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【事件名】バイアグラの顧客名簿事件
【年月日】平成13年12月27日
 東京地裁 平成13年(ワ)第5663号 損害賠償請求事件
 (口頭弁論終結の日 平成13年10月9日)

判決
原告 日本アート株式会社
訴訟代理人弁護士 大谷勝太郎
訴訟復代理人弁護士 大坪和敏
被告 甲
訴訟代理人弁護士 遠藤哲嗣
同 金崎淳


主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由
第1 原告の請求
 被告は、原告に対し、金1200万円及びこれに対する平成13年3月30日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
 本件は、栄養補助食品の販売等を業とする株式会社である原告が、米国製勃起機能不全治療薬バイアグラの個人輸入代行方式による販売に関して、医師である被告に対し、被告は原告の営業秘密である顧客名簿を不正に流用しており、この行為は不正競争防止法2条1項7号所定の不正競争行為に該当すると主張して、同法4条に基づき損害賠償を求めている事案である。
1 前提となる事実関係(末尾に証拠を掲げた事実以外は、当事者間に争いがない。)
(1) 原告は、栄養補助食品の販売等を業とする株式会社であるところ、平成10年夏ころ、アメリカ合衆国ハワイ州で医薬品類の卸売業を営む訴外A(以下「A」という。)の代表者乙から話を持ちかけられ、米国製の勃起機能不全治療薬バイアグラを個人輸入の方式で日本国内に輸入し、販売する業務を開始することとした。
(2) 原告は、日本国内で未認可の米国製医薬品類を取り扱うには医師の関与が必要なことから、平成11年6月ころ、乙を通じて医師である被告を紹介された。そして、そのころ、原告が借室保証金、賃料等の費用を負担して、被告を唯一の所属医師とする診療施設HICジャパンクリニック(以下「HICクリニック」という。)を、東京都台東区内に開設した(甲5の1、2、甲12、乙3)。
(3) 原告と被告は、平成11年末ころ、個人輸入代行の方式によるバイアグラの販売に関して、概要次のような内容の合意(以下「本件合意」という。)をした。なお、当時バイアグラは我が国において未認可であり、また、米国製バイアグラを我が国に個人輸入するためには、医師による診断・処方を経る必要があった。
ア 原告が、原告保有の顧客名簿(以下「本件顧客名簿」という。)に記載された顧客に対し、バイアグラの個人輸入手続代行依頼書を兼ねたダイレクトメールを送付する。このダイレクトメールには、HICクリニックの業務代行として、バイアグラに関する「処方依頼書」、「診断/処方手続き依頼書」及び「問診票」が同封してある。
イ 原告は、ダイレクトメールを見た購入希望者からHICクリニック宛てに郵送されてきた上記「診断/処方手続き依頼書」及び「問診票」を、一定の枚数になった段階で、まとめて被告の指定する場所に宅配便で送る。
ウ 被告は、原告から送付された上記「問診票」等に基づき問診を行い、当該医薬品類の服用の可否を記載した診断書等を作成し、これらを原告に返送する。
エ 原告は、被告により当該医薬品類の服用が必要かつ可能と診断された顧客に対し、上記「処方依頼書」に基づいて、Aから医薬品類を代行輸入し、顧客から代金を回収する。
(4) 原告は、本件合意に基づき、平成12年初めころから、バイアグラの輸入代行業務を本格的に開始した。
 すなわち、原告が、HICクリニック名下において、本件顧客名簿に記載された顧客に対し、被告の診断を受けて処方箋を得ればバイアグラの輸入代行をする旨のダイレクトメールを郵送したところ、同年5月ころまでに、バイアグラの輸入代行を希望する旨の「処方依頼書」等が約2500通近く返送されてきた(甲4の1)。原告は、そのうち被告が処方箋を発行した顧客に対して、Aからバイアグラの代行輸入を行い顧客から代金を回収する一方、A及び被告に対しては、その都度、代金・手数料を銀行送金した。
(5) 平成12年5月末ころ、本件合意は解除され、原告と被告との関係は解消した。また、同年8月ころには、原告とAとの間の取引関係も終了した。
(6) ところが、原告は、被告との関係が解消した後も、前記顧客の一部に対して、被告の診断・処方なしにバイアグラの輸入代行を継続していたことから、被告は、同年6月、原告に対して、被告の処方なしに顧客にバイアグラを提供することは薬事法に違反する行為であるとして、厳重に警告するとともにその中止を求める文書をファクシミリで送信した(甲8)。
(7) 他方、被告は、そのころ、東京都目黒区内のマンションの一室に甲皮膚科事務局の表札を掲げ、当初原告が発送したダイレクトメールに応じて処方依頼書等を送付してきた前記顧客のうち、少なくとも約500名に対し、自ら「生活の改善薬取り扱い窓口変更のお知らせ」と題する書面等を発送した上、処方を希望する者に対しては、引き続きバイアグラ等の医薬品を処方した(甲10、11)。
 上記「生活の改善薬取り扱い窓口変更のお知らせ」と題する書面(甲10)には、「これまでHICジャパンクリニックにおいて担当医師、甲が『バイアグラ100mg』を処方してまいりましたが、今後は『甲ヒフ科 甲』として引き続き処方してまいりますので、ご連絡させていただきます。」との記載がある。
2 争点及び当事者の主張
 本件における争点は、被告が、原告との関係を解消した後も、当初原告の顧客名簿に基づき発送されたダイレクトメールに応じて被告の問診を受けた顧客に対し、引き続き、前記「生活の改善薬取り扱い窓口変更のお知らせ」と題する書面を送るなどしてバイアグラ等の処方を続けた行為(前記1(7))が、「営業秘密を保有する事業者(以下「保有者」という。)からその営業秘密を示された場合において、不正の競業その他の不正の利益を得る目的で、又はその保有者に損害を加える目的で、その営業秘密を使用し、又は開示する行為」(不正競争防止法2条1項7号)に該当するかどうかである。
(原告の主張)
 原告のような通信販売を行っている会社にとって、顧客名簿は会社の存立の基盤となる最も重要な資産であり、原告は、本件顧客名簿を、社長室の鍵のかかる金庫に厳重に保管している。この金庫の鍵は原告代表者及び代表者の妻である専務取締役の2名のみが所持し、同人らのみが名簿に接することができるのであって、社外の者はもちろんのこと、原告会社の従業員でもアクセスすることは不可能である(本件顧客名簿の秘密管理性及び非公知性)。
 また、原告のように通信販売により営業を行う会社にとって、顧客名簿記載の顧客情報が営業上極めて有用な情報であることは多言を要しない。本件顧客名簿の顧客情報は、一般消費者の中でも特に健康に関心のある人に限定されており、これらの顧客にダイレクトメールを送付することにより、経費を節減するとともに、売り上げを効率的に増やすことを可能にするものである(本件顧客名簿の有用性)。
 以上のとおり、本件顧客名簿は原告の営業秘密であるところ、被告は、本件合意を一方的に解除した上、原告が当初本件顧客名簿に基づきダイレクトメールを送付したことによりその存在を知り得た顧客に対し、「これまでHICジャパンクリニックにおいて担当医師、甲が『バイアグラ100mg』を処方してまいりましたが、今後は『甲ヒフ科 甲』として引き続き処方してまいりますので、ご連絡させていただきます。」と記載された前記「生活の改善薬取り扱い窓口変更のお知らせ」と題する書面(甲10)を送付しているのだから、この行為は、営業秘密の保有者からその営業秘密を示された場合において、不正の利益を得る目的で、その営業秘密を使用し、又は開示する行為(不正競争防止法2条1項7号)に当たるというべきである。
 よって、原告は、被告の不正競争行為により原告が被った損害賠償として1200万円(被告の保持している2400人の顧客情報につき1件当たり5000円として算出した金額)の支払を求める。
(被告の主張)
 被告は、本件顧客名簿それ自体の開示を受けたことは一度もなく、同名簿に基づき原告が発送したダイレクトメールを受け取った顧客からの個別の診察依頼に応じて診断書を作成したにすぎない。すなわち、これらの診断書は、被告が医師として処方することに安心感を抱き、診察を依頼してきた顧客の情報を記載したものであり、原告固有の努力やノウハウのみによって獲得された原告の営業秘密とはいえないものである。被告は、上記のようにして診察した患者のうち、バイアグラの追加投与を求めたものに薬品を送付したことがあり、原告はこれを問題視するようであるが、本件において患者に処方されていたバイアグラは、我が国において未認可であり、一般の薬品店で購入できないものであったから、医師が問診し、処方することで患者は初めて購入することができる。とすれば、仮に本件顧客名簿に基づいて被告に問診・処方を希望する患者が集まったとしても、かかる患者の情報は、被告が医師として当然に管理すべきものであり、これ自体が原告固有の営業秘密にあたるものでないことは明白である。
第3 当裁判所の判断
1 原告による米国製勃起機能不全治療薬バイアグラの販売の実態
 前記の「前提となる事実」(前記第2、1)に証拠(甲5の1、2、甲6、甲7、甲12、乙2、乙3)及び弁論の全趣旨を総合すれば、本件合意に基づくバイアグラ販売の実態は、以下のようなものであったと認められる。
ア 原告が、通信販売業務に用いていた原告保有の本件顧客名簿の中から医薬品購入を希望しそうな顧客に対し、バイアグラの個人輸入手続代行依頼書を兼ねたダイレクトメールを送付する。このダイレクトメールには、HICクリニックの業務代行として、バイアグラに関する「処方依頼書」、「診断/処方手続き依頼書」及び「問診票」が同封してある。
イ 原告は、ダイレクトメールに応じてHICクリニック宛てに郵送されてきた上記「診断/処方手続き依頼書」及び「問診票」が一定の枚数になった段階で、被告の指定する場所に宅配便で送る。
ウ 医師である被告は、上記「問診票」等に基づき問診を行うなどし、問診票にバイアグラ服用の可否を記載した上で、これを原告に送り返す。ただし、医師としての義務に従い、問診票の写しは保管してあった。
エ 原告は、被告によりバイアグラの服用が必要かつ可能と診断された顧客に対し、上記「処方依頼書」に基づいて、Aからバイアグラを代行輸入し、顧客から代金を回収する。
オ 原告は、代行輸入したバイアグラの代金をAに支払い、また、被告に対して問診票による診断及び診断書作成等に関する手数料を支払う。
カ なお、原告がHICクリニック所在地として賃借した部屋(東京都台東区東上野2丁目18番7号共同ビル636号)は、原告会社が所在する部屋(同ビル637号)の隣室であり、HICクリニックの業務はすべて「業務代行」として原告が行っていた。HICクリニックは被告を唯一の所属医師とするもので、診療機関としての実態は被告の個人医院というべきものであったが、被告は、上記部屋に出入りしたことが数度しかなく、上記ウの問診もほとんど被告の自宅で行っていた。また、原告ないしHICクリニックと被告との間では、被告が患者として診断した顧客の情報の取扱いについては、何らの合意も存在していなかった。
2 不正競争行為の成否
 原告は、前記の事実関係を前提に、被告が原告との関係を解消した後も一部の顧客に対してバイアグラの処方を続けていることをとらえて、これが原告に対する不正競争行為に該当する旨を主張する。
 しかしながら、前記事実関係から明らかなとおり、顧客から送付されてきた「診断/処方手続き依頼書」及び「問診票」は、原告の保有する本件顧客名簿に基づいて発送されたダイレクトメールを受け取った顧客の一部から返送されたものではあるにしても、診療機関であるHICクリニック宛てに送られてきたものであり、被告は、医師として、バイアグラ処方のための診断を希望する患者に対する診断を行うために、患者から提出されたこれらの書類を受け取ったものであって、これらの点に照らせば、原告の一連の行為は、要するに、個人輸入の前提として医師の診断を希望する顧客を、患者として、医師である被告に紹介したものと評価すべきである。そして、被告は、このようにして紹介された患者を医師として診察した上、問診票の写しをとって原本を原告に返送し、写しを保管していたというのであるから、被告の手元に問診票の写しという形で保管されていた情報は、被告が、医師としての職務に基づいて得た患者の個人情報とみるべきものである。したがって、たとえその入手のきっかけが本件顧客名簿に基づき発送されたダイレクトメールにあったとしても、被告の有する情報は、被告が診断をした患者についての情報であり、これをもって、原告の保有する営業秘密に属するものということはできない。
 そうすると、原告との関係が解消した後も、顧客に対して「生活の改善薬取り扱い窓口変更のお知らせ」と題する書面等を発送した上、処方を希望する者に対して引き続きバイアグラ等の医薬品を処方していた被告の行為(前記第2、1(7))は、被告が自ら診断を通じて得た自己の患者についての情報に基づいて、これらの患者に対して引き続き診療を行ったにすぎないものであって、原告から示された営業秘密を使用する行為ということはできない。したがって、被告の行為が不正競争防止法2条1項7号所定の不正競争行為に該当するとの原告の主張は、失当である。
 なお、前記「前提となる事実」(前記第2、1(5)(6))のとおり、被告との関係が終了した後は、原告はもはや医師の診断・処方を経た上でバイアグラを代行輸入する手段(すなわち、適法に米国製バイアグラを輸入販売する手段)を有しておらず、現にそのような形でのバイアグラの販売を行っていなかったのであるから、被告の行為により原告が何らかの損害を被ったということもできない。この点からも原告の本訴請求は失当である。
3 結論
 以上によれば、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求に理由がないことは明らかである。
 よって、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第46部
 裁判長裁判官 三村量一
 裁判官 村越啓悦
 裁判官 青木孝之
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