題が生じている。さらに、経本の法則文は、法要の趣旨を瞬時に視覚的に把握でき、的確に読誦に反映できる紙面構成であることや、天台宗の法則における独特の抑揚、伸ばし・止め、一般と異なる漢字の読み方などの明白な表記を図ることが必要である。このようなことから、原告書籍では、全文にルビや送りがなを付し、発声上伸ばすべきところや間合いをとるべきところについては、ルビに「ー」を付したり、字間、行間を取ったりするなどして、視覚的に分かりやすく表現し、さらには原典には存在しない新しい文言を加えるなどしているのである。 特に、本件法則文のうち、「石塔開眼法則」(原告書籍43ないし49頁)、「古佛撥遣法」(原告書籍66ないし67頁)及び「古佛勸請法」(原告書籍68ないし69頁)については、「位牌開眼法則」や「塔婆開眼法則」のような各地方教区による現代語訳が原告書籍の発行まで1例もなく、原告書籍の創作性が明確である。 (被告の主張) ア 本件法則文は、次のとおり、他の書籍において既に公表されている法則文を単に転記したものにすぎない。 (ア) 本件法則文のうち、16ないし23頁の法則文 a 書籍名 法則集(乙1、以下「乙1書籍」という。) 発行者 天台宗南総教区教学法儀布教研修所 発行年月日 平成元年5月吉日 該当頁 57ないし59頁 b 書籍名 法則集一(乙2、以下「乙2書籍」という。) 発行者 天台宗栃木教区日光部法儀研究会 発行年月日 平成3年1月吉日 該当頁 119ないし124頁 (イ) 本件法則文のうち、43ないし49頁の法則文 書籍名 天台常用法儀集(乙3、以下「乙3書籍」という。) 発行者 仏書林金声堂 発行年月日 昭和33年11月3日 該当頁 93ないし95頁 (ウ) 本件法則文のうち、52ないし56頁の法則文 書籍名 常用法則集(乙4、以下「乙4書籍」という。) 発行者 天台宗東京教区宗務所 発行年月日 昭和39年9月20日 該当頁 102ないし106頁 (エ) 本件法則文のうち、66ないし69頁の法則文 乙3書籍 該当頁 214ないし216頁 イ 本件法則文のうち、原告が複製を主張する別紙侵害内容対比表記載の「原告の文章」欄の各表現に創作性がない理由は、次のとおりである。 (ア) 位牌開眼法則の項 a 原告表現2 原告は、原告表現2の「盡法界」の語法が、Bの変更創作に係るものである、と主張するが、当該語法は、古典「安樂集 上」(乙14の1)に既に所出されており、Bの創作に係るものではない。 b 原告表現4 原告は、原告表現4において、「道場・斉場・家屋」と法要の場所を特定する選択的な用語を創作して追加したと主張するが、原告主張のとおり、法要を営む場所としての名称を複数掲げて選択できるようにしたというだけのものであり、「道場・斉場・家屋」という場所を特定するための表現に何らかの創作性があるわけではない。 c 原告表現5 原告は、原告表現5において、戒名の後に尊称を加えるべきとの観点から、これに適する言葉として「靈位」を追加した、と主張するが、「靈位」とは、戒名の下に置かれる言葉として広く知られた文言である。また、「靈位」という言葉が追加されたことにより、該当部分に表出される思想・感情に変化が生じるわけではない。 d 原告表現7 原告は、原告表現7の「心月輪とは淨菩提心の體 本初不生の理なり」にルビを付したことが新たな創作である、と主張するものと思われるが、訓点を付することにより新たな著作物が生まれるわけではない。 e 原告表現9 原告は、原告表現9に創作して追加した部分がある、と主張するが、古典「安樂集 上」(乙14の1)に既に所出されている。 (イ) 石塔開眼法則の項 a 原告表現13 原告は、被告が原告表現13の「當處擁護」の「おうご」のルビを複写した、と主張するが、天台宗において「擁護」を「おうご」と読み下すことはごく当たり前のことであり、また、和化漢文に訓点を付することにより新たな著作物が生まれるわけでもない。 b 原告表現16 原告は、原告表現16の「靈域」は、Bにより変更創作された、と主張するが、「靈域」とは、元来「社寺などの神聖な地域や霊地」を指す一般用語であり、Bにより創作されたものではない。また、「道場」が「靈域」に変更されたからといって、そこに新たな思想・感情が創作されたわけでもない。なお、「道場」の意味は、原告が主張するとおりである。 c 原告表現19 原告は、被告が原告表現19の「輪圓具足の秘藏」の「りんねん」のルビを複写した、と主張するが、仏教用語として「輪圓」を「りんねん」と読み下すことはごく当たり前のことであり(音便)、また、和化漢文に訓点を付することにより新たな著作物が生まれるわけではない。 (ウ) 塔婆開眼法則の項 a 原告表現24 原告は、原告表現24の「靈域」は、Bにより変更創作された、と主張するが、上記(イ)bのとおり、「靈域」とは、元来「社寺などの神聖な地域や霊地」を指す一般用語であり、Bにより創作されたものではない。 b 原告表現27 原告は、原告表現27において、戒名の後に尊称を加えるべきとの観点から、これに適する言葉として「靈位」を追加した、と主張するが、上記(ア)cのとおり、「靈位」とは、戒名の下に置かれる言葉として広く知られた文言である。また、「靈位」という言葉が追加されたことにより、該当部分に表出される思想・感情に変化が生じるわけではない。 (エ) 古佛撥遣法の項 a 原告表現29 原告は、原告表現29の「『謹しみ』敬って・・・」は、Bにより創作追加された、と主張するが、比叡山求法寺に伝承される法則文(乙16)には、既に「謹しみ」の文言が挿入されていることから明らかなように、格別、Bによって創作されたものではない。 b 原告表現30 原告は、原告表現30の「『○○尊像』に・・・」と、Bが原文の「此尊像」を変更創作した、と主張するが、比叡山求法寺に伝承される上記法則文には、既に「・・・尊像」(「・・・」は空欄)との表記があることから明らかなように、佛名を特定するための表記方法は、Bにより創意されたものではない。 c 原告表現31 原告は、被告が原告表現31の「妙用」、「巨益」の「みょうゆう」、「こやく」のルビを複写した、と主張するが、仏教用語として「妙用」や「巨益」を「みょうゆう」、「こやく」と読み下すことはごく当たり前のことであり、また、和化漢文に訓点を付することにより新たな著作物が生まれるわけではない。 d 原告表現32 原告は、原告表現32の「金色剥落」の用語がBにより創作追加されている、と主張するが、「金色」は、「金色堂」の存在から明らかなとおり、一般に「金箔の貼られた黄金色の状態」と理解されており、また、「剥落」は、「はげ落ちる様」を示す一般用語である。これを組み合わせた「金色剥落」は、金箔の剥落した様を表現する一般用語であり、特段、Bにより創作された文言ではない。また、天台常用法儀集(乙3)では、佛像の修復を行う場合の代表的な場合として「破損」を挙げているが、金箔が剥落したため修復するような場合は「金色剥落」の用語を用いることもある。なお、「古佛撥遣法」が、古仏像の腕が取れてしまったり、金箔が剥がれ落ちたりして、修復が必要となり、修復のために退避してもらう際に唱えるものであること、仏像は金箔で覆われたものが多いことは、いずれも認める。 元来、佛像や堂宇の修復落成法要は数多くあり、その都度、寺院の由来、修復に至る間の状況や修復の努力等が法則文中に述べられるものである。その事情によって法則文の表現は千差万別であり、そのような個々の法要で述べられた法則文が著作物性を有することはあっても、「金色剥落」との文言の追加のみによって新たに創作物となるものではない。 (オ) 古佛勸請法の項 原告は、原告表現35の「『謹しみ』敬って・・・」は、Bにより創作追加された、と主張するが、上記(エ)aのとおり、比叡山求法寺に伝承される法則文(乙16)には、既に「謹しみ」の文言が挿入されていることから明らかなように、格別、Bによって創作されたものではない。 (カ) 上記(ア)ないし(オ)のとおり、Bが新たに創作したと主張するものは、いずれも既存の法則文の中の片言隻句であり、そのようなわずかな挿入語句により、当該法則文が伝えようとしている「思想、感情」に新たな創作性が付加されるものではない。 もちろん、和化漢文にルビや送り仮名等の訓点を付す行為や、延ばし・止めなどの表記が、新たな著作物を創作するものではないことも明らかである。 ウ 法則文は、基本的には、法要のたびに、仏の徳を讃嘆し、法儀の功徳と施主の願意を述べて修法の成就を祈る文章であり、その趣旨からすれば、法要ごとに自作しなければならないものとされているが、法儀の内容によって所定の形式が確立してきた今日においては、例文の要点にその法要に関わる趣旨を挿入することが慣行となっている。 天台宗の法則文もこの原則によるが、法要の主旨(葬儀・年忌・施餓鬼・塔婆供養・石塔開眼など)の際には、一定の例文をもって自作に換えて読む例が多い。その場合の例文の作者は特定できないことが多く、古来からの伝承による例文集(阿裟縛鈔・浅学教導集など)を参照している。 本件法則文は、天台宗において開宗以来約1200年にわたって形成され、引き継がれてきたものであるという性格上、本来的に天台宗の僧侶の誰に対しても自由な利用が許されるべきであって、特定の者にその権利を独占させることは相当でない。 エ 原告は、原告書籍が「原典」の翻訳又は翻案に係る二次的著作物であると主張しているものと思われる。 そうであるとすれば、二次的著作物も著作物である以上、原著作物とは別の「思想・感情」が「創作的」に「表現」されていなければならない。 しかし、原告が主張する、ルビや送りがなを付すなどして視覚的に分かりやすくすることによっても、何ら新たな「思想・感情の創作的な表現」を加えるものではない。現代語訳についても、既に天台宗の僧侶が主催する多くの法要において読み下されている訓点が付された原典を、そのまま読み下して文章化したものにすぎず、やはり、何ら新たな「思想・感情の創作的な表現」はない。本件法則文のうち、これまで現代語として書き下されたことがないものがあったとしても、訓点の付された和化漢文(変体漢文)を正確適切に日本語に読み替えたにすぎず、その外的表現にも創意を加えるものではないから、新たな著作物とはなり得ない。 (2) 争点(1)イ(本件法則文と被告法則文の同一性)について (原告の主張) ア 被告法則文は、本件法則文をほぼそのまま複製したものである。 被告法則文による本件法則文についての出版権侵害の詳細は、別紙侵害内容対比表の「侵害内容」欄記載のとおりである。 イ 原告表現5 原告書籍では、「○○靈位の靈牌を建立し」と表現されているのに対し、被告書籍では、「○○(法名)霊位の霊牌を造立し」と表現され、「(法名)」が加えられているが、この部分は全く異なるものとはいえない。 原告書籍は、俗名の場合の事情も考慮し、「(法名)」などとは限定していない。外国人などの例もあるからである。この勝手な無断改変が、さらに問題なのである。 ウ 原告表現30 被告は、被告書籍における「○○(此の)尊像」との表現が、具体的な佛名を唱える場合、具体的な佛名を唱えない場合のいずれにも対応できるような表現となっている、と主張するが、この主張は、古佛撥遣法と古佛勸請法との法則文としての連続性を考慮しないものであり、思想的背景がない。 (被告の主張) ア 被告法則文が、本件法則文をほぼそのまま複製したものである、との主張は、争う。 イ 原告表現5 原告は、原告表現5において、戒名の後に尊称を加えるべきとの観点から、これに適する言葉として「靈位」を追加した点を、被告が複写した、と主張する。しかし、原告書籍では、「○○靈位の靈牌を建立し」と表現されているのに対し、被告書籍では、「○○(法名)霊位の霊牌を造立し」と表現されており、原告が主張するように、わずかな文言の追加や変更等により新たな著作物性を得るというのであれば、両書籍の表現は全く異なるものというべきである。 ウ 原告表現30 原告は、原告表現30の「『○○尊像』に・・・」と、Bが原文の「此尊像」を変更創作した点を、被告が複写した、と主張する。しかし、被告書籍では、「○○(此の)尊像」と表記し、具体的な佛名を唱える場合、具体的な佛名を唱えない場合のいずれにも対応できるような表現となっている。 (3) 争点(2)(損害の発生の有無及びその額)について (原告の主張) ア 被告は、被告書籍の初版を少なくとも1000部販売した。初版1部の代金は、3万8000円であり、初版の売上額は、3800万円(38、000円×1、000部=38、000、000円)である。 被告は、被告書籍の第2版を少なくとも500部販売した。第2版1部の代金は、4万8000円であり、第2版の売上額は、2400万円(48、000円×500部=24、000、000円)である。 初版及び第2版の売上額の合計6200万円(38、000、000円+24、000、000円=62、000、000円) から、費用合計884万8000円(制作費700万円、発送費90万円及び諸経費94万8000円)を控除すると、被告が受けた利益の額は、5315万2000円(62、000、000円−8、848、000円=53、152、000円)となる。 被告が受けたこの利益の額は、著作権法114条2項により、原告が受けた損害の額と推定される。 イ 被告書籍の販売元は、四季社であるが、被告は、四季社及びCと共同して原告の出版権を侵害しているのであるから、四季社及びCと連帯してその損害を賠償すべきものである。 仮に、これが認められなくても、被告は、四季社の取締役を務めており、実質的に被告書籍の販売に深く関与していたのであるから、被告が受けた利益は、原告主張の損害と同額と認定されるべきである。 (被告の主張) 被告が、被告書籍に関係して5315万2000円の利益を受けたとの主張は、否認する。被告は、四季社から監修料の支払を受けたのみである。 第3 争点に対する判断 1 争点(1)ア、イ(本件法則文の著作物性、本件法則文と被告法則文の同一性)について (1)出版権者は、設定行為で定めるところにより、頒布の目的をもって、その出版権の目的である著作物を、原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製する権利を専有する(著作権法80条1項)。 したがって、被告が、原告の有する出版権を侵害したというためには、被告が、頒布の目的をもって、その出版権の目的である著作物を、原作のまま印刷その他の機械的又は化学的方法により文書又は図画として複製したことが必要である。 また、著作物の複製(著作権法21条、2条1項15号)とは、既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足りるものを再製することをいう(最高裁昭和50年(オ)第324号同53年9月7日第一小法廷判決・民集32巻6号1145頁参照)。 そして、著作権法は、思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(著作権法2条1項1号)、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイディア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、複製に当たらないと解するのが相当である(最高裁平成11年(受)第922号同13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁参照)。ここで、表現上の創作性とは、独創性を有することまでは要せず、筆者の何らかの個性が発揮されていることで足りると解すべきであるが、創作物が言語によるものである場合、ごく短い表現や、平凡かつありふれた表現などにおいては、筆者の個性が発揮されているということは困難であり、創作的な表現であるとはいえないと解すべきである。 そこで、以下、原告が本件法則文と被告法則文との同一性を主張する箇所ごとに検討する。 (2)位牌開眼法則(原告書籍16ないし23頁) ア 原告表現2 原告表現2は、位牌開眼法則の「・・・盡法界一切の三寳に白して言さく・・・」(原告書籍16ないし17頁)の「盡法界」の部分である。 証拠(乙1、2、14の1・2)によれば、天台宗南総教区教学法儀布教研修所発行の乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現2に相当する箇所には、「・・・尽空法界一切の三宝に・・・」(57頁)との表現があること、天台宗栃木教区日光部法儀研究会発行の乙2書籍の原告表現2に相当する箇所には、「・・・尽空法界の一切の三宝に・・・」(119頁)との表現があること、比叡山聖尊院所蔵の「安樂集」(乙14の1・2。以下「乙14書籍」という。)の原告表現2に相当する箇所には、「・・・盡法界一切ノ三寳ニ・・・」との表現があることが認められる。乙14書籍が古くからある書籍であることについて、原告も古式の資料であることは認めており、その体裁等から、原告書籍の発行以前に発行されていたものと推認される(以下、乙14書籍を証拠として用いる場合は同様)。 上記認定の事実によれば、原告表現2は、ごく短いものであり、また、原告書籍発行以前に発行されていた書籍(乙1書籍、乙2書籍及び乙14書籍)に類似した、あるいは、これらの書籍において同一の表現が用いられているなど、平凡でありふれた表現であるということができるから、筆者の個性が表現されたものとはいえない。 したがって、原告表現2は、創作的な表現であるということはできない。 イ 原告表現4 原告表現4は、位牌開眼法則の「・・・今此の道場/斉場/家屋に於いて新たに○○靈位の靈牌を建立し・・・」(原告書籍17頁。「道場」「斉場」及び「家屋」は、3列に並べて記載されている。)の「道場/斉場/家屋」の部分である。 証拠(乙1、2、14の1・2)によれば、乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現4に相当する箇所には、「・・・今此の道場に於て・・・」(57頁)との表現があること、乙2書籍の原告表現4に相当する箇所には、「・・・○○家の浄室に於いて・・・」(120頁)との表現があること、乙14書籍の原告表現4に相当する箇所には、「・・・今此ノ靈塲ニ於テ・・・」との表現があることが認められる。 上記認定の事実及び証拠(甲2)によれば、原告表現4の「道場/斉場/家屋」は、法要を行う場所を特定する文言を述べる部分であることが認められる。そして、「斉場」及び「家屋」は、いずれも法要を行う場所として一般的であるから、「道場」に、法要を行う場所を特定する選択的な用語として「斉場」及び「家屋」を追加した原告表現4は、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 ウ 原告表現5 原告表現5は、位牌開眼法則の「・・・今此の道場/斉場/家屋に於いて新たに○○靈位の靈牌を建立し・・・」(原告書籍17頁。「道場」「斉場」及び「家屋」は、3列に並べて記載されている。)の「靈位の」の部分である。 証拠(乙1、2、14の1・2)によれば、乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現5に相当する箇所には、「・・・新に(戒名)霊牌を造立し・・・」(57頁)との表現があること、乙2書籍の原告表現5に相当する箇所には、「・・・新たに○○居士(大姉)霊牌を建立し・・・」(120頁)との表現があること、乙14書籍の原告表現5に相当する箇所には、「・・・新ニ某居士/大姉靈牌ヲ建立シ・・・」(「居士」及び「大姉」は、2列に並べて記載されている。)との表現があることが認められる。また、証拠(乙15)によれば、国書刊行会発行の書籍「諷誦・歎徳・表白・引導大宝典」(昭和59年1月発行。乙15)には、戒名の下に置く文言として、「居士」及び「霊位」が掲げられていることが認められる。 上記認定の事実によれば、原告表現5の直前の「○○」には戒名が入れられるものであるところ、「靈位」という表現は、戒名の下に置く用語としてありふれたものであり、また、それを前提にすれば、戒名の下に「靈位」という文言を付加する表現もありふれたものである。そうすると、原告表現5は、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 エ 原告表現7 原告表現7は、位牌開眼法則の「・・・心月輪(編注;「心月輪」の上に「しんがちりん」というルビあり)のとは淨菩提心(編注;「淨菩提心」の上に「じょうぼだいしん」というルビあり)の體(編注;「體」の上に「すがた」というルビあり)本初不生(編注;「本初不生」の上に「ほんしょふしょう」というルビあり)の理(編注;「理」の上に「ことわり」というルビあり)なり・・・」(原告書籍19頁)の部分である。 証拠(乙1、2)によれば、乙1書籍の「位牌開眼法則」の項の原告表現7に相当する箇所には、「・・・心月輪は浄菩提心の体 本初不二の理なり・・・」(58頁)との表現があること、乙2書籍の原告表現7に相当する箇所には、「・・・心月輪(編注;「心月輪」の上に「しんがちりん」というルビあり)とは浄菩提心(編注;「淨菩提心」の上に「じょうぼだいしん」というルビあり)の躰(編注;「躰」の上に「たい」というルビあり)にして、本初不生(編注;「本初不生」の上に「ほんしょふしょう」というルビあり)の理也(編注;「理也」の上に「りなり」というルビあり)・・・」(122頁)との表現があることが認められる。 上記認定の事実によれば、「・・・心月輪とは淨菩提心の體 本初不生の理なり・・・」との原告表現7は、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえない。 また、原告は、地区ごとに読み方に違いが生じているものを統一するため、また、漢字の読み違いにより法則文の意味を不明にすること及び読経に違和感を抱かせることを防止するため、ルビを付したというのであるから、ルビを付す場合に、当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし、原告表現7についてルビを付すことが、筆者の個性を表現するものということもできない。 したがって、原告表現7は、創作的な表現であるということはできない。 オ 原告表現9 原告表現9は、位牌開眼法則の「南無摩訶毘廬遮那如來/南無金剛手菩薩/乃至法界平等利益の爲に/南無摩訶毘廬遮那如來/決定法成就の爲に/南無摩訶毘廬遮那如來/南無金剛手菩薩/南無佛眼部母菩薩/南無一字金輪佛頂/南無一切三寳」(/は改行。原告書籍21ないし23頁)の部分である。 証拠(乙14の1・2)によれば、乙14書籍の原告表現9に相当する箇所には、「南無摩訶毘廬遮那如來/南無金剛手菩薩/乃至法界平等利益ノ爲メニ/南無摩訶毘廬左那如來/決定法成就ノ爲メニ/南無摩訶毘廬舎那如來/南無金剛手菩薩/南無佛眼部母菩薩/南無一字金輪佛頂/南無一切三寳」(/は改行)との表現があることが認められる。 上記認定の事実によれば、原告表現9は、原告書籍における創作部分ではなく、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 (3)石塔開眼法則(原告書籍43ないし49頁) ア 原告表現13 原告表現13は、石塔開眼法則の「・・・諸宿曜等(編注;「諸宿曜等」の上に「しよしゆようとう」というルビあり)・・・」、「・・・當處擁護(編注;「當處擁護」の上に「とうしよおうご」というルビあり)・・・」及び「・・・本命曜宿(編注;「本命曜宿」の上に「ほんめいようしゆく」というルビあり)・・・」(原告書籍44頁)のルビの部分であるところ、上記(2)エの場合と同様に、当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし、これらの語句についてルビを付すことが、筆者の個性を表現するものであるということもできない。したがって、原告表現13は、創作的な表現であるということはできない。 イ 原告表現16 原告表現16は、石塔開眼法則の「・・・今此の靈域に於いて・・・」(原告書籍46頁)の「靈域」の部分である。 証拠(甲2)によれば、原告表現16の「靈域」は、法要を行う場所を特定する文言を述べる部分であることが認められる。そして、「道場」が、霊廟その他死者をまつるための一戸建ての家を意味する用語であることに争いはなく、弁論の全趣旨によれば、「靈域」は、寺院、墓地その他の神聖な場所を広く含む一般的な用語であると認められるから、法要を行う場所を特定する用語として、「道場」を「靈域」に置き換えた原告表現16は、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 ウ 原告表現19 原告表現19は、石塔開眼法則の「・・・輪圓具足(編注;「輪圓具足」の上に「りんねんぐそく」というルビあり)の秘藏(編注;「秘藏」の上に「ひぞう」というルビあり)・・・」(原告書籍47頁)のルビの部分であるところ、上記(2)エの場合と同様に、当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし、これらの語句にルビを付すことが筆者の個性を表現するものであるということもできない。したがって、原告表現19は、創作的な表現であるということはできない。 (4)塔婆開眼法則(原告書籍52ないし56頁) ア 原告表現24 原告表現24は、塔婆開眼法則の「・・・此の靈域に於て・・・」(原告書籍46頁)の「靈域」の部分である。 証拠(甲2)によれば、原告表現24の「靈域」は、法要を行う場所を特定する文言を述べる部分であることが認められる。そして、「道場」が、霊廟その他死者をまつるための一戸建ての家を意味する用語であることに争いはなく、上記(3)イ認定のとおり、「靈域」は、寺院、墓地その他の神聖な場所を広く含む一般的な用語であると認められるから、法要を行う場所を特定する用語として、「道場」を「靈域」に置き換えた原告表現24は、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 イ 原告表現27 原告表現27は、塔婆開眼法則の「・・・○○靈位○○回忌の忌辰を迎えて・・・」(原告書籍55頁)の「靈位」の部分である。 証拠(乙4)によれば、天台宗東京教区宗務所発行の乙4書籍の原告表現27に相当する箇所には、「・・・(戒名)○回忌の忌辰を迎えて・・・」(105頁)との表現があることが認められる。 上記認定の事実によれば、原告表現27の直前の「○○」には戒名が入れられるものであると認められるところ、上記(2)ウ認定の事実によれば、「靈位」という表現は、戒名の下に置く用語としてありふれたものであり、また、それを前提にすれば、戒名の下に「靈位」という文言を付加する表現もありふれたものである。そうすると、原告表現27は、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 (5)古佛撥遣法(原告書籍66ないし67頁) ア 原告表現29 原告表現29は、古佛撥遣法の「謹しみ敬って○○尊像に・・・」(原告書籍66頁)の「謹しみ」の部分である。 証拠(乙3、13、16)によれば、仏書林金声堂発行の乙3書籍の「古佛撥遣法」の項の原告表現29に相当する箇所には、「敬テ此尊像ニ・・・」(214頁)との表現があること、武覚圓作成の手文「古佛撥遣法」(発行年不明。乙16。以下「乙16手文」という。)の原告表現29に相当する箇所には、「謹しみ敬って『・・・』尊像に・・・」(『・・・』内は空白)との表現があることが認められる。 上記認定の事実によれば、「敬って」の前に「謹しみ」を付加した原告表現29は、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 イ 原告表現30 原告表現30は、古佛撥遣法の「謹しみ敬って○○尊像に・・・」(原告書籍66頁)の「○○尊像」の部分である。 証拠(乙3、13、16)によれば、乙3書籍の「古佛撥遣法」の項の原告表現30に相当する箇所には、「敬テ此尊像ニ・・・」(214頁)との表現があること、乙16手文の原告表現30に相当する箇所には、「謹しみ敬って『・・・』尊像に・・・」(『・・・』内は空白)との表現があることが認められる。 上記認定の事実によれば、「此尊像」に代えて「○○尊像」という用語を用いた原告表現30は、原告書籍の創作部分ではなく、また、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 ウ 原告表現31 原告表現31は、古佛撥遣法の「・・・以來(編注;「以來」の上に「このかた」というルビあり)・・・」、「・・・三身萬徳(編注;「三身萬徳」の上に「さんじんまんどく」というルビあり)・・・」、「・・・妙用(編注;「妙用」の上に「みようゆう」というルビあり)・・・」、「・・・利益衆生(編注;「利益衆生」の上に「りやくしゆじよう」というルビあり)・・・」及び「・・・巨益(編注;「巨益」の上に「こやく」というルビあり)・・・」(原告書籍66頁)のルビの部分であるところ、上記(2)エの場合と同様に、当該箇所のルビについて他の表現を選択する余地はほとんどないし、これらの語句についてルビを付すことが、筆者の個性を表現するものであるということもできない。したがって、原告表現31は、創作的な表現であるということはできない。 エ 原告表現32 原告表現32は、古佛撥遣法の「然るに今(頗る破損/金色剥落し給うに及ぶ・・・」(原告書籍66頁。「頗る破損」及び「金色剥落」は、2列に並べて記載されている。)の「金色剥落」の部分である。 証拠(甲2)によれば、古佛撥遣法の上記「然るに今(頗る破損/金色剥落し給うに及ぶ・・・」の部分は、古仏像を修復することとなった理由を述べる部分であると認められる。そして、「古佛撥遣法」が、古仏像の腕が取れるなどして、その一部が破損したり、金箔が剥がれ落ちたりして、古仏像の修復が必要となり、修復のための間、当該神仏に退避してもらう際に唱えるものであること、古仏像は金箔で覆われたものが多いことは、当事者間に争いがない。 これらの事実によれば、古仏像の修復の一例として、古仏像の金箔が剥がれ落ちた場合を想定し、古佛撥遣法において、古仏像を修復することとなった理由として、金箔が剥がれ落ちた旨を述べることは、平凡でありふれたものということができ、また、「金色堂」の語からも、「金色」は、金箔の貼られた状態を意味する表現として平凡でありふれたものということができる。そして、「剥落」は剥がれ落ちることを名詞で表現したものにすぎない。したがって、古佛撥遣法において、古仏像を修復することとなった理由として、「頗る破損」に、選択的な用語として「金色剥落」を追加した原告表現32は、ごく短く、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない。 (6)古佛勸請法(原告書籍68ないし69頁) 原告表現35は、古佛勸請法の「謹しみ敬って此の尊像に・・・」(原告書籍68頁)の「謹しみ」の部分である。 証拠(乙3)及び弁論の全趣旨によれば、乙3書籍の「古佛勸請法」の項の原告表現35に相当する箇所には、「敬此尊像ニ・・・」(216頁)との表現があることが認められる。 上記認定の事実及び上記(5)ア認定の事実によれば、「敬って」の前に「謹しみ」を付加した原告表現35は、平凡でありふれた表現であり、筆者の個性が表現されたものとはいえないから、創作的な表現であるということはできない(なお、原告は、乙16手文が古仏撥遣法であり、古仏勸請法とは別の法則文である旨主張するところ、両者がその法則文としての性格及び役割等において異なるとしても、法則文一般における表現の創作性を検討する際に、そのような役割等の相違は格別問題とならないものと解すべきであるから、原告の上記主張を採用する余地はない。)。 (7)小括 上記(2)ないし(6)のとおり、原告が本件法則文と被告法則文との同一性を主張する箇所は、いずれも、創作的な表現であるとは認められないので、本件法則文と被告法則文とは、仮に、同一性を有するとしても、表現上の創作性のない部分において同一性を有するにすぎないから、被告法則文が本件法則文を複製したものであるということはできない。 したがって、原告による出版権侵害の主張は、理由がなく、本件法則文について原告が有する出版権の侵害を理由とする損害賠償請求も、理由がない。 2 なお、原告は、本件法則文についての同一性保持権が侵害された旨の主張をするが、原告は、Bが本件法則文を作成したと主張するものであることが明らかであり、原告が著作者であることを認めるに足りる証拠はなく、原告が本件法則文について同一性保持権を有するとは認められない。 したがって、原告による同一性保持権侵害の主張は、理由がない。 第4 結論 以上によれば、原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第29部 裁判長裁判官 清水節 裁判官 山田真紀 裁判官 東崎賢治 (別紙)侵害内容対比表 (注)略語の意義については、別紙略語解説一覧のとおり。
(別紙)別紙略語解説一覧
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