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【事件名】ジョン万次郎像の氏名表示権侵害事件
【年月日】平成17年6月23日
 東京地裁 平成15年(ワ)第13385号 著作者人格権確認等請求事件
 (口頭弁論終結の日 平成17年4月21日)

判決
原告 A
訴訟代理人弁護士 永島孝明
同 伊藤晴國
同 明石幸二郎
同 安國忠彦
被告 B@
訴訟代理人弁護士 藤井正夫


主文
1 原告が別紙物件目録の1及び2に記載の各銅像について、著作者人格権(氏名表示権)を有することを確認する。
2 被告は、別紙通知目録(1)記載の通知先に同目録記載の内容を通知せよ。
3 被告は、別紙通知目録(2)記載の通知先に同目録記載の内容を通知せよ。
4 原告のその余の請求を棄却する。
5 訴訟費用は、これを2分し、その1を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実及び理由
第1 請求
1 主文第1項と同旨
2 被告は、別紙通知目録(3)記載の通知先に同目録記載の内容を通知せよ。
3 被告は、別紙通知目録(4)記載の通知先に同目録記載の内容を通知せよ。
4 被告は、原告に対し、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞及び産経新聞の各朝刊全国版社会面広告欄に、別紙謝罪広告目録記載の広告文を同目録記載の掲載条件で1回掲載せよ。
第2 事案の概要等
1 本件は、彫刻家である原告が、被告から、別紙物件目録1記載の中濱万次郎(通称ジョン万次郎)の銅像(昭和43年完成。以下「ジョン万次郎像」という。)及び、別紙物件目録2記載のCの銅像(昭和45年完成。以下「C像」という。以下、上記2体の銅像をまとめて「本件各銅像」ともいう。)の制作を依頼され、その塑像を制作したにもかかわらず、上記各銅像の台座部分には、被告の通称(「BA。以下同様とする。)が表示されているとして、被告に対し、上記各銅像について、原告が著作者人格権(氏名表示権)を有することの確認(請求の趣旨第1項)と、これに伴い、被告に対し、銅像の所有者ないし管理者(以下「所有者等」という。)に各銅像の制作者が原告であることとその表示を原告名義に改めるように通知すること(同第2項及び第3項)及び謝罪広告(同第4項)を求めている事案である。
2 前提となる事実等(当事者間に争いのない事実並びに後掲各証拠及び弁論の全趣旨により認められる事実)
(1) 当事者
ア 原告(後に掲げるもののほか、甲66及び弁論の全趣旨)
a) 原告は、明治44年10月23日、洋画家である父Dと日本画家である母Eの間の長男として東京で生まれ、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学する前に、父の勧めで彫刻家のFに弟子入りし、昭和4年に東京美術学校彫刻科に進学して、昭和13年、東京美術学校彫刻科を卒業した。
 原告は、東京美術学校在学中の昭和7年に、女性の頭像で帝展(現在の日展)に入選し、同校を卒業後も彫刻家として活動していたものの、昭和14年に徴兵されたため、いったん制作活動の中止を余儀なくされ、終戦後、現在の自宅兼アトリエにおいて、制作活動を再開した。
b) 主な作品等(甲1)
 原告が昭和14年に制作した「モギレフスキイ像」は、当時、美術雑誌(甲64)で取り上げられ、「相當の熟達した技術をしめしてゐる」と高く評価された。
 原告は、昭和18年に、新制作協会が主催する新制作展に出品して新作家賞を受賞した(甲29)。原告は、昭和24年には、新制作派協会会員となり、同展に人物頭像、人物小品等を出品した。昭和27年以降は、平和美術展、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品するようになった。
 原告は、昭和46年には「藤原義江像」で第2回中原悌二郎賞を受賞し、平成9年にはフランス、モン・ド・マルサン市デスピオーブレリック美術館で開催された「ヒューマニズムの系譜−日本の具象彫刻10人展:1930s−1950s」の中の作家として選ばれ、同展に「演奏中のモギレフスキイ」(アレキサンダ・モギレフスキイ像ほか4点)を出品した。
 原告が制作した立像には次のものがある。
@ 昭和35年 笛吹く人 高さ約80センチメートル(甲31)
A 昭和38年 若山牧水像 高さ約110センチメートル(甲32の1〜3)
B 昭和49年 チャイナロック像 高さ約170センチメートル(甲33の1、2)
C 昭和56年 大隈重信像 高さ約170センチメートル(等身大)(甲34)
D 昭和59年 G像 高さ約160センチメートル(甲35の1〜4)
E 昭和60年 母子像 高さ約175センチメートル(甲36)
c) 職歴
 原告は、昭和40年4月1日から昭和51年3月31日まで武蔵野美術大学において非常勤講師として、昭和43年度から昭和53年度まで東京造形大学において非常勤教員として、昭和48年10月1日から昭和51年3月31日まで九州産業大学において芸術学部美術科教授として、昭和51年4月1日から昭和57年3月31日まで多摩美術大学において美術学部教授として、昭和57年4月1日から平成5年3月31日までは、同大学美術学部の客員教授として、彫刻の実技のほか、彫刻制作に関連する解剖学、遠近法等について、教鞭をとった。
イ 被告(後に掲げるもののほか乙60、74及び弁論の全趣旨)
a) 被告は大正9年1月10日に生まれ、昭和15年から彫刻家Hのアトリエで彫刻を習い始めたものの、昭和18年に兵役のためこれを中止せざるを得なくなり、昭和20年に復員した後、被告の義弟である多摩美術大学教授Iに、彫刻家で東京美術学校名誉教授であったJを紹介されて、Jの門下となり、昭和25年に早稲田大学文学部文学科芸術学専攻を卒業した(乙62)。
 被告は、原告と、昭和24年か、昭和25年ころ、当時、被告が付き合っていたJの長女Lを通して知り合ったものである(甲66・3頁、乙97・2 頁)。
 被告は、昭和24年から昭和28年においては、東京芸術大学彫刻科主任教授Mの弟子となり、同教授の彫刻「平和の像」の制作の手伝いを行うなどして彫刻に携わり、自らも彫刻の作品を出品するなどしていた。
 被告は、中学生のころに柔道を学び、早稲田大学時代は、レスリング部に所属していたが、昭和27年(1952年)のあるとき、知人から柔道ができるならそれを利用して、彫刻の本場欧州に勉強に行くように勧められ、翌年の昭和28年4月20日、ローマに到着し、同年10月に入学試験(実技)を受け、同年11月にイタリア国立ローマ芸術アカデミー(以下、単に「アカデミー」という。)彫刻科2年生に編入入学した。しかし、実技や口頭試問(美術史)には合格したが、学科(解剖学)1科目の筆記試験は2年続けて落第し、3年目からはアカデミーに登録していない。被告は、アカデミーに通っていた期間、週に1度、イタリア体育協会のレスリング道場等で、柔道指導のアルバイトを行っていた。
 被告は、その後、昭和31年5月、イタリア国内務省から、同省管轄下の全イタリア警察職員に対し柔道の指導をして欲しい旨の依頼を受け、週1回2時間ずつ指導していた。被告は、世界選手権等の試合があるときは、10日間ほど強化訓練をし、昭和34年10月に被告の前妻であるNと婚姻してからは、その生活費を工面するため、さらに週に1度、イタリア財務省管轄の税関職員にも柔道の指導をしていた。。
 昭和39年の東京オリンピックの際に柔道が正式種目に採用されたことから、柔道の経験者であり、同国の警察で柔道を教えていた被告は、同国の柔道関係者の中において重用され、同オリンピックのイタリアナショナルチームのコーチとしてイタリアから来日し、オリンピック閉会後は、イタリア選手団と共にイタリアへ戻ったこともあった。
 被告は、昭和44年から平成11年までの30年間、イタリア政府所有のローマ市中心地の賃貸アトリエの一戸を借りていたが、現在は、そのアトリエを引き払っている。
b) 作品等
 被告は、昭和26年に第13回新制作派展に出展した「青年像」(2mのもの。(モデル)O。乙1)、昭和48年に第27回新樹会展に出展した「K氏像(北野建設社長胸像)」(1.5mのもの。乙2)、昭和49年に第28回新樹会展に出展した「P選手」の浮彫(ミュンヘンオリンピック金メダル。2m×1.3mのもの。乙6)、制作年代は不明だが、ローマ市大統領府P.S.長官室にある「ピエタの模刻(浮彫)」(0.6mのもの。乙11)、Q邸にある「魚を持つ女(噴水)」(1.3mのもの。乙12)、不二家本社(銀座)にある「ポンペイのイルカと戯れる少年像」(0.7mのもの。乙14)などの作品を制作した。
 なお、被告が昭和23年(1948年)に制作した胸像(1.5mのもの。(モデル)R)は日展(旧帝展)に入選し、また、同年に制作された青年像(2mのもの。(モデル)S)は、読売新聞主催による読売アンデバンダン展にも入選したほか、昭和24年(1949年)、昭和25年(1950年)とその前後の1回、新制作派展にも入選している(乙74・7頁参照)と被告は主張するが、いずれもこれを裏付ける証拠はない。
c) 被告とイタリアの彫刻家Tとの関係
 被告は、アカデミーにおいて、被告の担当教授であったU教授が急死した後に担当教授となったのがTであったことから、同人と親しくなった。被告は、昭和60年、Tの作品に関し、日本国内でのすべての販売取引を行う代理権をTから授与され、東京都世田谷区立美術館がTの作品を購入する際にも尽力した。
(2) 銅像
ア ジョン万次郎像の台座部分には、被告が通称として使用していた「BA」の名称が、「一九六八年四月二十日」の日付とともに刻まれている(甲4、乙63)。
イ C銅像の台座部分には、「BB ROMA 203」と刻まれ、その頭頂部には、「A@」とアルファベット文字が刻まれている(甲6、7)。
第3 争点及び争点に関する当事者の主張
1 争点
(1) 原告が本件各銅像について著作者人格権(氏名表示権)を有することの確認請求について確認の利益はあるか。
(2) ジョン万次郎像の著作者は原告か被告のいずれか。
(3) C像の著作者は原告か被告のいずれか。
(4) 本件各銅像についての著作者名の通知訂正請求の可否
(5) 謝罪広告請求の適否
(6) 著作者人格権に基づく上記各請求について、消滅時効が成立しているか、あるいは、権利失効の原則が適用されるか。(以下、順次「争点1」、「争点2」などという。)
2 争点1に関する当事者の主張
(1) 被告の主張
 原告は、本件においては、本来、給付の訴えを提起することが可能であるから、請求の趣旨第1項の確認請求について、確認の利益を有しない。また、原告の氏名表示権に基づく請求権が、消滅時効ないし権利失効の原則により消滅しており、給付の訴えを提起してもその請求が認められないのであるから、確認の訴えが認められることはない。
 原告は、本件各銅像の所有権者である土佐清水市ないし駿河銀行に対して本件各銅像の氏名表示権確認の訴えをなすべきであり、被告に当事者適格はない。
 以上によれば、本件各銅像についての著作者人格権(氏名表示権)の確認請求は却下されるべきである。
(2) 原告の主張
 争う。
3 争点2及び3に関する当事者の主張
(1) 原告の主張
ア ジョン万次郎像の制作依頼の経緯等
 被告は、昭和40年ころ、当時参議院議員であったV及びVの秘書であったWと交流があった。被告は、Wの出身地である土佐清水市において、ジョン万次郎像建設の計画が持ち上がったとき、Wを介してその制作を請け負った。しかし、被告は、彫刻家でなかったことから、彫刻家である原告にその制作を依頼した。
 原告は、昭和42年10月ころ、当時東京都港区(以下省略)にあった青山レスリング会館において、ジョン万次郎の塑像制作に着手し、約6か月で塑像の制作を終えた。その後、同塑像については、被告の知人であったXによって石膏がなされ、さらにYによって鋳造がなされ、昭和43年にジョン万次郎像が完成した。
イ ジョン万次郎像の制作報酬
 被告は、原告に対し、ジョン万次郎像の制作報酬について具体的な金額の提示をしていなかった。原告は、塑像完成の某日、Vの秘書のWから呼び出され、100万円の制作報酬の提示を受けたものの、その金額が低廉であったこと、その一部を被告の当時の妻Nに渡すように頼まれたことから、その全額をNに渡して欲しいと申し出、自らは受け取らなかった。
 被告は、ジョン万次郎像の制作に対し、被告が受ける報酬について、無報酬であったと主張する。しかし、ジョン万次郎像の制作を被告に対し依頼したのは中浜万次郎銅像建設青年会である(甲17)。被告は、昭和42年10月1日付けで、同会との間で、1500万円でジョン万次郎像を制作する旨の契約を締結し(甲50)、同会から6回にわたり、合計1500万円を受領していた(甲51の1ないし6)。
 被告は、原告に報酬を払っていないことを正当化するために、無報酬でジョン万次郎像を制作したと言っているにすぎない。
ウ ジョン万次郎像の塑像の制作
 原告は、被告から50ないし60センチメートルの和服袴姿の石膏像を完成品の素描として示された。ただし、この石膏像は、被告がジョン万次郎像のエスキスであると主張する1メートルの高さのジョン万次郎の小像とは異なる。原告は、この小像は見ていない。
 原告は、ジョン万次郎像のイメージを作るために、Emily V.Warinner著の「Voyager to Destiny」(甲14)及びジョン万次郎の写真(甲15)を参考とした。
 原告は、これらの資料を参考にジョン万次郎のイメージを思い描き、彫塑に臨んだ。
 ジョン万次郎像は、高さ4メートルの巨大な作品となることが予定されていたことから、彫塑に適した場所として、被告に青山レスリング会館を用意してもらった。
 彫塑は、心棒の組立てに始まる(なお、心棒とは、一般に彫塑の際に作品の中心となる芯の部分のことをいうが、文字どおり「芯」として骨格の中心を構成する部材のみならず、その上に立体的に組み上げれらる塑像の骨格全体を指す。)。また、巨大な塑像の制作においては、粘土付けをするに先立ち、木材や鋼材を用いて行う心棒制作は極めて重量な作業である。
 原告は、心棒制作に約1週間を要した。
 原告は、心棒制作の完了後、粘土付けを開始し、塑像の腕の部分の制作をしている際に、ジョン万次郎像の左手にコンパスと三角定規を持たせることにした。
 原告は、単純な雑用を除き、一人で塑像の制作作業を行った。
 被告は、ほぼ毎日青山レスリング会館に通っていたが、主に材料、道具の調達や現場の掃除、石膏とりや鋳造の手配などの雑用を行っていた。
 被告は、足場で作業している原告に道具や粘土を手渡したり、原告が足場から離れて塑像の全体像を見据えながら粘土付けを行うときに、原告の指示どおりに粘土付けをするくらいしか、彫塑について関与していない。
 被告は、原告の指示に従い、単純作業や事務手続きを行ったのみで、彫塑には何ら主体的に関与しておらず、原告の履行補助者にすぎなかった。
 被告が主張する塑像の手法は、制作した当時の技術水準に照らしてもおよそ採用できない不合理なものであって、空想上の手法にすぎない。
エ ジョン万次郎像の塑像完成後の事情
a) 原告は、鋳造については、ジョン万次郎像制作以前にも小像の鋳造を依頼したことがあるYに依頼した。原告は、鋳造の現場にジョン万次郎銅像の石膏像が運び込まれたとき、ブロンズ像を取り出したとき、及び最後に色を付けるときの計3回赴き、Yと鋳造の打合せをしたり、仕上がり具合を確認したが、被告は、これに何ら関与していない。
b) 原告は、ジョン万次郎像の傍らに備え付ける石碑の碑文を起案し、除幕式において挨拶する機会を得た。
c) 原告は塑像完成後、その台座に自身のサインを入れることをしなかったし、被告のサインが台座にあることも確認していない。
オ C像の制作の経緯等
 被告は、昭和40年ころから、画廊「ギャラリーユニバース」に出入りするようになり、そこで知り合った同画廊の主人Zを通じ、当時、同画廊に通っていた駿河銀行三代目頭取であるC@と知り合った。C@は、昭和44年ころ、先代であるCの銅像を建てることを計画し、被告がこれを請け負った。被告は、ジョン万次郎像を制作したときと同様に、原告に対し、C像の制作を依頼した。
 原告は、被告から、C像をイタリアにおいて制作して欲しいと懇請されたため、昭和45年1月ころ、イタリアに渡った。
カ C像の塑像の制作
 原告は、被告が用意したローマのアトリエで塑像の制作に着手し、被告から渡されたCの写真を基に作業を進め、塑像のイメージを作った。
 原告は、まず、心棒の作成に着手した。原告は、一本の直立した鉄パイプ(垂直パイプ)を基礎として、両足に当たる部分に2本の木材を取り付け、肩、胸及び腰の部分に横棒を渡し、垂直パイプの上部に頭部用の心棒を付け、また、胴体部分の厚みを出すように体格に沿った形で多数の木片を格子状に組み、袴の部分はスカート状に木片を配置し、それぞれの木片をしゅろ縄で縛り付けて、像の輪郭に沿ったおおまかな形の中空の立体像を作った。原告は、心棒の制作に3、4日間費やし、心棒制作が完了した後に粘土付けをし、全体的に大まかな造形をした後、細部に手を入れた。
 原告は、昭和45年2月末まで毎日アトリエに通いつめ、彫塑を続けた。被告は、材料の調達や現場の掃除、原告の指示に従った粘土付け等の雑用をしていたのみで、主体的に彫塑に関与することはなく、原告の履行補助者にすぎなかった。
 原告は、塑像がほぼ完成した段階で、C像の頭頂部に「A@」とサインを入れた。
キ C像の塑像完成後の事情
 原告は、塑像完成後、イタリアを離れ、フランス、イギリスを旅行し、昭和45年5月に日本に帰国した。イタリアを離れる際、石膏取りや鋳造の作業がまだ残っていたが、原告がそれらの作業を確認することはなかった。
ク C像制作の報酬について
 被告は、原告に対し、イタリアまでの飛行機代及び現地滞在費を負担するのみならず、C像の制作報酬として相当額を支払うことになっていた。被告が実際に申し出た報酬額は90万円(本来は150万円以上を予定していた。)というものであり、その金額からも、原告の役割が単なる土付けであるという被告の主張は不自然である。
 しかし、原告は、帰国後、被告から報酬の支払いがあるものと思っていたが、現在に至るまで支払いを受けていない。
ケ 本件各銅像のサインについて
a) 原告は、ジョン万次郎像やC像に、制作者として原告の名前が入っていないことを薄々気付いていた。原告は、本件訴訟前に、被告と被告の前妻Nとの間で起きた給付金等請求事件(以下「別件訴訟」という。)の際に、Nから原告の氏名が表示されていないことを聞いて確定的にこのことを知った。
 原告は、これまで、原告が恩師として尊敬していたJの下にいたことのある被告に対し、原告の表示がされていないことについて強い態度で言うことができず、また、自分の名前が入っていなくても、自己の作品であることを主張できなくなるわけではないと考えていたため、本件各銅像のサインについて、特に訂正を求めたりしなかった。しかし、原告は、高知平和美術会が平成13年8月1日に発行した「平和と美術」−第7号−(甲12)において、初めて、ジョン万次郎像の制作者が原告であることを公に明らかにした。
b) 被告は、本件訴訟がNの意趣返しの訴訟であるとか、原告の妻が金銭目当てに起こした訴訟であると主張する。原告は、別件訴訟において、被告が、原告のことを助手呼ばわりし、ジョン万次郎像について、原告が助手として手伝ったことを証言してほしいなどと原告に依頼してきたことから、その自尊心を傷つけられ、名誉を取り戻すために、本件訴訟を提起したものである。本件訴訟が金銭目的でないことは、本件訴訟において金銭請求をしていないことからも明らかである。
(2) 被告の主張
ア 本件各銅像について
a) 本件各銅像については、いずれも制作者としての被告の署名が明確に記入されており、被告が制作者であることは、著作権法14条により法律上推定されている。
 しかも、ジョン万次郎像においては、昭和43年4月20日に被告が署名する際に、ジョン万次郎像の制作の依頼者であるV、W、レスリング協会理事長のQなどが立ち会っているのであり、被告が所用でヨーロッパに帰った後も、形式的な制作に携わった原告において、極めて目立つ箇所にある被告の署名を確認していたはずである。そして、原告がその後30数年にわたって自己が制作者であることを言えなかったことからみても、原告は、ジョン万次郎像が被告の制作であることを当然のこととして認めていたものといえる。
b) 本件各銅像が被告の制作によるものであることは、次のことからも明らかである。
@ 原告は、ジョン万次郎像・C像のような大型作品の経歴は皆無であるのに対し、被告は、ジョン万次郎像の制作前にも、全身像で2メートル程度のものを5体は制作している。
A 原告は、数々の権威ある賞を受賞したこと等を挙げているが、これらは、本件各銅像の制作者としての根拠とはなり得ない。
B 本件各銅像の顔の表面が、被告の首のみの作品と比べて滑らかでなく、タッチが粗いことについては、全身像及び大作においてはそのようにならざるを得ないことによるものである。
C 原告は、本件各銅像の制作者としての重要な決定事項に全く関与しておらず、そのための準備行為等をしていない。
D 原告は、本件各銅像を単独で制作したというが、巨大な作品を単独で制作できる訳がない。
E 本件各銅像には、被告が柔道やレスリングを彫刻と並行して傾注してきたことによる作風が現れている。
F 本件各銅像は、いずれも全身像であり、一定の距離をもって鑑賞されることを予定しており、頭部のみならず、胴体そのもの及び頭部とのバランスの制作表現も極めて重要である。原告は、胴体部分の制作について技術的に下手である。原告の過去の作品における胴体部分の衣装のできばえについていえば、衣類をまとっていると評価することができないものである。
G 本件各銅像については、制作者のみが作るエスキスが、被告において制作されている。大作の全身像においては、全体のバランスを事前に把握するため、また、胴体のイメージを確認するため、エスキスの制作は必須である。
イ ジョン万次郎像について
a) 被告は、昭和42年11月ころ、有力者であったVから、ジョン万次郎像の制作の依頼を受けた。被告は、Vから、当時、資金もなく、寄附金を募っているが思うように集まらないため、実費だけは、自分が何とかすると言われて、ジョン万次郎像の制作を依頼されたものであり、同像の制作に関して報酬等の約定はなかった。
 被告が原告にジョン万次郎像の制作の件を話すと、原告から、大作の勉強になるからジョン万次郎像の制作を手伝いたいとの要望があったため、被告は、昭和43年1月ころ、原告をジョン万次郎像制作の助手として依頼した。
b) 被告は、友人のD@が東京大学教授であったE@から借りてきた書籍に掲載されていたジョン万次郎の写真をD@から入手し、これを基に1メートルの高さのエスキス(縮小した原型像。以下「万次郎小像」という。)を制作した。
 被告は、Vが用意した東京の青山レスリング会館において、昭和43年1月ころからジョン万次郎像の制作を始めた。
 青山レスリング会館では、学生1人とレスリング部員10数名で、15センチメートル角5メートルの鉄の棒を彫刻用台座にはしごを使って直立で取り付け、5000キログラムの粘土を用意し、心棒に貼り付けていった。頭から足まで粘土が平均に1回付いた段階でシュロ縄を水に浸して巻き付け、その上に粘土を盛り、これを繰り返した。これらすべてを被告の指図で行い、胸の辺りに鉄棒2本、臍の辺りに鉄棒2本、その下から台座まで左右鉄棒1本ずつ差し込み、粘土を付け終わった。
 原告は、粘土付けが終わったころ、青山レスリング会館を訪れた。原告は、肖像が得意なので、被告は、原告に主にジョン万次郎像の顔の部分を手伝ってもらった。しかし、原告が土付や制作した部分は、すべて被告が手を加え、原告が制作した痕跡は全く残っていない。銅像は全体のバランスが大切であり、手法、作風が違ってはバラバラになってしまうからである。
 塑像が出来上がるころ、彫刻家のH、武蔵野美術大学主任教授I、多摩美術大学教授のF@、武蔵野美術大学彫刻科名誉教授のG@らが見にきて、様々な批判を受けたため、被告が最終的な修正をし、昭和43年4月20日ころ、ジョン万次郎像の塑像が完成した。
 被告は、発起人のV、原告、美術学校彫刻科の学生、石膏どりのXとその助手、日本アマチュアレスリング協会理事長のQ、レスリング部員15名の前で、ジョン万次郎像の台座に被告のサインを入れた。
 Xが石膏どりをした後、Xの仲介でYが鋳造を担当することになった。
 被告は、イタリア体育協会勤務のため4か月しか休暇を取れず、同年4月中にローマに戻り、レスリング会館の後片づけ等は、原告、X、レスリング部学生に任せた。
 ジョン万次郎像の除幕式は、昭和43年7月11日に開催された。被告は、イタリアでの勤務の都合で出席できなかったため、被告に代わって、Nが三笠宮ご夫妻と同行し、参列した。また、ジョン万次郎像の除幕式には、原告も参列した。
c) 以上のとおり、ジョン万次郎像は、被告が、Vから依頼を受け、全体像のイメージを作るため、まず万次郎小像(エスキス)を作成し、その後、作業全般に関わり、ジョン万次郎像の最終的な修正をしたものであり、その著作者は被告である。
 原告は、塑像の制作をした者が著作者である旨主張する。しかし、塑像についても、上記のとおり、被告が制作したものであるから、塑像の著作者は被告であり、ジョン万次郎像の銅像の制作者は被告である。
ウ C像について
a) 駿河銀行の3代目頭取であったC@は、昭和42年9月ころ、イタリー彫刻家Tに自分の肖像を依頼し、ローマにあるTのアトリエで1か月程モデルをして、木彫り肖像を作らせた。
 被告は、イタリアでは、このTと師弟関係にあり、Tを通してC@を紹介された。また、被告が日本において師事していたJが駿河銀行の初代頭取の銅像を制作した等の縁もあって、被告は、C@から、先代(駿河銀行頭取2代目)のCの銅像の制作と除幕式の際に来賓に渡す銀製のメダル(乙22)の制作を請け負うことになった。
 被告は、昭和44年11月ころ、C像の制作の件で日本に帰国した際、原告から是非会いたいと言われ、原告と会った。被告は、原告から、ローマを見学させて欲しいが、金がないため、ローマでC像を制作するならば、土付けくらいは手伝うから招いてくれないかなどと言われたため、友人として、原告のローマにおける滞在中の費用をすべて被告が持つことにして原告をローマに呼んだ。
b) 被告は、ローマに戻ると、C像制作のため、ローマ国立大学所属のアトリエを借り、助手のH@とその兄弟である彫刻家I@にC像制作の手伝いを依頼した。
 被告は、まず、約50センチメートルのエスキスを作り、昭和44年12月のクリスマス前から、H@兄弟とC像の制作を開始し、台座の据付、心棒、粘土付けをした。この制作には、T、ローマ芸術大学教授のJ@の声援も受けていた。
 原告がローマに着いたのは、昭和45年1月19日であり、そのときは塑像の土付けもほとんど終わり、完成間近であった。そして、C@やT立ち会いの下で、被告が完成後のC像に署名したのが、同年2月3日である。原告は、イタリアに到着してから同年2月3日以前の期間の塑像の制作末期段階において手伝ったにすぎない。
 原告と被告及びC@は、同年2月5日からシシリー島へ旅行している。仮に、塑像の制作が途中ならば、C@が塑像の制作を中断して一緒にシシリー島まで案内してほしいというはずがない。
 被告は、そのころ、Tの指示を受け、メダル作成の準備として半身の石膏像(乙23)を制作していた。C@がこれを見て、その出来映えの良さから、ブロンズの胸像1体の制作を被告に依頼してきた。
 C像のブロンズ鋳造は、昭和45年3月に完成し、同年7月中旬ころ、C像はC@の下に発送された。
 ところが、C像が日本に到着した後、C@から被告に電話があり、C像の頭頂部に原告のサインがあることを知らされた。C@は、原告の行為に激怒していたが、C像の除幕式が同年8月22日に開催されることの通知が既に発送済みであったため、C像を予定どおり設置することになり、被告に対する上記ブロンズの胸像についての依頼は取り消された。
c) 以上のように、被告は、C@から、C像の制作依頼を受け、まず、全体像のイメージのエスキスを作成し、C像の制作作業全般に関わり、最終的な修正をすべて被告が施したもので、C像の著作者は被告である。
d) 頭頂部の原告のサインについて
 C像の頭頂部に刻まれた原告のサインは、殴り書きであり、これはC像を手伝ったことの印としてか、原告の思想的な背景か、あるいは、ジョン万次郎像やC像といった大作を制作したことのない原告の被告に対する羨望、嫉妬、あるいは、原告滞在中に、原告よりC@を丁重に接したことによるひがみ意識などが複合し、増幅したために行ったものと推測される。
エ 本件訴訟の真の意図について
 原告は、上記のとおり、本件各銅像の台座に被告名を明記する際に立ち会っているのであって、本件各銅像が被告の単独著作であることを当然に知っていた。原告は、その後も、本件各銅像の台座に被告の名前が記されていることについて何ら異議を述べなかった。
 それにも関わらず、原告は、平成13年5月に、被告とNの間の別件訴訟において、ジョン万次郎像とC像は原告が制作したものであるとの上申書を提出した。
 被告は、原告に上申書の書き直しを申し出るため原告宅を訪れ、上申書の件を原告に話したが、脳梗塞で2回倒れたという原告は黙り込むだけであった。ところが、原告の横で原告の妻が上申書の件について口出しし、被告は、原告の妻から暗に多額の金銭の要求を受けた。
 本件訴訟の提起は、被告にとって予想外のことであり、原告の意思に基づくものとは信じられず、むしろ、別件訴訟で被告が勝訴したため、Nと懇意である原告の妻が、本件訴訟の提起を原告に促したものである。すなわち、本件訴訟の目的は、別件訴訟にて金銭を取り損ねたNと、その意向を受けた原告の妻の意趣返しにある。
4 争点4及び5に関する当事者の主張
(1) 原告の主張
ア 請求の趣旨第2項ないし第4項の請求の必要性
 ジョン万次郎像とC像に対する氏名表示権を侵害されている原告の名声、声望を回復するためには、本件各銅像の台座部分にある被告名義の氏名表示を抹消し、これを原告名義に改めるとともに、両銅像の制作者が被告でなく原告であることを世上に広く知らしめることが要するが、そのためには請求の趣旨第2項ないし第4項の措置が必要である。
イ 請求の趣旨第2項及び第3項の請求について 
a) 著作権法115条に基づく請求
 原告は、著作権法115条に基づいて、ジョン万次郎像の所有者である土佐清水市及びC像の所有者である駿河銀行に対し、別紙通知目録(3)及び同(4)に記載のとおり、本件各銅像について、その制作者として原告の氏名を表示するべきことを申し入れるように被告に求めるものである。
 上記の請求は、著作権法115条にいう「著作者であることを確保するために適当な措置」として認められるべきである。氏名表示権に基づいて著作者の氏名を表示する権利には、これを行使する前提として、著作物に著作者でない者の氏名が表示されている場合には、同氏名の抹消、変更を請求することが含まれているというべきである。
 被告自らが、制作者表示を変更することと、制作者表示を変更するように所有者に申し入れることは、行為の性質が異なり、被告が自ら変更する権限を有しないとしても、所有者に制作者表示を変更するように申し入れることは可能である。土佐清水市や駿河銀行は、申し入れに応じる法的義務はないものの、拒絶することは考えられないし、原告が土佐清水市や駿河銀行を被告として、新たに訴えを提起するのは迂遠である。したがって、紛争を終局的に解決するための実効的な手段として、被告が土佐清水市や駿河銀行に表示変更の申し入れを行うことは許される。
b) 著作権法112条1項に基づく請求
 被告は、ジョン万次郎像とC像の地山部分に被告名義の制作者表示を行い、現在もそれを存置させ、本件各銅像に対する原告の氏名表示権を継続的に侵害している。
 したがって、原告は、被告に対し、著作権法115条及び同法112条1項に基づき、請求の趣旨第2項及び第3項の措置を請求する。
(2) 被告の主張
ア 著作権法115条に基づく請求について
a) 著作権法115条は、「著作者・・・であることを確保し、又は訂正その他著作者・・・の名誉若しくは声望を回復するために適当な措置を請求することができる。」と規定するものであるから、被告に負わせる作為義務は必要最小限度のものであるべきである。
 ジョン万次郎像の所有者は土佐清水市であり、C像の所有者は駿河銀行ないしC@の相続人である。本件各銅像は、約30年にわたり、観光地ないし公園に設置されてきたものであり、もはや制作者といえども容喙できなくなっているものである。したがって、本件各銅像の所有者に対し、作為義務を命じ得る根拠は、著作権法115条に基づいては生じない。
 被告から、土佐清水市や駿河銀行に対し、請求の趣旨第2項及び第3項に記載のとおりの申し入れをしたとしても、土佐清水市や駿河銀行は、これを強いられるわけではないのであれば、被告が、同項の申し入れを行うことに意味はなく、これを判決主文で言い渡すことはできない。
b) 仮に、原告に著作者としての権利が認められれば、自ら氏名表示権の行使が可能となるから、本件通知請求による義務を被告に強いるのは制裁的な負担であり、相当ではない。
 氏名表示権は、著作物制作時においてのみ、氏名を表示し得る権利であり、一旦氏名が表示され、その著作物が第三者所有に帰した場合、その第三者に対し、氏名抹消等の作為を内容とする請求権が生じる余地はない。
イ 著作権法112条1項に基づく請求について
 著作権法112条1項に基づく請求は、侵害の停止又は予防であり、それ以上に独自に第三者に対する作為請求権は認められない。同項は、侵害を限定的に差止める請求を認めているのであり、第三者に対し義務付けを請求することは困難であり、宣告される者(被告)の人格にも負担を強いるような請求は認められない。
5 争点6に関する当事者の主張
(1) 被告の主張
ア 著作権法115条に基づく請求について
a) 被告は、本件各銅像について、塑像制作時に原告立会いの上、被告のサインを入れており、このことは原告も承知しているのである。被告がサインを入れた時点から10年以上が経過しているから、仮に、原告に何らかの請求権があったとしても、時効により消滅している。氏名表示権に基づく権利は、具体的な債権であり、消滅時効の法理に従わせても何の支障もない。
 被告は、平成16年5月20日第5回弁論準備手続期日において、仮に、原告が著作者人格権を有するとしても、同権利は、時効により消滅したことを援用するとの意思表示をした。
b) 原告は、氏名表示権は時効により消滅しない旨主張する。しかし、氏名表示権が時効により消滅しないとしても、それを根拠として原告が請求する請求の趣旨第2項ないし第4項の請求権は、単純な債権であるから、時効により消滅する。侵害が継続することは、消滅時効の法理における通例であり、消滅時効を否定する理由にならない。金銭債権が支払われないときに不払いという侵害状態が継続するのであり、このときに時効を援用することが許されているのと同様である。
c) 継続的不法行為として消滅時効にかからないのは、単に継続的不法行為であるというだけでなく、当該不法行為自体が日々継続している場合、損害の増大がある場合等、特段の事由があり、その中途において損害が確定せず、消滅時効を進行させることが消滅時効の趣旨から相当ではないからである。
 本件のような氏名表示権については、表示されたときに侵害行為が終結するものであり、不法行為(侵害行為)の事後に、損害が継続的に生じる場合には当たらない。被告が本件各銅像にサインした際に、原告は立ち会っているのであるから、仮に、氏名表示権が原告にあったとしても、その侵害を十分に認識していたのであって、時効期間は十分に充たしているといえる。
 また、氏名表示という不法行為から20年は経過しているから、除斥期間も経過している。
イ 著作権法112条1項に基づく請求について
 原告が権利行使可能な時期から10年を経過しているので、被告は、上記と同様に、消滅時効を援用する。
 また、同法112条に基づく請求は、本来著作権法115条によっては不可能な請求に代えて請求するものであって、本来著作権法115条に基づく請求が上記のとおり時効消滅している場合になし得るものではない。
ウ 権利失効の原則
 原告は、被告に対し、30数年間にわたり、氏名表示権に基づく権利を行使していなかったのであるから、原告の氏名表示権に基づく請求の趣旨第2項ないし第4項の各請求権は、権利失効の原則により消滅しているものというべきである。
 原告は、原告の権利行使が行われないものと信頼すべき正当の事由が存在するとはいえないとして、権利失効の原則が適用される余地はない旨主張する。しかし、C像の頭頂部における「A@」の表示は、写真上でも頭のしわの間にマジックインキで強調しなければ何を書いているのか分からないような殴り書きのもので、いたずら書きとしか受け取れないものであって、制作者としての氏名表示権の行使に結びつくようなものとは考えられないから、原告の主張には根拠がない。
(2) 原告の主張
 本件各銅像に、被告の通称が制作者として刻まれている限り、原告の氏名表示権に対する侵害は継続している。原告の請求は、原告の氏名表示権に対する継続的な侵害に対する救済である。そして、著作者人格権たる氏名表示権が消滅時効にかかることはないから、原告の請求の趣旨第2項ないし第4項の各請求権が時効により消滅することはない。また、本件においては、原告の権利行使が行われないものと信頼すべき正当の事由が存在するとはいえない。
第4 当裁判所の判断
1 争点1について
 被告は、原告は、本件においては、本来、給付の訴えを提起することが可能であるから、請求の趣旨第1項の確認請求について、確認の利益を有しない、などと主張する。しかし、本件各銅像に被告の通称が表示されていることが原告の本件各銅像の著作者人格権(氏名表示権)の侵害を構成するとしても、被告は本件各銅像の所有者ではないのであるから、被告に対し、本件各銅像に表示された被告の通称の表示の削除を求めるとの給付の訴えを提起することができないことは明らかである。
 確認の訴えは、一定の法律関係についてこれを確定させることが原告と被告との間の紛争を解決するために必要かつ適切である場合に、即時確定の利益が存在するものとして、当該訴えを提起することが許されるものである。本件では、原告が、本件各銅像についてその制作者(著作者)であると表示され、その旨を主張している被告を相手方として、本件各銅像について原告が有する著作者人格権(氏名表示権)を侵害されたとして、原告が同権利を有することの確認を求めているものであり、同権利の確認の訴えが、原告と被告との間の紛争を解決するために必要かつ適切である場合に当たり、即時確定の利益が存するものと認められる。
 被告は、原告の氏名表示権に基づく請求権が、消滅時効ないし権利失効の原則により消滅しており、給付の訴えを提起してもその請求が認められないのであるから、確認の訴えが認められることはないと主張する。
 しかし、原告の氏名表示権に基づく請求権が、消滅時効ないし権利失効の原則により消滅していないことは、後記のとおりであり、被告の主張はその前提を欠き、理由がない。そもそも、著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することが許されないものである(著作権法59条)から、原告が本件各銅像の著作者であるとすれば有するはずの氏名表示権が消滅することはないのである。
 また、被告は、原告は、氏名表示権確認の訴えを本件各銅像の所有権者である土佐清水市ないし駿河銀行に対してなすべきであり、被告に当事者適格はない、と主張する。
 しかし、本件各銅像の著作者が、原告と被告のいずれであるかは、原告と被告との間で争われているのであり、この点を原告と被告間の本件訴訟において争うことが必要かつ適切であることは明らかである。
 被告の上記主張はいずれも失当である。
2 争点2について
 著作物とは、思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいい、著作者とは、著作物を創作する者をいうのであるから(著作権法2条1項1号、2号)、本件各銅像についても、本件各銅像を創作した者をその著作者と認めるべきである。
 ジョン万次郎像は、ブロンズ像であり、ブロンズ像は、塑像の作成、石膏取り、鋳造という工程を経て製作されるものである。そして、ブロンズ像の顔の表情、全体の構成、体格やポーズなどにおける表現が確定するのは塑像の段階であるから、塑像を制作した者、すなわち、塑像における創作的表現を行った者が当該銅像の著作者であることは明らかである。
 本件においては、ジョン万次郎像の制作者として、被告が自己のサインをその台座部分に施しているため、著作権法14条により、ジョン万次郎像の著作者は、被告と推定される。しかしながら、当裁判所は、ジョン万次郎像の塑像を制作した者すなわちジョン万次郎像の著作者は、原告であると認定する。その理由は次のとおりである。
(1) ジョン万次郎像の制作に至るまでの経緯(後記に掲げるもののほか、甲17、弁論の全趣旨)
 被告は、早稲田大学在学中、レスリング部に所属していたことから、同部の先輩で、後に世界レスリング協会副会長、日本レスリング協会会長で参議院議員を務めたVと面識があった。Vは、中濱万次郎を敬愛しており、また、Vの秘書であったWの故郷が高知県であったこともあって、Vらが中心となり、ジョン万次郎像を地元の高知県に建設する計画を立て、後に、土佐清水市や高知県もこの計画に加わることになった。
 Vらは、昭和42年5月ころ、中濱万次郎銅像建設青年会(名誉会長 V、会長 土佐清水市長L@、理事長 W)を発足し、ジョン万次郎像の建設費用を捻出するために募金活動を続け、ジョン万次郎像の制作を、知人であった被告に依頼することになった。
 V及び青年会理事長Wは、被告との間で、発注者をV及び青年会議理事長W、制作者を被告として、次の内容で、昭和42年10月1日、契約を締結した(甲50)。
 一 制作内容 高さ4米(一丈三尺二寸)ブロンズ 制作過程の都合により三寸内外の相違を認める事
 一 完成予定日 昭和43年6月30日
 一 制作金額  1500万円(台座その他の費用を含まず)
 一 支払日 5月10日までに全額支払いとする
 Vは、ジョン万次郎像を制作する場所として、東京の青山レスリング会館を昭和43年1月から6か月間使用するとの許可を取った。
 高知県知事、土佐清水市長、県会議員、市会議員等が、昭和42年11月ころ、土佐清水市の公会堂で集まり、ジョン万次郎像の銅像建設が発表されるとともに、銅像が建てられる予定の土佐清水市内の場所で鍬入れ式が行われた。この鍬入れ式には被告からジョン万次郎像の制作を依頼されていた原告も出席した(甲70、乙15、16)。
(2) ジョン万次郎像の制作と本訴提起までの経緯(甲66、原告本人尋問)
ア 原告は、被告から依頼され、昭和43年1月ころから、ジョン万次郎像の制作を始めた。
イ 原告は、ジョン万次郎像の制作にあたり、原告が古本屋で探してきた1冊の和書と、「Voyager to Destiny」という題名の洋書の万次郎の伝記本(洋書)1冊(甲14の1・2)を参考に、ジョン万次郎像のイメージを作った。ジョン万次郎が渡米した人物であったため、原告は、当初、洋服姿のジョン万次郎像を作りたいと思っていたが、被告から和服姿の小さな石膏像(約50センチメートルから60センチメートルのもの)を示され(甲12・22頁)、「こういうものを作りたい。」との申し入れを受けたため、和服姿のジョン万次郎像を制作した。なお、この石膏像と被告がエスキスとして制作したと主張する万次郎小像(乙17)とは異なるものであり、原告は、ジョン万次郎像を制作する過程において、被告がエスキスと主張する万次郎小像を見たことがない。
ウ ジョン万次郎像は、直立姿勢であり、両手足は一定で動きがないので、エスキスを使って制作する必要がなかったため、原告は、ジョン万次郎像の制作においてエスキスを制作していない。原告がエスキスを使うのは、例えば、比較的大きな像で両手足に動きがある場合とか、注文主の意見を参考にする必要がある場合などである。
エ 原告が、ジョン万次郎像の制作場所となった青山レスリング会館を初めて訪れた際には、制作に必要な資材(粘土や木材等)及び道具類がほぼ準備され、会館の一角に制作台が取り付けられていて、制作台の上下には回転機が設置され、その周囲にはやぐらが組まれていた。
 これら資材の運搬や設置作業は、M@(有限会社谷中田美術運送)が行い、粘土については、原告が当時から懇意にしていた高橋粘土店が搬入していた。
オ 制作台には高さ3.5メートルくらいの鉄パイプが一本据え付けられていた。原告は、その鉄パイプを中心にして、両手、両足に当たる部分に木材を2本取り付け、肩や腰の部分には横に木材の棒を組んで、上部に頭部用の木材を取り付け、それぞれの木材を棕櫚縄で縛り付けて、人間の骨格のように心棒を組立てた。原告は、この心棒の制作を一人で行った。
カ 原告は、ジョン万次郎が海を見据えて立っている姿をイメージしながら、肩や腰など動きのない大きな箇所から粘土を付け、その後、頭、足、手などに粘土を付けていった。心棒に粘土を付けながら全体的に大まかな造形をし、その後細部の造形をした。被告は、粘土付けの作業の一部を手伝っただけである。ジョン万次郎像は、着物を着ているため、頭部や手は、外から見える素肌の部分として特に重要であり、原告は、頭部や両手及び着物を着た全身の塑像を制作した。
キ ジョン万次郎像において、コンパスと三角定規を左手に持たせるアイデアは、塑像の制作中に、原告が思い付いたものである。原告は、人間の像を制作する際、対象となる人物が工人(理科系)か文人(文科系)かを判断した上で制作するが、渡米後に航海術や測量術を学んだという万次郎の経歴から、万次郎を文人ではなく工人であると判断した。原告は、工人らしさを表現するため、ジョン万次郎像の手に何か航海に関係する物を持たせたいと考え、当時、東京の築地にあった海洋関係の研究所に赴き、そこで航海に関係する物をいろいろと見せてもらった。しかし、原告がそこで見たものは、いずれも大きな機械ばかりであったので、機械類の起源であるコンパスと三角定規を万次郎像の手に持たせたのである。
ク ジョン万次郎像の塑像制作には4か月くらいかかり、原告が塑像を完成させたのは昭和43年4月末ころであった。原告は、塑像の制作期間中は、自宅近くの京王線仙川駅から電車で1時間30分くらいかけて青山レスリング会館に通い、昼過ぎから夕方ころまで3時間ほど制作作業を行うという毎日を送っていた。原告は、そのころ、武蔵野美術大学の非常勤講師であったが、塑像の制作期間中は3学期に当たり、大学での執務による影響はなかった。
ケ 被告は、制作現場においては、主に使わなくなった粘土や木材の切れ端の片付け等や資材の調達等の雑用を行い、粘土付けを手伝ったこともあった。ただし、被告が粘土を付けた後、原告がその部分の手直しをしている。
コ 塑像完成後に石膏取りが行われ、松平造形研究所のXが石膏取りを行った。
サ 石膏取りの後、昭和43年5月か6月ころ、鋳造が行われた。鋳造は、原告が以前にも小像の鋳造を2、3点依頼したことがある岡宮美術鋳造研究所のYに依頼した。
シ 塑像の制作者は、通常、自分が制作した塑像の地山部分にサインを入れる。原告も、通常は塑像を完成させた後に、塑像の地山部分に自分のサインを入れる。しかし、ジョン万次郎像は、被告がVから依頼された銅像であるため、原告は、その関係を考慮して、同塑像に原告のサインを入れていない。
ス 原告は、ジョン万次郎像の制作直後から、万次郎像の地山部分に被告のサインがあり、その台座あるいは備え付けの石板などに、制作者として被告の名前が記載されていることは認識していたが、被告と注文者との関係を考慮し、異議を述べることはしなかった。
セ 被告は、イタリア体育協会勤務のため、同年4月中にイタリアに戻らなければならなかったため、鋳造等の作業については、原告にすべてを任せていた(当事者間に争いはない)。また、銅像に掲げる碑文については、当初、井伏鱒二に依頼していたが、引き受けてもらえず、結局、原告が依頼を受けることになり、原告が同年6月ころ碑文を起案し、完成させた(甲11、18、19、66)。
 原告が作成した碑文の内容は、別紙碑文目録のとおりである(甲19)。
ソ 原告は、ジョン万次郎像制作後、被告から、ジョン万次郎像制作の礼として100万円をVの秘書であったWから受領してほしいこと、そのうち30万円を被告の妻Nに渡してほしいこと(被告の原告に対する借入債務となること)を依頼する手紙を受領しており(甲11)、実際に、Wからジョン万次郎像の制作報酬として現金100万円の支払いの申し出を受けたことがあった。しかし、原告は、Wに対し、100万円では万次郎像ほどの大作の制作費としては考えられないほど安いから考え直してほしいこと、養育費はWがNに直接渡すべきであることを伝えて、100万円を受領しなかった。原告は、その後、ジョン万次郎像の制作報酬の支払いを受けていない。
タ これに対し、被告は、中浜万次郎銅像建設青年会から、ジョン万次郎銅像製作費として、昭和43年1月26日に50万円、同年2月20日に100万円、同年3月26日に100万円、同年4月22日に270万円、同年5月1日に480万円、同年5月10日に500万円、合計1500万円の支払を受けている(甲51の1ないし6)。なお、被告は、@契約書(甲50)、A受領書(甲51の2、51の3、51の5、51の6)については、筆跡がNの筆跡に似ており、被告の筆跡とは異なるとしてその成立を争っている。確かに、これらの書証についての筆跡は、被告がそのころ書いたことを認めている葉書や手紙(甲10、40など)に記載された被告の署名とは字体が異なっており、その押印についても、被告が自署したことを認めている上記の受領書(甲51の1及び甲51の4)に押印された印影とは異なっている。しかし、契約書(甲50)に記載された制作金額と受領書(甲51の1ないし6)に記載された金額の合計額が一致し、最終の支払期限である昭和43年5月10日に最終の支払がなされていること、各受領書の制作年月日がジョン万次郎像の制作時期とほぼ重なること、被告が別件訴訟において提出していた平成13年9月3日付けの被告作成の陳述書(甲67)には、「製作には、依頼者より準備費用とブロンズ代として、約900万円を受け取ったので、それを充て、私はV氏より儲けはないが名誉であるから引き受けてくれとして無報酬で制作をしたものです。・・A氏には、V氏の相談役であったW氏から式終了後直接何十万円かの助手手当が支払われております。」と記載され、少なくとも約900万円は製作費として受領していたことを認めていたこと、甲17には、「中浜万次郎銅像建設青年会議負担1500万円」と記載されており、上記の受領書に記載された金額の合計額とも一致していること等に照らせば、上記@契約書及びA受領書についても、被告が契約書の作成並びに金員の受領及び受領書の署名・押印を誰かに任せていただけであると推認することができる。また、被告が同時期に原告に宛てた手紙(甲11、甲37)には、Vが金銭を支払ってくれないことなどが記載されており、この手紙の記載と上記金員受領の事実とは矛盾するものの、これらの手紙の記載は、単に、被告が原告に対しジョン万次郎像の制作報酬の支払金額を少額に抑えようとしていたことによるものと推認することができる。
チ ジョン万次郎像は、昭和43年7月4日に、東京から土佐清水市内に運搬され、同月11日、土佐清水市の足摺岬においてその除幕式が開催された(甲74)。
 被告は、イタリアでの勤務の都合のため、除幕式には出席できず、被告の代理としてNが参列し、原告も参列した(当事者間に争いがない)。
 ジョン万次郎像の建立時に台座に据え付けられた石板には、当初a)のとおり刻まれていたが、その後、b)の石板に取り替えられた(取り替えられた年月日は不明である。)(甲79、乙64、弁論の全趣旨)。
a) 「建立者
 中浜万次郎銅像建設委員会
  委員長 N@
 中浜万次郎銅像建設青年会議
  名誉会長 V
  理事長 W 
 土佐清水市長 L@
 原型 BA
 題字 V
 撰文 A
 鋳造 Y
 石工 O@ P@
 昭和四三年七月十一日」
b) 「中浜万次郎翁銅像建設青年会議
  名誉会長 V
  会長 L@
  理事長 W 
 中浜万次郎翁銅像建設委員会
  委員長(高知県知事)N@
 制作者 BA
 鋳造 Y
 石工 O@
 仝 P@」
ツ 訴外Q@は、平成7年12月1日に発行された雑誌「混沌」において、原告から、ジョン万次郎像の制作者が原告であるのに、制作者名が被告の通称名「BA」と表示されていること、及び、原告はその制作報酬を受領していないことを聞き、その事実を確認するため、ジョン万次郎像を実際に見に行ったこと、及び、ジョン万次郎像を見て、これが原告の作品であることを直感したことを記載している(甲54)。
 また、原告は、平成13年8月1日付け高知平和美術会発行の「平和と美術第7号」に、「中浜万次郎銅像制作の思い出」と題する文章を寄稿し、その中で「1967年ころ、伊太利のBA氏から万次郎銅像建設の話があった。銅像は三米以上の大きなもので五六十糎位の和服袴姿の小像が示された。・・私自身としては和服袴すがたの万次郎よりも当時の洋服姿をつくりたかった。つくり場所としては赤坂の青山ボクシング会館となり半年後に四米の原型が出来上がった。・・碑文は私の文章である。制作に関して報酬は受けていない。」と記載している(甲12。なお、これらの書籍はいずれも本件訴訟提起前に発行されたものである。)。
テ 原告は、被告が、Nとの別件訴訟において、本件各銅像の制作に関し、原告が被告の助手にすぎないと主張し、その旨の陳述書の作成を原告に依頼してきたことに立腹し、本件各銅像の真の制作者を明らかにする必要があると考え、平成15年6月13日、本件訴訟を提起した。
(3) 上記認定に至る根拠について
ア 鑑定書
a) 彫刻家R@作成の鑑定書「ジョン万次郎像及びC像の制作者についての裁判所に提出された証拠写真に拠る検証」(以下「R@鑑定」という。甲68)について
 R@鑑定においては、原告と被告の過去の作品と本件各銅像を詳細に検討した上で、具体的に詳細な理由を述べながら、@彫刻的表現処理においてジョン万次郎像の袖の稜線処理とC像の羽織袖の稜線処理、その他和服に関する彫刻的表現処理に顕著な彫刻的同一性が見られ、両像はひとりの作家によって作られたと断定したうえで、A原告の過去の作品と本件各銅像とを比較すると、鼻、眉間から左右のこめかみ、ほお骨に至る表現、額、耳、顎の各表現、和服の造形的技法、彫刻作品としての構成力、両手の表現などにおける類似性があることを明瞭に述べており、B被告の過去の作品については、本件各銅像と比較した場合の表現の類似性が全く見られないこと、及び、被告が過去の作品であると主張している作品の一部(乙2、3、5のもの)については、全く異なる作風の作家が制作したとみられる、との意見を述べ、C最後に、本件各銅像の制作者は原告であるとの結論を明瞭に述べている。
 R@鑑定は、その理由付けが詳細で具体的であり、そこに述べられている見解は、極めて説得力に富むものである。
b) 彫刻家S@が作成した意見書(以下「S@鑑定」という。甲69)について
 S@鑑定は、原告の彫刻作品については、原告の一貫した作風がよく表れていること、すなわち、「A氏の作品には、粘土を大胆に張り付け、指できびきびと形を整えていった形跡がよく窺えます。これがA氏のモデリング(肉付け)です。頭部についていうとかなり大胆にヘラを使い、ヘラの面で髪の量感を引出し、指でタッチを整えています。」(同・1頁)としてその特徴を捉えた上で、本件各銅像について「ジョン万次郎像に見られる目元と鼻筋の間の谷部分や小鼻から上唇に八の字状に作り出された谷部分、またC像に見られる上瞼と下瞼の頬上の小さな膨らみといった箇所に現れているモデリング(肉付け)は、A氏の作風ということができます。」(同・2頁)として、本件各銅像が原告の作品である、と判断している。これに対し、S@鑑定は、被告が自己の作品であると主張しているものは、そのすべてが同一人物の作品であるとは考えられず、「それぞれの彫刻作品の間には、作風や格調の違いが数多く見受けられます。特に、乙第5号証の写真に示されている『老ヴァイオリニスト』のモデリングと他の作品のそれとは、余りにも違いがあり過ぎます。」(同頁)と述べた上で、被告の作品と本件各銅像の作風における共通性はない、と判断している。
 このS@鑑定も、その理由付けが具体的であり、説得力のあるものである。また、R@鑑定と同様に、被告の作品と主張されているものの中に、作風の異なるものが混在しているとして、乙5号証の写真に示されているものを掲げていることは、R@鑑定とS@鑑定に共通する見解であり、鑑定としての信用性を高めるものである。
c) 彫刻家T@作成の鑑定意見書(以下「T@鑑定」という。甲42)について
 T@鑑定は、ジョン万次郎像について、その頭髪の分け方、額、目尻、小鼻の付け根から口元にかけての締まり具合、耳の形、下顎の肉の弛み、頬骨と眉骨の飛び出し加減などにおいて、原告が昭和43年(1968年)に制作したU@頭像(甲1)と多くの共通点があることを掲げ、「ジョン万次郎像の頭部は、U@頭像から展開したものだと判断」(甲42・2頁)している。ジョン万次郎像は、昭和43年1月から制作が開始され、同年4月に塑像が完成していたことからすると、T@鑑定が、ジョン万次郎像よりもU@像が先に制作されたことを前提としたことについては疑問が残るところである。しかし、両像の共通性を具体的に指摘する点においてT@鑑定は意味があるものである。
d) 彫刻家V@の鑑定書(以下「V@鑑定」という。乙69)について
 V@鑑定は、「これ等の微細な経緯を伺い 又過日B@邸で詳細に一連の制作写真を見せて頂き 続いて 彼の作品の幾つかを拝見する機会を得ました その作風、タッチ、マッスの捉え方は往年の作品と少しも変わって居りません 言うに及ばず 万次郎像、C像もその一線上に位置するものです」と述べている。しかし、V@鑑定においては、被告の作品の作風、タッチ、マッスの捉え方がどのようなものなのかについて具体的な記載はない。同鑑定において本件各銅像の制作者が被告であるとしている根拠は、受注者が被告であり、関係者立ち会いの下で、被告が銘を刻み、被告の銘の所から石膏取りがなされたということにすぎないのであって、同鑑定を採用することはできない。
e) イタリア在住の英国人彫刻家W@の鑑定書(以下「W@鑑定」という。乙72の1・2)について
 W@鑑定は、単に「此処ピエトラサンタにあるデ・キアロ鋳造工場で、私はB@氏にお会いし、次のような写真での当該作品及びここにある諸作品両方でもって彼の仕事を観察致しました。1 僧の頭像 2 瞑想する男の座禅像 3 肩に壷を担いだ跪く女像(噴水) 4 独逸人の頭像 5 日本人の頭像 6 キケロの胸像 7 ジョン万次郎像の写真 8 C像の写真 これら全ての作品はB@氏によるものであるという事に疑問はありません 又 それ故、その鑑定(真正さ)にも何ら問題はありえません。」と述べているだけであって、本件各銅像の制作者が被告であることについての合理的な説明をしていない。したがって、同鑑定も採用することができない。
f) X@の鑑定書(以下「X@鑑定」という。乙130)について
 X@鑑定は、本件各銅像の制作者が被告であるとする根拠については、ジョン万次郎像と「青年像」(乙1)を比較すれば、ジョン万次郎像の与える雰囲気がすでに発露しているなどと述べているだけであって、その結論に至る論理が明確ではない。しかも、X@は、かつて、ローマで被告に面倒を見てもらっていたこともあるなど、被告とは特別な関係にある者であり(同人の上申書・乙131)、その鑑定の公平性についても疑問がある。したがって、X@鑑定も採用することができない。
イ 被告の供述の信用性とエスキス(万次郎小像)について
 被告は、ジョン万次郎像の制作について、大略、@ジョン万次郎像については、当初から無報酬で、Vからその制作を請け負い、被告は昭和43年1月ころから、ジョン万次郎像の原型ともいうべきエスキスを作成すると同時にジョン万次郎像制作のための基礎となる心棒作りを始め、助手の学生及びレスリング部員十数名を使って、ジョン万次郎像を完成させた、A被告が、そのころまでに大作を作成した経験がなかった原告にジョン万次郎像の制作の話がきていることを話すと、原告から是非ジョン万次郎像の制作を手伝いたいと要望されたので、無報酬で手伝いに来てもらった、B原告は、肖像が得意なので主にジョン万次郎像の顔の部分を手伝ってもらったが、原告が手伝った部分についてはすべて被告がやり直した、と供述し、前記のとおり、同趣旨の主張をする。
 しかし、被告の上記供述及び主張は、次に述べる理由により、採用することはできない。
a) ジョン万次郎像を原告が手伝うことになった経緯について
@ 被告は、昭和42年11月ころ、Vからの依頼で、ジョン万次郎像を制作することになったが、そのことを原告に話すと、原告の方から、大作の勉強になるからぜひ手伝わせて欲しいと要請されたため、昭和43年1月ころに、原告に連絡した、原告は、鍬入れ式には出席していない、と述べていた(乙97、被告本人尋問調書7頁)。しかし、前記認定のとおり、原告は、昭和42年11月に土佐清水市内で行われた鍬入れ式に出席していたのであるから(この事実は、甲70の写真から明らかである。)、被告の上記供述は、同証拠に明らかに反するものである。
 鍬入れ式というのは、銅像制作の関係者が出席することが通常であると考えられることからすれば、単に原告が大作の勉強のために被告に手伝いたいと申し出たからといって、鍬入れ式に出席することは不自然であり、被告から原告に対し何らかの依頼があったため、原告も鍬入れ式に出席していたと考える方が合理的である。
A 原告は、前記認定のとおり、ジョン万次郎像の制作以前にも、昭和18年には新制作協会が主催する新制作展に出品して新作家賞を受賞したり、昭和24年には新制作派協会会員となり、その後も、数々の人物頭像、人物小品等を継続的に美術展に出品していたものである(昭和46年には、彫刻家として名誉ある中原悌二郎賞を受賞している。)。これに対し、被告は、前記認定のとおり、昭和26年に、新制作派展に青年像(高さ約2メートル)を出展した後、昭和28年からイタリアに渡った後2年間は、アカデミーに通い、彫刻の勉強をしていたものの、アカデミーでは彫刻の実技をとっていたというにすぎず、アカデミーを卒業したわけでない。また、イタリアでの被告の生活は主に柔道を教えることによって生計をたてていたものと認められ、ジョン万次郎像を制作した当時、彫刻家としてどのような作品を制作していたのかについては、本件訴訟資料を精査しても明らかでない。むしろ、被告の前妻Nの陳述書(甲43)によれば、被告は、当時、イタリアにおいては主に柔道家として活動し、そのかたわらで、古代イタリアのエトルスク等の古美術品を日本で売買するなどして生計をたてていたことが認められるのであって、被告が、当時、イタリアにおいて彫刻の制作活動をしていたことを裏付ける適切な証拠は存しないというべきである。
 なお、別件訴訟におけるNの陳述(甲43)の内容については、同女は、昭和34年に被告と婚姻した後、昭和52年前後に被告と別居状態になるまでの間、被告と共に生活していた者であること(甲58)、別件訴訟においては、本件各銅像の真の制作者が誰であるかということは主たる争点ではなく、被告が彫刻の制作活動をしていたかどうかは、離婚に至るまでの被告の生活状況についての背景事情の一つにすぎないことから、この点について、特にNが虚偽の事実を述べる必要性が低いことなどを考慮すると、離婚に至った経緯にかんがみ、Nが被告に対して悪感情を有していることを考慮しても、同女の上記陳述内容は概ね信用できる。また、被告がエトルスク等の古美術品を扱っていたことは、原告宛ての昭和45年9月17日付けの被告自身が書いた手紙(甲38)に「Zさんには事情を話しましてエトルスクの壺、数点(小)を渡すことに致しました。」などと記載されていることからも裏付けられる。
 また、被告が原告に宛てた昭和44年9月28日付けの手紙等の中には、「この度びは又銅像の件は勿論の事いろいろと御願いをして何時もの事ながらご迷惑をおかけして済みませんが何卒宜敷く御願い致します。」「Aさんもいろいろとご多忙で大変だと思いますが銅像の小品の件宜敷くお願い致します。小生も、少しづづ頑張ってAさんのご指導、ご意見などお聞しながら何んとか自分なりに形ぐらいはとれる様に、此所二、三年間必死で努力して見たいと思って居ます。・・・結局はAさんをおたよりして居る様な有様で申訳ないと思います。」(甲10)、「これからせめて肖像彫刻ぐらいはきちんと出来る様に必死に頑張って見たいと決心して居ます。Aさんに今度は申し訳ない事ばかりでしたが、かならずご恩返しができますように致します。」(甲38)との記載がみられ、被告自身も、本件各銅像が制作された当時、彫刻家として自己の活動が十分なものではなかったことを認めている趣旨の記載をしていたことからも、ジョン万次郎像の制作に当たって、原告が被告の助手として手伝う立場にあったとは到底考えにくいことである(これらの手紙に記載された内容については、被告は、先輩である原告に対する尊敬の念を表すための謙譲表現であったなどと述べているが、当該文書の前後のつながり等を考慮すると、上記の表現を謙譲表現であるとは到底解し得ない。)。
B 被告は、ジョン万次郎像の制作については、「原告はジョン万次郎像に関心があるので手伝いたいと言い、報酬はいらないという事であった、と供述している。しかし、前記認定のとおり、被告は、原告に対し、昭和43年5月14日、お礼として、100万円を支払うことを前提とした内容の手紙(甲11)を送っているのであって、名目は何であれ、被告は、原告に対し、ジョン万次郎像の制作にあたり、事前に報酬を支払うことを合意していたのであるから、被告の上記供述は上記手紙(甲11)に記載された内容と矛盾する。
 しかも、昭和43年当時の100万円という金額は、相当高額なものであって、単に助手として土付けを手伝ったにすぎない者に支払う金額ではない。
b) 塑像の制作について
@ 被告は、原告は肖像が得意なので主にジョン万次郎像の顔の部分を手伝ってもらったが、原告が手伝った部分についてはすべて被告がやり直した、と供述する。
 しかし、ジョン万次郎像において、その頭部及び顔の表情がもっとも重要な部分であることは明らかであり、その重要な部分を助手に手伝ってもらう理由はなく、被告がこれをやり直すとすれば、ますます助手に手伝ってもらう合理的な必要性があるとは認められず、被告の上記供述は不合理である。
A 被告は、材料の発注等の準備は、すべて石膏取りを行ったXに依頼し、岡宮鋳造所への鋳造の依頼も直接Xが行った旨主張し、その旨が記載された平成16年6月19日付けのXの署名の入った証明書(乙70)を提出する。
 しかし、同証明書(乙70)は、本文と署名部分が異なる筆跡で書かれたものであって信用性に乏しく、かえって、同年4月5日に、Xが弁護士会の照会事項に対して回答した内容によれば、石膏取りはするが、粘土調達等制作全般に関わっている訳ではない旨が記載されていること(甲73の1ないし2)からすれば、被告から提出された乙70は信用性に乏しい。
B 被告は、原告が初めて制作現場を訪れたのは昭和43年1月20日ころであり、年始めには心棒制作は既に終了し、粘土付けもかなり進行していたなどと述べている(乙97・6頁ないし7頁、被告本人尋問調書8頁)。しかし、被告の供述によれば、原告は、ジョン万次郎像の制作は大作の勉強になるから塑像の制作を手伝いたいと原告から要望があったというものであって、そうだとすれば、粘土付け等が終わり、ほとんど塑像が完成した後に原告がジョン万次郎像の制作場所を訪れる意味はほとんどなく、被告の上記供述はこの点でも不合理と言わざるを得ない。
c) エスキス(ジョン万次郎小像)の制作について
@ 被告は、ジョン万次郎像のエスキスとして、ローマで制作したエスキスと、学生をモデルとして昭和43年1月1日ころから青山レスリング会館で作り始め同月12日ころ完成したエスキス(ジョン万次郎小像)の二つのエスキスを制作した旨述べる(被告本人尋問調書13ないし14頁)。
 しかし、エスキスのモデルとなった人物とエスキスの制作場所についての被告の供述は、次のとおり変遷している。すなわち、被告は、別件訴訟における被告の平成13年7月9日付け陳述書(甲13・4頁17行ないし18行)では、「当時ローマ在住のY@氏をモデルにして1メートルの原型をローマで制作しました。」と述べていた。しかし、本件訴訟において、「エスキスには、(借りてきた)写真を基にして、学生をモデルに制作した。」(答弁書6頁・11ないし12行)と述べ、これを裏付けるものとして、1メートル強の像を被告が彫刻のへらのようなものを使って修正し、その脇には、羽織袴姿の青年が写っている乙17の写真を提出したため、原告から別件訴訟における上記主張と異なっている旨を指摘されると、「被告は、万次郎像制作に際し、乙第17号証のものとは別に、これ以前にローマでY@氏をモデルにエスキスを作ったが、石膏の為脆くて、日本へ運ぶことができず、Y@氏モデルのエスキスをあきらめた。そのため、別途青山レスリング会館において美術学校の学生をモデルに作ったのが乙第17号証の写真のエスキスである。ローマでY@氏をモデルにエスキスを作成したことは、Y@氏が証明してくれている。」(平成16年1月16日付準備書面7頁・8ないし14行)と主張し、これを裏付けるものとして、Y@の平成15年11月30日付けの証明書(乙32)を提出した。
 このようにエスキスのモデルとその制作場所についての被告の供述は別件訴訟から本件訴訟に至るまでの間に変遷しており、ジョン万次郎像の制作が三十数年前のことであって、多少の記憶違いがあり得ることを考慮しても、被告が、ジョン万次郎像を自らが制作したと主張する最大の根拠となっているエスキスについての供述がこのように変遷することは奇妙なことといわざるを得ない。
 また、Y@をモデルにしたエスキスに関しては、被告の陳述書(乙74・35頁)、Y@の証明書(乙32)以外に、その存在を証明する他の証拠は存せず、しかも、同人の証明書の内容は、「1967年8月、ローマ市に於いてBA氏の為に、ジョン万次郎像のエスキスのモデルになりました。」とだけ記載された、被告が主張するところとほぼ同様の内容を簡潔に書いただけの極めて簡単な内容で具体性に欠けるものであり、その存在を認めるに足りる十分な証拠はないといわざるを得ない。
 さらに、被告がジョン万次郎像のエスキスとして主張する乙17号証の写真に写った万次郎小像の姿と、実際のジョン万次郎像とを比較すると、次に認定するとおり、万次郎小像とジョン万次郎像とは、重要な部分において客観的に異なっており、万次郎小像よりジョン万次郎像の方が、全体としてのバランスがよく、彫刻としての完成度が高くはるかに優れたものであり、大作を制作する場合に作成されるエスキスが、本件のように、大作よりも完成度が低く、全体としてのバランスも悪く、彫刻としての完成度が低いことは通常あり得ないことである(甲68・R@鑑定)。
 すなわち、両者を比較すると、(i)耳の位置が、ジョン万次郎像では的確な位置にあるのに対し、万次郎小像では耳の位置がジョン万次郎像より下がっており、頭部の緊張感がなくなっている、(ii)和服着用の場合、胸を反らさず且つ前屈みにならない姿勢が最も美しい姿勢であるが、ジョン万次郎像の頭部の垂線を下方に降ろすと丁度両足の間にくることになり、和服着用時の美の形態の理に適っているのに対し、万次郎小像の頭部の位置はやや前のめりになっており、頭部の垂線を下方に降ろすとつま先の位置に来て、像全体の彫刻的バランスがジョン万次郎像とは異なる、(iii)ジョン万次郎像の緊張感を最も引き締めている箇所が、袴の紐の角度と結びによる絞り方、袴の裾までの表現であり、同像は、袴の紐が腰骨から下腹の位置で絞り込み、袴の裾を少し前に出すことによって袴の美しさを非常によく表現しており、像全体の安定感をも表現しているのに対し、万次郎小像においては、その要素のいずれも当てはまらず、彫刻的緊張感に欠ける、(iv)ジョン万次郎像の袖と手の表現において、袖の稜線が横位置の大きなアクセントとなっており、また、コンパスを持つ左手と右手の握り拳がジョン万次郎像の意志の強さ、その精神性を顔の表情表現と共に良く表しているのに対し、万次郎小像においては、ただモデルを写しただけのように、はなはだ創造的表現に欠けるものとなっている(甲68)。
 被告自身、エスキスとは、「彫刻家が大作を制作する場合、全体のコンポジション(構成)、意匠を考える上で、エスキスが重要となる。建築にたとえれば設計、製図です。製図に狂いがあれば完全な建築は出来ません。彫刻でも、制作者は、エスキス製作そのものの裡に完成された銅像の全体像の表現を既に意図している。」(乙74・58頁)と述べているように、エスキスというものが、大作を制作する場合の中核となるエッセンスであるというならば、上記の相違点等が顕著に認められる本件においては、万次郎小像が、ジョン万次郎像を制作するための、いわゆるエスキスとして制作されたものと認めることは到底困難である。
A 被告は、上記の点について、乙17号証に写った万次郎小像は、完成品ではなく、修正途中にあるものであるから、万次郎小像と、ジョン万次郎像とを比較すべきではないとも述べている(乙132・15頁)。
 しかし、R@鑑定において、乙66の左側の写真(乙17の写真と同一のもの)に写っている万次郎小像は、ほぼ完成に近い状態である(甲68・4頁)と述べられているように、万次郎小像が、大幅な修正がなされ得るものであるとは到底認められない。
 被告は、エスキスは、単にそれを忠実に再現するものではなく、大作を制作するのに従って、変更もあり得るものであり、コンパスや三角定規を持たせるというような大きな変更もあり得るとも述べている。しかし、万次郎小像がジョン万次郎像のエスキスとしての役割を果たし得るようなものでないことは、上記に認定したところから明らかである。
 以上によれば、万次郎小像は、ジョン万次郎像の制作に当たって作成されたエスキスであると認めることはできず、万次郎小像をエスキスとして、ジョン万次郎像を制作したとの被告の供述は採用することができない。
 なお、被告は、エスキスが青山レスリング会館のジョン万次郎像の制作場所にあったことを証明するために、当時レスリング部員だった者の陳述書(乙71)等を提出するが、これらは本件訴訟提起後に作成されたものであり、具体的な記述を欠くものであるから、採用することはできない。
d) 被告は、本件訴訟は、被告の前妻Nの意趣返しのために、Nと原告の妻が、原告を唆し、提起させた訴訟であるとも主張する。しかし、前記背景事実において認定した経緯に照らしても、本件訴訟の提起により、原告と被告が争うことにより、Nが何らかの利益を手にすることができるわけでもなく、本件訴訟の内容からみても、意趣返しができるとは考えられないのであって、被告の主張は採用できない。
ウ 原告の供述の信用性について
a) 原告がジョン万次郎像の制作に際して参考にしたという洋書「Voyager to Destiny」には、ジョン万次郎の上半身を描いた素描のような肖像画が掲げられており(甲14の2)、同肖像画の顔部分とジョン万次郎像の顔部分とはその表情等が類似しており、上記書籍を参考にしてジョン万次郎像を制作したとの原告の供述に矛盾はない。また、当初、別の者に依頼していた碑文を、ジョン万次郎像建立の1か月ほど前になって原告が制作することになったことについては当事者間に争いはなく、原告が短期間に別紙碑文目録記載の碑文(甲19)を作成することが可能であったのも、このようにあらかじめ、原告が上記の文献を手に入れており、ジョン万次郎像のイメージを考えていたためと思われる。
b) 原告は、彫刻を制作する際に、エスキスを制作する場合としない場合があり、ジョン万次郎像についてはエスキスを制作していないと当初から供述しており、原告本人尋問においても、首の彫刻については、エスキスを作ることはほとんどなく、全身の彫刻を制作する場合には、簡単なエスキスを制作することもあり(本人尋問調書6頁)、また、注文者を納得させるために作るエスキスがあることも述べており(同8頁)、その供述内容は一貫している。また、前掲のR@鑑定(甲68)においても、「大型塑造彫刻作品を造る場合に、イメージを固める意味で習作として寸法の小さな作品を予め制作することは、作家によってはありうる。」としており、すべての彫刻において、エスキスのようなものが制作されるとは述べられていないから、原告の供述はこれに反するものでもない。
c) ジョン万次郎像の設置作業を谷中田美術運送が請け負っていたことは甲74により裏付けられ、ジョン万次郎像制作当時、彫塑用粘土を扱っていたのは、都内では高橋粘土店か桜井粘土商会の2店しかなかったこと(甲62)からすると、本件においては、原告が懇意にしていた高橋粘土店から粘土を購入していたものと推認され、同趣旨の原告の供述は措信し得る。
d) ジョン万次郎像において、コンパスと三角定規を左手に持たせるアイディアを考えついた経緯についての原告の供述は一貫しており具体的である。
e) 原告は、ジョン万次郎像制作当時、非常勤講師をしていたため、日に3時間程度しか制作時間をとれなかったものの、塑像完成までに4か月を要していること、原告は、大きな全身像を制作するには通常3か月くらい要すること、原告作成の渋沢敬三の胸像(高さ約2メートル・甲16)は2か月程度かかったと述べていること(原告本人尋問7頁)からすると、ジョン万次郎像については、日に3時間程度しかとれなかったからこそ、4か月の期間を要したとも考えられ、原告の供述に矛盾は生じない。
f) 鋳造を岡宮鋳造所が行ったことについては、ジョン万次郎像の石板にも記載されているのであって(甲79、乙64)、この点における原告の供述に矛盾はない。
g) 上記のとおり、ジョン万次郎像の制作に関し、原告の供述は概ね一貫しており、供述の変遷はほとんど認められないし、他の客観的な証拠との間に矛盾はない。
(4) 争点2についての結論
 上記で認定したところによれば、ジョン万次郎像の塑像制作について創作的表現を行った者は原告であるから、ジョン万次郎像は原告が制作したものと認められる。被告は、ジョン万次郎像について、その塑像の制作、石膏どり、鋳造といった銅像の制作工程において、原告の助手として、その制作に必要な準備を行ったり、粘土付け等に関与したにすぎないものと認められる。
 以上によれば、本件では、被告がジョン万次郎像の制作者として、自己のサインをその台座部分に施しているため、著作権法14条により、ジョン万次郎像の著作者であると推定されるものの、その推定は覆されたものというべきであり、ジョン万次郎像は、原告により制作され、著作されたものと認められる。
3 争点3について
 本件においては、C像の制作者として、被告が自己のサインをその台座部分に施しているため、著作権法14条により、C像の著作者は被告と推定される。しかしながら、当裁判所は、C像の塑像を制作した者すなわちC像の著作者は、原告であると認定する。その理由は次のとおりである。
(1) C像の制作に至るまでの経緯
 駿河銀行の3代目頭取であったC@は、昭和42年9月ころ、イタリア彫刻家Tに自分の肖像を依頼し(乙19)、ローマにあるTのアトリエで1か月程モデルをして、木彫り肖像を作らせたことがあった(乙60、140)。被告は、そのころ、Tのところに出入りしていたため、Tを通してC@を紹介された。また、駿河銀行初代頭取の銅像が、被告が日本で師事していた彫刻家Jにより制作されていたことなどの縁もあって、被告は、C@から、C@の先代にあたる(駿河銀行2代目頭取の)Cの像を制作して欲しいとの依頼を受け、C@と間で、C像の制作代金として500万円を受領する契約をした(乙74・47頁)。
 被告は、昭和44年11月、C@からの要請で、C像制作の件で日本に戻った際に、C@と静岡県沼津市で会い、C像の制作費500万円のうち、製作着手に当たって、その一割に当たる50万円と沼津までの車賃として20万円を同人から受け取った。
 原告は、昭和44年末ころ、被告からC像の制作を依頼された。被告は、原告に対し、ジョン万次郎像の報酬とC像の報酬とをまとめて支払うとは言っていたものの、ジョン万次郎像の場合と同様に、制作報酬について具体的な金額は決まっていなかった。原告は、C像の制作場所は原告が訪れたことのないイタリアであったことにも魅力を感じ、被告の依頼を引き受けた。
 被告は、C@から受領した金員のうち50万円を、原告がローマに来てもらうための航空機代等して、原告に渡し、原告は、昭和45年1月18日ころ、ローマに到着した(甲66、乙74)。
(2) C像の制作と本訴に至るまでの経緯(甲66、原告本人尋問)
ア 原告は、ローマに到着した日の翌日の昭和45年1月19日から、被告によって制作台や回転台、木材、粘土等が用意されていたアトリエに通った。
イ 原告は、同年1月19日から直ちに心棒の組立てに着手し、制作台に据え付けられた高さ1.5メートルくらいの棒を中心にして、両手足に当たる部分に木材を2本取り付けた。肩及び腰の部分には横に木材の棒を組んで、さらに上部に頭部用の木材を取り付け、それぞれの木材を棕櫚縄で縛り付けて、人間の骨格のように心棒を組み立てた。この心棒制作作業には、3、4日くらいを費した(原告が妻に宛てた昭和45年1月21日付けの葉書(甲21)には「一九、二〇の二日間眞棒作りからはじめて今日で三日目。・・・ローマは車の中からちょっとみただけで見物は仕事が一段落ついてからにする。今、午前九時ころでB@君が車で迎えにくるのを待っている。一九七〇.一月二一日朝。」との同趣旨の記載がある。)。
ウ 原告は、心棒組立てが完了した後は、被告に手伝わせて全体的に粘土付けをし、大まかな造形をしてから細部を造形した。被告以外に助手はいなかった。
エ C像の制作には約1月半ほどかかった。被告は、その間、毎朝、自動車で原告の宿泊しているホテルに迎えに来て、原告をアトリエに連れて行った。被告の都合がつかず迎えがないときは、原告は、タクシーでアトリエに通った(原告が妻に宛てた昭和45年1月30日付けの葉書(甲45)には、「今日でローマに来てから一週間たった。・・・・毎朝B@君が車で迎えに来て仕事場にいっている。大分はかどった。」との同趣旨の記載がある。)。
オ C像の制作中であった昭和45年2月上旬、C@がC像の制作状況を見に来た。C@が被告と共にシシリー島へ一週間ほど旅行するというので、原告も塑像制作を一時中断して一緒に旅行へ出かけた(原告が妻に宛てた昭和45年2月6日付けの手紙(甲20)には、「・・着いた翌日から毎日仕事で、まだ美術館も見ていない。二、三日前注文主の銀行の頭取が来て原型(粘土)に大満足していたから私もはるばるやってきたかいがあったと云うもの。・・・あと仕事は一月近くかかるだろう。」との記載がある。)。
カ 原告は、C像の制作者が原告であることの証拠を残そうという思いと、ジョン万次郎像について被告から報酬を受けていないことに対する抗議の気持ちから、塑像がほとんど完成した段階になって、その頭頂部に「A@」とサインを刻んだ。
キ 原告は、昭和45年3月3日ころ、C像の塑像を完成した(原告の妻に宛てた昭和45年3月3日付けの手紙(甲47)には、「2米20の銅像も出来上がったので余り疲れてはいない。・・・費用は全部B@君が負担しているので金は十分にある。・・・もう一つ半身像を三週間くらいで作り、それから十日間程フランス英国を廻って帰る。多分4月の十日ころになるだろう。・・・もう一度ローマに来て自分の制作をしたい。」との記載がある。)。その後、石膏取りや鋳造の工程が残っていたが、原告は、それらの作業は行わず、ローマを発ち、フランスとイギリスを旅行し、昭和45年5月20日ころ、日本に帰国した。
ク C像は、ローマで完成した後、同年7月中旬に日本に発送され、同年8月22日に、日本において除幕式が行われた。被告は、除幕式に出席したが、原告は除幕式には呼ばれなかったため出席していない(甲38、乙44、弁論の全趣旨)。
ケ 被告は、原告に宛てた昭和45年9月17日付けの手紙で次のように述べている(甲38)。
a) 「・・小生に取り誰よりも御世話になりご指導いただきましたAさんに大変申し訳なくお詫び申し上げます。八月二二日に除幕式があり九月十日ころ迄日本に滞在してAさんの御宅にお詫び方にお伺いさしていただかうと思って居りましたところ突然に急用ができまして三日目に東京を発ってしまいました。何ともお詫びの仕様がありません。お許しください。銅像の費用、契約金500万円の所、・・・生活費なども含めて335万円程になり、残金百六五万円ばかりで契約時にAさんに御渡し致した50万円に今後40万円だけ義妹Z@にAさんにお渡しする様に伝言をしておきました。」
b) Zさんには事情を話しましてエトルスクの壺、数点(小)を渡すことに致しました。大変に雀の涙ほどの御礼金ではどうにもなりませんが、今度大きな仕事をかならず取りますのでしばらく御待ちください。胸像の方は、・・・来年の三月末までに完成させる様に契約書を取りましたが、少々小さくてもいいから二〇〇万円ぐらいとの申込です(始めは台座セメントに張石)を含めて二〇〇万で仕上げたいとの申込でしたが断りました。但しラグビの選手の事は予算を沢山取ってもらう様に希望しておきました。小品を何んとか作り上げて見るつもりで居ますが、ラグビの選手、Aさんに御時間がありましたらAさんも作っていただけませんか。熊本の方の仕事は具体的にまだ決定して居ませんが、県会議長に会いました所かならず実現する様にするからとの事で来春迄には決ると思います。」
c) 今夏、Aさんに少なくとも百五十万円は差し上げられると考へて居たのですが思ふ様に行かず、実に申し訳ありません。来春までに又かならず仕事を作りラグビの選手で取り返す様に致します。どうか悪しからずお許し下さい。Zさんの方にもそちらの利益を見てその上で仕事を是非共取っていただく様にたのんで来ました。芸大の方仲々大変ですね。来年ここおやめになる様でしたら小生も又いろいろな方面に働きかけて仕事を取る様に致します。・・・・・都に角、Aさんと今後の事につきまして御相談する為に日本に帰国しますからいろいろと助けていただきたいと思います。」
d) 「・・・・・・此れからもう一度真剣な気持ちでせめて肖像彫刻ぐらいはきちんとできる様に必死に頑張って見たいと決心しています。Aさんに今度は申し訳ない事ばかりでしたが、かならずご恩返しができますように致します。・・・。」
(3) 上記認定の根拠について
ア 鑑定意見書については、ジョン万次郎像において述べたとおりであり、C像についても、これが原告の制作に係るものであるとする有力な鑑定書が存在するのに対し、これが被告の制作に係るものであるとする鑑定書においては十分な根拠が示されていない。
イ 被告の供述の信用性について
a) 被告は、C像の制作について、大略、次のとおり供述し、前記のとおり、同趣旨の主張をする。
@ 被告は、C@から、C像の制作依頼を受け、昭和44年11月末ころ、日本に帰国した際、原告から是非会いたいといわれ、食事の提供を受けた。その際、原告から、ローマを見学させてほしいが、金がないため、C像をローマで制作するならその土付けくらいは手伝うから招いてくれないかなどと要望された。
A 被告は、原告のことを友人だと思っていたので、原告のローマでの滞在期間中の費用をすべて持つといい、原告にローマに来てもらうことにした。
 したがって、原告に対する報酬の取り決め等は一切ない。
B 被告は、C像制作のために、ローマ国立大学所属のアトリエを借り、助手のH@とその兄弟である彫刻家I@にC像制作の手伝いを依頼した。
C 被告は、C像の約50センチメートルのエスキスを作り、台座据付、心棒、粘土付けをして制作した。
D 原告は、昭和45年1月20日ころローマに着いたが、そのころには、ほとんど塑像はできあがっており、同年2月3日には、日本から制作状況を確認しに訪れていたC@とTの立ち会いの下、C像の台座に被告のサインを入れた。
 その際、C@から、塑像の出来がよかったので、除幕式の際に、来賓に渡す銀製のメダル(乙22)の作成と胸像1体(乙23)の制作の依頼も受けた。
E C像のブロンズ鋳造は、昭和45年6月中旬に完成し、除幕式は同年8月22日に決まったため、同年7月中旬ころ、C像は日本に向けて発送された。
F C像が日本に到着した後、C@から被告に電話があり、C像の頭頂に原告のサインがあることを知らされた。C@は、原告の行為に激怒しており、被告が、C@からローマで預かっていたマゼラッティという車の処分や、残りの胸像の制作に関する契約はすべて破棄されたが、除幕式の通知は既に発送済みであったため、C像は予定どおり設置された。
b) 被告の上記供述は、次に述べる理由により採用することができない。
@ 被告は、上記のとおり、C像についても、原告からの要望でローマに来てもらっていただけで、C像の制作の依頼はしていない旨述べている。
 しかしながら、C像の除幕式の後に、被告が原告に宛てた手紙(甲38)には、上記のとおり、「Aさんに少なくとも150万円は差し上げられると考えていたのですが、思う様にいかず只々申し訳ありません。」との記載がある。当時の150万円は謝礼としては相当高額な金額であること、被告は、C@から、C像制作代金の一部を受け取った後、すぐに原告に対して旅費として50万円を渡したことを認めていること、上記手紙(甲38)には、「・・銅像の費用、契約金500万円の所、・・・生活費なども含めて335万円程になり、残金百六五万円ばかりで契約時にAさんに御渡し致した50万円に今後40万円だけ義妹Z@にAさんにお渡しする様に伝言をしておきました。」と記載されていること、被告は、上記の旅費だけでなく、原告のローマでの滞在費をすべて負担していること、以上からすれば、被告が、原告に対しC像の制作を依頼したことが認められるのであり、被告の上記供述は到底採用することができない。
A 被告は、C像についても、そのエスキス(乙40)を作成した旨主張する。しかし、乙40号証に写った小像は、不鮮明であり、C像と詳細に比較することは困難であるものの、少なくとも顔の部分の輪郭等が、C像と明確に異なっており、これをC像制作のために使用したエスキスであると認めることはできない。
B 被告は、C像の塑像が完成した日を、当初は、昭和45年3月20日と述べていたのに(答弁書・10頁)、その後、台座に刻まれた「203」は、2月3日と読むべきであるとして、その供述を変えている。その根拠として、ちょうどそのころ、C@が完成した塑像を見にきており、その後、C@と共にシシリー島へ旅行に出かけた記憶であること、完成した塑像を見たC@から、記念だからここでサインをしてくれと言われ、慌てて名前のつづりを間違えた(乙74・39頁)といい、日付も日本式でと言われたので、そのように記載した(被告本人尋問)などと述べている。しかし、名前をローマ字で記載しているのに、日付だけは日本式でとの要望があったというのは不自然であり、むしろ、ヨーロッパにおける表記の仕方に従って記載したとみるのが合理的であって、C像の台座に刻まれた「203」を2月3日と読むべきとする被告の主張は不合理であって、「3月20日」と読むのが合理的である。
C 被告は、C像を納入した後、除幕式までの間に、C@から、C像の頭頂部のサインのことを知らされて、他の仕事をキャンセルされた等、関係が悪化した旨を述べている。
 しかし、仮に、被告の主張どおりの事実があったとすれば、その後、C@との関係が修復されたとしても、前掲のとおり、数か月後に、「小生に取り誰よりも御世話になりご指導いただきましたAさんに大変申し訳なくお詫び申し上げます。八月二二日に除幕式があり九月十日ころ迄日本に滞在してAさんの御宅にお詫び方にお伺いさしていただかうと思って居りましたところ突然に急用ができまして三日目に東京を発ってしまいました。何ともお詫びの仕様がありません。お許しください。・・」 、「・・Aさんに今度は申し訳ない事ばかりでしたが、かならずご恩返しができますように致します。・・・。」などと記載した手紙(甲38)を被告が原告に送付することは考えられない。かえって、このようなサインを頭頂部に残したことについて、被告が原告を非難する内容の手紙等があって然るべきであり、被告の上記供述も採用することができない。
ウ 原告の供述の信用性について
 被告の供述が上記のとおり到底信用することができないものであるのに対し、原告の供述はいずれも、原告が妻に宛てた手紙等の内容と概ね一致しており、また、客観的な事実との矛盾もなく、信用することができる。
(4) 争点3についての結論
 上記で認定したところによれば、C像の塑像制作について創作的表現を行った者は原告であるから、C像は原告が制作したものと認められる。被告は、C像について、その塑像の制作、石膏どり、鋳造といった銅像の制作工程において、原告の助手として、その制作に必要な準備を行ったり、粘土付け等に関与したにすぎないものと認められる。
 以上によれば、本件では、被告がC像の制作者として、自己のサインをその台座部分に施しているため、著作権法14条により、C像の著作者であると推定されるものの、その推定は覆されたものというべきであり、C像は、原告により制作され、著作されたものと認められる。
4 争点4及び5について
(1) 著作権法115条に基づく謝罪広告請求について
 原告は、被告に対し、著作権法115条に基づいて、別紙謝罪広告目録記載の謝罪広告をすることを求めている。
 著作権法115条は、著作者は、故意又は過失により、著作者人格権を侵害した者に対し、既に発生した損害を回復するために、損害賠償請求だけでは損害を回復するのに十分ではないこともあるため、「著作者・・であることを確保し、又は、訂正その他著作者・・の名誉若しくは声望を回復するために適当な措置を請求することができる。」と規定するものである。
 ここにいう名誉声望とは、著作者がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的名誉声望を指すものであり、人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価、すなわち名誉感情は含まれないものと解され(最高裁昭和45年12月18日第二小法廷判決・民集24巻13号2151頁参照)、著作者は、この名誉声望を害された場合、その回復に必要な範囲内において、謝罪広告を求めることも許されるものである(最高裁昭和61年5月30日第二小法廷判決・民集40巻4号725頁参照)。
 前記認定事実によれば、被告は、故意又は過失により、将来、一般に展示されることが予定されている本件各銅像に、その建立時から、その制作者として被告名を表示し、いずれも被告が制作したものとして発表し、その後、本件各銅像の所有者等をしてこれを展示させることにより、原告の著作者人格権(氏名表示権)の侵害を現在まで継続しているものである。
 しかし、本件各銅像は、その建立持から既に三十数年が経過しているものである。ジョン万次郎像は、土佐清水市の足摺岬公園内に観光名所の一つとして設置されたものであるものの、公刊物「平和と美術」(高知平和美術会平成13年8月1日発行)の21頁に、「この足摺岬に立つ万次郎銅像の彫刻家の氏名については誰も知らないし、知ろうともしない。地元の役場に問い合わせても、観光パンフレットには写真でレイアウトに利用はするが、知る人は誰もいない。」との記載があるように(甲12)、ジョン万次郎像の功績や容姿等に関心を持つ人は多いとしても、当該銅像の制作者が誰であるかについて関心を持つ人は少なく、また、C銅像についても、沼津市青野の岡野公園に設置された銅像であるから、ジョン万次郎像と比べても、その知名度は高くはなく、その制作者が被告と表示されていることに関心を持つ人が多いとは認めにくいものである。
 このように、本件各銅像にその制作者として被告の名前が表示されていることにより、その本来の制作者である原告が有する社会的名誉や声望が害されているとしても、本件各銅像が建立されてから30数年が経過した現在においては、その程度がそれほど高くはないこと、及び、前記認定のとおり、原告は、本件各銅像の制作者として被告の通称が刻まれ、原告の名前が制作者として公表されるものでないことについては、銅像の依頼者と被告との関係などを考慮して、少なくともこれを黙認していたものであり、その後30数年を経過した今日に至って本件訴訟を提起したとの事情があることに照らせば、本件においては、現段階において謝罪広告請求を認めることは相当ではない。
(2) 著作権法115条に基づく通知請求について
ア 原告は、著作権法115条に基づき、被告が、本件各銅像の所有者等である土佐清水市及び駿河銀行に対し、別紙「通知目録(3)」及び同「通知目録(4)」の内容に記載のとおり、本件各銅像について、その制作者が被告ではなく原告であるとの通知をすること、及び、その制作者として原告の氏名を表示することを申し入れをすること(以下「本件通知請求」という。)を求めている。
 前記認定の事実によれば、本件各銅像の所有者等は、本件各銅像の著作者は被告であると認識しているはずである。しかし、本件各銅像の著作者は、前記認定のとおり、原告である。このことと前記に認定した本件の経緯を考慮すれば、原告は、著作権法115条の「著作者・・・であることを確保・・・するために適当な措置」として、本件各銅像にその制作者であると表示されている被告に対し、本件各銅像の所有者等宛に、本件各銅像の著作者が原告であることを通知させることを請求することができるというべきである。すなわち、このような通知は、本件においては、原告が本件各銅像の著作者であることを確保し、原告と本件各銅像の所有者との紛争を未然に防止することにもつながることであり、同条にいう「適当な措置」に当たると認められる。
 ただし、本件通知請求のうち、別紙通知目録(3)中、「私は、本書をもって、御市に対し、中浜万次郎銅像の台座にある「BA」との表示を抹消し、「A」の表示に改めていただくよう申し入れいたします。」との部分、及び、別紙通知目録(4)中、「私は、本書をもって、御行に対し、C銅像の台座にある「BB」との表示を抹消し、「A」の表示に改めていただくよう申し入れいたします。」との部分は、単なる事実の通知にとどまらず、申し入れた相手方に一定の行為を求める内容を含むものであり、被告が、本件各銅像の所有者等に対し、このような作為を求める請求権を有するわけではないことからすれば、被告に対し、このような作為を相手方に求める申入れをすることまで命じることは相当ではない。
イ 被告は、被告から本件各銅像の所有者に対し、本件通知請求の内容を申し入れたとしても、各所有者が、申し入れられたとおりに強いられるわけではないのであれば、これを判決主文で言い渡すことはできない、と主張する。
 しかし、上記のとおり、被告が本件各銅像の所有者に対し、特定の内容の事実を通知することを認めるものであれば、被告に課せられた義務の内容は明確であるから、被告の上記主張は当たらない。著作権法115条において、既に表示された氏名について訂正請求をすることが認められている以上、氏名表示権に基づき、著作物の所有者に対し、表示の訂正請求の前段階の行為として、著作者についての事実の通知を求めることが許されないとする理由はない。
 被告は、原告に著作者としての権利が認められれば、自ら氏名表示権の行使が可能となるから、本件通知請求による義務を被告に強いるのは制裁的な負担であり、相当ではない、とも主張する。
 しかし、前記に認定した本件の経緯、すなわち、被告は、原告に制作者としての報酬を支払うことを約束して、本件各銅像の制作を依頼し、実際にその制作をしてもらい、原告に対し、深く感謝していたにもかかわらず、最近になって、原告に対し、本件各銅像を制作したのは被告であり、原告は単なる助手にすぎなかったと主張するようになり、原告の名誉感情を著しく害したこと、また、上記のとおり、本件のような通知請求を認めることが、原告と本件各銅像の所有者との紛争を未然に防止することにつながることなどの事情も参酌すれば、原告が本件各銅像の著作者であることを確保するための措置として、上記のとおり、被告に本件各銅像の所有者に対し事実の通知をさせることを認めても、被告に対する制裁的な負担とまでは認められないというべきである。
5 争点6について
(1) 被告は、氏名表示権そのものは消滅時効にかからないとしても、本件通知請求や謝罪広告請求は単純なる債権であって時効によって消滅する、と主張する。
 しかし、著作者人格権には譲渡性及び相続性がなく、保護期間の定めもないことからすれば、本件各銅像についての原告の著作者人格権(氏名表示権)が、消滅時効にかかることなく、存続することは明らかである。そして、被告も、本件各銅像が一般に展示され続けることを知りながら、本件各銅像に被告が制作者であるとの表示を刻したものであり、このことにより、現在において、本件各銅像が一般に展示され、原告の氏名表示権の侵害が継続しているのである。
 以上によれば、被告の行為に起因して現在でも原告の氏名表示権に対する侵害が継続しているのであるから、原告の被告に対する本件通知請求権等が、時効により消滅すると解することはできない。
(2) 被告は、本件においては、原告が30数年にわたり、氏名表示権を行使していなかったのであるから、原告の氏名表示権に基づく請求権は、権利失効の原則により消滅している、と主張する。
 しかし、氏名表示権(著作権法19条)については、公表権(同法18条)のように、著作者の同意があれば侵害の成立を阻却することを前提とする規定(同条2項)が設けられていないこと、著作者ではない者の実名等を表示した著作物の複製物を頒布する氏名表示権侵害行為については、公衆を欺くものとして刑事罰の対象となり得ることをも別途定めていること(同法121条)からすると、氏名表示権は、著作者の自由な処分にすべて委ねられているわけではなく、むしろ、著作物あるいはその複製物には、真の著作者名を表示をすることが公益上の理由からも求められているものと解すべきである。
 このように、氏名表示権については、著作者の自由な処分にすべて委ねられているわけではなく、むしろ、著作物には真実に即した著作者の氏名表示をすることが公益上の要請から求められていること、原告が被告に対し、本件各銅像建立時に、本件各銅像に被告名を刻することを黙認していた経緯があるとしても、その後、前記のように、被告が原告を助手呼ばわりしたことにより、原告の名誉感情を毀損し、本訴に至ったこと、また、被告は、本件各銅像制作当時、依頼者から本件各銅像の制作について高額の報酬を受領しながら、結局、高額の報酬を得たことを原告に隠し、原告との約束を違え、原告に対し、何らの制作報酬も支払わないまま今日まで経過してきたことなど、原告との合意に反する行為を継続してきたこと、以上の事情を考慮すれば、本件においては、被告が原告の氏名表示権に基づく権利行使が行われないと信頼すべき正当な事由が存在するとは認められず、これを行使することが信義誠実に反するとは認めることはできない(最高裁昭和28年(オ)第1368号同30年11月22日第三小法廷判決・民集9巻12号1781頁参照)。
 よって、被告が本件各銅像についてその制作者であると表示することを、原告が長期間にわたって黙認していたとしても、本件においては、後にその意を撤回し、真実を明らかにすることは、氏名表示権の正当な権利行使というべきである。被告の上記主張は採用することができない。
6 まとめ
 以上のとおりであるから、原告の本訴請求は、本件各銅像の著作者であって、著作者人格権を有することを確認すること、並びに、被告に別紙通知目録(1)及び通知目録(2)に記載の通知をさせる限度において理由があるから、これを認容し、その余の請求については理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担については、民事訴訟法64条を適用して、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第46部
 裁判長裁判官 設樂隆一
 裁判官 鈴木千帆
 裁判官 荒井章光


(別紙)物件目録
1銅像名 中浜万次郎銅像
 所在地 高知県土佐清水市(以下省略)
 建立日 昭和43年7月11日
 材質 青銅
 所有者ないし管理者 土佐清水市

2銅像名 C銅像
 所在地 静岡県沼津市(以下省略)
 建立年 昭和45年
 材質 青銅
 所有者ないし管理者 株式会社駿河銀行

(別紙)通知目録(1)
1 通知先
 土佐清水市
2 内容
 土佐清水市長 殿
 御市足摺岬公園内にある中浜万次郎銅像の台座には、現在、その制作者名として私の通称である「BA」の文字が刻まれていますが、同銅像の真の制作者はA氏であることを通知します。
 BAこと B@

(別紙)通知目録(2)
1 通知先
 株式会社駿河銀行
2 内容
 株式会社駿河銀行 御中
 静岡県沼津市青野の岡野公園内にある御行所有のC銅像の台座には、現在、その制作者名として私のサインである「BB」の文字が刻まれていますが、同銅像の真の制作者はA氏であることを通知します。
 BAこと B@

(別紙)通知目録(3)
1 通知先
 土佐清水市 
2 内容 
 土佐清水市長 殿
 御市足摺岬公園内にある中浜万次郎銅像の台座には、現在、その制作者名として私の通称である「BA」の文字が刻まれていますが、同銅像の真の制作者はA氏であります。私は、本書をもって、御市に対し、中浜万次郎銅像の台座にある「BA」との表示を抹消し、「A」の表示に改めていただくよう申し入れいたします。
 BAこと B@

(別紙)通知目録(4)
1 通知先
 株式会社駿河銀行
2 内容
 株式会社駿河銀行 御中
 静岡県沼津市青野の岡野公園内にある御行所有のC銅像の台座には、現在、その制作者名として私のサインである「BB」の文字が刻まれていますが、同銅像の真の制作者はA氏であります。私は、本書をもって、御行に対し、C銅像の台座にある「BB」との表示を抹消し、「A」の表示に改めていただくよう申し入れいたします。
 BAこと B@

(別紙)謝罪広告目録
1 広告文
(1) 見出し
 謝罪広告
(2) 本文(但し、日付は広告掲載の日とする。)
 高知県土佐清水市足摺岬公園内にある中浜万次郎銅像及び静岡県沼津市青野の岡野公園内にあるC銅像は、いずれも貴殿が制作したものであり、その著作者人格権は貴殿に帰属いたします。しかるに、私は、各銅像の台座部分にそれぞれ「BA」、「BB」と自分のサインを入れ、30年以上もの長期間にわたり、両銅像の著作者が私であるかの如き表示を放置してまいりました。私は、両銅像について貴殿の著作者人格権を侵害し、貴殿に多大なご迷惑をおかけしてきたことをここに深く陳謝いたします。
 BAこと B@
 平成  年  月  日
 A 様
2 掲載条件
(1) 紙面の大きさ
ア 縦 2段
イ 横 10センチメートル
(2) 活字の大きさ
 前記紙面に見出し及び本文が掲載し得る範囲で最大限の活字

(別紙)碑文目録
 「中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
 万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。14歳のとき出漁中、嵐にあい遙か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち、運よく通りかかったアメリカの捕鯨船John Howland号に救助された。船長William H.Whitfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となった。彼は10年におよぶ国外生活中、John Mungと呼ばれ、英語、航海術、測量術、捕鯨術等を取得し、二度に亘って七つの海を周航した。
 しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
 とき1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時機もさいわいして、彼は罪にとわれなかったばかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参にとりたてられた。
 これより中浜万次郎は外国事情の講話やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による 初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。帰国に際して書籍 写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳のとき、すこしく健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。1968.7.11」
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