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【事件名】『企業主義の興隆』事件(2) 【年月日】平成13年3月28日 東京高裁 平成12年(ネ)第1268号 謝罪広告等請求控訴事件 (原審・東京地裁平成7年(ワ)第23527号) (平成12年12月6日 口頭弁論終結) 判決 控訴人 【A】 訴訟代理人弁護士 弘中惇一郎 同 加城千波 訴訟復代理人弁護士 西岡弘之 被控訴人 【B】 被控訴人 株式会社講談社 代表者代表取締役 【C】 両名訴訟代理人弁護士 美勢克彦 主文 本件控訴を棄却する。 控訴費用は控訴人の負担とする。 事実及び理由 第1 当事者の求めた裁判 1 控訴人 (1) 原判決を取り消す。 (2) 被控訴人らは、株式会社朝日新聞社、株式会社読売新聞社及び株式会社日本経済新聞社各発行の各朝刊全国紙版社会面に、縦2段抜き、横7センチメートル、見出しはゴシック体1・5倍活字、本文及び広告者(被控訴人ら)名は明朝体1倍活字により、原判決別紙目録(一)記載の謝罪広告を各1回掲載せよ。 (3) 被控訴人株式会社講談社は、原判決別紙目録(二)記載の書籍を製作、販売、頒布してはならない。 (4) 被控訴人【B】は、控訴人に対し、金1080万円及びこれに対する平成4年10月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 (5) 被控訴人株式会社講談社は、控訴人に対し、金660万円及びこれに対する平成4年10月20日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 (6) 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人らの負担とする。 (7) 第(4)項及び第(5)項につき仮執行宣言 2 被控訴人ら 主文と同旨 第2 事案の概要 本件は、「企業主義の興隆」と題する書籍の著作者である控訴人が、「ヒューマン・キャピタリズム」等と題する書籍の著作者である被控訴人【B】及びその出版社である被控訴人株式会社講談社に対し、著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権)の侵害を理由として、謝罪広告及び損害賠償を求めるとともに、被控訴人株式会社講談社に対しては、書籍の製作、販売、頒布の差止めを併せて求めるものである。 本件の前提となる事実、争点及びこれに関する当事者の主張は、次のとおり訂正、付加するほかは、原判決「事実及び理由」欄の「第二 事案の概要」のとおりであるから、これを引用する。 1 原判決の訂正 原判決4頁2行目の「著作権」を「著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権)」に、6頁5行目、22頁9行目、23頁末行及び25頁6行目の「被告の主張」を「被控訴人らの主張」に、10頁7行目の「移転する」を「移転される」に、11頁3行目の「対立関係である」を「対立関係にある」に改める。 2 控訴人の主張 (1) 控訴人書籍は経済学の論文に属する著作であるところ、その著作権(翻案権)の侵害を判断するに当たっては、小説や詩歌等とは異なる検討を要する。すなわち、小説では微妙な人物描写、筋書きの展開、魅力的な言い回しなどが問題となり、基本的なテーマは目新しくないのが一般であるし、詩歌では、単純な言葉の選び方と並べ方だけが問題となり、論理の入る余地はなくなる。これに対し、学術論文の場合には、学説それ自体は著作権法の保護の対象ではないにしても、これを説得的に展開するための例示の仕方や論理展開の仕方などが問題となり、個々の言葉の選び方はそれほど重要でなくなる。具体的には、@問題提起の内容の同一性、A論理構成や論理の流れの類似性、B論理を裏付けるものとしての例証の同一性、類似性、C用いられる文章表現の同一性、類似性、D被控訴人【B】が控訴人書籍に接していた事実が総合的に考察されなければならない。原判決は、これらのうち@とDを認めながら、Bを無視し、AとCについては「単なるアイデア」として退けたが、誤りというべきである。 すなわち、控訴人書籍と被控訴人書籍は、ともに日本の企業経営の現状を一つの経済体制としてとらえ、人間を重視した視点が強調されている点で問題の基本的なとらえ方に共通性があり、被控訴人【B】は被控訴人書籍の引用文献の記載から控訴人書籍を削除するなど、これに依拠したことを隠しており、また、被控訴人【B】は、被控訴人英語書籍以前には本件の前提となるような著作を一切出していない。そして、被控訴人書籍には、原判決で指摘したとおりの46箇所の共通表現があり、これが偶然の一致ということはあり得ない。特に、控訴人書籍の第5章前半の「日本特殊論」において、控訴人は正面から日本の文化論を展開するだけの専門知識がなかったことから、韓国に駐在した経験等に基づいて具体的な事例を挙げて済ませたのであるが、被控訴人書籍にはこうした事例についてまでほとんど同様の記述をしており、模倣としか考えられない。 (2) 控訴人が控訴人書籍を著作した発想及び検討過程は次のようなものである。 すなわち、欧米の企業は資本の利益を代表する取締役会と企業の外部にある産業別・職種別に組織された労働組合の対抗の場となっているのに対し、日本の企業においては同質性の高い企業人によって構成されているとの基本的認識から、これまで特殊日本的とされてきた従業員の企業忠誠心、組合の企業別編成、処遇の平等、過当競争体質、人事管理の重視、企業買収・合併の困難性、チームワークによる仕事等に対し、単一の原理によって統一的な説明を与えることが可能であると考えた。このような発想に基づき、控訴人は、控訴人書籍において、資本主義及び社会主義体制下の企業との対比を通じて、日本の企業における高度の経営の自律性という日本企業体制の特徴を浮かび上がらせるとともに、日本企業の原理的異質性を明らかにした。こうした分析の結果、自由主義は個人に、社会主義は国家に、自由と責任を集中すること、他方、日本では生産活動に関する限り、企業がその地位を占めていること、すなわち、他の体制では個人や国家の役割とされていることの多くが日本では企業によって担われているという結論に達した。控訴人は、次いで、このような体制が生み出された過程を論じ、理論による革命と現実による革命という分類を考案して、企業主義は後者に属するものと論じた。 (3) 被控訴人【B】が原告書籍の論理展開、例示等を模倣したことは、以下のとおり、控訴人の指摘した46箇所の対比箇所をたどることで、上記の控訴人書籍の基本的枠組みが浮かび上がってくることから明らかである。 ア まず、終身雇用、年功序列に代表される日本の特殊な運命共同体的な労使関係に着目する。 株式の相互持ち合い等を通じて日本企業は資本から自由である(対比箇所@)が、日本企業は従業員に対しては責任感が強く(同B)、不景気のときもレイオフではなく企業内配置転換で対応する(同E、F)。日本企業においては、終身雇用、年功序列が重要であり、中途退職はマイナスとなる(同C)。日本企業では人事管理が重要であり(同G)、また、従業員の特殊な立場は労働者というよりも社員というのが的確である(同D)。要するに、日本企業では、労使対立は希薄であって、同じ船に乗った仲間のような関係であり(同I)、対立的な関係はむしろ企業同士にあるといえる(同H)。 イ 次に、この特徴的な労使関係と経営の在り方を検討する。 日本企業では企業と労働者の基本的な利害が一致するので、上からの命令管理ではなく、自主的な下からの意見や提案が積極的に採用される(同L)が、それは1970年代にホンダ、ソニー、京セラ等の企業によって取り入れられたものである(同M)。なお、もともと労働とは強制されてやるものではなく、自分の生きがいとして行うものであった(同J、K)。 ウ このような独特のやり方は他国の資本主義とも社会主義とも異なり、労働者の自発性を尊重するものであることを強調する。 資本主義的発想では労働者への賃金をコストとしてできるだけ抑えるべきものとされるが、日本企業はそのような発想はしない(同Q)。すなわち、日本企業のやり方は他国の資本主義とも社会主義とも異なり(同N)、企業組織内において働く過程での自由度が高く、これは「組織的自由」とでもいうべきものである(同O)。逆に、社会主義か資本主義かを問わず、権力による労働者管理という方法では、働く人間の自発性を喚起することはできない(同P)。 エ さらに、日本の労使一体経営が、他国の「労働者の経営参加」とは異なることを指摘する。 ヨーロッパでは様々な形の労働者の経営参加が試されており、西ドイツや北欧諸国の例があり(同R)、ユーゴスラビアでは労働者による企業支配という徹底した形までとられたが、企業が参加の場ではなく、権力的支配の場であることに変わりはなく(同S、<21>)、結局、これらの経営参加と日本の経営は質的に異なる。 オ 次いで、日本の経営方式が理論の先行したものではなく、事実が先行したものであることを指摘する。 一般に、経済体制の作られ方には、理論先行型と現実先行・理論追随型の二つがあり(同<22>)、マルクスの社会主義理論は前者、アダム・スミスの「国富論」は後者である(同<23>)。企業主義はこの分類では後者に属するものである(同<24>)。なお、日本の経営方式はマルクス主義者から強く非難されてきた(同<25>)。 カ ここで視点を変えて、企業主義が特殊な日本の集団主義的な体質によるものか否かについて検討する。 まず、日本人が稲作民族であることから特殊な集団主義的体質が育成されたかという問題について、韓国などの他の稲作民族の例を挙げて否定する(同<26>)。海外でいわれる「日本人は毎朝集団で社歌を歌うような特殊な民族」ということについて、そのような事実自体がないことを指摘する(同<27>)。また、儒教の影響を集団主義と結びつけることも誤りであるとし(同<29>)、むしろ、中世の武士が一本一本の矢に自分の名前を刻印したことに象徴されるように、日本人は元来個人主義的要素が強いと指摘する(同<28>)。そして、個人主義と企業主義とが矛盾しないのは、欧米において個人主義とナショナリズムが矛盾しないのと同じであるとする(同<30>)。さらに、単一民族という点については、米国は多民族国家であるが社会的同一性は高いと指摘し(同<31>)、逆に、日本以上に単一民族性が高い韓国に企業主義が存在しないことを指摘する(同<32>)。これらにより、日本の企業主義が日本の特殊な集団主義や単一民族性に根ざしたものではなく、普遍性のあることを指摘している。 キ さらに、視点を変えて、自由、平等、福祉等の価値概念と企業主義について検討する。 まず、自由に関して、日本では労働市場の市場的自由度は乏しいが、逆に「組織的自由」をもたらしている(同<33>)。特別の才能のある者はともかく、大多数の者にとって市場の自由は魅力的なものではなく(同<34>、<35>)、企業主義では「組織的自由」は豊富に存在する(同<36>、<37>)。平等に関して、日本の経営者と労働者の給与差は大きくなく(同<38>、<40>、<41>)、日本人の90パーセントは自分を中産階級と自覚している(同<39>)。社会的評価としても、日本では米国などと異なり、所得が多くとも社会的地位が高いとはみられない(同<43>)。日本の企業のシステムは、このような多数の一般労働者の集団的活力に依存している(同<42>)。福祉に関して、国が福祉を担う福祉国家では人は自堕落となる傾向がある(同<44>)が、日本では国家に代わって企業が福祉の担い手となっており、そのような弊害がない(同<45>、<46>)。 (4) 以上のとおり、46箇所の対比箇所は有機的に結合したものとして評価すべきものであり、その場合に、控訴人書籍と被控訴人書籍の論理の展開、表現方法、例示の仕方が酷似していることは明らかというべきである。これに加えて、被控訴人【B】は被控訴人書籍に取り組む前に控訴人書籍を読み、これに大きな影響を受けたと自認していること、被控訴人【B】は被控訴人書籍及び被控訴人英語書籍の著作以前にその前提となるような著作を一切出したことがないことを併せ考えると、被控訴人【B】が控訴人書籍に依拠して、その論理の展開、表現方法、例示の仕方を模倣し、控訴人の著作権(翻案権)を侵害したことは疑う余地がない。 (5) 仮に、書籍全体としての翻案権の侵害が認められないとしても、46箇所の対比箇所のうち、以下の11箇所は特にその類似性が顕著であるから、その記述について、翻案権の侵害を認めるべきである。 ア 対比箇所Cにつき、控訴人Cの前半部分は、控訴人書籍において、終身雇用、年功序列の意味を、当初は労働に対して少ない分配を徐々に取り戻す一種の貯蓄と説明し、この貯蓄は転職すれば無価値になると指摘するものであり、控訴人の独自の切り口、言い回しで述べている。被控訴人Cは、このような独自の切り口、言い回しをそのまま模倣したものである。 イ 同Fにつき、配置転換の問題を説明するため、ロータリエンジン車の不振に苦しんだときの東洋工業の例を挙げるのが偶然の一致ということはあり得ない。 ウ 同Iにつき、企業内労働者と経営者との関係を説明するために、同じ船に乗った仲間という表現を用いることが偶然の一致ということはあり得ない。 エ 同Jは、労働がもともと苦役ではないという記述であるが、本来必然性のないものであるところ、控訴人は、政治家や芸術家を例に出してまで、日本企業の労働者の生きがいを強く印象づけた独自性の強い表現である。被控訴人書籍が模倣であることは明らかである。 オ 同Mは、日本の独特な経営システムの樹立を述べたものであるが、まず戦後の鉄鋼業がアメリカ式経営を模倣して失敗したことを挙げ、その対比において、1970年代から、ホンダ、ソニー、京セラなどによって独特の新しい日本型労使システムができたという言い回しが類似している。 カ 同Oにつき、終身雇用が原則の日本では職場を移転する自由はないが、企業内では自主性を大事にされるという内容を、市場の自由はないが組織された自由はあるという表現で対比したのは、控訴人の独特の言い回しであり、これを被控訴人【B】は模倣している。 キ 同<26>につき、日本的経営の特徴を説明するのに、稲作経営と関連づけて説明するのは必ずしも一般的でなく、日本的経営の普遍性を説明するに当たって、最初の切り出しを稲作経営から説き起こすのは、模倣であるからとしか考えられない。 ク 同<27>は、日本人が集団主義を好む民族であるとの誤解があるとの記述であるが、本来必要性の薄い記述であり、しかも工場労働者が作業前にそろって社歌を歌うという例示まで一致しているのは、明らかに模倣である。 ケ 同<28>は、日本人は元来個人プレーを好む民族であることを強調するためにあえて控訴人が記述した部分であって、矢に自分の名前を刻印するという例を挙げる表現は、控訴人の創作的要素が強い。被控訴人書籍は明らかに模倣である。 コ 同<29>につき、控訴人は、儒教と日本的経営とは結びつかないという言い方をすれば足りるところを、あえて儒教は中国文人官僚の論理であると筆を走らせたものであり、そのような言い回しが偶然に似るはずがない。 サ 同<32>につき、控訴人は、単一民族であることと日本的経営とが結びつくものでないことを説明するために、韓国との比較を記述した。これは、たまたま控訴人が韓国で仕事をした経験があるからであるが、そのような内容が被控訴人書籍に盛り込まれたのは、模倣であるからにほかならない。 3 被控訴人らの主張 (1) 控訴人は、まず、控訴人書籍全体についての翻案権の侵害を主張するが、その主張は、控訴人書籍に連続したひとまとまりの記述と被控訴人書籍に連続したひとまとまりの記述の表現形式上の本質的な特徴を比較、検討することなく、両書籍の各所から順不同に抜き出したほんの数行の記載を対比しているにすぎず、このような対比からは、両書籍の表現形式上の本質的な特徴をとらえることすらできない。加えて、控訴人は、上記2(3)において、このように恣意的に抜き出した対比箇所を本来の順序と異なる順序で配列し直し、さらには両書籍にもないような新たな見出しを付するなどして対比しているのであり、控訴人の上記主張は、著作物の表現形式の本質的な特徴の対比として意味をなさないことは明らかである。 両書籍のテーマ、内容、基本的視点、論述の構成等が異なることは、原判決が認定しているとおりである。 (2) 控訴人は、次に、11箇所の対比箇所それぞれについての翻案権の侵害を主張するが、原審での主張と変わるところはなく、以下のとおり失当である。 ア 対比箇所Cでは、年功序列、終身雇用という日本企業における周知の慣行を述べる点が共通するにすぎない。従業員の取り分が当初は少なく、後に増えること、これを一種の貯蓄と見て、会社を変わるとこれを失うということは、単なる事実ないしその分析であって、被控訴人Cの表現は控訴人Cと異なる。 イ 同Fに係る控訴人の主張は、配置転換に関して東洋工業の例を挙げること自体が翻案権の侵害に当たるというものであるが、客観的事実において共通するにすぎないことは原判決も認定するとおりである。 ウ 同Iでは、両書籍が「船」という意味の言葉を使っている点を共通にするにすぎないが、企業を船に例えることは他の文献(乙10)でも行われていることである。 エ 同Jは、「仕事」又は「労働」が「苦痛」又は「嫌なもの」とは限らないという一般的なことを述べる点で共通するにすぎず、控訴人の主張は失当である。 オ 同Mは、専ら客観的事実に係る共通点をいうにすぎず、控訴人の主張するような独特な言い回しなど存在しない。 カ 同Oは、「組織的自由」というキーワードの共通性をいうものであるが、そもそもキーワード自体は著作権法の保護の対象でない上、被控訴人書籍は「組織された自由」と述べるもので、キーワードとしても同一でない。 キ 同<26>は、共通した部分があるとしてもアイデアにすぎず、両書籍の記述内容と表現は全く異なっている。 ク 同<27>は、集団主義の誤解例として就業前に社歌を歌う例を挙げるものであるが、実際にはそのような企業は少ないという客観的事実を共通にするにすぎない。 ケ 同<28>は、文献の紹介自体の共通性をいうものであり、その失当であることは明らかである。また、控訴人は、創作的要素が強い旨主張するが、控訴人書籍に引用文献を掲げていることからすると、創作とは考えられない。 コ 同<29>は、日本的経営を儒教によって説明する立場を否定するというアイデアを共通するにすぎず、言い回しの類似性はない。 サ 同<32>は、韓国を例に挙げる点の共通性をいうものであるが、韓国との類似点や相違点のとらえ方、理論構成、具体的な表現は全く異なっている。 第3 当裁判所の判断 1 本件について、我が国に国際裁判管轄が認められることは、原判決「事実及び理由」欄の「第三 当裁判所の判断」の一記載のとおり(原判決25頁9行目〜27頁2行目。ただし、26頁7行目の「翻案権侵害の不法行為」を「著作権(翻案権)及び著作者人格権(氏名表示権)の侵害を理由とする不法行為」に改める。)であるから、これを引用する。 2 控訴人書籍全体としての翻案権の侵害について 2−1 控訴人書籍と被控訴人書籍が、日本の企業経営の現状を一つの経済体制ととらえ、これを人間重視の視点から「企業主義」又は「ヒューマン・キャピタリズム」と表現して、それぞれの主題とし、外国の企業経営や資本主義及び社会主義との比較、検討を行っているなどの点で共通点が見られる一方、具体的な章立て及び論述の順序、構成等を異にしていることは、原判決「事実及び理由」欄の「第三 当裁判所の判断」の二1記載のとおり(原判決27頁4行目〜35頁7行目)であるから、これを引用する。 2−2 控訴人は、控訴人書籍のような経済学の論文の翻案権の侵害の成否に関しては、ある学説を説得的に展開するための例示の仕方や論理展開の仕方等が問題とされるべきであるとし、具体的には、46箇所の対比箇所をたどることで、控訴人書籍の基本的枠組みが浮かび上がり、被控訴人書籍がその翻案であることが明らかとなる旨主張する。 確かに、控訴人書籍は、控訴人も序文で自認するように、いわゆるアカデミズムの立場での経済学論文とはいえないものの、日本の企業体制について、諸外国の企業体制との対比、歴史的な成り立ちの検討等を通じて分析を加え、筆者なりの視点からの特徴点を提示するとともに、その理論的な説明の体系化を試みたものということができ、日本経済ないし日本社会に関する学術論文と位置づけることができる。そして、その論理展開の特徴として、控訴人の通商産業省(当時)における勤務等を通じて得た知見に基づく具体例を豊富に提示している点を挙げることができる。 このような控訴人書籍の性格にかんがみ、本件において、被控訴人書籍が控訴人書籍の翻案であるというためには、控訴人書籍中で一定の結論を導くための具体例等として記述された個別の記述部分を取り上げて被控訴人書籍の記述部分と対比した上で、当該記述内容を前後の文脈及び書籍全体の論理展開の中に位置づけ、分析の切り口、事実の提示、その評価、結論に至る論理の運び等の総体としての創作性において、その表現形式上の本質的な特徴を被控訴人書籍が備えるかどうかを判断し、被控訴人書籍から控訴人書籍の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができることを要するというべきである(最高裁昭和55年3月28日第3小法廷判決・民集34巻3号244頁参照)。そして、個別の記述内容それ自体を対比しても共通点が見いだせなかったり、共通点があっても、その論理展開上の位置づけが全く異なっていたり、その論理展開がごくありふれたものとして学術に属する著作物としての創作性を基礎づけるに足りない場合には、被控訴人書籍から控訴人書籍の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を直接感得することはできないといわなければならない。 そこで、以下、このような観点に基づいて、控訴人の主張に係る46箇所の対比箇所について、@表現内容の共通性の有無及び程度、A共通する表現内容の前後の文脈ないし書籍全体における論理展開上の位置づけの類似性並びにB当該共通する表現内容及びその論理展開が著作物としての創作性を基礎づけるに足りるものかどうかについて、下記2−3において個別に検討し、さらに、これらの対比箇所ごとの検討結果を踏まえた書籍全体としての翻案権の侵害の成否を下記2−4で総合的に検討することとする。 2−3 対比箇所に係る記述部分の論理展開上の位置づけの検討 (1) 「日本の特殊な運命共同体的な労使関係」(前記第2の2(3)ア)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所@、B、E、F、C、G、D、I、Hを挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 ア 対比箇所@では、日本企業における株式の持ち合いを指摘して、経営が資本から独立しているとの視点を提示する点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 そして、控訴人書籍は、第1章(日本産業の達成)で戦後の日本産業の成功について概観した後、第2章(企業人の企業)で控訴人書籍の主題である「企業主義」の概念を提示するという流れとなっているところ、控訴人@は、この第2章の冒頭の「1 株主支配からの企業の独立」「(1)少ない同族企業と株式の相互持合」の中の記述であり、企業経営の主体的な担い手は従業員集団であって、資本家ではないという「企業主義」の概念提示の主要な説明材料となっている。他方、被控訴人書籍は、第一章(人間中心に企業を作る)において、まず、「日本は社会主義ではないが、資本主義でもない」(19頁)との視点から被控訴人書籍の主題である「ヒューマン・キャピタリズム」の概念を提示するところ、被控訴人@は、この章の前半部分の2箇所の記述を抽出したものであり、「ヒューマン・キャピタリズムの下での経営者と労働者は、企業経営の実権を共同して握っており、コンセンサスと参加を通じ、あたかも自分自身の会社であるかのように経営管理している」(29頁)と結論づけるとともに、これを「労使運命共同体」と名付けている。 そうすると、いずれも主題である日本の企業体制の新しい概念(「企業主義」ないし「ヒューマン・キャピタリズム」)を提示するに当たって、ほぼ冒頭部分で株式の持ち合いに由来する経営の資本からの独立に触れ、これを当該概念の重要な説明材料としている点で類似するということはできる。 しかし、日本的企業経営の在り方を分析する際に、日本企業における株主総会の形骸化や株式の持ち合いに着目し、株主ではなく従業員が実質的な主権を行使する体制であるとする分析は、控訴人書籍が引用文献として掲げる株式会社三笠書房昭和56年発行、【D】著の「日本は資本主義ではない」(乙10の1〜11)(以下「【D】書籍」という。)にも示されているように、独自性の乏しい着眼及び分析といわざるを得ない。しかも、株主に代わる企業経営の実質的主体に関し、控訴人書籍が「従業員集団」としているのに対し、被控訴人書籍は「経営者と労働者の共同体」としており、その評価及び論理の展開も異なる。したがって、上記のような共通点はあっても、被控訴人書籍が、控訴人書籍の学術に属する著作物としての表現形式上の本質的な特徴を備えているということはできない。 イ 対比箇所Bでは、控訴人Bが、日本企業の経営者の責任は、株主に対するよりもむしろ従業員に対して向けられるという内容を述べているのに対し、被控訴人Bは、経営に対する規制は株主による外部規制の代わりに企業内部からの自己規制があるという内容を述べるものである。 すなわち、両者は、「経営者の責任」(控訴人書籍)と「経営に対する規制」(被控訴人書籍)という別の切り口からの分析に係るものであって、その内容自体においてほとんど共通性を見いだし得ないというべきである。 ウ 対比箇所Eは、日本企業は不況時に配置転換を行うことがあるという事実を述べる点で、同Fは、その例としてロータリー車の販売不振に陥った際の東洋工業を挙げる点で、控訴人書籍及び被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人E、Fは、第4章(日本の企業体制の先進性)の「2 労働」の「(3)企業内労働移動」の中の記述であって、これらの表題に示されるとおり、日本の企業体制の先進性の一つとして、企業内労働移動の円滑性を挙げ、「企業内移動が自由に行なえるということは、このような不況対策として威力を発揮するだけでなく、新技術や新生産手法の採用に伴う職務体系や労働内容の再編成を円滑に行なうことにより、日進月歩する技術革新に、日本の企業が迅速に追随していくことを可能にしているのである。」(169頁)との文脈の中で位置づけられるものである。これに対し、被控訴人E、Fは、第一章(人間中心に企業を作る)の「利益分配」の見出しの下に記述されたものであり、この章の冒頭の「日本の代表的企業には次のような人間観がある。(1)人間が最重要である。機械ではなく、人間が最終的には生産している。(2)人間は誰でも考える。人間が情報を開発し、人間が富を創造する。(3)人間は誰でも感情がある。だから動機や職場環境で生産性が上がる。この三つは日本経済社会の哲学であり、これが『ヒューマン・キャピタリズム(人間資本主義)』の三原理であるといってよい。」(21頁)との記述及び章の表題にあるような「人間中心」主義の例示として位置づけられるものである。 そうすると、上記のような共通の内容を取り上げているにしても、その書籍全体における位置づけは大きく異なるというべきである。なお、控訴人F記載の内容は、控訴人書籍の末尾「注釈」欄掲記の日本リクルートセンター出版部昭和55年11月25日発行、【E】著「マツダ白書」(乙34の1〜3)に記載されている一般的な事実にすぎず、それ自体、控訴人書籍の創作性を基礎づける要素として重視することはできない。 エ 対比箇所Cでは、いずれも終身雇用、年功序列制が年功の浅い者に不利で年功を積んだ者に有利に作用するということ、途中退職をした場合に従来の年功は無価値となるという趣旨をいう点において、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人Cは、第2章(企業人の企業)の「2 労働者の変質」の「(1)従業員による企業リスクの負担」の中の記述であって、これらの表題が示すとおり、年功処遇制は、「従業員が企業リスクを負担する」という日本企業に対する特定の見方を説明するための論述として位置づけられており、これに続く「(2)従業員集団による企業支配」の冒頭の「従業員が企業リスクを負担することによって、企業経営に対して主体的な関心を持つ(あるいは持たざるを得なくなっている)ということ、このことが日本の企業の経営のさまざまな局面において社員の広範な参加を認めている基盤となっている。」(34頁〜35頁)との論理展開につなげているものである。これに対し、被控訴人Cは、被控訴人書籍の第六章(日本型経営方式との関係)の「年功序列による賃金」との見出しの中の記述であるが、この章の冒頭部分の「日本の代表的人間的企業では、日本型経営が実践されている。日本型経営方式はヒューマン・キャピタリズムの日本文化への適応と考えたい。それは、他の風土へ行けば、その文化に適応して修正される」(112頁)との記述及び同章の末尾の「日本型経営方式は、ヒューマン・キャピタリズムの適用として、戦後の日本に発生した。・・・遠くない将来、今までの日本的経営方式とはよほど変わったものになるであろう。だがヒューマン・キャピタリズムが衰えるというきざしはない。人間志向と公平分配の考え方はいままで以上に強い。将来日本的経営の細部が変わっても、新しいものも古いもの同様に、経営において人間的にアプローチするという、固い基盤は変わらないのである。」(127頁〜128頁)との文脈の中に位置づけられるものである。 すなわち、終身雇用、年功序列という同一の内容を取り上げつつも、控訴人Cが、これを「企業主義」形成の積極的な要因と位置づけるのに対し、被控訴人Cでは、「ヒューマン・キャピタリズム」の本質的な要素ではなく、その「日本文化への適応」形態にすぎないとされていることが明らかであって、両者の位置づけは全く異なるというべきである。 オ 対比箇所Gでは、日本企業では人事管理が重要とされていることを述べる点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人Gは、第2章(企業人の企業)の「3 企業人の企業」の「(5)人の結合としての企業」の中の記述であり、控訴人書籍の主題である「企業主義」の概念を提示する章に記述されているように、人事管理の重視は「企業主義」の属性を説明する材料として位置づけられる。これに対し、被控訴人Gは、第六章(日本型経営方式との関係)の「終身雇用制度」の見出しの下の記述であり、前述した被控訴人Cと同様、「ヒューマン・キャピタリズム」の「日本文化への適応」形態を示すものとして位置づけられており、両者の論理上の位置づけは全く異なる。 カ 対比箇所Dでは、日本企業においては経営者と労働者が一つの集団として共通の利益を追求していることをいう点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通し、かつ、その位置づけとしても、ともに主題となる概念(企業主義ないしヒューマン・キャピタリズム)を提示する章(控訴人書籍第2章、被控訴人書籍第一章)において、その説明材料として位置づけられている点で類似する。 しかし、日本企業の特質を考える際に、労使が共通の利益を追求するという要素を考慮することは、控訴人書籍自体も、別の著書(日本評論社昭和55年発行、【F】著の「取締役会制度の理念と現実」)から引用していることに示されるとおり、ありふれた一般的なものであって、学術論文としての創作性を基礎づけるに足りないというべきである。 キ 対比箇所Iでは、同一の企業に所属している状態を「同じ船に乗っている」という意味の言葉で表現している点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人Iは、第2章(企業人の企業)の「3 企業人の企業」の「(5)人の結合としての企業」の「企業帰属意識の発生」の見出しの下の記述であり、日本の社員の企業に対する帰属意識が、なぜ、どのように形成されるのかを論じたものと位置づけられる。これに対し、被控訴人Iは、第二章(競争的平等主義)の「企業別労働組合」の見出しの下の記述であり、「人間的企業では、労使両者は利益とアイデンティティーを共にし、対決的組合はほとんど意味をなさない。」(54頁)、「人間的企業における企業別組合は、経営側に敵対するものではなく、労使が意思決定を共有するための橋わたしである。」(55頁)との文脈の中で、労使が利害を共通にすることの表現として位置づけられる。 すなわち、前者が従業員の企業に対する帰属意識について論じているのに対し、後者では労使の利害の共通性について述べているものであって、両者の位置づけは全く異なるというべきである。 ク 対比箇所Hでは、日本企業において、労働者と対立関係にあるのは他の企業の労働者であることをいう点において、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、これらの記述書籍全体における位置づけは、上記対比箇所Iと同一であり、前者が従業員の企業に対する帰属意識について論じているのに対し、後者では労使の利害の共通性について述べているものにすぎない。 (2) 「労使関係と経営の在り方」(前記第2の2(3)イ)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所L、M、J、Kを挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 ア 対比箇所Lにおける控訴人Lと被控訴人Lの記述内容は、原判決52頁10行目〜55頁5行目のとおりであり、あえて類似点を挙げれば、日本企業では「マニュアルによる客観化の必要がないこと」(控訴人書籍)と「細かく仕事を説明したりしないこと」(被控訴人書籍)、「現場を熟知する企業人に仕事を任せること」(控訴人書籍)と「戦術決定は現場の者にゆだねられること」(被控訴人書籍)等を挙げることはできるが、まとまった論旨としての共通点を抽出できるほどの類似性は見いだし得ない。しかも、控訴人Lが、日本の企業組織の特徴が管理機構的な組織でもなく、他方、「ボトム・アップという観念も、このような組織の枠組みの中では少なくともしっくりとはおさまりきらない意思決定方式である」(178頁)という視点で分析していているのに対し、被控訴人Lは、「資本主義的企業では、ヒエラルキーを利用する。経営トップが重要決定を下し、下へ実行するように伝える」(44頁)のと対比させる形で、「膨大な新情報、アイデア、意見などが下から上へと伝わる」(被控訴人L前半)と述べ、むしろボトム・アップ方式そのものをいう趣旨に解されるところであり、両者の着眼点及び評価は異なる。 イ 対比箇所Mでは、1970年代の日本のいくつかの企業において独自の経営哲学の開発ないし組織の形成が行われるようになったという記述内容、その例示としてホンダ、ソニー、京セラを挙げている点及びその説明のためにまず戦後の鉄鋼業におけるアメリカ方式の導入について触れる点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人Mが、第4章(日本の企業体制の先進性)の「3 組織編成」の「(1)欧米の企業組織の特徴」に続く「(2)日本の企業組織の特徴」の中の記述であり、「欧米型の企業は、マニュアルさえしっかりしていれば、各職位にある人間が別に全体的な情報を持たなくても、従って企業内において自分の仕事がどのような意味を持つのか全くわからなくても、与えられた仕事だけをやっていればそれですむのであるが・・・日本の企業組織においては組織的活動を可能にしているものは、マニュアルではなく情報であり、情報の共有によって可能となるチームワークが、職務の体系に代る組織の実体をなしているのである。」(183頁)との論述にあるように、職務体系を中心とする欧米型企業の組織と対比する形で日本の独自の企業組織の形成について述べるものと位置づけられる。これに対し、被控訴人Mは、第四章(発生の経緯)の「経営革命」の見出しの下の記述であり、この章では、まず、1920年代に日本の終身雇用制の発生の起源をたどり、アメリカ占領下での財閥解体がヒューマン・キャピタリズム誕生の「産婆役」を果たしたと指摘し、戦後の労働運動の中で企業別組合が形成された過程を検討し、続いて戦後の経営改革の動きを記述するものであり、すなわち、被控訴人Mは、日本の歴史の中でヒューマン・キャピタリズムがどのように形成されてきたかという文脈の中に位置づけられるものである。 そうすると、上記のような共通の内容を含む記述であっても、前者は諸外国との比較論の中の論述、後者は日本での歴史的な検討に係るものであって、その論理展開上の位置づけは全く異なるというべきである。 ウ 対比箇所J、Kでは、仕事が苦痛であるとは限らないとの内容、政治家及び芸術家をその例示とする点、さらに近代以前の職人等にも触れている点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 そして、控訴人J、Kは、第4章(日本の企業体制の先進性)の「4 労働の人間化」の「(3)日本の労働観念の特異性」の中の記述、被控訴人J、Kは、第七章(思わぬ効用)の「喜びの職場」の見出しの下の記述であり、いずれも日本企業においては労働者の疎外感が少ないという趣旨の論旨をいう点で、その位置づけも類似する。 しかし、日本企業の特徴として、現場の労働者の自主性の尊重といった側面を指摘することは、極めてありふれた論述にすぎず(例えば、日本経済研究センター事業部昭和56年4月15日発行の「日本経済研究センター会報390号」63頁(乙15の1〜3))、上記の共通点に係る論旨も直接にはこれと同趣旨をいうものにすぎない。また、仕事を生きがいにするという内容を論述する際に芸術家等を例に挙げることに格別の創作性を見いだせないことは後述(3−1(4)イ)するとおりである。したがって、上記の点は、控訴人書籍の学術論文としての創作性を基礎づける要素として重視することはできない。 (3) 「他国の資本主義とも社会主義とも異なり、労働者の自発性を尊重する」(前記第2の2(3)ウ)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所Q、N、O、Pを挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 ア 対比箇所Qでは、賃金の引下げが企業の利益の増加につながることを述べる点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人Qは、第5章(経済体制としての企業主義)の「5 企業主義の展開を妨げるもの」の中の記述であり、ここでは、「日本の現実と、企業主義が本来備えるべき構造との間には、若干の距離がある」(262頁)との問題意識に基づいて、「日本の企業の現実の目的に即してみれば、企業の業績を現行の損益計算書の様式に従って評価しなければならない理由はさらにない」(263頁)とし、賃金の引下げによって得られた業績は、「企業人の企業にとって・・・とうてい受け入れられないものであろう」(263頁)と指摘する文脈の中に位置づけられるものである。これに対し、被控訴人Qは、第八章(資本主義と社会主義の比較)の「効率と平等」の見出しの下の記述であり、その前後の論旨は、「資本主義は・・・平等を犠牲にして効率を得る」(161頁)が、「社会主義は効率を犠牲にし、平等を進める」(162頁)との対比を踏まえて、「ヒューマン・キャピタリズムは、資本主義と社会主義のよい面を合成」する(164頁)という論理展開がされている部分であり、賃金の引下げが企業の利益の増加につながるとの上記記述は、資本主義が効率を優先することの説明材料として述べられているものである。 このように、両者は同一の内容を含む記述であっても、その位置づけは全く異なるというべきである。 イ 対比箇所Nでは、日本企業が株主からも国家の統制からも自由であることを述べる点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の記述は共通する。そして、これらの記述が、いずれにおいても、日本の企業体制が一般的な資本主義企業とも社会主義企業とも異なるものであること、このような経営の自由が日本企業の活力の源泉であることを述べる点で、その論理展開上の位置づけも類似するということができる。 しかし、日本企業の株主からの自由をいう点は、対比箇所@について述べたとおり、独自性の乏しい着眼及び分析というべきであるし、社会主義企業との対比で国家の統制からの自由をいう点も、ほぼ常識といえる一般的な認識にすぎない。したがって、上記のような共通点はあっても、学術に属する著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にするということはできない。 ウ 対比箇所Oでは、日本企業において、労働者の転職の自由は実質的に制約されるが、企業組織の内部では自由を享受するということをいう点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の記述内容は共通する。しかし、控訴人Oは、第4章(日本の企業体制の先進性)の「4 労働の人間化」の中の記述であり、日本企業における「組織的自由」は労働者の「働きがい」や「自発性」を高め、日本の企業体制に先進性をもたらしているとする論理展開につなげているものであるのに対し、被控訴人Oは、第七章(思わぬ効用)の「組織内における自由」の見出しの下の記述であり、ヒューマン・キャピタリズムの「効用」について述べたものであるが、結論的な評価として、「市場の自由と組織された自由は二者択一」で「どちらの自由も一長一短である。」(136頁)と評価されているにとどまるものである。このように、両者は共通する内容を含む記述であっても、その評価において異なった趣旨をいうものである。 エ 対比箇所Pにおける控訴人書籍と被控訴人書籍の記述内容は、原判決61頁6行目〜62頁10行目のとおりであり、この記述自体の論旨を無視して、あえて両者の共通点を挙げれば、企業において権力が集中した場合に労働者のモラルを倫理的にとらえがちになること、そのような現象は資本主義でも社会主義でも同様であることを抽出することができるが、その前後の論述は全く異なった内容を含むものであり、その共通性は希薄というべきである。加えて、控訴人Pは、第5章(経済体制としての企業主義)の「4 『権力』から『責任』へ」の「(2)企業主義のたどった独自の道」の中の記述であり、この文脈における結論として示されているのは、「企業主義は、初期資本主義時代の資本家の持っていた機能のうち、参加を生み出す責任を引き継ぎ、そしてそれ以外の体制は、強制をその本質とする権力を引き継いだ」(261頁)というものである。他方、被控訴人Pは、第九章(社会主義と資本主義の修正実験)の「ユーゴスラビアの市場社会主義」の見出しの中の記述であり、ユーゴスラビアにおいて行われた市場社会主義について分析、評価に関する記述として位置づけられるものである。 したがって、対比箇所Pは、その内容の共通性自体が希薄である上、その論理展開上の位置づけも全く異なるというべきである。 (4) 「日本の労使一体経営と他国の『労働者の経営参加』」(前記第2の2(3)エ)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所R、S、<21>を挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 対比箇所R、S、<21>における控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述内容は、原判決64頁8行目〜68頁7行目のとおりであり、対比箇所Rでは、ともに西ドイツの共同決定法について、同S、<21>では、ともにユーゴスラビアの企業体制についてそれぞれ触れているという限度で共通するものの、その具体的な記述内容は全く異なった内容を含むものであり、当該記述自体において、その共通性が明確であるとはいえない。しかも、控訴人R、S、<21>は、日本の企業を「資本主義企業との比較」、「社会主義企業との比較」という視点で論じた第3章(各国企業との比較)の中の記述であるのに対し、被控訴人R、S、<21>は、第九章(社会主義と資本主義の修正実験)の章の中の記述であり、この章は、既存の体制の修正という観点から各国の企業体制を分析しているものであり、その分析の切り口及び論理展開上の位置づけを異にするというべきである。 (5) 「日本の経営方式が理論先行でなく、事実先行であること」(前記第2の2(3)オ)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所<22>、<23>、<24>、<25>を挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 対比箇所<22>、<23>、<24>、<25>では、歴史上、新しい社会経済体制の形成には、資本主義のような自然発生的なものと、社会主義のような先行する理論を実現するものの二種類があるとし、アダム・スミスとマルクスに言及している点、戦後日本の企業体制はこの分類では前者に属することをいう点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分は共通する。 しかし、控訴人<22>、<23>、<24>、<25>が、控訴人書籍のまとめの章として著書の表題と同一の章名を付した第7章(企業主義の興隆)の中の記述であって、その中の「1 国民国家の形成との類似性」、「2 『理論による革命』と『現実による革命』」、「3 理論を追い抜いた現実」との見出しに示されているように、この章は、企業主義の成立の世界史的な意義を強く印象づけて控訴人書籍を締めくくるものである。これに対し、被控訴人<22>は第一章(人間中心に企業を作る)の、同<23>は第八章(資本主義と社会主義の比較)の、同<24>は「はじめに」の、同<25>は第六章(日本型経営方式との関係)の中にそれぞれ分散して記載された断片的な記述であり、書籍全体における位置づけは全く異なるというべきである。 (6) 「企業主義が特殊な日本の集団主義的な体質によるものか」(前記第2の2(3)カ)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所<26>、<27>、<29>、<28>、<30>、<31>、<32>を挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 ア 対比箇所<26>では、日本企業の集団主義志向の理由を日本人が稲作民族であることに求める説を否定する点及びその反証として韓国の例を挙げる点で、同<27>では、外国のメディアが日本の工場労働者の社歌斉唱の慣行を日本の集団主義の象徴として好んで取り上げるが、実際にそのようなことをしている工場は少ないということをいう点で、同<29>では、日本的経営の特徴を儒教の影響によって説明しようとする見解を否定する点で、同<28>では、日本の12〜13世紀の武士の戦闘において、名乗りを上げたり矢に名前を刻印する習慣があったとの事実を紹介し、日本人が元来個人主義的な資質を持っていたことをいう点で、同<30>では、西欧人は個人主義でありながら、ナショナリストでもあり得るのだから、集団志向の企業体制になじまない理由はないという点で、同<31>では、アメリカは見方によっては同質社会を形成していることをいう点で、同<32>では、韓国は単一民族、単一言語等の点で日本と類似していながら、企業主義ないし人間的企業は発生しなかったとする点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述部分はそれぞれ共通する。 イ そして、これらの控訴人書籍の記述は、いずれも第5章(経済体制としての企業主義)の「1 『日本特殊論』について」中のものであり、この節は、「(1)日本人勤勉説」、「(2)単一民族説」(控訴人<31>、<32>が含まれる。)、「(3)集団主義説」(同<27>、<28>が含まれる。)、「(4)個人主義不存在説」(同<26>、<29>、<30>が含まれる。)、「(5)体制と風土の結びつき」の各節から成るものである。この前後の控訴人書籍の論理展開を概観すると、まず、この章の冒頭で、日本の企業体制の形成の由来について、「ひとつは、日本の企業経営に、諸外国のそれと著しく異なる特徴を与えているゆえんのものを、日本にしか存在しない、日本社会あるいは日本民族の固有の歴史的、伝統的、精神的な特質に帰する考え方であり、他のひとつは、日本にしか見出されないが、その本来の性質上、世界のどの国においても採用可能な普遍性を持った企業の客観的な制度的構造に求める考え方である。一言で言えば、風土か、体制か、ということである。」(210頁)と問題提起し、これに続いて、上記の見出しに沿って、日本企業の特徴の由来を、日本人が生来勤勉である点に求める説、日本国民が単一民族である点に求める説、日本人特有の集団主義的精神構造に求める説、日本において個の意識が未発達である点に求める説に順次反論を加え(控訴人書籍の上記各記載はいずれもこの文脈に位置づけられる。)、この章の後半で、冒頭の問題提起に対し、日本企業の特徴の由来は、風土ではなく、「労働と統合された経営の自律性」、「従業員による企業リスクの負担」といった体制にこそ求められるとする。 ウ 他方、被控訴人<26>、<27>、<29>、<28>、<30>、<31>、<32>は、いずれも第五章(文化問題)の中の記述であり、この章は、「文化では説明できない」(被控訴人<26>前半、<31>、<32>が含まれる。)、「経済理論でも説明できない」、「個人主義対集団主義」(同<26>後半、<27>、<29>、<28>、<30>が含まれる。)、「自己利益と合理的行動」の各見出しに沿って、日本の企業経営の特徴を文化論や日本人の集団志向で説明することはできず(被控訴人書籍の上記各記述は、いずれもこの文脈で位置づけられる。)、また、西欧型資本主義的企業のモデルでも説明することはできないとし、最後に、日本の人間的企業における労働者の行動は「文化」とは関係がなく、労働者の「自己利益」に基づく「合理的行動」としてとらえられるとしている。 そうすると、控訴人書籍と被控訴人書籍の共通する上記各記述は、いずれも日本的経営の由来を文化ないし風土に求める見解を批判するために挙げられた具体的な事例として位置づけられ、この点で両者は類似するということができる。 エ しかし、日本的経営論をめぐる控訴人書籍著作当時の状況を見ると、1970年代末以降、日本的経営論、とりわけその生成原因をめぐる議論が活発になり、控訴人著作の成立時までには、その基本的な立場の対立として、日本的経営特殊論と日本的経営普遍論に分類され得る状況であったことは、日本経済新聞社昭和63年6月25日発行の「ゼミナール日本経済入門」(3版2刷)(乙8の1〜3)によって認められるところである。すなわち、同書籍では、「日本的経営論が本格的なテーマとして内外で採り上げられ、学問として“認知”されるようになったのは、一九七〇年代末期からであろう。」(476頁)、「日本の経営学もこれ(注、米国の研究)に大いに刺激され、『日本的経営の生成および存立の基盤は何か』をめぐって、精力的に議論を展開するようになった。」(476頁〜477頁)、「こうして、本格的に議論されるようになった日本的経営論は、経営学者や社会学者ばかりでなく、経済学者や企業のエコノミスト、さらに欧米の研究者も活発に参加することで、飛躍的に発展した。最近では、“百家争鳴”の様相を呈しており、日本的経営論の“分類学”が必要なほどである。」(477頁)とし、続いて、主な論者の学説を「日本的経営特殊論」と「日本的経営普遍論」に分類して紹介しているところである。なお、上記書籍の学説紹介で引用している文献は、1点を除きすべて控訴人書籍の発行前である昭和57年以前のものである。 そして、一般に、日本文化論や日本社会論において、農耕民族性、単一民族性、儒教の影響といった要素を取り上げることはありふれた着眼であるから、上記のような日本的経営の特殊性と普遍性が議論されている状況下で、日本の企業体制に関連してこれらの要素を取り上げることにも、学術に属する著作物としての創作的な特徴があるということはできない。また、社歌を斉唱するとの慣行に触れる点についても、外国メディアが比較的よく取り上げるエピソードであることは控訴人も自認していることであるから、これが、控訴人書籍の創作性を基礎づけるものとはいえない。なお、対比箇所<28>に関し、中世の武士の習慣を日本人の個人主義的伝統の例証として、日本的経営論において取り上げる点に関しては、比較的独創性の高い記述であるということができるが、控訴人の陳述書(甲48)で控訴人が述べているとおり、この例証自体は、控訴人書籍全体の論理の中で必ずしも必然性があるとはいえない記述であって、控訴人書籍全体としての創作性を基礎づける要素としては、これをさほど重視することはできない。 オ ところで、控訴人書籍の創作性を基礎づける顕著な要素は、日本の企業体制の成り立ちの由来に関し、風土か、体制かという二元的な問題の立て方をし、控訴人書籍の主題である企業主義を普遍性のある体制の問題として位置づけている点にあると解される。これは、控訴人書籍をいわゆるアカデミズムの立場から論評した日本経済新聞社昭和59年3月16日発行、【G】(武蔵大学経済学部教授)著作の「『日本的経営』論争」(甲9)において、控訴人書籍の上記の問題提起につき、「以上のような【D】(注、【D】書籍の著作者)−【A】(注、控訴人)流の議論は、“日本的経営論”とは別のところから出発し、“日本的経営論”とは異なる観点に立ちながら、日本の経営を日本の経営たらしめているその成立基盤に鋭く切り込んだものといってよい。しかも、これらの議論は、日本経営論の問題、少なくとも最も重要な一部を包摂しながら、さらに大きく、これを体制の問題として扱っているところに、その理論のスケールの大きさが認められる。これは、従来の日本経営論が抱えていた、ひとつの大きな盲点をついたものであり、今後の日本経営論の発展に大きな刺激を与えるものということができる。それ自身、日本経営論に包摂し切れないものではあるが、今後日本経営論が無視出来ない問題提起であり、また大きく重なり合う内容をもっているので、あえて日本経営論の新しい展開として取り上げた。」(149頁)として、「日本の経営を日本の経営たらしめいるその成立基盤」を「体制の問題」と扱った点に、着眼の斬新性とスケールの大きさがあると高く評価している点からも認められるところである。 しかしながら、そのような学術論文としての本質的な特徴に係る部分も、【D】書籍という先行書籍の中に基本的なアイデアは示されている上、被控訴人書籍の上記各対比箇所に係る記述は、日本的経営の由来を文化に求める見解を否定する点では控訴人書籍と軌を一にしつつ、これを控訴人書籍のように「体制の問題」としてとらえる着眼は必ずしも明確でなく、少なくとも、上記対比箇所に係る被控訴人書籍の第五章においては、「自己利益に基づく合理的行動」と説明しているにとどまるものであり、控訴人書籍の「文化か、体制か」という創作的な特徴に係る共通点、類似点ということはできない。 カ 以上のとおり、上記各対比箇所に係る記述部分の共通点は、日本文化論、日本社会論等において比較的よく言及されるものにすぎないものが大部分であり、日本的経営の形成原因論をめぐる学界の状況も踏まえれば、控訴人書籍の学術の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にするとまではいうことができない。 (7) 「自由、平等、福祉等の価値概念と企業主義」(前記第2の2(3)キ)について 控訴人は、この点について、順に、対比箇所<33>、<34>、<35>、<36>、<37>、<38>、<40>、<41>、<39>、<43>、<42>、<44>、<45>、<46>を挙げるので、それぞれの対比箇所の書籍全体における位置づけの類似性を検討する。 ア まず、対比箇所<33>、<35>、<37>、<42>、<44>における控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述内容は、それぞれ原判決88頁3行目〜5行目、90頁7行目〜91頁2行目、92頁8行目〜93頁4行目、98頁7行目〜99頁5行目、101頁末行〜102頁7行目のとおりであり、これらの各記述内容を対比した場合、控訴人書籍と被控訴人書籍では「組織における自由」(対比箇所<33>)とか、「企業間移動による成功の可能性」(同<34>)といったごく抽象的な主題についての共通点を抽出し得るにすぎず、各記述自体の持つ論理、分析、評価、事実等についての具体的な共通点を見いだすことはできない。このような程度の抽象的な主題の共通点が多数存在するとしても、控訴人書籍の創作性を直接感得することはおよそ不可能というべきである。 イ 対比箇所<38>、<41>における控訴人書籍の各記述は、それぞれ、別々の3箇所に分散して記載された断片的な記述をつなぎ合わせて合成したものを被控訴人書籍の特定の記述と対比するものであり、それぞれの記述の前後の文脈における位置づけを無視したものといわざるを得ない。したがって、論理上の位置づけに基づく両書籍の類似性を検討する際の対象として取り上げることはできない。 ウ 対比箇所<34>では、企業間の移動が自由であれば能力のある者は成功への可能性を広げることをいう点で、同<36>では、日本の企業では「組織的自由」ないし「組織された自由」が多く与えられることをいう点で、同<40>では、50歳の部長の給与が若年従業員の3倍程度にすぎないことをいう点で、同<39>では、日本国民の90パーセントは自らを中産階級であると考えていることをいう点で、同<43>では、アメリカでは所得が社会的地位と結びついているが、日本は異なるという点で、同<45>では、「企業主義」ないし「ヒューマン・キャピタリズム」がその構成員に対する福祉の機能を備えることをいう点で、同<46>では、福祉国家における国民の国家に対する要求と比較した場合、「企業主義」ないし「ヒューマンキャピタリズム」では、その構成員の企業に対して際限のない要求はしないことをいう点で、控訴人書籍と被控訴人書籍の各記述内容は共通する。 そこで、その論理展開上の位置づけを見るに、控訴人書籍のこれらの記述は、いずれも第6章(社会体制としての企業主義)の中の記述であり、この章は、「1 社会構造の特徴」、「2 社会的統合力の源泉としての企業」(控訴人<45>、<46>が含まれる。)、「3 企業主義社会における平等」(同<39>、<43>が含まれる。)、「4 企業主義社会における自由」(同<34>、<36>が含まれる。)、「5 大衆のための体制」の節に分けられており、この章は、その冒頭の「日本社会の『企業化』の進展によって、企業内において形成された社会関係が、そのまま全体社会に投影されるようになった」(269頁)との視点に基づく分析を行うものであり、いわば日本的経営論、企業体制論から更に日本社会論へと論理を展開させている章であると位置づけることができる。これに対し、被控訴人書籍の上記各記述は、いずれも第七章(思わぬ効用)の中の記述であり、この章は、「平等社会」(被控訴人<39>、<43>が含まれる。)、「組織内における自由」(同<34>、<36>が含まれる。)、「企業による福祉」(同<45>、<46>が含まれる。)、「喜びの職場」の各見出しの付された節に分けられる。これらの章題及び見出しから明らかなように、この章は、「ヒューマン・キャピタリズム」の「効用」として、平等社会であること、組織内での自由があること、企業による福祉が行われること、職場における人間疎外がないことを挙げるものであり、その分析対象は基本的に企業内部にとどまっており、日本社会論という視点はない。 そうすると、控訴人書籍と被控訴人書籍に上記のような共通の内容を含む記述があるとしても、その位置づけ及び視点は異なるというべきである。 2−4 以上の検討に基づき、書籍全体としての翻案権の侵害の成否について検討する。 上記2−3のとおり、控訴人の指摘する全46箇所の対比箇所について、その前後の文脈及び書籍全体の論理展開上の位置づけを検討しても、その大部分は、当該記述自体において共通した内容を見いだせないか、又は、共通点があったとしても、論理展開上の位置づけが全く異なるものというべきである。共通する内容の記述がほぼ同一の論理展開の中に位置づけられている記述部分(対比箇所D、J、K、N、<26>〜<32>)についても、他の同様の書籍に同様の視点からの分析が示されていたり、控訴人書籍の著作当時既に活発に議論されていたテーマに関するありふれた着眼点からの記述であって、控訴人書籍の創作的な特徴を示すものということはできない。なお、対比箇所Nの中世の日本武士の習慣に触れた例証が比較的独創性の高い記述であることは前示のとおりであるとしても、控訴人書籍において重要性の乏しい記述部分にすぎず、さらに、前示認定の両書籍の主題や章立て等の相違も併せ考慮すると、他の対比箇所における上記のような共通点等を総合しても、被控訴人書籍が控訴人書籍の学術に属する著作物としての表現形式上の本質的な特徴を備えるということはできないというべきである。 よって、書籍全体としての翻案権の侵害をいう控訴人の主張は理由がないというべきである。 3 個別の対比箇所における翻案権の侵害について 3−1 控訴人は、書籍全体の翻案権の侵害が成立しないとしても、対比箇所Cの前半部分、F、I、J、M、O、<26>〜<29>、<32>の11箇所については、特にその類似性が顕著であり、当該記述部分の翻案権の侵害となる旨主張するので、以下、これらの11箇所の対比箇所の表現が、それぞれそれ自体として翻案権の侵害となるかどうか検討する。 (1) 対比箇所Cの前半部分について ア 控訴人書籍Cの前半部分は、「もし終身雇用、年功処遇の慣行が存在しなければ、入社して間もない、つまり年功の少ない従業員は、もっと高い地位や給与を獲得できたであろうから、この二つの慣行は、当初年功の少なさによって失った処遇上の損失を、年功が重なるにつれて、少しづつ取り返してゆく制度とみなすことができる。つまりこの制度は結果として、企業内での給与および地位のいわば『貯蓄』を従業員に行わせることになる。仮りに企業が倒産すれば、倒産した企業内での年功は他の企業ではほとんど意味を持たないから、彼はその『貯蓄』を失ってしまう。他の企業に就職したとしても、結局年功処遇制のはしごの低いところからもう一度『貯蓄』をやり直すしかない。」(31頁〜32頁)というものであり、被控訴人Cの前半部分は、「年功制では生産性に比し、若いものには支給不足、年輩者には支給過剰の傾向になる。雇用の初期には会社は若者に借りを作り、年とってからプレミアム付きで返す。労働者から企業の年功は譲渡不能な資産であり、同じ会社にいる限り、時とともに増価する。転職してしまえば、価値のほとんどがなくなる。」(119頁〜120頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比した場合、いずれも終身雇用、年功序列制が年功の浅い者に不利で年功を積んだ者に有利に作用すること、途中退職をした場合に従来の年功は無価値となるという趣旨をいう点において共通するということはできるが、従来の年功を「貯蓄」というか、「譲渡不能な資産」というかなど、その特徴的な表現において相違しており、単なる内容の共通性を超えた創作的な表現上の類似性を見いだすことはできない。よって、被控訴人Cが控訴人Cの翻案であるとはいえない。 (2) 対比箇所Fについて ア 控訴人Fは、「一九七四年以後、石油危機後の不況とロータリー車の売れゆき不振によって陥った経営不振の打開策として、東洋工業が実施した大規模な職種間移動はその一例である。同社はロータリー車の販売不振をばん回するために、ラインから引き抜かれた工場労働者などに、一週間の短期セールス教育を施して、八ヵ月間ディーラーにセールスマンとして派遣したが、その数は一九七四年から一九八〇年まで、延べ一万三〇〇〇人(同社の前従業員の約五〇%)にも達したという。」(167頁〜169頁)というものであり、被控訴人Fは、「広島の東洋工業はその頃、静かだが燃費の悪いロータリー・エンジンに賭けすぎて、危機に瀕していた。そこで大量の余剰生産労働者を販売向けに訓練し、マツダの販売店に回しレイオフを避けたのである。」(38頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比した場合、いずれも東洋工業が行った大規模な配置転換に触れている点で共通するが、それ自体は事実にすぎず、単なる事実の共通性を超えた創作的な表現上の類似点を見いだすことはできない。よって、被控訴人Fは控訴人Fの翻案であるとはいえない。 (3) 対比箇所Iについて ア 控訴人Iは、「利害の共通性、企業人集団内部における同質性、長い職業生活を同一の企業のもとで過ごすことからするものの考え方や行動様式の類似性、これらのものが必然的に同じボートに乗った仲間であるという感覚を育てる。」(66頁)というものであり、被控訴人Iは、「同じ船に乗って損益をともにし、外部の誰からも利益を侵害されないことを人間的企業の労働者はよく知っている。」(55頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比した場合、いずれも同じ企業に所属している状態を「同じ船に乗っている」という意味の言葉で表現している点で共通するが、企業を「船」にたとえることは、他の書籍(例えば、前掲「日本は資本主義ではない」(甲10の4))でも見られる表現であり、他方、この表現以外に創作的な表現上の類似性を見いだすことはできないから、被控訴人Iが控訴人Iの翻案であるとはいえない。 (4) 対比箇所Jについて ア 控訴人Jは、「もともと労働それ自体が本来、苦痛であるわけがない。ヨーロッパ人も、政治家や芸術家にとっての労働が、彼らにとってたんなる苦痛でしかないとは考えていないだろう。」(205頁)というものであり、被控訴人Jは、「だが『仕事は嫌なもの』であるという命題は、ある人に対しては当っていても他の人には明らかに当たらない。仕事は満足、生活そのものという人さえいる。創造的芸術家、才能ある音楽家、成功した法律家、生産的学者、熱心な科学者、革新的な技術者、野心的な政治家、とどまることなき起業家などは、仕事を嫌なものとは見ない。」(140頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比するに、両者は、仕事が苦痛であるとは限らないとの内容及び政治家及び芸術家をその例示としている表現において共通している。しかし、仕事が苦痛であるとは限らないとの記述内容自体はごくありふれたものにすぎず、株式会社講談社昭和56年6月20日発行、尾崎茂雄著の「『生きがい』と『豊かさ』」(乙22の2)にも同様の内容が芸術家等を例に挙げて表現されており、表現上の創作性は乏しいといわざるを得ない。そして、他に両者の創作的な表現上の類似性を見いだせないから、被控訴人Jは控訴人Jの翻案であるとはいえない。 (5) 対比箇所Mについて ア 控訴人Mは、「例えば、戦後の鉄鋼業における生産管理システムの合理化は、他の多くの産業と同じく、もっとも合理的なものと当時は考えられていたアメリカ経営思想の導入によって始まった。労働者の熟練内容の分析の上に作業標準を作り、労働者はそれに従って仕事をすれば足りるという、テーラリズムの考え方が徹底された。しかし、高度成長期になってから、このような方式は徐々に放棄されていった。・・・近年、旧套にとらわれない多くの企業、例えば本田技研、ソニー、新日電、前川製作所、京都セラミックスなどによって、従来の組織概念とは著しく異なった、なかには想像を超えた風変わりな形態の組織の形成が試みられている。これらのすべてが必ずしも永続性を持つものではないだろうし、また特定の企業の外に出てゆかないものもあるだろう。しかし、一九七〇年代は、おそらく後に、日本の企業がその企業体制に合致した組織の形成をめざして奔放な実験を始めた時期として記憶されるであろうということは間違いないと思われる。」(188頁〜189頁)というものであり、被控訴人Mは、「例えば鉄鋼業では、アメリカ方式を一時は採用したが、成長が早すぎて、トレーナーをじゅうぶんに養成できなかった。そこで交代制度や意思決定の現場化を含め、監督と検査の責任を生産労働者にあずけてしまった。このように、戦後日本の新経営方式は、まずアメリカ方式の導入と真似から始まったのである。一九六〇年代を通じて経営の革新はつづく。ホンダ、ソニー、松下、YKK、京セラなどが独自の、人間を中心とする経営哲学、原理、技術、習慣を開発したのは一九七〇年代になってからである。」(86頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比した場合、両者は、1970年代の日本の幾つかの企業において独自の経営哲学の開発ないし組織の形成が行われるようになったという記述内容、その例示としてホンダ、ソニー、京セラ等を挙げている点及びその説明のためにまず戦後の鉄鋼業におけるアメリカ方式の導入について触れるという論述順序が採られている点で共通するということはできる。しかし、控訴人Mは、戦後の鉄鋼業が導入したアメリカ経営の思想はテーラリズムであると規定した上で、1970年代以降の日本のいくつかの企業の試みを「想像を超えた風変わりな形態の組織の形成」、「奔放な実験」といった印象的な表現で対比して論述し、さらにはそれが歴史的な意義を有するであろうことを予言するものであり、これらの点に控訴人Mの独自の創作性を見いだすことができるのに対し、被控訴人Mは、戦後の鉄鋼業で採用されたアメリカ方式ではトレーナーの養成が十分できなかったと分析した上で、1970年代以降の経営の革新を「人間を中心とする経営哲学、原理、技術、習慣を開発した」ものと評価したものにとどまり、控訴人Mの最も創作的な表現部分を何ら直接感得することができないというべきである。 他方、1970年代の日本の幾つかの企業等の企業において独自の経営哲学の開発ないし組織の形成が行われるようになったという記述内容は単なる事実であるし、企業名の例示や上記の論述順序が、著作物としての表現形式上の本質的な特徴を基礎づけるものとは認められないから、被控訴人Mは控訴人Mの翻案であるとはいえない。 (6) 対比箇所Oについて ア 控訴人Oは、「労働面における市場的自由に実質的な制約があることは事実であるが、にもかかわらず、日本の企業人は企業組織の内部において、働く過程における大幅な自由、いわば組織的自由というべきものを享受している。しかもこの二つはたんに両立するに止まらず、より積極的な結びつきがある。つまり、市場的自由の制約が、組織的自由を生み出すという面があるのである。」(190頁)というものであり、被控訴人Oは、「アメリカ資本主義の視点からは人間的企業方式は自由でないように見える。他の会社に移るにはコストが高くつきすぎる。資本市場も自由でない。資金は企業集団内部の論理によって動き、解放された外部市場によってではない。この方式では本当の自由市場はない。だからヒューマン・キャピタリズムで建設された社会はアメリカ社会より自由ではないという結論になる。だがこれも自由を狭く解釈している。人間的企業では、従来の資本主義的指向にはなじみがない概念であるが、『組織された』自由を豊富に提案している。」(135頁)というものであり、ここでいう「組織された自由」とは、「人間的企業の内部で、経営の意思決定に参加し、自分自身の労働規約や環境をつくり、仕事内容を改善する自由である」(136頁)とされる。 イ これらの記述をそれ自体として対比すると、両者は、日本の企業では労働者の転職の自由は実質的に制約されるが、企業組織の内部では自由を享受するという内容をいう点で共通しており、その表現として、「市場」と「組織」における「自由」を対比して述べるという用語の選択において類似する。しかし、被控訴人Oにおいては、「アメリカ資本主義の視点」という切り口で論述を進めている点、「『組織された』自由」という独特の表現を用いている点に創作的な表現上の特徴を見いだせるところ、これらの点で控訴人Oと異なっており、単に「市場」、「組織」及び「自由」といった用語の選択の類似性や、日本企業における転職の自由と企業組織の内部での自由の享受についての評価の同一性があるからといって、著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にすると認めることはできない。よって、被控訴人Oが控訴人Oの翻案であるとはいえない。 (7) 対比箇所<26>について ア 控訴人<26>は、「例えば『日本人は稲作民族であり、稲作に必要な緊密な協同労働を行なう慣行が受け継がれて、今日の日本の集団主義的経営が産み出された』とか、『日本の企業体制は、江戸時代の藩の体制が引き継がれたものだ』とか、あるいは儒教や武士道精神のような伝統的倫理によって、日本的経営の特徴が説明されることもある。これらの説はどれも観念的に過ぎ、しかも、大体において、日本的経営の特徴が労働面にのみあると考えているところに基本的問題があるのであるが、例えば『稲作民族説』については、既に述べたように日本と同様の『稲作民族国』である韓国の企業経営がむしろ欧米型に近いということをもって、無理な考え方であるということがすぐわかる。」(226頁)というものであり、被控訴人<26>は、「よく引合いに出される話だが調和の起源は米作りにあるという。緊密な調整と協力が、田植、稲刈りでは必要である。泥の中で何世紀も一緒に働くうちに調和の感覚が育ち、これが日本の心であるとする。だがそれは、日本の農業史が、長い水争いの歴史でもあったことを忘れている。」(100頁)及び「伝統的な日本の米作りが集団企業の精神を作ったといわれるが、韓国やタイでは、同じように米を作っても、同様な企業体制は生まれていない。」(106頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比するに、両者は、ともに、日本的経営の特徴を日本人が稲作民族であることに求める説を否定する点及びその反証として韓国の例を挙げる点で共通するが、控訴人<26>が、日本的経営の起源についての諸説に関し、「稲作民族」のほかに「藩の体制」及び「儒教や武士道精神のような伝統的倫理」を併せて挙げて、これらは「観念的に過ぎ」、「日本的経営の特徴が労働面にのみあると考えているところに基本的問題がある」としているのであって、これに対し、被控訴人<26>が稲作に焦点を絞って、「泥の中で何世紀も一緒に働くうちに調和の感覚が育ち」という独特の表現を用いたり、水争いの歴史に触れて論理展開しているのと比べると、上記のような共通点をもっても、両者の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にするとは認められない。よって、被控訴人<26>が控訴人<26>の翻案であるということはできない。 (8) 対比箇所<27>について ア 控訴人<27>は、「日本には、作業開始の前に労働者が集まって会社の歌をうたう工場がある。この光景は、日本の企業の実情を紹介するために日本を訪れる外国人が好んで取り上げるテーマである。しかし、このようなことをしている企業は大企業では例外的に見出されるにすぎない。日本にやってくる外国のテレビ局は何はさておいても、工員が整列して歌っている有様をフィルムにおさめ、これを日本人の集団主義の証拠として宣伝する。」(220頁〜221頁)というものであり、被控訴人<27>は、「西欧のメディアはよく、工場労働者が一日の仕事始めに社歌を斉唱しているのに関心を持って、日本の集団主義の証拠と見ようとする。だが実際には日本で毎朝社歌を歌う工場は少ない。」(106頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比すると、両者は、外国のメディアが日本の工場労働者の社歌斉唱の慣行を日本の集団主義の象徴として好んで取り上げるが、実際にそのようなことをしている工場は少ないという内容において共通するが、それ自体は事実にすぎず、具体的な表現としては、「集団主義の証拠」という言葉を使っている点で共通する以外に特徴的な類似性はない。そして、「集団主義の証拠」という表現のみからただちに著作物としての表現形式上の本質的な特徴を同一にするということはできず、被控訴人<27>は控訴人<27>の翻案であるとはいえない。 (9) 対比箇所<28>について ア 控訴人<28>は、「封建時代には、戦争は、個人戦闘の寄せ集めとして行なわれていた。武士は戦いの前に名乗りをあげ、自分と同格の武士を見つけて、一騎打ちで勝敗を決する。個人の功績によって、個人的に恩賞が行なわれるから、十二〜三世紀には、一本一本矢に自分の名前を彫り込んだくらいである。」(221頁〜222頁)というものであり、被控訴人<28>は、「一二世紀一三世紀において、侍が決闘の前に、敵に名を名乗り、また矢に刻印して、戦闘のあと、誰に功績があったか確認するのに使った。このような習慣からは、中世日本の兵士達は活発な個人主義者だったと推測される。」(106頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比するに、両者は、12〜13世紀の武士の戦闘において、名乗りを上げたり矢に名前を刻印するという事実を紹介している点で共通するが、それ自体は事実にすぎず、単なる事実の共通性を超えた創作的な表現としての類似点は見いだせない。よって、被控訴人<28>が控訴人<28>の翻案であるとはいえない。 (10) 対比箇所<29>について ア 控訴人<29>は、「元来儒教は、肉体労働やビジネスとは無縁の、旧中国の支配階級である文人官僚の倫理であり、そこから日本的経営の特徴である平等性や仕事への主体的取り組みや、ボトム・アップの意思決定方式が生まれてくるなどということはとうてい考えられない。」(227頁)というものであり、被控訴人<29>は、「儒教までが日本企業の集団活力の源とされる。これはおかしいし、こじつけである。おかしいという点は、同じ儒教が中国停滞の原因ともされることである。こじつけと思われる理由は、儒教は世俗宗教で、少数の高級官僚や国家役人のための昔の倫理規定であり、企業家精神や金銭的冒険とは関係がないことである。」(107頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比した場合、日本的経営の特徴を儒教によって説明しようとする考えを否定する点で共通するが、具体的な表現としては、控訴人<29>が「文人官僚」、「平等性や仕事への主体的取り組みや、ボトム・アップの意思決定方式」といった用語を用いているのに対し、被控訴人<29>は「世俗宗教」、「高級官僚や国家役人」、「企業家精神や金銭的冒険」とするなど、両者は用語の選択において大きく異なっている上、被控訴人<29>において、「おかしいし、こじつけである」との結論を述べた上で、「おかしい」理由と「こじつけである」理由を順次展開するという修辞を用いている特徴的な表現等において全く類似性を見いだせない。よって、被控訴人<29>を控訴人<29>の翻案ということはできない。 (11) 対比箇所<32>について ア 控訴人<32>は、「韓国人は、日本人以上に同質性が高い。韓国は歴史時代に入ってから一貫して中央集権的に統治され、日本のように、分権的な封建的政治組織を持ったことがなかったから、地方性が著しく乏しい。例えば、鹿児島県方言や東北方言は、関東の人間はほとんど理解できないが、韓国の場合には、済州島のような一部地域を除けば、そのようなことはない。ところが、日本と同様の単一民族国である韓国の企業経営は、所有者家族による経営支配が一般的である点、血縁原理が強く浸透している点を除けば、むしろアメリカ的経営に近い。もし単一民族であることが、日本の企業を特徴づける共同体的性格や、平等性、ボトム・アップあるいは『おみこし経営』、企業内での濃密な人間関係の形成、チームワークによる仕事の遂行、これらのものを説明するとするならば、日本以上の単一民族国である韓国においては、当然これらの要素が、少なくとも日本と同じ程度にあらわれていなければおかしいことになる。しかし実際は必ずしもそうではない。(注、以下データの引用等を略)」(216頁〜219頁)というものであり、被控訴人<32>は、「文化と経済体制の点で韓国の例が興味深い。韓国は一言語、一民族、中央集権の長い歴史など日本に似ている面が多い。地理的に狭いし、地方色があまりなく、朝鮮戦争で破壊された。日本とこれだけ似ていても、人間的企業は韓国からは発生しなかった。資本家所有、家族支配が普通で、企業間労働は激しく、年功制もない。韓国人は企業を、準家族的、共同体とは見ない。移動、選択、事業設立を好み、必ずしも企業内でない、個人的な人間関係を好む。」(102頁)というものである。 イ これらの記述をそれ自体として対比するに、両者はともに、日本と韓国は単一民族国で同質性が高いのに、韓国では日本的な企業体制は生まれなかったとの趣旨をいう点で共通する。しかし、その具体的な表現は、控訴人<32>がデータを用いた実証的な説明に重点が置かれているのに対し、被控訴人<32>は抽象的で簡潔な記述にとどまるものであって、創作的な表現において類似性を見いだすことはできない。よって、被控訴人<32>を控訴人<32>の翻案ということはできない。 3−2 以上11箇所以外の対比箇所について、被控訴人書籍の各記述部分が控訴人書籍の各記述部分の翻案と認められないことは、上記2−3で認定判断したほか、原判決の該当箇所の認定判断、すなわち、対比箇所@〜B(35頁8行目〜39頁末行)、同Cの後半部分、D、E(41頁末行〜46頁2行目)、同G、H(47頁3行目〜49頁1行目)、同K、L(51頁4行目〜55頁末行)、同N(58頁2行目〜59頁4行目)、同P〜<25>(61頁5行目〜75頁10行目)、同<30>、<31>(81頁9行目〜84頁末行)、同<33>〜<46>(88頁2行目〜106頁1行目)記載のとおり(ただし、原判決37頁4行目、38頁7行目、39頁10行目、48頁2行目、48頁末行、52頁6行目、68頁6行目、84頁10行目、88頁9行目及び91頁5行目の「表現」をいずれも「表現形式上の本質的な特徴」に、95頁5行目〜6行目の「共通する」を「共通にする」に改める。)であるから、これを引用する。 4 以上のとおり、被控訴人書籍は、書籍全体としても、個別の対比箇所をそれ自体として取り上げて検討しても、被控訴人書籍が控訴人書籍の学術に属する著作物としての表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるということはできない。 なお、控訴人は、控訴人書籍と被控訴人書籍とで多数の例示等が共通するのは偶然の一致ではあり得ず、模倣であるとしか考えられない旨主張する。しかし、被控訴人書籍の記述内容と控訴人書籍の記述内容との共通点に係る事実ないし着想が、控訴人書籍の記述に負っている部分があるとしても、単なる事実や表現を伴わない着想それ自体は著作権法が保護する対象ではない上、当該記述内容は、学術論文としての創作性を基礎づけるに足りないものであるか、両書籍における論理上の位置づけを全く異にするものであって、被控訴人書籍から控訴人書籍の著作物としての表現形式上の本質的な特徴を直接感得することができるものでないことは前示のとおりである。 そうすると、依拠性の要件について判断するまでもなく、被控訴人書籍が控訴人書籍の翻案であって被控訴人らが控訴人の著作権(翻案権)を侵害するとする控訴人の主張は採用することができないというべきである。また、被控訴人書籍が控訴人書籍とは全体として別個の独立した著作物である以上、著作者人格権(氏名表示権)の侵害をいう控訴人の主張も採用の限りではない。 5 結論 以上のとおり、控訴人の被控訴人らに対する請求はいずれも理由がないから、これを棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がない。 よって、本件控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法67条1項本文、61条を適用して、主文のとおり判決する。 東京高等裁判所第13民事部 裁判長裁判官 篠原勝美 裁判官 長沢幸男 裁判官 宮坂昌利 |
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