判例全文 line
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【事件名】「週刊文春」の旧石器発掘捏造報道事件
【年月日】平成15年5月15日
 大分地裁 平成13年(ワ)第610号 謝罪広告等請求事件

判決


主文
1 被告らは、連帯して、原告Aに対し330万円、同B及びCに対し各165万円並びにこれらに対する平成13年3月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは、連帯して、被告株式会社文藝春秋発行の週刊誌「週刊文春」に、別紙1記載の謝罪広告を、同2記載の掲載条件で、1回掲載せよ。
3 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用は、これを3分し、その2を原告らの、その余を被告らの各負担とする。
5 この判決1、4項は、仮に執行することができる。

事実及び理由
第1 請求の趣旨
1 被告らは、連帯して原告Aに対し2750万円、同B及び同Cに対し各1375万円並びにこれらに対する平成13年3月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは、連帯して、被告株式会社文藝春秋発行の週刊誌「週刊文春」に、別紙3記載の謝罪広告を、同4記載の掲載条件で、3回掲載せよ。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 仮執行宣言
第2 事案の概要
 本件は、被告株式会社文藝春秋(以下「被告会社」という。)発行の週刊誌に記事を掲載したことがD元教授の名誉を侵害し、同記事を執筆した記者の被告Eと編集者の被告Fには共同不法行為が成立し、被告E及び被告Fの使用者である被告会社には使用者責任が成立すると主張して、D元教授の相続人である原告らが被告らに対して謝罪広告の掲載及び各相続分に応じた損害賠償並びに遅延損害金の支払を求めた事案である。
1  争いのない事実等(括弧内に証拠番号を記載した事実は、証拠によって容易に認定できる事実を含む。)
(1) 原告らは、平成13年3月9日に死亡したD元教授の相続人である。原告AはD元教授の妻であり、その法定相続分は2分の1で、同B及び同CはいずれもD元教授の子であり、それぞれの法定相続分は各4分の1である。
(2) D元教授は、昭和22年に日本大学を卒業後、昭和26年別府女子大学講師、昭和29年別府大学助教授、昭和34年別府大学教授、昭和36年同大学文学部長、昭和62年から同大学学長を務めるなどの経歴を有し、平成8年に同大学退職後は同大学名誉教授就任、昭和53年には考古学研究の業績により文化庁長官表彰、昭和60年大分県考古学会初代会長、西日本新聞社主催の西日本文化賞(社会文化部門)受賞等の経歴がある著名な学者である。
 D元教授は、昭和24年大分県東国東郡国東町所在の安国寺弥生式遺跡調査を皮切りに、下記(3)に詳しく述べる昭和37年聖嶽洞穴遺跡調査等国内外の遺跡調査に関わり、昭和29年日本考古学協会大会にて行った「大分県早水台遺跡について」等の研究を発表し、「大分県聖岳洞穴の調査」(昭和37年)等の著書がある。
(3) 昭和36年10月、大分県南海部郡本匠村大字宇津々所在の聖嶽洞穴内において人骨片多数と細石核を含む剥片石器若干の出土をみたことから、日本考古学協会の洞穴遺跡調査特別委員会(委員長G東京教育大学教授、以下「G教授」という。)で注目され、同委員会の事業として、昭和37年秋、D元教授を責任者として、G教授、新潟大学H医学部教授(以下「H教授」という。)、別府大学附属高校教諭I教授(以下「I教授」という。)など十数名の調査団によって発掘調査(以下「第1調査」という。)が行われた。
 また、平成11年12月10日から同月24日まで、第1次調査の調査結果を踏まえ、石器と人骨の共伴関係を確認するとともに、遺跡の性格や年代・古環境を明らかにする目的で、団長J別府大学文学部教授、副団長K国立歴史民俗博物館考古研究部長(以下「K部長」という。)及びL東京都教育庁文化課主任学芸員(以下「L」ともいう。)等から構成される調査団によって、聖嶽洞穴の調査(以下「第2次調査」という。)が行われた。(甲8、甲9、乙1)
(4) 被告会社は、書籍及び雑誌の出版等を目的とする著名な会社で、月刊誌「文藝春秋」、週刊誌「週刊文春」等を発行しており、「週刊文春」は発行部数約88万部である。
 被告Fは、被告会社において「週刊文春」の編集長をしており、被告Eは同誌の取材記者である。
(5) 被告会社は、平成13年1月18日発売の「週刊文春」同月25日号(以下「1月25日号」という。)の160頁から163頁に別紙5の1のとおり、「考古学者たちが口にしたくてもできない『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」と見出しを付けた記事(以下「本件記事1」という。)を、同年1月25日発売の同誌同年2月1日号(以下「2月1日号」という。)の169頁、170頁に別紙5の2の「小誌スクープを権威も追認 大分『聖嶽人』はやはり捏造である」と見出しを付けた記事(以下「本件記事2」という。)を、同年3月8日発売の同誌同年3月15日号(以下「3月15日号」という。)の179頁から181頁に別紙5の3のとおり「『聖嶽遺跡』は別の4遺跡から集められていた」と見出しを付けた記事(以下「本件記事3」という。)をそれぞれ掲載して発行した(以下、本件記事1ないし3を「本件各記事」という。)。(甲2ないし甲4)
2 争点
(1) 本件各記事がD元教授の社会的評価を低下させるか否か。
(原告らの主張)
ア 本件記事1(1月25日号の記事)
a 本件記事1は、2頁にまたがる「考古学者たちが口にしたくてもできない『第二の神の手が』大分『聖嶽人』周辺にいる!?」という大見出しを打ち、その横に藤村新一が手をかざしている写真を「元祖『神の手』もびっくり?」という説明を付して掲載している。リード部分では「『神の手』発掘捏造事件を契機に、これまで水面下で囁かれていた『疑惑』が表面化し始めている。中でも旧石器時代の人骨・大分『聖嶽人』は、地層、骨の年代、同時に発掘された旧石器の産地、どれを取ってもおかしなことばかり。これは第二の『神の手』事件か。」としている。この見出し等により本件記事1は、聖嶽洞穴遺跡についても、藤村新一と同様の「神の手」による遺跡の捏造、すなわち発掘した者が自ら埋めておいたものを発掘したような疑惑を読者にあおる。
b 本件記事1は、聖嶽洞穴遺跡に関するK部長の「『非常に不自然』『どうにも、おかしい』『位置づけに苦慮している』『手に負えない』『困ったものだ』・・・・。」という談話や日本考古学協会関係者が語ったという、「聖嶽人は、旧石器時代よりかなり新しい人骨だと科学的に否定されているのです。また、出土した旧石器は、某大学が西北九州の遺跡で発掘した石器を、誰かが聖嶽で撒いた・・・という人がいます。」との談話を紹介し、「もし、その噂が事実であれば、“第二の神の手”どころか、これこそが“日本最初の神の手”というべき重大事件である。」とする。こうして記事は「某大学」の「誰か」に疑惑の目を向ける。
 その上で記事は、「聖嶽洞穴発掘調査団長を務めたD・別府大学教授(当時)は、発掘を始めたきっかけを、こう記している。」として、「日本の洞穴遺跡」(日本考古学協会洞穴追跡調査特別委員会編。1967年)に掲載されたD元教授の報告の中から「〈1962年発足の日本洞穴遺跡調査特別委員会は、本洞穴(聖嶽洞穴)を長崎県福井洞穴とともに発掘調査することになり、その結果H(新潟大学医学部教授=当時。故人)の報告にみるごとき遺骸の一部が、細石器とともに発見され、遺骸と遺物が完全に同じ層位(地層)から出土した新例を開いたのである〉」との記述を引用している。
 長崎県福井洞穴は日本考古学協会関係者が語った上記の「噂」に出てくる西北九州の遺跡に該当し、D元教授は同洞穴遺跡と聖嶽洞穴遺跡の両方に関与している人物であることが紹介されているのであるから、読者は自ずから「噂」に出てくる「某大学」は別府大学であり、疑わしい人物はD元教授であるという結論に誘導される。第1次調査は日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会によるものであったが、記事は委員長のG教授には全く触れず、D元教授を調査団の「団長」として紹介しているので、その点からも疑惑は別府大学及びD元教授にのみ集中するようになっている。
 前記見出しに付された「考古学者たちが口にしたくてもできない」との表現も疑惑の対象となっている人物が考古学者がその疑惑を口にしたくてもできないほどの権威者であることを露骨に示唆したものであるが、D元教授はその業績から明らかなように考古学会の権威者であり、聖嶽発掘調査にかかわった某大学つまり別府大学関係者の中で権威者といえばD元教授しかない。本件記事1はこのように名指しはしていないものの、捏造疑惑がD元教授に集中するような構成となっている。
c 「神の手」による捏造疑惑の根拠として、記事は、@K部長の談話、A東京都教育庁文化課主任学芸員・Lの談話、B国立科学博物館馬場悠男・人類研究部長(以下、「馬場」ともいう。)の談話、Cある考古学者の談話等を紹介している。これらの談話等はそれぞれの専門の立場から、聖嶽洞穴遺跡で出土したとされている石器については他の遺跡から持ち込まれたものであることを、同じく人骨については後期旧石器時代より新しい歴史時代のものであることを強く示唆しており、これと異なる意見や異なる意見が成立しうる可能性については全く触れず、あたかも異論が出る余地のない権威ある意見であるかのように紹介されている。そのため、読者はそれらの談話を通じて、少なくとも石器についてはもともと聖嶽洞穴遺跡に埋まっていたものではなく、他の遺跡から持ち込まれたものであるとの結論に導かれる。記事自体も以上の談話等を踏まえて、「こんなに不思議な遺跡が生じた可能性を考えてみた」とし、結論として他の可能性は限りなく低く、「いつの時代かはわからないが、3時代の石器を、誰かが『神の手』を使って、洞穴内に置いた」という説明を採れば、これまでの疑いの説明がつくとする。これが捏造に関する記事の結論であり、読者はこれで決定的に、聖嶽で出土したとされている旧石器は誰かが「神の手」を使って洞穴内に置いたものであるとの結論に誘導される。
 もっとも、記事はこれに続く部分で「誰が『捏造』をしたのか、を断定する根拠は何もない。もしかしたら、江戸時代に『神の手』がいたことだってありうる」としている。しかし、これは一種の揶揄であり、見出しに始まる記事全体の趣旨及び藤村新一の行為を契機として定着した「神の手」という言葉の意味合いから言って、記事は明らかに第1次調査に関与した者が「神の手」の犯人であるとしているものである。
d 記事は上記の結論を導いた上で、「前回、発掘時の団長だったD・元別府大学学長に、当時の話を聞いた」として、疑惑を否定するD元教授の談話を紹介しているが、それ自体がD元教授に対する容疑者扱いである上、「しかし、賀川氏の耳にも、良からぬ噂は伝わっていた」として「昨年末、読売新聞社から電話がかかってきて、『誰かが埋めたんじゃないんですか』と聞かれました。あるマスコミなどは、私を犯人扱いでした。大変、心外です」とするD元教授の談話を紹介している。これは、D元教授の談話を紹介するような装いで、一部のマスコミにおいてD元教授が既に犯人扱いされている事実を公表し、記事が煽っているD元教授に対する捏造疑惑が、決して本号の記事だけではなく他のマスコミも追及している疑惑であって、記事の指摘は当を得たものであることの論証に供しているものである。
e 本件記事1は、上記のとおり、全体として、聖嶽洞穴遺跡において出土した人骨及び石器類、とりわけ石器は第1次調査に関与した者の「神の手」によりあらかじめ洞穴内に持ち込まれ、自作自演で「発掘」されたものであり、捏造遺跡であることを具体的に摘示したものであり、D元教授の名誉を著しく毀損した。
イ 本件記事2(2月1日号の記事)
a 本件記事2は、「小誌スクープを権威も追認 大分『聖嶽人』はやはり捏造である」との見出しを付し、見出し自体により、本件記事1で指摘した捏造が単なる疑惑ではなく、事実であると断定している。
b 捏造を断定する根拠として、「1月21日に行われた『前期旧石器問題を考える』というシンポジウムで、国立歴史民俗博物館のK・考古研究部長が、公式に、『(聖嶽洞穴遺跡は)考古学的には、使えない(遺跡)ということです』と断言。さらに、『(遺跡としては)非常に不自然で、大分の旧石器の研究者も、聖嶽の扱いについては苦慮していて、研究には(データを)使わないのがふつうです』」との記述があり、その後には、「K部長は、文部科学省が科学研究費補助金を支出する『日本人および日本文化の起源に関する学際的研究』の考古学班班長。同班は、一昨年12月、聖嶽洞穴を再発掘調査している。しかも、今回のシンポジウムは同班主催であり、席上でその調査結果を語っているほど。つまり公式に『捏造』を認めたといっていい。」との記述がある。
c 捏造を断定した上で、記事は、「では、いったい誰がいつ『神の手』を駆使したのか。39年前に発掘調査を行ったD・別府大学名誉教授とI教授・別府大教授は、小誌の取材に対して、疑惑を全面否定。もちろん彼らの仕業と断定する証拠はないし、発掘状態からいって、江戸時代の人間の可能性もあるのだが・・・・・。」としている。これは、「彼らの仕業」という表現で記事が容疑者と目しているのはD元教授であることを改めて明確にし、読者の疑惑の目をもD元教授に向けさせた容疑者扱いであり、ここでもまた、「江戸時代の人間の可能性もあるのだが・・」という、言外にそのようなことがあり得るわけはないとの露骨な揶揄を用いて、反論のすべをもたないD元教授を絶望的な心境に追い込む陰険な手法がとられている。
 記事は、容疑者扱いの上記記述に続けて、「いっぽう、今回のシンポジウムでは、“元祖・神の手”藤村新一・東北旧石器文化研究所元副理事長が発掘した遺跡に関する検証も行われた」として、藤村に関する検証の内容に言及している。前後の脈絡から言って、記事はD元教授を完全に藤村新一レベルの人物に貶めているのであり、藤村と対比することにより、D元教授も藤村同様、「神の手」を駆使する人物であるかのように描き出しているのである。
ウ 本件記事3(3月15日号の記事)
a 本件記事3は、「『聖嶽遺跡』は別の4遺跡から集められていた」という衝撃的な見出しを付けている。この見出しはそれまでの連載と相まって、聖嶽洞穴遺跡には、別の4遺跡から集められた石器等が「神の手」により撒かれ、あるいは埋められたという趣旨に帰着するものであり、「神の手」による遺跡の捏造を本件記事1、2にもまして具体的かつ明確に指摘している。
 本件記事3が「別の4遺跡から集められていた」とする根拠は、@「ある考古学者の話」、A「九州に詳しい考古学者の話」、B「福井洞穴遺跡の発掘に参加した考古学関係者の話」、C「別府大学関係者の証言」である。
 上記@によると、聖嶽の石器には、峠山遺跡(福岡県筑紫野市)から出土した台形様石器及び細石核と、船野遺跡で出土した細石刃が入っていたが、峠山遺跡は昭和47年、船野遺跡は昭和45ないし46年に、どちらも別府大学が発掘したというのであり、記事もさりげなく、これは第1次調査後に混ざったものだとしている。しかし、記事の見出しは上記のとおり、「『聖嶽洞穴遺跡』は別の4遺跡から集められていた」というものであり、本件記事1以来の捏造疑惑は「神の手」による捏造疑惑、すなわち発掘関係者が予め埋めておいたものを発掘して遺跡を捏造したというものであるから、「別の4遺跡から集められていた」とする見出しにより、読者は、第1次調査の段階で既に他の4遺跡から石器が持ち込まれていたものと誤導されてしまう。後から混ざったものだと本文中に記載したことでは弁解にならない意図的な見出しの付け方であり、明らかに意図的な誤導である。
b 記事は、上記Aの「九州に詳しい考古学者」の話として、第1次調査で発掘された石器の中には鈴桶遺跡や平沢良遺跡など腰岳周辺遺跡で特徴的なナイフ形石器が聖嶽洞穴の中にもあったという談話の紹介をし、上記Bの「福井洞穴遺跡の発掘に参加した考古学関係者の話」として、聖嶽の細石刃は福井洞穴遺跡(長崎県吉井町。60年)から出土したものに、極めて似ているという談話を紹介する。
 読者は、「別の4遺跡から集められていた」という見出しで予断を与えられているので、このような談話を紹介されると、それだけでいかにも聖嶽洞穴遺跡で出土した石器はすべて、腰岳周辺遺跡や福井洞穴遺跡から出土した石器であるかのように読まされてしまう。しかし、距離的に著しく離れた遺跡の間で類似した石器が発見される例もあり、似た石器が出土したことは両遺跡の間に何らかの交流があった可能性をはらんでいるのであって、「神の手」による捏造に結びつけるのは、あまりに短絡的な誤導である。
 記事は、上記Cの「別府大学関係者の証言」として、福井洞穴遺跡で出土した石器を聖嶽洞穴遺跡の第1次調査以前に既に別府大学関係者が入手していたことを語らせている。福井洞穴遺跡から出土した石器が聖嶽洞穴遺跡に集められたことの傍証とする趣旨であろうが、品性のない邪推であるといわざるを得ない。
c そして、上記Cは同時に、「神の手」はD元教授であるということを明確に特定している。すなわち、上記Cによると、聖嶽洞穴遺跡の発掘が始まる前、発掘に参加した人物の研究室をたずねたところ、「この細石刃は、福井(洞穴)のやつだ」と自慢気に言って、手のひらに2個のせてくれたとされているが、聖嶽洞穴遺跡の発掘が始まる前、発掘に参加した人物で、研究室を持っていた者はD元教授しかいない。しかも、D元教授が福井洞穴遺跡に関与した人物であることは、本件記事1でD元教授自身が記したとして紹介されている「日本の洞穴遺跡」の中の「本洞穴(聖嶽洞穴)を長崎県福井洞穴とともに発掘調査することになり、・・」との記述により、既に具体的に特定されている。上記Cの証言中の人物は、D元教授以外にいないし、本件各記事からも自ずからその人物はD元教授であるとの結論に導かれるのである。しかも、本件記事3は、上記@の談話の中で、聖嶽洞穴遺跡が発掘される前の1960年代初頭、大分県内には、県内で旧石器遺跡を発見すれば注目されて学術予算もつくと思っていた考古学者が多かったと語らせている。D元教授は昭和36年(1961年)に別府大学文学部長に就任していたものであり、大分県における考古学の第一人者であったのであるから、記事は明らかにD元教授には遺跡を捏造する動機があったとしているのである。
エ 本件各記事は3号にわたる連載を通じ、D元教授らにより発掘された聖嶽洞穴遺跡について、「神の手」による遺跡の捏造、すなわち発掘者が自ら予め遺物を遺跡内に持ち込み、これを発掘するという手法による遺跡捏造が行われたとし、かつ、その捏造者はD元教授であるとする虚偽の事実を具体的に摘示した。
 遺跡の捏造は、考古学において最も忌むべきものであり、そのような事実を具体的に摘示し、発行部数の多い週刊誌を媒体として広く流布することは、捏造者とされた考古学者に対する重大な名誉毀損を構成する。
(被告らの主張)
 本件各記事は、聖嶽洞穴遺跡を取り上げ、これが遺跡として考古学上価値のないものであることを明らかにしたにすぎず、それ以上にD元教授が遺跡の作出に関与していることを述べていないし、そのような印象を与えるものでもない。本件各記事を見れば、その中にD元教授が聖嶽洞穴遺跡を捏造したとの記述が存在していないことは明らかである。逆に、本件各記事では、聖嶽洞穴遺跡の価値についてD元教授やD元教授とともに発掘に参加した後藤の遺跡に対する疑惑を否定するコメントを掲載しており、読者に公平な情報を提供している。
ア 本件記事1(1月25日号の記事)
 本号記事の大見出しは聖嶽洞穴遺跡が藤村新一の捏造した遺跡と同じような価値しかない可能性が高いことを示すものであり、「第2の神の手」がD元教授であることを直接的にも間接的にも示すものではない。「某大学が西北九州の遺跡で発掘した石器を、誰かが聖嶽で撒いた・・・という人がいます。」との記述では、読者は、聖嶽洞穴遺跡の石器は別の遺跡のものが運ばれたという話があると理解するにとどまる。本件記事1では、この記述までに、なぜ聖嶽洞穴遺跡がおかしいと言われているのかという根拠が示されていないから、読者の関心は聖嶽洞穴遺跡の石器等は考古学的に本当に疑問があるものなのかという点に向けられるのが通常であり、それ以上に、誰がやったのかという点にまで疑惑の目が向けられることは考えられない。なお、上記記述は「某大学」の「誰か」が石器を撒いたとは記述していない。また、そもそも長崎県福井洞穴が「西北九州の遺跡」に該当するとの理解が一般読者の通常の理解を遙かに超えるものであるし、同洞穴に関する記述は、D元教授の「日本の洞穴遺跡」という公式文書の中で発掘の経緯を示した文章を引用したにすぎず、読者はその記述がD元教授の疑惑を示すものになっているなどとは到底理解しない。
 G教授は第1次調査を行った特別委員会の委員長であり、同委員会は聖嶽洞穴遺跡以外にも他の事業を行っているところ、D元教授は聖嶽洞穴遺跡の発掘調査団長を務めたのであるから、同遺跡の調査について発掘の経緯等を説明する人物として同教授が最も適任であることは明らかである。「考古学者が口にしたくてもできない」との記述は、旧石器と人骨が同一の地層から出土した唯一の例として高校の教科書にも取り上げられている聖嶽洞穴遺跡が学問的には到底支持し得ないものであることが分かってきたため、考古学者たちがこの遺跡についてどのように取り扱うべきか悩んでいるということを記述したものである。考古学者たちが悩むのは学問の最新の成果をどのように社会に還元していくかであって、学界の権威の意向を慮ることではない。
 聖嶽洞穴遺跡の石器は他から持ち込まれたものであるとの結論は第2次調査団という現代の学会の最高水準による調査を経ての学会のコンセンサスとみるべきものであり、そのようなものを権威ある意見として紹介することにはなんら問題がない。
 さらに、本件記事1では、「こんなに不思議な遺跡が生じた可能性を考えてみた。 @腰岳の黒曜石だけを使用する人間が、3万年前、1万四千年前、縄文時代の3時代に、ここに住んでいた。その後、誰かが地層をぐじゃぐじゃにしたため、偶然同じ深さの地層中から出てきた。 Aいつの時代かはわからないが、3時代の石器を、誰かが『神の手』を使って、洞穴内に置いた。しかし、現実的に@である可能性は限りなく低い。A説を取れば、これまでの疑いの説明はつくが、誰が『捏造』をしたのか、を断定する根拠は何もない。もしかしたら、江戸時代に『神の手』がいたことだってありうる。」と記述しているが、@とAの両説はともに仮説であり、その中ではAの方が成立する可能性がより高いとしているだけであって、Aが結論であると断定しているわけではない。しかも、A説を採った場合にも誰が捏造したかを断定する根拠は全くないという問題があることは本文でも明記されているから、読者は、A説が全てを説明しうる結論として提示されているわけではないことを容易に理解しうる。
 D元教授の談話を紹介していることが捏造の容疑者扱いと理解される表現は一切存在しない。D元教授は聖嶽洞穴遺跡の第1次調査団の団長であったのであるから、同遺跡について話を聞くとすればD元教授が最適なのであり、本件記事1の読者も、事情を聞く相手としてD元教授が選定された理由をそのように理解することは明らかである。
イ 本件記事2(2月1日号の記事)
 本件記事2はD元教授が小誌の取材に対して疑惑を全面否定していることを明らかにし、また、「もちろん彼らの仕業と断定する根拠はないし、発掘状態からいって、江戸時代の人間の可能性もあるのだが・・・」と付加して「神の手」となりうる可能性は一番新しい人骨が発見された江戸時代にまで遡りうるとしてるのであって、D元教授に疑惑があるとはしていない。
ウ 本件記事3(3月15日号の記事)について
 他の遺跡からの石器が捏造によって故意に置かれたのではなく、過誤など何らかの理由で混ざってしまった場合であっても、そのようなずさんな保管態勢であること自体が問題なのであるから、その意味を含めて「別の4遺跡から集められていた」との見出しで報じることに何ら問題はない。また、本文において峠山遺跡と船野遺跡で出土した黒曜石の石器は年代でもわかるように聖嶽遺跡の発掘後に混ざったものだと明記し、この2つの遺跡から出土した石器が第1次調査の後に混入したものであることは読者に明らかにされているから誤導もない。
 「『この細石刃は、福井(洞穴)のやつだ』と自慢気にいって、私の手のひらに2個のせてくれた」と研究室で述べたとされる、発掘に参加した人物について、仮に発掘に参加した人物で研究室を持っていたのがD元教授だけだとしても、一般読者はそのようなことを知らないし、その研究室がD元教授の研究室であると理解することもない。また、読者が本件記事3が掲載された週刊誌の7号も前の号の本件記事1中にD元教授が福井洞穴を発掘調査したとの短い記述を覚えていることは考えられない上、福井洞穴の発掘には同一大学から多数の者が参加するというのが一般の理解であるから、本件記事3を本件記事1の上記記述と関連付けて理解し、本件記事3の上記記述がD元教授を特定していると理解されることはあり得ない。 要するに、上記記述は、別府大学で聖嶽洞穴遺跡発掘に参加した者の中に発掘前、福井洞穴の石器を持っていた者がいたとしか理解されないものである。
 さらに、別府大学の関係者が福井洞穴の石器を私的に保管していたとの記述は、その前の聖嶽洞穴遺跡から出土したとされる石器の中には第1次調査後に発掘された別の2遺跡の石器が混入しているとの上記記述、及び、その後に、「管理問題にはまだまだ疑惑がある」として記述された、虚空蔵寺跡発掘、法鏡寺跡発掘の際、別府大学の関係者が発掘したものを持ち帰るなど私蔵したという例とともに理解され、別府大学の発掘品管理には大きな問題があるという批判の実例として理解されるべきものである。
 「大分県内には、県内で旧石器遺跡を発見すれば、注目されて、学術予算もつく、と思っている考古学者が多かった」との記述はD元教授に全く言及していないのであり、これがD元教授に関する表現と理解されることは一般人の理解を超えるから、D元教授に対する名誉毀損とならない。  
(2) 本件各記事の記述が真実であったかどうか。
(被告らの主張)
 仮に本件各記事が、D元教授が団長を務めた第1次調査団によって聖嶽洞穴遺跡が捏造された可能性があるとの記述であったとしても、そのことは真実であった。
ア 聖嶽洞穴遺跡の発掘状況の疑問点として、平成11年12月に実施された聖嶽洞窟遺跡第2次調査団は、文部科学省科学研究費補助金を受けて実施されたものであり、調査団の構成から明らかなとおり、各大学・研究機関から様々な分野の専門家が参加して構成されたものであり、その研究結果は、現在の学問の到達点とみなされるべきものである。その調査団の副団長であり、研究代表者であったK部長は、最終報告書の「遺跡・遺物の再検討」及び「結論」の章において、聖嶽洞穴遺跡第1次調査団の発掘状況及び発掘結果の疑問点を以下のとおり明らかにしている。
a 第1次調査では、発掘区を偶然に選んだ位置であったにもかかわらず、その時に2か所とも偶然に石器が埋蔵されている地点を当てたことになる。具体的には、昭和36年10月22日に第2地点で黒曜石からなる細石器9点を採取し、昭和37年10月10日に第3地点で黒曜石の石刃9点などを採取したことを指している。特に第2地点はわずか1m×40pという狭いものであったが、そこから上記のとおり9点を掘り当てたのである。
 これに対し、第2次調査団では洞穴の最奥部から入口近くまで発掘区を設定し、石器を探したけれども、石器が何点もまとまって埋まっていた場所はなかった。
b 通常の発掘では、大型の石器は発掘現場で高い頻度で見つけうるのに対し、小型の石器は全体のごく一部を見出すことができるにすぎない。第2次調査では、洞穴内の大量の土を山麓までおろし、川の水で洗いながら篩いにかけ、遺物の回収作業は徹底的に行った結果、人の歯や指骨などを150点ほど収集することができた。しかし、黒曜石の石器は1点の製品・剥片も採集できなかった。聖嶽洞穴の場合、石器を製作するのに適した場所ではないから石屑がないのはよいとしても、第1次調査の発掘現場においては、暗い光のもとでの発掘作業であったにもかかわらず、現場で小さな石器の見落としがなく、細石刃などが篩でふるっても1点も見つからないという事態は考えにくい。
c 「ガジリとは、発掘作業時に移植ゴテなどに当たって生じた新しい欠損や、本来の包含層から遊離するさい、あるいは耕作土中や地表で、鍬・鍬や耕耘機その他に接触して新たに生じた欠損」のことであり、黒曜石の場合には、石器製作時の古い剥離痕と後世の新しいガジリ痕とは表面の光沢がまったくちがうので、容易に区別できるとされる。
 そして、試掘及び第1次調査時に収集された石器の中で発掘調査以前のガジリ痕が認められる割合は高い。聖嶽洞穴遺跡から出土したとされる台形様石器にも細石器にも後世のガジリ痕があり、これらの石器は本来この洞穴にあったものとはいえない。
d 聖嶽洞穴遺跡から出土したとされる石器は、旧石器時代から縄文時代にかけて時期的に3期ないし4期の石器が混在する。その材料として使われている黒曜石は、縄文時代のものは佐賀県伊万里市腰岳産であり、旧石器時代のものは主として長崎県星鹿半島(松浦市牟田)産である。大分県内の遺跡では、発見された石器の90パーセント以上は地元の流紋岩かチャートで作られたものである。聖嶽洞穴遺跡のよう発見された全石器が黒曜石製であるという例は他にない。しかも、発見された黒曜石の上記産地はいずれも聖嶽洞穴遺跡から180キロメートル以上離れており、旧石器時代ないし縄文時代の遺跡としては極めて考えにくい。九州から出土した石器の原石は基本的に黒曜石であるが、聖嶽洞穴をはさむように流れる大野川と五ヶ瀬川から出土した石器の原石は流紋岩であり、ここに大きな特徴がある。それにもかかわらず、両川の内部に位置する聖嶽洞穴からはその周辺のような流紋岩ではなく、黒曜石を原石とする石器だけが出土している。そして、西北九州産の黒曜石製の台形様石器の出土例は筑後川流域以東の東九州では皆無に等しく、多くの問題をかかえている。また、黒曜石製の野岳型細石核も筑後川以東の東九州では聖嶽のみであり、形態・石材・分布のいずれからもきわめて異質であるとの指摘がある。
イ 上記aないしdの事象は、それぞれ独立に生じうる。すなわち、この4つの事象は、ある1つが生じたから他の1つも生じやすい(あるいは、ある1つが発生しないから他の1つも発生しない。)という関係にはない。どの事象も他の事象と無関係に発生し、あるいは発生しないのである。上記aないしdの事象が起こりうる確率はそれぞれ1%程度とみなしてもよく、これら4つの事象が共に発生する確率は1億分の1でしかなく、10%と仮定しても1万分の1でしかない。このような希有の事例が発生したと考えるよりも、そこには何らかの作為が働いていたと考えるのが経験則である。
 そして、どのような石器を埋めればよいかということは、考古学の素人が判断できることではない。その上で、第1次調査団が他の遺跡から出土した石器にアクセスすることが可能であると示されれば、他に作為が可能であるグループは存在しないから、第1次調査団か、これに近しい人物がこれに関与したと合理的に判断しうる。
 第2次調査で発見された不定形剥片石器が第1次調査が行われた場所とは別の地点から採取されたが、少なくとも第1次調査で検出した大型の台形様石器とは異なる器種と考えるべきであるとされているものであるから、第1次調査団の作為とは別に聖嶽洞穴遺跡に存在していた石器と考えても矛盾はない。
 D元教授は報告書で聖嶽洞穴遺跡の問題点を指摘していたものの、その後30年以上にわたって問題点解決のために何らの措置も講じてこなかった。むしろ、D元教授は上記疑問を提示してから5年後の昭和42年には「Hの報告にみるごとき遺骸の一部が細石器とともに発見され、遺骸と遺物が完全に同じ層位から出土した新例を開いたのである」と述べ、疑問は完全に放擲されてしまったのである。このような態度は捏造と無関係ではない。
(原告らの主張)
ア 本件各記事が真実であると認められるには、D元教授が、@聖嶽の当初の発見時点までに記事で指摘されている他の遺跡から発掘された石器を入手していたこと、A入手していた他の遺跡から発掘された石器の中に聖嶽洞穴遺跡の当初の発見で採取されたものと同一の石器があったこと、B入手していた石器を藤村新一のように当初の発見前に聖嶽遺跡まで持参し、同遺跡に埋め込みこれを発掘してみせたことが証明されなければならない。しかし、これらの点は何ら証明されていない。
イ 本件各記事の記述において、石器が集められたとされる遺跡の中には峠山遺跡や船野遺跡など、聖嶽洞穴遺跡の発掘以後の1970年代に発掘されたものがあるが、1970年代に発掘された石器を昭和36年、昭和37年の当初の発見時点までに入手することは不可能である。
ウ 第2次調査においても石器2点が採取されている上、そのうちの不定形剥片石器1点は第1次調査とは別の地点の13区から採取されている。当初の発見がその発見をした者が持ち込んだ石器であるとすれば、平成11年の第2次調査では第1次調査とは別の地点から石器が採取されたことを説明することはできない。
エ D元教授は、聖嶽洞穴遺跡発掘後に作成した報告書において、石器の「利用の推測にきわめて困難な状況である」、「細石器の出土状況などなおさらに解決しなければならない問題も多く、今後人骨の精査と共に同様長洞穴調査の必要が痛感される」と指摘している。
オ 大分県下において、西北九州産黒曜石は、聖嶽洞穴遺跡だけで発見されているものではなく、大野川上流域に当たる政所馬渡遺跡(直入郡荻町)、筑後川上流域の平草遺跡(日田郡天瀬町)、亀石山遺跡(同)等で発見されており、このうち、平草遺跡は細石器文化期の遺跡で、限られた範囲から三十数点の細石核・細石刃が出土しており、1点のナイフ形石器を除き、いずれも良質な西北九州産黒曜石で占められている。亀石山遺跡は細石器文化期の大遺跡で2万点を超える多量の石器郡が出土しているが、その大半は西北九州産の良質な黒曜石でわずか1パーセント程が大野川流域の流紋岩が用いられている。この遺跡では当流域で普遍的な石材である小国産・阿蘇系の黒曜石やサヌカイトなどがほとんど用いられておらず、逆にいわゆる遠隔地の石材が利用され、しかも西北九州産黒曜石が2万点近い数で圧倒的優位を示している。
カ 大分県下でも平草遺跡のように、限られた範囲から三十数点の細石核・細石刃が出土している遺跡も現に存すること、第2次調査でも第1次調査とは異なった場所から石器が発見されていることからすれば、通常の遺跡現場の発見状況と大きく異なるとの指摘が的はずれであることは明らかである。
キ 堆積物の攪乱や年代幅を持つ異なる時代の遺物の混在は遺跡の利用史あるいは過去における地質堆積環境から起こりうることであり、とくに洞穴堆積物においては自然現象として珍しいことではない。
ク ガジリ痕については、第2次調査で出土した2点の石器について報告した津村宏臣氏はガジリの存在について明言しておらず、その問題を指摘しているのはK部長のみである。
(3) 被告らが本件各記事の記述を真実と信じたことにつき、相当の理由があるか。
(被告らの主張)
 本件記事の取材と執筆に当たった被告Eは、平成13年1月5日、「日本の洞穴遺跡」を閲覧し、同月8日、K部長から、聖嶽洞穴遺跡について「おかしい。不思議だ。」などという石器の不自然さを聞いた。同月11日、同被告はD元教授に会って発掘時の様子や石器の不自然さについて尋ねたところ、D元教授は発掘の苦労話などを話すことが多く、不自然さを解消する説明はなかったが、第1次調査団の中で変なことをする団員はいないと述べていた。同月13日にI教授に発掘時の様子を聞き、同月15日、都庁で第2次調査団副団長Lに取材し、また馬場悠男教授に国立博物館分館で取材し、人骨について尋ねた。本件記事3執筆前の平成13年2月下旬から3月上旬までFという人物に会い、聖嶽の発掘前にF氏が別府大関係者から福井洞穴遺跡から出土したという黒曜石の石器を見せてもらった話を聞いた。さらに、同被告は極めて多数の資料を読み、取材した内容を考古学的に検討することを行った。以上のような取材経緯に照らせば、被告らにおいてこれを真実と信ずるについて相当の理由を有していたことは明らかである。
(原告らの主張)
 上記取材経緯では、D元教授が団長を務めた第1次調査団によって聖嶽洞穴遺跡が捏造されたことが真実であると信じるについて相当の理由がない。
(4) 損害額及び謝罪広告の要否
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)について
 原告らは、本件各記事の掲載がD元教授の名誉を毀損する旨主張するところ、記事等についての名誉毀損の成否に当たっては、当該記事等の意味内容が他人の社会的評価を低下させるものであるか否かについて、当該記事等の一般の読者の普通の注意と読み方を基準として判断すべきものである。そして、記事の掲載が連載でなされた場合には各回の記事の意味内容を判断する上で、それ以前の連載記事の意味内容をも考慮して判断すべきである。以下、これに従い判断をする。
(1) 本件記事1(1月25日号の記事)
 前記争いのない事実等によれば、本件記事1の体裁・内容等は次のとおりと認められる。
ア 本件記事1は160頁から163頁にかけて掲載されており、160、161頁の上部には「考古学者たちが口にしたくてもできない『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」との見出しがあり、その右端部分には藤村真一が右手をかざす写真が掲載され、写真の下には小文字で「元祖『神の手』もびっくり?」と記載されている。そして、記事中央のリード部分には「『神の手』発掘捏造事件を契機に、これまで水面下で囁かれていた『疑惑』が表面化し始めている。中でも旧石器時代の人骨・大分『聖嶽人』は、地層、骨の年代、同時に発掘された旧石器の産地、どれを取ってもおかしなことばかり。これは第二の『神の手』事件か。」と記載されている。
イ 160頁本文冒頭には「『非常に不自然』『どうにも、おかしい』『位置づけに苦慮している』『手に負えない』『困ったものだ』・・・・。」「国立歴史民俗博物館のK・考古研究部長の口から出たのは困惑の言葉ばかり。聖嶽洞穴遺跡(大分県本匠村)について、たずねた時のことである。」と記載され、それに続いて、「1962年、別府大学を中心とする発掘調査で、この聖嶽洞穴(「聖岳洞穴」ともいう)から約1万4千年前といわれる更新世(2百万年〜1万年前の「旧石器時代」後期の人骨(頭蓋骨の一部)と、旧石器が発見された。」と、本文2段目から3段目にかけて、日本考古学協会関係者の話として、「『聖嶽人は、旧石器時代よりかなり新しい人骨だと科学的に否定されているのです。また、出土した旧石器は、某大学が西北九州の遺跡で発掘した石器を、誰かが聖嶽で撒いた・・・という人がいます』」と記載され、さらに、「もし、その噂が事実であれば、“第二の神の手”どころか、これこそが“日本最初の神の手”というべき重大事件である。」と記載されている。
ウ 161頁には、K部長が文部省の科学研究費で行われた「聖嶽洞穴発掘調査団」の副団長であると紹介し、同調査団の公式の調査報告書は、平成13年3月に刊行される予定でまだ執筆中であるとした上で、K部長が本文冒頭のように困った様子で始めた話として、「今回(1999年)の発掘では、石器2点を発見しました。それと、前回(1962年)に出土した石器(26点)を含めて、すべてが黒曜石製なのです。 大分県内の旧石器の遺跡は数百カ所あると言われていますが、そこで出土する石器の90パーセント以上は、地元の流紋岩やチャート(角岩)で作られたものです。黒曜石の石器は、出たとしてもごくわずかです。 発見された石器すべてが黒曜石のような遺跡は大分県内にはほかに例がなく、孤立した存在なのです。」と記載され、それに続けて、「調査には、九州産の黒曜石を調べてきた専門家も参加しました。その専門家たち複数の鑑定では、聖嶽洞穴で発見された石器はすべて、腰岳(佐賀県伊万里市)のもので、ごく一部に牟田(長崎県松浦市)のものも含まれている可能性があるという見解でした。どちらの産地も、聖嶽洞穴からは、直線距離で180キロ以上も離れている。旧石器の遺跡としては、・・・困ったものです」と記載され、さらに、同頁から162頁にかけて同調査団のもう一人の副団長である東京都教育庁文化課のL・主任学芸員の話として、「聖嶽洞穴の石器は、時代の異なるものが混ざっています。台形様石器は2万年〜3万年前、細石刃は1万4千年前、剥片は3千年〜5千年前の縄文時代です」、「聖嶽洞穴の地層は攪乱(掘り返されている)されていました。その地層の中には木片や炭も含まれていて、放射性炭素同位体で年代を測定すると、50年〜380年前と測定されました。つまり、旧石器よりはるかに新しい地層から、旧石器時代の2つの文化と縄文時代という3つの文化の石器が見つかっているのです」と記載されている。
エ 162頁には、第1回調査で発見された人骨について、実際にそれを見た国立科学博物館の馬場悠男・人類研究部長の話として、「小片先生がかつて指摘された山頂洞人101号との類似性を検証していくと、矛盾する部分があります。」などと記載され、それに続けて「前述したように、人骨と地層の年代は一致する部分があるだけに、旧石器がますます“浮いた存在”になってくる。」と記載され、次いで、ある考古学研究者の話として「石器や骨片は、小さいものが多いので、篩にかけられて発見されるものが9割以上で、発掘現場で見つかるのは1割ほどなのがふつうです。今回(1999年)の再発掘でも、ほとんどが篩で見つかりました。ところが、前回(1962年)の聖嶽洞穴の発掘では、この割合が逆で、現場で見つかったものがほとんどでした」と記載され、「もう1点、遺跡から発見された石器の正確な点数もわからない。(中略)資料によれば、発見された黒曜石の石器は26点のはずである。しかし、別府大学の歴史文化総合研究センターに展示されている聖嶽洞穴出土の石器は、なぜか27点なのだー。」と記載されている。
オ 162頁から163頁にかけて、「こんなに不思議な遺跡が生じた可能性を考えてみた。@腰岳の黒曜石だけを使用する人間が、3万年前、1万4千年前、縄文時代の3時代に、ここに住んでいた。その後、誰かが地層をぐじゃぐじゃにしたため、偶然同じ深さの地層中から出てきた。 Aいつの時代かはわからないが、3時代の石器を、誰かが『神の手』を使って、洞穴内に置いた。 しかし、現実的に@である可能性は限りなく低い。A説を取れば、これまでの疑いの説明はつくが、誰が『捏造』をしたのか、を断定する根拠は何もない。もしかしたら、江戸時代に『神の手』がいたことだってありうる。」と記載され、それに続けて、「前回発掘時の団長だったD元教授・元別府大学学長に当時の話を聞いた。」として、「実際に掘ってみて、これだけしか出てないのだから、それを信じるほかはありません。遺跡を掘ってみると、同じ石がまとまって出てくることはありますよね。」、「昨年末、読売新聞社から電話がかかってきて、『誰かが埋めたんじゃないんですか』と聞かれました。あるマスコミなどは、私を犯人扱いでした。大変、心外です。 当時は、皆が、考古学の情熱だけで一生懸命やったもんです。イタズラをする人間なんていない。少なくとも、我々の仲間には、そんな人間はいない。あの遺跡に関して、私は、まったく疑問は持っておりません!」と記載され、それに続き、別府大付属高校の教諭として一緒に参加したI教授・別府大教授の話として、「あの遺跡に関して疑念を持たれることは、甚だ心外です。私のところにも、読売新聞から『毎日新聞が調べているようですが』といって、電話がかかってきました。『失礼ですが』と言葉はていねいでしたが、甚だ失礼ですよ。発掘して出てきたものが、すべてです」と記載されている。
(2) 本件記事2(2月1日号の記事)
 前記争いのない事実等によれば、本件記事2の体裁・内容等は次のとおりと認められる。
ア 2月1日号169頁右部には「“小誌スクープを権威も追認”大分『聖嶽人』はやはり捏造である」との見出しがあり、平成13年1月21日に行われた「前期旧石器問題を考える」というシンポジウムで国立歴史民俗博物館のK部長が話した内容として、「公式に、『(聖嶽洞穴遺跡は)考古学的には、使えない(遺跡)ということです』と断言。さらに、『(遺跡としては)非常に不自然で、大分の旧石器の研究者も、聖嶽の扱いについては苦慮していて、研究には(データを)使わないのがふつうです』とまで述べたのである。 『捏造』という言葉こそ使わなかったものの、『非常に不自然で』、『考古学的に使えない』遺跡とまで踏み込んだということは、専門的には“遺跡としては認められない”と解釈できる。」と記載され、次いで、「K部長は、文部科学省が科学研究費補助金を支出する『日本人および日本文化の起源に関する学際的研究』の考古学班班長。同班は、一昨年12月、聖嶽洞穴を再発掘調査している。」と記載され、「しかも、今回のシンポジウムは同班主催であり、席上でその調査結果を語っているほど。つまり公式に『捏造』を認めたといっていい。」と記載されている。そして、「問題の聖嶽洞穴遺跡は、1962年、日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会の一環として、別府大学が中心となって発掘調査。その結果、『約1万4千年前の人骨(頭蓋骨の一部)と旧石器を発見した』ことになっている。」と記載されている。
イ また、上記シンポジウムでは最初、国立科学博物館の馬場悠男・人類研究部長が、人類学の立場から見解を述べたとして、「聖嶽の人骨は、頭の後ろのカーブが山頂洞人(約2万年前の中国の人骨)とソックリで、全体的に原始的な特徴がたくさんあると言われていました。 ところが、これらの特徴を、最近調べてみると、江戸時代の人骨と似ているものが、たくさんあることがわかりました」と記載されている。
ウ そして、「また、人骨や石器が出てきた地層は、木炭中の放射性炭素同位体の測定で、『380年前』という結論が出た。」との記載に続けて、「ところが、それらと同じ約380年前の地層から掘り出されたのが、『約1万4千年前の石器』なのである。」と記載され、本件記事1記載のK部長の話と同旨の話を再度、記載している。
エ さらに、前記ウの記載に続けて、「では、いったい誰がいつ『神の手』を駆使したのか。39年前に発掘調査を行ったD・別府大学名誉教授とI・別府大学教授は、小誌の取材に対して、疑惑を全面否定。 もちろん彼らの仕業と断定する証拠はないし、発掘状態からいって、江戸時代の人間の可能性もあるのだが・・・・・・。」と記載されている。
(3) 本件記事3(3月15日号の記事)
 前記争いのない事実等によれば、3月15日号の記事の体裁・内容等は次のとおりと認められる。
ア 「『聖嶽遺跡』は別の4遺跡から集められていた」との見出しがあり、179頁に聖嶽洞穴について、「1962年、別府大学を中心とする発掘調査団(D教授が団長)が発掘。出土した頭蓋骨は約1万4千年前のものと推定され、『聖嶽人』と名づけられた。」と記載され、180頁には、「・・・この遺跡で発見された石器はすべて黒曜石製で、しかも、原産地は直線距離で180キロも離れた腰岳(佐賀県伊万里市)と、それより遠い牟田。大分県内にある姫島や、比較的近い阿蘇山(熊本県)の黒曜石は使われていない。そんな異常きわまる出土例は、約200カ所ある大分県内の旧石器遺跡で、聖嶽以外には皆無なのだ。」と記載され、それに続いて聖嶽の石器を見た旧石器の専門家の話として、「ここの石器は、2万年以上前のナイフ形、1万4千年以上前の細石刃、3千年から5千年前の縄文時代の剥片があります。その中でも、細石刃は、1万4千年前の船底型とクサビ形、それに1万6千年前の半円錐形と円錐形が混在していました」と記載され、「この遺跡からは、1万5千年以上の隔たりがある4つの時代の石器が、一緒に発見されているのだ。ちなみに、細石刃は、両刃のカミソリによく似ている。」と記載され、同専門家の続く話として、「細石刃は、細石核という黒曜石の固まりから作り出します。ところが、聖嶽の細石核は、半円錐形の古い時代のものなのに、細石刃は、それより新しい時代の船底形も混じっていたんです。こんな“親子関係”が矛盾する出方をする遺跡はありません」と記載され、さらに、「何から何までつじつまが合わない。誰かはわからないが、『第二の神の手』によっていつの時期かに、持ち込まれたとしか考えられないのだ。」と記載されている。
イ そして、ある考古学者の話として、「聖嶽の石器には、峠山遺跡(福岡県筑紫野市)から出土した台形様石器と細石核が入っていました。峠山遺跡の石器は実測図が残っていて、わかったのです。それに、船野遺跡(宮城県佐土原町)の細石刃も、2点ありました」と記載され、「峠山遺跡は72年、船野遺跡は70〜71年、どちらも別府大学が発掘した。両遺跡で出土した黒曜石の石器は、年代でもわかるように、聖嶽遺跡(62年)の発掘後に、混ざったものだ。」と記載され、それに続いて、「では、聖嶽で最初に発見された石器は、どこの遺跡から出土したものなのか。」との記載に続く上記考古学者の話として、「聖嶽遺跡が発掘される前の60年代初頭、長崎県や佐賀県の西北九州で、旧石器の輝かしい発見が相次いだ。大分県内には、県内で旧石器遺跡を発見すれば、注目されて、学術予算もつく、と思っている考古学者が多かった」と記載され、「聖嶽以前に発掘調査された旧石器遺跡で、腰岳産の黒曜石が発見された場所は、九州に十数カ所ある」との記載に続けて、九州に詳しい考古学者の話として、「鈴桶遺跡や平沢良遺跡など腰岳周辺遺跡で特徴的なナイフ形石器が、聖嶽洞穴の石器の中にもありました」と記載され、また、福井洞穴遺跡(長崎県吉井町。60年)の発掘に参加した考古学関係者の話として、「聖嶽の細石刃は、福井洞穴から出土したものに、きわめて似ています」と記載されている。
ウ それらの記載に続けて、「そして、取材を進める中で、別府大学関係者が驚くべき証言を始めたのだ。」とし、同関係者の話として、「聖嶽遺跡の発掘が始まる前、発掘に参加した人物の研究室をたずねたことがありました。当時、別府大は、旧満州鉄道の療養所だった建物を使っていました。彼は、引き出しから石器を取り出して、『この細石刃は、福井(洞穴)のやつだ』と自慢気にいって、私の手のひらに2個のせてくれたんです。」と記載され、「聖嶽の発掘前、別府大関係者の手には、福井洞穴の細石刃があったことになる。 つまり、聖嶽遺跡の石器は、4カ所の遺跡から集められた可能性があるのだ。」と記載されている。
(4) 上記(1)ないし(3)で認定したところに基づき、先に説示した一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として、本件各記事について検討する。まず上記(1)アないしエ、(2)アないしウ、(3)ア及びイの記載は、特に、東北旧石器文化研究所の藤村新一による旧石器発掘捏造事件において使用された「神の手」という言葉を使っていることから明らかなとおり、別府大学を中心として行われた聖嶽洞穴遺跡の第1次調査において、同遺跡から発掘された石器は他の遺跡から発掘された石器を予め埋めておいたという捏造(以下、捏造と表現する場合はこの意味である。)によるものであるとの印象を一般の読者に与える内容となっている。
 そして、本件記事1の見出し部分には、「考古学者たちが口にしたくてもできない『第二の神の手』」との記述があって、捏造者が考古学者である印象を読者に与え、上記(1)及び(2)においては、誰が捏造を行ったかという点を考察する記述(上記(1)オ及び(2)エ)の中で、聖嶽洞穴遺跡の第1次調査の関係者のうち、D元教授及びI教授のみを取り上げて、その点についての話を聞いているのであって、しかも、各記事において他に捏造を行った可能性のある者として江戸時代の人間のみを示唆することによって、前記両名に対する捏造の疑惑を抱かせ、また、 形式的には両名の話が捏造自体を否定するものであるとはいえ、他のマスコミから捏造疑惑を掛けられていることを紹介することで、却って、読者に対し、両名が捏造に関与した疑いがあるとの印象を暗に与える内容となっているものである。
 また、本件記事1における上記(1)イの記事並びに本件記事3における上記(3)ア及びイにおいては、特に聖嶽洞穴遺跡に予め埋めておいた石器が福井洞穴遺跡から発掘した石器であるとの印象を読者に与える内容となっている。そして、同ウにおいて、発掘に参加した別府大学関係者が聖嶽洞穴遺跡の発掘前に福井洞穴遺跡から出土した石器をその研究室で所持していたと記述され、当該別府大学関係者が捏造に関与した疑いがあるとの印象を与えるところ、本件各記事において、第1次調査の関係者として実名が記載されているのはD元教授、H教授、後藤のみであり、そのうち発掘時の肩書として別府大学関係者の肩書が記載されているのはD元教授のみであるから、D元教授が捏造に関与した疑いがあるとの印象を暗に与える内容となっているものというべきである。
 上記のように捏造に関与した疑いがあるとの印象を与える内容からすると、本件各記事は考古学者であるD元教授の社会的評価を低下させるものと認められる。
2 争点(2)について
 被告らは、本件各記事は、虚偽の事実を摘示するものではないとし、具体的には、前記被告らの主張のとおり主張しているので、以下、この点について検討する。
(1) 本件各記事はD元教授が捏造に関与した疑いがあるとの事実を摘示するものであるが、このように疑いがあるという限度で記載したにとどまる場合であっても、名誉毀損の成否との関係では、事実についての合理的な疑いの存在を証明すれば足りるものではなく、事実の存在そのものを証明して初めて真実性の証明があったものと解するのが相当である。なぜなら、事実について疑いがあるという限度で記載したにすぎない場合と事実を断定的に記載した場合とを比較すると、人の社会的評価を低下させる程度にそれほど違いはないというべきであり、両者の場合で要件に差異を設ける必要はないからである。もっとも、犯罪の強制捜査に関する記事など社会的関心が高く、記事の掲載に高度の迅速性が特に要求される場合には真実性の証明の要件を緩和することがあり得るが、そうであるとしても、本件各記事はそのような記事には当たらない。
(2) そこで、本件口頭弁論終結時までに存在する資料によって、聖嶽洞穴遺跡が捏造であること及びその捏造にD元教授が関与していることについて真実性の証明がなされているかどうかを検討する。
ア 前記争いのない事実等で認定したようにD元教授は第1次調査の責任者を務めていたことに加え、証拠(甲13、57、乙1)によると、被告らの上記主張に関して、以下の事実が認められる。
a 昭和36年10月22日の第1次調査時の試掘では、長さ1メートル、幅40センチメートル、深さ50センチメートルという狭い範囲の試掘であったにもかかわらず、発掘区3区(後に第2地点と呼ばれる。以下、区とは聖嶽洞穴の発掘区の番号を示す。)において黒曜石からなる細石器6点ないし9点が採取できたと報告され、また、昭和37年10月10日の第1次調査では、5区において黒曜石器7点、3区より同2点が採取されたと報告されている。ところが、第2次調査では、聖嶽洞穴の最奥部から入口近くまで発掘区を設定して石器を探したものの、石器がまとまって埋まっていた場所は存在しなかった(4、95頁(以下、頁数は乙1のそれを表す。))。
b 第2次調査では、洞穴内に堆積していた大量の土を、第1次調査時の排土を含めて土嚢袋に入れて索道を使って山麓に降ろし、波寄津川の水で洗いながら篩にかけ、遺物の回収作業が徹底的に行われ、その結果、人の歯や指骨などは150点ほど収集することができたものの、黒曜石製の石器は1点の製品・剥片も採取できなかった(95頁)。
c 第1次調査で採取されたとされる石器には、後期旧石器時代から縄文時代後期もしくは晩期初までのものが混在し、その時期は3期ないし4期に分かれている。大分県内の遺跡では発見された石器の90パーセント以上は地元の流紋岩かチャートで作られたものであって、聖嶽洞穴をはさむようにしている大野川と五ヶ瀬川から出土した石器の原石は流紋岩であるが、第1次調査で採取されたとされる石器は材料として黒曜石が使われ、その産地は縄文時代のものが佐賀県伊万里市腰岳、旧石器時代のものが主として長崎県星鹿半島(松浦市牟田)であって、聖嶽洞穴からは180キロメートル以上離れている(88、89、99、104頁)。
d 第1次調査で採取された石器には、発掘作業時に移植ゴテなどに当たって生じた新しい欠損や、本来の包含層から遊離する際、あるいは耕作土中や地表で、鍬や耕耘機その他に接触して新たに生じた欠損であるガジリ痕が約4分の1に見られる(97、98頁)。
e 第1次調査の際に石器が採取された層より下部の層に含まれていた木炭の炭素14年代は15ないし17世紀、人骨のそれは14、15世紀を示していた(80、103頁)。
f 馬場悠男によれば、第1次調査の際に発見された人骨(頭頂後頭骨片)について、暫定的判断として、いわゆる原始的特徴は認められず、江戸時代人骨の中に、この骨片と似ているものが数多く見られるとし、この骨片が更新世又は縄文時代から由来した可能性は低いとされている(86、87頁)。
イ しかしながら、他方で、証拠(甲8、52、乙1)によると、以下の事実が認められる。
a 腰岳産黒曜石が使用された旧石器時代の遺跡には腰岳からの距離が聖嶽洞穴を超える宮崎県佐土原町所在の船野遺跡(200キロメートル)、鹿児島市所在の加治屋園遺跡(190キロメートル)、同市所在の加栗山遺跡(235キロメートル)及び鹿児島県指宿市所在の小牧遺跡(同)が存在する。
 また、大分県下で、西北九州産黒曜石は、大野川上流域にあたる政所馬渡遺跡(直入郡荻町)、筑後川上流域の平草遺跡(日田郡天瀬町)、亀石山遺跡(同)等で発見されており、このうち、平草遺跡は細石器文化期の遺跡で、限られた範囲から30数点の細石核・細石刃が出土しており、1点のナイフ形石器を除き、いずれも良質な西北九州産黒曜石で占められている。亀石山遺跡は細石器文化期の大遺跡で、2万点を超える多量の石器群が出土しているが、その大半は西北九州産の良質な黒曜石で、わずか1パーセント程が大野川流域の流紋岩が用いられている(89頁)。
b 第2次調査においても石器2点が採取され、そのうちの不定形剥片石器1点は第1次調査では調査区に設定されていなかった洞穴入り口付近の巨岩直下に設定された13区から採取され、黒曜石製で肉眼観察によれば第1次調査で検出した石器群と同様の石材であると考えられる(33、44、97頁)。
c 第2次調査の際、聖嶽洞穴内が第1次調査の前後に乱掘した形跡が随所で見られた(95頁)。
d D元教授は、昭和37年12月20日発行の「洞穴遺跡調査会会報4」(甲8)に寄稿し、その中で細石器について「剥片利用のもので、その形態に統一性が少い。しかも発見された部位がいわゆる包含層というより散乱の状態で数も全部で8個を数えたにすぎない。このような石器数から本洞内に住居をかまえたとは考えられず、その利用の推測にきわめて困難な状況である。」、「本洞穴における人骨の存在や、さきに述べた細石器の出土状況などなおさらに解決しなければならない問題も多く、今後人骨の精査と共に同様長洞穴調査の必要が痛感される」と記述している。
e 第1次調査が行われるに至った契機は、昭和36年9月、大分県南海部郡本匠村教育委員会の緒方、高橋及び染矢が聖嶽洞穴に入り、人骨片を採取してD元教授に示したことから興味を持った同教授が現地調査をすることとなり、同年10月20日、染矢の案内で洞穴内に入ったところ人の下顎骨及び脊椎骨を発見し、同月22日に水滴の小穴からI教授が細石器を採取したことから付近を試掘したところ、黒曜石からなる細石器を採取したことによるものである(2、4頁)。
f 前記のとおり同月20日に人骨が発見された直後から、これが1万年前のものではないかと新聞やラジオが報道し、同年11月7日には本匠村役場の職員5名が聖嶽洞穴内に入って石核1個を採取した(4頁)。
g 第1次調査においては、洞穴は、奥行きが約50メートルにわたってクランク状に曲がってのびており、その幅は1ないし2、3メートルであるが、試掘の際に石器を発見した地点である3区を含めて5つの発掘地点を設定したところ、同区及び5区から石器を発見した(2、4頁)。
h 平成11年4月24日、Lが第2次調査の計画段階においてD元教授を訪ねた際、同元教授は再調査の実施について快諾し、それを支持した。
i 別府大学附属博物館(J館長)及びD元教授は、平成13年2月18日、「聖嶽洞穴第一次調査出土石器および同遺跡出土とされる石器の検討会」を開催し、そこでは聖嶽洞穴遺跡に関して、@西北九州産黒曜石のみで構成される石器群のあり方は石材分布からみて異質である、A時期が異なるのに、同じような組成をもつ石器群が少なくとも3回にわたって連続して同じような状況で出土するのは不自然であるといった疑問が出された(104、105)。
ウ 上記アで認定した各事実に、株式会社山川出版社及び明成社が日本史の教科書検定申請版ないし教科書見本版の更新世期(後期ないし末期)ころの日本を示す地図から聖嶽人に関する記述を削除した(乙3ないし乙12)ことも併せると、聖嶽洞穴遺跡には何らかの人為的な作為が加わっている疑いがあるとして、旧石器時代の人骨と石器が伴出した、日本で唯一の遺跡である同遺跡の考古学上の学問的価値には疑問があるとしても、上記イで認定した、D元教授による試掘や第1次調査が行われるに至った発端が他者からの働きかけによるものであったこと、これら試掘や第1次調査の過程を通じて、D元教授を含む第1次調査団以外の人物が聖嶽洞穴に入洞しており、また、マスコミ報道によって人骨が発見されたことが広く知られ、報道等によってこれを知った他の者もその可能性があること、D元教授は、第1次調査後の間もないころから、発見された石器の状況等に不自然な点があるとして、聖嶽洞穴遺跡の更なる学問的調査の必要性を公言し、第2次調査にも協力的であったばかりか、自らも聖嶽洞穴遺跡の考古学的価値を再検討するための会を開催しているなど、遺跡の捏造者であれば通常とらないと思われる言動をしていることを総合すると、第1次調査で聖嶽洞穴遺跡から採取された石器が捏造であって、これにD元教授が関与したことが真実であるとの証明はなされていないというべきである。
 なお、仮に第1次調査で発掘された石器にガジリ痕があるものが多いとしても、考古学の専門家であるD元教授がそのようなガジリ痕のある石器を用いて遺跡を捏造することはむしろ考えがたく、上記判断を左右しない。
3 争点(3)について
 被告らは、本件における取材経緯等に照らせば、被告らにおいて、本件各記事掲載時に聖嶽洞穴遺跡から採取された石器が捏造であること及びその捏造にD元教授が関与していたことについて真実と信ずるについて相当の理由を有していたと主張するので検討する(なお、被告Eは本人尋問において、本件各記事を記述する以前にF氏と特定する人物から聞いた話を供述するが、その話の内容の信用性を判断する上で、話をした者が具体的に誰であるかは極めて重要であるにもかかわらず、これを明らかにせず、別府大学関係者等とするだけであり、それだけではその信用性を判断する資料としては不十分であるから、上記相当の理由があるかどうかの判断においては、当該F氏と特定する人物から聞いた話を捨象して検討する。)。
 争いのない事実及び証拠(乙27、被告E本人)によると、被告Eは、本件記事1を執筆する前に同記事の内容のとおりの話をK部長(1(1)イ、ウ)、L(同ウ)及び馬場(同エ)から聞いたこと、本件記事2を執筆する前には同記事に記載されている「前期旧石器問題を考える」というシンポジウムでK部長や馬場から同記事記載の発言(同(2)ア、イ)を聞いたことが認められる。そして、これらによると、前記2(2)ア認定の各事実が認められ、同ウで判示したとおり、これらの事実によれば、聖嶽洞穴遺跡には何らかの人為的な作為が加わっているのではないかとの疑いを抱くのもあながち理由のないことではない。しかしながら、特に考古学者にとって遺跡捏造の疑いをかけられることはその社会的評価をはなはなだしく低下させるものであることを考慮すると、本件各記事においてD元教授が聖嶽遺跡の捏造に関与した疑いを摘示するに当たっては、裏付けとなる調査及び事実に相応の確実性がある場合に限って、これが真実と信じるにつき相当な理由があるというべきである。そして、上記証拠によると、被告Eは、本件記事1を執筆する前に、D元教授が執筆した「日本の洞穴遺跡」を閲覧し、同教授自ら第1次調査で採取された石器の問題点を指摘しているのを知った上、D元教授や後藤からいずれも捏造を否定する内容の話(同1(1)オ)を聞いていたことが認められ、更に第1次調査の参加者等の関係者から聴取するなどの方法をとれば、前記2(2)イの各事実を認識することが十分に可能であり、これらの事実によれば、上記春成・L・馬場から聞いた話等に基づき、同アの各事実が認められるとしても、少なくともD元教授が捏造に関与していたと信じるについて相当の理由があったとはいえず、被告らの主張は採用できない。
4 争点(4)について 
(1) 本件各記事の掲載はD元教授の名誉を侵害するものであり、不法行為に該当するものであるところ、その記事の内容は一般人をして第1次調査において聖嶽洞穴遺跡から発見された石器は捏造によるもので、これにD元教授が関与していたと誤信させるものであり、そのような内容を真実として掲載したことには相当の理由もないというべきことはこれまで説示したとおりである。
 そして、本件各記事は、元大学教授であり、考古学者としてこれまで長年にわたり遺跡の発掘等に携わってきたD元教授に対する社会的評価を著しく低下させるものであり、前記認定の事実及び証拠(甲6の1、7の1ないし7の4、39、40)によると、本件記事1には、藤村新一が手をかざしている写真が掲載され、その下に「元祖『神の手』もびっくり?」と記載するなど、不必要に刺激的な部分があるし、D元教授が本件各記事の掲載により、自殺を決意するに至るほど多大な精神的苦痛を受けたことが認められる。しかも、本件各記事は約88万部という多大な発行部数を有する「週刊文春」に3回にわたって掲載されたものである。他方、本件各記事は、D元教授の私的行為を対象としてこれを攻撃するものではなく、これが掲載されるようになった発端は、それまで旧石器時代のものとされてきた聖嶽洞穴遺跡において発見された石器が、第2次調査により、様々な疑問点があり、その考古学的な価値に疑問が生じたことであって、本件各記事はそうした我が国の考古学上重要な遺跡について、まさにその考古学的価値という公共の利害に関する事実に係るものである。そして、現に、前記2(2)ウのとおり、日本史の教科書検定申請版や教科書見本版から聖嶽人に関する記述が削除されたことなどに照らし、本件各記事を掲載した動機には、第1次調査の際に同遺跡から採取されたとする石器が人為的に予め埋められていたかどうかを検討することによって、聖嶽洞穴遺跡の考古学的価値を明らかにするということもあったことを否定することはできないし、前記2(2)アで認定した各事実によれば、上記石器が捏造され、又は作為的に置かれていた可能性もある程度考えられ、そうした行為を行った人物が第1次調査団関係者である可能性は否定できないところであり、D元教授が捏造に関与していると信じたことに相当な理由があったということはできないものの、その推論の過程には一応の合理性があるというべきである。また、本件各記事はD元教授が捏造者であると特定し、断定までしているものでもない。したがって、これらの本件に現れた一切の事情を考慮すると、D元教授の前記精神的苦痛を慰謝すべき慰謝料は600万円とするのが相当であり、相続分に応じて、原告Aが300万円、原告B及び同Cは各150万円の支払を請求することができる。
 また、被告らの不法行為によって原告らが本件訴訟を提起することを余儀なくされ、そのために弁護士に対する委任をしたことは当裁判所に顕著であるところ、被告らの不法行為と相当因果関係のある損害は原告Aについて30万円、原告B及び同Cについて各15万円と認める。
 そうすると、被告らは連帯して、原告Aに対しては330万円、原告B及び同Cに対しては各165万円及びこれらに対する本件各記事のうち最終の記事である本件記事3が掲載された「週刊文春」3月15日号が発売された平成13年3月8日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。
(2) 本件各記事による名誉毀損の態様、それによるD元教授の社会的評価の低下の程度、その他本件に現れた一切の事情を考慮すると、慰謝料の支払のみによってはD元教授の名誉を回復することはできず、これを回復するためには、被告らが本件各記事を掲載した週刊誌「週刊文春」誌上において、別紙4記載の内容の謝罪広告を、別紙5記載の掲載条件により掲載することが必要不可欠である。
 よって、被告らは、原告らに対し、連帯して、名誉毀損に対する原状回復措置として前記のとおりの謝罪広告を掲載すべき義務がある。
5 よって、主文のとおり判決する。

大分地方裁判所民事第1部
 裁判長裁判官 須田啓之
 裁判官 細野高広
 裁判官 宮本博文は転補のため署名押印することができない。

裁判長裁判官 須田啓之
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