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【事件名】原稿無断改変・自己名義公表事件
【年月日】平成8年2月23日
 東京地裁 平成2年(ワ)第16311号 損害賠償等本訴請求事件(以下「甲事件」という)、
 平成3年(ワ)第4959号 同反訴請求事件(以下「反訴事件」という)、
 平成6年(ワ)第5759号 慰謝料請求事件(以下「乙事件」という)

判決
東京都(以下住所略)
 甲・乙事件原告(反訴被告、以下「原告」という) 佐藤由子
山形県(以下住所略)
 甲事件被告(反訴原告、以下「被告槙」という) 槙昭一
右訴訟代理人弁護士 吉村和彦
山形県(以下住所略)
 乙事件被告(以下「被告吉村」という) 吉村和彦


主文
一 被告槙は、原告に対し、金六〇万円及びこれに対する平成三年一月一三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告の被告槙に対するその余の請求及び被告吉村に対する請求並びに被告槙の反訴請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用は、原告と被告槙との間においては、原告に生じた費用の五分の四を被告槙の負担とし、その余は各自の負担とし、原告と被告吉村との間においては、全部原告の負担とする。
四 この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由
第一 請求
一 甲事件
1 被告槙は、原告に対し、金三四三万円及びこれに対する平成三年一月一三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 被告槙は、株式会社朝日新聞社発行の朝日新聞全国版及び株式会社山形新聞社発行の山形新聞の各朝刊に別紙謝罪広告案記載の謝罪広告をそれぞれ一回掲載せよ。
3 被告槙は、被告槙名義の論文「全国総合開発と農村地域構造の変貌(第一報)|村山市の就業状況の変化|」の別刷(以下「研修集録別刷」という。)を回収して、その六頁から一四頁までを焼却せよ。
4 被告槙は、右3項の論文の原稿(乙五七の原本)のうち、NO15と記載されている頁からNO30と記載されている頁までを焼却せよ。
二 反訴事件
原告は、被告槙に対し、金五〇〇万円及びこれに対する平成三年四月二三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
三 乙事件
被告吉村は、原告に対し、金一二〇万円及びこれに対する平成六年四月九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二 事案の概要
 甲事件は、原告が、山形県村山市が発行する予定の書籍「村山市史」(以下「村山市史」という。)の編集委員をしていた被告槙から依頼され、村山市史に掲載するために昭和六二年八月から九月にかけて執筆して著作した「就業状況の変化」との仮題を付けた論文(以下「原告論文」という。)を、同年九月に被告槙に送付したところ、被告槙が、原告に無断で、原告の著作物である原告論文の一部を改変した上、その前後に文章を付加して、被告槙の著作名義の「全国総合開発と農村地域構造の変貌(第一報)|村山市の就業状況の変化|」と題する論文(以下「被告槙名義論文」という。)として、自分が教諭を勤める山形県立上山高等学校(以下「上山高校」という。)発行の研修集録第八号(以下「研修集録」という。)に投稿したため、これが掲載された研修集録が上山高校から発行、配付され、また、被告槙によって被告槙名義論文について研修集録別刷が印刷され、これが配付されたため、原告の原告論文の著作権(複製権)と著作者人格権(公表権、氏名表示権、同一性保持権)が侵害されたと主張し、さらに、被告槙は、原告に執筆させる論文について、真実は自己の論文として研修集録に投稿するもので、村山市史に掲載するつもりがなく、又は、これを村山市史に掲載する場合でも、執筆者として原告の氏名表示をなさず、原告の著作物である論文の同一性を侵害するつもりであるのにこれらの意図を隠して、原告に、村山市史に掲載するための論文であると偽ってその執筆を依頼して、不法に論文を入手したものであり、これは詐欺的不法行為であると主張し、原告が、被告槙に対して、不法行為に基づく損害賠償請求と不法行為後(訴状送達の日の翌日から)の民法所定の遅延損害金の支払、著作者人格権侵害に基づく謝罪広告、著作者人格権と著作権(複製権)の侵害行為によって作成された研修集録別刷の回収、並びに、研修集録別刷のうち六頁から一四頁まで及び被告槙名義論文の原稿(乙五七の原本)のうちNo15と記載されている頁からNo30と記載されている頁が、原告論文について一部内容を改変してそのまま複製した部分であるとしてその部分の焼却を、それぞれ求めたものである。
 反訴事件は、原告が、被告槙から研修集録別刷一部の送付を受けた昭和六三年二月から平成二年八月までの間に、上山高校の校長や山形県教育委員会委員長、文部大臣等の第三者に宛てて、被告槙が原告の著作した原告論文を盗用したこと等を記載した書簡を送付するなどした行為によって、被告槙の名誉、人格権が違法に侵害されたと主張して、被告槙が、原告に対して、不法行為に基づく損害賠償請求と不法行為後(反訴状送達の日の翌日から)の民法所定の遅延損害金の支払を求めたものである。
 乙事件は、被告槙の委任を受け、被告槙の訴訟代理人として、甲事件の訴訟について応訴し、また、反訴事件を提起した弁護士である被告吉村が、反訴の提起が違法であり濫訴であるのに、これを看過して反訴提起に加担し、さらに反訴事件及び甲事件において、原告には独立した著作権や著作者人格権がない旨の主張をする等の違法な訴訟活動をして、原告に精神的損害を与えたと主張して、原告が、被告吉村に対して、不法行為に基づく損害賠償請求と不法行為後(訴状送達の日の翌日から)の民法所定の遅延損害金の支払を求めたものである。
一 前提となる事実
1 原告は、昭和六〇年四月から法政大学大学院人文科学研究科博士課程に在学して、経済地理、地理教育を専門として研究をしていた者であり、被告槙は、上山高校教諭として勤務するかたわら、山形県村山市から委嘱を受け、村山市史(本巻全五巻)の編委員及び村山市史のうち本巻第四巻地理編(以下「村山市史地理編」という。)の編集委員の主任であった者であり、両名とも日本地理学会の会員であった(甲33の1・2、72、乙1、7、46、原告、槙)。
2 原告は、戦前の地理教育史の研究の取材のため、昭和五九年七月二六日に山形県山形市を訪れ、大東文化大学教授の吉田義信から名前を聞いた被告槙と会い、同人と面識を持った。その際に、原告は、自分の経済地理の研究として、山形県内の農村調査をしたい旨を話したところ、被告槙は、村山市史の編委員をしていること及び農村調査と村山市史に関する話を原告にして、原告を村山市に紹介してもよい旨話した。
3 被告槙は、原告を村山市史の担当部署である村山市教育委員会社会教育課の職員に紹介して段取りをつけ、原告は、昭和五九年一一月に村山市役所で資料を閲覧するなどした。その後、原告は、昭和六〇年八月、同年九月、同年一〇月に村山市の農家と工場の調査をそれぞれ行った。
4 原告は、昭和六二年七月ころ、被告槙から村山市史の刊行が近いことの知らせを受け、被告槙に要請されて、同年八月に、村山市史のために、「就業状況の変化」と仮題を付けた論文(以下「原告第一論文」という。)を作成して被告槙宅に送付し、さらに、被告槙からこれに対する加筆要請があったために、同年九月に、「就業状況の変化」と仮題を付け、図と本文を加筆して書き直した原告論文(原告が著作権を主張するもの)を作成して、被告槙宅に送付した(争いがない)。
5 被告槙は、原告論文について一部削除、付加する変更をなし、さらにその前後に被告槙が執筆した文章と表を加え、また本文中に原告との共同研究であると記載した被告槙名義論文を作成して、自らが勤務する上山高校発行の研修集録に投稿した。
 そして、研修集録は、昭和六二年一二月から翌年一月にかけて、二五〇部印刷されたが、そこには筆者として被告槙の氏名だけが記載された被告槙名義論文が掲載されている。また、被告槙は、そのころ研修集録別刷を一〇〇部印刷した。この研修集録に印刷された被告槙名義論文一七頁のうち六頁から一四頁までの文章と図が、原告論文に変更を加えた部分であるが、研修集録はそのうち一二〇部が配付され、研修集録別刷はそのうち五〇部が配付された(争いがない)。
6 原告は、昭和六三年二月一八日、被告から研修集録別刷一部の送付を受けた(争いがない)。被告槙は、原告に宛てた同月一五日付けの書面(以下「別刷送付文書」という。)をこれに同封していたが、この別刷送付文書には、原告の原稿は村山市史に活用させていただいた、ただ、原告の許可も得ずに共同研究という形で上山高校の研修集録に被告槙との連名で提出しておいたが、印刷ができてみて原告の名前がカットされており驚いた、その事情を聞いたところ、原告は本校の職員ではないから簡単に無断でカットしてしまったとのことであった、是非了解してくれということであり、お許し願いたい、村山市史には原告の名前をきちっと入れる、これは本校の場合と違い被告槙が編集するので確かである旨の記載がなされていた。
7 原告は、この被告槙名義論文のうちの大半が自分が執筆した原告論文によるものであり、これが改変され、原告の著作権及び著作者人格権が侵害されたものであるとえて、当日中に、被告槙に対し、被告槙名義論文の六頁から一六頁までは完全に自分の文章であり、別刷送付文書の内容は承認することができない、原告の名前を入れればよいということではなく、共同研究でもなかったし、研修集録に掲載することも承諾していない、このようなことになるのであれば村山市史の掲載もえ直す旨抗議し、研修集録ないしは研修集録別刷中の原告論文を回収破棄するよう求める葉書を出すとともに、上山高校の校長に宛てて研修集録の原告の執筆分の回収等の措置を求める手紙を送付した。
 原告は、その後、村山市社会教育課長に宛てて、原告が原告論文を執筆した経緯を説明して、村山市史に原告の原稿を掲載することを取り止めたいと思う旨記載した昭和六三年二月二〇日付けの文書を送ったり、山形県教育委員会委員長に宛て、研修集録の回収や村山市史に掲載されないことを確実にすることを要望する同日付けの文書を送付した。
8 被告槙は、昭和六三年二月二一日ころ、研修集録別刷の配付先に対して、文書を送り、研修集録別刷の回収を始め、上山高校でも、研修集録の回収を始めた。
 そして、上山高校は、昭和六三年二月二五日に、原告に宛てて、未配付分の研修集録一三〇部と研修集録別刷五〇部を送付し、その後同年四月までに、被告吉村所持の一部を除いたすべての研修集録を回収して、原告に送付し、また、被告槙は、研修集録別刷については、送付先において紛失した一部と原告所持の一部を除いたすべてを回収して、上山高校において、これを原告に送付した(ただし、被告吉村は、前記印刷部数のほかに見本用一部と印刷所に残っていた三部の合計四部を所持している。)。
9 原告は、被告槙に宛てて、昭和六三年二月二五日付けの内容証明郵便を発送して、原告執筆部分の回収と研修集録の配付先の開示等を求め、これが速やかになされない場合には、それに先立って、経過報告と謝罪文を新聞等に掲載することを求め、以上に反した時は法的手段をとるので、三日以内に被告槙の方針を文書に記載して送付することを求めた。
10 被告槙は、山形県弁護士会所属の被告吉村を代理人として委任して対応することとした。被告吉村は、被告槙の代理人として、原告に対して、昭和六三年三月一日付けの内容証明郵便で、「村山市史地理部門の編委員は被告槙だけなので、右研究の主任者は被告槙であり、他の人は被告槙の共同研究者あるいは研究補助者ということになると思われ、右研究の成果は被告槙の名の下に発表されて然るべきものであり、それ故被告槙が加筆することもあり得べきことと思われる。研修集録には、原告との共同研究であることは明記されており、共同研究者に対する礼儀としては妥当な方法と思料する。確かに右研究を研修集録に掲載するについて原告の了解を得ていない……原告の誤解を招いた点を遺憾に思うので回収作業を急いでいるが、すべての冊子を回収する所存なので、実害は生じず、謝罪文を提出する理由は見当たらないと判断する」旨記載して回答した。
11 原告は、本件について東京弁護士会所属の弁護士である田口康雅(以下「田口弁護士」という。)を代理人として委任した。田口弁護士と被告吉村とは、その後和解交渉をしたが合意に至らず、原告は、昭和六三年七月に田口弁護士を解任した(争いがない。)。
 なお、原告は、被告槙の親戚であり、原告が昭和六〇年八月の農家調査の際の調査の対象となっていた斎藤林兵衛に宛て、同六三年三月三〇日付けの親書を送付し、また、村山市史の編集委員の一人で山形新聞の論説委員である岡崎恭一に宛て、同年八月一八日付けの手紙を送付し、それぞれ本件の経過等を記載した。
12 原告は、平成二年六月に、上山高校を訪れ、研修集録の編集委員の一名であった栂瀬良平教諭に対して研修集録に原告の名前が載らなかった経緯を尋ねたり、山形県庁や村山市役所を訪れるなどした。
 また、原告は、平成二年七月一六日には、文部大臣に宛てて、山形県教育委員会は原告の訴えを無視しているとして善処を求める文書を提出した。
13 山形県の高木尚県会議員は、平成二年七月四日、山形県議会予算特別委員会において、同県教育長に対して、原告が被告槙によって原告論文を盗用されたと指摘している問題について事実確認を求める質問をなした。また、村山市議会においては、平成二年九月、原告と被告槙との右の問題や村山市史に関して質疑がなされた。
14 被告槙は、平成二年三月に高校教諭を退職し、また、同年八月に村山市史の編委員及び編集委員の職を辞任した。
15 原告は、平成二年一二月二一日、被告槙を被告として甲事件の訴訟を提起した。
被告槙は、被告吉村を訴訟代理人として委任して応訴し、原告の著作権及び著作者人格権の侵害の主張を争い、また、平成三年四月二二日に、原告の第三者に対する文書の送付などが被告槙の名誉、人格権を違法に侵害するものであるとして、反訴を提起した。
 原告は、平成六年三月二八日に、反訴の提起は違法であり、また右各事件において被告吉村がなした訴訟活動が不法行為にあたるとして、被告吉村を被告として乙事件の訴訟を提起した。
二 争点
(甲事件)
1 原告は、原告が書いた原告論文について著作権及び著作者人格権を有しているか。被告槙が、原告論文を利用して、この一部を変更して被告槙名義論文として作成して投稿し、研修集録が発行、配付され、自らも研修集録別刷を発行、配付したことは、原告の右の各権利を侵害したものといえるか。
(一) 原告の主張
(1)1 原告は、昭和五九年七月に被告槙と面識を持った際、被告槙に、「自分は経済地理学の三本目の論文を書くために、山形県内の農村調査をしたいと思っている。どこかの役場に紹介して欲しい。」と依頼したところ、被告槙が、「私は村山市史の編委員をしているので村山市役所に紹介してもよい。原告は自分の論文を書くために調査をしたら、それを村山市史にも書いてくれ。村山市史に執筆すれば原稿料が出る。」旨述べたために、これを了承し、自らの学術論文とともに村山市史の執筆のために調査研究することにした。
2 被告槙は、昭和五九年一一月、原告を村山市役所に紹介したが、この時点で原告がする調査の題名や調査地は定まっていなかった。そして、原告は、その後自ら調査地の三集落を決定し、昭和六〇年八月に自ら作成した調査用紙を持参して、一人で農家調査を行い、同年九月、一〇月に原告一人で工場等の調査を行ったものであり、被告槙と共同調査や共同研究をした事実は全くない。また、被告槙は、昭和六〇年九月に原告が東北地理学会の行事に参加して被告槙と会った際にも、村山市史のために執筆すれば原稿料が出ると明言している。
3 そして、原告は、昭和六二年七月二〇日ころに、被告槙から、テーマと枚数は自由であるから、村山市史に掲載するための原稿を執筆して、同年八月二〇日までに被告槙の自宅に送付するように要請されたため、自らの調査結果に基づいた研究結果をまとめて単独で執筆した原告第一論文を被告槙の自宅に送付し、さらに、被告槙から主に図を加えるように要望があったため、同様に単独で執筆して原告論文として書き直して、被告槙の自宅に送付したものである。
4 ところで、著作権法二条一項一号に規定のとおり「著作物とは思想又は感情を作的に表現したもの」であり、また、同項二号に規定のとおり、「著作者とは著作物を作する者をいう」のであって、文章については、その執筆者が思想感情を作的に表現するものであるから、執筆者が著作者であり、その著作権は執筆者に帰属するものであって、その者の地位、身分や執筆に至る過程に関わらない。
 原告論文は、原告が単独で、原告の思想感情を原告の表現力で執筆したものであるから、原告の著作に係る著作物であり、原告がその著作者として著作者人格権と著作権を有することは明らかである。なお、原告は、原告論文の著作権を村山市にも被告槙にも譲渡した事実がないし、著作者人格権は譲渡することができない。
(2) 被告槙が作成した被告槙名義論文のうち六頁三行から一四頁二一行までは、原告論文に一部改変を加えて複製したものであり、原告の著作権(複製権)と著作者人格権(同一性保持権)を侵害している。なお、本件訴訟中に被告槙が証拠として提出した被告槙名義論文の原稿である乙五七では、No15と記載された頁からNo30と記載された頁までがこの侵害部分に当たる。そして、被告槙名義論文のうち一四頁二三行から一六頁二一行までも、内容的に原告の著作物を要約したにすぎず、原告の右の各権利を侵害している。被告槙は、前記の経過で故意にこれらの権利を侵害した。
(3) 原告は、原告論文を村山市史に掲載するためにその編集委員である被告槙に送付したものであり、研修集録に掲載することは認めていないにもかかわらず、被告槙は、原告論文を複製し、原告の氏名を表示せずに、被告槙名義論文となし、これが研修集録に掲載され、配付、公表されることを知りながら投稿したのであり、これによって現に上山高校が研修集録に掲載して発行、配付したのであるから、被告槙の右の行為は、故意に原告の著作権(複製権)と著作者人格権(公表権・氏名表示権)を侵害するものである。また、被告槙が自ら研修集録別刷を発行、配付した行為も、故意に原告の著作権(複製権)と著作者人格権(公表権・氏名表示権)を侵害するものである。
 なお、被告槙の別刷送付文書の記載や被告槙の供述では、被告槙が投稿した被告槙名義論文の原稿には被告槙名義の他に原告名も記載してあったがカットされたとしているが、原告が平成二年六月に研修集録の編集者であった上山高校の栂瀬教諭に確認したところ、栂瀬教諭は被告槙が投稿した原稿には当初から原告名の記載はなかったと述べており、また、本訴提起後の平成六年九月に至って被告吉村から提出された乙五七(被告槙名義論文の原稿)には執筆者として被告槙一人の氏名が記載され、原告の氏名の記載はないものであり、被告槙の右の弁明は、いずれも虚偽であることが明白となっている。
(4) 被告槙が原告論文に改変を加えて原告の著作者人格権(同一性保持権)を侵害した例を挙げると、次のようなものがあり、また、被告槙は、被告槙名義論文の中で、本研究は原告との共同研究である旨の虚偽の記載を入したため、原告は、これによって、研究者としてその名誉、声望を棄損された。
1 農家調査の集落数について
 原告が行った農家調査は、調査地として、いずれも村山市内の「大高根のうちの大鳥居」、「大倉林崎の二集落のうちの一つ」、「戸沢樽石のうちの須磨」の三つの集落を選定したうえで、原告自らがそれぞれの集落の全戸を戸別訪問して聴き取り調査をしたものであり(ただし、大鳥居及び須磨の調査不能の各一戸を除く。)、また、この中には非農家も含まれているものであるが、原告が被告槙に送付した原告論文では、調査対象世帯のプライバシー保護の観点から、その集落の地名の一段上位の地名のみを掲げることとし、調査対象の戸数を、それぞれ「大高根の中の二九戸」、「大倉林崎の中の一八戸」、「戸沢樽石の中の一九戸」としたうえで、「それぞれ一まとまりになった地区の全世帯を調査し」たと記載した。
 しかし、被告槙は、原告のなした右の調査研究に全く関わっていないことからこれを誤解して、勝手に右の各戸数について、これらを分子として、それぞれの地名に属する全農家戸数を分母とした割合を計算し、大高根を例にすると、大高根の中の二九戸は、全農家の五〇・九パーセントに当たるという意味の数字を入している。これは、分母が全農家数であるのに、その分子は非農家一一戸を含む二九戸とするもので、分母と分子の概念が異なる無意味な数字となっている。さらに、被告槙は、被告槙名義論文に、原告論文に記載のまま、「それぞれ一まとまりになった地区の全世帯を調査し、」としておきながら、その直後に「その中から対象世帯を抽出によって選んだ」と入しているが、全世帯を調査したのに対象世帯を選ぶことは矛盾であり、意味不明の文としている(なお、被告槙は、別刷送付文書において、原告に対して、「一つ質問があるのですが、原稿の中で各集落(林崎、樽石、大高根)共、全農家数に対するアンケート調査解答数の%がわかりませんので、私なりに数字を入れておきました、これで宜しかったでしょうか。特に大高根の場合大字ですので一寸気にかかります」旨問い合わせており、被告槙の右の改変と併せて、被告槙が原告と何らの共同研究をしていないことを、自ら期せずして証明している。)。
2 題号について
 原告論文では「就業状況の変化」という題号が付されていたが、被告槙はそれを三章の見出として、被告槙名義論文の題号を「全国総合開発と農村地域構造の変貌(第一報)|村山市の就業状況の変化|」と付けている。この題号はかなり大げさな題であるが、内容はそれに伴っていないとえられるし、「構造の変貌」という大げさな論説的題と「(第一報)」は全くそぐわない。このように、原告の学問的立場や好みに合わない題の下に自己の文が使われることは精神的に苦痛である。
3 図の無断入について
 被告槙は、原告論文を盗用した部分に、一二頁の図6及び一三頁の図7のような図を勝手に入したが、これらの図は一般人向けの村山市の広報資料に掲載されたものを転用したものであり、論文の質を決定的に下げるものであり、図6に表記の漫画は品位に欠けるものである。また、図7から読み取れる昭和五〇年、昭和五三年の事業所数と、二頁の表1及び五頁の表6にそれぞれ記載の事業所数とは大きく食い違っているが、その説明が全くなされていない杜撰なものとなっている。
(二) 被告槙の主張
(1)1 被告槙は、昭和五九年当時、村山市史編委員で村山市史地理編の主任であり、村山市に工業が進出したことにより農業がどのように変貌したかを研究テーマとして、これを村山市史に執筆しようと企画しており、そのために農業と工業の両面からの調査を予定していた。
 そうしたところ、原告が農業地理のフィールドを得たいとの要望があったので、被告槙は、旧来の知人である吉田義信の紹介でもあることから、原告に右企画を話したうえで、原告に農村調査を依頼した。
 右企画における農村調査のためには、対象地の選定が極めて重要な意味をもつところ、被告槙がこれを選定し、原告は、被告槙の右の要請を受けて調査を行った。また、村山市も、村山市史のための調査ということで、経済的にも人脈的にも原告に援助を与えた。
2 被告槙は、もともと農村調査も自分が行う予定でいたところ、教員としての経歴は有していても研究者としては実績のある者ではない大学院生の原告に対し、勉強の場を与えて、村山市史のための調査を分け与えたものである。一般的に大学院生は研究者としては一人前の地位にあるわけではなく、研究者の助手として活動することがあり、本件もこのような形態にすぎない。
3 被告槙は、村山市史の当初の計画によると村山市史地理編は昭和六三年に刊行することになっていたため、原告に刊行が近いことを知らせるとともに調査結果をまとめるように申し入れ、原告がまとめた調査結果である原告第一論文には、内容、表現に稚拙な部分があったので、さらに原告の勉強のために訂正を求めたところ、原告論文が送付されてきた。被告槙としては原告から調査結果のみの報告を受けて、自分で文章化しても良かったが、原告に原稿料をやりたいがために文章化するよう要請したものである。
4 このように、原告論文は、当然に被告槙による加筆訂正を前提として被告槙の論文に組入れられるべき「調査結果」又は「下書き」にすぎないところ、被告槙は、勤務先の上山高校で毎年年度末に同校教諭の過去一年間の研究成果を学内誌である「研修集録」に掲載することになっていたので、原告の「調査結果」を材料として、自己の学問的判断の下に村山市史に掲載すべき論文をまとめ、中間発表という形で、研修集録に投稿して掲載し、かつ右論文について研修集録別刷を作って知人に配付した。もっとも、被告槙は、原告が五〇歳を超えた者である等から、最大限の敬意を払い、共同研究者、共同執筆者として遇しようとしており、研修集録に発表する際にも原告との「共同研究」である旨明記している。
5 原告の調査は、原告主張のとおり、原告自身の論文のためという側面と村山市史のためという側面の二面性を有していたが、右に述べたとおり、後者の面においては、まさに原告は被告槙の研究補助者(助手)であって、そのために作成された原告論文は、当然に被告槙の著作物に組入れられるべきものであったものであり、原告も原告論文を送る際にはこのことを熟知し、その旨の合意の下に送付してきたものであって、村山市史に掲載すべき論文の著作権は被告槙にのみ専属すべきものである。また、原告論文は、被告槙の助手のものとして、被告槙の論文に組入れられて加筆されて公表される旨の合意の下に作成されたものであるから、著作者人格権は被告槙にのみ専属する。
6 被告槙が村山市史のために工業の研究を進めていたことを原告が知っていたことは、原告が被告槙に宛てた葉書からも明らかであり、また、被告槙は、原告が書く原稿の項目作りは自分がすると記載した葉書を原告に送っている。項目をどのように立てるかは、論文にとって極めて重要な要素であり、原告は、被告槙の右のような葉書に何らの異議も止めずに原告論文を送付していることからも、原告論文が被告槙の論文に組み込まれるべきことを十分承知していたとみるべきである。なお、原告は、原告論文の表題を一部変えたことを同一性保持権侵害と主張するが、右の点からも理由がない。
7 しかし、被告槙が、被告槙名義論文を村山市史ではなく、研修集録に掲載したことによって、原告の激しい怒りを買ってしまった。確かに、第一に、村山市史の前に研修集録に掲載したこと、第二に、調査対象の集落のパーセンテージを誤ったことは、道義的に問題がないわけではない。
 しかしながら、第一については、それまで原告との間で研修集録ということは一切出てはおらず、第二については、原告との意思疎通を十分図らなかった点に問題がないわけではないが、原告論文について、どのような形で、どのような名義で公表するのか、またどのように加筆するのかは被告槙の専権であったのであるから、右の点が道義的には問題があったにせよ、原告の権利の侵害にはならない。
8 以上のとおり、原告が書いた原告論文は、当然に被告槙の著作物に組入れられるべきものであり、原告は独自の著作者人格権及び著作権を有しておらず、被告槙に右権利が専属している。
 原告は、右のような経緯を無視し、自分が単独で村山市史の執筆者となった旨の主張をするが、山形県において何の実績もなく、しかも院生にすぎない者が後世に残る市史の単独執筆者たりうる筈がない。
(2) 仮に、被告槙の右の主張が認められなくても、被告槙名義論文は、被告槙と原告との共同著作物であり、両者の間で、被告槙が著作者人格権及び著作権を代表行使する旨の合意があった。
 共同の意思の存在は、互いに相手方の意思に反しない程度の関係が認められれば足り、それ以上の意思の連絡は要しない。原告にも共同研究の意思があったのであり、代表行使するものが被告槙名義論文であることは、右に述べた調査の経緯からして明らかである。なお、原告が共同研究の意思をその後に翻意したとしても、右翻意は、被告槙に到達していない。
(3) また、原告と被告槙は、昭和五九年から昭和六〇年にかけて数々のやりとりをしており、そのころ、両者の間で、将来原告が作成すべき原稿の著作権を被告槙に譲渡する旨の譲渡契約が締結され、原告はこの契約に基づき、原告論文を送付した。
2 被告槙が原告に対して村山市史に掲載するためと言って原稿の執筆を依頼して原告から原告論文の送付を受けたことが、詐欺的不法行為といえるか。
(一) 原告の主張
(1) 被告槙は、原告と初めて会った昭和五九年一一月から研修集録が発行されるまでの三年間にわたって、原告に村山市史に掲載するための原稿の執筆を依頼し、二度にわたって執筆すれば原稿料が出ると話し、さらに、同六二年七月には、村山市史が刊行されることになったとして、期限を限って正式らしくみえる原稿の執筆と被告槙の自宅宛ての送付を要請し、さらに原告第一論文に対する訂正要求もして、同年九月に原告論文を被告槙の自宅宛に送付させ、これを入手した。それにもかかわらず、村山市史地理編は、未だに発刊されておらず、右要請当時、差し迫った刊行予定がなかったのである。
 他方、被告槙は、原告論文を入手するや、これを前記のとおり改変して被告槙の単独執筆名義の論文として研修集録に投稿し、同年一二月末ころに研修集録に掲載させ、また、研修集録別刷も自ら印刷し、これを配付している。
(2) 右の経過と、出版権者は原稿の引き渡しを受けた後特約がない限り六か月以内に出版すべき義務を定めた著作権法八一条一号の趣旨に照らせば、被告槙は、村山市史地理編の編集委員としての地位を利用して、当初から村山市史に掲載する意図がなく、私的に利用する意図であったのにこれを隠して、原告に原稿の執筆を依頼しているのであり、昭和六二年七月には、原告に対し、研修集録の被告槙名義論文に使う意図で村山市史に使うための原稿であると偽って原稿の執筆と送付を要請し、また、その訂正も要求して原告論文の送付を受け、これを被告槙の占有下に置いたものであり、これは詐欺的不法行為である。
また、被告槙は、被告槙名義論文を作成してこれを投稿して、原告の原告論文についての著作者人格権(氏名表示権・同一性保持権)を侵害しているところ、被告槙は、本件訴訟でも原告にはこれらの権利がないと主張しているのであり、仮に村山市史に掲載する場合であっても、執筆者として原告の氏名を表示せず、また被告槙において勝手に加筆して原告の右の権利を侵害する予定であったものであるから(このことは被告槙も供述しているところである。)、これは不法行為をする意図を隠して、原告に原稿の執筆を要請して原告論文を入手したものであり、この点からも、詐欺的不法行為である。
(二) 被告槙の主張
(1) 被告槙は、原告が作成する原稿が内容的に村山市史に使えるものであったら、被告槙が執筆する予定の工業に関する部分を加え、村山市史に掲載し、かつ執筆陣の中に原告を加えるつもりで、原告に原稿の作成、交付を求めたものであり、何ら欺罔行為をしていない。
(2) 被告槙は、村山市史の前に原告論文を研修集録に掲載はしたが、最終的には村山市史に掲載する意思があったことは、別刷送付文書の記載や被告槙の供述から明らかである。
(3) 被告槙は、原告を研究補助者あるいは助手であったと主張しているが、これは法的見解を述べたものであり、執筆者として遇する意思があったかどうかとは別問題である。被告槙は、原告を単独の執筆者として扱う意思はなかったと述べているのであり、執筆陣に加えないとは一度も主張していない。
(4) 原告主張のように、村山市史地理編の発刊は遅れているが、それは、その調査対象が極めて広範囲にわたり、その調査及び執筆が計画から遅れていたことや、他の委員の執筆が遅れたこと、村山市側の事情なども加わって全体が遅れたものである。
また、原告が村山市史への掲載を拒否したことにより、農村調査をやり直さざるを得ず、その分穴が空き、さらに被告槙が編委員を辞任したことによっても遅れているのである。
3 被告槙の不法行為責任が肯定された場合の損害額並びに原告の謝罪広告及び研修集録別刷の回収等の措置の請求の当否
(一) 原告の主張
 原告の損害額は、次のとおりである。
(1) 著作権侵害に基づく損害額として合計二三三万円
1 被告槙は、被告槙を著作者、原告を共同研究者と表示して複製配付されると知りながら研修集録に投稿して、研修集録が二五〇部発行され、さらに自ら研修集録別刷一〇〇部を印刷し内五〇部を日本地理学会員等に配付して、昭和六二年暮れから三か月間に合計三五四部(見本用等四部も含む)を出回らせた。
 この大部分は、その後回収されたとしても、被告槙は、その後も被告槙名義論文が被告槙の権利に属すると曲解して宣伝していることは、次のことから明らかである。すなわち、被告槙は、研修集録別刷の回収のための事情説明文において、故意に原告の文章を複製したにもかかわらず、被告槙の「不注意」から、原告の「内容」が入っていたと虚偽の記載をしたり、同時に、配付先の一人である吉田に対して、名誉を守るために戦うとか被告槙との共同研究であると宣伝している。また、被告槙は、法廷で供述しているように、山形県教育委員会に対しても、原告が被告槙の研究補助者若しくは共同研究者であるとか、原告は被告槙の研究の調査の一部を担当したもので、送ってきた原稿はもともと被告槙に帰属するものだと述べたり、本件訴訟でも、原告論文の作成者が原告であっても、その著作者人格権と著作権は被告槙に専属すると主張している。
 このように、被告槙の著作権侵害が明らかであるにもかかわらず、社会的には、まだ原告と被告槙との間で、原告論文の著作権について争いがある状態にとどまっている。そこで、原告がなした調査は原告が学術論文を執筆する目的も兼ねていたことは事実であるが、原告が原告論文と同内容の論文を書いたとしても、被告槙名義論文の後発である原告が逆に盗作を疑われ、疑わしいものは掲載しないという扱いを受けるだけでなく、ダーティイメージを被る恐れがあり、原告論文の権利の帰属を明らかにしないで学術論文は書けない状態となった。そして、経済地理学の論文はアップツーデイトであることを要するので、この点で決着がついたとしても、調査して五年を経過すれば、もはやデータが古くなって、本来予定した単独の論文には使えなくなったので、原告は、村山市史の原稿料を失ったのに止まらず、原告第一論文と原告論文の執筆費用と全調査費用が無駄になった。
2 右の状況によれば、被告槙の著作権侵害による財産的損害として、次のアとイの合計金九〇万円が相当である。
ア 原稿執筆費用 二〇万〇五〇〇円
 原告は、原告第一論文の作成に五日間、原告論文の作成にもほぼ同時間がかかり、合計一〇日間を要しており、一日一〇時間の拘束として、時給二〇〇〇円(原告の当時の家庭教師としての時給三〇〇〇円のうち、原稿作成の拘束時間には休憩があるので、その三分の二とする。)として計算した原稿執筆のための労力として二〇万円と文房具代二六〇円及び原稿送料二回分二四〇円の合計金額である。
 この執筆費用の金額は、被告槙の原稿執筆の要請に基づいて要したものであるから、詐欺的不法行為に基づく財産的損害額としても選択的に請求する。
イ 調査費用 六九万九五〇〇円
 原告は、調査のための労力として、村山市で一七日間、東京で七日間、合計二四日間を要しており、一日一〇時間として、前記のとおり時給二〇〇〇円で計算した四八万円と、村山市での宿泊費六万六〇〇〇円、調査対象世帯等に対する土産代四万五〇〇〇円、資料購入費一万円、タクシー・バス・雑費九七〇〇円、電車賃(新幹線と乗継特急券代を含む)八万八八〇〇円の合計金額である。
3 慰料については、次のアとイの二つの事情を慮した金額の合計一四三万円が相当である。
ア 原告は、被告槙の複製権侵害行為によって、前述した理由により、原告論文と同内容の学術論文を作成することができないため、被告槙に対して原告論文が原告の著作物であることを示すための措置をとることを要求し続けたにもかかわらず、被告槙はこれを拒否した。このため、原告は、原告論文と類似しない論文を書こうとしてノイローゼとなり、以前のように高校非常勤講師等として就労することができず、また、この学術論文とそれまで原告が著作し発表した二つの論文を三部作として博士論文の基礎にしようという計画も乱された。また、この三論文が揃えば、大学の助教授や非常勤講師等に就職できるかも知れなかったのに、この就職機会を失った。これらによる精神的苦痛を金銭的に評価すると、被告槙の不法行為によって、少なくとも一年間は就職が遅れ、また就労することができなかったとえて、原告がこれらに就労すれば、いずれの場合でも年間九八万円の収入を得られたと思われるので、それを慰料の金額とする。
イ 原告は、被告槙に対して、著作権侵害による被害の回復を求める措置を要求したが、被告槙は、これを拒否したばかりか、次のとおり原告に対して著作権侵害に関して虚偽の説明を行うなどしたり、代理人である被告吉村を通じて、原告が被害回復のために行った行為について、名誉棄損に当たる不法行為である旨記載した文書を送付して威嚇してきた。
 すなわち、被告槙は、被告槙が研修集録に被告槙名義論文を投稿する当初から、その原稿に執筆者として被告槙一名として原告の氏名を記載しておらず、また、この時点で村山市史に原告の原稿を載せることも不確かだったにもかかわらず、別刷送付文書において、原告との連名で提出しておいたが、印刷ができてみて原告の名前がカットされていたとか、村山市史には必ず原告の名前を入れる、村山市史の編集に追われている旨虚偽の事実を記載してきた。また、被告槙は、原告が別刷送付文書を受け取った後、村山市史はまもなく出る旨の虚偽の事実を電話で述べた。この村山市史の発行についての虚偽のため、原告は村山市史にも原告論文が改変される形で掲載されたのではないかと疑い、これを確認するために、原告にとって必要のないものであったが、近時に発行された村山市史の他の巻を購入するという損失を受けたり(書籍費用四五〇〇円)、その後も、村山市史に掲載されるかも知れないと危惧を抱いて不安になった。さらに、被告槙名義論文の原稿の氏名記載についての虚偽のために、原告の真相究明が遅れたのであり、この虚偽がなければ、原告が別刷送付文書を見た後に山形県教育委員会に調査を要望する手紙を出したり、平成二年六月に上山高校の栂瀬教諭を訪れ、さらに調査したり、山形県教育委員会の調査結果の解答を得るべく文部省に相談するために文部大臣宛の文書を提出する必要もなかった。
 また、被告槙を代理した被告吉村は、原告が着手金二〇万円を支払って委任した田口弁護士との和解交渉中に、田口弁護士に宛て、昭和六三年五月二七日付けの書面を送付して、原告が上山高校の校長、教育委員会や斎藤林兵衛に出した文書について、被告槙を中傷する文であり、もし、本訴になれば、当方からも名誉棄損で反訴を出さざるを得ない旨記載して原告を威嚇し、また、被告吉村が作成した和解案を田口弁護士に送付し、この和解案の中で、被告槙は被告槙の研究の一部を原告に担当させた旨の虚偽の内容や、原告のそれまでの行為を誹中傷行為と認識したうえで、将来の誹中傷行為を禁止する条項を含めて、この和解案を受諾させようとして、原告に精神的苦痛を与えた。さらに、被告吉村は、被告槙を代理して、原告に宛て、平成二年七月二四日付けの内容証明郵便を送付して、原告が政治家、山形県教育委員会、文部省等に対して、被告槙を非難する意思を表明しており、これらのことは被告槙の名誉を著しく侵害するものである旨記載して、原告を威嚇してきた。
 被告槙が著作権侵害行為の後に自らや被告吉村を代理人として行ったこれらの違法な行為によって、原告の権利回復が遅れて損害が拡大し、さらに精神的苦痛を被ったものであるから、これらの事情も慰料額を定めるに当たって慮すべきであり、右の精神的苦痛を慰するには少なくとも四五万円を相当とする。
(2) 著作者人格権侵害に基づく慰料六〇万円
 被告槙は、原告論文を複製した被告槙名義論文の執筆者として被告槙の名前を挙げ、原告論文について前記のとおりの改変をなし、これを被告槙と原告との共同研究であるという虚偽の事実を付加して公表したものである。原告は、これによって名誉、声望を棄損され、多大な精神的苦痛を被った。
(3) 謝罪広告及び研修集録別刷の回収等の措置について
 被告槙による原告の著作者人格権の侵害の程度は悪質であり、謝罪広告は適当な措置として肯定されるべきであるし、被告槙は、研修集録別刷の大部分を回収してはいるが、未回収分として、被告槙の送付先において紛失した一部のほかに、被告吉村が所持している四部がある。また、この四部の他に、被告槙は、被告槙名義論文の原稿を所持していることが本件訴訟中に判明したので、右四部及び右原稿のうちの複製部分の焼却(廃棄)の措置も認められるべきである。
(4) 詐欺的不法行為に基づく慰料五〇万円
 被告槙は、出版権者を村山市とする村山市史地理編の担当者として村山市史掲載のための出版契約の締結を装って、村山市史のためとして原告に原稿の執筆を要請し、原告論文を被告槙の占有下においたものであり、しかもこれは、著作者人格権及び著作権侵害の予定のもとになされたものであるから悪質であり、慰料として五〇万円が相当である。なお、この場合の損害額は、被告槙が契約を装っておきながら、後でその契約を否定することは公序良俗に反するから、契約が有効に成立した場合に原告が得ることができた利益を喪失した損害額以上のものが認められるべきであり、参として、原告の原告論文による原稿料を挙げると、これは四万五六〇〇円相当となる(原稿料は、村山市議会の議事録に記載の質疑回答によると、四〇〇字原稿用紙で一枚一二〇〇円であるところ、原告論文は、本文一六枚に、図4と図5が付記されており、これを二枚分として、合計一八枚相当となり、この他に、末尾添付の図1ないし図3については、図のデザイン料を含む画料として一枚八〇〇〇円相当で三枚分で計算した。)。
(二) 被告槙の主張
(1) 著作権侵害合計二三三万円について
1 そもそも、著作権侵害による損害は、基本的には自分が失った利益あるいは相手方が得た利益である。
 原告が得るべき利益は、原稿料以上のものではあり得ないが、村山市史にどの程度掲載できるか不明の段階であったのであるから、そもそも算定が不能であるばかりでなく、価値が現実化していない。また、村山市史への掲載を拒否したのは原告にほかならない。一方、被告槙も、村山市史編委員を降ろされ、一切掲載されないことになったのであり、利益を得ていない。このように、著作権侵害による損害は全くない。
2 執筆費用のうち執筆労力の金額は何の根拠も示されておらず、もともと、原告の労力は村山市史に掲載された場合の原稿料として対価になる筈であったもので、それ以上のものではなく、右に述べたとおりこの原稿料も損害とは認められない。
 原告は、調査費用が無駄になったとするが、もともと原告の調査は、村山市史のためだけのものではなく、原告の論文作成のための意味もあったのであるから、被告槙が研修集録等を回収し公的に被告槙名義論文が除かれたことによって、原告は自分の調査を基に論文発表するのに何らの支障もない状態になった。したがって、原告の調査は、無駄になっておらず、損害と認めることはできない。
3 慰料について、原告は、一度被告槙名義論文として研修集録に載ったから、原告が発表すると盗作といわれかねないと主張するが、被告槙はできる限りの回収をしているし、公的に削除された文について自己の論文などとできるはずもないから、原告が右のようにえて、論文の発表を止めたことをもって損害とすることはできないし、被告槙の行為とは相当因果関係もない。また、原告は、就職の機会を失ったと主張するが、就職は、その者の研究成果だけでなく、年令や全人格的なものが判定要素となるのであって、被告槙の行為とは相当因果関係がない。また、被告吉村は、原告の行動が過度にわたったために警告を発したものであり、弁護士間で提出した書面をもって威嚇ということは論外である。
(2) 著作者人格権侵害による慰料六〇万円について
 被告槙に著作者人格権を侵害する行為がないことは前述したとおりであるが、村山市史掲載の前に原告論文を研修集録に掲載したことが若干道義に反する面があったことは、被告槙も自認するところである。仮に、この点が著作者人格権侵害に当たるとしても原告の請求は過大に過ぎる。
 研修集録及び研修集録別刷は非売品であり、それぞれ山形県内の図書館や被告槙の知人に配付したに過ぎず、その量も少なく、かつほぼ全部が回収されている。研修集録は、被告槙名義論文が削除されて再発行されて、公的には刊行物から抹消されている。これによって、原告主張の著作者人格権侵害行為は、ほぼ完全に回復されたといえるもので、さらに慰料を請求することは過大な主張である。
(3) 謝罪広告等について
 被告槙名義論文は、ほぼ全部回収が済んでおり、被告槙は、田口弁護士との交渉でも誠実に対応してきた。本来、一部の特殊な範囲でしか配付されなかったものに対し、かつ、右のような対応があったにもかかわらず謝罪広告するとすれば、広く市民に知らされることになり、余りにも過大な要求であって失当である。なお、訴訟代理人である被告吉村の手元には三部の研修集録別刷と一部の研修集録別刷の見本があるが、被告吉村は、代理人として、本件訴訟が終了すればこれらは無用のものであることから、廃棄してもよいとえている。
(反訴事件)
4 原告が、被告槙が原告に研修集録別刷を送付した後に、第三者に対してなした行為が、被告槙の名誉、人格権を違法に侵害する不法行為といえるか。
(一) 被告槙の主張
(1) 原告は、前記のとおり、被告槙の研究補助者(助手)であり、原告が作成して被告槙に送った原告論文は被告槙の著作物に組入れられるべきものであって、原告は独自の著作者人格権及び著作権を有しておらず、右権利は被告槙に専属している。仮に、そうでないとしても、被告槙名義論文は、原告との共同著作物であり、被告槙が右権利を代表行使する旨の合意があり、又は、原告は被告槙に対して原告論文の著作権を譲渡する旨の合意をしており、被告槙は何ら原告の権利を侵害していない。
 しかるに、原告は、自分に右権利があり、被告槙が原告の右権利を侵害したものと誤解して、次の(2)1ないしまでの一連の行為をして、被告槙を盗作者よばわりし、かつ教員や村山市史編集者としての適性を非難するなどして、被告槙の名誉、人格権を違法に侵害した。
(2) 仮に、被告槙の行為に何らかの権利侵害があるとしても、原告の次の1からまでの一連の行為は、社会的相当性を逸脱し、受忍限度を超える違法なものであり、不法行為に当たる。
1 原告は、昭和六三年二月一八日付けの上山高校の校長宛の手紙に、被告槙名義論文の大部分は原告が自分一人で研究をし執筆したものだと主張し、研修集録の全面回収を求めただけでなく、一か月以内に研修集録に事情説明と謝罪文を掲載せよなどと不可能なことを求め、これをしなければしかるべき所で公表し、かつ法的処置をとるなどと記載して、いたずらに同校長を困惑させて、被告槙を窮地に陥れた。
2 原告は、教育委員会が教員の人事権を掌握していることを承知したうえで、同六三年二月一九日ころ、山形県教育委員会指導課員に電話して、被告槙が原告の論文を盗用したと非難して、研修集録の回収を求め、さらに、同月二〇日、山形県教育委員会委員長宛に文書を送付して、同様の主張をなし、右文書に「こんな人をまだ見たことがありません。私も中・高の教員をしておりましたが、教員としてはこんなことが許されるかどうかはあなた様の御判断にまかせます」と記載した。
3 原告は、同六三年二月二〇日、村山市教育委員会社会教育課長宛にも手紙を出して、著作者人格権侵害を非難しただけではなく、「この際、私のを載せる部分は、槙氏以外(彼は私の文を自分の文として出す位ですから暗記する位知っています)の人に改めて執筆を依頼して下さい。そのほうが必ず村山市史を美しいものとして後世に残せますので、多少遅れるとか、めんどうとかあってもそのようにお願いします」と記載し、いたずらに村山市史担当者を困惑させ、被告槙も編集委員として窮地に立たされた。
4 原告は、同六三年三月三〇日、斎藤林兵衛が被告槙の親戚であることを知りながら、手紙を送り、その中で、著作者人格権侵害を訴えたのみならず、「心ならずも市史への掲載を槙事件でことわったのも、これ以上槙氏のように、人の著作権を何とも思わない人にまかせておくのは耐えられず」、「村山市はこういう人を編者に選ばれたことを私はうらみに思っています」と記載したため、右は被告槙の多くの親類に知れるところとなり、被告槙は困窮した。
5 原告は、同六三年四月四日開催の日本地理学会春季大会の懇親会で、東北大学助教授の丁野や会う人ごとに被告槙が原告の論文を盗用した旨流布して歩いた。
6 原告は、同六三年六月下旬ころ、単に各所に文書を送付したのみならず、毎日のように上山高校の校長、教頭、山形県教育委員会等に電話して、研修集録の回収や被告槙に対する指導等を要求し続けたものであり、その頻繁さに関係者は苦慮するとともに、被告槙に対する風当たりも強くなった。
7 原告は、平成二年六月二二日、上山高校を訪れ、栂瀬教諭に対して、研修集録発行が著作権侵害行為に当たると非難し、その発行過程を詰問し、さらに、村山市役所を訪れ、教育委員会、総務課、商工観光課において、原田一裕ほか数名の職員に対して、被告槙は盗作者だと非難し、村山市史の編集委員として不適任である旨述べた。
8 原告は、右同日、山形県教育委員会に赴き、職員に対して、山形県が本件について何らの対応をしないことを非難し、場合によっては山形県を相手に争う旨述べた。
 同教育委員会は、昭和六三年の時点で、本件は原告と被告槙との個人的な争いである旨の見解を表明しているにもかかわらず出向いたものであり、これは被告槙に対するいやがらせでしかない。
9 原告は、平成二年七月に、文部省に出向いて、文部大臣宛ての文書を提出し、被告槙はこれまでもしばしば他の著作を盗用し、それは許されてきたとの東北大学助教授の証言もある、村山市は多額の公金を被告槙に渡していて、被告槙はそのうちのかなりの部分を原告に渡したとうわさを流しているらしい、被告槙は非行をした当時現職教諭であり、また村山市史の編者であり、本件が山形県及び日本地理学界の関係者をはじめとする社会に与えた衝撃は大きい旨記載した。
 これらは、事実に反するものであり、大騒ぎしているのは原告だけであって、本件を知った山形県人及び日本地理学界も全体的に冷やかに受け止めていたものである。
 本件は、個人的な紛争であって行政責任は関係なく、被告槙の上司に対応を求めるにしても学校長程度がせいぜいであり、その他の者に流布することは常軌を逸している。
10 原告は、同二年八月、村山市史の編集委員であり、山形新聞社の役員である岡崎恭一に手紙を発送し、その中で、盗作であると記載しただけでなく、「私は実力からいっても彼と共同研究しようと思ったことはなく(事実もなく)、私なら補助者としてもお願いしないでしょう」、「六二年七月市史の原稿を送れというのも、槙氏が勝手に(盗用するため)発したもので……ここからサギが始まったのでしょうか」などと決定的に侮辱的な言葉を記載している。
11 原告は、同二年六月二二日ころ、法政大学教授と肩書を偽ってD温泉に投宿し、工藤和子、柴田弓子両氏に自分に都合の良いことのみを話し、右両名を介して、高木県会議員をして、県議会において本件を取り上げさせ、これは毎日新聞の報道するところとなった。さらに、原告は、村山市議会議員をして、市議会で本件を取り上げさせた。
(3) 原告の右の行為のうち、昭和六三年になされたものは、被告槙及び代理人である被告吉村以外の者に対して執拗になされた点において違法性を帯びる。
 被告槙は、速やかに回収作業に着手したのであって、それにも係わらず各方面に苦情を述べられたことは耐え難い苦痛であり、これらのことは、被告槙の教諭退職の原因となった。
(4) 平成二年になされた原告の行為は、さらに違法性が高い。
 研修集録及び研修集録別刷は既に大部分回収され、上山高校でも研修集録が作り直され、被告槙名義論文は、研修集録から公的に抹消された。これで、原告の実害は事実上無くなっており、原告が独自に論文を発表するのに何の支障もない状態になっているのに、原告は、その後二年を経て各行為に及んだのである。これらのことは、被告槙の村山市史の編委員の辞任の原因ともなった。
(5) 被告槙は、親切心から原告に研究の材料を与え、物心両面にわたって援助を与えたにもかかわらず、原告の右の行為によって、名誉、人格権を侵害され、多大な精神的苦痛を受けたものであり、これを慰するには少なくとも五〇〇万円を相当とする。
(二) 原告の主張
(1)1 (一)(2)1の上山高校の校長宛の手紙について
 原告は、昭和六三年二月一八日に、被告槙から研修集録別刷の送付を受けて、本件の著作者人格権と著作権侵害の事実を知り、直ちに被告槙に、葉書で別刷送付文書の申し出の趣旨を了承しないことを伝え、校長にも速達で手紙を出した。これは、被告槙が書いた別刷送付文書中に、上山高校の編集者が原告の名前を無断でカットしたとの記載があったため、その調査を依頼するためと、研修集録を回収するのに校長が適任であると思ったからである。原告は、この手紙で、研修集録に、事情説明と謝罪文を三月二〇日までに掲載することを要求したが、これは、研修集録が年一回の刊行であると知らなかったために、同誌次号にこれらの文を掲載するのが著作権回復のための簡単な方法であるから記載したものであり、不可能なことを要求したわけではない。また、原告の執筆分の回収を求めたものであり、研修集録の全面回収は求めていない。
2 同2の山形県教育委員会に対する電話と文書について
 原告は、校長に対する速達の手紙が届く同六三年二月一九日夜校長宅に電話したところ、留守であったので、翌二〇日、山形県教育委員会に電話して、重要事項で今夜もう一度上山高校長宅に電話したいので、是非在宅するように話してほしい旨話しただけであり、本件の内容は話しておらず、虚偽の主張である。
そして、原告は、同日夜校長宅に電話したところ、校長は、自ら事態の収拾に当たらず、教育委員会に言えと言った。そこで、原告は、同日深夜に同日付けの同教育委員会宛の文書を記載したが、これは同教育委員会に対して真実の調査とともに、権利侵害を回復するための措置を求めたものであり、その文面上も何ら違法なものではない。
3 同3の村山市教育委員会に対する手紙について
 原告は、被告槙の別刷送付文書の記載によって、原告論文が村山市史に被告槙名義論文の形で、原告と被告槙との連名でまもなく刊行されることが想定されたため、これを防ぐ意図で村山市史の発行を担当する村山市教育委員会に宛てて手紙を発送したものであり、その文面も違法なものではない。
4 同4の斎藤林兵衛に対する手紙について
 これは原告の斎藤個人に宛てた手紙であり、私信、特に親展の手紙は、原則として受取人と差出人以外には開披することができないものであり、斎藤が死亡したのであれば、誰も開披できないものである。また、この斎藤や後記の岡崎に対する手紙は、原告が、他人の文章を盗用することについてさして悪いことではないとえる人間が学界や教育界にもいることに驚き、社会科学系の学問をなし、教育問題の著作もしている者として、これらの者の意見を聞きたいと思って出したものである。また、斎藤への手紙は、被告槙に対して謝罪を薦めてくれるかもしれないという淡い期待もあって出している。この手紙の内容も、親展の私信として違法なものではない。
5 同5の日本地理学会の懇親会での言動について
 日本地理学会の懇親会の席上では、既に被告槙が研修集録別刷を回収するために出した事情説明文が出回っており、本件のことが話題となっていた。そして、被告槙の友人で村山市史編集委員の丁野助教授が原告に対し、被告槙は面倒見のよい男だが論文の内容の出所にルーズなところがあり、地元ではそれを承知でつきあっている、被告槙は教頭を目指している、被告槙にとっては教頭になれなければ死ねというのと同じだ、許してやれ、原告の学界生命が惜しいと思わないのかと述べ原告を威嚇した。原告は被告槙が本件を秘匿するのではなく早くも宣伝したのかと驚き、反論した。
6 同6の上山高校の校長等に対する電話等について
 原告は、昭和六三年六月に山形県に一通の文書も送っていないし、電話もかけておらず、虚偽の主張である。
7 同7の上山高校、村山市教育委員会等の訪問について
 原告は、被告槙が別刷送付文書で、研修集録の編集者が原告の名前を無断でカットした旨記載してきたため、これを調査するために、上山高校を訪れた。編集者のうち唯一在籍していた栂瀬教諭に尋ねたところ、栂瀬教諭が、済んだことで答える必要がないと言ったため詰問になったが、被告槙主張のような会話はなされていない。栂瀬教諭は、当初から被告槙一名の名前で、横書の自筆で投稿してきており、編集で原告の名前を落としていないと答えたため、被告槙は虚偽の記載をしていたことが判明した。この時に、栂瀬教諭が、被告槙の名前で発表してよいと被告槙が言っているので、被告槙が正しいと思うと述べたため、原告は著作権侵害になると述べ、さらに、栂瀬教諭が校長にも会っていけと言ったので、原告は、校長なら既に話をしていて失望しているので会いたくないと述べて辞去した。
 そして、原告は、山形市の図書館に赴き、原告が執筆して掲載されるはずであった村山市史の被告槙が担当する巻を見ようとしたところ、意外にも既に二年以上経過しているのに刊行されていないことが分かり、さらに、山形県庁や村山市役所を訪れることにした。山形県庁の次に訪れた村山市役所では、「村山市史を見せて下さい」という要件で教育委員会に赴いたところ、総務課に行けといわれたため、総務課に行き、そこに原田がきた。そして原田が原告に対して侮辱的な発言をしたため原告が怒ったもので、原告は不法行為をしていない。なお、この際、原告は、被告槙が村山市史の編委員として不適格であるとの発言はしていない。
8 同8の山形県教育委員会の訪問について
 原告は、山形県教育委員会に赴いたことは一度もないし、また、昭和六三年の時点で、同教育委員会は、原告に対して、何ら見解を表明していないもので、全部が虚偽の主張である。
 原告は、山形県庁の総務部の秘書課を訪れて、職員の高橋正光に教育委員会への取次ぎを頼んだところ、高橋は一人で赴き、担当の係がおらず、誰もその件を覚えていないので追って返事させると約束したので、辞去したにすぎない。
9 同9の文部大臣宛ての文書について
 原告の行為は、憲法一六条の請願権に基づく行為である。各省庁には国民から行政についての不満や要望を受けつける行政相談業務を行う部署があり、文部省では広報課が担当している。原告は、山形県教育委員会に対して本件の調査を要請していたが長期間にわたって無視されていたため、この調査結果と見解とを文書で回答するよう催促して欲しいという相談をしたところ、同課職員の西岡から、山形県が何ら回答しないのは妥当ではなく、文部省に権限はないが県に催促してみるから事実のみを文書にして提出するように求められたために提出し、その後ようやく山形県教育委員会からの回答を得たものである。原告の行為は何ら違法ではない。
10 同10の岡崎恭一に対する手紙について
 原告が岡崎に手紙を出したのは、被告槙主張の平成二年ではなく、昭和六三年であり、被告槙は日付を無視して再構成している。
 原告は、田口弁護士の事務所で被告吉村が送付してきた村山市史の事業計画書によって、丁野助教授と山形新聞社の主筆である岡崎が村山市史の編集委員であることを知った。手紙を出した動機は、文面にあるとおり、原告が丁野助教授から理不尽なことを言われたために、村山市史の編集委員会も被告槙の行動を是認しているのかと絶望していたところ、総合雑誌「世界」の編集長にジャーナリストは違うであろうと言われたため、意見を聞くために出したものであり、新聞社に対して取材要請したり、掲載を求めたわけではない。
11 同11の県議会及び市議会における質疑について
 原告は、知人である柴田の招待を受けて旅館で工藤と同席したことはあるが、その他の事実は虚偽である。原告は、高木県議会議員に本件を議会で取り上げさせたことはなく、ただ、同議員が電話で事実確認を求めてきたのに対して応答しただけである。また、そもそも議員が議会で質問するのは議員の判断による議員の権利であり、議員の行為に属するものであり、議員の質問が問題となり得るのは原告が議員に対して不当な圧力を加えてこれを強要したことの主張立証がある場合だけであり、これを原告による不法行為として取り上げるのは濫訴に当たる。市議会については、市議会議員が本件について質問したことさえ不確かで立証されていない。すなわち、原告が証拠として提出した議事録によると、平成二年九月の市議会で、被告槙が辞任した後に、村山市史の刊行の遅れが議題になり、その追求の一環として本件について取り上げられたもので、盗作の追求を主としてはいないことが認められるが、原告は、このことを知らないし、これを取り上げるように市議会議員に頼んだこともない。仮に、市議会議員によって市議会で本件が取り上げられ、それが原告が議員に資料を提供したためにできたことが立証されたとしても、右のとおり、議会での質問は、議員の行為にすぎない。
(2) (一)(3)、(4)の被告槙の退職及び編委員の辞任について
 被告槙は、本件発覚後も二年も学年担任を勤めて、自分で辞任し、以前からしている短大講師に専念したもので、本件による損害とは認められない。村山市史の編集委員も、被告槙は発覚当初はそのまま続けてほしいと言われたと述べており、二年半も経過して自ら辞任しており、原告の村山市教育委員会に対する手紙とは無関係である。仮に山形県議会で取り上げられ新聞となったことが原因であるとしても、これらを行ったのは議員や新聞社であり、原告が行ったわけではない。また村山市議会で取り上げられたのは辞任後であり、これも原告が行ったわけではない。
(3) 右のとおり、原告の行為は、被告槙によって侵害された原告の著作者人格権及び著作権を回復するためのものとして、社会的相当性があり、何ら違法な不法行為とはいえない。
 また、不法行為として名誉棄損が成立するためには、虚偽事実と知りながら公表したことが立証されなければならず、また、名誉を棄損する行為であっても、その行為が公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出た場合又は公務員に関する事実に係る場合には、その真実であることが証明されたとき、又は行為者が真実であると信じるについて相当な理由がある場合には違法性がない。被告槙は公務員であり、また、未だ公訴の提起をされていない者の犯罪行為に関する事実は公共の利害に関する事実とみなされるものであるところ(刑法二三条の二参照)、著作権法違反は刑事事件でもあり、また精神文化発展に係わることであるので、公共の利害に係わるものである。
(乙事件)
5 被告吉村が被告の代理人として反訴を提起し、反訴事件及び甲事件においてなした主張等の訴訟活動が不法行為といえるか。
(一) 原告の主張
 被告槙が提起した反訴は、次のとおり違法な濫訴であり、弁護士である被告吉村は、弁護士法一条、二条に違反して、反訴が違法であることを容易に知ることができるのに、これを看過し、積極的に被告槙に加担して反訴を提起し、さらに、反訴事件及び甲事件において、次のとおり違法な訴訟活動をした。これは被告槙とは別個の不法行為に当たり、原告は、これによって深甚な精神的損害を与えられたものであり、これを慰するには、少なくとも一二〇万円を相当とする。
(1) 被告吉村は、原告が原告論文を著作したことを認めながら、「人は著作した著作物について著作者人格権をもつ」という著作権法の基本を無視して、被告槙を代理し、「大学院生は研究者として一人前の地位にあるわけでなく、既存の研究者の助手として活動することがあり、本件もこのような形態であり、原告は教員としての経歴は有していても研究者として実績のある者ではなく、被告槙は大学院生としての原告に勉強の場を与えてやったものである。原告は村山市の研究者である被告槙の研究補助者あるいは助手に過ぎず、原告論文は被告槙の論文に組み込まれ、被告槙が加筆したうえで被告槙の名で公表されることが予定されたもので、原告には独自の著作権ないし著作者人格権はない。村山市史に掲載すべき論文の著作権及び著作者人格権は被告槙にのみ専属すべきものである」としたうえで、被告槙が原告論文を材料として加筆して利用することは何ら違法ではないのに、原告は独自に著作権及び著作者人格権を有するものと誤解したとして、原告が昭和六三年二月以降に行った原告の権利を回復するための行為について、不法行為に該当すると主張して、反訴を提起し、その後の訴訟活動において右のとおりの主張をした。
 被告吉村は、昭和六三年三月に受任して内容証明郵便を出して以来、裁判所においても、このような「すべての人に基本的人権があり、法の下に平等である」という法の精神の根幹に違反する無法な主張をなし、原告は法的保護を受ける権利がないのに権利があるものと誤解して権利を主張するのは不法性を帯びると繰り返して罵ったものであり、それが弁護士によってなされたことから、原告に深刻な苦痛を与えた。
(2) 被告吉村は、反訴の請求原因において、容易に事実調査をすることができるのに、これを怠り、次のとおり、依頼者である被告槙の主張する虚偽事実を伝聞のみで証拠なしに主張したり、第三者が行為者であるので不法行為の成立要件とは無関係である事実を虚偽を交えて主張した。このような虚偽事実であっても、民事訴訟として提起されればこれに応訴して反論反証しなければ損害を被ることは必至であり、これは脅迫、強要に当たる。
1 反訴状において、「被告槙は、調査テーマ、調査の対象地も被告槙が選定したうえで、原告に調査を依頼した。」と主張しているが、このような事実はなく、原告が調査地を決め、独自の調査を行っている。
2 反訴状において、「被告槙は、原告に昭和六〇年一〇月の東北地理学会で発表したいので、調査結果について原稿をまとめてくれるよう依頼したのに原告は断った。しかるに、原告は、昭和六一年四月に被告槙に無断で日本地理学会に発表した。原告は、調査結果を独自に発表する権利はなく、右の発表は被告槙の著作者人格権を侵害する。」旨の主張を請求原因として記載し、その後に撤回しているが、被告槙は、自らの発表のための原稿をまとめるように原告に依頼した事実はなく、真実は、被告槙が原告に出した昭和六〇年八月の葉書の中で、原告がなした調査の結果を、「出来ましたら東北地理学会で発表して頂きたいと存じます。今回無理でしたら次回でもお願い申し上げます。」と記載して、原告自身が発表するように要請したものであって、これは悪質な虚偽である。
3 被告吉村が原告がなした行為であるとして反訴の請求原因として主張している前記の争点4(一)(2)に記載の事実のうち、2の昭和六三年二月一九日ころ、山形県教育委員会指導課員に電話して、被告槙が原告の論文を盗用したと非難して、研修集録の回収を求めた事実、6の同六三年六月下旬ころ、上山高校の校長、教頭、山形県教育委員会等に電話して、研修集録の回収や被告槙に対する指導等を要求し続けた事実、8の同六三年六月二二日、山形県教育委員会に赴いた事実、の高木県会議員や村山市議会議員をして議会で本件を取り上げさせた事実は存在せず、いずれも悪質な虚偽であり、また、議員の議会での質問は原告の不法行為とは無関係である。
(3) 被告吉村は、重要証拠を秘匿して被告槙の偽証に加担した。
 乙五七は、被告槙が研修集録に被告槙名義論文を投稿した際の原稿であり、執筆者名として被告槙の氏名だけが記載されて原告の氏名の記載はなく、また、縦書きの原告論文をそのままコピーしたうえで改変を加え、その前後に被告槙の横書きの原稿を加えたもので、重要な証拠である。しかるに、被告吉村は、本件紛争後平成六年九月一四日の本件証拠調期日までの六年半にわたり、これを被告槙から受領しながら秘匿して、被告槙が同年七月一八日の法廷で、「被告槙は原告の氏名表示をしたのに研修集録の編集者が落とした。被告槙は、原告論文の原稿が縦書きであったのを横書きに書き直して投稿した。」旨の偽証をするのに加担した。
(4) 被告吉村は、甲事件訴訟提起前の被告吉村と田口弁護士との間の和解交渉について、本件の準備書面において、「被告槙は不本意ではあったものの原告の主張をほぼ認める形で和解しようとした。しかるに原告は将来にわたる誹中傷禁止事項に拒絶反応を示し、理由にならない理由で和解を壊しておきながら本訴請求に及ぶのは信義則に反し、権利の濫用」であると主張したが、右の交渉内容は、次のとおり、原告にとって人権侵害に当たるものであるのにこれを蒸し返して主張して原告を非難した。
 原告が被告吉村の和解案を承認しなかったのは、原告論文が被告槙の研究の一部として研究されたものであるという虚偽の記載があったこと、侵害されたのは公表権のみとされており、同一性保持権と氏名表示権の侵害を認めていないこと、今後当事者間、第三者を問わず何らの誹中傷を行わないという条項があるところ、誹中傷の概念の理解について、原告がそれまでになしていた権利回復のための行為を誹中傷とする被告らとの間で隔たりがあり、将来にわたる言動に責任を取らされるのであれば、事実を記録し、意見表明することを仕事とえる者がもはや生きられないとえたことからであり、この和解案を押し付けられ、これを承認することは原告にとって人権侵害に当たる。本人が承認しがたい和解案を承認しないことは基本的人権であり、本人が承認しない和解は成立せず、和解案を承認しないことも訴訟を起こすことも権利濫用ではない。
(二) 被告吉村の反論
(1) 被告吉村は、被告槙の依頼を受けて、被告槙の主張に沿う訴訟活動をしているだけである。むしろ、弁護士が依頼者の利益に反する訴訟活動をした場合にこそ不法行為になるものである。
(2) 原告の請求は、被告吉村が、相手方当事者である原告の意思に沿わない訴訟活動を行ったことをもって不法行為と主張するものであって、主張自体失当である。
(3) 訴訟代理人の仕事は、その主張において、相手方の名誉などを棄損することになることはある程度避けられない面があり、これは民事訴訟代理人の宿命でもある。
訴訟上必要な範囲を超えて社会的相当性を逸脱した表現をしたのならともかく、被告吉村の主張にはそのようなものはない。
(4) 反訴の請求原因の中には、原告の議員に対する働きかけ等、被告槙本人尋問以外では立証していないものがあり、立証不十分と思われるものもないではない。
しかし、訴訟代理人の証拠収集活動には限界があり、このことをもって不法行為とするのも主張自体失当である。
第三 当裁判所の判断
一 争点1(原告の原告論文に対する著作権及び著作者人格権の有無及び被告槙の右権利の侵害の有無)について
1 前記第二、一認定の事実及び後記括弧内の各証拠によれば、原告が原告論文を作成してこれを被告槙に送付した経緯等について次の各事実が認められる。
(一) 原告は、お茶の水女子大学文教育学部地理学科を卒業し、中学・高校で社会科教師を勤めた後、四九歳で明治大学大学院に入学し、昭和五九年三月同大学院修士課程を終えた後、法政大学でさらに勉強し、昭和六〇年四月から同大学院人文科学研究科博士課程に在学して、経済地理、地理教育を専門として研究をしていた者である。
 原告は、経済地理(農業地理、地方の労働力論)の研究において、調査の対象とする集落(フィールド)を選定したうえで、自ら工夫した調査用紙を作成し、一人で戸別訪問して対象世帯から聴取してこれに記入し、全戸調査をする手法を用いており、この調査方法による研究成果を、昭和五九年五月二五日経済地理学会発行の「経済地理学年報」掲載の「鳥取県東部の兼業農家と集落定住」の修士論文や、同六一年五月二四日発行の同誌掲載の「地方における下請企業存立の労働力基盤|群馬県大泉町を事例として|」の論文として発表している。
(二) 被告槙は、昭和二八年から中学校教諭、同三二年から高校教諭として勤務し、同五四年四月から上山高校に勤務していた者であるが、そのかたわら、主に山形県内の地場産業の立地に関する研究をしており、同三七年ころから、東北地理学会、日本地理学会等での研究発表を始め、また、山形県村山市に隣接する東根市の開発のための調査結果をまとめた「乱川扇状地(東根市総合開発基礎調査報告書)」(昭和四五年発行)の編集、執筆をするなど、出版物の編集や論文の執筆もしていた者である。なお、被告槙は、昭和五八年六月から、山形女子短期大学非常勤講師としても勤務していた。
(三) 山形県村山市は、昭和四七年から、村山市制二〇周年記念事業として市史の編を開始した。村山市史は、同編委員会が編して、村山市が発行することとなり、編委員会は、委員長として村山市助役、副委員長として村山市教育委員会教育長、編委員として、編集委員全員が兼ねることとして構成され、実際の運営は編集委員会所属の編集委員が執り行い、事務局として、村山市教育委員会社会教育課が所管していた。
 被告槙は、発足当初の昭和四七年に村山市から委嘱されて、編委員及び編集委員となり、村山市史地理編の編集委員の主任を勤めていた。
 村山市史の編集及び執筆体制は、各巻によって異なっていたが、村山市史地理編では、編集主任の被告槙がその編集を一手に掌握し、被告槙に執筆者の選任が任されていた。また、編集委員を兼ねない執筆者については、村山市からの正式な委嘱行為はなされずに、各執筆者が分担して執筆していた状況であり、被告槙は、村山市史地理編を刊行する際に、末尾に執筆者一覧として各執筆者の氏名と担当部分を明示して掲載することを予定していた。
(四) 原告、被告槙の両名とも、日本地理学会の会員であったが、互いに面識はなかったところ、原告は、戦前の地理教育史の研究の取材のため、昭和五九年七月一二日付けで、大東文化大学教授の吉田義信から名前を聞いた被告槙に手紙を出し、農業地理を本業とするが、地理学史も調べており、故長井政太郎の関係者に話しを聞きたい旨、また、原告の次の農業地理のフィールドを山形として、そのうちに行くつもりであるので、都合のいい日に会いたい旨連絡した。
 原告は、同五九年七月二六日に山形県山形市を訪れ、被告槙と会って面識を持った。原告は、山形での取材後に、被告槙に、自分の経済地理の研究論文を書くため、山形県内の農村調査をしたいと思っているが、どこか紹介してほしい旨を話したところ、被告槙は、自分は村山市史の編委員をしているので、村山市になら紹介してもよいが、原告がその調査をしたら、できればそれを村山市史にも書いてくれ、村山市史に書けば原稿料も出る旨を話したため、原告も、これを了承して、自分がする調査について、村山市史に相応しいと思われることを書いてもよい旨を話した。被告槙は、村山市史地理編に商工業労働力や、農地の宅地化、工業団地化などの調査研究を掲載をすることをえていたが、原告に対しては、特に村山市史に書くためとしての調査研究項目の指定はせず、原告が自己の論文のためにする調査に任せることにしたものであり、原告は、自分の経済地理の論文の執筆のための調査を村山市史のためにも行うことになった。
 なお、原告は、被告槙に同五九年八月六日付けの手紙で、被告槙が原告の村山市における調査に協力してくれることになったことと被告槙が村山市についての資料を原告に送ってきたことについてお礼を述べ、村山市の資料を八月中に整理し問題をまとめて、九月には調査したいと思う旨連絡するとともに、原告の前記「経済地理学年報」掲載の原告の「鳥取県東部の兼業農家と集落定住」の論文の別刷を送付し、また、同年一〇月一九日付けの葉書で、群馬県のフィールド調査のため現在通っており、まもなく一段落するので、年内に一度は山形に行くつもりであり、忙しい被告槙とは会わなくてもよいので、村山市役所に原告のことを話しておいてもらいたいので連絡する旨伝えた。
(五) 原告は、その後、村山市役所に調査の予定を手紙で伝えたところ、日程が合わず、被告槙は、原告に、昭和五九年一一月五日付けの手紙を出し、右手紙に「農業基本調査カードですから、原告だけでは(これを閲覧しての調査は)不可能である。」旨記載して、村山市の担当者が都合のよい同年一一月二六日から一二月四日までの期間を伝えるとともに、「この調査は被告槙との共同調査という事にしているので、資料の方は十分活用できるはずである。」旨の記載をした。
 原告は、被告槙に、同年一一月七日付けの葉書で、同年一一月二六日に山形に行きたいとの連絡をし、右葉書に「資料を読んだがまだ調査集落を選定するイメージが描けない。二〇から三〇戸規模で兼業の状況がちがった所を三つ位で、その集落に協力的な者がいれば一番よい。被告槙のえはどうか。」という旨の記載をした。
 被告槙は、原告に、同五九年一一月一五日付けの手紙を出し、右手紙に「前にも申し上げましたように、今回の貴方様の調査は小生から依頼の市史に関係ある仕事という事にしておきましたので、ご承知おき下さい。」と記載したうえで、調査の日程の連絡をなし、到着したら村山市教育委員会社会教育課の文化主査の斎藤か日塔に連絡し、日塔が調査期間中原告の世話をすることになっていること、集落の事に明るい方にも連絡してくれているはずであることや農業基本調査等の資料を閲覧する部屋も申し入れていること、調査期間中二泊分のみ村山市史編委員会で負担することになっているが、それ以外の旅費、日当等は残念ながら手当てできなかったこと等を伝えるとともに、「お会いした時、打合せしたいと思っているのですが、貴方様が「農家就業構造の変遷と人口移動、兼業問題」等についてお調べになるとすれば、市史でも小生えている所ですので、執筆の方も宜しくお願い申し上げます。」と記載するとともに、「貴方様の問題と関係ある村山市は勿論の事、山形盆地内の工場立地の事を小生調査しておりますので、労働力の問題では共同研究すれば宜しいのではないでしょうか。何れお会いした時に。」との記載をし、また、山形は大変寒くなったので、防寒の準備をするように知らせ、「農外就業条件の悪い地域」を調査するとすれば、山の内・富並ということになるので尚更である旨を記載した。原告は、この手紙を見て、この時点では、原告が実施する農業調査以外の部分は被告槙と共同調査をしてもよいとえた。
(六) 原告は、昭和五九年一一月二六日に村山市教育委員会の嘱託である日塔和好に迎えられて、村山市役所に赴き、村山市教育委員会社会教育課の課長である長峯邦夫、同教育委員会文化主査の斎藤峻に会い、当日と翌二七日の二日間をかけて、市役所で用意していた「昭和五七年山形県農林水産業農業基本調査」の調査票(以下「農業基本調査票」という。)について、原告が後日単独で調査を実施した三集落(「大高根のうちの大鳥居」、「大倉林崎の二集落のうちの一つ」、「戸沢樽石のうちの須磨」の三つの集落の合計約七〇戸、以下「調査地の三集落」という。)を含む六集落の約二三〇戸分を閲覧し筆写し、また、調査のための資料を得た。被告槙は、同二七日、村山市役所を訪れ、原告を職員に紹介し、原告は被告槙と、原告の行う農村調査について短時間の話をなし、原告が今回集落の者と面談できると思い、準備してきた農家の戸別調査を実施する際に使用する調査用紙を被告槙に渡したが、両者の共同調査に関する具体的な話はなかった。なお、右調査用紙は、責任者の記載欄は空欄のもので、「この調査は村山市の農家世帯員のお仕事の現状とその移りかわりを勉強させていただくために、いくつかの集落を選び、その集落内のすべてのお宅をおたずねして行っています。お聞きしたことは、一つは村山市史に、一つは学術論文にのせるつもりです」との調査の趣旨の記載がなされていた。また、原告は、同年一一月二八日、日塔の案内で村山市農業協同組合を訪れて概況を聞いた。なお、農業基本調査票は、秘密保護の観点からその使用者や使用承認手続等について規定されており、厳格に保管されているものである。
 原告が右の調査を終えた後、斎藤主査が、原告に対して、村山市の資料だけで、村山市史に書くことができないかと話したため、原告は、前記のとおり被告槙から原告の調査は村山市史のためということになっている旨の連絡を受けていたが、今回の農村調査は、原告が自分の論文を書くために調査研究を行い、その中で村山市史にも書くことになったものであるという調査目的を明かした。そして、長峯課長も、原告の農村調査を原告の責任で行い、そのうえで必要なことを村山市史に書くということで了承した。原告の山形県内の調査費用については、この時の原告の宿泊費の二泊分を村山市が負担し、以後、原告が実施した調査について、村山市からの費用の負担はされていない。
 なお、被告槙は、原告が実施した農村調査について、被告槙が調査地を選定して、原告にその調査を要請した旨主張し、また、「昭和五九年一一月二七日に、被告槙が大字単位で三つ調査地を選定して原告にその調査を指示したが、これに反して、原告は大字単位でない小規模の三集落の調査をした。被告槙は、このことを知らなかったので、別刷送付文書でこの点の問い合わせをした」旨供述している。しかし、まず、大字単位の調査を指示し、原告が小規模の集落の調査をすることを知らなかったとの点については、前記(五)に認定の原告から被告槙に宛てた葉書やその後の被告槙の手紙の記載に反するばかりか、被告槙が昭和五九年一一月に作成したものとして提出するメモには、原告の調査地として、右の大字単位ではなく、実際に原告が実施した集落の記載があり、両者は矛盾しており、右認定のとおり原告が二日にわたり原告が調査しようとする集落数を超える戸数の農業基本調査票を筆写した経過や後記(九)及び(一〇)に認定の原告の被告槙に対する書簡の内容及びこれと反対趣旨の原告の供述に照らせば、被告槙は、原告がする調査地の選定についてある程度の助言をしたことがあること(例えば、樽石須磨の集落は、被告槙の親戚である斎藤林兵衛が住んでいるのでその協力が望めることなど)は推測されるものの、被告槙の右の主張及び供述は採用することができない。
(七) 被告槙は、村山市長宛の昭和五九年一一月付け報告書を村山市に提出し、村山市史地理編の資料収集及び調査実施の報告をしているが、添付の調査日程票の中で、調査内容として「商工業の発達に伴う兼業農家の状況と農村構造の変化に関する調査」と記載し、調査員として、原告と被告槙の氏名を連記している。また、この書面には、他の調査員として、その後、村山市史の原稿を執筆して村山市から原稿料の支払を受けている会田徳旺の氏名も記載されており、日塔も、この当時、原告が書いた原稿が村山市史に載るものとえていた。
(八) 原告は、被告槙に、昭和五九年一一月三〇日付けの葉書を出し、その中で、まだ資料を整理していないが、村山市の農家のおよそのイメージがつかめたこと、及び前記(六)の経緯で、原告の農村調査は原告の責任で行い、そのうえで必要なことを村山市史に書くことで斎藤課長も承知してくれたことを知らせるとともに、「多分予算の関係ではないかと思いますが、私に援助して下さるのは嬉しいのですが、それをあてにしてはいませんので、納得のいく調査をさせていただいて、その中で必要なことを云っていただければ、それを書きます。経費のことはあまり御心配下さらないように、槙先生から申し上げて下さい。」と記載し、また「役所の資料フリーパス、紹介もしていただける、それだけでもほんとに助かります。」と記載した。この原告が調査を自分の責任で行うことになった旨の記載について、被告槙は、原告や村山市側に対して異議を述べていない。
(九) 原告は、被告槙に対して、翌昭和六〇年三月二九日付けの葉書を出して、法政大学大学院博士課程の入試に合格したこと、群馬県大泉町に行ったりしていたが、一段落したので、村山市のことを本気でするつもりであり、いつでも調査に行けることを記載して、原告が調査する集落について、「大鳥居」、「樽石(被告槙の親戚がいる所)」(後記斎藤林兵衛のことであり、樽石のうちの「須磨」の集落を指している)と、もう一つは、この二つをとった時に、どこをとれば村山の農業を現し得るか教えてほしい、その三集落に行って調査することに段取りをつけてくれたらすぐ行く、調査用紙は以前の半分位の量にしてこれから作るつもりである、経費は自分で出す旨を記載した。しかし、これに対する返信はなかった。
(一〇) 原告は、被告槙に対して、同六〇年七月一八日付けの手紙を出して、「秋の盛岡での地理学会で連名で発表しましょうとお約束しましたのに駄目になったようで申訳なく思っています。又市史がどうなったかも気になります。入試と大学になれるのに必至で、先生からお手紙がきたら行こうと思っているうちに夏休みになりました。是非山形にいきたいと思って、同封のような調査用紙を作りました。私のえでは、大鳥居、林崎のうちのどちらか、樽石須磨の三集落の調査をしたいと思います。どうか土地の方に話して許可がいただけますよう取はからって下さい。もちろんこの中の全部について聞けなくてもかまいませんし、むしろ最大こんなことしか聞かないととっていただいてもかまいません。責任は私一人で負い、費用も一切自弁します。わずかですが、農家の方におみやげも用意します。時間も労苦も覚悟の上です。一軒一軒私がまわって私がきいて書きとります。個人名もいりません。昨年農家台帳はうつしましたが、それはあくまで内密なので、直接にきく形をとり、台帳は補強に使います。従って調査用紙は土地の方にお渡し下さってもかまいません。一集落でも話がつき次第、戸数分だけすって山形にむかいます。八月のはじめにはいきたいのです。」「ほんとに東北を知るチャンスですから万難を排してやりたいです。もちろん農家にめいわくにならない範囲で市史に書きます。この個人調査さえさせていただければ、あとは公的文書でいいのですぐに出来ます。」と記載し、原告が集落調査の際に使用するために作成した調査用紙を同封した。右調査用紙は、責任者欄に「法政大学大学院地理学専攻博士課程」の肩書と原告の氏名、住所、電話番号の記載があり、前文に「この調査は村山市の農家世帯員のお仕事の現状とその移りかわりを勉強させていただくために、三つの集落のすべてのお宅をお訪ねして行っています。お聞きしたことは、学術論文にまとめます」との調査の趣旨の記載がなされていた。なお、前記の地理学会は、同六〇年一〇月一九日から二二日に、盛岡市の岩手大学で開催予定の日本地理学会秋期学術会のことで、原告は、原告と被告槙との間で、学術研究の点で共同発表しようとの話しも出ていたが、被告槙から前記(九)の葉書に返信もなく、原告の調査ができず、かつ、この発表の申込みが同年六月二五日で、その発表のための原稿の締切が同年七月二五日必着であったために、右の話が実現できなくなったことを意味している。この手紙にも被告槙からの返答はなかった。
 原告は、被告槙を紹介した吉田に手紙を出して、原告の村山市の三集落についての調査に関して相談したところ、吉田から同六〇年七月二二日付けで返信があり、村山市に私の知っている人はいない、市役所を訪ねて部落長(区長)を紹介してもらい、各戸へ調査票を回覧して事前に承知してもらうことが能率的である、被告槙は村山市史の編集に関係して土地の事情に明るいと思うが、市の係の人に調査目的をよく説明して調査村落の決定をしたらよいと思う旨記載されていた。
 そこで、原告は、調査地の三集落を決め、被告槙には連絡をとらず、直接、村山市教育委員会の日塔に手紙を出して両者間で日程を決めて、昭和六〇年八月六日、村山市を訪れた。日塔は、同日、地区委員に連絡を取ったうえで、原告を宿泊先に案内して、同日から一二日まで、原告が一人で、調査地の三集落について、農家調査を行った。この調査方法は、原告がそれまでに実施していた前記(一)の調査方法と同様に、原告一人で集落の約七〇戸の全戸を一軒毎に訪れ、調査用紙を示して、調査の目的と調査事項等を話して、調査事項を聴取して調査用紙に記載するという戸別調査方法であった。被告槙は、原告が右の調査にくることは村山市からも聞いておらず知らなかった。
 なお、被告槙は、日塔に対し、原告を連れて各地区の地区委員に丁重に挨拶して協力を頼むように指示したと述べ、乙四六に同趣旨の記載をなし、また、証人日塔は、原告を連れて各地区の行政委員に紹介したと証言し、乙四〇にその旨のメモを記載しているが、被告槙は、いつそのような指示を日塔にしたかに関して明確に答えないなど、両者の供述はあいまいな点も多く、これと反対の趣旨の甲七三、七四、九三の各記載内容、原告の供述に照らして被告槙、証人日塔の右証言を採用することはできない。
(一一) 原告は、被告槙に、昭和六〇年八月一四日付けの葉書を出して、右の農家調査を行ったことを連絡して、「満足できる結果が得られたかどうかは分析してみないと分かりませんが、最大の難関は超えましたのでホッとしています。(斎藤)林兵衛先生にもお目にかかり、いろいろ教えていただきました。ありがとうございました。御挨拶して帰京したいとは思いましたが、身心ともに相当参っておりましたので、すぐに楯岡を去り、帰途、吉田義信先生にお逢いし東京につきました。多分もう一度市役所にはいくつもりでいます。」と伝えた。
 これに対して、被告槙は、原告に、同六〇年八月一八日付けの葉書を出して、「酷暑の中の調査、大変ごくろう様でございました。何もお手伝い出来ず申し訳なく思っております。分析次第だと思いますが、出来ましたら東北地理学会で発表して頂きたいと存じます。今回(9月21日〜23日山形大学会場)無理でしたら次回にでもお願い申し上げます。尚、市史の方の原稿は明春までになります。どのような内容にまとめられる事になりますかお知らせ願いますと、それにあわせて項目をつくります。」と記載した。
 原告は、被告槙に、同六〇年八月二九日付けの葉書を出して、「おそらく東北地理学会のレジュメの〆切りも過ぎておりましょうし、私も調査の分析は終わっていますが、その裏付けの調査や資料さがしはこれからで、とうてい学会発表できる状況ではないと思っておりますので、折角のお話ながら、今回は御辞退させていただきます。来春の日本地理学会までには何とかしたいと思います。又市史に直接執筆するか、資料のみを差し上げるかは、残りの調査にかかっております。もう農家調査はせず、主として市の、又は県の資料をいただきたいので、今後は是非御協力(直接の労をいただくつもりはありません。便宜を、という意味)いただきたく、市の教育委員会にも申し上げて下さい。どういうものが必要か近いうちにお願いの手紙を書きます。」と記載した。
(一二) 被告槙は、昭和六〇年九月二一日から二三日までの間に、山形市の山形大学で開催された東北地理学会・山形地理学会共催の秋期学術大会で、「山形の機械工業」と題する研究の発表を行った。原告は、学会員ではなかったが、村山市で調査することをえていたため、これに参加し、二三日実施の「巡検」の行事日程の途中で、被告槙と別れて、村山市に赴き宿泊して翌日一人で、村山市役所等で調査を行った。なお、原告が右学会に参加した際に、原告は、被告槙に原稿を書かないで、原告が得た資料を差し上げようかと聞いたところ、被告槙は、原稿料は執筆しないと出ない旨の話しをした。
 原告は、右調査の後、被告槙に、同六〇年九月二六日付けの葉書を出して、学会参加の際のお礼を述べ、原告が翌日に、東根市役所、アイジー工業株式会社や村山市役所を訪ねて調査したと述べ、「東根工業団地の外来企業の労働条件を知りたいと思います。東根工業の先生のお名前をお教え下さい。又お知りあいの方でそういう企業に勤めておられる方がありましたら、こんどいった時お目にかかりたいのです。(統計などではわからないことを聞きたいので)又、青雲ギジュクについてご存知でしたら。もう一度は村山にいかなくてはと思っていますので、よろしくお願いします。」と記載し、また、同六〇年一〇月七日付けの葉書を出して、山形に一四日か一五日頃出かけたいと思っており、「この前お願いしておいたことのうち、村山市の雇用者をもつ事業所の一覧表を至急お送りください。それをみた上で、どの事業所を訪問するか、こちらから作戦をたてていきたいのです。それから先生の添書のついた名刺を二枚。場合によっては、「市史」をもち出さない方が警戒されないでやりやすい時はそうするつもりですが、主として役所で使いたいのでお願いします。あとのことはできればお願いしますが、できなければいいです。それから東根工業団地の「富士通」「カシオ」などの進出企業の従業員でお知りあいの人がいたら名前と電話番号を。一寸きいてみたいことがあるからです。工業のことは私の論文のつけ足しのようなことなので、先生の領分を侵しませんからよろしく。お返事を待っています。」と記載した。
(一三) 原告は、昭和六〇年一〇月一八日から二〇日まで、被告槙や村山市役所には特別の連絡をせずに、山形県を訪れ、一人で山形県庁や東根市での調査を行った。なお、このとき行った企業(河西生コンクリート株式会社)調査の際に、原告は応対した柴田弓子と知り合った。
(一四) 被告槙は、原告に、翌昭和六一年一月一日付けの年賀状を出して、「市史の要項をそのうちにお送りいたします。〆切は今年の夏にしたい積りですが皆さんと打合せ中です。」と記載してきた。
 原告は、同六一年四月四日から同月七日に開催された日本地理学会春季学術大会において、「山形県村山市の農家世帯員の就業構造」と題して、村山市の就業概況や農家世帯員の就業事例と当面する問題等について、原告の農家の戸別調査等による研究の発表を行った。なお、この発表に先立って、被告槙や村山市に連絡はしていない。
 原告は、被告槙に、同六一年八月二八日付けの葉書を出して、「市史、要項をいって下されば書きます。論文は、基礎的勉強をした上でなければ書けそうもないという気になっています。」と記載した。
 そして、原告は、その後、被告槙から原告に対する翌昭和六二年一月一日付けの年賀状を受領したが、村山市史のこと等も含めて何の記載もなく、それ以外に被告槙からの連絡はなかった。
(一四) 被告槙は、原告に昭和六二年七月二〇日ころに手紙を出して、村山市史が刊行されることになった旨を伝えるとともに、題と枚数は自由であり、追って村山市教育委員会から要項がいくので、八月二〇日までに原稿を被告槙宅に送付するよう求めてきた。
 そこで、原告は、この要項が送られるのを待っていたが送付されてこないため、村山市のことだから要項などないのだろう、夏に書かないと正月休みまで書けなくなるとえて、自分の判断で、同六二年八月二八日までに、原告の前記の調査結果をもとにして、研究成果をまとめ、「就業状況の変化」という仮題をつけた原告第一論文を執筆して、被告槙の自宅宛に送付した。
 原告は、原告第一論文の一枚目に、「昭和30年と昭和60年の国勢調査の結果をみても」と記載したうえで、村山市民の就業状況の変化を示す数字を記載し、原稿用紙の欄外に「昭和55年国勢調査の結果なので、60年で確認してください」と注記した。また、原告は、原告第一論文に同日付けの手紙を添えて出しており、右手紙に「原稿おそくなり申しわけありません。」、「村山市役所から執筆要領もぜんぜん来ませんでした。仕方なく、書けそうなことを書いて(これでも五日かかり切りです)お送りしますので、使えたらお使い下さり、書き直すならあるいは不用でしたら御返送ください。」、「村山の論文も書くつもりですので今後ともよろしくお願い申し上げます。」と記載した。
(一六) 被告槙は、原告第一論文を受け取り、右の手紙を読み、同六二年九月一日ころ、原告に対し、原告が送付した原稿をコピーした上に赤字で、グラフや表を追加することを求める記載をなし、また若干の語句の加入をしたものを送付し、原告第一論文に加筆することを要請し、原告の昭和六〇年の国勢調査についての注記には直接触れず、欄外に「円グラフであらわしてはいかがですか、説明はそのまま」と記載しただけであった。
 そこで、原告は、村山市教育委員会、市史編集係宛の同六二年九月一〇日付けの手紙を出して、右手紙で、村山市史を書いているので、昭和六〇年の国勢調査の第一次産業就業者等の実数を教えるよう要請し、「原稿はできて今グラフを作っていますが、私は55年の数しかもっていないし、東京でいろいろさがしましたが、今のところみつかりません。槙先生もお急ぎのようなので、なるべく早くお願いします。」と記載した。なお、これに対する回答として、日塔から原告に対して、同年一〇月七日付けで手紙が届き、昭和六〇年の国勢調査の結果に関しては、表のコピーを送るという対応をしている。
 原告は、同六二年九月一五日までに、原告第一論文に図六枚を付けて、この図の追加に伴い本文もさらに加筆して書き直して、「就業状況の変化」と仮題を付けた原告論文を執筆したが、その内容は、概略次のようなものである。
 まず、村山市民の就業状況の変化について、昭和三〇年と昭和六〇年の国勢調査の結果を比べて、就業者総数はやや減少しているだけであるが、第一次産業就業者は急減し、第二次、第三次産業就業者は増加していることを述べた後、農業従事者について記載し、兼業農家の増加傾向を記載した後で、実際の各農家の就業状況について、原告が聴き取り調査をした三集落について、図1ないし3として、一覧して把握できるようにまとめて記載し、右の調査結果をもとにした分析と察を詳しく記載し、「農家らしい農家」が各地区に健在であり、さまざまな作目を組合せて農業経営を安定させる工夫を意欲的に行っているとの評価を記載している。また、昭和五七年の農業基本調査による数字を挙げて、村山市の農家の状況を記載し、西日本のように集落毎に脱農化が進む状況に比べれば、村山市の農業は強靱であるとしている。次に、日本の農家の農外就業の形態の一つに出稼ぎがあるとして、村山市の出稼ぎ者を図4として記載したうえで、出稼ぎ状況の推移を述べている。さらに、農家の二、三男や女子等の若者の県外への流出状況について、戸沢中学校の菊地和郎教諭の調査結果及び同教諭作成による図5を引用しながら記載し、現在では、例えば昭和五九年三月の村山農業高校卒業者中、就職者の七四パーセントが県内に、そのうち半数は村山職業安定所管内に就職しているとして、これは工業の発展に負うところが大きいとして、さらに工業労働力の状況を記載している。そして、事業所数の推移を記載し、村山市の製造業について、地場産業等に基礎があるが、工業団地や隣接市の東根市の工業団地が大きな就業の場を提供し、これに通勤圏内の工業発展が加わり、全体としてみるとむしろ求人難傾向になっているとしたうえで、これらの企業における賃金面での問題点を記載し、一つは就業者の意識に問題があるとして、この就業者の意識の内容やこれに対する企業側の認識を記載して、問題点を指摘している。
 原告は、原告論文の一枚目の昭和六〇年の国勢調査に関する数字を空白とし、これに同日付けの手紙を添え、右手紙に、「三日後から日本を離れますので、大急ぎで図を書き、それにつれて文章も書き直しました。調査戸数は、捨てかけていた分を掘りおこして多少多くしました。P1の○は60年国調の数字を入れて計算していただきたいのです。東京でずいぶんさがし、村山市にも葉書書きましたがお返事がありません。一応のP1のグラフを書きましたが、このところは、総説とか人口とかでどなたかがお書きになるでしょうから、私はグラフは不要と思います。図の番号はきめてからつけて下さい。」、「私の調査した3枚の図、論文に書くつもりだったのを多少簡略にしてお送りします。」、「先生が書かれたような図は私には書く資料の持ちあわせがありません。数字の表記は縦書きにしたことがないのでそちらで揃えて下さい。帰国後、秋の学会の準備で忙しく当分は直せませんのでなるべくこの辺でお許し下さい。」と記載して、原告論文を、被告槙の自宅に送付した。
 なお、原告は、原告論文において、数字を空白にして送付しその記載を依頼した点について、初校は必ず著作者がするから、その機会に校正できるとえていた。
(一七) 被告槙は、昭和六二年一一月二八日開催の山形地理学会例会において「全国総合開発政策以降の村落構造の変貌と工業立地」と題する研究発表を行っている。なお、この発表の内容について、原告論文を利用ないし参としたものが含まれていたかについては、翌年六月発行の発表要旨集には被告槙の発表内容の記載がないことや、後記の被告槙名義論文の原稿の中のこの発表に関して記載のうえで抹消された部分があることなどに照らして疑問がないわけではないが、被告槙の乙四五の1、四六の記載を覆し、これを認めるに足りる証拠はない。
(一八) 被告槙が勤務する上山高校では、毎年年度末に同校教諭の研究成果を「研修集録」と題する印刷物に掲載して発行しており、被告槙は、原告から受け取った原告論文について、次のとおり、一部削除し、付加する変更をなし、さらにその前後に被告槙が執筆した文章を加え、また本文中に原告との共同研究であると記載した被告槙名義論文の原稿(以下「被告槙作成原稿」という。)を作成して、自らが勤務する上山高校発行の研修集録に投稿した。被告槙は、原告に対して、それまで原告から受け取る原稿を村山市史以外のために使用することについて、原告に話したことは全くなく、原告論文を原告に無断で使用したものである。
被告槙が研修集録に投稿するために作成した被告槙作成原稿は、次のとおりである。
・1と記載されている頁から・14と記載されている頁までは、被告槙が執筆した横書の原稿であり、・1には、題名と、執筆者として、被告槙の氏名のみが記載され、原告の氏名の記載はないものであり(原告名が記載されていた形跡もない)、・2から・8までを、「T序論」として、全国総合開発計画が農村に大きな影響を与えているが、村山市も、市内や隣市の東根市に工業団地が形成されている地域なので同計画が各村落に与えた影響が大きく、この開発期間中に、村山市の農業や農家がどのように変貌したかを就業状況の面でみてみるとして、農業や農家の年次比較による変化が、工場進出に関係して変化したものか、これと直接関係なく都市化の進化によって変化したかを区別することは不可能であるものの、村山市では、農業、農村の変化は工業進出が影響を与えていることは、表1の事業所及び従業者の累年変化をみても肯定される、しかし、農村地域に進出した工場の形態が工業団地なのか、分散立地的工場進出なのか、進出工場の規模の大小は、農村、農業面に与える変化の要因としては極めて大であると思われるが、今回の第一報は、農村の就業変化の状況についてのみ報告することにした旨記載した後、「尚、本研究は、筆者と法政大学大学院甲野春子との共同研究「工業資本導入に伴う農村構造の変化に関する研究」の一部」と記載し、さらに、「であり、昭和六二年秋の山形地理学会で発表したもの」と続けて記載していたものをこの部分を削除し、「であることを付記する。」と続けた記載となっている。そして、・8から・14までが、「U調査地域の概況」として、村山市の概説、人口の推移、産業別就業人口の推移、農家数の推移、専業・兼業農家数の推移、経営規模別農家数の推移、及び、工業について、企業規模(従業員数)別の事業所数の推移が、それぞれ表2ないし表6を使用しながら説明した記載となっている。そして、これに続いて、縦書の原告論文の原稿をそのままコピーしたうえで、・15から・30と頁を記載し、この一枚目の・15に原告が記載していた「就業状況の変化」という題名の前に「V」と付記し、・15から・30までの原告の記載について、一部の文や語句の削除、語句の付加変更や図6と図7を付加した以外は、原文のままで、原告の表現及び内容をすべて利用している。そして、「Y結語」として、再び、被告槙が横書で自筆した原稿を加え、・31から・42として、原告論文の利用部分の記載内容を概略して記載したうえで、末尾に参文献の記載をした頁を付けたものである。
 なお、被告槙は、平成六年七月一八日の本人尋問期日で、被告槙が投稿した原稿は、原告の原稿と被告槙の原稿を付け加え、縦書きとか横書きとかいう問題もあるが、被告槙なりに全部書き直して提出し、また、執筆者として被告槙の名前のほかに、原告の名前も記載しており、校正の段階で、原告の名前がカットされたことに気付いたが、異議を述べずに印刷された旨供述している。しかしながら、右供述は、その後に原告の求めに応じて提出された乙五七の被告槙作成原稿の前記の記載やその態様(・1の執筆者名の記載、「本研究は、筆者と法政大学大学院甲野春子との共同研究である」との記載や原告の縦書きをそのままコピーして利用していること)に反するもので、被告槙も、平成六年九月一四日の期日では、原告の名前は鉛筆で書いた記憶があると供述しながらも、裁判所から乙五七を目前に示されて、一度は、執筆者名に原告の名前を列記していないことを認める供述をしたり、この点についてあいまいな供述になっていること、後記(二〇)の被告槙の別刷送付文書の記載と当法廷での前記供述のほかには、被告槙が原告名を書いたがカットされた旨の弁明について述べたり、主張したことは一切なかったこと(本件記録により明らかである。)、及び、後記認定の原告が後日栂瀬教諭から聴取した内容に照らして、到底採用することができない。
(一九) 研修集録は、昭和六二年一二月末ころから同六三年一月にかけて、筆者として被告槙の氏名だけが記載された被告槙名義論文が掲載されて、二五〇部印刷され、また、被告槙は、研修集録別刷を一〇〇部印刷した(なお、発行日の記載は、いずれも昭和六二年三月となっている。また、このほかに、前記のとおり、被告吉村所持の四部がある。)。この印刷された被告槙名義論文一七頁のうち、六頁二行から一四頁二一行までが、原告論文をそのまま利用して変更を加えた部分であり、原告主張のとおりの改変内容が認められるものであり、また、被告槙名義論文一四頁二二行から一六頁二二行までが、原告論文を要約して記載したものである。
 研修集録は、そのうち一二〇部が山形県内の高校等に配付され、研修集録別刷は、そのうち五〇部が、山形県外在住の日本地理学会会員等を含む被告槙の知人等に配付された。
(二〇) 原告は、昭和六三年二月一八日、被告槙から研修集録別刷一部、被告槙の他の「研修集録」の別刷二部、上山高等学校研究紀要第六号の別刷等合計六部の被告槙が執筆した論文の送付を受けた。これには、「研修集録8号の別刷が出来ましたので、お送り申し上げます。まだ研究不十分で恥しいのですが、ご一読を頂き、ご叱正を賜れば幸いに存じます。」と記載された同年二月一四日付けの手紙のほかに、同月一五日付けの別刷送付文書が同封されており、この書面には「小生も只今は、村山市史の編集と穴のあいた部分の執筆と、小生の研究物の執筆におわれております。貴方様の原稿は、工場立地、工業団地の形成も含めて、農村構造の変貌ということで活用させて頂きました、只、貴方の許可もえずに共同研究という形で本校の研究集録に提出し、名前も小生との連名で提出しておいたのですが、印刷が出来てみて、貴方の名前がカットされておりびっくりした所です。聞きましたら、貴方は本校の職員でないからと簡単にえ無断でカットしてしまったという事でした。是非了解してくれという事でしたのでお許し願いたいと思います。市史には貴方様の名前をきちっと入れますので、これは本校の場合と違い小生が編集いたしますので確かです。」との記載と、「一つ質問があるのですが。原稿の中で、各集落(林崎、樽石、大高根)共、全農家数に対するアンケート調査解答数の%がわかりませんので、私なりに数字を入れておきました。これで宜しかったでしょうか。特に大高根の場合大字ですので一寸気にかかります。結論も私なりに出しておきました。これについてもご意見を賜りたいと思います。尚、市史では工場の進出状況、工業の種類、工業団地の形成等、工業の項目も、農村構造の変貌の所に入れております。別の要件になりますが、別刷を同封してあります。ご一読頂き、ご叱正を賜りたいと存じます。先ずは取急ぎ寒中のお見舞旁々、おわびのお願いを申し上げます。」との記載がなされていた。
 原告は、これによって、原告論文が被告槙によって改変されて利用されたことを知った。
2 右認定の各事実によると、原告論文は、原告が、昭和六〇年八月の農村の三集落の聞き取り調査と同年九月及び同年一〇月の工場等の調査を行い、その調査結果等をもとに分析を加えて察した研究内容を、自らの表現で文章や図表として執筆したものであり、原告の著作に係る単独の著作物であると認められるから、原告が、この著作物について、その著作者として、著作者人格権及び著作権を取得したことは明らかである。
 被告槙は、原告論文が、原告が行った調査を原告が自ら執筆したこと自体は認めながら、原告が行った調査は、村山市史の編委員で村山市史地理編の編集主任である被告槙が、村山市史に執筆するために予定していた調査の一部として原告に与えたものであり、原告は被告槙の研究補助者ないし助手にすぎないから、原告が書いた原稿は当然に被告槙の論文に組入れられるべきものであって、被告槙にその著作権と著作者人格権が専属し、原告は独自の著作権と著作者人格権を有しない旨主張する。
 しかし、仮に、原告が被告槙の研究補助者ないし助手として原告の調査を行ったと仮定したとしても、原告が行った調査について、原告が分析を加えて察した研究内容を自らの表現で執筆した原告論文について、原告が著作者として著作者人格権及び著作権を専有することは明らかであり、被告槙の右の主張は、主張自体失当である。
 また、右に認定した原告が調査をするに至った経緯やその調査の経過によると、原告が行った調査は、昭和五九年七月の原告と被告槙との話合いに基づき、原告が自分の経済地理の学術論文を書くために、村山市で調査を行い、村山市史のためにも書くことになり、被告槙は、村山市史のための調査項目も指定せず、原告が自らの論文のためにする調査に任せることにしたものである。そして、当初は、被告槙の提案により、原告が農業基本調査票等の村山市の資料を使用するなど、原告の調査の便宜のために、村山市との関係では、原告の論文のためという目的は出さずに、村山市史の執筆のために原告が調査するということにしておくことになっていたが、原告が同年一一月に農業基本調査票等の調査を終えた後に、村山市史の発行事務を所管する村山市教育委員会社会教育課の課長と原告との話合いで、今後は、原告が自分の責任で、原告の論文を書くために調査を行い、その中で村山市史にも書くことになり、原告はこれを被告槙にも報告したうえで、原告は、同六〇年八月に、原告が調査地として選定した三集落に赴き、原告が決めた調査項目を記載し、自分の論文のためであるという調査目的を明記した調査用紙を持参して、原告が、一人で戸別訪問し、調査の目的の説明をして、対象世帯から聴取し、右の用紙に記入するという、原告が学術論文を書くときの手法で調査を実施したものであり、同六〇年九月、同年一〇月の工場等の調査も原告が一人で行ったものである。このように、原告の調査は、原告の独自の調査として原告が単独で行ったものと認められるものであり、被告槙の研究補助者や助手としてなされたものでないことは明白である。また、当初においては、被告槙は、原告が農家の就業、兼業等の調査を行い、被告槙が工場立地の調査をして、労働力の問題では共同研究することを提案し、また、両者の間で、学会で共同発表することも話題には出ていたものではあるが、結局は、具体的な話としては発展せず、実現されないまま、右のとおり、原告が、独自に農家と工場等の調査を行い、これらを自ら分析して察を加えた研究内容を原告論文として執筆するに至ったのであって、両者の間には、共同調査や共同研究の事実もなかったものである。
 以上によれば、被告槙の前記主張は、その前提事実においても認めることはできないものであり、どの点からも採用することができない。
 なお、被告槙は、原告と被告槙との間で、原告論文について、被告槙の論文に組入れられて加筆されて公表される旨の合意の下に作成されたものであり、著作権と著作者人格権は被告槙にのみ専属する旨主張するが、右主張が原告の著作権の譲渡と、原告の著作者人格権の行使についての何らかの合意があったとの主張であると善解したとしても、原告が本件の調査を行い、原告論文を執筆した経緯は、右に認定したとおりであって、原告と被告槙との間で、これらの合意がなされたと認められる事情は何ら認められないものであって、右の主張は採用することができない。
 次に、被告槙は、被告槙名義論文は、原告と被告槙との共同著作物であると主張するが、共同著作物とは、「二人以上の者が共同して作した著作物であって、その各人の寄与を分離して個別的に利用することができないものをいう」ところ(著作権法二条一項一二号)、被告槙は、原告に対して、原告から受け取る原稿について、村山市史以外のために使用することについて話したことは全くなく、原告に無断で、前記のとおり原告論文を一部改変したうえで使用し、その前後に自己の執筆部分を付加して被告槙名義論文を作成したものであり、被告槙名義論文は、「二人以上の者が共同して作した著作物」ではないことは明らかであるし、また、「各人の寄与を分離して個別的に利用することができないもの」にも該当せず、原告との共同著作物ではないことは明らかである。
さらに、被告槙は、原告と被告槙との間で、昭和五九年から同六〇年までのやりとりの中で、将来原告が作成する原告の原稿の著作権を被告槙に譲渡する契約を締結した旨主張するが、先に述べたとおり、この合意を認めることはできない。
3 以上によれば、原告は、原告が著作した著作物である原告論文について、著作権及び著作者人格権を有しているものと認められる。
 そして、前記認定した事実によると、被告槙名義論文は、研修集録及び研修集録別刷の頁数で表記すると、その全一七頁のうち六頁二行から一四頁二一行までが、原告の著作物に改変を加えて複製したものであり(但し図6と図7を除く。)、また、その一四頁二二行から一六頁二二行までが、原告論文を要約して複製したものであると認められる。
 したがって、被告槙は、故意に、原告の著作物である原告論文に改変を加えて、複製して被告槙名義論文を作成して、原告の右の著作権(複製権)及び著作者人格権(同一性保持権)を侵害したものである。また、被告槙は、被告槙名義論文が掲載されて、発行されることを知りながら、被告槙の単独著作名義のものとして、被告槙名義論文を研修集録に投稿して、これが研修集録に掲載され、発行されたもので、これは、未だ発表されていない原告の著作物について、原告の意思に反し、研修集録に収録して公表されたのであるから、故意に、原告の著作権(複製権)及び著作者人格権(氏名表示権・公表権)を侵害したものと認められる。また、被告槙は、自らも被告槙名義論文について研修集録別刷を発行したもので、これは原告の著作権(複製権)及び著作者人格権(氏名表示権・公表権)を故意に侵害したものである。
二 争点2(詐欺的不法行為の成否)について
1 原告は、被告槙は、昭和五九年に原告と初めて会った当初から、真実は、村山市史に掲載する意図はなく、私的に利用するつもりであるのにこれを隠して、原告に村山市史のための原稿の執筆を依頼し、同六二年七月に、研修集録の被告槙名義論文に使うために、村山市史のための原稿であると偽って、原告に原稿の執筆と送付を要請して、その訂正も要求したと主張する。
 確かに、被告槙は、原告に対して、昭和六二年七月に、同年八月二〇日までに原稿を被告槙の自宅に送付するように要請したり、原告第一論文に対して、加筆の指示もしており、別刷送付文書において、村山市史の編集に追われていると記載したり、原告の原稿を村山市史のために活用させていただいたと記載していたにもかかわらず、村山市史地理編は平成五年一二月の段階でも未だに刊行されていない状況であること、そして、被告槙は、原告から原告論文を受領後間もなく原告論文を使用して被告槙名義論文を作成して研修集録に投稿していること、また、後記三1(九)に認定のとおり、原告が平成二年に村山市教育委員会を訪れた際に、応対した原田一裕が原告は村山市史の執筆者となっていない旨述べていることなど、原告の主張を裏付けるかのような不自然な点があることは否定できない。
 しかしながら、前記認定のとおり、村山市史地理編では、編集主任の被告槙がその編集を一手に掌握していて、被告槙に執筆者の選任が任されており、被告槙は原告に村山市史のための執筆を依頼した後、村山市史の発行事務を所管する村山市史教育委員会社会教育課の職員に原告を紹介し、村山市史のためであるとして農業基本調査票の閲覧筆写をする段取りをつけており、同課の日塔も原告の原稿が村山市史に載るものと認識していたこと、被告槙は村山市長宛ての村山市史のための調査実施の報告書にも調査員として原告の氏名を入れていること、その後も、同課の日塔が原告の農村調査において宿泊先の案内等をしたり、原告が昭和六二年九月に村山市教育委員会市史編集係宛の手紙で、村山市史の原稿を書いているので同六〇年の国勢調査の実数等を教えるように要望を出したのに対して、日塔がこれに対応したことが認められるのであり、前記の原田の対応についても、原田は、本件紛争が発生し、原告が村山市史への原稿の掲載を拒否した後である同六三年四月に村山市史の担当として着任し、事務連絡用に、その時点で自分が村山市史地理編の執筆者として認識できた者を表にして記載していたところ、当然その表には、原告の氏名が無かったことから、原告に対して前記の対応をしたものとも推測できるものであり、また、後記三1(一四)に認定のとおり、村山市教育委員会教育長は、平成二年九月の村山市議会において、原告が村山市史のために調査をして原稿の執筆したことを前提とした答弁をしていることも認められる。このように、被告槙だけでなく、村山市教育委員会側でも、一貫して、原告を村山市史のために原稿を執筆する者としての対応をしていることが認められる。
 そして、村山市史地理編の発行予定状況について、所管の村山市教育委員会や村山市史編集委員会関係の証拠関係を見ると、1日塔は昭和六二年ころには、現実に刊行の動きがあったと証言している、2村山市史編集主任会議が昭和六三年三月二四日に決定した村山市史編事業計画書では、昭和六三年発刊と計画されている、3前記原田作成の表には、昭和六二年、同六三年に予算化したが諸般の事情で発刊できなかった旨の記載がなされており、原田はその旨の証言をしている、4原田は、被告槙が平成二年八月に村山市史の編委員を辞めた時点で被告槙から引継ぎを受けた原稿について、石沢、会田、結城、真木、岩岡、設楽の原稿があったが、編集委員である丁野と板垣及び被告槙の分は不足していたこと、及び、村山市史地理編は、平成四年には編集態勢を立て直し、同六年度発刊予定となっている旨証言しているという状況である。
 そして、被告槙は、昭和五九年一一月に村山市長に報告書を提出した時や、原告の原告論文を受け取った時にも、原告を村山市史に執筆者として名前を入れることをえていたと述べており、被告槙が昭和六二年七月に原告に村山市史のための原稿を書くように要請した経緯についても、被告槙の陳述書において、村山市史地理編が発刊の計画に乗ったので、他の者に原稿にしてもらうよう依頼したと同じように原告にも連絡した旨を記載し、また、被告槙は、原告に原稿の執筆を要請した時に、自分は編集の作業をしており、原告のほかにも、結城や設楽の原稿が入っていたが、編集委員である地形の丁野と、農業の板垣の原稿が特に遅れていた旨を述べている。また、他方、被告槙は、自分が研修集録に被告槙名義論文を投稿することを決めたのは、昭和六二年一二月になってからであると思う旨を述べている。
 以上の村山市教育委員会における原告に対する対応の事実と証拠関係によれば、他に特段の立証がない限り、被告槙が、村山市史に掲載するつもりがなく、また、研修集録に対して自分の論文として投稿するなど、私的に使用するつもりで、原告に村山市史の原稿の執筆を依頼したり、原稿の執筆と加筆を要請したという事実までも認めることはできないというべきであり、原告のこの点についての主張を肯認させるに足りる特段の証拠はない。
2 原告は、仮に被告槙が村山市史に掲載する場合であっても、被告槙は、執筆者として原告の氏名を表示せず、また勝手に原告の原稿に加筆して、原告の著作者人格権(氏名表示権・同一性保持権)を侵害するという不法行為をする意図を隠して、原告に原稿の執筆を要請したと主張する。
 しかし、原告の氏名の表示について、被告槙は、前記のとおり、村山市史に原告を執筆者として載せるえがあったと述べており、前記1の村山市教育委員会の原告に対する対応の事実と前記の証拠関係からすると、被告槙のこの供述を否定することができず、他に原告の被告槙が原告の氏名を表示しない意図があったとの主張を肯認させるに足りる的確な証拠はない。
 次に、原稿の加筆について検討する。
 執筆者である原告は、前記認定のとおり、原告論文について、編集委員である被告槙が村山市史に掲載するにあたり、数字の記載等をするように求める手紙を添えて原告論文を被告槙に送付していることが認められ、この点について、原告は、初校は必ず著作者がするから、その機会に校正できると思っていたと述べている。
 他方、編集委員であった被告槙も、自分が村山市史において予定していた編集作業について、執筆者間で矛盾がある場合には直してもらうといった作業が一年位続くと述べ、被告槙自身が原稿に手を加えることがあるのかという質問についても、こういう資料を付け加えなさいとか、こういう書き方をしてくれとか、注文をした旨述べ、編集委員が加筆するのでなく、執筆者に書かせることを前提とした答えをしているのであり、また、さらに質問に答えて、被告槙が手を加えるということを執筆者には言っており、原告にも言っていたと述べて、編集委員である被告槙は加筆できるという本件での主張に沿ったことも述べている。しかし、結局この被告槙が手を加えるという行為はまだしていないというのである。
 右のような被告槙の供述内容を見ると、被告槙が、執筆者に対して、事前の口頭の承諾を得たり、加筆した初校を送るなどの一切の確認的行為をすることをせずに、また、村山市史に掲載する目的で、その編委員、編集委員が行うことが法的に認められ得る限度での改変(略語、数字表記の統一など。著作権法二〇条二項四号参照)を超えて、執筆者の承諾を全く得ずに執筆の意思に反する改変を加えることまで明確に認識し、意図していたのかについては疑問も多く、将来、被告槙が実際に原告論文を村山市史に使用した場合に、違法な改変をする確実性があり、また、被告槙は違法な改変をすることを意図していたとまで認めるに足りないというべきであって、被告槙の将来の不確実な認識を捉えて、詐欺的不法行為を肯定することは相当ではない。
3 以上のとおり、原告の詐欺的不法行為の主張は、いずれも採用することができない。
三 争点3ないし5について
1 原告が、被告槙から研修集録別刷の送付を受けた後に、被告槙やその代理人である被告吉村との間で行った交渉の経緯、原告がその他の者に対して行った言動等について、前記第二、一認定の事実及び後記括弧内の各証拠によれば、次の各事実が認められる。
(一) 原告は、昭和六三年二月一八日の午前中に、被告槙から研修集録別刷と別刷送付文書の送付を受け、被告槙名義論文を読んで、この大半が自分が執筆した原告論文を改変して利用したもので、著作権及び著作者人格権が侵害されたことに気付いたため、被告槙に対し、直ちに、書留郵便の葉書を出して、右葉書に「上山高校研修集録八号6頁〜16頁までは完全に自分の文章です。お世話になりました槙先生のことですが、私は研究者として、こういうことには殊に厳密でありたいと思いますので折角ながら承認できません。共同研究でもなかったわけですし、集録にも賛成しておりません。すぐに、この私の文を回収破棄されるよう希望します。上山高校が承知なさらなければ、日本地理学会等で問題にするしかありません。こんなことになるのでしたら、市史に掲載もえ直します。」、「私の名を入れればよいということでなく、共同研究でもなく集録に賛成でもない、という所に問題があります。私はこの図を学会誌に出しますので、このままでは私が恥をかき、私が貴方のものを引用する形になりますのでそれは困ります。学会誌に出す図ということも申しあげたはずです。急いで返事をお願いします。」と記載して、抗議するとともに被告槙名義論文を回収し、原告の執筆部分を破棄するよう求めた。
 原告は、その後、研修集録は上山高校の発行であり、別刷送付文書には、上山高校の編集者が無断で原告の名前をカットした旨の記載があったことや、研修集録を早期に回収して事態を収拾させることをえ、発行責任者である上山高校の校長に対して、前同日午後に、速達の手紙を出して、「貴校研究(修)集録八号の槙昭一氏執筆となっております論文の大部分は、実は私が執筆し、別の用途(村山市誌(史)に掲載)のため、昨夏槙氏に渡したものです。私は貴校の雑誌に載せることは全く知らされず、従って掲載を承諾したことはありませんし、今後とも掲載の意志は全くありません。研究者として自分の書いたものをそっくりそのまま承諾も得ずに執筆者を変えて掲載され、大変迷惑しております。槙氏にも事情はおありでしょうが、研究者として自分の研究業績の所属や掲載には、短い文であっても後世にまで責任を負うものとして厳しくえていますので妥協するわけにはいきません。私の執筆分は事実上共同研究ではなく、一人で苦労して調べ、私の頭で整理し、私の文で書きました。以上のことを槙氏にお確かめの上、即刻私の執筆分については、全部回収し、一部も残さず私にお送り下さい。私はそれが全部であることを確認し、自分の手で廃棄致します。また同誌に事情説明と謝罪文を御掲下さい。このことが三月二〇日までになされない時は残念ながら事の重大さをえ、しかるべき所で公表し、かつ法的措置をしなければなりません。まず、どうなさるおつもりかを二月末日までに私にお知らせ下さい。」と記載して研修集録の回収等を求めた。
 原告は、さらに、被告槙に対して、昭和六三年二月一九日付けの手紙を出して、村山市史のための原告論文は、研修集録の件が円満に解決するまで筆者として掲載を一切拒否するとして、原告の原稿のすべてを直ちに返送するように求め、また、被告槙名義論文中のアンケート調査回答数のパーセントの数字について、被告槙が調査内容について何も分かっていないからと思うがとんでもない間違いであると指摘し、このような事実に反する改ざんをされて迷惑していると記載し、「私は、市誌に載せるといって送らせた原稿を筆者にことわりもなく他の用途に使うことができる(しかも自分の名で)ような人が今の世にいるなんて信じられない位です。あきれ果て、かつ非常に怒っております。」とその心情を記載し、「昨日上山高校の校長先生にも手紙を書き、このような不法な中身を含む雑誌を刊行される責任を問い、あと始末について申し入れをしました。校長先生と御相談の上、一日も早く処理されることを希望します。」と申し入れ、「このような結果になったのはすべて先生の責任で、私は何も悪いことをしていないのに、こんな迷惑をうけて心から残念に思います。」、「私も、あまりのことに、とっさに対策が立たない位です」と記載した。
 また、原告は、原告論文の村山市史の掲載について、その発行事務を所管している村山市教育委員会社会教育課長に宛て、昭和六三年二月二〇日に、手紙を出して、「私は槙昭一先生の要請により昨年七月末に貴市誌の原稿を書き送りました。槙氏は市から執筆要項が送られるはずといわれましたが〆切になっても来ず、貴市の御意志は不明ですが。送付しました原稿はもっとくわしく書けということで図六枚(オリジナルです)をつけ文章も長くして九月中に槙氏に送りました」と経過を記載し、その後被告槙がそれを自分の論文として研修集録に載せたことが分かったことを記載したうえで、「槙氏は貴市誌(史)に私の原稿を執筆者を私として載せると云ってきております。私としてはどのように改変されているか非常に心配しています。今一つは高校の研修集録の方が円満解決しない時は裁判に訴えなければなりません。私にとっては、降って湧いた災難ですが、研究者としては決して捨てておいてはいけないので仕方ありません。その場合市誌(史)の一部が汚れた原稿のように傷がつきます。各地の市誌(史)等は私の大学にもたくさんありますが、後世に残る貴重なものです。出来不出来は別として誠実な執筆として後世に残してほしいと村山市のために私は思っています。私は槙氏を不用意に信じた……以外は何ら恥ずべきことはしていませんが、貴市誌(史)のため、私の原稿掲載をとりやめたいと思います。槙氏に連絡しましたが、守られるかどうかわかりません。私の原稿の一言半句載せないで下さい。載ると、私がまた苦情を言うことになり、貴市に迷惑となります。この際、私のを載せる部分は槙氏以外(彼は私の文を自分の文として出す位ですから暗記する位知っています)の人に改めて執筆を依頼して下さい。そのほうが必ず村山市誌(史)を美しいものとして後世に残せますので、多少遅れるとか、めんどうとかあってもそのようにお願いします。私としてはお役に立ちたいと一所懸命やりましたのに残念ですが、責任はすべて槙氏にあります。私は研究者のはしくれとしてアイマイな妥協はしませんので、この点、槙氏にこれを見せて、きちんと伝え、必ずそうしてください。……どうしてもわたしのを載せる時は印刷より前に私に見せて承諾してからにして下さい。」と申し入れた。
 また、原告は、上山高校の校長に速達葉書が送達されるのを見越して、同六三年二月一九日の夜に、校長と電話で話をして、校長の返答を求めたが、校長には、自らの責任で事態収拾に当たろうとする態度を認めることができなかったため、原告は、山形県教育委員会委員長宛の同月二〇日付の手紙を出して、別刷送付文書と校長に送った右の葉書をコピーして同封して、上山高校の研修集録に原告論文を改変されて、被告槙の執筆として、了解なしに載せられたことを説明して、被告槙は別刷送付文書で無断で原告の名前をカットしてしまったと言ってきているので、実情はどうかわからないが、研修集録の編集者が誰の執筆分かということに極めてルーズであることに一つの問題があると思うと意見を述べ、原告は別刷しか知らないが研修集録の発行責任者は、多分校長であると思って別紙コピーの抗議を申し入れ、一九日夜、校長に電話もしたとして、校長の対応について記載し、校長は、まず「前任の校長の責任で自分は関係ない。」と言ったが、これは、研修集録の発行日が昭和六二年三月になっていたからであり、原告は校長の在任中のことであると指摘すると、校長は、「槙と貴女の仲の問題で自分に関係ない。」と言ったこと、しかし、1名前をカットしたことについて、上山高校教員でないためであるなら原告の調査部分や執筆分もカットするのが道義であること、2校長は、同校の長であること、3研修集録の編集に対しての発行責任がある(編集者なら後に述べるように文章中に矛盾があることや一名の名前をカットすると、結果として、無断で盗作した形になることに気付かないといけない、雑誌に無断で盗作した形になると発行者、編集者も責任を問われる。)点でおかしいと思うが、校長がこのような態度では、もとの状態に戻すという早期解決は望めないと思う旨記載し、校長も、被告槙あるいは教育委員会の責任だと言うので、このように手紙を書いている旨記載した。そして、原告が昭和五九年夏に被告槙と会った経緯から、原告の調査の実施状況、被告槙に要請されて村山市史のために原稿を送った経緯や、被告槙名義論文中のアンケート調査回答数のパーセントの数字の誤りについて、被告槙が原告の調査方法を理解していないためであることなどを詳しく説明して、「細かいことを書きましたが、研究者というものは、こういう道義の中に生きております。彼が気楽に了解も得ずに共同研究とし……自校の研究誌に掲載し、自分の名のみで出すことを認め、それを軽く「是非了解してくれという事でしたので……」などと云うのは、そもそも研究の何たるかがまるでわかっておらず、あの年までこんな調子でやってきたのかと思うと、怒るより、あきれてただ信じられない!と云うのが私の心境です。こんな人をまだみたことがありません。私も中・高の教員をしておりましたが、教員としてはこんなことが許されるかどうかはあなた様の御判断にまかせます。私としては、この集録の文が改変されたまま、槙氏のものとして流布することは非常に困ります。学位論文に入れるか、著作に入れるつもりの文であり、図だからです。これは、特許と同じですから槙氏のものとして流布すると将来私がそれを引用するという妙なことになるからです。一日も早く、回収しなけれは被害は大きくなり、誰かが槙氏の文として引用でもしたら、と思うといても立ってもいられません。この場合小さな訂正やおわびでは済まないのです。一日も早く回収していただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます。」と記載して、早期回収を図るように善処してくれるように要望し、さらに、「このように汚れてしまった文を、村山市誌(史)の一部に掲載することは、裁判沙汰にならなくても市誌(史)の信用をおとすことになろうかと思い、私としては、市誌(史)にも私の文を載せないよう槙氏に連絡しました。苦労したのに残念ですが、槙氏がそれを守るかどうかわかりませんが、一言半句私の文や調査を使わないよう、できれば他の人に改めて執筆を依頼してさしかえるように、あなた様からも是非云って下さい。村山市にいっても槙氏にまかせ切りで、何もわかっていない人達のようですから。とにかく、一日も早く、私の文がこのような形で公表される以前の状態に返すことが先決だと思います。そのためにさし当り、それができる人にこのあと始末を命じて下さい。それが終ってから槙氏と私との関係を問題にしたいと思います。何といってもこんな経験がなかったのでよい対策も立たない状況ですが、研究者としては一歩もゆずってはならないと思っています。研究(修)集録八号は、私はもっていませんので、上山高校から取りよせ経過をお調べの上、至急対策をお知らせ下さい」と記載し、経過の調査と早急な対応を求めた。
 なお、被告槙は、原告が山形県教育委員会にこの手紙を出すに先立って、同六三年二月一九日ころに山形県教育委員会指導員に電話して、被告槙が原告の論文を盗用したと非難して研修集録の回収を求めたと主張するが、被告槙がその根拠として述べるところによると、土曜日(同年二月二〇日)に、外部から上山高校職員に電話があり、その職員が周辺の者に話していて、被告槙が周辺にいくと話しをやめたことと、その後原告が教育委員会に抗議を申し入れたという噂が校内に広がったことから、その電話をした外部の者は、教育委員会の指導課に行っていて被告槙の名前が出たので上山高校の知り合いの先生に電話で知らせたのだと思うという推測を述べるにすぎないこと、被告槙は、このほかにも、土曜日に、校長から、原告が教育委員会に村山市史のための原稿を被告槙が無断で盗用したと申し出ていると言われ、校長から回収しなければならないということと、教育委員会ではすぐに東京に行って謝ってこいと言っていたと聞いた旨供述するが、これを裏付ける的確な証拠もなく、原告は、教育委員会に電話したことを認めるものの、その内容については明確に否認していることに照らすと、右の被告槙の主張は認めるには足りないものである。
 被告槙は、その後、上山高校の校長と相談したうえで、原告に対して、原告の名前が載らなかったことについて謝罪するために、同六三年二月二一日に原告に電話をして、これから行って会いたいと述べたが、原告は都合がつかないとして断り、研修集録別刷の回収や原告論文を村山市史に掲載することを拒否することと、原告論文の原稿の返還を求めて、被告槙はこれに応じると述べた。
(二) 被告槙は、研修集録別刷の配付先に対して、昭和六三年二月二一日付けの事情説明文を発送するなどして、研修集録別刷の回収を始め、上山高校でも、研修集録の回収を始めた。被告槙は、事情説明文に、研修集録別刷の被告槙名義論文の「内容中に小生の不注意から甲野春子氏の名前で他の機関に発表される予定の内容が入っており、不都合が生じましたので、この論文を取り下げ、無かった事にすることにいたしました、甲野氏との約束で回収することになりましたので誠に恐れ入りますが、大至急ご返送賜りますようお願い申し上げます。」と記載した。
 原告は、同六三年二月二二日に、被告槙と研修集録発行者宛の葉書を出し、原告の執筆分の六頁から一六頁を三月二〇日までに、通し番号を付して全部回収して送ることを求め、「一日一時間でも他人の名で変な改ざんをされて、誰かの目にふれているかと思うといてもたってもいられません。……送り先のリストを送って下さい。そちらから、なぜこのようになったのか、あなたの意図、編集者の証言等入れた正式な謝罪文を下さい。それに基づいた正式な説明文を連名で送り先にあとからでも出したいと思いますので、この二つも二〇日までにしなくてはなりません。説明文案をお送り下さい。もとの状態に復し、私のこれから出す論文(すでに日本地理学会発表はしてあります)に傷がつかないようにどうすればよいか頭の痛い所です。一度にみんな云えばいいのですが、対策もわからないので私はひたすら「市誌(史)なんかに書こうとするのではなかった」と後悔しています。発行日(実際の)、編集と発行責任者も教えて下さい。これ以上、その場のがれのごまかしはしないで下さい。二〇日電話で不注意だといわれましたが、多分そんな生やさしいものではない、と私は思っていますし、真相は必ず明らかにせずにはおかないのですから。私をこんなことを了承する人と思われた屈辱は、決して忘れません。お返事を。」と記載した。
 他方、被告槙は、同六三年二月二二日、原告に対し、書留郵便で原告第一論文及び原告論文の二つの原稿を返送するとともに、「当方で頂いておりました原稿(二部)をまずお送りお返しいたします。尚、ご協力頂いておりました農村の問題について、昨日、農業担当者と相談した結果、こちらの担当者の中から執筆者をきめることになりました。念のため、お知らせ致します。」と記載した手紙を送った。
 原告は、上山高校の校長が同六三年二月二四日ころ、電話で、被告槙が、原告は回収すればいいと言っている、上山高校も職員会議で回収することにした旨を述べたため、原告の要求を明確にするため、被告槙に対し、同月二五日付けの内容証明郵便を差し出し、「前略、上山高校研究集録第八号の六頁から一四頁(図6と図7を除く)はわずかな改変があるだけで、私甲野春子が執筆し、昭和六二年九月一五日付けで、村山市史に掲載する目的で、槙昭一氏の要請にしたがい槙昭一氏宛送ったものです。槙氏は、昭和五九年一一月二六日私を村山市に紹介しただけで、その後私達は市史執筆のためにも研究論文執筆のためにも相談したり、協力したことはありません。従って上記の著作権は甲野一人のものとえます。槙氏は昭和六三年二月一八日着私宛郵便で、上記集録中一頁から一七頁にあたる「全国総合開発と農村地域構造(第一報)槙昭一」となっている物の別刷を送付し、編集担当者の手違いから単独執筆の体裁となったことを了承してほしいといいました。同論文の頭と尾は槙氏の執筆したものですが、一五頁と一六頁は私の執筆内容をくり返したに過ぎず、研究のオリジナルな部分は六頁から一四頁であり、前述の私の著作により成り立っている論文です。槙氏が私の許可を得ずに、他の目的で送らせた私の著作を使って、あたかも自分の研究論文の如く装い、同誌に論文を載せ、同校の外にも配付したことは、故意に私の著作権を侵害したもので、断じて了承できません。このままでは、私は自分の著作を学術論文として学会誌に発表できず、改変により人格を傷つけられ、市史掲載もできなくなってしまいます。私は著作権侵害などの事実を知った日から直ちに槙氏及び上山高校長高橋賢一氏に、同誌の私の執筆部分を速やかに回収し私に送るよう文書と電話で申し入れましたが、昨日二月二四日に至るも一部も送られず、このような事態に至った経過の報告も謝罪も受けていません。これは事の重大さを認識せず、私の権利と名誉を回復する誠意を欠いているものとえます。」と記載して、著作権の侵害であることを明示したうえで、「そこで、さし当り次の申し入れをします。1、甲野執筆分を至急回収し私宛送ること、2、著作権侵害等が発生した経緯を詳しく偽りなく私宛報告すること、3、上記研究集録送り先名簿を送ること、以上三点が速やかに誠意をもって行われた後、今後のことを話しあいたいと思っています。なお1から3が速やかに行われる見込みがない時は、それに先立って、次のことを要求します。4、山形県内の有力新聞と日本地理学会誌に経過報告と槙の謝罪広告を載せること、以上に違反した時は、残念ながら法的手段に訴えなくてはなりません。この内容証明郵便到着後三日以内に、どうする方針かを私宛に文書で返答して下さい。口頭での応待は、槙氏の都合のよいように改変される恐れがあるため拒否します。」と申し入れた。
 その後、上山高校から原告に、未配付分の研修集録一三〇部と研修集録別刷五〇部が同六三年二月二五日付けの第一回と記した送付状とともに送付され、原告は、同月二六日に、被告槙と上山高校の校長宛の葉書を出して、これには回収分はなく、配付分が気になるので、送り先名簿を至急送付することを求め、「ボツボツ私へ電話を下さる学者もいて、以外に広く配付されているようで、名前だけのちがいならまだしも、改ざんされていることをえると恥かしさだけで云いわけに困っています。」と記載し、また、原告には、人の書いたものを破棄する権利はないとして、原告の執筆分だけ送るよう注意した。
 そして、その後、上山高校から原告に対する同六三年四月一七日付けの第七回と記載のある送付状による送付をもって、研修集録のすべて(ただし、被告吉村所持の一部を除く。)が回収され、原告が問題とした被告槙名義論文の部分が原告に送付され、また、研修集録別刷は、送付先において紛失した一部と原告所持の一部を除いたすべてが回収され、原告に送付されている(ただし、前記印刷部数のほかに見本用一部と印刷所に残っていた三部の合計四部を被告吉村が所持している。)。また、上山高校は、「研修集録」第八号について、被告槙名義論文を削除したものを新たに印刷して配付した。なお、右の研修集録別刷紛失先は、原告の知人の大学教授で、かねてから原告の業績を高く評価していた者であり、別途、原告に対して、紛失の事情を説明した書簡を届けている。
(三) 被告槙は、原告からの前記内容証明郵便を受けとり、山形県弁護士会所属の被告吉村を代理人として委任した。なお、被告槙は、本件が紛争となった後、研修集録に投稿した被告槙の原稿を印刷所から回収し、その後、本件訴訟中まで被告吉村に預けていたものである。
 被告吉村は、被告槙の代理人として、原告に対して、昭和六三年三月一日付けの内容証明郵便で、「貴女は槙氏に対し、上山高等学校研修集録第八号の回収を要求され、槙氏はこれに応え現在回収作業に入っているところです。貴女は吉田先生の紹介で槙氏と知り合い、村山市史編委員会の事業の地理部門の研究に携わられました。従って、貴女としても村山市から物心両面にわたる援助を得ておられます。右委員会の地理部門の編委員は槙氏だけですので、右研究の主任者は槙氏であり他の人は槙氏の共同研究者あるいは研究補助者ということになろうかと思われます。従いまして、右研究の成果は槙氏の名の下に発表されて然るべきものであり、それ故にこそ槙氏が加筆することもあり得べきことと思われます。貴女もご承知のように、前記冊子中には、貴女との共同研究であることは明記されており、共同研究者に対する礼儀としては妥当な方法と思料します。確かに右研究を上山高等学校研修集録に掲載するにつき、貴女の了解は得ておりませんが、右集録は学内誌であり、配付部数も少ないため、前記のように村山市史に発表する際と同様の形になってしまいました。槙氏としては、今でも貴女を共同研究者と認識している次第ですが、貴女の誤解を招いた点を遺憾に思い、前記のように回収作業を急いでいるところです。全ての冊子を回収する所存ですので、貴女の懸念される貴女の発表の支障にはならないものと思料しますので、貴女のご主張によっても実害は生じないものと思われます。なお、発行部数は、本誌が二五〇部、別刷が一〇〇部です。しかしながら、前記経過に鑑みれば、謝罪文等を差し上げる理由は見当らないものと判断します。なお、本件については、法律問題も若干関係するやに思われますので、当職が受任いたしました。従いまして、ご要望等がございましたら、当職宛お申しつけ下さるようお願い申し上げます。」と記載して回答した。
 原告は、被告槙の行為は著作権侵害であることは明白であるのに、弁護士作成の右の書面では、原告が共同研究者や研究補助者であるとの記載や、被告槙の名の下に発表されて然るべきものである等の記載がなされているのを見て、被告槙の別刷送付文書の記載やそれまでの対応との違いに驚くとともに、心底から怒り、それまでは、被告槙の別刷送付文書の末尾にお詫びする意思があるように書いていたので、当事者間で解決することを期待して行動していたが、これでは訴訟で争うほかないとえ、同年三月五日に、東京弁護士会所属の田口弁護士に相談して、同人に対する訴訟委任状を作成した。
(四) 田口弁護士と被告吉村は、その後次のとおり交渉をした。
(1) 田口弁護士は、原告に、直ちに訴訟提起をするのではなく、弁護士名で書面を送付すれば、被告槙側も態度を変えるでしょうと言って、和解交渉を勧め、原告を代理して、被告槙に対し、同六三年三月一四日付けの内容証明郵便を差し出して、本件の原告論文の被告槙名義論文への全面無断転用及び一部改変について、まことに遺憾であるとして、1速やかに研修集録別刷の全面回収をすること、2七日以内に右別刷の配付先の住所、氏名、配付日時を明らかにすること、3本件無断転用等につき、謝罪の意思を明示すること、4慰料三〇万円を支払うことを請求し、もし受諾なければ、法的手段に訴えると記載し、また、上山高校の校長に対し、同日付けの内容証明郵便を差し出して、上山高校としても、相応の責任を免れないとえざるをえないとして、1速やかに研修集録の全面回収をすること、2七日以内に研修集録の配付先の住所、氏名、配付日時を明らかにすることを請求する旨記載して、それぞれ要求した。
 被告吉村は、右の原告の要求に対して、同六三年三月二三日付けの内容証明郵便を差し出して、冊子の回収の要求は鋭意努力中であること、配付先の明示については、被告槙のプライバシーに関わることなので受諾できず、印刷部数は既に明示しているので、部数を照合して回収状況を確認願いたいとして、無断転用との主張について、「本来この研究は村山市史編委員会の事業の一環としてなされたものであり、その主任者は槙氏ですので、無断転用には該当しないものと思料します。従いまして無断転用に該当との前提に立った謝罪はいたしかねます。ただ、上山高等学校の学内誌に掲載するにつき、お断わりせず、礼を失した感は否めませんので、その限りにおいて謝罪する意思はあります。」と記載し、慰料は、「右の次第からすると、金銭のやりとりをすべき事案とはえられないのですが、和解金名目で金一〇万円を支払う用意はあります。」と記載し、また配付先を公表できないことは学校長も同意見であると付記して回答した。
 原告は、右の回答をみて、これで裁判をすることになると思ったが、同六三年三月二九日に田口弁護士から、田口弁護士作成の和解案を示されて、和解を強く進められて強い不満を抱いたものの、その後、田口弁護士に、同月三一日付けの手紙を出して、和解でもよいが原告の筋がとおるようにして欲しいと要望した。
(2) 田口弁護士と被告吉村は、同六三年三月末ころから、同年五月上旬にかけて、和解案の交換をし、田口弁護士作成の和解案は、原告は、原告が村山市史編委員会の地理部門の編集委員である被告槙の依頼により作成して送付した論文「村山市の就業状況の変化」が、被告槙により研修集録掲載の被告槙名義論文の中に、原告に断りなく一部変更の上収録されたことを認めたうえで、1右収録について謝罪の意を表する、2回収・送付部数の確認、3和解金三〇万円の支払いを内容として、原告論文と被告槙論文とを添付する内容であったのに対し、被告吉村作成の和解案は、原告の執筆した原告論文について論文であることを明示せず、被告槙の研究の一部とするものであり、同年四月一九日付け送付書による和解案では、「被告槙は村山市史編委員会の地理部門の編集委員であるところ、右研究の一部「村山市の就業状況の変化」について、原告が担当調査した、被告槙は原告担当部分を含む研究を「全国総合開発と農村構造の変貌(第一報)|村山市における就業状況の変化|」と題して、研修集録に収録したとした」旨記載したうえで、1右収録をなすにあたり、事前に原告に通知しなかった点について謝罪の意を表する、2回収送付部数の確認、3和解金一〇万円の支払い、4原告と被告槙両名は、本件に関し本和解書に定める他何らの債権債務のないことの確認と、今後本件に関し、当事者間、第三者を問わず何らの異議申立、意見の陳述等を行わないことの誓約することを内容とするものであり、また、同年五月九日付け送付書による和解案でも、被告槙は村山市史編委員会の地理部門の編集委員であるところ、その編のための研究の一部「村山市の就業状況の変化」について、原告が担当調査した、被告槙は原告担当部分を含む研究を「全国総合開発と農村構造の変貌(第一報)|村山市における就業状況の変化|」と題して、研修集録に収録したとしたうえで、1の事前の通知について、本件研究は村山市史編のためになされたものであるから、右収録をなすにあたっては事前の承諾を求めるべきところ、これをなさなかった点について謝罪の意を表する、と変更しただけの案であった。
(3) 田口弁護士は、被告吉村に対して、同六三年五月一三日付けの手紙で、原告論文について原告に著作権があることは明白であり、これは被告吉村の言う「共同研究」であるなしにかかわらないとえる、したがって、問題は被告槙が学内誌掲載の被告槙名義論文中に原告論文を無断収録し、原告の著作権を侵害したことにあり、本件について和解するとすれば、少なくとも原告側の案を基礎にしなければならないと指摘して、同案を検討するよう要望した。
 これに対して、被告吉村は、田口弁護士に対して、同六三年五月二七日付けの書面で「本研究はあくまで、槙の主管する村山市史編のための研究であり、甲野氏独自の論文ではありません。しかるに甲野氏は学校長や教育委員長にまで槙の中傷文を送り、あまつさえ、先生が受任された後も斎藤林兵衛氏宛中傷文を送りつけている始末です。本件は学内誌に掲載するにつき、若干礼を失した面はあるにしても、著作権侵害などという大それたものではないと思料します。もし本訴になれば、当方からも名誉棄損で反訴を出さざるを得ない案件と思います。甲野氏発送の手紙等は外にも沢山ありますが、一部送付申し上げますので、ご検討下さい。……和解案は来週早々にお送りいたします。今回お送りした書面を参にご賢察下さい。PS槙先生は小職の高校時代の恩師であります。到底著作権侵害をして利を得ようとする人ではないと信じています。又小職の妻はお茶の水女子大出身で、甲野氏の後輩にもなっています。よろしくご検討ください。」と記載し、後記の原告の斎藤林兵衛宛の手紙と前記の校長宛の手紙及び山形県教育委員会委員長宛の手紙のコピーを同封した。
 被告吉村は、田口弁護士に、同六三年六月二日付け送付書で、和解案を送付したが、右和解案は、先の和解案について、「被告槙は、原告が本件に関し担当調査して執筆したものにつき、今後、原告が独自の論文として発表することにつき何らの異議を申し立てず、また、被告槙の論文の一部に組入れたりしないことを誓約する」という条項を付加した以外は、変わらない内容のものであった。
 原告は、田口弁護士に委任した当初から和解を望んでいたわけではなく、これまでも和解を打切って裁判をしたいと田口弁護士に言っており、再度、田口弁護士に和解交渉を打切るように求めた。
(4) その後、被告吉村は、田口弁護士に、同六三年六月二三日付け送付書で、和解案を送付したが、右和解案は、概ね「被告槙は村山市史編委員会の地理部門の編集委員であるところ、その編のための研究(「工業資本導入に伴う農村構造の変化に関する研究」)の一部「村山市の就業状況の変化」につき、被告槙の依頼により原告が担当、執筆をした(以下「甲論文」という。)、被告槙は甲論文を含む論文「全国総合開発と農村構造の変貌(第一報)|村山市における就業状況の変化|」(以下「乙論文」という。)を、自己名義で、研修集録に収録した、ただし原告との共同研究の一部であることは明記したとしたうえで、1甲論文は村山市史編のために執筆されたものであるから、右収録をなすにあたっては事前の承諾を求めるべきところ、これをなさなかった点について謝罪の意を表する、2研修集録別刷の回収送付部数の確認、3和解金二〇万円の支払、4被告槙は、原告が甲論文を、今後自己の論文として発表することにつき何らの異議を申し立てず、また、被告槙の論文の一部に組入れたりしないことを誓約する、5原告と被告槙両名は、本件に関し本和解書に定める他何らの債権債務のないことの確認と、今後本件に関し、当事者間、第三者を問わず何らの誹、中傷を行わないことを誓約する」ことを内容とするものであった。
(5) 被告吉村の和解案は、右によって初めて、原告の原告論文について、原告が執筆した論文と認めた内容となったもので、田口弁護士は、同六三年六月二三日ころ、原告に対して、被告吉村から和解案が来たので事務所に来て検討するように求め、原告は、もう和解交渉は打切るよう頼んでいた旨述べたが、田口弁護士は右の和解案の検討を強く求めた。
 原告は、田口弁護士の解任もえて、同六三年六月二五日に自筆で和解案を作成したうえで、同月二九日に、田口弁護士事務所に赴き、被告吉村の前記の和解案を検討したが、原告は、被告吉村の和解案では、1原告は、被告槙の「工業資本導入に伴う農村構造の変化に関する研究」の一部と承知して担当したことはなく、事実と異なる、2謝罪の対象が、単に事前に承諾を求めなかったとしているにすぎない、3原告がそれまでに、権利回復のためにした行動について、被告吉村は誹中傷であるとしており、将来にわたって、原告が正当な意見の陳述をすることが禁止されることになるとえて、右の和解案を拒否して、田口弁護士に原告の和解案を出して、これがもし受諾されれば和解すると述べた。原告の自筆の和解案は、原告の原告論文、被告槙名義論文、及び、被告槙が研修集録別刷を回収する際に添付して送付した文書をそれぞれ別紙として添付して、概ね、原告は、村山市史編集委員の一人である被告槙から、村山市史の一部として掲載する論文の執筆を要請され、別紙の原告論文を送付した、被告槙は、それを市史掲載に先立って、原告に断りなく、研修集録掲載の被告槙名義論文の中に六頁から一四頁に相当する部分として一部変更の上収録したとして、研修集録と研修集録別刷の印刷配付状況を記載したうえで、和解条項として、1右収録と研修集録別刷の配付につき謝罪の意を表する、2研修集録別刷と上山高校による研修集録の回収状況と、原告に対する送付状況とを記載し、回収に際し、被告槙が執筆して配付先に送付した事情説明文は別紙のとおりである、3和解金二〇万円の支払、4「以上の他双方は本件に関し、(以下、空白)」という内容のものであった。
(6) 原告は、同六三年七月一四日に、田口弁護士から、被告吉村から送られてきた事情説明文を受け取り、その意見を求められたものの、その後の交渉の進展も見られず、それまでの田口弁護士の和解の交渉について、同弁護士だけが主体としてなされており、本人である自分は部分修正が許されるだけであるという強い不満を抱いていたことから、同月二一日付けの書面で、田口弁護士を解任し、原告に関する資料、委任状、着手金等の返還を求め、被告吉村に、同日付けの葉書で、解任したことを通知した。
(五) 原告は、原告の代理人の田口弁護士と、被告吉村との間で和解の交渉がされていた期間中に、第三者に対して、次のとおりの行動をした。
(1) 原告は、昭和六三年三月三〇日、被告槙の親戚で、教師や村山市役所の役員等の経歴もあり、地元での信望も厚く、原告が同六〇年八月に実施した農家調査の際に調査の対象世帯員として面識を得ていた斎藤林兵衛に宛て、同年三月三〇日付けの手紙を、封筒に「(親展)」と付記して送付し、被告槙の別刷送付文書や原告の山形県教育委員会への手紙のコピーを同封して、右手紙の中で、自分の調査の時に会ったことを記載したうえで、「さて、お聞き苦しい話ですみませんが、貴甥に当られる方について申し上げます。私が先生のおうちに伺いました時市史の執筆を頼まれていると申し上げなかったかも知れませんが、私は自分の論文を書くために調査をし、その一部を村山市史に執筆しようと槙昭一氏に約束して、そういう目的で先生のおうちにも伺いました。」という記載から始めて、本件の経過を詳しく説明して、原告が内容証明郵便を出したところ、弁護士を通じて、謝る筋合はないという非常に侮辱した内容の手紙がきたこと、そして「私は仕方なく、山形では槙のような行為がまかり通っているのだと思い、裁判を覚悟して、弁ご士に依頼しました。編集者が私の名前を落としたという最初の云いわけはウソのようでした。以上のような経過です。」としたうえで、「私は研究者として……自分の著作物は命にかえる程大切です。心ならずも市史への掲載を槙事件でことわったのも、これ以上槙氏のように、人の著作権を何とも思わない人にまかせておくのに耐えられず、市史で変なことになれば市をまきこむ紛争になることをおそれ、自分の原稿料をあきらめ、村山市の人との約束を果たさない批難もうけようと思いました。村山市の何ケ所かには謝って手紙を出しました。この槙氏の行為をやはりお身内ならかばい立てなさいますでしょうか。次に、高校の教師に、しかも未熟な年齢の人でない人に、こんな行為をする人がいるということです。私の研究したものが欲しければ、私のと、引用する条件でならいつでも差し上げましたし、それでも書けるはずです。これは私の家族私の周囲の人に大きな衝撃と不信感を与えました。ついでに申しますならば、村山市はこういう人を編者にえらばれたことを私はうらみに思っています。一応信頼して原稿を送りますので。東京の山形県人は槙昭一の名は知らなくても、斎藤林兵衛はよく知っています。私はこの件につき先生の御意見をお聞きしたいのです。槙氏は弁護士を通じて正当性を主張されていますし、教育委員会や高橋賢一校長もあまり驚かれた様子はありませんので。村山市ではよい人にもたくさん出合いましたが、一皮むけば、槙氏のようなことをするのかと思うと、不気味です。どうか先生のおえを個人的にお教え下さい。裁判や交渉には決して使いません。」と記載した。
 原告は、前記経過で、山形県の教育委員会や校長、弁護士等の対応について不信感が高まっており、また和解交渉についても前記の状況であり、原告の裁判をしたいとの気持ちに反して、田口弁護士から和解交渉を強く求められていることから、元教師として信望が厚い斎藤に意見を聞いて、できたら被告槙に謝罪を勧めてくれるのではないかということも期待して、この手紙を親展で送付したものであるが、この手紙を送付した当時既に斎藤林兵衛は死亡していたため、家族が右手紙を開封して、本件を知るに至った。そこで、被告槙は、自分の見解による事実経過を説明して家人等を納得させた。
(2) 原告は、昭和六三年三月三一日ころ、原告に被告槙の名前を知らせた吉田義信に対して、葉書を出して、近況報告として、原告は地理教育の研究分野で、「戦前の地理教師|文検地理を探る」の書籍のための執筆をして、ようやく脱稿したことなどを知らせ、「これで地理教育はやめていよいよライフワークにかかります。大学院はもう一年います。就職はなかなかありませんが、だめなら著述業でいくつもりです。」と記載したうえで、本件についても触れて、「ところで、槙昭一氏から何かきましたか?私が先生のうちに疲れた顔でいった時の六〇年八月のあの調査を、村山市史の原稿として送ったら、彼が自分のものとして、校内誌に出してしまったのです。気がついた時は一七〇部も配付されたあとでした。ほんとにびっくりし、気持ちをたてなおすのに、今までかかりました。でも、あのつらい調査で得たものはあくまで私のものです。」と記載した。
(3) 原告は、昭和六三年四月四日開催の日本地理学会春季大会の懇親会の席で、被告槙が既に別刷送付文書を送った同学会員に対して、研修集録別刷の回収を依頼をしていたことから、出席者の間でこのことが話題となり、出席者からこの件を聞かれて、経過を説明したりしていた。
 そして、村山市史の編集委員をしている東北大学の丁野助教授は、原告に対して、被告槙の立場を擁護して、原告に事件を収めるように勧め、原告には威嚇であると感じられるような発言をしてきたために、原告は、反論した。
 なお、被告槙は、反訴の請求原因として、原告が昭和六三年六月下旬ころ、文書を送付するほかにも、毎日のように、上山高校の校長や教頭、山形県教育委員会等に電話して、研修集録等の回収、被告槙に対する指導等を要求し続けた旨主張する。
 しかし、これは、被告吉村が、被告槙から事情を聞いたうえで、反訴の請求原因として補充したものであると推測されるものの、本件全証拠をみても、これに沿う証拠はなく、前記のとおり、右主張の日時は、既に上山高校や被告槙によって研修集録等はすべて回収され、上山高校が原告に送付していたのであることと、原告が当時山形県内には電話をしていないという反証に照らし、右事実を認めることは到底できない。
(六) 他方、被告槙は、田口弁護士と被告吉村との間の和解交渉中、研修集録別刷の配付先に対して、事情説明文を添付して研修集録別刷の回収をしており、その配付先の一人である吉田義信に対しても、書面を送って研修集録別刷の回収を求めているが、吉田は、被告槙に対して、同六三年四月九日付けの手紙を、研修集録別刷と原告の吉田に対する前記(五)(2)の葉書のコピーとともに送付し、右手紙の中に、「御書面拝見致しました。……私には事情がよくわからぬので、甲野氏へ何も知らせてありません。共同研究であれば校内誌に掲載することを事前に連絡しなかった道義的責任はあるとしても、根本的に問題はないと思います。しかし甲野氏が葉書に書いているとおりとしたら、大問題で弁解の余地はなくなります。弁護士を立てて交渉するまでになったということは、甲野氏に公的な謝罪と慰謝料請求のえがあるように思われます。配付した別刷の回収も要求の一つではありませんか。「名誉を守るために戦う」と貴君の書面にありますが、共同研究なのか、甲野氏の研究そのものなのか、私にはわかりませんので、何とも言えません。いずれにしても不祥事です。善処して下さい。」との記載をしており、以後被告槙と吉田との交際は途絶えているものである。
 右の書面の文面によると、被告槙は、他の配付先に対しても事情説明文の他に、自分の見解による経過説明を記載した書面を出して回収していた可能性があることを否定することができない。
(七) 原告は、田口弁護士を解任した後、村山市史の事業計画書から、丁野助教授とともに、村山市史の編集委員の一人であり、山形新聞社の主筆であると分かった岡崎恭一(当時、同社論説委員)に宛て、昭和六三年八月一八日付けの手紙(なお、被告槙は、反訴請求原因として、平成二年であると主張するが、右手紙の文面や被告槙の陳述書からすると、昭和六三年であることは明らかである。)を送付して、「貴方様のお名前は、村山市史編さん事業計画書の編集委員名から知り、ジャーナリストのお一人とみて、以下のことを申し上げます。」と記載して、原告が被告槙と会った経緯から、原告が一人で調査を行った経過を詳しく記載して、「六二年七月になって突然槙氏から「市史の原稿を送れ、期限は八月二〇日、市から要項がいくであろう」という手紙が来ました。二〇日になっても何もこず、統計が古くなっていて、新しいのを送れと市の日塔氏に申し入れても返信もありません……槙氏の要求により第二回を九月中頃送りました(槙氏の自宅に、という要求にも不信をもたなかったのもウカツ……何しろ高校教師、学会員の槙氏をきちんと約束を守らない人とは思いながら悪いことをするとは思いもよらなかったのです)。」と記載して、その後、被告槙から研修集録別刷が送付されて、原告論文がほとんどそっくり盗られ、別刷が学会員に送られていることを知ったとして、「村山市の調査は、鳥取、群馬、山形という地方就業についての一貫した研究の一つで、学会誌に出すつもりでしたし(槙氏には最初にそういいました)、やがては博士論文の重要部分とするつもりでした。槙氏は編集者が私の名をカットしただの、私が学会誌に出すのに問題はないの、といいますが、執筆物は執筆者のもの、というのは貴方様は十分ご存じでしょう。」と記載し、さらに、「槙氏は弁護士を通じて、甲野は研究協力者または補助者であるからそれは主管する者の名で発表して当然、改変も当然……といってきました。私も弁ご士をつけましたが、槙氏の主張はかわらず、和解金を支拂うから、研究協力者という線で和解し、かつこのことについて一切黙れ、と要求し、私の弁ご士も疲れたからその線で、などというので、私から弁ご士は解任しました。……この間に東北大丁野氏より「地元では槙氏が著作の出所にルーズなことは承知でつきあっている。校長・教頭になるべき人だから黙れ」といわれました。私は、学会、教師の研究、地方の市史……などのありようについて、あまりに大きな衝撃をうけ、ほとんどぼう然と過ごしています。そして、博論を書く気も失い、それよりも、このようなことを問題にしていくことが重要だと今は思っています。「文は人なり」ですから自分の書いたものが人の名で流布することのおそろしさは魂を抜きとられるような感覚で耐えられるものではなく、あえて、それを行い、あやまりもしないで、共同研究者(前述矛盾する改変をしたことで私の研究を全く理解していなかったことは明らかですし、私は実力からいっても彼と共同研究しようと思ったことはなく(事実もなく)、私なら補助者としてもお願いしないでしょう。根本的に何か調べれば論文になると思っている人とは私は違う、と思っていますので)とあとから云いはり、あとから題を冠せて、自分のものにする……その心を、書くことに命をかけている私としては承知しません。まして、金で口止めなどされたくありません。あなた様の名は槙氏が自分はこんなに地位が高いのだという証據に送ってきて知りました。丁野氏にあまり理不尽なことをいわれて、編集委員会も槙氏の行動を是認しているのかと絶望していましたが、ある総合雑誌の編集長が、ジャーナリストは違うであろうと、いわれたので手紙を出しました。私は著作権を守るために市史の原稿はおろしてしまいましたが、近頃市史や地方史はよく出されており、その影にはこういう暗い事実を含んでいることは、国民として重大関心事です。どのような形でか、こんなことがないようにお仕事を通じて努力していただきますようお願いします。」と記載し、追伸で「本年二月、村山市史の農業の部分(私が執筆を依頼された部分)はいつ発行されるかと槙氏に聞いたら「まもなく」ということでした。その後時々村山市の人に問い合わせていますが、発行された気配もありません。私は「まもなく」では私の著作権を取りもどせないまま発刊されるであろうとおそれ、原稿を降ろしました。もしかして、六二年七月「市史の原稿を送れ」というのも槙氏が勝手に(盗用するため)発したもので、市史編さん委員会では、原稿を集めよう(私の担当部分を含む巻について)という話もなかった……ここからサギが始まっていたのでしょうか」と記載した。
 岡崎は、原告に、昭和六三年八月二〇日付けの手紙で、自分は、村山市史の編集委員に名を連ねているが、委員会は一、二年に一度開かれるかどうかといった程度で、市史の発刊も当初の計画から大幅に送れている(私の担当の文化史は発刊しました)、したがって編集委員会で原告と被告槙とのことが話題になったこともないと思う旨記載して、「あなたが私にお手紙をよこされたのは、私が新聞社に勤めているので、何かを期待されてのこととお察ししますが……問題は著作権にかかわることで、あなたの言う通りお互いモノ書きを業とするものにとっては、たしかに重大なことで、当事者としてのあなたのお気持ちは十分に理解できますが、一般日刊紙の社会部ニュースとしては、いささかバリューが小さく、私としては紙面で取り上げるつもりはありません。ただし、お手紙のことは槙氏におしらせしておきましょう」と記載して原告に送るとともに、被告槙に、同月二二日付けの手紙で、原告の手紙をコピーしたものを同封して知らせた。
(八) 被告槙は、平成二年三月三一日、教諭職を任意に退職した。右のとおり、原告は、昭和六三年八月の岡崎に対する手紙を出した後は、何らの行動をなしていなかったもので、右退職まで一年半の期間があり、被告槙は、特に退職を勧告されて辞めたわけではない。
(九) 原告は、平成二年六月二二日から二四日にかけて、昭和六〇年一〇月に村山市の企業調査を行った際に面識を持ち、その後手紙等のやりとりをしていて交際していた柴田弓子の誘いを受けて、再び山形県を訪れることになった。
 原告は、被告槙が別刷送付文書で上山高校の研修集録の編集者が原告の名前を無断でカットした旨記載してきたことについて、田口弁護士と被告吉村との和解交渉において被告槙側からそのような弁明はなく原告の名前を載せなかったことは当然であり礼を失しただけであるという態度をとっていたこと等からすると、右の弁明が事実に反するのではないかという疑いを抱いており、これまで、原告が要求してきたのに山形県教育委員会が調査結果を全く知らせてこないことから、自分で真相を調査解明したいとえていたので、同二二日、村山市を訪れて夕方柴田と会う前に、上山市に行き、上山高校を訪れた。
 原告は、同日、上山高校の研修集録の編集者で当時在籍していた栂瀬教諭と会って、研修集録に自分の名前が載らなかった経緯を尋ねたところ、栂瀬教諭が、済んだことで答える必要がないと言ったため詰問となった。そして、栂瀬教諭は、当初から被告槙一名の名前で、横書の自筆の原稿で研修集録に投稿してきており、編集で原告の名前を落としていないと答えたため、被告槙が原告に対する別刷送付文書で虚偽の記載をして、原告の了承をとろうとしていたことが判明した。原告は、この時に、栂瀬教諭から被告槙が既に退職していることを聞いたが、栂瀬教諭が、被告槙は被告槙の名前で被告槙名義論文を発表してよいと言っていたので被告槙が正しいと思う旨を述べたため、これに対し、被告槙名義論文の発表は著作権侵害になると反論した。
 そして、原告は、被告槙の虚偽が明らかとなったことから、山形市の図書館に赴き、原告が執筆して掲載されるはずであった村山市史の被告槙が担当する巻がどのようになっているのか調べようとしたところ、既に二年以上経過しているのに刊行されていないことが分かった。原告は、被告槙が村山市史が刊行されると言って原告に原稿の執筆を要請し、別刷送付文書でも村山市史に載せるように記載し、その後も別の者に執筆させることにしたと連絡したにもかかわらず、未だ発行されていないことについて強い衝撃を受けた。
 そこで、原告は、さらに調査をしようとして、まず、山形市内の山形県庁の総務部秘書課を訪れ、応対に出た職員の高橋正光に教育委員会への取次ぎを頼み、山形県教育委員会の調査の結果や本件についての見解を直接聴取しようとしたところ、高橋は一人で教育委員会に行き、担当の係がおらず、誰もその件を覚えていないので追って返事させると述べたために、辞去した。
 次に、原告は、村山市に行き、村山市役所教育委員会を訪れて、村山市史の担当者に会って村山市史の刊行について調査しようとした。
 そうすると、原告が面識のあった当時の村山市史の担当者はおらず、代わって、昭和六三年四月から担当になった原田一裕が来て応対した。原告が本件を持ち出したところ、原田は、原告に対して、原告は執筆者扱いになっていない旨の原告にとっては侮辱ととれる発言をしたため、原告は怒って議論となった。なお、この際、原告が、被告槙は村山市史の編委員として不適格であるとの発言をしたとの被告槙の主張について、証人原田はこの点についての記憶はないと証言しており、認めることはできない。また、原告は、教育委員会の他に総務課、商工観光課に行き、本件について、話題にしている。
(一〇) 原告は、平成二年六月二二日夕方、柴田と会い、また、柴田の紹介で、工藤和子と面識を持った。原告は、東根温泉の宿泊先で、柴田や工藤と夕食を共にして、本件のことや当日の原田の応対等について話題に出した。なお、原告が大学教授との肩書で宿泊したとの被告槙の主張については、被告槙が他から聞いたという伝聞でしかなく、認めることができない。
 原告は、翌二三日に、工藤に連れられて山形県議会の高木議員宅を訪れ、高木議員とその妻と面識を持って話しをしている。なお、その際に本件が話題になったのか及びこの時点で高木議員が本件について議会で質問してみると原告に話したのかどうかについて検討すると、原告は、その後、高木議員に対し議会での質問に備えるために自分の資料を送付していること、同議員の妻が原告に宛てた手紙の記載内容や、右の面談の時に、高木議員が、原告に対して、東京の団体と山形県の民宿との間で、民宿が昨年同様サービスするといったため、東京の団体が昨年と同料金と思って宿泊したところ、実は、民宿は、サービス内容が同じとの意味で言ったもので、料金の値上げを持ち出したために、宿泊料金を巡って紛争があり、高木議員が解決した話を持ち出していることに照らすと、被告槙が原告に村山市史のための原稿を執筆するように言ったのに、その言葉に反して研修集録に載せたという本件の話題が出た可能性を否定することはできないものの、原告は、この点を一貫して否定しており、本件全証拠をもっても、右の事実を認めるには足りない。
 山形県庁総務部秘書課の高橋正光は、同二年七月三日に、原告に電話をし、「県教育委員会としては、原告と被告槙との問題としてとらえており、被告槙によく話し合えと指導した、しばらくして原告が訴えなくなったので、済んでいるものとして処理したといっている。」旨伝えてきたが、これに対し、原告は、直接教育委員会から回答して欲しい旨要望した。
 高木議員は、同日、原告に電話をし、本件に関して、事実確認をしてきた。
 高木議員は、同二年七月四日に、山形県議会予算特別委員会において、山形県教育委員会の教育長に対して、東京の大学院生が、村山市史の編委員をしている元県立高校教諭に自分の論文が盗用されたと指摘している問題について事実確認を求める質問をなし、教育長は詳細はつかんでいないと答弁した。そして、原告と被告槙に対して、右同日、山形県内の新聞社から電話で取材がなされた。
 右議会の質疑について、同二年七月五日、毎日新聞山形版に記事が出た。そして、高木議員は、原告に電話して、昨日県議会で質問し、今朝の新聞に掲載されたことを知らせるとともに、何かして欲しいことはないかと述べたのに対して、原告が教育委員会の調査結果と見解が聞きたいと言ったのに対して、あまり期待できないと述べた。
 なお、高木議員は、同二年七月七日に、原告に電話をして、被告槙側が和解をしたいと言ってきているが、山形に出て来て、自分にその仲介を頼まないか、このことは被告吉村も承知しているとの話を持ち出してきた。
 原告は、高木議員は村山市史の編委員による著作権侵害という社会問題として、正義感から議会で質問をしていたと理解していて、被告槙との個人的な問題は、自分で解決するつもりでおり、被告吉村からの申し入れなら、なおさら話し合いをするつもりはなかったため、電話での回答は、留保して、翌八日付けの手紙で、「今回のこと、高木先生が純粋に山形県にとって恥かしいことというお気持ちで議会で発言されたことと思っております。私の資料をお送りしましたのも、御発言のあと疑義や反論が出た時、お困りにならないようにという趣旨でした。私は槙氏と私との個人的関係を人様に仲に入っていただこうとえておらず、これからもそれはありません。……もし槙氏が謝るというなら、直接自筆の手紙でいってきて欲しいと思います。一応一週間程私自身が行動をおこすのを待ちますが、私はこれまでのことからほとんど期待しておらず、高木さんが何回かいわれた通り司直の手に委ねるほかはないと思っています。……吉村弁ご士が入られるなら最初から全く見込みはないと思います。」と記載して、右の申し出を断った。
(一一) 原告は、昭和六三年に山形県教育委員会に対して事実調査を要望していたが、その後、自分に対して全く連絡もなく、高木議員の話や新聞記事を見ても、同教育委員会の見解が判明せず、また、前記(九)のとおり、山形県庁に赴いて再度要望したことに対しても、直接の回答が無かったために、この際に、その調査結果と見解とを是非聞きたいとえて、平成二年七月一〇日ころ、文部省に電話して行政相談することとし、これを担当する広報課の職員に事情説明して、山形県教育委員会が回答を昭和六三年から全くしていないことやこれをしてもらうことを相談した。
 そして、原告は、同担当職員から、事実経過を文書にして提出すれば、担当部署に回すと言われたため、文部大臣宛の平成二年七月一六日付けの書面を作成して提出した。そして、この書面は、文部省内の地方課に回付され、事務連絡文書として、山形県教育委員会に送付された。原告が記載した右の書面の内容は、まず「趣旨」として、「私は、昭和六三年二月一八日山形県上山高校教諭槙昭一氏に私の論文を盗用されたことを知りました。その後、本人・上山高校長・山形県教育委員会にそのことを抗議しましたが、本人は人を介して卑劣な脅しをかけ、教育委員会は再三の訴えを全く無視しました。本件は私にとっての被害であるだけでなく、教育界の信用を著しく損なうものと思いますので、御調査の上善処されますようお願いします。」と記載し、次に「経過」として、昭和五九年に原告が被告槙と出会い、被告槙から村山「市史にも書いてくれるなら村山市に紹介してもよい」といわれたことから、原告が調査をした経過、被告槙に言われて、原告の原稿を被告槙の自宅に送付し、その後研修集録別刷が送付されて原告の原稿が改ざんされたことを知ったこと、その後、原告が本人と上山高校長に抗議し、同校長が教育委員会に言えといったので、手紙で事情を訴え、実情を調査すると共に被害を回復することを頼んだこと、その後、被告槙が被告吉村を通じて、謝罪の必要がない旨の回答をしたこと、その後、被告槙が学者を通じて原告が黙らないと学会生命を失う等脅迫させたことを記載し、また、新聞記事を添付して、高木議員による県議会における質疑の経過等を説明したうえで、原告が平成二年六月に現地で調査したところ、次の事実が判明したとして、1被告槙は、校内誌の編集者が原告の名前を削ったと文書でいっていたが、そうではなく、被告槙自筆の原稿に被告槙一名の名を記して投稿した、2被告槙は、昭和六二年七月に市史の原稿を送れと言ってきたが、当時、刊行する予定がなく、原稿を送らせる必要がなかった、3村山市史について執筆者は確定しており、原告の名前は執筆者として挙げられていないと村山市職員が証言している、以上からすると、「村山市史にも書いてくれるなら……」という時に既に詐欺的に原告の文を自己名義にする計画が被告槙の心にあった疑いがあると記載し、「槙はこれまでもしばしば他の著作を盗用しそれは許されてきた、との東北大助教授の証言もある。また村山市は多額の公金を槙に渡していて槙はそのうちかなりの部分を甲野に渡したといううわさを流しているらしいが(だから著作権侵害をしてもよいといういいわけに)、甲野が市から援助されたのは昭和五九年一一月二六、二七日の宿泊費を市職員が払っていった、これだけであり、当然ながら原稿料も失っている。甲野論文を書くための費用は市職員・農家・企業への手みやげに至るまで前記二泊分以外はすべて甲野が自弁した。槙は平成二年三月三一日に、上山高校を定年退職したようで、県立短大講師などをしているもようであるが、非行をした当時現職教諭であり、また市史の編者であり、本件が山形県人及び日本地理学会の関係者をはじめとする社会に与えた衝撃は大きい。私が費用と時間の問題で求償行為を怠っているとしても、行政側としての判断と処理は甲野と社会のためにすべきであろう。殊に毎日新聞に記事が出てから、県教委は吉村弁護士に何とか納めてくれと頼んでいるようであるが、教委に顧問弁護士をおいていることはありえないし、訴えている私の声をこのようにして抑えることは、社会的に疑義がある。」と記載し、「おわりに」として、「私は個人の求償行為としては本人訴訟という道があると思いますが、それと行政側責任とは少し別のことと思います。以上のことにつき証據はすべて用意してあり、いつでも提出できます。よろしくお願いします。」と記載している。
 また、原告は、同日付で、山形県総務部秘書課の高橋正光宛の手紙を出して、山形県教育委員会の回答を催促している。
 そして、その後、山形県教育委員会の学事課の職員である武田良一は、原告に対し、平成二年八月二二日付けの手紙を送付して、「県教委としましては当初からこのことは、当事者間の問題であり、双方で解決を図ることが望ましいとえ、槙教諭に対し直接会って話し合いをするよう指導しておったようであります。今年再びこのことが問題となってからも、私どものえは同じであり、すでに退職されております槙氏に対し、再三にわたり、誠意をもって相手方と直接話し合い、問題の解決にあたるよう指導しているところであります。私どものえをご理解していただき、一日も早い解決を期待申し上げます。」と記載して、原告に初めて書面で見解を通知してきた。
(一二) 被告吉村は、原告に対して、平成二年七月二四日付けの内容証明郵便で、「貴女は、政治家、山形県教育委員会、文部省等に対し、槙氏を非難する意見を表明しておられますが、このようなことは槙氏の名誉を著しく侵害するものですので厳に慎んで下さい。当方はいつでも貴女のご意見、ご要望を聞く用意があります。是非当方宛に直接ご意見をお出し下さい。もし、従前通り当方以外に非難する言動をお続けになるのであれば、法的根拠のない名誉侵害行為として把握することになりますので、ご了承下さい。」と通知した。
 原告は、自分が文部省に文書を出したことが、すぐに被告吉村に伝わったことを知って、被告槙が山形県教育委員会から保護されているとえるとともに、この書面について、自分の正当な行為に対する威嚇であると思い、被告槙に対して訴訟することをえた。
(一三) 被告槙は、平成二年八月一八日に村山市史の編委員、編集委員を辞任した。この被告槙が辞任した経緯は、前記のとおり高木県会議員が、原告と被告槙との本件の問題を県議会で取り上げ、山形県教育委員会も記者会見で事情を説明するということになり、また、後記(一四)のとおり、村山市議会においても本件についての質疑応答がなされるという動きがでてきたため、村山市教育委員会の教育長、村山市史専門委員、原田一裕、及び、被告槙との間で話し合いがもたれ、教育長の意見を聞いたうえで、被告槙が辞任するに至ったものである。
(一四) 平成二年九月に開催された村山市定例議会において、本件に関するものとして、次のような質疑応答がなされた。
(1) 板垣議員の質問に対し、教育長は、「甲野さん(原告)の手紙は見ていないが、自分が教育委員会に来てから、盗作問題が出ている話を聞き、非常にゆゆしい問題だということで、直接その方(被告槙)と会って話を聞いた。いろいろ行き違いがあるようであるが、その方と二人の間の関係だから教育委員会には別に迷惑をかけないということであり、それならなるべく早く解決してもらいたいということで、その後、何もなかったので、解決したと思っていたところ、最近になってその問題が再燃というか、二人の間で未解決のようなことがあり、県議会の予算委員会でも取り上げられ、新聞の記事にも出て、二、三の方からもどうなんだということを聞かれて、これは村山市史の名誉のためにもまずいと判断して、その方といろいろ話したところ、いろいろ村山市に対して迷惑をかけているから、この際委員を辞任したいとの申し出がありましたので、それを受理している」旨答えた。
(2) 笹原議員が、三番目の質問として、「本市の市史編委員である元上山高校教諭のAさん(被告槙)が東京の大学院生のB子さん(原告)の調査論文を盗用したと指摘している新聞記事があり、私は、B子さんに事実確認を求めたところ、それに相違ないということであり、これは市史編のために大変残念なことであるが、出たことは事実なので、その事後処理のために、先ほど教育長から、既に地理編の編集主任である先生は辞退を表明して、教育委員会はこれを受理したということだが、B子さんは、地理を専攻している研究者で、既に地理関係の著作、本を発刊している人で、昭和六〇年八月から一〇月にかけて、数回にわたって村山市に来て、聞き取り調査をして大変苦労があったそうで、このレポートが村山市史のために使われないで、全く別の研究誌に他人の名前で発表されたわけで、これは編集委員としてやるべきでないことを編集委員がやったということで大変残念に思うが、このB子さんの調査は、二〇日に及ぶもので、かなり調査費用がかかったと思うが、どの位かかったものか」について質問し、四番目の質問として、地理編の編集主任がいなくなったことによる編集委員の交代等についての措置について、質問をした。
 これに対して、教育長は、「盗用の件については残念に思っている。この地理編は今年中に仕上げをするような段取りであったが、何年か延びるわけであり、その先生が集められた資料とか、原稿とか一部いただいているが、その先生がまとめた原稿は採用できないのではないかと思っている。B子さんに要した経費というものを先生と打ち合わせして、目下事務担当者の方で整理しているところである」旨答えた。
 なお、被告槙は、原告が東京の佐藤共産党参議院議員に頼り、山形県議会の松浦議員や村山市議会議員まで動員して、村山市議会においても問題となったため、村山市史の編委員を辞任するに至った旨述べ、これに対し、原告は、佐藤参議院議員は知らないとして、高木議員が山形県議会で前記の質問をした後に、東京で共産党が開設している無料法律相談所を訪れて、議員が予算委員会で発言すればどのような意義があるのか聞きに行っただけであると述べているので、この点について検討するに、平成二年九月の村山市議会で、笹原議員が本件について質問していることは前記のとおりであるが、その質問内容に照らすと、同議員はその質問に先立って、原告から詳しい事情を聴取していることが認められるものの、原告が、村山市議会で本件を取り上げるように参議院議員や県会議員等に積極的に働きかけたことまで認めるに足りるだけの証拠はないといわざるをえず、被告槙の前記供述をそのまま採用することはできない。
2 争点3(損害賠償額等)について
(一) 被告槙は、前記のとおり、故意に原告の原告論文についての著作権及び著作者人格権を侵害したものと認められるところ、前記一1に認定した原告が山形県の農村の実地調査をへて原告論文を執筆した経緯、及び、被告槙が前記侵害行為をするまでの経緯とその侵害態様、並びに、右の1に認定した右の侵害行為以降の本件の経過等を総合して慮すると、右の侵害行為に基づく損害額としては、次の(1)と(2)との合計金六〇万円とするのが相当である。
(1) 著作者人格権(氏名表示権・公表権・同一性保持権)侵害に基づく慰料として金五〇万円
 被告槙は、村山市史地理編の主任編集委員であり、県立高等学校の教諭の職にあった者であり、原告に村山市史への原稿執筆の依頼をし、原告が山形県の農村の実地調査を行ったうえで、原告論文を著作したとの事実を知る立場にありながら、その立場を信頼して、村山市史に掲載するために執筆して送付してきた原告の原告論文について、無断で改変を加えて被告槙名義論文として、自分を執筆者としたうえで、原告の執筆の目的とは全く異なる自ら勤務する上山高校の研修集録に投稿して公表したものであり、その侵害行為の態様は極めて悪質である。このようなことは、編集者にとって、本来許されない行為であるばかりか、公的機関から委嘱されて公の刊行物についての編集委員となった者として、通常予想し難い違法な行為である。
 しかも、被告槙は、別刷送付文書において、自分は原告の氏名を記載して上山高校の研修集録に投稿したのに、上山高校の職員ではないとの理由で無断で原告の名前がカットされた旨の虚偽の記載をして、右の無断使用行為について原告に錯誤に基づいて了解させようと企図したものであり、この点も悪質である。被告槙としては、学内誌であり、自分は、原告の農村の実地調査のために便宜を図っており、また原告との間で共同研究の話もあったことから、共同研究として明記して掲載し原告の了解をとり、村山市史で、原告の調査研究と被告槙の調査研究を掲載し、原告の執筆分について原告名を明記すれば足りると安易にえて右の行為に至ったものとも推測されるが、このことは右の違法性を弱めるものではない。
 高校の研修集録といっても、被告槙は、日本地理学会の会員等に対しても自分の著作名義の論文として研修集録別刷を印刷して配付したものであり、学術論文における先行性を重んずる原告は、被告槙の違法行為によって強い衝撃を受け、その後、研究者として、自らの権利の侵害を早期に回復するための行為に奔走することを余儀なくされている。
 右のような被告槙の通常はえ難い不法行為がなければ、本来の学術研究に専心することができ、有利な就職の機会を得たかもしれないという原告の期待も、それまでの間の原告の業績に照らすともっともであると思われるところである。
 また、原告は、被告槙が当初は原告の要望に沿う行動をとっていたことから、本件について比較的早期の解決を期待していたと推測されるのに、代理人である被告吉村の平成二年三月の内容証明郵便以来、前記のとおり法的根拠や事実の裏付けがなく、原告にとっては屈辱的と思われる主張や和解案を提案され、また、自分が第三者に対してとった行動についても、名誉棄損にあたると主張されることによって、さらに苦痛を感じたものである。
 被告槙による原告の著作物の改変の内容も、原告主張のとおりのものであり、学術論文の正確性等を重んじる原告にとって、共同研究と記載されたこと自体も恥ずべきことであったものと推測できる。
 このように、原告が、被告槙の不法行為自体及びこれと相当因果関係を認めることができる事態によって被った苦痛は多大であったものと認められる。
 しかし、原告の行動と被告槙及び上山高校の迅速な対応によって、比較的早期に研修集録全部と研修集録別刷のほとんどが回収され、被告槙名義論文は、社会的には存続しない状態となったと認められるのであり、また、被告槙も、自らの違法行為を原因とするものではあるが、本件が盗作事件として山形県内の新聞や山形県議会及び村山市議会において取り上げられるという社会的制裁を受けて、村山市史の編委員を辞任するに至ったこと等の事実を含む本件に現れたすべての事情を総合して慮すると、原告の右の苦痛を慰するのには、五〇万円が相当であると認められる。
(2) 著作権(複製権)侵害による財産的損害として一〇万円
 原告は、被告槙の不法行為によって、原告がなした調査及び執筆がすべて無駄になったと主張するが、原告の本件調査は、前記のとおり、原告の学術論文の執筆を主たる目的として、原告の責任のもとになされたものであり、また原告論文も、原告がその調査結果を分析して察し執筆したものであるから、これらの調査や執筆活動が全く価値がなくなり、その労力が損害であると認めることはできず、これらのことを財産的損害として直ちに把握することは困難である。
 しかしながら、原告は、原告論文について、仮に研修集録に掲載することを許諾したとした場合に得られるべき額に相当する額を、自己が受けた損害の額として請求することができるところ(著作権法一一四条二項)、右の金額としては、原告の調査・執筆のための労力、その原稿の分量等諸般の事実を慮すれば、少なくとも一〇万円が相当であると認められる。
 なお、原告は、著作権侵害についての慰料を主張するが、著作権は財産権であって、特段の事情がない限り、その損害は経済的利益の損失等に限られるものであり、また、原告がその事情として述べるところは、著作者人格権の侵害による慰料の算定において慮されるべきものであるとえられるところ、これらの事情も慮して前記の慰料額を定めたものであり、右の損害については認めることができない。
(二) 謝罪広告等の請求について
 被告槙名義論文の掲載された研修集録と研修集録別刷の回収状況等は前記のとおりであり、本件において、さらに謝罪広告を認めることが適当な措置であるとは認められず、また、研修集録別刷の回収等の請求も、結局、被告吉村において所持している四部と被告吉村が保管中の原稿についてのものであり、今後被告槙において著作権等を侵害するおそれがあることは認められないから、右の措置の請求も肯定することができない。
3 争点4(原告の第三者に対する行為の不法行為の成否)について
(一) 被告槙は、原告が著作権及び著作者人格権を有し、被告槙が原告の右権利を侵害したものと誤解して、前記第二、二4(一)(2)1から11までの一連の行為をして、被告槙の名誉、人格権を違法に侵害したと主張するが、前記のとおり、原告は、原告論文について、著作権及び著作者人格権を有しており、被告槙は、故意にこれらの権利を侵害したものであるから、被告槙のこの点についての主張は、その前提において理由がないことは明らかである。また、被告槙は、被告槙名義論文は、原告との共同著作物であり、被告槙が右権利の代表行使をする等の合意があったとの主張もするが、被告槙名義論文が原告との共同著作物であると認めることはできない以上、被告槙の右主張も理由がないことは明らかである。
(二) 次に、被告槙は、仮に、被告槙の行為に権利侵害行為があるとしても、原告の前記第二、二4(一)(2)1ないし11の行為は、社会的相当性を逸脱する違法な行為であると主張するので、この点について判断するに、右の原告の行為について、本件証拠上、原告がしたものと認められる行為とその違法性の有無を判断すると、以下に記載するとおり、原告の右行為は、いずれも社会的相当性を逸脱した違法性があるものとは認めることができない。
(1) 第二、二4(一)(2)1ないし3の発覚当初の言動について
 原告は、被告槙から研修集録別刷及び別刷送付文書の送付を受けて、初めて被告槙が故意に原告の著作権と著作者人格権を侵害し、現に研修集録別刷を配付して、侵害行為を継続していることを発見したものであり、原告は、被告槙に対して、その侵害行為の差止請求権を有しており、その侵害行為によって作成された複製物である研修集録別刷の廃棄等の措置や著作者であることを確保するための適当な措置を請求することができたものである。
 また、現に研修集録を配付している上山高校の代表者である校長に対しても、その研修集録の一部が、原告の著作物を複製したものであることを通知したうえで、その配付行為の停止を求めることができるし、また、別刷送付文書の記載によると、上山高校の編集担当職員の故意又は過失によって、原告の著作権及び著作者人格権が侵害されたことが推測される状況にあったものであるから、研修集録の発行責任者である上山高校の校長に対しても、被告槙に対すると同様の権利行使をすることができるとえるのが相当である状況にあったものと認められる。
 さらに、別刷送付文書の記載内容によると、原告の著作物である原告論文が村山市史にも被告槙名義論文と同様に改変されて掲載され、印刷されるおそれがある状況にあったものと認められるから、原告は、村山市史の発行事務を所管する村山市教育委員会に対して、原告の権利の侵害を予防するために、被告槙による著作権及び著作者人格権の侵害の事実を通知して、村山市史への掲載の中止を要請する必要があったものと認められる。
 したがって、原告が被告槙や上山高校の校長及び村山市教育委員会に対して行う行為については、その行為の態様が右の権利の行使として社会的相当性を逸脱していると認められない限り、違法性を肯認することはできないし、それ以外の者に対する行為であっても、右の権利を行使するために必要な行為として認められ、その行為の態様が社会的相当性を逸脱していると認められない限り、違法性を肯認することができないものと解される。
 そこで、被告槙が主張する右1ないし3の行為についてみると、原告がなした行為の経緯及びその具体的な内容については、前記1(一)認定のとおりであり、原告のこれらの行為は、いずれも、原告が、昭和六三年二月一八日に、被告槙から研修集録別刷と別刷送付文書の送付を受けて、被告槙が原告の原告論文についての著作権及び著作者人格権を侵害して、現にその複製物である研修集録別刷を配付しており、上山高校も同様これらを侵害して研修集録を配付している可能性があること、また、村山市史でも同様の侵害がなされる危険があることを認識した直後にとったものである。そして、原告の上山高校の校長や村山市教育委員会に対する行為は、いずれも、著作権と著作者人格権という研究者である原告にとって重大な権利が違法に侵害されたことを知り、早期にその複製物を回収するなどして、これらの権利の回復を図り、又は新たな権利の侵害を防止するために行われたもので、原告の権利行使としてなされた行為であると認められ、原告がこれらに対して出した書簡の具体的内容を見ても、被告槙の権利侵害行為の状況を伝えたうえで、原告の右の目的のための措置を要求したもので正当なものであり、その表現においても、右の緊急の状況下におけるものとして、社会通念上許容される範囲内のものと認められるから、その行為態様において、社会的相当性を逸脱しているものとは認められない。また、原告の山形県教育委員会に対する書簡についても、右の緊急時において、原告の右の権利行使を確実にするためのものとして必要性が肯定され得るものであり、その具体的な内容をみても、右に述べたと同様に、社会的相当性を逸脱しているものとは認められない。
 なお、2の山形県教育委員会指導員について電話で被告槙が原告論文を盗用したと非難した事実を認めることができないことは、前記1(一)のとおりである。
(2) 同4の斎藤林兵衛に対する手紙について
 被告槙の親戚である斎藤林兵衛に対して、原告が手紙を出した経緯とその具体的内容は、前記1(五)(1)に認定したとおりである。
 この手紙は、原告が昭和六三年八月に実施した調査で知った斎藤に対し、親展と記載して出したものであって、不特定多数の者に対して、あるいは、不特定多数の者に読まれることを期待して出したものではなく、前記の原告がこの手紙を出した当時に原告が置かれていた状況と手紙を出した動機、目的等によると、原告が斎藤に宛ててこの私信を出すことについて、何ら違法な点は認めることができないというべきであるし、また、その手紙の具体的内容をみても、原告が村山市史の編集委員であり教師である被告槙を信頼していたところ、いわれもなく権利侵害を受けたという原告の率直な心情を述べたものであり、書簡全体としてみると、社会通念上許容される範囲を越えるものと認めることはできず、原告が右の手紙を出したことをもって、社会的相当性を逸脱した行為をしたものと認めることはできない。
 なお、仮に、原告が、被告槙の親族を含む不特定多数の第三者に読まれること等を予期して意図的に右の手紙を出したと仮定した場合について検討を加える。本件において、被告槙は、原告の原告論文についての著作権及び著作者人格権を侵害したことは事実として認められるところ、原告が、不特定多数の第三者に対して、この事実を告げることによって、被告槙の名誉権ないし人格権を侵害したとしても、その行為が公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的に出たものであると認められれば、違法性を欠くものとして、不法行為が成立しないものと解される。
 そして、被告槙は、本件当時、県立高等学校の教諭という公務員の立場にあり、しかも、村山市の行う村山市史の編事業について、村山市から委嘱を受けた編委員及び編集委員として、公務員に準じる立場にあったと解されるものであり、村山市史の編集委員として、被告槙が、原告から原告論文を受け取り、これを原告に無断で複製して被告槙名義論文として、自らが教諭として勤務している上山高校の研修集録に投稿し、原告の著作権及び著作者人格権を故意に侵害した行為は、それらの職務に関係する行為と認められる。また、著作権及び著作者人格権を侵害する行為は、三年以下の懲役又は一〇〇万円以下の罰金に処せられるものである(著作権法一一九条)。これらによると、被告槙が原告の著作権及び著作者人格権を侵害した行為は、単なる私権の侵害に止まるものではなく、公共の利害に関する事実と認めることができるものであり、これを不特定多数の第三者に告知する行為については、特段の事情が認められない限り、専ら公益を図る目的に出たものと推認することができる。
 このように、仮に、原告が、第三者に対して、被告槙の著作権及び著作者人格権を侵害した事実を告知したとしても、他に特段の事情が認められない限り、違法性を欠くものと解される。
(3) 同5の日本地理学会の懇親会での言動について
 原告が昭和六三年四月の日本地理学会懇親会の席で行った言動については、前記1(五)(3)のとおりであり、原告は出席者からこの件を聞かれて経過を説明しただけであるから、この原告がなした行為については、何ら違法な点は認められない。
(4) 同6の上山高校の校長等に対する電話について
 被告槙は、昭和六三年六月下旬ころに、原告が毎日のように電話で上山高校の校長等に研修集録の回収等を要求し続けた旨主張するが、この事実を認定することができないことは、前記1(五)(3)に記載したとおりである。
(5) 同7及び8の上山高校、村山市教育委員会等における言動について
 原告が、平成二年六月に村山市を訪れ、上山高校や山形県庁、村山市市役所で行った行為の経緯やその内容については、前記1(九)に認定したとおりである。
 これらの原告の行為のうち、上山高校の栂瀬教諭については、同人が被告槙の行為を擁護する発言をしたため、これに対する反論としてなされたものであり、また、村山市役所教育委員会の担当者については、原告が村山市史の執筆者扱いになっていない旨の同人の発言に対する反論としてなされたものであり、これらの原告の行為は、その動機、目的、行為の具体的内容によれば、いずれも社会的相当性を逸脱したものと認めることはできない。
(6) 同9の文部大臣宛の手紙について
 原告が、平成二年に文部大臣宛の手紙を記載して文部省に提出した経緯やその内容については、前記1(一一)に認定したとおりであり、その動機、目的において、不当な点を見出すことができず、その内容においても、その目的に沿った内容のものとして、特に違法な点を見いだすことができない。被告槙が主張する点についてみると、東北大学助教授の発言については、当時原告が自ら経験したものとして認識している点を記載したり、あるいは、原告が被告槙から多額の公金をもらっているという話を伝聞として聞いている点について弁明するために触れたものであり、行政相談をするに当たり、自分の要望が適えられるために記載したものと認められるものであり、書簡全体から見て、社会的相当性を逸脱するものとは認めることができない。
(7) 同10の岡崎恭一に対する手紙について
 原告が山形新聞の論説委員で村山市史の編集委員でもある岡崎恭一に対して手紙を出したのは、被告槙主張の平成二年ではなく、昭和六三年のことであり、その内容は、前記1(七)に認定したとおりである。そして、原告が右の手紙を出した動機、目的は、その文面及び原告が右の手紙を出すに至るまでの前記の経過によると、原告が被告槙によって著作権及び著作者人格権を侵害されたことを知り、原告が著作者であることを確保したり、名誉を回復するための措置として適当であるとえた謝罪等の要求をしたが、田口弁護士と被告吉村との和解交渉を経ても、結局右要求が入れられず、また、村山市史の他の編集委員の一人から、原告にとって威嚇ととれる発言を受けるという状況の中で、原告は、本件について、村山市から村山市史の編事業について委嘱を受けた編集委員がその立場を利用して、村山市史のために執筆した者の著作権及び著作者人格権を故意に侵害した事件として社会的な問題であるとえて、これらの権利を重んじると思われるジャーナリストの一人であり、村山市史の編集委員の一人である岡崎に対して、手紙を出して、その意見を問い、岡崎が本件について原告と同様に社会問題として捉えることも期待して出したものと認められ、その手紙の具体的内容においても、特に違法な点を認めることはできない。被告槙が主張する詐欺の疑いの記載についても、その記載内容からすると、原告は、被告槙が村山市史に掲載すると偽って原告論文を詐取したという疑いをもち、それを編集委員の一人である岡崎に対する手紙に記載して、その真相を知るための端緒として記載したものであると推認されるところであり、前記のとおりの本件における状況からすると、原告が右の手紙を出した当時、その疑いを抱くことは相当の理由があったものと認められ、またその記載内容も被告槙の行為を詐欺であると断定的に記載したものではないから、その記載の動機、目的やその記載内容のいずれの点においても、社会的相当性を逸脱したものであるとは認められない。
(8) 同11の議員の議会における質疑について
 被告槙が、原告が有する原告論文の著作権と著作者人格権を侵害した事件について、山形県議会において、高木議員によって取り上げられたことやその経緯については前記1(10)に認定したとおりであり、右認定の事実からすると、原告は、同議員に対して、本件の資料を送付したり、本件の説明をしたことが認められる。
 また、平成二年九月に開催された村山市定例議会で、市議会議員によって本件が取り上げられたことは、前記1(一四)に認定したとおりであり、その質問の内容によると、原告は、右の質問に先立って、本件の詳しい事実経過を説明したことが認められる。
しかし、本件全証拠によっても、原告が、右議員らに対して、積極的に働きかけて、本件を議会で取り上げさせたとの事実まで認めることができない。また、本来、地方議会の議員が、当該地方で起きた社会問題について、監督官庁等に対して質疑することは正当な議員の活動であると認められるところ、本件は、先に記載したとおり、公務員であった者、又はこれに準ずる村山市から委嘱されて村山市の村山市史編委員の立場にある者が、その職務に関して、著作権及び著作者人格権を故意に侵害する違法行為を行ったものとして社会的な問題となり得るものであり、議員らが、本件を議会で質疑することは正当な活動に当たり、その被害者である原告が、その事実経過等を議員に説明することは、何ら違法な行為ということはできない。
 また、仮に、原告が、本件の事実経過を説明したうえで、議員に対して、議会において質疑することを要望したとしても、それが専ら違法な目的で、不正な手段を用いて議員に質疑させた等の他の特段の事情が認められない限り、その行為について違法性を肯認することはできないものというべきであるところ、本件において、右の特段の事情の主張及び立証はない。
(三) 右のとおり、原告が昭和六三年から平成二年にかけて第三者に対して行った行為について、いずれも社会的相当性を逸脱したものと認めることはできず、その違法性を肯認することができないから、被告槙の反訴請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がない。
4 争点5(被告吉村の訴訟活動に関する不法行為の成否)について
(一) 原告は、被告槙が提起した反訴は違法な濫訴であり、弁護士である被告吉村は、弁護士法一条、二条に違反して、反訴が違法であることを容易に知ることができるのにこれを看過し、積極的に被告槙に加担して反訴を提起し、さらに反訴事件及び甲事件において、違法な訴訟活動を行っており、被告吉村のこれらの行為は、被告槙とは別個の不法行為に当たる旨主張する。
 ところで、法的紛争の当事者が当該紛争の終極的解決を求めて訴えを提起することは、法治国家において裁判を受ける権利として最大限尊重されなければならないから、原則として正当な行為であり、右訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは、当該訴訟において提訴者の主張する権利又は法律関係が、事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら、又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解される(最高裁昭和六三年一月二六日第三小法廷判決・民集四二巻一号一頁)。また、訴えの提起が弁護士である代理人を通じてなされた場合、当該代理人の訴訟提起行為について、相手方に対する違法な行為といえるのには、当該代理人が、当該訴えの提起が違法であることを知りながらあえてこれに積極的に関与し、又は違法であることを容易に知り得るのに漫然とこれを看過してその行為に及ぶなど、代理人として訴訟を提起する行為が、それ自体別個の不法行為と評価されるような違法性を備えることが必要であると解される。そして、代理人の訴訟提起行為が、相手方に対して違法であるといえるか否かを判断するに当たっては、元来弁護士は、社会正義の実現の責務を負っているとはいえ、依頼者との委任契約に従い、依頼者の権利を擁護し、その者の正当な利益を守るために、依頼者にとって最も有利になるようにえて法的な措置を講ずることが要請されていることを留意すべきである。
 また、代理人が当該訴訟で行う主張立証等の訴訟活動について、相手方に対する違法な行為であるといえるか否かを判断するにあたっては、右に述べたことのほかに、民事訴訟における弁論主義・当事者主義において、当事者双方がそれぞれの立場から忌憚のない主張と十分な立証を尽くすことが本来予定されていることから、これらの活動を萎縮させることがないように配慮する必要があり、代理人の行為が民事訴訟における訴訟活動としてなされる限り、これが相手方に対する違法な行為として不法行為が成立するためには、虚偽と知りながら、あえて虚偽の事実を主張し、又は虚偽の立証活動をなし、あるいは、その主張や立証活動の内容、方式、態様等が著しく適切さを欠く非常識なもので、相手方の名誉や法的な利益を著しく害するなど、その訴訟活動が社会的相当性を逸脱することが明らかなものに限られると解するのが相当である。
(二) 以上の見地に立って、原告の主張の当否を検討する。
(1) 原告は、被告槙の反訴の提起は違法であり、被告吉村は、反訴の提起が違法であることを容易に知ることができるのにこれを看過して、被告槙に加担して反訴を提起した旨主張する。
 確かに、被告槙の反訴の提起は、その当初において、原告は、被告槙の研究補助者であり、原告には、独自の著作権及び著作者人格権がないのに、原告がこれをあるものと誤解して、第三者に対して違法行為を行ったことを請求原因として提起したものであり、その後に、これを主位的な主張として、予備的に、被告槙が原告の権利侵害行為をしたとしても、原告の行為は社会的相当性を逸脱するものであり、不法行為に該当すると主張するに至ったことは、本件記録上明らかである。
 しかし、被告槙が予備的に主張するように、被告槙が原告の権利を侵害したとしても、原告がそのことを第三者に告げる等の行為をすることについて、その動機、目的やその具体的な行為態様によっては、社会的相当性を逸脱するものとして、違法性を有するに至ることもあり得るものであり、本件訴訟における双方の主張立証の結果、先のとおり、被告槙の右の主張が認められず、反訴の理由が認められないと判断されるとしても、直ちに、その反訴の提起自体が、法的根拠や事実的根拠を全く欠くものと評価されるべきものでないことはいうまでもない。
 そして、前記1認定の事実経過によると、被告槙が高等学校の教諭を退職したことについては、原告の各行為と直接の因果関係を認めることは困難ではあるものの、被告槙が村山市史の編委員及び編集委員の職を辞任したのは、原告の議員に対する事実経過の説明等の行為も一因となって被告槙の著作権及び著作者人格権侵害行為が議会でとりあげられ、新聞報道もなされるなど社会問題化したために、村山市教育委員会の教育長の勧告を受けたためであると認められるのであり、このことや前記1認定の事実経過やその証拠の状況からすると、被告槙が、原告の第三者に対する言動によって多大な精神的苦痛を受けたものとして反訴を提起することは、全く法的根拠や事実的根拠を欠き、被告槙がこのことを容易に認識することができたもので、違法なものであるとの評価をすることはできないものというべきであり、被告槙がこの点について裁判所の判断を求めるために反訴を提起することについて、違法性を肯認することはできない。
 したがって、被告吉村が、被告槙の代理人として、反訴を提起する訴訟行為を行ったことについて、違法性を認めることはできない。
(2) 原告は、被告吉村が、被告槙を代理して、反訴事件及び甲事件において、原告が原告論文を著作したことを認めながら、「大学院生は研究者として一人前の地位にあるわけでなく、既存の研究者の助手として活動することがあり、本件もこのような形態であり、原告は教員としての経歴は有していても研究者として実績のある者ではなく、被告槙は大学院生としての原告に勉強の場を与えてやったものである。原告は村山市の研究者である被告槙の研究補助者あるいは助手に過ぎず、原告論文は被告槙の論文に組み込まれ、被告槙が加筆したうえで被告槙の名で公表されることが予定されたもので、原告には独自の著作権ないし著作者人格権はない」旨主張したことについて、違法な訴訟活動であると主張する。
 確かに、先に判示のとおり、仮に、被告槙の研究補助者ないし助手として原告が調査を行ったとしても、原告がそれに分析を加えて察した研究内容を自らの表現で執筆した原告論文については、原告が著作者として著作権及び著作者人格権を専有することは明らかであり、右の主張は主張自体失当である。また、本件において、原告が行った調査は、原告が独自に行ったものと認められるものであり、右の主張は事実的根拠を欠くものである。
 また、被告槙自身が作成した別刷送付文書及び事情説明文の記載を見ると、被告槙も、原告が村山市史のために執筆した原告論文について、原告に無断で、被告槙名義論文として研修集録に投稿したことは問題があるものと認識していたことが窺われる。
しかしながら、前記一1認定の事実によると、被告槙は、村山市史の編委員として、村山市史のために農地の宅地化、工業団地化等の調査研究をすることをえており、原告がする農村調査について村山市史のためにも執筆することを原告に要請したうえで、原告を村山市に紹介したり、資料を送付するなどして原告の調査に協力しており、また調査地の選択についても助言をしていたこと、被告槙から原告の紹介を受けた村山市職員も原告が村山市史のために執筆するために、農業基本調査票を閲覧させたり、原告を現地に案内する等の協力をしたことは認められる。また、(証拠略)によると、被告槙は、編集委員としての立場から、原告が学術論文としてではなく村山市史のために執筆する原稿を村山市史に掲載するにあたっては、他の執筆者分の原稿の記載内容や記載項目の調整や形式的な表現の統一等をするために、当然に原告にその内容の加筆、訂正、表現の変更等を求めることをえており、原告が記載した原稿をそのままの内容及び表現のものとして直ちに掲載するものとはえていなかったこと、他方、前記のとおり、原告は原告論文を送付するにあたって、村山市史に掲載するにあたり、昭和六〇年度の国勢調査の数字部分を空白として被告槙に補充して記載したり、数字の表記を統一することを依頼していたことも認められる。
 そこで、被告槙は、以上のことに加えて、著作権法の理解が十分でなかったために、原告が被告槙の要請に応じて、村山市史に執筆するためにも農村の調査をしたうえで、村山市史のために執筆して、編集委員である被告槙に送付してきた原告論文が独立した著作物として著作権法上保護されるものであるとの認識を欠いており、そのために、原告が原告論文について著作権及び著作者人格権を有するとの主張についてすべて争うことをえたものと推認されるところである。
 そして、依頼者から委任を受けた弁護士は、依頼者との委任契約に従い、依頼者の正当な利益を保護するために、依頼者にとって最も有利になるようにえて措置を講ずる必要があり、そのために、依頼者の認識する事実や法的要求について、多角的に、種々の法的主張を構成するなどして、依頼者の立場からみて十分な主張を行い、もって裁判所の誤りのない判断を得て、依頼者の正当な利益の満足を得ることは、正当な訴訟活動であると認められるところであり、代理人の訴訟活動が相手方に対する違法な行為として不法行為が成立するためには、虚偽と知りながらあえて虚偽の事実を主張し、あるいは、その主張や立証活動の内容、方式、態様等が著しく適切さを欠く非常識なもので、相手方の名誉や法的な利益を著しく害するなど、その訴訟活動が社会的相当性を逸脱することが明らかなものに限られると解するのが相当であることは、前記のとおりである。
 以上によれば、被告吉村の前記主張は、法的評価を含んだ事実の主張であり、虚偽と知りながらあえて虚偽の事実を主張したというものではなく、また、原告の著作権及び著作者人格権を否定する旨の主張をすることが、原告の感情を害することがあったとしても、その主張の内容、方式、態様等をみても、本件に現れた諸事情を総合して判断すれば、それらが著しく適切さを欠く非常識なもので、原告の名誉や法的な利益を著しく害するなど、その訴訟活動が社会的相当性を逸脱することが明らかなものであるとまでいうことはできず、違法性を肯認することはできないといわざるをえない。
(3) 次に、原告は、第二、二5(一)(2)1ないし3において、被告吉村が反訴の請求原因において虚偽の事実を主張したことが不法行為にあたると主張するので、この点について検討する。
1 被告吉村が、反訴状において、「被告槙は、調査テーマ、調査の対象地も被告槙が選定したうえで、原告に調査を依頼した。」と主張した点については、前記一1(四)及び(六)認定のとおり、いずれもその事実は認めることができないものである。しかし、原告がなした調査の経緯に関する事実認定は、本件証拠調べの結果によって総合的に判断することができるものであり、また、これによると、被告槙が原告に対して調査地の選定について助言をした事実は認めることができるものであるから、被告吉村が、被告槙の代理人として、反訴を提起するにあたって、被告槙から事情聴取をするなどして右の各主張をしたことを捉えて、社会的相当性を逸脱することが明らかなものであるということはできず、違法性を肯認することはできない。
2 被告吉村が、反訴状において、「被告槙は、原告に昭和六〇年一〇月の東北地理学会で発表したいので、調査結果について原稿をまとめてくれるよう依頼したのに原告は断った。しかるに、原告は、昭和六一年四月に被告槙に無断で日本地理学会に発表した。原告は、調査結果を独自に発表する権利はなく、右の発表は、被告槙の著作者人格権を侵害した。」旨主張した点については、前記一1認定のとおり、被告槙は、自ら発表するために、原告に対し、原告の調査結果について原稿をまとめるよう依頼した事実は認められず、原告に対し、原告が実施した調査結果について、原告が東北地理学会で発表するよう申し出たのに対して、原告が辞退したものであることが認められる。しかし、●証拠略●に照らすと、被告吉村が、被告槙の代理人として、この主張をするに当たって、被告槙が原告に宛てた依頼の葉書もなく、十分な裏付けはないものの、依頼者である被告槙から事情聴取したうえで右の主張をしたものと推認されるところであり、その主張の成否については、被告槙の供述などのほかに、原告側が提出する証拠等も総合して判断されるべきものであるから、被告吉村が、反訴状において右の主張をしたことを捉えて、社会的相当性を逸脱することが明らかなものであるということはできず、違法性を肯認することはできない。
 なお、右の被告槙の著作者人格権を侵害したとの主張については、被告槙が作した著作物についての事実的根拠や法的根拠のない主張であり、この主張は、法的な誤解に基づくものと認められるが、その後、被告吉村は、この主張を撤回しているところであり、依頼者の代理人としてなす訴訟活動について先に判示した趣旨によれば、反訴状においてこの主張をしたことについて、社会的相当性を逸脱することが明らかであり違法性のある不法行為に該当するものということはできない。
3 被告吉村が、反訴請求原因として掲げる事実のうち原告が前記第二、二5(一)(2)3において指摘する事実についての当裁判所の判断は、それぞれ、前記三1(一)、(五)(3)、(九)、(一〇)、(一四)、(一五)に記載のとおりであり、いずれも被告吉村が主張するとおりの事実を認定することはできない。
 しかし、被告吉村が、被告槙の代理人として、これらの事実を主張するに当たっては、少なくとも、被告槙からの事情聴取を得て行ったものと認められるものであり、前同様に、これらの主張について、直ちに社会的相当性を逸脱することが明らかなものであるということはできず、違法性を肯認することはできない。
(4) さらに、原告は、被告槙が平成六年七月一八日の証拠調期日で、「被告槙が研修集録に被告槙名義論文を投稿するに当たり、執筆者として原告の名前を記載していたが、編集者が落とした」等供述したことは偽証であり、被告吉村は、これに反する乙五七の被告槙の原稿を受領しておきながら、これを秘匿して、被告槙の右の偽証に加担した旨主張するので、この点について検討する。
 被告槙の右の供述は、乙五七の被告槙作成の原稿の記載等に照らして採用することができず、被告槙は、研修集録に投稿する際の原稿に、原告の名前を記載していなかったと認められることは、前記一1(一八)に認定したとおりである。
 しかしながら、被告吉村は、被告槙の代理人として、原告の求めに応じて被告槙の前記証拠調期日の直後の同年九月一四日の証拠調期日(被告槙の本人尋問の続行期日)において乙五七を証拠として提出して、乙五七を示しながら、再度被告槙名義論文の原稿に原告の氏名を記載したかどうかについて尋問し、被告槙の前回の供述を一部訂正させた供述を得ているのであり、原告が主張するように、被告吉村が被告槙の偽証に加担する意図があったとすれば、乙五七をその直後の続行期日に提出してこれに関連して再尋問することは通常えにくいことであり、これらの事情を総合勘案すると、被告吉村が、被告槙が自ら記憶する事実に反する虚偽の供述をすることを予め認識し、このことを被告槙と打ち合わせたうえで、右の期日において、その供述を引き出すために質問に及んだものであると認めるのは相当ではない。確かに、右の乙五七の原稿は重要な書証であり、前記三1(三)認定のとおり、被告吉村は、被告槙が右の原稿を印刷所から回収した後に受領して、その後、右の証拠を保管しており、また、右の期日までには、右の供述に沿った事実の主張や証拠の提出はしていなかったのであるから、弁護士である代理人としては、右の期日に被告槙の本人尋問をするに当たって、事前に、右の証拠も検討して、被告槙にこれを見せて十分に被告槙の記憶を喚起させたうえで、尋問を実施する等の事前準備をすることが妥当であったものとえられるところではあるが、これをせずに尋問に及んだことを捉えて、相手方である原告に対する関係で、社会的相当性を逸脱することが明らかであり、違法性があると評価することはできない。
(5) 原告は、被告吉村が、訴訟提起前の田口弁護士と被告吉村との間の和解交渉の内容を持ち出して主張することについて、違法な不法行為であると主張する。
 しかし、田口弁護士と被告吉村との間の和解の交渉経過は、前記三1(三)及び(四)認定のとおりであり、被告吉村は、自ら和解成立のための交渉に当たり、原告の主張にも沿って譲歩した和解案を提案したが、原告側がこれを拒否したことについて、依頼者である被告槙の代理人としての認識に基づき、原告の甲事件の提起についての事情として主張したものと認められるものであり、その和解交渉経過は、原告にとって、人権侵害にあたるとえられるところがあったとしても、被告吉村の右の主張について、社会的相当性を逸脱することが明らかなものであるということはできず、右の訴訟活動について、違法性を肯認することはできない。
(三) 以上によれば、被告吉村が被告槙の代理人として行った訴訟活動については、いずれも社会的相当性を逸脱することが明らかなものということはできず、その違法性を肯認することができないから、原告の被告吉村に対する乙事件の請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がない。
四 よって、主文のとおり判決する。

裁判長裁判官 設樂一
裁判官 橋本英史
裁判官 長谷川恭弘

別紙 謝罪広告案 略
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