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【事件名】沖縄ご当地ソングの作曲家事件
【年月日】平成11年12月14日
 沖縄地裁 平成9年(ワ)第533号 著作物の複製・販売・頒布禁止請求事件
 (口頭弁論終結日 平成11年6月22日)

判決
原告 A
右訴訟代理人弁護士 平田清司
被告 BことC
右訴訟代理人弁護士 平良一郎


主文
一 原告と被告との間で、別紙楽曲目録一ないし三記載の各楽曲の作曲にかかる著作権が原告に属することを確認する。
二 被告は、別紙楽曲目録一ないし三記載の各楽曲を録音したレコードを製作、販売又は頒布してはならない。
三 訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由
第一 請求
 主文同旨
第二 事案の概要
 本件は、原告が、「被告は、原告が作曲した別紙楽曲目録一ないし三記載の各楽曲(以下、同目録一記載の楽曲を「命どぅ宝」、同目録二記載の楽曲を「めんそーれ沖縄」、同目録三記載の楽曲を「世界はひとつ」といい、右各楽曲を併せて「本件三曲」という。)を、原告の許諾を得ることなく、音楽テープやコンパクトディスク(以下「CD」という。)に録音した上、歌詞カード等に、作曲者が被告である旨の表示をしてこれらを販売しようとした。」などとして、被告に対し、本件三曲の著作権が原告に属することの確認と本件三曲を録音したレコードの製作、販売及び頒布の差止を求めたところ、被告が、本件三曲を作曲したのは被告であり、原告は採譜及び編曲に当たっただけであるとして争った事案である。
一 争いのない事実
1 原告は、もと中学校で音楽教師をしていた者である。
 被告は、芸名を「B」として歌手活動をしている者であるが、平成六、七年ころ、【住所略】において「ほほエミ歌謡教室」(以下「本件教室」という。)を経営していた。当時、原告と被告は、親しく交際していたが、平成八年になって、仲違いし、互いに相手方を誹膀中傷するようになった。
2 「命どぅ宝」は平成七年一月に、「めんそーれ沖縄」は同年二月に、「世界はひとつ」は同年一二月にそれぞれ作曲された。
3 原告と被告は、協力して、平成七年四月一二日から一三日にかけて、被告が歌う本件三曲をマスターテープに録音した後、右マスターテープを音源として、音楽テープ(以下「本件テープ1」という。)及びCD(以下「本件CD1」という。)を製作し、右テープを一本一五〇〇円で、右CDを一枚一二〇〇円でそれぞれ販売した。
4 被告は、原告の許諾を得ることなく、平成八年一二月八日ころ、本件三曲を収録した音楽テープ(以下「本件テープ2」という。)を、「B作品集@」との名称を付して一本二五〇〇円で販売し、さらに、その後、右テープと内容、名称ともに同一のCD(以下「本件CD2」という。)を一枚二九〇〇円で販売しようとした。このことに関し、平成九年六月一三日、原告がした仮処分命令の申立て(当庁平成九年(ヨ)第四八号仮処分命令申立事件、以下「本件仮処分」という。)が認容され、右テープ及び右CDの販売を禁止する旨の決定がされた。
5 被告は、本件三曲の作曲者は被告であると主張して、その著作権が原告に属することを争っている。
二 争点
 原告は、本件三曲の作曲にかかる著作権を有するか否か。
(原告の主張)
1 本件三曲を原告が作曲した経緯
(一)原告は、琉球大学教育学部で音楽の教員免許を取得するとともに国立音楽大学でも学び、その後長年にわたり音楽教育に携わって、明星大学や近畿大学九州短期大学の音楽講師を務めるなどの経歴を有し、この間、熱心に研さんを積み、卓越した音楽的知識を兼ね備えていた。
(二)平成七年一月、平和祈念公園の平和の礎の歌を作りたいという被告に対し、原告が、まず作詞をしてくるよう指示したところ、被告は、「人は死んでから始めて大切な」で始まる歌詞を作ってきたが、その出来は非常に悪く、これに基づいて作曲することは不可能であったため、原告は、自ら、ひめゆり、健児、でいご、仏桑華などの、平和を希求する沖縄にふさわしい表現を盛込みながら七五調に構成し直し、起承転結をつけて詞を完成させ、これを口述して被告に書き取らせた。
 そのころ、原告は、シンセサイザーを購入し、これを利用して、まず、鎮魂歌「命どぅ宝」を作曲した。その際、原告は、平和への希望を強調するため、短調の曲とせず、長調を採用し、主和音のソから静かに語るように始まり、「ああ平和の礎は沖縄の心」の部分では一転してトランペットが力強く鳴り響いて全世界に沖縄の心を訴え、また、三味線が沖縄のイメージを醸し出し、クライマックスでの平和の鐘の音を迎えた後、黙祷のうちにリタルダンドしながら余韻を残すために最後はミで終わるよう、音楽的知識を最大限に駆使して作曲した。この「命どぅ宝」は、満足な音楽教育を受けておらず楽譜の読み書きやピアノを弾くことができない被告には、作曲することはもちろん、正確に歌うこともできないものである。現に、音域の狭い被告は、原告に対し、最後の部分の高いレの音を下げてほしいと泣き言をいってきたが、原告は、曲のクライマックスの音を下げては曲全体の完成度を損なうこととなるのでこれに応じなかった。
(三)被告が、平成七年二月、原告に対し、もう一曲作りたいと申し入れてきたので、原告は、沖縄を訪れた観光客が南部戦跡や首里城を巡り、夜には泡盛を味わう様子を描いた歌詞を作り、これを口述して被告に書き取らせた。
 そして、原告は、「命どぅ宝」と同様に、シンセサイザーを利用して、「めんそーれ沖縄」を作曲したが、その際、観光客が沖縄の自然や歴史等を堪能するというイメージを重視して、楽しく踊れるように四分の二拍子を採用し、前奏、間奏、後奏にうきうきするようなトランペットのファンファーレを挿入するなど、全体的にリズミカルな作品となるように心がけた。
(四)被告が、平成七年三月、原告に対し、更にもう一曲を作りたいと申し入れてきたので、原告は、ワールドピース(世界平和)をキーワードとして作詞をし、これを口述して被告に書き取らせた。
 原告がシンセサイザーを利用して作曲した「世界はひとつ」は、三味線に加えて、きらきら輝く海を表現するビブラホンの琉球音階が随所で沖縄の雰囲気を高めるとともに、三連音符が多用されているなどの特徴を有している。
(五)体件三曲には、共通して、前奏と曲の最後の重要な部分を繰り返すとか、三連音符を多用するなど、様々な技巧が凝らされており、被告には右のような特徴を有する楽曲を作曲する能力などない。
 このようにして、本件三曲は作曲されたのであり、右作曲の過程で、被告の手助けはあったものの、それも作曲そのものに影響するようなものではなかった。
2 右のとおり、本件三曲は、原告が作詞し、また、作曲したものであるが、原告は、被告が作ろうといいだしたことを考慮して、いわば花を持たせるために被告を作詞者と扱うことを認めたにすぎない。
 なお、被告は、原告の暴力に屈して本件三曲の作曲者が原告であると公表させられた旨主張するが、そのような事実はない。
3 そして、原告は、本件三曲の公衆への提供(頒布)の際、録音テープやCDの各ラベル及び歌詞カード並びにそのケース等に作曲者としてその氏名を表示しているから、著作権法一四条により、本件三曲の著作者と推定される。
4 したがって、本件三曲は、いずれも原告が作曲したものであり、その著作権は原告に帰属する。
(被告の主張)
1 本件三曲を被告が作曲した経緯
(一)被告は、本件教室で歌唱の指導に当たっていたが、平成六年一二月、初めてコンサートを開いて、歌手の美空ひばりの持ち歌を披露した際、今度はオリジナル曲を歌いたいと思い立ち、そのころ大きな話題となっていた平和祈念公園の平和の礎をテーマとする歌を作りたいと考えるようになった。
(二)その後、平成七年一月、被告は、沖縄県内の拝所を参拝して回り、そこで思い浮かんだイメージを膨らませて作詞をし、その歌詞を繰り返し反芻し、これに感情のままに節をつけて「命どぅ宝」を作曲した。そして、被告は、楽譜の読み書きができないので、できあがった曲を懸命に記憶し、これを原告の面前で無伴奏で歌って聴かせ、これを原告に採譜させた。
(三)また、原告は、平成七年二月から三月にかけて、拝所を拝むなどして、沖縄観光を堪能する人々や世界平和の発信地としての沖縄のイメージを練り上げ、「めんそーれ沖縄」と「世界はひとつ」の歌詞を作詞し、これらに曲をつけた。そして、「命どぅ宝」と同様、その作曲の成果を原告の面前で無伴奏で歌つて聴かせ、これらを被告に採譜させた。
(四)本件テープ1や本件CD1を製作するに当たって、原告は、被告にほとんど相談もなく、自ら費用を出して録音や楽譜の印刷をしたが、できあがった楽譜等を見ると、本件三曲の作曲者が原告と表示されていた。被告は、これに驚き、原告に抗議したところ、原告が、右抗議を暴力で抑えつけ、コンサートを滅茶苦茶にしてやるなどと被告を脅してきたため、被告は、原告が作曲者であると公表することを承諾するほかなかった。
2 原告は、被告が本件三曲を歌うのを聴いてこれを採譜し、通常編曲と呼ばれる作業をしただけである。
 仮に、本件三曲を原告が作曲したとすると、右作曲がされた後、これを被告が歌ってマスターテープに録音するまでの短時間の間に(特に、本件楽曲三が作曲されてから、右録音までわずか一〇日程度しかない。)、楽譜の読めない被告がどのように本件各歌曲を歌えるようになったか合理的な説明が付かない。また、原告は、長年音楽教師を勤めた専門家であるから、作曲の途中の楽譜が存在するはずであるが、本件三曲につき、原告は右のような楽譜を有していない。また、原告は、シンセサイザーによって作曲したと主張しているわけであるが、シンセサイザーによって作曲していたと仮定した場合、シンセサイザーが故障した等の場合に備えて、作曲の途中でこれを楽譜化しているはずである。
 そうすると、原告を作曲者と見るのは不自然である。
3 右のとおりであって、本件三曲は、いずれも被告が作曲したものというべきである。
第三 当裁判所の判断
一 前記のとおり、本件三曲は、別紙楽曲目録一ないし三記載のとおりの主題、旋律及び調子から成る楽曲であって、いずれも思想または感情を旋律によって創作的に表現したいわゆる音楽著作物と認められる。
二 本件の争点は、右各楽曲の作曲にかかる著作権が原告と被告のいずれに属するかにあるところ、前記のとおり、本件三曲は、原告と被告が親しく交際していた平成七年一月から同年三月の間に作曲されているから、右判断の前提として、まず、原告と被告が知り合った後、本件三曲の完成に至るまでの経緯、本件三曲の内容等、原告と被告が仲違いするに至った事情及び本件紛争に至る経緯等につき検討する。
 前記争いのない事実等と証拠(甲一号証の一、二、二号証の一、二、三ないし六号証、七号証の一ないし三、八及び九号証、一一ないし一三号証、一四号証の一、二、一五ないし二〇号証、二三号証の一ないし一〇、二四ないし二九号証、三〇号証の一、二、三九及び四〇号証、四一号証の一、二、四二ないし四五号証、乙一及び二号証、六号証の一、七号証、九及び一〇号証、一二及び一三号証、一五号証の四、一五号証の五の一、一五号証の六ないし一三、一六及び一七号証の各一ないし六、一九及び二〇号証、二一号証の一ないし三、二二ないし二四号証、二五号証の一ないし四、二六及び二七号証、二九号証、三一号証の一、二、三二号証、証人E、同F、同G、同H、原告及び被告各本人)並びに弁論の全趣旨によれば、次の各事実が認められる。
1 当事者
(一)原告(昭和一六年一一月二三日生)は、琉球大学教育学部で教員免許を取得し、中学校で音楽教師を務めるかたわら、吹奏楽部の指導に当たり、また、自ら「クラリネット・リサイタル」を数回開催したり、昭和五三年四月には日本新交響楽団とモーツアルトのクラリネット協奏曲を共演するなど、クラリネット奏者としても活動していた。しかし、昭和五七年八月、懲戒免職処分を受け、中学校教師を辞した。
 その後、平成五年、原告が育英義塾という予備校で幼稚園の保母を志望する者にピアノを教えていた際、その講座を受けるようになった被告と知り合った。
(二)被告(昭和一六年一二月二三日生)は、昭和四九年に夫を亡くした後、カラオケスナックの経営やクラブの歌手等をしながら生計を立てていたが、平成五年、幼稚園の保母の資格を取得しようと考え、右育英義塾に通うようになった。原告と被告が知り合った当時、被告は、那覇市松山において、いわゆるカラオケスナック店を経営していたところ、原告は、同店に足繁く通うようになり、以後、親しく交際するようになった。
 その後、被告は、右カラオケスナック店を閉め、平成六年一一月、本件教室を開き、生徒を集めてカラオケを教えるなどしていたが、その際、原告を右教室に特別講師として招くなどした。
2 本件三曲が完成するまでの経緯及び本件三曲の内容等
(一)被告は、平成六年一二月三日、真和志農協ホールにおいて、初めてのコンサートを開き、美空ひばりの持ち歌を披露したが、その際、原告から、「川の流れのように」などの歌唱の特訓を受けた。
(二)被告は、右コンサート後、オリジナルの曲を歌いたいと思うようになり、平成七年一月、当時大きな話題となっていた平和の礎(沖縄県が戦没者の慰霊と恒久平和を願い糸満市摩文仁が丘の平和祈念公園に建立した碑)に着想を得て、本件教室を頻繁に訪れていた原告に対し、平和の礎に関する歌を作りたいとの希望を表明し、被告が作詞した歌詞に曲をつけてくれるよう依頼した。
 その後、被告は、原告を伴って沖縄県内の拝所を拝み回るなどして、その際思い浮かんだ言葉を書き連ねる方法で作詞に着手した。その後、原告は、被告が作った詞を見せられたが、原告には歌詞の体をなしていないと感じられたため、被告に対し、歌詞は七五調とし起承転結をつけて構成すべきだなどと助言した。そのころ、被告は、信奉するユタから、守礼の島、うるまの島などの表現を加えるとよいと提案されたため、これも参考にして、「命どぅ宝」の歌詞を作詞した。
 そして、平成七年一月中に、本件教室において、歌詞に合わせて、旋律、テンポ、リズムなどが定まり、「命どぅ宝」が完成した。
 この間、原告は、シンセサイザーを購入することを考え、五、六回程、文教楽器株式会社の販売部門(以下「文教楽器」という。)を訪ね、同社のE(以下「E」という。)にその操作方法の説明を受けるなどした後、平成七年一月末ころ、文教楽器からシンセサイザーを購入した。その後も、原告は、頻繁に文教楽器を訪ね(時には被告を同伴することもあった。)、同社のEにその操作方法を詳しく教わりながら、三味線などの楽器の音やファンファーレなどの効果音を入力するなどした。
 従前、被告は、作曲の経験が一切なく、また、原告も、本件三曲に類する歌謡の作曲をしたことはなかった。
(三)被告は、沖縄の観光をテーマとした歌を作りたいと思い、平成七年二月、原告と観光地を回るなどし、その印象もふまえて、沖縄を訪れた観光客が南部戦跡や首里城を巡り、夜には泡盛を味わって楽しむ様子を描いた「めんそーれ沖縄」の歌詞を作詞した。
 そして、同月中に、「命どぅ宝」と同様、本件教室において、歌詞に合わせて、旋律、テンポ、リズムなどが定まり、「めんそーれ沖縄」が完成した。
 このときも、原告は、シンセサイザーを利用して、リズミカルで楽しく踊れるようなイメージを醸す効果音などを入力した。
(四)被告は、平成七年三月、世界ウチナンチユー大会に向けて、平和の大切さを訴えるような歌を作りたいと考え、ワールドピースをキーワードとして、「世界はひとつ」の歌詞を作詞した。
 また、同月中に、「命どぅ宝」や「めんそーれ沖縄」と同様に、本件教室において、フランク・シナトラが歌った「マイウエイ」という曲のカラオケを聞きながら、被告の作った歌詞に合わせて、旋律、テンポ、リズムなどが定まり、「世界はひとつ」が完成した。
 その際も、原告はシンンセサイザーを利用して、ビプラホンの音をインプットするなどした。
(五)本件三曲は、いずれも、先にできた歌詞に曲をつける方法で創作されたが、各歌詞は、別紙楽曲目録一ないし三記載のとおりのものであった。
(六)被告の声域は、女性としては低い方であり、高音の限度は五線紙のD線上のレ辺りまでであった。
3 原告と被告が仲違いするまでの経緯等
(一)原告と被告は、平成七年四月一二日及び一三日、レコーディングスタジオ「ジャヴィ」において、本件三曲を被告が歌い、これをマスターテープに録音した。その際、被告は、音符の長さや休符等を楽譜どおりに歌わないところがあったため、さらに練習を重ねた。
(二)その後、被告は、右マスターテープを音源として本件テープ1及び本件CD1を制作し、同テープを一本一五〇〇円でそれそれぞれ販売した。本件テープ1のカセットケースカバー及び歌詞カードには、「作詞・歌/B」、「作曲/A」と、また本件CD1のケースカバーには「作詞・歌B」、「作曲A」と表示されていたが、これらは、いずれも、平成七年五月、原告と被告が連れだって沖縄コロニー印刷を訪れ、両名がその印刷を依頼したものであった。また、本件テープ1及び本件CD1の宣伝用ポスターにも、「めんそーれ沖縄」の作詞者が被告、作曲者が原告との各表示があったが、被告がこのことに異議を唱えるといったことはなかった。
(三)被告は、平成七年六月一〇日、パレット市民劇場において、B平和祈念コンサートを開催し、その際、本件三曲を歌った。右コンサートのプログラムには、本件三曲の各歌詞が紹介され、右各歌詞の下に、「作詞・歌B」、「作曲A」と表示されており、また、右コンサートの司会者が、聴衆に対し、本件三曲の作曲者が原告であると紹介したが、被告は、これにも格別異議を述べなかった。
(四)平成七年六月一八日、沖縄コンベンションセンターにおいて開催された第六回全沖縄民謡フェステバルにおいて、出演者等が、「めんそーれ沖縄」に合わせて踊りを踊ったが、その際配布されたちらしにも作曲者が原告と記載されていたが、被告はこれにも格別の異議を申し出なかった。
(五)被告は、平成七年七月二一日、糸満市社会福祉会館大ホールで開催された糸満市平和音楽祭に参加して、本件三曲を歌った。また、同年一一月にも、東急ホテルで開催された元ハワイ沖縄県人会会長ジェーン新川の琉球新報賞受賞祝賀パーティーにおいて、本件三曲を歌い、同月一〇日と一一日の沖縄県婦人連合会宮古島大会及び沖縄県母子寡婦宮古島大会においても、「めんそーれ沖縄」を歌った。さらに、原告と被告は、同月一九日、琉球放送ラジオの生放送番組に出演しインタビューを受けたが、その際、司会者は、本件三曲の作詞者が被告、作曲者が原告であることを前提として番組を進行したが、被告はこれにも格別異議を述べなかった。
(六)被告が、平成八年一月四日、米国ロスアンゼルスのパサデナ市で開催された北米沖縄県人会主催のチャリテイーコンサートに出演した際、「命どぅ宝」と「世界はひとつ」を歌ったが、被告と親しく交際を続けていた原告は、被告に同行し右コンサートを観賞した。右コンサートのプログラム上、「命どぅ宝」と「世界はひとつ」の作曲者は原告となっており、司会者も、右各曲の作詞者を被告、作曲者を原告と紹介した。
(七)被告は、平成七年一二月六日、那覇市長に対し、B平和祈念コンサート開催の目的で、那覇市民会館の使用許可申請をしたが、平成八年一月七日ころ、使用料を振り込めないといいだし、同月二四日、会場を変更するとの理由を付して、同市民会館をキャンセルした。
(八)被告は、平成七年六月の平和祈念コンサートの後、当時の南風原町長Iから依頼され、「琉球かすり」と題する歌詞を作り、その歌詞に節をつけて無伴奏で歌ったものを原告に採譜させた。また、平成八年一、二月ころ、「沖縄県交通安全の歌」と題する歌詞を作り、右と同様の方法で原告に採譜させ、沖縄県警察本部音楽隊のGに編曲してもらった。その際、Gは、曲が歌詞才合わない部分の音の高さ等を何か所か訂正した。
(九)原告は、平成八年五月二九日、被告が平成七年六月二〇日に原告名義の旅行積立金七万円を無断で引き出し費消したことを知って、被告を信用できなくなり、行動をともにしなくなった。一方、被告も、原告から右旅行積立金の件で難詰されるなどしたこともあって嫌気がさし、以後、原告と交際することもなくなった。
4 原告被告が仲違いした後、本件紛争に至るまでの経緯等
(一)被告は、平成八年六月八日、平和祈念堂において、B平和祈念コンサートを開催し、本件三曲を歌ったが、事前にプログラムの印刷を発注した際、原告は右コンサートに参加しないからとの理由で、作曲者が原告であることを表示しないよう依頼した。そのため、右プログラム上、本件三曲については、「作詞・唄B」とのみ記載され、作曲者名の表示がされなかった。
 なお、被告は、このときまでに、「琉球かすり」、「沖縄県交通安全の唄」の外、「花のうない大太鼓」、「親の御恩」、「琉球那覇ハーリー」「心をつなぐ永遠の唄」などの作詞をし、知人に無伴奏で歌って聴かせて(あるいは録音したものを聴かせて)採譜してもらうという方法で作曲をしていたが、これらの歌については、「作詞・作曲・唄B」と表示していた。
(二)被告は、その後も、「美空ひばり賛歌」、「親子で築こう幸せをシンデレラタイム」、「めんそーれスポレクおきなわ九七」、「未来輝く沖縄ツーリスト」、「明けもどろの都市那覇賛歌」などの作詞をしてこれを無伴奏で歌ったものを採譜してもらうと弧う方法で作曲し、コンサートで披露するなどしてきた。
(三)被告は、原告と仲違いした後、本件三曲の作詞作曲が被告であるとの記載がある名刺を使用するようになった。そして、平成八年八月一九日、印刷会社の株式会社オークスビジネスサービスに対し、作曲者を被告とするよう指示して、歌詞カード等の印刷を注文し、本件三曲の題名の横に「作詞・作曲・唄B」と表示した歌詞カードを作成させた上、同年一二月八日、本件テープ2を発売した。さらに、被告は、「作詞・作曲・唄B」と印刷した歌詞カード等を準備して、本件CD2を販売しようとしたところ、本件仮処分決定により、右テープ及び右CDの販売が禁止された。
 被告は、原告が本件仮処分の申立てをした前後ころ、原告の兄であるDのところへ赴き、同人に対し、本件三曲の作曲者が被告である旨を述べて、原告に右仮処分の申立てをしないよう、又は、右申立てを取り下げるように説得してほしい旨依頼したが聞き入れられなかった。
(四)被告は、その後も、平成九年八月一二一日及び平成一〇年八月一五日に、県立郷土劇場東町会館において、コンサートを開催し、本件三曲を歌ったが、その際は、右各コンサートのプログラムに本件三曲の歌詞や作曲者名を記載しなかった。
(五)原告は、本件三曲完成後、「沖縄人の肝心」、「平和の礎は沖縄の心」「糸満市平和の歌」、「姫百合の乙女を偲び」、「祝い船出」、「花の琉歌文化」、「那覇の今昔」、「ああ対馬丸」という題名の楽曲をそれぞれ作曲し、また、平成一〇年六月七日、那覇市民会館において、作曲家との肩書きで、沖縄人の肝心コンサートA作品特集と題する演奏会を挙行したが、そのプログラムには、本件三曲の作曲者として原告名を表示した。
三 右二3(二)ないし(六)認定のとおり、本件三曲が創作された後、被告の関与のもとに、本件三曲を含むむ歌詞カードが作成されたが、右歌詞カードには、その作曲者として原告名が表記されていたこと、また、被告が発売した本件テープー及び本件CD1のカバー及び歌詞カードにも、本件三曲の作曲者として原告名が表記され、右テープ及びCDの宣伝用ポスターにも、「めんそーれ沖縄」の作曲者として原告名が表記されていたこと、さらに、平成七年六月一〇日に、被告が開催したコンサートにおいて、その司会者は、原告が本件三曲の作曲者である旨紹介し、また、そのプログラムには、本件三曲の作曲者として原告名が表記されていたこと、被告は、平成八年一月四日、北米沖縄県人会主催のチャリテイーコンサートに出演して「命どぅ宝」と「世界はひとつ」を歌ったが、そのプログラムにも右二曲の作曲者として原告名が表記され、その際、司会者は、右二曲の作曲者を原告と紹介したことがそれぞれ認められる。
 右各事実によれば、他に反証がない限り、本件三曲の作曲者は原告と推定される(著作権法一四条)。
 なお、被告は、原告が暴力をもって被告の意思を制圧して、本件三曲の作曲者を原告とすることを強制した旨主張し、被告は、その本人尋問や陳述書において、右主張に沿う供述及び陳述をしているが、右各供述及び陳述部分は、前記認定のとおり、被告と原告が親しく交際を続けていた時期に繰り返し本件三曲の作曲者が原告と表示されるなどしていたのに、被告は格別これに異議を述ベた形跡がなかったことに照らして採用できない。
四 ところで、前記二認定のとおり、本件三曲は、いずれも原告と被告が親しく交際していた時期に作詞作曲されたものであり、原告と被告の協力によって完成するに至ったものと推測されるのであるが、その過程の詳細を知るのは原告と被告のみである。
 この点、本件三曲が完成に至るまでの経緯等に関し、原告と被告は、各本人尋問において、概ね、前記第二の二の「原告の主張1」及び「被告の主張1」記載のとおり供述しているところ、いずれも、相手方の関与なく、単独で創作した旨の相反する内容のものとなっている。
 しかし、本件三曲は、平成七年一月から三月にかけて一か月に一曲のベースで完成したが、この間、原告は、被告と親しく交際し、本件教室に頻繁に出入りしていたこと、被告は、従前、楽譜の読み書きができず、作曲の経験がなく、また、原告は、クラシックを基本とした音楽的知識及び経験を有していたものの、従前、本件三曲に類する歌謡の作曲をしたことはなかったこと、被告が本件三曲のうち最初に完成した「命どぅ宝」を作詞するに当たり、原告は、被告が拝所を回るのに同行し、七五調で構成すべきである等の助言をするなど協力をしたこと、本件三曲は、被告がコンサートで披露するために作曲されたものであり、各題材も被告が選んだこと、本件三曲の創作に当たり、原告は、シンセサイザーを購入し、これを操作して本件三曲を完成させるべく作業を続けていたこと、本件三曲完成後、被告は、思い浮かんだメロデイーを自ら歌ったものを楽譜の読み書きができる知人等に採譜させる方法で次々と作曲していったことなど前記認定の諸事実と原告及び被告の右各供述内容を総合すると、本件三曲のモチーフとなる原初的な旋律は被告が作り、これに原告が意見を述べ、シンセサイザーを利用するなどして改変していった結果、本件三曲が完成したと見るのが自然な推移であるように思われる。
 そこで、さらに、原告がシンセサイザーを購入する前後のころの具体的な原告の作業等につき検討するに、証拠(証人E)によれば、原告は、最初に文教楽器を訪れた際、久場に対し、作曲をするのでシンセサイザーを購入したい旨述べていたこと、シンセサイザーで曲を作っていく場合、大きく分類すると作曲と編曲(アレンジ)の二つのケースがあり、前者は自分で曲を作りながら組み立てていくという方式であり、後者はできあがった曲にいわば肉付けをしていくという方式であること、ただし、基本となる旋律が先にある場合、その改変が編曲、作曲のいずれと見るかは多分に相対的な問題となること、文教楽器において、原告がシンセサイザーを使用して行っていた作業は、音階を口ずさむなどして曲を組み立てた後、途中でこれを中断してフロッピーに保存(セーブ)し、後日、さらに同様の作業を続け、少しずつ先に進むという手順であり、このような作業方法は、作曲の過程に多く見られること、その際、原告は、曲のパートごとに種々の楽器編成で、その旋律(メロディー)に伴奏を付けていくという編曲の作業も併せて行っていたこと、Eは、原告の作業の過程を見ていて、その経験上、原告が作曲をしつつ、編曲の作業も併せて行っているとの印象を持ったこと、原告が右のような作業をしていた際、被告がこれに同伴していることもあったが、被告がその作業自体に加わるということはなかったことがそれぞれ認められる。
 そして、前記認定のとおり、被告は、予備校における原告のピアノの講座を受講して原告と知り合い、原告を本件教室の特別講師に招いたり、原告から美空ひばりの歌の特訓を受けるなどしていたこと、被告は、原告と仲違いするまで、本件テープ1及び本件CD1を販売した際や何度か催されたコンサート等において、本件三曲の作曲者を原告と公表することに格別の異議を述べた形跡がないこと、被告は、原告と仲違いした後に開催したコンサートにおいて、本件三曲の作曲者名から原告を除外しはしたが、自ら作曲者と名乗るのをためらった様子が窺えることなどの諸事情からすると、原告と被告の関係においては、音楽に関する限り、原告が主導的立場をとってきたことが認められ、また、前記認定のとおり、平成七年四月一二日及び一三日にレコーデイングスタジオで本件三曲をマスターテープに録音した際、被告は、音符の長さや休符等を楽譜どおりに歌わなかったため、練習を重ねなければならなかったことなどからすれば、完成した本件三曲のテンポやリズムは、被告が創作して、被告に聞かせた曲とは異なるものとなっていたことが推認される。
 以上を総合すると、本件三曲のモチーフとなる原初的な旋律は被告が作り、被告が原告に無伴奏で歌って聞かせたものを、原告が、シンセサイザーを利用するなどして、さらに、その音符の長さを変えたり、音の高さを歌詞に合うように調整した上、これを被告に歌わせ、さらに改変を加えるといった作業を繰り返して、旋律、テンポ、リズムなどを定めていった結果、本件三曲の完成に至ったものと推認される。そして、右過程で、本件三曲は、特に音符の長さ等において、被告が原告に無伴奏で歌って聞かせたものとは異なるものとなったことが推認され、そうであればこそ、前記認定のとおり、本件三曲の入ったテープ及びCDのカバー、歌詞力ード及び宣伝用ポスターに作曲者として原告名が表記されたり、司会者が、コンサートにおいて本件三曲の作曲者を原告として紹介するなどしても、被告がこれらに異議を述べなかったのではないかと推測される。
 これに対し、被告は、仮に本件三曲を原告が作曲したとすれば、本件三曲が完成してからレコーディングまでの短い期間で、被告はどのようにして右各楽曲を歌えるようになったのか説明がつかない旨主張するが(ただし、その趣旨は必ずしも明確でない。)、本件三曲は前記認定のとおりの内容のもので、歌うのに格別困難なものではなく、特に、前記認定のような歌手歴を有する被告にとっては、短時間の練習で習得できる程度のものであったものと詔められるから、被告の右主張は理由がない。
 また、被告は、原告が本件三曲を作曲したのであれば、右各楽曲についての完成前の作曲過程の楽譜が存在するはずであるのに、原告は右楽譜を有していないから、原告が作曲者であることはあり得ない旨主張するが、仮に、右のような事情があるとしても、右事実をもって、直ちに本件三曲の作曲者が原告でないことの証しであるとまでいうことはできない。
 そうすると、本件三曲の作曲者が被告である旨の同人の前記供述部分はこれを採用することができず、他に、著作権法一四条にかかる前記推定を覆すに足る証拠もない。
 したがって、本件三曲の作曲者は原告と認められる。
五 結論
 以上によれば、原告の請求はいずれも理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

那覇地方裁判所民事第二部
 裁判長裁判官 原敏雄
 裁判官 松田典浩
 裁判官 佐野信
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