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【事件名】史跡ガイドブック著作権侵害事件 【年月日】平成13年1月23日 東京地裁 平成11年(ワ)第13552号 著作権に基づく損害賠償等請求事件 (口頭弁論終結の日 平成12年11月9日) 判決 原告 篠原由美 右原告訴訟代理人弁護士 篠崎芳明 同 杉山一郎 同 小川秀次 同 金森浩児 同 小川幸三 同 小見山大 同 寺嶌毅一郎 被告 株式会社のんぶる舎 右代表者代表取締役 中村吉且 被告 中村吉且 右被告ら訴訟代理人弁護士 北村行夫 同 大井法子 同 市毛由美子 同 前田裕司 同 鈴木隆文 同 渡邉良平 同 杉浦尚子 同 大江修子 同 古本晴英 主文 一 被告らは、別紙書籍目録記載の書籍につき、印刷、製本、販売及び頒布をしてはならない。 二 被告らは、同目録記載の書籍、書籍の半製品及び同書籍の印刷の用に供した原版フィルムを廃棄し、同書籍の原稿の電磁的記録が入力されているMOディスクその他の記録媒体から右記録を消去せよ。 三 被告らは、同目録記載の書籍を、訴外株式会社地方・小出版流通センターから回収して廃棄せよ。 四 被告らは、原告に対し、連帯して一八四万六一〇〇円及びこれに対する平成一一年六月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 五 被告らは、原告に対し、連帯して五〇万円及びこれに対する平成一〇年一〇月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 六 原告のその余の請求をいずれも棄却する。 七 訴訟費用はこれを四分し、その一を原告の、その余を被告らの連帯負担とする。 八 この判決のうち第四項及び第五項は、仮に執行することができる。 事実及び理由 第一 原告の請求 一 主文第一項ないし第三項同旨 二 被告らは、原告に対し、連帯して四七五万三五五〇円及びこれに対する平成一一年六月二六日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 三 被告らは、原告に対し、連帯して一〇〇万円及びこれに対する平成一〇年一〇月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 四 被告らは、その費用をもって、原告のために、株式会社朝日新聞社(東京本社)発行の、朝日新聞の全国版朝刊社会面に、別紙掲載条件で別紙記載の謝罪広告を一回掲載せよ。 五 訴訟費用は、被告らの負担とする。 第二 事案の概要 本件は、原告が、被告らに対して、原告の著作物である書籍及び原稿について、被告らが無断でその一部を複製し、被告らが発行(被告中村吉且が発行人、被告株式会社のんぶる舎が発行所として発行)する後記書籍中に使用したと主張して、著作権(複製権)及び著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害を理由とする損害賠償等を求めている事案である。 一 前提となる事実関係(末尾に証拠を掲げた事実のほかは、争いがない。) 1 原告は、歴史研究サークル歳月堂を主宰する歴史研究者であるところ、平成七年一二月、新選組に関する史実や歴史人物に関する記述に自己の感想を付して、多摩地方の史跡・資料館等(以下、これらを「史跡」と総称する。)巡りという点を通して従前のガイドブックには紹介されていなかった史跡も含めて紹介した書籍である「ふぃーるどわーく多摩」(以下「原告著作物一」という。)を著作し、出版した(甲一、一七、弁論の全趣旨)。 2 被告株式会社のんぶる舎(以下「被告会社」という。)は、図書の出版、編集、制作受託及び販売を業とする株式会社であり、書籍「土方歳三の歩いた道―多摩に生まれ多摩に帰る」(のんぶる舎編集部編。以下「被告書籍」という。)の発行所である。被告中村吉且(以下「被告中村」という。)は、右当時被告会社の代表取締役を務めていた者であり、被告書籍の発行人である。 3 平成一〇年四月二〇日、原告と被告らは面談し、被告書籍の作成に当たり原告著作物一を少なくとも参照すること、原告が甲州の史跡に関する原稿を執筆して被告書籍に掲載することなどを合意した。 4 被告らは、原告著作物一を少なくとも参照し、かつ、甲州の史跡に関して原告の執筆した原稿(以下「原告著作物二」という。)を、被告書籍の一部に使用して被告書籍を作成・編集し、平成一〇年一〇月一〇日、出版した。 5 原告著作物一には、別紙対照表右欄(同表五三頁以降では、五六ないし五九頁、六六及び六七頁においては見開きの右頁、最終頁においては右欄であり、その余の頁においては上段。以下単に「対照表右欄」という。)の記載があり、被告書籍には同表左欄(同様に、同表五三頁以降では、同表五六ないし五九頁、六六及び六七頁においては見開きの左頁、最終頁においては左欄であり、その余の頁においては下段。以下単に「対照表左欄」という。)の記載がある。 6 被告書籍の定価は一冊一五〇〇円である。 二 本件における争点 1 被告らによる原告著作物の著作権(複製権)侵害の有無 2 被告らによる著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害の有無 3 原告の差止請求の可否及びその具体的内容 4 原告の損害賠償請求の可否及び損害額 5 原告の謝罪広告請求の可否 三 争点に関する当事者の主張 1 著作権(複製権)侵害の有無(争点1)について (一) 原告の主張 (1) 原告著作物一について 被告書籍のうち対照表左欄記載の各記述部分は、原告著作物一の同表右欄の記述部分と全く同一又はほとんど同一の内容、表現であり、原告著作物一の右記述部分の複製である。 このことは、原告が取材した後被告書籍が出版されるまでの間に状況が変化した史跡があるにもかかわらず、被告書籍はこの変化に全く触れておらず、結果として変化後の写真を掲載しながら文章は変化前のままという矛盾を呈していることからも、明らかである。例えば、被告書籍四四頁の「宝泉寺」の説明文中には、「墓石自体は痛み(原文のまま)がひどく、碑面が大層読みづらくなっている」と記載されている。右碑面は、原告の取材時には傷みがひどかったものの、その後被告書籍出版前に補修がされて、碑面は読みやすくなっている(被告書籍四七頁の写真)。被告らが自ら調査していれば、このような矛盾はありえないはずであり、この点からも被告らが本件著作物一を複製したことが明らかである。 (2) 原告による複製許諾があったとの被告らの主張について 原告は、被告らに対して、原告著作物一の複製を許諾したことはない。原告が被告らに許諾したのは、被告書籍を作成するに当たって、原告著作物一を参考にすることだけである。被告らは、本件紛争が原告と被告らの印税率(後記(3)ア(エ))に関する認識の違いによって生じたと主張するが、原告は、著作物の使用を認めたことはないのであるから、著作物使用料である印税を主張したことはない。原告著作物一を参考に供する協力と原告著作物二執筆の対価を定めるに当たり、印税方式を採用しただけである。 (3) 原告著作物二について ア 原告と被告らの合意 原告と被告らは、被告書籍の作成について、平成一〇年四月二〇日、次の旨を合意した。 (ア) 被告らは、原告著作物一を参考にして被告書籍を作成・編集するに当たり、原告の著作権を侵害しない。原告は、被告書籍を校正する権利を有する。 (イ) 被告らは、原告著作物一を頒布している場所(土方歳三資料館及び高幡まんじゅう松盛堂)では、被告書籍を販売しない。 (ウ) 被告らが右(ア)及び(イ)を履行することを前提に、原告は、甲州の史跡についての解説文を執筆し、被告書籍に掲載する。 (エ) 右(ウ)の対価として、被告らは、原告に対し被告書籍の定価の七パーセントを印税方式で支払う。 イ 原告の履行 原告は、右(ウ)を履行し、甲州の史跡についての解説文(原告著作物二)を執筆して、同年六月二三日に被告らに送付し、被告らはこれを受領した。ところが、被告らは、その後も原告との合意を履行せず、被告書籍の定価の七パーセントの印税方式による対価を支払わず、販売場所についての規制も遵守していない。 ウ 原告による契約解除 そこで原告は、平成一一年二月二四日、被告らの右行為による信頼関係の破壊を理由に右合意を解除し、右解除通知は同月二五日に被告らに到達した。右解除により、原告著作物二の使用についての原告の許諾の効力は失われたにもかかわらず、被告らは被告書籍において、原告著作物二を使用しており、原告著作物二についての原告の著作権(複製権)を侵害している。 (二) 被告らの主張 (1) 原告著作物一の著作物性について 原告著作物一が全体として著作物性を有するものであることは認める。 しかし、そのことは、原告著作物一のうちの個々の部分がすべて著作物性を有することを直ちに意味するものではない。本件のように、記述の内容が史実や史跡への順路のように客観的事実を簡略化した説明である場合には、単なる事実情報として創作物とはいえない記述が含まれている。 原告の主張は、このような検討抜きに、原告著作物一の記述すべてに著作物性があるとして、被告による部分利用がすべて著作権侵害であると主張するものであるが、失当である。 一例を挙げれば、原告が複製権侵害として主張する「JR中央線・総武線で東京から、特別快速二四分、快速二八分、各駅停車三七分。‥‥」等の記述(原告著作物一の一〇頁)や、近藤勇の法名の記述(同一一頁)が、「思想・創作」を「創作的に表現」したものでないことは明らかである。要するに、本件における著作権侵害の有無は、各構成部分について具体的に著作物性の有無を検討し、著作物性ありと判断される場合に初めて、原告著作物一における記述と被告書籍における記述との間の同一性ないし類似性を検討しなければならない。このことは、言語、地図、イラスト等のすべてについて当てはまることである。 ア 文章部分について 原告が複製権侵害を主張する対照表記載の被告書籍の文章を、仮に原告による許諾が認められない場合に、複製権侵害が認められるもの、複製権侵害に疑問があるもの、複製権侵害が認められないものに分けると、その結果は次のとおりである。 ○印は、複製権侵害が認められる箇所、△印は、複製権侵害に疑問がある箇所である。また、左に記載のない対照表上の被告書籍の文章は、原告著作物一中の該当部分の文章に創作性すなわち著作物性がないため、それと同一又は類似の被告書籍の文章の利用が複製権侵害とはいえないか、あるいは原告著作物一の文章に創作性があっても同一又は類似といえないため複製権侵害とならない箇所である。 @ 対照表一頁「八○頁 三鷹駅」一行目 △ 三鷹駅は、多摩の入口のひとつだ。 A 対照表二頁「七四頁 龍源寺」二行目 △ 本堂裏の墓所には線香・花が絶えない。 B 対照表九頁「一一○頁 関田家」二行目及び三行目 ○ 長男は家を継げと断わられ、悔し涙にくれたという。 C 対照表一二頁「九八頁 大国魂神社」四行目 △ 額は本田覚庵の筆により、周囲を竜の彫刻で飾った見事なものであった。 D 同九行目及び一〇行目 ○ 近藤勇はもちろん、出場者として名を連ねている土方歳三やその義兄佐藤彦五郎、沖田総司、井上源三郎、山南敬助なども加わっていたのは間違いないだろう。 E 同一〇行目ないし一二行目 ○ 療養のため顔を出せなかった謹厳実直な小島鹿之助が後でこの話を聞いて驚き、佐藤彦五郎に手紙を書いて、あなたがついていながら大事な襲名披露になんという不謹慎なまねをしたのかと行間で嘆いている。 F 対照表一四頁「一○二頁 松本捨助」二行目及び三行目 ○ このとき長男は家を継げとでも言われたのか、やがて捨助は、あろうことか土方の甥を養子にして家督相続に備え、自分は甲陽鎮撫隊に入隊。 G 対照表一五頁「一○一頁 松本家墓地」三行目 △ 小さめで古びた墓だが、まだかろうじて碑面が読める。 H 対照表一六頁「一○六頁 本田家」一行目ないし三行目 ○ 通りの角に当たる重厚な門構えは、幕末から変わらぬ様子。しかし、若き日の近藤や土方は、おそらく街道沿いの反対隅にある勝手口から出入りしたのではないだろうか。 I 対照表一八頁「三九頁 高幡不動駅」一行目及び二行目 ○ 「新選組のふるさと」日野きっての名刹高幡不動尊、土方歳三の生まれ育った石田への玄関口である。 J 対照表一九頁「三八頁 高幡不動」六行目及び七行目 ○ そのまま池田屋へ斬り込みそうな出で立ちの土方歳三が門前の道路からも望める。 K 対照表二一頁「二四頁 石田寺」七行目及び八行目 △ 土方歳三資料館開館日や土方歳三の命日には、歳三の墓前は色とりどりの花でいっぱいになる。 L 対照表二二頁「二八頁 とうかん森」二行目及び三行目 ○ 窮屈そうにそびえる数本の巨木は充分に時代を感じさせる。 M 対照表二四頁「四四頁 宝泉寺」四行目 △ 暑い時期には、脇に繁る百日紅の花が碑を飾る。 N 対照表二五頁「四七頁 井上泰助」二行目及び三行目 ○ 四か月後の鳥羽・伏見の戦の際、淀千両松で、戦死した叔父井上源三郎の首級と刀を持って退却しようとしたが、かなわず涙をのんだ。 O 同四行目及び五行目 △ 土方歳三と共に箱館まで渡ったとの記録もあるが、年少のこともあり、別記録の通り江戸へ帰還した折りに故郷へ帰ったようだ。 P 対照表二九頁「五二頁 佐藤家屋敷」一行目ないし三行目 ○ 若い頃の土方歳三は姉ノブとその夫彦五郎に会うために、しばしば佐藤家を訪れ、ときに入り浸っていたという。 Q 対照表三〇頁「五六頁 日野の渡し」五行目ないし七行目 △ 立川側の石碑は川原の堤防からは非常に見つけにくく、また日野側の木標はカヤの繁る時期には埋まってしまって判らない。 R 対照表三三頁「六五頁 多賀神社」一行目及び二行目 ○ 勝沼で敗れた甲陽鎮撫隊幹部が、三々五々逃れて落ち合った場所がこの神社である。合格祈願の絵馬が奉納されているので天神社かとも思うのだが、祭神は伊佐那岐神・伊佐那美神。 S 対照表三五頁「六八頁 観栖寺」三行目及び四行目 △ ご子孫筋はすでにこの地を離れ、静岡県浜松市に移っているが、中島登のご子孫が定期的に供養をしているようだ。 <21> 対照表三八頁「六九頁 高尾駅」一行目 ○ ここまで来ると、山々が間近かに迫ってくる。 <22> 対照表四〇頁「一三九頁 横倉甚五郎」一行目及び二行目 ○ 伏見墨染で近藤勇が狙撃された時は、近藤を護って剣を振るった。 <23> 対照表四一頁「一四○頁 保井寺」一行目及び二行目 ○ 野猿街道から住宅地へ入っていくと、小さな丘陵を背負った可愛らしい寺にたどり着く。 <24> 同三行目 △ 墓石は古いが、墓所は整地済できれいだ。 <25> 対照表四三頁「一四二頁 大塚観音」三行目 ○ 苔のつき方が激しいが、表面には一諾斎の事蹟が刻まれている。 <26> 同四行目及び五行目 ○ 日野の斉藤家とも交流があったという一諾斎の人徳と交流範囲の広さを思わせる。 <27> 対照表四八頁「一二四頁 旧富澤家住宅」二行目及び三行目 ○ 内部も見学でき出稽古に回る際に立ちよった試衛館の面々が、この茶の間の囲炉裏で談笑したかもしれないなどと考えながら巡るのも楽しい。 <28> 対照表五〇頁「一二九頁 小島鹿之助為政」二行目及び三行目 △ 真面目で几帳面な性格だったらしく、彼が書いて現在に残る「小島日記」は、その記述の緻密さと正確さで、幕末史の貴重な資料となっている。 <29> 対照表五一頁「一三○頁 橋本家跡」六行目及び七行目 ○ 今も昔の風情が残る小野路の道を、潰物樽を背負って歩く土方歳三を想像すると、自然と口元がゆるんでくる。 イ 地図及びイラストについて 地図及び見取図(以下まとめて「地図」という。)は、都市の存在、その名称、交通施設の状態等、自然科学的、準自然科学的な認識を対象とするものであるから、当該地図に著作物性ありというためには、それらの自然科学的、準自然科学的情報のうち「何れを捨てて何れを如何に表示するか」について、独自の考慮に基づく場合でなければならない(大阪地裁昭和二六年一○月一八日判決・下民集二巻一〇号一二〇八頁。学習用日本地図事件)。すなわち、その表現形式において創作性が必要となる。さらに本件のように、イラスト化された地図の場合には、右の項目等の取捨選択のみならずそのデザイン上の創作性が問題となる。 墓地の配置図などは、地図ではなくイラストであるが、現地探訪者の手掛かりという意味で、限りなく客観的、説明的に表現しようとしており、この点で美術一般とは異なった制約のもとに創作されている。したがって、この場合の創作性があるか否かは、かかる制約のもとでの創作性の有無の判断となる。 右を前提とすると、被告書籍における地図及び美術の著作物は、いずれも原告著作物一と同一の場所を対象としているが、その表現形式において独自の考慮に基づいて表現されているから、被告書籍における地図及び美術の著作物は、原告著作物一の地図及び美術の著作物とは全く別の著作物であって、複製とはいえない。 (2) 原告による原告著作物一の複製許諾 原告著作物一の記述を被告書籍に使用することについては、事前に原告による許諾があった。 原告は、許諾の事実を否定して、原告は被告らに対して、原告著作物一を参考にすること、すなわち基礎資料としての利用を認めたにすぎず、記述を抜き書きすることを認めたものではないから、複製許諾に当たらないと主張する。 しかし本件においては、原告と被告らの間において、当初から印税の支払について話合いがされていた。原告のいう参考の意味であれば、公刊されている原告著作物一を適法に入手している被告らが、対価を支払う必要もなく、原告が対価を請求し得るいかなる権利もなかったのである。 原告は、被告書籍の定価の七パーセントの印税の支払約束を主張するが、七パーセントの印税が支払われることを前提に原告著作物一の利用を許諾したのであれば、それは、原告著作物一の一部を複製して利用することの許諾を意味すると解するのが合理的である。本件では、被告が原告に対し、新たに甲州の史跡についての解説文(原告著作物二)の執筆を依頼していたので、その部分に関する印税が話題に上ることは当然としても、七パーセントという印税は、被告書籍に占める右解説文の割合に照らせば、解説文に対する対価としては不相当に高額となってしまう。右に照らせば、原告と被告らの意思としては、印税の対象には、右解説文の執筆のみでなく、原告著作物一を複製して利用することの対価が含まれていたと考えるのが自然である。 2 著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)侵害の有無(争点2)について (一) 原告の主張 原告は、原告著作物一、二(以下、これらを併せて「原告各著作物」という。)の著作者であるから、著作者人格権である氏名表示権及び同一性保持権を有する。ところが被告らは、前記の行為により、原告各著作物と同一性のある被告書籍をあたかも被告らの著作に係るかのように表示して原告の氏名表示権を侵害するとともに、原告著作物一を改変して同一性保持権を侵害した。 (二) 被告らの主張 原告の右主張は、争う。 3 原告の差止請求の可否及びその具体的内容(争点3)について (一) 原告の主張 被告書籍は、原告著作物一から七一か所もの多数の無断複製をしている。また、原告著作物二は、被告書籍のうち甲州の史跡に言及する部分の全部にわたり、この部分が除去されると甲州の史跡に関する部分は被告書籍に記載不可能である。したがって、原告著作物一から無断複製した部分及び原告著作物二からなる甲州の史的解説文は、被告書籍の内容と不可分の状態となっている。このような場合には、被告書籍全体の発行差止が認められるべきである。 (二) 被告らの主張 原告の右主張は、争う。 4 原告の損害賠償請求の可否及び損害額(争点4)について (一) 原告の主張 (1) 著作権侵害に基づく損害賠償請求について ア 被告らの故意について 被告中村は、被告書籍作成にあたって、原告著作物一をすべて書き直すと約束した事実を認めた上で、「全部洗い直してみたが、これ(原告著作物一の記載を指す)以上のものはつくれないと判断して同じものを作った。」と模倣したことを認めており、本件行為が被告中村及び被告中村が代表者を務める被告会社の故意によるものであることは明らかである。 イ 損害額について (主位的主張)―被告らの利益 被告らは、被告書籍を四〇五一冊販売したと推定されるが、被告書籍の定価は一冊一五〇〇円であるから、右販売数量と単価を乗じた金額に利益率七割を乗じた四二五万三五五〇円が、被告らの侵害行為による原告の損害となる。 (予備的主張) 本件のように、被告書籍が原告著作物一をほぼそのまま複製しているような場合には、著作権法一一四条二項の「通常受けるべき金銭の額」は、定価の一〇パーセント以上となる。そうすると、被告らが被告書籍を印刷した部数は五〇〇〇部であり、単価は前記のとおりであるから、右印刷部数と単価を乗じた金額の一〇パーセントである七五万円が少なくとも原告の損害となる。 (2) 著作者人格権侵害に基づく損害賠償請求について 被告らは、前記2(一)のように、被告書籍の発行の日である平成一〇年一〇月一〇日から、原告の著作者人格権を侵害している。さらに、被告らは、原告の著作権侵害であるとの抗議にも応じず、本件訴訟提起に先立つ仮処分の審尋の席上でも虚偽の事実を述べるなど、態度が悪質である。原告が、被告らの本件著作権及び著作者人格権侵害行為並びにその後の不誠実な対応から受けた精神的損害に対する慰謝料相当額は、一〇〇万円を下らない。 (3) 弁護士費用 原告は、本件訴訟追行のため、弁護士に委任する必要があった。その金額は本件訴訟の経過や難易を考慮すると、五〇万円を下らない。 (二) 被告らの主張 (1) 著作権(複製権)侵害による財産上の損害について ア 売上 被告会社が書店等に対して被告書籍を卸す場合の掛率は、平均するとほぼ七割であり、定価は一五〇〇円であるので、一冊あたりの卸売価格は一〇五〇円となる。本件では販売された冊数は三五一二冊なので、被告会社の粗利益は三六八万七六〇〇円となる。 イ 経費 被告会社が印刷製本代として支払った金額は二八五万三九〇〇円である。ほかに、被告書籍に特別寄稿した小島資料館長小島政孝氏に一〇万円、カメラマンに対して三〇万円、原告に対し印税三パーセント二二万五〇〇〇円(原告に対しては未払)の支出となっているので、これらを差し引くと二〇万八七〇〇円となる。さらに右のほか、広告宣伝費、営業経費(ガソリン代、送料等)、制作費(パソコン、コピー機等の減価償却分)、人件費(従業員月給の三分の一か月分)、事務所賃料等の一般管理費がかかっている。 以上からすると、本件の場合、被告の純利益が二〇万円以下であることは明らかである。 (2) 慰謝料及び弁護士費用について 慰謝料及び弁護士費用についての原告の右主張は、争う。 5 謝罪広告請求(争点5)について (一) 原告の主張 原告は、現在まで「甲州出陣・剣から銃ヘ」(「土方歳三・孤立無援の戦士」〔新人物往来社編集・発行〕収録)や、「松平定敬・関係史跡事典」(「松平定敬のすべて」〔新人物往来社編集・発行〕収録。郡義武との共著)を通して、新選組研究者として社会的に一定の評価を得ている。また、原告は、歳月堂の代表者として「ふぃーるどわーく下総・宇都宮」、「ふぃーるどわーく京都 東」、「ふぃーるどわーく札幌・小樽」、「ふぃーるどわーく仙台・宮古」、「新選組ブックデータ誠の栞」、「新選組瑣末記」及び「川汲二股行軍録」を自費出版している。原告著作物一に記載されている旧佐藤家や土方歳三が昼寝をした部屋などは既存のガイドブックには掲載されておらず、原告の紹介により初めて広く世上に流布したのである。このように、原告は新選組研究者として一定の社会的声望・名誉を有している。 しかし、被告らによる被告書籍の発行により、原告の成果である「土方歳三が昼寝をした部屋」の再発見などが、あたかも被告らの手によるよるかのように社会に流布されてしまい(被告書籍の帯にある「本邦初公開!旧佐藤家、歳三が昼寝をした部屋など写真多数掲載」との文言)、土方歳三の研究者としての原告の社会的声望・名誉が毀損されたことは明らかである。 被告書籍は、朝日新聞全国版の記事で紹介されたので、同新聞購読者に著作権及び著作者人格権侵害行為の事実を周知徹底させる必要がある。よって、謝罪広告が認められるべきである。 (二) 被告らの主張 謝罪広告請求についての原告の主張は、争う。 第三 当裁判所の判断 一 著作権の存否等について 原告著作物一及び二を原告が著作し、その著作権を有すること、及び、被告中村が被告会社の代表者であること、被告中村が中心となって被告書籍を作成・編集し、被告会社がこれを発行したこと、被告書籍の作成に当たり、被告らが原告著作物一を少なくとも参照したことは、前記「前提となる事実関係等」欄記載のとおりである。 二 被告らによる著作権(複製権)侵害の有無(争点1)について 原告は、被告書籍のうち対照表左欄記載の各記述部分は、原告著作物一の同表右欄記載の記述部分の複製に当たると主張するので、この点につき検討する。 1 原告著作物一の著作物性について (一) 著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」をいい(著作権法二条一項一号)、その中には「小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物」(同法一〇条一項一号)が含まれる。右にいう「創作的に表現したもの」とは、必ずしも表現の内容自体について独創性や新規性があるものばかりではなく、思想又は感情についての具体的表現形式に作成者の個性が表れているものであれば、これに当たるものというべきである。したがって、客観的な事実を素材とする表現であっても、取り上げる素材の選択や、具体的な用語の選択、言い回しその他の文章表現に創作性が認められ、作成者の評価、批判等の思想、感情が表現されていれば著作物に該当するということができる。 (二) 原告著作物一の内容等について 甲一、一七に前記前提となる事実(前記第二、一)を総合すれば、次の事実が認められる。 原告は、歴史研究サークルである歳月堂を主宰している。原告は、これまで新選組に関する研究を個人的に続けてきたが、全国各地に残る新選組に関する史跡を訪ね、これに関する史実や自己の感想を案内文として叙述して、右史跡を訪ねるための詳細なガイドブックとして、「ふぃーるどわーく下総・宇都宮」、「ふぃーるどわーく京都 東」等、数冊を出版している。 原告が著作し、出版した原告著作物一も、これら一連の書籍と同様に、新選組副隊長であった土方歳三の出身地である多摩地方の新選組に関する史跡を、従前のガイドブックには紹介されていなかった史跡も含めて紹介し、これに関する史実や自己の感想を叙述したものである。同書は、多摩地方に残る新選組に関する史跡を訪ねるための、現地の情報に関する詳細で便利なガイドブックという性質を有している。そのため、その叙述内容は、史跡やそれに関する史実、歴史上の人物の紹介、鉄道の駅の案内やバスの時刻表等の交通機関の情報等を記述内容とし、これに現地の地図、墓所の様子(墓石の並び方)などのイラストを多数付加したものとなっている。 (三) 原告著作物一の対照表右欄記載の各記述部分の著作物性について ところで、被告らは、原告著作物一が全体として著作物性を有することは認めるものの、原告著作物一の対照表右欄記載の各記述部分の著作物性を争うので、以下、これらの著作物性につき検討する。 (1) 原告著作物一は、このように、新選組に関する、一般に知られている史跡ばかりでなく、あまり知られていない史跡や従前のガイドブックでは紹介されていなかった史跡も含めて紹介し、それらの史跡を訪ねるためにはどのような交通手段を利用するのが便利かという情報を提供するガイドブックである。同書には、右史跡の選択、交通機関やその出発地点等の選択、またある史跡を紹介するに当たり、それに関わるどのような史実又は歴史人物を紹介するかという選択の点のほか、全体的な表現形式の統一性等にも工夫が見られ、創作性が認められる。 (2) 文章部分について 原告著作物一について、一例を挙げれば、対照表九頁記載の「一八頁 関田家」をみると、一般には知られていないこの史跡を、紹介する対象として選択したこと、この項目の記載内容として何を紹介するかという点、そのなかで、当時の地名、当時の当主の長男庄太郎が宮川信吉と共に新選組入隊を希望したこと、しかし長男は家を継げと断られ、悔し涙にくれたとの言い伝え、右宮川と新選組隊長近藤勇の関係、関田家の家業、出稽古に来る近藤のためにわざわざ離れの小屋敷を構えたこと、甲陽鎮撫隊を組織した前後には病身の沖田総司を匿い、同隊の後方野戦病院の役割をも引き受けていたこと及びその記述、右庄太郎の死亡日時、年齢等を選択したことの点に創作性が認められる。したがって、この項目の記述については、全体に著作物性が認められるというべきである。 もっとも、対照表一頁「一〇頁 三鷹駅」の後半部分にある「JR中央線・総武線で東京から、特別快速二四分、‥‥(中略)‥‥地下鉄東西線(総武線に乗入れ)で一一分。」という記述のように、誰が記載しても異なった記述になり得ないものは、これを選択したことについても、表現形式においても創作性があるものとはいえず、著作物性を認めることができない。 このようにみると、対照表右欄記載の各記述部分の文章部分で著作物性が認められない(ただし、後記の同一性の有無の検討との関係で、被告書籍に該当する記述部分がないものは除く。)のは、対照表一頁「一○頁 三鷹駅」の四行目「JR中央線」以下の部分、対照表一七頁「二五頁 国立駅」の全部、対照表一八頁「二六頁 高幡不動駅」の四行目「新宿より」以下の部分、対照表三八頁「四九頁 高尾駅」の二行目「東京より」以下の部分、対照表四七頁「五八頁 多摩センター駅」の四行目「新宿より」以下の部分、対照表五二頁「六二頁 鶴川駅」の二行目「新宿より」以下の部分となり、その余の部分には創作性が認められ、著作物性が認められる。 (3) 地図について 一般に、地図は、地形や土地の利用状況等を所定の記号等を用いて客観的に表現するものであって、個性的表現の余地が少なく、文学、音楽、造形美術上の著作に比して創作性を認め得る余地が少ないのが通例である。それでも、記載すべき情報の取捨選択及びその表示の方法に関しては、地図作成者の個性、学識、経験、現地調査の程度等が重要な役割を果たし得るものであるから、なおそこに創作性が表われ得るものということができる。そして、地図の著作物性は、右記載すべき情報の取捨選択及びその表示の方法を総合して、判断すべきものである。 そこで、原告著作物一に掲げられた地図について検討すると、例えば対照表五三頁記載の「竜源寺」の地図では、全体の構成は、現実の地形や建物の位置関係がそのようになっている以上、これ以外の形にはなり得ないと考えられるが、読者が最も関心があると思われる「近藤勇胸像」や「近藤勇と理心流の碑」等を、実物に近い形にしながら適宜省略し、デフォルメした形で記載した点には創作性が認められ、この点が同地図の本質的特徴をなしているから、著作物性を認めることができる。他方、たとえば同五六頁記載の「関田家及び大長寺周辺」の地図などは、既存の地図を基に、史跡やバス停留所の名前を記入したという以外には、さしたる変容を加えていないので、特段の創作性は認められない。 このようにみると、対照表右欄記載の地図部分で著作物性が認められないのは、対照表五六頁の「関田家及び大長寺周辺」の地図、対照表五八頁の「府中駅から大国魂神社周辺」の地図、対照表六二頁の「本田家周辺」の地図、対照表六六頁の「石田周辺」の地図、対照表六八頁の「日野周辺」の地図、対照表七五頁の「追分周辺」の地図、対照表七七頁の「中小田野周辺」の地図、対照表八四頁の「小野路」の地図であり、右以外の地図には著作物性が認められる。 2 被告書籍の内容等について 甲二の一、二によれば、被告書籍は、その帯に「(土方)歳三と新選組の足跡を訪ね、多摩の地を徹底ガイド!本邦初公開!旧佐藤家、歳三が昼寝をした部屋など写真多数掲載、最寄り駅からの詳細マップ付、歳三と多摩との関わりを判りやすく解説」と記載されているように、多摩出身の土方歳三などに関わる史跡(多摩のみならず甲州をも含む。)を、比較的大判の多数の写真によって紹介しており、ガイドブックとしての役割を有しながら、小島資料館長小島政孝氏らの特別寄稿を掲載して、新選組に関する史実につき詳しく紹介し、また写真で楽しませるという内容を有するものである。被告書籍は、原告著作物一と同様、ガイドブックとしての役割を有する部分もかなり多いため、史跡やそれに関する史実の紹介、交通機関の情報等の記述も多く、現地の地図、墓所における墓石の並び方などのイラストを多数付加している。 原告著作物一との類似を原告により指摘されている部分は、被告書籍のうち、特別寄稿の部分等を除いたほぼ全部にわたる(ただし、多摩地区について記述された部分に限る。)。右部分は、原告著作物一で紹介しているのと同一の史跡を、これにまつわる史実や歴史上の人物と共に、そこへたどり着くための交通機関その他の情報を記述したもので、ガイドブックとしての機能を有するものであり、執筆者の感想を交えつつも、右のような情報をありのままに記載した叙述や地図等が多い。このように、原告著作物一と被告書籍のうち原告指摘の部分は、同一の史跡及び同一の史実を対象として客観的に叙述したもので、事実を執筆者の感想を交えながら記述し、多数の地図やイラストを付加しているという表現態様も共通している。 3 原告著作物一と被告書籍の同一性について (一) 被告書籍のうち対照表左欄記載の各記述部分が、原告著作物一の同右欄記載の記述部分の複製に当たるというためには、被告らが原告著作物一に接し、これに依拠して同左欄記載の各記述部分を執筆したことのほかに、右各記述部分が原告著作物一の対応部分と著作物としての同一性、すなわち著作物の本質的特徴を感得しうる程度の同一性を有することを要するというべきである。本件において、被告らが原告著作物一を少なくとも参照したことは当事者間に争いがないので、依拠の点は認められるというべきである。 原告著作物一と被告書籍の右各記述部分が同一性を有するかどうかは、原告著作物一と被告書籍の著作物としての態様、叙述内容、叙述形式等を参酌のうえ、原告著作物一と被告書籍の各記述部分の表現形式を対比して、被告書籍における記述部分から、原告著作物一における記述部分の本質的特徴を感得しうるか否かによって決すべきである。 (二) 対照表右欄及び左欄記載の各記述部分(文章部分)の同一性について そこで、以下、このような観点から、原告著作物一中の対照表右欄の部分と、被告書籍中の同左欄記載の記述部分の同一性を検討すると、同表を一見して明らかなように、被告書籍の同左欄記載の記述部分は、原告著作物一の該当部分とほとんど同じである。 例えば、同表二頁の「竜源寺」の項を見ると、原告著作物一における記述は、 「曹洞宗大沢山竜源寺。新選組局長・近藤勇と、彼の従兄弟で隊士だった宮川信吉の墓がある。門前の駐車場には近藤勇の胸像と天然理心流の碑などが建ち、本堂裏の墓所には香花が絶えない。 近藤勇の墓所は、墓地に入ってすぐ右手。五基並んだ墓の、右からふたつ目が近藤勇の墓。手前寄り右側にある青い屋根付きの金属箱の中に、訪問ノートが納まっている。慶応四年四月二五日没。法名・貫天院殿純忠誠義大居士。 次の区画の角が宮川家の墓。宮川信吉の墓は、墓所の左手前側で横向きに建つ。近藤勇の墓には大勢の人が訪れるが、こちらに気付く人はとても少ない。ついでに手を合わせてやって下さい。法名・良忠院義栄道輝居士。」 というものであり、他方、被告書籍における記述は、 「曹洞宗大沢山龍源寺。新選組局長近藤勇と、彼の従兄弟で隊士だった宮川信吉の墓がある。門前の駐車場には近藤勇の胸像と天然理心流の碑などが建ち、本堂裏の墓所には線香・花が絶えない。 近藤勇の墓所は、墓地に入ってすぐ右手。五基並んだ墓の右からふたつ目が近藤勇の墓。手前寄り右側にある青い屋根の(原文のまま)付きの金属の箱の中に、訪問ノートが納まっている。一八六八(慶応四)年四月二十五日没。法名『貫天院殿純忠誠義大居士』。 次の区画の角が宮川家の墓。宮川信吉の墓は、墓所の左手前側で横向きに建つ。法名『良忠院義栄道輝居士』。」 というものであって、「竜源寺」を「龍源寺」と、「香花が絶えない」を「線香・花が絶えない」と、「金属箱」を「金属の箱」と、それぞれ言い換え、年号に西暦を付し、法名に「 」を付し、「近藤勇の墓には大勢の人が訪れるが、こちらに気付く人はとても少ない。ついでに手を合わせてやって下さい。」の部分がない点以外は一字一句同じである。 また、対照表五頁「撥雲館」のように、何らの言い換えもなく、ほとんど一字一句同じという箇所もある。同表に掲げられた箇所は、ほとんどが右のように、わずかな差異があるのみか、一字一句全く同じであり、その数も五〇か所(うち史跡は三三か所、歴史上の人物は一〇名、駅が七駅)にのぼっている。被告書籍で採りあげた多摩地区の史跡は三二か所であり、囲み記事で採りあげた歴史上の人物は一一名、駅は七駅(多磨霊園駅を除く)であるから、被告書籍のかなりの部分にわたり、右のように同一性が認められるということができる。 たしかに、右(一)に認定したように、原告著作物一と被告書籍は、いずれも新選組に関する多摩地方の史跡という同一の場所につき、同一の史実、歴史上の人物及びこれに到達するために用いる同一の交通機関を対象として、これを紹介し、客観的に記述し、地図等で説明するという内容・表現態様の論稿であるから、記述された内容が事実として同一であることは当然にあり得るものであるし、場合によっては記述された事実の内容が同一であるのみならず、具体的な表現も、部分的に同一ないし類似となることがあり得ると考えられる。しかしながら、右のようにほとんど一字一句同じというのであるから、単に対象とする史跡や史実等が同じということが、このような同一性を生じた原因と解するのは相当でなく、被告らが原告著作物一をそのまま模倣したことによるものと認めざるを得ない。 (三) 対照表右欄及び左欄記載の各記述部分(地図部分)の同一性類否について 右(二)に判示した文章部分同様、被告書籍に掲載されている地図から、原告著作物一に掲載されている地図の本質的特徴が感得し得れば、同一性が肯定できるものというべきである。原告著作物一に掲載されている地図のうち、前記1(三)(3)で創作性が認められるとした地図、殊に墓所の見取図等は、いずれも美術的要素が強いものであるので、これに見られる本質的特徴の部分が被告書籍の該当部分に見られるかを検討すべきである。 このような観点から被告書籍の地図を見ると、例えば、対照表五四頁記載の「近藤家墓所」については、原告著作物一においては、地図全体は上方から鳥瞰するような形で記載しているのに、墓石や石灯籠を実物に近い形にしながら適宜省略して記載し、また、墓石や石灯籠は横倒しにしたように、辞世の詩碑やノート入れは斜め上から見たように、それぞれ記載している点が特徴ということができる。これに対し、被告書籍においては、地図全体はやはり上方から鳥瞰するような形に記載しており、墓石や石灯籠、ノート入れの形は原告著作物一と同様に実物に近い形にしながら適宜省略して記載し(殊にノート入れの形は原告著作物一とほぼ同じである。)、墓石や石灯籠、辞世の詩碑やノート入れをすべて斜め上から見たように記載している点が異なっているだけで、通常北を地図の上方に配置するのにそうでなく左方に配置したことなど全く同じといえる。 同表に掲げられた箇所のうち原告著作物一において創作性が認められるものは、ほとんどが右のように、その本質的特徴が被告書籍においても感得しうるものであり、その数も二一か所にのぼっている。被告書籍に掲載された多摩地方の地図が四六個ほどであるから、被告書籍に掲載された多摩地方の地図のうち半数近くにおいて原告著作物一に掲載された地図と同一性が認められるということができる。 (四) 以上によれば、被告書籍中の対照表に掲記の部分は、前記1(三)(2)、(3)で創作性が認められないとした部分を除き、同表の原告著作物一の該当部分の本質的特徴を感得しうる程度に、これと同一性を有するものであるから、その複製ということができる。 4 原告の許諾の有無について 被告らは、被告らが原告著作物一を複製することを原告が許諾したと主張するので、この点につき検討する。 前記争いのない事実記載のとおり、原告が、被告が原告著作物一を少なくとも参考にすることを承諾したことは当事者間に争いがない。ところで、前記3(二)、(三)記載のとおり、被告書籍は、そのうちのかなりの部分にわたって、原告著作物一の複製の部分が占めており、しかもその複製の態様も一字一句同じというものである。著作者として書籍を出版したことのあるような者であれば、通常、自己の著作物を、このようにいわば「丸写し」にすることには容易に同意しないものと考えられる。殊に、証拠(甲四、六、七、一七)によれば、被告書籍の出版前に原告と被告らが交渉した際、原告が被告書籍による原告著作物一の著作権侵害に意を払っていた様子がうかがわれるものであり、これらの点に照らせば、被告が原告著作物一を複製することを原告が許諾したという点は、証拠上認めるに足りないというべきである。したがって、原告の許諾をいう被告らの主張は、採用できない。 また、被告らが、原告著作物一をいわば「丸写し」にすることについて、原告が許諾したと誤信したとしても、右認定のように、原告が容易に同意しないものと考えられ、かつ原告の姿勢がそのことをうかがわせるものであったのに被告書籍を発行したのであるから、被告らには、原告著作物一の著作権を侵害することにつき、少なくとも過失があったというべきである。 三 被告らによる著作者人格権侵害の有無(争点2)について 前記二認定のとおり、被告らは、原告著作物一を、無断で複製して被告書籍を発行し、被告らの著作物のように表示したものであるから、原告の氏名表示権を侵害したものであるうえ、原告著作物一を被告書籍に取り込んで、改変を加えて発行したものであるから、原告の同一性保持権をも侵害したものであるということができる。 被告らが原告の著作者人格権を侵害するに当たっても、少なくとも過失があったと認められることについては、著作権侵害について二4で判示したところと同様である。 四 原告の差止請求の可否及びその具体的内容(争点3)について 1 右に認定したように、被告書籍は、原告著作物一を複製したものと認められ、これに対する原告の許諾は認められないから、原告の右複製部分に対する差止請求は理由がある。そして、前記認定のように、被告書籍は、ほぼその全体にわたり、原告著作物一を複製したもので、しかも複製部分は被告書籍のかなりの部分を占めるから、右複製部分を削除した上で被告書籍を発行することは不可能ということができる。したがって、原告は、被告書籍の全体の印刷、製本、販売及び頒布の差止めを求めることができるというべきである。 なお、この点に関し、原告は、被告書籍の全体の印刷、製本、販売及び頒布の差止めを求める理由として、原告著作物二の利用契約の解除をも主張しているが、この点を判断するまでもなく、右に判示したように、被告書籍の全体の印刷、製本、販売及び頒布の差止めを求めることができるというべきであるから、右解除の成否については判断しない。 2 著作権法一一二条二項は、「侵害の行為を組成した物、侵害の行為によって作成された物又はもっぱら侵害の行為に供された機械若しくは器具の廃棄その他の侵害の停止又は予防に必要な措置を請求することができる。」と規定しているところ、被告書籍の印刷、製本、販売及び頒布の禁止並びに被告書籍の廃棄はもちろん、訴外株式会社地方・小出版流通センター(甲一六によれば、同社は被告会社の委託により被告書籍を卸売、小売していることが認められる。)から回収して廃棄すること、被告書籍の半製品及びその印刷の用に供した原版フィルムの廃棄、その原稿の電磁的記録が入力されているMOディスクその他の記録媒体から右記録を消去することは、いずれも、同項所定の侵害の停止又は予防に必要な措置と解されるから、これらを求める原告の請求は、いずれも理由がある。 五 原告の損害賠償請求の可否及び損害額(争点4)について 1 前記二及び三に判示のとおり、被告らには、著作権(複製権)及び著作者人格権の侵害につき、少なくとも過失が認められるから、原告は、被告らに対し、これらの侵害行為によって被った損害の賠償を請求し得る。 2 著作権(複製権)侵害に基づく損害について 被告書籍の定価が一部一五〇〇円であることは当事者間に争いがない。 証拠(甲一一、乙四)によれば、被告書籍の印刷部数は五〇〇〇部であるところ、原告の申立てに係る仮処分の執行により、右のうち九四九冊が回収されていることが認められる。これに、多少の返品在庫があること(その数量を認めるに足りる証拠は存しない。)を考慮すると、その販売数量は約四〇〇〇冊と認めるのが相当である。また、弁論の全趣旨によれば、被告書籍を書店等に卸す場合の金額は定価の七割の一〇五〇円と認めるのが相当である。さらに、乙四によれば、被告らは、被告書籍の印刷製本代として二八五万三九〇〇円を支出したことを認めることができるので、右卸価格に販売数量を乗じた四二〇万円から右支出を控除した残額は一三四万六一〇〇円となり、これが被告らの被告書籍発行によって得た利益と認められる。被告らは、右以外に、特別寄稿者への原稿料、カメラマンへの支払分その他の経費を主張するが、これらを認めるべき証拠はない。 前記二認定のように、被告書籍は、ほぼその全体にわたり、原告著作物一を複製したもので、しかも複製部分は被告書籍のかなりの部分を占めるから、著作権法一一四条一項により、右金額全額をもって、原告の損害と認める。 3 著作者人格権侵害に基づく損害について 前記前提となる事実関係及び一ないし三に認定したところ並びに甲二によれば、被告らは、原告著作物一をほぼ丸写しに近い形で使用しながら、原告(歳月堂)の名前は協力者として掲載するにとどめ、原告著作物一は参考文献として掲載するにとどめたことが認められ、原告は、被告らの右行為により、原告著作物一を一部改変された上で、その意に反する形でこれを使用されたものと認められる。なお、右2に認定のとおり、被告書籍は、既に店頭に並んでいたものを除き、原告の仮処分の執行により回収されている。 以上の点に加えて、本件全証拠により認められるその余の諸般の事情を併せて総合考慮すれば、被告らの行為により原告が被った精神的損害を慰謝するに足りる額としては、五〇万円をもって相当と認める。また、これについては、不法行為時である被告書籍発行の時から遅滞に陥るものと解される。 3 弁護士費用 本件における原告の請求の内容、本件事案の性質、本件訴訟の審理経過その他の事情を総合考慮すれば、被告らの不法行為と相当因果関係あるものとして被告らに負担させるべき弁護士費用としては、五〇万円をもって相当と認める。 六 謝罪広告請求の可否(争点5)について 前記認定の被告らによる不法行為の態様、原告の被った精神的損害の内容その他、本件における一切の事情を総合考慮すると、本件においては、前記の損害賠償に加えて被告らに謝罪広告を命ずるまでの必要性は存しないものと認められる。 七 以上によれば、原告の請求は、被告書籍の販売等の差止め及び侵害の予防に必要な前記四の措置並びに二三四万六一〇〇円及びこれに対する遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。 よって、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第四六部 裁判長裁判官 三村量一 裁判官 村越啓悦 裁判官 中吉徹郎 書籍目録 書籍名 土方歳三の歩いた道―多摩に生まれ多摩に帰る 編者 のんぶる舎編集部 発行人 中村吉且 発行所 株式会社のんぶる舎 謝罪広告目録 省略 対照表 右が原告著作物一、左が被告書籍 一〇頁 三鷹駅 JR中央線・総武線、営団地下鉄東西線が発着する三鷹駅は、多摩の入口のひとつだ。近藤勇の墓がある竜源寺、同じく生家跡、更に土方歳三の末兄が養子に行った粕谷家へ向かうバスが南口から出る。商店やスーパーなども南口が充実しているが、花は北口の線路沿いにある店が良い物を安く出す。花を抱えて、竜源寺へ向かおう。JR中央線・総武線で東京から、特別快速二四分、快速二八分、各駅停車三七分。新宿から特別快速一一分、快速一五分、各駅停車一八分。中野から特別快速七分、快速・各駅停車一一分、地下鉄東西線(総武線に乗入れ)で一一分。 八〇頁 三鷹駅 JR中央線・総武線、営団地下鉄東西線が発着する三鷹駅は、多摩の入口のひとつだ。近藤勇の墓がある龍源寺、同じく生家跡、さらに土方歳三の末兄が養子に行った粕谷家へ向かうバスが南口から出る。JR中央線・総武線で東京から、特別快速二四分、快速二八分、各駅停車三七分。新宿から特別快速一一分、快速一五分、各駅停車一八分。中野から特別快速七分快速・各駅停車一一分、地下鉄東西線(総武線に乗入れ)で一一分。 一一頁 竜源寺 曹洞宗大沢山竜源寺。新選組局長・近藤勇と、彼の従兄弟で隊士だった宮川信吉の墓がある。門前の駐車場には近藤勇の胸像と天然理心流の碑などが建ち、本堂裏の墓所には香花が絶えない。 近藤勇の墓所は、墓地に入ってすぐ右手。五基並んだ墓の、右からふたつ目が近藤勇の墓。手前寄り右側にある青い屋根付きの金属箱の中に、訪問ノートが納まっている。慶応四年四月二五日没。法名・貫天院殿純忠誠義大居士。 次の区画の角が宮川家の墓。宮川信吉の墓は、墓所の左手前側で横向きに建つ。近藤勇の墓には大勢の人が訪れるが、こちらに気付く人はとても少ない。ついでに手を合わせてやって下さい。法名・良忠院義栄道輝居士。 七四頁 龍源寺 曹洞宗大沢山龍源寺。新選組局長近藤勇と、彼の従兄弟で隊士だった宮川信吉の墓がある。門前の駐車場には近藤勇の胸像と天然理心流の碑などが建ち、本堂裏の墓所には線香・花が絶えない。 近藤勇の墓所は、墓地に入ってすぐ右手。五基並んだ墓の右からふたつ目が近藤勇の墓。手前寄り右側にある青い屋根の付きの金属の箱の中に、訪問ノートが納まっている。一八六八(慶応四)年四月二十五日没。法名「貫天院殿純忠誠義大居士」。 次の区画の角が宮川家の墓。宮川信吉の墓は、墓所の左手前側で横向きに建つ。法名「良忠院義栄道輝居士」。 一一頁 宮川信吉 慶応元年四月新選組に入隊。同三年一一月の油小路の変に参加。同年一二月七日、斉藤一らと共に天満屋で紀州藩三浦休太郎を護衛中、土佐海援隊の襲撃を受け負傷して翌八日に死亡。享年二五歳。 七七頁 宮川信吉 一八六五(慶応一)年四月に新選組に入隊。同三年十一月の油小路の変に参加した。同年十二月七日、斉藤一らと共に天満屋で紀州藩三浦休太郎を護衛中、土佐海援隊の襲撃を受け負傷し、翌八日に亡くなった。享年二十五歳。 一二頁 近藤勇生家跡 竜源寺から約二分西へ歩くと、近藤勇が生まれた家の跡がある。昭和一八年、調布飛行場の滑走路の延長線にあるからと強制的に取り壊しを命じられた宮川家の跡には、説明板と産湯の井戸、近藤勇を祀った小さな祠が残るのみだ。 七八頁 近藤勇生家跡 龍源寺から野川公園入口バス停へ向かって西へ行くと、近藤勇が生まれた家の跡がある。 一九四三(昭和一八)年、調布飛行場の滑走路の延長線にある家屋は強制的に取り壊し命令を受けたため、この地にあった宮川家もこのとき取り壊され、今はもう無い。今は跡地に説明板と産湯の井戸、近藤勇を祀った小さな祠があるのみだ。 一三頁 撥雲館 近藤勇生家跡の向かいにある復元された天然理心流道場。門前に説明板が立っている。比較的最近まで使用されていた。 七九頁 撥雲館 近藤勇生家跡の向かい側にある、復元された天然理心流道場である。門前に説明板が立っている。比較的最近まで使用されていた。 一五頁 調布市郷土博物館 調布駅から京王相模線でひと駅の、京王多摩川駅で下車。住宅と田んぼの間をくねくね歩いた場所にある。小さな資料館だが、新しくてきれい。調布の歴史が解りやすく説明された展示物の中、何よりの目玉は、“宮川家復元模型”。近藤勇が生まれ育った家を、忠実に、精密に再現した模型が一階展示場の真ん中にどーんと置いてある。写真撮影をしたい人は、必ず事務所の職員さんから許可を受けること。 一一八頁 調布市郷土博物館 調布駅から京王相模線でひと駅の京王多摩川駅で下車。この博物館の中に「宮川家復元模型」がある。近藤勇が生まれ育った家を、忠実・精密に再現した模型が、一階展示場の真ん中に展示されている。写真撮影は必ず博物館の職員に許可を受けるのを忘れずに。 一六頁 粕谷家 土方歳三の末兄大作(のちに良循)が養子に入った医家のご子孫が住まう。旧甲州街道に面した部分は、現在ガソリンスタンドを営業。スタンドの裏に、往時を偲ばせるお住まいがある。近藤勇の墓所、竜源寺から車返団地行きのバスでも出られるが、本数が少ないので注意。 一一六頁 粕谷家 土方歳三の末兄大作(のちに良循)が養子に入った医家のご子孫が住まう。旧甲州街道に面した部分は、現在ガソリンスタンドを経営。スタンドの裏に、往時を偲ばせるお住まいがある。近藤勇の墓所、龍源寺から車返団地行きのバスでも出られるが、本数が少ないので注意。 一六頁 武蔵野台駅 京王線の駅。調布から五分、府中から六分、聖蹟桜ヶ丘から一三分、高幡不動から一九分。各駅停車しか停まらない。粕谷家へ向かうには、改札を出て北側へ抜ける。 一一七頁 武蔵野台駅 京王線の駅。調布駅から五分。府中駅から六分。聖蹟桜ヶ丘駅から一三分。高幡不動駅から一九分。各駅停車しか停車しない。粕谷家へ向かうには、改札を出て北側へ抜ける。 一八頁 関田家 現在の若松町は、当時常久村と呼ばれていた。この地の名族関田氏の当主勘左衛門の長男庄太郎は、近藤勇の従兄弟で親友の宮川信吉と共に、新選組入隊を希望する。しかし長男は家を継げと断わられ、悔し涙にくれたという。 家業は代々製油業だが、よろず屋的な面があり、石田散薬も扱っていた。出稽古に来る近藤勇の為にわざわざ離れの小屋敷を構え、上洛後甲陽鎮撫隊を組織した前後には、病身の沖田総司を匿い、甲陽鎮撫隊の後方野戦病院の役割も引き受けていた。関田庄太郎は明治二七年一二月三日没。享年四九歳。 一一〇頁 関田家 現在の若松町は、当時常久村といった。この地の名族関田氏の当主勘左衛門の長男庄太郎は、近藤勇の従兄弟で親友の宮川信吉と共に、新選組入隊を希望するが、長男は家を継げと断わられ、悔し涙にくれたという。 家業は代々製油業だが、他にも土方歳三が行商していた土方家の石田散薬なども扱っていた。出稽古に来る近藤勇の為にわざわざ離れの小屋敷を構え、後に近藤らが甲陽鎮撫隊を組織した前後には、病身の沖田総司を匿い、甲陽鎮撫隊の後方野戦病院の役割も果たした。関田庄太郎は一八九四(明治二十七)年十二月三日没。享年四十九歳。 一八頁 大長寺 日蓮宗本妙山大長寺。桑名藩士で箱館新選組の差図下役・成合清の墓がある。成合は五稜郭降伏後、陸軍に入って西南戦争に従軍。東京へ戻った明治一〇年に病没した。享年三〇歳。法名義忠院常久日顕居士。 大長寺は当時麻布にあったが、昭和三九年に当地へ移った。成合の墓もこの時移され、現在は先祖の法名を刻んだ墓に合祀されている。墓碑面は、正徳四甲午天十一月三十日 皈元掃月院冬嶺雲退居士。 一一二頁 大長寺 日蓮宗本妙山大長寺。桑名藩士で箱館新選組の差図下役・成合清の墓がある。成合は五稜郭降伏後、陸軍に入って西南戦争に従事。東京へ戻った一八七七(明治十)年に病没した。享年三十歳。法名「義忠院常久日顕居士」。 大長寺は当時麻布にあったが、一九六四(昭和三十九)年に当地へ移った。成合の墓もこの時移され、現在は先祖の法名を刻んだ墓に合祀されている。墓碑面は、「正徳四甲午天十一月三十日 皈元掃月院冬嶺雲退居士」。 一九頁 成合清常久 桑名藩士成合常在(または存)の三男で、はじめ清三郎と称した。文久二年九月に御馬廻役一一〇石の家督を継ぎ、のちに御小姓役となる。元治元年七月より京都勤番となり、慶応四年一月の鳥羽伏見戦に参加して江戸へ敗走。同年三月藩主松平定敬の供として越後へ。桑名兵軍の御軍事方を経て会津戦に及び軍監となる。仙台では藩主蝦夷渡航の供として、限られた三名の中に選ばれた。 蝦夷地で本土へ帰る藩主と別れ、箱館新選組に入隊。差図下役として活躍する。五稜郭陥落の際、弁天台場で降伏。津軽藩御預かりの謹慎期間には、中島登と共に応接方をつとめた。 明治三年に赦されて、二年後には陸軍に入隊。歩兵中尉として西南戦争に参戦する。戦後東京に戻ってすぐコレラに罹患し、明治一〇年一〇月二七日病死。享年三〇歳。 一一三頁 成合清常久 桑名藩士成合常在(または存)の三男で、はじめ清三郎と称した。一八六二(文久二)年九月に御馬廻役百十石の家督を継ぎ、のちに御小姓役となる。一八六四(元治一)年七月より京都勤番となり、一八六八(慶応四)年一月の鳥羽伏見戦に参加して江戸へ敗走。同年三月藩主松平定敬の供として越後へ。桑名兵軍の御軍事方を経て会津戦におよび軍監となる。仙台では藩主蝦夷渡航の供として、限られた三名のなかに選ばれた。 蝦夷地で本土へ帰る藩主と別れ、箱館新選組に入隊。差図下役として活躍する。五稜郭陥落後、弁天台場で降伏。津軽藩御預かりの謹慎期間には、中島登と共に応接方を勤めた。一八七〇(明治三)年に赦されて、二年後には陸軍に入隊。歩兵中尉として西南戦争に参戦する。戦後東京に戻ってすぐコレラにかかり、一八七七(明治十)年十月二十七日病死。享年三十歳。 二二頁 大国魂神社 明治四年に大国魂神社と名を変えたこの神社は、幕末までは武蔵総社六所宮と呼ばれていた。万延元年九月三〇日、天然理心流近藤周助・勇一門が奉納額を献じている。当日はこのための行事が催され、その後木刀と刃引きを用いた型試合が行われた。近藤勇や土方歳三が参加している。額は本田覚庵の筆により、周囲を竜の彫刻で飾った見事な物であった。しかし慶応四年三月、新政府軍が通過する際に額は降ろされ、竜の彫刻だけが残ったというが、現在の所在は不明である。 そしてここでは、文久元年八月二七日、近藤勇の天然理心流四代目宗家襲名披露の野試合が開かれた。野試合の終了後全員で府中宿に繰り出し、宿場を買い切って一晩大騒ぎをしたという話が残っている。近藤勇は勿論、出場者として名を連ねている土方歳三やその義兄佐藤彦五郎、沖田総司、井上源三郎、山南敬助なども加わっていたのは間違いないだろう。療養のため顔を出せなかった謹厳実直な小島鹿之助が後でこの話を聞いて驚き、佐藤彦五郎に手紙を書いて、あなたが付いていながら大事な襲名披露に何という不謹慎な真似をしたのか、と行間で嘆いている。佐藤彦五郎が止めなかったのは、実は彼が府中宿総揚げの張本人だからだったりして。 九八頁 大国魂神社 一八七一(明治四)年に大国魂神社と名を変えたこの神社は、幕末までは武蔵総社六所宮と呼ばれていた。一八六〇(万延一)年九月三十日、天然理心流近藤周助・勇一門が奉納額を献じている。当日はこのための行事が催され、その後木刀と刃引きを用いた型試合が行われた。近藤勇や土方歳三が参加している。額は本田覚庵の筆により、周囲を竜の彫刻で飾った見事なものであった。しかし一八六八(慶応四)年三月、新政府軍が通過する際に額は降ろされ、竜の彫刻だけが残ったというが、現在の所在は不明である。 そしてここでは、一八六一(文久一)年八月二十七日、近藤勇の天然理心流四代目宗家襲名披露の野試合が開かれた。野試合の終了後、全員で府中宿に繰り出し、色香にまみれ一晩大騒ぎをしたという話が残っている。近藤勇はもちろん、出場者として名を連ねている土方歳三やその義兄佐藤彦五郎、沖田総司、井上源三郎、山南敬助なども加わっていたのは間違いないだろう。療養のため顔を出せなかった謹厳実直な小島鹿之助が後でこの話を聞いて驚き、佐藤彦五郎に手紙を書いて、あなたがついていながら大事な襲名披露に何という不謹慎な真似をしたのかと行間で嘆いている。 二三頁 松本捨助 天然理心流を学ぶ捨助は新選組の京での活躍を聞き、一八歳の文久三年入隊を希望して上洛するが、土方歳三に追い返される。このとき長男は家を継げとでも言われたのか、やがて捨助はあろうことか土方の甥を養子にして家督相続に備え、自分は甲陽鎮撫隊に入隊。土方らと共に東北へと転戦する。松前から藩主夫人を江戸まで護送したとも伝えられるが、実際は仙台で戦線を離脱したらしい。後に東京へ戻り、大正七年、天寿を全うした。享年七四歳。 一〇二頁 松本捨助 天然理心流を学ぶ捨助は新選組の京での活躍を聞き、十八歳の一八六三(文久三)年入隊を希望して上洛するが、土方歳三に追い返される。このとき長男は家を継げとでも言われたのか、やがて捨助は、あろうことか土方の甥を養子にして家督相続に備え、自分は甲陽鎮撫隊に入隊。土方らと共に東北へと転戦する。松前から藩主婦人を江戸まで護送したとも伝えられるが、実際は仙台で戦線を離脱したらしい。後に東京へ戻り、一九一八(大正七)年、天寿を全うした。享年七十四歳。 二四頁 松本家墓地 松本捨助の墓は、生家の北、甲州街道を渡って少し歩いた共同墓地の中にある。松本家墓所の右側手前に、横を向いて建つのが松本捨助と妻モト(井上源三郎の姪)の墓。小さめで古びた墓だが、まだ辛うじて碑面が読める。大正七年四月六日没。法名・本阿院鐵心義光居士。 一〇一頁 松本家墓地 新選組隊士、松本捨助の墓は、本宿町二丁目のバス停を降り、国立方面へ少し歩いた甲州街道北側の共同墓地のなかにある。松本家墓所の右側手前に、横を向いて建つのが松本捨助と妻モト(井上源三郎の姪)の墓。小さめで古びた墓だが、まだかろうじて碑面が読める。一九一八(大正七)年四月六日没。法名「本阿院鐵心義光居士」。 二五頁 本田家 近藤勇、土方歳三が書道と漢学を習いに通った書家・本田覚庵のご子孫が住まう。通りの角に当たる重厚な門構えは、幕末から変わらぬ姿を保っている様子。しかし若き日の近藤や土方は、おそらく街道沿いの反対隅にある勝手口から出入りしたのではないだろうか。 一〇六頁 本田家 近藤勇、土方歳三が書道と漢学を習いに通った書家・本田覚庵のご子孫が現在住んでいる。通りの角に当たる重厚な門構えは、幕末から変わらぬ様子。しかし、若き日の近藤や土方は、おそらく街道沿いの反対隅にある勝手口から出入りしたのではないだろうか。 二五頁 国立駅 JR中央線の駅。谷保天神、本宿町へ行くバスが出る。東京駅から快速四三分、各駅停車五〇分。新宿駅から快速三〇分、各駅停車三一分。三鷹駅から快速・各駅停車一三分。立川駅から快速・各駅停車二分。特別快速は停まらない。 一〇八頁 国立駅 JR中央線の駅。谷保天神、本宿町へ行くバスが出る。東京駅から快速四十三分、各駅停車五十分。新宿駅から快速三十分、各駅停車三十一分。三鷹駅から快速・各駅停車十三分。立川駅から快速・各駅停車二分。特別快速は停車しないので注意。 二六頁 高幡不動駅 京王線の駅。「新選組のふるさと」日野市きっての名刹高幡不動尊、土方歳三の生まれ育った石田への玄関口である。以前は駅売店でも土方歳三グッズを販売していたが、今は見受けない。 仏花は、改札を出た右方向にある二軒の花屋、左手の京王ストア一階で購入できる。ただ、京王ストアの花には少々割高感あり。線香を忘れた人は、京王ストア三階のレジ脇で。新宿より特急二七分、急行三五分、快速三七分、各駅停車五一分。調布より特急一三分、急行一五分、快速一六分、各駅停車二四分。武蔵野台より各駅停車一九分。府中駅より特急八分、急行一〇分、快速一一分、各駅停車一三分。聖蹟桜ヶ丘駅より特急・急行・快速四分、各駅停車六分。 三九頁 高幡不動駅 京王線、将来開通される多摩都市モノレールの駅。「新選組のふるさと」日野市きっての名刹高幡不動尊、土方歳三の生まれ育った石田への玄関口である。京王線で新宿より特急二七分、急行三五分、快速三七分、各駅停車五一分。調布より特急一三分、急行一五分、快速一六分、各駅停車二四分。武蔵野台より各駅停車一九分。府中駅より特急八分、急行一〇分、快速一一分、各駅停車一三分。聖蹟桜ヶ丘駅より特急・急行・快速四分、各駅停車六分。 二八頁 高幡不動 真言宗高幡山金剛寺。この寺は土方歳三家の菩提寺であり、幕末には境内を使って天然理心流の出稽古も行われた。近年立派な法務所を構築したため物陰のトイレ前に移されてしまったが、近藤勇・土方歳三の顕彰碑「殉節両雄の碑」が立っている。そして一九九五年一一月三日、境内の開けた場所に土方歳三像が建立された。門前の道路からも、そのまま池田屋へ斬り込みそうな出で立ちの土方歳三が望める。本堂の裏手に建つ大日堂では、土方歳三の位牌も安置している。 三八頁 高幡不動 高幡不動で親しまれているこの寺の正式名は、真言宗高幡山金剛寺。この寺は土方歳三家の菩提寺であり、幕末には境内を使って天然理心流の出稽古も行われていた。この時、土方歳三は真っ赤な面紐をうしろへ長くたらして悠々と稽古をしていたという。 近年立派な法務所を構築したため大きな松の下に移されてしまったが、近藤勇・土方歳三の顕彰碑「殉節両雄の碑」が建っている。碑の篆額を書いたのは会津藩主であった松平容保である。そして一九九五(平成七)年十一月三日、境内のひらけた場所に土方歳三像が建立された。そのまま池田屋へ斬り込みそうな出で立ちの土方歳三が門前の道路からも望める。本堂の裏手に建つ大日堂では、土方歳三の位牌が安置されている。 二九頁 土方歳三生家/土方歳三資料館 石田は、土方歳三が生まれ育った土地である。バブル景気の前にはまだまだ田んぼの多いのどかな場所だったが、今はあちこちにミニマンションや駐車場が目立つ。土方歳三生家は正確には育った家だが、現在は次兄喜六のご子孫がお住まい。平成二年に区画整理の都合で昔ながらの家屋を建て直す際、門寄りの隅に一室を作り、土方歳三の遺品や関連の品を集めて資料館にした。月一回公開している。 二二頁 土方歳三生家/土方歳三資料館 石田は、土方歳三が生まれ育った土地である。住宅化が進んでいるが、果樹園や田んぼも残る、のどかな場所だ。土方歳三生家は正確には育った家だが、現在は次兄喜六のご子孫が住んでいる。一九九〇年に区画整理の都合で昔ながらの家屋を建て直す際に、門寄りの隅に一室を作り資料館にした。入口二本の柱とハリは、旧宅の大黒柱を使用している。 館内には、土方歳三の遺品や関連の品が展示されており、愛刀「和泉守兼定」や京都で着用していた鉢金などがある。また、庭には、将来武人として名を成すことを決意した歳三が自ら植えた矢竹が、今でも青々と葉を茂らせている。ここでは歳三のテレフォンカードや関連書籍などを販売している。展示は月一回公開だが、団体(十五名以上)で申し込めば開館日以外の見学も可能。 二九頁 石田寺 真言宗愛宕山地蔵院石田寺。土方歳三の墓がある事で有名。山門は閉じているので脇の駐車場から入ると、六地蔵の左手に樹齢四百年のカヤがそびえている。その下に、土方歳三の碑。そこが墓地の入口で、碑の前を通り過ぎ右手二区画目の角奥側に土方家の墓所がある。周囲の他の墓も殆ど土方姓だが、案内や説明の札があるので探すのは簡単だ。墓所の奥で正面を向いている三基の右側、小さい方が歳三の墓。いくつも積まれたプラスティック箱には墓参ノートがぎっしりつまり、土方歳三資料館開館日にはとりどりの花で埋まる。近藤勇の墓前ノートには男性の記載が多いが、こちらは女性が圧倒的だ。明治二年五月十一日没。法名歳進院殿誠山義豊大居士。 二四頁 石田寺 正式名、真言宗愛宕山地蔵院石田寺。土方歳三の墓がある事で有名な寺である。 山門は閉じているので脇の駐車場から入ると、六地蔵の左手に樹齢五百年(推定)のカヤがそびえ立ち、その下に土方歳三の碑がある。そこが墓地の入口で、碑の前を通りすぎた右手、二区画目の角奥側に土方家の墓所がある。周囲にある他の墓もほとんど土方姓だが、案内や説明書きの札があるので、探すのは簡単だ。墓所の奥で正面を向いている三基の右側、小さい方が歳三の墓だ。墓所にはいくつも積まれたプラスチックの箱があり、墓参者が土方歳三を偲んで書き記した墓参ノートが、ぎっしりと詰まっている。また、土方歳三資料館開館日や土方歳三の命日には、歳三の墓前は色とりどりの花でいっぱいになる。 近藤勇の墓前ノートには男性の記入が多いが、土方歳三のノートは、圧倒的に女性の記入が多い。土方歳三は一八六九(明治二)年五月十一日没。法名「歳進院殿誠山義豊大居士」。 三〇頁 とうかん森 江戸時代初期にこの土地へ定住した土方一族の氏神・稲荷社がある。現在では切り開かれて森と呼ぶのも哀れなほど小規模だが、窮屈そうにそびえる数本の巨木は充分に時代を感じさせる。この小さな区画の何十倍にも広がって繁る森の中、歳坊は友達とかくれんぼなどしたのだろうか。 二八頁 とうかん森 このとうかん森と呼ばれる一角に、江戸時代初期、この土地へ定住した土方一族の氏神「稲荷社」がある。現在、この辺りは切り開かれて、「森」とはいえない様子となったが、窮屈そうにそびえる数本の巨木は充分に時代を感じさせる。土方歳三が生きた時代、この稲荷社のまわりには、広大な水田が広がっていただろう。 三一頁 元屋敷跡 とうかん森から北へ回り込んで、多摩川の堤防へ出る。南側に建つ下水処理場の北縁あたりに、土方歳三の本来の生家があった。「小島日記」によれば弘化三年、土方家口伝によれば歳三五〜六歳のとき、大雨で溢れた多摩川の水が屋敷に浸入し土蔵のひとつを部分的に壊したという。そのため一家は避難し、現在の場所に屋敷を構え直した。周辺に以前を思わせるものは何も残ってはいない。 二九頁 元屋敷跡 とうかん森から北へ回り込んで、多摩川の堤防へ出る。南側に建つ下水処理場の北縁あたりに、土方歳三の本来の生家があった。 屋敷を移転したのは「小島日記」によれば一八四六(弘化三)年、また、土方家口伝によると歳三が五〜六歳のときに、大雨で氾濫した多摩川の水が屋敷に侵入し、土蔵のひとつを部分的に壊したという。そのため、一家は避難し、現在の場所へ屋敷を構え直した。 周辺には、当時の面影を残すものは何も残っていない。 三六頁 宝泉寺 臨済宗如意山宝泉寺。ホームから見えるほど駅に近いこの寺には、井上源三郎の顕彰碑と墓がある。山門をくぐって突き当たりを右に行くと、正面に本堂。その前で左に折れて墓地へ向かう入口に、顕彰碑は建っている。暑い時期には、脇に繁る百日紅の花が碑を飾る。ここから墓地に入って真っ直ぐ進むと、生け垣に囲まれた一画の入口に「井上家墓所」の立て札。区画内中寄り奥の方に井上源三郎の墓があり、立て札が添えられている。墓石自体は痛みが酷く、碑面が大層読みとりづらい。慶応四年一月四日没。法名誠願元忠居士。 同じ墓所の正面左手にある墓には、源三郎の甥で新選組隊士の井上泰助が眠っている。昭和二年二月一〇日没。法名泰岳宗保居士。 四四頁 宝泉寺 臨済宗如意山宝泉寺。日野駅のホームからも見えるこの寺には、新選組六番隊組長(副長助勤)、井上源三郎の顕彰碑と墓がある。山門とくぐって突き当たりを右に行くと、正面に本堂がある。その前で左に折れて墓地へ向かう入口に、顕彰碑は建っている。 暑い時期には、脇に繁る百日紅の花が碑を飾る。ここから墓地に入ってまっすぐ進むと、生け垣に囲まれた一画の入口に「井上家墓所」の立て札がある。区画内の中寄り奥に井上源三郎の墓があり、立て札が添えられている。墓石自体は痛みがひどく、碑面が大層読みづらくなっている。一八六八(慶応四)年一月四日、鳥羽・伏見の戦により没。法名「誠願元忠居士」。 同じ墓所の正面左手にある墓には、源三郎の甥で新選組隊士の井上泰助が眠っている。一九二七(昭和二)年二月十日没。法名「泰岳宗保居士」。 三七頁 井上泰助 新選組六番隊長井上源三郎の甥。慶応三年一〇月、一一歳で新選組に入隊し、局長付き小姓となる。四か月後の鳥羽伏見戦の際、淀千両松で、戦死した叔父井上源三郎の首級と刀を持って退却しようとしたが、叶わず涙を呑んだ。 土方歳三に付いて箱館まで渡ったとの記録もあるが、年少の事もあり、別記録の通り江戸へ帰還した折りに故郷へ帰ったようだ。その後を日野で暮らし、生涯を閉じる。享年七二歳。 四七頁 井上泰助 新選組六番隊長井上源三郎の甥。一八六七(慶応三)年十月、十一歳で新選組に入隊し、局長付き小姓となる。四カ月後の鳥羽・伏見の戦の際、淀千両松で、戦死した叔父井上源三郎の首級と刀を持って退却しようとしたが、かなわず涙をのんだ。 土方歳三と共に箱館まで渡ったとの記録もあるが、年少のこともあり、別記録の通り江戸へ帰還した折りに故郷へ帰ったようだ。その後を日野で暮らし、生涯を閉じる。享年七十二歳。 三七頁 八坂神社 宿場の氏神である。安政五年、天然理心流近藤周助門人達によって額が奉納された。現在は宮司宅に保存されているこの額には、近藤勇、沖田総司、井上源三郎、佐藤彦五郎などの名が見える。奉納額の拝観はできない。 四八頁 八坂神社 宿場の氏神である。一八五八(安政五)年、天然理心流近藤周助門人達によって、額が奉納された。現在は社務所に保管されているこの額には、近藤(嶋崎)勇、沖田総司、井上源三郎、佐藤彦五郎などの名が見える。奉納額の拝観は残念ながらできない。 三八頁 大昌寺 浄土宗三鷲山大昌寺。幕末の日野名主佐藤彦五郎と、その妻ノブの墓がある。ノブは土方歳三の実姉である。本堂脇の墓地入口で左に折れ、突き当たるひとつ前の角を右へ。右列の奥からふたつ目が佐藤家の墓所。正面の墓石の脇にまとめられた八基の古墓のうち、最前列右側が彦五郎夫婦の墓。彦五郎は明治三二年九月一七日没。法名俊正院春譽盛車居士。ノブは明治一〇年一月二〇日没。勧善院宣譽徳顯大姉。 四九頁 大昌寺 浄土宗三鷲山大昌寺。幕末の日野宿名主佐藤彦五郎と、その妻ノブの墓がある。ノブは土方歳三の実姉である。本堂脇の墓地入口で左に折れ、突き当たるひとつ前の角を右へ。右列の奥からふたつ目が佐藤家の墓所。正面の墓石の脇にまとめられた八基の古墓のうち、最前列右側が彦五郎夫婦の墓。彦五郎は一八九九(明治三二)年九月十七日没。法名「俊正院春譽盛車居士」。ノブは一八七七(明治十)年一月二十日没。法名「勤善院宣譽徳顯大姉」。 三九頁 佐藤彦五郎俊正 幕末の日野宿名主。土方歳三の従兄弟で、歳三の姉ノブの夫。わずか一一歳で名主職を継ぎ、その才覚を発揮した。彦五郎は天然理心流の門人でもある。三代目宗家近藤周助に教えを受け、屋敷の門前に道場を構えて日野における天然理心流の拠点とした。新選組が旗揚げしてからは有力な後援者となり、甲陽鎮撫隊が日野に到来したときは自ら農兵隊を組織する。春日隊と称して、甲州勝沼戦に参加。明治以降は数々の公職に就き、遺品を届けに訪れた歳三の小姓市村鉄之助を数年匿ったりもした。近藤勇、小島鹿之助と義兄弟の契りを結んでいたという逸話もある。三国志オタクだったのだろうか。享年七六歳。 五一頁 佐藤彦五郎俊正 幕末の日野宿名主。土方歳三の従兄弟で、歳三の実姉ノブの夫。わずか十一歳で名主職を継ぎ、その才覚を発揮した。彦五郎は天然理心流の門人でもある。三代目宗家近藤周助に教えを受け、屋敷の門前に道場を構えて日野における天然理心流の拠点とした。新選組が旗揚げしてからは有力な後継者となり、甲陽鎮撫隊が日野に到来したときは、自ら農兵隊を組織する。春日隊と称して、甲州勝沼戦に参加。明治以降は数々の公職にも就き、遺品を届けに訪れた歳三の小姓市村鉄之助を数年匿ったりもした。近藤勇、小島鹿之助と義兄弟の契りを結んでいたという逸話もある。享年七十六歳。 三九頁 佐藤家屋敷 日野宿名主、佐藤家の住まい。現在は改修されてそば店になっている。若い頃の土方歳三は姉ノブとその夫彦五郎に会うためしばしば佐藤家を訪れ、ときに入り浸っていたという。門からそば店入口へ歩く途中に、説明板がある。読みづらいが、役所の機能をした座敷、新選組隊士市村鉄之助が隠れ住んだ部屋、土方歳三が昼寝した部屋などが見える。現在駐車場として使われている場所に剣道場があり、近藤勇が訪れ、井上源三郎や沖田総司が通ったのだ。 五二頁 佐藤家屋敷 日野宿名主、佐藤家の住まい。現在は改修されて、「日野館」というそば店になっている。若い頃の土方歳三は姉ノブとその夫彦五郎に会うために、しばしば佐藤家を訪れ、ときに入り浸っていたという。 現在駐車場として使われている場所に天然理心流の剣道場があったが、あいにく、一九二六(大正十五)年に大火に見舞われた。かろうじて、長屋門の門扉だけが焼け残った。 佐藤家屋敷は、当時、土間に続く大広間が役所の機能を果たし、役人の詰所や、業務室として使われていた。また、新選組にいわれの深い部屋が今でも数多く残っている。土方歳三の小姓をしていた隊士市村鉄之助が歳三の命で歳三の遺品を持って、函館戦争を離脱した後に隠れ住んだ部屋、土方歳三が昼寝をした部屋、新選組「人斬り鍬次郎」といわれた、大石鍬次郎が一ツ橋家から浪人して大工をしている時に、天井を張った部屋などがある。 近藤勇が訪れ、井上源三郎や沖田総司が通った屋敷が当時の面影を残し、保存され続けている。 四一頁 日野の渡し 多摩川を越えて延びる甲州街道の渡し場が、現在の立日橋(たっぴばし)付近にあった。日野、八王子と江戸を往還する人が、必ず使った場所である。出稽古の防具を担いだ沖田総司が、薬箱を背負った土方歳三が、ここで小舟に揺られたのだ。北岸の立川市側は、日野橋との間にある下水処理場の南西角付近に石碑が立つ。南岸の日野市側は、立日橋の東のたもと、河川敷のカヤ野原に高さ一メートルほどの木標がある。立川側の石碑は川原の堤防からは非常に見つけにくく、日野側の木標はカヤの繁る時期には埋まってしまって判らない。 五六頁 日野の渡し 多摩川を越えて延びる甲州街道の渡し場が、現在の立日橋付近にあった。日野・八王子と江戸を往来する人が、必ず使った場所である。出稽古の防具を担いだ沖田総司や薬箱を背負った土方歳三も、この渡し場から小舟に揺られて多摩川を渡り、行き来していたに違いない。 北岸の立川市側は、立日橋と日野橋との間にある下水処理場の南西角付近に石碑が立つ。南岸の日野市側は、立日橋の東のたもと、河川敷のカヤ野原に高さ一メートルほどの木標がある。立川側の石碑は川原の堤防からは非常に見つけにくく、また日野側の木標はカヤの繁る時期には埋ってしまって判らない。 四四頁 桂福寺 曹洞宗沼龍山桂福寺。天然理心流開祖近藤内蔵之助と二代目近藤三助方昌の墓がある。戸吹交差点を少し西へ進むと参道があり、山門をくぐれば正面が本堂。向かって左の集会所との間を抜けた所が、墓地の入口だ。すぐ左の木造の屋根と囲いで守られた三基が目標の墓である。向かって右が開祖の墓、正面は比較的最近天然理心流門人達が建てたふたりの墓。左は二代目の墓だが、明治初期に新政府の追求を逃れるため砕いて埋め隠した物を、繋ぎ合わせて復元している。初代の墓は小さめなので、そのまま埋めたんだろうか。 本堂前の境内左端、集会所と稲荷堂の間あたりに、文政四年に天然理心流門人が建てた碑もある。初代内蔵之助は文化四年一〇月一六日没。法名智正院顕隆日理居士。二代目三助は文政二年四月二六日没。法名徳應院天外理然居士。 六二頁 桂福寺 曹洞宗沼龍山桂福寺。天然理心流の開祖近藤内蔵之助と二代目近藤三助方昌の墓がある。戸吹交差点を少し西へ進むと参道がある。山門をくぐると正面が本堂。向かって左の集会所との間を抜けたところが、墓地の入口だ。すぐ左の木造の屋根と囲いで守られた墓が三基ある。向かって右が開祖近藤内蔵之助の墓。左は二代目の近藤三助方昌の墓だが、明治初期に新政府の追跡を逃れるために、砕いて埋め隠した墓石を繋ぎ合わせて復元したという経緯がある。初代の墓を埋めたかどうかは記録が無いので定かではない。そして、中央の墓は比較的最近に天然理心流門人達が建てたふたりの墓である。 本堂前の境内左端、集会所と稲荷堂の間あたりに、一八二一(文政四)年に天然理心流門人が建てた碑もある。初代内蔵之助は一八〇七(文化四)年十月十六日没。法名「智正院顕隆日理居士」。二代目三助は一八二九(文政二)年四月二十六日没。法名「徳應院天外理然居士」。 四五頁 多賀神社 勝沼で敗れた甲陽鎮撫隊幹部が、三々五々逃れて落ち合った場所がここ。合格祈願の絵馬が奉納されているので天神社かとも思うのだが、祭神は伊佐那岐神・伊佐那美神。南向き、西向きの拝殿を持つ神社が多い中、東向きの拝殿を持つ神社も珍しい。 六五頁 多賀神社 勝沼で敗れた甲陽鎮撫隊幹部が、三々五々逃れて落ち合った場所がこの神社である。合格祈願の絵馬が奉納されているので天神社かととも思うのだが、祭神は伊佐那岐神・伊佐那美神。南向き、西向きの拝殿を持つ神社が多い中、東向きの拝殿を持つ神社も珍しい。八王子宿西半分の氏神様でもある。 四六頁 千人同心碑 徳川幕府が甲州方面の守りとして置いた八王子千人同心の記念碑。幕末には、将軍上洛の警護なども行った。井上源三郎の兄松五郎は千人同心のひとりであり、中島登の実家も千人同心の家系である。 六六頁 千人同心碑 徳川幕府が甲州方面の守りとして置いた八王子千人同心の記念碑。幕末には、将軍上洛の警護なども行った。井上源三郎の兄松五郎は千人同心のひとりであった。新選組隊士、中島登の実家も千人同心の家系である。 四七頁 観栖寺 曹洞宗補陀山観栖寺。童謡「夕焼けこやけ」の山のお寺候補のひとつ。寺域右手の墓地には、新選組隊士中島登の実家の墓がある。これは中島登の先代までの墓所で、本人の墓はない。ご子孫筋はすでにこの地を離れているが、静岡県浜松市に続く中島登のご子孫が、定期的に供養をしているようだ。墓所へは本堂脇の急坂を上がるので、足拵えはしっかりと。 六八頁 観栖寺 曹洞宗補陀山観栖寺。童謡「夕焼けこやけ」の山のお寺候補のひとつ。寺の右手の墓地には、新選組隊士中島登の実家の墓がある。これは中島登の先代までの墓所で、本人の墓は無い。 ご子孫筋はすでにこの地を離れ、静岡県浜松市に移っているが、中島登のご子孫が定期的に供養をしているようだ。墓所へは本堂脇の急な坂を登って行く。 四七頁 中島登 元治元年新選組入隊というが、客観的な記録は残っていない。甲州勝沼戦後、土方歳三等と共に戦いながら北上し、箱館へ至る。弁天台場で降伏して捕虜となり、翌年に釈放。その後静岡県浜松市に住居を構え、葉蘭栽培や銃砲店経営などに携わった。甲州から箱館降伏までの新選組について記録した「中島登覚書」、隊士の肖像を描いた「戦友絵姿」は、現在に残る貴重な資料だ。明治二〇年四月二日没。享年五〇歳。法名隆慶院孝庵義忠居士。 七一頁 中島登 一八六四(元治一)年に新選組入隊といわれているが、客観的な記録は残っていない。中島登は甲州勝沼戦後、土方歳三らと共に戦いながら北上し、箱館へ至った。弁天台場で降伏して捕虜となり、翌年に釈放。その後、静岡県浜松市に居を構え、洋蘭栽培や鉄砲店経営などに携わった。甲州から箱館降伏までの新選組について記録した「中島登覚書」、隊士の肖像を描いた「戦友絵姿」は、現在に残る貴重な資料だ。一八八七(明治二十)年四月二日没。享年五十歳。法名「隆慶院孝庵義忠居士」。 四九頁 中島登出生の地碑 中小田野バス停から観栖寺へ曲がる角の向かい側に、中島登の実家跡を示す石碑が立っている。陣馬街道に面した靴屋の店先で気付きにくいが、静岡県在住のご子孫(中島登と最初の奥さんの家系)と都区内在住のご子孫(二番目の奥さんとの家系)、そして生家にお宅を構え、観栖寺の墓所の面倒もみている地主の中村氏が協力して、一九九三年に建てた物。 七〇頁 中島登出生の地碑 中小田野バス停から観栖寺へ曲がる角の向かい側に、中島登の実家跡を示す石碑が立っている。陣馬街道に面した靴屋の店先で見つけにくいが、静岡県在住のご子孫(中島登と最初の妻とのご子孫)と都内在住のご子孫(二番目の妻とのご子孫)、そして生家に宅を構え、観栖寺の墓所の面倒も見ている地主の中村氏が協力して、一九九三年に建てたものだ。 四九頁 高尾駅 JR中央線の駅。南側には、京王線の高尾駅が隣接している。ここまで来ると、さすがに山が眼の前。観栖寺の入口へ向かうバスが出る。東京より特別快速五四分、快速六七分、各駅停車七五分。新宿より特別快速四〇分、快速五四分、各駅停車五六分。三鷹より特別快速二七分、快速・各駅停車三六分。立川より一七分。日野より一三分。八王子より六分。京王線では、新宿より特急四〇分、急行五〇分、快速五七分、各駅停車七〇分。調布より特急二六分、急行三〇分、快速三六分、各駅停車四二分。府中より特急二〇分、急行二三分、快速・各駅停車三〇分。高幡不動より特急一二分、急行一三分、快速・各駅停車二〇分。 六九頁 高尾駅 JR中央線と京王線が乗り入れる高尾駅。ここまで来ると、山々が間近かに迫ってくる。この駅からは、観栖寺へのバスが出る。 JR中央線で東京より特別快速五四分、快速六七分、各駅停車七五分。新宿より特別快速四〇分、快速五四分、各駅停車五六分。三鷹より特別快速二七分、快速・各駅停車三六分。立川より一七分、日野より一三分。八王子より六分。 京王線では、新宿より特急四〇分、急行五〇分、快速五七分、各駅停車七〇分。調布より特急二六分、急行三〇分、快速三六分、各駅停車四二分。府中より特急二〇分、急行二三分、快速・各駅停車三〇分。高幡不動より特急一二分、急行一三分、快速・各駅停車二〇分。 五〇頁 大法寺 日蓮宗寶祐山大法寺。新選組隊士横倉甚五郎の墓がある。寺の墓園・まや霊園はかなり広いが、目当ての墓は入口に近い。山門の左手先にある本堂の前を通り過ぎ、少し登って三区画目の左側、第一三区にある横倉家墓所の右手前で横を向いている石碑がそれだ。横倉甚五郎は江戸で亡くなり、これはご子孫筋が建立した供養墓である。明治三年八月一五日没。 一三六頁 大法寺 日蓮宗賓祐山大法寺。もともとは、八王子市内にあったが一九六七(昭和四十二)年、当地に移ってきた。ここには新選組隊士横倉甚五郎の墓がある。寺の墓園・まや霊園はかなり広いが、横倉甚五郎の墓は入口に近い。山門の左手の先にある本堂を通りすぎ、少し登って三区画目の左側、第十三区にある横倉家墓所の右手前で横を向いている石碑がそれだ。横倉甚五郎は江戸で亡くなり、これはご子孫が建立した供養墓である。一八七〇(明治三)年八月十五日没。 五一頁 横倉甚五郎 元治元年新選組に入隊。後に伍長。伊東甲子太郎暗殺に関わる。伏見墨染で近藤勇が狙撃された時は、近藤を護って剣を振るった。土方歳三等と共に各地を転戦し、箱館で降伏。江戸へ送られ、翌年獄中で死亡。享年三七歳。 一三九頁 横倉甚五郎 一八六四(元治一)年新選組に入隊。後に伍長。伊東甲子太郎暗殺に関わる。伏見墨染で近藤勇が狙撃された時は、近藤を護って剣を振るった。土方歳三らと共に各地を転戦し、箱館で降伏。江戸へ送られ、翌年獄中で死亡。享年三十七歳。 五二頁 保井寺 曹洞宗竜沢山保井寺。新選組隊士斉藤一諾斎の墓がある。野猿街道から住宅地へ入っていくと、小さな丘陵を背負った可愛らしい寺にたどり着く。墓地の入口を登ったらすぐ右へ。本堂の真裏あたりに、ぽつんと一基で立っている。墓石は古いが、墓所は整地済みできれい。明治七年一二月一八日没。法名一諾斎大道秀全居士。 一四〇頁 保井寺 曹洞宗龍沢山保井寺。新選組隊士斉藤一諾斎の墓がある。野猿街道から住宅地へ入っていくと、小さな丘陵を背負った可愛らしい寺にたどり着く。墓地の入口を登ったら、すぐ右へ。本堂の真裏あたりに、ぽつんと一基で斉藤一諾斎の墓が建っている。墓石は古いが、墓所は整地済できれいだ。一八七四(明治七)年十二月十八日没。法名「一諾斎大道秀全居士」。 五二頁 斉藤一諾斎 甲州強瀬村全福寺の住職をしていた五五歳の時、甲陽鎮撫隊に協力。その後還俗して新選組に加盟した。土方歳三等と北方を転戦し、仙台で離脱。釈放後は八王子で学校作りに尽力し、多くの生徒を教導した。明治七年一二月一八日没。享年六二歳。 一四一頁 斉藤一諾斎 甲州強瀬村全福寺の住職をしていた五十五歳の時、甲陽鎮撫隊に協力。その後還俗して新選組に加盟した。土方歳三らと北方を転戦し、仙台で離脱。釈放後は八王子で学校作りに尽力し、多くの生徒を指導した。一八七四(明治七)年十二月十八日没。享年六十二歳。 五四頁 大塚観音 曹洞宗塩釜山清鏡寺。別名「御手観音」と呼ばれる観音堂の境内右手に、保井寺で眠る斉藤一諾斎の顕彰碑が立つ。大きな桜の下にあるせいか苔の付き方が激しいが、表面には一諾斎の事蹟が刻まれている。裏に回ると、建立協力者の中に新選組幹部のご子孫筋の名がいくつも見えた。日野の佐藤家とも交流があったという一諾斎の、人徳と交際範囲の広さを思わせる。 一四二頁 大塚観音 曹洞宗塩釜山清鏡寺。別名「御手観音」と呼ばれる観音堂の境内右手に、保井寺で眠る斉藤一諾斎の顕彰碑が建つ。 苔のつき方が激しいが、表面には一諾斎の事蹟が刻まれている。裏に回ると、建立協力者の中に新選組幹部のご子孫の名がいくつも見える。日野の斉藤家とも交流があったという一諾斎の人徳と交流範囲の広さを思わせる。 五六頁 富沢家 江戸初期より代々連光寺村の名主をつとめた家。十四代政徳、十五代政恕は、日野宿ほか四四ヶ村の大惣代になっている。十五代政恕と近藤勇や土方歳三は交流があり、近藤勇の鉄扇や、土方歳三の和歌を貼り交ぜた屏風が残されている(非公開)。平成二年にそれまでの名主屋敷は多摩市へ寄贈され、現在は新築の瀟洒な屋敷に変わっているが、門前に残る明治天皇御小休所の碑が歴史を語っている。 一二〇頁 富澤家 江戸時代より代々連光寺村の名主をつとめた家。十四代政徳、十五代政恕は、日野宿ほか四十四カ村の大惣代になっている。十五代政恕と近藤勇や土方歳三は交流があり、近藤勇の鉄扇や、土方歳三の和歌を貼り交ぜた屏風が残されている(非公開)。一九九〇(平成二)年にそれまでの名主屋敷は多摩市に寄贈され、現在は新築の瀟酒な屋敷に変わっているが、門前に残る明治天皇御小休所の碑が歴史を語っている。 五六頁 富沢忠右衛門政恕 富沢家十五代当主。天然理心流の門人で、三代目宗家近藤周助に師事した。近藤勇、土方歳三等とも親交があり、文久四年に上洛した折りには、新選組の大歓待を受けた。近藤勇の結婚の世話役とも、近藤家への養子縁組の間を取り持ったとも言われている。水田開発など地元の発展に力を尽くし、明治二六年に隠居して余生を送った。享年八四歳。 一二〇頁 富澤忠右衛門政恕 富澤家十五代当主。天然理心流の門人で、三代目宗家近藤周助に師事した。近藤勇、土方歳三らとも親交があり、一八六四(文久四)年に上洛した折りには、新選組の大歓待を受けた。近藤勇の結婚の世話役とも近藤家への養子縁組の間を取り持ったともいわれる。 水田開発など地元の発展に力を尽くし、一八九三(明治二十六)年に隠居して余生を送った。享年八十四歳。 五七頁 高西寺 曹洞宗神明山高西寺。富沢家の菩提寺で、代々の墓がある。本堂左手の入口を入って真っ直ぐ突き当たり、左に折れてまた真っ直ぐ行った突き当たりが墓所。十五代政恕の墓は、墓所の正面に三基並んだ大きな墓の左側。明治四〇年没。法名馨徳院殿松翁政恕居士。 一二一頁 高西寺 曹洞宗神明山高西寺。富沢家の菩提寺で、代々の墓がある。本堂左手の入口を入ってまっすぐ進み、突き当たりを左に折れて、またまっすぐ突き当たったところが墓所。十五代政恕の墓は、墓所の正面に三基並んだ大きな墓の左側。一九〇七(明治四十)年没。法名「馨徳院殿松翁政恕居士」。 五八頁 多摩センター駅 京王線相模原線、小田急多摩線の駅。新興住宅地として開発された駅周辺は、ショッピングビルや銀行、ホテルなどが整った外観を見せる。近くの中央公園内には連光寺富沢家の旧家屋が移築されており、小島資料館へ行くバスも出る。京王線聖蹟桜ヶ丘駅との間に多数のバス便があるので、この二路線を乗り継ぐ際には、目的地によっては調布経由より便利かも知れない。新宿より特急二九分、快速三八分、各駅停車四三分。調布より特急一四分、快速・各駅停車一六分。京王多摩川より快速・各駅停車一四分。京王堀之内より快速・各駅停車二分。橋本より特急六分、快速・各駅停車九分。聖蹟桜ヶ丘駅よりバスで二五分ほど。 一二六頁 多摩センター駅 京王相模原線、小田急多摩線、また、開通予定の多摩都市モノレールの駅。新興住宅地として開発された駅周辺は、ショッピングセンターや銀行、ホテルなどが整った外観を見せる。近くの中央公園内には連光寺富澤家の旧家屋が移築されており、小島資料館へ行くバスも出ている。京王線聖蹟桜ヶ丘駅との間に多数のバス便があるので、この二路線を乗り継ぐ際には、目的地によっては調布経由より便利かも知れない。新宿駅より特急二九分、快速三八分、各駅停車四三分。調布駅より特急一四分、快速・各駅停車一六分。京王多摩川駅より快速・各駅停車一四分。京王堀之内駅より快速・各駅停車二分。橋本駅より特急六分、快速・各駅停車九分。聖蹟桜ヶ丘駅よりバスで二五分ほど。 五九頁 旧富沢家住宅 連光寺富沢家の旧家屋が、公園内に補修移築されたもの。一七世紀後半に構築されたといわれる家屋は、非常に丁寧な修復が行われている。内部も見学でき、出稽古に回る際に立ち寄った試衛館の面々が、この茶の間の囲炉裏で談笑したかも知れないなどと考えながら巡るのも楽しい。解体から移築までの過程を、ビデオで見せてもらえる(座布団とお茶が出た)。ビデオの途中で、近藤勇の鉄扇と土方歳三の屏風も映る。敷地入口の薬医門も、富沢家から運ばれた物。棟木に「元治元年甲子年子月甲子日 上棟 富沢忠右衛門政恕」という墨書が発見されている。奥の間などは、市民以外でも会合等に使用可能。 一二四頁 旧富澤家住宅 連光寺富沢家の旧家屋が、公園内に補修移築されたもの。十七世紀後半に構築されたといわれる家屋は、非常に丁寧な修復が行われている。内部も見学でき出稽古に回る際に立ちよった試衛館の面々が、この茶の間の囲炉裏で談笑したかもしれないなどと考えながら巡るのも楽しい。ここでは解体から移築までの過程をビデオで見ることができる(座布団とお茶がでた)。ビデオの途中で、近藤勇の鉄扇と土方歳三の屏風も映る。敷地入口の薬医門も、富澤家から運ばれた物。棟木に「元治元年甲子年子月甲子日 上棟 富澤忠右衛門政恕」という墨書が発見されている。奥の間などは、市民以外でも会合等に使用できる。 六〇頁 小島資料館 小野路村名主を代々つとめた小島家が、邸内に設置した資料館。資料館には小島家に伝わる書籍、文書、什器など多種多数が展示され、近藤勇の稽古着、土方歳三の手紙、沖田総司の年賀状など、新選組関係の資料も充実。受付では新選組関連書籍や新選組グッズを販売し、来館者の人気を集めている。 一二八頁 小島資料館 小野路村名主を代々つとめた小島家が、邸内に設置した資料館。 小島家は土方歳三と縁戚関係にあり、多くの書簡のやり取りがあった。明治時代には新選組との関わりを恐れ資料を処分する豪農が多かった中、小島家は保存に努めた。資料館には小島家に伝わる書籍、文書、什器などが展示され、近藤勇の稽古着、土方歳三の手紙、沖田総司の年賀状など、新選組関係の資料も充実。天然理心流の稽古が行われた庭園には近藤勇、小島為政の胸像もある。また、この資料館は、幕末史研究三十一人会などの事務局も兼ねている。 受付では「資料館目録」「武術天然理心流上」「新選組余話」などの新選組関連書籍や資料、新選組グッズを販売し、来館者の人気を集めている。 六○頁 小島鹿之助為政 小島家二十代当主。天然理心流の門人で、三代目宗家近藤周助に師事。近藤勇と親交が深く、土方歳三や沖田総司も出稽古に赴いた。真面目で几帳面な性格だったらしく、彼が書いて現在に残る「小島日記」は、その記述の緻密さと正確さで幕末史の貴重な資科となっている。近藤勇、佐藤彦五郎と義兄弟の契りを結ぶ。この人も三国志オタクであったのか。慶応二年には小野路農兵隊を組織。地域の自警に活躍した。名主の職務に邁進し、生涯を送る。享年七一歳。 一二九頁 小島鹿之助為政 小島家二十代目当主。天然理心流の門人で、三代目宗家近藤周助に師事。近藤勇と親交が深く土方歳三や沖田総司も出稽古に赴いた。真面目で几帳面な性格だったらしく、彼が書いて現在に残る「小島日記」は、その記述の緻密さと正確さで、幕末史の貴重な資料となっている。近藤勇、佐藤彦三郎と義兄弟の契りを結ぶ。一八六六(慶応二)年には、小野路農兵隊を組織。地域の自警に活躍した。名主の職務に邁進し、生涯を送る。享年七十一歳。 六二頁 橋本家跡 小島資科館から多摩センター方面へ三分ほど歩いた向かい側に、小島家と並ぶ分限者で土方歳三の親戚筋でもある橋本家があった。現在は血筋も絶え、道路向かいにあった分家も転居した。一九九六年六月現在、橋本家跡には新築のアパートが建っている。若い頃ここを訪れた土方歳三が、ふるまわれた沢庵を褒めたところ、帰りにひと樽持たされたという。今も昔の風情が残る小野路の道に、漬物樽背負って歩く土方歳三を思い描いて笑ってしまった。 一三○頁 橋本家跡 小島資科館から多摩センター方面へほどなく歩くと、小島家に並ぶ分限者で土方歳三の親戚筋でもある橋本家跡がある。現在は血筋も絶え、道路向かいにあった分家も転居した。当時の橋本家には本家、分家ともに庭に天然理心流の稽古場があった。現在、橋本家跡にはアパートなどが建っている。この橋本家に若い土方歳三が訪問した祈り、ふるまわれた沢庵を歳三が褒めたところ、帰りにひと樽持たされたという話も残っている。 今も昔も風情が残る小野路の道を、漬物樽を背負って歩く土方歳三を想像すると、自然と口元がゆるんでくる。 六二頁 鶴川駅 小田急小田原線の駅。小野路の小島資料館へ向かうバスが出る。肝心のバス停は、改札を出た左手の先にひとつだけぽつんとある。改札から右へ進んだバスターミナルは無関係なので注意しよう。新宿より準急三二分、各駅停車四一分。特急は通過するので新百合が丘で準急か各駅停車に乗換え。 一三〇頁 鶴川駅 小田急小田原線の駅。小野路の資科館へ向かうバスが出る。新宿より準急三二分、各駅停車四一分。特急は通過してしまうので注意。新百合が丘で準急か各駅停車に乗り換える。 |
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