判例全文 line
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【事件名】『コルチャック先生』著作権侵害事件
【年月日】平成13年12月20日
 京都地裁 平成11年(ワ)第111号 損害賠償等請求事件
 (口頭弁論終結日 平成13年7月12日)

判決
原告 A
訴訟代理人弁護士 井上二郎
同 中島光孝
被告 B
同 C
両名訴訟代理人弁護士 羽倉佐知子
同 岡山未央子


主文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由
第1 請求
1 被告らは、下記作品を複製、出版又は頒布してはならない。
 記
 「戯曲『コルチャック先生』ある旅立ち」と題する戯曲(著者をB、発行者をC、発行所を文芸遊人社とする、1995年8月1日付出版にかかるもの)
2 被告らは、原告に対し、各自1000万円及びこれに対する被告Bについては平成11年1月28日から、被告Cについては平成11年1月29日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 仮執行宣言
第2 事案の概要
1 事案の要旨
 本件は、原告が、請求の趣旨1項記載の戯曲(以下「本件戯曲」という。)が原告の著作物の翻案であり、また、本件戯曲中の個々の翻訳が原告著作物中の翻訳の著作物の複製であるとして、著作権法112条1項に基づき、本件戯曲の複製、出版又は頒布の停止を求め、また、民法709条、719条に基づき、著作権侵害による損害賠償として1000万円及びこれに対する被告B(以下「被告B」という。)については平成11年1月28日から、被告C(以下「被告C」という。)については同月29日から(いずれも訴状送達の日の翌日)各支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
2 基本的事実関係(証拠の記載がないものは、当事者間に争いがないか、弁論の全趣旨により認められる。)
(1) コルチャックについて
 コルチャック(Jansuz Korczak。ただし、これは作家としてのペンネームであり、本名はヘンルィク・ゴールドシュミット Henryk Goldschmidtであるー甲2。なお、Henrykをヘンリックと表記する邦文文献もあるー乙4)は、1878年(1879年という説もある。)ワルシャワで生まれたユダヤ人である。医者、作家、教育者であり、恵まれない子供たちのためにワルシャワに孤児院を設立し、30年間子供たちと喜怒哀楽を共にした。
 第2次世界大戦によって、ポーランドはナチス・ドイツの占領下におかれ、コルチャック及び孤児らもゲットーに収容された。1年9か月の収容生活を経て、1942年8月、子供たちと共にトレブリンカ収容所のガス室で処刑された。この間、コルチャックは何回となく助けられる機会を与えられたが、子供たちを見捨てて自分1人だけ生き延びることはできないとして、これを拒んだ。
(2) 原告の著作物、著作権
 原告は、コルチャックの研究者である。
 原告は、コルチャックの研究のため、昭和51年以降ドイツとポーランドに留学し、昭和56年コルチャックを日本に紹介し、昭和61年にはコルチャックの生涯を描いた「コルチャック小伝」で朝日ジャーナルノンフィクション賞を受賞したものであるが(甲1巻末「参考文献」)、平成2年、コルチャックの感動の生涯と教育者としての実践を描いた著作「コルチャック先生」(以下「原告著作」という。)を創作し、著作権及び著作者人格権を取得した。そして、同年12月、原告著作を朝日新聞社から出版した(第1刷)。原告著作は、平成7年には朝日新聞社から朝日文庫としても出版されている。
(3) 被告らの行為
 被告Bは平成7年8月までに、本件戯曲を著し、被告Cは、同月1日、本件戯曲を出版した。
3 争点
(1) 本件戯曲は原告著作の翻案に当たるか、また、本件戯曲中の個々の翻訳が原告著作中の翻訳の複製権侵害に当たるか。
(2) 原告は被告らに原告著作の利用を許諾したか。
(3) 被告らに損害賠償義務が認められた場合、賠償すべき額。
第3 争点に関する当事者の主張
1 争点(1)(本件戯曲は原告著作の翻案に当たるか、また、本件戯曲の個々の翻訳が原告著作の翻訳の複製権侵害に当たるか。)について
【原告の主張】
(1) 本件戯曲が原告著作の翻案に当たり、また、本件戯曲の個々の翻訳が原告著作の翻訳をそのまま使用したものであることは、別紙「筋・構成対照表」「主要登場人物対照表」「著作対照表」(以下「別紙」の記載を省略する。)から明らかである。
ア 本件戯曲からは、原告著作の本質的特徴が多くかつ直接感得し得るものである。
イ 翻訳についてみると、たとえば本件戯曲152頁が原告著作200頁をそのまま利用している。被告は、別紙反論一覧番号27において、この部分について、コルチャックの「ゲットー日記」の一節である旨主張するが、失当である。すなわち、コルチャックの文章は一般に難解であり、それは多忙な日常生活の中で思いつくままに長々と書き連ねたり、突然、行の途中から別のテーマにしたりもするなど、系統的に書かれていない。特に、「ゲットー日記」は、異常な状況下で書かれたものであるから、日付があったりなかったりもする。さらに、ゲットーから持ち出された後、編集し直された段階で判読し難いところの誤読や削除もある。原告は、原告著作を著すに当たり、各国語訳を併読しながら全文を通読している。そして、その中から原告が選択した箇所をコルチャックに代わって、彼の考え方を分かりやすく伝えようと努力した。そのため、一部を削除したり又は抄訳するなどのいわゆる超訳をしている。また、同じ考え方の記述部分を別々のところからまとめて編述もしている。そして、被告Bは、原告が省略したのと同じ箇所で、同じ量を省略しているのである。
 その他、顕著な箇所としては、本件戯曲17頁と原告著作20頁、本件戯曲60ないし62頁と原告著作161、162頁、本件戯曲71、72頁と原告著作168頁、本件戯曲102頁と原告著作172頁、本件戯曲149頁と原告著作202頁、本件戯曲190、191頁と原告著作95、96頁がある(「著作対照表」参照)。
(2) 被告Bは、本件戯曲の最終稿であるとする第4稿(乙51)中の「作者ノート」(1992年4月9日付)で、本件戯曲を書くに当たって、エピソードの約8割が原告著作によるものであることを認め、また、そのスタッフ欄の中で「原作A」と明記している。
(3) 被告らは、「著作対照表」記載の箇所のどこにも原告の独創性は認められず、歴史上の事実又は既に公にされている先行資料に基づくものである旨主張するが、失当である。
 原告著作も、本件戯曲も、コルチャックという同一の実在人物を題材とするが、そのことで翻案性がなくなるわけではない。原告著作における事実あるいは伝承の描写・表現は、原告がそれをどのように認識し感じたかを原告独自の知覚を通じ、原告独自の言語的表現として結実させたものである。たとえ素材としての歴史的事実が同一のものであっても、その素材を選択、解釈、配列し、これを文章表現するのは原告の感性によって濾過された原告固有のものである。それは素材そのものの表現形式とは異なり、そこに描かれたコルチャック像も原告固有のものである。
(4) 被告らは、被告Bが原告著作以外の文献も参照して本件戯曲を著した旨主張するが、失当である。
ア 被告Bは、乙3ないし23(枝番を含む。)を参照したと主張するが、以下の疑問があり、信用できない。
 本件戯曲に「参考文献及び資料」として記載されているのは乙13ないし15、21、22(枝番を含む。)の5点のみである。
 乙20(ホロコースト全史)の初版は1996年(平成8年)8月であり、本件戯曲は平成7年8月刊行である。
 乙3の2のゲットー日記英訳版は、イスラエルの Ghetto Fighters House の刊行(刊行年不明)であるが、本件戯曲ではニューヨークの Holocausts library の刊行とされている。
 乙12の1ないし17の A Field of Buttercups は、ロンドンでの刊行であるが、本件戯曲ではアメリカ合衆国ニュージャージー州 Engelwood cliffs の刊行とされている。
イ ゲットー日記の翻訳について、被告Bは、原告が省略したのと同じ箇所で同じ量を省略しているのは上記(1)イ記載のとおりであり、これは被告Bがゲットー日記を参照せず、原告著作にのみ依拠したことを示している。
ウ 原告著作の初版では、コルチャックの文章の引用中に、「私は君たちに神を与えることはできない。神は君たち1人1人が自分の魂の中に、探し求めるよう努めなければならないからである。」という文言の落丁があるのに対し、リフトン著作やワイダの映画 Korczak (邦題「コルチャック先生」。以下「ワイダ映画」という。)のシナリオ(乙5。以下「ワイダシナリオ」という。)にはそれがない。それにもかかわらず、本件戯曲では原告著作初版と同様の落丁がある。
エ A Field of Buttercups の英語原文には、「ブラームスのヴァイオリン二重協奏曲の第3楽章を演奏した。」との記載がある(乙12の5)が、ブラームスにヴァイオリン二重協奏曲はないから、これは誤りである。被告Bが同書を参照したのであれば、「ブラームスの『ヴァイオリンとチェロの協奏曲』を共演して」との言葉は出てこないはずである。原告著作にこそ、「ブラームスの『ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」を共演し」との記述がある(198頁)。
【被告らの主張】
(1) 本件戯曲を全体としてみたときに、その表現それ自体又は表現上の創作性が認められる部分において原告著作との同一性は全く認められず、本件戯曲の表現から原告著作の表現上の本質的な特徴を直接感得できないことは明らかである。両著作物が同一性を有するのは、実在人物であるコルチャックの実人生における諸々のエピソードであり、これをめぐる事実、それも既に先行資料により社会一般に既知となった事実という著作物の題材の部分である。 そして、これらの部分については、最一小判平成13年6月28日(平成11年(受)第922号損害賠償等請求事件)が「既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのが相当である。」としていることがそのまま当てはまる。
 これを、原告主張にかかる「筋・構成対照表」「主要登場人物対照表」「著作対照表」に即して検討する。
ア 「筋・構成対照表」について
 筋と構成は、コルチャックの生涯という同一の一連の事実に依拠している範囲においては同一性を有するとしても、これは「思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分」についての同一性である。
 なお、実際には、本質的な部分において原告と被告Bのコルチャック理解に相違点があるため、本件戯曲には原告著作にはない被告Bのオリジナルなエピソードがふんだんに盛り込まれているなど、以下のとおりの差異がある。
(ア) 本件戯曲は、原告著作と異なり、コルチャックの生涯の全体を網羅的に描くのではなく、ワルシャワ・ゲットー時代に的を絞り、冒頭に少年時代のエピソードを1つ添えて導入としている。これは、被告B独自の観点から本件戯曲が著されたことを示すものである。
(イ) 本件戯曲には、シムエルとジーナ兄妹のエピソードがある(111ないし116頁、163、164、168頁)が、原告著作にはない。ベティ・リフトンの「The King of Children」(その邦訳が乙4〔サイマル出版社、平成3年7月〕。以下「リフトン著作」という。)を参考としているものであるが、被告Bによるイスラエルでの取材によりその事実が確認された上、戯曲の中の重要なエピソードの1つとして取り入れられた。
(ウ) 本件戯曲には、コルチャックが夜中にパンを盗むエピソードがあるが(87頁)、原告著作にはない。被告Bは、コルチャックを神格化するのではなく、全人格的に描き、その幅をふくらませるための重要なエピソードとしてこれを採用した。
(エ) 本件戯曲には、コルチャックが少年に返って父親の夢をみるエピソードがある。被告Bは、やはりリフトン著作を参考にして執筆したのであるが、コルチャックの内面を描く上で、本件戯曲では重要なシーンである。
(オ) 本件戯曲には、ユダヤ自治会議長チェルニアクフの自殺のエピソードがある。
イ 「主要登場人物対照表」について
 主要登場人物の同一性も、同一の一連の歴史的事実に依拠している以上、「思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分」についての同一性である。
 ただし、コルチャックの本名を「ヘンルィク」と表記する点、「ステファ夫人」に「夫人」を付ける部分については、表現上の問題と考えることができるかもしれない。しかし、これは日本におけるコルチャック紹介という共通目的のために協力体制を築いていた原告と被告らが、双方合意のもとに、敢えて本件戯曲を原告著作と同一表現に統一したものである。
ウ 「著作対照表」について
 別紙「反論一覧」(以下「反論一覧」という。)1ないし9、12、13、15ないし18、20ないし23、25、28ないし30の23点については、明らかに事実若しくは事件など表現の題材の一部が同一性を有するにすぎず、表現それ自体、又は表現の創作性ある部分には全く同一性が認められない。特に、コルチャックの子供のころのエピソードであるカナリアの死を描いた「反論一覧」2の部分などは、確かに同一の事実に依拠しているが、被告Bの全く独自の表現により完全に新しい著作物として創造されている。
 残りの8点(「反論一覧」10、11、14、19、24、27、31)については、日本語表現上の類似点を見い出すことが可能であるとしても、これらはすべてオリジナルが存在するから、勢い翻訳も似通った表現に帰着するのが自然であり、単純にその類似点をもって翻案の根拠とすることはできない。さらに、原告と被告Bの間では、オリジナルが存在するものの翻訳を使用する場合はなるべく原告の翻訳に準拠する旨の合意があった。それゆえ、日本語表現が近くなるのは当然の帰結である。
 上記8点のうち11、24、27についてさらに検討する。
(ア) 11について
 この中で同一性を有する日本語表現は、「黒いチョビヒゲ」「脂肪のかたまり」「猫背」の3語である。その余は、表現としては全く同一性がない。
 コルチャックがヒトラー、ゲーリング、ゲッペルスを表すのに用いたというこれらの表現は、そもそも彼らの外観を表す一般的な揶揄表現であり、リフトン著作(邦訳289頁、原文〔乙41の9〕)や、Michael(Micha) Zylberberg「A WARSAW DIARY」(原文が乙17の1の37頁、翻訳は乙17の2)でも「黒ひげ男(a small black mustache。正確に訳せば「黒いチョビヒゲ」とならざるを得ない。)、腹の突き出た男(a large fat belly)、猫背の男(a hunchback)」という表現が用いられている。すなわち、この箇所は、そもそも原告の創作ではない翻訳部分である。
(イ) 24について
 この中で表現上の同一性を見い出すことができるのは、コルチャック自身の日記の一節、エステル嬢に宛てた部分である。その余の部分には表現上の同一性は全くない。
 「エステル嬢よ」で始まるこの一節の翻訳は、確かに原告の翻訳に依拠している。しかし、これは、コルチャックの言葉の日本への紹介においてなるべく同一性をもたせようという原告と被告Bの間の同意に基づく使用である。ましてやこれは、コルチャック自身の言葉の引用部分であるから、本件戯曲全体の翻案性の根拠となるものではない。
(ウ) 27について
 このうち1942年7月21日付のコルチャックの日記の翻訳は、確かに原告の翻訳に依拠している。しかしその同一性が本件戯曲全体の翻案性の根拠となるものではない。
(2) 以上の点は、被告Bが本件著作を著した経緯からも裏付けられる。
ア 被告Bは、もともとホロコーストの研究を目的として昭和41年にイスラエルにわたり、イスラエル工科大学修士課程修了後、コルチャックを含めたホロコーストの研究を続けて現在に至っている。その間、当該研究に関連する数々のイベント及びプロジェクトも実現してきた。
 イスラエルにおいては、ユダヤ人であったコルチャックの偉業・生涯は一般市民の常識となって市民の意識に浸透しており、同人の名前を付した学校・道路等も存在する。そのような環境で生活・研究を続けてきた被告Bにとって、コルチャックのテーマは常に重要な位置を持ち続け、資料収集等のリサーチはやむことなく続けられていたのである。
イ 被告Bは、原告著作が発表される前、昭和59年ころから、コルチャックの生涯の劇化を念頭に置いて資料を収集し、さらにそれを紙片のメモに書きためていった。それがかたちをなしたものに、昭和60年に広島県黒瀬町に計画した「アウシュビッツ平和記念館プロジェクト」のプロモーションカタログがある(乙1)。
 昭和59年というのは、リフトン著作の原著が出版された翌年である。被告Bは、ベティ・リフトンの夫であるD(ホロコーストと広島原爆投下の研究者)と昭和57年に国際ホロコースト・ジェノサイド会議で知り合って以来交友を続けており、ベティ・リフトンが昭和61年にコルチャック研究のためにエルサレムに滞在した時からは、ベティ・リフトンとの交友も続いていた。そのため、被告Bは、非常な関心を持ってリフトン著作の原著を手に入れたのであり、かつ、同書は、アメリカ合衆国での出版当初からコルチャックの研究として非常に評価の高いものであった。被告Bは、この本を参考に、コルチャックの生涯をぜひ演劇で表現したいという強い希望をもって、戯曲の構成に着手したのである。ちなみに、原告も、原告著作を執筆する際に、リフトン著作の原著を参考にしたことを明らかにしている。
 それらの資料とメモをもとにして被告Bの言葉で書かれていったのが本件戯曲である。したがって、本件戯曲上の言葉は、すべて被告Bのオリジナルな表現である。原告著作は、コルチャックの生涯という歴史的事実を理解する上で重要な資料の1つとして活用されたにすぎない。
(3) 原告は、被告Bが、本件戯曲の最終稿である第4稿において、「作者ノート」(1992年4月9日付)で、本件戯曲を書くに当たって、エピソードの約8割が原告著作によるものであることを認めており、また、「原作A」と明記しているとして、本件戯曲が原告著作の翻案であることの根拠とする。
 しかし、前者については、被告Bのそれまでの原告の協力に対する感謝の気持ちの表現であり、かつ、この戯曲の読者に原告著作を強く推薦し紹介しようという心境に基づいた表現であって、文字通りの意味ではない。
 また、後者については、劇団ひまわりと朝日新聞社による演劇公演「コルチャック先生」の制作上の表記が紆余曲折を経て、乙51のスタッフ欄に記載されたようなかたちにすることが決定されたので、それに従って表記されたものである。同スタッフ欄には、ほかにも「主催」「製作」「演出」などと並べて「脚本・上演台本」が記載されていることからみても、本件戯曲の原作としてではなく、当該公演のスタッフ一覧であることは明らかである。
(4) 原告は、被告Bが原告著作のみに依拠して本件戯曲を著した旨主張するが、以下のとおり、失当である。
ア 原告は、乙3ないし23(枝番を含む。)のうち、本件戯曲に「参考文献及び資料」として記載されているのは乙13ないし15、21、22(枝番を含む。)のみであるとするが、これは本件戯曲がフィクションであり、もとの資料をすべて挙げて出典を明らかにすることが求められる歴史的研究書とは異なることによるのである。
 乙20(ホロコースト全史)の初版は1996年(平成8年)8月であり、本件戯曲は平成7年8月刊行であるとする点は、乙20のもととなる The World must know の英文での出版が1993年(平成5年)のことであり(乙35の1ないし6)、被告Bがこれを参照していることから、解消する。
 乙3の2のゲットー日記英訳版は、イスラエルの Ghetto Fighters House の刊行(刊行年不明)であるが、本件戯曲ではニューヨークの Holocausts library の刊行とされているという矛盾があるとの点についてみると、被告Bは後者を参照しているが、前者と後者が同一の内容であることから問題はない。
 乙12の1ないし17の A Field of Buttercups は、ロンドンでの刊行であるが、本件戯曲ではアメリカ合衆国ニュージャージー州 Engelwood cliffs の刊行とされているとの点については、本件戯曲の記述が間違っている。被告Bが被告Cと国際電話で会話した際、メモを間違って読み上げたことに起因する。被告はロンドンでの刊行物を参照した。
イ ゲットー日記の翻訳部分について、被告Bが原告と同じ箇所で同じ量を省略していること、この部分で原告著作を参照していることは認めるが、原告の許諾に基づくものである。
ウ 原告著作の初版では、「私は君たちに神を与えることはできない。神は君たち1人1人が自分の魂の中に、探し求めるよう努めなければならないからである。」という文言の落丁があるのに対し、リフトン著作やワイダシナリオにはそれがないとする点については、「反論一覧」31の中段に記載のとおりである。
エ A Field of Buttercups の英語原文には、確かに the Brahms Double Violen Concerto との記載があるところ、ブラームスにヴァイオリン二重協奏曲は存在しない。被告Bは本件戯曲執筆中に、これが何らかの間違いによって生じた誤記であることに気がつき、おそらく Double Concerto との通称を有する(乙39の1・2、40) Concert for Violin, Chello and Orchestra すなわち「ヴァイオリンとチェロ協奏曲」であるとの結論を得たのである。
2 争点(2)(原告は被告らに原告著作の利用を許諾したか。)について
【被告らの主張】
 以下のとおり、原告が被告らに原告著作の利用を許諾しているのは明らかである。
(1) 原告と被告Bが知り合い、原告著作の出版に至るまで
ア 原告と被告Bの出会いは、昭和61年ころのことである。原告が被告Bの旧友であるヘブライ大学のE教授(以下「E教授」という。)を訪問した際に、E教授が被告Bを紹介したことに始まる。原告と被告Bは、共にコルチャックの生涯に強い関心を抱いていることを認識しあい、両者の交際が始まった。
 両者の交友は、勢い、コルチャックの生涯を広く社会に紹介し、そのめざしたところ、根底に流れる思想を広めるところに収斂していく。
イ 原告は、原告著作を脱稿しながら未だ出版の機会を得られずにいたが、被告Bがその人脈から朝日新聞社に持ち込み、被告Bの旧知であった故F(当時「朝日ジャーナル」編集長、後に朝日新聞編集委員。以下「F」という。)の尽力を得て、平成2年12月に出版にこぎ着けた。
(2) 被告Bが本件戯曲を著すについての原告の関与
ア 被告Bは、原告著作の出版までのプロセスを通して原告と交流を深めていく中で、コルチャックが未だ知られていない日本において、演劇を通してその普及を図ることを発案するに至った。コルチャックの生涯が実に劇的であり、また、コルチャック自身が演劇をこよなく愛していたからである。
 被告Bは、当初、自ら戯曲を執筆することを考えていなかったが、上記プランを原告に告げてみたところ、原告は実現の困難さを慮っている様子であった。被告Bは、ワイダ映画が平成3年春に日本で公開され、日本においてもコルチャックへの関心が高まったのを機に、いよいよコルチャックの生涯の劇化への熱意が高まり、それまで収集した資料を総合して自ら戯曲執筆に取りかかる作業を始めた。
イ 原告は、平成4年1月上旬、イスラエル在住の被告B方に数日逗留した。この時、原告は、「謹呈 感謝のしるしに B様 1992年1月13日」と見開きに記した原告著作を被告Bに贈呈し、被告Bは、原告に対し、戯曲執筆に当たって原告著作を使ってよいかと口頭で尋ねた。すると、原告は、「その本はB君が活躍し、Fさんのおかげで出たもの。本はもちろん、手元の資料も好きなだけ使ってください」とこれを快諾し、さらに、「だが、友人の間でそんなことを聞く方がおかしい。」と怒ってさえくれたのである。
ウ 被告Bは、平成4年3月16日から同年4月1日にかけて帰国した。その間、上京して東京都八王子市にある被告Bの実家に一泊した原告と、被告B、同Cの3人そろっての夕餉が催された。その席で、戯曲の総仕上げ作業中の被告Bは、被告Cに戯曲の編集・印刷作業を、原告に当該戯曲に寄せるメッセージ執筆と全テキストのミスチェック及び校正作業を依頼し、両人の了解を得た。その夜、被告Bは、書きかけの原稿を原告に読んでもらって意見を求めたりした。また、被告Bの帰国中、被告Bと原告とは、東京・京都間で電話での会話を重ねた。
 被告Bがイスラエルに帰った後、原告から直ちに1992年4月3日付で手紙が寄せられている(乙27)。この中で、「脚本まだ着きませんが」と記載され、原告が被告Bの戯曲を待ち望んでいる様子が窺える。
エ 被告Bは、平成4年4月初めころ、本件戯曲の第1稿を書き上げ、直ちに被告Cを通じて原告に送付した。これに対し、原告は本件戯曲の出版に寄せるメッセージの文章を被告らに送っている(乙2の1・2)。そして、原告は、本件戯曲の第1稿を自らチェックしている(乙29、47)。これらを一読すれば、原告が、被告らに対し、本件戯曲の執筆に際し原告著作を参考にすること、そして本件戯曲を被告Cのもとで出版することを承諾していたことは明白である。
 さらに、原告は、山梨における自身の公演の際に、早くも本件戯曲の第1稿の一部を一般聴衆に披露しているが、それは原告が第1稿を読んだからこそである。
オ 原告は、本件戯曲の第2稿についても、「Bさんの第2版、みがきがかかっています。」(乙33、被告B宛1993年11月9日付手紙)、「Bさんの脚本よくなりましたね。彼のことですから大丈夫だと信じています。数か所訂正もありますが、またたぶん変更もあるかと思いますので、今回は見送ります。ただ1つP50−4行目壁には十字架は気になります。こちらのホームにはマリーナ夫人が無神論者なので十字架はありません。でも今回はこのままでよいと思います。」(乙88、被告C宛手紙)としている。
カ 原告は、本件戯曲の第3稿(平成6年6月ころ完成)及び第4項(平成7年1月ころ完成)については、その感想を直接書いた文書は残していない。しかし、原告がこれらを読んでいたことは、以下の事実から明らかである。
 平成6年6月下旬に劇団ひまわり、朝日新聞社共催による演劇公演が決まり、劇団ひまわり側からの要請を受けて(乙52)戯曲の手直しや音楽関係の楽譜・テープの収集等に奔走していた被告Bが、それまで入っていなかったサムエルとギエナ(上記のとおり、本件戯曲ではシムエルとジーナに表記を変えている)のエピソードや、レジスタンスの歌(「燃えている」)を取り入れて(乙53)、第4稿を書き終えたのが平成7年1月のことであった。被告らは、その第4稿を、劇団ひまわりや朝日新聞社の関係者一同、さらにFを通して原告にも送った。その上で、同年3月23日、朝日新聞社本社において、被告B、被告C、F、劇団ひまわりのGなどが集まって会議が行われた。その席でFから、「劇団ひまわりのリクエストで上演台本のベースとなる第4期テキストを被告Bが提出したが、それを通読した原告から、リフトン著作から当脚本に編入されたサムエルとギエナのエピソードは事実無根であり、上演台本から削除すべき、との意見が出されている」旨の発言があった。この発言は、原告が本件戯曲の第4稿を読まなければ決して出し得ないものである。
(3) 以上のことから、原告が被告らに対し、原告著作を利用することを包括的に許諾していたことは明らかである。すなわち、原告は、被告Bに対し、本件戯曲執筆の際、原告著作を自由に利用すること(それはすなわち、資料としての参照、翻訳文の利用、翻案等すべての可能性を含んでいた。)を許し、そのできあがりをチェックし、特に人物名などを中心にして表記の統一を図るための訂正を入れていた。その許諾は書面にされなかったが、原告のその後の行動のすべてが、原告の包括的な承諾があったことを示している。 原告の包括的承諾は、原告の著作を原著作とする翻案の創作も含んでいたものである。しかし、実際には、被告Bは、原告著作を重要な参考文献としながらも、上記のように自らオリジナルな戯曲を創作した。そして、日本でのコルチャックの紹介を有効に展開すべく、原告著作の出版に重ねての演劇公演、戯曲出版、講演、展覧会等をトータルにプロモートするために、固有名詞や翻訳についてはなるべく原告著作に依拠する方向で進めることが両者の間で合意されたため、本件戯曲の中で使用される翻訳文については、戯曲という性質に抵触しない範囲において、原告の翻訳に依拠することにしたのである。
 もちろん、原告の翻訳の使用は、上記包括的承諾に含まれるが、それに加えてさらに、原告は常にそのできあがりを自身の目で実際にチェックしていたのである。
【原告の主張】
 以下のとおり、原告による許諾はあり得ない。
(1) 原告が仮にも本件著作の翻案権を被告らに与えることがあれば、その際は、翻案の範囲、二次著作物(本件では戯曲)の内容、二次著作物の公表時期、翻案権付与の対価等につき、綿密な協議を重ねた上で、必ず書面で契約をし、二次著作物には原著作者名を表示させるはずである。
 被告B自身、かねて著作権について極めて高い関心を示している。すなわち、被告Bが提唱し、デザインしたとされる「アウシュビッツ平和記念館プロジェクト」のパンフレットに「1985年6月<C>黒瀬町」と記載し(乙1)、平成4年5月ころ、本件戯曲の第1稿とされる乙47と共に原告に送付されてきた英訳版(甲11の4)にも「 original text in Japanese by B English text by B English Editing by B <C>Copyright,May,1992 by B 」と明記している。そして、第2稿と称するもの(乙49)にも、末尾に「<C>B」と明記している。著作権についてこのように周到な手当をする被告Bが、原告から原告著作の利用について承諾を得ていたのであれば、それ相当の著作物利用許諾の手続を経ているはずである。また、一般に著作物利用の許諾は出版社側から求められるものであるが、原告は、被告Cから本件戯曲の利用の許諾を求められたことはない。
(2) 被告らは、原告が被告Bに送った手紙やファックス(昭和61年2月9日から平成6年2月まで)をもって、原告が被告Bに原告著作の利用許諾を与えた裏付けである旨主張するが、これら手紙・ファックスは、両者が外観上は友好関係にあったことを示しているとしても、利用許諾を示す具体的な文言・表現はまったく記載されていない。このうち、乙2の1・2についてみると以下のとおりである。すなわち、平成4年4月7日、突然、被告Bから電話があり、「シノプシス(あらすじ)を送るから、『コルチャック先生と私、そして当劇について』との題でメッセージを書いてほしい」と言ってきたので、原告は、メッセージくらいならと思って書くことを引き受けた。送られてきたシノプシスは簡単なもので、原告はざっと目を通し、到底好感のもてるものではなかったが、儀礼的な意味で、同年4月28日ころ、メッセージを書いて送ったものである。決して許諾を与える趣旨のものではない。その文面に照らして明らかなとおり、メッセージの大部分はコルチャックの紹介であり、終わりの方に「Bさんがコルチャック先生の脚本を書いてくれた」とだけ儀礼の趣旨で記載しただけである。また、末尾に「ありがとう、Bさん」とあるのも、コルチャックを取り上げたことに対して、コルチャック研究者として、これも儀礼的意味で記載したにすぎない。
 なお、平成6年3月以降は、原告の被告Bに対する手紙・ファックスが完全に途絶しているところ、被告Bの第3稿とされる乙50、第4稿とされる乙51は、いずれもこの断絶以降に作成されたものである。
 朝日新聞と劇団ひまわりが共催して、平成7年8月に、戦後50周年を記念するプロジェクトとして、A著作を原作とする舞台劇「コルチャック先生」を公演することになり、朝日新聞はそれに先立つ平成6年7月、その旨の社告を出した(甲14)。被告Bは、同公演がA著作を原作とすることに激しく反発し、平成6年8月ころからB著作こそが原作であると言い始めた。これに困惑した朝日新聞と劇団ひまわりは、やむなく、B著作を「脚本原作」という意味不明の扱いをすることになった(甲12ないし14)。原告と被告Bの関係が断絶したのは主としてこの件によるものである。もともと、原告としても、ドスなどを原告の前で見せつける被告Bの言動に強い恐怖の念を抱き、かねてより被告Bを刺激しない形で同人との交際を絶ちたいと思っていたところである。
(3) 被告らは、原告が本件戯曲の第1稿ないし第4稿を読み、これをチェックしているから、原告が原告著作の利用を許諾したものである旨主張する。
 しかし、第1稿とされる乙47については、原告が書き添えた箇所があるが、これは戯曲の内容に関して手を入れたものではない。表紙から2頁にかけての書き込みは、原告がそれまでに出していたメッセージを改めてほしいとの意味で書かれたものであり、戯曲の内容に関して注文をつけたものではない。他に人名や数字などを一部訂正し、「A先生」とあるのを「Aさん」と改めたくらいで、内容に関しては一切手を入れていない(内容は読んでいない。)。被告Bが乙47を原告に送付してきた意図が原告に翻案の許諾を求めることにあったとは到底考えられないし、もとより原告も翻案に許諾を与える意思で、メッセージの内容の訂正を求めたわけではない。著作権者による翻案の許諾とは厳格なものであり、単に原作者が社交辞令的にメッセージや賛辞を送ったからといって、これをもって翻案の許諾を得たということはできない。
 第2稿と称する乙49についても、原告は読んでもいないし、もちろん手を入れたりはしていない。同書面に書かれた訂正文字は原告のものではない。
 次に、第3稿、第4稿と称する乙50、51は、原告に送られてきてさえいない。
3 争点(3)(被告らに損害賠償義務が認められた場合、賠償すべき額。)について
【原告の主張】
(1) 原告著作は、原告がその永年にわたる地道な調査研究に基づき書き上げたコルチャックの伝記であるが、それは単に伝記であるにとどまらず、原告の描くコルチャック像を通して浮き彫りにされた歴史を語るノンフィクション作品でもある。
(2) コルチャックは、ロシア領ポーランドの同化ユダヤ人として、ポーレントウム=ポーランド民族の伝統と、ユウデントウム=ユダヤ民族の伝統に裏付けられた、ナショナリズム、反ユダヤ主義、それに1930年代に入ってのナチズムとの狭間に、その生涯64年を生き、ホロコーストの犠牲となってガス室に消えた。
 コルチャックの生涯は、約20年ずつに区切って概ね次の3期に分けることができる。
@ 1878年〜1898年(出生から医学部入学まで) 資本主義批判、社会改革、教育改革を夢見た青少年時代
A 1898年〜1918年(医学生からポーランド独立まで) 社会主義の実現とポーランドの独立をめざして闘った時代
B 1918年〜1939年(両世界大戦間) ポーランド独立後、政治的思想的に最も困難であったが、コルチャックにとって夢と実り多き時代
 そしてこれに続いてC1939年9月〜1942年8月(第2次世界大戦勃発からゲットーまで)の3年間がある。
 原告著作は上記@ないしCの全時期を描いている。それによって初めてコルチャック像を、そして彼の根底にある世界観、倫理観を、また、ナショナリズム、反ユダヤ主義、ナチズムやそれら時代の実相を如実に把握しうるものだからである。
 ところが本件戯曲は、原告著作に依拠しながら、Cのみを取り上げて戯曲化し、しかも随所にはなはだ適切を欠くと見られる表現方法が用いられているために、原告著作に示されたコルチャック像が正確に示されず、むしろ歪曲されている。このような二次的著作物を通じて、原著作がその二次的著作物と同じようなものかとの誤解を二次的著作物の読者に与えることになり、原告の著作者人格権を著しく侵害するものというべきである。
(3) 以上のように、被告らの行為は、原告の翻案権(著作権法27条)、二次的著作物の利用に関する原著作者の権利(同法28条)、著作者人格権を侵害するものであり、これによる有形・無形の損害を金銭的に評価すれば1000万円を下らない。
第4 争点に対する判断
1 争点(1)(本件戯曲は原告著作の翻案に当たるか、また、本件戯曲の個々の翻訳が原告著作の翻訳の複製権侵害に当たるか。)について
(1) 甲2によれば、原告著作は以下の構成を有している。なお、本件に特に関係の深いW章では、ゴシック体で各章の小見出しを示す。
序章 トレブリンカの森
 原告が、1981年10月ワルシャワで開催された国際コルチャック会議の後、他の出席者と共に、ホロコーストのあったトレブリンカを訪れた様子が記載されている。
 8頁で、コルチャックの業績が簡潔に紹介されている(「著作対照表」4枚目下欄)。
T 生い立ちと青年時代
 冒頭でコルチャックの生い立ち(青年期までの活動、家族構成など)が記載され、20頁以下で、コルチャックの著作「ゲットー日記」から引用しつつ、カナリアの死をきっかけに自己がユダヤ人であることを認識したエピソードが紹介されている(「著作対照表」1枚目下欄参照)。
 また、背景としてのポーランドの歴史(ロシア第一次革命の失敗により、ロシア領ポーランド王国で社会運動が打撃を受けるまで)が記載されている。
U 「孤児たちの家」と「僕たちの家」
 各国の新しい教育運動、ユダヤ人孤児達のためにコルチャックが1912年創設した「孤児たちの家」(別名クロフマルナ)、マリナ・ファルスカが院長を務め、コルチャックもこれに深く関与したポーランド人の子供たちのための「僕たちの家」における教育と両校の交流、その背景となるポーランドの教育事情、クロフマルナの教育に役割を果たしたステファニア・ヴィルチンスカ(以下「ステファ」という。)のこと、クロフマルナにおいて子供たちが議会、裁判、法典をもち、問題児を立ち直らせるため指導委員会が運営されていたこと、コルチャックが子供たちの裁判にかけられたこと等が記載されている。
 95頁以下で、1918年ポーランドが独立したものの、ユダヤ人の子供にとって祖国とは何かという問題は解消しなかったことを指摘し、その点に関連するコルチャックの発言として、「著作対照表」25枚目下欄の記載(ホームの卒業生に贈った言葉)がされている。
V 両大戦のあいだ
 第1次世界大戦、当時の反ユダヤ主義、ソヴィエト・ポーランド戦争、子供達を対象にした雑誌「小評論」発刊、コルチャックからこれを引き継いだネヴェルリイ(ポーランド人、クロフマルナやナシュ・ドムの教員)のこと、パレスチナ旅行、子供向けのラジオ番組「老博士のおはなし」への出演、ナチス・ドイツの台頭などが記載されている。
W 精神の王国ーワルシャワ・ゲットーのなかで
 冒頭で、第2次世界大戦勃発(142頁、「著作対照表」1枚目下欄)、コルチャックが300ズウォティ(当時の熟練労働者の賃金3か月分に相当)でポーランド軍将校軍服を購入し負傷者の救援活動にあたったこと(143頁、「著作対照表」5枚目下欄)、占領下におけるユダヤ人政策(ダビデの星のついた腕章の着用義務、強制労働に従事する義務など。145頁、「著作対照表」3枚目下欄)、占領下でも募金活動をしたエピソード(その中で、コルチャックは、自分が4度の戦争と3度の革命に参加したことを述べている。146頁、「著作対照表」5枚目下欄)が記載されている。
 ワルシャワ・ゲットー 通常5万人が生活するスペースに50万人を収容したワルシャワ・ゲットーの状況(150、152頁、「著作対照表」4枚目下欄)、クロフマルナの子供達がゲットーに移住する際、ジャガイモを持ち込もうとして没収され、これに激しく抗議したコルチャックが監獄送りとなり、教え子がかき集めた3000ズウォティの保釈金(わいろ)によりようやく釈放されたこと(154頁、「著作対照表」5、6枚目下欄)、ゲットー内での生活状況などが記載されている。
 民族の詩・民族の旋律 ゲットーでの音楽会の開催、出演者の中にレジスタンス詩人ゲビルティッヒの詩をよく朗読した者がいたこと(その詩の訳が161、162頁以下にある。「著作対照表」7枚目下欄)、演奏後、コルチャックが名指しはしないがナチス幹部の身体的特徴を揶揄する詩を朗読し、動揺し逃げ帰った観客もいたこと(163、164頁、「著作対照表」8、9枚目下欄)などが記載されている。
 ヒトラーの「モスクワ遠征」 独ソ開戦、ドイツ軍の緒戦の勝利とソ連軍の反撃、ユダヤ人の所有する毛皮を供出するようにとの当局の命令(166頁、「著作対照表」9枚目下欄)などが記載されている。
 ヴァンゼー会議の頃−地獄で生きる戦い 1941年12月のクリスマス、ポーランド人レジスタンス組織が、ごみ運搬車に隠してコルチャックの運営するホームに食料を送り届けたこと(167頁、「著作対照表」10、11枚目下欄)、コルチャックの活動に好意的な記事を載せた「ユダヤ人の新聞」への寄稿(167、168頁、「著作対照表」9、10枚目下欄)、劣悪な状況にあったジェルナ通りの乳児院の救済活動(168、169頁、「著作対照表」10枚目下欄)、ヴァンゼー会議(ユダヤ人絶滅政策の決定)と、ユダヤ人レジスタンス組織による「ガス室送り」情報の流布、コルチャックがゲットー内の特権階級に食料を乞い、脅迫すらしたこと(172頁、「著作対照表」7枚目下欄)、子供達が物乞いの歌を歌っていたこと(172頁、「著作対照表」17枚目下欄)などが記載されている。
 救援の手を退けて 1942年7月のトレブリンカ移送の直前、ネヴェルリイが偽造証明書による脱出をコルチャックに説得したところ、ザレフスキのこと(クロフマルナの管理人だったザレフスキが、ホームがゲットーに移転した際、ポーランド人でありながら子供達と行くことを望んでドイツ兵に殴打されたこと)を忘れたのかと指摘されたこと(174、175頁、ザレフスキのエピソードにつき「著作対照表」6枚目下欄)、コルチャックが危険を冒してナシュ・ドムを訪れたこと、なお、ファルスカがクロフマルナのハンナ・グダレヴィッチらユダヤ人の子供(ただし、外見上ポーランド人と見分けがつかない者)もわずかではあるが匿っていたこと(175ないし177頁、「著作対照表」6枚目下欄、20、21枚目下欄)などが記載されている。
 ゲットー日記から コルチャックの「ゲットー日記」から引用したエピソードが記載されている。その中に、コルチャックのみた夢として、夜間外出禁止時間に腕章もせずにドイツ人の中にいた夢(186頁、「著作対照表」14枚目下欄)、列車の中で引きずっていかれる夢(186、187頁、「著作対照表」14枚目下欄)、父親から口にケーキを押し込まれる夢(187頁、「著作対照表」12枚目下欄)などが記載されている。
 死の暗示−タゴールの『郵便局』上演 コルチャックの1942年7月半ばの日記からの引用により、当時コルチャックが死を覚悟し、むしろそれに対するあこがれに似たものすら感じていたことが示され(191、192頁、「著作対照表」14、15枚目下欄)、同月18日、コルチャックの発案でインドの詩人タゴールの戯曲「郵便局」がゲットーで上演されたこと、観劇した2人のコメント(そのうち、ゾフィア・シマンスカ博士のものは劇の内容を詳細に紹介し、また、劇を見るコルチャックがホールの隅で体をもたせかけてうなだれていたと証言している。196、197頁、「著作対照表」15、16枚目下欄)、なお、劇の終わった後、この戯曲を選んだ理由を聞かれたコルチャックが、最後に病弱な主人公オモルを迎えに来た死の天使を、クロフマルナの子供たちも安らかな気持ちで死を迎えることを学ばなければならないだろうと述べたこと(197頁、「著作対照表」16枚目下欄)、この上演はホームの子供たちによるものであり、主人公のオモルの役はアブラシャという少年が演じたこと、アブラシャはヴァイオリンなど音楽の才能に恵まれ、9歳の時にワルシャワ音楽院でブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」を演じたこと(198頁、「著作対照表」14枚目下欄)、演出はホームでコルチャックの助手をしていたワルシャワ大学理学部の女子大生エステルによるものであること(198頁、「著作対照表」14枚目下欄)、その後エステルはゲットーの通りで捕えられトレブリンカに送られたこと、コルチャックがエステルについての挽歌ともいえる文を日記に残していること(198、199頁、「著作対照表」18枚目下欄)などが記載されている。
 トレブリンカへ 冒頭にコルチャックの1942年7月21日の日記を引用した上(199、200頁、「著作対照表」20枚目下欄)、その日記が書かれた日に非常線が張られ、軍需生産に従事する者及び一部の必要な者を除いてユダヤ人への移住命令が伝えられたこと、移送される人数は1日5000人、やがて1万人にまで増加されたこと(200頁、「著作対照表」19頁下欄)、ユダヤ人警官たちが忠実にドイツ軍に協力したこと、その背景には、ノルマを達成できなければ自分たちの家族を出さなければならないことがあったが、最終的には彼らも、彼らの家族も移送されたこと(201、202頁)、ユダヤ人評議会議長のチェルニアクフ及びその妻が、孤児たちを助けることができなかったことを苦に自殺したこと、チェルニアクフの遺書(202頁、「著作対照表」19枚目下欄)、ドイツ当局の自発的に移住を申し出た者には、集合地点においてパン3キロ(1個1キロ)及びマーマレード1キロを与えるとのエサに釣られて、ユダヤ人が集合地に殺到したこと(202頁)が記載されている。
 日記はつづく−花に水をやる コルチャックの日記からの引用であり、1942年8月4日の日記(最後の日記)では、花に水をやっていると、ドイツ軍の歩哨がこちらを眺めていたこと、彼の徴用前の職業に思いをめぐらせたことなどが記載されている(208頁、「著作対照表」21、22枚目下欄)。
X 死への行進
 ホームの子供たちも移送のためダンツィヒ駅に行くことになったこと、子供たちはステファがこの日のために用意した晴着を着て、整然と4列の隊列を組んで行進し、先頭にはコルチャックが最年少の少女ロムチアを腕に抱き、1人の男の子の手を引いて歩いていったこと、アブラシャも加わっているが、ヴァイオリンは持っていないこと、コルチャックに対するドイツ当局からの特赦が知らされたが、コルチャックの目はその申し出を退けたこと(211ないし213頁、「著作対照表」23、24枚目下欄)が記載され、さらに、コルチャックの最後の日についての諸家の記録があり、J.ヴルフのもの(215頁、「著作対照表」22、23枚目下欄)、K.ヴォルフのもの(なお、死に追いやられたのは1万5000人であり、その中にコルチャックとその子供たち200名がいたとしている。215頁、「著作対照表」23頁下欄)、最後にネヴェルリイが目撃者から聞いたエピソード(SS指揮官が、子供のころ読んだ「小さなジャックの破産」の作者がコルチャックであると知り、助けようとするが、コルチャックは、子供たちが助けられるわけではないことを知ると、自ら貨車に入っていった。217、218頁、「著作対照表」25頁下欄)が記載されている。
あとがき
 戦後における世界のコルチャック評価等が記載されている。
(2) 甲1によれば、本件戯曲は以下の構成を有している(冒頭の作者コメント等は省略)。
ア 物語
 第2次世界大戦、ポーランド分割などの時代背景が記載され(12、13頁)、その中に「著作対照表」1枚目上欄の記載がある。
イ 序幕シーン1 コルチャック五才 愛するカナリアの死
 5歳の少年コルチャックが、かわいがっていたカナリアの死を通じて、ユダヤ人である暗い運命を知らされる場面である(17頁ないし21頁。「著作対照表」1ないし3枚目上欄)。
ウ 中間シーン ドキュメンタリー映画上演(5分)
エ シーン2A 1940年秋、ワルシャワ・ゲットーのホーム
 スピーカーから流れるドイツ軍の布告(ダビデの星の腕章、強制労働義務など。23、24頁。「著作対照表」3、4頁上欄)、コルチャックと子供たちがゲットー内のホームに入る様子などが描かれる。
オ シーン2B 同夜ホームにて
 コルチャックと、ステファは、ゲットー内のホームの運営について励まし合う。その中でコルチャックはゲットーは通常5万人が生活するスペースに50万人を収容したオリであること(30頁、「著作対照表」4枚目上欄)を述べ、一方、ステファは、ラジオでの講義や、ホームで子供の議会、子供の裁判、子供の法典を作ったことなどコルチャックの各種業績を賞賛する(31頁、「著作対照表」4枚目上欄)。コルチャックがクロフマルナの元使用人ザレツキー(原告著作でいうザレフスキ)がジャガイモをゲットーに届けてくれると喜んでいるのに対し、ステファがポーランド人を疑うようなことを言う。コルチャックは、ポーランド人とユダヤ人を分断しようとするナチスの策にはまってはいけないと諌め、自分はポーランド人として4度の戦争と3度の革命に参加したこと、ドイツ軍侵入の際は300ズウォティの高い金で買ったポーランド軍服を来て救援活動をし、ラジオ放送でワルシャワ防衛のアピールをしたことを述べる(35頁、「著作対照表」5枚目上欄)。
カ シーン3 ゲットーの街路地
 冒頭であらすじ(ザレツキーがジャガイモを持ち込もうとしてゲシュタポに没収され、抗議したコルチャックがゲシュタポ刑務所にたたき込まれる。38頁、「著作対照表」5枚目上欄)、ゲットー入口の様子が示される。ザレツキーが走り込んで来て(41頁、「著作対照表」5枚目上欄)、ジャガイモを持ち込もうとしてゲシュタポに没収され、殴打されたことを述べると、コルチャックはゲシュタポ軍曹に抗議して逮捕される。ステファはザレツキーを疑ったことを恥じる。
キ シーン4 ホームの広間(1940年12月中旬)
 冒頭で、コルチャックがポーランド人ホーム卒業生の努力により3000ズウォティのわいろによって釈放されたことが記載され(47頁、「著作対照表」6枚目上欄)、ホームに戻ってきたコルチャックとステファの会話を中心にストーリーが進行するが、客船サント・ルイス号の悲劇、プラハの駅でユダヤ人の子供が地球儀を見て「ここより安全なところないの」と言ったエピソードの後、ハンナ(ハンナ・グダレヴィッチ)を「僕たちの家」に預けたが、金髪で目も青く、アーリア人に似ているから隠しおおせるだろうとの話になり(49ないし51頁、「著作対照表」6枚目上欄)、最後にヤミ取引で儲けたユダヤ人が集まるキャバレーの話題で締めくくられる。
ク シーン5 ゲットーの中のキャバレー
 冒頭で、コルチャックが盛り場等で寄付を募ったことが記載され(54頁、「著作対照表」7枚目上欄)、寄付を求めるコルチャックとテーブルの男とが押し問答をした後(55頁、「著作対照表」7枚目上欄)、その場にレジスタンスの青年が乱入する。ここでキャバレーで歌っていた女歌手ミリアムがレジスタンスの青年の1人と旧知であったこと、コルチャックのホームの出身者であったことが判明し、ミリアムはコルチャックのために寄付を募る。一方レジスタンスの青年は闘争への参加を呼びかけ、寄付を募り、ナチスの緒戦の勝利をもとに反論する客に対し、ゲビルティッヒの歌を歌って感動を呼ぶ(60ないし62頁、「著作対照表」7、8枚目)。レジスタンスの青年らが引き上げた後、客たちは寄付に応じ、それに対し、コルチャックはまず余興としてナチスの幹部らの身体的特徴の物まねをし、かつ、その実名を挙げ、「ナチのならず者」と言い、これに対し観客は笑い転げる者、逃げ出す者などいたが、最後にコルチャックが礼と共に自分は子供たちの宝を守るいわば管理人にすぎない旨述べる(64、65頁、「著作対照表」8枚目上欄)。
ケ シーン6A ホームにて(1941年12月クリスマスの夜 その1)
 冒頭で、あらすじ(67頁、「著作対照表」9枚目上欄)が記載され、ステファがレジスタンスのラジオの情報として、アメリカがドイツに宣戦布告し、ドイツ軍はロシア戦線で苦戦し、ゲットーから毛皮を取り上げたのもロシア戦線のドイツ兵のためと考えられる旨述べる(68頁、「著作対照表」9枚目上欄)。ステファがコルチャックの業績を載せたユダヤ新聞を持ってくると、コルチャックは最初、執筆者が寄付を断った者であったことから怒るが、結局ステファが我慢するように言ったのに応じて、返事の手紙(71、72頁。「著作対照表」9枚目上欄)を書く。その後、コルチャックはステファに対し、ジェルナ通りの乳児院の劣悪な環境(職員が乳児の食料を横取りしている)に対処するのに協力を求める(72、73頁、「著作対照表」10枚目上欄)。
 その後、コルチャックがハヌカのお話をし、子供たちがペレツの詩「同胞」を歌う。
コ シーン6B ホームにて(クリスマスの夜 その2)
 冒頭のあらすじとして、第2次大戦前はユダヤ人のための「孤児たちの家」とポーランド人のための「僕たちの家」では、お互いの祝日には他のホームを訪れあっており、この年はポーランド人の青年たちがゲットー内のユダヤ人孤児のために贈り物をホームに届けたことが記載される(81頁、「著作対照表」10枚目上欄)。
 「僕たちの家」の卒業生たちがゴミの運搬車の中に贈り物の箱を隠してホームを訪れる。なお、その1人はエステルの恋人である。彼らが帰った後、箱を開けると、たくさんの小箱がこぼれ落ち、その中の1つはコルチャック宛のもので、ウォッカと黒パンが入っている。コルチャックはこれを抱きしめて姿を消す(以上につき、81ないし86頁、「著作対照表」11、12枚目上欄)。
サ シーン7 夜、ゲットーのホームにて
 冒頭であらすじが記載され、コルチャックが箱の中から黒パンを取り出して食べるシーンが描かれ(87頁、「著作対照表」12枚目上欄)、その後、コルチャックの夢を寓意化する場面(少年コルチャックの口に、コルチャックの父親が盗んできたパンを押し込む場面)が描かれる(87ないし88頁、「著作対照表」12枚目上欄)。
シ シーン8 その翌朝、ホームにて
 コルチャックが、黒パンを1人で食べたことを子供達に自首し、自ら子供たちによる裁判にかけられる。
ス シーン9 ゲットーの街路地(1942年7月21日頃)
 トレブリンカへの強制移動が始まったことが示され(101頁、「著作対照表」13枚目上欄)、ゲシュタポの布告(強制移住命令、黒パン2個、ジャム缶1個の支給、労働証明を持つ者等は移送を免除されること等)がスピーカーで流される(101頁、「著作対照表」13枚目上欄)。ユダヤ人の死体や物乞いの様子が描かれ、子供が物乞いの歌を歌う(102頁、「著作対照表」13枚目上欄)。ドイツ軍将校が写真を撮り、ユダヤ人警官が同胞を駆り立てる様子が描かれる。半裸裸足の男がコルチャックに、移送先がガス室であることを叫びながら示唆する。ゲシュタポはこの男を射殺する。ドイツ軍将校が射殺された男の写真を撮る。
セ シーン10 ホームのホール(1942年7月中旬)
 健康診断の場面が冒頭にあり、少年アハロンの死期が近いことが示される。両親を失ったシムエルとジーナの兄妹が入ってくる。シムエルは年齢の関係でホームに入れないが、ジーナは別れたくないと泣く。
 タゴールの「郵便局」の上演が話題となるが、コルチャックは悪夢(外出時間も過ぎたのにゲットーの外にいる夢、死人たちと一緒に列車の中に押し込められ、中には子供たちの死骸もある夢)の話をする(117、118頁、「著作対照表」13、14枚目上欄)。
ソ シーン11 ホームのホール(1942年7月18日頃)
 冒頭のあらすじで、「郵便局」の上演は、子供たちに死というものを知らせるためであること、なおエステルが演出したことが示される(119頁、「著作対照表」14枚目上欄)。また、「郵便局」の主役オモル役のアブラシャが、9歳の時にワルシャワの音楽院でブラームスの「バイオリンとチェロの協奏曲」を共演したエピソードがエステルの口から語られる(120、121頁、「著作対照表」14枚目上欄)。
 舞台内で「郵便局」の上演がされ、子供たちが観劇する様子が描かれる。上演が終わる。コルチャックは、片隅で身をもたせかけ、うなだれている(125ないし131頁、「著作対照表」15枚目ないし17枚目上欄)。
タ シーン12 寝静まった夜のホーム(1942年8月1日頃)
 冒頭でエステルが街路でゲシュタポに捕らえられトレブリンカに送られたことが示される。
 アブラシャがエステルが捕らえられたことを知り、嘆く。コルチャックが、エステルへの挽歌というべき日記を書く(132、133頁、「著作対照表」18枚目上欄)
チ シーン13 ユダヤ自治会議長チェルニアクフ氏の自宅
 冒頭で、あらすじが示される(134頁、「著作対照表」18枚目上欄)。
 コルチャックがチェルニアクフ夫人が押しとどめるのを振り切ってチェルニアクフに会う。チェルニアクフは子供たちの移送はないと請け合う(134頁、「著作対照表」18枚目上欄)。
 コルチャックと入れ替わりに、ゲシュタポ将校が入ってきてくる。チェルニアクフは、自分はドイツ軍当局の要求に応じ1日に当初5000人、現在1万人を差し出していると皮肉をいうが、将校は子供たちの移送を命じる(142、143頁、「著作対照表」19枚目上欄)。
ツ シーン14 同夜ホームにて
 冒頭で、あらすじが示される(145頁、「著作対照表」19頁上欄)。
 チェルニアクフ宅から帰ってきたコルチャックとステファの会話で進行し、コルチャックがジーナに子守歌を歌ってやるなどする。シュルツが入ってきて、チェルニアクフの自殺の知らせを告げ、手紙(遺書)をコルチャックに渡す。コルチャックは、これを読み上げる(148、149頁、「著作対照表」19枚目上欄)。コルチャックは、子供たちの運命を知る。
 コルチャックは、シュルツに対し、エステルとの交情に謝意を述べた上で、ゲットーに残るシムエルの世話をするよう頼む。また、コルチャックは、ステファに、移送の際の準備を頼む。
 コルチャックが日記を朗読する(152頁、「著作対照表」20枚目上欄)。
テ シーン15 ワルシャワ近郊「僕たちの家」
 冒頭であらすじが示され、また、コルチャックが「僕たちの家」に入ってくる様子が描写される(153頁、「著作対照表」20枚目上欄)。
 コルチャックは、マリーナの食事の勧めを「子供たちはもう2日も何も食べていない」として断る。マリーナがコルチャックのホームの子供たちを匿っていたエピソードが語られる(154ないし157頁、「著作対照表」20、21枚目上欄)
ト シーン16 最後の朝(1942年8月上旬)
 冒頭であらすじが示される(156頁、「著作対照表」21枚目上欄)。 コルチャックとステファの会話。コルチャックは花に水をやりながら、こちらを眺めているドイツ軍の歩哨の徴用前の職業に思いをめぐらす(158、159頁、「著作対照表」21、22枚目上欄)。
 食事の場面。アハロンが死んだことが告げられ、それでも少女ポーラはアハロンのためにパンとジャムを用意する。
 レジスタンスに加わったシムエルが、ジーナの様子を見に来て、去っていく。
 ドイツ軍軍曹が現れ、即座にダンツィヒ駅に集まるよう命じるが、コルチャックの子供たちを着替えさせたい、ピクニックとして行きたいという要請に応じ、20分の猶予を与える。
 コルチャックは、少年の1人に、旗を持ち、4列に並んだ子供たちを先導するように指示する(169頁、「著作対照表」22枚目上欄)。
タ ラストシーン(シーン1〜4)ある旅立ち
 全体のあらすじ(コルチャックの教え子200人を含むユダヤ人1万5000人が動物用貨車で護送されることになったこと、子供たちには晴着を着せ、緑の旗を掲げた子供の先頭に、5才の少女ロムチアを抱き、もう1人の男の子の手を取ったコルチャックが立って、ゲットーから駅まで整然と2.5キロを行進したこと、貨車に乗り込む直前、偽造のパスポートを持ったポーランド人伝令が、コルチャックを救おうと、コルチャックが何者であったかを知ったドイツ軍将校と一緒にコルチャックを説得するが、コルチャックはそれを拒絶したこと)が示される(170頁、「著作対照表」23枚目上欄)。
(ア) シーン1 ワルシャワ・ダンツィヒ駅
 ドイツ軍とユダヤ人カポがユダヤ人を駆り立てる様子が示される。
 ドイツ軍兵士は、黒パン2個のエサで集まってくるユダヤ人を嘲笑すると共に、ユダヤ人カポが、自分と家族可愛さに同胞を駆り立てているが、いずれ同胞と同じ運命になると話す。
(イ) シーン2 同駅
 子供たちの、ペレツの詩「同胞」の歌が聞こえてくる。
 ロムチアを抱き、もう1人の男の子の手を取ったコルチャックを先頭に整然として、晴着姿の子供たちが入場する。アブラシャもヴァイオリンを持って加わっている。
(ウ) シーン3 同駅プラットホーム
 ポーランド人シュルツ現れる。コルチャックにパスポートを示し、逃げるように言うが、コルチャックは子供たちやステファの分がないことを知るとこれを拒否する。ドイツ軍将校は、コルチャックが「ジャックの破産」を書いた著者であることを思い出し、コルチャックにそのことを確認し、シュルツと共に逃げるように勧めるが(183、184頁、「著作対照表」25枚目上欄)、コルチャックは、盗んだパンを食べたのと同じことはしたくないとして、子供たちの方に向かう。
(エ) シーン4 出発(終幕)
 コルチャックと子供たちが列車に乗り込む。コルチャックの声がホームに響き渡る(190、191頁。「著作対照表」25、26枚目上欄)。
(3) 両著作の題材及び内容の表現について
ア 両著作で共通する題材
 甲1、2によれば、両著作で、「著作対照表」記載のとおりの共通する題材があることが認められる。しかし、証拠(乙3ないし23、36ないし41、43ないし45《いずれも枝番を含む》、被告B《以下「被告B」という。》本人尋問の結果)によれば、被告Bは、これらの共通部分の殆どについて、「反論一覧」記載のとおり、原告著作以外の著作(特にリフトン著作)をも参照して表現していることが認められる。
(ア) このうち、ゲットーが2つの地域に分かれていること、コルチャックがナチスの幹部の身体的特徴を揶揄した際、ナチスを「ならず者」と呼んだこと等は、原告著作にはみられないが、乙4の280頁、289頁には記載されている。
(イ) しかし、コルチャックがドイツ軍侵入の際、300ズウォティを払ってポーランド軍将校軍服を買ったとのエピソード(35頁、「著作対照表」5枚目上欄)は、被告引用にかかる他の著作にはみられない(かえって、乙4の257頁には、1920年のソヴィエト・ポーランド戦争で着用した古いポーランド軍制服を着ていた旨記載されている。)。また、「僕たちの家」(ナシュ・ドム)を訪れたときのコルチャックの様子の表現(153頁、「著作対照表」20枚目上欄。原告著作によれば、これはネヴェルリイの話に由来するものである。)、細かいところでは、「郵便局」上演の際、コルチャックが片隅で身をもたせかけていたこと(131頁、「著作対照表」17枚目上欄)も同様である。
イ 本件戯曲にみられるが原告著作にはないエピソード(甲1、2)
 客船サント・ルイス号の悲劇
 プラハの駅でユダヤ人の子供が地球儀を見て「ここより安全なところないの」と言ったエピソード(シーン4)
 ゲットーのキャバレーに乱入するレジスタンス青年(シーン5)
 コルチャックが「ハヌカのお話」をすること(シーン6A)
 コルチャックが差し入れられたパンを子供たちに分けずに食べてしまい、そのことで自ら子供たちの裁判にかけられたこと(シーン6B、7、8)
 シムエルとジーナのエピソード(シーン10、14、16)
 ペレツの詩「同胞」(乙4 286頁)が歌われること(シーン6A、ラストシーン シーン2)
 ユダヤ人の死体の写真を撮るドイツ将校(シーン9)
 死んだアハロンのためにパンとジャムを用意するポーラ(シーン16)
 コルチャックがダンツィヒ駅への最後の行進をピクニックと位置づけたこと(シーン16。なお、乙22の1、2)
ウ 両著作にみられるが、場面設定や位置づけが異なるエピソード(甲1、2)
 コルチャックが逮捕されるきっかけとなったジャガイモの搬入をしたのが原告著作では子供たちであるのに対し、本件戯曲ではザレツキーであり、かつ、ユダヤ人とポーランド人の融和を願うコルチャックの心情を象徴するエピソードとされていること(シーン2B、3)、原告著作では、コルチャックがナチスの幹部を揶揄するのはゲットー内の音楽会の後であるが、本件戯曲では、ゲットー内のキャバレーで寄付を集めた後であること(シーン5)がある。その他、ゲビルティッヒの詩は、原告著作では、ゲットー内の音楽会の出演者が好んで歌った詩として紹介されているのに対し、本件戯曲ではレジスタンスの若者がゲットー内のキャバレーで士気を鼓舞するために歌っており(シーン5)、コルチャックがホームの卒業生に贈った言葉は、原告著作では、ユダヤ人の子供にとって祖国とは何かという問題に関連して記載されているのに対し、本件戯曲では劇の最後に配置されている。
エ 両著作中の翻訳
 本件戯曲61、62頁、同71、72頁、同132、133頁、同149頁、同190、191頁の翻訳の表現は、それぞれ原告著作161、162頁、同168頁、同198、199頁、同202頁、同95、96頁の翻訳の表現とほぼ同一である。本件戯曲102頁の物乞いの歌も、被告により加えられたのは「母ちゃんもどっかへ逃げちゃって」の一節だけであり、他は原告著作172頁の翻訳と同一である(甲1、2)。
 原告著作においては、ポーランド語のものについても原文に当たり、特にコルチャックのポーランド語の著作については、逐語訳でなくその意を伝えることを重視し、省略した箇所もある。これに対し、被告Bはポーランド語はできない(甲9、原告、被告B各本人尋問の結果)。
(4) 上記認定事実をもとに検討する。
ア 翻案性の判断について
 言語の著作物の翻案は、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして、著作権法は、思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案に当たらない(最一小判平成13年6月28日、平成11年(受)第922号損害賠償等請求事件)。これを本件に即してみれば、@本件戯曲は原告著作に依拠しているか。A両著作において表現上の本質的な特徴に同一性があり、本件戯曲に接する者が原告著作の表現の本質的特徴を直接感得できるかを検討すべきであり、Aの検討の際には、表現それ自体でない部分又は創作性のない部分における同一性にすぎないかに留意すべきということになる。
イ 両著作の特質、形式について
 原告著作は、コルチャックの生涯を、その背景となる歴史的事実を織り交ぜながら記載するノンフィクションとしての伝記というべきものであるのに対し、本件戯曲は、冒頭でのカナリアのエピソードを除き、ドイツ軍がポーランドに侵入し、コルチャックとクロフマルナの子供達を含むユダヤ人がゲットーに収容された以降のことを中心とする会話を主体とする戯曲である。したがって、両者の外観、形式から、直ちにその依拠性をうかがうことはできない。
ウ 両著作の筋・構成及び人名・固有名詞等について
 両著作には、筋・構成について類似している点がある。また、人名、固有名詞等について共通するものがあるのは「主要登場人物対照表」記載のとおりである。しかし、これらは「…アイデア、事実もしくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分」に該当するといえる上(もっとも、「ステファ夫人」の夫人の部分は表現上の問題といえるが)、両著作ともにコルチャックという同一の歴史的背景をもった同一人物の生涯におけるできごとについての著作であることからすれば、上記の類似、共通点が直ちに本件戯曲の依拠性を基礎づけるものということはできない。
エ 両著作の題材、内容の表現について
 上記認定事実(3)に照らせば、本件戯曲が原告著作に依拠し、それと同一ないしは同一性のある表現をしているとみられるのは、同(3)ア(イ)記載のエピソードと、同(3)エ記載の翻訳部分である(翻訳について本件戯曲が原告著作に依拠していることは実質的には争いがないといえる。)。
 上記エピソードについては、分量も少ない上、「事実もしくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分」とみられるから、これを翻案性を基礎づけるものとすることはできない。しかし、上記翻訳部分についてみると、原告著作に含まれる対応部分は翻訳として上記のとおり表現上の創作性を有する部分であるところ、本件戯曲はこれとほぼ同一の表現を用いている。
 しかし、他方、上記(3)記載のとおり、本件戯曲は、原告著作以外の著作等(特にリフトン著作)を参照したり、劇的効果の観点から表現や配置を工夫した結果、同一事件についても原告著作にみられない表現があり、また、原告著作にないエピソードを多数含むなど多くの相違点を有しており、これによって本件戯曲と原告著作の全体としての印象は相当異なるものとなっているといえる。特に、ザレツキーとじゃがいも事件を絡めて脚色したこと、コルチャックが「ハヌカのお話」をすること、コルチャックが差し入れられたパンを子供たちに分けずに食べてしまい、そのことで自ら子供たちの裁判にかけられたこと(なお、原告は「筋・構成対照表」において、これを事実無根ないしコルチャックの教育思想の歪曲である旨主張するが、依拠の有無ないし表現の同一性の判断をするに当たっては客観的対比によるべきもので、内容の真実性に立ち入る必要はない。)については、分量的にもまとまっていることから、この印象を助長し、短いながらも子供たちによるペレツの詩「同胞」の合唱や、コルチャックがダンツィヒ駅への最後の行進をピクニックと位置づけたことの独自の効果も無視できない。
 もっとも、構成についてみるに、エステルを追悼するコルチャックの日記の配置は、原告著作に近い劇的効果を有するといえる。また、ドイツ将校が子供のころコルチャックの「ジャックの破産」を読んだことを思い出しコルチャックを助けようとするくだりは、印象が強く1つのクライマックスともいえるところであり、これを最終段階に配置したところは本件戯曲と原告著作に共通の劇的効果を与えるものといえる。しかし、前者は、時系列的に、そのような配置になることは自然であるといえるから、原告著作の創作性は否定される。また、後者のエピソードはネヴェルリイに由来するもので、被告Bは原告と異なりネヴェルリイには直接は当たっていないとみられるものの、Final Chapter にも記載があり(乙36、37の1)、原告著作にのみ依拠してこれを選択したといえるかは疑問がある上、配置の点からいっても、その性質上コルチャックの生涯を描こうとすれば最終段階にせざるを得ないものであり、原告著作では並列的に記載されたコルチャックがトレブリンカ行きの列車に乗り込む前の4つのエピソードの1つである(4つのエピソードの最後とはいえ)のに対し、本件戯曲では時系列的にも最終段階に位置づけられている点で異なる。
 以上によれば、本件戯曲と原告著作を全体として対比すると、原告著作における資料の取捨選択及び文章表現の工夫の結果としての創作的な表現の本質的な特徴と本件戯曲の劇的効果の観点から工夫された表現の間に同一性があるとはいえず、本件戯曲に接する者が原告著作の表現上の本質的な特徴を直接感得することができるということはできないから、本件戯曲が原告著作の翻案であると認めるには未だ十分ではないといわざるを得ない。
 原告は、被告Bが、本件戯曲の最終稿である第4稿(乙51)において、@「作者ノート」(1992年4月9日付)で、本件戯曲を書くに当たって、エピソードの約8割が原告著作によるものであることを認めており、A「原作A」と明記しているとして、本件戯曲が原告著作の翻案であることの根拠とするが、翻案であるか否かは客観的に判断されるべきものであるから、採用できない。
2 争点(2)(原告は被告らに原告著作の利用を許諾したか。)について
 上記のとおり、本件戯曲は、原告著作の翻案であるということはできないが、本件戯曲中の翻訳には原告著作中の翻訳文のほぼ複製といってよいものがあることから、争点(2)について検討することとする。
(1) 以下の各所に掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば、本件戯曲成立に至るまでの原告と被告Bの交流について、以下の事実が認められる。
ア 原告は、東京高等師範数学科を卒業した高校教師であったが、1960年代の学園紛争の高揚を背景に、新しいものを求める生徒たちとの対話をするなどしていたが、生徒たちに十分応えることができず悩んでいたところ、昭和49年にドイツ連邦共和国に行った際、コルチャックの著作を入手して感動し、昭和51年に退職して主としてドイツで研究に当たり、昭和56年、幼児開発協会の機関誌に「ワルシャワのペスタロッチ」と題して日本で初めてコルチャックについて紹介した(甲9、原告本人尋問の結果)。
イ 被告Bは、昭和41年、明治大学理工学部建築学科を卒業し、ホロコースト研究を目的としてイスラエルに渡り、建築家として活動すると共に、ホロコースト研究を続け、その中でコルチャックを知ることになった。
 昭和57年には、広島県黒瀬町に計画されていたアウシュビッツ平和記念館にコルチャックコーナーの設置を提案し、また、このころ、ベティ・リフトンの夫Dとも知り合うこととなり、コルチャックへの関心を深めていった(乙1、55、被告B本人尋問の結果)。
ウ 原告と被告Bは、昭和61年1月ころ、被告Bの旧知であったE教授(乙1、66頁)のもとを原告が訪れたことがきっかけで知り合うこととなった。原告、被告Bはコルチャックの話で意気投合し、原告が持参していた原告著作の原稿の出版について苦慮していることを告げると、被告Bは、朝日新聞のFと知り合いであったことから(乙1、64頁)、その方面から出版について尽力することとした。被告Bは原告著作の原稿をFに示し、その指導、校正を経て(甲2、223頁)、原告著作が成立することとなった(乙55、被告B本人尋問の結果)。
 (原告は、本人尋問において、被告Bと知り合う経過について、上記と異なる供述をするがあいまいで採用できない。また、原告は、本人尋問において、@被告Bとの話はアウシュビッツ平和記念館の話が中心で、ほとんどコルチャックの話は出なかった、AFと知り合う経過については、幼児開発協会の副理事長であったHとの関係によるもので被告Bは関係ない旨供述するが、@については、乙56《昭和61年2月9日作成の原告の被告B宛葉書》に「楽しい出逢いでした。お互いの流れが合流したようですね。」とあり《本文もコルチャック関係の話題である。》、Aについても乙57《昭和61年3月27日作成の原告の被告B宛手紙》に「先日例のFさんに会い、私の原稿(コピー)をお渡し、出版の件をお願いしてきました。」、乙60《昭和61年12月8日作成の原告の被告F宛手紙》に「Bさん−Fさんのルートなくして、コルチャックは日本に上陸は難しかったと思います。」とあることから採用できない。)
エ 原告は、平成4年1月上旬、イスラエル在住の被告B方に滞在し、自筆で「謹呈 感謝のしるしに」と記載した上サインした原告著作(乙24)を贈った。被告Bは原告に対し、コルチャックの生涯の劇化の構想を述べ、被告Bがその脚本を書くのに原告著作を参考にしてよいかと尋ねたところ、原告は、「一緒に雑魚寝をし、飯を食べた仲。それに、その本はB君が活躍し、Fさんのおかげで出たもの。本はもちろん手許の資料も好きなだけ使ってください。だが友人の間でそんなことを聞く方がおかしい」と述べた(乙55、被告B本人尋問の結果)。
 (原告は、本人尋問において、乙24のサインは被告Bにドスを示して脅され、世話をしたのだから書けと言われたものである旨供述し、甲9にもこれに沿う記載があるが、被告B宅にドスがあったのは事実であるが、原告との間では乙24のサインとは無関係な文脈で話題になったものであるから《乙28、被告B本人尋問の結果》、採用できない。)
オ 被告Bは、戯曲の執筆に着手し、平成4年3月16日から4月1日にかけて帰国した際には、東京都八王子市にある被告Bの実家で原告と、被告B、同Cの3人が戯曲のその後の展開について協議した。その際、被告Bは、書きかけの戯曲を原告と被告Cに見せ、被告Cに戯曲の編集・印刷作業を、原告に当該戯曲に寄せるメッセージ執筆と全テキストのミスチェック及び校正作業を依頼し、両人の了解を得た(乙55、被告B本人尋問の結果)。
カ 被告Bは、平成4年4月初めころ、本件戯曲の第1稿を書き上げ、直ちに被告Cを通じて原告に送付した。これに対し、原告は、本件戯曲の出版に寄せるメッセージの文章を被告Cに送っているが、メッセージに添えた手紙(乙2の1)には「完成後のことについてはBさんの指示通りにやります」とあり、「コルチャックと私、そして当劇について」と題するメッセージ(乙2の2)では、コルチャックの生涯、原告がコルチャックを研究する経緯が述べられた上で、「Bさんが『コルチャック先生』の脚本を書いてくれた。」「Bさんはコルチャックの最もよき理解者である。ありがとう、Bさん。」との記載がある。また、原告は本件戯曲の第1稿(乙47)について自ら手を入れているが、人名表記にとどまらず、マリーナが無神論者だったので、十字を切ったり、「神よ、あなたはどこに・・・!!」と言ったりするのはおかしいのでカットすべきだとの指摘もしている(47頁)。そして、本件戯曲の第1稿には、本件戯曲71、72頁、132、133頁、149頁、190、191頁の翻訳の表現(若干異なる部分もあるが)が既に使用されている。
キ 原告の被告Bに対する1992年5月30日付の手紙(乙30)には、「Bさんの脚本、早速山梨甲府の文学館での講演に使用紹介しました。」「この劇、必らずうまくいきます。私としては、日本での公演はすぐには決まりそうもありませんので、とにかく出来るところから、と今後も機会があれば売り込みます。素人にやらせるのも今の段階ではよいのではないか、と思っています。やがては、プロの一流の俳優、劇団へともっていけばよいと考えます。」との記載があり、原告は、山梨における講演の際に、本件戯曲の第1稿の一部を一般聴衆に披露していることが窺える。
ク 乙33(被告B宛1993年11月9日付手紙)には、「Bさんの第2版、みがきがかかっています。」と記載されており、第2版とあるのは、本件戯曲の第2稿(乙49)のことを指していると解される。特に、被告Cに宛てた1993年11月9日付手紙(乙88)には、「Bさんの脚本よくなりましたね。彼のことですから大丈夫だと信じています。数か所訂正もありますが、またたぶん変更もあるかと思いますので、今回は見送ります。だだ1つP50−4行目壁には十字架は気になります。こちらのホームにはマリーナ夫人が無神論者なので十字架はありません。でも今回はこのままでよいと思います。」として、第1稿の際と同様、マリーナの問題に対する指摘をしている。
 (原告は、本人尋問において、第2稿を見ていないと供述するが、上記手紙の記載に照らして採用できない。)
ケ 被告Bは、その後、本件戯曲の第3稿(平成6年6月ころ完成)及び第4稿(平成7年1月ころ完成、ゲビルティッヒの詩の翻訳を挿入し、また、シムエルとジーナのエピソードを付加した)を完成させたが、これらは、原告及び被告らが、コルチャックを題材とする演劇を劇団民芸等に売り込んだものの頓挫し、劇団ひまわりが上演することになった後、誰を原作とするかで紛糾し、原告と被告Bの直接交渉がなくなった前後のものであり、被告Bは、これが原告に渡ったことは確認しておらず、平成6年半ばからは、原告から被告B宛の手紙は途絶えている(原告、被告B各本人尋問の結果、弁論の全趣旨)。
 (被告らは、劇団ひまわりのGやFを経由して、第3稿及び第4稿を原告に渡していた旨主張する。しかし、本件戯曲そのものが上演に使用されたものでないことに照らせば《甲13の1・2、14、15》、第3稿及び第4稿が原告の手に渡っているのかどうかは明確ではない。)
(2) 上記認定の事実に照らして検討する。
 上記(1)エの「本はもちろん手許の資料も好きなだけ使ってください。」との原告の発言が、本件で問題となる翻訳部分の使用の許諾まで意味するのか否かは、それだけでは必ずしも明確とはいえないが、原告が目を通しチェックしていることが明らかな本件戯曲の第1、2稿に、本件戯曲の71、72頁、132、133頁、149頁、190、191頁の翻訳部分が既に記載されていること、(1)キ記載の乙30の記載内容に照らせば、翻訳部分の使用も含めた包括的許諾がされたものと認めるのが相当である。
 原告は、許諾にかかる書面が作成されていないことを問題とするが、乙56ないし77から窺える原告と被告Bの親密な関係に照らせば、書面の作成がなくとも、原告が許諾したと認めることは不自然とはいえない。原告はこの点、原告から被告Bに宛てた手紙に本件戯曲の第1、2稿に対する賛辞のようなものがあったとしても、表面的・儀礼的なものである旨主張するが、例えば乙68(1992年7月17日の原告の被告B宛の手紙)は6枚にわたり横書きでびっしりと書き込まれたものであり、表面的・儀礼的なつきあいであったとするのは不自然である(なお、2頁には、当時企画されていた本件戯曲に基づくドイツ公演について「初日にはぜひ2人揃って行きましょう」と、5頁には「Bさんの台本、成功間違いなしです。」とある。なお、原告は、平成6年2月15日には、本件戯曲に基づくドイツ公演の企画《乙82》について報じる朝日新聞を添付した上で、「ドレスデンでの勝利の暁には劇場のテッペンでビールで乾杯」とするファックス《乙76》をも送っている。)。
 原告から被告Bへの手紙は平成6年半ばころで途絶えているが、そのことから、直ちに、許諾の解除がされたと認めることはできない(したがって、ゲビルティッヒの詩の翻訳は第1、2稿では使用されていないが、許諾の範囲内である。)。
 (なお、本件戯曲においては、後書きで原告著作の翻訳を使用したとは明示されておらず《「いうならば、当劇はA氏、リフトン女史と私の精神的な共同作業によるものといってもいい。」という程度の記載である。》、ポーランド原典その他各国語訳に当たって意訳した原告の翻訳の利用としてはいささか礼を失するきらいはあるが、そのことが、本件で問題となる翻訳が許諾の範囲にあるとの判断を左右するものではない。)
3 結論
 よって、原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから、これを棄却することとする。

京都地方裁判所民事第2部
 裁判長裁判官 赤西芳文
 裁判官 本吉弘行
 裁判官 矢作泰幸

別紙 省略
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