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【事件名】ベストセラー『絶対音感』の無断利用事件
【年月日】平成13年6月13日
 東京地裁 平成12年(ワ)第20058号 損害賠償等請求事件
 (口頭弁論終結日 平成13年4月17日)

判決
原告 A
訴訟代理人弁護士 山口博久
同 小西輝子
被告 B
被告 株式会社小学館(以下「被告小学館」という。)
被告両名訴訟代理人弁護士 木澤克之
同 藤原浩
同 石島美也子
同 鈴木道夫
同 風祭寛
同 市村直也


主文
1 被告らは,原告に対し,連帯して金100万円及びこれに対する平成10年3月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は3分して,その2を原告の,その余を被告らの負担とする。
4 この判決は,原告勝訴部分に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由
第1 請求
 被告らは,原告に対し,連帯して金950万円及びうち800万円に対して平成10年3月10日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
1 原告は,米国の作曲家の著作に係る演劇台本を日本語に翻訳し,二次的著作物である翻訳台本につき著作権を取得した。原告は,原告の許諾なく,原告の翻訳者としての氏名を表示せずに翻訳台本の一部を引用複製した被告らの行為は,原告が二次的著作物について有する複製権及び著作者人格権を侵害すると主張して,被告らに対して損害賠償の支払を求めた。
2 前提となる事実(証拠を示した事実を除き,当事者間に争いがない。)
(1) 原告は,オーストラリアに在住して,ジャーナリスト,台本作家,翻訳家,俳優及びテレビプロデューサーとして活動している者である。一方,被告Bは,雑誌編集者兼ライターを経て,ノンフィクション作家として活動している者である。
(2) 原告は,平成9年ころ,かつて米国の作曲家レナード・バーンスタインが著作した英語版演劇台本「Young People's Concerts What Does Music Mean?」を翻訳し(邦題「ヤング・ピープルズ・コンサート・・音楽って何?」・以下「本件翻訳台本」という),二次的著作物である本件翻訳台本に係る著作権及び著作者人格権を取得した。
 被告Bは,平成10年ころ,書籍「絶対音感」(以下「本件書籍」という。)を執筆し,被告小学館は,同書籍を出版した。本件書籍の240頁から242頁に掛けて,本件翻訳台本の一部(以下「原告翻訳部分」という。)を掲載したが,掲載に際して原告の許諾は得ておらず,翻訳者として原告の氏名を表示しなかった。
本件書籍(初版第1刷)は,平成10年3月10日に発売された(乙11)。
3 争点
(1) 原告翻訳部分の掲載は適法な引用といえるか(複製権侵害の成否)
(被告らの主張)
 原告翻訳部分の掲載は,以下のとおり,著作権法32条1項の要件を具備する適法な引用であるから複製権侵害に当たらない。
 すなわち,公表された著作物につき,公正な慣行に合致し,かつ目的上正当な範囲での引用は許されるが(同法32条1項),その要件としては,表現形式上,引用して利用する作品と引用されて利用される著作物とを明瞭に区別して認識することができること(明瞭区別性)及び右両著作物の間に前者が主,後者が従の関係があること(主従関係)が必要であり,それで足りると解すべきである。@本件翻訳台本は,平成9年1月に倉敷において行われた公演によって公表された。A原告翻訳部分は,その最初と最後が「 」で区切られていること,被告書籍の中の,原告翻訳部分の直前に,レナード・バーンスタインが「ヤング・ピープルズ・コンサート」を行ったことなどの説明がされていることなどからすれば,読者は,「 」内の記述を,その他の部分と明瞭に区別して認識することができる。B本件書籍の主題並びに規格・構成,引用の目的・必然性などからすれば,原告翻訳部分は,読者に思考や判断のための資料を提供するものであり,また3頁に満たないので,本件書籍に対して付従的な性質を有する。したがって,上記の要件を充足する。また,被告Bは,原告翻訳部分の直前において,概要,バーンスタインが行ったコンサートのビデオをもとに,日本語に翻訳されたこと,日本語のコンサートの企画・制作者は株式会社クリスタル・アーツ・プラニング(以下「クリスタル・アーツ社」という。)であることを明記しているので,同法48条1項所定の出所明示義務を履行したものといえる。
 以上のとおり,原告翻訳部分を掲載したことは適法な引用といえる。
(原告の反論)
 争う。
(2) 複製権侵害及び氏名表示権侵害について,被告らに過失があるか。
(原告の主張)
 被告Bは,調査をすれば,原告が本件翻訳台本を翻訳したことを容易に知り得たにもかかわらず,調査を怠った結果,翻訳者である原告の許諾を得ず,その氏名も表示せずに原告翻訳部分を掲載した。被告小学館は同様に,調査をすれば,原告が翻訳者であることを容易に知り得たのにもかかわらず,これを怠って本件書籍を出版した。被告らの行為は,いずれも過失に基づくものである。
 クリスタル・アーツ社の代表者であるCは,本件翻訳台本の本件書籍への掲載について,許諾できる法的地位を持っていない。被告らが,Cに確認したことをもって,過失なしとすることはできない。
(被告らの反論)
 被告Bは,本件書籍に関する取材相手であるCから,原告翻訳部分を含む本件翻訳台本を受け取ったが,その際,当該台本には翻訳者名の表示がなく,Cないしクリスタル・アーツ社とは別に翻訳者が存在することを窺わせるような事情は存在しなかったので,原告翻訳部分の掲載に先立ち,翻訳者を調査すべき注意義務があったとはいえない。また,被告Bは,掲載についてCの了解を得ている。
 被告小学館は,被告Bに原告翻訳部分の取材経過について確認した結果,「本件翻訳台本の制作者兼翻訳者であるCに引用の了解を得て,同人から直接受領した一部手書きの原稿をもとに執筆したものである」との説明を受けたので,過失はない。また,被告小学館が,独自に調査をすべき注意義務はない。
 したがって,被告らには過失はない。
(3) 損害額はいくらか。
(原告の主張)
ア 財産的損害
 被告小学館は,本件書籍を平成10年3月から同11年3月までの1年間に35万1000冊を販売し,本件書籍の定価は1冊1600円,売上げはその70%にあたる3億9312万円であり,その経費(印税,生産費,デザイン費の合計)が1億466万円であるから,これを控除すると被告小学館は2億8846万円の利益,被告Bは定価の10%の印税収入を得るとして5616万円の利益をそれぞれ得ていることになる。よって,原告はその一部として被告らそれぞれに対し各500万円を請求する。
イ 精神的損害
 被告らの行為により原告が被った精神的損害に対する慰謝料としては300万円を下らない。
ウ 弁護士費用
 被告らが任意に支払に応じないため,原告は,やむなく訴訟を提起し,その弁護士報酬として150万円の支払を約した。
(被告らの反論)
 争う。
 なお,原告の財産的損害につき,原告は自らその著作物を出版していないので,被告らが本件書籍の販売により得た利益を原告の被った損害額と推定すべきでない。
第3 争点に対する判断
1 争点1(引用の適法性)について
 被告Bが,本件書籍を執筆するに当たり,その240頁6行目から242頁末行に掛けて,原告翻訳部分を複製して掲載したことは当事者間に争いがない。
 著作権法32条1項は,「公表された著作物は,引用して利用することができる。この場合において,その引用は,公正な慣行に合致するものであり,かつ,報道,批評,研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。」と,同法48条1項は,「ーーー著作物の出所を,その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる方法及び程度により,明示しなければならない。」と,それぞれ規定している。
 そこで,同複製行為が,適法な引用として許されるか否かを,本件の事実関係に照らして検討する。
 証拠(乙1ないし4,11)及び弁論の全趣旨によれば,以下のとおりの事実が認められ,これに反する証拠はない。
(1) 英語版演劇台本「Young People's Concerts What Does Music Mean?」は,作曲家レナード・バーンスタインが,1958年(昭和33年)ころ,若い聴衆と音楽の楽しさを分かちあえるよう,自らニューヨーク・フィルハーモニックと共に出演し,演奏するために書き下ろした一連の台本の一つである。原告は,平成8年10月ころ,指揮者Dがバーンスタイン役となって上演するための日本語台本として,上記英語版演劇台本を翻訳した。そして,原告は,Dが上演に当たり,ピアノを演奏しないなどの事情から,台本の一部に変更を加えた上,日本語翻訳(邦題「ヤング・ピープルズ・コンサート・・音楽って何?」)を完成させた。本件翻訳台本は,A4版17頁(表紙を含む。)からなるワープロ書きのものであり,翻訳者名は記載されていない。
(2) 本件書籍は,数多くの取材に基づき,「絶対音感」に関する様々な実話や古今東西の音楽家等のエピソード等を紹介しながら,同テーマを多角的に考察したノンフィクション作品である。なお,本件書籍の原稿は,第4回「週間ポスト」「SAPIO」21世紀国際ノンフィクション大賞を受賞した。本件書籍は,「プロローグ(書き換えられた自伝)」,「第1章(人間音叉)」ないし「第8章(心の扉)」,「エピローグ(バラライカの記憶)」,「あとがき」から構成され,319頁からなる。その「第7章(涙は脳から出るのではない)」は,239頁から261頁に掛けて,「言葉にならない言葉」「音が動き,心が動く」「コンピュータと音楽」「書かれざるもの」「神様が見えた」「リアリティ」という小見出しの下に,相互に関連はあるものの,それぞれが独立した話題が紹介されている。
(3) 本件書籍の「第7章(涙は脳から出るのではない)」の「言葉にならない言葉」という部分には,バーンスタインが,1958年1月にカーネギーホールで「音楽って何?」と題するコンサートを行ったことが記述された後,そこで語られた言葉の一部を紹介するとして,240頁6行目から242頁末行に掛けて,別紙1のとおり,原告翻訳部分が複製されて掲載されている。
(4) 被告Bは,本件書籍の執筆のための取材をしたが,その際,前記日本語のコンサートの企画,制作を担当したクリスタル・アーツ社の代表者であるCから,原告翻訳部分を含む本件翻訳台本を渡され,Cからは,原告翻訳部分を本件書籍へ利用することの了解を受けている。しかし,Cは,本件翻訳台本の著作者である原告から,本件翻訳台本を第三者に利用させることの許諾権限を付与されたことはない。
 以上の事実に照らすならば,@本件書籍の目的,主題,構成,性質,A引用複製された原告翻訳部分の内容,性質,位置づけ,B利用の態様,原告翻訳部分の本件書籍に占める分量等を総合的に考慮すると,著作者である原告の許諾を得ないで原告翻訳部分を複製して掲載することが,公正な慣行に合致しているということもできないし,また,引用の目的上正当な範囲内で行われたものであるということもできない(前記のとおり,被告らは,原告翻訳部分の掲載に当たっては,正当な著作者の許諾を受けようと努め,受けられたものと誤信していたのであり,その経緯に照らしても,原告翻訳部分を許諾を得ないで自由に利用できる公正な慣行があったものと認定することは到底できない。)。
 したがって,原告翻訳部分を複製,掲載した行為は,著作権法32条1項の要件を満たす適法な引用とはいえない。
2 争点2(被告らの過失の有無)について
被告Bは,調査をすれば,本件翻訳台本を翻訳した者が原告であることを容易に知り得たにもかかわらず,調査を怠った結果,二 次的著作物の著作者である原告の許諾を得ず,その氏名も表示せずに原告翻訳部分を掲載した。また,被告小学館は同様に,調査をすれば,二次的著作物の著作者が原告であることを容易に知り得たのにもかかわらず,これを怠って本件書籍を出版した。したがって,被告らには,本件翻訳台本の著作権者である原告の許諾を得ずに掲載したことについて,過失がある。
 この点,被告Bは,本件翻訳台本の本件書籍への掲載について,Cの了解を得ているから,過失がないと主張する。しかし,Cは,本件翻訳台本の掲載につき,許諾を与える権限を有していないことは明らかであるから,被告らが,Cに確認したり,Cから許諾を得たことをもって,過失がないとすることはできない。
 以上によれば,本件複製権の侵害につき被告らには過失があったというべきであり,被告らの上記行為は共同不法行為を構成する。
 また,被告らが本件書籍に原告翻訳部分を掲載するに当たって原告の氏名を表示しなかったことは,原告の著作者人格権を侵害するものであり,この点についても被告らには過失があるといえるから,被告らの行為は,共同不法行為を構成する。
3 争点3(損害)について
 そこで,原告の被った損害について検討する。
(1) 財産的損害について
 証拠(乙10,11)及び弁論の全趣旨によれば,本件書籍は,発行された平成10年3月から同11年3月までの間に35万1000冊が出版され,その間に33万1754冊が販売(実売)され,ベストセラーとなったこと,その後も,初年度より少ないとはいえ,かなりの数が販売がされたと推認されること,定価は1600円であること(争いがない),本件書籍は本文部分が319頁であり,一方原告翻訳部分は3頁であることが認められる。
 そこで,被告らの複製行為によって原告に生じた損害を考察する。@原告翻訳部分の使用料率については,確かに,本件翻訳台本は,翻訳に係る二次的著作物ではあるが,原告が構成等の面で,ある程度の改変を加えて制作したこと,本件翻訳台本は,極めてわかりやすい,こなれた言葉が使用されていること等の事情を参酌すれば,概ね本件書籍の販売総額の10パーセント程度と解するのが相当であり,また,A原告翻訳部分の本件書籍全体に占める寄与割合については,それぞれの頁数割合と同率である解するのが合理的である。そうすると,原告の被った損害額は,これらの一切の事情を総合考慮して,70万円と認定するのが相当である。
 なお,原告は,複製権侵害による損害は,被告小学館が本件書籍を販売したことによる利益額を基礎として算定すべきであると主張するが,原告は自ら書籍の出版を行なっていないことに照らすと,原告の同主張は採用できない。
(2) 精神的損害
 被告らの著作者人格権侵害により原告が被った精神的損害については,原告には,それまで演劇台本の翻訳等を行った経歴及び実績があること(甲1ないし6),原告翻訳部分は本件書籍の主題と密接に関連し,重要な役割を果たしていること及び本件書籍は21世紀国際ノンフィクション大賞を受賞するなどして話題を呼び,相当部数が販売されたこと(乙11,弁論の全趣旨)などを考慮すると,上記精神的苦痛に対する慰謝料としては20万円が相当である。
(3) 弁護士費用
 本件における一切の事情を考慮すると,被告らの不法行為と相当因果関係のある弁護士費用としては10万円が相当である。
第4 結論
 以上のとおり,原告の本件請求のうち,被告らに対し,連帯して,合計100万円及びこれに対する不法行為後の日である平成10年3月10日から支払済みまで年5分の割合で金員を支払いを求める限度で理由がある。

東京地方裁判所民事第29部
 裁判長裁判官 飯村敏明
 裁判官 今井弘晃
 裁判官 石村智


別紙1 原告翻訳部分

別紙2 書籍目録記載の書籍240頁6行目乃至242頁最終行下記部分
 記
 「さて,今聴いてもらった曲だけど,みんなはどんな風に思ったかな?運動会,競馬,障害物競争,西部劇……そう,いろんな答えが聞こえてきたけど,どうかな?
 でも,残念ながらこの曲は運動会も西部劇もまったく関係ないんです。ごめんなさい。これはただの音符の集まり。ミのフラットとか,ファのシャープが集まっただけ。曲の意味とか,この音楽は何か,なんてことについていろんな人がいろんなストーリーをつくり上げるけど,そんな話ここでは忘れてしまいましょう。
 ストーリーは,音楽が何かということにまったく関係ありません。この音楽は,このことについて語ってるなんて断言できるものじゃないんです。音楽は,ただ音楽というだけ。音符の集まり。美しい音がいろんな形で組み合わさり,それを聴く僕たちを楽しませてくれるもの。ただそれだけなんです。いろんな人がこの音楽はなんですか,とか,この曲は何を意味してるんですかなんて尋ねてきますけど,これは非常に難しい質問なんです。<中略>
 ウィリアムテルは,学校の運動会にも競馬にもまったく関係ないんです。なぜなら,この曲は綱引きや運動会や競馬場にも行ったことのないイタリア人,ロッシーニという人が作曲したからです。みんなが運動会とか競馬って思ったのは,この曲がそういうところでっしょっちゅう使われてるからなんですね。
 でもロッシーニはこの曲を「ウィリアムテル」というオペラの序曲として書いたんです。舞台はスイス。でもそうなると,みんなが聴いた曲は,ウィリアムテルとスイスを意味するということになるかな?違うよね。ウィリアムテルでも競馬の騎手でも電気スタンドでも何でもない。そんな特別な物を意味するわけじゃない。
 だったらどうして,こう,体がわくわく動いてくる感じがするんだろう。それにはたくさん理由はあるんだけど,全部音楽的な理由だけ。そこが大切なポイントなんですよ。
 まず,リズム。なんか,馬に乗って走ってるようなリズム。太鼓の音はなんか競争したり戦っているようなリズム。でも,だからといって,この音楽は太鼓とか馬とか戦いを意味してるわけじゃない。大切なのはこのリズムが僕たちを興奮させ,ワクワクさせてくれること。ワクワクする理由としてはこのほかに,力強い旋律もあります。覚えやすくて,なんか……血が沸き立ってくる感じ。
<中略>
 ワクワクするのは,ワクワクさせるように音楽が書かれているから。これは音楽的なことが原因で,他に理由はまったくないんです。でも,それが本当ならなぜ作曲家はそこに題名をつけるのでしょう。交響曲とか三重奏とか作曲番号○番でもいいはずです。『魔法使いの弟子』なんて曲もあるけど,音楽的にそれほど重要じゃなかったら名前をつける必要もないはずです。
 でも,作曲家は自分のまわりに起こったことに影響されたときなんか,そういうことをしたがるんです。自分が読んだ物,見たり体験した物……みんなだって何かが自分に起こったとき,踊ったり歌ったりして,自分の気持ちを表現してみたくなることってあるでしょう?絶対あるよね。作曲家にもあるんです。<中略>
 音楽の意味っていうのは,これなんです。シャープとかフラットとか和音とか,むずかしいことをたくさんわかる必要はないんです。もし,音楽が何かを私たちにいおうとしているなら,その何かというのは物語でも絵でもなく,心なんです。もし音楽を聴いて,私たちの心の中に変化が起こるなら,音楽が私たちにもたらすいろいろな豊かな感情を感じることができるなら,みんなは音楽がわかったことになるのです。音楽とは,それなんです。物語や題名はそれに付随したもの。
 そして,音楽が素晴らしい点はみんなにいろいろな違った感情をもたらすことができること。それには限界なんてないんです。そしてその感情は時として,非常に複雑で深く,言葉ではいい尽くせないほど素晴らしいことがあります。感情をどういっていいのかわからないときってあるでしょう?もちろん,喜びとか楽しさとか穏やかさとか,愛とか嫌悪などと,表現できることもあります。でもあまりにも深く感動したときには言葉にならない。そこが音楽の素晴らしいところなんです。なぜなら音楽は,言葉の代わりに音符で表現できるからです。
 音楽は音符の動きです。忘れてならないのは,音楽は動いているということ。たえずどこかへ動き続けます。音符から音符へ飛んで,変化して流れていきます。そしてそれが,何百万という言葉でもいい尽くせない心を伝える方法なんですね」

別紙2 書籍目録
 題名 絶対音感
 著者 B
 発行者 E
 発行所 株式会社小学館
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日本ユニ著作権センター
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