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【事件名】「懐メロ」のCD輸入販売事件(2) 【年月日】平成14年10月17日 東京高裁 平成11年(ネ)第3239号 著作隣接権侵害差止等請求控訴事件 (原審・東京地裁平成10年(ワ)第13872号) (平成13年12月11日 口頭弁論終結) 判決 控訴人(被告) エー・アール・シー株式会社 控訴人(被告) 株式会社エフアイシー 控訴人(被告) A 上記控訴人ら三名訴訟代理人弁護士 中野博保 同 鹿野元 同 速水幹由 控訴人(被告) 株式会社総通 同訴訟代理人弁護士 北村行夫 同 大井法子 被控訴人(原告) コロムビアミュージックエンタテインメント株式会社(旧商号・日本コロムビア株式会社) 被控訴人(原告) ビクターエンタテインメント株式会社 被控訴人(原告) キングレコード株式会社 被控訴人(原告) 株式会社テイチクエンタテインメント(旧商号・テイチク株式会社) 被控訴人(原告) ポリドール株式会社訴訟承継人 ユニバーサルミュージック株式会社 被控訴人ら5名訴訟代理人弁護士 山本隆司 同 足立佳丈 主文 本件控訴をいずれも棄却する。 控訴費用は、控訴人らの負担とする。 事実及び理由 第1 控訴人らの求めた判決 1 原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消す。 2 被控訴人らの請求をいずれも棄却する。 第2 事案の概要 1(1)ア 本件は、レコードの制作、販売等を業とする会社である被控訴人らが、レコードの企画、制作、販売等を業とする会社である控訴人エー・アール・シー株式会社(以下「控訴人エー・アール・シー」という。)及び控訴人株式会社エフアイシー(以下「控訴人エフアイシー」という。)に対して、同控訴人らが、平成8年及び平成9年に、それぞれチェコ共和国において製造させた上で、日本国内において頒布する目的で輸入した原判決添付の別紙三レコード目録1ないし55(ただし、レコード目録22の商品番号を「G−001F」と訂正する。)記載の各コンパクトディスク及びカセットテープ(以下「本件輸入レコード」という。控訴人エー・アール・シーが輸入した分は、同目録1ないし21のコンパクトディスク及び35ないし45のカセットテープ、控訴人エフアイシーが輸入した分は、同目録22ないし34のコンパクトディスク及び46ないし55のカセットテープである。)について、被控訴人らは、後記エの(ア)ないし(ウ)のとおり、そこに収録されている各実演楽曲につき著作権法(昭和45年法律第48号、以下「現行法」又は「法」という。)89条1項に基づく実演家の著作隣接権(法91条1項の実演家の録音権に含まれるレコードの増製(複製)権(法2条1項13号、同15号参照))を有していると主張し、同控訴人らは輸入の時において国内において作成したとしたならば著作隣接権の侵害となるべき行為によって作成された物であると知りながら、日本国内において頒布したとして、法113条1項1号、2号及び112条に基づく本件輸入レコードの輸入又は頒布の差止め及び廃棄を請求し、また、被控訴人らが著作隣接権を有する実演を収録したレコードの輸入を許諾する場合の通常の許諾料は、実演楽曲1曲、レコード1枚につき20円であるとして、法114条2項の適用により著作隣接権の行使につき受けるべき金銭の額に相当する額を損害額とする不法行為に基づく損害賠償の各請求をし、 イ 控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーの代表取締役である控訴人A(以上の控訴人3名を「控訴人エー・アール・シーら」という。)に対して、同人は、代表者として上記の各輸入行為を行ったと主張して、共同不法行為に基づき、同額の損害賠償を請求し、 ウ 通信販売等を業とする会社である控訴人株式会社総通(以下「控訴人総通」という。)に対して、同控訴人は、平成8年及び平成9年に、輸入の時において国内において作成したとしたならば著作隣接権の侵害となるべき行為によって作成された物であると知りながら、控訴人エー・アール・シーから本件輸入レコードの一部(原判決添付の別紙三レコード目録1ないし9及び11のコンパクトディスク並びに同目録35ないし43のカセットテープ)を買い入れて、日本国内において頒布したとして、法113条1項2号、112条に基づく上記各レコードの輸入又は頒布の差止め及び廃棄を請求し、また、控訴人総通は上記各レコードの販売によりレコード1枚当たり300円の利益を得ており、これを収録曲数15曲で除すると1曲当たり20円の利益を得たとして、法114条1項の適用による不法行為に基づく損害賠償を請求した事案である。 エ 被控訴人らの著作隣接権の取得原因の主張は、次のとおりである。 (ア) 原判決添付の別紙二表@ないしD記載の近江俊郎、二葉あき子、藤山一郎、美空ひばり、田端義夫、ディック・ミネ、東海林太郎等の実演家(以下「本件実演家」という。)は、同表記載の昭和9年から昭和26年までの各実演年月日に、同表記載の各実演楽曲につき歌唱の実演(以下「本件実演」という。)を行い、著作権法(明治32年法律第39号。以下「旧法」という。)1条に基づく歌唱の著作権を取得した。 (イ) 本件実演家は、原判決添付の別紙二表@ないしC記載のとおり、それぞれレコード会社である被控訴人ら及び大日本雄弁会講談社(同表記載の権利承継者。以下「本件レコード会社」という。)との間で、レコード会社のためにレコードの吹込みを行い、レコードに吹き込まれた実演に関する歌唱の著作権をレコード会社に譲渡し、レコード会社は実演家に相当額の対価を支払うことを内容とする契約(以下「本件各契約」という。)を締結し、本件実演家が上記(ア)のとおり本件実演を行い、本件レコード会社は、同表記載の昭和9年から昭和26年までの各発行年月ころ、レコードに吹き込まれた本件実演に関する歌唱の著作権を取得した(大日本雄弁会講談社については、その後、レコード部門が分離独立したことに伴い、取得した歌唱の著作権を原告キングレコード株式会社に譲渡した。)。また、東海林太郎は、訴訟承継前のポリドール株式会社との間で、昭和45年12月11日、原盤に収録された原判決添付の別紙二表D記載の実演の歌唱の著作権を同社に譲渡し、同社が東海林太郎に相当額の対価を支払うことを内容とする契約を締結した。 (ウ) 本件実演についての旧法上の著作権の存続期間は、実演家の死後30年であり(旧法3条)、現行法の施行日である昭和46年1月1日現在において、本件実演についての旧法上の歌唱の著作権はいずれも存続していたから、この著作権は、現行法上の著作隣接権として保護される(現行法附則2条3項参照)。 この著作隣接権の存続期間は、現行法附則15条2項により、旧法上の保護期間である実演家の死後30年であり、現行法の施行日から起算して50年を経過する日である西暦2020年12月31日を上限とするところ、本件実演家のうち既に死亡した者の死亡年月日は、原判決添付の別紙二表記載のとおり(ただし、並木路子は原判決言渡後に死亡)であり、いずれも、死後30年を経過していない。したがって、本件実演についての著作隣接権は、存続している。 (2) これに対して、控訴人エー・アール・シーらは、@本件レコード会社は本件実演をレコードに写調することによって、旧法22条の7の規定に基づくレコードについての著作権を取得し、これによって、本件実演家は、旧法上の歌唱の著作権を喪失したと解釈すべきである旨主張し、また、控訴人らは、A本件実演家は、本件レコード会社の業務に従事する者ということができ、本件実演を録音したレコード(以下「本件レコード」という。)は、レコード会社の発意により作成されたものであり、本件実演に係る歌唱は、本件実演家が職務上した著作物であって、レコード会社の著作の名義の下に公表されたものであるから、本件実演については、レコード会社の法人著作が成立し、本件実演家が旧法上の歌唱の著作権を取得することはない旨主張し、さらに、控訴人らは、B本件実演に関するレコードは、レコード会社の著作の名義をもって発行されたから、旧法6条により、発行後30年の経過によって歌唱の著作権は消滅した旨主張した。 (3) 原判決は、被控訴人らの本件実演の著作隣接権の取得原因事実を認め、控訴人エー・アール・シーらの上記(2)の@の旧法22条の7の解釈に係る主張を排斥し、控訴人らの同Aの法人著作の主張について、本件実演家は、本件レコード会社との関係において、雇用関係又はこれに準じるような関係にあるとは認められず、法人等の業務に従事する者に該当しないとして、また、控訴人らの同Bの団体著作名義による発行に係る主張について、本件レコードが発行された際には、本件実演家の氏名が、歌唱を行った者として記載されていたものと認められるから、本件レコードは、本件実演家が本件実演の著作者であることを明示して発行されたものというべきであるとして、控訴人らの上記各主張を排斥した。 そして、原判決は、被控訴人ら主張の控訴人らによる著作隣接権の侵害行為を認定して、被控訴人らの控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーに対する本件輸入レコードの輸入又は頒布の差止め及び廃棄、控訴人総通に対する本件輸入レコードの頒布の差止め及び廃棄を認容し、控訴人らに対する損害賠償については、控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーについて、それぞれ法114条2項を適用して、原審時に争いのなかった原判決添付の別紙四製造レコード目録(ただし、レコード目録22の製品番号を「G−001F」と訂正する。)記載の本件輸入レコードの輸入(製造)数量に収録曲1曲当たり20円を乗じた使用料相当額の損害賠償の請求部分を認容し、控訴人エフアイシーに対するその余の請求を棄却し、控訴人Aについては、控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーとの間で、それぞれ共同不法行為に該当するとして、同控訴人らの損害賠償金額と同額の請求部分を認容し、その余の請求を棄却し、控訴人総通については、被控訴人が主張する同控訴人の本件輸入レコードの販売数量及び同控訴人が本件輸入レコードの販売により得た利益の額はいずれも認定することができないとした上で、法114条2項を適用して、被控訴人らが著作隣接権を有する実演を収録したレコードの頒布を許諾する場合の許諾料は、実演楽曲1曲、レコード1枚につき20円であるとして、本件輸入レコードについて、控訴人総通が自認していた販売数量に収録曲1曲当たり20円を乗じた使用料相当額の損害賠償請求について、同控訴人の行為は、控訴人エー・アール・シー及び控訴人Aとの共同不法行為に該当し、同控訴人らと連帯して損害賠償責任があるとして、これを認容し、その余の請求を棄却した。 (4) 原判決を不服として、控訴人らが本件控訴を提起した。 2 当事者双方の主張は、控訴人らの原判決に対する当審における不服の主張、及びこれに対する被控訴人らの反論の主張の各要旨について、後記「第3 当審における当事者の主張の要点」として付加するほか、原判決が「事実」欄の「第2 当事者の主張」として記載するとおりである(ただし、原判決13頁末行から14頁1行目にかけて、及び同7行目から8行目にかけて、それぞれ「日本国内において頒布した。」とあるのを、「その一部を、日本国内において頒布した。」と改め、同16頁6行目、同17頁1行目、同18頁8行目、同19頁3行目、同20頁9行目、同21頁3行目、同22頁9行目、同23頁3行目、同24頁9行目、及び同25頁3行目に、それぞれ「輸入、頒布した」とあるのを「輸入した」と改める。また、被控訴人ら及び控訴人エー・アール・シーらは、当審において、後記「第3 当審における当事者の主張の要点」の「4 本件輸入レコードの輸入数量等について」に記載のとおり、本件輸入レコードの輸入数量について、原審における主張を変更しており、販売数量について、具体的な主張をしている。)。 第3 当審における当事者の主張の要点 (当審における争点) 当審における争点は、以下のとおりである。 原判決の理由の説示に関して、原判決が、 @ 本件レコード会社は本件実演を本件レコードに写調することによって旧法22条の7のレコードの著作権を取得し、これによって本件実演家は、旧法上の歌唱の著作権を喪失したと解釈される旨の控訴人エー・アール・シーらの主張を排斥したことの当否、 A 本件実演については、本件レコード会社の法人著作が成立し、本件実演家が旧法上の歌唱の著作権を取得することはない旨の控訴人らの主張を排斥し、また、本件レコードは、本件実演家が本件実演の著作者であることを明示して発行されたと判示したことの当否、 B 控訴人エー・アール・シーらの法114条2項の適用による損害額として、本件輸入レコードの輸入数量全部についての使用料相当額を認定してこの損害賠償請求を認容し、かつ、本件輸入レコードの廃棄請求を認容した点について、本件輸入レコードの輸入数量から廃棄すべき在庫数量を差し引いた数量(販売数量)についての使用料相当額が損害額として認定されるべきである旨の控訴人エー・アール・シーらの当審における新たな主張についての当否、及び、原判決認定の許諾料の金額の当否、 C 争点Bに関連して、当審では、控訴人エー・アール・シーらが輸入した本件輸入レコードの輸入数量について、被控訴人ら及び控訴人エー・アール・シーらの原審における主張が変更され、また、控訴人エー・アール・シーらによる本件輸入レコードの販売数量(在庫数量)について、被控訴人及び控訴人エー・アール・シーらによる具体的主張がされており、本件輸入レコードの輸入数量及び販売数量(在庫数量)に関する当事者の主張についての当否、 が当審における争点である。 (争点についての当事者の主張の要点) 1 争点@(旧法上の実演家の歌唱の著作権と旧法22条の7との関係)について 【控訴人エー・アール・シーらの主位的主張】 (1)ア 旧法22条の7が規定するレコード(音ヲ機械的ニ複製スル用ニ供スル機器)の著作権(複製権)の対象となるのは、レコードに収録された固定音、すなわち、レコードに収録された演奏歌唱そのものであって、この権利は、同条項によって、レコード製作者だけに与えられており、この保護期間はレコード製作者がレコードを発行した時から30年間であるから(旧法6条)、既に満了しており、消滅している。 イ これに対する被控訴人らの主張は、旧法22条の7の規定が昭和9年に新設されたことによって、「レコードの創作性」に基づく新たな権利が創設され、その「レコードの創作性」に基づく権利は、同条項によってレコード製作者が有するが、他方、レコードの複製時の「音」である「演奏歌唱」の権利は、演奏歌唱者が有しており、両者は併存していると主張するものとして理解することができる。 しかしながら、次のとおり、現行法及び国際法においても、レコードの複製権は、レコードに収録されている「音」が権利の対象であり、「レコードの創作性」自体を権利として認めるものではない。 したがって、旧法22条の7の著作権は、必然的に、「演奏歌唱」を権利の対象としていることが明らかであり、いったんレコードに収録され固定された「音」、すなわち「演奏歌唱」については、旧法22条の7の規定によって、歌唱者ではなく、レコード製作者だけがそれを複製する権利を有することになる。 (ア) 現行法においても、96条のレコード製作者が有するレコードの複製権の対象となるのは、固定された音であり、加戸守行「著作権法逐条講義(改訂新版)458頁は、この権利について「音を固定する行為に知的創作性に準ずる創作性を認めて、その固定音の複製権を著作物の複製権に準じた権利として認めたものでございます」と記載している。 このように、現行法上のレコードの複製権の対象は、固定されている「音」、すなわち「演奏歌唱」そのものであり、旧法も同じ日本における著作権法であることからすれば、旧法22条の7の録音物の著作権(複製権)も、その固定音が権利の対象となることは、旧法の条文の中にそれを否定する明確な規定がない限り、現行法と同じであることは当然である。 また、現行法の施行における経過措置を定めた現行法附則(現行法施行当時)の2条4項は、この法律の施行前に行われた実演又はレコードでこの法律の施行の際現に旧法による著作権が存するものについて、新法中著作隣接権に関する規定を適用する旨を定めて、現行法は、そのような旧法の規定を引き継いでいることを明らかにしている。上記のとおり、現行法はレコードの複製権について、レコードに固定された音がその権利の対象としているが、上記の附則の規定は、現行法と旧法が同じ著作物を定めていることを想定しているとしか読むことができない。 (イ) 実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約(以下「ローマ条約」という。)においても、レコードの権利を認めるに当たって、商業上の目的でレコードを複製する権利は、レコード製作者が100%の権利を持ち、実演家が0%であることを取り決めている。このように、ローマ条約では、「レコード盤の複製」権は、レコード製作者がだけが持ち、実演家にはないのである(7条1項(c)の(@)、(A)及び10条[レコード製作者の権利]参照)。 (2) 旧法の改正時の大正9年の帝国議会議事録(乙第35号証)及び昭和9年の帝国議会議事録(乙第1号証の1ないし3、以下、これらの議事録を単に「議事録」という。)をみると、「レコードの創作性」に基づくレコードの複製権を新たに創設したということは記載されておらず、逆に、レコード製作者のみがレコードに収録された音、すなわち歌唱について複製権を保有するものであることが分かる。 ア 大正9年の議事録(以下、議事録の記載は、旧漢字を当用漢字、カタカナをひらがなとし、現代用語に改めて表記する。)の223頁の1段には、「写調者と申しまするのは、演奏者、若しくは歌唱者をいうのであります、素より音譜盤作製の工業的技術を以って、著作権の保護に値するものと為す訳ではないのであります」と述べており、著作権の保護に値しない点では工業的技術と同じである「レコードの創作性」を権利として認めてはいないし、議事録全体を通しても「レコードの創作性」を権利として認める記載はない。 大正9年の議事録は、当時レコードが無断複製されたために、新しく演奏歌唱とレコードをどのように保護したらよいかを議論しているのであり、また昭和9年の議事録も大正9年改正の旧法の条文が誤解の生じやすい規定だったために、著作権の帰属関係及びその権利内容を明らかにするのを目的として議論されている(昭和9年の議事録の6頁1段目には、「新たに第二十二条の六及び第二十二条の七を設けて蓄音機「レコード」に付いての著作権の帰属関係並びに其の権利内容を明らかにいたしました」と記載されている。)ところ、この議事録にも「レコードの創作性」に関しての記載はない。 イ さらに、旧法22条の6及び同条の7を規定した昭和9年の旧法改正における議事録53頁4段から54頁1段までには、権利の帰属関係を明確にすることについて、次のとおり記載されている。 「政府委員(勝田永吉君) 「実例に依りまして申し上げます、蓄音機の是は「レコード」に関する規定でありますが、蓄音機会社が「レコード」に或人に吹込んで貰うに際しまして、先程濱尾さんから仰いました如くに作詩、作曲、それから唄う人が各々権利を持って居るのであります、是等の権利者と会社との間に話合いが付きまして、そこで「レコード」が出来ますれば、其「レコード」に関して蓄音機会社が著作権を持つ、そういうことになるのであります、尚ご不審の点がございますれば・・・平たく申しますればそういうことになります」 子爵濱尾四郎君 「そう致しますというと、其機器に付てのみということは、「レコード」会社の著作権だと云うことになりますか」 政府委員(勝田永吉君) 「そうでございます、「レコード」に付てのみ・・・」 子爵濱尾四郎君 「分りました」 子爵近衛秀麿君 「今のことに聯関してでございますが、唄った人間は著作権を持たないのでありますか」 政府委員(勝田永吉君) 「唄った人は「レコード」に吹込まれる場合に於て、是も平たく申せば蓄音機会社と相談をして吹込んでいるかと考えます。其の場合に於ては、唄った人は蓄音機会社に対して相当の金を要求します。蓄音機会社は、それに対して支払う、そういう関係になります、出来上がった「レコード」に対しては、唄った人は著作権を持たない、そうして「レコード」会社が持つとそういうことになるのであります」」 ウ 上記イで論議されている「出来上がったレコード」とは、「レコードの創作性」は権利として認められていないのであるから、この議事録の文脈やレコードの定義から考えても、歌唱の入っている「レコード」の「音」の権利について述べていることに間違いない。仮に、被控訴人らが主張するように、歌唱者の歌唱の著作権と「レコードの創作性」の権利がこれと併存するというのであれば、「レコードの創作性」の権利は、楽団や指揮者を集めスタジオを持ち、かつ歌唱者に相当の金銭を支払い、レコードを作ったレコード製作者に当然に帰属するはずであるのに、その出来あがった「レコードの創作性」の権利をレコード製作者に渡すか、歌唱者に渡すかという価値のない議論をしていることになる。この議論は、本来「歌唱」は歌唱者に権利があるが、歌唱者は相当のお金を貰うことによって財産権である権利を行使しているので、「歌唱」という権利をレコードにした時には、そのレコードに関して、レコードの製作者にのみ「歌唱の権利」を帰属させることとして、歌唱者はこれを持たないことにしたのが、旧法22条の7の趣旨であることについて問答されたものと理解することができ、そのように理解して初めて議論の価値がある。 なお、被控訴人らは、上記イの政府委員(勝田永吉)の最初の発言をとらえて、ここでは、歌唱の著作権ではなく、新たに創設される22条の7に基づいて発生する「レコード」著作物の著作権の帰属を説明している旨主張している。 しかしながら、この「先程濱尾さんから仰いました如くに作詩、作曲、それから唄う人が各々権利を持って居るのであります」との発言は、文脈からいって明らかにレコードが作られる前段階の話であり、その段階では歌唱者が歌唱の権利を持っていて当然であるが、これに続いて、「是等の権利者と会社との間に話合いが付きまして、そこで「レコード」が出来ますれば、其「レコード」に関して蓄音機会社が著作権を持つ」と述べて、今度は作られた後の話をしている。そして、出来あがった「レコード」に「歌唱」が権利の対象として含まれ、レコードの製作者にのみ「歌唱の権利」を帰属させ、歌唱者はこれを持たないことについて、上記イの政府委員(勝田永吉)の後の発言のとおり、「唄った人は「レコード」に吹込まれる場合に於て、是も平たく申せば蓄音機会社と相談をして吹込んでいるかと考えます。其の場合に於ては、唄った人は蓄音機会社に対して相当の金を要求します。蓄音機会社は、それに対して支払う、そういう関係になります、出来上がった「レコード」に対しては、唄った人は著作権を持たない、そうして「レコード」会社が持つとそういうことになるのであります。」と発言して、「レコード」に関する権利の帰属関係を説明しているのである。 (3) 昭和13年3月に司法省調査部により発行された司法研究報告書第24輯3・研究員横浜地裁判事伊藤雅二著「著作権法上の諸問題」(以下、「司法研究」と表記する。)では、「レコードの創作性」を権利として認めておらず、またレコードの複製と発売権について、「原著作者並びに吹込者(実演家)に当該レコードの複製、発売権が存するならば、写調者と謂も特別事情なき限り自己の適法に写調したレコードの複製、発売に付てそれ等の許諾を要するを原則とするであろうが、我著作権法上斯かる権利を原著作者並びに吹込者に認めていない。(独逸文芸音楽的著作物に関する法律第22条は営業的写調の許諾は内国に於ける頒布の許諾にも効力を有すと規定す) 写調者は著作者と看做される(法第22条の7)が故に著作物たるレコードの複製、発売権を著作権者として当然享有するのである。」と記載しており(乙第19号証)、レコードの複製と発売権は、旧法22条の7によってレコード製作者だけが享有し、実演家には認められないことを明らかにしている。 なお、この点について、被控訴人らは、上記記載箇所は、作詞者、作曲者及び実演家による写調の許諾には、当該レコード製作者によるレコードの増製・頒布に及ぶことを記載しただけである旨主張し、「(独逸文芸音楽的著作物に関する法律第二十二条は営業的写調の許諾は内国に於ける頒布の許諾にも効力を有すと規定す)」との上記の括弧内に記載されている部分を援用しているが、これは、レコード製作者が実演家から録音の許諾を受けたときは、その許諾はレコードを販売する時まで及ぶ事を述べているにすぎない。ちなみに、大正9年の上記議事録2頁には、「独逸に於きましては、音譜盤製作者が演奏者に報酬を支払いました場合には、何等の特約がなくても尚ほ演奏者の著作権の譲渡を製作者に於て受けるものと推定すという規定がある」と発言されたように、ドイツにおいては、報酬を支払うゆえにレコード製作者に権利があって、実演家には複製や頒布の権利がないことが規定されている。 また、被控訴人らは、「司法研究」には、上記の記載に続けて「原著作者(以下吹込者を含む)は写調権と当該レコードに依る興行権を別個に有する(昭和9年改正法22条の6、ベルヌ条約13条の1)。他方レコードの写調は一つの改作であるから製作者が著作物を写調したるときはその適法(原著作者の承諾を得)たると否とを問わず当該レコードに付改作者として著作権を有すべきことは理論上正当ではあるが法22条の7は写調者のレコード著作権取得には写調が適法なることを要求している。写調者の享有し得る著作権はレコードを以てする可能なる範囲の権能をいうのであるからそのものの複製、興行、(公の演奏、放送)写調、等の権能を指称する。従ってレコードに付ては原著作者と写調者の権利とが併存する。」と記載されていることを有利に援用しているが、この記載箇所は、「原著作者の写調許諾と当該レコードに依る興行、放送との関係」との見出しが付されているとおり、レコードを興行と放送に用いた場合に権利者は誰になるかということを解説しているものであり、上記記載箇所で「レコードに付ては原著作者と写調者の権利とが併存する」とされているのは、興行、放送の権利のことであって、レコードの複製、発売権のことではない。 【控訴人エー・アール・シーらの予備的主張】 (1) 原判決が判示するとおり、旧法22条の7に基づきレコード会社が取得する著作権と実演家の歌唱の著作権とが別個の権利であると解する立場に立っても、次のように考えるべきである。 確かに、レコード製作者の録音物の著作権(旧法22条の7)と実演家の歌唱の著作権(旧法1条、22条の6)とが、理念上別個の権利であるという前提に立つ限り、レコード会社が著作権を取得しても、そのことから直ちに論理必然的に実演家の歌唱著作権が消滅するものではなく、両権利が同時に併存し得ることは当然である。 しかしながら、両権利が別個の権利である以上、論理必然的に両権利が併存しなければならないということになるわけではなく、実演家がレコード会社に許諾を与えてその歌唱を機器に固定させた場合に、当該固定された歌唱に関する実演家の権利の消長如何は、各法制が規定する実演家の権利の内容によって定まる問題である。 (2) わが国の現行法においては、実演家の権利、レコード製作者の権利のいずれについても著作隣接権と位置付けた上で、実演家の権利の内容について、実演家はその歌唱等の実演を録音する権利を専有する(91条1項)が、上記録音には、「音を物に固定」することのほか「その固定物を増製すること」をも含むものとして規定している(2条1項13号)。 このように、現行法の下ではオリジナルの録音の際だけでなく、レコードのリプレスのような目的内増製についても、その度に実演家の録音に関する権利が働くこととされているため、実演家がレコード会社に許諾を与えてその歌唱を機器に固定させた後においても、当該固定された歌唱に関する実演家の権利がレコード製作者の権利と併存的に存続する前提に立っている。 しかし、これは現行法が実演家に特に厚い保護を与えるという立法政策を採用した結果であり、論理必然的に、当然にそのように考えなければならないというわけではない(加戸守行著「著作権法逐条講義(改訂新版)419頁参照)。 現に、1989年(平成元年)10月26日にわが国で効力が発生したローマ条約では、いわゆる「ワン・チャンス主義」が採用されて、実演家がいったんレコード製作者に許諾を与えてその実演を録音させた後は、その同じ目的のために録音物を増製することについて、もはや実演家の権利が働かないという規定(7条1項(c))となっている。 そして、以下に記載することを総合すれば、旧法下における演奏歌唱の実演家の権利については、上記のワン・チャンス主義が採用されており、最初の契約の際に行使されるとその使命を全うし、当該演奏歌唱を適法に写調したレコード製作者の著作権が成立した以後は、レコード製作者との契約を通じてのみ守られるのが本則であり、その権利は否定されると解すべきである。 (3) 旧法における実演家の権利の内容についての検討 ア 立法経緯について (ア) 大正9年の旧法改正 周知の桃仲軒雲右衛門事件の判決(大判大正3年7月4日刑録20輯1360頁、以下「雲右衛門事件判決」という。)において、「他人が出捐をして蓄音機の蝋盤に吹き込ましめた楽曲を他の蝋盤に写し取って音譜を製造し利を営むことの正義の観念に反するは論をまたないが、浪曲のように即興的音楽の演奏にして純然たる瞬間創作に属するものは音楽著作物として著作権法の保護を受けることができず、これを蓄音機に写調しても不問に付すほかない」旨判決されたことを契機に、上記判決によって「蓄音機吹込業者に取っては全く其事業に致命的打撃を与えられた」(横田昇一「蓄音機界の死活問題」日本音楽著作権史・上156頁上段、乙第22号証の1)として、「立法の手段による蓄音機のレコード製造業者の救済策」(花井卓蔵「蓄音機のレコードに関する法律上の意見」日本音楽著作権史・上151頁、乙第22号証の1)の必要が叫ばれ、大正9年に旧法が改正され、「音ヲ器械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」とする旧法32条の3が新設されるとともに、1条の著作物の中に「演奏歌唱」が挿入された。 このように、上記改正はもともとレコード製作者の保護のための改正であったにもかかわらず、審議の過程で1条に演奏歌唱が加えられたため、両者の整合性がとれないものになってしまったといわれている(阿部浩二編著「音楽・映像著作権の研究」12頁、阿部発言、乙第5号証)。いずれにせよ、上記改正の目的は、自ら出捐して楽曲を吹き込ましめたレコード製作者の保護に主たる眼目があり、実演家の保護を企図したものではなかった。 (イ) 昭和9年の旧法改正 上記(ア)の不整合を糺すべく、昭和9年の改正で、旧法32条の3の規定が削除され、代わって旧法22条の6及び22条の7の各規定が新設されるに至った。 すなわち、その改正立法審議における政府委員答弁によると、32条の3を反面から規定し直し、22条の7において適法に写調した者が著作者であることを明らかにするとともに、それ以外の者が偽作者になるのは自明であるため、その趣旨を規定した32条の3を削除した(乙第1号証の2の9頁3段)。また、22条の6は、既に大正9年の改正で1条の著作物の中に組み込まれていた演奏歌唱に関する複製権の具体的内容として、写調権がこれに包含される旨を注意的に規定したにすぎない(木原幹郎「外国人の実演家及びレコード製作者の保護」著作権関係事件の研究218頁、半田正夫「蓄音機レコードに関する著作権法改正」著作権研究1、75頁)。 したがって、実演家の保護ではなく、レコード製作者の保護に眼目を置くという大正9年改正の立法目的は、昭和9年の改正によってもそのまま維持されていたのである。 イ 旧法の立法の形式について 確かに、現行法と異なり、旧法1条では、形式上、演奏歌唱を著作物に含め、演奏歌唱の実演家の権利を著作権に含める形で規定していたことは事実である。 しかし、他方で、旧法には現行法の2条1項13号後段のように、「写調」に音の固定物の「増製」を含ましめる規定は存在しなかったことも事実である。 ウ 演奏歌唱の著作権の実質について 旧法下にあっても、演奏歌唱等の実演や録音(レコード製作)が「他人の創作した著作物を公衆に伝達する媒介としての役割をはたす」(半田正夫「著作権法概説(第10版)」297頁)にすぎず、「そこに内容的創作はなく、表現解釈に工夫の余地を見出すに止まる」ものであって、「通常の著作物とは異質である」(山本桂一・有斐閣法律学全集「著作権法」202頁)とされ、これらの行為は、「楽曲の著作物を表現し利用するための活動なのであって、みずから著作すると論ずるには無理がある」(木原・前掲書219頁)という本質を有していた点では、現行法下と全く事情は同じである。 しかも、そのことは、旧法1条に演奏歌唱を挿入する法改正の契機となった雲右衛門事件判決においても、歌楽の演奏者が既存の旋律を実施したにすぎず、その旋律につき創意を認められないときは、その演奏により音楽的著作権を取得することができないと説かれたことからもわかるとおり、当時既に内外の定説として明確に認識されていた。 それにもかかわらず、議員立法のためか論理的整合性を欠き(阿部・前掲書12頁、13頁、阿部、木村各発言、乙第5号証)、「旧著作権法が実演や録音まで著作行為であるとしたことは、理論的に問題」(木原・前掲書219頁)と指摘される事態が生じたのである。そして、この矛盾は、昭和9年の旧法改正でもそのまま引き継がれた。 そのため、旧法の解釈としても、本質の異なる演奏歌唱著作権を作曲等他の一般の著作権と全く同一に扱うことはおよそ不可能なのである。このことは、次の例を考えれば明白である。すなわち、現行法上、作曲等の著作権の場合、その著作物に類似した他の著作物を録音することにも当然権利が及ぶのに対し、実演著作隣接権の場合、実演家が行った実演そのものだけに権利が及び、その実演と類似した他の実演(物真似)を録音することには権利が及ばないと解されている(加戸・前掲書419頁)。 このように、いかに旧法1条が演奏歌唱の実演家の権利を著作権に含め、その複製権と作曲者等の複製権とを区別しない形式で規定していようとも、両者の本質的差異に基いて区別した解釈をするほかない。 (4) 実演家の権利に関するワン・チャンス主義の原則 作曲者の著作権に関しては、作曲者がいったん許諾を与えてレコードを製作させた後もその複製権は当然に存続し、その後のリプレスにも複製権が及ぶことに疑問の余地はない。しかし、実演家がレコード会社に許諾を与えてその歌唱を機器に固定させた場合における当該固定された歌唱に関する実演家の権利の消長については、原則的にワン・チャンス主義が適用されるとみるのが合理的な解釈である。 例えば、ローマ条約においては、実演家がいったんその実演を映像及び音に固定することを承諾すると、それ以後、当該実演の固定、複製に関する保護を受けられなくなることとしている(7条1項(c)、19条)。すなわち、実演家には当該実演の個別利用の度ごとに権利が認められるわけでなく、最初の利用に際する契約によって以後の利用について利益保護を図ることが残されているだけにすぎない(著作権情報センター編著「新版著作権法事典」409頁)。そのため、仮に実演を吹き込んだレコードの複製物が許諾なしに作られた場合にも、レコード製作者による複製権の行使を期待することができる以上、レコード製作者に複製権を与えるだけで十分であり(文部省「昭和三十九年三月 実演家、レコード製作者及び放送事業者の保護に関する条約要覧」68頁)、これを通じて実演家の保護を図ればよいとされている。換言すると、ローマ条約は、実演家の権利については、最初の契約で以後の当該実演の利用に関する利益も確保することを期待して、全面的には権利を認めていないのであり(ジュリスト452号「著作権制度改正の概要」61頁注11)、最初の契約の際に行使されることによって権利としての使命を全うし、以後は消滅してしまうような内容の権利としているのである。 我が国の現行法も、実演家の権利のうち、映画の著作物に録音、録画する場合には、同様にワン・チャンス主義の原則を採用している(91条2項)が、それ以外の録音、録画の場合には、レコードのリプレスでもその度に権利が働くこととしている(91条1項、2条1項13号後段)。しかし、この点は、著作隣接権に関するワン・チャンス主義の原則に対する例外なのである(前掲・著作権法事典409頁)。すなわち、現行法がローマ条約(わが国の加盟は平成元年だが、昭和36年に作成されていて、昭和45年の現行法の成立時には既に存在した。)よりも実演家に厚い保護を与えようという立法政策的価値判断に基づき、91条1項で実演家に実演の録音権を専有させるとともに、2条1項13号後段で「録音」の定義として、音の固定物の「増製」を含む旨規定した結果として、初めて導き得る結論なのである。 (5) 旧法下の実演家の権利とワン・チャンス主義の原則 旧法1条の文言により演奏歌唱が著作物に組み込まれた結果、形式上は著作権として規定された演奏歌唱の実演家の権利についても、その実質は、客観的にローマ条約や現行法にいう著作隣接権と共通する本質を有するものとみざるを得ず、その本質的差異に基づき、作曲者等の著作権とは区別して解釈するほかないことは、前記のとおりである。 そうである以上、契約によって権利を確保する機会を実演家に与え、レコード製作者の管理が及ぶことさえ確保すれば、実演家の権利はレコード製作者との契約を通じて守り得るものとして調整を図る(例えば、レコード製作者との契約で、レコード売上げに応じて歩合金を受け取ることになっている場合に、第三者が違法にレコードを写調したときは、レコード製作者が旧法22条の7の著作権侵害に基づく損害賠償を得た中から、上記契約による歩合金に得ることになる。)のが本則というべきである(吉田大輔「著作隣接権制度の形成と発展」226頁参照、甲第19号証)。 なお、昭和9年の旧法22条の7の新設の立法審議において、前記のとおり、唄った人間は著作権を持たないのかという近衛議員質問に対して、「蓄音機会社と相談をして(契約して)吹き込んでいる場合、唄った人は蓄音機会社に相当の金を支払わせる関係になって、レコードに対しては唄った人は著作権を持たず、レコード会社が持つ」旨発言した政府委員の答弁内容は、法論理的には必ずしも明瞭ではないが、実演家の権利は、レコード製作者との契約を通じて確保させればよいという趣旨を述べたものとも理解し得るものである。 それにもかかわらず、音の固定物の「増製」を含むことを規定した現行法2条1項13号後段に当たるような特段の規定を持たない旧法の下で、あえてワンチャンス主義の原則を逸脱した解釈をすべき合理的理由が存在しないことは明白である。 (6) レコード製作者の著作権成立と歌唱実演家の権利の原則的消滅 以上に述べたことを総合的に考察するならば、旧法下における演奏歌唱の実演家の権利は、最初の契約の際に行使されるとその使命を全うし、当該演奏歌唱を適法に写調したレコード製作者の著作権が成立した以後は、レコード製作者との契約を通じてのみ守られるのが本則であり、その権利は否定されるとみるべきである。 したがって、レコード製作者との契約を通じて利益確保が可能である限り、被控訴人らが主張するように、レコード製作者の著作権(旧法22条の7)が消滅した後も、最初の契約によって権利確保の機会を享受した演奏歌唱の実演家の複製権・写調権(旧法1条、22条の6)が存続して機能するという解釈を導くことはできない。 なお、レコード製作者の著作権成立によってその使命を全うする歌唱実演家の権利は、旧法22条の6の写調権であって、1条の歌唱の複製権については、別個であると解する余地はない。すなわち、旧法22条の6は、1条の著作物の中に組み込まれていた演奏歌唱に関する複製権の具体的内容として、写調権がこれに包含される旨を注意的に規定したものであり、一般的な学説においても、旧法22条の6の規定について、「作曲者等および実演家に対して、著作物のレコード写調(録音)権およびレコード興行権を認めたものである。だがこれらの者は、1条により自己の著作物について複製権を有しており、この複製権は有形的複製、無形的複製を含む包括的な内容の権利として一般に理解されているのであるから、レコード写調権およびレコード興行権は、とくに規定するまでもなく、これらの者に保障されているはずのものである。したがって、22条の6は、既に承認されている権利を、権利内容の明確化のために単に注意的に規定したにすぎないものと解すべきであろう」(半田正夫「著作権法の現代的課題」24頁、25頁)と説明されている。 また、実演家の権利が立法形式上、著作権として規定された旧法下にあっても、前記のとおり、演奏歌唱の実質は、「他人の創作した著作物を公衆に伝達する媒介としての役割をはたすもの」にすぎず(半田・前掲「著作権法概説(第10版)」297頁)、客観的にローマ条約や現行法にいう著作隣接権と共通する本質を有するものとみざるを得ないため、その本質的差異に基づき、作曲者等の著作権とは区別して解釈するほかなく、しかも、実際上、演奏歌唱については、音を固定(録音)しない限り権利侵害の対象となりえず、権利として保護を図る余地がない。そのため、現に昭和9年の旧法改正時の立法担当者によれば、「旧法1条の解釈としては、一応実演芸術として演奏歌唱の著作権を法認しているが、その著作権は、22条の7により写調されてその実演が固定有体化された場合に限り、法益が生まれるのであり、また演奏歌唱の著作権は、その音盤についてのみ著作権保護を認められたものと解するのが妥当」と考えられていたというのである(小林尋次「現行著作権法の立法理由と解釈−著作権法全文改正の資料として−」昭和33年3月、文部省発行、65頁、乙第4号証)。 このように、旧法22条の6は、旧法1条の内容を注意的に明確化した規定にほかならず、作曲者等に関しては、旧法22条の6によるレコード写調権、レコード興行権は、旧法1条の複製権の一部にすぎないのであるが、実演家については、旧法22条ノ6のレコード写調権、レコード興行権こそが旧法1条の複製権の全部であり、旧法1条の権利と旧法22条の6の権利は、全く重なり合う同一の権利なのである。 したがって、被控訴人らが主張する旧法1条に基づく実演家の歌唱の複製権についても、旧法下の実演家の権利(22条の6)に関するワン・チャンス主義の原則がそのまま妥当する。 (7) 旧法と現行法との経過措置を定めた現行法附則(現行法施行当時)との関係 ア 現行法附則(現行法施行当時)は、旧法下で既に消滅した著作権については不遡及の原則を採用し、現行法を適用しないこと(附則2条1、2項)、現行法施行(昭和46年1月1日)前に行われた実演及びその音が最初に固定されたレコードについても原則として不遡及とし、現行法中著作隣接権に関する規定を適用しないこと(附則2条3項)、現行法施行前に行われた実演及びその音が最初に固定されたレコードで現行法施行の際現に旧法による著作権が存するものに限っては既得権を保護し、例外的に現行法中著作隣接権に関する規定を適用すること(附則2条4項)を、それぞれ規定している。 イ この附則と控訴人エー・アール・シーらの主張との関係についてみると、前記のとおり、旧法下における演奏歌唱の実演家の権利は、最初の利用に際する契約によって以後の利用についても利益保護を図ることを本則とし、実演家の権利は、レコード製作者との契約を通じて権利保護が可能である限り、最初の契約でレコード会社に写調を許諾した際、以後の利用についても利益保護を図る機会を確保したことによって、その使命を全うし、当該演奏歌唱を適法に写調したレコード製作者の写調著作権が成立した以後は、その権利を否定されると解すべきであるから、本件実演家が本件実演により取得した歌唱の複製権・写調権(旧法1条、22条の6)については、現行法施行前に権利性を否定されるに至っていた。したがって、上記附則2条の不遡及原則によって現行法の適用はないことになる。それにもかかわらず、被控訴人らが主張するように、現行法中著作隣接権に関する規定を適用することは、既得権保護のための例外を認めたにすぎない上記附則2条4項の趣旨を逸脱するものである。 ウ もっとも上記イのように解すると、現行法施行前に行われた実演で現行法施行の際現に旧法による著作権が存するものに関して規定する上記の附則2条4項、15条1項、2項が適用される余地はなくなるのではないかという疑問が生じ得る。 しかし、演奏歌唱の実演家の複製権・写調権(旧法1条、22条の6)とレコード製作者の著作権(旧法22条の7)とは、根拠条文、規定内容が異なるため、両権利の内容が必ずしも一致しない可能性があり、もし、両権利の範囲内容が異なって後者の権利を通じて前者の権利を確保することができない場合には、その限度でワン・チャンス主義の原則を適用することができないために、後者の権利が成立した以後も、前者の権利が存続することになる。例えば、 (ア) 最判昭和38年12月25日第2小法廷判決「ミュージック・サプライ事件」では、旧法22条の6による実演家の写調権と異なり、旧法22条の7によるレコード製作者の著作権は、機器から機器に機械的に複製する権利たる有形的複製権のみを内容として、放送権、興行権のような無形的複製権を含まないのではないかという点が争点となったが、上記判例は、これを含むとの肯定的な見解に立った。しかし、将来この判例が変更されて否定的見解が採用される可能性もあり、そうなれば、レコード製作者の著作権(旧法22条の7)を根拠としては、有線放送の差止め及び損害賠償を請求し得ないことになる。その場合には、レコード製作者との契約によって権利を確保する機会を実演家に与え、レコード製作者の管理が及ぶことを確保しても、実演家の権利の一部である無形的複製権について、レコード製作者との契約を通じて守ることができないから、その限度でワン・チャンス主義の適用がなく、演奏歌唱の実演家の複製権・写調権(旧法1条、22条の6)が存続することになる。 (イ) 上記判例の立場に立ち、判例変更がない場合においても、上記判例は、有線放送業者の出所明示義務(旧法30条1項8号、同条2項)の範囲は、侵害の有無が問題となる著作権が、原著作物の著作権であるか、第二次的著作物たる録音物の著作権であるかによって異なる旨を判示している。その結果、レコード製作者との契約によって権利を確保する機会を実演家に与え、レコード製作者の管理が及ぶことを確保しても、実演家に関する出所の明示義務違反による著作権侵害行為に対する差止めや損害賠償を請求する権利は、レコード製作者との契約を通じて守ることができないから、その限度でワン・チャンス主義の適用がなく、実演家の複製権・写調権(旧法1条、22条の6)が存続することになる。 上記(ア)、(イ)の例のような場合には、レコード製作者の権利が成立した以後も、実演家の権利が存続することになり、その限度で、現行法施行前に行われた実演について、上記の附則2条4項、15条1項、2項が適用される余地があるため、現行法の制定に当たり、このような場合に備えて、上記の附則を用意したとみることができる。上記の例以外にも抽象的には立法当時予想しなかったような事態を種々生じ得る可能性があり、そのような場合に備えてあらかじめ立法的措置が講じられているということもできる。 (8) 被控訴人らの主張に対する反論 ア 被控訴人らは、実演家による歌唱・演奏には作詞・作曲行為と比べても独自に保護するに値する創作性がある旨主張しているが、これは、作詞者・作曲者の著作権との本質的差異に基づき、実演家の権利を著作隣接権として保護することにしたローマ条約や我が国の現行法を含む世界の立法例、学説の大勢を否定するに等しい独自の見解にすぎない。被控訴人らは、大正9年の旧法改正運動を担ったレコード製作業者が要求したのは、歌唱・実演を著作物として保護することであり、レコード製作者の権利保護ではなかったと主張して、その改正審議における鳩山一郎議員の発言を引用している。そして、上記発言内容を根拠に、旧法においては演奏歌唱の実演家の権利が作詞者・作曲者の権利と全く同価値だとする立場が採られていた旨主張している。 確かに、当初鳩山議員の提案した改正案原案それ自体は、「第二十二条ノ二 音楽的著作物ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ自己又ハ他人ノ著作物ヲ写調シタル者ハ著作者ト看倣シ本法ノ保護ヲ享有ス但シ原著作者ノ権利ハ之カ為ニ妨ケラルルコトナシ」というものであって、「写調シタル者」は演奏者・歌唱者を指し、レコード製作者の権利よりも演奏・歌唱の保護を眼目としていたといえる。そのために、その提案理由としても、「歌唱し又は演奏を為すに就て、精神的の努力を要し,熟練を必要とすることは勿論でありますから、茲に規定した次第であります」(甲第23号証の202頁上段)ということが強調されていた。 しかし、この提案では、前記のとおり、雲右衛門事件判決によって事業に致命的打撃を与えられ、立法の手段による蓄音機のレコード製造業者の救済策の必要を叫んで、改正運動を担った蓄音機吹込業者が目指した本来の趣旨とは異なるために、「それではほかの社の吹き込んだレコードを無断で複製して売り出すという不正競争の事例を防止するという立法趣旨には合わないではないか。レコード製作者の権利はそれでは把握できないではないか」という話になった(「座談会「演奏歌唱」と「三十二条ノ三」の創設」佐野発言、日本音楽著作権史・上180頁上段、乙第22号証の1、)。 そのために、「原案では立法趣旨に適せぬ不備の点ありとして、次の通り修正せられ」ることになって(小林・前掲書63頁、乙第4号証)、志賀議員から、「第一条中写真ノ次ニ演奏歌唱ヲ加フ 第三十二条ノ三 音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看倣ス」という修正案が提出され、これに政府も同意を与えて国会で一部改正として成立したのである。 このようにして規定された旧法32条の3の規定の形式は、一見レコード製作者の権利に関する規定ではないようにもみえるが、これは議員立法の稚拙さから雲右衛門事件判決の不当な結果を是正するという立法趣旨をそのままストレートに表現したためであり、実はこれによって模造又は偽作されるオリジナルレコード製作者の権利保護を図っていたのである。そして、修正後の32条の3によってオリジナルレコードの保護を図る前提として、同条の「著作物」に演奏歌唱を含めておく必要があると考えられたため、1条に演奏歌唱を挿入したにすぎない。 結局、成立した旧法32条の3の立法趣旨は、鳩山議員の原案とは換骨奪胎され、レコード製作者の保護に眼目を置くものとなったのであり、被控訴人らの主張するように演奏歌唱の実演家の権利を作詞者・作曲者の権利と全く同価値にみる立場が採られていたわけではない。 なお、被控訴人らは、大正9年の旧法改正の際に、レコード製作者の保護ということは議事録に一言も記載されておらず、この改正の趣旨は歌唱演奏の実演家の保護にあったと主張し、上記の志賀議員提出の修正案を審議した際にされた修正の動機に関するやり取りを引用して、同議員の修正案も鳩山議員の原案と同様に実演家の保護を目的とするものだったとも主張している。 しかし、貴族院での議事録によれば、廣澤議員の委員会審査結果報告中で、「本案は衆議院提出案であります、而して此の衆議院の提出の理由は近来の蓄音機の発達に伴いまして、此の蓄音機の音譜盤の模造若しくは偽作がなかなか盛んになりまして、当業者の甚だ営業の妨害になるという、それを防止するというのが、本案提出の理由でございます」(甲第23号証の217頁下段)と明言されており、志賀議員提案により修正された法案について、あくまでもレコード製作者の営業上の利益保護が目的だと説明されているのであるから、被控訴人らの上記主張は明らかに誤りである。そして、廣澤議員は、「第三十二条に於きまして、第一条を以て明記する演奏歌唱を音譜盤に偽作した者は、之を著作権の侵害者として、是で取り締まることが出来るのであります」(甲第23号証の217頁下段ないし218頁上段)とも説明している。すなわち、旧法1条に演奏歌唱を挿入したのは、修正後の旧法32条の3によって蓄音機音盤の模造を防止し、レコード製作者の保護を図る前提として、旧法1条の「著作物」が演奏歌唱を含むことを明記する必要があると考えられたためにほかならない。 また、被控訴人らは、大正9年改正の際にレコード製作者の権利に関する規定は導入されなかったと主張しているが、明白な誤りである。 確かに、修正前の鳩山原案における「写調シタル者」は、鳩山議員自ら説明しているように、歌唱者・演奏者を指すものだった。しかし、修正成立した旧法32条の3の「写調スル者」は、模造レコードの製作者を指すと解する以外にない。なぜならば、歌唱者・演奏者を「写調スル者」と解して模造レコードの製作者を「写調スル者」としないならば、雲右衛門事件のようにレコードからコピーされた場合、偽作者として追究すべき相手が存在しなくなってしまうからである(小林・前掲書64頁、乙第4号証。結論同旨、「前掲・座談会」佐野発言、日本音楽著作権史・上180頁、乙第22号証の1)。このように、旧法32条の3は、模造レコードの製作者を偽作者とするものであり、前記のとおり、この規定によって模造又は偽作されるオリジナルレコード製作者の権利保護を図っていた。 イ 被控訴人らは、レコード製作者の権利(旧法22条の7)を創設した昭和9年の改正でも、「演奏歌唱」を1条の「著作物」に含めた大正9年の改正部分が削除されず、更に実演家の権利に関する規定(旧法22条ノ6)が追加されているので、旧法は、演奏歌唱をレコード製作とは別個独立の保護対象としていたと結論付けた上で、両者が別個の保護法益である以上、契約によって権利を確保する機会を実演家に与え、レコード製作者の管理が及ぶことさえ確保すれば、実演家の権利はレコード製作者との契約を通じて守り得るものとして調整を図るのが本則とする控訴人エー・アール・シーらの主張には理由がないと主張している。 しかし、実演家の権利とレコード製作者の権利とは主体が異なる以上、別個の保護対象であるが、それを前提にした上で、レコード製作者の管理が及ぶことさえ確保すれば、実演家の権利はレコード製作者との契約を通じて守りうるものとして調整を図るのがワン・チャンス主義の原則である。そして、前記のとおり旧法の改正経緯について検討したところによれば、旧法がワン・チャンス主義の適用の余地をなくさせるほどの強い意味で、演奏歌唱の実演家の権利をレコード製作者の権利とは全く無関係に存続すべき別個独立の保護対象としていたと解することはできない。むしろ、昭和9年の旧法改正の立法担当者によれば、「その際本当は、第一条の著作物例示中から「演奏歌唱」の字句を削除したかったのであるが、一旦著作物として認められているものを削除するとなると、何らかそれに代る保護規定を設けない限り、到底法案通過は難しいと考えたので、全面改正の時に譲ることとしてその実現を見ずに終わった」(乙第4号証の65頁)というものであり、旧法1条の解釈としては、一応実演芸術として演奏歌唱の著作権は法認しているが、その著作権は、22条の7により写調されて、その実演が固定有体化された場合に限り法益が生まれるのであり、また演奏歌唱の著作権は、その音盤についてのみ著作権保護を認められたものと解するのが妥当だと考えられていた(乙第4号証の65頁)。 そのため、演奏、歌唱者の権利についても、レコード製作者の管理が及ぶことさえ確保すれば、レコード製作者との契約を通じて権利を守り得るという関係が認められるのである。 このように、旧法下の演奏、歌唱者の権利の消長についても、ワン・チャンス主義の原則を適用すべき合理的基礎が十分に存在する。 ウ 被控訴人らは、ローマ条約が実演家の権利保護についてワン・チャンス主義を採用したのは最低限度の保証を定める趣旨であり、実演家の権利とレコード製作者の権利とでは保護法益が異なる以上、両者の保護を併存させるのが本則である旨主張している。 確かに、ローマ条約7条1項は、「この条約によって実演家に与えられる保護は、次の行為を防止することができるものでなければならない」と規定し、それによる保護が最低限保護の列挙であることを示している。 しかし、この点は条約外交会議でも問題となり、結局、「この表現の使用は、連合王国及び英連邦諸国のような国々に対し、実演家の保護の刑法による保証を継続することを可能とさせることを目的としていることが了解され」て、上記表現が維持されたものなのである(文部省「昭和三十九年三月 実演家、レコード製作者及び放送事業者の保護に関する条約要覧」67頁)。また、条約としての性質上、締約国が採用すべきミニマムスタンダードを取り決める形になるのは当然であるが、そのことのために、そこに規定された内容が本則から外れた例外的な最低限度の保証だということになるわけではない。 ローマ条約及びこれを基準としつつ審議された著作権制度審議会第五小委員会審議結果報告では、実演家等を「著作物を公衆に伝達する媒体」と性格付けした上で、これについては著作権の保護のようにほとんどあらゆる利用に対して許諾権が及ぶものとはせず、著作隣接権の制度趣旨を、「実演家等が契約によって、権利を確保する機会を与えること、すなわち最初の利用を許諾する権利及び最初利用を許諾した目的以外に実演等が利用されることを禁止する権利を認めようとすることであり、さらに、隣接権制度で保護されるべきものの利用に関しては、隣接権者のうちの一人の管理が及ぶことを確保すれば、他の者の利益はその者との契約を通じて守り得るものとして、実演、放送等の利用の便をはかることである」ととらえており(甲第19号証、吉田大輔「著作隣接権制度の形成と発展」225ないし226頁)、著作隣接権制度本来の趣旨からして、ワン・チャンス主義こそが本則だと位置付けているのである。 もちろん、ローマ条約はミニマムスタンダードを取り決めたものなので、実演家の録音権に関する我が国の現行法のようにワン・チャンス主義の本則以上の厚い保護を与え、レコードのリプレスの度に権利が働くこととすることもできるが、それはあくまでもワン・チャンス主義の原則に対する例外である(前掲・著作権法事典409頁)。すなわち、現行法が91条1項で実演家に実演の録音権を専有させるとともに、2条1項13号後段で「録音」の定義として、音の固定物の「増製」を含む旨を特に規定した結果として初めて導き得る結論である。 エ 被控訴人らは、旧法も、実演家に写調権(22条の6)のみならず複製権(1条)を付与していたので、現行法と同様に明文でワン・チャンス主義を排除していたと主張する。 しかし、旧法1条はもちろん22条の6も、演奏歌唱に限らずすべての著作物の著作権に関する規定である。これらの規定から、専ら実演家の権利保護に関して問題となるワン・チャンス主義の原則を排除する趣旨を読みとることは不可能である。 また、旧法22条の6の「写調」の一般的な文理解釈として、「調」とは「音楽を奏でる」ことであるから、演奏歌唱を忠実に固定することだけを意味し、既に音が固定された物(原盤)の複製物作成を意味する「増製」(複写盤製造行為)までをも当然に含むとは到底考えられない。学説でも、「著作権法上の用語としての写調は、たんなる複写盤製造行為をも包含するものではなく、演述・演奏・歌唱等をレコード原盤に音的録音することに限られると解すべきことは、あらゆる面からあまりにも明白であって、これは動かしがたい解釈とせねばならない。この点、諸学者の説も一致しており、いままで反対説の公けにされたものを知らないし、また、著作権法第二二条の七の立法趣旨に徴しても、疑いの余地のないところといえる。レコード著作権を認める外国法制を探っても、一の例外も見あたらない」(伊藤信男「レコードの有線放送に関する著作権法上の諸問題」日本法学30巻1号94頁)ことが強調されていた。 それにもかかわらず、もし「写調」に音の固定物(原盤)の複製物作成を意味する「増製」を含ましめて、ワン・チャンス主義の原則を排除するのであれば、「録音」に関する現行法以上に一層強い理由で、現行法2条1項13号後段のような明文規定を置いて、その旨を明示することが不可欠であるというべきである。しかるところ、前記のとおり、著作隣接権の実質を有する演奏歌唱の実演家の権利については、旧法1条の複製権と旧法22条の6のレコード写調権、興行権とが全く重なり合う同一の権利であると考えられるから、旧法1条の歌唱者の複製権も、増製を含まない趣旨であると解される。 したがって、旧法も22条の6や1条によって、現行法2条1項13号後段と同様に明文でワン・チャンス主義の原則を排除していたとする被控訴人らの上記主張が誤りであることは明白である。 オ 被控訴人らは、ワン・チャンス主義の原則を採用したローマ条約が作成されたのは1961年(昭和36年)であって、演奏歌唱者の権利に関する諸規定が改正された大正9年や昭和9年当時にはワン・チャンス主義の思想が存在しなかったと指摘しており、旧法の解釈上ワン・チャンス主義の原則を導き出すことはできないと主張している。 しかし、法律の解釈は、ある言葉が解釈時以後においてどのような意味を持つべきであるかを決定することであり、立法当時の立法趣旨や解釈等は法律解釈の重要な参考資料となるが、法律解釈の絶対的な基準となるわけではない。法は時代とともに変遷し得るし、また法解釈の変更についてはさらにその可能性が大きい。 そして、前記のとおり、旧法における演奏歌唱の実演家の権利も、その実質は著作隣接権の本質を有するものである以上、ワン・チャンス主義の原則を適用することによって、著作権制度や著作権法全体との整合性ある合理的な解釈が可能となるのである。しかも、本件で問題にされている控訴人らの行為が行われた時期は、既にワン・チャンス主義の考え方が定着して久しい平成8年(1996年)のことであり、これを援用することに何ら支障はない。 【控訴人総通の主張】 当審における控訴人エー・アール・シーらの主張を援用する。 【被控訴人らの主張】 (1) 旧法改正時の議事録及び「司法研究」に基づく主張に対して ア 控訴人エー・アール・シーらは、旧法22条の7を創設した昭和9年改正の際の議事録(乙第1号証の2)に記載された「出来上がった「レコード」に対しては唄った人は著作権を持たない、そうして「レコード」会社が持つということになるのであります。」との箇所を引用して、レコードに固定された実演については、レコード製作者のみが権利を有する旨主張している。 しかし、控訴人エー・アール・シーらは、議事録の一部を援用して、その趣旨を歪曲して主張するものであり、以下のとおり理由がない。 議事録には、上記引用箇所の前に、「実例に依りまして申上げます、蓄音機の是は「レコード」に関する規定でありますが、蓄音機会社が「レコード」に或人に吹込んで貰うに際しまして、先程濱尾さんから仰っしやいました如くに作詩、作曲、それから唄う人が各々権利を持って居るのであります、是等の権利者との間に話合が付きまして、そこで「レコード」が出来ますれば、其「レコード」に関して蓄音機会社が著作権を持つ、そういうことになるのであります」(53頁4段)と記載されている。 この答弁の趣旨は、レコードに作詩、作曲及び演奏歌唱という著作物を写調するには、各々の著作権者の許諾が必要であること(旧法22条の6)と、「レコード」著作物の著作権は、写調を行ったレコード会社が取得すること(旧法22条の7)を説明するものであり、どこにも、レコード会社が「レコード」著作物の著作権を取得するに際して、「作詩」、「作曲」及び「演奏歌唱」の著作権が消滅するとは述べられていない。 そして、控訴人エー・アール・シーらが引用する次の箇所は、この答弁に続いて、次のとおり記載されているものである。 「子爵近衛秀磨君 今のことに連関してでございますが、唄った人間は著作権を持たないのでありますか 政府委員(勝田永吉君) 唄った人は「レコード」に吹き込まれる場合に於て、是も平たく申せば蓄音機会社と相談して吹き込んで居るかと考えます、其場合に於ては、唄った人は蓄音機会社に対して相当の金を要求します、蓄音機会社はそれに対して支払う、そういう関係になります、出来上がった「レコード」に対しては唄った人は著作権を持たない、そうして「レコード」会社が持つとそういうことになるのであります」(乙第1号証の354頁1段) 上記の子爵近衛秀磨の質問は、「レコード」著作物の著作権の帰属に関する上記の答弁を受けたものであり、そして、この質問に対する答弁の趣旨も、新たに創設される旧法22条の7に基づいて発生する「レコード」著作物の著作権の帰属を説明しているものであって、レコードに収録された「作詩」、「作曲」及び「演奏歌唱」という別の著作物に対する著作権の帰属を議論するものではない。まして「演奏歌唱」という「レコード」とは別の著作物に対する著作権の消滅を説明するものではない。上記の問答は、旧法上、「レコード」著作物の著作権者が誰であるかという点について、次のような議論が存在したので生じたのである。 「レコードについては、「録音物」が昭和9年(1934年)の法律改正によって保護対象に加えられたが、これは「演奏歌唱」の場合とは異なり、第22条の7の規定によって特別に著作物性が認められており、文芸、学術または美術の範囲に属する著作物とは一線を画されている。・・・この「録音物」の著作者は吹き込みを行った実演家なのか、レコード製作者なのか、あるいは両者の共同著作物なのかについては見解が分かれており、実際上は著作権の帰属は実演家とレコード製作者の間の契約によって定まると解されていた。」(吉田大輔「著作隣接権制度の形成と発展」、甲第19号証224頁) イ 控訴人エー・アール・シーらは、「司法研究」(乙第19号証)に「レコードに固定された実演についてはレコード製作者のみが著作権を持ち、実演家は持たない」旨記載される次の記載箇所があることを控訴人エー・アール・シーらの主張に符合すると主張している。 「原著作者並びに吹込者(実演家)に当該レコードの複製、発売権が存するならば、写調者と謂も特別事情なき限り自己の適法に写調したレコードの複製、発売に付てそれ等の者の許諾を要するを原則とするであろうが、我著作権法上斯かる権利を原著作者並に吹込者に認めていない。(独逸文芸音楽的著作物に関する法律第22条は営業的写調の許諾は内国に於ける頒布の許諾にも効力を有すと規定す) 写調者は著作者と看做される(法第22条の7)が故に著作物たるレコードの複製、発売権を著作権者として当然享有するのである。」 しかし、上記の引用部分の趣旨は、「自己の適法に写調したレコードの複製、発売に付て」、「(独逸文芸音楽的著作物に関する法律第22条は営業的写調の許諾は内国に於ける頒布の許諾にも効力を有すと規定す)」との記載及び上記引用部分に続く次の記載内容に照らせば、「作詞者、作曲者及び実演家による写調の許諾には、当該レコード製作者によるレコードの増製・頒布に及ぶ」というものにすぎない。のみならず、上記の引用部分に続く次の記載には、レコードについては、レコード製作者のみならず作詞者、作曲家及び実演家も権利を有することが明記されている。 「原著作者(以下吹込者を含む)は写調権と当該レコードに依る興行権を別個に有する。(昭和9改正法第22条の6、「ベルヌ」条約第13条の1) 他方レコードの写調は1つの改作であるから製作者が著作物を写調したるときはその適法(原著作者の承諾を得)たると否とを問わず当該レコードに付改作者として著作権を有すべきことは理論上正当ではあるが法22条の7は写調者のレコード著作権取得には写調が適法なることを要求している。写調者の享有し得る著作権はレコードを以てする可能なる範囲の権能を謂うのであるからそのものの複製、興行、(公の演奏、放送)写調、等の権能を指称する。従ってレコードに付ては原著作者と写調者の権利とが併存する。併し改作物に著作権を認めても原著作者の著作権を害するを得ないし、且つ改作物は原著作物に対し従属性を有する。而も原著作者は写調権と写調されたるレコードに依る興行権とを各別に有するが故に(法第22条の6)写調の許諾は当然には当該レコードに依る興行又は放送の許諾を包含しない。従って改作物たるレコードの利用たる当該レコードに依る興行には原則として原著作者の承諾を要する。併し乍ら、写調が適法になされ、而も写調者がレコードの利用(複製頒布及び之に依拠る興行)を営業的に行ふ者である場合には、原著作者は写調を許諾するに当って写調されたレコードが複製頒布され、或いは興行の用に供せられることを予想しているものと認むべきであるから、反対の意思表示なき限り右利用に付ては原著作者の許諾を推定し得るであろう。」 なお、この「司法研究」の控訴人エー・アール・シーらが提出していない「実演芸術」の項には、次のとおり、旧法は実演家に、レコードへの固定についての権利にとどまらず、ひろく複製権を与えていることが記載されている(同書85頁)。 「演奏、歌唱はそれ自体独立の著作権を享有するのであるから、演奏者の承諾なくして、レコードの写調、放送等の複製をなし得ざるは当然で単に無許諾レコード写調のみを許さざる前記外国立法例よりも我著作権法は遙かに実演芸術家の保護に厚いのである。」 (2) 控訴人エー・アール・シーらは、レコード製作者及び実演家の権利規定を設けた大正9年及び昭和9年の旧法の改正は、レコード製作者の保護を目的とするものであり、実演家の保護を目的としたものではないかのような主張をして、実演家の権利は、レコード製作者の権利を通じて保護すれば足りるとの控訴人エー・アール・シーらの主張の理由としている。 しかし、以下のとおり、大正9年の旧法改正は、実演家の保護を目的としていたものであり、また、昭和9年の旧法改正は、レコード製作者の保護をも目的にしているが、実演家の権利はレコード製作者の権利とは別個独立のものとされていた。また、実演家の権利は、作詞家、作曲家に類して保護に値するものとされており、実演家の権利がレコード製作者の権利に従属するという関係もないことは明らかである。 ア 大正9年の旧法の改正について 大正9年の旧法改正においては、1条の「著作物」の中に「演奏歌唱」が追加されるとともに、「音楽的著作物ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」とする32条の3の規定が新設されたが、レコードを著作物とする規定は導入されなかったのであるから、大正9年改正法の規定自体に照らして、「演奏歌唱」の「著作者」に「複製権」を与えた大正9年改正が実演家の保護を目的とするものであることは明らかである。 この改正の経緯は次のとおりである。明治の末期から蓄音機レコードが国内でも普及するようになると、レコード会社の製作した浪花節などのレコードを無断で複製して売り出すという事件が続出し始めた。ところが、雲右衛門事件判決において、浪曲のように確固たる旋律によったものではなく、「瞬間的音楽」の域を出ないものは、著作物ではないと判示された。そのために、当時ようやく事業として存続の見通しが立ち始めたばかりのレコード業界は大きな苦難に直面することになり、上記判決の法理、すなわち瞬間的音楽である演奏歌唱は著作物に当たらないとの理論を否定する立法を求める運動を起こし、これが大正9年の旧法の改正へとつながったのである。 このように、控訴人エー・アール・シーらの主張は、レコード製作者が右運動を担ったという限度では正しいものではあるが、レコード製作者が要求したのは、レコード製作者の権利保護ではなく、演奏歌唱を著作物として保護することであり、大正9年の旧法改正の目的は、実演家の権利保護にあった。 大正9年の旧法改正の国会審議では、以下の議事録の記載によって明らかなように、演奏歌唱をいかに保護するかということが議論され、レコード製作者の権利については一言も触れられていない。 まず、鳩山一郎議員より「第三十二条の三 音楽的著作物ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ自己又ハ他人ノ著作物ヲ写調シタル者ハ著作者ト看做シ本法ノ保護ヲ享有ス但シ原著作者ノ権利ハ之ガ為ニ妨ゲラレルコトナシ」との改正案が提案された(甲第23号証の201頁)。この改正案の提案の理由として、鳩山議員は「此写調者というものの意義を最初に説明致して置きます、写調者と申しまするのは、演奏者、若くは歌唱者をいうのであります」(同頁)、「歌唱し又は演奏を為すに就て、精神的の努力を要し、熟練を必要とすることは勿論でありますから、茲に規定した次第であります」(同202頁)、「音楽的著作物の著作と、其の作られたる著作物の演奏とは、全く異りたる芸術に属するのであります、有名なる作曲家は必ずしも有名なる演奏家ではないのである、有名なる演奏家も亦必ずしも有名なる作曲家ではないのであります、併し演奏に堪能なる者は作曲の能否如何を問はないで、高級なる芸術家を以て目せられて居るのであります、若し演奏が独立なる芸術たるの価値なしと致しましたならば、今日頻繁に開催せらるる所の音楽演奏会は芸術として何等の価値の無いものといわなくてはならないのであります、而も演奏に堪能ならんとしたならば、優れる天才と多大なる熟練とを必要とするのであります、其天才と熟練とに依つて初めて為されることを得べき演奏を、原著作と異なりたる一つの芸術と認むることに於てどういう不都合があるのでありましょうか」(同203頁)と発言している。 この改正案と提案理由の説明を受けて、志賀和多利議員より、歌唱・演奏の実演家保護という趣旨を徹底するために、次のように修正案が出された。「此本案の趣意を徹底致します為めに条文を変改致しまして、第1条の「文書、演術、図書、建築、彫刻模型写真」とあります下に「演奏歌唱」此4つの文字を加へます「其他文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物ノ著作者ハ其ノ著作物ヲ複製スルノ権利ヲ専有ス」という風にして、第1条の原則に於て保護しよう、其結果と致しまして、第32条の3に「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」即ち32条の1、2と同様の趣意に於て此規定を置きますと、本改正案の趣意を徹底的に達せられると考えます、故に修正案を提出致します」(同208頁) そして、上記の志賀議員の発言を受けて、川村政府委員も、「然るに本改正案の本旨は、提案者の説明に依つて見れば、演奏唱歌それ自身が精神的努力の結果に成るものであるから、之を保護し之を発達せしむる為めに、演奏歌唱其物に著作権を認むるを相当と思う、然るにも拘らず、此規定を缺くが為めに、之に依つて写調された所の蓄音機、音譜盤の複製を防止するの方法がなく、其結果として不正なる事柄を生ずるので、此改正を必要とするという風に説明されて居るのであります」と発言して(同209頁)、結局のところ志賀議員の修正案が採択されている。このように、志賀議員の修正案も鳩山議員の原案と同様に「実演家」の保護を目的とするものであり、それがそのまま国会で承認されたのである。 以上のとおり、大正9年の旧法改正の趣旨は、歌唱・演奏という実演に作詞・作曲と同様の創作性を認め、歌唱・演奏の実演家を保護することにあり、これに対して、レコード製作者の保護ということは、議事録に一言も記載されていない。 そして、昭和9年の旧法改正においても、この趣旨がそのまま維持されているのである。 なお、控訴人エー・アール・シーらは、大正9年の旧法の改正の際の貴族院における「本案は衆議院提出案であります、而して此の衆議院の提出の理由は近来の蓄音機の発達に伴いまして、此の蓄音機の音譜盤の模造若くは偽作がなかなか盛んになりまして、当業者の甚だ営業の妨害になるという、それを防止するというのが、本案提出の理由でございます」(甲第23号証の217頁下段)との提案理由を引用して、被控訴人らの主張は誤りである旨反論しているが、上記議事録にはレコードの「偽作」の「防止」という目的は記載されているが、レコード製作者の保護を目的とするとは記載されていない。あるいは控訴人エー・アール・シーらは「偽作」により害されている「当業者」をレコード製作者と解しているのかもしれないが、レコードの偽作により害されるのは、作詞者、作曲者及び実演家も同様である。 なお、控訴人らが証拠として提出する「第5小委員会第1次審議事項説明資料(1)昭和37年11月2日・著作権制度の全面改正に関する参考資料」(乙第3号証)には、上記の貴族院議事録を引用した上で、「以上この改正において第1条に演奏歌唱を加えたのは、提案の理由および帝国議会における審議からみれば、蓄音機音盤の模造防止のため、まずその前提として、他人の音楽的著作物を演奏歌唱する実演家を保護するためであると解される。」と説明している(299頁)。 イ また、昭和9年の旧法の改正により創設された旧法22条の7のレコード製作者の権利と実演家の著作権とは別個独立の関係にあることは、次のとおり、昭和9年の旧法改正の内容、経緯等に照らし、明らかである。 上記アのとおり、大正9年の旧法改正においては、1条の「著作物」の中に「演奏歌唱」が追加されるとともに、「音楽的著作物ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」とする32条の3が新設されたのに対してレコード製作者の権利に関する規定は導入されなかった。そして、レコード製作者の権利(旧法22条の7)を創設した昭和9年の旧法の改正においても、実演家に1条の「複製権」を与えた大正9年の改正部分は削除されず、むしろそれに加えて実演家の録音権に関する規定(旧法22条の6)が追加されている。 このことからも明らかなとおり、旧法においては、演奏歌唱自体をレコード製作とは別個独立の保護対象と考えていたのである。 このことは、昭和9年の旧法改正の際の帝国議会貴族院の議事録に、 「実例に依りまして申上げます、蓄音機の是は「レコード」に関する規定でありますが、蓄音機会社が「レコード」に或人に吹込んで貰うに際しまして、先程濱尾さんから仰っしやいました如くに作詩、作曲、それから唄う人が各々権利を持って居るのであります、是等の権利者との間に話合が付きまして、そこで「レコード」が出来ますれば、其「レコード」に関して蓄音機会社が著作権を持つ、そういうことになるのであります」(乙第1号証の2の53頁4段)と記載され、作詞家、作曲家、実演家及びレコード製作者の権利が、各々別個独立に保護される旨が明示されているとおりであり、実演家の権利とレコード製作者の権利が相互に独立した権利であることは明らかである。 実演家の権利とレコード製作者の権利が相互に独立の権利であることは、以下のとおり、各種の文献に照らしても明確である。 (ア) 「「レコード」吹込者(実演家、演奏者)の著作権と、製作者の著作権との関係は、原著作者と製作者との関係と全く同一であって、製作者は吹込者の著作権とは別個に、独立した何ら制限のない著作権を当該「レコード」に就いて有することは詳説するまでもなく明らかである。かくて、「レコード」の上には原著作者と製作者の二者、場合によっては吹込者も加わり、三者の著作権の存在が認められることとなるのである」(国塩耕一郎「国塩耕一郎著作権論文集」日本音楽著作権協会発行、24頁、初出「蓄音機「レコード」の演奏と著作権」警察研究8巻11号、12号9巻1号1937年) (イ) 「他人のレコード、テープ等と同一又は類似のものを権限なくして複製又は写調して販売若しくは興行することは録音著作権の侵害となると共に原著作者の有する録音権及び著作権の侵害となる。わが著作権法においては、演述、演奏、歌唱のいわゆる実演は、著作物として著作権の対象とされるのであるから(第1条)演述、演奏又は歌唱された原著作物に著作権が存在しない場合でも、演述、演奏又は歌唱を録音し又は録音したものを複製しこれを販売若くは興行するときは実演家の著作権及び興行権又は録音者の録音著作権の侵害となるのである。」(蕚優美「条解著作権法」191頁、192頁) (ウ) 「レコード等の写調機器が著作物として独立の著作権を発生せしめるのは、其写調行為が適法に行われた場合に限る。蓋し原作者自身が本来写調権を有するが故に(著22条の6)、右の適法とは、原著作者の著作権が存する限り、著作権を譲受け又は其許諾を受けたことを云う。然らざる場合は偽作となるのである。・・・又、レコード、録音フィルムについて著作権を取得しても其レコード、録音フィルムを複製する権及び興行するの権をも取得することを意味しない。・・・複製発行の権も本来原作者に属するのであるが、写調の許諾があるときは、此権利の譲渡あるものと解せられる場合が多いであろう。」(勝本正晃「日本著作権法」100頁) ウ 実演家による歌唱・演奏には、レコードの製作行為はもとより、作詞・作曲行為と比べても独自に保護するに価する創作性があると認められる。 (ア) 旧法下における演奏歌唱の創作性 まず、少なくとも旧法においては、演奏歌唱という実演には、作詞・作曲と同等の創作性があるとの立場が採られていた。すなわち、大正9年旧法改正の国会議事録に、前記のとおり、「演奏に堪能ならんとしたならば、優れる天才と多大なる熟練とを必要とするのであります、其天才と熟練とに依つて初めて為されることを得べき演奏を、原著作と異なりなる一つの芸術と認むることに於てどういう不都合があるのでありましょうか」(甲第23号証の203頁)と記録されており、「司法研究」のうち、控訴人エー・アール・シーらが書証として提出していない部分にも、 「実演芸術(Ausfuhrende Kunst)とは既に創作されたる著作物を再現する芸術を言ひ、再現に際して独創的精神活動に基づく技能を認め得るとき著作権保護の目的となる。然るに反対を唱えるものは、既に創作されたる著作物を再現するに独特の技能と熟練を以てするもそれは単に既成著作物の忠実なる伝達に過ぎず、之に依っては新著作物を創作し得ない、例へば演奏にありては聴衆に美的感情を起こさしむるは演奏者の技巧であり、その技巧上に多少の精神的活動を発現するは当然ではあるが、之は文書を浄書した場合と同様に著作権的意義なしと言うのであるが(一)実演芸術は文学的、美術的著作物の再現なる点に於て両者に根本的相違は存するが、再現に際しての独創的精神活動と右創作的著作に際しての夫との間に根本的な差異を認めることは出来ない。」(80頁、81頁)と記載されている。 以上のとおり、少なくとも旧法においては、演奏歌唱の実演家の権利は、作詞・作曲者の権利と全く同価値であるとの立場が採られていたのであり、演奏歌唱の実演家の権利をレコード製作者の権利に従属するものととらえる控訴人エー・アール・シーらの考え方は、旧法の立場と相容れないものである。 (イ) 現行法下における実演の創作性 現行法においては、実演家の権利は著作権ではなく、著作隣接権として規定されている。しかし、現行法の下においても、歌唱・演奏という実演には作詞・作曲と同様に創作性が認められるのであり、ましてレコード製作者の権利に付随し従属するものではない。すなわち、立法論として、著作隣接権保護の根拠を、独自の「創作性」に認めるのか、著作物の「伝達媒介」としての価値に求めるかについては争いがあるが、現行法の立場は、「実演家・レコード製作者・放送事業者及び有線放送事業者を保護することとしたのは、実演、レコード、放送、有線放送といったものについては、著作物の創作活動に準じたある種の創作的な活動が行われるところから、そういった著作物の創作活動に準じた創作活動を行った者に著作権に準じた保護を与えることが、その準創作活動を奨励するものであり、かつ、そういった著作物に準ずる準創作物の知的価値を正当に評価するものであるからでございます。」(加戸守之「著作権法逐条講義(三訂新版)」451頁、452頁)とされている。 (3) 旧法におけるワン・チャンス主義の不採用について ア ローマ条約の作成時期との関係 ワン・チャンス主義が許容されたローマ条約が作成されたのは昭和36(1961年)である。前記の大正9年及び昭和9年の旧法の改正においては、そもそもワン・チャンス主義の思想は存在しない。この点について、控訴人エー・アール・シーらは、法律の解釈は立法当時の事情に限られない旨主張している。 しかし、仮に現時点における国内法理に基づいて旧法を解釈するとしても、現行法は、ワン・チャンス主義を排除する思想を採用したものであるから(法2条1項13号)、旧法にワン・チャンス主義は妥当しない。また、仮に、現時点における国際法理に基づいて旧法を解釈するとしても、ローマ条約のワン・チャンス主義は、1996年に我が国も参加して作成したWIPO実演・レコード条約(WPPT)の7条により否定されており、旧法にワン・チャンス主義が妥当することはない。 すなわち、WPPT7条は、実演家の複製権について、「実演家は、レコードに固定されたその実演について、あらゆる方法及び形式による直接的又は間接的複製を許諾する排他的権利を享有する。」と規定し、レコードへの録音のみならずレコードの増製も実演家の複製権の対象になることを明文で規定した。右条項がローマ条約のワン・チャンス主義を排除するものであることは、右規定の提案理由においても明確にされている(甲第32号証の130頁)。 さらに、ローマ条約が実演家の権利保護についてワン・チャンス主義を許容したのは、最低限の保証を定める趣旨であって、ワン・チャンス主義が実演家の権利に関する本則だからではない。そもそも、実演家の権利とレコード製作者の権利とは、保護法益が異なる以上、両者の保護を併存させるのが本則なのである。 イ 旧法の明文規定によるワン・チャンス主義の不採用 旧法は、現行法と同様に、実演家に録音権(22条の6)のみならず複製権(1条)を付与しており、明文でワン・チャンス主義を排除していた。控訴人エー・アール・シーらは、旧法22条の6は、1条で規定された複製権の注意規定にすぎない旨を主張しつつ、他方では、旧法上の実演家の有するこれらの権利について全く重なり合う同一の権利である旨主張をしているが、旧法においては、次に引用する昭和45年改正の際の立法資料に記載されているとおり、複製権を規定する1条が中核的規定であったのであり、旧法22条の6は1条の複製権に録音権が含まれることを注意的に規定したものにすぎない。したがって、実演家は、1条に基づきレコードに固定された実演について、複製権を有していたことが明らかである。 「現行著作権法は、著作者は著作物を複製する権利を専有する旨を規定し(第1条第1項)著作権のすべての内容を複製権で総括している。すなわち、現行法は、著作権の内容に含まれる各種の権利を具体的に規定せず、ただ、著作物の翻訳権、興行権、映画化権、放送権および録音権が著作権の内容に含まれることを明らかにしているにすぎない(第1条第1項、第22条、第22条の2、第22条の5、第22条の6)。そこで、現行法でいう複製の意義は実際上も広く解釈され、その方法が有形的であると無形的であるとを問わず、いやしくも人をして原著作物を感知せしめるような状態におく一切の場合をいうものとされている。」(国立国会図書館調査立法考査局「著作権法改正の諸問題」、甲第24号証の88頁) (4) 現行法附則との関係 控訴人エー・アール・シーらは、旧法においても、実演家の権利にワン・チャンス主義が妥当する旨の自らの主張の弱点として、そのように解すると現行法施行前に行われた実演で現行法施行の際現に旧法による著作権が存するものに関して規定する附則2条4項、15条1項、2項の適用される余地がなくなるのではないかという疑問が生じ得ると自白している。 まさにそのとおりであり、控訴人エー・アール・シーらの主張によれば、上記附則のうち実演に関する部分が空文となる。このことからも、旧法において、実演家の権利にワン・チャンス主義が採られていなかったことは明らかである。 控訴人エー・アール・シーらは、この点について、実演家の演奏歌唱の著作権・写調権(旧法1条・22条の6)とレコード製作者の写調著作権(旧法22条の7)とは根拠条文、規定内容が異なるため、両権利の内容が必ずしも一致しない可能性があり、両権利の範囲内容が異なり後者の権利を通じて前者の権利を確保することができない場合には、その限度でワン・チャンス主義の原則を適用することができないため、後者の権利成立以後も前者の権利が存続することになるから、その限度で、現行法施行前に行われた実演について上記附則の適用される余地があり、現行法はこのような場合に備えて右附則を用意したとみることができる旨主張している。 しかし、一方で、ワン・チャンス主義の内容として、「もし両権利の範囲内容が異なり後者の権利を通じて前者の権利を確保することができない場合には、その限度でワン・チャンス主義の原則を適用することができない」とする理論構成には、何の根拠もない。 上記附則の立法趣旨は、「旧法において「演奏歌唱」として著作権による保護を受けてきた実演と「音を機械的に複製するの用に供する機器に他人の著作物を適法に写調したもの」すなわち「録音物」として著作権による保護を受けてきたレコードとが、新法上の著作隣接権制度による保護に移行するということでごさいます。」(加戸守之「著作権法逐条講義(改訂新版)」633頁)、「新法施行の際旧法による著作権が認められているこれらの実演及びレコードの保護を新法施行と同時に打ち切ってしまうことは既得権を害することとなりますので、その保護期間については附則第15条第2項の経過措置を講じつつ、著作隣接権としての保護をすることとしたものであります。」(同書633頁)と説明されており、控訴人エー・アール・シーらが主張する理由は一切触れられていない。 著作権法の所管官庁である文化庁も、上記現行法施行当時の附則の解説として、次のとおり、実演家の権利とレコード製作者の権利の消滅時は異なると述べている。 「美空ひばり氏が昭和30年に行い、同年にレコードにより公表された歌唱についての保護期間は、旧法の規定を適用すると、著作者の生前に公表された著作物に該当することになりますので、その保護期間は、「著作者の死後30年」(旧法3条)を経過することとなる平成31年末まで存続するということになります。しかし、先に述べたように、現行法施行前に行われた演奏・歌唱について、現行法施行時に旧法の著作権が存続しているものであって、その著作権が現行法施行後30年を超えて存続することとなるような場合には、現行法施行後30年までの期間に限られていますので、現行法が施行された昭和46年1月1日から30年の期間を満了することとなる時、つまり、平成12年末まで存続するということになります。また、同氏の実演を昭和30年に録音し、同年に公表されたレコードの保護期間については、当該レコードの公表の名義によって異なることになりますが、いわゆるレコード会社の名義において公表されたものであるとすれば、旧法の規定では、団体名義の著作物に該当しますので、その保護期間は、「公表後30年」(旧法6条)を経過するまでの間存続することになりますが、その場合には、昭和60年末をもって既に消滅しているということになります。」(文化庁文化部著作権課内著作権法令研究会編「著作権Q&A」1989年、著作権資料協会発行、123頁、124頁、同趣旨のものとして、法貴次郎「著作権法案論評」1968年、東海大学出版会発行、82頁) 2 争点A(レコード会社による法人著作の成否及び著作名義)について 【控訴人総通の主張】 (1) 本件各契約が雇用契約であることについて ア 支配従属関係の基準 (ア) 労働基準法は、「この法律で労働者とは、職業の種類を問わず、事業所又は事務所・・・・に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。」と規定しており(9条)、雇用関係の判断基準は、労務提供者が事業所に使用されること及び労務提供者に賃金が支払われることの二点であるとしている。請負、委任など他人の労働力を利用する典型契約との区別において、この「支配従属関係」が決定的な基準となっているという意味において、支配従属関係の有無が重要となる。 雇用契約を他の契約と区別され得る特徴は、一定の時間(期間)、使用者が他人の労働力についての支配権を取得し、使用者の意図するところに従ってその時間内に他人を労務に従事させるという点であるのに対し、請負契約では、仕事が完成しさえすればよく、発注者はその過程を支配しない。 (イ) 「支配従属関係」の内容として、一般に、使用者の労働者に対する指揮監督があること、すなわち、@労務提供者が仕事依頼者に対する許諾の自由がなく、A業務の内容や遂行の仕方について指揮命令を受け、B勤務場所、時間が拘束される、との事情が存在すれば雇用関係とされている。 そして、この指揮監督の程度は、いかなる性質の労務かを問わず一律均等に要求されているものではなく、例えば、歩合制の営業マンなどのように、特定の能力を持つ者が、使用者から一般的指揮命令は受けるが、労務の遂行自体について具体的な指揮命令を受けることなく、労務提供者の裁量によって独立して労務を供給することがある。この場合に指揮監督がないというのではなく、一定の才能を前提とした労務の場合には、労働者を毎日同一時間、同一の場所で拘束するという方法が適さないため、雇用契約の目的に応じ、使用者が労働者の能力を最大限活用するために適した指揮監督の方法が採用されるのである。 実演家と契約を締結したレコード会社の場合も、その目的の範囲内で、実演家の能力を最大限発揮して、最上の演奏行為が提供されるような指揮監督の手段をとることになる。そこでは、通常の日々同一の出勤時間と退社時間が指定されるという形態はなく、会社が実演を必要とする日時を指定し、実演家がその日時に出演する義務を負うという形態によって指揮監督がなされる。 (ウ) 最判昭和51年5月26日民集30巻4号437頁(中部日本放送・CBC管弦楽団事件上告審判決)は、楽団員の出演契約について、「楽団員は、演奏という特殊な労務を提供する者であるため、必ずしも会社から日々一定の時間的拘束を受けるものではなく、出演に要する時間以外の時間は事実上その自由に委ねられているが、会社において必要とするときは随時その一方的に指定するところによって楽団員に出演を求めることができ、楽団員が原則としてこれに従うべき基本的関係がある以上、たとえ会社の都合によって現実の出演時間がいかに減少したとしても、楽団員の演奏労働力の処分につき会社が指揮命令の権能を有しないものということはできない」旨の理由を示して、楽団員が労働者であることを認めている。この判断は、外観上の自由度に関わらず、出演の発注という具体的な指示がなされると実演家がこれに従うべき義務を負っていること、すなわち、楽団員の演奏労働力の処分が会社の支配下に置かれ、会社の必要に応じて具体的な支配が実現される点で雇用契約たる本質を有することから、労働者であることを認めたものである。 イ 本件各契約における支配従属関係の存在 (ア) 本件各契約において、実演家は、写調のために歌唱する義務、音楽会等に出演する義務を負い、レコード会社は、実演家に対し毎月定額の専属料とレコード枚数及び出演回数に応じた金員を支払うこととされている。 本件で証拠として提出されている契約書(甲第8号証の1ないし3、第9号証の1、2、第10号証の1、甲第14号証の1、甲第17号証の1)は、いずれも、@実演家はレコード会社からの仕事の依頼について許諾の自由がないこと、A写調の目的、出演行為の如何を問わず、実演の内容や方法についてレコード会社の指揮命令を受けており、B実演の場所や実演時間につき拘束されることとなっている。 例えば、実演家を奈良光枝とする契約書(甲第8号証の1ないし3)についてみると、@実演家は、契約期間中は、レコード会社又はレコード会社の指定した者のためにのみ音盤類に写調し、あるいはレコード会社又はレコード会社の指定した者のためにのみ出演することが規定され(第4条)、実演家は、レコード会社の指定するもの以外の音楽会等で実演しようとするときは、その実演の日より前に必ずレコード会社の許諾を得ることを要するとされ(第11条)、A写調の結果がレコード会社において完全と認めるまでは、実演家は何回でも無償でこれを歌唱すること、実演家の歌唱を写調するか否か及び写調した音盤類を複製しこれを発売頒布するか否かはレコード会社に一任すること(第5条)、B実演家は、レコード会社の指定する楽曲をレコード会社の指定する日時、場所において音盤類に写調するために歌唱すること(第5条)とされている。 (イ) 上記(ア)の契約内容からすると、まずレコードの写調に関していえば、レコード会社が実演家の労働力に対する支配従属関係を有していたことは歴然としている。実演家は、自己の責任と計算においてレコードの製作を行うレコード会社の指揮に従って所定の時刻、場所に出向いて、レコード会社が了解することができる品質の録音ができるまで実演する義務を負っていた。 また、出演行為については、本件各契約が締結された当時の音楽業界の実態を見れば一層明らかとなる。すなわち、当時のレコード会社の売上げの中心は、レコードではなく「営業」すなわち「実演」のための演奏会等への出演業務からのものであり、実際上は実演家がレコード会社の承諾なしに他社に出演することができる機会はなく、現代のプロダクションと多くのタレントの場合と同様に、レコード会社と実演家の関係は雇用関係そのものであった。 (ウ) 原判決の不当性 原判決は、当時の実演家の出演行為について、「むしろ、実演家が音楽会等を第一次的に決めることを前提とし、レコード会社に許否の権限を認めているにすぎない」と解して、レコードの写調の場合との差異を見い出しているが、仮に原判決のように契約書の条文の論理から原則と例外を読み分けるとしても、結果として会社の意思にかかっていたことは明らかであり、これを看過してはならない。 また、原判決は、「契約には、実演家がレコード会社の単なる従業員とは異なることを前提とする規定がおかれている」として、「実演家が、歌唱に関する著作権をレコード会社に譲渡し、その登録について必要な書類をレコード会社に交付することが定められている」こと、「右契約には、レコード会社が実演家に支払う金銭に関し、定額の専属料の他、レコードの発行枚数等に応じた印税相当額を支払うものとされている」点を掲げている。 しかし、実演家の著作権登録への協力義務については、万一法人著作か否かが争われたときの備えとして予備的に規定したものであり、このことは、法人著作のみならず共同著作等においても広く行われる法的技術の一つである。 また、印税相当額の支払についは、レコード会社が使用者として支払ったといえるか否かという問題であって、歩合制の金銭の支払形態が採られていても、使用者と労働者の雇用関係の認定に影響し得ない。 (3) 法人著作名義による公表 丙第1号証は、レコード盤を入れたジャケットにレコード会社の名が一段と大きく記載され、一歌手の一楽曲のレコードでありながら、他の歌手の肖像も表記されており、そこに記された歌手は、歌唱の著作者として表記されているのではなく、単に歌手の特定ないしレコード会社内の部門として特定されているにすぎず、レコード会社の表記こそが著作者表記の意味を有するものであることを示している。 【控訴人エー・アール・シーらの主張】 (1) 原判決の理由の誤り ア 原判決は、「実演家は、レコード会社との関係において、雇用関係又はこれに準じるような関係にあるとは認められず、現行法15条の法人著作成立のための要件である「法人等の業務に従事する者」に該当しない」旨と判示し、その理由として、「レコード会社による実演家に対する歌唱の制限は「実演家の歌唱の写調をレコード会社に独占させるために加えられたものということができ、それ以上に、勤務時間、勤務場所等の指定に当たるような制限が加えられていたと認めるに足りる証拠はない」と説示している。 しかし、法人著作の要件の「法人等の業務に従事する者」とは、一般的には著作物作成者がその著作行為において会社との間に「支配従属の関係」にある従業者であるといわれているところ、旧法下での実演家とレコード会社との関係の実態は、以下のとおりである。 レコード会社の専属制度が重視され、確立したのは昭和初期以降であり、レコード会社は、自社独自の企画をもってレコードを制作販売するために、専属制度は不可欠なものであった。すなわち、当時のレコード会社は、実演家のみならず、作詞家、作曲家、楽団等も全て専属スタッフとして丸抱えしており、レコード会社がどのような曲が売れるのかを研究した上で、作詞家、作曲家に曲を作らせ、さらに、その曲に合った実演家を選んで録音し、売り出すという方法が一般的であった。この方法は、作詞家、作曲家、演奏家等の自由を拘束するというおそれがある反面、レコード会社にとっては、独自の企画で他社と異なったカラーのレコードを自らのイニシアチブで発売することができるというメリットがあり、また、作詞家等にとっても、専属料等により、生活が安定して十分に才能が発揮し得るというメリットもあった。しかも、当時のレコード会社の営業は、単にレコードを販売することだけではなく、演奏家の公演の企画等も行い、現在の芸能プロダクションのような役割を持っていた。 このように、当時のレコード会社は、レコード制作において圧倒的な地位を占めており、実演家の歌唱の写調の独占以外にも、出演する音楽会の指定等、実演家に対する広範な指揮権限を有していたのである(乙第6号証ないし第12号証参照)。 また、レコード会社と実演家との間の契約上、実演家に対する勤務時間、勤務場所等の指定に当たるような制限が加えられていないことは、歩合制の営業職や楽団員が労働者とされていることからも明らかなように、「支配従属関係」の本質的要素ではない。 イ 原判決は、本件各契約によると、実演家がレコード会社の指定するもの以外の演奏会に出演することができない事態もあり得るが、この制限は「実演家が出演しようとする音楽会等を第一次的に決めることを前提とし、レコード会社に拒否の権限を定めているにすぎない」旨説示している。 しかし、演奏家は、事実上レコード会社の意のままに演奏会等に出演するほかなかったというのが実態である。また、レコード会社に拒否の権限があるということが、「支配従属関係」の本質ともいえ、他社の音楽会に出演することをレコード会社によって拒否されることがあり得るということは、演奏家の活動がレコード会社によって支配されていることにほかならない。 ウ 原判決は、本件各契約には、「実演家がレコード会社の単なる従業員とは異なることを前提とする規定が置かれている」と指摘し、その例として、レコード会社が演奏家に対して定額の専属料の他にレコードの発行枚数等に応じた印税相当額を支払うものとされていることを挙げている。 しかし、賃金の支払方法は、雇用契約によって様々であり、毎月一定額を支払うことが雇用契約の本質ではない。場合によっては、労働者の働きによって被用者にもたらされた利益に応じて労働者に特別の賃金を支払うということもあり得る。例えば、仮に、従業員が発明した特許について、会社が実施許諾料の一部を特別の賃金として支払ったとしても、その従業員が労働者たり得ないわけではない。 また、当時、実演家とレコード会社との間で締結された専属契約に基づき、レコード会社から実演家に支払われる金員には、@専属料として、吹き込みをしなくても契約に基づき月額で支給されるもの、A吹込料として、吹き込み1曲ごとに支給されるもの、B印税として、レコードの売上枚数に応じて支給されるもの、があった。このうち、専属契約に基づき必ず支給されるものは@専属料とA吹込料であり、B印税は人気のある有名歌手でないと支給されておらず、当時の専属契約に本質的なものは、@専属料及びA吹込料であって、B印税は相当に人気がある実演家についてだけ特別に設定されていたものであるから本質的なものではなく、本件各契約に、印税相当額の支払が規定されていることをもって直ちに雇用契約でないとはいえない。また、そもそも、当時の専属契約における専属料や吹込料等は、演奏家に対する生活の保障という意味合いが強く、それは、まさに雇用契約に基づく賃金又はそれに準ずる性格を有する。 エ 以上のとおり、原判決が指摘する理由は、いずれもレコード会社と演奏家との間の「支配従属関係」を否定する根拠とはなり得ないものであり、むしろ、本件各契約において演奏家に課せられた広範な制限からすると、レコード会社と演奏家との関係はまさに「支配従属関係」と認められ、「雇用ないしはそれに準ずる関係」に他ならない。 よって、本件実演家は、本件レコード会社の「法人等の業務に従事する者」に該当する。 (2) 旧法6条の団体著作の成立について ア 本件で被控訴人らが主張している本件実演家が本件実演により取得したと主張する著作権は、旧法6条の「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行」したものであり、同条の適用によって公表後30年の経過により消滅したものである。 原判決は、「本件実演に関するレコードは、右実演家が本件実演の著作者であることを明示して発行されたものというべきである」旨判示するが、次のとおり、原判決は、旧法6条の解釈、適用を誤ったものである。 イ 旧法においても、法人に著作権が成立することは一般的に認められていたが、旧法には、法人に著作権が帰属するか否かを直接規定した条文がなく、旧法6条も、直接には著作権の帰属を規定しておらず、「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行」した場合の著作権の存続期間を規定した条文である。すなわち、旧法6条は、団体に原始的に著作権が帰属するか否かという法人著作の問題とは別に、「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行」された場合には、その存続期間は発行より30年間となるということを規定したものである。 そこで、どのような場合に旧法6条の団体著作といえるかは、法人による著作行為が認められるかという議論、さらには現行法15条に規定される法人著作の問題とは別問題であり、どのような場合に「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行又ハ興行」したのかということが解釈上決められることになる。 このような観点からみると、一般的には、@団体の職員が職務に関して自然的に又は命を受けてした著作物を団体の著作名義とする場合、A団体が団体外の第三者に嘱託して著作させたものを団体の著作名義とする場合、B 団体内部において研究、調査又は討議をしている間にいつの間にか著作物ができあがったという場合、が考えられ、このように、「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行」した場合には、団体に原始的に著作権が帰属する場合が含まれることはもちろん、団体が団体外の第三者に委託して著作させたものを、その団体が著作者たる第三者から著作権を承継して、団体名義として公表する場合も含まれると考えられる。 ウ 控訴人エー・アール・シーらは、本件実演に係る著作権は、法人すなわちレコード会社に原始的に帰属すると主張するが、仮に本件実演に係る著作権が本件実演家に帰属したとしても、次のとおり、本件レコードは、「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行」されたものであることは、明らかであると考える。 (ア) 本件実演が行われた1930年代から1940年代ころには、通常、実演家とレコード会社との間で専属契約が締結されていたが、前記のとおり当時のレコード会社は、実演家のみならず、作曲家、作詞家、楽団等も全て自社の専属スタッフとして抱えて自社の企画に基づき、それらのスタッフを指揮監督して、レコード製作をしていた。 この状況は、まさに上記イのAの「団体が団体外の第三者に嘱託して著作せしめたものを団体の著作名義とする場合」に当たる。このように、当時のレコードは、レコード会社の主導の下でレコード会社が著作名義となって公表されたものであって、したがって、旧法6条の団体著作が発生しているものと解釈すべきである。 (イ) また、本件各契約に基づき製作されたレコード盤の中央のレーベル部分には、現在のレコード盤やコンパクトディスク盤と異なり、レコード会社名が大きく記載されており、中にはレーベル部分の約半分がレコード会社の表示となっているものが多く存在している。このことは、まさに本件レコードが、レコード会社の名義をもって公表されたことに他ならない。 もっとも、本件レコードのレーベル部分には、レコード会社の表示の他に歌唱者名、作詞家名、作曲者名、演奏した楽団名等も記載されているものがある。しかしながら、これらの表示は、レコード会社の表示に比べて明らかに小さな文字で記載されており(乙第14号証の1ないし3)、著作名義を表示したものとは解することができない。これらの歌唱者名、作詞家名、作曲者名、演奏した楽団名等の表示は、収録されている楽曲の説明にすぎない。そして、このように楽曲の説明であるからこそ、これらの表示はレコード販売の営業上の必要性に応じて、その表示の仕方も様々となっており、知名度の高い歌唱者や作詞家、作曲家、楽団の場合には、名前の表示を若干大きくしたり、逆に、知名度がなく営業上の価値がないと判断されれば、歌唱者等の名前が表示されないこともあった。これに対して、レコード会社名がレーベル部分に表示されないことは絶対にないのである。 【被控訴人らの主張】 (1)ア 控訴人総通は、旧法時代でのレコード会社と実演家との契約関係は雇用関係であると主張するが、本件実演家とレコード会社との本件各契約は、請負契約であり、上記主張は誤りである。 イ 契約の目的 請負契約と雇用契約の違いは、前者が仕事の完成を契約の目的とするのに対して、後者は労務そのものを契約の目的とする点にある。判例も、請負契約と雇用契約の違いを仕事の完成を目的とするか労務の提供自体を目的とするかに置いており、それを判断するのに当たって、何について義務であり、指揮命令を受けるのか、また何についての報酬かを検討している(最判昭和51年5月6日民集30巻4号437頁(中部日本放送・CBC管弦楽団事件上告審判決)。 本件各契約の目的は、実演家が歌唱という労務を提供すること自体にはなく、レコード会社が求める一定水準以上の歌唱の吹込の完成を契約の目的としている。すなわち、レコーディングの結果をレコード会社が完全なものと認めるまでは、各実演家は、何回でも無償で歌唱を行う義務があるのである(甲第8号証の1第5条第3文、同号証の2第5条第3文、同号証の3第2条第3文、甲第9号証の1第4条第3文、同号証の2第2条第3文、甲第10号証の1第3条第3文、甲第14号証の1第5条、甲第17号証の1第6条)。 また、本件各契約の目的が単に各実演家が歌唱という労務を提供すること自体にはないことは、対価の点からも明らかである。後記のとおり、実演家の歌唱行為の回数や歌唱行為の時間に対応して報酬が決められているわけではなく、完成した仕事に対して印税という報酬を受ける関係にある。 ウ 雇用契約上の指揮命令権 (ア) 控訴人総通は、請負契約と雇用契約の区別基準を「支配従属関係」のみに求めているが、理由がない。上記のとおり、請負契約と雇用契約の根本的な差異は、前者が仕事の完成を契約の目的とするのに対し、後者が労務そのものを契約の目的とする点にある。 被控訴人らも、雇用契約において雇用者が指揮命令権を有することを否定するものではないが、請負契約においても注文者は指図権を有している。そして、この指揮命令権と指図権の差異も、結局は雇用契約と請負契約の契約目的の差異から導かれるものであるから、雇用契約と請負契約の契約目的の差異を無視しては労務契約の指揮命令権の内容を正しく把握することができない。 すなわち、雇用契約は労務に服することを内容とするものであるから(民法623条)、使用者の指揮命令権は雇用契約の特徴である。しかし、請負契約においても、注文者は仕事のやり方に対して「指図」する権限を有しているる。 したがって、本件各契約の解釈においても、使用者の指揮命令権か、注文者の指図権かを区別して検討する必要がある。 (イ) 本件各契約は、契約期間中における実演家の歌唱の写調に対する独占を目的としているにとどまり(例示として、甲第8号証の1第4条)、歌唱の写調以外の実演行為を独占することを目的とするものではない。歌唱の写調以外の名目で行われる実演行為(演奏会、音楽会、放送、映画における歌唱)であっても、その写調が行われ歌唱写調に対する独占権が侵害されるおそれがあるので、レコード会社から事前承認を取得すべき義務を負わせているにとどまる(甲第8号証の1第11条)。また、歌唱の曲、日時及び場所を指定する権限をレコード会社が持っているのも(甲第8号証の1第5条)、雇用契約の特徴である指揮命令権ではなく、特約に基づく請負契約上の注文者の指図権にすぎない。むしろ、仕事の完成それ自体、すなわち歌唱の仕方それ自体は、各実演家の個性・技能に基づく裁量に委ねられていたのである。 また、控訴人総通は、本件各契約の条項に関して、本件各実演家とレコード会社の間に「支配従属関係」が存在する旨主張し、その理由として実演家にはレコード会社からの仕事について許諾の自由がないことを挙げているが、「実演家の歌唱の写調の独占」に伴う付随的制限の問題であって、「支配従属関係」の有無とは次元が異なるものである。 (ウ) 控訴人総通は、本件各契約における実演家に対する制限が使用者の指揮命令権に当たる旨の主張の根拠として、上記最判昭和51年5月6日を引用しているが、この判決は、「楽団員は、いわゆる有名芸術家とは異なり、演出についてなんら裁量を与えられていないのであるから、その出演報酬は、演奏によってもたらされる芸術的価値を評価したものというよりは、むしろ、演奏という労務の提供それ自体の対価であるとみるのが相当であ(る)」と判示しているところ、「美空ひばり」、「東海林太郎」、「ディック・ミネ」等の本件各実演家が「有名芸術家」に該当することは明らかである。 したがって、右最高裁判決を根拠として、本件各契約における実演家に対する制限を使用者の指揮命令権であるとする控訴人総通の主張には、理由がない。 エ 対価の性質 雇用契約は労務の提供自体を目的とするので、対価は労務の提供自体に対してなされるのに対して、請負契約は仕事の完成を目的とするので、対価は労務提供の成果たる仕事に対してなされる。 本件各契約の目的が単に各実演家が歌唱という労務を提供すること自体にはないことは、対価の点からも明らかである。すなわち、本件各契約では、実演家の歌唱行為の回数や歌唱行為の時間に対応して報酬が決められているわけではない。実演家には印税が報酬として支払われるが、歌唱という労務を提供すること自体と対価関係にあるのではなく、歌唱の吹き込みという仕事の完成に対して与えられるものである(甲第8号証の1第9条)。この印税が支払われるためには、レコード会社が実演の録音を完全なものと認めた上で、それを収録したレコードを発売する決定を下さなければならないのであって、レコード会社が満足する作品が完成しなければ報酬は支払われないのである。 この点について、控訴人総通は印税制は歩合給と同じである旨主張するが、印税は、専属契約が終了した後もレコードの売上げに対して支払われるのであり、実際に被控訴人らは本件各実演家又はその遺族に対して現在も印税を支払い続けている。このように本件各契約における印税は、雇用契約上の歩合給(役務提供の対価)とは全く性質が異なるのであって、控訴人総通の上記主張には理由がない。 なお、実演家には、印税の他に「専属料」が支払われることがあるが、これは他のレコード会社のために行う歌唱の吹込を制限することに対する対価であって、労務提供の対価ないし仕事の完成に対する対価ではない。 (2) 控訴人総通は、その主張の根拠として、本件実演がされた当時、レコード会社は今日のプロダクションの役割を果たしていたものであり、レコード会社と実演家の関係は雇用契約である旨主張している。 しかし、「現在のプロダクションと実演家との契約関係」に関する証拠は何ら示されていない。また、本件実演がされた当時、有力な実演家は、毎年契約を更改して、専属レコード会社を転々としていたことからも、実演家のレコード会社に対する独立的性格は明らかである(例えば、東海林太郎は、被控訴人キングの専属であった時期もあれば(甲第13号証の1)、被控訴人ポリドールの専属であった時期もある(甲第18号証の1)。 したがって、控訴人総通の上記主張には理由がない。 (3) 法人著作の法人名義の要件について、原判決は、「本件実演に関するレコードは、右の各実演家が本件実演の著作者であることを明示して発行された」旨判示したのに対して、控訴人総通は、レコードのレーベルの上のレコード会社の表示態様を問題としている。 しかしながら、そもそも表示の大小は、職務著作の要件として要求されていないのであって、控訴人総通の上記主張は失当である。 また、控訴人総通は、レコードのレーベルには、歌手名の他に楽団名が表記されることを根拠に原判決を批判している。 しかし、そこに表示される「日本ポリドール管弦楽団オーケストラ」等の表示は、「日本ポリドール法務部」と同様に、「日本ポリドール」を主体とする旧法の団体名義の表示(旧法6条)であり、したがって、控訴人総通の主張は、明らかに誤りである。 (4) 控訴人エー・アール・シーらは、本件実演がされた当時、レコード会社から実演家へ支払われていた金員のうち、印税は必ず支払われるものではなく専属契約の本質的要素ではなかった旨主張している。 しかし、当時は、印税は必ず支払われていたのに対して、吹込料は必ずしも支払われておらず(甲第8号証の1第9条第2文、甲第8号証の2第9条第3文、甲第8号証の3第6条、甲第9号証の1第7条第3文、甲第9号証の2第6条第3文、甲第10号証の1第6条、甲第14号証の1第7条、甲第18号証の1第4条)、控訴人エー・アール・シーら提出の乙第10号証の424頁に記載のとおり「当時は印税だけで生活していた。だからヒットすればよいが、そうでないときには吹き込みの回数すら限られてくる。当然収入は減少し、生活難に見舞われる。」という状況にあり、実演家の収入の柱は印税であったものであり、控訴人エー・アール・シーらの上記主張は失当である。 (5) 控訴人エー・アール・シーらは、旧法6条による団体著作の成立について、乙第14号証の1ないし3のレコード盤のジャケットの表示を引用して、本件レコードがレコード会社の名義をもって公表されたものであることは明らかである旨主張している。 しかし、同号証に明らかなとおり、レコード盤のレーベルには、実演家の名義が明記されているのであって、当該実演について実演家の名義をもって公表していることは明らかであるから、控訴人エー・アール・シーらの上記主張は、失当である。 3 争点B(法114条2項の使用料相当額の算定方法等)について 【控訴人エー・アール・シーらの主張】 (1) 本件のように、法113条1項1号違反に基づく損害賠償請求における使用料相当額(同法114条2項)の算定は、以下に記載する理由により、権利侵害物(本件輸入レコード)の輸入数量ではなく、輸入数量から廃棄分を控除した数量(販売数量)に基づいて算定すべきである。 (2) 法113条1項1号の趣旨 輸入行為を著作権又は著作隣接権の侵害行為とみなすことを定めた法113条1項1号の規定は、外国における複製物の日本への輸入を差し止めることを可能にするために設けられた規定にすぎない(田村善之「著作権法概説」117頁、加戸・前掲書556頁)。すなわち、同号は、これに該当する場合にその輸入につき差止請求に服させるほか、関税定率法21条1項5号にいう輸入禁制品として税関の水際措置の対象とし、さらに通関後もその国内での頒布行為を、法113条1項2号の規律に服させるために、その前提として外国における複製物の日本への輸入を「著作権・・・又は著作隣接権を侵害する行為とみなす」ことにしたにすぎず、単に輸入されただけで、未だ市場に流出する前の段階でも、直ちに「損害が発生したものとみなす」規定ではない。 著作権侵害や特許権侵害の場合であっても、その損害賠償請求については、民法709条が基本的な根拠規定となることはいうまでもなく、損害賠償請求が認められるためには、「権利侵害」のみならず、「損害の発生」及び「侵害と損害との相当因果関係」の存在を必要とする。 本件で問題となる法114条2項の使用料相当額の算定基準について、これと同様の規定である特許法102条3項について、まず検討する。 (3) 特許法における実施料相当額の算定の基準 特許権侵害における損害賠償の基本的な根拠規定も民法709条であり、特許権侵害によって権利者の被った逸失利益が賠償の対象となるというのが本則である。特許権者が侵害者に対して実施料相当額の賠償を請求することができる旨を規定した特許法102条3項について、一般的に、特許権者の権利不実施等のために逸失利益の賠償や同法102条1、2項の侵害利益額の推定が認められない場合にも、3項による相当な対価の額の賠償が認められるといわれている。 しかし、同項による実施料相当額の賠償制度は、次の理由に基づくものと考えられる。すなわち、侵害行為は、それによって「特許発明に対する市場の需要を満足することで、特許権者の市場の排他的な利用機会を剥奪しており、このままの状態では、特許権者が自己の選択した利用形態により利益の環流を図る特許法の用意したシステムが機能しない」ため、あくまでも「特許権者が喪失した市場の排他的な利用機会につき常に相当な対価を損害賠償として特許権者に与えることで、特許制度の機能の維持を図った」ものである(田村善之「知的財産法」263頁、264頁)。いいかえれば、同項は、「特許法の制度を維持するための規範的な損害を定めるものである」から(田村・同書264頁)、権利者が必ずしも権利を実施している必要はないが、少なくとも侵害によって権利者が市場の排他的な利用機会を喪失していること(規範的損害概念)を前提とするのであり、そうでない限り同項による相当な対価の額の賠償を得ることはできない。このように、同項は、損害の発生しない場合にまで、損害賠償を認めるものではない。 しかるところ、権利侵害物が製造されても市場に流出しないまま、判決により強制的に廃棄されてしまえば、市場の需要を満足することで権利者の市場の排他的な利用機会を剥奪することもあり得ないのだから、この場合には製造数量から廃棄分を控除した数量(販売数量)を基礎として賠償額を算定すべき筋合いになる。そして、このことは、著作権法においても異なるところがない。 なお、被控訴人らは、輸入された権利侵害物が市場に流出しないまま廃棄されてしまう場合にも、輸入数量に基づいて法113条1項違反による使用料相当額の賠償額を算定すべきだという自己の主張を裏付けるために、特許権侵害事件の富山地判昭和45年9月7日無体集2巻2号414頁が製造数量を基礎として特許権侵害による実施料相当額の損害賠償を認めていることを引用するが、この判例は、権利侵害物の廃棄請求を伴っておらず、製造数量全部について権利者が市場の排他的な利用機会を喪失した事案だから、製造数量を基礎として賠償額を算定したにすぎない。 (4) 法114条2項の使用料相当額の算定の基準 ア 前記のとおり、法113条1項1号は、単に輸入されただけで未だ市場流出前の段階でも、直ちに「損害が発生したものとみなす」規定ではなく、著作権法においても、損害賠償請求に関しては民法709条が基本的な根拠規定となるから、賠償請求が認められるためには「損害の発生」という要件の存在が不可欠である。ただ、侵害者の得た利益の額の算定が困難な場合には、法113条1項の規定を援用することができず、この場合に権利者にその損害「額」を立証させることにしたのでは十分な救済を得させることができない。そこで、「損害の発生」が存在する場合において、権利者救済のため、権利者側に損害「額」の立証の手間を省かせ、最低限の損害賠償額を確保させることにしたのが、法114条2項の規定である。同項は、「侵害行為が行われた場合に、法の趣旨を貫徹するために、市場機会の利用可能性の侵奪をもって損害と観念し(規範的損害概念の設定)、市場機会の著作権者にとっての利用価値を賠償額とする規定である」(田村・前掲書277頁)。 このように、同項は、損害賠償「額」を法定した規定であるが、特許法102条3項と同様にあくまでも権利者が市場の排他的な利用機会を喪失していること(規範的損害概念)を前提とするのであり、損害発生がない限り、その対価としての相当な額の賠償を与えない趣旨の規定である。 以上の点は、最判平成9年3月11日民集51巻3号1055頁「小僧寿司事件」が、法114条2項と同様に、使用料相当額の賠償を規定した商標法旧38条2項に関して、「右規定によれば、商標権者は、損害の発生について主張立証する必要はなく、権利侵害の事実と通常受けるべき金銭の額を主張立証すれば足りるものであるが、侵害者は、損害の発生があり得ないことを抗弁として主張立証して、損害賠償の責めを免れることができるものと解するのが相当である。けだし、商標法38条2項は、同条1項とともに、不法行為に基づく損害賠償請求において損害に関する被害者の主張立証責任を軽減する趣旨の規定であって、損害の発生していないことが明らかな場合にまで侵害者に損害賠償義務があるとすることは、不法行為法の基本的枠組みを超えるものというほかなく、同条2項の解釈として採り得ないからである」と判示している。すなわち、使用料相当額の賠償といえども懲罰金ではなく、あくまでも不法行為に基づく損害の賠償なのであり、侵害行為なかりせば得べかりし利益以上の利益を得させることを許容してはいない。 被控訴人ら権利者が違法な複製物(権利侵害物)とみなされる海外製造のレコードの輸入を許諾していたとしたならば得たであろう使用料とは、この許諾の結果、権利者が輸入物の販売を甘受しなければならなくなって、市場の排他的な利用機会を喪失することの対価の意味を持つ。これに対し、権利侵害物が輸入されても市場に出ないまま判決により強制的に廃棄される場合には、その部分について権利者が市場の排他的な利用機会を喪失することはない。それにもかかわらず、輸入者に対して権利侵害物の廃棄と共にその使用料相当額の賠償をも命ずることは、本来侵害がなければ権利者が有した利益(市場の排他的な利用機会の喪失の対価として使用料を取得する)以上の利益(市場の排他的な利用機会の喪失がないにもかかわらず使用料相当額の取得)を権利者に得させるものであり、上記最判のいう「不法行為法の基本的枠組み」を逸脱することになる。 以上によれば、権利侵害物が輸入されても市場に流出しないまま強制的に廃棄される分については、権利者が市場の排他的な利用機会を喪失することはあり得ないのだから、この場合、輸入数量ではなく、そのうちから廃棄分を控除した数量(販売数量)だけを基礎として賠償額を算定すべきであると解されることは明白である。 イ 被控訴人らは、本件輸入行為が行われた時点では、実演家の権利として、レコードの輸入に対して許諾することはできたが、販売に対して許諾権はなかったから、本件においても頒布権侵害に基づく損害賠償は成立し得ない旨主張している。 しかし、実演家が外国で複製されたレコードの輸入に際して許諾を与える場合には、当然に複製物が市場に出回ること(輸入後の国内販売)までをも含めて許諾するのであり、実演家は国内販売に伴う市場の排他的な利用機会喪失の代償として使用料(許諾の利益)を取得するのである。逆にいえば、無断で輸入されても市場に出ないまま強制的に廃棄される分については、許諾の利益(市場の排他的な利用機会)が害されないため、およそ損害賠償(許諾の利益喪失の対価)の対象となり得る余地がないのであり、輸入数量から廃棄される分を控除した数量(販売数量)を基礎として損害額を算定すべきである。 また、被控訴人らは、著作物を適法に輸入する際、権利者の許諾を得るために支払われる使用料の額は当然輸入数量を基礎として算定されるから、権利侵害物を輸入した場合の使用料相当額も輸入数量に基づいて算定すべきだと主張する。 しかし、輸入許諾の際に支払われる使用料は、輸入後の国内販売までをも含めて許諾することの対価であり、輸入数量全部について販売を許諾されるのだから、結局、販売数量を基礎として使用料額を算定していることに他ならない。 ウ 被控訴人ら引用の裁判例について (ア) 東京地判昭和49年11月25日著作権研究7号54頁が発行部数を基礎に使用料相当額の賠償額を算出したのは、権利侵害物の廃棄請求を伴っておらず、発行部数全部について市場の排他的な利用機会を喪失して損害を被ったことを前提とする事案であるためにすぎない。むしろ、権利侵害物の廃棄と共に損害賠償を命じた裁判例である東京地判平成元年10月6日判時1323号140頁では、「著作権の行使につき通常受けるべき金銭の額」について「実際の販売部数」に基づいて算出されている。 (イ) 東京高判平成4年7月1日(原審東京地判平成3年9月27日最新著作権関係判例集]506頁)は、ビデオテープ店において、権利侵害物である映画ビデオを貸与等するために展示し、顧客に貸与したり、顧客の注文に応じてダビング料を徴収してビデオテープにダビングしたり、新たに複製した無断複製ビデオテープを顧客に販売していた事案である。この事案では、店舗に権利侵害物を展示等することは、権利侵害物を市場に出すことであり、その結果、権利者は市場の排他的な利用機会を喪失し、損害を被ったことになり、このように「損害」が存在する以上、上記判決が法114条2項を適用して複製についての使用料相当額を認定したのは当然である。 (ウ) 福岡地判平成6年7月26日の事案では、被告らが現実に複製ビデオをレンタルした回数をもって損害(権利者の市場利益の喪失)を基礎付けるべきだと主張したのに対し、判決は、レンタルビデオ店の「店舗内に無許諾複製物が存在すれば、それらはまさに賃貸ないし販売され得る状態にある」(すなわち権利侵害物が市場に流出している。)のであるから、「それにより原告らの頒布権は侵害されたとみるのが相当である」として、被告らは、ビデオの複製行為により原告らから「真正品の供給を受けるに等しい経済的利益を享受しうる地位」を獲得することができたものとして、その対価に相当する金額が「通常受けるべき金銭の額」に当たると判断したものである。 この判決の立場からすれば、輸入されても倉庫に眠ったまま強制的に廃棄させられる(権利侵害物が市場に出されない)場合には、いかなる意味でも「賃貸ないし販売され得る状態にある」とはいえず、輸入者は、輸入行為によって権利者から「真正品の供給を受けるに等しい経済的利益を享受しうる地位」を獲得することができなかったものであるから、廃棄分の対価に相当する金額については「受けるべき金銭の額」から控除すべきことになる。 (エ) 他に、使用料相当の賠償額が権利侵害物の販売数量に関係なく算定された事案として、被控訴人らが引用する裁判例のうち、東京地判昭和36年10月25日下級民集12巻10号2583頁、東京地判昭和60年10月30日無体集17巻3号520頁及び東京地判昭和61年6月20日判タ637号209頁は、いずれも侵害物品の廃棄命令を伴っておらず、事案を異にしている。 他方、唯一廃棄(絵画印刷用原版及び書籍中絵画複製物掲載部分の廃棄)命令を伴う事案である東京高判昭和60年10月17日無体集17巻3号462頁は、次の(5)アに記載のとおり、定額使用料相当の賠償金を課した事案のものであり、しかもその金額算定に当たって発行部数が明らかになっていたにもかかわらず、販売部数を斟酌して算定している。 (5) 被控訴人らの反論について ア 被控訴人らは、法114条2項に基づく賠償額の算定に当たり、権利者が第三者に許諾するに際して定額制の使用料を採用している場合には、販売数量に応じて使用料相当賠償額を算定することが理論的に不可能であるが、権利者が定率の使用料を用いている場合にも、定額制の場合に比べて不利に扱われる理由はないから、同様に販売数量を考慮すべきでない旨主張している。 しかし、控訴人エー・アール・シーらが主張しているのは、輸入数量のうち市場に出ないまま強制的に廃棄されて損害を生じさせない分の数量を賠償額の対象から控除すべきだというものであり、その結果、仮に被控訴人らの主張するように、定額制の場合には廃棄分を控除した残余数量に対する賠償額が廃棄分を控除する前の全体数量に対する賠償額と変わらずに賠償額が同じになるのに対し、定率制の場合に廃棄分を控除した残余数量に対する損害の賠償額が廃棄分を控除する前の全体数量に対する賠償額よりも小さくなるとしても、それ自体は何ら不合理なことではない。なぜならば、両者の差異は、もともと定額制、定率制という「受けるべき使用料」の決め方に本来的に内在する差異に起因するにすぎないからである。 しかも、この点について、被控訴人らが引用する前記東京高判昭和60年10月17日は、定額使用料相当の賠償金の算定に当たり、販売部数を斟酌して算定したのであって、定額制の場合ですら販売数量を考慮することが必ずしも不可能ではないのである。いずれにせよ、本件は、被控訴人らは定率の使用料による賠償を請求しているのであるから、その場合に「数量」が賠償額算定に反映するのは当然である。 イ 社団法人日本著作権協会の扱いについて 被控訴人らは、社団法人日本著作権協会(以下「JASRAC」という。)に対するレコードの著作権使用料がレコード販売枚数ではなく製造枚数によって算定され、仮に在庫が残っても使用料の返還が行われないことを指摘している。 しかし、この場合にはレコードが廃棄されず、権利者に市場の排他的な利用機会喪失の対価を得させる必要があるため、このような扱いがなされているのであり、判決によって強制的にレコードが廃棄され、権利者に市場の排他的な利用機会の喪失をもたらさなくなるような場合にまで、その対価としての使用料相当額の賠償を与えるべきいわれはない。 また、被控訴人らは、音楽業界における使用料は、通常、製造枚数によって算定されるから、使用料相当額による賠償額の算定に当たり、レコードの販売数量は無関係だとも主張している。 しかし、製造者が製造枚数に基づいて算定した使用料を権利者に支払う場合には、当然その全量を市場に出荷することができるため、権利者の市場利用機会の可能性が失われるのに対して、輸入されても市場に出ることのないまま、判決によって強制的に廃棄される場合には、廃棄分については、いかなる意味でも権利者に損害を生じる余地がなく、「損害」自体がそもそも存在しないのだから、賠償額の算定に当たっては、権利侵害物の輸入数量のうち廃棄分を控除した数量(販売数量)に基づいて算定すべきである。 ウ 被控訴人らは、輸入者が輸入許諾を受ける場合は輸入数量に応じた許諾料を請求されるのに、控訴人エー・アール・シーらの理論によれば無断で輸入した者の支払うべき額が輸入許諾を受けた者の支払うべき額よりも少額でよいことになって不合理だと主張するが、輸入者が輸入許諾を受ける場合はその分権利者が市場の排他的な利用機会を喪失し、そのことの対価として許諾料が支払われるのに対し、判決で強制的に著作物が廃棄される場合には権利者に市場の排他的な利用機会の喪失をきたさないのにもかかわらず、廃棄される分についてまで権利者に使用料相当額を得させることこそ、権利者に不当利得を得させるものとして、公平に反するものといわなければならない。 (6) 損害賠償請求と廃棄請求との関係 ア 被控訴人らは、輸入侵害物が廃棄されても、得べかりし使用料相当額の損害が回復されるわけではないから、権利侵害物の廃棄と使用料相当額の賠償は両立する旨主張している。 しかし、使用料相当額の賠償といえども懲罰金ではなく、あくまでも不法行為に基づく損害の賠償であり、その損害とは、「現実の財産状態と仮定的財産状態との差」であって、不法行為法では、権利者にこの意味での損害を回復させ侵害行為なかりせば得べかりし利益を取得させることを目的としており、それ以上の利益を得させることは許容していない。本来、権利者が輸入を許諾する場合には、その結果輸入物の販売をも甘受しなければならなくなるため、市場の排他的な利用機会を喪失し、その対価として使用料を取得する。これに対し、権利侵害物が輸入されても市場に出ないまま強制的に廃棄される場合には、権利者はその部分について市場の排他的な利用機会を喪失することがなく、そもそも使用料相当額の賠償の対象たるべき「損害」が存在しない。それにもかかわらず、輸入者に対して輸入侵害物の廃棄と共にその使用料相当額の賠償をも命ずるならば、本来侵害がなければ権利者が有した利益以上のものを権利者に得させることになる。したがって、この場合、輸入数量から廃棄分を控除した数量(販売数量)だけを基礎として使用料相当額を算出するのが当然である。 以上のとおり、本件輸入レコードの在庫分の廃棄と、この廃棄分を含んだ輸入数量全部に基づく使用料相当額の損害賠償とは、両立し得ないものであるから、権利者は、使用料相当額の損害賠償を取得するのであれば、その反面で市場の排他的な利用機会喪失を甘受して輸入者にその分の販売を許諾すべきだし、他方、輸入者に本件輸入レコードの在庫分を廃棄させるのであれば、廃棄分については、市場の排他的な利用機会喪失に対応する使用料相当額の損害賠償を取得し得ないというべきである。 なお、被控訴人らは、レコード原盤の実務において、使用料を複製枚数に基づいて算定しつつ、契約終了後一定期間経過後は、在庫レコードの販売を認めない例があること(甲33号証「原盤使用許諾契約書」)を根拠とし、これを一般化して、著作権侵害の不法行為についても、輸入枚数に基づいて使用料相当額の損害賠償を算定しつつ、在庫レコードの廃棄をも認めるべきだと主張するが、仮にそのような実務例があるとしても、契約の拘束力が及ばない第三者に対する不法行為の損害賠償請求の解釈に当たり、当該契約例を斟酌し得るものではない。 イ 被控訴人らが引用する裁判例 (ア) 被控訴人らは、市場に出ない本件輸入レコードの在庫分の廃棄請求と、この分を含む全輸入数量に基づく使用料相当額の損害賠償とが両立し得るという主張を採用した判例として、壁画の撤去と損害賠償をともに命じた「館林市壁画事件判決」(東地八王子支判昭和62年9月18日)を引用している。 しかし、この事案では、将来に向かって壁画を撤去するだけでは、既に撤去までの間に展示されたことによる損害(「展示」は市場の需要を満足するものであり、これによって権利者の市場排他的利用機会を剥奪する。)が填補されないため、撤去と合わせて撤去前に展示されたことによる損害の賠償をも命じたものである。 (イ) 被控訴人らは、前掲東京高判平成4年7月1日及び前掲福岡地判平成6年7月26日の事案において、先行する刑事手続きで複製物が押収されており、市場には流出しなかったにもかかわらず、上記押収物を損害賠償の対象に含めていると主張している。 しかし、前者の裁判例は、ビデオテープ店の店舗において権利侵害物を貸与等するため展示等されたことにより、押収前に既に権利侵害物が市場に出てしまっていたと評価し得る事案である。後者の裁判例は、押収前に既にレンタルビデオ店の店舗に無許諾複製物が存在して、賃貸ないし販売され得る状態にあった(権利侵害物が市場に流出していた)ために「それにより原告らの頒布権は侵害された」ものと認定した事案であり、本件とは異なるものである。 ウ 「市場」の概念について (ア) 被控訴人らは、「市場の排他的な利用機会喪失」の有無を問題とする控訴人エー・アール・シーらの主張に対して、「市場」の概念について、「著作物等を直接消費者に供給する市場」(消費市場)のほかに「利用許諾を被利用許諾者に供給する市場」(利用許諾市場)が存在するのに、後者を看過している点で、控訴人エー・アール・シーらの「市場」のとらえ方は誤りである旨主張している。 しかし、この批判は、誤解によるものであって、控訴人エー・アール・シーらは、被控訴人らのいう「利用許諾市場」の存在をも前提にした上で、権利侵害物が輸入されても市場に流出しないまま廃棄される分については、権利者が「市場(消費市場・利用許諾市場)」の排他的な利用機会を喪失することはあり得ないと主張するものである。 すなわち、被控訴人らも指摘するとおり、「利用許諾市場」において、「被利用許諾者は、著作権者等から利用許諾を受け、これを行使して最大利益を上げるよう自己の名義と計算で取引する」。そのために、権利者が既に他の者に利用許諾を与えた上で、さらに別の者に利用許諾を与える場合には、ある者だけに独占的利用許諾を与える場合に比べて、その対価としての使用料の金額が当然低くなる。なぜならば、他に競合する複製物が消費市場に存在するか否かは、被利用許諾者がこれを行使して上げられる利益の可能性に大きく影響するからである。 これを権利者の側からみると、ある者だけに独占的利用許諾を与えて一括で対価を得るか複数の者に利用許諾を与えて分散的に対価を得るかにつき選択の自由を有しており、これが権利者にとっての利用許諾市場の排他的な利用機会を意味する。そのため、権利侵害物が輸入されて消費市場に出回るのであれば、権利者は選択の自由を奪われ、「市場(消費市場・利用許諾市場)」の排他的な利用機会を喪失するし、期待し得る使用料の額も当然低くなるものである。しかし、権利侵害物が輸入されても、消費市場に流出しないまま廃棄されてしまえば、権利者は、輸入前と同様に依然としてある者だけに独占的利用許諾を与えて、一括で対価を得るか複数の者に利用許諾を与えて分散的に対価を得るかについて選択の自由を保持しているので、「市場(消費市場・利用許諾市場)」の排他的な利用機会を喪失せず、そこに損害は発生しない。それにもかかわらず、後者の場合に、「市場(消費市場・利用許諾市場)」の排他的な利用機会を喪失したことの対価に相当する賠償額を権利者に得させるならば、侵害行為なかりせば得べかりし利益以上の利益を権利者に取得させることになって,わが国不法行為法の基本的枠組みを逸脱することになる。 (イ) JASRACに対するレコードの著作権使用料がレコード販売枚数ではなく製造枚数によって算定され、仮に在庫が残っても使用料の返還が行われない扱いがなされる場合、在庫品がいつでも消費市場に出て販売される可能性があるため、権利者に「市場(消費市場・利用許諾市場)」の排他的な利用機会喪失の対価を得させる必要があるのに対し、判決により強制的にレコードを廃棄させる場合には、権利者が「市場(消費市場・利用許諾市場)」の排他的利用機会を喪失する余地がないのであるだから、両者を同列に論じることはできない。 (ウ) 以上の控訴人エー・アール・シーらの主張に対して、被控訴人らは、「市場」の概念に「利用許諾市場」が含まれる以上、頒布の有無にかかわらず輸入数量について輸入許諾料に関する市場が侵害され、無断輸入行為によって輸入の許諾料相当額の損害が発生している旨主張している。 しかし、控訴人エー・アール・シーらは、被控訴人らの主張に対応させて、一応便宜上区分して「消費市場」及び「利用許諾市場」という用語を使用したが、本来これらは一体であって、「市場」の概念は「消費市場」も「利用許諾市場」も包摂したものである。すなわち、権利侵害物が輸入されて「消費市場」に出回るのであれば、市場(「消費市場」・「利用許諾市場」を包摂した概念)で、権利侵害物が競合的に存在するために、権利者は市場の排他的な利用機会を喪失し、「消費市場」だけでなく、「利用許諾市場」においても期待し得る対価の減少、喪失を来すことになる。これに対して、権利侵害物が輸入されても市場に流出しないまま廃棄されてしまうならば、市場の需要を満たすことによって権利者が市場の排他的な利用機会を剥奪されることはなく、権利者は依然として「消費市場」でも「利用許諾市場」でも、輸入前に期待し得たのと全く同様の対価獲得の可能性を保持しているので、そこに損害が発生する余地はない。 (7) 使用料相当額の算定額の不当性について ア 原判決は、本件輸入レコードの輸入についての使用料相当額を算定するに当たり、本件実演を収録した本件レコードの輸入を許諾する場合の許諾料は、実演1曲、レコード1枚につき20円であると認定している。 しかし、許諾料は、レコード会社や演奏家ごとに様々であり、通常の許諾料が1曲、20円という金額は一般的には相当高い許諾料である。 ちなみに、JASRACにおける「著作物使用料規定」によれば、作詞、作曲等の著作物の使用に対する使用料は、著作物1曲につき、当該レコードの定価(消費税を含まないもの)の6パーセントをそのレコードに含まれている著作物数で除して得た額、または、8円10銭のいずれか多い額とされている。この金額は、作詞、作曲の双方に対する使用料であり、本件各コンパクトディスク等については、コンパクトディスクの場合1枚1.524円又は1.791円の定価で15曲から18曲が収録されているので、計算上、使用料が1曲当たり8円10銭を上回ることはない。 このように、作詞、作曲に対する使用料が1曲8円10銭であるのに比べて、演奏家に対する許諾料が1曲1枚当たり20円というのは有り得ない金額である。 【被控訴人らの主張】 (1) 法113条1項1号違反に基づく損害賠償請求における使用料相当額による賠償額は、権利侵害物の販売数量ではなく、輸入数量に基づいて算定すべきである。同項は、「輸入」を「複製」と同等とみなす規定である。このことは、昭和45年の法改正の立法資料に、「このような輸入行為自体は形式的には著作権の侵害行為にあたるものとはいえないが、国内に不法複製物を出現せしめ著作者の利益を害する点では不法複製行為と実質的には変わらないので、現行法はこれを著作権侵害とみなしている。」と記載されていること(国立国会図書館調査立法考査局「著作権法改正の諸問題」228頁、甲第24号証)から明らかである。 したがって、以下、権利侵害物の「複製」数量と「頒布」数量のどちらを基礎として損害賠償額を算定すべかについて検討する。 (2) 特許法における実施料相当額の損害賠償の算定基準 ア 特許法では、販売のみならず、製造に対しても特許権者の権利が及ぶ(2条3項、68条)。したがって、同じ知的財産権である特許権侵害事件においても、実施料相当額を侵害物品の販売数量ではなく、製造数量に基づいて算定することが許されると解すべきである。 また、特許権の内容として「販売」よりも「製造」の方が根元的なものであるということからも、「製造」数量に基づいて実施料相当額を算定すべきである。 特許権の内容として「販売」よりも「製造」の方が根元的なものであるという点について、東京地判昭和60年5月13日判タ577号79頁は、「特許権の使用の各段階のうちでも最も根元的なもので、かつ重要視されるものは、その技術方法を使用して新たな付加価値を創出する生産(製造)であると考えられ、製品の譲渡(販売)は、生産の後に生ずる第二次的な使用にすぎない」旨判示し、この理論を根拠として、特許実施契約におけるロイヤリティーが「販売」ではなく「製造」の対価であると判示した。 イ 特許権侵害に基づく損害賠償請求を認容した裁判例においては、実施料相当額の算定基準として、権利侵害物の製造数量ではなく、販売数量を基礎にして算定したものが多い。 しかし、それは、そもそも当該訴訟の原告が権利侵害物の販売数量を基礎として算定した実施料相当額を請求しているからにすぎない。その理由は、@権利侵害物の製造数量は、外部から把握するのが困難であるのに対して、販売数量は比較的把握し易いこと、A特許法102条3項に基づく請求よりも、販売数量を基準とする同条1項、2項又は民法709条に基づく請求の方が損害賠償額が大きいという事情に起因する。 しかし、裁判例において、当該訴訟の原告が製造数量を基礎とする実施料相当額の算定を求めたのに対して、これを明らかに拒否した裁判例は存在しない。他方、原告が権利侵害物の製造数量を基礎として算定した実施料相当額を請求している事例において、これを認容した裁判例として、富山地判昭和45年9月7日無体集2巻2号414頁がある。 米国においても、特許権者は製造及び販売に対して独占権を有する(271条a項)ところ、裁判所は、特許権侵害に基づく損害賠償請求において、原告が権利侵害物の製造数量を基礎として算定した損害額を請求する場合には、販売数量ではなく製造数量を基礎として算定した損害額を認容している。すなわち、Sensonics, Inc. v. Aerosonic Corp., 81 F.3d 1566, 38 USPQ 1551 (Fed. Cir. 1996)において、連邦第3控訴裁判所は、「Aerosonicは、損害額は本件特許権の期間が切れる前の侵害物品の製造量ではなく、右期間が切れる前の販売量に基づいて算定すべきであると主張する。その上で、Aerosonicは、当該侵害物品がいつ販売されたのかに関する証拠はなく、それらのほとんどは本件特許権の期間が切れた後に販売されたのであると主張する。法律論に関する右主張は失当である。特許法は、特許権者に、他人に特許の実施品を作らせず、使わせずまたは売らせない権利を与えている。合衆国法典35編2711条。特許権の期間中に行われる右のいずれの行為も、特許権を侵害するのである。」(甲第25号証)と判示している。 (3) 著作権法における使用料相当額の損害賠償の算定基準 ア 仮に、特許法においては使用料相当額を侵害物品の製造数量ではなく販売数量を根拠として算定するとしても、著作権法においては製造数量を根拠として算定すべきである。 本件輸入行為が行われた時点では、実演家の権利として、本件輸入レコードの輸入に対して許諾することはできたが、販売に対して許諾権はなかったのであるから、頒布権侵害に基づく損害賠償は成立し得ない。したがって、控訴人エー・アール・シーらによる本件輸入レコードの販売枚数は損害賠償額の算定に何ら関係しない。 イ 法113条1項の立法趣旨 法113条1項の立法趣旨に照らしても、権利侵害物を輸入する場合には輸入数量に基づいて使用料相当額を算定すべきである。 加戸守之「著作権法逐条講義(三訂新版)」609頁、610頁は、「ここで注意していただきたいのは、権利侵害となるべきものか否かを「輸入する時において」判断しますので、著作物の複製物が輸入される時点で国内において作成したとすればどうかという判断をします。したがって、たとえば権利侵害相当行為によって作成されたものでありましても、輸入時点においてこの法律による権利者から許諾を得た場合には適法作成物となりますし、かりにそれが権利侵害作成物であるとすれば、侵害行為は輸入の時点において行われたということになります。」と記載している。このように、本来、著作物を輸入する場合には、輸入の時点で個々の輸入物品について権利者に使用料を支払って許諾を得なければならないのである。その際には、当然に使用料額は輸入数量を基礎として算定されるのであるから、権利侵害物を輸入した場合の使用料相当額についても、輸入数量に基づいて算定すべきである。 ウ 法114条2項の立法趣旨 法114条2項は、権利者保護の見地から、最小限の損害額として使用料相当額を損害額とみなす規定である。したがって、同条項に基づく賠償額の算定に当たり現実の損害を考慮することは、同条項の趣旨に反し許されない。 すなわち、同条項の趣旨について、加戸・前掲書630頁は、「第2項は、著作権又は著作隣接権を故意又は過失によって侵害した者に対しては、権利者がその権利の行使について通常受けるべき金銭の額に相当する額を権利者の受けた損害の額として賠償請求ができる旨を定めております。第1項が推定規定であるのに対比して、本項は法定規定でありまして、通常の使用料相当額が最低限の損害賠償額として保証されるわけであります。違法複製物を作成して無償で頒布した場合のように侵害者が利益を受けていないとき、あるいは宣伝目的で音楽を無償演奏した場合のように侵害者の利益の額の算定が困難であるときには、第1項の規定を援用することができませんから、権利者にその損害額を立証させるものとしますと、十分な救済を受けることが期待できません。そこで、権利者側に立証の手間を省かさせ、最低限の損害賠償額を確保させる観点から、本項の規定を設けたのであります。」と記載している。このように、権利侵害物の販売に基づく侵害者の利益、権利者の販売数量の減少に伴う損失の有無にかかわりなく、最低限の賠償額を法定したのが、同条項の趣旨なのである。 したがって、「これは法定の損害額として最低限の損害賠償を保証したものと解されている。したがって、私蔵されて何ら利用されていない著作物についても、この方法により算定された額だけは現実的損害を問わずに常に賠償を求めることができるわけである。」(濱野英夫「著作権(人格権、隣接権も含む)による損害賠償請求の特殊性と問題点」別冊NBL33号74頁)とされている。 以上のとおり、本件では、本件輸入レコードの輸入を許諾していたとしたら得たであろう使用料相当額が損害額とみなされるのであって、本件輸入レコードの販売による現実の損害を考慮することは許されない。 以上の点について、東京高判平成4年7月1日(甲第30号証)は、JASRACが原告となり提起した損害賠償請求控訴事件で、JASRACの使用料規程においては、最低保証の趣旨で複製数量が50個以下の場合の使用料は(複製個数にかかわらず一律に)1分500円とされ、問題となったビデオタイトルの無断複製枚数はほとんどが50個未満であったという事案において、侵害者である被告が、使用料相当額の算定にあたり複製数量が50個未満の無断複製ビデオについて、現実の無断複製数量に比例した使用料相当額を算定すべきであると主張し、その理由として、「取引上の合理性の見地から定められた最低標準個数以下の個数であっても、最低標準個数に相当する額を請求することができるものとして、規程の右定めをそのまま不法行為に適用することは、その標準個数に満たない無断複製行為の場合に、実際には市場の喪失という損害が発生していないにもかかわらず、賠償責任を認めることになって、実質的には、制裁的な損害賠償を認めることになり、損害の填補を建前とする民法の原則と整合しなくなる。」として、本件における控訴人エー・アール・シーらと同様の主張をしたのに対して、「原告が、被告に対し、本件音楽の著作物を被告の利用形態で使用することを許諾するとすれば、規程の「(二)その他のビデオグラム」の「A複製使用料」の定めが適用されるものであって、その複製使用料が実際の取引価格となるのであるから、右の定めによる複製使用料は、本件音楽の著作物の著作権の行使につき通常受けるべき金銭の額に相当する額に当たるものと認められる。そして、著作権者は、侵害行為により現実に受けた損害の額とかかわりなく、著作権を侵害した者に対し、右の額を自己が受けた損害の額として、その賠償を請求することができるのである(著作権法114条2項)。被告は、取引上の合理性の見地から定められた制度をそのまま不法行為による損害の算定の基礎とすることは、実質的には制裁的な損害賠償を認めることになり妥当でない旨を主張するが、右は、前示法条の規定の趣旨を理解しない言であって採用することができない。」と判示して侵害者側の主張を斥け、侵害行為によりJASRACが現実に受けた損害(無断複製枚数に比例した損害)に関係なく、仮にJASRACが侵害者に当該著作物の使用を許諾したとしたら得たであろう使用料相当額を損害額と認定した。 エ 「複製」そのものの経済的価値 仮に法114条2項が損害のみなし規定ではなく、推定規定であるとしても、当該著作物に顧客吸引力が全く存在しない等の極めて特殊な事情がある場合を除いては、「複製」そのものに経済的価値があるため、「複製」の段階で損害が発生している。 したがって、本件においても、本件輸入レコードの「販売」数量ではなく「輸入(複製)」数量に基づいて使用料相当額を算定すべきである。 参考となる裁判例として、福岡地判平成8年7月26日(甲第31号証)がある、この事案で、原告らは、社団法人日本ビデオ協会その他権利者団体が定めるロイヤリティー額が通常受けるべき使用料相当額であると主張したが、このロイヤリティー額は、各ビデオテープのレンタル回数等を考慮しない定額制(年間)であり、仮に人気がないために1回もレンタルされないビデオテープがあっても、使用料は返還されないという規定であった。これに対して、被告らは、本件の控訴人エー・アール・シーらと同様に、「著作権法114条2項の趣旨は、著作権を侵害して著作権を行使するものがあれば、その限りで著作権者は自ら行使して利益を得、若しくは他者に著作権を利用せしめて使用料を取得して利益を得るという市場を失うという市場利益喪失を損害とすることを拠り所とし、他方、著作権者による著作権侵害の損害額の立証困難を救済するために、市場を形成している通常の使用料相当額を「損害額」とみなすこととしたものである。したがって、無断賃貸行為の場合の通常使用料相当損害金の算定根拠たる通常の使用料は、右市場喪失の関連で基礎付けられなければならず、著作権者等が定める使用料が当然に「通常の」使用料に該当するわけではない。セル・オア・レント制度は具体的な賃貸行為ごとの使用料の徴収の困難性を回避するため具体的な賃貸行為とまったく無関係に使用料が定められるので、同制度により算定される使用料は、右市場喪失との関連から基礎付けられておらず、右制度を本件に妥当せしめることは、著作権侵害による市場喪失という損害が発生していない部分にまで賠償責任を認めることになり、民法の原則と整合しなくなる。」と主張した。これに対して裁判所は、次のように判示して被告らの主張を斥け、当該無断複製ビデオが実際にレンタルされた回数に関係なく、専ら無断「複製」の数量に基づいて使用料相当額を算定した。 「同じ内容のビデオが複数のメーカーから販売されることはないこと、したがって、著作権者である原告らが被告らに対して、原告らが著作権を有する作品の複製を許諾することは現実的にはあり得ないことが認められる。そして、被告らが製造した複製品は、業務上のビデオデッキを用いて複製したもので、真正品に近い画質を有するものであり、被告らはこれを真正品としてレンタルの用に供する意図を有していたこと、前記のとおり、レンタルビデオ店を適法に営業するには、著作権を有するビデオソフトメーカーに対し1万4000円ないし1万8000円の対価を支払って、レンタル用商品の供給を受ける以外に方法がないこと、レンタルビデオ店が許諾を受けてレンタル用商品の供給を受けた場合において、顧客がビデオを一度も借りなかったときでも、レンタルビデオ店は右許諾料の返還を受けることはできないことなどの事実に照らすと、被告らは、ビデオの複製行為により、原告らが著作権を有する作品について同人らから真正品の供給を受けるに等しい経済的利益を享受し得る地位を獲得することができたものであるから、そのための対価に相当する金額が「通常受けるべき金銭の額」に当たるものというべきである。」 他にも、権利者が製造数量に基づく使用料相当額を主張している場合に、製造数量に基づいて使用料相当額を算定した裁判例として、富山地裁判昭和45年9月7日無体集2巻2号414頁、東京地判昭和49年11月25日著作権研究7号54頁、東京地判平成13年5月16日(甲第34号証)がある。 オ 権利者が定額の使用料で許諾している場合との対比 使用料相当額を製造枚数ではなく、販売枚数に基づいて算定すべきであるという控訴人エー・アール・シーらの法律論が不合理なものであることは、権利者が第三者に対して、定率ではなく定額の使用料(例えば、1曲あたり○○円)で許諾している場合を想定すれば明らかである。 控訴人エー・アール・シーら主張の理論によれば、このような場合にも、使用料相当の損害額を算定する際に権利侵害物の販売枚数を反映させるべきことになるが、そのような算定は不可能である。裁判例では、このような場合、使用料相当の賠償額は侵害侵害物の販売枚数に関係なく算定されている(東京地判昭和9年4月14日法律評論23巻諸法316頁、東京地判昭和36年10月25日下民集12巻10号2583頁、東京高判昭和60年10月17日無体集17巻3号462頁、東京地判昭和60年10月30日無体集17巻3号520頁、東京地判昭和61年6月20日判タ637号209頁)。 したがって、権利者が第三者に定額の使用料で許諾している場合に、使用料相当額の算定に権利侵害物の販売数量を反映すべきでないことは明らかであるが、これは、権利者が第三者に(製造数量に対する)定率の使用料で許諾している場合にも当てはまる。権利者にとっては、定率の使用料を用いているからといって、定額の使用料を用いている場合よりも不利に扱われる理由はないからである。 カ JASRACにおける著作権使用料 JASRACに対するレコードにおける著作権使用料は、レコードの販売枚数ではなく、製造枚数によって算定されており、仮に在庫が残っても使用料の返還は行われていない。現に、控訴人エー・アール・シー及び控訴人エスアイシーは、チェコ共和国におけるJASRACの提携先に対しても、著作権使用料をレコードの販売枚数ではなく、製造枚数を基準にして算定した金額で支払っている。 キ 公平の見地からの検討 仮に被控訴人らが本件輸入レコードの輸入を許諾するとすれば、輸入数量に応じた許諾料を請求する。控訴人エー・アール・シー人らの主張は、無断で著作物を輸入した者の支払うべき額が、輸入の許諾を受けた者の支払うべき額よりも少額でよいということを是認するものであって、極めて不合理である。 (4) 損害賠償請求と廃棄請求との関係について ア 本件輸入レコードの全輸入数量に基づく使用料相当額の損害賠償の請求と、在庫品として未販売の本件輸入レコードの廃棄請求とは、両立し得るのであって、控訴人エー・アール・シーらの主張には理由がない。 原判決は許諾料の支払を命じているわけではなく、許諾料相当額の賠償を命じているのであって、これにより控訴人エー・アール・シーらによる本件輸入レコードの輸入が遡って許諾されるわけではない。 したがって、許諾料相当額の賠償がなされたしても、控訴人らが輸入した本件輸入レコードが違法物であることに変わりないから、それらを廃棄すべきは当然のことである。本件訴訟においても、被控訴人らが本件輸入レコードの輸入枚数分の使用料相当額の損害賠償を請求したとしても、本件輸入レコードが違法な物から適法な物に変わるわけではない。法112条2項の廃棄請求権は、「侵害の行為によって作成された物」に対しても認められているから、侵害状態の除去のために廃棄請求を認めていることは明らかである。 したがって、本件輸入レコードの輸入枚数分の損害賠償と在庫の廃棄請求は両立し得るのである。 また、本件輸入レコードを廃棄したからといって、被控訴人らの得べかりし使用料相当額の損害が回復されるわけではない。したがって、本件輸入レコードの廃棄と使用料相当額の賠償が併存することはむしろ当然であって、二重に損害を賠償することにはならない。 イ 実務上の扱い レコード原盤使用の実務においても、使用料を複製枚数に基づいて算定しつつ、契約終了後一定期間経過後は在庫レコードの販売を認めない実務慣行がある(甲第33号証参照)。 違法複製者である控訴人エー・アール・シーらが適法な被許諾者よりも有利に扱われるべき理由はないから、本件においても本件輸入レコードの複製枚数に基づき使用料相当額を算定しつつ、在庫レコードの廃棄を認めるべきである。 ウ 裁判例 (ア) 東地八王子支判昭和62年9月18日無体集19巻3号334頁(館山市壁画事件)は、原告の著作権を侵害する市役所壁画製作による財産的損害賠償を認容すると同時に当該壁画の撤去も認容している。控訴人らの論理によれば、原告は損害賠償は請求することができても、違法な壁画の撤去を請求することはできないことになるが、このような結論が右判示と矛盾することは明らかである。 (イ) 前掲東京高判平成4年7月1日(甲第30号証)及び前掲福岡地判平成8年7月26日(甲第31号証)の事案では、刑事手続が民事手続に先行して違法複製物が押収されていたのであり、押収されたものは市場には流出しなかったにもかかわらず、いずれの裁判例においても押収物を損害賠償の対象に含めている。 エ 「市場」の概念について 控訴人エー・アール・シーらは、「権利者が輸入を許諾する場合には、その結果輸入物の販売をも甘受しなければならなくなるため、市場の排他的な利用機会を喪失し、その対価として使用料を取得する。これに対し、侵害物が輸入されても販売されないままに廃棄される場合には、その部分について、権利者は市場の排他的な利用機会を喪失することなく、そもそも使用料相当額の賠償の対象たるべき損害が存在しない。」と主張している。控訴人エー・アール・シーらの主張は、要するに、著作権を侵害して作成された違法複製物であっても、それが廃棄されれば「市場の排他的な利用機能」を喪失させるものではないから、損害は生じないと主張するものである。 しかし、上記主張は、「市場の排他的な利用機能」にいう「市場」のとらえ方において誤っている。著作権及び著作隣接権は、権利者が自ら当該著作物を利用する権利のみならず、第三者に権利の利用を許諾する権利をも含んでいる(法63条、103条)。その結果、著作物等の利用に関しては、著作物等の供給者と消費者との間に形成される市場のほかに、著作権者等と被利用許諾者との間に形成される市場が形成される。後者は前者から独立して保護される経済的利益を有する市場である。なぜなら、被利用許諾者は、著作権者等のために(ないしは著作権者等の計算で)、消費者との間を介在するものではない。被利用許諾者は、著作権者等から利用許諾を受け、これを行使して最大利益を上げるよう自己の計算と名義で行動する。かかる市場が存在するがゆえに、著作権者等からの利用許諾を巡って被利用許諾者同士の間で競争が存在するのである(「著作権等管理事業法」は、政府の規制緩和政策の一環として、まさに著作権者等からの利用許諾を巡る著作権者等・被利用許諾者間の市場における被利用許諾者間の競争を自由化しようとするものである。)。 したがって、著作権者等にとっては、著作物等を直接消費者に供給する市場のほか、利用許諾を被利用許諾者に供給する市場が、独立してその権利範囲に存在する。それゆえにこそ、前記のとおり、JASRACに対するレコードにおける著作権使用料は、レコードの販売枚数ではなく、製造枚数によって算定され、仮に在庫が残っても使用料の返還は行われないという実務が市場において受け入れられているのである。 よって、著作権を侵害して作成された違法複製物が廃棄されたとしても、「利用許諾市場の排他的な利用機能」を喪失させるから、損害が生じるのである。控訴人エー・アール・シーらによる本件輸入レコードの輸入(これは複製に相当する。)は、被控訴人らによる輸入許諾権を侵害するものであり、違法輸入物が廃棄されたとしても、「利用許諾市場の排他的な利用機能」を喪失させるから、損害が生じるのである。 この点について、控訴人エー・アール・シーらは、「権利侵害物が輸入、販売されて消費市場に出回るのであれば、市場(「消費市場」・「利用許諾市場」を包摂した概念)で権利侵害物が競合的に存在するため、権利者は、市場の排他的な利用機会を喪失し、消費市場だけでなく利用許諾市場においても期待し得る対価の減少、喪失を来すことになる。」と主張し、違法複製物の販売行為があって初めて「利用許諾市場」における「損害」も発生すると主張する。 しかし、権利者が第三者から販売数量を基礎として算定するロイヤリティーを受領している事例では、「消費市場」と「利用許諾市場」が関連していると見る余地があり、そのような事例において使用料相当額の損害額を算定する際には、無断複製物の販売数量が考慮されるかもしれない。しかし、本件はそのような事例ではない。JASRACの著作物使用料規程から明らかなように、音楽業界における使用料は、通常、製造枚数によって算定されているのであるから、本件における使用料相当額の賠償額の算定にあたり、本件輸入レコードの販売数量は無関係である。 オ 「小僧寿司事件」について 控訴人エー・アール・シーらは、最判平成9年3月11日民集51巻3号1055頁「小僧寿司事件」を、本件にも当てはまるものとして援用している。 しかし、以下のとおり、この判例法理が妥当するのは、極めて特殊な事案に限定されるのであり、控訴人エー・アール・シーらの主張には理由がない。 この判決につき、「最高裁判例解説」(法曹時報52巻1号264頁)は、「個別の事案において極めて例外的な特殊事情が存在する場合、すなわち原告の登録商標に顧客吸引力が全く存在せず、被告製品の売上げは専ら被告の営業努力及び被告製品の高品質に起因するものであって類似商標の使用はこれらに全く寄与していないことが明白であり、かつ、被告の類似商標使用により、原告が登録商標を第三者に使用許諾して使用料を得る可能性を害されたといった事情を認める余地もないような場合においては、使用料相当額がゼロになる(すなわち損害不発生の抗弁が認められる)ということを肯定すべきものと思われる。」と解説している。また、判例批評でも、「この判決の射程は、商標法においてすら、かなり限られたものになります。未使用で登録する登録主義を認めている商標法だからこそ起こるような事案に対する説示でしたので、他の創作的な権利である特許権、著作権にまで射程が及ぶはずはないだろうと思います。実は、母法のドイツ法でもそのような理解があります(田村善之「知的財産と損害賠償」71頁から74頁4頁)。」(田村善之「著作権侵害に対する損害賠償額の算定」コピライト40巻469号11頁)とされている。 これに対して、本件実演は、いずれも人気が高く強い顧客吸引力を有する。したがって、上記の判例法理は、本件には当てはまらない。 (5) 使用料相当額の算定額の相当性について ア 控訴人エー・アール・シーらは、JASRACにおける「著作物使用料規定」が作詞、作曲等の著作物のレコードへの使用料の最高額を8円10銭と規定していることを根拠として、原判決が本件実演の許諾料を1曲20円と認定したことを批判している。 イ しかしながら、作詞、作曲の音楽著作物については、JASRACにより一律に大量に許諾されており、その許諾は、各楽曲ごとに特定の者に独占的に使用許諾するものではなく、申込みがあれば誰にでも許諾する非独占的許諾である。 これに対して、実演については、個別的に許諾されており、また、特別な場合を除き、一社に対して独占的にのみ使用許諾されるものである。そのために、そもそも実演についての許諾料は、作詞、作曲についての許諾料と同一に論じることはできない。 ウ また、JASRACの使用料規定は、楽曲の作詞家、作曲家の有名・無名、及び楽曲がヒット曲であるか否かを問わずに、一律に金額を定めている。 これに対して、実演の使用許諾は、個別的、独占的に行われるから、実演の許諾料額は、実演家の有名・無名によって異なり、また、当該実演がヒット曲に関するものか否かによっても当然に許諾料額は異なる。本件実演家は、いずれも極めて著名な超一流の実演家であり、しかも、本件実演は、それらの実演家の実演の中でも最もヒットした人気の高いものである。 したがって、原判決が本件実演の許諾料を甲第21号証(社団法人日本レコード協会常務理事・事務局長作成の陳述書)に記載されたとおり、1曲20円と認定したことは正当であって、控訴人エー・アール・シーらの上記主張は、何らの根拠もなく原判決を論難するものにすぎない。 4 争点C(本件輸入レコードの輸入数量及び在庫数量)について 【控訴人エー・アール・シーらの主張】 本件において、控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーが海外で製造させて輸入した数量、現在、在庫する数量、及び頒布した数量は、本判決の別紙「頒布数量等一覧表」の控訴人主張欄に記載のとおりである。 輸入数量について、被控訴人らは、控訴人エー・アール・シーらが主張する数量は信用することができないとして、本件輸入レコードの全てについて、原審において当事者間に争いがなかった製造数量(輸入数量)の2倍であると当審では主張しているが、これは全く根拠のない主張である。 本件輸入レコードの中には、頒布数量と在庫数量の合計が、製造数量を超過するものが存在する。これは、控訴人エー・アール・シーらは、伝票上の数量を基礎として各数量の主張をしているところ、実際の輸入数量は、契約上(伝票上)の数量よりも若干多かったり、少ないことがあるからにすぎない。 被控訴人らは、本判決の別紙「頒布数量等一覧表」記載の「C15−001」ないし「C15−009」のレコードにつき、控訴人エー・アール・シーら主張の輸入数量とOSAに対する報告書に記載された数量とに食い違いがあることを根拠として、控訴人エー・アール・シーら主張の輸入数量について信用し得ないと主張している。 しかし、この点は、メーカーあるいはOSAの何らかのミスとしか考えられないもので、控訴人エー・アール・シーらの主張に誤りはない。 在庫数量について争いがあるのは、同表記載の「GS−03」及び「C15−004」だけであるが、これは、当事者双方による平成12年2月25日実施の現地調査当日の時点では被控訴人らが主張する在庫数量が確認されたが、いずれも控訴人エー・アール・シーらによるその後の調査で、その若干の誤りが判明したものである。 【被控訴人らの主張】 (1) 控訴人エー・アール・シーらが主張する数量は、被控訴人らが矛盾点を指摘すると変更してくるというように、信用することができないものではあるが、これは、過失に基づく誤差の範囲と解する余地もあるので、被控訴人らは、本判決の別紙「頒布数量等一覧表」記載の在庫数量について、被控訴人らが現実に確認した「GS―003」が「2892枚」であること及び「C15―004」が「2373枚」であること以外は、控訴人エー・アール・シーらが主張する在庫数量について争わない。 (2) 控訴人エー・アール・シーらは、頒布数量について、「輸入数量」から「在庫数量」を控除するという算式に基づいて主張している。 しかしながら、上記算式における控訴人エー・アール・シーら主張の「輸入数量」は、以下のとおり信用することができない。 本件輸入レコードのうち、同表記載の「C15―001」ないし「C15―009」に関して、控訴人エー・アール・シーがOSAに対して報告していた製造・輸入枚数は各2000枚であった(甲第27号証)。 しかし、控訴人エー・アール・シーらは、本件訴訟において、この「C15―001」ないし「C15―009」に関して、同表記載のとおり、2000枚の2倍の4000枚ずつ製造・輸入したとしている。このように、控訴人エー・アール・シーらは、チェコ共和国で本件輸入レコードを製造させ、OSAに対して、その数量を過少申告させていたのである。これは、OSAを通じた著作権使用料の支払いを免れるために、かかる意図的隠蔽を行ったものと考えられる。 そして、このような意図的な隠蔽を行う動機が「C15―001」ないし「C15―009」にのみ限定される理由はない(製造・輸入数量については、原審において当事者間に争いがなかったが、当審において、控訴人エー・アール・シーらが、その数量について、2000枚から4000枚と増やす訂正をしたのは、上記の「C15―001」ないし「C15―009」の9タイトルだけであり、これは、被控訴人らから在庫数量と矛盾することを指摘されたためであった。)。 したがって、控訴人エー・アール・シーらが主張する輸入数量は信用することができない。 なお、本件輸入レコードのうち原判決添付の別紙三のレコード目録1ないし10、13、14、20、32に係るレコードについて、控訴人エー・アール・シーらの主張は、頒布数量と在庫数量の合計が、製造数量を超過するという矛盾したものになっており(本判決の別紙「頒布数量等一覧表」参照)、控訴人エー・アール・シーらの主張する数字そのそものに信用性がない。 (3) 以上によれば、仮に、法114条2項所定の使用料相当額が控訴人エー・アール・シーらが主張するように、輸入数量から在庫数量を控除した数量(頒布数量)に基づいて算定されると解釈されるとした場合には、本件輸入レコードの製造・輸入数量は、本判決の別紙「頒布数量等一覧表」記載のとおり、少なくとも全タイトルにつきOSAへの報告数量(原審において当事者間に争いのなかった数量)の2倍と認定すべきであって、本件輸入レコードの頒布数量について、同表の被控訴人主張欄に記載の数量のとおりに認定すべきである。 第4 当裁判所の判断 当裁判所も、被控訴人らの本訴請求は、原判決が認容した限度(前記第2の1(3)参照)で理由があると判断するが、その理由は、以下のとおり当審における争点について判断を付加するほか、原判決が「理由」欄において説示するとおりである(ただし、原判決45頁1行目から2行目にかけて、及び同5行目から7行目にかけて、それぞれ「別紙四製造レコード目録記載の製造数量全部を、日本国内において頒布する目的で輸入し、日本国内において頒布したこと」とあるのを、「少なくとも原判決添付の別紙四製造レコード目録記載の製造数量全部を日本国内において頒布する目的で輸入し、その一部を日本国内において頒布したこと」と改める。)。 (当審における争点についての判断) 1 争点@(旧法上の実演家の歌唱の著作権と旧法22条の7との関係)について (1) 我が国における実演家の権利及びレコード製作者の権利の保護の内容についてみると、本件証拠(甲第19、第20号証、第23号証、乙第1号証の1ないし3、第3号証ないし第5号証、第19号証、第22号証の1、2、第23号証、第34、第35号証)、弁論の全趣旨及び当裁判所に顕著な事実によれば、以下のとおり認められる。 ア 現行法 (ア) 現行法は、実演家の権利の保護について、2条1項3号で「実演」につき「著作物を演劇的に演じ、舞い、演奏し、歌い、口演し、朗詠し、又はその他の方法により演ずること(これらに類する行為で、著作物を演じないが芸能的な性質を有するものを含む。)」、同項4号で「実演家」につき「俳優、舞踏家、演奏家、歌手その他実演を行う者及び実演を指揮し、又は演出する者」とそれぞれ定義した上で、91条1項で、「実演家は、その実演を録音し、又は録画する権利を専有する。」と規定して、実演家の録音権を定めている。そして、2条1項13号で「録音」について、「音を物に固定し、又はその固定物を増製することをいう。」と定義しており、また、「録音」を同項15号の「複製」の定義中の一態様として規定している(このことから、実演家の「録音権」は、「複製権」の一態様であるということができる。)。 (イ) レコード製作者の権利については、2条1項5号で「レコード」につき「蓄音機用音盤、録音テープその他の物に音を固定したもの(音をもっぱら影像とともに再生することを目的とするものを除く。)」、同項6号で「レコード製作者」につき「レコードに固定されている音を最初に固定した者」とそれぞれ定義した上で、96条1項で、「レコード製作者は、そのレコードを複製する権利を専有する」と規定して、レコード製作者の複製権を定めており、2条1項15号で「複製」につき、「・・・録音・・・の方法により有形的に再製すること」と定義している。 (ウ) そして、現行法は、実演家及びレコード製作者の上記の権利について、「著作隣接権」として(法89条6項)、作詞家、作曲家等の著作者が享有する著作権(法17条1項)と区別して保護することを明らかにしている。 この現行法の立場は、実演、レコードというものについては著作物の創作活動に準じたある種の創作的な活動が行われるものであるところから、そういった著作物の創作活動に準じた創作活動を行った者に著作権に準じた保護を与えることが、その準創作活動を奨励するものであり、そのような著作物に準ずる準創作物の知的価値を正当に評価する、というものであり、また、この著作隣接権の趣旨は、著作権制度を前提として、著作物を公衆に提供する媒体としての実演・録音に知的価値を認め、著作物の解釈者としての実演家と著作物の解釈の伝達者としてのレコード製作者との関係を合理的に調整して、権利関係を定めることにある(加戸守之「著作権法逐条講義(三訂新版)」451頁、452頁参照)。また、上記の「レコード製作者」の定義として「(音を)最初に固定した者」として定められているのは、単に商品としてのレコードの複製における技術的熟練に比べて、音の最初の固定行為の方が明白に芸術的想像力を要するという考え方に立って、最初の固定行為に価値を認めたためである(同書512頁参照)。 (エ) このように、現行法の実演家の録音権(複製権)とレコード製作者のレコードの複製権とは、それぞれ別個の法益があるものとして規定され保護されており、両権利が併存するものであることは、明らかである。 イ 旧法 (ア) 旧法では、実演家の権利について、1条1項で、「文書演述図画建築彫刻模型写真演奏歌唱其ノ他文芸学術若ハ美術(音楽ヲ含ム以下之ニ同ジ)ノ範囲ニ属スル著作物ノ著作者ハ其ノ著作物ヲ複製スルノ権利ヲ専有ス」と規定して、著作物の中に演奏・歌唱を含めており、演奏・歌唱者は、音楽の著作物の著作者として著作権を有する作詞家、作曲家と同じく第一次的著作者として保護されており、その演奏・歌唱についての複製権を専有するものとされていた。旧法は、現行法における著作権の保護の仕方とは異なり、上記のとおり、1条1項において著作者は著作物を複製する権利を専有する旨を規定して、著作権のすべての内容を複製権で総括しているのであり、またこの著作権の内容をなす複製権は、有形的複製のみならず、無形的複製をも含む包括的な内容の権利とされていた。 旧法22条の6には、「文芸、学術又ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物ノ著作権ハ其ノ著作物ヲ音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ写調シ及其ノ機器ニ依リ興行スルノ権利ヲ包含ス」と規定され、この規定は、旧法1条で定められた複製権の権利内容を単に注意的に規定したにすぎないものと解される。 レコード製作者の権利については、旧法22条の7に「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ適法ニ写調シタル者ハ著作者ト看做シ其ノ機器ニ付テノミ著作権ヲ有ス」と規定され、レコード製作者は、この規定により、他人の著作物(作詞、作曲、演奏・歌唱等)を原著作物とする第二次的著作者として保護されていた。 (イ) 以上の旧法における実演家の権利及びレコード製作者の権利の保護の立法経緯等は、概略次のとおりである。 (a) 大正9年の旧法改正において、1条の「著作物」の中に「演奏歌唱」が追加されるとともに、「音楽的著作物ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」とする32条の3の規定が新設された。これは、明治の末期から蓄音機レコードが国内でも普及したが、レコード会社の製作した浪花節などのレコードを無断で複製(複写盤を製造)し、売り出すという事件が続出する中で雲右衛門事件判決が出されたことを契機として議員立法されたものである。この国会審議における議事録には以下の記載がある。 まず、鳩山一郎議員より「第三十二条ノ三 音楽的著作物ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ自己又ハ他人ノ著作物ヲ写調シタル者ハ著作者ト看做シ本法ノ保護ヲ享有ス但シ原著作者ノ権利ハ之カ為ニ妨ケラレルコトナシ」との改正案が提案され、この提案の理由として「此写調者というものの意義を最初に説明致して置きます、写調者と申しまするのは、演奏者、若くは歌唱者をいうのであります」(甲第23号証の201頁)、「歌唱し又は演奏を為すに就て、精神的の努力を要し、熟練を必要とすることは勿論でありますから、茲に規定した次第であります」(同202頁)、「音楽的著作物の著作と、其の作られたる著作物の演奏とは、全く異りたる芸術に属するのであります、有名なる作曲家は必ずしも有名なる演奏家ではないのである、有名なる演奏家も亦必ずしも有名なる作曲家ではないのであります、併し演奏に堪能なる者は作曲の能否如何を問わないで、高級なる芸術家を以て目せられて居るのであります、若し演奏が独立なる芸術たるの価値なしと致しましたならば、今日頻繁に開催せらるる所の音楽演奏会は芸術として何等の価値の無いものといわなくてはならないのであります、而も演奏に堪能ならんとしたならば、優れる天才と多大なる熟練とを必要とするのであります、其天才と熟練とに依つて初めて為されることを得べき演奏を、原著作と異なりたる一つの芸術と認むることに於てどういう不都合があるのでありましょうか」(同203頁)と説明されている。 この改正案と提案理由の説明を受けて、志賀和多利議員は、「此本案の趣意を徹底致します為めに条文を変改致しまして、第1条の「文書、演術、図書、建築、彫刻模型写真」とあります下に「演奏歌唱」此4つの文字を加えます「其他文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物ノ著作者ハ其ノ著作物ヲ複製スルノ権利ヲ専有ス」という風にして、第1条の原則に於て保護しよう、其結果と致しまして、第32条の3に「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」即ち32条の1、2と同様の趣意に於て此規定を置きますと、本改正案の趣意を徹底的に達せられると考えます、故に修正案を提出致します」(同208頁)として修正案を提出したところ、川村政府委員も「然るに本改正案の本旨は、提案者の説明に依つて見れば、演奏唱歌それ自身が精神的努力の結果に成るものであるから、之を保護し之を発達せしむる為めに、演奏歌唱其物に著作権を認むるを相当と思う、然るにも拘らず、此規定を缺くが為めに、之に依つて写調された所の蓄音機、音譜盤の複製を防止するの方法がなく、其結果として不正なる事柄を生ずるので、此改正を必要とするという風に説明されて居るのであります」と発言し(同209頁)、その後に上記の志賀議員の修正案が採択されたものである。 また、被控訴人らが主張するように「司法研究」(伊藤雅二著「著作権法上の諸問題」)に、「実演芸術(Ausfuhrende Kunst)とは既に創作されたる著作物を再現する芸術を言い、再現に際して独創的精神活動に基づく技能を認め得るとき著作権保護の目的となる。然るに反対を唱へるものは、既に創作されたる著作物を再現するに独特の技能と熟練を以てするもそれは単に既成著作物の忠実なる伝達に過ぎず、之に依っては新著作物を創作し得ない、例へば演奏にありては聴衆に美的感情を起こさしむるは演奏者の技巧であり、その技巧上に多少の精神的活動を発現するは当然ではあるが、之は文書を浄書した場合と同様に著作権的意義なしと言ふのであるが(一)実演芸術は文学的、美術的著作物の再現なる点に於て両者に根本的相違は存するが、再現に際しての独創的精神活動と右創作的著作に際しての夫との間に根本的な差異を認めることは出来ない。」(80頁、81頁)と記載され、旧法の実演家の権利の保護に関する立場が示されている。 以上の立法経緯及び立法形式によれば、旧法下で「演奏歌唱」が旧法1条1項の著作物に加えられた契機としては、蓄音機音盤(複写盤)の模造防止のためであると認められるものであるが、その前提として、楽曲を演奏・歌唱する行為について、その芸術的価値を認め、その精神的努力をする演奏者・歌唱者を、作詞家、作曲家と同様に第一次的著作者として著作権を享有させて、旧法1条1項において保護することとしたことが明らかである(なお、国塩耕一郎「国塩耕一郎著作権論文集」日本音楽著作権協会発行、19頁(注4)、乙第34号証)には、大正9年改正によって新たに追加された旧法32条の3の規定によって、適法に写調された「レコード」より更に「レコード」を複製する場合にも、原著作権者の承諾を必要とすることになるが、これは事実上不可能であるから、「レコード」製作者は、間接に保護されることになる旨記載して、第一次的著作者が有する旧法1条1項の複製権がレコードの増製(複写盤の製造)に及ぶことから、レコード(原盤)の製作者がその複写盤の模造から間接的に保護されることになることを明らかにしている。)。 (b) 昭和9年の旧法の改正は、上記の大正9年の旧法の改正内容では、レコードについての著作権の帰属関係及びその権利内容が明確でなかったために、32条の3の規定を削除し、前記22条の6を規定して、「文芸、学術又ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物ノ著作権ハ其ノ著作物ヲ音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ写調シ及其ノ機器ニ依リ興行スルノ権利ヲ包含ス」として、法1条の著作権の内容に、「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器」(レコード)に「写調する権利」(録音権)が含まれることを注意的に規定するとともに、新たに旧法22条の7を規定して「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ適法ニ写調シタル者ハ著作者ト看做シ其ノ機器ニ付テノミ著作権ヲ有ス」として、「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器」(レコード)に「適法ニ写調シタル者」、すなわち、前22条の6の写調する権利を有する者の許諾を得るか、写調する権利を譲り受けるなどしてこれを有して写調した者は、著作者とみなされて、「その機器」(当該レコード)ついて著作権を有することを創設したものであり、「「其ノ機器ニ付テノミ」著作権ヲ有ス」とは、レコード製作者の著作権が、当該レコードのみを対象とするものであって、第一次的著作者(作詞家、作曲家、演奏・歌唱者)による著作物(作詞、作曲、演奏・歌唱)を対象とするものではなく、したがって第一次的著作者の著作権に影響を及ぼさない趣旨を注意的に規定したものと解することができる(伊藤信男「レコード有線放送に関する著作権法上の諸問題−ミュージック・サプライ判決の総合研究−」日本法学30巻1号90頁、91頁、半田正夫「著作権法概説(第10版)」294頁、297頁注(5)参照)。 また、旧法22条の7における「写調シタル者」とは、現行法の「レコード製作者」についての定義規定(2条1項6号)における「(レコードに固定されている音を)最初に固定した者」と同じく、レコードの「原盤の製作者」を意味し、単なる「複写盤製造者(リプレッサー)」は含まれないと解されているが(伊藤・上記論文「日本法学」30巻1号94頁参照)、このことを保護法益の観点からみると、旧法においても現行法と同様に、音の最初の固定行為(原盤の製作行為)には、芸術的想像力を要し、著作物の創作行為に準ずる価値があると認めて、上記改正によってこれを直接保護することにしたものと解することができる。 (ウ) 以上によれば、旧法において、音楽の著作物(作詞、作曲、演奏・歌唱)について、第一次的著作者(作詞家、作曲家、演奏・歌唱者)から許諾を得る等して、適法に写調されたレコードに関しては、第一次的著作者(作詞家、作曲家、演奏・歌唱者)が自らの著作物(作詞、作曲、演奏・歌唱)について専有する複製権(旧法1条)と、レコード製作者が当該レコード(録音物)についてのみ有する著作権(旧法22条の7)とが、それぞれ別個の権利として併存するものであることは、明らかであり、現行法におけるのと同様に、当該レコードをこれらの権利者の許諾を得ることなく複製(増製)することは、それぞれの権利の侵害に当たることになる。 これに反し、控訴人エー・アール・シーらが主張する「レコード製作者が演奏・歌唱を適法に写調してレコードの著作権(旧法22条の7)を取得した場合には、レコードに固定された音、すなわち演奏・歌唱についての演奏・歌唱の著作権がレコード製作者の著作権に含まれ、レコード製作者のみがこれを保有する、あるいは、演奏・歌唱の実演家の権利は、最初の契約の際に行使されるとその使命を全うし、レコード製作者との契約を通じてのみ守られるのが本則であり、その権利を否定される」旨の主位的及び予備的主張を採る余地がないことは、以上の判示内容に照らして、自明であるというべきである。 (エ) なお、当裁判所のこの判断が正当であって、控訴人エー・アール・シーらの上記主張が独自の主張にすぎないことは、被控訴人らが指摘する以下の議事録、旧法当時の学説、「司法研究」の各記載内容に照らしても明らかである。 (a) 昭和9年の旧法改正の際の帝国議会貴族院の議事録に、「実例に依りまして申上げます、蓄音機の是は「レコード」に関する規定でありますが、蓄音機会社が「レコード」に或人に吹込んで貰うに際しまして、先程濱尾さんから仰っしやいました如くに作詩、作曲、それから唄う人が各々権利を持って居るのであります、是等の権利者との間に話合が付きまして、そこで「レコード」が出来ますれば、其「レコード」に関して蓄音機会社が著作権を持つ、そういうことになるのであります」(乙第1号証の2の53頁4段)と記載され、上記のとおり、レコード製作者が作詞家、作曲家、実演家という第一次的著作者の許諾を得てレコードを製作すれば、当該レコード(「其レコード」)についてレコード製作者は著作権を有し、作詞家、作曲家、実演家の著作権(旧法1条の複製権)と併存するものであることが示されている(この議事録の記載内容についての控訴人エー・アール・シーらの主張は、旧法下における作詩家、作曲家、歌唱者が専有する複製権について正解しないものであって、到底採用し難いものである。なお、控訴人エー・アール・シーらは、昭和9年の旧法改正時の議事録の記載に関して、「レコードが作られる前段階では、歌唱者が歌唱の権利を持っていて当然であり、レコードが作られた後は、レコード製作者が歌唱の権利を含むレコードの権利を取得し、歌唱者はこれを取得しないことが示されている」旨主張しているが、控訴人エー・アール・シーらは、他方では、「昭和9年改正の際の立法担当者も、旧法1条の解釈としては、一応実演芸術として演奏歌唱の著作権を法認しているが、その著作権は、22条の7により写調されてその実演が固定有体化された場合に限り、法益が生まれるのであり、また演奏歌唱の著作権は、その音盤についてのみ著作権保護を認められたものと解するのが妥当と考えられていた(小林尋次「現行著作権法の立法理由と解釈−著作権法全文改正の資料として−」昭和33年3月、文部省発行、65頁、乙第4号証)」旨指摘している。このように、昭和9年改正の際の立法担当者は、演奏・歌唱の実演家の旧法1条の著作権(複製権)は、むしろ、写調により演奏・歌唱が固定有体化されたときに法益が生まれ、レコード(音盤)について保護されていると述べているのであって、歌唱がレコードに固定されてレコードが作られた後には歌唱者は歌唱の権利を有しないとの控訴人エー・アール・シーらの主張を明確に否定している。)。 (b) 旧法下の学説においても、「「レコード」吹込者(実演家、演奏者)の著作権と、製作者の著作権との関係は、原著作者と製作者との関係と全く同一であって、製作者は吹込者の著作権とは別個に、独立した何ら制限のない著作権を当該「レコード」に就いて有することは詳説するまでもなく明らかである。かくて、「レコード」の上には原著作者と製作者の二者、場合によっては吹込者も加わり、三者の著作権の存在が認められることとなるのである」(国塩耕一郎「国塩耕一郎著作権論文集」日本音楽著作権協会発行、24頁)と説明されたり、 (c) 「他人のレコード、テープ等と同一又は類似のものを権限なくして複製又は写調して販売若しくは興行することは録音著作権の侵害となると共に原著作者の有する録音権及び著作権の侵害となる。わが著作権法においては、演述、演奏、歌唱のいわゆる実演は、著作物として著作権の対象とされるのであるから(第1条)、演述、演奏又は歌唱された原著作物に著作権が存在しない場合でも、演述、演奏又は歌唱を録音し又は録音したものを複製しこれを販売若くは興行するときは実演家の著作権及び興行権又は録音者の録音著作権の侵害となるのである。」(蕚優美「条解著作権法」191頁、192頁)と説明され、あるいは、 (d) 「レコード等の写調機器が著作物として独立の著作権を発生せしめるのは、其写調行為が適法に行われた場合に限る。蓋し原作者自身が本来写調権を有するが故に(著22条の6)、右の適法とは、原著作者の著作権が存する限り、著作権を譲受け又は其許諾を受けたことを云う。然らざる場合は偽作となるのである。・・・又、レコード、録音フィルムについて著作権を取得しても其レコード、録音フィルムを複製する権及び興行するの権をも取得することを意味しない。・・・複製発行の権も本来原作者に属するのであるが、写調の許諾があるときは、此権利の譲渡あるものと解せられる場合が多いであろう。」(勝本正晃「日本著作権法」100頁)、と説明されるなどしている。 (e) 控訴人エー・アール・シーらが引用する「司法研究」(乙第19号証)においても、「原著作者(以下吹込者を含む)は写調権と当該レコードに依る興行権を別個に有する。(昭和9改正法第22条の6、「ベルヌ」条約第13条の1) 他方レコードの写調は1つの改作であるから製作者が著作物を写調したるときはその適法(原著作者の承諾を得)たると否とを問わず当該レコードに付改作者として著作権を有すべきことは理論上正当ではあるが法22条の7は写調者のレコード著作権取得には写調が適法なることを要求している。写調者の享有し得る著作権はレコードを以てする可能なる範囲の権能を謂うのであるからそのものの複製、興行、(公の演奏、放送)写調、等の権能を指称する。従ってレコードに付ては原著作者と写調者の権利とが併存する。併し改作物に著作権を認めても原著作者の著作権を害するを得ないし、且つ改作物は原著作物に対し従属性を有する。而も原著作者は写調権と写調されたるレコードに依る興行権とを各別に有するが故に(法第22条の6)写調の許諾は当然には当該レコードに依る興行又は放送の許諾を包含しない。従って改作物たるレコードの利用たる当該レコードに依る興行には原則として原著作者の承諾を要する。併し乍ら、写調が適法になされ、而も写調者がレコードの利用(複製頒布及び之に依拠る興行)を営業的に行う者である場合には、原著作者は写調を許諾するに当って写調されたレコードが複製頒布され、或いは興行の用に供せられることを予想しているものと認むべきであるから、反対の意思表示なき限り右利用に付ては原著作者の許諾を推定し得るであろう。」と記載(以下「記載事項A」という。)されている(なお、記載事項Aについて、控訴人エー・アール・シーらは、「レコードに付ては原著作者と写調者の権利とが併存する。」と記載されているのは、興行、放送の権利のことである旨主張しているが、これが原著作者が有する複製権(旧法1条)についても述べていることは、「写調者の享有し得る著作権はレコードを以てする可能なる範囲の権能を謂うのであるからそのものの複製・・・の権能を指称する。従ってレコードに付ては原著作者と写調者の権利とが併存する。」、「写調が適法になされ、而も写調者がレコードの利用(複製頒布・・・)を営業的に行う者である場合には、原著作者は写調を許諾するに当って写調されたレコードが複製頒布され・・・ることを予想しているものと認むべきであるから、反対の意思表示なき限り右利用に付ては原著作者の許諾を推定し得るであろう。」との記載から明らかである。)。 他方、上記の当裁判所の判断と異なる見解は、控訴人エー・アール・シーらの本訴における前記の主張以外には、見い出すことができない。 なお、控訴人エー・アール・シーらは、「司法研究」には、記載事項Aの記載箇所の直前に、「他人の著作権ある著作物を適法に写調したレコードの複製、発売権。原著作者並びに吹込者(実演家)に当該レコードの複製、発売権が存するならば、写調者と雖も特別事情なき限り、自己の適法に写調したレコードの複製、発売についてそれ等の者の許諾を要するを原則とするであろうが、我著作権法上は斯かる権利を原著作者並びに吹込者に認めていない。(独逸文芸音楽的著作物に関する法律第22条は営業的写調の許諾は内国に於ける頒布の許諾にも効力を有すと規定す) 写調者は著作者と看做される(法第22条の7)が故に著作物たるレコードの複製、発売権を著作権者として当然享有するのである。」との記載(以下「記載事項B」という。)があることについて、レコードの複製と発売権は、旧法22条の7によってレコード製作者だけが享有し、実演家には認められないことを明らかにしていると主張し、控訴人エー・アール・シーらの前記主張の根拠としている。 しかしながら、記載事項Bは、実演家のみならず、作詞家、作曲家を含む原著作者について述べているのであり、これらの者が、旧法1条に基づく複製権を専有し、レコードの複写盤の増製について複製権を行使し得ることは明らかであること、記載事項Aの上記の記載内容、及び記載事項B中の「当該レコードの複製、発売権」、「(独逸文芸音楽的著作物に関する法律第22条は営業的写調の許諾は内国に於ける頒布の許諾にも効力を有すと規定す)」との記載からすると、記載事項Bは、記載事項Aとともに、「旧法上、改作者(二次的著作者)とされているレコード製作者が適法に製作した「当該レコード」は、改作物(二次的著作物)であるから、原著作物の第一次的著作者であっても、レコード製作者が製作した「当該レコード」そのものを利用して、自ら複写盤を複製、発売して利益を得ることはできないという当然のことを記載し、他方、レコード製作者がレコードの複写盤を複製し、発売することについては、レコード製作者(写調者)がレコードの利用(複製頒布)を営業的に行う者である場合には、原著作者は写調を許諾するに当って写調されたレコードが複製頒布されることを予想しているものと認むべきであるから、反対の意思表示がなき限り、原著作者は、旧法1条に基づく複製権の行使についてあらかじめ許諾したと推定し得る。」という内容を記載したものと理解することができる(これらのことは、レコード製作者の権利を「著作隣接権」として保護する現行法下においても当てはまる。)ものであって、記載事項Bは、控訴人エー・アール・シーらの前記主張の根拠となるものではない。 ウ 現行法と旧法との関係(現行法施行の経過規定の内容) 旧法を全面改正した現行法を施行するに当たり経過措置を定めた現行法の附則(現行法施行当時)では、2条4項で、現行法施行前に行われた実演又はその音が最初に固定されたレコードで現行法施行の際現に旧法による著作権が存するものについては、現行法中著作隣接権に関する規定を適用すると定め、また、15条2項でその存続期間を定めている。この附則の立法趣旨は、旧法において「演奏歌唱」として著作権による保護を受けてきた実演と「音を機械的に複製するの用に供する機器に他人の著作物を適法に写調したもの」すなわち「録音物」として著作権による保護を受けてきたレコードとが、新法上の著作隣接権制度による保護に移行するということであり、新法施行の際旧法による著作権が認められているこれらの実演及びレコードの保護を新法施行と同時に打ち切ってしまうことは既得権を害することとなるので、その保護期間について附則15条2項の経過措置を講じつつ、著作隣接権としての保護をすることとしたものである(加戸守之「著作権法逐条講義(改訂新版)」633頁参照。なお、上記附則の立法趣旨に関する控訴人エー・アール・シーらの主張は、独自の見解であって、採用し得るものではない。)。 エ 以上、アないしウで検討したところによれば、我が国の著作権法制度において、実演家(演奏・歌唱者)の権利とレコード製作者の権利は、旧法においても、それぞれ「演奏・歌唱行為」、「最初の音の固定(写調)行為」に、創作的な価値(法益)があるものとして、別個の権利として保護されており、これらが「著作隣接権」として法の保護形式は変わったものの、現行法に引き継がれて、それぞれ著作物の創作行為に準じたものとして、別個の権利として保護されるに至っているものと認められるのであって、控訴人エー・アール・シーらの主張するように、後者の権利の成立によって、前者の権利が否定されるものでないことは、明白である。 (2) 控訴人エー・アール・シーらの昭和9年旧法改正時の議事録の記載を根拠とする主張について ア 控訴人エー・アール・シーは、原審以来、旧法22条の7を創設した昭和9年改正の際の議事録(乙第1号証の2)に記載された「出来上がった「レコード」に対しては唄った人は著作権を持たない、そうして「レコード」会社が持つということになるのであります。」との箇所を引用して、レコードに固定された実演については、レコード製作者のみが権利を有する旨主張している。 イ しかしながら、被控訴人らが指摘するとおり、議事録には、上記引用箇所の前に、「政府委員(勝田永吉君)」の答弁として、「実例に依りまして申上げます、蓄音機の是は「レコード」に関する規定でありますが、蓄音機会社が「レコード」に或人に吹込んで貰うに際しまして、先程濱尾さんから仰っしやいました如くに作詩、作曲、それから唄う人が各々権利を持って居るのであります、是等の権利者との間に話合が付きまして、そこで「レコード」が出来ますれば、其「レコード」に関して蓄音機会社が著作権を持つ、そういうことになるのであります」(53頁4段)と記載されており、この答弁の趣旨は、前記のとおり、レコードの製作には、作詩家、作曲家、演奏・歌唱者という第一次著作者の許諾が必要であり(旧法22条の6)、適法に写調されて「レコード」が製作されれば、レコード製作者が当該レコードについてのみ著作権を保有すること(旧法22条の7)を説明しているものである。 そして、控訴人エー・アール・シーらが引用する次の箇所は、この答弁に続いて、次のとおり記載されている。 「子爵近衛秀磨君 今のことに連関してでございますが、唄った人間は著作権を持たないのでありますか 政府委員(勝田永吉君) 唄った人は「レコード」に吹き込まれる場合に於て、是も平たく申せば蓄音機会社と相談して吹き込んで居るかと考えます、其場合に於ては、唄った人は蓄音機会社に対して相当の金を要求します、蓄音機会社はそれに対して支払う、そういう関係になります、出来上がった「レコード」に対しては唄った人は著作権を持たない、そうして「レコード」会社が持つとそういうことになるのであります」(乙第1号証の354頁1段) 上記の子爵近衛秀磨の質問は、「レコード」著作物の著作権の帰属に関する上記の政府委員(勝田永吉)の答弁を受けたものであり、そして、この質問に対する答弁も、上記のレコード製作者が製作した当該レコード(録音物)の著作権の帰属の説明と同じく、新たに創設される旧法22条の7に基づいて発生する「レコード」著作物の著作権の帰属を説明したものであり、レコードに収録された「作詩」、「作曲」及び「演奏歌唱」という原著作物に対する著作権(旧法1条の複製権)の帰属を議論するものではないことは明らかである。なお、上記の問答は、被控訴人らが指摘するように、旧法上「レコード」著作物の著作者が誰であるかという点について、次のように見解が分かれ得るために、これを確認すべくされたものと認められる。すなわち、「レコードについては、「録音物」が昭和9年(1934年)の法律改正によって保護対象に加えられたが、これは「演奏歌唱」の場合とは異なり、第22条の7の規定によって特別に著作物性が認められており、文芸、学術または美術の範囲に属する著作物とは一線を画されている。・・・この「録音物」の著作者は吹き込みを行った実演家なのか、レコード製作者なのか、あるいは両者の共同著作物なのかについては見解が分かれており、実際上は著作権の帰属は実演家とレコード製作者の間の契約によって定まると解されていた。」(吉田大輔「著作隣接権制度の形成と発展」、甲第19号証の224頁)のである。 ウ 以上によれば、控訴人エー・アール・シーらが引用する上記の箇所は、議事録の一部にすぎず、その問答の全体を通読すれば、控訴人エー・アール・シーらの主張の根拠となり得ないことが明白であり、控訴人エー・アール・シーらの上記アの主張は、採用することができない。 (3) 控訴人エー・アール・シーらのワン・チャンス主義に係る主張について ア 控訴人エー・アール・シーらは、旧法上、実演家の権利には、いわゆるワン・チャンス主義の原則が適用され、契約によって権利を確保する機会を実演家に与え、レコード製作者の管理が及ぶことさえ確保すれば、実演家の権利はレコード製作者との契約を通じてのみ守られるのが本則であり、その権利は否定されるべきである旨主張している。 イ しかしながら、前記のとおり、旧法上、実演家(演奏・歌唱者)の権利の保護形式としては、旧法は1条1項の著作物の中に「演奏・歌唱」を含めて規定し、演奏・歌唱者について、作詞家、作曲家と同様に第一次的著作者として保護して、複製権を専有するものとしていたのであり、また、旧法22条の6においても、作詞家、作曲家と同じく録音権及び興行権を保有するものとしていたものと認められるのであるから、旧法は、実演家の権利について、現行法における著作隣接権という保護形式による場合以上に、いわゆる「ワン・チャンス主義」を採用していなかったことは、明らかであるといわざるを得ない。旧法の1条1項、22条の6の各明文規定の法解釈として、演奏・歌唱者の権利に限って、「ワン・チャンス主義」が採用されていたと解釈すべき合理的な理由は、見い出すことができない。 ウ また、そもそも、「ワン・チャンス主義」とは、ローマ条約上の実演家の権利の性格を説明するために、日本の立法関係者が便宜上使用した言葉であるところ(著作権情報センター編著「新版著作権法事典」409頁)、被控訴人らが主張するとおり、このワン・チャンス主義が許容されたローマ条約が作成されたのは、1961年(昭和36年)10月26日であり(その草案としては、1939年(昭和14年)に「文学的及び美術的著作物保護に関するベルヌ条約に付属する条約草案」(いわゆるサマダン草案)が提案され、また、1951年(昭和26年)開催のローマ混合専門家委員会会議でローマ草案が提案されている。甲第19号証の218頁)、前記の大正9年及び昭和9年の旧法の改正がワン・チャンス主義を規定したローマ条約に基づいて立法化されたものでないことは明らかである。 なお、この点について、控訴人エー・アール・シーらは、法律の解釈は立法当時の事情に限られない旨主張しているが、現行法においても、ワン・チャンス主義は、法92条2項において同条1項の例外として一部採用されているにとどまるものであるし、現時点における国際法理を考慮しても、被控訴人らが指摘するように、1996年12月20日にジュネーヴで作成された「実演及びレコードに関する世界知的所有権機関条約」(WPPT)の7条は、実演家の複製権について、「実演家は、レコードに固定されたその実演について、直接又は間接に複製すること(その方法及び形式のいかんを問わない。)を許諾する排他的権利を享有する。」と規定し、レコードの増製も実演家の複製権の対象になることを明文で規定し、ローマ条約のワン・チャンス主義を排除することを明確にしているのであるから、旧法の前記の立法形式に反して、旧法上の実演家(演奏・歌唱者)の権利についてワン・チャンス主義が採用されていたと解釈することはできない。 (4) 小括 以上のとおり、旧法において、歌唱の著作権(旧法1条)と、レコード製作者の録音物の著作権(旧法22条の7)とは、別個の権利として併存するものとして保護されており、レコード製作者が後者の権利を取得したことによって、歌唱者の前者の権利が否定されることはないものというべきであるから、争点@についての控訴人エー・アール・シーらの主位的主張及び予備的主張のいずれも失当であって、採用することができない。 2 争点A(レコード会社による法人著作の成否及び著作名義)について (1) 本件実演家の本件実演の内容、本件各契約の内容、本件レコードの発行の際のレコード盤の表記について 本件証拠(甲第4号証、第5号証5号証の1、6、第6号証の1、第7号証の1、第8号証の1ないし3、第9号証の1、2、第10号証ない第17号証の各1、第22号証、乙第7号証、第9号証、第11号証、第13号証、第14号証の1ないし3、丙第1号証、及び弁論の全趣旨(被控訴人らの当審における平成13年12月10日付け準備書面60頁掲記のレコード盤のレーベル写真を含む。)並びに当裁判所に顕著な事実を総合すれば、本件実演家の本件実演の内容、本件各契約の内容、本件レコードの発行の際のレコード盤の表記について、以下のアないしウに判示する事実関係を認定することができる。 ア 本件実演家の本件実演の内容 本件実演家の氏名(芸名)及び本件レコードに収録された本件実演の曲名は、例えば、伊藤久男「暁に祈る」、近江俊郎「湯の町エレジー」、霧島昇「誰か故郷を想わざる」、並木路子「リンゴの唄」、二葉あき子「めんこい仔馬」、藤山一郎「夢淡き東京」、美空ひばり「悲しき口笛」、岡晴夫「上海の花売娘」、田端義夫「かえり船」、ディック・ミネ「人生の並木路」、東海林太郎「赤城の子守唄」等々というものであり、本件実演家は、いずれも国民の高い人気を博した著名な歌手であって、その歌唱内容は、各実演家の個性が高い、独特の唄い回しのものとして聴取者に強い印象を与えるものであり、その歌曲は、昭和初、中期を代表する著名な曲として現在においても広く国民に親しまれている。 このように、本件実演家は、我が国の歌謡界における芸術家(アーティスト)として、高い地位を占めていた者であり、これは各実演家の才能、技能と修練によって築き上げられたものである。また、本件実演家は、その実演(歌唱)に当たっては、独創性を重んじて、実演(歌唱)する歌曲の作詞、作曲の内容について解釈し、これを深め、また、歌唱の方法を工夫して練習を重ねて、各人の個性が高く発揮され、その感情が表現されるように、精神的な努力を尽くして本件実演をしたものと認められ、したがって、本件実演の実施においては、本件実演家の個性・表現が特に重視され、その広範な裁量に委ねられていたことは、推認するに難くない。 そして、本件レコードの聴取者、購買者である国民は、ラジオ放送、映画、演奏会等を通じ、あるいは飲食店等で本件実演家による歌唱を聴取して、曲名のほかに、本件実演家の氏名(芸名)とその歌唱内容とを記憶し、かつ、本件実演家による歌唱の独創性を評価して、その歌手の実演が収録された本件レコードを購入して家内で聴取していたものと認められる(本件レコードの聴取者及び購買者は、本件実演(歌唱)を行った歌唱者について、当然にそれぞれの本件実演家(歌手)であるとのみ認識しており、これと異なる認識を有しなかったことは明らかである。)。 また、このようにレコードの売上げは、歌曲の独創性のみならず、本件実演家(歌手)の歌唱の独創性によるところが大きいために、レコード産業においては、頻繁かつ激烈な歌手の引き抜き合戦の応酬があり、昭和初年ころから、これに対応するように、レコード会社各社は、本件実演家との間で専属契約を締結するようになった。 イ 本件各契約の内容 本件実演家とレコード会社との間の本件各契約についてみると、本件では、本件実演から長期間が経過しているため、その契約書の一部しか提出されていないが、その提出された契約書(甲第8号証の1ないし3、第9号証の1、2、第10号証の1、第14号証の1、第17号証の1)には、概ね同様の合意がされているものと認められ、その具体例として、実演家を奈良光枝とする契約書(甲第8号証の1)には、次の契約事項が合意されていることが認められる(以下のアルファベット記号により、「契約事項a」等と略称する。)。 a 実演家は、契約期間中は、レコード会社の専属芸術家として、その歌唱をレコード会社又はレコード会社の指定した者(以下「レコード会社等」という。)のためにのみ音盤類に写調し、あるいはレコード会社等のためにのみ出演するものとし、レコード会社等のほか、何人のためにも音盤類に写調する目的で歌唱あるいは出演をしないこと(第4条)、 b 実演家は、レコード会社の指定する楽曲をレコード会社の指定する日時、場所において音盤類に写調するために歌唱するが、その写調の日時は、なるべく実演家の希望の日時を選定すること(第5条)、 c 写調の結果がレコード会社において完全と認めるまでは、実演家は何回でも無償でこれを歌唱すること、写調に要する費用は、一切レコード会社が負担すること、実演家の歌唱を写調するか否か及び写調した音盤類を複製しこれを発売頒布するか否かはレコード会社に一任すること(第5条)、 d 実演家が本契約によりした歌唱及びこれを写調した音盤類に関する一切の著作権は無条件かつ無制限でレコード会社に帰属し(第6条)、実演家の歌唱に関する著作権譲渡の登録は本契約書をもって、あるいはレコード会社の請求によってその登録に必要な譲渡書をレコード会社に交付し、レコード会社が単独でこの登録をすることができ、また、レコード会社の要求により実演家は何時でもこの登録に協力すること(第7条)、 e 本契約第5条ないし第7条の規定は、実演家の出演又は実演に準用すること(第8条)、 f 本契約期間中、レコード会社は実演家に対し、専属料として定額を毎月末に支払うこと(第9条)、レコード会社は実演家に対し、実演家の歌唱を写調した音盤類について売上枚数に応じた印税を支払うこと(第9条)、 g 本契約により実演家が出演又は実演した場合の料金は、別にレコード会社が定める相当の金額を実演家に支払うこと(第9条)、 h 実演家は、レコード会社の指定する以外の音楽会、放送等で実演しようとするときは、その実演の日より前に必ずレコード会社の許諾を得ることを要すること(第11条) 本件実演家とレコード会社との間の本件各契約は、いずれも上記とほぼ同様の内容で合意されていたものと推認することができ、契約関係の法的な評価に影響を及ぼすようなこれと特段に異なる合意事項が締結されていたことは、認めることができない。 ウ 本件レコードの発行の際のレコード盤の表記 本件実演家の本件実演を収録した本件レコードを発行した際には、そのレコード盤(複写盤)のレーベル部分に、当該レコードの発行、発売元であるレコード会社名の表記のほかに、収録曲名、作詞家名、作曲家名と並べて、「歌唱者」名として本件実演家の氏名(芸名)が単独で表記されていた。 (2) 当裁判所の職務著作(法人著作)の成否についての判断 ア 職務著作(法人著作)による法人(団体)の著作権の取得の可否について、旧法には、現行法15条のような明文規定は置かれていないものの、旧法6条は、「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行又ハ興行シタル著作物ノ著作権」についての保護期間について規定していること、及び、旧法下においても、著作物の著作者についての社会通念及び法的評価は現行法におけるものと実質的な相違はないと考えられることを考慮すれば、現行法15条と同様の要件において、職務著作(法人著作)によって法人(団体)が著作者として著作権を取得し得るものと解するのが相当である(法人名義の著作物の著作者に関して、現行法の施行前に創作された著作物について現行法15条を適用しないと定める現行法附則4条の規定は、上記のとおり判断することの妨げになるものではない。加戸守行「著作権法逐条講義(三訂新版)」707頁ないし709頁参照)。 イ 上記(1)のアないしウに判示した事実関係によると、本件実演家とレコード会社との間の本件各契約の内容について、次の各点を指摘することができる。 (ア) 本件実演家は、いずれも国民の高い人気を博した著名な歌手であり、我が国の歌謡界における芸術家(アーティスト)として、高い地位を占めていたものであって、本件各契約において、本件実演家は、「芸術家」として扱われており(契約事項a)、実演の実施内容についてレコード会社から指揮監督を受けるべきことをうかがわせる合意条項はなく、写調のための実演において、実演家各人の個性・表現が重視されて、その広範な裁量に委ねられていたものと認められる。 また、本件各契約において、実演家がレコード会社の指揮監督に服する旨の一般的な規定や懲罰規定はない。 (イ) 実演家が写調のために歌唱すべきことは、レコード原盤にこれを固定して、レコード複写盤を発行し、発売するのに適したものとして完成させることを目的としており、写調の結果がレコード会社において完全と認めるまでは、実演家は何回でも無償でこれを歌唱することとし、反面、この写調に要する費用は、一切レコード会社が負担することとしていた(契約事項c)。このように、実演家の仕事は、単に一定の労働力をレコード会社に提供しその指揮監督に服するものではなく、独創性の高い歌唱をして、レコード会社が写調してレコード原盤を製作することに協力し、これを完成させることを目的としている。そして、完成されたレコード原盤によるレコードの発行の際には、そのレコード盤のレーベル部分に実演家の氏名(芸名)が歌唱者として明記されていた。 (ウ) 実演家の報酬については、レコード会社は実演家に対し、実演家の歌唱を写調した音盤類について、レコードの売上枚数に応じた印税を支払うことが約定されており、これは、契約終了後もレコードの売上げに応じて支払われるものであり、この印税は、上記(イ)の仕事の完成に対する対価とみることができる。他方、写調の結果がレコード会社において完全と認めるまでは、実演家は何回でも歌唱することとされているが、これは無償とされている(契約事項f)。なお、下記(オ)のとおり、実演家はレコード会社に専属され、その写調のための歌唱や実演を独占させることとしているが、その対価として、印税とは別に、専属料として定額を毎月受け取ることが約定されていた(契約事項f)。 (エ) 実演家が実演して、レコード会社がこれを写調するに際しては、実演家が歌唱し、レコード会社が写調する日時、場所についてレコード会社が指定するが、できるだけ実演家の希望する日時を選定するものとされていた(契約事項b)。この日時、場所の指定は、実演家の歌唱を写調するには、収録スタジオや伴奏者、録音スタッフ等との関係があることから当然のこととして合意された事項であると推認される。 (オ) 実演家は、レコード会社の専属として、レコード会社に、写調のための歌唱、実演を独占させるが(契約事項a)、写調目的以外の音楽会、放送等における実演は、その実演の日より前にレコード会社の許諾を得れば、レコード会社等以外の第三者のためにも実施することが可能であった(契約事項h)。 ウ 以上イの(ア)ないし(オ)に判示の契約関係を総合して考察すれば、本件実演家とレコード会社との間の本件各契約において、実演家がレコード会社に対して、その指揮監督に服し、一定の労働力を提供して労務に就くことを受容することは、契約の目的とされておらず、本件実演家がレコード会社を使用者とする雇用関係ないしこれに類する関係にあったものとは到底認めることはできない。また、本件実演家がその実演に当たりレコード会社の指揮監督に服したり、レコード会社の支配・従属関係にあったと認めることができないことも明らかである。 したがって、本件実演家は、レコード会社の従業者に該当しないことは自明であり、この点で法人(団体)著作の要件を充たさないから、レコード会社は、本件実演(歌唱)の著作物について、その著作者として歌唱の著作権を直接取得し得ないことは明らかというべきである。 本件各契約において、本件実演家が歌唱の著作権をレコード会社に譲渡することをあらかじめ合意して、この登録に協力することを約定していたこと(契約事項d)は、端的に、契約当事者の間においてもこのことを前提として合意していたものと認めることができる。 エ のみならず、上記(1)のア及びウに判示した事実関係によれば、本件レコードの発行に当たり、著作物である本件実演(歌唱)の著作者として、本件実演家の氏名(芸名)がレコード盤のレーベル部分に明記されており、レコード会社は、本件実演についての著作者としては表記されていないことが認められる(上記(1)のア及びウに判示した事実関係によれば、このレーベル部分の表記に接するレコードの購買者において、レコードに収録された歌唱について、歌唱者として明記された実演家が行ったものとしてのみ認識し、レコード会社及び本件実演家においても購買者と同じ認識であったものと推認することができるものであり、本件レコード発行当時及び現在の社会通念によれば、本件レコード発行の際に、歌唱の著作物の著作者として本件実演家のみが表示されていたものと認められることは明らかである。これに反して、本件レコード発行の際の歌唱の著作物の著作名義の認定に当たって、レコード盤のレーベル部分における歌唱者の表記の大小やレコード盤のジャケットにおいて多数の者の肖像がデザインされたものがあることを問題とする控訴人らの主張が失当であることは明白である。)。 このように、本件実演については、法人(団体)著作の要件のうち、法人(団体)が自己の著作の名義の下に公表したことを充たすものとすることはできないから、この点においても、レコード会社が本件実演(歌唱)の著作物について、その著作者であるとして歌唱の著作権を直接取得する余地はない。 したがってまた、本件実演は、前記の旧法6条所定の「団体ニ於テ著作ノ名義ヲ以テ発行又ハ興行シタル著作物」にも該当しないことは、明らかである。 (3) 小括 以上のとおり、争点Aについての控訴人らの主張も理由がなく、採用することができない。 よって、本件レコードに録音されている本件実演を著作物とする著作権(旧法1条の複製権)は、本件実演家が著作者として取得し、本件各契約(本件実演のうち原判決添付の別紙二表D記載の実演に係るものは、東海林太郎と同表記載の権利承継者との間との昭和45年12月11日付けの契約)に基づいて、レコード会社に譲渡されたものと認められ、現行法施行の際に存続しており、現行法の著作隣接権としてその保護期間は終了していないものである。 3 争点B(法114条2項の使用料相当額の算定方法等)について (1) 被控訴人らは、現行法の施行日である昭和46年1月1日以降、本件実演について、現行法が保護する著作隣接権を有しており、法91条1項規定の録音権(複製権)を有するものと認められるところ、法113条1項は、「次に掲げる行為は、当該著作者人格権、著作権、出版権又は著作隣接権を侵害する行為とみなす」と規定し、その1号で「国内において頒布する目的をもって、輸入の時において国内で作成したとしたならば著作者人格権、著作権、出版権又は著作隣接権の侵害となるべき行為によって作成された物を輸入する行為」と規定している。 そして、控訴人エー・アール・シーらがそれぞれ平成8年及び平成9年に、本件実演が録音されている原判決添付の別紙三レコード目録記載の本件輸入レコードを、チェコ共和国において製造させた上で、少なくとも原判決添付の別紙四製造レコード目録記載の製造数量を、日本国内で頒布する目的で輸入したことは、当事者間に争いがない。 そこで、控訴人エー・アール・シーらが製造させた上で、輸入した本件輸入レコードは、上記の輸入の時において国内で作成したとしたならば、被控訴人らの著作隣接権(複製権)の侵害となるべき行為によって作成された物(不法複製物)であるということができるから、本件輸入レコードを輸入する行為は、法113条1項1号により、被控訴人らの著作隣接権(複製権)を侵害する行為(不法複製行為)とみなされる。 したがって、控訴人エー・アール・シーらは、被控訴人らの著作隣接権(複製権)を侵害したものとして、被控訴人らの損害に対して賠償すべき責任がある。 (2) 法114条2項の適用 ア 同項の趣旨について 被控訴人らは、控訴人エー・アール・シーらに対して、法114条2項の規定の適用による損害額の賠償を求めているところ、同項は、「著作権又は著作隣接権者は、・・・その著作権又は著作隣接権を侵害した者に対し、その著作権又は著作隣接権の行使につき受けるべき金銭の額に相当する額を自己が受けた損害の額として、その賠償を請求することができる。」と規定している(なお、同項は、平成13年1月1日施行の平成12年法律第56号による改正により、改正前の「著作隣接権の行使につき通常受けるべき金銭の額に相当する額」との法文中「通常」の文字が削除された。)。 上記の法114条2項の規定によれば、著作隣接権者は、「損害の発生」については主張立証する必要はなく、「権利侵害の事実」と、「その著作隣接権の行使につき受けるべき金銭の額に相当する額」とを主張立証すれば足りる。他方、侵害者は、「損害の発生があり得ないこと」を抗弁として主張立証すれば、損害賠償の責めを免れ得るものと解される。法114条2項は、同条1項とともに、不法行為に基づく損害賠償請求において損害に関する被害者の主張立証責任を軽減する趣旨の規定であって、損害の発生していないことが明らかな場合にまで侵害者に損害賠償義務があるとすることは、不法行為法の基本的枠組みを超えるものというほかないからである(法114条2項と同趣旨の商標法(平成10年法律第51号による改正前のもの)38条2項について判示した最判平成9年3月11日民集51巻3号1055頁参照)。 イ そこで、著作隣接権(複製権)を侵害する本件輸入レコード(不法複製物)の輸入行為(不法複製行為)について、著作隣接権者である被控訴人らは、侵害者である控訴人エー・アール・シーらに対して、「その著作隣接権(複製権)の行使につき受けるべき金銭の額に相当する額」(以下「使用料相当額」という。)を自己が受けた損害として賠償請求することができるところ、法114条2項の規定は、著作隣接権者が侵害者に対し、その著作隣接権の行使について受けるべき金銭として客観的に相当であると認められる額を、著作隣接権者が受けた最小限の損害額として認めたものである(法114条3項参照)。 したがって、この使用料相当額を定めるに当たっては、侵害当時における正規の取引相手との間の許諾契約の例など正常な取引実務のみを考慮するのは相当ではなく、過去の許諾例、業界の使用料規定、業界の相場等のほか、当該著作物ないし著作隣接権の対象となる実演の創作的な価値、経済的な価値、権利者と侵害者との関係、権利者の営業政策、当該侵害行為の態様、侵害行為が業界に及ぼした影響等の個別事情を十分に斟酌して、これらの事情を総合考慮して、客観的に相当と認められる額を算定するが相当であり、前記の平成12年法律第56号による改正の趣旨は、このことを明確にするものである。 (3) 本件における使用料相当額の認定 ア 本件証拠(甲第21、第22号証、第26号証、第33号証、乙第15号証の1ないし204、第16、第17号証、第25号証)及び弁論の全趣旨並びに当裁判所に顕著な事実によると、本件において次の各事情が認められる。 (ア) JASRACに対するレコードにおける著作権の使用料の支払いは、レコードの販売枚数ではなく、製造(複製)枚数によって算定されており、仮にJASRACから許諾を受けた者が販売し得ずに、在庫が残ったとしても、JASRACからの使用料の返還は行われていない。 ちなみに、控訴人エー・アール・シー及び控訴人エスアイシーは、チェコ共和国において本件輸入レコードを製造(複製)させるに当たり、JASRACの提携先に対して、著作権の使用料をレコードの販売枚数ではなく、製造枚数を基準にして算定した金額で支払っている。 (イ) レコード原盤の使用、レコード原盤供給の実務においても、レコード原盤の使用料を複製枚数によって算定する例が少なくない(具体例として、甲第33号証)。また、その契約の期間中に複製されたレコードが契約期間の満了時に在庫として残っている場合に、引き続き一定期間販売することを認めるものの、この在庫販売期間の終了時に残存するレコード複写盤は、廃棄する義務を負うことを約定することも一般的に行われている。 また、これらの契約において、レコード原盤の使用の許諾、レコード原盤の供給を独占的に行うこととし、それに見合う対価として、独占させない場合と比べて高額の使用料を得られる契約を締結することが一般的に行われている。 (ウ) レコード輸入、販売業者のレコードの輸入数量は、輸出入時の関係書類等により比較的客観的に捕捉し得るのに対して、いったん輸入されて国内で販売された数量については、権利者が客観的に捕捉することは容易ではなく、当該業者の誠実な協力が不可欠となるところ、権利者が正常な取引の相手に対して著作権ないし著作隣接権の利用を許諾する場合には、販売数量によって使用料を算定する方式の契約を締結する動機付けがあるものと認められるが、侵害行為者との間では信頼関係がなく、そのような動機付けを有し難いものと認められる。 (エ) 本件実演家は、いずれも国民の高い人気を博した著名な歌手であって、本件実演は、昭和初、中期を代表する著名な曲の歌唱として、現在においても広く国民に親しまれ、また記憶されているものであって、その創作的な価値は高く、顧客吸引力も高いものと認められる。 本件輸入当時、著名歌手による実演の録音権(複製権)に係る通常(正規)の契約の使用許諾料としては、実演1曲、レコード1枚当たり、20円を下回ることはなかった。 (オ) 本件では、控訴人エー・アール・シーらは、本件輸入レコードをチェコ共和国で複製させた上で、平成8年及び平成9年に我が国に輸入したものであり(争いがない。)、輸入の時以降、被控訴人らが本訴を提起した日(平成10年6月23日)の後である平成11年6月4日までの間に、国内で本件輸入レコードを販売していた。 そして、控訴人エー・アール・シーらは、この間に国内のレコード販売業者等から納品の要請があれば、本件輸入レコードについて、国内における在庫品保管場所から直ちに出荷して納品し得る状況にあり、また、返品も受けていた。 (カ) これら本件輸入レコードの国内における販売は、新聞広告で宣伝されるなど公然と行われていた。また、その広告には「ゴールデンヒット歌謡」、「あの声聞けば甦る、懐しき青春の日。」、「昭和の名曲 150選」との宣伝文言や、「人生の並木路(ディック・ミネ)」、「悲しき口笛(美空ひばり)」、「かえり船(田端義夫)」、「湯の町エレジー(近江俊郎)」という本件実演の曲名と本件実演家の氏名(芸名)とが大きく記載されるなどして宣伝されていた(国内の通信販売業者である控訴人総通による新聞広告の例として、甲第22号証)。 (キ) このように、本件では、控訴人エー・アール・シーらによって、著作隣接権を侵害する本件輸入レコードが、海外で復刻された上で、著作隣接権者である被控訴人らに無断で我が国に輸入されて、国内で堂々と宣伝され販売されたことから、我が国のレコード業界に与えた影響は大きく、また、控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーの代表者である控訴人Aは、本件実演家の旧法上の歌唱の著作権については、旧法22条の7の規定との関係で喪失しているなどと、本件訴訟におけるのと同様の独自の主張を名目にしてこれらの侵害行為を行っていたものであって、これに追随する違法業者が出現することも懸念される状況にあった。 イ 上記アに認定の本件に顕れた諸事情を総合して考慮すると、著作隣接権(複製権)を侵害する本件輸入レコードの輸入行為(不法複製行為)について、被控訴人らが、侵害行為者である控訴人エー・アール・シーらに対して、その権利の行使として請求することができる使用料相当額としては、本件輸入レコードの輸入数量(不法複製物の数量)に基づいて算定することが相当であり、その場合に、実演楽曲1曲、レコード1枚当たり20円とする額を下回ることはないものと認められる。 したがって、これと同じ算定方法により被控訴人らの損害額を認定した原判決の判断に誤りはない。 ウ 控訴人エー・アール・シーらの主張について (ア) 控訴人エー・アール・シーらは、「権利者が輸入を許諾する場合には、その結果輸入物の販売をも甘受しなければならなくなるため、市場の排他的な利用機会を喪失し、その対価として使用料を取得する。これに対し、侵害物が輸入されても販売されないままに廃棄される場合には、その部分について、権利者は市場の排他的な利用機会を喪失することなく、そもそも使用料相当額の賠償の対象たるべき損害が存在しない。」と主張している。 しかしながら、著作権ないし著作隣接権を侵害した者が、当該侵害行為によっていかなる経済的な利益や、権利利用許諾取引を含む取引市場における利益を享受し獲得したものと評価し得るか否か、あるいは、その侵害行為によって、権利者がその権利を他の第三者に許諾する利益が損なわれたと評価し得るか否かということは、個別の事情に基づいて事案ごとに判断すべきであり、また、これらの判断は、その性質上、個別の事情を総合して判断すべきものであることが明らかである。 (イ) 本件では、控訴人エー・アール・シーらは、上記アの(オ)及び(カ)のとおり、本件輸入レコードについて、平成8年及び平成9年に輸入して以降、平成11年6月4日までの間に国内で販売活動をしており、その販売態様としても、我が国の国民の間に著名な本件実演家の氏名(芸名)及び本件実演の内容に基づく顧客吸引力を最大限に利用して宣伝していたものと認められる。そして、この間に国内のレコード販売業者等から納品の要請があれば、国内の在庫品保管場所から直ちに出荷し得る状況にあったものと認められる。 このように、控訴人エー・アール・シーらは、本件輸入レコードの輸入行為(不法複製行為)に基づいて、本件実演家の実演が録音されている本件輸入レコード(不法複製物)の輸入数量の全品について、それらの顧客吸引力を利用して宣伝広告して、現に販売活動を行っていたと評価し得るのであり、本件輸入レコードに録音された本件実演による経済的利益及び権利利用許諾取引を含む取引市場における利益を享受し、既に獲得していたものと認めることができる。 したがって、本件輸入レコード(複製物)の輸入に基づいて上記の利益を享受し得ることを許諾する対価として、その輸入数量を基にして使用料相当額を定めることは相当であり、かつ、上記アの(ア)ないし(ウ)の音楽の著作権ないし著作隣接権の使用料に係る現実の実務における実情を斟酌すれば、権利侵害者である控訴人エー・アール・シーらに対する権利の行使について被控訴人らが得ることができる使用料相当額につき、本件輸入レコード(不法複製物)の輸入数量(複製数)を基に算定することは、合理的であるというべきである。 (ウ) 控訴人エー・アール・シーらは、本件輸入レコードの在庫数量について、判決により廃棄が強制されるとして、これを輸入数量から控除すべきであると主張するが、控訴人エー・アール・シーらは、本件輸入レコードを輸入したことに基づいて、上記の(イ)のとおり、既に経済的利益を享受し得る地位を獲得していたものと認められ、控訴人エー・アール・シーらは、自らの計算と名義に基づいて最大の利益を追求することができ、現にそのような販売活動をしていたのであるから、仮に在庫品が残って、これらが今後の判決の執行により廃棄されるとしても、権利者たる被控訴人らの不利益においてその在庫数量分を考慮して使用料相当額を算定することは相当ではない。 音楽の著作権者ないし著作隣接権者から正規に許諾を得て、レコードを複製して頒布していた者であっても、上記アの(ア)及び(イ)のとおり、在庫数量について使用料の返還を求めることが許されず、また、契約期間終了の一定期間経過後に在庫品について廃棄すべき義務を負担しているのであって、これと対比しても、権利侵害者であり、上記のとおり経済的利益を享受し得る地位を獲得していた控訴人エー・アール・シーらに対する使用料相当額を算定するにつき、複製枚数から在庫数量分を控除して把握すべきでないことは、明らかである。 (エ) 以上のことを著作権ないし著作隣接権の侵害事件の実際においてみても、もし、権利侵害者が負うべき使用料相当額の損害額を算定するに当たり、輸入数量のほかに、在庫数量をも考慮すべきであるとすると、権利侵害者の在庫品につき執行官保管の仮処分を得るなどの手続を経ない限り、当該訴訟の口頭弁論終結後に、権利侵害者によって在庫品が販売されるおそれを否定することができず、もしそのような行為がされた場合には、権利者の保護の十全を期すことができない(著作隣接権の侵害行為(輸入行為)に基づく使用料相当額の損害賠償請求及び在庫品の廃棄請求訴訟において、その損害額の算定にあたり、輸入数量から在庫数量を控除した算定方式を採用し、あるいは、在庫数量の存在を配慮した損害額を認定した判決が確定して、その後、判決の執行前に在庫品が販売された場合に、権利者は、新たに損害賠償請求訴訟を提起し得るか否かについては、両訴訟における訴訟物の異同について、著作隣接権の侵害による損害賠償請求権は、輸入行為によって確定的に発生しており、在庫品の有無は損害額の評価の問題にすぎないとして、訴訟物の同一性を肯定するか、被侵害権利は同一であるが侵害行為が異なるとして、これを否定するかは、一つの問題であり、後者の見解を採るとしても、新たな訴訟提起を権利者に強いる結果となり相当ではない。)。著作権ないし著作隣接権使用の許諾取引の実情等の個別事情から、販売数量を基礎にして使用料相当額を算定すべき事案においては、上記の不都合もやむを得ないものと考えられるが、本件はそのような事案ではない。 エ 以上のとおり、控訴人エー・アール・シーらの上記主張は、失当であり、本件輸入レコードについて在庫品があることは、「損害の発生があり得ないこと」という権利侵害者による抗弁として、首肯し得ないことは明らかであり、また、前判示のとおり、本件に顕れた個別事情を総合すれば、被控訴人らが受けた損害額として控訴人エー・アール・シーらに対して請求することができる使用料相当額は、輸入数量を基に算定した前記の金額が相当であると認められる。 (4) 小括 よって、控訴人エー・アール・シーらの争点Bについての主張は、採用することができず、原判決の損害額の認定は、相当であると認められる。 4 争点C(本件輸入レコードの輸入数量等)について 控訴人エー・アール・シー及び控訴人エフアイシーが、それぞれ本件輸入レコードを、少なくとも原判決が争いがない事実として認定した数量について輸入したことは、当審においても被控訴人らと控訴人エー・アール・シーらとの間において争いがない。 そして、前記3の争点B(法114条2項の使用料相当額の算定方法等)について判示したとおり、控訴人エー・アール・シーらが被控訴人らに対してそれぞれ賠償すべき損害額として、原判決が上記の争いのない輸入数量を基にした算定は、相当であると認められるから、被控訴人らの控訴人エー・アール・シーらに対して損害賠償を求めるする本訴請求は、少なくとも原判決が損害額として認容した限度で理由があることは明らかである(被控訴人らによる控訴及び附帯控訴がない当審において、原判決の認容額を超えて被控訴人らの本訴請求を認容することは、控訴人エー・アール・シーらにとって不利益変更となり許されないから、当審における新たな争点Cの当事者主張に係る本件輸入レコードの輸入数量のうち、上記の争いがない輸入数量を超える部分については、判断するまでもない。)。 第5 結論 以上によれば、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、いずれも棄却することとして、主文のとおり判決する。 東京高等裁判所第18民事部 裁判長裁判官 永井紀昭 裁判官 古城春実 裁判官 橋本英史 (別紙) 頒布数量等一覧表 (被控訴人ら平成13年12月10日付け最終準備書面添付のもの) |
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