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【事件名】「アイヌ史資料集」の名誉毀損事件
【年月日】平成14年6月27日
 札幌地裁 平成10年(ワ)第2328号、平成13年(ワ)第1746号 損害賠償等請求事件

判決


主文
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由
第1 請求
1 被告らは、連帯して、甲事件原告らに対し、それぞれ60万円及びこれに対する被告Fについては平成10年10月6日から支払済みまで、被告有限会社Gについては平成10年10月9日から支払済みまで、それぞれ年5分の割合による金員を支払え。
2 被告らは、連帯して、原告Eに対し、それぞれ60万円及びこれに対する平成13年9月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被告らは、原告らに対し、別紙1記載の謝罪広告を北海道新聞(全道版)及び朝日新聞(全国版)の各朝刊社会面に、見出しは34ポイント活字、その他の部分は20ポイント活字をもって1回掲載せよ。
4 被告らは、「アイヌ史資料集−第3巻 医療・衛生編」のうち「余市郡余市町旧土人衛生状態調査復命書」及び「あいぬ医事談」を回収せよ。
5 被告らは、「アイヌ史資料集−第3巻 医療・衛生編」のうち「余市郡余市町旧土人衛生状態調査復命書」及び「あいぬ医事談」を印刷、頒布又は販売してはならない。
第2 事案の概要
本件は,被告らが編集、出版、発行した「アイヌ史資料集」中の「余市郡余市町舊土人衛生状態調査復命書」(以下「復命書」という。)及び「あいぬ醫事談」(以下「医事談」という。)に、アイヌ民族に対する差別表現や、アイヌ民族個人の実名を伴う医療情報が掲載されているために、アイヌ民族である原告らが有する民族的少数者としての人格権、原告らの名誉及び名誉感情が侵害されたなどと主張して、原告らが被告らに対し、不法行為に基づき慰謝料の支払(遅延損害金の起算日は訴状送達の日の翌日である。)及び謝罪広告の掲載を請求するとともに、人格権に基づき復命書及び医事談の回収措置及びその印刷・頒布・販売の差止めを請求する事案である。
1 争いのない事実等
(1) 当事者
 原告らは、いずれも民族的少数者であるアイヌ民族である。
 被告Fは、アイヌ民族等を研究の対象としてきた者であり、被告有限会社Gは、図書出版を業とする会社である。
(2) アイヌ史資料集の編集、出版、発行、流通
ア 被告Fは、昭和55年2月25日、全7巻(補巻1巻)からなる「アイヌ史資料集」の1巻として、6分冊からなる「アイヌ史資料集−第3巻 医療・衛生編」(以下「本件資料集」という。)掲載の資料を編集し、被告会社はこれを出版、発行した(これら被告らの行為をあわせて以下「本件行為」という。)。
 本件資料集の中に、復命書および医事談が含まれている(以下復命書及び医事談を併せて「本件各図書」という。)。
イ 復命書は、大正5年に北海道庁警察部が作成したもので、当時の余市在住のアイヌ民族153名の実名が羅列され、各人ごとに、その健康状態、過去の病歴、現在の病名等の医療情報が記載されているほか、別紙2記載の各記述が存在する。
ウ 医事談は、明治29年に医学博士関場不二彦により著され、同年非売品として発行されたものであるが、その中には同人により治療されたアイヌ患者の統計表が掲げられており、300名以上の患者の実名、出身地、年齢、病名及び治療結果等の医療情報が記載されているとともに、別紙3記載の各記述が存在する。
エ 医事談179ページには以下の記載がある。
 「七月四日 H 平取 四〇 農 下肢護模腫潰瘍  治
 仝 K 同上 三五 女 トラホーム、角膜實質炎、瞼縁炎、禿瘡  未治」
 上記の「H」は、原告Bの祖父であるI(戸籍名J。明治44年2月14日死亡。以下「H」という。)であり、「K」は原告Bの祖母L(戸籍名M。明治32年7月11日死亡。以下「K」という。)である(甲5の1ないし3、原告B本人)。
オ 本件資料集は、被告らの本件行為によって全国各地の大学や図書館、古書店などに購入、所蔵されて公に閲覧できる状態に置かれている。
2 争点
(1) 本件行為による原告ら全員に対する人格権侵害、名誉毀損及び名誉感情侵害の成否
(原告らの主張)
ア 本件各図書における民族差別表現
 本件各図書には、アイヌ民族を劣った民族と決めつける記述が随所に存在し、文章全体が著しいアイヌ民族差別に満ちた内容となっている。
 すなわち、本件各図書は、いずれも別紙2及び3記載のように、アイヌ民族への差別表現が多く記載され、アイヌ民族を、和人に比べ劣った民族であり、いずれ滅亡する民族としてとらえている。
 また、復命書においては、アイヌ民族には梅毒が蔓延しており、そのため滅亡すると論じ、医事談においては、アイヌ民族は独立の精神なく固有の文化のない「人種」であるため滅亡すると論じている。
イ 実名での医療情報の公表
 本件各図書は、アイヌ民族個人の実名等を挙げながら医療情報を公表しているが、このような手法による医療情報の発表は、アイヌ民族に対する民族差別にあたる。
 すなわち、本件各図書は、ある特定の地域の住民を調査した結果として、「遺伝梅毒」などの病名等を実名を挙げて羅列し公表しているが、本来医療情報は秘匿性の高い情報であり、しかも「遺伝梅毒」という病名は、とりわけ本人やその遺族にとって他人に知られたくないものである。
 また、被告らは、本人や遺族から実名記載についての何の承諾を得ることもなく本件各図書を出版した。もし同様の調査が現在いずれかの地域において和人を対象に行われ、その結果が実名のまま公表されるなら、プライバシー侵害、名誉毀損等の人権侵害を招来することは明らかである。
 被告らは、本件各図書を復刻する形を取りながら、アイヌ民族をあたかも標本や研究対象のように扱い、前述したような人権侵害を行っているものであり、その民族差別性は歴然としている。そして、たとえば公表に際して適切な注釈をつけ、実名部分を匿名にする、あるいは公の流通過程で販売せず内部資料としてのみ保管するなどという一切の措置を講じず、様々な批判、抗議や勧告を受けてきたにもかかわらず、一切改善策を講じぬまま現在に至っている。
ウ 原告らの民族的少数者としての人格権の侵害
 憲法13条、14条は、個人が特定の民族的少数者として自己を実現していく権利、さらにまたその権利実現の過程で国家その他の第三者からの不合理な差別を受けない権利を保障している。
 また、国際人権規約26条は法の前の平等を規定し、「あらゆる差別を禁止し及び人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見・・・などのいかなる理由による差別に対しても平等のかつ効果的な保護をすべてのものに保障する」旨を明言し、同規約27条は、特に「種族的、宗教的又は言語的民族的少数者が存在する国において、当該民族的少数者に属する者は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を共有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」として、民族的少数者ゆえの固有の権利を積極的に保障している。
 さらに、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(以下「人種差別撤廃条約」という。)1条1項は、人種差別を「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づく」差別と規定し、同条約2条1項(d)は、いかなる個人、集団、又は団体による人種差別をも禁止し、同条約6条は、締結国に、人種差別行為に対し裁判所などによる効果的な保護と救済を確保し、差別の結果として被った損害について適切な賠償を裁判所に求める権利を確保する義務を課している。そして、国際人権規約及び人種差別撤廃条約における上記の各規定は、国内的効力を有し、かつ私人間にも適用される。
 上記の諸規定は、アイヌ民族に属する原告らが、様々な政治的・経済的・社会的・文化的差別を受け固有文化を否定されてきた歴史を踏まえ、固有の文化を共有し差別を受けずに生きていく権利を具体的に定めており、これら権利は原告らの人格権の中核となる。
 以上のとおり、原告らは、アイヌ民族として差別されないという民族的少数者としての人格権を、それぞれ個人として有しており、これが本件行為によって侵害された。
エ 原告らの名誉及び名誉感情の侵害
 本件各図書には、いずれも別紙2及び3記載のように、アイヌ民族への差別表現が多く記載されており、これによって「アイヌ民族は不潔である」、「アイヌ民族には遺伝梅毒が蔓延している」、「アイヌ民族は滅びゆく民族である」などといった、アイヌ民族一般に対する否定的評価が流布され、アイヌ民族である原告らの民族としての尊厳が公然と傷つけられた。
 民族的少数者である原告らにとって、自身がアイヌ民族であるということは、他者から自身を区別し際だたせる社会的地位として機能しており、原告らの有する社会的評価において、アイヌ民族に属するということが本質的な重要性を有していることに鑑みれば、本件行為によって原告ら個人が有する社会的名誉が毀損されたといえる。
 また、原告らは、物心ついたころからアイヌ民族として生きてきたものであり、本件各図書により民族としての誇りを著しく傷つけられ、辱められているとの感情を抱いており、本件行為によって原告らの名誉感情も侵害されたといえる。
(被告らの主張)
ア 本件各図書は、アイヌ民族を差別し、アイヌ民族に対する偏見を助長しようとするものではない。原著者らの立場は、アイヌの人たちに病気が広がっていた事実が現に存在していること、そのための対策、保護策を立てる必要性があることを訴えようとするものである。
 被告らが本件各図書を編集、出版した目的は、ウタリ協会札幌支部の集まりの中から出てきた要望に応じて、近代史のまとまった基礎的資料を得るということにあり、アイヌ史の資料がかなり限られているという事情があること、また今日から見ると問題視されるものであってもそこから歴史が紐解かれることもあることから、できるだけ広範な資料を集めて、過去の歴史的事実をそのままに復刻したものである。このことは、学問の自由によって保障されている。被告らは、いわゆる和人を中心としたアイヌ史を見直すことを目的としているものであり、アイヌ民族に対する偏見、差別を助長し正当化し、アイヌ民族を標本扱いし、本件各図書に登場しない原告らの名誉やプライバシーを侵害しようとする目的も意思も全く有していなかった。
イ 本件各図書は、平成元年までに発行した600部全てを販売済みであり、その後被告らが本件各図書を販売、流通させているという事実はない。
ウ 国際人権規約によって、アイヌが民族的少数者として自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰・実践し、自己の言語を使用する権利を保障されていることから、直ちに「アイヌ民族としての人格権」が通常の人格権概念と異なる存在として認められるとは考えられない。
エ 原告らは、いずれも本件各図書に登場する人物ではない上、現在から80年ないし100年前の記述が、現在のアイヌの人たちに対する否定的評価に結びつくものではないから、本件行為によって原告らの名誉が侵害されたとは考えられない。
(2) 本件行為による原告Bに対するプライバシー侵害、名誉毀損及び敬愛追慕の情の侵害の成否
(原告Bの主張)
ア プライバシー侵害及び名誉毀損
 1(2)エ記載のとおり、医事談はKが角膜実質炎に罹患していたという医療情報を開示しているが、医事談は角膜実質炎が先天性梅毒によるものである可能性が高いことを示唆していること、医事談において「先天性」という語は「遺伝性」と同義で使用されていることからすれば、Kが角膜実質炎であったとの記載は、必然的に原告Bが遺伝的な梅毒であるとの疑いを生ぜしめるものであり、本件行為は、原告Bのプライバシーを侵害するとともに、一般に不名誉な病名を公表するものとして、原告Bの名誉を毀損する。
イ 祖父母に対する敬愛追慕の情の侵害
 2(2)ア記載の通り、Kに関する1(2)エの記載は、同人が先天性梅毒であったかのような記載であり、その名誉を毀損する。また、Hに関する1(2)エの記載は、医事談が護模腫潰瘍につき梅毒による症状であると説明していることと併せ読めば、読者にはHも梅毒であると受け止められることから、これも同人の名誉を毀損する。
 原告Bは、先祖を重んずるアイヌ民族の伝統の中で育ち、幼少の頃からH、Kの名を声に出して供養し、両名の面影や生き方を写真等で垣間見ながらアイヌ民族として生きてきたものであり、H、K両名と原告Bとは強い絆で結ばれている。
 したがって、本件行為により、原告Bは、その祖父母であるH、Kに対する敬愛追慕の情を著しく侵害されている。
(被告らの主張)
ア 本件各図書に登場しない原告Bのプライバシーや名誉が本件行為により侵害されたとは考えられない。
イ Hは明治44年2月14日、Kは明治32年7月11日にそれぞれ死亡しており、原告Bはその後20年以上を経た昭和5年11月15日に出生しているのであるから、原告BにH、K両人に対する敬愛追慕の情があったとはいえない。
(3) 原告らの受けた損害とその回復手段
(原告らの主張)
ア 原告らの民族的少数者としての人格権、名誉を侵害された精神的苦痛に対する慰謝料として、原告1人あたり60万円が認められるべきである。
イ また、原告らの人格権、名誉の毀損は、金銭的補償のみで回復し得ないものであるから、謝罪広告が不可欠である。
ウ さらに、被告らは、現在に至るまで約20年にわたり本件各図書を継続的に公表し続けており、今後原告らがさらに人格権、名誉の毀損という損害を被ることが明白であるから、原告らの人格権、名誉に基づき、被告らに対する本件各図書の回収、廃棄と今後の出版、販売の差止め請求が認められるべきである。
(4) 消滅時効
(被告らの主張)
 本件各図書は昭和55年に刊行されたものであるから、不法行為に基づく損害賠償請求権は民法724条により時効消滅している。
(原告らの主張)
ア 被告らが消滅時効を援用したのは、本訴訟提起から2年近くを経た後であり、時機に後れた主張である。
イ 消滅時効の不適用
 本件各図書が流通に置かれている限り、その内容は多数の読者の目に触れうるのであるから、本件各図書の出版行為による侵害は反復継続的に生じているのであって、一回の行為により一回の権利侵害を受ける場合を想定している消滅時効制度は本件においては立脚の根拠を欠く。
 また、本件においては、損害賠償に代わる原状回復請求として謝罪広告を求めているところ、民法724条が規定するのは損害賠償請求権の消滅時効であるから、少なくとも原状回復請求である謝罪広告の請求権に関して民法724条は適用がない。
ウ 起算点について
 被告らが消滅時効の起算点として主張する昭和55年は、本件各図書の刊行年に過ぎず、被告らは本件各図書の販売実態を明らかにして起算点を示すべきであるのに、何ら資料を提示しない。こうした事情に鑑みれば、消滅時効の起算点について十分な審理を経たとは言い難い。また、原告らのうち、A、C、Dが本件各図書の記載を認識し、損害および加害者を知ったのは、本訴訟提起を準備する時期であり、また原告B及びEについても、本件各図書につき本件で問題としている記載のすべてを知ったのは、本訴訟提起を準備する時期である。
エ 権利濫用
 原告らはアイヌ民族に対する差別と偏見の中、本件各図書による権利侵害に対してその回復を求めることが困難な状況にあり、志を同じくする集団を形成することが必要であった。また、原告らは平成2年に被告Fに対する質問状送付と交渉要請を行ったほか、札幌弁護士会および札幌法務局に対する人権救済申立などの手段により可能な限り権利回復に努めてきたのであって、決して権利の上に眠っていたわけではない。そして、ウのとおり、被告らは自ら資料を提出することにより容易に消滅時効の起算点を明らかにできるにも関わらずこれをしない。こうした事情のもとでは、被告らによる消滅時効の援用は権利の濫用として許されない。
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)(本件行為による原告ら全員に対する人格権侵害、名誉毀損及び名誉感情侵害の成否)について
(1) 民族的少数者としての人格権について
 原告らは民族的少数者としての人格権が侵害されたとして、不法行為に基づく損害賠償請求、謝罪広告掲載請求、人格権に基づく差止請求をしているので、まず、この点について検討する。
 原告らは、@憲法13条及び14条、A国際人権規約26条及び27条、B人種差別撤廃条約1条1項、2条1項(d)及び6条を根拠として、原告らにはアイヌ民族として差別されないという民族的少数者としての人格権が認められるから、アイヌ民族に対する差別表現や、アイヌ民族の実名を伴う医療情報を記載している本件各図書を編集、出版、発行し流通させた被告らの行為によって、原告ら各個人の人格権が侵害されたと主張する。また、原告らは、自己が民族的少数者であるアイヌ民族に属するということが人格の中核であり、アイヌ民族又はアイヌ民族に属する特定の個人(原告ら以外の者)に対する権利の侵害は、アイヌ民族に属する原告ら個人の民族的少数者としての人格権をも侵害すると主張する。
 しかし、上記@ないしBの規定が人種差別の禁止をうたい、民族的少数者に民族固有の文化を共有する権利を保障し、あるいは国に人種差別行為による損害回復のための積極的な施策をとる義務を課しているからといって、これらの規定が、直接に、民族的少数者である個人に損害賠償請求権や差止請求権を付与していると解することはできない。
 また、原告らが主張する民族的少数者としての人格権の侵害は、アイヌ民族全体又はアイヌ民族に属する特定の個人が権利侵害を受け、このことによって原告らの人格権が侵害され精神的苦痛を受けたというものであるから、原告らにとっては、間接的な被害にすぎないというべきである。本件各図書に関する具体的な事実をみても、本件各図書のうち、復命書が作成されたのが大正5年であり、医事談が作成されたのが明治29年であるから、本件各図書が記述の対象とするアイヌ民族は、明治29年ないし大正5年当時のアイヌ民族を指すことは明らかであり、本件各図書に実名を掲げられたアイヌ民族の中に原告らは含まれていないことも明らかである。本件各図書の編集、出版、発行によって、作成当時のみならず現在に至るまでのアイヌ民族全体に対する差別表現がされたとみる余地があるとしても、その対象は、原告ら個人でなく、アイヌ民族全体である。このように本件行為が権利侵害行為であったとしても、その直接の被害者は、原告らではなく、アイヌ民族全体及び本件各図書に実名とともに医療情報を記載された者たちである。原告らは、これらの直接の被害者に対する権利侵害があったことによって、人格権の侵害を受けたというものであって、民族的少数者としての人格権の侵害は間接的被害にすぎない(原告Bについては、医事談に祖父母の実名が記載されているが、この点は後に検討する。)。
 ところで、現行法の枠組みにおいては、不法行為による精神的損害に関しては、当該不法行為による直接の被害者のみが損害賠償請求等の請求をすることができるのが原則であり、直接の被害者以外の者が、当該不法行為によって精神的苦痛を被ったとしても、原則として法的保護の対象となるものではない。直接の被害者以外の者が保護の対象となるのは、当該不法行為による損害が社会通念上重大であり、かつ、直接の被害者との間に、社会通念上親子関係及び夫婦関係と同視できるほど密接な精神的つながりがある場合に限られると解するのが相当である。このことは、民法711条が、生命侵害に関して被害者の父母、配偶者及び子に限定して慰謝料請求権を認めていることにもあらわれている。
 本件行為により直接に侵害を受けた者と原告らとの間には、原告らがアイヌ民族に属するという以外には、何らのつながりを認めることができない。アイヌ民族における同胞間のつながりが他民族に比べ強く、かつ、アイヌ民族が民族的少数者であることを考慮しても、社会通念上親子及び夫婦間における精神的つながりと同視できるものとは認められない。そうすると、原告らが主張する民族的少数者としての人格権は、不法行為に基づく損害賠償請求等による法的救済の対象とはならないといわざるを得ない。
 また、人格権に基づく侵害行為の差止請求についても、不法行為と同様に、直接に侵害行為を受けた者だけが差止請求をすることができるのが原則であるというべきであるから、原告らが主張する民族的少数者としての人格権は、人格権に基づく差止請求においても法的保護の対象とはならない。
 以上のとおり、民族的少数者としての人格権の侵害を根拠とする損害賠償請求及び差止請求は、いずれも認めることができない。
(2) 名誉毀損について
 次に名誉毀損(社会的名誉の侵害)について検討する。名誉毀損による不法行為が認められるかどうかは、当該行為によって、社会的評価が低下するかどうかによって判断されなければならない。
 前記のとおり、本件各図書に実名を掲げられたアイヌ民族の中に原告らは含まれず、本件各図書には、原告ら個人に関する事実、評価、意見が記述されてはいないから、本件各図書の記述によって、直接、原告らの社会的評価が低下することは、およそ考えられない。
 また、本件各図書に、作成当時のアイヌ民族全体に対する差別的内容が記述され、あるいは、作成当時のアイヌ民族に属する特定の個人に対する差別的内容が記述されているとしても、この記述は、本件各図書の作成者が、明治29年ないし大正5年当時、アイヌ民族に対する意見を述べたり、その当時のアイヌ民族全体及びアイヌ民族に属する特定の個人に関する事実を述べたものである。本件各図書の読者の受け止め方によっては、現在に至るまでのアイヌ民族全体に対する差別表現がされたとみる余地があるとしても、現在のアイヌ民族に対する差別表現が具体的に行われているのではない。そうだとすると、本件各図書の記述が、現在のアイヌ民族に対する一般的な評価に結びつき、その社会的評価を低下させ、さらに、現在、アイヌ民族に属する原告ら個人の社会的評価を低下させるとは、考えられない。
 以上のとおり、本件各図書あるいは本件行為によって、原告らの社会的評価が低下したとは認められないから、名誉毀損による不法行為を認めることはできない。
(3) 名誉感情の侵害について
 名誉感情とは、個人の人格的価値の評価、感情であるから、その侵害があったかどうかは、個人の持つ心情や意識によって異なり、個人の受け止め方によって左右される。したがって、主観的に名誉感情を侵害されたというだけで不法行為による保護を与えることは相当でない。名誉感情侵害による不法行為が認められるためには、当該行為が、社会通念上許される限度を超え、一般的に他者の名誉感情を侵害するに足りると認められる場合でなければならない。その判断に当たっては、侵害されたと主張する者の主観的な事情だけではなく、行為者がした表示の内容、表現、態様等の具体的事情、侵害されたと主張する者の客観的な事情も総合して検討されるべきである。
 これを本件についてみると、前記のとおり、本件各図書の記述は原告ら個人に向けられたものではなく、現在のアイヌ民族について言及したものでもない。原告らの精神的損害は、明治29年ないし大正5年当時のアイヌ民族及び当時のアイヌ民族に属する個人に対する差別的表現がされ、そのことによって原告らの名誉感情が侵害されたというものであって、間接的な被害ということができる。このような精神的損害が法的保護の対象となる名誉感情の侵害に当たるかどうかは甚だ疑問である。
 加えて、本件行為による本件各図書の出版は、その記載からも明らかなとおり、本件各図書がその歴史に関する資料という側面を有することも否定できない。約600部が市場に流通し、一般的に閲覧できる状態にあることも指摘できるが、本件各図書が研究者に対して資料を供することを目的として作製されていることからすれば、これを閲覧する者も、そうした歴史学的な資料として本件各図書が取り扱われると一般に想定される。本件各図書は、当時のアイヌ民族が遺伝性の梅毒に罹患している者が多いことを指摘しているところ、そのことは、現在もそのような状況にあるのではないかという疑いを持たれる可能性を全く否定できなくはないが、80年ないし100年経過した今日でもそのような疑いが持たれる可能性があるとは断定できない。
 以上を総合すると、原告らは自己がアイヌ民族に属しているということが人格の中核であり、このことは原告らの名誉感情侵害を判断するに際して重要な要素であることを考慮しても、本件行為によって原告らの名誉感情が侵害され不法行為法による保護の対象となるとは認めがたい。
 なお、名誉感情は人格権に含まれるものであるから、名誉感情の侵害に対しても、人格権に基づく差止請求が認められる場合がありうる。しかし、この場合でも、侵害行為は、社会通念上許される限度を超え一般的に名誉感情を害すると認めるに足りる場合でなければならない。本件行為によっては、法的保護の対象となる名誉感情の侵害があったとは認められないから、差止請求も認めることができない。
2 争点(2)(本件行為による原告Bに対するプライバシー侵害、名誉毀損及び敬愛追慕の情の侵害の成否)について 
(1) 名誉毀損及びプライバシー侵害
 争いのない事実のとおり、医事談では、Kがトラホーム、角膜実質炎、瞼縁炎、禿瘡であるとの記載があるが、梅毒である旨の記載はされていない(甲3)。そして、医事談には、@「先天性梅毒が角膜實質炎を將來し永く薄翳を遺殘せる者は少なしとなさず」と記載されている(122ページ)こと、A眼科諸病につき項目を設け、「眼科諸病中一般に傳播したるは顆粒性結膜炎なりとす、醫人が毎常遭遇するは其慢性なる者と、其結果として來る角膜實質炎、角膜翳、角膜潰瘍、睫毛亂生、瞼縁炎、内外翻、涙管狹窄等なり盖し「アイヌ」生活が衞生上不潔なると三冬間は爐上榾柮炭烟中に生活する等とに由り勢猖獗を極め蔓延甚だしき者の如し」と記載されている(135ページ)ことが、それぞれ認められる(甲3)。
 @の記載は、梅毒に由来する角膜実質炎に罹患している者が少なからず存在することを示唆するとはいえ、通常の文言解釈による限り、角膜実質炎に罹患している者全員が遺伝的な梅毒であるという意味に解釈することはできない。他方、Aの記載によれば、医事談は、角膜実質炎に罹患している者の多くは、生活衛生状態と冬期の生活形態に起因する顆粒性結膜炎の結果として罹患したものであるという見解を示しているということができる。
 そうすると、医事談にKが遺伝的な梅毒であると疑わせる記述があるとは断定しがたい。したがって、その直系卑属にも同様の疾病があると疑わせるものであるとは認められない。
 これに加えて、医事談に原告Bの名はあらわれない(甲3)うえ、Kが原告Bの尊属であることが公知であると認めるに足る証拠もないことをも考慮すれば、医事談に原告Bが遺伝的な梅毒に罹患しているという印象を一般の読者に与えるような記載があるということはできず、これにより原告B自身の名誉やプライバシーが侵害されたとは認められない。また、原告Bの名誉感情についても上記と同様に認められない。
(2) 祖父母に対する敬愛追慕の情の侵害
 死者に対する人格権侵害行為が、その遺族の死者を敬愛追慕する情をも損ねることは十分想定される。しかし、死者に対する人格権侵害行為による直接の被害者は当該死者であって、さらにその遺族の敬愛追慕の情が侵害されることまで保護に値するのか、いかなる場合に不法行為法上の保護の対象となりうるのかについては、第3の1(1)と同様、当該不法行為による損害が社会通念上重大であり、かつ、直接の被害者との間に、社会通念上親子関係及び夫婦関係と同視できるほど密接な精神的つながりがあると認められる場合に限って、例外的に保護の対象になりうるというべきである。
 本件についてみると、Hは明治44年2月14日、Kは明治32年7月11日にそれぞれ死亡しており、原告Bはその後約20年以上を経た昭和5年11月15日に出生していることが認められ(甲5の2)、原告BがH及びKと生活を共にした経験がないことは明らかであるから、社会通念上、親子間及び夫婦間同様の密接な精神的つながりがあると認められる関係にはないといわざるを得ない。
 確かに、原告Bが、幼少時に日常的に行われていた儀式の中で自ら先祖供養のためH及びKの名前を言って供養した経験を有し、Kから受け継いだ首飾りや耳環を現在も所持していること(原告B本人)、父からH、K両名とも大変な働き者だったことなど、両名の生き様を伝え聞いていたこと(甲116)が認められるところではあるが、以上の事実から窺われる原告BのH及びKに対する敬愛追慕の情は、上記のような密接なつながりではなく、いわば祖先への崇拝の感情とでもいうべきものであって、生活を共にした親子間あるいは夫婦間における肉親の情とは異なるものというほかない。
 そうすると、原告BのH及びKに対する敬愛追慕の情も、損害賠償等による法的救済の対象とはならないといわざるを得ない。
3 結論
 以上の次第であるから、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないので、主文のとおり判決する。

札幌地方裁判所民事第3部
 裁判長裁判官 中西茂
 裁判官 川口泰司
 裁判官 別所卓郎

(別紙省略)
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