判例全文 line
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【事件名】慶応義塾大学「萬来舎」解体移築差止め事件
【年月日】平成15年6月11日
 東京地裁 平成15年(ヨ)第22031号 著作権仮処分命令申立事件

決定
債権者 ザ・イサム・ノグチ・ファウンデイション・インク
債権者 A
同 B
同 C
同 D
同 E
同 F
同 G
同 H
同 I
同 J
同 K
債権者ら代理人弁護士 尾山宏
同 鍛冶利秀
同 渡辺春己
同 川上誌朗
同 穂積剛
同 藤沢整
債務者 学校法人慶應義塾
債務者代理人弁護士 関谷巖
同 宗像雄
同 出縄正人
同 唐澤貴夫
同 森岡誠


主文
1 債権者らの申立てをいずれも却下する。
2 申立費用は債権者らの負担とする。

事実及び理由
第1 申立の趣旨
1 (主位的申立て)
 債務者は、別紙物件目録記載の建物を含む別紙図面@記載の赤線部分内にある新萬来舎(第二研究室)と称されている建物、イサム・ノグチ作の「無」、「学生」と題する彫刻2点及び庭園を解体・移設する工事をしてはならない。
2 (予備的申立て)
 債務者は、別紙物件目録記載の建物のうち、別紙図面A中赤線で囲んだ部分である「ノグチ・ルーム」と称する室内造作、別紙図面A中青線で囲んだ部分である「庭園」及び別紙図面中緑線で示した地点に設置されている「無」、「学生」と題する彫刻2点をそれぞれ解体・移設又は移動する工事をしてはならない。
第2 事案の概要
 債務者法人は、その経営に係る慶應義塾大学(以下「慶應大学」という。)の東京都港区三田所在の三田キャンパスにおいて、慶應義塾大学大学院法務研究科(以下「法科大学院」という。)を開設するために、新校舎を建設するに当たり、同キャンパス内に存する建築家谷口吉郎(故人)と彫刻家イサム・ノグチ(故人)が共同設計したという第二研究室棟(以下、本決定においては、第二研究室棟の建物全体を指して「本件建物」という。)を解体し、本件建物の一部、イサム・ノグチ製作に係る本件建物に隣接する庭園及び庭園に設置された彫刻2点を、新校舎3階部分に移設する工事を実施しようとしている。債権者ザ・イサム・ノグチ・ファウンデイション・インク(以下「債権者イサム・ノグチ財団」という。)は、イサム・ノグチの死後、同人の著作物に関する一切の権利を承継したとして、債務者の行為はイサム・ノグチの著作者人格権(同一性保持権)を侵害するものであると主張し、また、同財団を除くその余の債権者11名(以下「債権者教員ら」という。)は、いずれも慶應大学の教員であるが、世界的文化財の同一性を享受することを内容とする文化的享受権を有するなどとし、債務者の行為は同権利を侵害するものであるなどと主張して、いずれも債務者に対し、本件建物等の解体、移設工事の差止めを求めている。
 なお、(1) 主位的申立ては、ノグチ・ルームと称される部分を含む本件建物全体と「無」、「学生」と題する彫刻2点及び庭園の全体が、一体としてイサム・ノグチの著作に係る著作物ないし谷口との共同著作物であるとの前提で、これらに対する工事の差止めを求めるものであり、(2) 予備的申立ては、本件建物のうちノグチ・ルームと称される部分と「無」、「学生」と題する彫刻2点及び庭園が、それぞれイサム・ノグチの著作物であるとの前提で、これらに対する工事の差止めを求めるものである。
第3 前提事実(当事者間に争いのない事実並びに後掲疎明資料及び審尋の結果により疎明されていることが容易に認められる事実)
1 当事者(疎甲3の1、5、22、27、45、審尋の結果)
(1) 彫刻家イサム・ノグチは、1988年(昭和63年)12月30日に死亡した。
 債権者イサム・ノグチ財団は、1987年4月6日付けの最終遺言書(以下「本件遺言書」という。)によりイサム・ノグチの著作物に関する一切の権利を承継したと主張するものであるが、イサム・ノグチが居住していたニューヨーク州ニューヨーク郡の検認後見裁判所により検認された、被相続人イサム・ノグチの遺産の件に関する「受領、権利放棄及び資金返還の合意書」と題する文書(疎甲22。以下、単に「本件合意書」という。)において、本件遺言書2条及び4条が引用されている(本件合意書に引用されている記載内容は、別紙「本件遺言書(英文)」のとおりである。)。
 債務者法人は、Lを理事長(塾長)とする私立学校法による学校法人であり(疎甲3の1)、債権者教員らは、いずれも慶應大学の教員である。
(2) イサム・ノグチ(1904年〔明治37年〕−1988年〔昭和63年〕)は、詩人野口米次郎を父に、アメリカ人作家のレオニー・ギルモアを母として、米国ロサンゼルスで生まれた米国籍の彫刻家であり、「プレイマウンテン」、「メキシコの歴史」、「黒い太陽」などの作品で知られる。1970年〔昭和45年〕に大阪万博の噴水を製作し、1986年〔昭和61年〕に「第42回ヴェネツィア・ビエンナーレ」代表(米国)となり、同年には、日本建築学会創立100周年記念で稲村財団より京都賞を授与された。また、1987年〔昭和62年〕には国民芸術勲章(米国)を、1988年〔昭和63年〕には勲三等瑞宝章及びスカルプチャー・センター(ニューヨーク)より名誉賞をそれぞれ受賞している。
 イサム・ノグチは、彫刻家としてのみならず、自然環境との調和を重視した環境芸術家としても世界的に評価されている。
 なお、イサム・ノグチの日本での活動拠点であった香川県木田郡牟礼町には、イサム・ノグチのアトリエがあり、現在、同アトリエ、住居「イサム家」の周辺、展示蔵、石壁サークル、山の一部を一つの彫刻作品とした「彫刻庭園」などが約5100平方メートルの規模で、「庭園美術館」として一般公開され、代表作「エナジーボイド」を始めとする石彫作品、金属作品が、完成品、未完製品を合わせて約150点、展示されている(疎甲5、27、45)。
2 本件建物、庭園及び彫刻について(疎甲4、5、7、8、18、25、42、44、47、審尋の結果)
(1) 明治9年、三田キャンパス内において、債務者法人の創立者である福澤諭吉により、人々が集い交流する場、あるいは、思索の場を設けることが構想され、千客萬来の意味を込めて「萬来舎」との名称を付された建物が建築された。福澤諭吉ゆかりの上記萬来舎は、改築、移築を経て、第二次世界大戦中に焼失したが、昭和26年(1951年)、同キャンパス内に、建築家谷口吉郎(以下「谷口」という。)の設計による第二研究室棟(本件建物)が建築され、同建物が、「新萬来舎」と呼ばれるようになった。
 なお、建築家谷口吉郎(明治37年〔1904年〕−昭和54年〔1979年〕)は、我が国のモダニズム建築の開拓者であり、藤村記念堂(1947年〔昭和22年〕)、東宮御所(1960年〔昭和35年〕)、東京国立近代美術館(1969年〔昭和44年〕)等の作品が知られており、「日本の清らかな意匠を設計した建築家」などと評価され、文化勲章も授章した。谷口は、新萬来舎建築以前に、慶應大学三田キャンパス内に第四号館及び学生ホールを建てており、これらの建築物は昭和24年度(1959年度)の日本建築学会賞を受賞している。
(2) 本件建物は、鉄筋コンクリート造り2階建てで、教授室、事務室と共に本件建物1階玄関南側部分にイサム・ノグチのデザインによる「談話室」(以下、本決定においては、本件建物内の談話室の部分を指して「ノグチ・ルーム」という。)が設けられており、福澤諭吉が創設した演説館(現在、国の重要文化財に指定されている。)の北側に隣接して建築されている。
 談話室の室内装飾、本件建物に隣接する庭園及び庭園に置かれた「無」と題する彫刻(1950年〔昭和25年〕〜1951年〔昭和26年〕製作。白河石造、229p、別紙写真@)、「学生」と題する彫刻(1951年〔昭和26年〕製作。鋳造角棒熔接、405p、別紙写真A)及び「若い人」と題する彫刻(1950年〔昭和25年〕製作。鋳造鉄板熔接、200p)の3つの彫刻は、イサム・ノグチにより製作された。
 イサム・ノグチが、これらを製作した当時の本件建物、談話室部分、庭園及び上記3体の彫刻の位置関係は、別紙「本件建物竣工当時の状況」のとおりである。なお、イサム・ノグチ製作に係る談話室、庭園及び彫刻をすべて一体のものととらえて、これら全体を「ノグチ・ルーム」と称することがあることもあるが(疎甲47)、前記のとおり、本決定においては、本件建物内の談話室を、「ノグチ・ルーム」という。
(3)ア ノグチ・ルームの室内の特徴
 ノグチ・ルームは、大型の引き戸スチールサッシにより東側キャンパスに開かれ、学生や教職員のアクセスを歓迎しつつ、西側にも同様の引き戸が配され、西側空間への視野が大きく確保されており、東西の空間特性、開放性に特徴がある。
 ノグチ・ルームの床は、段差のある3つの部分に分けられ、1つは石膏の床であり、その床には造り付けの楕円形のテーブル、椅子が置かれている。また、1つは木造の床(さくら無垢フローリング)となっており、中央に円形の形をした暖炉が置かれ、暖炉を挟んで2本の円柱があって、これらはコンクリート木肌仕上げがされており、1本は構造柱、1本は煙突柱となっている。最上段の床は、籐の敷物の床となっており、床の間風の飾り棚がある。室内は椅子座と床座が混在するリビングルームとなっており、全体の空間構成は、曲・直の線と面からなり、直交する正方形の建築空間とは対比的となっている。
 南側壁面のテラコッタタイルは、イサム・ノグチがあえて線を刻んだ一種のレリーフ彫刻などがある。
イ 庭園の特徴
 イサム・ノグチは、庭園部が西側の崖上に位置することから、庭園の大地性の表現のために、西側の崖の斜面から伸びている樹木を計算して、庭園を作成した。また、庭園の南側は演説館と隣接し、同所付近の稲荷山の起伏、演説館の西側部分、その裏側にある巨樹などが庭園にいる者の視野に入ることなどを考慮して、谷口と共に苦心して設計した。
ウ 彫刻の特徴
 「無」と題する彫刻は、ノグチ・ルームの西側庭園のほぼ中央に設置され、ノグチ・ルーム室内から見たときに、落日の光が、彫刻に点火して石灯籠のように見えるように設置されるなど、東西の軸線を強調するように設置されている。
 「学生」と題する彫刻は、ノグチ・ルームの西側庭園の北寄りの場所に設置されていたが、後記のとおり、昭和62年(1987年)に本件建物の増築に伴い、同庭園の中央寄りの場所に移設されている。
(4) 本件建物が竣工した昭和26年(1951年)当時、慶應大学の三田キャンパスは、本件建物を含め、低層の建築物で中庭を広く囲む構成であった。しかし、昭和34年(1959年)に西校舎、南校舎という大型の校舎が建設され、1980年代に入ると、新図書館及び大学院棟といった高層建築が各々建設されていき、三田キャンパス内の景観は大きく変化した(疎甲7)。
 現在の三田キャンパス内における本件建物と他の校舎との位置関係は、別紙「現在の三田キャンパスの状況」(疎甲2)のとおりであり、同図において、番号6を付した建物が本件建物である。
 イサム・ノグチ製作に係る「若い人」及び「学生」と題する2体の彫刻についても、大学院棟の建設や本件建物の増築に伴い、本件建物竣工当時の設置場所から移設され、現在は、別紙「本件建物の現在の状況」(疎乙1・添付図面06)の位置に設置されている。
 なお、「ノグチ・ルーム」は、現在、管理上の理由で催事等を除き学生が自由に出入りできず、ノグチ庭園に至る建物脇の通路には立入禁止の看板が立てられている。また、「若い人」及び「学生」と題する彫刻は褪色、腐食が進行し、「無」と題する彫刻もその裏面の白河石の損傷が著しく、いずれもその対応が急務な現状にある。
3 債務者の計画(疎乙1、2、5、審尋の結果)
(1) 債務者法人は、平成16年4月に法科大学院の開講を予定しており、現在、本件建物(新萬来舎)等が存する三田キャンパスの西南区域に、法科大学院等のための新校舎の建築を予定している。債務者法人は、平成16年度中は、現存する校舎において法科大学院の教育を行う予定であるが、平成17年4月からは新校舎を使用し、本格的に法科大学院における教育を開始することを予定している
(2) 債務者法人は、平成14年1月、法科大学院等の新大学院開設計画に基づいて「新大学院環境整備検討委員会」を設置し、同委員会は、同年3月、現計画位置への大学院新校舎建設と「計画提案競技」の実施を答申し、債務者はこれを受けて、同月、計画提案競技(いわゆるコンペ)を実施した。一次審査、二次審査を経て、同年5月に常任理事会の決議により現行の大成建設株式会社の提出した計画案(以下「大成案」という。)が選定された。債務者法人は、現在、大成案を基本として、新校舎のための工事を行うことを予定している(以下、これを「本件工事」という。)。
 本件工事の概要は、別紙「本件工事の概要@ないしC」に記載のとおりであり、本件建物及び庭園部分はいったん解体され、新校舎内の3階屋上部分に、ノグチ・ルームを含む本件建物の一部を再現し、庭園及び彫刻も同様に移設し、物理的に可能な限り、現状を復元することを目指している。すなわち、ノグチ・ルームのある本件建物1階部分だけでなく、ノグチ・ルーム上部の本件建物2階部分を含めて建物を復元し、新校舎のうちノグチ・ルーム部分が設置されることになる建物部分は、建物の方位を現状と同一とする。また、庭園部分は本件建物建設当時の状況を屋上庭園で再現し、西側庭園へのテラス部分にある藤棚も移築保存し、ノグチ・ルーム西側に広がる庭園部分とノグチ・ルームの位置関係を変更しないよう、現状と同じく西窓側に西側庭園部分が広がるようにする。西側庭園にある「無」と題する彫刻は、現状どおり、ノグチ・ルーム西側庭園の中央に設置し、ノグチ・ルームとの位置関係を重視した現状の配置を忠実に再現する。「学生」と題する彫刻については、前記2の(4)に記載のとおり、当初イサム・ノグチが設置した位置と現在置かれている位置が異なるため、新たな設置場所を検討中である。さらに、ノグチ・ルームのある1階から2階にかけてのらせん階段を移築保存し、ノグチ・ルームの室内装飾についても、使用している部材をできる限りそのまま移設することとする(ただし、床板と壁の一部及び窓のフレームは、既に痛んでいるため、移設に伴い新しい部材と取り替える予定となっている。)。
第4 争点及び争点に関する当事者の主張
1 争点
(1) 本件申立ての適格
ア 債権者イサム・ノグチ財団について
イ 債権者教員らについて
(2) 著作者人格権(同一性保持権。著作権法20条1項)の侵害の有無
ア 本件工事による著作物改変の有無について
イ 著作権法20条2項2号又は60条但書の適用の有無について
(3) 保全の必要性
2 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)ア(債権者イサム・ノグチ財団の申立て適格)について
【債権者イサム・ノグチ財団の主張】
ア 債権者イサム・ノグチ財団は、本件遺言書により、イサム・ノグチから、著作者人格権を含め、イサム・ノグチの著作物に関する一切の権利を遺贈された。本件遺言書に関しては、ニューヨーク検認後見裁判所がイサムの次の遺言の執行を確認した文書である本件合意書に、その2条及び4条が引用されているところ、その内容は、次のとおりである
(ア) 本件遺言書4条の基本的な構成は、「FOUR:All the residue and remainder of my property and estate, real and personal, of whatever nature and wherever situate, including any property not effectively disposed........ I give and devise to THE ISAMU NOGUCHI FOUNDATION,INC.............(私の財産及び遺産の一切の残余遺産及び残余権につき、‥‥‥イサム・ノグチ財団に対して‥‥‥付与ないし贈与する。)」となっており、上記下線部分は、「物的及び人的な」と訳され、「personal」には著作者人格権に当たる権利が含まれるから、債権者イサム・ノグチ財団は、イサム・ノグチの著作者人格権の行使の主体である。なお、「personal property」は、土地・建物以外のすべての財産を意味するものであって、有体財産・無体財産の双方を含み、有体物としての動産のみを意味するものではない。
 また、下線部分をどのように解釈しようとも、上記の「All the residue and remainder of my property and estate」に、著作者人格権に当たる権利が含まれることは明らかである。なぜならば、4条における「but excluding any property over which I have any power of appointment or disposal which power I hereby expressly do not exercise (herein referred to as my 'residuary estate'), ......」は、「私が、その指定ないし処分について、何らかの権能を持つ財産を除外するが、そうした(指定ないし処分の)何らかの権能をここ(本遺言書)では明示的に行使しない。」との意味であり、イサム・ノグチが本件遺言書を作成した後に自己の財産に関して処分を行った場合を除外する文章であると解されるところ、イサム・ノグチの死亡後、1996年(平成8年)2月17日、あるいは、1998年(平成10年)1月16日の時点で、1987年(昭和62年)4月6日付けの本件遺言書が「Last Will」(最終遺言書)として確認された上で、何らの注記なく本件合意書において確認されたことからすれば、本件遺言書2条及び4条の規定が本件遺言書作成後に何ら重要な変化を被らなかったことを示しているということができる。したがって、債権者イサム・ノグチ財団がイサム・ノグチから遺贈されたのは、イサム・ノグチのすべての財産である。
(イ) また、本件遺言書第4条の引用に続き、本件合意書において、イサム・ノグチの名称(the Isamu Noguchi name)の使用権(氏名表示権)、すなわち著作者人格権を、債権者イサム・ノグチ財団に与える旨の記述が存することも、債権者イサム・ノグチ財団が、イサム・ノグチの著作者人格権を承継した根拠となる。
(ウ) 債務者は、本件遺言書中の複数の条項によりイサム・ノグチの財産が処分されたこと(あるいはその可能性)を主張するが、仮に、本件遺言書の1条及び3条において、我が国著作権法による著作者人格権に当たる権利、あるいは著作権の遺贈に関する記述が存在するなら、ニューヨーク郡検認後見裁判所は、本件合意書において、それらの規定を明示的に引用し、その規定に抵触しない旨を確認した上で諸権利の遺贈について述べなければならないところ、上記のとおり、本件遺言書にはそのような記載はない。
イ そもそも、本件は、著作者人格権が債権者イサム・ノグチ財団に移転したかという問題と、移転した権利に基づいて債権者イサム・ノグチ財団を始めとする本件申立てが認められるか否かという問題とに分けて考えるべきであり、前者は遺贈の問題、後者は著作権の問題というべきである。後者の問題については、日本の著作権法が準拠法として指定され、解釈されるところ、下記のとおり、債権者イサム・ノグチ財団は、遺贈により、著作者人格権を有するので、これを行使することができる。
 すなわち、前者の遺贈の問題は、法例26条により、被相続人の本国法によるものと定められ、法例27条は、遺言の準拠法も成立当時の遺言者の本国法によると定めているから、イサム・ノグチから債権者イサム・ノグチ財団に対する遺贈は、米国法を準拠法として判断されるべきである。
 そして、米国法において、連邦著作権法は、州法より優先すると規定しているので(連邦著作権法301条)、連邦著作権法が優先して適用される(以下、連邦著作権法を「米国著作権法」という。)。
 米国著作権法には、視覚芸術著作物以外の著作者人格権や同一性保持権に関する直接的な規定はないものの、同法106条(2)がこれを保護するものとされている。すなわち、同法106条には、
 「第107条ないし第121条を条件として、本編に基づき著作権を保有する者は、以下に掲げる行為を行い、又はこれを許諾する排他的権利を有する。(以下、省略)
 (1) (省略)
 (2) 著作権のある著作物に基づいて二次的著作物を作成すること」
 と規定されており、106条(2)の規定が著作者人格権を保護した規定であることは米国法上一般に認められているのである。
 また、米国著作権法では、著作権と著作者人格権が区別して規定されておらず、日本法のように一身専属的な権利であるとの規定もない。
 そして、106条が規定する権利の移転については、同法201条(d)項「著作権の移転」において、
 「(1)著作権はあらゆる手段による譲渡又は法の作用によって、その全部又は一部を移転することができ、また、遺言によって遺贈し又は無遺言相続法によって人的財産として移転することができる。
 (2)第106条に列挙する権利を含む、著作権に含まれるいかなる排他的権利も、(1)に規定するとおり移転し、また、個別に保有することができる。」
 とされているのである。
 これらの規定からすれば、米国法においては、日本法のように著作者人格権に一身専属性は認められておらず、特に遺言において著作者人格権について特段の指定をすることも権利移転の要件とはされていないから、遺言に特別の文言がなくとも、著作権の受贈者は、当然に著作者人格権を行使できるというべきである。
 したがって、本件遺言書は、米国著作権法の上記の条項等を当然の前提として作成されたものと解するのが相当であり、イサム・ノグチは著作者人格権を含め著作物に関する一切の権利を債権者イサム・ノグチ財団に遺贈する意思であったと解すべきである。
ウ 以上のとおり、債権者イサム・ノグチ財団は、イサム・ノグチの著作者人格権を行使し得る者として、著作者人格権(同一性保持権)に基づく本件工事の差止請求権を有する。
エ なお、債務者は、著作物の破壊は、著作権法上の権利侵害とは関係ないから、「解体」行為自体は、差止めの対象とならない旨主張するが、債務者の計画は、本件建物等を新校舎3階に移築するものであり、解体、移築の行為は不可分一体のものであるから、「解体」行為のみを採り上げて、却下を求めるというのは、不可解かつ自己矛盾の主張である。
【債務者の主張】
ア 著作権の承継と著作者死亡後の著作者人格権の権利行使者が誰であるかは、著作権法上全く別個の問題であり、本件においては、債権者イサム・ノグチ財団が、イサム・ノグチの著作者人格権を行使をすることができることについて、疎明がないというべきである。
(ア) まず、債権者イサム・ノグチ財団の提出した本件合意書は、イサム・ノグチの本件遺言書そのものではなく、我が国の著作権法116条3項で規定する遺族に代えて著作者人格権を行使する者を指定した遺言に当たらない。
(イ) また、本件合意書に引用された本件遺言書4条の「personal property」は、もともと動産類を指す言葉であり、無体財産権を含む場合があるとしても、あくまでも譲渡可能な財産権を意味するものである。
 米国において、著作者人格権に該当する権利は「moral right」と表現され、財産的権利である著作権を示す「copy right」とは区別されている上、一身専属的で、譲渡は不可能とされている。
 したがって、「personal property」に、財産権としての著作権が含まれることはあっても、一身専属的で、譲渡が不可能な権利である著作者人格権は含まれないというべきである。
 なお、債権者イサム・ノグチ財団は、本件合意書中に、債権者イサム・ノグチ財団がイサム・ノグチの「name」の使用許諾を与えられているとの記載があることをもって、債権者イサム・ノグチ財団が著作者人格権を行使できる根拠としているが、「name」は、イサム・ノグチの氏名を識別標識とする財産権である商標的権利を指しているもので、著作者人格権である氏名表示権を指すものではない。氏名表示権は「paternity right」と表されるものであり、本件合意書においては、「name」に続けて、「and trade mark, goodwill symbolized thereby,」と、営業権的権利がされていることからみても、「name」が財産的な権利を指すことは明白である。
(ウ) また、本件遺言書4条「All the residue remainder of my property and estate」には留保規定が付されているものであるから、この留保条項なしには、いったいどのような権利が債権者イサム・ノグチ財団に移転したのかを確定できない。
 すなわち、同条中には、「including any property not effectively disposed of by the foregoing provisions of this will,」との記載があり、これは「前項までの各条項により有効に処分をされたものではない全財産が含まれる。」と訳され、including(含まれる)以下の事項については、2条のみが本件遺言書内容であり、その他の条項が記載されていないため、2条以外の本件遺言書中にあると思われる処分規定が明確でなく、何が残存財産に該当するのかの判断ができない。
 さらに、その後に続く、「...., but excluding any property over which I have any power of appointment or disposal which power I hereby expressly do not exercise (herein referred to as my 'residuary estate'), ......」は、「本件遺言書において指定あるいは処分の権能を行使しないものと明確に示しているところにより自己が指定又は処分を行う権限を有するすべての財産を除き」と訳すべきであるが、本件遺言書において除外されているものも、明確でない。
 そして、同条中の「provided that......」以下は、遺贈の相手方となる財団の要件について定めた規定であり,(a)イサム・ノグチの死亡時点で、本遺贈が連邦遺産税上控除可能となるため米国内国歳入法第2055条(a)項に定める団体であること,(b)連邦所得税法上遺贈が控除可能になるように米国内国歳入法170条(c)項の団体に該当することが要件とされているが、債権者イサム・ノグチ財団は、自らがこれらの要件を満たすことについて、一切主張、疎明していない。
 また、本件合意書においては、イサム・ノグチの家具デザインについての著作権(「copyright」)等を債権者イサム・ノグチ財団が受領したことについては記載があるが、他方、建物、部屋、庭園及び彫刻の著作権についての言及もなければ著作者人格権(moral right)についての言及もない。イサム・ノグチの室内内装等についての権利が本件遺言書に従い債権者イサム・ノグチ財団に移転されているのであれば、これを受領した旨の文言も本件合意書中に存在するはずであるのに、これらの記載は存在しない。これらの点からすれば、本件遺言書において、室内内装等についての権利が留保されている可能性が推認されるというべきである。
 以上のとおり、本件遺言書2条及び4条のみでは本件遺言書の内容が確定できないため、本件において、解体・移設の差止めを求められているイサム・ノグチの著作物が、本件遺言書4条にいう「残存財産」に該当するかどうかについて、判断ができない。
イ 本件遺言当時の米国著作権法の状況
(ア) イサム・ノグチが、本件遺言書を作成したとされる1987年(昭和62年)当時は、米国著作権法に「建物の著作物」の規定は存せず、建物の著作物に関する規定は、1990年(平成2年)に初めて同法に設けられたものである上、同改正後においても、建築の著作物には、所有者の行う取壊しあるいは改変について、著作権法上何らの制限もされていなかった。
 また、本件遺言書作成当時には、同法に著作者人格権の規定が存せず、著作者人格権に関する規定も、1990年(平成2年)に初めて規定されたが、同改正後においても、著作者人格権は著作者の生存期間中のみ存続するものとされ、移転は不可能とされている(米国著作権法106A条(d)第(1)項、同条(e)第(1)項)。
 そうすると、イサム・ノグチが本件遺言書を作成した1987年当時の米国著作権法の状況にかんがみれば、当時の通常の米国人の意識としては、特段の事情がない限り、建築物が著作物であるとの意識も、著作者の死後において著作者人格権が行使されるという意識も、存在しなかったとみるのが自然である。
(イ) また、本件遺言書2条において、米国著作権法の適用がない日本に存在する著作物についても処分がされていることや、本件遺言書の条項の形式・内容からすれば、イサム・ノグチは、弁護士資格を有する者のアドバイスを受け、各種の法律的問題を十分に考慮して本件遺言書を作成したものというべきである。そうすると、イサム・ノグチは、遺言に際し、ベルヌ条約、あるいは、日本著作権法等を参考にして、当時米国著作権法上認められていない建築物の著作物ないし著作者人格権についての記載を行うことも可能であったというべきところ、本件遺言書にこのような記載が一切見当たらないのは、イサム・ノグチが、ノグチ・ルーム等に関しては、著作者人格権の行使者の指定を行う意思がなかったことを明らかにしたものとみるべきである。
(ウ) 以上の背景からみても、イサム・ノグチは、債権者イサム・ノグチ財団に、著作者人格権を行使させる意思はなかったと認められる。
ウ なお、債権者イサム・ノグチ財団は、本件建物の解体の差止めをも求めているが、有体物としての著作物の破壊は、著作権法上の権利侵害とは何ら関係ないから、「解体」行為自体は、差止めの対象とならない。
(2) 争点(1)イ(債権者教員らの申立て適格)について
【債権者教員らの主張】
ア 本件建物、庭園及び彫刻は、世界的文化財であり、これらの文化財は、債務者の塾生や教職員が約50年にもわたり、その文化的価値を享受してきたものであるから、これらについては、債権者教員らの文化財の享受権が認められるべきものである。この享受権は、本件建物、庭園及び彫刻についての同一性が保持されてこそ享受できる権利であるから、債権者教員らは、世界的文化財の同一性を享受することを内容とする権利(文化的享受権)を有する。
イ 債務者法人の塾務執行の決定は理事会の権限に属し、常務については塾長及び常任理事が行うことができるが、重要な事項については、債務者法人の規約によれば、評議員会の議決によると定められており、「重要な施設の設置、分合、廃止」は、評議員会の議決事項である(債務者法人規約20条1項3号)。
 債務者法人の計画する新校舎の建築予定場所、新校舎の床面積や建物の日陰規制等を考えると、本件工事は、本件建物の解体を前提とした計画にならざるを得ず、そうであれば、債務者法人は、債務者法人規約に従い、各建設会社に対して建築条件を提出する段階で、解体に関する議決を評議員会及び理事会に求める必要があった。
 それにもかかわらず、債務者法人は、評議員会の決議を経ていないのであるから、本件工事は違法、無効というべきで、債務者は違法な行為を遂行しようとするものである。
ウ 債権者教員らは、評議員を選任する権利を有し、評議員会の決定事項を債務者に遵守させる立場にあり、また、債務者の役員の選任権を有するとともに役員が違法な行為を行わないように監視する義務があるから、債務者法人の違法行為の差止めを求める権利がある。
 したがって、評議員会の決議がないのに、債務者法人が本件工事を遂行しようとした場合、評議員会の決議不存在確認の本案の訴えも可能であるから、債権者らは、債務者の違法行為を差し止める権利を有する。
 なお、債務者は、平成15年5月28日に評議会を開催し、本件工事につき承認を得た旨主張しているが、同評議会の招集通知書の議題事項に本件工事の件は記載されていなかったこと、本件工事を論議するための適切な資料等が配布されていないことなどからすれば、適正な議決があったとはいえない。
【債務者の主張】
ア 債権者教員らが主張する「同一性を享受することを内容とする文化的享受権」というものは、実定法上の根拠を欠くものであって、被保全権利として認める余地は全くない。
イ また、「違法行為を差し止める権利」という主張も失当である。
 すなわち、そもそも、評議員の一部の選挙権を有するにすぎない債権者教員らについては、実定法上の根拠もなく、違法行為の差止めを請求することはできないし、債務者法人規約20条1項3号の「重要な施設の設置、分合、廃止」における「施設」は、債務者における一定の組織を対象とするものであり、単なる建物はこれに含まれないと解されるから、本件工事は、評議員会の議決を要する事項ではない。
 なお、債務者は、上記のとおり、本件工事は、評議会の議決を要する事項ではないと思料するが、平成15年5月28日午後4時から、慶應大学三田キャンパス東館8階会議室において、評議員会を開催し(98名のうち64名の評議員の出席)、第8号議題として、「大学(三田)新校舎(仮称)新築工事」が、第9号議題として、「大学(三田)新校舎(仮称)建設予定地に係る建物の解体工事」がそれぞれ議論され、本件工事等の是非が諮られたところ、いずれも出席した評議員の多数が本件工事の原案に賛成の意見を表明し、可決されたから、本件工事が評議員会の議決を経ていない違法な行為であるという債権者教員らの主張は失当である。
ウ 以上のとおり、債権者教員らは、被保全権利を有しないというべきである。
(3) 争点(2)ア(著作者人格権(同一性保持権。著作権法20条1項)の侵害の有無−本件工事による著作物改変の有無)について
【債権者イサム・ノグチ財団の主張】
ア ノグチ・ルームを含む本件建物、庭園及び彫刻は、一体となった総合芸術、環境芸術ともいうべきもので、すべてが一体となった著作物であり、ノグチ・ルームの室内デザインは、イサム・ノグチがノグチ・ルームとなすべく委ねられた一室の形態のみならず、建築家谷口が設計した建築物全体との密接な関係を考慮することによって、初めて2人のコラボレーションとして成立するものである。
イ すなわち、本件建物は庭園と福沢諭吉の演説館との位置関係に重要な意味を持っていることに加え、彫刻や庭園は大地と密接に接着し、庭園周囲の樹木との関係など、本件建物及び庭園等は、あらゆる要素を考慮して建設されている。また、本件建物は、ノグチ・ルームを含む南翼部分と、国際センターが使用してきた北翼がほぼ135度の角度で折れ曲がった形態をもち、本件建物の南翼の2階部分のみを残しても、ノグチ・ルームと建築との関係性は保持されない。その理由は、ノグチ・ルームの、特に東側テラス部分の外観が建築の横方向に連続する長方形の窓と密接に関連しており、北翼の窓の連鎖を前提として初めて東側テラスの角柱の太さ、高さ、間隔がその美的意味を獲得することができるものであること、東側テラス外観は、キャンパスから庭園へという東西方向の連続性、開放性を重視したノグチ・ルームの内装のすべての要素と密接な関係があること、暖炉の両脇に立つ円柱の方向、床面の石部と木部の区分の仕方も、東西の方向性、動線によって決定されていることなど、本件建物とノグチ・ルームは一体性を有するからである。さらに、南側壁面のテラコッタタイルは、解体時に破損する可能性が高いものであり、ベルヌ条約にいう「不動産と一体になった」彫刻そのものであり、極めて高い芸術性を有しているが、いったん解体により破壊されれば、完全に再現することは不可能である。
ウ 以上のとおり、本件建物の解体は、イサム・ノグチと谷口という2人の芸術家のコラボレーションを解体し、本件建物を安易に大地から引きはがし、空中庭園及び空中楼閣とするもので、環境芸術としての本件著作物の本質を破壊し、美術史的意義を喪失せしめる暴挙である。したがって、本件工事を実行することは、イサム・ノグチが建築家谷口と共に創作した本件建物、庭園及び彫刻について、著作者の意に反した改変を行うことにほかならず、本件建物、庭園及び彫刻が一体となった環境芸術としての著作物の同一性を失わせるものである。
エ 仮に、本件建物とノグチ・ルームを別の著作物として考えたとしても、本件工事により、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻は、次のとおり改変され、同一性保持権が侵害されるというべきである。
 まず、ノグチ・ルームについては、上記イのとおり、本件建物の解体により、ノグチ・ルームの室内装飾も一部新規のものと交換することにならざるを得ないことや、空間特性(東側部分の開放性)、「ガーデンエレメンツ」という思想の下、大地・重力という上下の空間軸も失われることになり、同一性を保つことができない。
 庭園についても、前述のとおり、本件工事により、庭園の大地性が失われるほか、庭園の南側に隣接していた演説館や巨樹などが庭園にいる者の視野に入ることこそ、谷口やイサム・ノグチが苦心した点であったのに、これらが失われることになる。
 彫刻についても、イサム・ノグチが「アクロポリス」と表現した三田キャンパスの大地上の当該位置に設置するからこそのデザインなのであり、他の場所に設置されることは、イサム・ノグチの意に反した改変といわざるを得ない。
オ 以上のとおり、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻をイサム・ノグチの個々の著作物として見た場合においても、本件工事により、同一性を保持できなくなる。
【債務者の主張】
ア 本件工事は、第3前提事実の3の(2)に記載されているとおり、ノグチ・ルームのみならず、ノグチ・ルーム上部の本件建物2階部分、らせん階段、庭園の藤棚も一緒に移設した上、ノグチ・ルームの室内部分の部材は、できる限り忠実にそのまま移設するものであり、また、建物の方角も忠実に再現するものであること、さらに、庭園部分についても、現状と同様に、その窓側に移設するものであり、彫刻についても、従来どおりの庭園の位置に設置するものである。したがって、本件工事によっても、イサム・ノグチの著作物の同一性は失われず、著作物の改変に当たらない。
イ そもそも純粋な美術とは異なる実用的な「建築」においては、このような移設は「改変」といえないとも解される。
ウ 戦前の萬来舎がもともと福澤諭吉が多くの人が集う空間として創設され、イサム・ノグチも建築家谷口もその精神を理解して、ノグチ・ルーム等をデザインしたものであることからすれば、本件工事によって、取り壊されるだけでなく、あるいは他の場所に移設されることなく、三田キャンパスにおいて存続することは、むしろ、イサム・ノグチらの創作意図に合致するものである。
(4) 争点(2)イ(著作者人格権(同一性保持権。著作権法20条1項)の侵害の有無−著作権法20条2項2号又は60条但書の適用の有無)について
【債務者の主張】
ア 著作権法20条2項2号の適用について
 同法20条2項2号の「改築」とは、建物をいったん完全に解体して移設する場合も含まれると解されるところ、本件工事は、「改築」に該当する。したがって、仮に、本件工事によるノグチ・ルーム等の移設が同条1項の「改変」に当たるとしても、同条2項2号により同一性保持権の侵害とはならない。
イ 同法60条但書の適用について
 上記(3)のアにおいて主張したとおり、本件工事は、イサム・ノグチの創作意図に合致しているのみならず、次のとおり、その性質及び程度も相当性を有し、社会的事情の変動等により、著作者の意を害しないと認められるから、同法60条但書の適用により、著作者人格権を侵害しない。
(ア) 法科大学院設置の必要性と移築の相当性
@ 三田キャンパスに設置する必要性
 債務者法人の法科大学院の理念は、「学術」と「スキル(専門)」の両立であり、この実現のためには、現在の債務者の学術大学院が集中している三田キャンパスに設置されなければならない。
 三田キャンパスに替えて、代替地を取得するには60億円もの多額の出資をしなければならず、厳しい財政状況のため、困難であった。
A 三田のキャンパス西南地区に建築する必要性
 現在、法科大学院の敷地として確保できる場所は、正門前空地か、西南地区か、東南側生花市場跡地の3地区しかない。
 債務者法人は、法科大学院の人員を学生約460名、教員約50名と予定しており、その人員を収容することを考慮すると、法科大学院だけでも約3000坪の敷地、その他の研究環境整備を含めると約5500坪の新校舎が必要となる。
 そうすると、スペースや三田の丘の教育的歴史、全体の景観とのバランスからしても、西南地区を敷地として利用する以外にはない。
B 移築の相当性
 前述のとおり、債務者法人は、新校舎建設とノグチ・ルーム保存とのできる限りの調和を考え、ノグチ・ルームの向きを保ち、移設可能なものは移設するなどの計画をしている。仮に、ノグチ・ルーム等を取り壊さずに西南地区に、新校舎を建築するとすれば、その敷地面積は2400平方メートルの容積減少となる。
 そもそも現在のノグチ・ルーム、本件建物の周辺の状況についても、建設された当時と異なり、周囲の建物は高層化し、日照が悪く、恵まれた環境にあるとは言い難くなっており、本件建物と三田キャンパス全体のバランスを欠く状態となっているものであるから、ノグチ・ルームを移築することで、谷口とイサム・ノグチが目指した萬来舎の精神を受け継ぐことができる。
 債権者教員らは、本件建物を解体せずに新校舎を建築するという代替案を提出しているが、いずれも単なるアイデアあるいはデザイン図の域を出るものではなく、大学院新校舎設置という重大かつ長期の計画として十分に検討するだけの材料ではない。物理的にも無理がある案である。
(イ) 手続の公正性
 債務者は、新校舎の建設を計画する際、設計競技(いわゆるコンペ)を行い、当初からノグチ・ルームへの配慮をコンペ案の条件としていた。
 債務者に提出されたコンペ案は、いずれも本件建物を取り壊し、同一性を保ちながら移設するものであったが、新校舎東側の壁面線を西校舎の壁面線とそろえることによって整合性を保ち、かつ、1〜3階部までピロティを採用することで開放感をもたせて新しい空間を確保するという点で、大成案が採用されたものである。
【債権者イサム・ノグチ財団】
ア 著作権法20条2項2号の適用について
(ア) 本件建物は、室内造作、庭園、彫刻は不可分一体の関係である総合芸術であり、単純に「建築物」と断じきれないから、同号の適用は否定されるべきである。
 同号にいう「建築物」は、通常の居住の用に供する建物を想定したものであり、同号は、その利用との調和を図った規定である。したがって、大学という環境内で芸術性を全面的に発揮した複合芸術は、同号の「建築物」に該当しないというべきである。
 また、少なくとも彫刻は建築物ではないから、本規定の適用はない。
 仮に、彫刻を除く本件建物等が「建築物」に該当するとしても、当該建築物の改変の態様、範囲及び目的並びに当該建築物の創作性、美術性の程度、特徴及び用途を比較衡量し、老朽化や防災上の危険等建築物を現状のまま利用することが危険であるなどの理由で増築、改築の必要性があり、かつ、他にとり得べき手段がないという場合に限って適用されるべきである。
(イ) また、本件工事は、債務者法人の評議員会の議決を経ることなく、行われた違法なものであるから、同号の適用はないというべきである。
 すなわち、同号は、建物の所有者又は利用者の正当な権限に基づく利用の目的を保護するための規定であり、改変が正当な権限に基づき適法にされるものであることを当然の前提としているところ、本件工事は違法、無効なものであるから、同号の保護の対象外というべきである。
イ 著作権法60条但書の適用について
 本件工事がその性質及び程度、社会的事情の変動その他によって、著作者の意を害しないということはできない。
 すなわち、新校舎建築の必要があるとしても、解体・移築を伴わない案(疎甲34ないし36)もあり、これらの案を採用すれば、本件著作物のほとんどの部分の保存は可能である。また、三田キャンパスから約2キロメートルほど離れた場所に財務省管理に係る国有地が60億円で売りに出されていたのであるから、代替地を取得して新校舎を建設するという選択も可能だったのである。
 さらに、そもそも債務者法人は、当初から本件建物を解体することを前提として、本件工事の計画を進めていたものであって、各建設会社がコンペの条件を満たす案を作成するには、本件建物の解体を前提とした案しか提出できなかったものである。
 以上のような事情に照らせば、本件工事が著作者の意を害しないということはできない。
(5) 争点(3)(保全の必要性)について
【債権者ら】
 本件建物、庭園及び彫刻は、谷口吉郎とイサム・ノグチの共同設計、製作による高い芸術的価値を有する共同著作物であり、文化財としても極めて高い価値を有している。
 本件工事により、本件建物が破壊され、本件庭園及び彫刻が移動されれば、芸術的価値は根本的に失われ、二度とその価値を回復することはできない。
 債務者による本件工事計画は、平成15年2月に実施設計作業が終了し、詳細設計作業が開始されている段階で、本件建物の解体工事はいつ着工されてもおかしくない状況にある。
 したがって、本件工事を差止める必要性が高く、保全の必要性がある。
【債務者の主張】
 前述のとおり、債務者は、法曹養成制度の大幅な変更に伴い、法科大学院を開設し、良質かつ十分な教育を行うための施設として新校舎建築を計画しているものであるところ、加えて、本件工事は、ノグチ・ルームの文化財としての価値をできる限り損なわないように最大限の努力を行い、ノグチ・ルームと緊密な関係を有する本件庭園部分、彫刻を併せて、新校舎において移設するというものである。
 このように、本件工事は、新しい建築と文化財保護の調和を図るものであって、法的観点からも社会的観点からも非難されるものではない。
 しかも、債務者は、平成15年5月12日から、本件建物の解体作業を開始する予定であった。解体工事が遅れると、新校舎の完成が遅れ、慶應大学法科大学院で使用開始を予定している平成17年4月の開講に間に合わなくなるおそれがある。
 以上によれば、債権者らによる本件申立てにつき、保全の必要性は認められない。
第5 当裁判所の判断
1 争点(1)(本件申立ての適格)について
(1) 債権者イサム・ノグチ財団の本件申立て適格について
ア(ア) そもそも、著作権法59条においては、「著作者人格権は、その性質上著作者の一身に専属し、譲渡することができない。」と規定され、著作者の死亡とともに著作者人格権は消滅し、著作者人格権は、譲渡や相続の対象とならない性質のものであることが明確に示されており、これを前提とした上で、著作者の死後における人格的利益の保護を可能にするため、同法60条により、著作者の死後において、著作者が生存しているとしたならば、その著作者人格権の侵害となるべき行為が禁止され、かつ、同法116条において、同法60条に違反する行為等の侵害行為に対し、著作者の人格と密接な関係があり、著作者の生前の意思を最も適切に反映し得る者が差止請求権等を行使し得るものとされているのであるから、著作者死亡後における著作者人格権は、同法116条において認められた者が上記請求権等を行使するという限りで保護されるにすぎない。そして、同条1項は、著作者の遺族(死亡した著作者の配偶者、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹)が上記請求権を行使し得るものとし、同条3項には、「著作者又は実演家は、遺言により、遺族に代えて第1項の請求をすることができる者を指定することができる。」と規定されていることからすれば、著作者の遺族以外の者は、著作者の遺言による指定を受けることによってのみ、上記の請求権を行使することが可能になる。
 本件においても、債権者イサム・ノグチ財団が、イサム・ノグチの著作者人格権を侵害された場合に差止め等の請求権を行使できるか否かは、イサム・ノグチが、遺言により債権者イサム・ノグチ財団を同条3項の請求権者として指定したかどうかによる。
(イ) この点に関し、債権者イサム・ノグチ財団は、著作者人格権が移転したかという点と移転した権利をこれを行使できるかどうかという点は別個の問題であるとし、前者の問題は遺贈の効力の問題として米国法を準拠法として判断されるべきであり、他方、著作権の行使については日本法を基準に判断すべきものであるなどと主張する。
 しかし、本件において、債権者イサム・ノグチ財団は、我が国の著作権法上の著作者人格権(同一性保持権)の行使として、債務者に対して本件工事の差止め等を求めているものであるところ、上記のとおり、我が国の著作権法においては、著作者人格権は、一身専属の権利であって、著作者が死亡した場合には、相続財産に含まれず、遺族のうち同法の定める者又は遺言により指定を受けた者がこれを行使し得るものとされているのであるから、本件においては、イサム・ノグチの本件遺言書中の記載をもって、我が国著作権法116条3項にいう「指定」と解することができるかどうかを、我が国の著作権法に従って検討する必要があり、かつ、その検討をもって足りるものである。この点を離れて、本件遺言書の効力を論ずることは不要であり、本件遺言書によりイサム・ノグチの相続財産が債権者イサム・ノグチ財団に有効に承継されたかどうかを判断する必要はない。
(ウ) ところで、本件においては、イサム・ノグチの本件遺言書そのものは、本件において疎明資料として提出されておらず、債権者イサム・ノグチ財団は、本件遺言書2条及び4条の部分が引用された本件合意書(疎甲22)を提出しているにすぎない。そこで、本件合意書において引用された本件遺言書2条及び4条により、我が国著作権法116条3項にいう「指定」があったと認めることができるかどうかを、以下検討する。
イ(ア) 本件遺言書2条及び4条の解釈
 前記の前提事実第3の1及び後掲各疎明資料によれば、次の事実が疎明されているものと認められる。
a 本件合意書の内容(疎甲22)
 本件合意書の冒頭には、「イサム・ノグチが1988年12月30日死亡し、1987年4月6日付けの最終遺言書(本件遺言書)を残したものであり、本件遺言書は、1989年3月28日にニューヨーク郡の検認後見裁判所によって、その検認を行うことが適法に認められたものである。」、「遺言執行状は、1989年3月29日に、ニューヨーク郡の検認後見裁判所により、本件遺言書の遺言執行者であるM、N及びOに対して適法に付与された。」旨が各記載され、これに続いて、本件遺言書2条及び4条が引用されている(引用された英文の記載は、別紙「本件遺言書(英文)」のとおりである。)。
 また、本件遺言書2条及び4条の引用に続き、本件合意書においては、「遺言執行者であるM、N及びOは、ここに下記署名者(引用者注:債権者イサム・ノグチ財団)に対して、(@)「イサム・ノグチ」の名称及び商標、それらによって象徴されるグッドウィル並びに同名称及び同商標の過去の侵害に対して請求を行う一切の権利、(A)著作権を含むがそれに限定されない、イサム・ノグチの家具デザインについての、同家具及びデザインを管理、ライセンス供与及び製作する権利並びにそれに関するロイヤリティーを受領する権利、並びに、同家具デザインの過去の侵害に対して請求を行う一切の権利を含むすべての権利についての被相続人の遺産の所有権的権益を、上記で引用した本件遺言書の2条及び4条に基づく、下記署名者に対する遺贈の(エクイテイ上の)一部履行として、そして、下記署名者による、下記に記載する受領及び権利放棄書の署名に対する対価として分配するものである。」旨の記載がされている。さらにこれに続けて、「イサム・ノグチ財団は、‥‥‥遺言執行者であるMらにより、上記に掲げた権利を、2条及び4条に基づく遺贈の一部履行として受領した旨を確認し、イサム・ノグチの遺産、並びに、Mらに、それぞれ個人及び遺言執行者として上記のとおり分配される財産に関して行われた措置ないし行われなかった措置に関し、イサム・ノグチ財団に対する以後の一切の債務、責任及び説明責任を免除し、免責する。‥‥‥」旨が記載されている。
b 本件遺言書2条の内容(疎甲22)
 「2条 A.私は、現在、日本国香川県牟礼に所在している『エナジー・ヴォイド』と題された私の彫刻について有する非分割の権利について、その2分の1ずつを、ニューヨーク州法に基づいて設立され存在する公益法人であるザ・イサム・ノグチ・ファウンデイション及び日本法に基づいて設立され存在する財団法人イサム・ノグチ日本財団に対して、それぞれ与える。同財団法人が私の死亡時に日本国内においていまだ設立されていない場合には、私は、私の遺言執行者に、本件遺言書の第5条E項に定める方法で、同財団法人を設立するよう指示する。
 B.私は、私の残余のすべての彫刻、絵画及びその他の芸術作品(本件遺言書の第5条D項の規定に基づいて、その売却を要する芸術作品を除く。)を、私が作成したか否かを問わず、また、私の一切の文章、原稿、私信、文書並びにそれらに関連する著作権を、あらゆる点において、私の残余遺産の一部として処分がされるよう指示する。」。
c 本件遺言書4条の内容(疎甲22、31、乙10ないし13)
 「4条:私の財産、遺産の一切の残余遺産及び残余権(それが物的財産権か人的財産権かのいかんにかかわらず、また、その性質及び所在地のいかんにかかわらず、本件遺言書の先行する各条項により有効に処分がなされていない財産を含み、私が指定あるいは処分を行う権限を有しているにもかかわらず、本遺言書においてこれを行使しないことを明らかにしている財産のすべてを除いたもの(これを、以下、私の「残余遺産」という。))は、ニューヨーク州法に基づいて設立され、存在する公益法人であるザ・イサム・ノグチ・ファウンデイションインクに対して、その全般的な目的上、付与、並びに贈与する。ただし、私の死亡日において、同公益法人が(a)内国歳入法の第2055条(a)に定める団体であって、ここでの遺贈が連邦遺産税の目的上控除可能なものであること、並びに、(b)内国歳入法の第170条(c)に定める団体であって、それに対する贈与が連邦所得税法の目的上控除可能なものであることを条件とする。」
d 本件遺言書が作成された当時の米国著作権法(疎甲3、疎乙14)
 1976年〔昭和51年〕10月19日の米国著作権法においては、建築物の著作物性についての規定及び著作者人格権を認める規定は存在しなかった。
 また、同法106条(著作権のある著作物の排他的権利)には、次のとおり規定されていた。
 「この法律に基づく著作権の所有者は、第107条から第118条までの規定に従うことを条件として、次のことを行い又は許諾する排他的権利を有する。
 (1)号 著作権のある著作物を複製物又はレコードに複製すること。
 (2)号 著作権のある著作物を基礎として二次的著作物を作成すること。
 (3)号 (以下、省略)」
 なお、我が国の著作者人格権の一つとされる氏名表示の権利については、不正競争防止法(unfair competition law)の不正表示禁止及び商標法の規定等によって、我が国と同様の保護がなされていた。
e 1990年改正後の米国著作権法(疎乙15、16)
 1990年の米国著作権法の改正により、著作権の目的物に関する著作権法102条(a)項につき、(7)の次に、『(8)建築の著作物』を追加するとの改正がされ、米国著作権法上初めて、建築物に著作物性が認められた。
 また、同改正により、同法106条のAとして、下記のとおり、著作者人格権を認める規定が設けられた。
 「(a)氏名表示及び同一性保持の権利−第107条を条件として、視覚芸術著作物の著作者は、第106条に規定する排他的権利と独立して、
 (1)以下の権利を有する。(以下省略)
 (2)自分の名誉又は声望を害するおそれのある著作物の歪曲、切除その他の改変の場合、視覚芸術著作物の著作者として自分の名前が使用されることを防止する権利を有する。
 (3)(省略)
 (b)(省略)
 (c)(省略)
 (d)権利の存続期間
 (1)1990年視覚芸術家権法第610条(a)項に定める発行日以後に創作される視覚芸術著作物に関しては、本条(a)項が付与する権利は、著作者の生存期間中存続する。
 (2)以下(省略)
 (e)移転及び放棄
 (1)第(a)項が付与する権利は、移転することができないが、著作者が署名した文書をもって放棄に明示的に同意する場合には放棄することができる。
 (2)(省略)」
 なお、視覚芸術著作物とは、米国著作権法101条において「‥‥‥『視覚芸術著作物』とは、以下のいずれかをいう。(1)絵画、素描、版画又は彫刻であって、1点のみ存在するもの又は著作者が署名しかつ通し番号を付した200点以下の限定版が存在するもの。‥‥(以下省略)。」と定義されている。
 さらに、同法120条においては、建築著作物に対する排他的権利の範囲として、「(b)建築物の改装及び破壊−第106条(2)の規定にかかわらず、建築著作物を具現した建築物の所有者は、当該建築著作物の著作者又は著作権者の同意なしに、かかる建築物を改装し又はこれを許諾することができ、また、かかる建築物を破壊し又はこれを許諾することができる。」旨規定されている。
ウ 以上を前提として、イサム・ノグチが本件遺言書により、我が国著作権法116条3項にいう「指定」として、債権者イサム・ノグチ財団を指定したものと認められるかどうかを、判断する。
(ア) 上記のとおり、本件遺言書2条及び4条には、イサム・ノグチが我が国の著作権法116条3項にいう「指定」を行使することを明示的に示す文言は存在しない。
 この点に関して、債権者イサム・ノグチ財団は、本件遺言書4条中の「real and personal 」の「personal」(すなわち「personal property」)に著作者人格権が含まれる旨を主張し、これをもって、自己の権利行使の根拠とする。
 なるほど疎明資料(疎甲31、疎乙10ないし13)によれば、「personal property」の語は、元来、人的訴訟(「personal action」)によって救済を受ける財産権一般を指すもので、動産に限定されるものではなく、広く債権や無体財産権をも含むものであるが、このように「personal property」の概念が広範なものであることからすれば、単に本件遺言書中に「personal property」の語が記載されていることをもって、イサム・ノグチにより著作者人格権の行使者の指定があったと認めることはできない。
(イ) 前記のとおり、本件遺言書において、我が国の著作権法116条3項にいう「指定」がされたことを明示的に示す文言は存在しないが、「指定」を明示的に示す文言が存在しないとしても、本件遺言書を全体としてみたときに、イサム・ノグチが、自己の著作物の死後における改変に対する対応を遺贈の相手方に委ねた意思が読みとれるときには、それをもって同項にいう「指定」があったものと認めることができる。
 そこで、本件遺言書を全体としてみたときに、イサム・ノグチが、自己の死後における本件建物、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻の改変に対する対応を債権者イサム・ノグチ財団に対して委ねた意思が読みとれるかどうかを、検討する。
 たしかに、前記のような本件遺言書4条の内容に照らせば、その内容の骨子は、「イサム・ノグチは、すべての財産、残余遺産を債権者イサム・ノグチ財団に付与、贈与する。」というものであるから、このことだけみれば、イサム・ノグチに関わる一切の権利について、債権者イサム・ノグチ財団が承継したという解釈が、一見可能なようにも見える。
 しかしながら、他方、同条には、「私が指定あるいは処分を行う権限を有しているにもかかわらず、本遺言書においてこれを行使しないことを明らかにしている財産のすべてを除いたもの」がイサム・ノグチの「残余遺産」として、イサム・ノグチ財団に付与されると明確に述べられている以上、本件遺言書全体の条項から、残余遺産に何が含まれるかを確定しなければ、そもそも本件建物、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻に関する著作権が債権者イサム・ノグチ財団に遺贈されたのかどうかが明らかではなく、死後におけるこれらの作品の改変に対するイサム・ノグチの意図を推認することも、困難である。
 ところが、前述のとおり、債権者イサム・ノグチ財団は、本件遺言書自体を疎明資料として提出せず、本件遺言書2条及び4条が引用されている本件合意書を提出するにすぎない。そうすると、本件において、債権者イサム・ノグチ財団から提出された疎明資料によっては、いまだ残余財産の範囲を確定することができず、そもそも本件建物、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻に関する何らかの権利が本件遺贈書によって遺贈されたことの疎明があったということも、できない。
(ウ) 上記の点に関し、債権者イサム・ノグチ財団は、疎甲32を提出する。
 しかし、これは、債権者Bがイサム・ノグチ財団宛に提出した質問状(疎甲39)における「本件遺言書作成後に、実際にexcludeされたものはあるでしょうか。」という問いに対し、同財団理事長から債権者Aにファクシミリで送信された回答書であるが、同回答書は、「『除外exclusion』は行われませんでした。なぜならば、イサム・ノグチが指定する権限を持った財産は存在しなかったからです。」と述べるものであって、イサム・ノグチが本件遺言書作成後に何ら除外を行っていないことをいうだけの内容であり、イサム・ノグチが本件遺言書において権限を行使しないことを明らかにしている財産が存在したのかどうかについては、全く触れられていない。したがって、上記疎甲32をもっても、やはり、本件遺言書に記載された、イサム・ノグチのいう「残余遺産」に何が含まれるのかは、確定できない。
 加えて、上記のとおり、イサム・ノグチが本件遺言書を作成した当時には、米国著作権法上、我が国の著作者人格権に相当する規定は存せず(なお、この点、債権者は疎甲43を提出し、同一性保持の権利については、当時の米国著作権法106条(2)及び不正競争防止法の不正表示禁止等により、著作者人格権と同様の保護を与えられていたとするが、米国著作権法の上記規定にいう二次的著作物の作成権限は著作権の内容そのものであり、同規定をもって、著作者人格権に属する同一性保持権が規定されていたとみることはできない。)、当時の米国著作権法が、著作者の人格的な権利というよりも、その経済的な権利の保護のために制定されていたと解釈されることからすれば、そもそも、イサム・ノグチが自己の死後における著作者人格権の行使、同一性保持権の行使を念頭において、本件遺言書を作成したと認めるのも困難というべきである。
(エ) 以上にかんがみると、本件において提出されたすべての疎明資料を精査しても、本件遺言書において債権者イサム・ノグチ財団に遺贈された(そして併せて著作者人格権の行使についても委ねられたと解する可能性が存在する)残余遺産に何が含まれているのかについては、いまだ疎明がないというべきである。
エ 小括
 したがって、債権者イサム・ノグチ財団については、イサム・ノグチから我が国著作権法116条3項にいう「指定」を受けていたことについて疎明がされているということができないから、結局、被保全権利についての疎明がないことに帰するものであり、同債権者による本件仮処分の申立ては、主位的申立て、予備的申立てのいずれも却下すべきものである。
(2) 債権者教員らの本件申立て適格について
ア 債権者教員らは、本件建物、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻について「同一性を享受することを内容とする文化的享受権」を有する旨主張する。
 しかしながら、債権者教員らの主張する上記の「文化的享受権」なるものは実定法上の根拠を持たないものであり、また、債権者教員らの主張をみても、どのような理由により債権者教員らがそのような法的請求権を有するのかは明らかでない。
 上記によれば、債権者教員らの主張する上記の「文化的享受権」なるもは、そもそも法的な権利として認められるものではなく、本件において申し立てられている仮処分の被保全権利となり得るものではない。
イ また、債権者ら教員らは、疎明資料(疎甲17、28、37、48など)を提出し、債務者法人が、本件工事を進めるに当たって、評議員会の決議を経なかったことは違法であるから、債権者教員らはそのような違法行為を差し止める権利を有する旨主張している。
 しかし、債務者法人における特定の施策に関する意思決定において内部的な手続規程が遵守されていない場合に、教員である債権者教員らが直接当該施策の執行を差し止めることができるという点については、何ら実定法上の根拠に基づくものではなく、債権者教員らの主張をみても、どのような理由により債権者教員らがそのような法的請求権を有するのかは明らかでないから、債権者教員らの主張は採用できない(なお、疎乙18によれば、債務者法人が平成15年5月28日に評議会を開催し、本件工事の実施についての議決を経たことが認められる。)。
ウ 以上のとおり、債権者教員らについても、被保全権利の疎明がないものといわざるを得ないから、その申立ては、いずれも却下すべきものである。
2 争点(2)(同一性保持権の侵害の有無)について
 上記1において判断したところによれば、債権者イサム・ノグチ財団及び債権者教員らは、いずれも被保全権利の存在について疎明したものといえないから、本件申立てはいずれも却下すべきものである。
 したがって、争点(2)については本来判断の必要がないものであるが、事案にかんがみ、念のため、この点についての当裁判所の判断を示すこととする。
(1) 本件工事による著作物改変の有無について
ア イサム・ノグチの著作物について
 本件工事によりイサム・ノグチの著作物が改変されるかどうかの前提として、まず、本件におけるイサム・ノグチの著作物について検討する。
(ア) 債権者らは、本件建物について、建築家谷口とイサム・ノグチの共同著作物であり、本件建物、庭園及び彫刻が一体となったものが、イサム・ノグチの著作物である旨を主張する。
 この点について、建築家谷口は、雑誌「新建築」(1952年2月号。疎甲4、疎乙3)において、「‥‥‥『第四号館』、『第五号館』、『学生ホール』の校舎が建ち、続いて『第二研究室』が新築された。‥‥‥私は、この一連の建物に、意匠の一貫性を求めている。それは福沢諭吉によって創建された『演説館』(明治8年〔1875年〕)にこもる意匠のモラルを各校舎が受けつぐことによって、『福沢精神』のルネッサンスを表現したいと念ずる建築家の構想である。これらの建物は法・文・経の大学院に使用されるものであるので、その建物の権能に「思索の場」をも加えたいと考え、姉妹芸術の絵画や彫刻との協力を試みた。‥‥‥今回の『第二研究室』においては、彫刻家野口イサム氏との協力によって、モダン・アートの彫刻と結びつきたいと考えた。野口氏は『庭園』と『彫刻』を受け持ち、私は『建築』を担当した。特に『談話室の室内』には、二人の作家的友情を心から融和させた。私は建築家として、彫刻家の造形性に対して、機能を与え、それを日本の材料と構造によって施行するために努力した。野口氏の彫刻的才能は普通の彫刻家と異なって、建築に対する理解が深かったために、二人の協力は予想以上に進展した。」と述べており、また、雑誌「新建築」(1950年10月号)所収の「彫刻と建築」と題する文章においては、「私が、イサム・ノグチ氏と共に、三田の丘に設計した新萬来舎の建物は、『彫刻』と『建築』の協力による思索である。イサム氏がその『庭園』と『クラブ室の内部』を設計し、私がその『建築』を設計した。しかし、2人の仕事は分離したものでなく、互いに協力し、スケッチにおいて、製図において、模型において、暑い夏の昼も夜もいろいろと熟議しあった。この建物は、慶應義塾の校舎に属する一棟であって、従って、私が設計した『五号館』、『四号館』、『学生ホール』に並ぶ建物である。私は、明治8年に福澤諭吉先生が建てられた『演説館』のスタイルを私の設計のテーマとして、それによって、三田キャンパスの丘の上に『造形交響曲』を夢想しているが、新萬来舎もそのシンフォニーの一章にしたいと思っている。」と述べている。また、イサム・ノグチは、雑誌「新建築」(1952年2月号。疎甲4、疎乙3)の中で、「一つの室と庭とが、私の提供できる最良の表現であろうと思われました。‥‥‥この計画が、新しい第2研究室の建物の中にそれと一体となってつくられる場所を見出し得たのは最も幸せでした。視界は西に向かってひらけ、沈んで行く太陽が、私の彫刻『無』をシルエットにして浮き出させ、天上からの光で点火してそれを石灯籠のようにします。碧空に向かって聳える鉄の彫刻『学生』は、抱負あふれる学生諸君への私からの捧げものです。」と述べている。
 上記のとおり、谷口とイサム・ノグチは、ノグチ・ルームを含む本件建物、庭園及び彫刻の製作について、これを両者による共同作業と位置付けているものであるところ、前記前提事実(第3の2の(1)ないし(4))として記載した事実関係によれば、ノグチ・ルームは、本件建物を特徴付ける部分であって、本件建物の正面を構成する重要な部分である1階南側部分を占め、西側庭園に直接面して、庭園と調和的な関係に立つことを目指してその構造を決定されている上、本件建物は元来その一部がノグチ・ルームとなることを予定して基本的な設計等がされたものであって、柱の数、様式等の建物の基本的な構造部分も、ノグチ・ルーム内のデザイン内容とされているものである。これらの事情に、疎明資料(疎甲19、20、25ないし27、47等)により認められる事情を総合すると、ノグチ・ルームを含めた本件建物全体が一体としての著作物であり、また、庭園は本件建物と一体となるものとして設計され、本件建物と有機的に一体となっているものと評価することができる。したがって、ノグチ・ルームを含めた本件建物全体と庭園は一体として、一個の建築の著作物を構成するものと認めるのが相当である。
 彫刻については、庭園全体の構成のみならず本件建物におけるノグチ・ルームの構造が庭園に設置される彫刻の位置、形状を考慮した上で、設計されているものであるから、谷口及びイサム・ノグチが設置した場所に位置している限りにおいては、庭園の構成要素の一部として上記の一個の建築の著作物を構成するものであるが、同時に、独立して鑑賞する対象ともなり得るものとして、それ自体が独立した美術の著作物でもあると認めることができる。
(イ) そして、上記のノグチ・ルームを含む本件建物全体、庭園及び彫刻が一体となった建築の著作物はイサム・ノグチと谷口の共同著作に係る著作物であり、独立の著作物としての彫刻はイサム・ノグチの著作物であるから、イサム・ノグチは、これらの著作物について、共同著作者ないし著作者として、著作者人格権(同一性保持権)を有する。
 そこで、上記の一体としての建築の著作物及び独立の著作物としての彫刻が、本件工事により改変されるかどうかについて、以下検討する。
イ 本件工事による著作物の改変の有無について
(ア) 本件工事がノグチ・ルーム、庭園及び彫刻に対して及ぼす影響について
 債務者は、前提事実(第3、3(2))に記載のとおり、できる限り本件建物等の現状を維持する形でノグチ・ルーム、庭園及び彫刻を移設する計画をしているが、本件工事により、現状の変更を余儀なくされる具体的な箇所については、疎明資料(疎甲8、44、47)及び審尋の結果によれば、次のとおり疎明されているものと認められる(なお、本件建物については、本件工事により本件建物全体としての形状が改変されることは明らかであり、本件において争われているのも、本件建物内のノグチ・ルームが本件工事により改変されることとなるかどうかという点にある。したがって、上記のとおり、本件においては、本件建物全体と彫刻を含めた庭園とが一体として建築の著作物を構成し、これと同時に彫刻は独立して美術の著作物として存在すると解するが、本件工事による改変の有無を検討する際には、まず、本件工事がノグチ・ルーム、庭園、彫刻のそれぞれに対して及ぼす影響を認定した上で、ノグチ・ルーム、庭園、彫刻が一体となった著作物及び独立の著作物としての彫刻に対して及ぼす影響を検討することとする。)。
a ノグチ・ルームについて
 前提事実(第3、2(3))に記載のとおり、ノグチ・ルームは、大型の引き戸スチールサッシにより東側キャンパスに開かれ、学生や教職員のアクセスを歓迎しつつ、西側にも同様の引き戸が配され、西側空間への視野が大きく確保されており、東西の空間特性、開放性に特徴があるところ、本件工事を実施すれば、移築後の状況においては、その東側に建物が存在することになる。
 また、ノグチ・ルームの室内のインテリア等については、床(さくら無垢フローリング)の部材を改めて新たに製作して、着色塗装し、引き戸のスチール・サッシも解体時に変形するため、新規に製作する予定である。南側壁面のテラコッタタイルも、解体時に破損する可能性が高く、その場合には破損タイルを新規に製作して補充することになる。
b 庭園について
 前提事実(第3の2の(3))に記載のとおり、庭園は、イサム・ノグチが、庭園部が西側崖上に位置することを計算し、庭園の大地性の表現のために、西側の崖の斜面から伸びている樹木を計算に入れていた。また、庭園の南側は、すぐに演説館と隣接しており、稲荷山の起伏、演説館の西部分、その裏側にある巨樹などが庭園にいる者の視野に入ることなどを考慮して、設計されている。
 本件工事においては、庭園は新校舎3階に移設されるため、庭園の大地性が失われ、あたかも空中庭園のような浮揚感が生じることになる。
c 彫刻について
 前提事実(第3の2の(3)及び(4))によれば、いずれの彫刻も修復が望まれる状況にあり、本件工事の際に、製作当時の状態に復するように補修する必要がある。
 「学生」と題する彫刻は、現在の位置が、イサム・ノグチが製作した当時と異なるため、専門家と協議のうえ、移設後庭園のどの位置に設置するかを決定することになる。したがって、移設後の位置は、現状と異なる可能性が高い。
(イ) 以上を前提に、本件工事によって、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻が一体となった建築の著作物、並びに彫刻の著作物が、改変される結果となるかどうかについて、検討する。
a 上記のとおり、ノグチ・ルームについてみると、ノグチ・ルームの東側についての空間的特性が失われること、一般的に鉄筋コンクリートの建築物はいったん解体してしまうと復元が難しいとされており、本件建物の壁面と一体となっているテラコッタタイルの復元は困難であることなどにかんがみれば、本件工事により、ノグチ・ルームにつき、製作者の意図した特徴が一部損なわれる結果を生じるといわざるを得ない。
b 「無」と題する彫刻は、ノグチ・ルームの西側庭園中央部に位置し、ノグチ・ルームの室内から見ると、日の沈む方向に設置されるなど、その形状・位置がノグチ・ルームとの位置関係を含めた庭園全体の構造において意味を持ち、庭園を構成する要素としてとらえることができるから、その設置場所の変更については庭園全体の改変に当たるかどうかという観点からの検討が必要である。この点については、前記のとおり、本件工事においては、「無」と題する彫刻はノグチ・ルームとの位置関係を含めて、彫刻の設置位置、向き等につき現状をそのまま復元することとされているから、同彫刻の移設のみによって庭園全体の改変につながるものではない。「学生」と題する彫刻は、現状において、既にイサム・ノグチが当初設置した場所から移設され、イサム・ノグチが意図した位置に所在しなくなっているものであるから、本件工事により、同彫刻が移設されることが、庭園全体の改変につながる余地はない。
c しかし、庭園全体についてみると、本件庭園は、イサム・ノグチが、庭園部が西側崖上に位置することから、庭園の大地性の表現のために、西側の崖の斜面から伸びている樹木を計算に入れ、庭園の南側がすぐに演説館と隣接しており、稲荷山の起伏、演説館の西部分、その裏側にある巨樹などが庭園にいる者の視野に入ることなどを考慮して、谷口と共に設計したものである。本件工事においては、庭園は、全体として、ノグチ・ルームとの位置関係を含めて現状を復元する形で移築されるものではあるが、前記のような、周囲の土地の形状等をも考慮に入れた上での製作者の意図は、本件工事の施工により失われてしまうことになる。したがって、庭園については、本件工事により、製作者の意図した特徴が損なわれる結果を生じるものである。
d なお、前述のとおり、彫刻については、これを庭園の構成要素として考慮するほか、独立の美術の著作物としても考慮することが可能であるが、独立した美術の著作物としての彫刻においては、製作者の意図は当該彫刻の形状・構造等によって表現されているものであるから、展示される場所のいかんによって、製作者の意図が見る者に十分に伝わらないということはない。したがって、独立の著作物としての前記各彫刻は、本件工事により改変されるものではない。
ウ 小括
 上記によれば、本件工事は、ノグチ・ルーム及び「無」と題する彫刻を含めた庭園の現状をできる限り維持した形でこれを移設しようとするものであるが、本件建物全体についてその形状が改変されるのはもちろんのこと、本件建物を特徴付ける部分であるノグチ・ルームについて製作者の意図する特徴を一部損なう結果を生じ、庭園についても周囲の土地の形状等をも考慮に入れた上での製作者の意図が失われるものであるから、ノグチ・ルームを含めた本件建物全体と「無」と題する彫刻を含めた庭園とが一体となった建築の著作物が、本件工事により改変され、著作物としての同一性を損なわれる結果となるといわざるを得ない。
(2) 争点(2)イ(著作権法20条2項2号又は60条但書の適用の有無)について
ア 前記の前提事実(第3の3の(1)及び(2))に疎明資料(疎甲8、10ないし15、17、24ないし26、29、30、38、37、疎乙5、6)及び審尋の結果を総合すれば、債務者の新校舎建築計画に至るまでの経緯については、次の各事実が疎明されているものと認められる。
(ア) 債務者法人は、司法制度改革審議会の答申を踏まえ、平成13年10月、評議員及び慶應大学内の各研究科委員長らが参加する「新大学院構想検討委員会」(以下「新大学院検討委員会」という。)を設置し、新大学院構想の検討を開始した。合計6回にわたる新大学院検討委員会での検討の結果、平成14年2月、債務者法人において、「スキル(専門)」と「学術」の大学院を車の両輪として設置するのが人材養成の観点から最も望ましいとの理念から、新大学院である法科大学院を設置し、「法曹養成」と「法学アカデミズム」の両立を目指すとの最終提言が、採択された。
 債務者法人には、三田キャンパスのほかに、理工学研究科の校舎が日吉に、医学研究科のための校舎が信濃町に、政策・メディア研究科の校舎が湘南藤沢にあったが、最終提言では、他の研究科との人事交流を可能にすることを念頭におき、各大学院間相互の共同利用が可能な施設として機能する新大学院の理念実現のためには、現在債務者法人の学術大学院が集中し、学術の総本山ともいうべき三田キャンパスにおいてしかその実現は考えられないとされた。
 その過程において、別の場所に校舎を賃借することも検討されたが、文部科学省が、大学院又は大学院の研究科を設置する場合の校舎の基準として、(1)「申請時において、開設年度以降10年以上にわたり支障なく使用できる保証がある場合」あるいは(2)「申請時において、借用に係る経費の10年分に相当する額を収納している場合」に限り借用のものであっても差し支えない旨を定めており、後者の(2)に従って、三田キャンパスの周辺で校舎を賃借する場合には、少なくとも72億円の金額が必要となると試算されたため、債務者法人においては、財政上の見地からこれを断念し、前者の(1)の条件を満たすものとして、新校舎を建設せざるを得なかった。
 また、代替地を取得する案も出たが、それにも60億円以上の資金が必要であり、やはり債務者法人の財政上困難であった。
(イ) 別紙「現在の三田キャンパスの状況」を見れば明らかなように、三田キャンパスには、余剰敷地がほとんどなく、既存建物は、すべて学部生施設又は研究施設として利用されており、これらの一部を転用することも、新大学院において必要とされる規模からすれば不可能であった。
 債務者法人の計画では、法科大学院部分だけでも学生690名、教員50名程度の人数を収容するスペースが必要であり、新校舎の延床面積で5500坪程度の大きさの建物が必要であった。これを前提に新大学院検討委員会において検討した結果、三田キャンパス西南地区部分を再整備するしかないという結論に達した。
(ウ) 債務者法人においては、新校舎建設のため、コンペ方式を採用し、平成14年3月22日、コンペの説明会を開催し、計画、設計及び工期を通し3年間の期間、延床面積5500坪、10項目の配慮事項を計画案に入れることを要請した。その際、各競技者に渡された慶應大学(三田)新校舎計画提案競技要綱(疎乙7の1)の「計画に配慮する事項」には、「ア 三田キャンパスの歴史性と拠点性、イ 三田キャンパス再開発の起点性、‥‥‥ケ 重要建造物と自然の保全と調和(野口ルームの保存を含む)‥‥‥」との条件が掲げられていた。
 コンペの結果、株式会社大林組の案(疎乙7の3)、株式会社竹中工務店の案(疎乙7の2)、大成案が第1次審査を通過した。そして、さらに検討したところ、新校舎1階から3階部分までの一部をピロティとして開放空間を設定し、新校舎の東側壁面を西校舎の東側壁面の位置と揃え、整合性をとって空間的なゆとりを生みだし、人の流れなどにも配慮し、本件建物跡地の緑地化により最も演説館周辺の環境に配慮し、ノグチ・ルーム及び庭園についても、イサム・ノグチ及び谷口の意図を継承し、素材に関しても可能な限り既存の素材を使用して移設するものであること等が建設コストと併せて評価された結果、大成案が採用されることとなった。
(エ) 一方、平成14年8月、慶應大学文学部教授Pを座長とする「ノグチ・ルーム保存ワーキンググループ」(以下、単に「保存ワーキンググループ」ともいう。)が発足し、保存ワーキンググループは、同年12月にかけて、合計8回、30人の専門家のヒアリングを行い、債務者が実行しようとしている大成案に盛り込まれた「ノグチ・ルーム移設」に疑問を投げかけ、「新萬来舎」、「ノグチ・ルーム」の重要部分の現状保存のための再検討を求める記述を含む詳細なレポート「ノグチ・ルーム保存WGによる活動報告ならびに答申」(平成14年12月12日付け。疎甲8)を債務者法人に提出した。また、「新萬来舎/ノグチ・ルーム」の保存運動が国際的な広がりをもち、平成15年1月には、債権者イサム・ノグチ財団、アジア・カルチュラル・カウンシル及びウォーカー・アート・センターの連合による「新萬来舎保存のための国際委員会」による保存要望書が債務者法人に提出されるなどした。
(オ) 債務者法人は、保存ワーキンググループ等の答申を受け、当初はノグチ・ルームの1階部分だけを新校舎3階に移す予定であったのを、谷口とのコラボレーションをより多く残すため、2階部分も含めて移設し、1階と2階を結ぶらせん階段を維持し、また、ノグチ・ルームの位置方向は、庭園内の彫刻と太陽の動きなどを介して関連づけられていることを重視し、その意図を継承するために、庭園の藤棚、彫刻とともにノグチ・ルームの方向位置関係についても、これを維持することとした。さらに、ノグチが「太陽によって灯籠が点火される。」と語っていたという(疎甲8・3頁)、彫刻「無」の円相の中に西方の落日が浮かび上がるというモチーフを重要視して、同彫刻を製作時の方位を保つ位置に設置し、ノグチ・ルームの室内デザインについても、選定した素材を極力継承し、既存の内装材・家具についても、移設可能なものは極力移設し、移設困難なものについては、調査の上、専門家に検討してもらうなどとして、当初の大成案を変更した。このような変更を加えた結果が、本件工事の内容となっている。
 なお、債権者教員らの提案に係る本件建物を取り壊さずに現状保存したまま、その背後(西側部分)に新校舎を建設するという案も検討されたが、敷地面積が減少し、隣地への日陰規制の関係上、建設できる新校舎の延床面積が2400平方メートル減少するという難点があり、その他の案についても、大幅な設計変更を余儀なくされ、工期の点から採用は困難であった。
イ 前記の前提事実(第3の3の(1)及び(2))及び上記アの事実に照らし、著作権法20条2項2号の適用の有無について判断する。
 前記のとおり、本件においては、イサム・ノグチと谷口の共同著作に係る著作物としての、ノグチ・ルームを含む本件建物全体、庭園及び彫刻が一体となった建築の著作物と、独立の著作物としてのイサム・ノグチの著作に係る「無」、「学生」と題された各彫刻が問題となるものであるところ、このうち、ノグチ・ルームを含む本件建物全体、庭園及び彫刻が一体となった建築の著作物が、本件工事により改変を受けるものである。
 著作権法20条2項2号は、建築物については、鑑賞の目的というよりも、むしろこれを住居、宿泊場所、営業所、学舎、官公署等として現実に使用することを目的として製作されるものであることから、その所有者の経済的利用権と著作者の権利を調整する観点から、著作物自体の社会的性質に由来する制約として、一定の範囲で著作者の権利を制限し、改変を許容することとしたものである。これに照らせば、同号の予定しているのは、経済的・実用的観点から必要な範囲の増改築であって、個人的な嗜好に基づく恣意的な改変や必要な範囲を超えた改変が、同号の規定により許容されるものではないというべきである。
 これを本件についてみると、上記のとおり、本件工事は、法科大学院開設という公共目的のために、予定学生数等から算出した必要な敷地面積の新校舎を大学敷地内という限られたスペースのなかに建設するためのものであり、しかも、できる限り製作者たるイサム・ノグチ及び谷口の意図を保存するため、法科大学院開設予定時期が間近に迫るなか、保存ワーキンググループの意見を採り入れるなどして最終案を決定したものであって、その内容は、ノグチ・ルームを含む本件建物と庭園をいったん解体した上で移設するものではあるが、可能な限り現状に近い形で復元するものである。これらの点に照らせば、本件工事は、著作権法20条2項2号にいう建築物の増改築等に該当するものであるから、イサム・ノグチの著作者人格権(同一性保持権)を侵害するものではない(仮に、イサム・ノグチの著作物として、上記のような本件建物全体と庭園とを一体としてとらえた建築の著作物ではなく、債権者らの予備的申立てにいうように、本件建物のうちノグチ・ルーム部分と庭園を問題とした場合であっても、ノグチ・ルームは建築物の一部分として著作権法20条2項2号の適用を受け、庭園もその性質上、同号の規定が類推適用されるものと解するのが相当であるから、上記の結論は変わらない。)。
ウ 著作権法60条但書の適用について
 著作者人格権は一身専属の権利であり、本来、著作者が存しなくなった後においてはその保護の根拠が失われるものであるが(同法59条)、著作権法は、著作者が存しなくなった後においても、一定の限度でその人格的利益の保護を図っている(同法60条)。
 この場合において、著作権法60条但書は、著作物の改変に該当する行為であっても、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が著作者の意を害しないと認められる場合には、許容されることを規定している。
 そして、著作者の意を害しないという点は、上記の各点に照らして客観的に認められることを要するものであるところ、本件においては、上記のとおり、本件工事は、公共目的のために必要に応じた大きさの建物を建築するためのものであって、しかも、その方法においても、著作物の現状を可能な限り復元するものであるから、著作者の意を害しないものとして、同条但書の適用を受けるものというべきである。
 したがって、仮に本件工事について著作権法20条2項2号が適用されないとしても、同法60条但書の適用により、本件工事は許容されるというべきである。
(3) 上記に判断したところによれば、いずれにしても、債権者イサム・ノグチ財団が被保全権利を有することが疎明されているということはできない。
3 結論
 以上によれば、本件において、債権者らが被保全権利を有することが疎明されているということはできないから、債権者らの主位的申立て及び予備的申立ては、いずれも却下すべきものである。
 よって、主文のとおり、決定する。

東京地方裁判所民事第46部
 裁判長裁判官 三村量一
 裁判官 青木孝之
 裁判官 松岡千帆


別紙物件目録 省略
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