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【事件名】歌川家の名称事件(2)
【年月日】平成14年7月5日
 大阪高裁 平成12年(ネ)第3933号 名称使用禁止等請求控訴事件
 (原審・大阪地裁平成9年(ワ)第9661号) 
 (口頭弁論終結日 平成14年5月10日)

判決
亡歌川豊國訴訟承継人控訴人(1審原告) A
同訴訟代理人弁護士 溝上哲也
同 岩原義則
被控訴人(1審被告) B
同訴訟代理人弁護士 山本孝
同 秋田一惠


主文
1 本件控訴を棄却する。
2 当審追加的予備的請求を棄却する。
3 控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
(控訴人の請求)
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、雅号として「歌川正国」、「UTAGAWA SHOKOKU」及び「歌川」又は「UTAGAWA」姓を冠した氏名を称し、同名を表札・看板・印刷物・書面に使用し、その他表示してはならない。
3 被控訴人は、原判決添付別紙目録記載の系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図を印刷物・書面に用い、その他使用してはならない。
4 被控訴人は、控訴人に対し、金1060万円及びこれに対する平成9年10月8日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。
(被控訴人の答弁)
1 本案前の答弁
 控訴の趣旨のうち1000万円の請求に関する本件訴訟は、平成12年11月11日亡歌川豊國が死亡したことにより終了した。
2 本案の答弁
 主文と同旨。
第2 事案の概要
 以下、書証は甲1などと略称し、その枝番のすべてを引用する場合には、その枝番の記載を省略する。
 本件は、亡歌川豊國が控訴当時の控訴人として、同控訴人の死亡に伴い相続人の<A>が訴訟承継人として、被控訴人に対し、第1に、主位的に、「六代歌川豊国」との表示でした歌川派の家元としての作画活動、写楽に関する同控訴人に伝わる家伝を基にした研究活動、執筆活動、浮世絵・特に「歌川派」に関係する講演活動、「歌川」姓の画姓を弟子に与える歌川派「家元」としての名取り活動、浮世絵の鑑定活動、「歌川会派」・「歌川派門人会」・「歌川豊国興隆会」にみられる弟子や支援者を組織する活動等により、「歌川」姓の雅号又は「歌川」派という浮世絵の流派の名称が同控訴人自身の「営業表示」として周知性を獲得し、これと類似する被控訴人の「歌川正国」等の雅号並びに原判決添付別紙目録記載の系図(以下「本件系図」という。)及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図を使用・表示する行為が同控訴人の営業と混同を生じさせる行為である(不正競争防止法2条1項1号に該当)として、また、承継後当審で追加的予備的に、「六代歌川豊国」との表示でした歌川派の家元としての作画活動、写楽に関する同控訴人に伝わる家伝を基にした研究活動、執筆活動、浮世絵・特に「歌川派」に関係する講演活動、「歌川」姓の画姓を弟子に与える歌川派「家元」としての名取り活動、浮世絵の鑑定活動・「歌川会派」・「歌川派門人会」・「歌川豊国興隆会」にみられる弟子や支援者を組織する活動等により、「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派の名称が同控訴人自身の「営業表示」として、江戸時代から綿々と引き継がれた著名性を獲得し、これと類似する被控訴人の「歌川正国」等の雅号並びに本件系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図を使用・表示する行為が同控訴人の営業と混同を生じさせる行為である(不正競争防止法2条1項2号該当)として、「歌川正国」等の雅号並びに原判決添付別紙目録記載の系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図の使用・表示の差止め及び損害賠償を求め、さらに、同様に当審で追加的予備的に、被控訴人の本件系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図の使用・表示が不法行為に該当するとして損害賠償を求め、第2に、選択的に、旧控訴人、被控訴人間の支援協力契約に付随する義務違反行為があったとして、「歌川正国」等の雅号並びに本件系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図の使用・表示の差止め及び損害賠償を求め、第3に、絵画売買代金の残額の支払を求めている事案である(以下、亡歌川豊國を「旧控訴人」といい、<A>を「控訴承継人」といい、両者をまとめて「控訴人」ということがある。)。
1 基本的事実関係(証拠の掲記のない事実は争いがない。)
(1) 旧控訴人は、明治36年2月3日、父歌川国鶴、母<C>の二男として出生し、「国春」と命名されたが、昭和51年11月19日、名を「豊国」と変更し、さらに平成3年1月30日、名を「豊國」と変更し、平成12年11月11日、死亡し、控訴承継人が遺産分割協議により旧控訴人の被控訴人に対する一切の請求権を相続した(甲2、弁論の全趣旨。死亡の事実は争いがない。)。
(2) 歌川派は、歌川豊春を祖とし、幕末には、実力と人気において、役者絵、美人画、武者絵、風景画などの浮世絵の代表的な分野を独占した浮世絵の一流派として周知である。
 初代歌川豊国(1769〜1825)は、歌川派の創始者歌川豊春の門人で、歌川派隆盛の端緒を開き、門人から優秀な画家を輩出させた人物である。門弟に豊重(二代豊国)、初代国貞(三代豊国)、国芳、国政、国虎らがいる。
 二代歌川豊国(豊重)(1802〜35)は、初代豊国の門人であり、初め豊重と称し、師の養子となり、1825年、師の没後、二代豊国を襲名した。
 三代歌川豊国(初代国貞)(1786〜1864)は、初代豊国の門人で、国貞(初代国貞)と称し、二代豊国存命中に二世豊国を名乗り、1844年に三代豊国を襲名した。
 四代歌川豊国(三代国政、二代国貞)(1823〜80)は、三代歌川豊国の門人で、師の長女の婿であり、三代国政を称し、1846年に二代国貞を、明治3年ころには四代豊国(当時は三世と称す)を名乗った(正式に襲名したか否かについては争いがある。)。なお、初代歌川豊国の門弟には、豊重(二代豊国)と初代国貞(三代豊国)とがいたが、右両名は、当時、それぞれ二代豊国を名乗っていた。現在では、講学上、豊重を二代豊国、国貞を三代豊国といっている。
(3) 被控訴人は、「七次元よりの使者」、「法華三部経大系総論(宗教関係の書物)」などの書物を執筆し、「ウィッピー運動」と称する活動を行ったことがある者で、歌川派の家系とは関係がなく、雅号として「歌川正国」を名乗り、旧控訴人が、平成9年8月21日付内容証明郵便(甲63の1)において、「歌川正国」その他「歌川」姓を冠した氏名の使用及び表示を中止するよう求めたのに対し、同年9月1日付内容証明郵便(甲64)による回答において、上記求めに応じない意思を明らかにしている。
2 争点
(1) 控訴の趣旨のうち1000万円の請求に関する本件訴訟は、旧控訴人の一身専属上の権利であって、平成12年11月11日の旧控訴人の死亡により終了したか。
(2) 「歌川」姓の雅号及び「歌川派」の名称は控訴人の主宰する浮世絵の流派を表示するものとして周知か(周知性)。
(3) 「歌川」姓の雅号及び「歌川派」の名称は控訴人の主宰する浮世絵の流派を表示するものとして著名か(著名性)。
(4) 控訴人の不正競争防止法に基づく請求は同法の目的に反するか(権利濫用)。
(5) 被控訴人が本件系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図を印刷物・書面に用い、その他使用することは不法行為となるか。
(6) 被控訴人に支援協力契約に付随する義務違反行為があるとして同契約上の権利に基き前記使用差止め及び損害賠償を求めることができるか。
(7) 損害額。
(8) 絵画「金閣寺」の売買契約に基づく売買代金請求権の有無。
3 当事者の主張
(控訴人)
(1) 不正競争防止法2条1項1号に基づく請求
ア 当事者
 旧控訴人は、明治36年2月3日、父二代歌川国鶴、母<C>の二男(幼名国春)として出生し、江戸時代後期から美人画や役者絵で一大流派をなした歌川派(創始者 歌川豊春)の二代歌川豊国(豊重)の門弟であった初代歌川国鶴を祖父に持ち、初代国鶴の師系を承継した浮世絵師・父歌川国鶴(二代国鶴、初代歌川国鶴の長男)と叔父歌川国松(二代豊重・五代豊国)の下で修業した浮世絵師であり、昭和47年ころから画業に専念して、歌川派にとって統領的意義を有する著名な名跡である「六代歌川豊国」を襲名した「歌川」の画姓を有する浮世絵流派「歌川派」の家元である。なお、控訴提起後の平成12年11月11日、旧控訴人は死亡し、七代歌川豊国である旧控訴人の三男<A>が本件訴訟を承継している。
 被控訴人<B>(昭和25年6月27日新潟県生まれ)は、「七次元よりの使者」「法華三部経大系総論」など宗教関係の書物を執筆した著述家であり、「ジャポニスム」、「ウィッピータイムス」、「ウィッピー文明」などの定期刊行物を発行し、「ウィッピー運動」、「ふる里村運動」、「法華普及会」と称する活動を行っているグループを主宰する者である。
イ 旧控訴人の活動
 旧控訴人は、幼少のころから父二代歌川国鶴に浮世絵を習い、大正9年に父が死んでからは叔父の歌川国松に師事して、美人画の手法などを修得した後、大阪に移って写真背景画の製作に従事していたが、戦争で画材の入手が困難になったこともあって、いったん画業を中断し、しばらく工場の経営等に参画していたが、昭和42年に会社経営を後身に譲って画業に復帰し、昭和47年の春泥会展において作品を発表して、画業に専念するようになり、五代豊国であった叔父歌川国松の遺志を継いで著名な名跡であり、歌川派の統領的意義を有する六代歌川豊国を襲名した。なお、旧控訴人が画業に復帰するようになった昭和42年ころまでには、既に現存する歌川姓の浮世絵師は旧控訴人だけとなっていた。
 旧控訴人は、昭和50年以降「美術家名鑑」や「美術年鑑」などの年鑑誌に五代豊国に師事した歌川派の六代目として掲載されるようになったほか、日本浮世絵協会の会誌「浮世絵芸術」に六代目歌川豊国として寄稿する等して知名度を高め、昭和51年11月25日には大阪市長より浮世絵芸術の理解と普及に寄与したことに対する表彰を受け、昭和53年2月以降、各地で展覧会や講習会を開催し、随時、入門者を迎えたりしていたが、昭和63年3月には「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代豊国が検証した」と題する書籍(以下「写楽の実像」という。)を出版したことから多数のマスコミが旧控訴人についての記事を掲載することとなった。
 旧控訴人は、その家元としての活動として、「六代豊国」と落款した多数の作画活動、写楽に関する旧控訴人に伝わる家伝を基にした研究活動、執筆活動、浮世絵、特に著名性を有する「歌川派」に関係する講演活動、著名性を有する「歌川」姓の画姓を弟子に与える歌川派「家元」としての名取り活動、浮世絵の鑑定活動、「歌川会派」・「歌川派門人会」・「歌川豊国興隆会」にみられる組織的活動とともに、「歌川」派を世に広めるという「歌川」の画姓及び「歌川」派を営業表示とする家元としての活動を行った。
 現在における組織的活動については、名弘会『七代目歌川豊國襲名披露と個展』の図録(甲348)の「歌川豊國興隆会 会員名簿」が重要である。
 その結果、遅くとも平成2年頃までには、「歌川」姓の雅号及び「歌川派」の名称は、旧控訴人の主宰する浮世絵の流派又は旧控訴人の前記活動を表示するものとして、日本画家の研究者や画商、愛好家の間において広く知られるようになっていた。なお、周知性の判断時期は事実審口頭弁論終結時である。
ウ 旧控訴人と被控訴人の関係
 訴外<D>は、昭和53年ころ、被控訴人の著書を読み、自らが法華経の教主であるとの同人の教義を信じて、被控訴人の下で行動するようになっていたが、被控訴人が仕入れた骨董品を一般人に販売することを指示するようになった昭和63年頃、旧控訴人の書いた「写楽の実像」を読み、旧控訴人に歌川派の詳細を御教授願いたいとの手紙を書いたことがきっかけで、旧控訴人を知り、平成2年4月末か5月初め頃、被控訴人の弟である訴外<E>の要請により旧控訴人を紹介し、それから両者の交際が始まり、旧控訴人は、この頃には上記訴外人の従業員に対して絵を教えたり、その中で旧控訴人に師事したいと入門を求める者に対して「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書を発行するようになり、実際に絵画の売買も行った。
 <E>は、平成2年11月初め頃、旧控訴人に「兄が貴方を後援したいと言っている。後援者になれば、歌川派を発展させられるので、会って欲しい。」と述べ、被控訴人を紹介した。被控訴人は、そのとき、旧控訴人に対し、「今後、貴方の活動を支援していきたい。私は、後援者になるけれども表にはでません。」と述べ、以後、旧控訴人を家元とする「歌川派」の活動を支援するようになった。
 旧控訴人は、平成2年11月頃から、被控訴人の要請を受け、同人の推薦する者に対し、「歌川派門人」として遇する旨の許状を発行し、又は「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書を発行するようになった。そして、以前から門人であった者と被控訴人の推薦により門人となった者が構成員となって、旧控訴人を家元として歌川派を復興することを目的とした「歌川派門人会」が発足し、当初、役員も規約も存在しておらず、被控訴人が後援者と称して展覧会の費用や旧控訴人の旅費・講演料などを負担していた。旧控訴人は、被控訴人らの支援に感謝する意味で何ら対価を受領せずに許状や命名書を発行し、被控訴人の求めに応じて、自分の描いた絵画「二人静」、「春の宵」、「舞妓」、「舞妓」、「紅葉」、「金閣寺」合計6点を売り渡したほか、被控訴人の入手した浮世絵の鑑定を行って、わずかな手数料で鑑定書を発行し、上記浮世絵は、被控訴人の指示に基づき「歌川派門人会」のメンバーによって鑑定書付で販売された。
エ 被控訴人の行為
 被控訴人は、平成6年6月、デンマークのコペンハーゲンにおいて歌川派門人会主催の浮世絵展が開催された時から、歌川家の家系と何の関係もなく、かつ、旧控訴人の命名も承認もないのに、過去の歌川派と何らかの関係があるかのように表示し、歌川派で「歌川」の画姓が与えられていたならば到底考えられない名称を付し、歌川派における家元制度を否定したりする等、歌川派の伝統を全く無視して、自らの宗教的活動に歌川派を利用する等、著名表示であり周知表示である「歌川」派の信用・名誉にただ乗りし、汚染させる不正競争の目的で、「歌川正国(しょうこく)」と名乗るようになり、歌川派の系図に被控訴人を示す「正国(SHOKOKU)」らの名が付加され、しかも被控訴人が旧控訴人の父である二代歌川国鶴の門人であるかのように表示された本件系図の掲載されたパンフレットを発行し、平成7年2月、ノルウェーのオスロにおいても同様の浮世絵展が開催され、再び本件系図が掲載されたパンフレットを発行し、平成6年7月にアルメニア共和国において、同年9月に米国アラバマ州バーミンハム市において、平成7年7月にロシア国立プーシキン美術館において、同年9月にロシア国立エルミタージュ美術館において、それぞれ旧控訴人に気付かれないように「歌川正国展」を開催した。
 被控訴人は、平成7年12月、被控訴人の著書「科学から芸術へ」において、「雅号 歌川正国」を有すると表示した上で、被控訴人が一部宗教団体から迫害や圧力を受けており、そのために、同人の情報が止められているので、浮世絵の力を借り、歌川派の力をもって新たな情報ネットワークを作り出すという趣旨の記述をなし、また、平成7年12月10日から平成8年1月28日まで全国5か所で合計7回にわたり「写楽の真実」と題する旧控訴人の歌川家に伝わる家伝を基に引き写した内容の講演会を歌川正国名で開催するなど、上記旧控訴人の「歌川派」家元としての活動と誤認混同を生じさせる活動を行った。
 旧控訴人は、平成8年になってようやく被控訴人の上記著書の内容、被控訴人が「歌川正国」と名乗っていること及び本件系図に被控訴人を示す「正国(SHOKOKU)」らの名が付加されていたことを知るに至り、同年1月22日、被控訴人に対し、歌川派の名称及び家紋の使用を禁ずるとともに、被控訴人と歌川派とは関係がない旨を通知した。
 しかしながら、被控訴人は、平成8年3月15日発行の機関誌「ジャポニスム」やインターネットのホームページ上などにおいて「歌川正国」の表示をし、現在も前記書籍の販売を続け、旧控訴人が平成9年8月21日付内容証明郵便において「歌川正国」その他「歌川」姓を冠した氏名の使用及び表示を中止するよう求めたのに対し、同年9月1日付内容証明郵便による回答において上記求めに応じない意思を明らかにしている。
オ まとめ
 よって、控訴人は、被控訴人に対し、不正競争防止法2条1項1号及び3条に基づく差止請求権、同法4条及び民法709条に基づく金1000万円の損害賠償請求権及びこれに対する不法行為の後である訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金請求権を有する。
(2) 不正競争防止法2条1項2号に基づく請求(当審追加的予備的請求)
ア 旧控訴人の活動
(1)のア、イと同じ。
 そして、旧控訴人は、江戸時代から続く著名な営業表示である「歌川」派を正統に継承する歌川派家元、又は、著名性を有する「歌川」姓を使用し、また、使用許諾された一群の使用者グループ、すなわち、著名性を有する「歌川」派の一員である。
イ 旧控訴人と被控訴人の関係
(1)のウと同じ。
ウ 被控訴人の行為
(1)のエと同じ。
エ まとめ
 「歌川」姓を使用し、また、使用許諾された一群の使用者グループとしての「歌川」派は、江戸時代から引き続く、著名な営業表示であり、歌川派によって使用し、また、使用許諾された「歌川」姓も著名な営業表示である。
 よって、控訴人は、被控訴人に対し、不正競争防止法2条1項2号及び3条に基づき、江戸時代から続く著名な営業表示である「歌川」派を正統に継承する歌川派家元として、又は、著名性を有する「歌川」姓を使用し、また、使用許諾された一群の使用者グループ、すなわち、著名性を有する「歌川」派の一員として、前記同旨の差止請求権を有し、同法4条及び民法709条に基づき前記同旨の損害賠償請求権及び遅延損害金請求権を有する。
(3) 不法行為に基づく請求(当審追加的予備的請求)
ア 旧控訴人の活動、旧控訴人と被控訴人の関係、被控訴人の行為
 前記と同じ。
イ まとめ
 よって、旧控訴人と師弟関係や血脈関係がない被控訴人が、故意又は過失により、本件系図及び歌川豊春(TOYOHARU)を創始者とする浮世絵流派である歌川派の系譜をひく二代国鶴(KUNITSURUU)その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示する系図を印刷物・書面に用い、その他使用することは、不法行為に該当するから、控訴人は、被控訴人に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権として金1000万円及びこれに対する不法行為の後である訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金請求権を有する。
(4) 契約に基づく請求
 平成2年11月初め頃、被控訴人が旧控訴人に対し「あなたの歌川派は衰退しつつあるので、今後、あなたの活動を支援して、歌川派の復興をお手伝いしたい。私は、後援者になるけれども表にはでません。」と約したことにより、旧控訴人・被控訴人間には、被控訴人が旧控訴人を家元として入門者を迎えたり、門人の中からさらに歌川姓の雅号を授与するなどの活動をしている歌川派を支援し、旧控訴人の活動に協力するという支援協力契約が成立した。
 上記支援協力契約は、その目的が、「歌川派の復興」であるから、旧控訴人が歌川派を正統に承継する家元であることを前提にするものであり、被控訴人も前記旧控訴人の活動を了知していたから、被控訴人には、歌川派の家元制度と家元からの名取りがなければ「歌川」姓の画姓を名乗れないという名取り制度を承認し、それに反した又は「歌川派」の名声・信用にただ乗りしない・汚さないという、契約に附随する義務が存在する。
 しかるに、被控訴人は、遅くとも平成6年6月ころから、上記契約に附随する義務に違反して、「歌川正国」と名乗り始め、上記歌川派の伝統に反し、その名声・信用にただ乗りし、汚染させる活動をしている。
 よって、控訴人は、被控訴人に対し、上記契約に基づく前記同旨の差止請求権、前記同旨の損害賠償請求権及び遅延損害金請求権を有する。
(5) 絵画代金請求
 旧控訴人は、平成4年、被控訴人に対し、下記絵画を価格金360万円で売り渡した。
 記
 金閣寺 縦161・5センチ 横130センチ
 売買の相手方は、「被控訴人」(控訴人の主張)か「六代豊国門人会」(被控訴人の主張)かであって、「歌川派門人会」ではないところ、「六代豊国門人会」は、本件売買当時存在しておらず、旧控訴人が被控訴人に対し「無関係通知書」を出した後に、税務対策と思われる精算協議や名誉毀損行為を行うために作られた団体であり、売買の相手方は被控訴人のほかない。
 よって、控訴人は、被控訴人に対し、支払を受けた300万円を控除した未払絵画代金請求権60万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金請求権を有する。
(被控訴人)
(1) 本案前の主張
 旧控訴人は、平成12年11月11日に死亡したところ、控訴の趣旨2項、3項、4項のうち1000万円に関する請求は、一身専属上の権利に基づく請求であるから、同請求にかかる訴訟は、相続の対象となり得ず、相続人は、これを承継する資格がないので、上記請求にかかる本件訴訟は、平成12年11月11日旧控訴人が死亡したことにより終了している。
(2) 不正競争防止法2条1項1号に基づく請求
ア 旧控訴人の活動
(ア) 旧控訴人が誕生した1903年(明治36年)、父二代國鶴が50歳、既に四代豊國(二代國貞。1880年死亡)が死亡してから23年が経過し、初代國鶴も1878年に死亡し、浮世絵は既に衰退していた。初代国鶴は、二代豊国(豊重)が亡くなる前の天保5年ころ(30歳)大阪方面へ行き、それから20年ほどたった安政2年(51歳)ころ江戸へ戻り、浅草の興行物の看板絵や刺青の下絵などを描き、ほどなく横浜へ移り住んで、刺青薬を売る商売などをしていた人物であり、浮世絵師としての作品もほとんどなく、三代豊国(初代国貞)の弟子でもない人物であって、四代豊国を名乗れるはずがない。二代國鶴は、明治13年に上京し、絵草紙屋を開いたのち石版画にも手を染め、大正9年に亡くなり、明治11年、父國鶴の死に会して横浜に帰り、そのまま写し絵の方は廃業して、父の絵草紙屋を嗣ぎ、その後、諸国巡業の旅に上がり、明治22年の頃、京都へ移り、多く写真で使用する撮影場の背景を描き、浮世絵の制作等とは無縁な生活を送り、旧控訴人が小学校を卒業したときに離婚した。旧控訴人は、父親が死亡後、17歳から18歳までの間、叔父国松のもとに身を寄せたが、酷使された奉公人にすぎず、絵画一般の練習もなく、大正11年2月、19歳の時、国松の家を飛び出し、<F>のところに移り、写真背景画から諸雑用をこなし、大正13年か14年頃に大阪に移って写真背景画の仕事を行っていたが、やがて実業の世界に身を置き、昭和39年頃、信用・財産等を失い、昭和42年から47年頃まで石切神社に下働きとして勤め、昭和47年以後、日本画の習作を制作しながら美術誌名簿に自己の名前を売り込むようになり、権威ある展覧会の入選もないまま、また、浮世絵の修行もないまま、自称六代歌川豊國として美術誌名簿に自己の氏名掲載を計り、昭和47年、49年又は昭和50年から六代豊国を自称することにより、いわば襲名それ自体を自称したのであって、定評のある美術展等において入選したこともなく、デパートでの販売用個展で展示されたものもせいぜい日本画というべきもので、浮世絵でない。
(イ) 歌川豊国は、初代豊国から四代豊国まで存在するが、五代以降の豊国というものは存在しない。
 豊重(二代豊国)は、いったん豊国名を継いだ後に返上しており、近年の研究によりその存在が分かったものであって、豊重派という呼称など講学上存在しない。また、初代国貞(三代豊国)は、二代豊国(豊重)が豊国名を返上したため、初代豊国の直系として二世豊国を襲名し、社会全般も国貞を二世豊国と認識していたのであるから、二世豊国の襲名争いなど存在しなかった。すなわち、四代豊国(二代国貞)は、少年時代から三代豊国(初代国貞)の門下となり、実力を買われて三代豊国(初代国貞)の娘婿となって師の前名である国貞を継ぎ、明治3年ころ、三世豊国を名乗ったのであって、門下の者も世間一般も、当時、三世豊国として認識していた。
 旧控訴人の叔父国松は、明治8年から13年ころまで横浜絵の作品を数点残しただけで、明治17年(29歳)から大正10年(66歳)頃までのほとんどを京阪地方で過ごしており、三代豊国(初代国貞)の弟子でもなく、四代豊国(二代国貞)の弟子でもない人物であるから、五代豊国を名乗れるはずがない。国松が五代豊国を、旧控訴人が六代豊国を襲名したなどということを記載した文献は、旧控訴人の発言に依拠したと思われるもの以外には存在しないのであって、旧控訴人が歌川豊国の正当な承継者であるということはできない。
 また、追贈という考え方を採ったとしても、旧控訴人自身の六代豊國が自称であって社会的承認のないものであって追贈する主体がない上、国鶴、国松に追贈されるにふさわしい経歴がないから、国松が追贈によって五代豊国となることはできない。
(ウ) 旧控訴人は「歌川派家元」でない。
 旧控訴人は、平成8年の1月、被控訴人に歌川を名乗るなと突然に言ってきた時以降、「歌川派家元」と名乗り始めたのであり、それ以前、一度も「家元」などといっていなかった。初代から四代までの歌川豊國は、「家元」と名乗ったことがなく、江戸時代と明治初期に歌川派において家元制を採っていなかった。三代豊国(初代国貞)の高弟である豊原国周は雅号として歌川姓でなく豊原姓を名乗っており、国芳の弟子の芳幾は落合芳幾と名乗り、芳年は月岡芳年と名乗り、国芳の弟子で幕末から明治に活躍して世界的な評価を得ている河鍋暁斎も雅号として歌川姓を名乗ってはいない。「歌川派」の代表的著名な浮世絵師は歌川の名前を名乗ることなく自由に活動していたのであり、歌川派という名称は、歌川豊春から始まった浮世絵師の集団を総称する名称にすぎない。
 旧控訴人自身の活動というものがあったとしても、「歌川」それ自体が旧控訴人の活動を示すものとなったことはなく、家元に関する活動でない。「歌川派」には豊国の系列だけでなく、国芳系と広重系が存在しており、豊国系では豊原国周門下の奥村土牛や小林古径などの日本美術院の大家達が名を連ね、国芳系では鏑木清方、伊東深水、濱田台児など日展系の著名な画家が連綿と続いているのであり、家元といえない。
(エ) 「歌川派門人会」は、旧控訴人と無関係であり、旧控訴人の活動ではない。
 被控訴人は、歌川派門人会の創立者であり、創立当初からの会長(初代)であった。旧控訴人は、歌川派門人会の創立に関与しておらず、また、旧控訴人に同調する<D>・<F>も歌川派門人会創立に関しての提唱者や中心関係者ではない。すなわち、「ふる里村文化の会」は、平成元年の後半から、浮世絵の展覧会を各地で開催したり、浮世絵の勉強会を各地で開いていたところ、平成2年8月、江戸時代の浮世絵界の最大派閥であった歌川派についてその門人達、つまり歌川豊国や国芳、広重そして豊原国周ら歌川派門人達の浮世絵を全世界から集め、世界中でゴッホやモネら印象派の画家達が集めていた浮世絵と同じ浮世絵の展覧会を開くのと同時にチェルノブイリ被災者救済運動のアピールをしていこうということで「歌川派門人会」を結成した。
(オ) 「歌川会派」は、実態がなく、全く存在していなかった。
 旧控訴人は、「歌川会派」なる名称の組織の存在・名称を一切主張していない。美術名典、美術名鑑、美術年鑑、美術家名鑑、現代藝術名鑑(甲226〜230)においても、旧控訴人が「歌川会派」を主宰しているとの記述は一切ないし、甲1の1の「歌川相続に関する証明書」にも「歌川会派」なる名称は記述されていないし、甲37〜46の証明書に、旧控訴人が主宰する流派の名称が「歌川」又は「歌川派」であると記述されてはいても「歌川会派」という名称の記述は一つもない。つまり、この「歌川会派」なる名称は、旧控訴人が死亡した後になって、控訴理由書において初めて登場した組織名称である。「歌川会派名簿」(甲235)は、その作成が平成2年でなく、作成者が旧控訴人でなく、旧控訴人が死亡した平成12年11月11日以後に作成されたものであり、記載内容に矛盾があり、旧控訴人が主宰するとか旧控訴人を後援するとかいう記述や表示は一切なく、また、客観性に欠ける。
(カ) 「歌川豊国興隆会」は実態がない。
 「歌川豊国興隆会」は、旧控訴人が主体となって興した会派でなく、旧控訴人を主宰者とする会派でなく、旧控訴人の流派でなく、旧控訴人が何らかの地位を有しているものでもなく、特定非営利活動法人(NPO)とされているもののインターネット上で検索できず、会則はあってなきが如きであり、設立時期は、付則で平成11年7月25日とされているのに、「歌川豊国興隆会の組織等説明」なる文書では平成11年5月とされている。
(キ) 旧控訴人が「歌川派六代家元」を自称して、世間に名前を売り出し始めたのは、平成8年以降であり、高齢の高校生、あるいは大学生としてマスコミに出演したためであり、旧控訴人の作品(浮世絵ではない。)が高く評価されたためではない。旧控訴人は、画家として、日展その他の有名な選考会に入選したこともなく、ほとんど無名の画家にすぎず、多くの文献、専門家によっても、「歌川派六代家元」又は「六代歌川豊国」と認識されておらず、肉筆浮世絵も含め浮世絵を描いていないから、「歌川」が旧控訴人の主宰する浮世絵の流派として著名になったことはなく、「歌川」それ自体が旧控訴人の各種活動に関する活動を表示するものとして広く知られるようになったこともない。「歌川」と聞いてまず連想するのは、江戸時代又は明治期に活躍した著名な浮世絵師達とその作品であって、控訴人が主張する自らの流派という歌川国鶴や歌川国松を思い浮かべることはない。
 したがって、歌川姓の雅号又は歌川派の名称は、旧控訴人の主宰する浮世絵の流派を表示する営業表示として周知でない。
イ 旧控訴人と被控訴人との関係
 「七次元よりの使者」は、空想科学小説であり、宗教関係の書物でない。「法華三部経大系総論」は、宗教を解説する解説書であり、なんら特別視されることではなく、教義などない。
 「ウイッピー運動」は、被控訴人が過去において行っていた活動であり、投げ捨てられた空き缶、タバコの吸い殻を拾う活動を通じて、環境保護、リサイクルを推し進める運動であって、当時、画期的な先駆的活動としてNHK(日本放送協会)、朝日新聞等により評価をもって報道された。
 被控訴人は、現在「ウイッピー運動」と称する活動を行っておらず、「ジャポニスム」、「ウイッピータイムス」などの定期刊行物を発行せず、「法華普及会」という活動を行っていない。
 <D>は、昭和53年に被控訴人に会っておらず、画商ではなく、定職につかないで暮らしている者であり、歌川派門人会に籍を置いていたことがあるが、種果の会((株)林檎プロモーションが経営する浮世絵販売組織)と深くかかわり歌川派門人会を利用して歌川派門人会の会員に浮世絵を高く売りつける等により会員らとトラブルがあって以来、歌川派門人会や被控訴人を繰り返し執拗に攻撃している者である。
 旧控訴人は、<E>の従業員に絵を教えたこともなく、また、公に認定されず何ら研修・学習もなく資格としての意味もないのに公の資格に類する名称や実在しそうな名称を金銭を支払う者に付与する、いわゆる、士(さむらい)商法とか資格商法とかに類するものとして、命名書の発行をした。
 被控訴人は、平成2年10月28日、<D>から旧控訴人を紹介され、初対面の当時、歌川派門人会の会長であったから「表に」出ており、旧控訴人に対し支援協力を依頼していない。
 歌川派門人会は、平成2年8月、被控訴人が創立会長となって世界的に平和的文化活動を行うことを目的に結成された文化団体であり、宗教活動を目的とした団体でなく、旧控訴人を支援する目的で結成されものでもなく、それまでのふる里村文化の会の文化活動の流れの中で、海外の文化・芸術に大きな影響を与えた浮世絵、特に歌川派の門人達である豊国、国芳、広重などの浮世絵を愛好してコレクションして研究を行ない日本や世界中で展覧会を開催することなどを目的として結成されたものである。
 歌川派門人会々員の中の一部の「歌川派門人会」の会員が旧控訴人から六代豊国と誤信させられて命名書や許状をもらったり絵を買ったりしたが、これらは被控訴人の要請に基づくものではなく、金員の支出は被控訴人が行ったものではない。
 <D>、<F>、<G>らは、「歌川派門人会」の会員達や一般の人達を「種果の会」の会員に勧誘し、旧控訴人が作成した鑑定書付きで浮世絵を高く販売してトラブルを起こし、突然「種果の会」を解散した。
ウ 被控訴人の行為
 美術展の開催は、いずれも歌川派門人会が行ったものであり、被控訴人が行ったものではない。また、平成6年7月のアルメニアでの美術展は「日本を愛したゴッホを偲ぶ歌川派浮世絵展」であり、歌川正国展ではない。また、その余の絵画展も歌川正国展という単独の名称を付したものではない。
 浮世絵師歌川列伝(乙第6号証)巻末の系図にも「貞国」「芳国」の雅号があり、この系図も歌川派浮世絵師の代表的な絵師を記載したものであり、「国」の字を下におく雅号があることは明らかである。
 被控訴人は、ほとんどの活動を<B>の本名で行っており、歌川正国の名で絵を描いても一般販売したことはない。その絵画活動においても、旧控訴人の一門であるとかの誤解を受けたこともない。旧控訴人の日本画と被控訴人の絵画とはおよそ似ても似つかない。被控訴人は歌川正国の名を使って書いた絵画を一般販売していないので、被控訴人の絵画により混同を受けることはあり得ないし、その他の分野の活動でも混同を受けたことは一度もない。旧控訴人の活動と被控訴人の活動とは混同されていない。
 「科学から芸術へ」(甲50)の「歌川派の世界を掘り起こして、その力をもって新たなる情報ネットワークを作り出す」という記載は、旧控訴人を利用するとかしないとかいう問題を述べるものでなく、ここでいっている「歌川派の世界」とは、単なる浮世絵の世界のことではなく、日本の伝統文化のことであり、その例示としての歌川派の謂いである。旧控訴人は、被控訴人にあてたハガキ(平成8年1月)の中で「科学から芸術へ」について、「108頁の一部私は感服しました」と賛辞を述べてさえいる。
 旧控訴人は、平成8年1月11日、旧控訴人から被控訴人に宛てた葉書で、息子と旧控訴人との日展入選、旧控訴人のノーベル賞受賞への援助を要求し、翌12日、被控訴人あての手紙で、300万円の協力金要請をし、被控訴人らがこれらの要求を受諾しないことが判明すると、同月22日、被控訴人に対して無関係通知書を発送し、同月27日、<D>が、旧控訴人の名前で、歌川派門人会の会員十数名に対して、上記無関係通知を承服するか否か等を取り上げた内容証明郵便を発送した後の同年2月3日、旧控訴人に従わない<H>に対して「破門状」を発送し、同月9日、<I>らに除名通知を発した。
エ 権利濫用
 旧控訴人の、歌川派六代家元や六代歌川豊国という表示は事実に反した自称にすぎないから、このような表示が周知となっていたとしても、旧控訴人の請求を認めることは、不公正な競争秩序に法的保護を付与し、これを維持するのと同一の結果をもたらすこととなるので、旧控訴人の請求は許されない。
(3) 不正競争防止法2条1項2号に基づく請求
 上記と同じ。
(4) 不法行為に基づく請求
 本件系図の載っているカタログは歌川派門人会が作成したものであり、この系図は、歌川派門人会のメンバー(会員)を示すためのものであって、そのために太い黒線で各会員達を結んでおり、わざわざ注釈として、*notes. ━lines: member of the Utagawa Society(歌川派門人会のメンバーを示す)と記載しているのである。この系図を作成した当時、旧控訴人を六代豊国と誤信させられていたために、六代豊国と歌川派門人会との関係を示す図として旧控訴人の主張するまま二代国鶴を示すKUNITSURUUから旧控訴人を示す正当なるTOYOKUNIYとして細い黒線で結んで歌川派の流れとしてしまった。いずれにしても、系図に記載されているのは、SHOKOKUとTOYOKUNIYをつなぐ太い線のみであり、これは、注釈にあるように歌川派門人会のメンバーを示す線であり、旧控訴人と歌川派門人会としての繋がりを示すにすぎず、師弟関係を示すものではなく、KUNITSURUUとSHOKOKUとを結ぶ線は引かれていない。もし二代国鶴との師弟関系を表示するならば、KUNITSURUUからTOYOKUNIYに繋がる細い線の途中からSHOKOKUに細い黒線を引くはずであるのに、この系図ではそうなっていない。
 また、歌川派門人会は、この系図作成について、旧控訴人の承認を得ており、旧控訴人は、現地(デンマークの展覧会会場)でこの図録を手に取り中をめくって見、その会場入口すぐ横の壁面に掲示されていたこの系図を見て喜んでいた。
(5) 契約に基づく請求
 被控訴人は、旧控訴人に対し、旧控訴人が主張するような発言をしておらず、支援協力契約は存在しない。
 また、支援協力契約に付随する義務が何故に生じるか、その内容が導かれる論理構造も、旧控訴人の主張では明らかとなっていない。
 よって、旧控訴人の支援協力契約に付随する権利に基づく請求は失当である。
(6) 絵画代金請求
 旧控訴人が絵画「金閣寺」を売り渡した相手は、被控訴人でなく、通称「六代豊国門人会」の会員全員である。なお、その際の売買代金は金300万円であり、右会員はその代金を支払済みである。被控訴人は、旧控訴人から「金閣寺」を買ったこともなければ300万円を支払ったこともない。
第3 争点についての判断        
1 争点1(本案前の主張)
 旧控訴人歌川豊國は、平成12年11月11日に死亡し、控訴承継人が遺産分割協議により旧控訴人の被控訴人に対する一切の請求権を相続したところ、控訴の趣旨のうち1000万円に関する請求は、一身専属上の権利に基づく請求でなく、通常の請求権であるから、相続の対象となり、同請求にかかる訴訟は、控訴承継人がこれを承継している。
2 争点2(周知性)
(1) 当事者
ア 基本的事実関係及び甲3、5の2・3・4、6の3、7の6、14、68、72、74〜77、79、106、107、146〜155、199、211、219、220、225、232、294、296、297、乙3〜13、23、24、26、151によれば、次の事実が認められる。
 旧控訴人は、明治36年2月3日、歌川派の二代歌川豊国(豊重)の門弟であった初代歌川国鶴を祖父に持ち、その長男二代国鶴と<C>との二男(幼名国春)として出生し、母親から絵を描くことを習い、父二代歌川国鶴から線を引くことを練習させられ、大正9年に父が死んでから約1年ほど叔父の歌川国松の下で働きながら版画にする下絵を練習させられ、その後、写真背景画の製作に従事し、昭和10年(32歳)頃から工場の経営等に参画し、昭和42年、神社で下働きの仕事をし、昭和47年、69歳の時、「歌川豊国」を名乗り、国貞系歌川派の流れをくむ日本画家中村貞以主催の春泥会展において作品を発表して、画業に専念するようになり、昭和51年11月19日、名を「豊国」と変更し、さらに平成3年1月30日、名を「豊國」と変更し、平成12年11月11日、死亡し、控訴承継人が遺産分割協議により旧控訴人の被控訴人に対する一切の請求権を相続した。
 「歌川派」は、江戸時代後期から続く浮世絵の一流派であり、歌川豊春(1735〜1814)から始まり、豊春ー豊広ー広重の系列の他、豊春ー豊国ー豊重・国貞・国芳などの系列に分かれていったが、幕末、実力と人気において役者絵、美人画、武者絵、風景画と浮世絵界の代表的な分野を独占し、江戸期ではその呼び名を「歌川一門」やその系統ごとに「歌川○○社中」といった。豊春ー豊広ー広重の系列は、初代広重の後、明治以後、二代から四代広重(大正14年没)、五代広重(昭和42年没)がいるが、五代広重に目立った作画活動はない。豊春ー豊国ー豊重・国貞・国芳の系列の「歌川豊国」の名跡は、文政8年3月に養子の豊重が継ぎ、二代歌川豊国となった。初代歌川豊国の系統には、豊重派と国貞派の二流がある。これは、初代豊国が養子である豊重(二代豊国)を跡目として寺社奉行に届出済で、初代豊国の没後、右豊重が「二世豊国」を襲名していたにもかかわらず、初代豊国の門人であった国貞(三代豊国)が自ら「二世豊国」と名乗ったことに端を発したものであり、両派の間で確執があった。旧控訴人の祖父初代歌川国鶴、父二代歌川国鶴、叔父歌川国松は、いずれも豊重派の系統に属する絵師である。国貞派の系統に属する絵師は、三代豊国のほか、四代豊国、国芳、明治以後の国周、芳年、芳宗、国峰らがいる。国松は、国峰が国貞派の「最後の浮世絵師」といわれて昭和18年2月15日に死亡した後、昭和19年、歌川豊國に連なる「最後の浮世絵師」といわれて死亡した。豊春ー豊国ー豊重・国貞・国芳の系列は、初代豊国の血統が絶え、二代豊国の子孫が不明で、現在、国貞派三代豊國の系統の歌川家、豊重派の旧控訴人方の歌川家の系統があり、そのほか、国貞派で国貞系と拮抗した国芳系の芳年に連なる水野年方、鏑木清方、伊東深水らの流れがある。
 甲5、14〜16、78、79、184、288、乙99によれば、昭和47年9月発行の「藝術春秋」3巻14号「六代歌川豊国小伝」で初めて歌川国松が五代歌川豊国である旨の言及がされ、昭和51年発行の日本浮世絵協会の会誌「浮世絵芸術」49号「浮世絵師歌川派の家紋」、同年発行の季刊「浮世絵」64号「浮世絵の奔流 歌川派の家紋と家系」の旧控訴人が六代目歌川豊国としての寄稿で同旨の記述がされたほか、昭和52年発行の季刊「浮世絵」68号に「歌川派*師承の系譜−初代から六代目までの豊国−」と題する美術史研究家・廣重美術館顧問の吉田漱の論文中で六代豊国と紹介され、その後、昭和59年発行の浮世絵芸術80号「六代歌川豊国画伯からの聞き書」に楢崎宗重が旧控訴人から聞き書きした同旨の内容を記述し、昭和62年発行の浮世絵の見方事典で吉田漱が歌川国松が五代歌川豊国であるとの系統図を記載をし、昭和63年発行の旧控訴人の著書「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代・豊国が検証した」で上記同旨の内容が記述されたことが認められ、その他、後記のとおり、各種新聞、雑誌、書籍、展覧会のパンフレット等に歌川国松が五代歌川豊国である旨の言及がされているが、いずれも、旧控訴人の見解を根拠にしているものと考えられるところ、同見解は、梅堂国政が横浜の田中家に当時の歌川一門と関係者等を集めて歌川国松に五代歌川豊国を名乗らせることに決定したことを直接の根拠とするのであるが、旧控訴人が同事実を現認したのか否かを含め、その根拠資料が示されているわけでなく、同事実の存否は明らかでない上、甲7、72、74〜77、99、103、162、211、214、215、216、乙3〜13、14〜21の各3、22〜27、31、53、58、59、82、89、90、95、100、101、134〜139、151、154、156〜160によれば、歌川国松自身、五代歌川豊国を名乗った形跡がなく、大多数の文献は、五代歌川豊国に言及しておらず、従来、五代歌川豊国を名乗る浮世絵師はおらず、歌川国松が五代歌川豊国に該当するとしていなかったことが認められる。
 そうすると、甲1の1は、五代歌川豊国を名乗る浮世絵師が存在して歌川国松がこれに該当するという誤った事実を前提として平成9年2月に作成されたものであるから、証拠価値がなく、これにより旧控訴人が五代歌川豊国により六代歌川豊国と指定されたと認定することはできず、したがって、旧控訴人が「六代歌川豊国」を「襲名」したと認めることはできない。
 もっとも、甲348によると、平成14年3月21日歌川豊國興隆会発行の図録『歌川派二百年と七代目豊國』の「七代目歌川豊国名弘会」の項に、【平成14年3月21日の名弘会、銀座「スターホール」において、「七代目歌川豊国襲名披露と個展」歌川豊国初代〜七代目までの二百年を開催し、あらためて、各代の歌川豊国縁者(二代豊国系の六代目歌川豊国、三代豊国家当主のe・f、四代目豊国生家当主のg)の総意により、「豊重を二代豊国、初代国貞を三代豊国、二代国貞を四代豊国、国松に五代豊国を追贈し、二代国春を六代豊国、<A>を七代豊国」と、確定したことを公に発表する運びとなった。】と記載されていることが認められ、これと同旨の結論を述べる甲312(甲37の1、367の1により成立を認める。)によれば、少なくとも平成14年3月に、上記関係者間で、歌川国松に五代歌川豊国名を追贈し、旧控訴人を六代豊国、<A>を七代豊国と確定したことが認められるが、歌川派の豊春ー豊国ー豊重・国貞・国芳の系列は、初代豊国の血統が絶え、二代豊国の子孫が不明で、現在、国貞派三代豊國の系統の歌川家、豊重派の旧控訴人方の歌川家の系統と、国貞派で国貞系と拮抗した国芳系の芳年に連なる水野年方、鏑木清方、伊東深水らの流れがあるところ、上記追贈等が必要な関係者全ての意思によるものといえるか明らかでないから、上記追贈等がそのとおりの効力を生じたと断定することはできない。
イ 基本的事実関係及び甲48、50、68、130、142、143、144、145、166、175、179、180、181、182、368、<D>証言によれば、次の事実が認められる。
 被控訴人(昭和25年6月27日新潟県生まれ)は、「七次元よりの使者」、「法華三部経大系総論(宗教関係の書物)」などの書物を執筆し、「ウィッピー運動」、「ふる里村運動」、「法華普及会」と称する活動を行っているグループを主宰する者であり、仏教教義を内容とする法華経を説き、宗教的色彩のある活動を行っている者である。
(2) 旧控訴人の活動
 基本的事実関係並びに甲106、107及び各項掲記の証拠によれば次の事実が認められる。
ア 展覧会(甲15、24〜32、34、35、86、139の2、225、233、236〜238、246、247、263、267)
 旧控訴人は、いずれも「歌川豊国」名で、昭和47年「牡丹」、昭和48年「舞妓」、昭和49年「菖蒲」の各日本画を出品した。六代歌川豊國浮世絵展が、昭和55年2月5日〜11日まで、日本橋三越本店で開催され、美人画「初調べ」等20余点を出品した(甲24)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「江戸文化の爛熟期に美人画や役者絵で圧倒的な人気を博した歌川一門。その末裔六代歌川豊國先生の個展を開催」という記載がある(甲24)。六代歌川豊國美人画展が、昭和56年1月15日〜21日まで、近鉄百貨店京都店で開催され、美人画「小鼓」等20点余を出品した(甲25)。その個展開催を知らせる案内(甲25の1)及び該百貨店のお知らせ(甲25の2)には、「江戸時代後期天明から文化文政期にかけ庶民文化としての美人画・役者絵で人気をえた歌川派、その六代目にあたる歌川豊国先生の美人画展を開催いたします。江戸文化の爛熟期に華麗に花ひらいた歌川派の伝統を今に受継ぐ美人画の力作をぜひ清鑑賜りますようご案内申しあげます。」という記載がある。六代歌川豊國美人画展が、昭和56年4月24日〜29日まで、近鉄百貨店上本町店で開催され、美人画等を出品した(甲26)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「文化の爛熟をきわめた江戸時代後期美人画や役者絵で庶民の人気を得た歌川一門その血をひく六代目浮世絵師歌川豊国先生の美人画展を開催いたします。地元八尾に住み浮世絵の美の継承に情熱を傾ける歌川先生の力作をぜひご高覧ください」という記載がある(甲26の1)。六代歌川豊國美人画展が、昭和56年6月12日〜17日まで、近鉄百貨店岐阜店で開催され、美人画「献茶舞妓」等を出品した(甲27)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「江戸時代後期天明から文化文政にかけ庶民文化としての美人画・役者絵で人気をえた歌川派その六代目にあたる歌川豊國の美人画展を開催いたします。江戸文化の爛熟期に華麗に花ひらいた歌川派の伝統を今に受継ぐ美人画の数々をぜひご清鑑賜わりますようご案内申しあげます。」という記載がある(甲27の1)。六代歌川豊國美人画展が、昭和56年8月6日〜11日まで、池袋東武百貨店で開催され、美人画「鏡獅子」等を出品した(甲28)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「庶民文化としての美人画役者絵で人気をえた歌川派、その六代目にあたる歌川豊國の美人画展を開催いたします。江戸文化の爛熟期に華麗に花ひらいた歌川派の伝統を今に受継ぐ美人画の数々をぜひご高覧賜わりますようご案内申しあげます。」という記載がある(甲28の1)。歌川豊国と歌川派逸品展が、昭和57年6月24日〜29日(開催曜日からすると可能性としては、昭和57年か平成5年が考えられるが、封書・甲246の4に60円切手が貼られ、平成2年に封書が62円と改訂されている。)まで、大丸神戸元町店で開催され、2、3点を出品した(甲246)。その個展開催を知らせる旧控訴人の御挨拶には、「六代歌川豊國」と記載されている(甲246の3)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「歌川豊春を始祖とする歌川派の作品の数かずを、巨匠豊国を中心としてご紹介いたします。江戸庶民にこよなく親しまれた初代豊国から、現在大阪で活躍されておられる六代豊国に至るまでの歩みを、約70作家の作品を通して一堂にご高覧いただきます。豊国を中心とした肉筆、広重を中心とした版画、そして鏑木清方・伊東深水をはじめとした現代画など。併せて喜多川歌麿・酒井抱一の作品もご用意いたしました。この機会にどうぞご清鑑賜りますようご案内申し上げます。」と記載され、出品作家として旧控訴人が「六代豊国」として記載されている(甲246の2)。上記お知らせに同封された書面において、浮世絵鑑定研究家青木進三朗が、「浮世絵界の名流 歌川豊国と歌川派逸品展に寄せて」と題し、「歌川豊春を始祖とする歌川派は、豊国、豊広の両巨匠をはじめ、国芳、国貞など優秀なる浮世絵師を生んでいる。また世界的風景画の巨匠広重も豊広の門人である。さらに月岡芳年、水野年方など多数の傑出した絵師を輩出し、その流れを汲む鏑木清方、伊東深水へとつづき現代に至っている。」「本展は、江戸時代後期に、美人画や役者絵で一大流派をなした歌川一門の代表的画家の肉筆画と版画によりその全貌を明らかにしようとするものである。なかでも師豊春のあとを継いだ歌川豊国は、圧倒的人気を集め、天明・寛政期から、文化・文政期をて幕末まで栄えた。実に大衆性もち江戸庶民に愛された豊国、晩年には自己の画風を確立し、その後の浮世絵界を支配した。ここに歌川王国の基礎は築かれたのである。その六代目にあたる歌川豊国が現在大阪で活躍されている。」「従って、大歌川派のなかで歌川豊国の存在はけだし偉大なものがある。初代から現代の六代豊国に至る歩みを歌川派の流れの中でご清覧賜りたい」という文章を書いている(甲246の2)。また、同書面においては、歌川派系譜と題して、歌川豊春を始祖として、二代歌川国鶴(旧控訴人父)、歌川国松(五代豊国)(旧控訴人叔父)に続いて旧控訴人を「六代歌川豊国」として記載している(甲246の2)。六代歌川豊國美人画展が、昭和58年1月13日〜18日まで、松坂屋上野店で開催され、美人画「若葉」等を出品した(甲29)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「遠く江戸時代後期に民衆の文化として、役者絵・美人画などで庶民の人気を博した浮世絵の正統歌川派。その系統を継承する六代歌川豊國先生の美人画展を開催いたします。浮世絵の伝統画法に現代的な感覚を織り込んで描かれた艶麗な美人画のかずかずをご高覧下さいますよう、ご案内申しあげます。」という記載がある(甲29の1)。歌川豊國美人画展が、昭和58年2月11日〜16日まで、阪急百貨店大阪うめだ店で開催され、美人画30点を出品した(甲30)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「江戸時代後期、天明から文化・文政にかけ庶民文化としての美人画・役者絵で人気をえた歌川派。その六代目にあたる歌川豊國の美人画30点を出品。江戸文化の爛熟期に花ひらいた歌川派の伝統を受け継ぐ美人画の数々を即売いたします。」という記載がある(甲30の1)。六代歌川豊國日本画展が、1983年(昭和58年)7月29日〜8月3日まで、東急百貨店吉祥寺店で開催され、美人画及び静物画「牡丹」等を出品した(甲31)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「遠く江戸時代後期に民衆の文化として、役者絵・美人画で人気を博した浮世絵の正統歌川派。その系統を継承する六代歌川豊國先生の新作美人画及び静物画の展覧即売でございます。ぜひ御清鑑賜わりますようご案内申し上げます。」という記載がある(甲31の1)。第2回六代歌川豊國美人画展が、昭和59年1月12日〜18日まで、松坂屋上野店で開催され、美人画「早春」等を出品した(甲32)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「遠く江戸時代後期に民衆の文化として、役者絵・美人画などで庶民の人気を博した浮世絵の正統歌川派。その系統を継承する六代歌川豊國先生の第二回美人画展を開催いたします。艶麗な美人画のかずかずをご高覧下さいますよう、ご案内申しあげます。」という記載がある(甲32の1)。六代歌川豊国美人画展が、昭和59年(開催曜日からしてそう思われる)6月1日〜6日まで、近鉄百貨店京都駅前店で開催され、美人画「若楓」等を出品した(甲33)。六代歌川豊國美人画展が、昭和60年11月7日〜12日まで、銀座松坂屋で開催され、美人画等を出品した(甲247)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「江戸時代後期、天明から文化文政期にかけ庶民文化としての美人画・役者絵で人気を得た歌川流。その歌川流の伝統を今に受け継ぐ六代目歌川豊國先生の美人画展を開催いたします。美人画の力作をぜひご清鑑くださいませ。」という記載がある(甲247)。また、上記お知らせは、別納郵便の形式を取り、歌川豊春を祖とし、(二代國鶴)國鶴、(五代豊國)國松の系譜の最後に(六代豊國)豊國として、旧控訴人が記載された歌川派の系譜が記載されている(甲247)。六代歌川豊国美人画展が、昭和61年7月25日〜7月30日まで、松屋銀座店で開催され、美人画「二人舞妓」等を出品した(甲34)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「江戸時代後期庶民文化としての美人画・役者絵で人気をえた歌川派。その六代目にあたる歌川豊国先生の美人画展を開催いたします。江戸文化の爛熟期に華麗に花ひらいた歌川派の伝統を今に受継ぐ美人画の力作をぜひこの機会にご清鑑賜わりますようご案内申しあげます。」という記載がある(甲34)。六代歌川豊国美人画展が、昭和62年2月13日〜2月18日まで、中部近鉄百貨店四日市店で開催され、美人画「舞妓」等20余点を出品した(甲35)。その個展開催を知らせる該百貨店のお知らせには、「庶民文化としての美人画役者絵で人気をえた川派、その六代目にあたる歌川豊国の美人画展を開催いたします。江戸文化の爛熟期に華麗に花ひらいた歌川派の伝統を今に受継ぐ美人画の新作20余点を展覧いたします。ぜひご高覧くださいますようご案内申しあげます。」という記載がある(甲35の1)。平成7年2月4日から、「六代歌川豊国浮世絵展」が、映画館布施東劇ロビーにおいて開催された(甲233の3、4、5)。平成9年11月27日〜12月3日の間に開催され、美人画「舞妓」4点、「紅葉狩り」、「扇の舞」等を出品した「浮世絵師 歌川豊國展 江戸から現代まで」では、合計545万円の売上があり(甲236)、松坂屋大阪店において開かれ、美人画「舞妓」等を出品した歌川豊國展においては、売上金として217万5000円、振込金額として126万円があった(甲237)。また、平成12年10月11日から17日に大丸心斎橋店において開催された「歌川豊國展」では、書が16点販売された(甲238)。
イ 美術年鑑誌(甲226〜230)
 「美術名典」1974(昭和49)年度版から2001(平成13)年度版に、継続的に、近代日本画の人脈として歌川豊春を祖とする歌川派の末えいとして「豊国(六代)」の記載、名簿の欄に「歌川豊国六代目」と記載され、同1992(平成4)年度版には、旧控訴人の作品「活花」が、「六代豊國」の落款が押され掲載され(甲226の19)、同1993(平成5)年度版には、旧控訴人の作品「秋静鎌倉でしづやしづしづの小田巻繰返しと舞う」、「春 静鎌倉へ旅長野大橋で枝を地にさし犬橋となる」が「六代豊國」の落款が押され掲載され(甲226の20)、1号の値段として、同1978(昭和53)年度版からの8万円、同1982(昭和57)年度版の8.5万円、同1983(昭和58)年度版の8.8万円、同1984(昭和59)年度版の9万円、同1985(昭和60)年度版の9.5万円、同1986(昭和61)年度版からの9.7万円、同1988(昭和63)年度版の10万円、同1989(昭和64、平成1)年度版からの10.5万円、同1991(平成3)年度版の11万円、同1992(平成4)年度版の12万円(甲226の19)、同1993(平成5)年度版からの12.5万円、同1998(平成10)年度版からの12.7万円という価格が毎年の号に記載された(甲226)。
 「美術名鑑」1975(昭和50)年度版から1987年(昭和62)年度版、1992年(平成4)年度版から1996(平成8)年度版に、旧控訴人の名前がほぼ継続的に名簿に記載され、流派の記載がある場合には、歌川豊春を祖とする歌川派の末えいとして「六代」という代数とともに、「歌川豊国」と記載され、名簿の欄に「歌川六代」と記載されているものもあり、旧控訴人の絵の1号の値段として、同1984(昭和59)年度版から1986(昭和61)年度版には10万円、同1987(昭和62)年度版には11万円が記載されているが、その余の年度の版には記載されていない(甲227)。
 「美術年鑑」1973(昭和48)年度版〜1977(昭和52)年度版、1981(昭和56)年度版〜2001(平成13)年度版に、旧控訴人の名前が継続的に名簿に掲載され、名簿欄に歌川六世又は「師父国鶴・叔父五代豊国」と記載され、同1973(昭和48)年度版には、系譜として、旧控訴人の叔父歌川国松が記載され、同1975(昭和50)年度版(甲228の3)、同1981(昭和56)年度版(甲228の6)、同1984(昭和59)年度版(甲228の9)、同1987(昭和62)年度版(甲228の12)、同1992(平成4)年度版美術界総資料編(甲228の17)の系譜に、旧控訴人の父二代歌川国鶴、叔父歌川国松が記載され、同1987(昭和62)年度版(甲228の12)には、旧控訴人の作品「朧月」が「六代豊國」の落款が押され掲載され、同1992(平成4)年度版現代作家秀作集(甲228の18)には、旧控訴人の作品「金閣寺」が「六代豊國」の落款が押され掲載され、同1993(平成5)年度版現代作家秀作集(甲228の20)には、旧控訴人の作品「二人舞妓」が「六代豊國」の落款が押され掲載されている(甲228)。
 「美術家名鑑」1975(昭和50)から2001(平成13)年度版において、旧控訴人の名前が継続的に名簿に掲載され、「師五代豊国」が記載され、同1978(昭和53)年度版、同1979(昭和54)年度版、同1980(昭和55)年度版、同1981(昭和56)年度版、同1982(昭和57)年度版、同1983(昭和58)年度版、同1984(昭和59)年度版、同1985(昭和60)年度版、同1986(昭和61)年度版、同1987(昭和62)年度版、同1988(昭和63)年度版には、旧控訴人の当該年度の10号中の最高傑作品の評価として58万円が記載されている(甲229の4〜14)。同1989(平成元)年度版、同1990(平成2)年度版、同1991(平成3)年度版、同1992(平成4)年度版、同1993(平成5)年度版、同1994(平成6)年度版、同1995(平成7)年度版、同1996(平成8)年度版、同1997(平成9)年度版には、同63万円が記載されている(甲229の15〜23)。同1998(平成10)年度版、同1999(平成11)年度版、同2000(平成12)年度版、同2001(平成13)年度版には、同65万円が記載されている(甲229の24〜27)。
 「現代藝術名鑑」1994(平成6)年度版(創刊)〜1998(平成10)年度版まで、旧控訴人の名前が継続的に名簿に掲載され、「師父国鶴、叔父五代豊国」の記載がある。系譜に、旧控訴人の父二代歌川国鶴、叔父歌川国松が記載され、同1997(平成9)年度版(甲230の4)、同1998(平成10)年度版(甲230の5)には、系譜に旧控訴人叔父「五代歌川豊国」、旧控訴人「六代歌川豊国」、旧控訴人三男「<A>」の記載があり、同1995(平成7)年度版に、旧控訴人の絵の1号の値段として、18万円が記載されている(甲230の2)が、その余の年度の版には記載されていない(甲230)。
ウ 講演等
 旧控訴人は、昭和51年11月25日には大阪市長より浮世絵芸術の理解と普遍に寄与したことに対する表彰を受け(甲9)、「番組審議会委員就任お願いの件」という書面で、昭和55年ころ、日本経済新聞社から、大阪府テレビ新局設立の際に、番組審議会委員の就任を依頼され(甲250)、昭和61年(1986年)10月27日、大阪府立文化情報センターにおいて、開催されたイベント「にっぽん写楽祭」において、ゲストとして、「六代目歌川豊国(浮世絵師)」として参加した(甲67)。平成8年10月ころ作成された書面において、「平成8年10月3日」に「新潟市万代市民会館」で「定員280名」の旧控訴人に対する講演の依頼を示す記載、平成8年10月18日付の書面において、「平成8年11月3日」に「東大阪市孔舎衙公民分館」で講演の依頼を示す記載、旧控訴人を「歌川家第六代」の「浮世絵師」で、著書「『写楽の実像』を出版、検証」したという記載がある(甲249)。
エ 新聞(甲18〜23、69、70、80、88、110、115、134、138、139、233、251、257、258、261、262、264、乙49、72、74)
 昭和49年2月9日付信濃毎日新聞に、旧控訴人が、「六代目歌川豊国」として紹介された記事が掲載されている(甲18)。昭和53年1月21日付サンケイ新聞に、「けんらん浮世絵ナニワに甦る」という題字の下に、「江戸時代後期に美人画や役者絵で一大流派をなした歌川一門。その六代目にあたる歌川豊国さん」、「六代目歌川豊国さんは」、「歌川派(始祖は豊春)の初代・豊国の末裔」、「五代目を襲名したオジの国松さん」と記載され、歌川派の説明として、「初代歌川豊国が」「自己の様式をつくりあげ、その後の浮世絵界を支配した。」と記載され、さらに、「六代豊国」が記載された歌川豊国の系譜も掲載されている(甲19)。昭和54年3月27日付読売新聞に、旧控訴人の個展を紹介した記事において、「藤沢で六代目歌川豊国さん個展」という題字の下に、「歌川派からこのほど、初代の末えいである歌川豊国さん」、「六代目の歌川さんは、歌川派画家の二代目・歌川国鶴、四条派画家の玉峰を両親に持ち、五歳のとき、父親の国鶴から浮世絵の手ほどきを受け、叔父の五代目・豊国の指導を受けた」「伝統の歌川派浮世絵を忘れられず、家業を長男に譲ったさる四十二年、六十四歳で再度浮世絵に取り組み、三年前に六代目に就いた。」、「歌川派の再興を願い、大阪を中心に自作の個展や初代から六代までの『豊国筆浮世絵展』などを開いて注目され、伝統の浮世絵を復活させたその功績が認められて、大阪市から表彰も受けた。先月は、故郷の東京で『六代歌川豊国美人画展』を開き、人気を集めたが、藤沢市の個展は、関東では東京に次ぐ二度目。」、「六代目の歌川さんは『私の絵は、まだ浮世絵とは言えず。日本画です。浮世絵独特の線を描くにはまだ力不足」と謙そん、あと二年修行しなければ、真の六代目とは言えないと、目下勉強中。」、「浮世絵は、歌川のほか」、「五派があったが、各派とも継承者は、途絶えていると言われているだけに、この六代目老浮世絵師の復活は注目されている。」と記載された記事が掲載された(甲138)。昭和54年9月8日付日本経済新聞に、「伝えたい浮世絵の魂」、「記憶に刻みこんだ歌川派代々の話」という題字の下に、「江戸時代の絵師の生活や仕事の実態、流派の内情について」旧控訴人自身が「父から聞いた歌川派代々の話、自身の体験談」を、「歌川派絵師の嫡流として絵師になるべく育てられ」、「父二代目国鶴と叔父五代目豊国」、「当主豊国の一門における権威は絶対であった。」、「浮世絵の魂を後世に伝える仕事が残っている、私は力のかぎり、やり抜くつもりだ。」、「うたがわ・とよくに=浮世絵師」という記載とともにコラムが掲載された(甲69)。昭和60年7月14日付毎日新聞に、「六代目豊国さん歌川派の口伝明かす」という表題の下に、旧控訴人を「初代歌川豊国の一派を継ぐ六代目歌川豊国さん」と紹介し、「歌川派は、幕末から明治始めの浮世絵界で主流を占めた流派。初代歌川豊国(一七七〇ー一八二八年)らが同派全盛の基礎を築いたとされる。六代目歌川豊国さんは、同派の一門だった父親の影響で絵の道に進み、昭和五一年に六代目豊国の名跡を継いだ。修行中の若いころ、父親や五代目豊国から、同派に伝わる写楽像を聞かされたという。」という記事が掲載された(甲233の1)。昭和63年4月13日付サンケイ新聞のサンケイ抄に、旧控訴人が「浮世絵画家の六代・歌川豊国さん」、「豊国は画号ではなく本名、歌川家の末えいだ」、写楽の実像を解明した旧控訴人著書を紹介し、「歌川家二百年の伝承」、「『残念ながら物証はない。しかし忠実に口伝を再現したのです。』」という記事が掲載された(甲70)。平成元年7月7日付産経新聞の産経抄に、「歌川家の六代・歌川豊国さん」と旧控訴人を紹介する記事が掲載された(甲88)。平成元年7月8日付毎日新聞に、旧控訴人が、「日本画家・六代目歌川豊国さん」、「この人は写楽のライバル絵師の一人、歌川豊国の子孫」と紹介された記事が掲載された(甲134)。平成6年4月14日付読売新聞に、都城市立美術館において、平成6年4月13日から「歌川派浮世絵展」開幕と題し、「歌川豊国・歌川派六代目」と記載された記事が掲載されている(乙72)。平成6年8月20日付読売新聞に、「歌川派、デンマーク、アルメニア展」と題する記事中、「六代豊国氏」とする記載がされた(乙74)。平成6年12月5日付日本経済新聞に、「六代歌川豊国、江戸時代最大の浮世絵師集団であった歌川派の末えい」という記事が掲載された(甲233の2)平成7年1月27日付読売新聞に、平成7年2月4日から「六代歌川豊国浮世絵展」が、映画館布施東劇ロビーにおいて開催される旨の広告が掲載されたが、極めて小さく、目に付かない(甲233の3)。平成7年2月3日付読売新聞に、平成7年2月4日から「六代歌川豊国浮世絵展」が、映画館布施東劇ロビーにおいて開催される旨の広告が掲載されたが、極めて小さく、目に付かない(甲233の4)。平成8年1月5日付「日日新聞」に、「イラスト風の浮世絵画展示」という題字の下に、「高瀬さんは、商業デザイナーとして活躍中に浮世絵に関心を持ち六代歌川豊国さんに入門。浮世絵にイラストなどの雰囲気を取り入れた独自の画風を確立した。」という記事が掲載された(甲233の32)。平成8年3月27日付朝日新聞に、「93歳の浮世絵師、高校入試に挑む」「歌川派6代家元」という題字の下に、旧控訴人を「九十三歳の浮世絵師、歌川派六代家元の」、「歌川豊國さん」と紹介し、「江戸時代に活躍した初代豊國の直系。東京生まれで歌川派を継ぐ長男であったため、三歳ごろから父親に浮世絵の厳しい指導を受けた。」という記事が掲載された(甲233の6)。平成8年3月30日付毎日新聞に、「浮世絵家元の歌川豊國さん」という題字の下に、旧控訴人を「浮世絵の歌川派六代家元、歌川豊國さん」と紹介し、「歌川派は歌川(安藤)広重を生んだ江戸時代からの代表的流派。歌川さんは、厳しい修行を三歳から始め、現在、約六十人の弟子に指導している。戦前の尋常高等小学校の卒業時、家元を継ぐために修行を優先、進学しなかった。」という記事が掲載された(甲233の7)。平成8年4月9日付読売新聞に、「浮世絵歌川派6代家元」の題字で、「江戸時代から続く浮世絵の歌川派六代家元」、「江戸時代に活躍した初代豊国の直系」という記事が掲載された(甲233の8)。平成8年4月9日付読売新聞に、「93歳浮世絵師夢一杯の入学」という題字の下に、旧控訴人を「江戸時代から続く浮世絵の歌川派六代家元」と紹介し、「歌川さんは江戸時代に活躍した初代豊国の直系。幼時から父親の修行を受け、尋常高等小学校を卒業したが「絵は学問では分からない」と進学は許されなかった。現在では約六十人の門下生を抱え、今年三月、三男に七代を襲名させた。」、「歌川さんは約十年前から、祖父や父に聞いた江戸、明治の浮世絵界の聞き書きをつづり始め、『文章力をつけたい』と高校入学を志望した」という記事が掲載された(甲233の9)。平成8年4月9日付産経新聞に、「血気盛ん93歳浮世絵師」の題字の下に、旧控訴人を「全国に六十人の弟子を持つ九十三歳の浮世絵師、歌川豊国さん」と紹介し、「歌川さんは江戸時代から続く浮世絵の代表的流派、歌川派の六代目家元。三歳のころから父、国鶴氏(故人)から浮世絵の手ほどきを受けた。浮世絵修行のため、尋常高等小学校卒業後、進学できなかった。」、「戦時中には、カメラ会社を設立。銀行の取締役を務めるなど、浮世絵から離れていたこともあったが昭和四十七年、再び絵筆を執り、現在は約六十人の弟子を教えている。」、「今年三月、三男の<A>さんに七代目家元を譲り時間ができたため、桃谷高校を受験し、合格。」、「『歌川家の知られざる歴史を論文にしたい。結果を残したい』と夢を広げている。」という記事が掲載された(甲233の10)。平成8年4月9日付東京新聞に、「93歳、学びの春 大阪の浮世絵師定時制高校に入学」という題字の下に、旧控訴人を「歌川さんは江戸時代から続く浮世絵の代表的流派の歌川派直系の子孫で、代々「豊国」を襲名してきた六代目家元。三歳で始めた絵の修行のため尋常小学校卒業後、進学できなかった。」、「歌川さんは現在家元として約六十人の弟子を指導する身」と紹介した記事が掲載された(甲233の11)。平成8年4月9日付信濃毎日新聞に、「93歳の出発高校入学」、「大阪浮世絵師の歌川豊国さん」という題字の下に、「歌川さんは江戸時代から続く浮世絵の代表的流派の歌川派直系の子孫で、代々「豊国」を襲名してきた六代目家元。三歳で始めた絵の修行のため尋常高等小学校を卒業後、進学できなかった。歌川さんは現在家元として約六十人の弟子を指導する身」という記事が掲載された(甲233の12)。平成8年4月10日付産経新聞の産経抄に、「九十三歳の浮世絵師、歌川派六代家元の歌川豊国さん」、「一人で新幹線に飛び乗り、家元として活動する。」、「高校生となった豊国さんは『歌川家の知られざる歴史を論文にして世に伝えたい』そうで、この夏には大学検定試験に挑戦するという。写楽のなぞ説きならおおいにやりがいもおありだろう。」と記載された記事が掲載された(甲233の13)。平成8年4月20日付日本海新聞に、「浮世絵師」、「6代目歌川豊国さん」という題字の下に、「江戸時代後期に美人画で一世を風靡した歌川豊国の六代目」、「今は約六十人の弟子を指導し、美人画などを描いている。」という記事が掲載された(甲233の14)。平成8年4月21日付新潟日報に、旧控訴人を「浮世絵師6代目」と記載し、「江戸時代後期に美人画で一世を風靡した歌川豊国の六代目」、「今は約六十人の弟子を指導し、美人画などを描いている。」という記事が掲載された(甲233の15)。平成8年4月22日付山形新聞に、「江戸時代後期に美人画で一世を風靡した歌川豊国の六代目」、「今は約六十人の弟子を指導し、美人画などを描いている。」という記事が掲載された(甲233の16)。平成8年4月22日付徳島新聞に、旧控訴人を「浮世絵師六代目」と記載し、「江戸時代後期に美人画で一世を風靡した歌川豊国の六代目」、「今は約六十人の弟子を指導し、美人画などを描いている。」という記事が掲載された(甲233の17)。平成8年4月22日付東京新聞に、「波乱人生『まだ通過点』」という表題の下に、旧控訴人の紹介記事とともに、歌川派の説明の記載がある(甲233の18)。平成8年4月24日付朝日新聞に、「弟子60人、落第できまへん」という表題の下に、旧控訴人を「歌川派六代家元の浮世絵師、歌川豊國」と紹介し、「江戸時代後期に生まれた歌川派の直系。東京生まれで、三歳のころから父に厳しく浮世絵の指導を受けた。」、旧控訴人の言葉として、「何のために学ぶかって?それは何のために生きるのかと同じことや。僕は弟子が六十人いる家元やからな、落第はできまへん」と記載された記事がある(甲233の19)。平成8年4月26日付神戸新聞に、旧控訴人を「浮世絵師6代目」と記載し、「江戸時代後期に美人画で一世を風靡した歌川豊国の六代目」、「今は約六十人の弟子を指導し、美人画などを描いている。」という記事が掲載された(甲233の20)。平成8年4月26日付京都新聞に、旧控訴人を「浮世絵師6代目」と記載し、「江戸時代後期に美人画で一世を風靡した歌川豊国の六代目」、「今は約六十人の弟子を指導し、美人画などを描いている。」という記事が掲載された(甲233の21)。平成8年5月23日付大阪新聞に、「二百余年の歴史を誇る浮世絵の流派『歌川派』の中で、お家騒動が勃発した。」、「歌川派は江戸後期の浮世絵師、歌川豊春の流れをくむとして、二百年余りの歴史を誇る。六代目・豊国さんは全国に約六十人の門弟がいるとされる。」という記事が掲載された(甲110)。平成8年6月2日付大阪新聞に、「『歌川騒動』提訴進展せず」という題字の下に、「二百余年の歴史を持つ浮世絵の流派『歌川派』をめぐる騒動で、六代目歌川豊国さん」という記載がある記事が掲載された(甲115)。平成8年6月3日付読売新聞に、「歌川派六代家元 歌川豊国さん」と紹介され、記事中に「江戸時代から続く浮世絵の歌川派六代家元、歌川豊国さん」、メモとして「江戸時代に活躍した浮世絵師初代豊国の直系。」「七十五歳で六代家元を襲名した。」という記事が掲載された(甲233の22)。平成8年6月9日付徳洲新聞に、「93歳で高校入学!浮世絵師 六代目豊国さん」「昼は浮世絵界の重鎮、夜は高校生」という題字の下に、「多少なりとも美術や歴史に関心のある人ならその名前からピンとくるはず。実は浮世絵界の伝統を受け継ぐ歌川派の宗家にして、現代浮世絵界の重鎮であり、その作品は1号当たり10万円ともいわれる大家だ。」、「歌川派といえば、1700年代から今日までの浮世絵界に大きな影響を与えた画家集団。豊国さんは、その宗家である歌川家の末裔で、由緒正しき豊国の名を受け継いだ六代目に当たる。」、「生まれは明治36年、父・二代目歌川国鶴氏と母・<C>さんとの間に生まれ、幼時から歌川家の家名を継ぐため、浮世絵のほか油絵、写真背景画などの教育を受けてきた。」、「その後画業に専念する傍ら、後進の育成にも力を注いできたが、あることがきっかけで、高校進学を思い立つ。歌川派の宗家を継ぐ立場として、きちんとした書物を残しておきたいという強い思いからだった。」という記事が掲載された(甲233の23)。平成8年6月10日付産経新聞に、「老いてなお挑戦の人生」という題字の下に、「定時制高校に合格した九十三歳の浮世絵師、歌川豊國さんの挑戦を描いたドキュメンタリー『人生はこれからだ93才の高校生』が関西テレビで十一日深夜零時二十分から放送される。」と旧控訴人のテレビ出演が宣伝され、「歌川さんは、安藤広重を生んだ浮世絵の伝統的流派、歌川流の六代目家元。」、「画家としての自らの実力の限界も痛感。そして二年間も絵筆を握らず、自分に何ができるのか、何が足りないのかを考えて出した結論が、大学進学への挑戦だった。」という記事が掲載された(甲233の24)。平成9年9月6日付産経新聞に、浮世絵・歌川派六代家元の肩書きの下に、「江戸時代から続く著名な浮世絵師の末えい」という記事が掲載された(甲233の26)。平成11年2月23日付産経新聞に、「学ぶ志は衰えず 96歳で大学合格」という題字の下に、旧控訴人を「浮世絵師・歌川豊国さん」と紹介し、「子どものころから父などに浮世絵を習い、修行のため尋常小学校を卒業しただけだった。」、「昭和十九年、江戸時代の浮世絵師、豊国の名跡を継ぎ」という記載がある記事が掲載された(甲233の27)。平成11年2月23日付中日新聞の通風筒に、旧控訴人を「九十六歳の浮世絵師」と紹介し、「子どものころ父親らに浮世絵を習い、尋常小学校を卒業して修業の道に。」、「四四年に江戸時代の浮世絵師、豊国の名跡を継ぎ、七二年から画業に専念」と記載した記事が掲載された(甲233の28)。平成11年2月24日付産経新聞の産経抄に、「江戸時代の浮世絵師・歌川家の末えい、六代目豊国だという。」、「『浮世絵は日本文化の誇りだ』といい、講演や弟子の指導で走り回っている。」という記事が掲載された(甲233の29)。平成11年5月11日付信濃毎日新聞に、「浮世絵師 燃える向学心」の題字の下に、旧控訴人を「九十六歳の浮世絵師、六代目歌川豊国さん」と紹介し、「歌川派は江戸時代後期に活躍した日本最大の浮世絵師集団。豊国をはじめ、広重や国芳ら数々の著名な絵師が輩出した。六代目豊国さんは、歌川派の画法を現代に伝える最後の浮世絵師とされる。幼い時から絵師だった父親に指導を受けた。」「尋常高等小学校を卒業したが、修業のため進学を断念。関東大震災を機に、東京から大阪に転居し、六代目豊国を継ぐ、」という記事が掲載された(甲233の30)。
 平成11年5月21日付西日本新聞に、旧控訴人が「1903年生まれ。幼少名は国春。44年、6代目豊国の名跡を継いだ。72年に実業界から身を引き、画業に専念。著書に『写楽の実像』など。」、「九十六歳の浮世絵師、六代目歌川豊国さん」と紹介され、「歌川派は江戸時代後期に活躍した最大の浮世絵師集団。豊国をはじめ、広重や国芳ら数々の絵師を輩出した。六代目豊国さんは、歌川派の画法を現代に伝える最後の浮世絵師とされる。」という記事が掲載された(甲233の31)。
オ 雑誌(甲14、15、73、78、79、82、85、104、139、234、266の2、269、288、乙85、86)
 昭和47年9月に藝術春秋社が発行した「藝術春秋」3巻14号に「六代歌川豊国小伝」が掲載された(甲78)。昭和51年発行の日本浮世絵協会の会誌「浮世絵芸術」49号に六代目歌川豊国として寄稿して掲載された(甲第14号証の1及び2)。同年発行の季刊「浮世絵」64号に「浮世絵の奔流 歌川派の家紋と家系」と題し六代目歌川豊国として寄稿・掲載された(甲79)。昭和52年発行の季刊「浮世絵」68号に「歌川派*師承の系譜−初代から六代目までの豊国−」と題する美術史研究家・廣重美術館顧問の吉田漱の論文中で六代豊国と紹介された(甲211)。昭和54年3月18日付日刊ゲンダイにおいて、「六代目・歌川豊国個展」の開催を伝える記事が掲載され、その記事中に「江戸時代後期に、美人画や役者絵で一大流派をなした歌川一門、その六代目の歌川豊国」という記載がある(甲139)。昭和54年発行の季刊「浮世絵」誌に「竹久夢二と歌川国鶴と」と題する六代歌川豊国名の寄稿文が発表された(甲73)。昭和63年9月発行の「関西文学」誌に「竹久夢二と私」と題する六代歌川豊國名の寄稿文が発表された(甲104)。昭和59年発行の「浮世絵芸術」80号に楢崎宗重の「六代歌川豊国画伯からの聞き書」中に「毎年のことだだがどこか有名百貨店その他、併せて少なくとも三十七回は個展を開かれ、斯界に知名の六代豊国先生」という記載がある(甲15、288)。昭和63年3月には二見書房から「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代豊国が検証した」と題する書籍が出版されたが(乙99)、上記書籍は第1版においても6000ないし8000部の予定発行部数であった(甲85)。昭和63年11月1日発行の「関西文学」11月号に、「六代歌川豊國」の名で、旧控訴人が自著を紹介する記事が掲載された(甲234の1)。平成7年3月18日付「サタデースペシャル」に、旧控訴人が、「浮世絵師」と紹介され、「歌川派は江戸時代後期に一大流派をなした一門。豊国さんはその末えいで六代目にあたる。現代に生きるほとんど最後の浮世絵師」という記事が掲載された(甲234の2)。平成8年4月28日付週刊読売に、旧控訴人が「江戸時代から続く浮世絵の歌川派六代家元、歌川豊国さん」、「江戸後期の人気絵師・歌川豊国から六代の歌川さんまで、代々豊国を襲名してきたことだけは間違いない。」と紹介される記事が掲載された(乙85)。平成8年6月15日付「ラグビーのまち 東大阪」に、「歌川豊国氏講演会」を題字にし、旧控訴人が「江戸時代から続く浮世絵の歌川派六代目家元」と紹介され、同月22日に、定員150名の講演開催を知らせる記事、講演に併せて旧控訴人の美人画も展示されるとの記事が掲載された(甲234の3)。平成8年7月6日付「週刊現代」に、平成8年6月11日午前0時20分からの旧控訴人のドキュメンタリー「93歳の高校生、老浮世絵師の挑戦」(関西テレビ)を紹介したコラムで、藤本義一が、旧控訴人のことを「六代目を継ぐために絵筆を握り」と紹介した記事が掲載された(甲234の4)。「百歳万歳」1997年(平成9年)1月号に、「浮世絵師家元の波瀾万丈人生」の題字の下に、「遠く江戸時代から二百数十年続いている浮世絵師・歌川派の直系六代目家元」と紹介され、「幼少期の大半を浮世絵師家元としての修行に費やした」等のコラムが掲載された(甲234の5)。「喜びのタネまき新聞」1997年(平成9年)323号に、「江戸時代の浮世絵師、歌川豊国につながる歌川派の六代目家元」と紹介される旧控訴人のインタビュー記事が掲載された(甲234の6)。平成9年7月1日発行の「創意とくふう」7月号に、「六代目歌川豊国」の名で、「江戸時代から続く浮世絵・歌川派の家元」と旧控訴人のインタビュー記事が掲載された(甲234の7)。平成9年9月1日発行の「あけぼの」9月号に、「浮世絵師六代家元」という肩書きでエッセイが掲載された(甲234の8)。平成10年7月1日発行の「ほんとうの時代」7月号に、「六代目家元を継ぐ。」、「その六代目家元にあたる歌川豊國さん」と紹介される旧控訴人のインタビュー記事が掲載された(甲234の9)。平成11年3月16日発行の週刊女性3月16日号において、旧控訴人を「本職は浮世絵師で、子供のころから父親などに絵を習い、修業のために学業は尋常小学校を卒業しただけ。1994年に江戸時代から続く豊國の名跡を継いで六代目に。『写楽の実像』などの著書もある。」と紹介した記事が掲載された(甲234の10)。平成11年6月1日発行の潮6月号において、旧控訴人を紹介する記事が掲載され、旧控訴人を「うたがわとよくに、浮世絵師(歌川派六代目家元)」と紹介し、経歴として「一九〇三年東京都生まれ。父は二代国鶴、母は四条派絵師の娘。叔父の五代豊国に浮世絵を、<F>に写真背景画を学ぶ。戦時中、写真機器の商社を設立。戦後、後進に託し画業に専念する。著者『写楽の実像』。」と記載された(甲234の11)。平成11年8月1日付発行「れいろう」には、「この人に聞く第六代・歌川豊国さん」という題字の下に、旧控訴人の紹介欄に、「明治36年(1903年)、東京・麻布に生まれる。東大阪市在住。父親は浮世絵師・二代目国鶴。母親も絵かき。尋常小学校卒業後は進学せず修行に打ち込む。15歳のときに父親が亡くなり、叔父(五代目歌川豊国)に引き取られる。大正12年の関東大震災では、家財や幕府関係の歴史的証拠品の数々を一瞬にして消失。第二次大戦の戦中、戦後を通してカメラの製造工場を経営、貿易で財をなすが、部下の不祥事等で倒産。その後、神主などもする。30年ほど前から再び絵筆をとり、六代目歌川豊国となる。」という記載がある(甲234の12)。平成11年9月15日発行の「時間の森創刊号」には、「歌川さんは夕方から大学に行き、昼間は絵描きとしての仕事をしている。実は、江戸時代に浮世絵界の大派を形成した初代歌川豊國を継ぐ、六代目。当時、役者絵といえば歌川か写楽かといわれたほどの人気絵師である。」という記事が掲載された(甲234の13)。平成11年11月20日発行の「心の糧」11月号において、旧控訴人を「歌川派六代目家元」として肩書きし、「歌川さんは浮世絵の歌川豊國六代目としてご活躍されながら」と紹介されている。また、この記事において、対談方式により、写楽の歌川家に伝わる口伝を基に論議されている(甲234の14)。平成12年4月10日発行の「暮らしの風」5月号に、「江戸時代の浮世絵師、歌川豊国の名跡を継ぐ六代目」と紹介されるコラムが掲載された(甲234の15)。平成12年4月25日発行「経済界・677」の旧控訴人の著書「96歳の大学生」を紹介した記事において、旧控訴人を「著者は歌川豊國さんといって、名門・歌川派の浮世絵師である。」と紹介し、「浮世絵師としても現役であり、後進の指導に当たる著者は、さらに痴呆症となった妻の介護をこなしながらの学生生活に奮闘している。」という記事が掲載された(甲234の16)。平成12年5月1日発行の「正論」5月号において、産経新聞の産経抄の筆者が、旧控訴人を「浮世絵師・六代歌川豊国」と紹介し、旧控訴人を「豊国さんは写楽の研究家でもある」とも記載し、旧控訴人の著書を紹介している(甲234の17)。平成12年6月1日発行の「関西じつわ」6月号において、表紙上に「旬の人interview 六代目浮世絵師歌川豊國さん」と紹介記事が載り、本文中に、「浮世絵師・六代目 歌川豊國さん」と大きく記載された題字の下に、プロフィールとして、「浮世絵師歌川派の一門に生まれ」、「35年前、6六代歌川豊國を継いだ」と記載され、本文柱書に、「江戸の浮世絵師、歌川豊國から数えて六代後裔の同氏」、本文中に、「歌川さんは写楽と同時代の江戸の浮世絵師、初代歌川豊國の六代後裔である。」と記載された記事が掲載された(甲234の18)。平成12年9月26日発行の週刊「女性自身」において、旧控訴人を「歌川派六代目家元の浮世絵師」と紹介し、「学歴は平成7年まで、『尋常高等小学校卒』だったが、自分の体験を文献として書き残すにはやはり学問が必要だと、93歳で定時制高校へ入学。」と記載された記事が掲載された(甲234の19)。平成12年12月14日発行の「ナンクロ」12月号において、旧控訴人のプロフィール上に、「江戸時代から続く浮世絵師歌川派に生まれる。日本の伝統的な世界を継承しながらも、」「六代目歌川豊國として活躍するかたわら、戦中戦後は実業家としても活躍」と記載された記事が掲載された(甲234の20)。
カ ホームページ
 伊場仙浮世絵Galleryと題するホームページ(平成8年)に、「六代歌川豊国之部」として、旧控訴人の作品「京女」(10号、500、000円)、「傘持つ舞妓」(12号、600、000円)、「越後獅子」(60号、3、000、000円)、「静御前の桜」(80号、400、000円)、「唯一、豊国の系統だけが、現六代豊国(明治36年生まれ)までかろうじてこの時代を生き抜いてきましたが、その六代目も画家生活を維持することが困難なため、一時は筆を絶ったこともあるほどです。」、「長い低迷期を経た後、近年になって再び浮世絵を評価する機運が高まってきました。六代歌川豊国の下に歌川派を再興しようという運動が始まり、豊国を中心に浮世絵研究や現代浮世絵画家の育成に積極的に取り組んでいます。現在、歌川派では多数の門人が豊国の指導を受けており、なかにはすでに著名な画家として活躍している人もおります。」、「六代 歌川豊国」の題字の下に、「幼少より父・国鶴、叔父五代豊国から浮世絵を修む。その後、山元春挙に風景画と運筆を、<F>に写真背景画を学ぶ」、「平成8年3月、御子息<A>氏が七代目歌川豊国を襲名いたしました。」との記載があり(乙86・5枚目)、旧控訴人の画家としての実績、歌川派の組織・活動実態が記載されている。同ホームページには、<J>の経歴として、「商業デザイナーとして活動中に浮世絵に傾斜し、昂(昴?)じて、六代歌川豊国に入門。」、「その弟子となり、日本の文化である浮世絵を学び、研究する。」、「その後歌川派から独立いたし」「1996年仏のパリにて個展を開催。」とあり、旧控訴人が主宰する歌川派の存在を認め、弟子となろうとも歌川派から独立した以上、歌川姓を名乗ることはできないことを示す記載がある(乙86・5枚目)。1996年(平成8年)10月9日テレビ東京で放映された「ドキュメンタリー人間劇場『93歳の高校生』」の感想が、ホームページ上に掲載され、「歌川さんは絵師で、浮世絵や美人画を描く。歌川派の浮世絵師の家に生まれた」、「最近18歳の弟子ができた。」という記載がある(甲251の1。平成13年4月11日掲載。)。1999年(平成11年)4月27日に掲載された毎小ニュースのバックナンバーが、ホームページ上に掲載され、「九十六歳(さい)の浮世絵(うきよえ)(江戸(えど)時代に生まれた、役者(やくしゃ)や行事などを題材(だいざい)にした絵)の画家」、「歌川さんは、江戸時代から続(つづ)く浮世絵の一つの流派(りゅうは)、美人画(びじんが)などを得意(とくい)にした「歌川派」第六代の家元(いえもと)(芸(げい)の道を受けついでいる本家(ほんけ)の主(あるじ)。」と旧控訴人を紹介した記事が掲載された(甲251の2。平成13年2月10日掲載。)。1999年(平成11年)5月21日「金曜パック・好齢/心いきいき」に掲載されたものをホームページ上に再録したもので、旧控訴人が、プロフィールとして、「1903年生まれ。幼少名は国春。44年、六代目豊国の名跡を継いだ。72年に実業界から身を引き、画業に専念。著書に『写楽の実像』など。」と紹介され、本文中に、「九十六歳の浮世絵師、六代目歌川豊国さん」、「歌川派は江戸時代後期に活躍した最大の浮世絵師集団。豊国をはじめ、広重や国芳ら数々の絵師を輩出した。六代目豊国さんは、歌川派の画法を現代に伝える最後の浮世絵師とされる。」という記載がある(甲251の3。平成13年2月10日掲載。)。旧控訴人が監修したパソコンソフトがホームページ上で宣伝・販売され、商品説明として「北斎・歌麿・歌川派の絵師達による官能の浮世絵を収録したCD−ROM。妖艶なる究極の官能美・・・北斎、歌麿、歌川派の絵師達が、精緻を凝らした枕絵の集大成。作家別、年代別検索機能を装備。監修は、六代目歌川豊国。」と記載されている(甲251の4。平成13年4月11日掲載。)。各界で活躍中の有名人・著名人をホームページ上で、五十音順に集めた人名辞典であって、その「う」の項には、旧控訴人が、職種として「浮世絵師」とされ、「何故&経歴」の項目に、「浮世絵歌川派。絵師としてもさることながら」という記載がある(甲251の5、平成13年4月11日掲載。)。
キ テレビ出演(甲272、340、341)
 旧控訴人は、平成8年6月11日関西テレビで放映されたドキュメンタリー番組「人生はこれからだー『93歳の高校生』」、平成8年10月9日テレビ東京で放映された「ドキュメンタリー人間劇場『93歳の高校生』」、平成11年頃NHKテレビで放映された講演会『第六代浮世絵師歌川豊國』に各出演した。
(3) 旧控訴人と被控訴人の関係
 基本的事実関係並びに甲50〜64、68、106、107、190、285、298〜301、305、乙96、97、167、188、<D>証言及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。
 訴外<D>は、昭和53年ころ、「七次元よりの使者」、「法華三部経大系総論(宗教関係の書物)」を読み、自らが法華経の教主であるとの被控訴人の教義を信じ、まもなく、被控訴人の下で行動するようになり、被控訴人の指示に基づき、当初、上記著書を広めるため本屋を回り、その後、被控訴人が仕入れてきた骨董品を販売していたが、昭和63年頃、旧控訴人の書いた「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代・豊国が検証した」を読み、旧控訴人に歌川派の詳細を御教授願いたいとの手紙を書いたことがきっかけとなって旧控訴人を知った。
 旧控訴人は、平成2年4月末か5月初め頃、<D>から被控訴人の弟である訴外<E>を紹介されて交際が始まった。当時、<E>は、被控訴人から浮世絵を購入して又は自ら仕入れて、浮世絵を販売していたが、その際、旧控訴人に鑑定書を作成してもらったりした(乙124)。
 <E>は、平成2年10月28日頃、旧控訴人に被控訴人を紹介し、その際、「歌川派」復興の話が出た。そして、被控訴人の推薦により門人となった者が構成員となって、歌川派を復興することを目的とした「歌川派門人会」が発足し、平成3年に事務局ができ、平成5〜6年に規約ができ、展覧会の費用や旧控訴人の旅費・講演料などを負担し、浮世絵を販売し、その際、旧控訴人に鑑定書を作成してもらい、被控訴人が平成8年まで会長をした(甲61、甲176、甲222、246)。
 平成2年11月ころから、旧控訴人は、被控訴人の要請を受け、同人の推薦する者に対し、「歌川派門人」として遇する旨の許状を発行し、<D>(甲189)、<K>(乙120)、<L>(乙121)、<M>(乙122)、n(乙123)、<O>(甲240)、<P>(甲240)、<Q>(甲240)、<R>(甲240)、<S>(甲240)、<T>(甲240)、<U>(甲240)、<V>(甲240)、<W>(甲240)、<X>(甲84)、<Y>(甲240)、<Z>(甲240)、a(甲240)、<H>(甲240)、<I>(甲240)、b(甲240)、c(甲272、333、340、341)、d(甲340、341)に対し、いずれも、「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面を交付し(甲189、乙120〜123。ただし、いずれも、記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。)、また、「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書(甲89、112、172、乙80。ただし、いずれも、記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。)を発行し、歌川國播(甲172)、歌川國昌(乙80の1。ただし、記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。)、歌川國奥(乙80の2。ただし、記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。)、歌川國蝦(乙80の3。ただし、記載の期日をさかのぼらせて記載したもの。)、歌川国越(甲112・5頁)、歌川国相(甲112・4頁)、歌川国峯(甲89)、歌川国美(甲112・6頁)、歌川国陽(甲112・6頁)、歌川国梅(甲112・6頁)、歌川国京(甲112・6頁)、歌川国蝦(甲112・6頁)、歌川国齋(甲112・6頁)、歌川国文(甲333)、歌川國伸(甲334)、歌川国真(甲340、341)、歌川國聖(甲235)、歌川國佐(甲235)、歌川國也(甲338)、歌川國喜(甲336)、歌川國富(甲337)、歌川國雪(甲335)、歌川國普二(甲339)、歌川国桜(甲112・3頁)、歌川国蓮(甲112・4頁)、歌川国桃(甲112・4頁)の各命名書を与えた。
 もっとも、平成2年以前の時期に旧控訴人作成の「歌川会及親族名簿」に「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面を交付したとの点は、援用にかかる甲239もこれを認めさせるに足りない。
 また、平成2年11月3日以前の時期に歌川國聖、歌川國佐、歌川國也、歌川國喜、歌川國富、歌川國雪、歌川國普二、歌川国桜、国蓮、国桃に当該名を与えたとの点は、援用にかかる甲235、甲335、甲337、甲338、甲339が控訴人主張の平成2年11月3日以前の時期に当該名を与えたとの点につき内容が正確であるのか疑問があり、甲112が控訴人主張の時期の記載がなく、これを認めることができない。
 各受領者個人は、「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面につき100万円、「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書につき300万円を被控訴人の秘書的立場にある<H>に交付した。旧控訴人は、許状や命名書の発行については、対価を受領しておらず、上記交付金は、<H>がプールし、浮世絵の購入代金の支払い等の一部に充てられた(<H>証言)。
 平成2年11月3日、旧控訴人の描いた絵画「二人静」(甲13の2)が160万円で購入され、平成3年夏、舞妓の絵4枚「春の宵」・「舞妓」・「舞妓」・「紅葉」が160万円で購入され、平成4年1月、「金閣寺」が購入され(甲36、<H>証言)、合計6点が売り渡されたほか、被控訴人の入手した浮世絵の鑑定(甲243)を行って、わずかな手数料で鑑定書を発行していたが、上記浮世絵は、被控訴人の指示により「歌川派門人会」のメンバーが鑑定書付で販売していた。
 平成6年4月6日に宮崎県立総合博物館で開催され旧控訴人も出席した「二百年の伝統を誇る歌川派門人展」の図録に歌川派始祖豊春〜初代・二代・三代・四代・五代豊国の絵画が順次掲載され、六代豊國として旧控訴人の絵画が2点掲載され、<B>画伯と記載されて被控訴人の絵画や歌川国奥・国梅・国京等の絵画が掲載された。平成6年6月、デンマークのコペンハーゲンにおいて旧控訴人も出席した歌川派門人会主催の浮世絵展が開催され、この時から、被控訴人は、歌川家の家系とは何の関係もなく、かつ、旧控訴人の命名もなく、「歌川」の雅号が与えられ場合に「国正」のように先行するのが通常である「国」の字が後ろに置かれた「歌川正国(しょうこく)」を名乗るようになった。上記浮世絵展において、「FAMILY TREE OF THE UTAGAWA SCHOOL」と題され、歌川派の系図を英文表記したものに、被控訴人を示す「SHOKOKU」の名等が歌川派門人会員として付加された本件系図が会場に展示され、同系図の記載されたパンフレットが発行された。さらに、平成6年7月にアルメニア共和国における歌川派門人会主催の「日本を愛したゴッホを偲ぶ歌川派浮世絵展」、同年9月に米国アラバマ州バーミンハム市における歌川派門人会主催の「歌川正国展」が開催され、また、平成7年2月にノルウェーのオスロで開催された上記と同様の浮世絵展において、再び前記系図の入ったパンフレットが発行され同年7月にロシア国立プーシキン美術館における歌川派門人会主催の「歌川正国展」、同年9月にロシア国立エルミタージュ美術館における歌川派門人会主催の「歌川正国展」がそれぞれ開催され、雑誌「芸術倶楽部」同年9〜10月号に「ゴッホの愛した浮世絵と歌川正国展」が特集として掲載された(乙192)。被控訴人は、同年12月出版された著書(「科学から芸術へ」)において、雅号「歌川正国」を有すると表示した上で、被控訴人が一部宗教団体から迫害や圧力を受けており、そのために、同人の情報が止められているので、浮世絵の力を借り、歌川派の力をもって新たな情報ネットワークを作り出すという趣旨の記述をなし(甲50・146頁3行目〜)、また、同月10日から平成8年1月28日まで全国5か所で合計7回にわたり「写楽の真実」と題する旧控訴人の歌川家に伝わる家伝を基に引き写した形の講演会を歌川正国名で開催した。旧控訴人は、平成8年1月11日、被控訴人に宛てた葉書で、上記著書の内容の一部を賞賛したほか、息子と旧控訴人との日展入選、旧控訴人のノーベル賞受賞への援助を求め(乙40)、翌12日、被控訴人あての手紙で、300万円の協力金要請をした(乙41)が、同月22日、被控訴人に対し、歌川派の名称及び家紋の使用を禁ずるとともに、被控訴人と歌川派とは関係がない旨を通知し(甲62)、同月27日、歌川派門人会の会員28名に対して、系図問題を取り上げて、上記無関係通知を承服するか否かの返答を求めた内容証明郵便を発送し(甲108)、同年2月3日、旧控訴人に従わない<H>に対して「破門状」を発送し(乙42)、同月9日、<I>らに除名通知を発した(甲109)。被控訴人は、平成8年3月15日発行の機関誌「ジャポニスム」やインターネットのホームページ上などにおいて歌川正国の表示をし、平成9年にロシアにおける歌川派門人会主催の「ヴァン・ゴッホの日本浮世絵と現代日本歌川派の伝統」を開催し、現在も前記書籍の販売を続け、旧控訴人は、平成9年8月21日付内容証明郵便(甲63の1)において、被控訴人に対し、「歌川正国」その他「歌川」姓を冠した氏名の使用及び表示を中止するよう求め、被控訴人は、同年9月1日付内容証明郵便(甲64)による回答において、上記求めに応じない意思を明らかにしている。
(4) 周知性
 上記事実によると、旧控訴人は、自ら「六代豊国」を名乗り、昭和47年の日本画「牡丹」以降、昭和48年、昭和49年、昭和55年〜昭和62年、平成4年、平成5年、平成7年、平成9年と「六代豊国」として作画活動をし、写楽に関する家伝を基にした研究により「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』六代・豊国が検証した」を執筆・出版し、昭和58年頃、浮世絵の鑑定書を書き(甲260)、昭和61年、平成8年に各講演をし、平成2年11月3日ころから、被控訴人の要請を受け、同人の推薦する者に対し、「歌川派門人」として遇する旨の許状を発行し、また、「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書を発行したところ、「歌川派」は、江戸時代後期から続く浮世絵の一流派であり、江戸期ではその呼び名を「歌川一門」やその系統ごとに「歌川○○社中」といい、幕末において、実力と人気において著名・周知であったといえるところ、豊春ー豊広ー広重の系列は、四代広重(大正14年没)でほぼ活動が終わったといえ、豊春ー豊国ー豊重・国貞・国芳の系列は、国峰が国貞派の「最後の浮世絵師」といわれて昭和18年2月15日に死亡した(甲211)後、昭和19年、豊重派の国松が歌川豊國に連なる「最後の浮世絵師」といわれて死亡したことにより途絶え、現在、国貞派三代豊國の系統の歌川家、豊重派の旧控訴人方の歌川家の系統があり、そのほか、国貞派で国貞系と拮抗した国芳系の芳年に連なる水野年方、鏑木清方、伊東深水らの流れがあるということができる。
 しかしながら、控訴人主張の「歌川会派」(甲235)の存在は、これに沿うが如き甲231の4、235、335〜339も実体のある組織の存在を認めさせるものでなく、同会の存在を認めさせるに足りず、「歌川派門人会」は、被控訴人が会長であった前記内容の組織であって、同会が旧控訴人の主催する組織であるとの主張事実に沿うが如き甲222も同主張事実を認めさせるものでなく、同主張を認めることができず、「歌川豊国興隆会」は、平成11年7月以降に設立され、平成14年3月21日、7代目歌川豊國襲名披露と個展を行い、これが国際浮世絵学会会報第23号に掲載され、これに、同学会の会長・理事・事務局員等、日本画家、三代歌川豊国家の現在の当主e(「歌川豊国興隆会」の名誉顧問)、四代歌川豊国の生家のg家の当主g(「歌川豊国興隆会」の名誉会員)、衆議院議員、元弁護士会長、新聞社営業推進本部長、芸術誌代表者など22名のほか、一般人37名が出席し、上記学会の理事長・理事等、大阪市長、府会議員、新聞社編集局長・記者、美術誌編集部員など27名、一般人45名が欠席したものの会に賛同する趣旨のメッセージを寄せ、図録『歌川派二百年と七代目豊國』を発行し、また、承継人が校長を務める浮世絵教室が企画・設立されるとの案内書その他の書類が作成されたことが認められる(甲211、231、273〜276、328、329、342〜367。【231の1・2・4・5・7〜9・14、273、328、329の成立は認める。】)が、それ以外に具体的活動がされたことを認めるに足りる証拠はない。
 そうすると、「歌川派」が同時代に著名・周知であったのは幕末であり、少なくとも、昭和19年には歌川姓を名乗る浮世絵師の活動はなくなり、「歌川派」の同時代における著名・周知性は消滅し、単に歴史的に著名・周知となったというべきところ、旧控訴人は、昭和47年9月以来、自ら「六代歌川豊国」を名乗り、昭和47年「牡丹」、昭和48年「舞妓」、昭和49年「菖蒲」の歌川豊国としての各日本画の作画、出品を皮切りに、昭和50年以降「美術家名鑑」や「美術年鑑」などの年鑑誌に六代目歌川豊国として掲載されるようになったほか、日本浮世絵協会の会誌「浮世絵芸術」に六代目歌川豊国として寄稿する等し、昭和51年11月25日には大阪市長より浮世絵芸術の理解と普及に寄与したことに対する表彰を受け、昭和53年2月以降、各地で展覧会や講習会を開催し、昭和63年3月には「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代豊国が検証した」と題する書籍(以下、「写楽の実像」という。)を出版して六代目歌川豊国として知名度を高めていたことが窺えるが、昭和62年以降平成4年の間、めぼしい作画活動が見あたらず、展覧会が昭和62年以降平成7年の映画館布施東劇ロビーにおいて開催された「六代歌川豊国浮世絵展」まで開催されず、新聞の報道も平成元年以降平成6年の読売新聞の報道まで途絶え、雑誌等でも、昭和63年、「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代豊国が検証した」と題する書籍が出版され、「関西文学」11月号に、「六代歌川豊國」の名で、旧控訴人が自著を紹介する記事が掲載された後、平成7年3月18日付「サタデースペシャル」に、旧控訴人が、「浮世絵師」と紹介されるまで記事が掲載されず、講演等も昭和61年以降平成8年までなく、平成2年の時点前後にホームページに掲載されていないのであって、画家としての六代目歌川豊国の知名度は、前記活動とあいまち継続して展覧会が行われた昭和62年までの時点で高かったとしても、平成2年の時点で高かったとは断定できず、なお、美術年鑑誌には多数の画家の氏名が記載されているから、平成2年の時点前後で旧控訴人の氏名が記載されている美術年鑑誌のあったことを考慮しても、知名度が高かったとは認められず、事実審口頭弁論終結時に最も近い旧控訴人が死亡した平成12年の時点を考えても、平成4年、平成5年、平成9年以外めぼしい作画活動が見あたらず、展覧会が平成9年に開催された以後、平成12年10月11日から17日に大丸心斎橋店において開催された「歌川豊国展」も具体的内容が明らかでなくて旧控訴人の作品が展示されたのか不明であって展覧会の開催がなく、新聞の報道も平成8年3月から6月に集中的に定時制高校に合格した93歳の浮世絵師という点にニュース性を認めこれに重点を置いたといえる内容の記事が掲載されたほか、平成9年に1回、平成11年2月と5月に各2回記事が掲載されたのみであり、講演等も平成8年以降なく、雑誌でも、平成8年に3回、平成9年に2回、平成10年に3回、平成11年に5回、平成11年に6回記事が掲載されたものの、平成8年の週刊読売と週刊現代、平成11年の週刊女性と潮、平成12年の経済界、正論、週刊女性自身以外、発行部数が多いとは断定できない雑誌を含め、数誌に単発的に、しかも、96歳の高齢で大学に入学した向学心に燃えた老人という点にスポットライトを当てた記事が掲載されたにすぎず、平成8年、11年、13年に数回、上記雑誌での内容と同様がホームページに掲載されたにすぎなかったのであって、画家としての六代目歌川豊国の知名度は、平成12年の時点で高かったとは断定できず、なお、美術年鑑誌には多数の画家の氏名が記載されているから、平成12年の時点前後で旧控訴人の氏名が記載されている美術年鑑誌のあったことを考慮しても、知名度が高かったとは認められないから、平成2年、平成12年の時点で六代目歌川豊国という表示が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められず、また、同各時点で「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派としての名称が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められない。
 なお、旧控訴人は事実審口頭弁論終結時前に死亡しているところ、控訴承継人の七代目歌川豊国としての知名度が高かったことは、2002年版「美術家名鑑」、同「美術名典」、同「現代藝術名鑑」、BienMay/Apr2002に控訴承継人が七代目歌川豊国として掲載されたこと(甲323〜326)や上記歌川豊国興隆会の活動等をもってしてもこれを認めさせるに足りず、他にこれを認めるに足りる証拠はないから、事実審口頭弁論終結時において七代目歌川豊国という表示が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められず、また、同時点で「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派としての名称が同控訴人の主宰する浮世絵の流派又は同控訴人の活動を表示する営業表示として周知であったとまでは認められない。
 そして、著名な浮世絵研究家等の菊地貞夫(甲37)、吉田漱(甲38、甲211)、藤原秀憲(甲39)、林美一(甲47)、楢崎宗重(甲135)、酒井信夫(甲136)、山口桂三郎(甲348)、新藤茂(甲348)による承認、浮世絵を取り扱う画商による証明(甲40、41、42、45、46)は、当該研究家、画商が旧控訴人を六代目歌川豊国として承認・支持することが認められるとしても、これにより、不正競争防止法上の周知性の法的判断が左右されるわけでなく、上記結論を左右しない。
 よって、控訴人の不正競争防止法2条1項1号及び同法3条に基づく差止請求権及びこれを前提とする損害賠償請求権は、いずれも、認められない。
3 争点3(著名性)
 前記のとおり、「歌川派」が同時代に著名・周知であったのは幕末であり、少なくとも、昭和19年には歌川姓を名乗る浮世絵師の活動はなくなり、「歌川派」の同時代における著名・周知性は消滅し、単に歴史的に著名・周知となったというべきであって、平成2年、平成12年、口頭弁論終結時の各時点で六代目、七代目歌川豊国という表示が旧控訴人、控訴承継人の主宰する浮世絵の流派又は同人らの活動を表示する営業表示として著名であったとまでは認められず、また、同各時点で「歌川」姓の雅号若しくは「歌川」派という浮世絵の流派としての名称が同人らの主宰する浮世絵の流派又は同人の活動を表示する営業表示として著名であったとまでは認められない。
 よって、控訴人の不正競争防止法2条1項2号及び同法3条に基づく差止請求権及びこれを前提とする損害賠償請求権は、いずれも、認められない。
4 争点4(系図についての不法行為)
 前記認定事実及び甲54によれば、次の事実が認められる。
 平成6年6月、デンマークのコペンハーゲンで開催され旧控訴人も出席した歌川派門人会主催の浮世絵展において、本件系図が会場に展示され、同系図の記載されたパンフレットが発行され、また、平成7年2月にノルウェーのオスロで開催された上記と同様の浮世絵展において、再び前記系図の入ったパンフレットが発行された。同系図の載っているカタログは歌川派門人会が作成したものであり、同系図は、「FAMILY TREE OF THE UTAGAWA SCHOOL」と題され、歌川派の系図を英文表記したものであり、二代国鶴を示すKUNITSURUUから旧控訴人を示すTOYOKUNIYまで細い黒線で結ばれて歌川派の流れを表しているが、被控訴人を示す「SHOKOKU」等歌川派門人会のメンバー(会員)のアルファベット表記の名が太い黒線で結ばれ、注釈として、*notes.━ lines: member of the Utagawa Society(━が太い黒線を示して歌川派門人会のメンバーを表示する。)と記載されており、歌川派門人会員名が歌川派の系図に付加された内容となっている。そして、KUNITSURUUとTOYOKUNIYとを結ぶ細い黒線の末尾のTOYOKUNIYの記載の最前部とSHOKOKUの記載の中央部とが太い黒線で結ばれている。
 そうすると、同系図に記載された師弟関系の表示の例にならうと、KUNITSURUUとTOYOKUNIYとが直接細い黒線で結ばれているように、KUNITSURUUとSHOKOKUとが直接細い黒線で結ばれてTOYOKUNIYとSHOKOKUとが並記されているとか、少なくとも、KUNITSURUUとSHOKOKUとが直接細い黒線で結ばれていると、KUNITSURUUとSHOKOKUとの師弟関系の表示といいうるが、KUNITSURUUとTOYOKUNIYとを直接結ぶ細い黒線が二代国鶴を示すKUNITSURUUと旧控訴人を示すTOYOKUNIYとの師弟関系の表示していると考えられるのみで、同黒線の末尾のTOYOKUNIYの記載の最前部とSHOKOKUの記載の中央部とを直接結ぶ太い黒線は、上記注釈に従うと、TOYOKUNIYとSHOKOKUとの歌川派門人会のメンバーとしてのつながりを示す線と解釈されるといえる。
 したがって、同系図の上記記載は、これにより被控訴人が二代歌川国鶴の門人であるかのように誤解を受ける余地もあるといえるものの、被控訴人が歌川派の系譜をひく二代国鶴その他の歌川姓の浮世絵師と師弟関係があるかのように表示するものとは断定できず、違法とまでいえないから、控訴人の主張は認められない。
 よって、控訴人の上記主張の不法行為に基づく損害賠償請求権は認められない。
5 争点5(支援協力契約に付随する義務違反)
 控訴人主張が認められないことは、次に付加するほか、原判決53頁10行目から54頁末まで記載のとおりであるから、ここに引用する。
 控訴人主張事実には、甲66、68、83、106、107、165、<D>証言が沿い、前記のとおり、訴外<E>は、平成2年10月28日頃、旧控訴人に被控訴人を紹介し、その際、「歌川派」復興の話が出、被控訴人の推薦により門人となった者が構成員となって、歌川派を復興することを目的とした「歌川派門人会」が発足し、平成3年に事務局ができ、平成5〜6年に規約ができ、被控訴人が平成8年まで会長をし、展覧会の費用や旧控訴人の旅費・講演料などを負担したことが認められるが、平成2年11月初めころ、被控訴人が、旧控訴人に対し、「あなたの歌川派は衰退しつつあるので、今後、あなたの活動を支援して、歌川派の復興をお手伝いしたい。私は、後援者になるけれども表にはでません。」と約したことにより、旧控訴人・被控訴人間には、被控訴人が旧控訴人を家元として入門者を迎えたり、門人の中からさらに歌川姓の雅号を授与するなどの活動をしている歌川派を支援し、旧控訴人の活動に協力するという支援協力契約が成立したとの主張事実については、上記証拠中にこれに一部沿う部分があるものの、同主張事実全てを認めさせるには十分でなく、上記認定事実を併せ考慮しても同主張事実全てを認めることはできない。
 よって、控訴人の上記主張に基づく差止請求権及びこれを前提とする損害賠償請求権は認められない。
6 争点6(絵画代金)
 控訴人主張が認められないことは、次に付加するほか、原判決55頁4行目から58頁6行目まで記載のとおりであるから、ここに引用する。
 控訴人主張の売買のされた平成4年当時に既に発足・活動していた「歌川派門人会」は、平成3年に事務局ができ、被控訴人が会長をし、展覧会の費用や旧控訴人の旅費・講演料などを負担し、浮世絵を販売し、「許」と題し「歌川派門人として遇する」旨記載された書面の各受領者個人が被控訴人の秘書的立場にある<H>に交付した各100万円の金員及び「歌川」姓の雅号を授与する旨の命名書についての各300万円の金員をプールしたものが浮世絵の購入代金の支払い等の一部に充てられたのであることをも考慮すれば、買い主は「歌川派門人会」であることが窺われる。そして、「歌川派門人会」が法人格を有しているとはいえないものの、被控訴人自身を意味すると断定することはできない。
 よって、控訴人の上記主張の絵画代金請求権は認められない。
7 結論
 よって、原判決は正当であり、本件控訴は理由がなく、また、当審予備的追加的請求も理由がないから、主文のとおり判決する。

大阪高等裁判所第8民事部
 裁判長裁判官 若林諒
 裁判官 小野洋一
 裁判官 山田陽三は転補につき署名押印することができない。

 裁判長裁判官 若林諒
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