判例全文 line
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【事件名】「女優貞奴」と「春の波涛」事件
【年月日】平成6年7月29日
 名古屋地裁 昭和60年(ワ)第4087号 損害賠償等請求事件

判決
原告 X
右訴訟代理人弁護士 大脇保彦
同右 鷲見弘
同右 大脇雅子
同右 飯田泰啓
同右 相羽洋一
同右 谷口優
同右 原田方子
被告 日本放送協会
右代表者 会長 Y1
被告 株式会社日本放送出版協会
右代表者代表取締役 Y2
被告 Y3
被告ら訴訟代理人弁護士 松井正道
同右 城戸勉
被告ら訴訟復代理人弁護士 柳原敏夫


主文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。

事実
第1 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告日本放送協会及び被告Y3は、原告に対し、各自金800万円及びこれに対する被告日本放送協会については昭和60年12月29日から、被告Y3については昭和61年1月1日から、それぞれ支払済に至るまで年5分の割合による金員の支払をせよ。
2 被告らは、原告に対し、各自金200万円並びにこれに対する被告日本放送協会及び被告株式会社日本放送出版協会については昭和60年12月29日から、被告Y3については昭和61年1月1日から、それぞれ支払済に至るまで年5分の割合による金員の支払をせよ。
3 被告らは、株式会社朝日新聞社、株式会社毎日新聞社、株式会社読売新聞社及び株式会社中日新聞社各発行の新聞のテレビ・ラジオ欄の紙面に、別紙目録記載の謝罪広告を、同目録記載の要領により各1回掲載せよ。
4 訴訟費用は、被告らの負担とする。
5 第1、2項につき、仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
 主文同旨
第2 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一)原告は、昭和32年名古屋大学文学部を卒業後、名古屋市にある東海テレビ放送株式会社に入社したが、昭和39年退職し、それ以降、著述業にある者で、主な作品として、「泣いて愛する姉妹に告ぐ・・古在紫琴の生涯」(草土文化刊)、「とくと我を見たまえ・・若松賤子の生涯」(新潮社刊)、「厳〈「厳」は「巌」の誤?〉本真理 生きる意味」等の女性史における未発掘の側面に光を当てた、女性の生涯と社会との関わりに関する著作がある。
(二)被告日本放送協会(以下「被告協会」という。)は、放送法の規定に基づいて設立された法人であり、被告株式会社日本放送出版協会(以下「被告会社」という。)は、被告協会の放送に関する出版物の発行、頒布等を目的とする株式会社であり、被告Y3(以下「被告Y3」という。)は、昭和36年ころから映画、テレビドラマの脚本等の作成に従事している者である。
2 原告の著作物
 原告は、昭和57年8月15日、株式会社新潮社から「女優貞奴」(以下「原告作品」という。)を上梓した。
 原告作品は、原告の著作物である。
3 被告らの行為
(一)被告協会は、毎年、年初から年末までの1年を通じて、毎日曜日の午後8時から45分間の放送枠を用い、「大河ドラマ」と称するテレビ放映用作品(以下「大河ドラマ」という。)を制作して放送してきたが、昭和59年2月29日、昭和60年度の大河ドラマとして、「春の波涛」なる題名で女優川上貞奴「以下「貞」又は「貞奴」という。)の生涯を中心とするドラマを制作する旨発表した。そして、被告協会は、被告Y3の執筆による脚本をもとにテレビドラマ「春の波涛」(以下「本件ドラマ」という。)を制作し、これを、昭和60年1月6日から同年12月15日までの毎日曜日午後8時から45分間(第1回の同年1月6日の放送は、午後7時20分から午後8時45分までの85分間)、全50回にわたって放送した。
(二)被告会社は、本件ドラマの梗概の記載を中心とする「NHK大河ドラマ・ストーリー春の波涛」なる書籍(以下「本件書籍」という。)を制作し、昭和60年1月10日付けで出版したが、その52頁から112頁までには被告Y3の構成による「NHK大河ドラマ・ストーリー春の波涛」(以下「ドラマ・ストーリー」という。)が、208頁から214頁までには「エピソード人物事典」がそれぞれ掲載され、右エピソード人物事典中の210頁には「川上貞奴」なる項目があり、貞奴に関する記述がなされている(以下、右エピソード人物事典中の貞奴に関する記述部分を「人物事典」といい、これと本件ドラマ及びドラマ・ストーリーとを合わせて「本件ドラマ等」という。)。
4 原告作品の特徴
 従来刊行されていた著作物においては、貞奴をその夫川上音二郎(以下「音二郎」という。)の蔭にある女性として描いており、貞奴自身の社会的活動及び生涯をまともに評価したものはなかった。演劇史上及び女性史上の貞奴の位置付けもなおざりにしたものがほとんどであった。
 しかるに、原告作品は、貞奴の自我と主体性を問うという新しい視点から、資料を掘り起こし、原資料及び参考文献を洗い直し、関係者より聴き取りをし、選び出した素材に新たな光を当て、構成をし、創作的表現によって貞奴75年の生涯を詳細に再生し、貞奴の内面からその実像を求めたものであって、女優を職業として確立するに至った道程を検証し、これを主題として演劇史上及び女性史上の新たな位置付けを試みた文芸作品である。そして、原告作品には、右主題による貞奴の生涯の再生と史的位置付けに、従来の著作物に見られない独自性、創作性がある。
5 本件ドラマの原告作品との類似性
(一)本件ドラマには、別紙1「「女優貞奴」・「春の波涛」類似箇所対比表」記載のとおり、原告作品の表現と類似する箇所が多数存在する上、貞奴が「女性として主体的に生きて女優業を切り開いた」という内容の主題、別紙2「女優貞奴の構図」に記載されたような人物の関係、貞奴を主人公とする物語全体の筋とその展開、貞と桃介の相互関係の設定と展開、桃介周辺の登場人物(福沢諭吉、その次女・房)の相互関係と展開、貞と音二郎の相互関係の設定と展開、貞を伴侶とするまでの音二郎及びその周辺の登場人物の相互関係の設定と展開が類似している。
(二)別紙1の類似箇所について説明を加えると、次のとおりである。
(1)主題とその展開の類似性(別紙1の1ないし8)
@ 原告作品の主題を表わした部分は、1の1ないし8の上段に示したとおりであり、その展開に従って要約すると、次のとおりである。
イ 女優の資質と素養(別紙1の1)
 貞は、芸者時代にいずれも男役つまり立役ばかりを演じて、芸者芝居に熱中し、その資質と素養を育み、音二郎と結婚し、演劇との関わりを持つことになった。女優の資質と素養に関して、「芸者時代の修業が役立った」として、芸者芝居への熱中を織り込んで筋立てているが、このように明言した作品は、これまでなかった。
ロ 女優になるきっかけ(別紙1の2)
 貞が自ら女優の道を歩むことになった具体的契機は、サンフランシスコの興行元で、貞のポスターが街角にはりめぐらされているという周囲の状況から一座を救うため舞台に立ったことである。
ハ 欧米で舞台に取り組む姿勢(別紙1の3)
 道成寺など「極限に追いこまれて必死につとめた舞台」が、「迫力のある舞台」となり、「群衆を魅了し……一夜明けると貞奴はスター」になっていた。以後、貞奴は、欧米巡業で世界屈指の女優としての名声を博した(先行資料の「川上音二郎貞奴漫遊記」(乙45)にあっては、舞台の姿勢が称賛されたのは「思も寄らぬ怪我の功名」であったとしているのに、原告作品にあっては「極限に追いこまれて必死につとめた舞台」だったので、「そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう」と筋立てているのであって、この両者は決定的に異なっている。)。
ニ 女優として立つ決意(別紙1の4)
 貞は、帰国して日本で舞台に立つことになるが、女優として立つことに逡巡する。音二郎の妻として、夫の影になって生きるべきだという「妻の枷」をはめる世間への慮りもあったろうが、むしろ、貞自身は、「女優の演技の基礎といえば何一つしていないも同然」の我が身を、演劇修業の厳しさと対置させて、「出る以上は、基本から身につけなければならない。一度失敗すれば、どういうことになるか、無残に否定され、女優の未来はそれだけ遠ざかり、更に困難になるのだ。……貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には応じられない。……世界女優の折り紙をつけられた貞に、失敗は許されない。」と考え悩んだ末に決意し、自らを鍛え直した上、女優として自覚的に舞台に立つことになる。原告作品は、様様の資料の重なりの中から、貞の心の深みにまで光を当てている(先行資料である明石鐵也著「川上音二郎」(乙18)によると、貞奴が日本へ帰ったら絶対に舞台へは立たないと言った最大の理由は「川上の心に、鞭を打つつもりから」であったというものである。)。
ホ 女優としての評価(別紙1の5)
 「オセロ」、「ハムレット」等を公演し、「貞奴は、満都の人気を一身に集めた。現象的には西洋での場合と同様、たった1年で、一際抜きんでて輝く別格の俳優となったのである。」
 これまで、「女役者のみの『女芝居』の延長のような『女優劇』」はあったけれども、貞奴の場合は、「劇界の片隅を占めるのではなく、男優をしのいでその頂点に立った。女役者の殻を脱いで、女優への転身をなしとげたのは、貞奴自身の資質と努力のたまものだった」のである。また、貞奴は、「お伽芝居、就中『浮かれ胡弓』によって、演技の醍醐味を味わ」い、「さしも川上嫌いの面々も、こぞって支持を表明した。」「子供たちを喜ばせ、貞奴自身も心を洗われた。」
 この部分は、「オセロに苦しんだ貞奴がお伽芝居によって演技の醍醐味を味わって女優開眼に至り、ハムレットに及んで女役者から近代女優への転身をなしとげた」という物語であり、他に類のない原告作品独自の創作的表現である。また、貞奴を女優として高く評価し、それを原告作品のように表現した作品は、他にない。
ヘ 女優養成所(別紙1の6)
 さらに、貞奴は、女優養成所の必要性を痛感し、女優に対する攻撃に敢然と立ち向かうことになる。「明治の女優排斥のすさまじさは、想像を絶するものがあった。男尊女卑の毒素が地底から噴きあげ、火山灰になって襲いかかった。」「貞奴は猛威をふるった女優攻撃の矢面に立って、この養成所を設立した。」
 女優といえば、品行が真先に問題とされ、堅気の娘は女優になるまじきものと考えられていた時代に、「過剰なまでに、生徒の品行と男女交際を厳しくとりしま」りながら、音二郎の単なる協力者としてではなく、女優の志願者に道を開いたのである。これは、貞奴に真に女優としての自覚がなければ到底果たしえない事業であった。
 原告作品には、貞奴が単に女優養成所を開設したというのではなく、「貞奴が、猛威をふるった女優攻撃の矢面に立ち、世間の偏見に対抗して、女優への道を開いた」という独自の物語性がある。
ト 音二郎没後の活躍(別紙1の7)
 さらに、貞奴は、新派の退潮期に女優を続け、音二郎亡き後もその遺志を継いで、「トスカ」で好演し、敢えて「サロメ」に挑戦した。女優として高い評価を受け、世間の「引退せよ」の声に抗して苦闘した。「貞奴は辛く苦しくはあってもこの時まで一度も、引退すると言ったことはなかった。それどころか折にふれて、西洋の女優の例を話して、引退説を否定し、抗弁していた。ヨーロッパでは72歳になるサラ・ベルナールをはじめ、高齢の女優が活躍しており、貞奴もまだ引退を考えてはいなかった」からである。
 また、河原乞食に対する社会の排斥に立ち向かい、貞奴は、音二郎の銅像を建てた。「音二郎が劇界につくした功績は大きくても、所詮は河原者と見下げられるのだった。貞奴はせめて自分が銅像を建てなくて誰が建ててくれようと思った。貞奴が銅像建立の希望を捨て、普通の石碑にしておけばこんなに苦労しなくてもすんだ……だが、河原者の悲哀を思い知って、貞奴は逆に強くなった。」
 このように、「音二郎亡き後、女優を続け帝国座も引き継ごうとして苦しむ貞奴が『トスカ』で芸の力を見せ、『サロメ』競演で気品と風格を示し、音二郎の銅像建立の場面で役者蔑視の風潮と戦いながら、貞奴の生き辛い時代を生きぬく」という筋立ては、原告作品独自の物語であり、創作的表現である。
チ 女優引退(別紙1の8)
 しかし、貞奴の引退の決断は、桃介が賭に出て打った桃介危篤の電報が地方巡業中に届き、そのため貞奴が桃介のもとに帰ったことが引き金になった。「貞奴が桃介の術策にかかったのだとしても、貞奴も自分の本心の見極めがついて、観念した。だが貞奴には、自ら芝居を捨ててしまった敗北感がのこった。その敗北感を押しやるためにも」引退興行は華やかで盛大であった。
 貞奴の「女優引退」に関して、「桃介の危篤電報を引き金として、貞奴は引退に追い込まれる」という筋立てにしたのは、桃介が貞奴に電報を打ったとの新聞記事をヒントにして、原告が創作したフィクションである。
リ 主題の要約
 原告作品は「あとがき」において、「貞奴は、……生まれながらにして、明眸皓歯に恵まれていたが、何よりも精神力において、たちまさっていた。この精神の勁さばかりは、貞奴が自ら培ったものであり、それゆえに女優の先駆たり得た。女優が世に容れられるまでには、長い道のりがあった。当然女のすべき、というよりも女にしか出来ない職種でさえ、それが普通の状態になるまでには、すさまじい抵抗を受けねばならなかった。かつては役者もまた、他の職業と同じく、男の仕事であり、役者のみならず、芝居の構成メンバーは、表も裏も隅々まで、観客を除く悉くが男であった。……我が国において貞奴が登場するまでの二百年余、表現者はすべて男だった。女はその対象であり、客体でしかなかった。」と記している。原告は、資料を通底する女優としての自我と主体性を読み取ることによって、「内なる炎をもたない」夫の脇役という、伝統的女性観から貞奴を解き放ち、現代に受け継がれている女優の道の開拓者としての、貞奴の実像に迫りえたのである。
A 本件ドラマは、原告作品の主題とその展開に表われたオリジナリティー及び主題を具象するエピソードに依拠して、貞奴の自我と主体性を全面に押し出して制作されており、とりわけ主題の表わし方と展開は、別紙1の下段1ないし8のとおり、原告作品と同一又は著しく類似している。
イ 女優の資質と素養(別紙1の1)
 芸者芝居に凝っている貞に、「男役ばかりやっているんですよ」と言わせ、また、貞自ら1000円の切符を引き受け、いわば自腹を切って熱中していた有様を映像化している。
ロ 女優になるきっかけ(別紙1の2)
 先行資料とは表現が異なり、原告作品を脚色したものであることが明らかである。
ハ 欧米で舞台に取り組む姿勢(別紙1の3)
 先行資料にはなく、原告作品と同様の立場から「欧米で舞台に取り組む姿勢」を表現しているものであり、原告作品をもとにして作成されている。
ニ 女優として立つ決意(別紙1の4)
 本件ドラマは、何年もの修業を積んで舞台に立つ男性のみの歌舞伎を中心にした当時の演劇の状況のもとで、貞が、女優として舞台に立つことに厳しく内省した心のありさまをドラマ化しているもので、「女優の道」=「女優の発展」という主題と関連づけた表現が類似し、文意が同じである。
ホ 女優としての評価(別紙1の5)
 個々の題材が類似すると共に、題材と題材とを結んで女優の道を開くという主題に関連づけ、体系づけた物語が一致している。
ヘ 女優養成所(別紙1の6)
「貞奴が、猛威をふるった女優攻撃の矢面に立ち、世間の偏見に対抗して、女優への道を開いた」という独自の物語性が、そっくり再現されている。
 なお、S「マダム貞奴」には、女優養成所に関する言及は、全くない。
ト 音二郎没後の活躍(別紙1の7)
 選び出された題材・素材が一致し、その筋立ても同じであるものは先行資料にはない。
 原告作品の「女優の生き辛い時代であった」という表現が、「……本当にひとりで女優をやって行くって大変なことですものね……」(本件ドラマ第49回・シナリオX(甲3の5)の235頁)という貞のセリフに置きかえられて、同じことを言っている。
チ 女優引退(別紙1の8)
 本件ドラマは、原告作品のフィクションの部分を脚色したものである。
リ 主題の要約
 最終回「波路も遠く」のラストは、フラッシュ・バックで、貞の女優生活の重要な節節をとらえた上で、ロール・スーパーでもって、「貞奴が開いた女優の道は、近代日本の文化の発展と共に、現代に脈脈と受け継がれている」と主題を要約している。これは、原告作品の主題と同一であり、全編にわたって主題の展開が類似している。
B これに対し、被告らが本件ドラマの原作とするSの「マダム貞奴」及び「冥府回廊」における貞奴像は、原告作品及び本件ドラマのそれと正反対であり、心の内に燃え上がる炎を持たない、消極的な受身の女性としてしか描かれていない。
(2)貞奴をめぐる主要な人間関係の類似性(別紙1の9ないし11)
 原告作品の創作性は、貞の生涯に欠かせない重要な人物と貞との出会い、結びつき、あるいは別れの描写に如実に現われている。
@ 貞が自分から浜田家へ来た挿話(別紙1の9)
 貞が養母浜田可免を慕って自分から葭町の芸者置屋浜田家へ行ったという部分は、貞の人生の最初の大きな節目であり、貞を描く上で極めて重要な位置を占めるが、貞が自分から浜田家へ行ったという話は、過去の文献にはない。原告は、貞の養女川上富司と面談を重ねて聞き出した話を母体に、あたかも浜田家を駆込寺のように意味付けて描いたものであり、貞が子供なりに主体性と強い自我の芽を発揮したエピソードに創り上げたものである。
 本件ドラマは、貞の雛妓以前の子供時代を登場させず、代わりに架空の人物イトを設定して貞の妹芸者とし、貞奴の分身に当たる位置を与えている。別紙1の9の下段の記述は、原告作品の記述をイトに転用したもので、イトがドラマの上で果たす役割は、貞の過去を暗示し、貞という人物の一面を映し出すまさに貞の分身であり、原告の創作的エピソードを剽窃し、脚色したものである。
A 貞が音二郎に引幕を贈った話と、貞の音二郎観・結婚観(別紙1の10)
イ 引幕
 貞が音二郎に引幕を贈った話は、どの文献にもない原告の独創的な記述である。また、本件ドラマの台詞のやりとりをみると、原告作品の表現と内容が同一である。
ロ 日蔭者
 原告作品は、貞と音二郎との結びつきが、受け身であったり、世の常識に順応したりしたのではなく、さりとて桃介への対抗意識からでもなく、音二郎の人間性に魅せられた貞自身の選択であったことを強調している。さらに、原告作品は、名士を排斥する貞の結婚観の背後に、薄幸の実姉花子の影を見出したものであるが、花子については直接資料となるものはなく、まして、花子という身内の悲哀を、貞のものの考え方に組み込んで描いた文献は、過去において存在しなかった。
 本件ドラマは、第11回放送において、貞の実姉の名を花子から松子に変えただけで、原告作品の記述をそっくり写し取り、脚色したものである。
ハ 書生が好き
 原告作品と本件ドラマの表現は、極めて類似している。「名家真相録」には「書生肌が好き」という部分があるけれども、同一の資料をもとにしてもその読み取り方は必ずしも一致するものではなく、原告作品の模倣なくしては、原告作品の創作的表現と酷似することはあり得ない。
B 桃介との遭遇、親交そして破恋(別紙1の11)
イ 邂逅
 原告作品と本件ドラマの表現は、貞の服装が和服で乗馬袴のいでたちであること、貞の乗っている馬が暴れ馬であること、貞が暴れ馬から振り落されまいと必死でしがみついている(落馬はしていない)状態で桃介に助けられること、原告作品では桃介は「不動明王さながらに立っていた」のに対し、本件ドラマにおいては桃介は暴れ馬の前に仁王立ちをしており、不動明王を連想させること、貞奴は桃介を見て強い衝撃を覚えていること、桃介が貞にかける言葉がいずれも怪我がないかというものであること、桃介の身分について慶応義塾の書生という表現を用いていること、貞が満足に礼の言葉を言えなかったこと、以上のように多くの類似点が認められる。これらの類似点は、同じように馬を仲立ちにして貞と桃介の出会いを描いた他の作品とはまったく異なるものであり、本件ドラマは、原告作品の記述を剽窃しながら、一部を削除することによって剽窃の事実を糊塗しようとしたものである。
ロ ほのかな初恋
 貞が菓子折りを持って慶応義塾へお礼に行った後の運びは、直接の資料といえるものがない。そこで、原告は、貞がまだ雛妓の小奴時代であり、桃介も書生であることを考えて、お座敷ではなく、二人に戸外を散歩させることにし、芸者と馴染み客のごとく描かれた先入観の払拭を意図したものである。そして、両者の年齢も考慮して、ほのかな初恋として描くために、慶応近辺の三田台を散歩しながら、本名が母と同じだとか、生家の没落だとか、二人に共通の話題によって親近感が生まれる場面を作ったもので、いずれも直接の資料に基づかない創作的表現である。本件ドラマは、この狙いと表現をそのまま借用している。
ハ 別離
 原告作品は、貞と桃介の破恋を明治19年、貞15歳、桃介18歳と特定し、貞の性格の強さと内心の口惜しさを「またお目にかかりましょう」と涙も見せずに再会を約す言葉を告げながらも、何が「天は人の上に人を造らず」かと小石を蹴っとばす行為で表現した。これは、まったくの創作的表現である。本件ドラマは、二人の年齢、別れの言葉が再会を約するものであること、口惜しさの表わし方において類似している。
(3)個別的な剽窃の類型
 本件ドラマには、そのストーリーの根幹部分とは言えないものの、個別的な箇所においても、原告作品からの顕著な剽窃が見られる。
@ 引き写しの方法による剽窃(別紙1の12ないし19)
イ 音二郎の出自の述べ方(別紙1の12)
ロ 貞の芸者芝居の経験を語る表現(同13)
 本件ドラマの出版されたシナリオでは、「浜町」「有楽館」「鬼一法眼」「八幡太郎義家」なる語を用いている(別紙1の13の下段の2)が、原告が本訴提起前に被告協会から提示された放送台本によれば、それらは、「蠣殻町」「友楽館」「『菊畑』の鬼一法眼」「『八幡太郎伝授の鼓』の八幡太郎義家」となっており(同下段の1)、これらは、原告作品で用いられている語とほとんど同一であった。被告協会は、原告から原告作品との類似を指摘されたことから、本件ドラマのシナリオを出版するに当たり、先行資料である「女優歴訪録」の記載に沿うように改めたものであって、原告作品に依拠した事実を隠ぺいしようとしている。
ハ 貞のポスターに関する表現(同14)
ニ 烏森芸者一行の演目(同15)
ホ 帝国座の作りとその客足の記述(同17)
ヘ ゴロ合わせによる引き写し(同18)
ト 経文のカナ表記の引き写し(同19)
A オリジナリティーの盗用例(別紙1の21ないし26)
イ 一ツトセ節から官ちゃんと官吏侮辱罪、逮捕のエピソード(別紙1の21)
 原告作品は、広く流布した民権数え唄と音二郎作の替え唄とを比較して音二郎の特色を示した上で、「官ちゃん」を理由に、音二郎が官吏侮辱罪の現行犯として逮捕される場面に作り替えたものであり、創作的表現である。本件ドラマは、一ツトセ節を選び出したところから逮捕に至るまで、エピソード全体が原告作品に依拠して制作されている。
ロ 憲法草案作成の夏、貞が水泳を習うエピソード(別紙1の22)
 貞の記憶する一夏が明治何年のことか検証した上で、夏島草案作成の明治20年に当てはめて再生し、さらに時流との対比から、貞のものおじしない進取の気性を語らしめた創作的表現である。
ハ 音二郎の落選に関する創作的表現(別紙1の23)
 原告作品は、原告が、音二郎の談話に基づく「名家真相録」の記載を当時の新聞や通史、政治史等と照合し、音二郎落選の原因が通説にいうところの強い対抗馬とか新聞に叩かれたせいばかりではなく、選挙権のない人々に政見演説をしたところに根本原因があったと理解して記述した創作的表現である。ドラマ・ストーリーの当該部分(別紙3の23C)は、これを引き写したものであり、本件ドラマは、これに小手先による変容を加えたに過ぎない。
ニ 川上座を手放す音二郎の心境を推測する創作的表現(別紙1の24)
 原告作品は、出典には述べられていない川上座の転売後の使用状況につき、あたかも自分の子供と別れるかのように思いを馳せる音二郎の心情を慮って書き加えた創作的表現である。本件ドラマは、「氷庫」を「物置き倉庫」に置き換えたに過ぎない。
ホ 貞奴の「道成寺」好評に関する表現(別紙1の25)
 原告作品で、極限状況で必死につとめた舞台が成功の原因となったとする書き方、「振り出し笠」の場面で貞が倒れてしまうとする点は、いずれも独自の解釈による創作的表現であり、本件ドラマはこれをそのまま脚色している。
ヘ 「人肉質入裁判」の貞奴の台詞(別紙1の26)
 貞奴がこの場面で台詞の代わりに不動明王の経文を唱えたとする記述は、原告作品以外にはない。これは、原告が、養母可免が熱心な不動明王の信者であったこと、貞が可免のもとに養女にいったのが4歳のときであったこと、独自の調査から貞が右の経文をそらんじて唱えることは当然できたという視点から、咄嗟の場合にも自然に口について出てきたであろうと想定して描写した創作的表現である。本件ドラマは、「スチャラカポコポコ」等に引き続いて何の脈絡もなく経文の一部を取り入れて「ウンタラタ」「ウム、タラタ」というものであり、原告作品の創作的表現の剽窃である。
B 転用の方法による剽窃例(剽窃隠ぺいの塗り残し)(別紙1の9、22、27)
 著作物の基本要素を適宜に取り替え、事実そのとおりに表現しないことは昔からよく利用されており、原著作物から別のジャンルの作品を形成する翻案の場合にもしばしば用いられる。本件ドラマも、原告作品の著作部分をもとに種々の転用を行っており、本件ドラマが原告作品からの剽窃を行っていることの証左である。
イ 貞が養女になる経緯(イトへの転用)(別紙1の9)
 原告作品において表現されている貞に関する著作箇所を、そのまま架空の人物であるイトに転じて用いている。
ロ 憲法草案と華族令草案(別紙1の22)
 本件ドラマは、原告作品において「憲法草案」「夏島」となっている箇所を「華族令草案」「熱海」と転用し、全体の場面描写は原告作品に全面的に依拠している。この転用は、作品の資質を高めようとの意図からではなく、もっぱら剽窃であることを隠ぺいするためのものである。
ハ 72歳のサラ・ベルナール(別紙1の27)
 明治大正の雑誌等に、貞の談話の形で、貞がしばしばフランスの女優サラ・ベルナールを引合いに出して女優業について語っている記載があるが、原告は、これを参考にして、貞の引退が問題とされた大正5年の時点では、1844年生まれのサラ・ベルナールは72歳であるとして、創作的要素を加えて描写したものである。ところが、女優養成所開設の明治41年にはサラ・ベルナールは64歳であるのに、本件ドラマはその時点で72歳としたものであり、稚拙な転用である。
ニ 誓紙と誓詞(別紙1の28)
 貞奴に関する著作で、この色紙に言及したものは原告作品以外にはない。原告作品は、誓いを記載してある色紙の面に主眼をおいているので、「誓紙」と表現しているが、本件ドラマでは、「みんなで誓紙を書くのだ」「亀吉が誓紙を書いた色紙を手にして」と表現しており、極めて奇妙な表記になっている。その場面では、「誓紙」ではなく「誓詞」でなければならない。原告作品の「誓紙」を前後の関係を考えることなく引き写したためである。
6 ドラマ・ストーリーの原告作品との類似性
(一)ドラマ・ストーリーは、後記(二)のとおりその内容が原告作品に類似する上、別紙3「「女優貞奴」・「ドラマ・ストーリー春の波涛」類似箇所対比表」記載のとおり、その表現が原告作品の表現と類似する箇所が多数存在し、右5において本件ドラマについて述べたのと同様、主題、人物関係を始めとして、序章から結末に至るまでの筋の展開、構成においても、多数の類似箇所が存在する。
 なお、ドラマ・ストーリーを含む本件書籍は「NHK大河ドラマ『春の波涛』の番組鑑賞の手引きとして」編集発売された旨、巻末に明記されている。主題、骨子、全体の流れが本件ドラマの内容と掛け離れたものであれば、手引と称して発売したことが偽りとなってしまうから、被告らが本件ドラマとドラマ・ストーリーの内容が本質的に相違すると主張することは許されない。ドラマ・ストーリーは、ドラマ鑑賞の手引として、本質的に本件ドラマと同一の趣旨のものである。
(二)ドラマ・ストーリーと原告作品の筋の展開、構成の類似は、次のとおりである。
(1)まず、プロローグにおいて、主人公の貞が「板垣君遭難実記」を養母浜田亀吉と見に来て、新演劇の旗頭川上音二郎に熱中し、引幕を贈ったと告げ、「あの人と一緒にいると、何かおもしろいことが起こりそうな気がするの。考えもつかないようなおもしろいことがね。」と胸中を吐露する。
 これは、本件ドラマ第1回放送の冒頭と同じである。「考えもつかないようなおもしろいこと」として、貞と音二郎と一緒になって日本で女優の道を開くという主題の方向が示されている。原告作品と同じ主題であり、第2章に類似している。
(2)第1章「馬上の女」は、貞の小奴時代にさかのぼって、後に女優となる契機がいかにして訪れたかを、直接間接に関わった主要人物の紹介と共に示して、岩崎桃介との衝撃的な出会いから、音二郎が弁士になる直前までがまとめられており、貞の相談役としての音二郎、桃介の境遇、人となりが説明されている。
 これは、第1回及び第2回放送分の手引であり、原告作品の第1章及び第2章に類似している。
(3)第2章「自由童子誕生」は、貞が小奴から奴となるまでの間の、貞、音二郎、桃介の青春時代の描写により、後に貞の女優人生に大きな影響を及ぼす二人の男性との関わりが示される。
 これは、第1回ないし第8回放送の手引であり、原告作品の第1章及び第2章に類似している。
(4)第3章「オッペケペ」は、貞が女優として文字どおり苦楽を共にすることとなる音二郎と結ばれてプロローグの時点に戻り、その後、二人の結婚を中心として、オッペケペの流布から、音二郎が新演劇の旗頭となり、貞の支援で渡仏し、帰国後照明などに工夫を凝らした芝居で成功するまでがまとめられ、桃介と房子との夫妻仲が冷たいことも組み込まれている。
 これは、第9回ないし第21回放送分の手引であり、原告作品の第1章及び第2章に類似している。
(5)第4章「日本脱出」は、自前の劇場川上座建設を中心に、貞と音二郎の新婚時代から、失意の冒険渡航がアメリカ巡業につながるまでがまとめられている。
 これは、第22回ないし第27回放送分の手引であり、原告作品第2章及び第3章に類似している。
(6)第5章「海外巡業」は、サンフランシスコに着くと貞が主演女優であるかのように宣伝されていたため、貞がやむなく舞台に立つという経緯から、極限に追い込まれ死力を振り絞って舞台をつとめた結果、一夜明けるとスターだったというシカゴを経て、ロイ・フラー劇場に出演して絶賛を浴び、音二郎と共にオフィシェ・ド・アカデミーを受け、世界的女優となるまでがまとめられ、脇筋に「かっぽれ」「ヘラヘラ」などを見せる烏森芸者一行に随行する奥平剛史との邂逅が組み込まれている。
 これは、第27回ないし第32回放送分の手引であり、原告作品第3章及び第4章に類似している。
(7)第6章「女優第1号」は、帰朝公演では音二郎否定論の大合唱が起きたが、2度目のヨーロッパ巡業から帰って目指す方向がはっきりするという音二郎の動向から、日本で女優の道を開くべく『オセロ』出演を決意するまでの貞の心情、葛藤を中心に、苦痛を伴いながらも女優として自信と意欲を持つに至るところまでがまとめられ、プロローグに提示された主題が明確にされる。脇筋に、福沢家との養子の縁を切ってしまいたいと思う桃介と房子との仲が破綻したことが組み込まれている。
 これは、第32回ないし第35回放送分の手引であり、原告作品第4章及び第5章に類似している。
(8)第7章「劇界の改造」は、川上嫌いの面々もこぞって支持を表明し、貞自身も心を洗われ、女優になってよかったと思うお伽芝居から、音二郎の提唱する正劇への賛辞、「ハムレット」での改革成功を中心に、3度目のパリへ向かうまでがまとめられて、主題が展開される。その間に、日露戦争を背景に株で巨利を得た桃介と、帝国劇場設立発起人会での音二郎・貞夫妻との顔合わせが組み込まれている。
 これは、第35回ないし第36回放送分の手引であり、「原告作品」第5章及び第6章に類似している。
(9)第8章「新時代の足音」は、女優養成所開設の状況を中心に、貞が、世のごうごうたる非難に悲憤慷慨しつつ女優を育て、かつ、音二郎の率いる革新興行の舞台をつとめ、伊藤博文に立派な女優になったと言われるようになったこと、莫大な借金を抱えて大阪帝国座を建てた音二郎が業半ばにして逝ったこと、音二郎の没後、演劇の潮流が変わりつつある中で、引退説がかしましくなり、また、桃介とのスキャンダルで騒がれるが、貞は女優をやめなかったこと、しかし遂に帝国座を手放すに至ることなど、世の偏見と戦い、女優の道を切り開き、女優を続ける貞奴が紹介されて、主題がさらに深められる。脇筋には、松井須磨子の抬頭が組み込まれている。
 これは、第37回ないし第46回放送分の手引であり、原告作品の第6章及び第7章に類似している。
(10)エピローグは、約4メートルの銅像になった音二郎に貞が微笑む場面で締めくくり、「つらいこともあったけど、あんたと一緒になってよかった」という貞の独白と共に、「これからの貞の道は平坦ではないし、世間の冷たい目やつらいことはいくらでもあるが、貞は身内に力がみなぎってくる」とこれからも世の偏見と戦い、女優の道の開拓者としての自覚と自負をもって生きていく貞である旨、主題を取りまとめて終わっている。
 これは、第45回ないし第50回放送分の手引であり、原告作品第7章、第8章及び終章に類似している。
(11)右のとおり、プロローグからエピローグまで全篇を通して、原告作品の主題と貞奴の女優人生の縮図を描き出した序章に類似している。
7 人物事典の原告作品との類似性
 原告作品と物特事典との類似性は、別紙3の58のとおり、明らかである。
8 著作権の侵害
 右5ないし7のとおり、本件ドラマ等は、いずれも原告作品の表現、主題、構成等を剽窃したものである。したがって、本件ドラマ等を制作し、放送し、出版し、あるいはこれら放送等の行為に関与した被告らの行為は、以下のとおり、原告が原告作品について有する著作権及び著作者人格権を侵害するものである。
(一)被告協会が、原告作品をドラマ形式に翻案して、本件ドラマを制作したことは、原告の翻案権(著作権法(以下「法」という。)27条)を侵害する。
 また、右翻案に係る本件ドラマは、原告作品の二次的著作物であるから、被告協会が本件ドラマを放送したことは、原告作品の二次的著作物についての放送権(法28条、23条)をも侵害する。
(二)ドラマ・ストーリー及び人物事典は、原告作品をほぼそのまま模倣したものであるから、被告会社がこれを制作して出版したことは原告の複製権(法21条)又は翻案権(法27条)を侵害し、さらに、ドラマ・ストーリー及び人物事典は原告作品の二次的著作物であるところ、被告会社がこれを含む本件書籍を出版した行為は、二次的著作物の利用に関する原著作者の権利(法28条、21条)を侵害する。
(三)また、原告作品の二次的著作物である本件ドラマ等について、いずれも原作者として原告の氏名を表示することなく、被告協会が本件ドラマを放送し、被告会社が本件書籍を出版したことは原告の氏名表示権(法19条)を侵害する。
9 被告らの責任
(一)被告協会は、原告作品についての原告の著作権及び著作者人格権を侵害することを知りながら、本件ドラマを制作して放送し、被告Y3は、その脚本を執筆することにより、右制作及び放送に関与したものであるから、被告協会及び被告Y3は、いずれも、右著作権及び著作者人格権の侵害行為について、原告に対し損害賠償責任を負う。
(二)被告会社は、原告の著作権及び著作者人格権を侵害することを知りながら、ドラマ・ストーリー及び人物事典を含む本件書籍を制作して出版し、被告協会及び被告Y3は、右制作ないし出版に関与したものであるから、被告らは、いずれも、右著作権及び著作者人格権の侵害行為について、原告に対し損害賠償責任を負う。
10 原告の被った損害
(一)本件ドラマに関して被告Y3が受け取った脚本料は5000万円を下らないところ、一般に原作料は右脚本料の20パーセントの1000万円であるから、本件ドラマの制作、放送に関して原作者が通常受けるべき金銭の額は、右1000万円である。したがって、本件ドラマに関する被告協会及び被告Y3の著作権侵害行為によって原告が被った財産的損害の額は、1000万円である。
 また、本件ドラマに関する氏名表示権の侵害によって原告が被った精神的苦痛を慰謝するのに必要な慰謝料は、300万円を下らない。
 (二) ドラマ・ストーリー及び人物事典に関し、被告Y3がドラマ・ストーリーについて受け取った原稿料は200万円であったが、原作者が通常受けるべき原作料は、その半額の100万円を下らない。したがって、ドラマ・ストーリー及び人物事典に関する著作権侵害行為によって原告が被った財産的損害の額は、100万円を下らない。
 また、右ドラマ・ストーリー等に関する氏名表示権の侵害によって原告が被った精神的苦痛を慰謝するのに必要な慰謝料は、100万円を下らない。
11 謝罪広告の必要性
 被告ら(本件ドラマについては、被告協会及び被告Y3)は、原作者としてSの氏名のみを表示し、原告の氏名をまったく表示することなく本件ドラマ等を制作して、これを放送又は出版したものであり、それによって原告の社会的声望は著しく損われたから、原告の社会的声望を回復するために、請求の趣旨第3項記載の内容の謝罪広告の掲載をすることが適当である。
12 結び
 よって、原告は、本件ドラマに関し、被告協会及び被告Y3に対し、著作権侵害による損害賠償の一部として各自500万円及び著作者人格権侵害による慰謝料として各自300万円(各自合計800万円)並びにこれらに対する不法行為による結果発生後である被告協会については昭和60年12月29日から、被告Y3については昭和61年1月1日から、それぞれ支払済に至るまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払をすることを求め、ドラマ・ストーリー及び人物事典に関し、被告らに対し、著作権侵害による損害賠償として各自100万円及び著作者人格権侵害による慰謝料として各自100万円(合計各自200万円)並びにこれらに対する不法行為による結果発生後である被告協会及び被告会社については昭和60年12月29日から、被告Y3については昭和61年1月1日から、それぞれ支払済に至るまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払をすることを求め、著作者人格権に基づき、被告らに対し、請求の趣旨第3項記載の謝罪広告の掲載をすることを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1及び2の事実は認める。
2 同3の事実のうち、被告協会が制作、放送したドラマ(本件ドラマ)の内容が貞奴の生涯を中心とする内容のものであること、被告会社が出版した本件書籍が本件ドラマの梗概の記載を中心とするものであることは否認し、その余の事実は認める。
3 同4の事実は知らない。
4 同5の事実のうち、原告作品及び本件ドラマのシナリオに別紙1のとおりの記述箇所があることは認め、その余の事実は否認する。
5 同6の事実のうち、原告作品及びドラマ・ストーリーに別紙3のとおりの記述箇所があることは認め、その余の事実は否認する。
6 同7の事実のうち、原告作品及び人物事典に別紙3の58のとおりの記述箇所があることは認め、その余の事実は否認する。
7 同8ないし11の事実は、否認する。
三 被告らの主張
1 原告作品の基本的性格
 原告作品は、以下の(一)ないし(三)の点から、行跡の注目すべき人物の生涯を、様々な事件や言動を通じて描いたいわゆる伝記であり、事実の正確さを追求する点において、歴史ないし史学の分野に属する作品に当たる。したがって、歴史小説、すなわち、同じ歴史上の事柄を題材としながらも歴史上の事実の真相を究明することを目的とせず、美的観賞ないし娯楽上の享受を目的として作成され、発端からクライマックスを経て終結に至る首尾一貫した物語性をもち、それを時間的順序に従って因果関係をたどっていく書き方や主人公に対して与えられた明確な性格等を特徴とする小説形式とは異なる。
(一)原告作品の本文中の序章及びあとがきの記載によれば、原告が原告作品を執筆した意図は、女性が抑圧された状況から解放される可能性を歴史的に検証しようとの要求から、明治以降の演劇史上において女優第1号と言われる貞奴の生涯を取り上げ、その行跡を明らかにし、現代のいわゆる女性運動を励まし、勇気づけようとしたところにあることが窺われる。
(二)原告作品は、貞奴という実在の人物の行跡を、多数の先行資料によって語らせる手法により、ほぼ年代順に記述し、その帯広告にも、伝記であることが明示されている。
(三)原告には、請求原因1の事実のとおり、原告作品以外の著書があるが、いずれも女性運動に励んだ人物を取り上げた伝記であり、原告作品もこれと同じ系列に属する作品と考えられる。
2 本件ドラマ及びドラマ・ストーリーの制作過程
(一)本件ドラマは、原告作品が公表される昭和57年8月15日より8か月以上も前から、被告協会のドラマ部を中心にして独自に企画を立て、Sの「マダム貞奴」及び「冥府回廊」を原作として、被告Y3が、そのオリジナリティを加えて脚本化し、独自に収集した膨大な文献を時代考証や登場人物像創造の参考資料として駆使して、制作されたものである。
(1)本件ドラマのチーフ・プロデューサーとして制作に当たったA(以下「A」という。)は、昭和52年12月ころ、書店で右「マダム貞奴」(昭和50年1月読売新聞社発行)を知り、一挙に通読して貞奴の波瀾の人生に興味を持ち、これを素材にしてドラマを制作したいとの着想を得、牧村史陽著の「川上音二郎」等の資料を閲読研究を行ったが、当時の番組枠に適当なものがなかったことなどから、ドラマ化は実現しなかった。
(2)一方、ドラマ部においては、昭和56年末ころ、従来の時代劇中心の大河ドラマを、明治以後現代に至るまでの間の時代を背景に、歴史に埋没している庶民の中の人物を取り上げ、史実を超えて自由な創作を加味して描く、いわゆる「近代シリーズ」に転換できないかとの検討を開始し、それにふさわしい原作のための調査資料の収集を始めたが、その際、「マダム貞奴」もリストアップされた。
(3)ドラマ部は、昭和57年2月ころから、リストアップされたいくつかの作品の検討を始め、以前から「マダム貞奴」のドラマ化に興味を持っていたAの積極的な活動等の結果、同年末ころには、これが昭和60年放送予定の大河ドラマの原作の最有力候補として選定されるに至ったが、1年に50回もの莫大な表現量を有する大河ドラマを「マダム貞奴」のみで維持するのは無理なため、新たに主人公として、音二郎、福沢桃介(以下「桃介」という。)、福沢房子(以下「房子」という。)を加えた上、別の視点から描いた新作(後の「冥府回廊」)を、Sに執筆してもらうことが、前提条件として付された。
(4)これら一連の企画作業を経た昭和58年3月、Aは、本件ドラマのチーフ・プロデューサーとして、以下の事項について指示を受けた。
@ 本件ドラマのテーマ(制作意図)は、貞奴、音二郎、桃介及び房子の4名が、互いに織りなす愛憎を中心に、庶民の姿を描くことにあり、50回分の大河ドラマのために、「マダム貞奴」の使用と、これと表裏一体をなす新作の執筆の可能性を探ること。
A 制作スタッフ(A以外にチーフ・ディレクターのB及びデスクの3名を中心とする。)において、時代考証、登場人物創造のための文献、資料を収集すること。
(5)以上の企画のもとに、Aは、Sに対し、昭和58年4月上旬ころ、本件ドラマの制作意図を説明すると共に、桃介、房子の立場から新作を書き下ろしてほしい旨依頼し、同人はこれを承諾して、昭和59年6月、新作「冥府回廊」を脱稿した。
(6)また、Aら制作スタッフは、昭和58年6月から、被告協会資料室の協力を得て、昭和54年11月放送のテレビ番組「歴史への招待〔川上座海を渡る・・女優第1号貞奴〕」制作のために収集された文献、資料の他、改めて明治、大正時代の政治、経済、文化全般にわたっての資料、文献を収集し、その結果、昭和59年5月までには、リンゴ箱大の段ボール箱5個分に相当する文献、資料が収集されるに至った。
 なお、右の過程において、Aは、原告作品の存在を知り、それを閲読すると共に、昭和59年3月、原告に対し、資料考証面での協力を求めたが、原告は、自分を原作者とするのでなければ協力できない旨述べたので、Aは、原告から協力を得ることを断念した。
(7)ドラマ部は、Aら制作スタッフと協議の上、昭和58年8月、脚本担当者を被告Y3とすることに決定し、Aは、その旨被告Y3に依頼したところ、被告Y3は、Sから、脚本を制作するに当たって原作にないオリジナリティを加えることの了承を得ることを条件に、脚本執筆に応じるとの返事であったため、Aらは、Sの承諾を得て、被告Y3の申入れに応じることにした。
(8)被告Y3は、Sの新作「冥府回廊」の第1回生原稿ができ上がった昭和59年2月29日から脚本制作の作業に着手し、既に収集された文献、資料を読破、検討し、Aらとの間でドラマに登場させる人物の取捨選択等の協議を経た上、同年7月下旬から8月上旬にかけて、第1回から第3回までの脚本の準備稿を書き上げ、これをもとに、同年8月下旬、第1回から第3回までの脚本を完成させ、以後1か月に約3回のペースで順次脚本を執筆し、昭和60年8月末ころまでに全脚本を完成させた。
(9)以上のような過程で作成された被告Y3の脚本に基づき、被告協会は、100名を超えるスタッフをもって、それぞれの専門的立場から映像化に向けての創意工夫を行い、昭和59年9月20日の海外ロケーションを皮切りに、1年余りにわたって本件ドラマの収録を実施し、完成させた。
(二)以上のとおり、本件ドラマは、被告協会が、Sの「マダム貞奴」及び「冥府回廊」を原作として、独自の企画のもとに制作したドラマである。
3 原告作品と本件ドラマ等の対比
(一)法により保護される対象範囲は、当該作品の外面的表現形式(外面形式)及び内面的表現形式(内面形式)に限定され、それを超えたアイデア自体、歴史的事実・素材を要素とする先行資料、単語・慣用句・固有名詞等は、少なくとも法の保護の対象とならない。
 したがって、複製権侵害が成立するか否かは、専ら二つの作品の外面形式における対比の問題であり、翻案権侵害が成立するか否かは、両作品の外面形式及び内面形式における対比の問題であり、仮に、アイデア自体、歴史的事実、素材等、単語、慣用句、固有名詞のみを対比して、類似している部分があるとしても、そのために著作権侵害が成立することはあり得ない。
(二)したがって、原告作品と本件ドラマ等の外面形式及び内面形式を対比して、右両作品の「著作物としての同一性」の有無を判断し、それがない場合には、本件ドラマ等による著作権侵害は成り立たないことになる。
 ところで、前記1のとおり、原告作品は伝記であって、原告の独自の調査に基づいて判明した事実が原告作品中で公表されたとしても、それが歴史的事実として公表されている以上、当該事実自体が著作権の保護対象となるものではなく、この点で、原告作品の著作権の及ぶ範囲は、自ずと限定されている。
 したがって、原告作品及び本件ドラマ等について「著作物としての同一性」があるとするためには、両作品の外面形式及び内面形式がすべて同一か又は大部分が同一であることを要するところ、以下のとおり、両作品には、「著作物としての同一性」がない。
(1)著作物としての態様の対比
 原告作品は、多数の先行資料等を参考にして、しかも、可能な限り史実に基づいて執筆された態様のものであり、他方、本件ドラマ等は、多数の先行資料、独自の取材等を参考にして、男女間の愛憎、その時代の数々の社会情勢等を描写することによって、テレビドラマ用の生々しい人間像を創作するために制作されたものである。
(2)叙述内容の対比
 原告作品は、多数の先行資料をもとに探知収集した貞奴についての多数の歴史的事実を、歴史的経過に従って、資料の引用等によって叙述したもので、その「史実記述部分」と「史実記述部分」との間には大きな断層があり、「物語性」に通常存する「一貫した連続性」を欠いた叙述内容を特徴とするのに対し、本件ドラマ等は、貞奴、音二郎、桃介及び房子の4人の人間像を描写したもので、「一貫した連続性」のある叙述内容を特徴としている。
(3)叙述形式の対比
 原告作品は、先行資料に基づいて収集探知した歴史的事実を、資料の引用等により客観的な形式で叙述したものであり、その史実の記述としての性格上、独創的、個性的表現が見られないのに対し、本件ドラマ等は、各登場人物を現実に生存する生々しい人間として、会話体の叙述形式で創作展開している。
(4)作品の性格の対比
 原告作品は、前記1のとおり、伝記、すなわち、事実を主眼に置き、その実像に迫る記録性の高い作品であるのに対し、本件ドラマ等は、歴史的事実を踏まえながらも、それを超えた創作を求める「小説」の範畴に属する芸術性、娯楽性の高い作品である。
(5)創作目的の対比
 原告作品が伝記のジャンルに属する作品の創作を目的とするのに対し、本件ドラマ等はテレビドラマ放映を目的とする娯楽性のある作品の創作を目的とするものである。
(6)構成の対比
 原告作品は、その目次の頁に記載されたとおりの構成であるのに対し、本件ドラマの構成がこれと異なることは、明白である。
(三)原告は、本件ドラマが原告作品を模倣して制作されたものであり、別紙1記載の類似箇所があると指摘する。しかし、類似箇所と指摘された点は、いずれも先行資料によって明らかになっていた歴史的事実の確認、検証に関する記述に過ぎず、およそドラマ化が可能となるような「物語性」を有する記述ではないため、結局、右指摘に係る本件ドラマの部分とは、同一性、類似性を欠くものである。
 また、ドラマ・ストーリー及び人物事典は、本件ドラマの制作に当たって収集された前記各種先行資料に基づいて作成され、被告会社から、本件ドラマの放送開始に合わせて、昭和60年1月10日付けで発行された本件書籍の一部をなす記事として公表されたものであって、本件ドラマと同じく、原告作品とは全く別個の企画に基づいて作成された作品であり、別紙3における原告の類似箇所の指摘は、いずれも当を得ないものである。
四 被告らの主張に対する原告の認否及び反論
(認否)
1 被告らの主張1のうち、原告作品が伝記であることは認め、その余の主張は争う。
2 被告らの主張2、3は争う。
(反論)
1 本件ドラマ等の制作過程について
 被告らは、本件ドラマ等の原作はSの「マダム貞奴」及び「冥府回廊」である旨主張しているが、「マダム貞奴」にあっては貞奴の愛憎を、「冥府回廊」にあっては房子の愛憎をそれぞれ主題とする筋の展開及び結末を有するものであるのに対し、本件ドラマ等にはそれがなく、本件ドラマ等と右2作品とは、その基本的性格を異にしている。
 したがって、本件ドラマ等は、右2作品を原作とするものではない。
2 原告作品と本件ドラマ等の対比への反論
 (一)翻案は原作の「内面形式を保ちながら外面形式を大幅に変更する」行為であることからすれば、著作権侵害の有無、特に翻案権侵害の有無を判断するに当たっては、主として両作品の内面形式を対比することをもって足りるというべきである。
 被告らの主張は、この点の解釈を誤り、主として原告作品と本件ドラマ等の外形的な表現形式の相違(例えば、本件ドラマが原告作品と異なって会話体で表現されていることなど)をもって、翻案権の侵害がないと主張するもので、誤っている。
(二)また、被告らの主張する原告作品と本件ドラマ等との比較は、以下のとおり、妥当ではない。
(1)原告作品は、その帯広告に記されているように、「大きな時代のうねりに翻弄されながらも、自らに与えられた運命を強靱な意志をもって生き切った女、しかも〈負の切札〉しかもたなかった一人の女の見事な翻身のドラマを、綿密な考証によって鮮やかに描出」した文芸作品であり、単に史実を記載しただけのものではない。
(2)原告作品には、資料からの引用部分があるが、前記のように、一人の女の翻身のドラマであって、物語性を有し、したがって、当然に物語としての一貫した連続性を有するものである。資料は、原告の思想が資料に裏付けられていることを示すものとして引用されているに過ぎない。
(3)原告作品は、単に資料を原文そのまま又はそれに近い表現方法で叙述するにとどまるものではなく、独創的、個性的表現も多く用いている。
(4)原告作品は、伝記のジャンルに属するものではあるが、単に記録性の高さのみをもって評価されるべきものではない。
(5)原告作品は、伝記のジャンルに属する作品として創作されたものではあるが、一方では、従来にはなかった新しい女性像を描き出そうとする意図もあったことは、無視されるべきではない。
(6)作品の構成を目次どおりであると見る被告らの主張は、誤っている。著作物の構成は、その叙述内容との関連において初めて明らかになるものであって、目次における用語だけをもってその著作物の構成を決定することはできない。
五 原告の反論に対する被告らの認否
 すべて争う。
第3 証拠(省略)

理由
一 当事者間に争いのない事実
 請求原因1ないし3の事実(3の事実のうち、本件ドラマの内容が貞奴の生涯を中心とする内容のものであること及び本件書籍が本件ドラマの梗概の記載を中心とするものであることを除く。)、同5の事実のうち原告作品及び本件ドラマのシナリオに別紙1のとおりの記述箇所があること、同6の事実のうち原告作品及びドラマ・ストーリーに別紙3のとおりの記述箇所があること、並びに同7の事実のうち原告作品及び人物事典に別紙3の58のとおりの記述箇所があることは、いずれも当事者間に争いがない。
二 原告作品の内容について
 証拠(甲1、甲18の3ないし5、7ないし11、甲35、48、乙50、原告本人)によると、原告作品について以下の事実が認められる。
1 原告作品は、女優というものの存在しなかった我が国において初めて女優として活躍した貞奴の生涯を描いた伝記であり、その本文は序章から終章までの10章からなり、「あとがき」、「川上貞奴関係年表」及び「参考文献」の項が付されている。
2 原告作品は、貞奴の自我と主体性を問うという新しい視点から、丹念に資料を掘り起こし、原資料及び参考文献を洗い直し、関係者より聴き取りをし、選び出した素材に新たな光を当て、構成をして、貞奴75年の生涯を詳細に再生し、その実像を求めた伝記である。その叙述の特徴は、当時の新聞・演劇雑誌等からの引用を多用し、資料に基づく具体的な記述を積み重ね、部分的に原告の創作的表現を交えて、貞奴の人物像を具体的に描き出そうとしたところにある。
 したがって、原告作品の本文中には、引用を示すと思われる「〈 〉」で囲まれた箇所が相当多数存在し、その末尾に出典が示されているものもある。また、末尾に掲げられた参考文献のほか、本文中でも文献の紹介をしている(例えば、第4章中の「ヨーロッパ客演旅行」の箇所でその実態に触れた文献(115頁)を、また、第8章中の「身に累を招く」の箇所で桃介に関する文献(234頁)を、それぞれ紹介している。)。
3 その梗概をみると、序章「厄年の決断」では、貞奴が33歳で初めて女優として日本の舞台に立った事実を取り上げ、当時の困難な社会的状況の中で身をもって女優の道を切り開いたとして、作品全体のテーマを示し、第1章「酒の肴の物語」では、貞奴の生い立ちから音二郎と知り合う直前の20代前半までを、第2章「書生演劇」では、音二郎の出自とその活動の様子から貞奴と結婚して劇場を建築しこれを失うまでを、第3章「梨園の外道」では、音二郎・貞奴の築地出帆からアメリカ巡業までを、第4章「1900年パリ万国博覧会」では、貞奴がパリ万国博覧会で博した名声とこれと対照的な国内での否定的劇評、川上一座のヨーロッパ客演旅行の足跡を描き、第5章「女優開眼」では、貞奴の33歳の1年間の女優業のパイオニアとしての活躍を、第6章「劇界の戦国時代」では、新派の分裂拡散期に新派の旗頭として活躍する音二郎・貞奴夫妻を、第7章「貞奴一座」では、帝国座の落成から音二郎の死を経て貞奴の引退興行までを、第8章「かくれ里」では、女優貞奴の引退から名古屋の「二葉御殿」住まいまでの6年間を、終章「惜別の宴」では、桃介への惜別とこの世への惜別をかけて貞奴の60歳前後から晩年までを、それぞれ描いている。
4 原告作品において叙述されている事項の要旨は、別紙4「「女優貞奴」の叙述事項」のとおりである。
5 原告作品において取り上げられている人物は、別紙2「女優貞奴の構図」に記載されたとおりであり(括弧内の人名を除く。)、いずれも歴史上実在した人物である。そして、貞奴については、人物の心情の動きにまで踏み込んで記述されているが、音二郎、桃介、房の心情に関する記述が一部に見られるほかは、いずれも歴史上の人物としてその業績、行動等が客観的に記述されているに過ぎない。
三 本件ドラマによる著作権侵害の成否について
1 前記一の争いのない事実及び証拠(甲5の1、2、乙9、15、35ないし37、46、49、55、78、証人A、原告本人、被告Y3本人)に弁論の全趣旨を総合すると、本件ドラマの制作の経緯について、以下の事実が認められる。
(一)被告協会においては、昭和59年度からの大河ドラマのテーマに近代を取り上げることとしていたが、昭和57年12月、被告協会のドラマ部は、部として昭和60年度大河ドラマの原作を「マダム貞奴」とすることに決め、昭和58年1月には被告協会内部の最終的な承認を得た。そして、昭和58年3月、被告協会のチーフ・プロデューサーAが昭和60年度大河ドラマの制作責任者に任命された。
(二)しかし、1年間にわたって放送される大河ドラマを維持するためには、貞奴を中心とする近代芸能史だけでは量的に不足していたので、描く範囲を政治・経済にまで広げるために、福沢桃介・房子夫妻を中心に描いた新作の執筆をSに依頼することとした。そして、昭和58年4月にSと連絡を取り、「マダム貞奴」と表裏一体をなす新作の執筆について大筋の合意を得た後、Sとスケジュールの調整を行い、同年6月には、Sの了承を得た。
(三)被告協会のスタッフは、そのころ、ドラマ制作に必要な関係資料の収集を開始し、資料を収集した。収集された資料は多数であるが、牧村史陽「川上音二郎」(上・中)(昭和38年)、明石鐵也「川上音二郎」(昭和18年)、村松梢風「川上音二郎」(昭和27年)、金尾種次郎「川上音二郎欧米漫遊記」(明治34年)、同「川上音二郎・貞奴 漫遊記」(明治34年)、藤森栄一「ドキュメント日本人・6『アウトロウ』」(昭和43年)、尾崎宏次「女優の系図」(昭和39年)、倉田喜弘「近代劇のあけぼの〜川上音二郎とその周辺」(昭和56年)、宗谷真爾「虹と炎の風景 女優川上貞奴物語」(昭和57年)、河竹繁俊「日本演劇全史」(昭和34年)、生方たつゑ「川上貞奴」(人物日本の女性史9)(昭和52年)、尾崎秀樹「川上貞奴」(図説人物日本の女性史11)(昭和52年)、長谷川時雨「マダム貞奴」(昭和初期ころ)、戸板康二「物語近代日本女優史」(昭和55年)、矢田弥八「激流の人 福沢桃介の生涯」(昭和34年)、被告協会「NHK歴史への招待12〜川上座海を渡る・・女優第1号貞奴」(昭和56年)、「新派秘話・貞奴もの語」(都新聞・昭和8年)、牧村史陽「浪花風流人物記 川上音二郎」(新大阪新聞・昭和38年)等が含まれていた。また、収集された資料の中には、原告作品も含まれており、被告Y3及び被告協会制作スタッフは、これを閲読し、本件ドラマ制作の材料として利用した。
(四)被告協会は、昭和58年8月、本件ドラマの脚本の制作を、脚本家でありまた映画監督の経歴もある被告Y3に依頼した。被告Y3は、これを承諾したが、他局の仕事を抱えているので脚本執筆の準備に入るのは昭和59年2月ころからにしてほしいとの申入れをし、被告協会は、これを了承した。
(五)Sは、昭和58年12月から新作の執筆のため被告協会スタッフと共に福沢家の関係者、川上富司らに対する取材を開始し、被告協会から送られてきた福沢家を中心とする関係資料をもとに、「冥府回廊」の執筆を開始した。そして、昭和59年2月29日には、雑誌連載の第1回分生原稿が完成し、被告協会に届けられた。
(六)右同日、被告協会は、昭和60年度大河ドラマとして「春の波涛」を制作すると発表し、その原作は、S著「冥府回廊」、脚本は被告Y3とした。
(七)被告協会の制作スタッフは、脚本執筆の準備のために、収集した資料に基づいて歴史的事実をカードに記載し、これを元にして主要人物年表を作成した。また、被告Y3と制作スタッフとの間で、時代背景の研究、登場人物の設定などの検討会が度々重ねられ、昭和59年3月末の箱根の合宿では、50回に及ぶ本件ドラマ全体の大きな流れが具体的に検討され、同年4月、第1回から第52回までの各回の構成案を作成した。他方、同年3月27日には、貞奴を松坂慶子、音二郎を中村雅俊、桃介を風間杜夫、房子を檀ふみとして、配役を発表した。
(八)被告Y3及びAは、昭和59年5月3日から、音二郎、貞奴が一座を率いて巡業したアメリカ、イギリス、フランスの各地へ、資料収集、シナリオハンティング、ロケハンティングを兼ねて、彼らが通ったコースを旅行し、関係資料を収集した。その後、被告Y3は、シナリオ執筆の作業に入り、他方、Sは予定どおり、同年6月に「冥府回廊」を脱稿した。
(九)昭和59年7月28日、本件ドラマの第1回の準備稿ができ上がり、以下第2回分が同年8月6日、第3回分が同月11日に、それぞれでき上がり、これらの準備稿について制作スタッフとの検討を経た上で、同月21日、第1回から第3回までの決定稿が完成した。以後、被告Y3は、1か月に平均4本(放送4回分)の割合で脚本の決定稿を完成させ、昭和60年8月末にその全部を脱稿した。
(一〇)そして、昭和59年9月20日のアメリカロケを皮切りに、本番の収録作業が開始され、次いで、ヨーロッパロケ、生田のオープンセットでの国内ロケが実施され、それぞれ収録作業が行われた。さらに、同年11月6日からはスタジオ収録が開始され、昭和60年10月までに、全50回の本件ドラマが制作された。
(一一)被告協会は、本件ドラマを、昭和60年1月6日の午後7時20分から午後8時45分までの第1回放送を皮切りとして、以後、毎週日曜日午後8時から45分番組として1年間連続放送した。
(一二)他方、原告は、被告協会に対し、本件ドラマの企画が原告作品に関する著作権を侵害するのではないかと申し入れ、昭和59年2月6日、新潮社と被告協会との間で折衝が始まった。そして、同年3月14日に、Aは原告と面談し、本件ドラマと原告作品の著作権との関係について話し合ったが、結論に至らなかった。
2 また、証拠(甲3の1ないし5、乙9、乙10の1ないし3、乙12、13)と弁論の全趣旨によると、本件ドラマの内容について、以下の事実が認められる。
(一)本件ドラマの各回の概要と構成は、別紙5「「春の波涛」の各回の概要及び構成」記載のとおりであり、各回について、その内容に応じた標題が付けられている。
(二)全50回分の放送時間は、合計38時間10分であり、そのシーン数は、合計1566であるが、そのうち、貞(貞奴)が登場するのは50回各回にわたり、合計586シーン(全シーン数の37.4パーセント)であり、音二郎は第1回から第41回まで(第6回を除く。)443シーン(28.3パーセント)、桃介は第9、12、13、15、17、22、25、34、41回を除く各回(合計41回)にわたり194シーン(12.4パーセント)、房子は第1、2、4、5、9、12、13、15、17、18、21、22、25、28、34、38回を除く各回(合計34回)にわたり148シーン(9.5パーセント)である。このほか、自由民権の壮士奥平剛史も、第1回から第5回まで、第9回、第17回から第37回まで(第18、25、26、28、32、33回を除く。)(合計21回)にわたり91シーン(5.8パーセント)登場する。
3 翻案権侵害の成否について
(一)著作物についてその翻案権の侵害があるとするためには、問題となっている作品が、右著作物と外面的表現形式すなわち文章、文体、用字、用語等を異にするものの、その内面的表現形式すなわち作品の筋の運び、ストーリーの展開、背景、環境の設定、人物の出し入れ、その人物の個性の持たせ方など、文章を構成する上での内的な要素(基本となる筋・仕組み・主たる構成)を同じくするものであり、かつ、右作品が、右著作物に依拠して制作されたものであることが必要である。
 ところで、原告作品は、前示のとおり、実在した人物の伝記であり、歴史上の事実を記述し、又は新聞、雑誌、他の著作物等の資料を引用し、若しくは要約して記述した部分が、その大部分を占める。そして、このような場合には、著作者の思想又は感情を創作的に表現したものとして著作物性を有する部分(独創性のある部分)についての内面形式が維持されているかどうかを検討すべきであり、歴史上の事実又は既に公にされている先行資料に記載された事実に基づく筋の運びやストーリーの展開が同一であっても、それは、著作物の内面形式の同一性を基礎付けるものとは言えない。
 (そして、右のような意味での原告作品の内面形式の特徴は、当時の新聞、雑誌、関係者の供述等の一次的資料から引用又は要約した客観的な事実を積み重ね、部分的に原告の創作的表現を交えて、我が国初の女優として主体的に生きた貞奴の人間像を具体的に描き出そうとしたところにあるものと言える。)
(二)そこで、前記二、三1、2判示の事実を前提として、原告作品と本件ドラマとを比較すると、次の点を指摘できる。
(1)分量
 原告作品は本文258頁の単行本であるのに対し、本件ドラマは、放送時間合計38時間10分を要し、「NHKテレビ大河ドラマ全シナリオ」として出版されたものは全5巻合計1347頁にのぼる(甲1、甲3の1ないし5)。
(2)対象とする年代
 原告作品が、貞の幼少時代から晩年までを対象とするのに対し、本件ドラマは、貞の小奴の時代から二葉御殿までを対象とする(第50回のラストでは、貞の墓、貞照寺の場面等が現われるが、ドラマの筋の一部としてではない。)。
(3)登場人物
 原告作品では、前示二5のとおり、多数の人物が取り上げられているものの、そのほとんどは、歴史上実在した人物について客観的な業績、行動等を叙述するものであるのに対し、本件ドラマでは、歴史上実在しない人物を登場させ(田代重成、雲井八重子、三浦又吉、野島覚造、野島イト等)、また、歴史上の人物であっても、ドラマ中の人物として脚色し、いずれも必ずしもドラマの基本となる筋の中で重要な役割を果たしているとは言えないが、そのストーリーの展開においては、独自の役割を持たせている。
(4)描写の方法
 原告作品の記述は、基本的に先行資料の記述に基づく客観的なものであり、部分的に、原告独自の見方や資料に基づく推測を交えている。
 これに対し、本件ドラマでは、ナレーション、新聞記事の紹介等により、簡潔に時代背景や社会の動きを紹介する部分が含まれてはいるものの、表現の大部分は、登場人物の台詞によっており、基本的な筋、ドラマの仕組みとして、登場人物相互の人間関係、その心情等の描写が重視され、娯楽性のあるドラマとして構成されている。
(5)取り上げるエピソード等の内容
 原告作品中では、貞の幼少時代、川上一座の2度目のヨーロッパ客演旅行、お伽芝居、パリ再訪、川上絹布設立、児童楽劇園、貞照寺の建立、貞の晩年の生活ぶり等が相当の頁数をさいて叙述され、いずれも貞奴の生涯を特色付けるものとして描かれているが、これらは、本件ドラマではほとんど取り上げられていない。
 また、本件ドラマでも描かれてはいるが原告作品ほどの比重は置かれていない部分として、音二郎と貞が東京湾から小舟で出帆して神戸に着くまでの経緯、川上一座がアメリカ東海岸からパリに着くまでの経緯、貞の二葉御殿での生活等がある。
 他方、本件ドラマで取り上げられているエピソードであって、その基本的な筋となり、又はストーリーの展開上独自の役割を果たしているもののうち、原告作品には現われないか又はごく簡単にしか触れられていないものとして、慶応義塾での音二郎と桃介の出会い(第1回)、福沢家での遊戯会(第3回)、野島イトが浜田屋に来る経緯(第4回、第5回)、奥平剛史の自由民権家としての活動、桃介が房子の婿候補となる経緯(第6回)、貞と書生演劇により世に出る前の音二郎との出会い(第7回)、貞の水揚げの儀式とその前に桃介と会う場面(第8回)、憲法草案の盗難(第9回)、桃介が音二郎と再会する場面(第11回)、貞が川上一座の公演を観るため小田原まで行き、音二郎と意気投合すること(第13回)、音二郎が貞に結婚を申込むこと(第14回)、奥平八重子が音二郎の子を連れて浜田屋に現われること(第15回)、桃介の妹せい子の登場(第16回)、貞が落籍祝いの用意をさせ音二郎が貞との結婚を決意すること(第18回)、桃介が喀血して養生園で療養する場面での房子とのやりとり(第19回)、イトと音二郎の関係(第20回)、貞が桃介に川上座建設費用の調達を相談すること(第21回)、音二郎の選挙運動が盛り上がること(第25回)、桃介と諭吉との葛藤(第30回)、パリで音二郎が奥平と再会すること(第30回)、桃介は貞に思いを寄せていること(第31回)、桃介がもと貞と音二郎が住んでいた大森の家に住むようになり、房子が怒ること(第32回)、福沢諭吉の死に対する桃介の態度(第33回)、貞奴のオセロを桃介が観に来たこと(第35回)、株で儲けた桃介が葭町芸者を買切りにし、その機会に音二郎が桃介に近代式劇場の建設を頼んだこと(第36回)、松井須磨子の台頭(第39回)、須磨子と抱月の関係(第42回)、川上一座の解散(第43回)、福沢家の娯楽館の舞台開きに貞奴と須磨子が出演したこと(第45回)、房子が桃介と貞の間柄を知りヒステリーを起こすこと(第47回)、抱月の死亡(第48回)、須磨子がカルメンを演じ、抱月のあとを追って自殺すること(第50回)である。
(6)貞奴の描写
 原告作品では、貞奴の生涯にわたる行動、業績について、客観的に記述しているが、特に、従来注目されていなかった女優としての資質、本人の自我・主体性等に着目し、これを、客観的な事実を紹介し、かつ、これに基づく原告独自の評価を加えることによって、具体的に表現しようとする態度が見られる。例えば、ヨーロッパにおける女優貞奴の評価を、ヨーロッパの著名な芸術家の批評を引用することによって紹介し、帰国後の女優としての活動についても、「オセロ」、お伽芝居、「ハムレット」、「トスカ」、「サロメ」等の劇評を詳しく紹介している。また、女優引退後の活動(川上絹布設立、二葉御殿、児童楽劇園、貞照寺)についても、その生涯を特徴付けるものとして描かれている。さらに、原告作品全体では、「貞が、芸者、女優及び妾という三つながら社会的に排斥される立場にありながら、女優の先駆者として道を開いた」という原告独自の貞奴観が現われており、その裏には、貞を取り巻く社会に対する批判的な見方が感じ取られる。
 これに対し、本件ドラマでは、貞奴が最も重要な主役であり、全回にわたって登場するけれども、貞奴が登場しないシーンも全体の約3分の2にのぼる。また、貞奴の描き方も、主役として、自我と主体性を有する人間として描かれてはいるが、貞奴の周囲には、音二郎、桃介、養母亀吉、浜田屋の芸者仲間、川上一座の座員が常に登場し、その人物たちに励まされながら生きるという描写がされており、「芸者、女優、妾」という社会的に排斥される身分にありながら、たった一人で困難な状況に立ち向かうという人間像が表現されているとは言えない。また、女優として活動した時期ばかりでなく、それ以前の伊藤博文との関係、音二郎との交際、音二郎との結婚後の行動についてドラマの筋として重点が置かれている。女優としての活動についても、第28回「アメリカ御難日記」以降、第29回「女優誕生」、第30回「洋行中の悲劇」、第31回「パリで切腹」、第32回「母と子の別れ」までで、アメリカ・ヨーロッパ巡業中の貞奴の活躍を描いてはいるが、この部分は従来から「川上音二郎 欧米漫遊記」(乙44)、「川上音二郎貞奴漫遊記」(乙45)等で描かれていた部分であり、広く知られたところである。さらに、第34回「揺らぐ心」以降、第35回「女優第1号」、第36回「吹きすさぶ嵐」、第37回「女優学校は……」、第38回「ふるさとの山河は遠く」、第39回「その名は須磨子」、第42回「女の戦い」、第44回「醜聞」、第45回「桃介座」、第46回「カチューシャの唄」、第47回「女の中の夜叉」及び第48回「抱月、逝く」において、その筋の一部として貞奴の女優としての活動が描かれているけれども、第39回「その名は須磨子」以降は、松井須磨子の台頭が取り上げられ、その標題からも明らかなとおり、須磨子と貞奴との比較、須磨子自身の行動に重点を置いて描かれている。
(7)他の主要人物の描写
@ 音二郎
 原告作品では、音二郎が上京してから貞と結婚するまでの間を37頁から58頁までの22頁(全頁数の8.5パーセント)をかけて描写しているが、音二郎の活動については、歴史上の事実に基づく客観的な描写が中心となっている。これに対し、本件ドラマでは、音二郎は第1回から登場し、貞と結婚するのは第18回であるから、この部分が全体の36パーセントを占める。そして、桃介、八重子、奥平及び貞との出会いとその後の交流、小田原での騒動、中村座での成功の経緯等が描かれ、この部分の描き方は、両者で大きな相違がある。
 さらに、音二郎・貞の結婚後から音二郎が黒岩涙香を撃とうとするまでの間は、原告作品では59頁から67頁まで9頁(全頁数の3.4パーセント)に過ぎないのに対し、本件ドラマでは、第19回「壮絶快絶」、第20回「思惑ちがい」、第21回「日本一! 音二郎」、第22回「華麗なる幕あけ」、第23回「危うし、川上座!」、第24回「好きも嫌いも」及び第25回「音二郎錯乱」の全7回の放送(14パーセント)によって描かれている。
 右のとおり、本件ドラマの前半では、原告作品と異なり、音二郎の活動に重点を置いて描いている。
A 桃介
 原告作品では、桃介については、貞との最初の出会い(馬の場面・26頁)と2度目の出会い(母衣引の場面・36頁)のほかは、音二郎没後の貞との関係が描かれ、その他には、第8章中の「身に累を招く」においてその生涯と人となりをごく簡潔に紹介しているに過ぎない。
 これに対し、本件ドラマでは第1回から第50回まで合計41回、194シーンにわたって登場し、慶応義塾の塾生としての生活から、婚約、留学、帰国、結婚、病気療養、株式投機、福沢家との関係、貞・音二郎に対する支援等を描写している。
B 房子
 原告作品では、桃介との婚約のほか、第8章中の「身に累を招く」において、その生活の様子、桃介との関係等を紹介しているに過ぎない。
 これに対し、本件ドラマでは、第3回から第50回まで合計34回、148シーンにわたって登場する。そして、桃介の留学中に貞と会い、また、貞奴のライバルとなる松井須磨子を応援するなど、貞に対する競争意識を持つ様子、桃介の病気療養等の場面で貞に対する思いが断ち切れない桃介と心が通い合わない様子等が描かれている。
C 松井須磨子
 原告作品では、サロメを演じたことなど、歴史上の事実をごく簡潔に紹介しているに過ぎないが、本件ドラマでは、特に第39回以降、貞奴と対決する女優として、重点を置いて描かれている。
(三)次に、原告の類似箇所の主張(請求原因5(二))について検討する。
 原告は本件ドラマによる翻案権の侵害を主張するものであるから、前示のとおり、本件ドラマと原告作品との内面形式の同一性の有無を判断すべきであり、本件ドラマの表現中に部分的に原告作品の表現と類似する箇所があるとしても、そのような類似が基本となる筋・仕組み・構成に関わるものであるために内面形式の同一性が基礎づけられることとなる場合はともかく、基本となる筋・仕組み・構成には関わらないいわば末節の表現が類似するにとどまる場合には、内面形式の同一性の判断には影響しないものと言うべきである(なお、そのような末節の表現の類似であっても、著作権侵害の成立のためのもう一つの要件である依拠性の判断に当たっては、判断要素の一つとなる。)。
 そこで、以下、右のような観点から、原告の指摘箇所について検討する。
(1)「主題とその展開の類似性」の主張(請求原因5(二)(1))について
@ 別紙1の1(女優の資質と素養)について
 原告作品の当該箇所は、演芸画報第5年第1号の「女優歴訪録(一)」(乙38)からの引用ないし要約と言うべきであり、原告の創作に係る表現ではない。また、貞の芸者芝居と後年の女優としての活動を結び付けて「だから、まんざらのしろうとでもなかったわけだ。」とした先行資料もあり(乙23の2)、これを結び付ける点は、必ずしも原告の創作に係るものとは言えない。
 また、そもそも、当該箇所は、貞の芸者時代について記述した「芸者「奴」」(第1章)の中で、貞が伊藤博文との特定の関係を解消したころの活動の一つとして、芸者芝居に熱中していたことを紹介するものであるのに対し、本件ドラマ(第10回)では、房子をお座敷に連れてきて貞と対面させた福沢一太郎に、貞が芸者芝居の切符を大量に売りつける話の一部として、貞の台詞の中で用いられているに過ぎず、原告作品とは異なる筋の中で用いられている。
A 別紙1の2(女優になるきっかけ)について
 別紙1の2の上段の記述のうちの前半部分は、先行資料で紹介されている事実を要約したものであり(乙17、38)、後半部分は、これについて原告独自の評価を加えたものと見ることができる。
 これに対し、本件ドラマ(第27回、第28回)では、前半部分については原告作品そのままの表現は「ポスター」なる語のみであり(しかも、ポスターには「オットー・アンド・ヤッコ」と記されていたというのであり、この点は原告作品に記述がない。)、また、後半部分については、原告作品が指摘するような貞の「わだかまり」は、本件ドラマでは表現されていない。
B 別紙1の3(欧米で舞台に取り組む姿勢)について
 川上一座がシカゴ・ライリック座で舞台に立ち好評を博したことについては多数の先行資料があり(乙17、18、乙19の1、乙21、25、33、38、44、45)、一座の者が必死になって舞台をつとめたことも記載されている(村松梢風「川上音二郎(上)」(乙19の1)269頁には、「しかし芸はどうあろうとも、昨日の芝居は一座の者にとって真に命がけの芝居だった。舞台で死ぬ覚悟で演ったのだった。それが見物人の胸をうったのであろう。」とある。)。
C 別紙1の4(女優として立つ決意)について
 貞は帰国当初舞台に立つことを拒んでいたこと、音二郎や金子堅太郎の説得により「オセロ」の鞆音役で国内では初めて舞台に立つことになったこと、貞には舞台に立つ腕のないことを自ら知っていたこと、舞台に立つとなった以上は、自分自身の独力で新しい女優という道を創り開拓していくことを決意し、寒風が吹きすさぶ茅ヶ崎の海岸に立って声を鍛えたこと、涙ぐましい努力をしたことは、いずれも先行資料に紹介されている事柄である(乙17、18、乙19の2、乙38)。
D 別紙1の5(女優としての評価)について
 イの下段は、新聞の劇評記事を映すもので、上段と比較して表現の類似があるとは言えない。
 ロについて、本件ドラマは、貞が立派な女優になったということを描写するに過ぎず、表現は類似していない。
E 別紙1の6(女優養成所)について
 音二郎と貞が女優養成所を始め、これに対する強い非難の声があったということは、歴史上の事実である(乙23の3、乙32、乙61の1、2)。これに対し、本件ドラマは、第36回から第38回にかけて、女優養成所の設立をめぐる動きを基本的な筋とし、女優養成所の意義とこれに対する世間の非難を貞の台詞等を通して表現しているものの、原告作品に描かれているような「すさまじい非難」としては描かれていないし、女優養成所の設立に桃介が協力したこと、お客は女優を求めているとして、貞一人で世間の偏見に立ち向かったという構成ではないこと、後の松井須磨子はこの女優養成所には入れなかったこと、音二郎が大阪に帝国座の建設を進めている関係で、女優養成所が音二郎・貞の手から帝国劇場に取り上げられたこと、という筋になっており、原告作品とは、基本的な筋が異なる。
F 別紙1の7(音二郎没後の活躍)について
 イについて、貞奴が「トスカ」を演じ好評を博したこと自体は、歴史上の事実である(乙24、26、31、38)(なお、本件ドラマでは、貞が演ずるトスカを、客席から桃介・房子ら、島村抱月・松井須磨子らが観ており、公演後、房子、抱月、須磨子らが食事に行くというのに、桃介は誘いを断わって貞と二人で乾杯するという場面に続くという筋の一部になっている。)。
 ロの貞奴がサロメを演じたこと、名古屋で松井須磨子と競演になったことは、いずれも歴史上の事実である(乙38、62ないし64)。
 ハについて、両者の表現は類似していない。
G 別紙1の8(女優引退)
 大正5年3月14日付け東京朝日新聞には、「貞奴俄に帰京す」という記事が掲載されており、これによれば、貞奴が九州巡業中、桃介が病気という電報が届き、貞奴は夜行列車と汽船で帰京し、帰ってみると桃介は大分よくなったが今度は貞奴が病気になり、九州へ帰れなくなったというのである(甲47)。原告作品の当該箇所は、この電報と貞奴の引退を結び付けた点、桃介危篤の電報が桃介の術策ではなかったかとする点、桃介は事業の成功のために貞を必要としていたとする点で、原告の創作に係るもので(甲13)、本件ドラマにおいて、偽電報のため貞が引退に追い込まれるという筋が組まれているのは、原告作品の右のような記述がヒントになっているものと推認される。しかし、本件ドラマの偽電報は、貞に対して嫉妬する房子が、貞を試すためにせい子と相談して仕組んだものであって、筋が異なるし、このような相違は、本件ドラマ全体の桃介、房子の位置付けを考慮すると、脚色上の修正にとどまらないと言うべきである。
H 主題の要約について
 第50回のラストのシーンで示されている、貞の女優としての人生で節目となった各種のエピソードは、いずれも歴史上の事実である。また、このラストシーンがあるからといって、本件ドラマの内面形式がこのシーンに表わされているとは言えない。
I 小括
 右に判示したところによると、女優の資質と素養、女優になるきっかけ、欧米で舞台に取り組む姿勢、女優として立つ決意、女優としての評価、女優養成所、音二郎没後の活躍のいずれについても、先行資料に記載がある事柄であり、原告の創作的表現に係る基本的な筋ないし仕組みということはできない(なお、従来、貞奴について、右のような筋ないし仕組みをすべて備えた著作物がなく、原告作品はその点において独自のものであるとしても、貞奴は歴史上の人物であって、すでに我が国の女優第1号としての評価がされていたものであり、右のような筋ないし仕組みそのものに著作物性があるとは言えない。)。
 これに対し、偽電報が女優引退のきっかけとなったとする点は、右と異なり、原告の創作に係るものと言うことができるが、本件ドラマは、右Gに判示したとおり、これを参考にしたものではあるが、同一の内面形式を保つものではないと言うべきである。
(2)「貞奴をめぐる主要な人間関係の類似性」の主張(請求原因5(二)(2))について
@ 別紙1の9(貞が自分から浜田家へ来た挿話)について
 別紙5によれば、イトは、野島覚造の妹であり、麟介に対する恋愛感情を持ち、水揚げされる前に貞から麟介との仲を取り持とうとされるが、偶然、音二郎と関係を持ってしまうことになり、その後は、亀吉の後を継いで浜田屋の女将になるなど、本件ドラマ全体の筋の中で独自の地位を有するものである。したがって、イトを貞の分身とみることは相当ではない。
A 別紙1の10(貞が音二郎に引幕を贈った話と、貞の音二郎観・結婚観)について
 イの貞が音二郎に引幕を贈ったという事実自体については、先行資料がある(乙91)。また、そもそも、原告作品の当該箇所には、「貞に限らず、名妓たちが競って音二郎に入れあげ、音二郎を自分の座敷に呼んだり、引幕を贈ったりした。貞も負けずに着物羽織や、九枚笹の川上家定紋入りの人力車まで贈呈したらしい。」とあり、貞が音二郎に引幕を贈った事実がはっきりと表現されているわけではない。
 ロについては、原告作品には、貞の姉がわずかなお手当で裏店に放りこまれているとか、姉が芸者屋に貰われていった貞の身を案じているといった表現はなく、表現の類似はない。
 ハの貞が「書生が好きだった」という点は、先行資料に記述されているところであり(乙18、66)、また、例えば、「貞奴のように目覚めていた女性が、初恋をあきらめて、音二郎さんと結婚したことを不思議だとおっしゃる方もおりますけれど、芸者から玉の輿に乗って出世したといわれるのは嫌だったと洩らしていたことがございます。……しかし、音二郎さんが、一介の貧乏書生ではあっても、志が高く、民権思想を形にするほどの方ですから、それなりに魅力もあり、貞奴は年下ではあっても、育てようという心意気がはたらいたのではないでしょうか。」(乙2)という記述もある。これらを前提とすると、原告作品に現われている貞の結婚観が原告の創作に係るものとは言えない。
B 別紙1の11(桃介との遭遇、親交そして破恋)
 イの貞と桃介の邂逅の描写については、原告作品のように表現した先行資料はなく、原告の創作に係るものと認められる(甲13)。しかし、貞と桃介の出会イについては、「ある日、向島で落馬したところに、偶然桃介さんが通りかかり、親切に介抱してくださったそうで、あとで小奴は、お菓子をもって慶応義塾の寮に2度、3度とお訪ねしたそうです。」と記述した先行資料があり(乙2)、原告作品の特徴は、原告作品に表現されたような筋及び仕組みによる貞と桃介との出会いの表現にあると言うべきである。そして、原告作品が、貞が成田山まで足をのばした帰りに野犬の群に襲われたとの出来事とし、貞は「不動明王さながらに」立つ黒いシルエットを見て、「先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は、雷に打たれたように身が震えた。」とするところを、本件ドラマは、成田山の帰りではなく隅田川の土手であること、野犬に襲われたのではなく、馬が突然暴れ出したこと、桃介は友人田代とその前方を歩いていたが、馬の前に両手を広げて立ちふさがり馬を止めたこと、桃介は「お怪我はありませんか」と聞き、そのまま立ち去ろうとしたこと、貞に名を聞かれても桃介は名乗らず、田代が貞に教えたことといった点で原告作品とは異なるものであり(甲3の1)、基本的な筋、仕組みともに異なると言うべきである(なお、本件ドラマのこのような表現は、原告作品以外の先行資料(乙2、5、34)と比較した場合、原告作品に最も近いものであり、その意味で、原告作品を参考にしたものと推認することはできる。)。
 ロのその後の貞と桃介との交際については、二人が待合ではなく屋外を散歩したこと、貞の生家が没落したという身の上話をしたことという点で共通していることから、本件ドラマが原告作品をヒントにしたもの〈「と」が脱落〉推認される。しかし、原告作品は、二人の交際について、別紙1の11ロの上段のとおりわずかに4文で触れているに過ぎないが、本件ドラマでは、まず貞が桃介に手紙を書き、亀吉がさしむけた俥引きの又吉のもとで増上寺境内を散歩し、貞の身の上話から、将来を誓って指切りするという仕組みをとり、さらに、その後の筋として、慶応義塾の遊戯会の場面(第3回)、人形町でのデート(第4回)、貞が房子から桃介と房子との縁談があることを聞かされること(第5回)を備えている。
 ハの別離についても、原告作品は、「『お互い道は違っても、いつか立派に成功して、またお目にかかりましょう』貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送った。」とするに過ぎないのに対し、本件ドラマでは、貞は人形町の座敷で桃介から別れを告げられ、表へとび出すこと(第7回)、さらに、水揚げが決まった後も桃介に手紙を出して、亀吉の目を盗んで桃介に会うが思いを遂げることができなかったこと(第8回)という筋が展開されている。
(3)個別的な剽窃の類型について
 原告は、個別的な剽窃の類型として、@引き写しの方法による剽窃(別紙1の12ないし19)、Aオリジナリティーの盗用例(別紙1の21ないし26)、B転用の方法による剽窃例(剽窃隠ぺいの塗り残り)(別紙1の9、22、27)を指摘する。
 しかしながら、いずれの点についても、原告作品及び本件ドラマの内面形式の同一性を基礎付けるような重要な筋に関わるものではないと言うべきであるから、本項冒頭の判示に照らし、原告指摘のとおりの類似があるとしても、内面形式の同一性を判断するに当たっては、意味を持たないと言うべきである。
 なお、@のイ(音二郎の出自の述べ方)、ロ(貞の芸者芝居の経験を語る表現)、ニ(烏森芸者一行の演目)、ホ(音二郎の銅像の記述)及びヘ(帝国座の作りとその客足の記述)については、先行資料があり(イについて乙1、乙23の1、乙67、ロについて乙38、ニについて乙68、ホについて乙19の2、乙38、69、ヘについて乙32、38、70、71)、また、ハ(貞のポスターに関する表現)、ト(ゴロ合わせによる引き写し)、チ(経文のカナ表記の引き写し)は、原告指摘の箇所のみを取り出してそこに独立した著作物性があるとすることもできない。
 また、Aのイの一ツトセ節から官ちゃんと官吏侮辱罪、逮捕のエピソード(別紙1の21)については、明治16年7月、音二郎が京都四条南の演劇場で民権自由数え唄を披露し、警官から中止解散を命ぜられたことは、歴史上の事実である(乙73)。本件ドラマのうち、音二郎が歌い出す前の口上の内容や警官がまず中止を命じたとした点は、原告作品以外の資料により作成されたと考えられるが、その後、警官が「官吏侮辱じゃ……官ちゃんがどうのというのは、官吏侮辱!」と叫ぶ箇所(甲3の1)は、原告作品の「「官ちゃん」は官吏侮辱罪に当り、ただちに逮捕された。」なる記述を参考にして作成されたものと推認される。
 Aのロの水泳のエピソード(別紙1の22)についても、貞が伊藤博文から水泳を教わったことについては先行資料がある(乙22、41)。水泳を法典の起草と結び付けたのは原告作品独自のものであるとしても、基本的な筋又は仕組みになっているとみることはできない。
 Aのハの音二郎の落選(別紙1の23)についても、原告作品の当該箇所は歴史的事実を述べたものに過ぎない(乙19の1、乙38、88、乙95の1、2)。原告は、音二郎落選の原因が通説に言うところの強い対抗馬とか新聞に叩かれたせいばかりではなく、選挙権のない人々に政見演説をしたところに根本原因があったと理解して記述した創作的表現であると主張するけれども、「川上の共鳴者があったとしてもそれは有権者ではない。彼の芝居そのものだって、看客の大部分は中以下の階級や学生などである。当時の有権者は直接国税を10円以上納める者に限られた。其の社会には川上劇の支持者は少ない。」(乙19の1)という記載のある先行資料がある。
 Aのニの川上座を手放す音二郎の心境(別紙1の24)については、原告作品の当該箇所は先行資料からの引用とこれについての原告のコメントであって(乙38)、原告の創作に係るものとは言えない。
 Aのホの貞奴の「道成寺」好評に関する表現(別紙1の25)についても、先行資料があり(乙45。ただし、「振り出し笠」ではなく「傘」とされている。)、「花笠の踊りの段で、両手に持った振り出し笠を頭上で交互に廻しながら倒れてしまった。」という原告作品の表現は、倒れる場面を特定している点で創作性があると言いうるが、本件ドラマはこの点で表現が類似しているとは言えない。
 Aのヘの「人肉質入裁判」の貞奴の台詞(別紙1の26)については、表現の類似はない。
 Bのイ、ロについては、既に判示したとおり、表現の類似はなく、原告作品からの剽窃を隠ぺいしたものとも言えない。
 Bのハについては、貞がサラ・ベルナールを引き合いに出していた事実については先行資料があり(乙38、76)、また、原告作品と本件ドラマの当該箇所で表現の類似はない(もっとも、サラ・ベルナールの年齢が事実に反している点からすれば、原告作品の当該箇所を参照して制作されたことが窺われる。)。
 Bのニの誓紙と誓詞(別紙1の28)について、本件ドラマは原告作品の当該箇所からヒントを得てこのようなエピソードを取り入れたものとみられるが、原告作品では「小奴の貞を伊藤博文からとらない」という約束であり「素人の世界ならば婚約に相当する」とされているのに対し、本件ドラマでは「誰も手だしはしない」という約束であり、両者の意味合いは異なる。
(四)以上一、二、三(一)ないし(三)において判示したところによると、本件ドラマの基本的筋については、原告作品と一部共通しており、また、本件ドラマには部分的に原告作品の表現を参考にして作成されたと見られる箇所が存在する。その点と、前記三1(三)において判示したように、本件ドラマの制作過程において原告作品が資料の一つとして利用されたことからすると、本件ドラマは、原告作品を重要な参考資料として制作されたものと認められる。
 しかしながら、原告作品と本件ドラマとでは、前示のとおり、分量、対象とする年代、叙述の対象、登場人物、描写の方法、取り上げるエピソード等の内容、貞奴の描写、他の主要人物の描写のいずれの点においても大きな相違があり、両作品を全体として比べると、基本的な筋、仕組み、構成のいずれの点においても同一とは言えないから、両作品は、内面形式の同一性を欠くものと言うべきである。
 なお、本件ドラマ中には、原告作品と部分的に基本的な筋が同一であると見られる箇所が存在する(例えば、音二郎が書生演劇を興すまでの経緯、川上一座のアメリカ巡業、帰国後貞奴が女優として活躍する状況等)が、同一と見られる箇所は、いずれも歴史上の事実であって(後記四2(三)の判示参照)、原告の創作に係るものとは言えないから、原告作品と本件ドラマの内面形式の同一性を基礎付けるものとは言えない。
 したがって、本件ドラマの制作は、原告の翻案権を侵害するものとは言えない。
 なお、ドラマ・ストーリー、被告協会が発表した広報資料(乙35ないし37)並びに被告らが本件ドラマの原作であるとするSの「マダム貞奴」及び「冥府回廊」がどのようなものであるかは、依拠性の判断においては重要な判断要素となるが、本件ドラマと原告作品との内面形式の同一性の判断に当たっては、これを検討する必要はないと言うべきである。
四 ドラマ・ストーリーによる著作権侵害の成否について
1 証拠(乙9、15、46、49、55、122、証人A、被告Y3)と弁論の全趣旨によると、ドラマ・ストーリーの内容及び制作の経緯について、以下の事実が認められる。
(一)ドラマ・ストーリーが掲載された本件書籍は、本件ドラマの放送開始に合わせて発行された番組視聴者のためのガイドブックであり、他に、S、被告Y3らのエッセイ、本件ドラマの配役の紹介、対談、グラビア特集等が掲載されている。
(二)本件書籍のうち、ドラマ・ストーリーの部分は52頁から112頁までで、「構成・・Y3」「原作・・S『冥府回廊』『マダム貞奴』」と表示され、プロローグ、第1章「馬上の女」、第2章「自由童子誕生」、第3章「オッペケペ」、第4章「日本脱出」、第5章「海外巡業」、第6章「女優第1号」、第7章「劇界改造」、第8章「新時代の足音」及びエピローグからなる。本件ドラマの梗概の紹介の体裁をとっているが、「「ドラマ・ストーリー」と放送が異なることがあります。ご了承ください。」と注記されている。
(三)その叙述の梗概は、次のとおりである。
 プロローグでは、川上音二郎一座の公演を観ている貞を紹介し、第1章「馬上の女」では、貞と桃介、桃介と音二郎の出会いをそれぞれの生い立ちを交えて描き、第2章「自由童子誕生」では、音二郎と奥平剛史の出会いから、八重子と音二郎の関係と、桃介が房子と婚約して米国留学に出発し、貞は伊藤博文に水揚げされるまでを、第3章「オッペケペ」では、音二郎がオッペケペを始め、さらに、改良演劇で話題を呼び、貞と結婚するまでを、第4章「日本脱出」では、川上座を開場したものの、国会議員に立候補して落選し、川上座も人手に渡ったことから、小さなボートで貞と二人で日本脱出を試みたところまでを、第5章「海外巡業」では、川上一座のアメリカ、パリでの成功の様子を、第6章「女優第1号」では、福沢諭吉に反発する桃介と、帰国した川上一座の活動、貞が「オセロ」で女優第1号を演じたこと、第7章「劇界改造」では、音二郎の劇界刷新のための改革の試みと、桃介が株で成功したことを、第8章「新時代の足音」では、貞の女優養成所開設から伊藤博文との別れ、大阪・帝国座の建設、音二郎の死亡までと、松井須磨子の台頭を、エピローグでは、音二郎の銅像と貞の感慨を描いている。
(四)ドラマ・ストーリーの叙述内容は、別紙6「ドラマ・ストーリーの内容」記載のとおりである。
(五)ドラマ・ストーリーの制作経緯は、次のとおりである。
 昭和59年9月14日、被告会社は、本件ドラマに関するガイドブックと言うべきドラマ・ストーリーの構成を被告Y3に依頼し、被告Y3は、同年10月後半に10日間ほどかけて書き上げた。しかし、当時、本件ドラマの脚本は、全50回分中の10回分程度しかでき上がっていなかったため、被告Y3が完成していた10回分の脚本を元にして第3章「オッペケペ」辺りまでを書き、それ以降の部分については、同人の助手松島利昭が、本件ドラマの構成案及び被告協会のスタッフが作成した主要人物年表を元にして書き、被告Y3がチェックした後、原稿を被告会社に渡し、被告会社は、さらに若干の手直しをして本件書籍に掲載し、出版した。なお、その際、参照された資料の中には、原告作品も含まれていた。
2 複製権侵害の成否について
(一)複製とは印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することを言う(法2条1項15号)が、原著作物とまったく同一ではなくとも、これに多少の修正増減を加えた程度のものを作成することも含まれると解される。
(二)ところで、原告作品とドラマ・ストーリーとを比較すると、その叙述内容は別紙4及び別紙6のとおり相違している。
(三) さらに、原告の指摘する別紙3記載の類似箇所について、検討する。
 1イ・1ロの音二郎・貞奴がヨーロッパから帰国し、神戸・新橋で歓迎を受ける場面は、歴史的な事実であり、多くの新聞報道があるし、音二郎の伝記でも取り上げられており、原告作品はそれらの先行資料に基づくものであり、先行資料の内容を前提とすると、ドラマ・ストーリーの当該箇所の表現が原告作品に類似するものとも言えない(乙1の3、4、乙3の1、乙18)。
 2の音二郎が河原乞食と言われることについて強い反発心を持っていた点は、新聞報道されている事実であり(乙17)、表現が類似するものとも言えない。
 3については、貞の水揚げに関して藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝及び伊藤博文が約束していたという事実を明記した史料はなく、この点で、ドラマ・ストーリーのうちの3の下段で指摘されている部分は、原告作品の表現を参考にして作成されたものと考えられる。しかし、原告作品は、貞が伊藤博文のものと公認されていたという内容であるのに対し、ドラマ・ストーリーは、それぞれが手を出してはいけないという趣旨であって、表現は異なる。
 4イ・4aについては、前記三3(四)(2)Bにおいて判示したところと同様であり、先行資料を前提とすると、表現は類似していない。
 5及び6については、表現は類似していない。
 7の上段は、歴史的事実である(乙88)。
 8の上段は事実を記述したものであり、下段は別の作品(S「冥府回廊」(上)189頁、193頁、矢田弥八「激流の人」54頁)に類似の記述がある(甲5の1、乙34)。
 9イのうち、貞が「板垣君遭難実記」を養母と見に行って初めて音二郎を知ったと語っている部分及び名士よりも書生が好きだったという部分については、先行資料がある(乙2、38、41)。
 9ロについては、「一日鳥越座に川上の芝居を母と共に見物して従来の俳優の柔弱なるに似ず川上の元気よく気焔を吐くに感服し何事にも奇抜を好む彼女の心は遂に一書生役者たる川上の占領する所となり」との先行資料がある(乙89の1)。また、9ロと9b・cの表現自体を比較しても、類似しているとは言えない。
 10の上段・10a・10bについては、いずれも先行資料がある(乙7、乙23の1)。
 11イないしヘ及び12の音二郎が自由童子からオッペケペ節を演ずるに至るまでの経緯については、いずれも音二郎に関する歴史的事実をその順序に従ってまとめたものであり、先行資料がある(乙17、23の1、32、90)。また、ドラマ・ストーリーには、原告作品に現われていない固有名詞や文句が記述されており(例えば、「ヤソに神なし、仏教に仏なし」(11e)、「講釈師」(11f)、「神田末広町の千代田亭」(11g)、「三遊亭万橘」(11h)、ヘラヘラ節の内容(11h)、オッペケペ節の内容(12a・b))、少なくとも原告作品以外の資料に依拠して作成されたことが明らかである(乙23の1、32、90)。
 13のうち、貞や名妓たちが音二郎に入れ上げ、引幕を贈った事実については、先行資料がある(乙91)。
 14の音二郎が金子堅太郎らから洋劇視察を勧められる部分については、先行資料がある(乙23の2)。
 15の川上一座の出し物が大当たりとなったことは、歴史上の事実である(乙17、23の2)。
 16の下段は、原告作品とは別の作品(倉田「近代劇のあけぼの」)を参考にしたものと認められる(乙32)。
 17は、この部分だけを取り上げて表現が類似しているとは言えない。
 18イ・ロのうち、落籍祝いがされたこと、金子堅太郎が仲人を務めたこと、金子は音二郎と同郷であったことについては先行資料があり(乙17)、その部分を除くと18a・bが原告作品に類似しているとは言えない。なお、ドラマ・ストーリーでは「桃介と房子の向こうを張って、どうしてもまともな結婚をしなければならない意地もあった。」とあるのに対し、原告作品では、「貞は養母・可免の計らいによることを強調して、“野合”と見られるのを嫌っていた。」とある。原告作品では右表現より前の箇所である38頁において「貞は音二郎という存在を知るなり、殆ど間髪をおかず、恰も電光石火の如く〈いっしょになってしまった〉」とし、「貞はこうしたいわゆる野合説に抗議するかのように、勝手に一緒になったのではなく、ちゃんと養母の手でしかるべき手続きを経て結ばれた、と弁明している。手続きはともあれ、貞は〈書生が好きだった〉と言い、一目で惹かれてしまった。当の貞はそれ以上の説明はしていない。」と述べている。18イの記述はこれを受けているものであり、桃介と房子の向こうを張るといった心情は表現されていない。したがって、両者は類似していない。
 19については、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙80の1、2、乙92の1、2)。
 20の川上一座が戦争物で大当たりをとり、歌舞伎座に進出するまでの経緯は、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙23の2)。
 21イ・ロ、22イないしハ、23イ・ロ及び24は、音二郎らの川上座建設、国会議員選挙への立候補と落選、音二郎の失意といった歴史上の事実に関する記述であり、いずれも先行資料がある(乙16の1、乙19の1、乙23の2、乙29、38、39、41、94、乙95の1、2)。これに対し、ドラマ・ストーリーでは、八重子が音二郎の子だから引き取ってくれと言って現われ、貞は八重子と子供を追い出し、音二郎をとっちめたこと、選挙運動は賑やかに展開し、音二郎、貞らも気をよくしていたこと、これを万朝報の黒岩がここぞとばかりあざ笑い、書きまくったこと、川上座が人手に渡る場面では、音二郎と貞が二人でシャンペンを飲んだこと、音二郎が拳銃を持って万朝報社に乗り込み、拳銃の暴発のため黒岩にけがをさせたが、黒岩は警察には訴えず記事にもしなかったこと等のストーリーが加えられており、原告作品とは筋が異なる。
 25イ・ロの音二郎・貞がボートで海へ漕ぎ出し、神戸にたどり着くまでの経緯については、音二郎の談話等の形での先行資料がある(乙23の2、乙33、38)。
 26の上段及び下段は、「大西洋岸のアトランチック・シティーで日本の庭園を経営していた櫛引弓人が、興行方面にも手を広げていたので、サンフランシスコを中心にアメリカの西部地方を興行して回るという話を音二郎に持ち込んだ。」という限りでは、先行資料が存在する(乙17)。ただし、両者の表現のうち、「話が舞いこんだ」「大西洋岸のアトランチック・シティーに、茶屋、球戯場などを含む日本庭園を経営して」「音二郎はこの話にとびついた」の部分は、他の先行資料では用いられていない表現であり、ドラマ・ストーリーのこの箇所は原告作品を参考にして記述されたものと推認できる。
 27について、上段と下段の表現で共通するのは、出発と到着の日、同行したのが19人であり、同行者の中に音二郎の弟磯二郎と姪のツル(12歳)、三味線の杵屋君三郎が含まれていたことであるが、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙44)。また、留守の座員を桜木に預けたことを含めると、原告指摘の部分は、S「マダム貞奴」の123頁によったものと認められる(甲4)。
 28イ・ロ、29イないしヘについては、いずれも先行資料が存在する(乙17、19、25、29、30、38、44)。なお、@「町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝されていた。」(28イ)「街にはすでに貞のポスターが張り出され、まるで彼女が主演であるかのように宣伝されているのである。」(28a)、A「23日に着いて、25日から公演するので、ぐずぐずしているひまは無かった。」(28ロ)「23日に着いて25日には公演するという日取りになっているのでグズグズもいっていられないのである。」(28b)、Bカリフォルニア座での収入を「1,271ドル(2,542円)」(29イ)「1,271ドル(2,542円)」(29a)と表現した点、C義捐興行による収入を「700ドル余り」(29イ)「700ドル」(29a)とした点、D「いずれも着いてから劇場を探し、公演が済み次第、夜行に乗る」(29ハ)「いずれも着いてから劇場を探し、公演がすみしだい夜行列車に乗る」(29e)という表現、E「汽車に乗っているときだけが休息の時間」という表現(29ハ・29e)、Fライリック座の座主が日本びいきであると聞いたという点(29ハ・29f)、G「極限に追いこまれて必死につとめた舞台だった」(29ホ)「極限に追いこまれた一座が死力をふりしぼってつとめた舞台だった」(29i)という表現、H「集まった観衆は魅了され、ライリック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しかけた」(29ヘ)「ホットンのところには、貞奴に魅了された観衆が再演を求めて押しかけていた」(29j)という表現は、いずれも他の先行資料とは異なっており(他の類似箇所については、同様の表現を用いた先行資料等が存在する。)、ドラマ・ストーリーの当該箇所は、原告作品を参考にして作成されたものと推認できる。しかし、右の箇所は、いずれも歴史的な事実に基づいて表現されたもの又は同様の表現の先行資料が存在するものであり、独立して著作物性があるとは言えない。
 30イ・30aについて、「一夜明けると、貞奴はスターだった。」という表現は、他の先行資料とは異なっているが、長谷川時雨「マダム貞奴」(乙39)47頁には、同様の場面で、「一座は其折女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情からそれまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、優れた多くの女優が、明星と輝く外国に於て、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優(プリマドンナ)となったのである。」との記述があり、ライリック座での公演をもってスター女優となるきっかけとみること自体が原告独自の表現とは言えない。
 30ロ、31、32イないしヘ、33イないしハ、34、35については、いずれも歴史上の事実であり、先行資料がある(乙17、25、33、44、99)。これに対応するドラマ・ストーリーについても、原告作品以外の先行資料を参考にして作成されたとみられる(30b、31、32a、32bにつき乙33、32cにつき甲4、32dにつき乙17、33bにつき乙99)か、又はそもそも表現が類似しているとは言えない(30b、31、32a、32b、32c、32d、32e、32f、33a、33dないしj、34、35a、35b)。原告の指摘する「ロイ・フラー」(32d)「オフィシェ・ド・アカデミー」(32f)の表記が同一であること、烏森芸者たちがパノラマ館で演じた出し物が「『鶴亀』『道成寺』『活惚』『へらへら』『凱旋踊り』」であったとするその選択と順序が一致していること(33イ・33a)は、このような一致がみられることから、ドラマ・ストーリーが原告作品を参考にして作成されたものであることの推認をすることはできるが、右の各部分自体には独立した著作物性はない。
 36イないしハ、37イ・ロは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙17、乙23の2、乙32、101、102)のに対し、36cについては「マダム貞奴」に記述があり(甲4)、その他の部分についても、原告作品とドラマ・ストーリーで共通している事項、言葉遣いについては、先行資料が存在する(なお、36bに「不評と叱責が待っていた。新聞はあげて音二郎否定論の大合唱である。」とあるのは、36イの「不評と叱責に満ちた、音二郎否定論の大合唱」という表現とよく似ているが、この部分に独立した著作物性があるとは言えない。)。
 38イは、音二郎が日本のブースたり、フローマンたることを目指して演劇に生きる覚悟ができたとし、中央新聞の記事を引用しているのに対し、38aは俳優学校を設立して後輩を育てる仕事をしたいということで目指す方向がはっきりと見え始めたというのであり、内容が異なる。また、38bは倉田「近代劇のあけぼの」(乙32)174頁を参考にしたものと認められる。
 38ロは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙32、104)。他方、38dの「世界的演劇を興すの必要」については先行資料に記載されている(乙32)。
 39イのうち、貞が帰国後女優として舞台に立つことを拒否していた事実については先行資料がある(乙17、18)。「貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には応じられない。」(39イ)、「もし、あたしが失敗したら、女優の発展がそれでおくれることになるんですよ。そんな重大なつとめがどうしてできましょう」(39b)という表現は類似しているが、先行資料には、貞が金子堅太郎から「将来の日本の演劇の、発展を考えると、女優の必要なことは儂が言うまでもなく、前後2回の欧米巡行の体験からお前自身も痛感していることだろうと思うがね。……機運は既に迫っているのじゃが、みな逡巡しているのじゃ。誰か一人、そのトップを切って、演劇革新のために叫ぶ者があれば、我もわれもと追従する者の現われようとしている時期なのじゃが、不成功を怖れて、躊躇している有様なのじゃ。何事にも、先駆者たるには、勇気が要る。……日本劇壇全体のためを思えば、現在こそ女優として、お前が、立つべき秋だ。」と説得され、これに対し、貞は「私の芸は、外国でこそ胡魔化せて通っていましたが、日本では、他人様に見せるほどの腕でないことは、百も承知しています。だからこそ、舞台を、あきらめていたのです。が、日本の演劇の、将来のために、私が役立つなれば・・と、斯う言われて考えました。」と構成したものがある(乙18)。このような記述を前提とすると、ドラマ・ストーリーの当該箇所は原告作品の表現に類似しているとは言えない。また、39aは、原告作品ではなく、先行資料に基づいて記述されたものと認められる(乙17)。
 40イないしニは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙17、乙32の2、乙104)。また、40dは、原告作品ではなく、先行資料に基づいて記述されたものと認められる(乙17)。
 41イないしニは、歴史上の事実であり、先行資料がある(乙17、32)。しかも、41c・41dの部分は、明石鐵也「川上音二郎」230頁・231頁(乙18)に、41eの部分は、倉田「近代劇のあけぼの」(乙32)183頁・184頁に、それぞれ類似しており、これらの資料を参考にして記述されたものと推認される。
 42イ・42aは、歴史上の事実であり、類似していない(乙17、32)。
 42ロ・42bのうち、42bに「さしもの川上嫌いの面々もこぞって支持を表明した。子供たちを喜ばせ、貞自身も心を洗われ、すべてを忘れて芝居に打ちこみながら」とある部分は、原告作品の表現を利用したものと推認できるが、歴史上の事実を記述したものであって、これ自体が独立して著作物性を有するとは言い難い(乙60)。
 43イ・43b・c、43ハ・43d、43ニ・43eについては、多数の先行資料がある(乙17、乙23の2、乙106、107)。
 43ホについても、先行資料があるほか(乙32、107、108)、43fのドラマ・ストーリーの表現は、原告作品よりも倉田「近代劇のあけぼの」(乙32)193頁に類似の記述がある。
 43ヘと43g、44の上段と下段とは、いずれも類似していない。
 45イ・ロは、いずれも歴史上の事実の記載である(乙32、93、109)。
 46イ・46aは、場面が異なり、類似していない。
 46ロについては、先行資料がある(乙110、111)。
 46ハ・46dは、表現が類似していない。
 47は、歴史上の事実である(乙32、82、83)。
 48は、先行資料がある(乙32の2)。
 48ロ・48b・c、48ハ・48d、48ニ・48e、48ホ・48f、48ヘ・48gは、いずれも表現が類似していない(なお、48eの箇所は、戸板康二「川上貞奴」(乙31)34頁に類似の記述がある。)。
 49、50は、歴史上の事実である(乙85、112ないし114)。
 51は、先行資料がある(乙38、70、71)。
 52イは、先行資料があるし(乙17、32)、上段と下段の表現は類似していない(52aのドラマ・ストーリーの表現は、倉田「近代劇のあけぼの」(乙32)256頁を参考にしたものと認められる。)。
 52ロの音二郎の最後の言葉については、先行資料がある(乙32)。
 52ハについては、先行資料がある(甲4、乙32)。
 52ニのうち、音二郎の死後貞奴に引退を迫る声が強かったという点は、歴史上の事実である(乙115の2)。
 53イ・53aは、表現の類似はない。
 53ロについては、先行資料がある(乙38、116)。
 53ハ・53cは、表現の類似はない。
 54は、歴史上の事実である(乙18、乙19の2、乙38、69、117)。
 55は、歴史上の事実である(乙118、)上、55aは茨木憲「日本新劇小史」(乙113)23頁を参考にしたものと認められる。
 56イ・56a、56ロ・56b・56cは、表現の類似はない。
 57については、上段は歴史上の事実を示すものであるのに対し、下段の57a・57b・57cについては、S「冥府回廊(上)」(甲5の1)241頁、274頁以下及び同「マダム貞奴」(甲4)112頁の記述を参考にしたものと認められる。
 57ハ・57e、57ニ・57fは、いずれも表現の類似はない。
 以上のとおり、ドラマ・ストーリーには、原告作品の記述を参考にしたとみられる箇所(3)、外国語の表記が同一である点(32d、32f)、原告作品独自の表現とよく似た表現が用いられている箇所(26、28a・b、29a・e・f・i・j、30a、36b、39b、42b)が存在するが、指摘箇所の大部分は、いずれも、歴史上の事実又は先行資料を引用若しくは要約したものであるということができ、しかも、音二郎・貞奴の日本脱出の試みから海外巡業での苦労話、帰国後の活躍と苦心等のドラマ・ストーリーの中心として描かれている部分は、すべて、多くの先行資料に描かれているところであって、全体として原告作品にのみ類似しているというわけではない。また、明らかに原告作品以外の先行資料を参考にして記述されたとみられる箇所も多数存在する(11e・f・h、12a・b、27、30b、31、32a・b・c・d、33b、36c、38b、39a、40d、41c・d・e、43f、48e、52a、55a、57a・b・c)。
(四)右に検討したところによると、原告作品とドラマ・ストーリーの叙述内容自体は全体として見た場合には相違しており、類似箇所として指摘された部分も、その一部に原告作品を参考にして作成されたと見られる表現はあるものの、いずれも、歴史上の事実若しくは先行資料に記載された事実に係る部分又は表現が類似していないと見るべき部分であるから、ドラマ・ストーリーは、原告作品に多少の修正増減を加えた程度のものとは言えず、原告作品を有形的に再製したものとは言えない。
 したがって、ドラマ・ストーリーの制作は、原告作品の複製権を侵害するものとは言えない。
3 翻案権侵害の成否について
(一)翻案権侵害の判断の基準は前記三3(一)において判示したとおりであり、右の基準に照らして、前記二、三及び右1の判示事実を前提として原告作品とドラマ・ストーリーとの内面形式の同一性の有無について検討する。
(二)原告作品の特徴は前示三3(二)のとおりであるところ、ドラマ・ストーリーの特徴としては、以下の点が指摘できる。
(1)ドラマ・ストーリーの分量は、本件書籍の52頁から112頁までの63頁であり、原告作品よりもかなり短い。
(2)対象とする年代は、貞の小奴の時代から音二郎の銅像建立までであり、原告作品のそれよりも範囲が狭い。
(3)登場人物は、本件ドラマと同様、歴史上実在しない人物(雲井八重子、三浦又吉、野島覚造等)を登場させ、ストーリーの中で独自の役割を持たせている。
(4)描写の方法は、登場人物をめぐる歴史上の出来事を逐一取り上げるのではなく、節目となるエピソードを中心とし、客観的な記述というよりも読み物としての読みやすさが重視されている。
(5)ドラマ・ストーリーのうち、第4章「日本脱出」及び第5章「海外巡業」の全部、第6章「女優第1号」の後半部分並びに第7章「劇界改造」の部分は、その叙述内容の大部分が原告作品と共通である。
 しかし、原告作品で叙述されている事項のうち、貞の幼少時代、川上一座がアメリカ東海岸からパリに到着するまでの経緯、2度目のヨーロッパ客演旅行、パリ再訪、革新興行、貞の女優引退、川上絹布設立、二葉御殿、児童楽劇園、貞照寺の建立、貞の晩年の生活ぶり等は、ドラマ・ストーリーでは取り上げられていない。
 また、ドラマ・ストーリーで取り上げられている事項のうち、慶応義塾での音二郎と桃介・黒岩涙香〈「と」が脱落?〉の出会い、音二郎と奥平剛史との出会い、音二郎の車夫懇親会での演説、房子が桃介に魅せられてしまったこと、奥平と八重子の関係、貞と書生演劇で世に出る前の音二郎との出会い、貞の水揚げの儀式とその前に桃介と会う場面、貞が初詣でをする桃介・房子夫妻を見かけ、伊藤博文との関係も切れること、野島覚造との出会い、貞が小田原まで音二郎の興行を見に行き、騒動に巻き込まれて、その夜、音二郎と結ばれること、株式投機をする桃介と房子との間の溝、貞がパリ滞在中の亀吉の容態悪化、桃介の事業の不振と諭吉との葛藤、桃介が貞を励ましたこと、日露戦争を背景に桃介が兜町で飛将軍の名をとどろかし、芸者を買切りにして騒いだこと、貞と伊藤博文の最後の対面、奥平の大逆事件による処刑については、原告作品ではまったく触れられていないか又はごく簡単に触れられているに過ぎない。
(6)貞奴の描写について、その人物像の特色、女優としての資質等が描き出されているとは言えない。
(7)他の人物については、本件ドラマと同様、音二郎、桃介、房子に関する描写が各所に取り込まれており、全体の中でもそれらが相当な分量を占める。
(三)原告指摘の類似箇所(別紙3)については、前記2(三)において判示したとおりであり、その大部分は、いずれも歴史上の事実であるか又は先行資料に記載された事項である。
(四)右(二)、(三)に判示したところによると、原告作品とドラマ・ストーリーの全体を比較した場合には、分量、対象とする年代、登場人物、描写の方法、叙述されている事項、人物の描写のいずれについても異なっており、基本となる筋・仕組み・構成はいずれも異なると言うべきである。
 なお、ドラマ・ストーリーのうち第4章「日本脱出」及び第5章「海外巡業」の全部、第6章「女優第1号」の後半部分並びに第7章「劇界改造」の部分は、そのほとんどの事項が原告作品の叙述事項と共通しているところであり、原告作品独自の表現と類似する箇所もいくつかあることから、この部分は原告作品に依拠して作成されたものとみるべきである。しかしながら、右の部分の大部分は、いずれも歴史上の事実であるか又は先行資料に記載された事項であって、その基本的な筋・仕組み・構成自体は、原告の創作に係るものとは言えないから、このような部分が共通しているからといって、著作物たる原告作品とドラマ・ストーリーとの内面形式が同一であるとすることはできない。
 したがって、ドラマ・ストーリーは、原告作品と内面形式が同一であるとは言えないから、原告作品を翻案したものには当たらないと言うべきである。
五 人物事典による著作権侵害の成否について
 まず、別紙3の58イの貞の身長等に関する表現は、事実の記述である。また、同ロの記述については、貞は一旦浜田家から加納家へ引き取られたが、そこの長男が「貞ちゃんは今に僕のお嫁になるんだよ。」と言うのを聞き、加納家を逃げ出したとの先行資料がある(乙17)。さらに、原告作品の当該箇所は、原告が川上富司から聴取した内容を記載したものである(乙119、証人A)。
 そうすると、原告作品の当該箇所の記載内容自体は、原告の思想又は感情を創作的に表現したもの(独創性のある部分)とは言えないから、人物事典に同じ内容の記載があることをもって(両作品の表現方法は異なっている。)、これが、原告作品の複製又は翻案に当たらないことは明らかである。
 したがって、人物辞〈「辞」は「事」の誤〉典は、原告作品の著作権を侵害するものとは言えない。
六 著作者人格権の侵害について
 右三ないし五判示のとおり、本件ドラマ、ドラマ・ストーリー及び人物事典は、いずれも原告作品の二次的著作物(又は複製物)とは言えないから、著作者人格権の侵害はない。
七 結 論
 以上のとおりであるから、その余の点につき判断するまでもなく、原告の本訴請求はいずれも理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法89条を適用して、主文のとおり判決する。

名古屋地方裁判所民事第9部
 裁判長裁判官 岡久幸治
 裁判官後藤博及び裁判官入江猛は、転補につき、署名捺印することができない。
裁判長裁判官 岡久幸治


別紙目録、別紙2、4ないし6(省略)
(別紙1)「女優貞奴」・「春の波涛」類似箇所対比表

「女優貞奴」
1 女優の資質と素養
(第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」 34、35頁)
 そのころ貞は芸者芝居に熱中していた。
(中略)
 いずれも男の役ばかり、〈立役が好きで、いつも他人さんが厭がる立役は皆背負い込んで納っていたものです〉という。後に本職の女優になろうとは考えてもみず、ただ夢中になった頃を、後年貞は〈千円位(中級官吏の月給約3年分)の切符は引受けて、自腹をきって芝居に出て嬉しがって居たものです〉と懐かしむ。
2 女優になるきっかけ
(第三章 梨園の外道 遥かな道 79、80頁)
 町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝されていた。貞が自分は女優ではないと訂正を申し込んだがきき入れられず、劇場主と話し合いの結果、先方の主張通り貞を中心にした演目でなければ、公演も覚束ないことが分った。予定した『心外千万・遼東半島』をとりやめ、『児島高徳』『楠公』『道成寺』を出すことになった。
(中略)
 かくて貞は、急遽、看板女優に仕立てられた。あとにも先にも、これほどに、貞自身の意思によらずして決定された大きな出来事はなかった。幼時に芸者屋へもらわれたのさえ、自分で選んだことと自認する貞にとって、こだわらざるを得ないわだかまりとなる。その場は観念したが、好んで女優になったのではないという言い方を、貞は折にふれて、洩らした。もって、貞を女優の自覚に欠けるかのように見做し、傀儡にすぎないかのような評価ともなっていく。
3 欧米で舞台に取り組む姿勢
(第三章 梨園の外道 遥かな道・Sada Yacco 84〜86頁)
 この芝居は、空腹のあまりのびてしまったのであっても、極限に追いこまれて必死につとめた舞台だった。
(中略)
 断崖絶壁に追い詰められた一同の、心を一つにしたぎりぎりの動きだったにちがいない。そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう。
(中略)
 観衆は魅了され、ライリック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しかけた。
(中略)
 一夜明けると、貞奴はスターだった。早朝から問合わせの電話にたたき起こされたホットンの方から出演交渉にやって来た。好条件で話がついた。
4 女優として立つ決意
(第五章 女優開眼 正劇運動 127、128頁)
(略)出る以上は、基本から身につけなければならない。一度失敗すれば、どういうことになるか、無残に否定され、女優の未来はそれだけ遠ざかり、更に困難になるのだ。明治30年代には女流作家が珍らしがられ、一時の時流に乗って実力のともなわぬまま世間に引張り出されたあげく、下手だ、無知だ、無能だ、だから女は駄目だと叩きのめされて、引込んでしまったばかりか、一旦拓かれた女流作家への道を再び閉ざし、或いは発展を遅らせることになった。貞の出来映え如何では劇界でも同じことが起きたろう。
 貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には応じられない。一旦不出来となれば情容赦もなく罵倒される。世界女優の折り紙をつけられた貞に、失敗は許されない。しかも女優の演技の基礎といえば、何一つしていないも同然だった。貞ならできる、西洋であれだけ称讃されたではないか――まるで貞なら易々と女優になったし、なれるかの様な世間と同じ音二郎の無理解が、貞には心外であった。
(中略)
 秋から冬へ、夜明け前の2時、3時に、きつい磯風の吹きつける湘南海岸に出て、毎日、発声練習をした。声は寒風に吹きちぎられ、力の限り張り上げても、すぐ目の前の波濤にも届くかどうか、覚束ない。真冬でもたちまち汗ばんだ。砂浜を歩いて、歩幅を変え、速度を変えても姿勢が崩れないよう、往ったり来たりした。朝な夕な喉をきたえ、歩く練習をしながら、貞はこの沖合を小舟で渡った時のことを思い出した。
(中略)
 波は遥かのかなたから一散にかけてきて、浜辺に着くと、砂に吸い込まれていく。どの波もただ砕け散るだけなのに、海原こえて休むことなく走り続け、走ることを途中で放棄する波は一つもなかった。
 貞は辛さだけなら、いかなる苦難にも耐えてきた。だがそれは砕け散るためではなかった。踏みにじられた名誉を挽回し、いつか見返してやるためだった。それなのに、波は浜に吸われて消えるためにだけ、ひたすら走り続けるのだ。貞もやってみようと思った。どの道、やる他ないのだ。
5 女優としての評価
イ オセロ
(第五章 女優開眼 正劇運動 133、134、136頁)
 明治36年2月11日、紀元節を期して明治座に開演、従来の如く演目を三つ四つと並べるのでなく、『オセロ』の一本立である。
(中略)
 雑誌『歌舞伎』を中心とする「同好観劇会」も総見に来た。編集の三木竹二(鴎外実弟)と伊原青々園、森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野鉄幹、大塚保治・楠緒子夫妻、佐佐木信綱、上田敏、巌谷小波、桑木厳翼、井上哲次郎、新村出、東儀鉄笛、水口薇陽、中村春雨、川尻清潭などの文人、歌人、学者、画家、音楽家たちである。
(中略)
 逍遥も鴎外も、その社会条件と照して、音二郎の勇気と実行力に脱帽した。
 この2人の評は最も穏当な評であった。
(中略)
 『オセロ』に出た貞奴への諸評は、陶然と見惚れて嘆声をもらすばかりで、劇評の態をなさなかった。
(中略)
 〈気品といい仕草といい、申分ございません。別に仕草は無かったが、態度に於いて楚々人を動かすの力は充分であったようでござります〉(『東京日日新聞』明治36・2・13〜22)
(中略)
 『オセロ』は東京についで、京都、神戸、大阪を約1カ月巡演し、殊に九州弁の九州男子音二郎のオセロ、貞奴のデスデモーナ、粂八のエミリア、山田九州男(山田五十鈴の父)のビアンカがこぞって絶讃を博した。
ロ ハムレット
(第五章 女優開眼『ハムレット』 151頁)
 貞奴は、満都の人気を一身に集めた。現象的には西洋での場合と同様、たった一年で、一際抜きんでて輝く別格の俳優となったのである。このことは貞奴の俳優としての適性を証明して余りある。他に女優がいなくて、女役者のみの「女芝居」の延長のような「女優劇」はあったけれども、劇界の片隅を占めるのではなく、男優をしのいでその頂点に立った。女役者の殻を脱いで、女優への転身をなしとげたのは、貞奴自身の資質と努力のたまものだった。
6 女優養成所
(第六章 劇界の戦国時代 女優養成所 168〜171頁)
 フランスのコンセルバトワールの教育法に触れて、日本でも女優養成にせっかちに功をあせることなく、気長に見守ってほしいと、訴えている。〈世の方々の御尽力を願って、自分はその御手伝をするつもりで、只熱心の一つを以って根を枯らさないことに努むるのが第一と覚悟を決めています〉(川上貞奴談『時事新報』明治41・6・10)
 女優といえば、品行がまっさきに問題にされた。品行上の危惧ひとつで、堅気の娘は女優になるまじきもの、と考えられていた。
(中略)
 開校準備がすすむにつれて、帝国女優養成所は轟々たる非難に包まれた。その筆調は貞奴の心配を遥かに上廻った。養成所規則の第6項及び8項に、卒業後2カ年を実修期間として、帝劇もしくは養成所の指定する劇場に出演することを義務づけていた。それを芸者置屋が少女を養って躰をしばり、食いものにするのと同じではないかと非難するものさえあった。
 女優の募集は、年若い娘を誘惑し堕落させる元だと、貞奴は総攻撃を受けた。
(中略)
 新聞雑誌に女優論が沸騰し、帝国女優養成所は又の名を″阿婆摺収容所″と呼ばれた。
(中略)
 明治の女優排斥のすさまじさは、想像を絶するものがあった。男尊女卑の毒素が地底から噴きあげ、火山灰になって襲いかかった。貞奴が、「どうか世間が女優を育てる気になってほしい」と、それのみ案じたのも、杞憂ではなかった。
 女優養成所ばかりは、案ずるより産むが易しなどといえるものではなく、産みの苦しみを引受けた貞奴を軽くあしらうのは間違っていた。貞奴は猛威をふるった女優攻撃の矢面に立って、この養成所を設置した。森律子が自伝に記すように、女優志願者にとって初めて開かれた道であり、その意味では砂漠の中のたった一つのオアシスだった。だが、絶えず砂塵が舞い上って、目潰しをくう。
 貞奴が、帝劇の資金補助と賛成署名をとりつけたのは、ひこ生えの苗木を守るせめてもの生垣であった。10カ月後に帝劇へ移管されたが、道づくりをして引渡したのであって、貞奴の勇気と実行力が無かったら、怖気をふるって手を引き、女優養成所の開設は、さらに遅れたかもしれない。
 貞奴も、引き継いだ帝劇の西野専務も、又、文芸協会の坪内逍遥も、等しく過剰なまでに、生徒の品行と男女交際を厳しくとりしまったが、自衛のためにはやむをえなかった。
7 音二郎没後の活躍
イ トスカの評価
(第七章 貞奴一座 新派凋落 197、198頁)
 演目はサルドウ作・松居松葉訳『トスカ』、貞奴は九日間の稽古しかとれなかったが、立ち合った松葉が驚くほどの打ちこみ方を見せた。
(中略)
〈失神の表情から忽ち覚めて殺意を起すに至るまで殆んど凡ての観る人を酔わしめた〉(略)(『中央新聞』大正2・6・2〜3)
(中略)
〈活々した舞台〉(『時事新報』)、〈際立っていい〉(『読売新聞』)、〈近来の嵌役〉(『二六新報』)、〈努力の賜物〉(『横浜貿易新報』)、〈光って見えた〉(『読売新聞』)、〈その煩悶する表情は何ともいえない凄味があった〉(『演芸倶楽部』)等々と、諸々の劇評がいっせいに賛辞を呈した。各ひいき先が競って団体をつくり、日々見物に押しかけた。伊東巳代治夫人に付きそわれた蒙古王が花環を贈った。金子堅太郎の万事感服したという感想も新聞に載った。音二郎亡きあと、貞奴が東京の劇評陣に、未亡人としてではなく、女優としてまともに扱われ評価されたのは、これが初めてだった。貞奴は花駕花束のに埋って、嬉し涙にくれた。
ロ サロメの競演
1 (第七章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな 203頁)
 明けて大正四年、貞奴は『サロメ』を演じた。共演者はヨカナーンの井上正夫、ヘロディアスの河合武雄という顔ぶれだった。サロメは、「この節ざらに出るからザラメだ」と蔭口されながら、貞奴はあえて挑戦した。
 〈貞奴のサロメ、妖艶にしてまた凄婉、首をと言い張る態度もきっぱりとしてよし〉(『東京朝日新聞』大正4・5・12)、
 〈誰よりも王女たるの気品最も秀でて居た〉(『時事新報』同日)、〈諸優のうちで一番美しかった。セブン・ベールスの舞もこの人が最もそれらしく挑戦的であった〉(青々園『都新聞』大正4・5・14)
 『サロメ』は前年松井須磨子が沢田正二郎を相手役に演じた。ついで松旭斎天勝も、ヨカナーンの切り落とされた生首が目をかっと見開いて恨み言を言うという奇術をとり入れて上演した。須磨子は29歳、天勝は31歳、貞奴は44歳、3人のサロメは須磨子が肉感的魅力、天勝は美貌に奇術を加えて、貞奴は気品で、競い合うこととなった。
2 (序章 厄年の決断 16頁)
 名古屋御園座の大道具方・浅井勇元棟梁は、明治44年に没した川上音二郎の名古屋での最後の舞台を見ておられる。
(中略)
 氏はまた大正4年、名古屋の千歳劇場に来演した松井須磨子と、御園座の貞奴との、サロメ競演も鮮やかに記憶しておられた。
 「貞奴は滅法スタイルがよくて、とにかくハイカラだった。顔だち、身のこなしなど何ともいえず品がいい。風格というものがあった。
 貞奴は、臭い芝居をしない。くどい演技はしない人だった。さらっとしていた」
ハ 銅像の建立
(第七章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな 202頁)
 音二郎が劇界につくした功績は大きくても、所詮は河原者と見下げられるのだった。貞奴はせめて自分が銅像を建てなくて誰が建ててくれようと思った。貞奴が銅像建立の希望を捨て、普通の石碑にしておけば、こんなに苦労しなくてもすんだし、悪しざまに人格をけなされることもなかった。だが、河原者の悲哀を思い知って、貞奴は逆に強くなった。
八 女優引退
1 (第七章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな 206、208頁)
 貞奴は辛く苦しくはあってもこの時まで一度も、引退すると言ったことはなかった。それどころか折にふれて、西洋の女優の例を話して、引退説を否定し、抗弁していた。ヨーロッパでは七十二歳になるサラ・ベルナールをはじめ、高齢の女優が活躍しており、貞奴もまだ引退を考えてはいなかった。
(中略)
 貞奴は天涯孤独であり、係累のない我が身をむしろ幸いとして、喜多村緑郎等と組んで地方巡業に出た。貞奴の健康を心配して見送った桃介が、逆に病気になって、巡業先へ電報が届いた。桃介危篤の電文を見るなり、貞奴は東京へ飛んで帰った。桃介の危篤が心のはかりになった。貞奴は巡業半ばで舞台を放棄して、桃介の許へ駆けつけてしまったのだ。芝居よりも桃介の死を恐れる自分を知って、貞奴の気持ちは急速に引退へ傾く。
 大正6年9月、貞奴は引退声明を発表した。
2 (第八章 かくれ里 川上絹布設立 211、212頁)
 桃介の危篤も、ひょっとしたら、貞奴の決断を促すための術策ではなかったか。策ではないにしても、促す結果にはなった。桃介は若い時から結核を患って、壮健ではなかったが、巡業に行く貞奴を見送ったあと、自分でも思いがけず容態が悪化した。危篤はいささかオーバーだったにしても、重態に陥った桃介は、電報を打たせて賭に出た。果たして貞奴が巡業をなげうって帰ってくるかどうかは分らない。貞奴は帰って来た。桃介の目論み通り、或いは願いどおり、病床にかけつけた。
(中略)
 桃介は、電力王を夢見ていた。既に木曾川の水力発電に着手し、電力の需要開発に乗り出して、電力事業を次々に拡大しつつあった。だが事業の拡大、進出には障害も大きい。桃介としては名古屋に腰を据えて全力を傾注し、おのが畢生の事業として成功させたかった。そのために桃介は貞奴が欲しかった。全力をあげてとりくむために、自分には貞奴の協力が要ると思った。その協力を、桃介は妻に期待することができなかった。桃介の妻は、事業とは無縁に育ち、桃介とは別の世界に住んでいるようだった。桃介にとって貞奴以上の理解者が他にあろうとは思えなかった。貞奴を伴侶に、人生の最後の仕上げをしたいのであった。
(中略)
 だが貞奴には芝居があった。芝居を捨ててくれとは言えなかった。桃介は辛抱強く、貞奴の同意を待った。貞奴の女優業を邪魔しながら助けるジレンマと、貞奴をもとめながら、妻と離別できない身の矛盾を、桃介はいかんともなし得ないでいた。貞奴の留守に寝込んだ心の弱りが、桃介に危篤打電の非常手段をとらせた。
 貞奴が桃介の術策にかかったのだとしても、貞奴も自分の本心の見極めがついて、観念した。だが貞奴には、自ら芝居を捨ててしまった敗北感がのこった。その敗北感を押しやるためにも、引退興業の準備は一気呵成にすすめられた。
9 貞が自分から浜田家へきた挿話
(第一章 酒の肴の物語 四歳の駆込寺 21、22頁)
 岡本かの子の短篇『家霊』に片切彫のむつかしさ、息詰まるような仕事の辛気くささなど、彫金家気質の一端が描かれており、貞の預けられていた加納家の空気をも連想させる。鬼ごっこの好きなお転婆娘の貞には、微細な塵埃もきらう片切彫の家より、賑やかな色町の浜田家が好ましく映ったのかもしれない。
 ともあれ、貞は自分から浜田家へ行ったというのだ。
(中略)
 貞が可免にしがみついて離れないので、加納家からの迎えの人は返され、そのまま浜田家へ居ついたと、貞は話していたという。
10 貞が音二郎に引幕を贈った話と、貞の音二郎観・結婚観
イ 引幕
 (第二章 書生演劇 落籍祝い 49頁)
 音二郎は、客席の貴女、紳士、令嬢、お妾権妻と見てとれる人々を、遠慮会釈もなくからかった。だが、音二郎の舞台には不思議な愛嬌があったと言われる。悪態をつきながら、ついた相手の花柳界の住人に人気があった。
 貞に限らず、名妓たちが競って音二郎に入れあげ、音二郎を自分の座敷に呼んだり、引幕を贈ったりした。貞も負けずに着物羽織や、九枚笹の川上家定紋入りの人力車まで贈呈したらしい。
ロ 日蔭者
(第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」 34頁)
 貞は自分を卑下しないために、媚を売らず、我儘を通す。いずれ足を洗うにしても、いかなる名士に落籍されようと、日蔭者になるのだけは厭だと、貞は思い決めていた。
 貞には、花子という実姉があった。貞が生まれる前に元水戸藩家老中山男爵邸へ奉公して沢江と呼ばれ、中山信徴付きの小間使になり、一子を成したという。『華族譜要』によれば、信徴は1846年生まれ、七男六女があり、花子との間に生まれた子は信光と名付けられ、第四子として入籍されている。しかし生母の名は記されていない。
 信光は明治2年生まれ、貞にとっては二歳年上の甥に当り、長じて青木家を嗣ぎ、子爵になった。
 だがこの姉は、不遇のうちに井戸へ身を投げたという。明治44年12月、享年は分らないが、信光の生年から推して、60歳前後と見られる。この姉の存在が、貞のものの考え方にも、影を落していた。
ハ 書生が好き
(第二章 書生演劇 自由童子 38、39頁)
 手続きはともあれ、貞は〈書生が好きだった〉と言い、一目で惹かれてしまった。当の貞はそれ以上の説明はしていない。
 貞が音二郎以前に付き合った人々は、芸者という職業とその環境からいって、伊藤博文を初め、政府高官や実業界の名士、さもなければ芸者衆と縁のある梨園の御曹子達に限られていた。貞はもともと、これらの名士連より〈書生の方が好き〉だったのである。既に名あり家ある名士より、素寒貧の名もなき「書生」といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった。
(中略)
 完成品に興味のない貞にとって、音二郎はまさに荒けずりの硬骨漢に見えた。山から伐り出したばかりのように、そげ立って無骨な青年であり、しかしその活きの良さは、貞の周辺の誰も持ち合わせないものであった。音二郎は貞が漠然と夢想していた自分の相棒にぴったりの若者だった。
(中略)
 貞は20歳そこそこでも、磨きぬかれた一級の芸者であり、音二郎は海のものとも山のものとも先の知れない書生でしかなかった。
11 桃介との遭遇、親交そして破恋
イ 邂逅
(第一章 酒の肴の物語 十五の春 26、27頁)
 貞は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保2年生まれの庄五郎は50歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。
 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のいでたちで乗ったのだろう。
(中略)
 小姓のような装でも、明らかに女と分る貞の乗馬姿が隅田川べりを駆けて人目に立った。
(中略)
 ある日貞は、一人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは50キロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで陽が昏れ、野犬の群に襲われた。絶壁に追い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落されまいとしがみつくのがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。
 どれほどこらえていたのか、吠えたてる犬の声が途切れて、悲鳴に変り、その声も遠ざかっていった。振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたように身が震えた。
 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手にある降魔の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させてくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介と名乗った。
 動顛して礼も満足に言えなかった貞は、翌日菓子折りを持って、慶応の塾舎を訪ねた。
ロ ほのかな初恋
(第一章 酒の肴の物語 十五の春 27頁)
 三田台を散歩しながら、貞は桃介の母もさだという名前だときかされた。貞が生家はとっくに没落したと言うと、桃介は自分だって水呑百姓の子だと笑った。桃介は水呑百姓の子ではなかったが、母のさだが埼玉の旧家から分家して養子を迎えたあと、事業に失敗したので、学資も乏しかった。桃介はその名の通り、桃太郎のようにつやつやとして、意気軒昂な若者だった。
ハ 別離
(第一章 酒の肴の物語 十五の春 28頁)
 明治19年に貞は15歳、桃介は18歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく押しやられた。「お互い道は違っても、いつか立派に成功して、またお目にかかりましょう」
 貞は別れの言葉を告げて、桃介の旅立ちを見送った。
 偉大なる福沢諭吉の娘と、雛妓では勝負にもならない。貞は涙を見せなかった。袂を噛んでうちしおれるのは貞の性格ではない。何が「天は人の上に人を造らず」かと、小石を蹴っとばした。
12 音次郎の出自の述べ方
(第二章 書生演劇 自由童子 40頁)
 川上音二郎は元治元(1864)年1月1日、筑前博多の藍問屋に生まれた。
祖父の弥作は黒田侯の御用商人をつとめ、帯刀を許されたが、二男坊の父・専蔵は遊芸の好きな人で、殊に鼓の腕前は素人芸の域を脱していた。母のヒサは、お父さんのような遊び人になってはいけないと、昔の豪傑偉人伝を音二郎に語ってきかせた。ヒサは、音二郎が十三歳の時亡くなった。病床のヒサは、自分亡きあとは父の許にいないで郷里を出た方がよいと言った。
 音二郎はそれを遺言と心得たのか、母が亡くなると郷里を出奔した。
13 貞の芸者芝居の経験を語る表現
(第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」 34、35頁)
 そのころ貞は芸者芝居に熱中していた。博文の長女・生子の夫・末松謙澄らの演劇改良会が結成され、その会員だった渋沢栄一、大倉喜八郎、福地桜痴などと地元の有力者との協力によって、友楽館という演芸場が新設された。浜田家に近い蠣殻町の津山藩中屋敷跡に建てられ、明治22年6月に落成した。その開場式に頼まれて、貞は『曾我討入』の五郎を演じ、それをきっかけに、毎年暮れになると慈善芝居をやることになった。
(中略)
 『曾我討入』の五郎、『菊畑』の鬼一法眼の他に、『寿曾我対面』の五郎、敵役工藤祐経、『八幡太郎伝授鼓』の八幡太郎源義家、『川連館』(義経千本桜の四段目)の狐忠信、『廓文章』の藤屋伊左衛門など、いずれも男の役ばかり、〈立役が好きで、いつも他人さんが厭がる立役は皆背負い込んで納っていたものです)という。後に本職の女優になろうとは考えてもみず、ただ夢中になった頃を、後年貞は〈千円位(中級官吏の月給約3年分)の切符は引受けて、自腹をきって芝居に出て嬉しがって居たものです〉と懐かしむ。
14 貞のポスターに関する表現
(第三章 梨園の外道 遥かな道 78、79頁)
 一行は5月23日、サンフランシスコに到着した。
(中略)
 町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝されていた。
15 烏森芸者一行の演目
(第四章 1900年パリ万国博覧会 パリのセンセーション 100頁)
 川上一座の外にも、烏森の料亭・扇芳亭の女将・斎藤りゅうの引率する芸妓16歳から27歳までの8人がパノラマ会社に雇われて来ていた。りゅうの帰国談によれば『鶴亀』『道成寺』『活惣』『へらへら』『凱旋踊り』など日本舞踊を出し、道化踊りが受けた。
(中略)
 この一行には、他に料理人、女中、噺家も加わり、奥宮健之が事務担当格でついていた。
16(欠番)
17 帝国座の作りとその客足の記述
(第七章 貞奴一座 帝国座 184頁)
 客席は円形で声のまわりを良くし、2階、3階も石灰にしてどこでも下駄履のまま行けるようにした。
 舞台を広くとって奥行きを深くし、全体としてテアトル・フランセを手本に日本の特色を加味したものであったらしい。
(中略)
 藤沢紫水(浅二郎)脚色の黙劇『天の岩戸』と『ボンドマン』を上演、『天の岩戸』は、宮内省楽人の演奏、若柳吉蔵振付、貞奴が天鈿女命を舞い、音二郎の手力男命が岩戸を開くと、暗夜が明けて一万五千燭の電燈が輝やくという趣向であった。
 3月1日から一般公開し、初日から10日ばかりは満員の盛況だった。だが〈八方から詰めかけた債主連が毎日仕切場(勘定場)へ頑張って毎日の上りを一文残さず引上げていくので、……大部屋連の給金が行き渡らず、衣装小道具の向きへも仕払止め〉(『都新聞』明治43・4・3)となり、この噂を聞いて客足も遠のいてしまった。
18 ゴロ合わせによる引き写し
(第二章 書生演劇 落籍祝い 57頁)
 貞は音二郎の底知れなさと活力に惚れこんだ。けれども音二郎は後のアンケートにも〈娯楽――芸者買い〉(『俳優鑑』明治43・3)と答えて、それを実証するかのように、日本橋の小かね、新橋近江家のとん子、同じく新叶家の清香など名妓といわれた人達が、音二郎との仲を自ら名乗り出た。明治の新聞は芸者の消息を常時記事にしていた。
19 経文のカナ表記の引き写し
(第三章 梨園の外道 Sada Yacco 89頁)
 「ノウマクサマンダ、バサラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ……」
 真言の慈救呪文ならば、浜田家に居た幼い時から覚えて、途中でつかえることはない。
20(欠番)
21 一ツトセ節から官ちゃんと官吏侮辱罪、逮捕のエピソード
(第2章 書生演劇 自由童子 41頁)
 一ツトセ、人の上には人はなき、権利にかわりがないからは、この人じゃもの二ツトセ、
 二つとはない我が生命、捨てても自由がないからは、この惜しみゃせぬ
 この一般に伝わる民権数え唄を、自由童子の一ツトセ節はより挑発的にうたう。
 一ツトセ、人のこの世に生まるるや、民権自由のあればこそ、コノあればこそ
 二ツトセ、不自由極まる世の中も、これも官ちゃんが為すわざぞ、コノ憎らしや
 自由童子こと音二郎は殊更に臨検の警官に当てつけた。聴衆は喜んだが、警察は許しておかない。「官ちゃん」は官吏侮辱罪に当り、ただちに逮捕された。
22 憲法草案作成の夏、貞が水泳を習うエピソード
(第一章 酒の肴の物語 芸者「奴」 30、31頁)
 その夏博文は、神奈川県夏島の別荘へ貞を伴った。
(中略)
 博文はこの別荘で井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らと大日本帝国憲法制定の「夏島草案」を作るために、来ていたのだった。
(中略)
 夏島に近い富岡海岸で博文と井上毅が左右から貞の手をとって水泳を教えた。
(中略)
 海水浴の習慣は、もと御殿医の松本良順が大磯に海水浴場を開いたことにより始まったという。
(中略)
 〈我が国の婦女子がかかる風となりしもまた開化の一端ならんが、男女混同で泳いではいかなる椿事を招くやも知れず〉と、眉をひそめ、海水浴はおろか、学校の教科に体操を加えることすら、おなごにはもっての他と物議をかもした時代だった。
23 音二郎の落選に関する創作的表現
(第二章 書生演劇 川上座 65、66頁)
 音二郎が大衆を相手に演劇会や演説会を催し、独自の選挙運動を展開しても、明治の大衆には選挙権が無かった。選挙権は地租15円以上を納める男子に限られ、その数は成年男子の4パーセントに過ぎなかった。音二郎は自由童子時代の政治家志望を諦めきれず、昔の仲間を当てにしたが、地元の対立候補の動きに無知であった上に読みが浅く、地主と有産階級の選挙にピエロを演じて、袋叩きに遭った。
(中略)
 運動員に一票20円30円の買収費を渡し、自らの愚を棚にあげた。音二郎の知名度は抜群だったが、大衆に選挙権のない明治には、何の役にも立たなかった。
24 川上座を手放す音二郎の心境を推測する創作的表現
(第二章 書生演劇 川上座 66頁)
 〈(略)誰でもいい相手を見付けてよく働いて呉れろと言って、残りのシャンパンを舞台へ撒いてグードバイをしました〉とのちに音二郎は語っている。東京座が氷庫になってしまった例もあり、音二郎としては、たとえ手放しても、劇場以外に転用されたくなかったのであろう。
25 貞奴の「道成寺」好評に関する表現
(第三章 梨園の外道 遥かな道・Sada Yacco 83〜86頁)
 〈気に張りがありましたから、まともにすっかり踊りましたけれど、今考えてみますと自分ながらよく動けたと思う位でございました〉と貞は言うが、そうではなかったらしい。
 音二郎が言うには、花笠の踊りの段で、両手に持った振り出し笠を頭上で交互に廻しながら倒れてしまった。驚いた坊主役の一同が寄って来て輪になって助け起こすと、貞は何事もなかったように舞い続け、咄嗟の機転で穴をあけずにすんだ。
(中略)
 頭さえ二廻りも小さくなる程絶食つづきの舞台なので、目が眩んで倒れたのに、観客はそうは受けとらなかった。
(中略)
 〈内幕が知れたら日本のアクトレスも、愛想をつかされてしまったかも知れない〉と音二郎は後の帰国談に自らを揶揄した。
(中略)
 だが、単に怪我の功名で片づけるには、説明のつかないものがある。この芝居は、空腹のあまりのびてしまったのであっても、極限に追いこまれて必死につとめた舞台だった。一座に与えられた最後のチャンスであり、これをのがしたら、あとはほんとに餓死するしかない。
(中略)
 断崖絶壁に追い詰められた一同の、心を一つにしたぎりぎりの動きだったにちがいない。そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう。
(中略)
 観衆は魅了され、ライリック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しかけた。
(中略)
 一夜明けると、貞奴はスターだった。早朝から問合わせの電話にたたき起こされたホットンの方から出演交渉にやって来た。好条件で話がついた。
26「人肉質入裁判」の貞奴の台詞
(第三章 梨園の外道 Sada Yacco 87〜89頁)
 音二郎は一晩で『ベニスの商人』の翻案を思いついた。
(中略)
 動作は言葉にともなう。日本人の扮装をして日本語の抑揚で喋れば、西洋風の身振りは板につかない。西洋人の動作を真似るには日本語のセリフが邪魔になる。
(中略)
 いっそセリフを度外視して、出まかせでも「スチラカポコポコ」でも、トーンだけ合わせる方がやりやすい。お袖ことポーシャの役を振り当てられた貞奴も、セリフはどうでもいいから、極力エレン・テリーそっくりに演れ、と無理矢理引きずり出された。殆ど『道成寺』一本槍の貞にとって、初めてのドラマである。その上、才六に慈悲を説く長ゼリフがある。
 「ノウマクサマンダ、バサラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ……」 真言の慈救呪文ならば、浜田家に居た幼い時から覚えて、途中でつかえることはない。あくまで肉一ポンドをと言い募る才六に説ききかせるにもぴったりだった。
27 72歳のサラ・ベルナール
(第八章 貞奴一座 隠れすむべく野菊かな 206頁)
 貞奴は辛く苦しくはあってもこの時まで一度も、引退すると言ったことはなかった。それどころか折にふれて、西洋の女優の例を話して、引退説を否定し、抗弁していた。ヨーロッパでは七十二歳になるサラ・ベルナールをはじめ、高齢の女優が活躍しており、貞奴もまだ引退を考えてはいなかった。
28 誓紙と誓詞
(第一章 酒の肴の物語 十五の春 25、26頁)
 明治17年7月20日の日付のある「とらない」と書かれた色紙が、貞の養女・川上富司の許にのこされている。藤田、井上、内海、伊藤と姓のみ4人連名になっていて、宛名は「長谷川お鈴殿」とある。藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝、伊藤博文のいずれも40代の政財界人4人が本挽町の待合の女将を立合人に、〈各自の寵妓をとらないという一種の、不侵情約〉(菊地秋叟『明治史の裏面・名士と名妓』)を結んだ誓紙だそうである。鹿鳴館の最盛期に、公侯伯子男五段階の爵位を500人余りに授爵する華族令が公布される一方で、自由民権運動が次々に弾圧された頃のことだった。
 この色紙に書かれた日、貞は13歳の誕生日を二日前にむかえたばかりの小奴の雛妓でしかなかった。
(中略)
 「とらない」とは、小奴の貞を伊藤博文からとらないと、他の3人が約束したことを意味する。水揚げ前でも、小奴は博文のものと既に公認されていたのであろう。素人の世界ならば婚約に相当する誓紙であった。

「春の波涛」
(第10回放送 オッペケペー シナリオT 278、279頁)
一太郎「奴さんはこの頃さかんに芸者芝居に凝ってるそうじゃないか?」
貞「ええ、今度浜町に出来た『有楽館』でね、この年末には慈善芝居をやるってんで、あたしは鬼一法眼、それから八幡太郎義家、対面の工藤……男役ばかりやってるんですよ。お願いしようかしら……切符、五百枚くらい、捌いて頂けない?」
(中略)
一太郎「五百枚?(その数に驚くが、鷹揚に受けて)いいだろう、いつでも持って来なさい」
貞「ワァ、嬉しい……ここのお帳場に置いておきますから、帰りに女将さんから受け取って下さいね……あたし、千円ほどの切符引き受けちまってさ、もうあちこちのお客さんに頼み回ってるの」
一太郎「千円とはね……さすが、葭町一の売れっ子芸者だ、やることがデカい。さ、飲んだ、飲んだ!」
(第27回放送 おお、サンフランシスコ シナリオV 184〜186頁)
サンフランシスコの街角
 『オットー・アンド・ヤッコ』と書かれたポスターが貼り付けられてある。音二郎だけではなく貞の芸者姿の全身像がデカデカと(略)貼られているのである。
(中略)
貞「どういうことなの、あんた?……どうして、あたしの広告ばかり、あちこちに貼ってあるのかしら?」
(中略)
貞「ちょいと、高瀬さん、あんた、あちこちにあたしの広告ばかり貼り付けて、一体どういうつもりなんですか? あたしゃ、役者じゃないんですよ!」
高瀬「奥さんにも舞台に出て頂くことになっちょりますけえ、どうぞ、そのおつもりで……」
(第29回放送 女優誕生 シナリオV 235〜237頁)
 貞、(略)必死で這い起きる。
(中略)
 貞、気力だけで踊りつづける。
 その姿からは何か鬼気迫るものが発散され、それが恋に狂う女の執念にも似て、凄絶である。眼を奪われて見入っている外人たち(略)。
(中略)
 全身の力を振り絞って激しく舞う貞(略)。
(中略)
 客席から割れるような拍手。
 全員が総立ちで手を叩いている。
(中略)
ホットン「(略)こんなに素晴しい演技と舞踊を見たのは初めてだ!(略)」
(中略)
ラナ「(略)もっと沢山の人たちにあなたの演技と踊りを見て貰いたいのです。
(略)」
(中略)
ナレーション「翌日のシカゴ市内の新聞は、こぞって一座の芝居、及び舞踊を絶妙無類と最大級に褒めたたえていた……(略)」
1(第33回放送 巨星墜つとも シナリオW 62、63頁)
琴次「(略)…貞ちゃんは今や世界的の女優だもんね。元の芸者には戻れないよね?」
シノ「これからは、芝居が忙しくなるからね、何てったって女優だもん」
貞「女優々々って言わないで……外国じゃ行きがかり上仕方なく舞台に上がったけど、日本に帰って来てまであんなことをする気はありませんからね」
(中略)
貞「あたしはもともと役者でも何でもないんですからね、言葉の分らない外国でなら何とか誤魔化せても、日本のお客さまに見せるような芸は持ち合わせていないんです」
琴次「でも残念だわね、せっかくフランスから勲章まで貰って、女優として評判を取って来たのに……」
(中略)
貞「何とかかんとかうまいことを言って、またぞろあたしを舞台に上げようたってそうはいきません。あちらじゃよんどころなく役者の真似事をしたけど、日本に帰ってまで恥をかきたくないんだから!」
音二郎「恥だなんて、おまえの芸は立派に……」
貞「(遮るように)立派なもんですか……あたしはそれほど自惚れちゃいません。(略)」
2(第34回放送 揺らぐ心 シナリオW 95頁)
●介「座長、どういうんですかねえ?……いつもならせっかちに休む間もなく動き回って、帰朝公演の準備に取りかかっている筈なのに?」
貞「(ほんのりと微笑を漂わせ)心配しなくたって、考えてるわよ。演劇改良のために、今、自分が何をやれば一番いいか……今度は前のように失敗は許されないから、真剣に、慎重に考えているのよ。きっと……」
3(第34回放送 揺らぐ心 シナリオW 106〜109頁)
音二郎「(略)女優になれる女なんて、おまえさんをおいて、他に誰も居やしないんだよ!」
貞「……」
音二郎「……忘れちゃいないだろう? アンドレ・ジッドとかいうフランスの小説家がおまえさんの舞姿に涙を流して、ギリシャ悲劇のエスキロスを見るようだって、おまえさんを賛えていたんだよ……」
貞「西洋と日本じゃ違うでしょう?」
音二郎「違うもんか……おまえさんには力が備わってる。美も備わってる……日本で女優の草分けになるんだ! 草分けとしての栄誉をおまえさんが担うんだ……
(略)」
(中略)
貞「あたしの芸は、日本のお客様の前で見せられるものではありません!」
(中略)
 熱意の固まりのように迫る●介に、貞は思わず頷きそうになるが、
貞「ちょっと、待って……もう少し考えさせて!」
 と逃げるように足早やに歩き出す。
●介「貞さん……(無念そうに見送る)」
 走る電車の中
 シートに腰をかけた貞、深く考え込んでいる。
(中略)
 貞、仕方なさそうに微笑する。だが、その微笑の中に決意が宿っている。
貞「みんながこんなに……ありがとう、あたしやってみるわ……ええ、舞台に立ちます!女優になります!」
琴次「貞ちゃん……!(思わず貞の手を掴み感動して見詰めている)貞ちゃん、よかったわね、がんばってね……」
 他の芸者たちも熱い眼差しで微笑を送っている。
貞「(略)みんなのためにも、それから……音さんのためにも、頑張らなきゃ、ね!」
茅ケ崎の海岸
 貞、海に向って潮風に髪をなびかせながらセリフを喋っている。
 波の音に逆らうように、声を張ってセリフを言いつづける。
 その様子を少し離れた漁船の蔭から見詰めている音二郎と●介。
音二郎「(昂奮を抑えがたく)さあ、いよいよ日本初めての女優の誕生だ……女優第1号の出発だ!」
●介「よかったです……きっとうまくいきますよ!」
 貞の声、ややもすれば波の音に時々掻き消されそうになる。
 だが貞は、それに抗うように、懸命に『オセロ』鞆音役のセリフを喋りつづけて――
(第35回放送 女優第1号 シナリオW(貞奴初舞台)116頁)
 各新聞の劇評記事が重なりあって
 『近来演劇界の大進歩――川上正劇“オセロ”!』
 『貞奴の鞆音、さすが気品といい仕種といい、申し分なし!』
 『欧米の好評もむべなるかな――貞奴、楚々たる美、大胆なる演技、本邦初舞台とも思えず!『川上の事業、ついに成果をあらわす!』
等々の絶賛する文章が連なって躍る。
ナレーション「『オセロ』は貞奴の初舞台という話題性も大いに預かって、各新聞から絶賛された……」
1(第36回放送 吹きすさぶ嵐 シナリオW 137、138頁)
ナレーション「明治36年11月の本郷座公演の『ハムレット』は音二郎の劇場改良の試みも成功し、貞も『オセロ』に引きつづきすっかり女優としての人気を定着させていった……」
2(第36回放送 吹きすさぶ嵐 シナリオW 160頁)
貞「(略)何から何まであたし1人の肩に背負わされるんじゃ、もうたまらないわ。あたし以外にも何人もの女優が舞台で活躍してくれて、初めて日本の演劇界は欧米の水準に近づくことが出来るんですもの、1日も早くそうなって欲しいの」
桃介「でも、そうなると、貞さんは今ほど人気を独占できなくなるかもしれない」
貞「あら、構わないわ……どんな女優が出て来ようと、あたしはあたしですもの、一向に平気よ、そんなのは!」
桃介「そうか……さすが、女優第1号、大した自信だ!」
と見返して、深く頷くのである。
3(第37回放送 女優学校は…シナリオW 184頁)
伊藤「いや、わしと別れたからよかったんじゃ。おまえはもともと男なんぞ必要としとらんオナゴかもしれんな……男の手を離れて、どんどん大きくなっていく……」
貞「とんでもございません。殿方が居なかったら、あたしなんぞ、何ひとつ出来やしません。
女優になったのも音二郎があたしを押し上げてくれたからです」
伊藤「しかし、今じゃ立派に一人歩きしておるじゃないか……音二郎が居なくたってもうおまえは立派な女優なんだ」
貞 「……」
伊藤「音二郎の道具なんかじゃない、おまえはおまえ、貞奴という女優なんだ……」
貞「御前にそう仰言られると、これまで以上にやらなければと、身が引き締まります」
1(第37回放送 女優学校は……シナリオW 164、165頁)
葭町・『浜田屋』・二階の座敷
新聞記者の前に貞がサバけた口調で話している。
貞「サラ・ベルナールっていや、あなた、そりゃもう大したものでござんすの。72歳もの高齢で、おまけに胸を患っていながら、舞台に出ればそんなことなんぞ微塵も感じさせないような堂々とした演技で……そういう立派な女優がこの先、日本に1人でも育ってくれれば、女優養成所の目的はかなったようなものでござんすわ」
(中略)
記者「それは面白い……しかし、貞奴さんが元芸者だから、世間では芸者の養成所のようにならないかって心配してる向きもあるんですがね?」
(中略)
同・階下の茶の間
(中略)
琴次「貞ちゃんったら、すっかりおカンムリで記者に突っかかってたわよ。音さん、応援に行かなくてもいいんですか?」
音二郎「(寝転がって柏餅を食べている)役者を河原乞食と見る古い固定観念が抜けきれないから、女優養成所なんていうと、眼の色を変えて騒ぎ立てるんだろうよ……ま、これも通過せねばならん過程だな」
2(第37放送 女優学校は……シナリオW 178〜181頁)
一枝「女優養成所なんかに通うような女は社会の風俗を乱す張本人だって……誘惑の多い世界に引きずり込まれて、墜落するのが落ちだって言われました……」
貞「だからね、皆さんは余計気をつけなくちゃいけませんよ。世間の眼がそのように偏った見方をしてるんですからね、やっぱりそうだったって言われないように、身持ちを固くして、決して軽はずみなことはしないようにね。(略)」
真剣に悲壮に頷いている生徒たち。
ナレーション「帝国女優養成所は開設されたが、世間の眼は偏見に充ちていた……」
同・教員室
音二郎が新聞の記事を読んでいる。
音二郎「『アバズレ収容所』とまたの名を呼ばるる女優養成所は、いよいよ15日午後1時をもって天下に醜態を明らかにすることとなりたり。世の公序良俗を乱し、良家の子女をいたずらに堕落させる『アバズレ収容所』は、川上音二郎が音頭をとり、妻の貞奴が主任となりしが、この両人はいかに責任を取るにやあらん……よくも書きやがるもんだねえ、こんな中傷記事を!」
(中略)
貞「本当に新聞がそんな調子なんだから、どうしようもありゃしないわ。欧米では当り前のことなのに、全く日本って国は、どうしてこんなに遅れてるのかしらねえ!」
(中略)
貞「そんなことまで書かれて、純真な生徒たちがどんなに傷つくか知れやしない。それでなくても、みんな、いちいち家柄や出身をホジくり回されて、気が立ってるっていうのに……何故、もっと大らかな態度で見てくれないのかねえ!……女優養成所は新演劇の発展のために今こそ必要だってことが、どうして分らないのかしら」
音二郎「その通り……いや、貞さんの言う通り!」
貞「欧州の演劇界の発展は、俳優の養成所や学校がしっかりしてるからだってこと、口が酸っぱくなるくらい説明してるのに、ちっとも分ってやしない……これからは女優が活躍しなければ日本の演劇界は壁を乗り切れないっていうのに!」
(中略)
同・教室
 貞が授業を行なっている。
 熱心に聴いている生徒たち。
ナレーション「世間の無理解にもかかわらず、貞の熱意に支えられて女優養成所は着実な歩みを続けた」
1(第44回放送 醜聞 シナリオX 109頁)
貞「●介さん『帝劇』に出ましょう! 一緒に、『トスカ』をやりましょう……あたしたちは何にも財産はないけど、この体で覚えた演技だけは残されてるわ……それをこれから思いっきり2人で花咲かせるのよ。音二郎も天国からそれを見守っててくれる!」
●介「貞さん……(涙ぐんでいる)」
貞 「(見えないものに対して誓いを込めて)あなた……やります……『トスカ』をやります……命懸けで取り組んで、きっと成功させてみせます!」
 誰もいない客席はシーンとしているが、貞はキッと眼を据えて、どこからか聞こえてくる熱い拍手を聴いているようである。
2(第45回放送 桃介座 シナリオX 111〜114頁)
 爆発するような拍手と共に幕が引かれる。
 同(『帝国劇場』)・客席
 桃介、盛んに拍手している。
 房子は儀礼的に、せい子もまあまあといった顔で拍手。
 覚造、本気で拍手している。
 抱月も盛んに拍手。
 傍の須磨子、ジロッと批難するような眼を抱月のほうへ向け、
須磨子「先生!」
抱月、慌てて手を叩くのを止める。
 だが、周囲の拍手は鳴り止まない。
(中略)
ナレーション「貞奴のトスカは頗るつきの好評だった……」
同・ロビー
(中略)
抱月「なかなか見応えがありましたよ」
桃介「有難う。今を時めく須磨子女史と抱月先生に観劇して貰えたと知れば、俳優たちもさぞかし喜びましょう」
(中略)
精養軒・店内
 ビヤーを飲み飲み軽い食事で歓談している一同。
せい子「あの衣装はさすがだわねえ。貞奴がパリの万国博覧会の会場で芝居をやってた頃に知り合った栗野大使の奥様がね、『トスカ』をやるんならこれをお使いなさいってよこしたんですってよ……よく似合ってたわよねえ!」
抱月「まったくその通りです。ああいう衣装を着こなすというのは大変なことですよ。それを易々とやってのけるんだから、貞奴という人は僕が思ってたよりもなかなかの女優では……」
須磨子が急に咳払いとも何ともつかぬように咳込む。
抱月「どうしたの?……風邪かね?」
須磨子「いいえ……あの、おいしいわね、このお料理」
抱月「そりゃ、そうだよ、ここの料理は日本一だもの……(一同に)僕たちはいま貧乏をしてましてね、爪に火を灯すように暮してるもんですからね……(急に元の話題に戻り)やはり、貞奴は向こうの舞台をよく観てるんですね。発声法なんかはダメだけど、歌舞伎役者に較べたらはるかに声も通るし、近代演劇の呼吸が感じられる」
せい子「あたしもね、思わずウットリ惹き込まれちゃった」
覚造「帝劇の女優たちが幼稚だから、よけい引き立つんだな、貞奴が」
抱月「スカルピアを殺すところがいいね。
あの失神するところから次第に殺意に変わっていく表情には思わず眼を見張るものが……」
須磨子、また咳払いともつかぬ咳込み方をする。
(中略)
抱月「でも、いい女優ですよ、貞奴もあれはあれで……」
須磨子「(癇癪を起して)やめて下さい、先生……聞きたくないわ!もう貞奴のことなんか話題にしないで下さい!」
(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 169、170頁)
 各紙の文芸欄、ゴシップ欄が入り乱れて――
 『サロメ役者はどっち−−須磨子と貞奴?!』
 『気品に満ちた貞奴と肉的な須磨子……どちらに軍配が……?!』
 『須磨子80点、貞奴60点……!!』
等々の見出し、記事がダブッて――
(中略)
名古屋・『千歳座』・表(8月)
 『芸術座――サロメ』の看板と松井須磨子の似顔絵の前で●介が唖然としたように棒立ちになっている。
 ナレーション「ところが翌々月になって、貞奴の『サロメ』と須磨子の『サロメ』が名古屋は『御園座』とすぐ近くの『千歳座』で同時期に上演という珍事が起き、文字通りの『サロメ』競演となってしまった……」
(第45回放送 桃介座 シナリオX 126、127頁)
住職「赤穂浪士の菩提寺であるこの寺に、役者風情の銅像などを建てるのはもっての他というわけでしてな」
貞「そう……(スッと顔が凍りつく)そういうことだったの!」
(中略)
貞「可哀そうに……死んだ後までも役者風情とか言われて……あんなに一生懸命に欧米並みに役者の地位を上げようとしたのに、日本じゃ未だにこの始末なんだもの、本当に悔しいったらありゃしない!」
1(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 162、163頁)
同(『浜田屋』)・2階の1室
 貞が窓のほうに向かって立ったまま考え込んでいる。
 ●介が来ており、厳しい眼で詰め寄るように、
●介「今引退したら、松井須磨子に人気をさらわれてそれで引退したと世間では取りますよ……それでもいいんですか?」
貞「でも、もう若くはないんだし、いつまでも舞台に未練たらたらしてるよりも潔く身を引いたほうがという気も……」
●介「年だって言うけど、サラ・ベルナールは70まで現役で舞台を踏んだって……貞さんの口癖じゃないか!」
貞「そりゃね、欧米じゃいくら女優が年を取ったって、芸さえうまければ立派に世間も認めてくれるけど、日本じゃねぇ……いっそ、もう一度欧州へ行こうかしら?」
2(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 176頁)
 福沢邸・房子の住まい・座敷
 桃介が帰って来ており、電気アイロンでハンカチの皺を伸ばして見せている。
桃介「便利だろう? 一々炭火なんか入れなくたって、電力で綺麗に布の皺が伸ばせる……電気の利用範囲はどんどん広がって行くよ、房さん」
だが、傍の房子は、そんなアイロンなどには関心はなく、ジッと穴のあくように桃介の顔を見詰めている。
3(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 179頁)
 同(『喜楽座』)・楽屋の前の廊下
 貞・麟介と共に溜め息をつきながら帰ってくる。
 すると座員のひとりが待ち兼ねていたように、
座員「電報が来てますよ、貞さん」
貞「あら……(受け取って)どうも有難う」
 そして、怪訝そうに広げ電文に眼を通す。
貞「(読んで)ヤマイニタオレタ、シキュウオイデコウ……モモスケ」
麟介「え?(思わず覗き込む)」
貞「(顔色が変わっている)どうしたんだろう?……病気だなんて……(ハッとして)あの時、風邪をひいてたから……」
4(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 182頁)
 走る列車の中
貞、ギュッと前方を見据えて坐っている。
貞の声「これがあたしの愛の証しなの……桃介さんに対する愛の証しなの……麟介さん、許して!」
5(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 185頁)
 広尾・福沢家・房子の住まい・画室(翌日)
 房子が絵絹の上に牡丹の花びらを描きながら、チラッと鋭く眼を上げる。
 せい子が来ており、肩をすくめてフフフッ……と笑っている。
せい子「電報の効果ありよ……長距離電話で問い合わせたら、昨日から貞奴は休演ですって……」
6(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 186頁
 名古屋・名古屋電燈株式会社・社長室
 迷うような眼で窓際を歩き回っている貞を、桃介が鋭い眼差しを据えて窺っている。
桃介「貞さんは計らずも選択をしてしまったんだよ……そうだろう? 偽電報を誰が打ったにしろ、貞さんは舞台を捨ててこっちに来てしまったんだもの!」
貞「でも?……でも、一体誰が……?」
桃介「女優の仕事よりも僕を選んだ……貞さんの心がそう命じたんだ!」
貞「ひどいわよ……あんな偽電報、本当にひどいわ!」
桃介「どっちにしろ、もう取り返しがつかないんだからね……今更桃介は元気だったって帰れやしないだろう? 九州興行はもう中止にするんだね」
貞「あんまりよ……一体誰なのよ、あんな罪作りな電報を?」
桃介「もし、損害賠償を請求されたら、僕が払ってあげるさ……」
貞「桃介さん、あの電報を打ったのは誰?……心当たりはないの?」
桃介「神様だろう……」
貞「神様ですって?」
桃介「神様が貞さんの心を試したんだよ、舞台をとるか、僕をとるか……さ、もう迷うことはない、貞さんの心がそう決めたんだ。女優なんかキッパリやめるんだ……最後の豪華絢爛の引退興行をやってそれでおさらばだ!ハッハハハハ……」
7(第47回放送 女の中の夜叉 シナリオX 188頁)
 往来
 貞、ひとり力なく歩いていく。
ナレーション「もはや引退は避けられぬと、追いつめられる思いの中で、貞も決意する以外にはなかった……」
(第5回放送 獄のうちそと シナリオT 146〜149頁)
イト「お姉さん、あたし、このうちの子供になっちゃいけない?」
貞「あら、イトちゃんはそのほうがいいの?」
イト「イトも、大きくなって、お姉さんみたいな綺麗な着物を着て、御座敷に出たいの」
(中略)
イトが更に強く貞にかじりついて、
イト「お姉ちゃん、あたい、この家に居たいよう……うちに帰りたくないよう!」
貞「本当?ずっとこの家に居たいの?」
イト「うん、あたいはこの家の子供になりたいよう!」
 甘えるように泣きじゃくりながら、貞の胸に顔をこすりつけて来るので、貞も愛しさを掻き立てられて、
貞「じゃ、ここに居なさい……この家の子供になりなさい!(ギュッと抱き締める)おっ母さん、いいでしょう? この子をあたしの妹にしようよ!」
(中略)
貞「おタネさん、いいでしょう? どうせ、うまくいかないんだったら、あたしに預けて……この子は妹として、あたしがちゃんと面倒を見ますから!」
イト「お姉ちゃん……(ヒシと抱きついてくる)」
(第1回放送 自由は死せず シナリオT 9、10頁)
葭町『浜田屋』の女将亀吉(55)と抱えっ子の貞(20)が中央のます席に座って見物している。
(中略)
貞「だって、お客はみんな喜んでるじゃないか……これからの演劇はこれが本道になるっていうんだよ。本当のことを本当らしく、芝居に仕組むのが新しい演劇のやり方なんだって!」
亀吉「おまえ、だいぶイカレてるねえ?」
貞「おっ母さん、見て……あの引幕、あたしが贈ったんだから!」
 舞台の両袖に分れている引幕。
亀吉「そんなに入れあげる程の男かねえ、全く!」
(第11回放送 めぐりあい シナリオU 17、18頁)
蒲団に貞の姉の松子(38)が身を起こしている。
(中略)
松子「(略)……本当に情けない躰になっちまってね、元気なうちは、旦那さまもしょっちゅう来てくれたけど、病気になってからは傍へ寄りつきもしない。わずかなお手当でこんな裏店に抛り込まれて……それもこれも、あたしが日蔭者の身の上だからだよ」
(中略)
松子「おまえもね、日蔭者になっちゃおしまいだよ……いくら芸者だからってね、男のオモチャで終ったらいけないよ。男が出来たら、ちゃんと籍を入れて、女房におなり……そうしなけりゃ、あたしの二の舞だからね!」
貞、その言葉が胸に響いて背中を揉む手を止める。
松子、その貞の手をギュッと掴み、
松子「いいかい、貞?」
 手を引っぱられて、貞は松子と向き合う。
 松子の眼ににじんでいる涙。その眼を強く貞に据えて、
松子「おまえが芸者に貰われて行った時、あたしゃ、悲しかった。中山男爵の囲い者になっているあたしと同じような身の上になりゃしないかと案じられてね……」
貞「姉さん、大丈夫よ、あたしは……」
松子「そりゃ、おまえも今は葭町一の売れっ子芸者で幅を利かせてるかもしれないけど、所詮、それも若いうちだけのことだよ。先のことをよーく考えておおきよ。女はいい男にめぐり会って所帯を持つのが一番。芸者だからって、それができない筈はないんだからね、あたしみたいにならないどくれ! 貞、いいかい? あたしみたいになっちゃ駄目だよ!」
 泣きながらギュウギュウと手を握り締める松子に、貞は胸を衝かれて懸命に頷いている。
貞「分ったよ、姉さん……よーく分ったから!」
(第11回放送 めぐりあい シナリオU 21頁)
貞「おっ母さん、あたし、誰かと所帯を持ちたい……」
亀吉「え?……何だって?」
貞「誰か、見込みのある書生さんと……」
亀吉「(ジロリと睨んで)書生だって?……おまえ、いまだにあの福沢家へ養子にいった奴のことを……?」
貞「そうじゃないの……あたしはね、あんまり偉い人じゃなくて、書生さんが好きなの……」
亀吉「冗談お言いでないよ。おまえはね、伊藤の御前という立派な方が後楯に付いて下さってるんだよ。それで何の不足があるってんだい?」
貞「でも、伊藤の御前と所帯を持つわけにはいかないし……あんな年寄りの功成り名を遂げた人よりも、あたしはまだ海のものとも山のものともつかないような人が好きなの……そんな人の面倒を見て、出世させてやりたい!」
亀吉「何を言い出すのかと思ったら、この子はまあ……それじゃ、わざわざ苦労をしょい込むようなもんじゃないか?」
貞「おっ母さん……(夢見るような眼を漂わせ)好きな男がだんだん偉くなっていくのを、蔭で支えてやるって、随分と気持がいいもんだろうね? 女の幸せって、そういうところにあるんじゃないかしら?」
(第2回放送 馬上の女 シナリオT 80〜82頁)
同(『浜田家』)・玄関口
 貞が着物の上に股裁ちを穿いた恰好で出ようとしている。
(中略)
 隅田川の土手
貞、駈け足で走らせている。気分よく、髪のほつれを風になびかせながら、調子に乗って走らせていると、急に馬が何を驚いたのか、ヒヒーン……と跳び上がり暴れるようにメチャメチャ走りを始める。
貞「どう……どう!」
 と必死にタテガミにしがみつくようにして、綱を引き締めようとするが、馬は荒れ狂うばかり。貞は振り落されそうになる。
(中略)
 馬は手に負えない。背中の貞を振り落そうとするように弾ね狂い、荒れ狂い、走り回る。
(中略)
 咄嗟に桃介、その前に両手をひろげて立ち塞がる。
(中略)
 桃介は近づく馬を睨みつけて、両手をさし上げたまま動かない。
(中略)
 ところが、どうした訳か、馬は桃介の前まできてピタリと止まるのである。
(中略)
 まじまじと見詰めている貞。
 桃介も一瞬吸い込まれるように見詰めているが、降りようとする貞に手を貸してやる。
桃介「お怪我はありませんか……?」
貞「はい……」
(中略)
貞「本当に有難うございました……助かりました」
(中略)
貞「お名前を……お名前を教えて下さいませ!」
桃介「名前ですって?ハハハハッ……名乗るほどの者じゃありませんよ」
貞「でも、せめてお名前くらい!」
桃介「見ての通り、名もない書生です!」
 軽く微笑を残して去っていく。
 何か深く胸を衝かれる思いで立ちつくしている貞。
(中略)
貞「あたしを助けて下すったお方……慶応義塾の書生さん……岩崎……桃介さん!」
(第3回放送 遊戯会 シナリオT 94〜96頁)
 芝・増上寺・境内
 町娘ふうの矢絣の着物に桃割れを結った貞と、桃介が山門から入って来る。
(中略)
桃介「じゃ、家が没落しちまったんだな?」
貞「あたしの家はね、芝神明で薬屋と質屋を兼ねた大店で、屋号を『小熊』って呼ばれてたんだけどさ、旧幕時代にはあたしのお爺さんって人が両替町で町役なんかもやって、結構幅を利かせてたんだって……ところが、あたしのお父っつあんって人が養子でね、これが仏の久さんって言われるくらいお人好しの気の弱い人だったらしいの。それで、他人の証文に判をついたり、騙されたりして……」
(中略)
桃介「君に変な旦那が付いてしまわないうちに、何とか出来ればいいんだが、今は無理……そのうち、僕が大金を儲けたら……」
貞「大金を儲けたら?」
桃介「僕は成功する……事業家になって成功してみせる。その時は必ず君を自由の身に!」
貞「本当?……桃介さん、本当?」
桃介「本当だとも……」
貞「桃介さん……(感動に息が詰まりそうになる)」
(第7回放送 小奴狂乱 シナリオT 198〜201頁)
桃介「貞さん……(立ち上がって来て、傍に坐る。手酌で酒を注いで飲む)10年たったら、また会おう……」
貞「10年?」
桃介「その頃には俺も一端の実業家になってる筈だ……10年たっても貞さんはまだ20代の半ばじゃないか、福沢家から籍を抜くわけにはいかないだろうけど、貞さんの面倒を見るくらいは出来る。その時は芸者を辞めてもいいし、つづけていたかったらつづけてもいい。とにかく、俺が貞さんの旦那になるのだ……」
(中略)
貞「10年なんて、待てやしない。そんな話はあたしのほうが願い下げだ。その頃は、あんたよりももっといい男つくって、その人と幸せに暮らしているよだ……ふん、何がアメリカだ!」
 裾を蹴るように憤然と立ちあがって、
(中略)
 貞はすっかり逆上してとび出していく。
(中略)
近くの道
 貞、眼を宙に浮かせて乱暴な足取りで歩いていく。
貞「何がアメリカだ……馬鹿にしやがって!」
(木履を放り投げる。)
 雪がやんだばかりの道に裾を引きずり、汚れていくのも平気である。
(第1回放送 自由は死せず シナリオT 11、12頁)
 音二郎「九州は筑前博多の生まれ。家は代々の藍問屋、博多の川上屋と言えば、黒田侯の御用商人をつとめ、苗字帯刀を許された知る人ぞ知る名家の出。さりながら、わたしの父親と申すのが、音に聞こえた道楽者。飲む打つ買うは言うに及ばず、東京から来た歌舞伎役者を贔屓にしてこれにすっかり入れ上げたものですから堪りません。あれよあれよ、といううちに身代も傾き、長男の身の上ながら、わたしは家を出ることに相成りました。どうせあのようなケチな田舎町、この文明開化の御時世に男子たるものくすぶっておれるところではない。政治家になるためには、東京に出るに限る。大閤秀吉さまのことを思って頑張っておくれとの亡き母の遺言、胸に秘め、故郷を振り返れば社の森に光る月影。男子ひとたび志を立て、郷関を出ず。学もし成らずんば、死すとも帰らず!」
1 (第10回放送 オッペケペー 台本 76頁)
一太郎「奴さんはこの頃さかんに芸者芝居に凝っているそうじゃないか?」
貞「ええ、今度蠣殼町に出来た『友楽館』でね、この年末には慈善芝居をやるってんで、あたしは『菊畑』の鬼一法眼、それから『八幡太郎伝授の鼓』の八幡太郎源義家(略)男役ばかりやっているんですよ」
(中略)
貞「……あたし、千円ほどの切符引き受けちまってさ、(略)」
2 (第10回放送 オッペケペー シナリオT 278頁
貞「ええ、今度浜町に出来た『有楽館』でね、この年末には慈善芝居をやるってんで、あたしは鬼一法眼、それから八幡太郎義家、対面の工藤……男役ばかりやってるんですよ。お願いしようかしら……切符、五百枚くらい、捌いて頂けない?」(第27回放送 おお、サンフランシスコ シナリオV 184、185頁)
 サンフランシスコの街角
『オットー・アンド・ヤッコ』と書かれたポスターが貼り付けられてある。音二郎だけではなく貞の芸者姿の全身像がデカデカと(略)貼られているのである。
(中略)
貞「どういうことなの、あんた?……どうして、あたしの広告ばかり、あちこちに貼ってあるのかしら?」
(第30回放送 洋行中の悲劇 シナリオV 248、249頁)
貞「そうだったんですか!じゃ、奥平さんも万国博覧会に?」
奥平「『かっぽれ』とか『ヘラヘラ踊り』とか『凱旋踊り』とかね……言ってみりゃ、マネージャー兼通訳ってところだが」
音二郎「しかし、驚きましたね、先生が……烏森芸者を引き連れて……」
(第38回放送 ふるさとの山河は遠く シナリオW 199頁)
ナレーション「『帝国座』は日本でも他に類を見ないほどの豪華な劇場で、パリのグランドオペラ座を模して(略)」
(第18回放送 華燭 シナリオU 199頁)
亀吉「噂って……?」
琴次「フランスから帰って来てからも、日本橋の小かね、新橋大宮のトン子、新加納屋の清子……」
シノ「まぁ、みんな名の聞こえた芸者ばっかりじゃないか……」
(第7回放送 小奴狂乱 シナリオT 184、185頁)
 床の間に不動明王の掛軸や御札が飾ってあり、その前に正座した亀吉が経をあげ始める。
亀吉「ノウマクサマンダ、バサラザン、センダ、マカロシャダ、ソワカヤ、ウンタラタ……」
(第2回放送 馬上の女 シナリオT 64、65頁)
 音二郎「さて、ここで諸君に我輩自作の『民権かぞえ唄』を披露し、暫しの気散じにかえたいと思う……(息を整え、音吐朗々と歌い出す)
 一つとせ、人のこの世に生まるるや
 民権自由のあればこそ
 コノあればこそ……
 二つとせ、不自由極まる世の中も
 これも官ちゃんのなせる業
 コノにくらしや……
 警官がここぞとばかり臨検席から出び出して来る。
(中略)
警官「官吏侮辱じゃ……官ちゃんがどうのというのは、官吏侮辱!」
(中略)
 聴衆たちは面白がって、
(中略)
 聴衆たちが騒ぎ立てる。
(中略)
 ワイワイガヤガヤと非難と不満の声の中を、音二郎は警官に手を掴まれて引っ立てられていく。
(第2回放送 馬上の女 シナリオT 74〜76頁)
 熱海の旅館・離れの一室
(中略)
伊 藤の前に金子堅太郎と伊東巳代治がきちんと洋服を着て控え、政治向きの覚書きのようなものに眼を通している。
(中略)
金子「この華族令が制定されれば、廟堂の風通しも大いによくなりましょうな。実力もないのに家柄だけで大臣になった連中なんぞは、国家の近代化の足を引っ張るばかりです!」
伊藤「おぬしらも、遠慮なく意見を言ってよいぞ、これは飽くまでもまだ草案だからな」
(中略)
 熱海の海岸
 胸まで海水に浸った伊藤博文が貞の躰を掴まえ、泳ぎを教えてやっている。
(中略)
 ナレーション「この当時、日本にはまだ海水浴の習慣は根づいていなかったが、伊藤は率先してこの新しいスポーツを日常に取り入れ、息抜きにしばしば海水浴に興じたのである……」
1 (第12回放送 川上一座旗揚げ シナリオU 33頁)
ナレーション「我が国初のこの選挙は極端な制限選挙で、選挙権を有するのは直接国税15円以上を納める25歳以上の男子と限られ、その数は国民総人口のわずか1パーセントにしか過ぎなかった……」
2 (第25回放送 音二郎錯乱 シナリオV 114頁)
増谷「(略)川上音二郎の芝居にいくら人が集まったって、その中に選挙権のある人がどれだけいると思うんだ?(選挙権所有者名簿を広げて)この東京第12区で直接国税15円以上納めた成年男子は、約550人。みんなこのあたりの地主か網元か、豪商ですよ……そういう人達がのこのこあんたたちの芝居を見に行くと思うのかね?」
(中略)
増谷「(略)川上音二郎の芝居を見て喜んでいる女子供に選挙権はないんですよ。
平林九兵衛、高木正平っていう海千山千の対立候補を向うにまわして、票を奪い取ろうってえのに、客寄せに芝居やって、それでいくら演説ぶったって、あんた、そんなものは茶番よ!遊びじゃないんだよ、選挙ってもんはね!」
(第26回放送 日本丸出帆 シナリオV 155頁)
神田三崎町・『川上座』・舞台(深夜)
(中略)
音二郎「本当にアッという間だったな……たった3年も持ちこたえられなくて……」
立ち上がり、残りのシャンペンを少しずつ舞台上に撤いていく。
音二郎「誰でもいい、相手を見つけてこれからも働いてくれろや……決して、物置き倉庫なんぞに落ちぶれるんじゃないぞ?……いいな、グッバイ……グッバイ!」
(第29回放送 女優誕生 シナリオ3 235〜237頁)
(貞が振り出し笠を持って「道成寺」を踊る場面が映しだされる)
 大詰めの貞の激しい踊り。
 だが、躰に力が入らず、バランスを崩してヨタヨタと倒れてしまう。
(中略)
 小坊主に扮した粂蔵、丸山たちが貞を助け起こす。
貞、セリフで巧みに誤魔化し、必死で這い起きる。
貞「おのれ、可愛さあまって憎さ百倍……恨めしや、山三殿……恨めしや……」とまた踊りにかかるが、あえなく倒れる。
 小坊主たち、ワッとばかり駈け寄り、また助け起こす。
 貞、気力だけで踊りつづける。
 その姿からは何か鬼気迫るものが発散され、それが恋に狂う女の執念にも似て、凄絶である。
 眼を奪われて見入っている外人たち(略)。
 ホットンもラナも息を呑むように見詰めている。
 全身の力を振り絞って激しく舞う貞、だが、ついに眼がくらみ、昏倒してしまう。
(中略)
 客席から割れるような拍手。
 全員が総立ちで手を叩いている。
(中略)
ホットン「(英語)素晴しい……こんなに素晴しい演技と舞踊を見たのは初めてだ!(略)」
(中略)
ラナ「(英語)本当に感動しました……もっと沢山の人たちにあなたの演技と踊りを見て貰いたいのです。(略)」
(中略)
ナレーション「翌日のシカゴ市内の新聞は、こぞって一座の芝居、及び舞踊を絶妙無類と最大級に褒めたたえていた……(略)」
(第30回放送 洋行中の悲劇 シナリオV 252〜254頁)
 パリ・万博会場に近い公園
 ベンチに坐った奥平が笑いながら、首を振って、
奥平「そりゃ、無理だわな……一晩でデッチ上げるなんて、とてもじゃないが、相手はシェクスピアなんだから!」
(中略)
音二郎「英語の調子だけ真似して、あとは適当にしゃべっとけってことでね、どうせ、奴らには、日本語だろうが何語だろうが、わかりっこねえんだから、スチゃラカ、パッハノ、トウガラシ、テケレツテンテン、スッパラパン……なあんてね!」
(中略)
 ボストン・『モントレー座』の舞台
 観客の前で、貞の裁判官が証文を片手に音二郎の才六相手にしゃべっている。貞「アレワイサ、コレワイサ、スチャラカポコポコ、ウンタラタ……ヤッサ、モッサデ、ウンタラタ……」
(中略)
音二郎「クチャナ、バカチャナ、コノ、トトサン、モラウゾ、カシゾ、シャキン、カエサナ、バナナ、ブレ!」
とさらに出刃包丁を取り出す。
貞「(止める仕種で)キャキ、キャキ、サラバ、ビギンナン、ウム、タラタ!」
(第37回放送 女優学校は……シナリオW 164頁)
葭町・『浜田屋』・二階の座敷
 新聞記者の前に貞がサバけた口調で話している。
貞「サラ・ベルナールっていや、あなた、そりゃもう大したものでござんすの。72歳もの高齢で、おまけに胸を患っていながら、舞台に出ればそんなことなんぞ微塵も感じさせないような堂々とした演技で……そういう立派な女優がこの先、日本に一人でも育ってくれれば、女優養成所の目的はかなったようなものでござんすわ」
(第1回放送 自由は死せず シナリオT 54、55頁)
井上「それじゃ、こうしようじゃないか、この小奴が一人前になるまで誰も手出しはしないと、ここでみんなで誓紙を書くのだ!」
金子「誓紙ですか?」
井上「紳士協定だ……男同士の盟約だ!」
伊藤「それは面白い……(芸者たちに)おい、色紙と書くものを持って来い!」
 芸者の一人が「はい」と立って行く。
 山県ひとりだけが、さっきから無邪気な男のはしゃぎぶりを距離のある眼で見ている。
(中略)
葭町・『浜田家』二階・着替え部屋
 亀吉が伊藤らが誓紙を書いた色紙を手にして、得々と手放しで喜んでいる。
亀吉「伊藤様に井上様、金子様に伊東巳代治様……どなたが水揚げして下すっても、いずれ劣らぬ政界の名士揃い。貞、お前は幸せ者だよ!」
座敷から帰った貞は、シノに帯をほどいて貰いながら大して嬉しそうな顔もしていない。福助が自分でも着替えをしながら、
福助「その中でも特に伊藤の御前がご執心のようだった。小奴、小奴って、膝の上にお乗せになるんだから!」
亀吉「まあ、そうかい……伊藤の御前といやァ、内務卿で飛ぶ鳥も落す勢い。あんな方に可愛がられたら、女冥利に尽きるというもんだよ」
シノ「伊藤の御前の奥様は元下関の芸者だっていうから、あのお方は芸者がことのほかお好きなのかもしれませんよ」
 貞はお座敷着を脱いで普段着の着物に着替えている。

(別紙3)
『女優貞奴』・『ドラマストーリー 春の波涛』類似個所対比表

『女優貞奴』
1イ (7頁)
 日本の女優貞奴は、1901年1月1日、二十世紀の到来とともに、初めて祖国にその姿を現した。日本を発つ時には落ちぶれた河原乞食の妻・川上貞でしかなかった者が、世界的女優・貞奴となって帰国したのである。
 元旦の神戸港は早朝からその様子を一目見ようとする人々でごった返した。
 川上音二郎・貞奴の一行13人を乗せた神奈川丸は、ロンドンから東廻り54日間の航海を終えて、この朝8時、神戸港に入港した。
1ロ (8、9頁)
 一行が上京すると、新橋駅頭では、さらに身動きもできない混雑を呈した。
(中略)
 劇場関係者と60人余りの葭町芸者を含む、ざっと600人ほどの出迎人が、川上家の定紋・九枚笹を胸につけていた。
 新橋停車場前の旅宿2軒が歓迎控所にあてられ、川上夫妻には特別に、二頭立の馬車がさしむけられた。
 ところが音二郎は、
 〈欧米各国の如く演芸家の位地高くして、一般社会に尊敬を受け居らば、かの国に於ける例にならい、遠慮なく御厚情に甘ゆべきも、日本にては、未だ卑しき壮士俳優と目せられて、かかる待遇を受くる地位に進まざれば、何卒御用捨ありたし〉と断わり、貞奴と2、自分で雇った二人曳きの人力車に乗って、立ち去った。
2 (10頁)
 貞奴の夫・川上音二郎は、河原乞食と言われることに猛反撥し、その反撥心をテコに、新演劇の担い手となった。
3 (25、26頁)
 明治17年7月20日の日付のある「とらない」と書かれた色紙が、貞の養女・川上富司の許にのこされている。(略)藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝、伊藤博文のいずれも40代の政財界人4人が、木挽町の待合の女将を立合人に、〈各自の寵妓をとらないという一種の不侵情約〉(菊地秋叟『明治史の裏面・名士と名妓』)を結んだ誓紙だそうである。
(中略)
 「とらない」とは、小奴の貞を伊藤博文からとらないと、他の3人が約束したことを意味する。水揚げ前でも、小奴は博文のものと既に公認されていたのであろう。
4イ (26頁)
 貞は乗馬を習うために本所緑町にある草刈庄五郎の道場へ通い始めた。天保2年生まれの庄五郎は50歳、八条流馬術師範で鹿島流馬術の達人でもあった。
 この道場で貞が習ったのは古風な武芸に基づく馬術だった。馬乗袴に白鉢巻のいでたちで乗ったのだろう。(略)小姓のような装でも、明らかに女と分る貞の乗馬姿が隅田川べりを駆けて人目に立った。
4ロ (26、27頁)
 ある日貞は、1人で成田山まで足をのばした。本所から千葉の成田までは50キロ以上ある。帰途、船橋を過ぎた辺りで陽が昏れ、野犬の群に襲われた。絶壁に追い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていななく。貞は振り落とされまいとしがみつくのがせいいっぱいで、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかった。
 どれほどこらえていたのか、吠え立てる犬の声が途切れて、悲鳴に変り、その声も遠ざかっていった。
 振り向くと、人影が見えた。人っ子一人いなかったのに、忽然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。まるで、先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜け出て、助けに来てくれたかのようだった。貞は雷に打たれたように身が震えた。
 人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。手に持っていたのは不動尊の右手にある降魔の剣ではなくて、棒切れである。拾った棒切れと小石で野犬を退散させてくれた書生風の身なりの青年は、慶応義塾の岩崎桃介と名乗った。
5 (28頁)
 明治19年に貞は15歳、桃介は18歳、少女と少年のほのかな初恋はあえなく押しやられた。
6 (30頁)
 〃勤王芸者〃〃民権芸者〃、朝野を問わず、有名人と芸者の結び付きが目立った。権妻の権は、副知事を権知事と呼ぶのと同じく、正副の副の意味と、正妻以上に実権を握る、両方の意味合いが含まれる。
7 (30頁)
 その夏博文は、神奈川県夏島の別荘へ貞奴を伴った。
(中略)
 博文はこの別荘で井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らと大日本帝国憲法制定の「夏島草案」を作るために、来ていたのだった。
8 (36頁)
 桃介は22年秋に帰国しており、予定通り房と結婚して北海道炭礦鉄道に勤務していた。24四年1月に長男が生まれ、東京支店へ転勤になったという。
9イ (38頁)
 貞は『板垣君遭難実記』を養母と見に行って、初めて音二郎を知ったと語っている。
(中略)
 手続きはともあれ、貞は〈書生が好きだった〉と言い、一目で惹かれてしまった。
(中略)
 貞が音二郎以前に付き合った人々は、芸者という職業とその環境からいって、伊藤博文を初め、政府高官や実業界の名士、さもなければ芸者衆と縁のある梨園の御曹子達に限られていた。貞はもともと、これらの名士連より〈書生の方が好き〉だったのである。既に名あり家ある名士より、素寒貧の名もなき「書生」といっしょになって、わが手で一人前の男に仕立てるのが、芸者育ちの貞の夢であった。
9ロ (39頁)
 完成品に興味のない貞にとって、音二郎はまさに荒けずりの硬骨漢に見えた。山から伐り出したばかりのように、そげ立って無骨な青年であり、しかしその活きの良さは、貞の周辺の誰も持ち合わせないものであった。音二郎は貞が漠然と夢想していた自分の相棒にぴったりの若者だった。
 けれども、貞が音二郎に惹かれたのは、そうしたあとから考える理由づけ以上に、直感と無分別に衝き動かされてのことであったかもしれない。とにかく貞は音二郎を見るや、たちまちにして、その魅力のとりこになってしまった。音二郎のどこに惹かれたのでもなく、まして新演劇の『板垣君遭難実記』や「オッペケペ』を認めたのでもなく、音二郎という人間の出来合いに、絶大な関心を持って、体当りしていった。
10 (40頁)
 流れ流れて東京へやってきた音二郎は葭町の口入れ屋(職業紹介所)桂庵へ行ったり、芝増上寺のお供物を失敬して食いつなぐ。増上寺の僧に見付かって小僧にしてもらったが、境内へ散歩に来る福沢諭吉の目に留まって、慶応義塾の学僕として引きとられた。音二郎、桃介、2人ながら諭吉の注意をひく少年だった訳である。
11イ (39ないし41頁)
 音二郎は自分では政治家志望の政治青年のつもりで、それゆえ書生と言ったのではあったが、また、政談演説その他のために投獄されたこと公称20回、逮捕歴170回余という強者であり、その回数の多きを売りものにする壮士ごろつきとさえ思われていた。
(中略)
 弁士になってからの音二郎は、京阪の新聞を再々賑わしていた。
 自由民権運動たけなわの頃、各地の盛り場や町辻では、さかんに演説会が開かれていた。自由党総理板垣退助をはじめ名高い民権家・壮士に立ち混って、演説をして歩く若者が続出し、「演舌(説)つかい」と呼ばれた。音二郎は放浪の末、この演舌つかいの群に身を投じた。
(中略)
 演舌つかいになった音二郎は滑稽政談を得意として「自由童子」と名乗り、頭角をあらわした。
11ロ (41、42頁)
 16年7月、京都四条南の演劇場で民権自由数え唄を披露している。
(中略)
 自由童子こと音二郎は殊更に臨検の警官に当てつけた。聴衆は喜んだが、警察は許しておかない。「官ちゃん」は官吏侮辱罪に当り、ただちに逮捕された。
(中略)
 16年9月には、京都府知事名によって、集会条例違反の廉で「1年間政談演説禁止」を申し渡された。
11ハ (42ないし44頁)
 音二郎は明治17年9月、貧書生を募集して、11月、神戸大黒座で仏教演説会を開いた。明治年間には度々コレラが流行して社会問題になったが、音二郎は「コレラ退治」も唄に仕立てて、演説会でうたったりした。
(中略)
 明治18年3月、音二郎は講談師になった。芸人の鑑札を受け、自由亭雪梅と名乗った。といっても、転身ではなく、抜け道を計ったのである。これは民権家・坂崎斌の馬鹿林鈍翁、奥宮健之の先醒堂覚明などの先例があり、講談や落語にこと寄せて、民権論を普及しようとしたのであった。
 明治19年1月、音二郎は6回目の出獄になるというので六出居士と自称して、出獄第一声盗賊秘密大演説会を開いた。その間に落語家・桂文之助、別名曾呂利新左衛門に入門して、今度は「浮世亭○○」と名乗る。寄席芸人と役者と角力は認可を申請しなければならず、その上で、手札大の木札に住所氏名生年月日の焼印のある鑑札を受けて営業するきまりになっていた。
 この鑑札を利用して、京都笑福亭で諷刺噺をし、「ヘラヘラ、ハラハラ」という合の手を巧みに使って大受けした。
(中略)
 そのころ、ヘラヘラ坊万橘という人の囃言葉「ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ、オヘケヘッホー、ヘッヘッヘイ」が受けていた。音二郎これを「ヘラヘラ、ハラハラ」と単純化する。それが更に「オッペケペー」となるまでには、なお数年を要した。
 音二郎は講談、落語、諷刺噺を自在にこなして、当時流行の政治小説『経国美談』や『仏国革命史』を寄席の高座から語った。だがこうした手段も、当時の取締りの目をくぐることは出来ない。民権運動の福島事件『獄窓手枕の夢』を語ってその小冊子を配り、出版条例違反に処せられた。
 もはや個人技ではいかなる手段も通らなくなり、音二郎は芝居に目を付けた。
(中略)
 こうして音二郎は少しずつ演劇へ接近していった。
11ニ (44頁)
 一方、音二郎は同郷の落石栄吉の調査によれば、明治21年、大阪千日前井筒席と、博多柳町の翠糸学校開校式でオッペケペ節を初演した。
11ホ (45頁)
 京都では、オッペケペ節の歌詞の共作者・若宮万次郎、雑誌『活眼』の記者・藤沢浅二郎等いわば音二郎の同類が、それぞれ滑稽政談や社会諷刺を弁じては繰り返し検挙されていた。
11ヘ (47ないし49頁)
 音二郎は、前年(明治23年)のニワカ師の多い座組を解散して、新たに仲間を募った。旧知の金泉丑太郎、青柳捨三郎、藤沢浅二郎の他は殆んどが地方廻りの歌舞技役者か地方であった。2月には大阪堺の卯の日座で『経国美談』と『板垣君遭難実記』を一週間上演、百円の前借りに加えて九十円の赤字を出したが、前年出演した蔦座を頼って横浜へ向う。
 神奈川、小田原を巡業する間に、音二郎一座は様々の試練を経た。脚本はあらかじめ警視庁に提出し、認可を得なければならなかったし、少しでも脚本にないしぐさやセリフが入ると、差し止めを喰った。土地の暴力団とも悶着が起きた。演目を急遽差し替え、それも許されなければ演説や雑多な芸を交えて切り抜けた。座長の音二郎が裁判にかけられたり、座員が投獄されたりしながら、一座約20人結束してしのぐ間に、車夫や馬丁が味方につき、従来芝居とは無縁だった新しい客層が動員された。
 舞台と観客との、打てば響くような熱い交流を経験した。レパートリーも増やし、同じ演目でも『板垣君遭難実記』は初め3幕だったが、5幕に改められた。脚本は主として音二郎が立案して、藤沢浅次郎が筆を執ったが、その多くは民権運動に取材したものであり、自分達で脚色した自前の明治現代劇だった。
12 (48、49頁)
 中村座の観客をまず驚かせたのは、その活気だった。添えもののオッペケペ節も、初演から4年目にして、一世を風靡した。
 権利幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい。オッペケペ、オッペケペッポーペッポーポー。堅い上下かど取れて、マンテルズボンに人力車、いきな束髪ボンネット。貴女に紳士のいでたちで、うわべの飾りはよいけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポーポー。米価騰貴の今日に、細民困窮見返らず、目深かにかぶった高帽子、金の指輪に金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金をまき、内には米を蔵に積み、同胞兄弟見殺しか、幾ら慈悲なき欲心も、余り非道な薄情な、但し冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使うて極楽へ、行けるかい、行けないよ。オッペケペ、オッペケペッポペッポーポー。ままになるなら自由の水で国の汚れを落したい。オッペケペ、オッペケペ。ー
 散髪頭に白の後鉢巻、黒木綿の筒袖に小倉の滝縞の袴、緋の陣羽織、日の丸の軍扇を片手に持って熱演する。
13 (49頁)
 音二郎は、客席の貴女、紳士、令嬢、お妾権妻と見てとれる人々を、遠慮会釈もなくからかった。だが、音二郎の舞台には不思議な愛嬌があったと言われる。悪態をつきながら、ついた相手の花柳界の住人に人気があった。
 貞に限らず、名妓たちが競って音二郎に入れあげ、音二郎を自分の座敷に呼んだり、引幕を贈ったりした。貞も負けずに着物羽織や、九枚笹の川上家定紋入りの人力車まで贈呈したらしい。
(中略)
 音二郎は硬骨漢どころか、金廻りが良くなったとたんに、芸者遊びを趣味とする軟派になり変ったのに、貞にはそれも眼に入らぬかのように、音二郎に夢中になった。
14 (54、55頁)
 音二郎が洋劇視察を思い立ったのも、同郷の金子堅太郎をはじめ、伊藤博文、西園寺公望、土方久元に会って勧められたからだった。駐仏公使野村靖への紹介状も貰っていた。恐らく貞が引き合わせたのであろう。博文、公望は明治19年創立の演劇改良会の賛助者であり、土方久元は明治22年設立の日本演芸協会の会長に就任していた。博文の側近・金子堅太郎も含めて、いずれも明治初期に洋行して、欧米の演劇を見たことのある人達だった。
 音二郎は4カ月足らずで帰国した。
15 (55頁)
 〈『エヂップ・ロアー』(ギリシア悲劇『オイディプス王』)と言う大時代な狂言を持って帰った〉(『演芸画報』明治41・10)。それは翌明治27年『意外』と題する芝居に取り入れられ、『又意外』『又々意外』と打続く大当りとなった。
16 (56頁)
 茶屋を通らず木戸銭だけを払って入る立見客以外は、大なり小なり入場券以外の諸雑費を必要とした。客を席に案内し、茶菓酒肴など注文に応じて運んだり、客の世話をする人を〃出方〃と呼ぶ。何も注文しないという訳にはいかない。芝居を観ながら飲食する習慣となっており、セルフサービスの制度はなかった。出方への心付け、桟敷に入れば敷物料(座布団代)、飲食費、冬ならば火鉢代といった費用がかかり、観劇料より諸雑費の方が嵩んだ。
17 (57頁)
 貞は音二郎の底知れなさと活力に惚れこんだ。
18イ (58頁)
 〈川上が都合をして、吉原を始め東京中の盛り場へ立派に落籍祝いを配って呉れました〉と、貞は嬉れしそうに語っている。貞は養母・可免の計らいによることを強調して、〃野合〃と見られるのを嫌っていた。仲人は貴族院議員・金子堅太郎がつとめた。
18ロ (58頁)
 金子堅太郎は伊藤博文の腹心で、音二郎とは同郷のよしみもあった。
19 (59頁)
 貞が芸者を廃業して音二郎夫人となった明治27七年は、川上一座にとって当り年となった。
(中略)
 音二郎は書生演劇からの脱皮を意図して『意外』の番付に「川上演劇」と刷り込んだ。(略)演出上、数々の新機軸が盛りこまれた。フランスで見て来た舞台照明をとり入れ、客席を暗くして(通路のない枡席の上で、飲食しながら観る当時の芝居の客席は、現在のように暗くなかった)、舞台には電気照明により月明りを見せた。最新文明の利器である電話を芝居にとり入れたりもした。まだ殆んど電話を見たことも使ったこともない観客に向って、電話の場面を見せるには工夫が要る。
20 (60、61頁)
 『意外』シリーズが終ると日清戦争が始まり、言論界はこぞって戦争支持を表明し、劇界も戦争もの一色に塗りかえられた。川上一座の『壮絶快絶日清戦争』は、舞台に南京花火や癇癪玉を仕掛けて鉄砲を打ち合い、砲火の効果を出し、戦闘場面を再現した。場内に煙硝の煙と臭いが充満して、観客は異様な興奮に誘われた。
(中略)
 音二郎はこの芝居のあと、戦地視察に渡韓し、朝鮮人を1人伴って戻った。
 そして『川上音二郎戦地見聞日記』を上演する。こうした機動力も歌舞伎役者にはないものだった。
 この公演中の明治27年12月9日、東京市主催の旅順占領祝賀会が開かれた。川上一座はアトラクションに招かれ、上野公園の野外劇に皇太子(のちの大正天皇)を迎えて、『戦地見聞日記』を演じた。
 『意外』シリーズから戦地報告劇へと、川上一座は上昇の一途を辿った。勢いに乗って翌28年5月には、団十郎、菊五郎の本拠である国劇の殿堂・歌舞伎座へ進出した。音二郎は団十郎専用の楽屋に入り、〈親の讐を討ったよりも嬉しいと言った〉(伊藤晴雨『演芸世界』明治36・8)。
(中略)
 演目は川上一座の座付作者・岩崎蕣花作『威海衛陥落』と、森田思軒訳・藤沢浅二郎脚色の『因果燈篭』である。1週間分の切符が3日目に売り切れ、35日間の公演となった。
21イ (61頁)
 不入りとなると、例によって音二郎攻撃が再燃した。
21ロ (61ないし63頁)
 それでなくても『万朝報』をはじめ、各紙に〈駄ボラの川上〉〈山師の川上〉と書かれていた。
(中略)
 旅先きで、黙庵と高田実を中心に、音二郎を排斥して新座を結成する相談が秘かにすすめられた。早くから座付作者になっていた岩崎蕣花も脱退したが、藤沢浅二郎は思いとどまった。
(中略)
 一座の稼ぎを建設費に廻し、貞も資金調達に奔走した。音二郎がホラ吹き、山師呼ばわりされたのも、自力で劇場を建てると宣言したのが主な原因だった。一俳優の力に及ばぬ大言壮語と、受けとられた。果たして川上座は冬になっても工事途中で雨ざらしのまま、一向にはかどらなかった。
(中略)
 しかし日清戦争以後、諸物価も上がっており、座員は給金に不満を抱いていた。
(中略)
〈演劇の改良は劇場の構造から直さなければならない〉
 劇場側との摩擦に悩まされ続けて来た音二郎は、新劇場の必要を痛感させられていた。
(中略)
 新演劇は新演劇に適した自前の城を持たなくてはならない。それでなければ、新演劇の発展は期待できない。
22イ (63、64頁)
 音二郎・貞夫婦は少しずつでも興行毎に収益を注ぎこみ、無理算段して資金を借り尽し、最後には高利貸から借りて、29年6月、川上座を完成させた。
22ロ (64頁)
 だがその会場式に珍事が起きた。音二郎と並んで立つ貞の頭が尋常ではなかった。人も羨む長い黒髪を切っており、付髷で隠していたのがお辞儀をした拍子にとれてしまった。貞は、川上座落成間近になって、音二郎に隠し子のあることを知り、逆上して、自ら髪を切ってしまったのだという。川上座建築の金策に夫以上の尽力をおしまずかけずり廻っていた最中だけに、音二郎の不実は貞にこたえた。音二郎は貞の養母、浜田可免、仲人の金子堅太郎に泣きついて貞の慰留を頼んだ。この1件は落着したが、開場式の珍事となって暴露された次第であった。
22ハ (64頁)
 川上座は開場したものの、負債の高利が嵩んで、〈金貸しに奉公するよう〉(音二郎談)な具合になった。
23イ (65頁)
 音二郎は高利貸アイズ退治と新演劇の保護をとなえて、代議士に立候補することを思い立った。一つには、青年時代の政治家志望がまだ捨て切れないでいたのでもあった。
 音二郎は現在の大田区大森、当時の荏原郡入新井村字不入斗に移住して、ここから立候補した。
23ロ (65、66頁)
 音二郎はこの二度の選挙に立候補して、二度とも惨敗した。 二度目は初回より更にひどかった。
 しかも音二郎は、きれいな選挙をして敗れたのではなかった。〈一票金廿円乃至三十円で買って歩く騒ぎになって、三崎町の川上座もそれが為にとうとう人手に渡して了ったのです。……この運動に就いては金を取っておいてから変替った、不道徳な者が大分にあった〉などと憤慨している。
(中略)
 音二郎が大衆を相手に演劇会や演説会を催し、独自の選挙運動を展開しても、明治の大衆には選挙権が無かった。選挙権は地租15円以上を納める男子に限られ、その数は成年男子の4パーセントに過ぎなかった。音二郎は自由童子時代の政治家志望を諦めきれず、昔の仲間を当てにしたが、地元の対立候補の動きに無知であった上に読みが浅く、地主と有産階級との選挙にピエロを演じて、袋叩きに遭った。投票日は8月10日なので、その4日前の記事を見れば、開票をまつまでもなく、音二郎の落選は分り切っていたのだった。
(中略)
 河原乞食といわれた役者の、そのまた外道の分際で、神聖なる国会の議場に出る身の程知らずをあざわらわれ、その身分差別に憤然として票を買って歩く音二郎は、二重に愚弄された。
(中略)
 8月の投票日の3日後には、三度目の歌舞伎座公演が決まっていて、『又意外』を再演した。伊井蓉峰と、歌舞伎の女形出身で万能選手といわれた山口定雄の2人が、音二郎の呼びかけに応じなかったが、川上演劇ではなく、「日本新演劇俳優一同」として大合同をうたっていた。しかし初演当時の新鮮さはないと評され客足は伸びなかった。音二郎は不評の原因を〈新演劇が増えて飽きられた〉と考え、向う5年間東京を去ると宣言した。
 川上座は債権者に渡された。
 〈たった1人で舞台の真ん中へ胡座をかいて、朝っぱらからシャンパンをぬいて3杯を傾け、劇場に対して一言を餞けて曰く、さて漸くの苦心で芝居小屋だけは出来たけれども、……この先の維持法についてはどう成り行くか予め計り知られない事故、誰でもいい相手を見付けてよく働いて呉れろと言って、残りのシャンパンを舞台へ撒いてグードバイをしました〉とのちに音二郎は語っている。
24 (67頁)
 音二郎も貞も厭世観にとりつかれていた。川上座を手放しても、借金は始末できず、大森不入斗の、白亜造りがあたりとは異っているので目にたったという洋館にも、執達吏が押し寄せた。
 音二郎は落選以後、〈気が変になる程苦しみ通した〉とのちに述懐する。〈芝居は損ばかりつづく。借金は嵩むばかりで四方から攻めつけられる。新聞は新聞で、毎日くそったたきに叩きつける。さすがのわたしも実際悲観しましたよ〉
 新聞の中でもとりわけ『万朝報』を恨んで、その社長「まむしの周六」こと黒岩涙香を殺して自分も死のうと思った。
(中略)
 再起不能と絶望した音二郎は、黒岩涙香をも撃ちそこない、いっそ奇抜な自殺のしかたはないかと、そのことばかり思いめぐらした。
25イ (69頁)
 明治31年9月11日明け方、 夫妻は大森の家を捨てて、築地の河岸から漕ぎ出した。
25ロ (70ないし76頁)
〈あの時黒岩を撃ちそこなって、わたし(音二郎)は殆んど失意の極に陥り、いっそ奇抜な自殺のしかたをして、世間をあっと驚かそうと決心しました。そうして築地で小短艇を見つけたのでこれこそ天の暗示であると思って、早速それを買いもとめ、二百十日(ママ)を卜して海上へ漕ぎ出したのでした。当時幸いにその冒険をきり抜け得るならば、自分の運命はまだ尽きていないのだから、そこで新生面を拓こう。が、万一運が無かったら、自分の醜い死骸を人の目にさらさずに、千尋の波の底へ、魂も運命も姓名もことごとく葬ってしまおうと決心したのでした。併しお貞にその話をすると、彼女は何とも言わずに、直ぐ賛成してくれました。あの時ばかりは自分の妻ながら、その強い、美しい、同情ぶかい心に泣かされました〉
(『演芸画報』大正15・9)
 ところが舟は1日かかっても東京湾を脱出できず、軍艦富士の灯を港と間違えて横須賀軍港に迷いこんだので、いきなりつかまってしまった。
(中略)
 舟には、米、味噌、醤油、塩、甘薯、乾肉、飲み水、気付けの酒、それに鍋、炭、焜爐、食器、洗面用具、寝具代りの●袍に合羽の雨具などが積み込まれていた。
(中略)
 その間に新聞は、事の真相と称して、一挺櫓の木葉船で南洋渡航、短艇渡米、自棄渡海、負債3万円以上、財産差押さえ、夜逃げ、発狂などと書き立てた。
(中略)
 音二郎には貞を同伴することに、まだこだわりがあった。貞まで危険な冒険渡航の道連れにせずともいいではないかと言われれば返す言葉がない。貞が元葭町の名妓「奴」と知れば、また芸者に出るなり、養母・可免の浜田家を継ぐなり、パトロンを持つなり、生きる道はいくらもあろう、という顔をして貞をかえり見る。だが貞には全くその気がなかった。花柳界に戻るくらいなら、無人島へ漂着しようと、海の藻屑になろうと構わないと思っていた。
(中略)
 音二郎は筒袖に二重廻しを引っかけ、貞は木綿飛白の着物1枚という軽装で再び舟に乗りこみ、鎖を切って軍港を抜け出した。そこから先の体験を、貞は後に詳細に語っている。観音崎を過ぎて、三浦三崎の汽船発着所まで来ると、大風注意報の赤旗が出ていた。
(中略)
 だが穏やかな日和は続かなかった。9月の末は大型台風と集中豪雨のシーズンである。名に負う遠州灘の洋上で3日間の暴風にもまれたあげく、天竜川の砂原へ打上げられた。動かなくなった舟を下りて、浜に腰をおろしていると、土地の船頭がやって来て、船造りの親方の家へ案内された。掛塚というところだった。2人は竜宮の浦島太郎のような目にあった。横須賀の騒ぎ以来、諸新聞に書き立てられ、散々馬鹿にされた自棄渡航の顛末と気狂い沙汰の数々が、ここでは同情をもって受けとられていた。歓待された上に、道中の話をしてくれと言われ、何日も引きとめられることになった。広間と庭先に村中の人が集まってきて、音二郎の話に耳傾ける。方々から請われて演説して歩いた。
 その間に舟の破損個所は修繕され、苫のような屋根もつけられた。破損がひどかったので、修理に1カ月近くかかったろうか、漸く出発する事になり、村の人が思い思いに様々な食料を持って来て舟へ入れてくれる。
(中略)
 浜島沖でアシカの群に会い、危うく舟を顛覆されそうになり、恐ろしい思いをして逃げのびたあと、由良の港へ向う途中、嵐に遭った。
(中略)
 貞は書置きのつもりでしたためておいた可免宛の手紙を肌につけ、帯の間に4センチ足らずの銅製の不動尊を入れていた。嵐が静まり、漁船に発見された時には、2人とも意識を失っていた。〈お粥をすすらせて貰った〉と貞は介抱された事を感謝するのみだが、後日、再起なった7年後、この地を再訪して、仮設舞台で芝居をして見せ、命の恩人に恩返しをしたという。
(中略)
 やっとのことで紀伊半島をまわって、紀淡海峡を横切り、由良の港へ入ったのは、この年の大晦日だった。
(中略)
 翌1月2日神戸着、〈東京を出たのが前の年の九月ですから、丁度5カ月目で千辛万苦して神戸まで来たので御座います〉
 着くには着いたが、音二郎は血を吐いて止まらず、全身青ぶくれになって、一寸突くとすぐに血が走り、容易に止まらない。そのまま入院した。
26 (77頁)
 ところが1カ月半ほど入院を余儀なくされている間に、アメリカ行きの話が舞いこんだ。
 大西洋岸のアトランチック・シティーに、茶屋、球戯場などを含む日本庭園を経営して、国際興行師をも目指す櫛引弓人くしびきゆみんどが、サンフランシスコの興行を仲介するという。死を賭した短艇渡航は音二郎自身、万に一つののぞみでしかなかった渡米を、夢まぼろしではなく本物にしたのだ。音二郎はこの話にとびついた。
27 (78頁)
 音二郎の弟、15歳の磯二郎(後に芸名磯太)と、12歳になる姪のツルを子役として連れていくことにした。
(中略)
 明治32年4月30日、音二郎を座長に一行19人が、神戸からゲーリック号に乗ってアメリカに向った。音二郎は途中ハワイ、ホノルルに船が一晩碇泊する間を利用して、演説会を開き、390ドル稼ぎ、船中でも座員の稽古を兼ねて、慰問演芸会を催した。杵屋君三郎の三味線、貞とツルの踊りは喝采を浴びたが、和田巻二(次)郎の南無阿弥陀仏節、富士田千(仙)之助の長唄、ことに大薩摩は外人客に全く受けなかった。太鼓が潮風のためにいたんでしまったし、楽器の保全に苦労した。
 一行は5月23日、サンフランシスコに到着した。
28イ (79頁)
〈私は何にもかにもこの時始めて外国を見ましたので、只々呆気にとられてしまって、天竺か雲の上ではあるまいかと疑った位で、全くこれが同じ世界のうちにある国かしらと思いました。何しろ軌道は上下に十文字に通じている、汽車だの電車だの自動車だの馬車だのが通るので、始終ガーガーと音がして居ますし、家は見上げるように高いし、陽はささないという有様で、一寸向うへ突切ろうと思っても、怖くって行かれないようで、〃いいかい、はぐれないようにおしよ、いいかい〃と言い乍ら、手を引き合って行くといったような訳でしたが、興行主の案内で一同パレスホテルの21階へ上げられたのです〉
 町には既に貞のポスターが張り出してあり、貞が主演女優であるかのように宣伝されていた。
28ロ (79頁)
 貞が自分は女優ではないと訂正を申し込んだがきき入れられず、劇場主と話し合いの結果、先方の主張通り貞を中心にした演目でなければ、公演も覚束ないことが分った。予定した『心外千万・遼東半島』をとりやめ、『児島高徳』「楠公』『道成寺』を出すことになった。
 23日に着いて、25日から公演するので、ぐずぐずしているひまは無かった。
(中略)
 〈〃川上貞と申します〃と言うと、〃只さだでは面白くない、外に何か名は無いか〃との事でしたから、〃以前芸者に出て居ります時分に、奴と言って居りました〃と言うと、〃奴、奴、貞、奴、ウム貞奴がよかろう〃と言って、それから貞奴を名乗る事になりましたので、私の名は米国で出来たのでございます〉
 かくて貞は、急遽、看板女優に仕立てられた。
29イ (80頁)
 一座はオッファーレル街カリフォルニア座で9日間公演して、1271ドル(2542円)の収入を得た。しかし1週間ほど休演して、同座で再び公演した4日目の6月21日、興行主に売り上げを持ち逃げされてしまった。
 一座の興行権は、音二郎に渡米を勧めた櫛引弓人から、弁護士光瀬耕作に引きつがれていた。この人が悪徳弁護士だったらしく、持ち逃げした上に、広告料、電気代なども未払いだったため、衣裳道具類を差押えられ、劇場から締め出された。又、ホテルに置いた荷物もホテル代を払うまでの担保にとられて、ホテルからも追い出された。
 川上一座は一瞬にして全財産を失ったうえ、宿無しになってしまった。在留邦人の尽力で、寄席風のジャーマン・ホールに仮設花道をつけ、6日間の義捐演劇が催された。
29ロ (80、81頁)
 700ドル余り集まったので、これを旅費に1日も早く帰国するようにと忠告された。音二郎と貞の他は皆その気になった。一座は、汚い物置小屋を借りて蓙の上に寝起きし、乞食のような生活をしていた。
 しかし音二郎にしてみれば、このまま帰国したのでは、切角の渡米が何にもならない。尾羽うち枯らせて辛うじて帰国しても、日本には借金と嘲笑が待っているだけだった。「マアマア百折たゆまず、行けるところまで行ってみようじゃないか。行くだけ行き、やるだけやって、いよいよ駄目だとなれば、その時ァ蒸気の釜焚きかボーイになって帰るのも、いまだ遅しとなさずだ。それまでは君達の生命はおれに預けてくれ、頼む」
(中略)
 これでどうにか芝居の荷だけは請け出すことができた。
 その間に、姪のツルはサンフランシスコに住む会津出身の画家・青木年雄の養女として引きとられた。ツルは、長じて俳優になり、同業の早川雪洲と結婚することになる。弟の磯二郎はアメリカ人の学僕として預けることにした。番頭兼秘書格の川本末次も一行と別れた。もう1人欠け、一座は15人になった。
(中略)
 一行は蹌踉として、サンフランシスコを発ち、太平洋岸沿いに北へ1500キロ、シアトルへ向うことになる。
29ハ (82頁)
 その日のうちに、汽車で2時間余り南のタコマへ移った。いずれも着いてから劇場を探し、公演が済み次第、夜行に乗るのだった。タコマと、更に300キロ近く南のポートランドで、2日ずつ4回公演して、大陸横断の旅費ができた。西から東へ、ロッキー山脈を越え、4昼夜汽車に揺られて、シカゴへ向う。道中、満足な宿もとれず、衣裳、鬘、道具類を手分けして背負った。貞とて例外ではなく、皆草鞋ばきで、細紐や縄で縛った重荷をかついだ。従って、汽車に乗っている時だけが休息の時間だった。10月1日シカゴに着いた。
 舞台にありつくまで1週間と見積って、素人下宿のような二人部屋1室に7ドル(14円)払うと、1日1食分ずつの食費ものこらなかった。やむなく一座15人は、宿主の目をごまかし、規則を破って、四畳半ほどの1室に、折り重なるように入りこんだ。
 シカゴのような大都市では劇場の数も多いが、見すぼらしい名もない一座には鼻もひっかけない。日本領事館を訪ねれば、けんもほろろにはねつけられ、紹介状1枚もらえず、空き腹をかかえて毎日芝居小屋を探した。
(中略)
 ライリック座のホットンという座主が日本びいきだとききこんで、これが最後の頼みの綱と思って出かけ、1日ねばって会ってもらえることになった。
29ニ (82、83頁)
 ホットンは、当面は次の日曜日マチネー1回しか空いていないが、それでよければ貸すと言うので、条件の交渉に入って、「観客が来ない時はどうなさる」と聞いたのは、音二郎の方だった。
(中略)
 吉報に一座は狂喜したが、日曜日まではあと4日あった。1日1食のあげく、1人前を2人で分け、それもできなくなって、水だけで露命をつないだ。
 それでもじっとしていられなかった。幽鬼の如く血の気のない、立てばひょろついて部屋の中さえ歩けない痩せさらばえた身体に、肩で息をしながら鎧をつける。兜を冠る。草鞋をはく。公演を控えて、広告のビラ1枚出せない代りに、この姿で街をねり歩き、宣伝して廻ることにした。
(中略)
 ホットンが新聞記者や演劇関係者に招待状を出してくれた。武者行列の効果もあって、10月22日午後一時開演前から木戸に人だかりがした。『児島高徳』の幕をあけた。柔道式の立ち廻りが見せ場だったが、音二郎の高徳に1同が打ってかかって投げられると、投げられたまま起き上れない。倒れたまま幕をおろして、次は貞奴の『道成寺』である。
(中略)
 音二郎が言うには、花笠の踊りの段で、両手に持った振り出し笠を頭上に交互で廻しながら倒れてしまった。
29ホ (84頁)
 この芝居は、空腹のあまりのびてしまったのであっても、極限に追いこまれて必死につとめた舞台だった。一座に与えられた最後のチャンスであり、これをのがしたら、あとはほんとに餓死するしかない。最悪の状態だったが、貞の言うように、みんな気が張っていたのだろう。
(中略)
 断崖絶壁に追い詰められた一同の、心を一つにしたぎりぎりの動きだったにちがいない。そこに感動が生まれ、迫力のある舞台となったのだろう。
29ヘ (85頁)
 キリスト教の安息日、日曜日にもかかわらず、集まった観衆は魅了され、ライリック座の劇場主ホットンに一座の再演をもとめて押しかけた。
 そんなこととも知らぬ一座15人は、約束に従って上がり高の半額30ドルを手にして、料理屋へ行き、ビフテキをずらりと15人前並べて泣いていた。「たらふく食ってやる」と思っていたのに、嬉し涙か悲し涙か胸一杯になって、山の如き料理を前にしながら、誰も喉を通らなかった。
30イ (86頁)
 一夜明けると、貞奴はスターだった。早朝からの問合わせの電話にたたき起こされたホットンの方から出演交渉にやって来た。好条件で話がついた。
(中略)
 間もなく、マコーレー・カムストックという興行師と40週間の興行契約を結んだ。
30ロ (86、87頁)
 ボストンにはイギリスからアービング父子とエレン・テリーの一座が来ていた。
(中略)
 それから翌日になると、アービングは自筆の紹介状をよこして、私に是非ロンドンへ行けとすすめてきたのです
31 (90頁)
 丸山蔵人と三上繁が相次いで発病し、2人とも20代の女形だったが、ボストンの病院に入院していくばくもなく逝った。
32イ (90ないし92頁)
 音二郎の手術から1か月余りボストンに釘づけになったが、明けて1900年明治33年1月末には、アメリカの俳優の大一座と相乗りの臨時列車でワシントンへ向った。先方では小村寿太郎駐米公使が待ち受けていた。シカゴ領事とは違って、寿太郎は「役者の荷物の番はしない」とは言わなかった。公使館主催の夜会に呼んで、日本人一座を引き立てると同時に、外交に役立てた。
(中略)
 ついで貞奴の『道成寺』が始まるや、ニューヨーク・ヘラルドの記者が猛然と喋り出した。
(中略)
 余興がすむと〈千日月が一度に照り輝く〉ような電燈の下に宴席が設けられ、音二郎へも貞奴に劣らぬ讃辞が口々に寄せられた。
(中略)
 音二郎は恋愛劇を好まず、アメリカのレディーファーストなる風習が、どうにも気に入らなかった。ニューヨークに移ると、〈はなはだしき痴態劇〉とぶつかった。
(中略)
 こちらは痴態一切抜きの、うぶで清くて純情な、ごくあっさりしたところを見せた。婦人倶楽部がこれにとびついた。貞奴はこの婦人会と「アクトレスクラブ」に招待され、名誉特別会員に推されて表彰されることとなった。
32ロ (95頁)
 川上一座はこのロイ・フラー劇場に、7月4日から一週間出演する予定でパリにやって来た。
32ハ (96頁)
 アメリカでは受けなかった忠臣もの、『児島高徳』も王制の大英帝国では喝采を博し、ウェールス皇太子の耳にも入ってバッキンガム宮殿に招待されるという幸運をつかんだ。庭内に設けられた仮設舞台で『児島高徳』と『芸者と武士』を演じ、「日本の美術を居ながらに観る事ができる」と皇太子直きじきの言葉を賜った上、日本円にして4000円相当の銀行手形が届けられた。
32ニ (97頁)
 フラー劇場は定員五百人の小劇場だった。一座は初日、2日と入りが悪かったのを理由に、フラーに出演料を半額に値切られた。ロイ・フラーは音二郎に「切腹」を注文した。音二郎の扮する遠藤武者盛遠は、かつて許婚だった袈裟をあやまって殺したため、髪を切って出家し文覚上人となるのだが、愛人を殺して髪を切ったぐらいでは罪が軽すぎるから切腹せよ、というのだった。
 音二郎は歴史物語の筋を改作することに後めたさを感じながらも、思い切り立ち腹を切り血をほとばしらせた。
32ホ (97頁)
 その日からフラー劇場は俄然景気が出た。『遠藤武者』は『袈裟』と改題し、『芸者と武士』の2つ、昼夜2回から3回、それでもさばききれず、1日4回公演に及んだ。
(中略)
 音二郎としては、国王を断頭台に上らせた国柄だけあって、切って切って切りまくる切腹の演技に観客が殺到したと思わない訳にはいかなかった。
32ヘ (99頁)
 川上一座は10月15日までフラー劇場に出演して、ロンドンに戻る予定だったが。貞奴の人気が高まる一方なので、万博の会期いっぱいパリにとどまることとなり、更にロイ・フラーとの間に、翌年あらためて再渡航し1年間ヨーロッパを巡業する契約が成立した。
 パリ万博は11月3日、閉会式が行われた。川上一座はその日まで123日間休まずフラー劇場で打ち続け、『芸者と武士』218回、『袈裟』83回、『児島高徳』29回、『左甚五郎』34回、計364回、ほぼ1日3回平均4カ月続演という驚異的記録となった。
(中略)
 園遊会のあと、ルーベー大統領から花束とネーム入りのゴールド・ピンが川上夫妻に贈られ、続いて授勲の内示があった。栗野公使が身許保証人になり、受勲の答申書を呈出して、11月5日付でフランス政府布令により「オフィシェ・ド・アカデミー」に叙された。
33イ (100頁)
 エッフェル塔周辺には無数の娯楽施設があり、その中に「世界一周パノラマ館」があった。川上一座の外にも、烏森の料亭・扇芳亭の女将・斉藤りゅうの引率する芸奴16歳から27歳までの8人がパノラマ会社に雇われて来ていた。りゅうの帰国談によれば『鶴亀』『道成寺』『活惚かつぽれ』『へらへら』『凱旋踊り』など日本舞踊を出し、道化踊りが受けた。
33ロ (100頁)
 この1行には、他に料理人、女中、噺家も加わり、奥宮健之が事務担当格でついていた。万博終了後、芸者のみの一座を組み、川上一座より一足先きにヨーロッパ巡業に出たが、その際も奥宮健之が同行した。
33ハ (100頁)
 奥宮健之は自由民権時代、人力車夫の組織、車界党をつくり、民権運動の名古屋事件で無期徒刑に処せられたが、明治30年に恩赦で出獄した。又その間に講釈師の鑑札をとって高座に上がったり、複雑な経歴の持主だったが、明治44年、54歳にして大逆事件で処刑された。
34 (100頁)
 川上一座はロイ・フラー劇場の終演後、その足で直ちに大道具小道具を自分たちで荷づくりして、翌日ブリュッセルの日本公使館の夜会に出演した。続いてベルギー美術大学の演劇会に出演して、名誉記章を贈られ、ロンドンに戻って、11月9日、一旦帰国の途につく。
35 (101頁)
 パリで世話になった栗野公使と同船して、54日目に神戸に着いた。音二郎はボストンで盲腸を手術したあとが時々痛むらしく、〈貞奴と共に有馬温泉へ湯治〉(『中央新聞』明治34・1・4)に行きたいと思っていた。
36イ (101、102頁)
 大阪、神戸、東京、横浜、京都、最後に再び大阪と6カ所で帰朝公演を開き、主だった新俳優が大合同して加わった。
(中略)
 しかし日本のセンセーションは、パリとは逆の、不評と叱責に満ちた、音二郎否定論の大合唱となった。
 劇評家たちは失望もあらわに、洋行の成果が何一つ認められないと断じた。のみならず、音二郎は、歌舞伎に反旗を翻した新興演劇家のはずなのに、海外で演じたのは歌舞伎劇であり、しかも拙い模倣の、改悪ものではないかといわれた。恥さらしだ、国辱ものだとも非難された。
 帰朝公演の主な演目は『洋行中の悲劇』と題するシカゴからボストンへかけての2人の座員の客死を劇化したものだったが、その劇中劇『児島高徳』を見て、劇評家・松居松葉は〈ギャフンとまいって〉〈これでアービングがと思うと、アービングがただの好奇心から川上をかつぎ廻ったのだと言う事が直ぐに分った〉(『万朝報』明治34・2・21〜23)と欧米での川上一座の評判を言下に否定した。
36ロ (102、104、106頁)
 音二郎と貞奴が知恵を絞って新狂言に組み直したのだが、日本の劇評家、もしくは演劇史家の間では、改作ではなく、改悪だというのがほぼ定説になっている。
(中略)
 その上、音二郎は貞奴の当り狂言『道成寺』も、客観の反応に応じて、受けるところは引きのばし、だれるところは刈りこんで、〃ドシドシ増補省略〃を試みた、と音二郎特有の語り口で喋っている。その遠慮会釈のない乱暴な言い方が、一座の海外公演を軽視させる一因ともなったのだが、観客にへつらうのか、風土気風に合わせて手を加えるのかは、紙一重のところもあって、簡単ではない。
(中略)
 もっと自信を持って主張しても良かったのに、さすが外道を自認する音二郎も、改悪だ恥さらしだという大合唱の前には身を竦めるほかなかった。
(中略)
 音二郎の名古屋山三は歌舞伎にきまりの衣裳を用いながら、その下に〈裁着をはき両刀をたばさんだる体〉で出て来た。頭は丁髷に編み笠がきまりの型なのに、〈赤き平たき陣笠〉をかぶって総髪を後に長く垂らしている。書生、壮士芝居なのに演ったのは歌舞伎で、しかも全然違っている、西洋で何をしてきたか知れたものではない、ということになった。
36ハ (108頁)
 〈私をはずかしめた人を見返す事が出来たような気がして、自分だけは非常にいい気持ちであった〉音二郎だったのに、いささか高くなっていたその鼻をまたもや見事にへし折られた。
 その上、帰朝公演は空前の高額料金で、しかも大入りだった(以下略)
37イ (108頁)
 貞奴はこの3カ月少々の帰国期間に、いっさい出演せず、金策と再渡航の準備に奔走していた。
37ロ (109頁)
 男優では新たに藤沢浅二郎、服部谷川などを加え、一行は20人と発表された。子供を加えると21人になる。4月10日、神戸から讃岐丸に乗船して、6月4日イギリスに到着した。
38イ (124、125頁)
 音二郎は精力的に動き廻った。気宇広大な野心を抱くのは以前と同じだったが、足かけ4年に亙った長期の欧米巡業は、音二郎を大きく変えた。役者蔑視に反撥しながら、音二郎自身、役者より政治家を豪いと思う意識から脱けられなかったが、政治への野心がふっ切れた。かつては日本と同じく卑しまれた役者が、政財界人や学者に劣らず尊敬される社会が現実に存在し、そのために貢献したブースをはじめ見習うべき先人のいた事を知って、日本のブースたり、フローマンたることを目指して演劇に生きる覚悟ができた。新演劇は、音二郎にとって方便ではなく、身を挺すべき仕事になった。
 〈私の将来期するところは、旧俳優と新俳優の間に、一つ世界的演劇を仕組みたいと思って居ります。それには完全の俳優を養成しなければなりませぬ。……彼女は女俳優を養成える決心で居ります〉(『中央新聞』明治35・9・1)
 音二郎は「世界的演劇」を起す準備にかかり、貞は女優の養成に当る。
(中略)
 貞は2人の姪を間に合わせの速成女優にするつもりはなく、基礎的教養からみっちり仕込んで、気長に育てていきたいと思っていた。ゆくゆくは、茅ケ崎の敷地内に養成所を建て、本格的な女優養成機関を造る計画も持っていた。ニューヨークの俳優倶楽部と演劇学校を参観した時から、いつかはきっと造ろうと夫妻で話し合っていた事である。
38ロ (126頁)
 女優になるのは真っ平だったし、舞台に立たなくても、内弟子の面倒を見、大世帯の台所をまかない、管理していく裏方の仕事がいっばいある。妻として、奥向きを取りしきるのが、貞にとって、本来の設計図であった。
 だが音二郎は、将来の青写真はともかく、さし当って、女優の不在にほとほと困じた。俳優学校の設立、脚本の改良、河原者といわれるような不品行・風儀と俳優の社会的地位向上、公立劇場設立の要望など、「世界的演劇を起すの必要」(『東京朝日新聞』明治35・10・13〜19)と題して、例によって、とてつもない〃大言壮語〃と思われるようないわば施政方針演説を公表したものの、その第一歩たる帰朝公演に成功しなければ、またもや全ての努力は泡と消えるのであった。
 帰朝公演に全力をあげてとりくむのが先決だったが、その演目に『オセロ』を選んだのも、女優がいないために、女性の登場人物の多い脚本には手が出せないという現実的な制約から来ている。だがヒロインのデスデモーナとエミリアだけは、女形でなく女優でなければならぬと、音二郎は考えた。
39イ (127頁)
 ドラマには女優が欠かせず、西洋の女優を見て来たのは貞だけなのだから、たとえ女優の修行をしてきたのではなくても、先ず貞が立つべきだと押しつけた。
(中略)
 音二郎は自分だって俳優の勉強をしてから俳優になったのではなし、貞ならばやれると信じていた。
(中略)
 明治30年代は女流作家が珍しがられ、一時の時流に乗って実力のともなわぬまま世間に引張り出されたあげく、下手だ、無知だ、無能だ、だから女は駄目だと叩きのめされて、引込んでしまったばかりか、一旦拓かれた女流作家への道を再び閉ざし、或いは発展を遅らせることになった。貞の出来映え如何では劇界でも同じことが起きたろう。
 貞が失敗すれば、ただでさえ困難な女優の道がいっそう険しくなる。不用意には応じられない。
39ロ (128頁)
 その貞を、音二郎は拝み倒し、頼み倒して、しまいには自分達の仲人である金子堅太郎をかつぎ出し、『オセロ』に出ることを承知させた。
40イ (133頁)
 明治36年2月11日、紀元節を期して明治座に開演、従来の如く演目を3つ4つと並べるのでなく、『オセロ』の一本立である。葭町の芸妓時代の友達・三輪家錦糸を発起人に、白襟黒紋付の大連(観劇団体)が初日に詰めかけた。
 雑誌『歌舞伎』を中心とする「同好観劇会」も総見に来た。
 編集の三木竹二(鴎外実弟)と伊原青々園、森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野鉄幹、大塚保治・楠緒子夫妻、佐々木信綱、上田敏、巌谷小波、桑木厳翼、井上哲次郎、新村出、東儀鉄笛、水口薇陽、中村春雨、川尻清潭などの文人、歌人、学者、画家、音楽家たちである。こうした大家一同が川上劇に揃って足を運ぶのは、これが初めてだった。『歌舞伎』34号(明治36・3)は『オセロ』の特集を組んだ。
40ロ (134頁)
 逍遥も鴎外も、その社会条件と照して、音二郎の勇気と実行力に脱帽した。
 この2人の評は最も穏当な評であった。
40ハ (135、136頁)
 音二郎は元々自分達新俳優には歌舞音曲の素養がないのだから〈その音楽をふりすてて、正劇と銘を打ったのです〉と、歌舞不要説まで唱えて物議をかもした。
40ニ (137頁)
 調子のつかめないまま、やっとの思いでその日その日を勤めた貞奴にとって、舞台は苦痛でしかなかった。
41イ (138頁)
 正劇第2回公演は、高安月郊の新作『江戸城明渡』と、土肥春曙訳述『ゼ・マアチャント・オブ・ヴェニス』法廷の場であった。
(中略)
 朝日新聞の饗庭篁村評、東京日日新聞のりう生評など一般紙では〈巧みに猶太の本性をあらわし得て、上乗の出来〉と言われたが、最も影響力の強い大家・逍遥と鴎外の川上忌避はいかんともなし難く、早くも見限られたようであった。
41ロ (139頁)
 貞奴は出演しなかったが、6月明治座の『江戸城明渡』は、新旧の対立をあらわにした。音二郎は、〈維新の史劇は劇界の大沃野〉(『新小説』明治36・7)と、大上段に振りかざして、歌舞伎の領分たる史劇に挑戦したのである。しかも例の歌舞不要説に拠って、歌舞伎の型にとらわれることなく、写真や古老の話に基づいて、写実を旨とする正劇流に演じてみようという野心的な実験劇であった。西洋の翻案ものならばともかく、これはどういうことになるのかと、歌舞伎役者が一見に及んで、嘲笑した。
 〈素人役者の寄合〉芝翫、〈川上氏の説を駁す〉高麗蔵、〈川上氏の遣口と舞台〉家橘、〈川上芝居の見物〉左団次・莚升、等々の見出しで、刀のさし様も駕籠の出入りも知らない、将軍と陪臣の身分による作法や装束の着け方も知らず見苦しい、踊りの素養がないから形が付かず不様だと、口々にこきおろした。その観劇談が『時事新報』に載ったことから端を発して、新旧の対立が煽られ、「立合演劇」申込みに発展したのである。
41ハ (140頁)
 新派が旧派に果たし状をつきつけたというので、「俳優合戦」と称して演劇ジャーナリズムは囃したてる。言葉尻をとらえたやじ馬論議も混じったが、音二郎は〈従来日本演劇一般の悪風たる荒唐無稽淫猥なる時世おくれの劇風を刷新仕りたく候〉と自信満々だった。歌舞伎勢は「立合演劇」を一時預かりにして、この応酬を打ち切った。
41ニ (140頁)
 音二郎としては、どれほどけなされても、正劇を手がかりにして、過去の反省から新たに立てた方針に確信があった。
42イ (142、143頁)
 音二郎はかねてから、子供に芝居を見せるな、と言っていた。その代り子供向けのお伽ばなしの芝居を考えていた。久留島武彦は巌谷小波と並ぶ児童文化の推進者であった。
(中略)
 巌谷小波は『日本お伽噺』についで、『世界お伽噺』を刊行中だった。その中から第28編に収められた『狐の裁判』と、第37編『浮かれ胡弓』の2篇が選ばれた。
 箱根へ避暑に出かける前に、あらかたの方針を決めていた。可免の死でいっとき中断されたが、お伽芝居は演目の選定から装置、配役、衣裳、音楽その他、貞奴が座長になって演出面全体の指揮をとる。9月はその準備に追われた。ドイツでお伽芝居を見てきてはいたが、日本では初めての試みである。
 〈36年10月3日午後1日55分チョンという初声高く、お伽芝居は向うの舞台に花々しく生れたので御座いました〉(芹影『歌舞伎』明治36・11)
42ロ (145、146頁)
 貞奴はこのお伽芝居、就中『浮かれ胡弓』によって、演技の醍醐味を味わったのではないだろうか。
(中略)
 お伽芝居ばかりは、さしも川上嫌いの面々も、こぞって支持を表明した。
(中略)
 貞奴は、会場を埋めつくす子供達の、瞳の輝きと歓声に応えて、こぼれるような笑みを浮かベ、すべてを忘れてお伽芝居にうちこんだ。なかでも『浮かれ胡弓』はその後全国25カ所以上を巡演し、子供たちを喜ばせ、貞奴自身も心を洗われた。『浮かれ胡弓』を見て芝居に惹かれ、長じて演劇に携わることとなった人々も出るほどの影響をのこした。
43イ (147頁)
 お伽芝居の第2回公演の翌日が、『ハムレット』の初日であった。
 明治36年11月2日午後5時半開場。一、興行時間を従来の半分以下、4時間半に短縮。二、入場料を3分の一の低価にして切符制度をとり入れ、木戸銭、下足銭、敷物料を全廃する。三、客席での飲食禁止。四、人力車は受(請)負人を定めて乗車券を閉場前に発売する。五、舞台装置は洋画家を主任とする事。以上5カ条の改革を掲げていた。
43ハ (147頁)
 音二郎は、『オセロ』上演の際譲歩を余儀なくされた劇界刷新のための改革を、今度こそはやり遂げる決意で臨んだ。
43ニ (147頁)
 観劇中の飲食禁止や中銭廃止の代償として、出方、布団、下足番等へ、15日間の興行収入から1250円を支払う約束で、劇場側と話合いが成立していた。
43ホ (147頁)
 だが開演1週間前、音二郎と番頭の2人が、出方たちに襲われ怪我をした。
 〈本郷座の出方が暴行を働きし紛糾事件に付、川上音二郎は一昨日警視庁へ出頭し、該取締に付申請したるより、本郷署にては本郷座の関係者一同を呼び出し、再び説諭せられたり、依って株式会社本郷座は出方一同を解雇の事に決定せし処、種々仲裁する者ありて川上は茶屋仕切場留場一同より金1000円の保証金を入れさせ、契約者の5カ条に違反したる時は、該保証金を没取する事に契約調い、全く落着を告げたりと〉(『東京日日新聞』明治36・10・30)
 積年の習慣を改めるには、時間と金と多大の労力を要した。時が来れば当り前になることでも、努力なしには〃時〃も来ないのだった。
43ヘ (148頁)
 公演に先だって、「本郷座正劇派新狂言」として読売新聞、東京日日新聞などが「『ハムレット』五幕の略筋」を連載し、公演後は各紙とも幕毎の劇評に紙面を割いた。
44 (154頁)
 博文に関して多少の屈折が音二郎にあったとしても、又、妻の引きを利用すると言われようと、音二郎は大ぴらに夫妻で博文の許に出入りして、博文のとりまきの1人であることを見せつけていた。
45イ (157頁)
 明治37年2月、満州、韓国での利権を争う日露両国の外交交渉が打ち切られ、宣戦が布告された。
(中略)
 開戦の翌月、音二郎は藤沢浅二郎、高田実、静間小次郎等新俳優と、写真師、画師を加えた総勢7人で、朝鮮西岸の仁川に渡った。帰国して『戦況報告演劇』を5月の本郷座に出し、貞奴も篤志看護婦の領事夫人役で出演した。
45ロ (162、163頁)
 興行師への転身を表明した音二郎は、今後の活動の拠点として、大阪に新劇場帝国座を建てる計画を進めていた。41年落成を目指して、それまでに欧州劇界を視察して来ようというのであった。
(中略)
 三たびパリに現れた貞奴を雑誌『Femina』が11月号の表紙に掲げ、夫人新聞『The Queen』が「パリ再訪」と題して紹介している。
46イ (167頁)
 7年前には、新橋駅頭に二頭立の馬車の出迎えを受けて断ったが、興行師として劇場関係者一同に迎えられた音二郎は、今回は貞奴と馬車に乗りこんだ。
46ロ (167頁)
 6月、音二郎は革新興行事務所を、貞奴は女優養成所仮事務所を、東京の京橋区木挽町に開設し、帰国後茅ヶ崎の家へも帰らず、忙殺された。
46ハ (167、168頁)
 〈彼地は婦人に対する同情も多く、弱いものは扶けるというのが一般の風ですから、少しでも善いことがあればそれを吹聴するというように、世間が手を取って導きますので、芸術はますます発達するのでございますが、又この芸術の発達をゆるがせにせぬその道の人々の熱心忠実な心がけにも実にかくありてこそ名人の域にも進まるるものよと感心の外はありません〉(川上貞奴談『時事新報』明治41・6・7)
47 (168、169頁)
 夫妻は6月9日、日本橋倶楽部に招かれ、帝国劇場の劇談会のメンバーと懇談した。帝国劇場は過ぐる明治39年、日露戦争後力をつけてきた財界人と伊藤博文との会合に端を発し、40年5月に着工した。この41年11月礎石式を行い、44年3月落成する。
 〈伊藤侯の主唱に岩崎その他の幇助と言えば、無論川音が糸を引いたらしい〉(●阿弥『文芸倶楽部』明治39・2)と見られ、創立発起人には渋沢栄一、福沢捨次郎、福沢桃介、益田太郎、西野恵之助らが名を連ねた。帝劇は資本金120万円の株式会社となり、音二郎も役者の中では筆頭の200株を持っていた。
 帝国劇場株式会社は、貞奴の女優養成所に創立賛助費500円と、毎月100円の補助金を出すことに決めた。
48イ (169、170頁)
 開校準備がすすむにつれて、帝国女優養成所は轟々たる非難に包まれた。
(中略)
 女優の募集は、年若い娘を誘惑し堕落させる元だと、貞奴は総攻撃を受けた。
48ロ (170、171頁)
 理髪店の仮教室で、翌日から毎日午前9時から午後五時までの稽古がはじまった。新劇を川上貞奴、旧劇を市川粂八が指導し、長唄を杵屋歌司、義太夫を鶴沢文京、鳴物を藤舎芦香、日舞を水木歌若、洋舞をミセス・ミークス、琴・茶・礼法を松岡止波、長刀を中山博道が担当した。外に院本講義、バイオリン、声楽、英語などの授業があったという。
 そして貞奴にはこの他に、革新興行第二団の座頭として、本郷座の舞台が重なっている。
 明治の女優排斥のすさまじさは、想像を絶するものがあった。男尊女卑の毒素が地底から噴きあげ、火山灰になって襲いかかった。貞奴が、「どうか世間が女優を育てる気になってほしい」と、それのみ案じたのも、杞憂ではなかった。
48ハ (171頁)
 貞奴は猛威をふるった女優攻撃の矢面に立って、この養成所を設置した。森律子が自伝に記すように、女優志願者にとって初めて開かれた道であり、その意味では砂漠の中にたった一つのオアシスだった。だが絶えず砂塵が舞い上って、目潰しをくう。
48ニ (171、172頁)
 帝国女優養成所は、既に創設準備中の貞奴談話に示唆されたように、翌42年7月、帝国劇場付属技芸学校と改称された。その卒業生たちによって、44年開場の帝劇名物となった〃女優劇〃が生まれることとなる。
48ホ (173、175頁)
 貞奴には女優養成所の開設と同時に、女優としての勤めもあった。
(中略)
 私演ではあったが、盛大な夜会に於いて、新派合同共演が実現したのであった。貞奴はこの夜の人気を独占することとなった。
(中略)
 音二郎は「革新興行」と銘打って、良い芝居を安く見せる事を考えた。
(中略)
 明治41年9月13日、第一団は明治座で、第二団は本郷座で、同時に開演した。この日付は、帝国女優養成所開きの2日前である。しかも、貞奴はこの興行から事実上、座長であった。
48ヘ (177頁)
 とは言え、音二郎には貞奴という観客動員力では当代一の名優がいた。
49 (178頁)
 音二郎はこの秋から再び舞台に立った。麻布御用邸で韓国皇太子の12歳になる誕生日祝宴が開かれ、その台覧劇として音二郎は『桜井駅の正成』、伊井蓉峰は『飛行船』を上演した。それから1週間足らずの10月26日、伊藤博文がハルビン駅頭で韓国人・安重根に射殺された。音二郎にとって、有力な理解者を1人失ったことになる。
50 (180頁)
 坪内逍等の文芸協会も、『ベニスの商人』『ハムレット』など2回の公演を経て、明治42年5月演劇研究所を開設し、2年後から公演活動を開始して松井須磨子を世に送る。続いて「雨後の筍」の如くと形容される勢いで新劇団が次々と現れた。
51 (184頁)
 客席は円形で声のまわりを良くし、2階、3階も石灰たたきにしてどこでも下駄履のまま行けるようにした。
 舞台を広くとって奥行きを深くし、全体としてテアトル・フランセを手本に日本の特色を加味したものであったらしい。客席ははっきりしないが、椅子席と桟敷席が併用された。
 明治43年3月27、8両日、午後7時から大阪府の知事市長をはじめ各界名士、演芸関係者を招いて、舞台開きが催された。
 〈今の所では、類のない日本一の大阪帝国座、総ての設備、舞台の模様、どうやら外国へ行ったような心持がする〉(『東京朝日新聞』明治43・3・1)と記者は伝える。
 だが挨拶に立った音二郎は、〈新築には成功したるが、経済には失敗しそうで御座る〉と心細さを披露した。藤沢紫水(浅二郎)脚色の黙劇『天の岩戸』と『ボンドマン』を上演、『天の岩戸』は、宮内省楽人の演奏、若柳吉蔵振付、貞奴が天鈿女命を舞い、音二郎の手力男命が岩戸を開くと、暗夜が明けて1万5千燭の電燈が輝やくという趣向であった。
 3月1日から一般公開し、初日から10日ばかりは満員の盛況だった。だが〈八方から詰めかけた債主連が毎日仕切場(勘定場)へ頑張って毎日の上りを一文残さず引上げていくので、……大部屋連の給金が行き渡らず、衣裳小道具向きへも仕払止め〉(『都新聞』明治43・4・3)となり、この噂をきいて客足も遠のいてしまった。
52イ (185、186頁)
 この夏も山陰道巡業に出て、音二郎の郷里博多を廻って大阪に帰ったが、秋の帝国座公演準備中に、音二郎は倒れた。
 帝国座は田口掬汀、佐藤紅緑、柳川春葉を座付作者に擁していたが、音二郎はイプセン作『社会の敵』を『人民の敵』と題して自分で芝居に仕組み、主演も兼ねるつもりでいた。
(中略)
 音二郎の病勢はかなり前から悪化していた。
52ロ (186頁)
 〈しかし川上は今度の脚本は演説芝居で、外の者ではとても演とおせはしないから、おれがやる外はないとどうしても聞きません。やっとドクトル・ストックマンの役を換えさせましたが、後にはその稽古さえ出来ぬ程となり、川上も床の中へ寝たなり、私どもはその枕許で稽古をしましたが、とうとう登場は出来ませんでした〉(「川上貞奴と語る」松居松葉『読売新聞』明治44・11・14〜17)
 10月13日、藤川岩之助を代役に立てて開演したが、それも3日間しか開場できなかった。音二郎は高安病院で腹膜炎の手術を受け、腹水4升余りを排水した。〈おれが育てた新派の家は、地震があれば倒れもするし、まだまだ不足の点が多い。おれはこの家を頑丈なものにして死にたい。
(中略)
 若しおれが死ねば、お前(貞奴)はおれの遺志を継いでくれろ。おれが今日までの遣り口は、決して自己の儲け主義じゃないのだ。ここをよくよく理解して、決して金儲けのために己の理想を枉げてくれるな〉(貞奴談『大阪朝日新聞』明治44・11・14)
(中略)
 うわ言にも芝居のことばかり呟きつつ、その後再び覚めることなく、これが最後の言葉となった。
52ハ (187頁)
 音二郎は8日間昏睡状態のまま、覚めることなく、11月11日午前5時、北浜の帝国座に移され、1時間後に息をひきとった。
52ニ (188、189頁)
 貞奴は先月来の心労から博多で10日ほど寝込んだが12月には帰阪した。貞奴は〈川上は一生を我慢で通したのですが、その我慢のために命を取られました〉と悔やみ、〈幾度思い返しても淋しくてつらくて〉、そのせつなさを切り開くためにも、強いて、追善興行の準備にかかった。
 巷間では、のこされた貞奴の身の振り方をめぐって、お節介な品定めが渦巻いていた。音二郎の死に耐え、うちのめされつつ再起を計る貞奴に同情の声は小さく、強い貞奴への反感がかき立てられた。転びつつ起き上がり、また昏倒する貞奴に「亡夫の墓守りこそ後家の務め」とお為ごかしの勧告がかまびすしく、貞奴の再起の意志を砕きにかかった。
(中略)
 執拗なまでに、〃後家は引っこめ〃〃尼になれ〃と繰り返された。
53イ (193、194頁)
 貞奴が演劇活動を続け、その拠点としてざっと40億円の帝国座を維持しようとしても、おいそれと手を貸すものはない。
53ロ (194頁) 貞奴自身、スキャンダルにさらされた。福沢桃介の姿が貞奴の行く先き先きに現れて、〈面白からぬ醜聞が折角の光ある生涯を奈落の底へ蹴落として了ったので、今は再び起つに由なく、……近々芸壇を退くの外ほか途みちはあるまい〉(『演芸画報』大正1・11)という風説が広まった。
53ハ (196頁)
 帝国座の見通しも暗かった。
(中略)
 貞奴は尋ねられる毎に強い語調で答えていた。ところが、この日付から半月後、〈遂に帝国座を手放しました〉(『九州新聞』大正2・5・24)とぽつんと一言語って、そのいきさつについて何の説明も加えず口をつぐんだ。
54 (202、203頁)
 その間に音二郎の銅像建設地が、漸く谷中の天王寺にきまった。
(中略)
 谷中の天王寺は幸田露伴の小説『五重塔』で名高い。音二郎の銅像はその手前に建てられ、音二郎の4回忌を期して、除幕式が行われた。約4メートルの銅像はフロックコートの礼装に、フランス政府から贈られたオフィシェ・ド・アカデミーのタスキをかけ、右手にステッキ、左手に山高帽を持っていた。台座の文章は、金子堅太郎、栗野慎一郎両子爵の揮毫になる。式には新俳優、演劇関係者、貞奴の知人などが参列した。
55 (203頁)
 当時、須磨子も天勝も全盛期だった。須磨子は島村抱月と芸術座を結成して『復活』に主演し、「カチューシャの唄」と共に爆発的な人気を博した。その上演回数は444回と記録される。明治末イプセンの『人形の家』のノラを演じて以来、昇り坂にあった。
56イ (212頁)
 桃介の妻は、事業とは無縁に育ち、桃介とは別の世界に住んでいるようだった。
56ロ (234頁)
 桃介は福沢諭吉の養子になって、二女・房と結婚したが、復姓を希望したとも伝えられる。そのとき(明治32年)桃介は再度の喀血をし、入院中だった。
57イ (234頁)
 諭吉も2万5千円ほど出資したという貿易会社、主として北海道から木材を輸出する丸三商会を創立したが失敗して、桃介は失意のどん底にあった。房夫人や家族と別居して大森不入斗に逼塞した。闘病生活を送る間に諭吉が病没し、復姓の希望は見送られた。
57ロ (234頁)
 桃介は20代の後半から30代へかけて、2度の闘病生活を余儀なくされたが、その間に株式相場を寝ながら研究し、株で療養費をかせぎ出した。1年目に千円の元手を十万円にし、10年後には二百万円儲けたと言われる。日露戦争後の株式ブームが終って暴落した時、一代の大成金と称された鈴木久五郎等の成金の多くは没落したが、桃介はその前に売りに廻った。兜町界隈では桃介の手仕舞に舌をまき、桃介を〃売りの大成金〃〃飛将軍〃と呼んだ。
57ハ (236、237頁)
 有美は人の私事を喋々する人ではなかったが、冷えびえとして居たたまれなかったという。渋谷邸の桃介は小間使の給仕で食事をし、房とは別々に、一つ家にいても目をそむけ、互いに見ないように心を閉ざしてやり過ごした。身も心も通わない関係になって久しいが、壊してしまうには時が経ち過ぎていた。
57ニ (248、249頁)
 貞は非を自分に認めて、しずかに手を引いた。貞の演劇活動は、これで終った。もう、これでいいと低く囁く声がきこえる。他ならぬ貞自身の声だったが、亡き母・可免の朗々と響く声が和した。音二郎のしわがれ声も続いて、しきりに頷いてみせる。いかなる時にも貞の絶対の援護者だった可免と、貞を演劇へと駆り立ててやまなかった音二郎と、二人の懐かしい顔が立ちあらわれて、貞に慰労の微笑を送ってよこす。
(中略)
 幼い日、浜田家へ駆けこんで芸者になった第1歩から始まって、女優生活20年、川上絹布に6年、川上児童楽劇園は8年、それがこの世に刻んだ貞の行跡だった。その都度、身を翻して我からとびこみ、心血を注いで築いた世界である。
58イ (15頁)
 貞奴は大柄であったかのように思われていたが、実際は5尺に満たない小柄であった。4尺9寸、約1メートル48センチ、女形と共演すれば、少くとも10センチは低くなる。
58ロ (18頁)
 それは、50歳を過ぎた貞奴が、晩酌を傾けながら話す〃酒の肴の物語〃として、貞奴の養女・川上富司によって記憶される。富司は大正9年14歳の時から貞奴のもとに引きとられ、長じて川上家を嗣いだ人である。
 「あの話はよくなさっていました。貞奴が4つ時分のことです。貞奴の兄の小山倉吉が彫金家の加納夏雄に師事して、その娘、冬と結婚するので、貞奴も加納家に預けられていたのですね。そこに5歳と10歳くらいの男の子が2人いて、いつも一緒に遊んでいた。貞奴は活溌な下の子と仲良しで、おとなしい上の子は嫌いだった。ところがある日、3人いっしょにお風呂に入って、背中を洗って貰っていた時、上の子が、〃いまに貞ちゃんは僕のお嫁さんになるんだよ〃と言い出した。それで貞奴は、あんなおとなしい子のお嫁さんにされては大変だと思って、翌朝起きぬけに加納家を逃げ出して、浜田家へ行ったのだと、そうおっしゃってましたよ」

『ドラマストーリー 春の波涛』
1a (90頁)
 音二郎と貞は、文字どおり、世界的俳優、女優となったのである。
1b (93頁)
 そんなある日、川上一座がいよいよ神戸に帰ってきた。
1c (93頁)
 神戸もそうだったが、東京の新橋駅に着いたときの出迎えの人々の熱気は大変なものだった。座員一行17人の親戚縁者はもちろん、川上座に関係のあった出方、茶屋の者、留守を預かっていた桜木、かつての座員高田実や伊井蓉峰も来ている。その他、新聞記者たちでごったがえしていた。
(中略)
 貞は亀吉を気にしながら、迎えによこした二頭立ての馬車に乗って音二郎とともに出かけた。
2 (93頁)
 「河原乞食といわれた役者に二頭立ての馬車を迎えによこすなんて、(略)
3 (55頁)
 彼らは、みな水揚げしたいと望み、その時期がくるまでは指1本ふれちゃいかんと紳士協定まで結びだす始末である。
4a (54頁)
 明治15年ごろの日本では、女は誰も馬になど乗りはしない。道行く人々がギョッとしたように目をみはって立ち止まっているなか、着物の上に股立ちをはいた貞は、風のように通り過ぎていく。
4b (54、55頁)
 突然、鋭いいななきとともに馬が跳びあがり、暴れだした。たてがみにしがみつくようにして、貞は必死で手綱をしめようとする。だが、たけり狂った馬には通じない。貞をふり落とさんばかりに弾ね狂い、荒れ狂い、走り回る。
(中略)
 そのときである。猛然と走ってくる馬の前に敢然と両手をひろげて男が立ちふさがった。男めがけてつっ走ってくる馬。色白の貴公子のような顔立ちながら微動だにせぬ男――。
 止まった。
 馬は男の前でピタリと止まったのである。
 「よーし、いい子だ。静かに……な」
 男は馬のくつわを取り、鼻づらをなでていたが、ふと馬上の貞を見た。
 汗びっしょりで貞も男を見た。
 「小奴」といってこのころまだ半玉の貞と、慶応義塾の塾生岩崎桃介の衝撃的な出会いであった。
5 (55頁)
 この日から2人は恋におちたのである。
 しかし、この恋はなかなかやっかいな恋であった。
6 (74頁)
 音二郎はかねてから貞に伊藤博文を紹介してくれぬかともちかけていた。貞が伊藤の権妻であったことを知らぬわけではないのに、何のこだわりも抱いていないらしいのである。
7 (68頁)
 明治22年2月、かねてから伊藤らが草案を検討中であった大日本帝国憲法がついに発布される運びとなった。伊藤博文たちは、ついに憲法発布まで漕ぎつけた慰労会を、金子堅太郎、井上毅、伊東巳代治らとともに浜町の幾松でもった。
8 (70頁)
 アメリカから帰った桃介と房子は北海道に居を構え、新婚生活は順調だった。
 北海道炭鉱鉄道株式会社での桃介の月給は100円であり、当時のサラリーマンとしては破格である。(略)しかし、房子が妊娠すると、東京からしきりに帰るようにとすすめてきた。「そんな寒い北海道で出産させるわけにはいかない」というのである。
9a (53頁)
 いままさに川上音二郎一座公演のクライマックス。板垣退助と相原尚●が舞台狭しと、組んずほぐれつの格闘を繰りひろげている。出し物は川上音二郎一座の十八番『板垣君遭難実記』。相原役こそが川上音二郎その人である。
(中略)
 書生や職人風の観客は総立ちで拍手、拍手である。そのなかで、ひときわ人目をひく美しい女と、連れの粋な女将風の女がいた。
 女は「奴」こと貞。葭町の芸者置屋・浜田家の養女であり、伊藤博文が水揚げした売れっ子の芸者である。うっとりと舞台を見上げる目は何とも色めいて、花が匂うようである。
9b (53頁)
 「おっかさん、どう? こんな芝居、いままで見たことある?……本当に真に迫ってるでしょう?」
 「フン、これでも芝居かねえ。こんな与太者の喧嘩みたいなのがさ」
 気乗りしない女将は、貞の養母で、浜田家の亀吉である。「おっかさん、そこが新しいんじゃない。みんな、あの川上音二郎が発明したんだよ」
9c (74頁)
 以来、貞の心にはドッカリと音二郎が棲んでしまったのである。
10a (57、58頁)
 そんなある日、葭町の口入れ屋、千束屋に奇妙な男がたずねてきた。風体からというとどうも書生のようである。
(中略)
 こうして車引きを始めてしばらくしたころ、音二郎は芝増上等でお供えの膳をつまみ食いすることを覚え、毎朝、供物を盗むようになってしまった。ところがある朝、待ち伏せしていた坊さんに捕まえられ、腰が抜けるほど叩かれたのである。が、それが縁で音二郎は車引きをやめ寺に住みつくようになった。
 それにしても、人間何が幸いするかわからない。坊さんに捕まったおかげで、音二郎は福沢諭吉宅に書生として住みこめるようになったのである。
 増上寺には福沢諭吉が散歩に来ていた。
10b (59頁)
 こうしてついに音二郎は慶応義塾の学僕として諭吉に雇い入れられたのである。
11a (62頁)
 自由童子こと音二郎は大阪で大活躍していた。その過激な言動は壮子たちの間で評判になっており、実際、彼は集会条例違反、官吏侮辱罪等の罪名で何と100回以上も投獄されていたのである。
11b (61、62頁)
 「おぬし! おぬしはこれから自由民権の弁士になれ! 俺たちと一緒に全国を遊説して回るんだ。伝道者になるんだ。いいな!」
 「はいッ。やりますッ。やらせてください!」
 こうして、音二郎はその名も「自由童子」としてスタートを切ったのである。
(中略)
11c (68頁)
 もともと「民権かぞえ唄」などを寄席で披露していた音二郎である。
11d (62頁)
 自由童子こと音二郎は大阪で大活躍していた。その過激な言動は壮子たちの間で評判になっており、実際、彼は集会条例違反、官吏侮辱罪等の罪名で何と100回以上も投獄されていたのである。
11e (65、66頁)
 再び大阪に帰った音二郎はまたも検束された。大阪の新町座での宗教演説会で、「ヤソに神なし、仏教に仏なし」とやり、軽禁固六か月をくらったのである。
11f (65頁)
 釈放後、再びひとりになった音二郎は講釈師自由亭雪梅と名のって上京していた。奥平と同様、政治運動を禁じられ、講釈師になったのである。
11g (62頁)
 先醒堂覚明という名で舞台に上がっている奥平は神田末広町の千代田亭を3日間札止めにするほどの人気を博していた。
11h (67、68頁)
 演劇に目覚めた音二郎は出所すると大阪で落語家の桂文之助、別名僧呂利新左衛門の弟子になり、浮世亭○○という名前で寄席で噺をするようになった。といっても、筋だった落語を話せるわけはなく、時局の当てこみや政治漫談的な駄酒落を飛ばしながら、自由民権の思想を吹きこもうというつもりだった。しばらくすると、音二郎は「へらへら節」の元祖といわれる三遊亭万橘の弟子と称する橘万蔵と同じ高座に出るようになった。橘万蔵は時の流行や時局に対する風刺的な言葉を並べ、
 太鼓が鳴ったら賑やかだ
 ほんとうにそうならすまないね
 ヘラヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ……
 と踊るのだった。
 それを見ながら音二郎はえらく刺激を受けた。もともと「民権かぞえ唄」などを寄席で披露していた音二郎である。彼なりに時局を盛りこんだ歌詞をつくり、「ヘラヘラ節」の節回しでやってみたらどうかと考えていた。
11i (66頁)
 彼は新しいみずからの方向をいまこそ真剣に模索しはじめたのである。
11j (68頁)
 そのころ、大阪の寄席では音二郎がはじめて、「オッペケペ」を披露していた。
11k (71、72頁)
 それから、湯浅麟介という生きのいい若者も応募してきて、演説もうまく、また文章も立つので、採用することにした。
11l (71、72頁)
 一方、音二郎はオッペケペだけでは飽き足らず、かねてから念願の改良演劇の旗揚げをするために、新聞広告で座員を募集した。
(中略)
 とにかく、青柳捨三郎、金泉丑太郎らの芸達者もそろい、川上一座の旗揚げ興行となった。
 場所は堺の卯ノ日座である。狂言は『経国美談』と『板垣君遭難実記』。『経国美談』は音二郎がしばしば高座で演じたものであり、その舞台化である。
11m (72頁)
 明治24年3月、音二郎は小田原の桐座で興行を打つことになった。
(中略)
 そのとき、事件がもち上がった。
 『蜃気楼将来の日本』という狂言の2幕目のことである。この世に幽霊があるかないかで議論する芝居で、音二郎は幽霊はあると主張する役だった。ところが、桟敷にてんでにステッキと棒を持った壮士が20人ばかり陣取って、「幽霊はない」と野次りだしたのである。麟介や桜木、女形の丸山蔵人まで腹を立てて、ついに役者と壮士の殴りあいになってしまった。小田原の馬車屋が総見に来ており、彼らが役者に味方したからさらに騒ぎは大きくなった。
11n (72頁)
 『板垣君遭難実記』のほうは新聞記事によってつくりあげた。柔術家を殺陣師として雇い、歌舞伎とはまったくちがった写実的な立ち回りに徹したために、客はひと味ちがった斬新な面白さに喜んだ。
11o (71、72頁)
 それから、湯浅麟介という生きのいい若者も応募してきて、演説もうまく、また文章も立つので、採用することにした。
12a (70頁)
 ●権利幸福きらいな人に
 自由湯をば飲ませたい
 オッペケペ
 オッペケペッポー、ペッポッポー……
12b (68、69頁)
 ●不景気きわまる今日に
 細民困窮かえりみず
 目深にかぶった高帽子
 金の指輪に金時計
 禁門、貴顕にひざを曲げ
 芸者、たいこに金をまき
 内には米を倉に積み
 同胞、兄弟見殺しか
 オッペケペ
 オッペケペッポー、ペッポッポー……
12c (68頁)
 衣裳はいつか歌舞伎の一座にいたときに使った物をヒントにして、黒木綿の筒袖に白金巾の兵児帯、白縞の小倉袴に緋の陣羽織、後ろ鉢巻きで日の丸の軍扇を持って歌い、踊ったのである。
13a (54頁)
 「おっかさん、見て……あの引き幕、あたしが贈ったのよ」「そんなにいれ上げるほどの男かねえ、まったく」
13b (74頁)
 その夜、2人は固く結ばれたのだった。以来、貞の心にはドッカリと音二郎が棲んでしまったのである。
14 (74、75頁)
 音二郎はかねてから貞に伊藤博文を紹介してくれぬかともちかけていた。
(中略)
 すると、伊藤はカラカラ笑って、「古いよ、古いよ。いまや日本の政治は欧米なみに民選の議員が選ばれ、それによって国会も運営されている。藩閥政府の時代とはちがうのだよ。そんなことを考えずに、新しい演劇を志すならば、ヨーロッパの演劇を勉強して輸入すべきではないかね」というのである。ショックだった。
(中略)
 こうして明治26年正月、音二郎は座員にも告げずこっそりフランスへ旅立った。
 音二郎は4か月ぶりにパリから帰ってきた。
15 (76頁)
『オイディプス王』を下敷きにした川上一座の出し物『意外』は大ヒットした。
16 (100頁)
 当時、劇場は升席が主流であり、観客はその升を場代として買うのである。だが、これだけでは芝居は見られない。座席は芝居茶屋か料亭を通して買うわけだから、それらに対して祝儀がいる。その金額によっては良い席になったり、悪い席になったりする。次に木戸をくぐって自分の席に行くのに、5銭から10銭の木戸銭を払わなければならない。その次に履物である。下足代が2銭から5銭。座布団代が5銭から10銭。なみの公演は10時間にも達するから、その間に弁当や煙草、酒がいる。当然その世話をしてくれる出方に祝儀を払うことになるので、芝居見物は非常に高くつくのだった。
17 (74頁)
 「この男と一緒にいれば、きっとおもしろいことがたくさんあるにちがいない」
18a (76頁)
 華々しい引き祝いの席で彼女の引退を惜しむ声は多かったが、貞としては、自分の手で音二郎をパリに遊学させたし、桃介と房子の向こうを張って、どうしてもまともな結婚をしなければならない意地もあった。
 仲人を伊藤博文の部下であり、音二郎と同郷でもある金子堅太郎夫妻に頼んで、2人は豪華絢爛な披露宴を催したのである。
18b (75頁)
 ところが、音二郎と同じ博多出身の金子堅太郎から話があり、音二郎は思ったより早く伊藤と話す機会を得たのである。
19a (76頁)
 そんななかで貞はいよいよ音二郎と結婚することになった。
19b (76頁)
 『オイディプス王』を下敷きにした川上一座の出し物『意外』は大ヒットした。舞台の照明に工夫を凝らし、客席を暗くし、電話などの文明の利器を登場させたりしたのが観衆に目新しく思われたのだった。
20a (76頁)
 明治27年、日清戦争が始まった。
 日本中が戦争でわきかえり、軍拡に反対していた野党までが戦争を肯定しはじめた。
 諭吉も朝鮮独立のため戦費を出すなどしていた。これらを黙って見過ごす音二郎ではない。すぐさま『壮絶快絶日清戦争』なる芝居をでっちあげたが、これが大変な当たり。勢いにのった音二郎はみずから戦線を取材すると、『戦地見聞日記』を上演した。タイムリーな芝居にこれも大ヒットである。この『戦地見聞日記』は上野の野外劇場に皇太子を迎えて演じる栄誉に浴し、音二郎の名は天下にとどろきはじめた。
20b (76頁)
 そして、後日、ついに音二郎は旧劇の殿堂・歌舞伎座の板を踏んだ。そのうえ、そこで演じた『威海衛陥落』、『因果燈篭』は絶賛を浴びたのである。
21a (77頁)
 川上一座からも急に客足が遠のいて、何をやってもヒットしない。そうなると、新聞は音二郎の悪評を書き立てはじめた。
21b (76頁)
 これまで音二郎の芝居をチクチクと槍玉にあげていた『万朝報』の黒岩は苦々しい思いでいた。
21c (77頁)
 音二郎攻撃は外部だけではなく、内側からも起こりはじめた。これまで川上座建設をめざして、座員の給料は低めに抑えられていたが、その不満が爆発したのである。頼りになる役者伊井蓉峰も高田実も去っていった。だが、湯浅麟介だけは去らなかった。
21d (77頁)
 これまで川上座建設をめざして、座員の給料は低めに抑えられていたが、その不満が爆発したのである。
21e (77頁)
 「大風呂敷のペテン師ー川上座はいつなることやら!」
 それは、音二郎が「演劇の改良は演劇の構造から新しくしなければならならい」とぶちあげ、目前の劇場・川上座の建設アドバルーンを上げたことへの風刺である。
22a (78頁)
 貞は伊藤博文と金子堅太郎を動かし、銀行から金を借りることに成功した。足りない分は高利貸しから借り、やっと明治29年6月、川上座は完成をみたのである。
22b (78、79頁)
 開場式を数日後に控え、貞は満足感にひたっていたが、そこに、子連れの女が現れた。
 「この子は音二郎さんの子ですから、引きとってください」というのである。八重子だった。
 八重子は出獄した奥平とも別れていたが、この子は音二郎の子だといい張ってきかない。貞は八重子と子供を追い出し、帰ってきた音二郎をさっそくとっちめた。
(中略)
 口論の末、貞はカッとなってとび出した。浜田屋にとびこんできたその姿を見て、亀吉はびっくりしてしまった。髷を切って、髪はザンバラである。
 「もうあんな男のところには戻らない」といい張る貞を、亀吉と、金子堅太郎が必至になだめ、とにかく川上座の開場式には出席することにさせた。
 その当日、来賓の金子堅太郎の祝辞が終わり、音二郎と貞が頭を下げると、そのとたんに貞の頭の付け髷がスッテンコロリと落ちてしまったのである。会場はたちまち大笑いとなってしまった。厳粛な儀式が喜劇と変じたのであるが、この椿事ちんじは川上座の行方がけっして安泰ではないことを象徴しているようであった。
 案の定、川上座は開場したものの、負債の利息がかさんで、公演のあがりは全部持っていかれ、音二郎の演劇改良の志は、現実のなかで次々と足をすくわれていくのである。
23a (79頁)
 ところが、追いつめられても活路を見いだすのが大風呂敷の音二郎である。高利貸しの追放と新演劇の保護を唱えて、国会議員に立候補するといい出したのである。もともと政治志向の音二郎は、そう決めるとがぜん元気をとり戻した。
(中略)
 音二郎の選挙区は東京府の荏原えばら郡入新井村字不入斗いりやまずである。
23b (80頁)
 その年は選挙が2度あり、音二郎は周囲の反対を押しきってまたもや衆議院に打って出た。こうなれば、もうヤケのヤンパチである。しかし、2度目の選挙も予想どおり落選。
23c (79頁)
 だが、彼がどんなに大衆受けしても、当時選挙権のあるのは地租15円以上を納めた男子に限られていた。そのうえ、音二郎は地元の対立候補の動きに無知だった。最後には運動員が1票20円、30円で票を買い、得票に狂奔したが、金は取っても、寝返った者もかなりいて、彼は徹底的に地主と有産階級の選挙に翻弄され、蓋を開ければ落選していたのである。
23d (79頁)
 だが、例によって『万朝報』は音二郎を攻撃し、からかい半分の記事を毎日のように載せる。「河原乞食の分際で選挙に打って出るとは音二郎も思いあがったものだ」と書かれ、音二郎はいまにみておれと選挙運動に駆けずり回った。
23e (80頁)
 それにつけても腹立たしいのは『万朝報』の黒岩である。このころ、『万朝報』では幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦を論説委員に迎え、鋭い政治批判とともに、ヒューマニズムに根ざした論説によって、充実した内容といい読者を誇っていた。その紙上で黒岩は川上の新派合同団結興行の『又意外』をケチョンケチョンに酷評して、「何の新しさもない二番煎じ」と決めつけたのである。
23f (80頁)
 そして、ついに川上座も他人手に渡ることになった。
 誰もいない川上座。
 音二郎と貞は舞台に座ってシャンペンを飲んだ。
 この劇場建設のために、2人ともどれ程苦労をしたことか。音二郎は男泣きに泣いた。
 「あら、イヤだ。泣いたりして」
 明るくはしゃいでみせる貞であったが、やはり貞の瞳にも涙があふれていた。
24a (81頁)
 音二郎は黒岩に哀れみをかけられたようで、やり切れない思いの日々をおくっていた。そのうえ、借金とりには追い回され、日本国中、どこにも自分の居場所はないような気がしていた。
 「死にたい……、どこかへ行ってしまいたい……」
24b (80頁)
 音二郎は怒った。
 そして『万朝報』社にのりこんだのである。それもピストルを持って−−!
25a (81頁)
 もうどうなってもかまわないという気がして、築地の岸壁で見つけておいた商船学校のボートを買いとると、彼は日本脱出を貞にうちあけた。
(中略)
 2人は食料と水を積みこんで築地の海岸からひそかに出航した。
25b (82頁)
 ちょうど二百十日のことである。亀吉、麟介、桜井も真っ青になった。『万朝報』の黒岩もさすがにびっくりした。「川上音二郎、ついに発狂す」と彼は書いたが、自殺行為ともいえる無謀な行為に、彼は音二郎の計り知れない何かを感じていた。
 音二郎と貞の太平洋放浪の旅がつづいた。
 横須賀港に迷いこみ、軍艦「富士」に発見されるかと思えば、そこを逃げ出して大嵐にあう。
25c (81頁)
 二人は食料と水を積みこんで築地の海岸からひそかに出航した。
25d (81、82頁)
 『万朝報』の黒岩もさすがにびっくりした。
 「川上音二郎、ついに発狂す」と彼は書いたが、自殺行為ともいえる無謀な行為に、彼は音二郎の計り知れない何かを感じていた。
25e (81頁)
 「おまえさん、死ぬ気かえ?」
 「出たとこ勝負、死ぬ時は死ぬさ」
 「まさか、ひとりで行くってんじゃないだろうね?」
 「おまえまで道連れにはできやしない」
 「借金とりが捜し回ってるのに、あたしを残して行くっていうのかい? 死ぬときはあたしも一緒だよ、音さん」
25f (82頁)
 天竜川に打ち上げられて、ボートはすっかり破損してしまう。
 そんな難儀も数知れずあったが、その土地土地の人々はみんな親切だった。「道中の話をしてくれ」といわれて、付近の村々でおもしろおかしく話をする音二郎たちは、どこへ行っても手厚くもてなされた。
25g (82頁)
 船の修理が終わると、また出航。
25h (82頁)
 浜島はまじま沖でアシカの群れに襲われ、由良の港へ向かう途中にまたまた大嵐。2人の海洋の旅は逐一新聞に報道されて、浜田屋の亀吉たちをヒヤヒヤさせている。
25i (82頁)
 明けて正月2日、神戸港に着いたときには、音二郎は壊血病にかかっており、そのまま1か月もの入院を余儀なくされていた。
26 (83頁)
 しかし、天は音二郎を見放しはしなかった。入院中に信じられないような話が舞いこんできたのである。アメリカの大西洋岸のアトランチック・シティに、茶屋や球戯場などを含む日本庭園を経営している櫛引弓人くしびきゆみんどという男が、音二郎にサンフランシスコの興行界を紹介するから、アメリカへ興行に行かないかとすすめにきたのだ。
(中略)
 もはやこのまま日本で演劇活動をやってもパッとしないだろうし、何か目新しいものを求めていた音二郎はこの話にとびついた。
27a (83頁)
 明治32年4月、音二郎一座はゲーリック号に乗りこみ、一路サンフランシスコをめざした。湯浅麟介、藤川岩之助、山本嘉一らの中堅俳優、三味線の杵屋君三郎、三上繁、丸山蔵人らの女形、音二郎の姪で12歳のツル、弟の磯二郎、事務員の川本末次ら総勢19人である。
27b (83頁)
 5月23日、一行はサンフランシスコに到着した。
28a (83頁)
 岸壁には櫛引弓人の紹介で、一座の斡旋役を買ってくれた弁護士の光瀬耕作が出迎えにきてくれたが、貞ははじめて見る異国の都会に、ただただ呆気あっけにとられていた。サンフランシスコはこのころ、すでにケーブルが市中を走り、自動車や馬車などがあふれている。
 「いいかい、はぐれないようにおしよ」
 一行は手を取りあってビルの谷間を歩くありさまだった。街にはすでに貞のポスターが張り出され、まるで彼女が主演であるかのように宣伝されているのである。
28b (84頁)
 「あたしは女優じゃないわ! あんた、あたしを女優にするつもりなの?」
 (中略)
 「ひどい、ひどい……あんまりじゃないか」と貞はむくれたが、23日に着いて25日には公演するという日取りになっているのでグズグズもいっていられないのである。貞も観念して、『道成寺』だけならやるということでこの場はようやく落ち着いた。
 貞がかつて奴という名前で芸者に出ていたことを知ると、光瀬は「貞奴」という芸名がいいといい出し、かくて女優「貞奴」が誕生したのである。
29a (84、85頁)
 劇場はオッファーレル街のカリフォルニア座である。
(中略)
 一座は9日間公演し1271ドル(2542円)の興行収入をあげた。この後、1週間の休養期間をおいて、再びカリフォルニア座で公演していたが、思ってもみない事件が起きてしまった。公演途中に光瀬弁護士が興行収入を持ったまま姿をくらましてしまったのである。
 劇場の借りあげ賃が半分残っているうえに、広告料、電気代も未払いだったために、一行は衣裳、道具類を差し押さえられて劇場から締め出されてしまった。文字どおり、路頭に迷うはめとなったのである。だが、捨てる神あれば拾う神あり、在留邦人有志の協力により、義捐興行を打てることになり、それによって、ようやく700ドルが集まった。
29b (85頁)
 「帰りましょう、もう外国はこりごりです」
 座員たちはすぐにも帰りたがったが、音二郎はそのつもりはない。その金で劇場に差し押さえられていた衣裳、小道具類を請け出すと、彼は座員たちに向かって熱っぽく訴えた。「このままおめおめと帰っては、われわれは2度と浮かばれやしないぞ。外国に来た以上、大評判をとって帰るんだ。やってみようじゃないか。な、みんな、どうか、この音二郎に命を預けてくれ!」
29c (85頁)
 サンフランシスコで音二郎の姪ツルを養女に出し、弟の磯二郎も座を離れたが、一行はシアトルからタコマ、さらにポートランドへ巡業をつづけた。
29d (83頁)
 湯浅麟介、藤川岩之助、山本嘉一らの中堅俳優、三味線の杵屋君三郎、三上繁、丸山蔵人らの女形、音二郎の姪で12歳のツル、弟の磯二郎、事務員の川本末次ら総勢19人である。
29e (85頁)
 一行はシアトルからタコマ、さらにポートランドへ巡業をつづけた。いずれも着いてから劇場を探し、公演がすみしだい夜行列車に乗るのである。道中はろくな宿もとれず、衣裳、鬘かつら、道具類を手分けして背負い、草履ぞうりばきで歩き、汽車に乗っているときだけが休息の時間というありさまであった。
29f (85頁)
 ようやくシカゴに着いたある日のことである。
 場末のホテルの1室を音二郎と貞の名義で借り、他の座員たちは入れ代わり立ち代わり訪問者を装って寝にくるという苦肉の策で睡眠をとり、その間にあちこちの劇場に掛けあうのだが、どこも相手にしてくれない。日本領事館に泣きついたが、食い詰め者の旅芸人が何をしにきたかという態度で、けんもほろろのあしらいである。
(中略)
 「おや、きれいだね。いったい、そんなおめかししてどこへ行こうってんだい?」
 「ライラック座よ。あそこの座主は日本びいきっていうから、あたしが行ってくるわ」
 「ダメだよ。座主のホットンって親父は頑固者で、俺が交渉したって埒があかなかったんだから」
 「ダメでもともと。試してみるわ」
29g (86頁)
 ところが何と、ホテルに帰るともうホットンから1日だけ劇場を貸すという電話が入っていたのである。座員たちは抱きあって喜んだ。何があっても失敗は許されないという情熱だけを支えに、座員たちは水だけを飲んで公演の日まで命をつないだ。
 公演当日、空腹でフラフラになりながらも誰からともなく奇抜なことをいい出した。ひとりでも多くの客を呼ぶために、舞台の扮装で街を練り歩き、PR作戦を展開しようというのである。
 この宣伝はバカ当りした。シカゴの街を『道成寺』の貞をはじめ、ちょん髷姿の音二郎らが練り歩くのであるから、さしものシカゴッ子も度胆を抜かれ、入場券にはプレミアムがつくほどであった。
 もっとも、空腹のため『道成寺』の踊りの最中に貞が舞台で倒れたり、『児島高徳』の立ち回りでは音二郎に投げられた座員たちがそのまま起き上がれなかったりであったが、この公演は大変な好評を博したのである。
29h (72頁)
 柔術家を殺陣師として雇い、歌舞伎とはまったくちがった写実的な立ち回りに徹したために、客はひと味ちがった斬新なおもしろさに喜んだ。
29i (86頁)
 もっとも、空腹のため『道成寺』の踊りの最中に貞が舞台で倒れたり、『児島高徳』の立ち回りでは音二郎に投げられた座員たちがそのまま起き上がれなかったりであったが、この公演は大変な好評を博したのである。極限に追いこまれた一座が死力をふりしぼってつとめた舞台だったので、きっと人々の胸をうったものにちがいない。
29j (87頁)
 そのころ、ホットンのところには、貞奴に魅了された観衆が再演を求めて押しかけていた。
29k (87頁)
 「さあ、受けとってくれ、儲けの半分30ドルだ」とホットンから金を渡されて、一同はホテルの食堂へ駆けつけた。
 「みんな、好きな物、何でも食べろ」と音二郎にいわれても、座員はご馳走を前にして、うれし泣きに泣き、誰も満足に食べられないありさまだった。
30a (87頁)
 一夜明ければ貞奴はスターになっていた。ホットンのほうから出演交渉にやってきて、好条件で再演の話が決まったのである。
(中略)
 貞の手紙によると、シカゴで大成功し、アメリカ人のマコーレー・カムストックという興行師が付いて、40週間の契約をしたと書いてあるではないか。
30b (88頁)
 ワシントンでは日本大使館が何かと面倒をみてくれたこと、地元紙が絶賛したので音二郎も貞もたちまち賓客扱いされるようになったこと、ニューヨークでの成功、ロンドンでは、アービングの紹介もあって、とうとうウェールズ親王殿下の要請でバッキンガム宮殿で特別公演を行ったこと、もう音二郎の話はとどまるところを知らず、奥平はその鼻息に少々食われ気味である。
31 (83頁)
 湯浅麟介、藤川岩之助、山本嘉一らの中堅俳優、三味線の杵屋君三郎、三上繁、丸山蔵人らの女形、音二郎の姪で12歳のツル、弟の磯二郎、事務員の川本末次ら総勢19人である。
32a (88頁)
 ワシントンでは日本大使館が何かと面倒をみてくれたこと、地元紙が絶賛したので音二郎も貞もたちまち賓客扱いされるようになったこと、ニューヨークでの成功、ロンドンでは、アービングの紹介もあって、とうとうウェールズ親王殿下の要請でバッキンガム宮殿で特別公演を行ったこと、もう音二郎の話はとどまるところを知らず、奥平はその鼻息に少々食われ気味である。
32b (八八頁)
 7月4日、ロイ・フラー劇場で『芸者と武士』、『遠藤武者』は幕を開けた。
32c (88頁)
 ワシントンでは日本大使館が何かと面倒をみてくれたこと、地元紙が絶賛したので音二郎も貞もたちまち賓客扱いされるようになったこと、ニューヨークでの成功、ロンドンでは、アービングの紹介もあって、とうとうウェールズ親王殿下の要請でバッキンガム宮殿で特別公演を行ったこと、もう音二郎の話はとどまるところを知らず、奥平はその鼻息に少々食われ気味である。
32d (88ないし90頁)
 7月4日、ロイ・フラー劇場で『芸者と武士』、『遠藤武者』は幕を開けた。ところがなぜか客足は案に相違して伸びないのである。音二郎も貞もこれには首をかしげてしまった。
 「ムッシュ川上、ひとつ腹切りをやってくれませんか」
 座元のロイ・フラーが妙な注文を出した。
 「腹切りって、誰が腹を切るんですか?」
 「盛遠ですよ。自分の愛人を殺しておいて、坊主になるくらいじゃ不十分ですよ。あそこは日本の侍らしく腹切りをすれば、きっと客受けします」
 この注文にはさすがの音二郎にも抵抗があった。坊主になってからが彼のほんとうの歴史上の活躍が始まるのだから、ここで死んでしまってはあまりにも史実無視にすぎる。だが、音二郎は承知した。
 「やりましょう」
 やる以上は徹底してやるのが、彼の興行師的感覚である。一刀を腹につき立て、キリキリッと引きまわすと血潮がものすごい勢いでほとばしる。返す刀で喉笛をかっさばいて、クワッと両眼を見開いて、それから虚空をつかんで死ぬまでの人間の断末魔をこれでもかこれでもかと音二郎は演じてみせた。
(中略)
 翌日から事態は一変した。ロイ・フラー劇場に押しよせる観客のものすごさ。
32e (90頁)
 音二郎はパリ以外にも欧州各地を回りたいというつもりだったが、当分は離れられそうになくなってしまった。
32f (90頁)
 音二郎一座は万国博閉会の日まで123日、1日も休まず演じつづけ、フランス政府から芸術功労章として「オフィシェ・ド・アカデミー」なる勲章を授けられた。
33a (88頁)
 烏森芸者たちは博覧会のパノラマ館で、毎日見物客に『鶴亀』、『道成寺』、『かっぽれ』、『ヘラヘラ』、『凱旋踊り』などを見せているというのだった。
33b (87、88頁)
 ちょうどそのころ、花柳界では、新橋の烏森芸者がパリの博覧会に雇われていくというので、その噂でもちきりだった。
(中略)
 パリに着き、そこからホテルまで馬車を走らせて到着すると、ひとりの日本人が音二郎と貞を待ち受けていた。
 それは誰あろう、奥平剛史なのである。
(中略)
 奥平は英語が堪能であるところを見こまれて、例の烏森芸者の一行の通訳兼マネージャーとして随行してきたのである。
33c (90頁)
 パリ博覧会の途中で、奥平たちは欧州各地を巡業することになった。
33d (61頁)
 奥平剛史。土佐出身で立志社の社員であり、また自由党の党員でもあった。
33e (60頁)
 自由党が俺たちの見方になってくれて、車夫の懇親会を開いておおいに意気をあげようってことになったんだ。
33f (65頁)
 だが、八重子とともに東京に帰った奥平はその場で待ち伏せていた警察に逮捕され、ついに無期徒刑の判決を下されてしまったのである。
33g (75頁)
 音二郎がパリ滞在中に奥平は無期徒刑を免れて刑務所から出所していたが、彼を浦島太郎扱いにする自由党幹部と大立ち回りを演じ、ついに自由党からも除名されていた。
33h (62頁)
 先醒堂覚明という名で舞台に上がっている奥平は神田末広町の千代田亭を3日間札止めにするほどの人気を博していた。
33i (65頁)
 奥平と同様、政治運動を禁じられ、講釈師になったのである。
33j (107頁)
 これは単なる爆発物取り締り違反であったはずなのに、全国の無政府主義者を一網打尽に殲滅させるために「大逆罪」とされたことが感じられた。
 又吉から奥平逮捕の知らせを聞いた音二郎とてどうすることもできず、気をもむばかりである。(略)秋水や菅野すがを含む他の12名はその1週間後に死刑執行されたのである。
34 (90頁)
 音二郎はパリ以外にも欧州各地を回りたいというつもりだったが、当分は離れられそうになくなってしまった。
35a (93頁)
 だが再会も束の間、川上一座と同行して帰国した栗野大使が歓迎パーティーを催すというので、貞は亀吉を気にしながら、迎えによこした二頭立ての馬車に乗って音二郎とともに出かけた。
35b (107頁)
 心配した貞はさっそく彼を有馬ありま温泉に連れていき、静養させることにした。
36a (94頁)
 すぐさま大阪から帰朝公演が始まった。それも川上一座のほかに、高田実、福井茂兵衛、喜多村録郎ら新派俳優全部がほとんど顔をそろえての合同公演である。
36b (94頁)
 ところが、東京の市村座に来ると、不評と叱責が待っていた。新聞はあげて音二郎否定論の大合唱である。例によって『万朝報』の筆鋒が辛辣を極めている。
36c (94頁)
 「ヨーロッパの演劇の本場で技を磨いてきたかと思ったら、少しの進歩もない。旧態依然の川上芝居。第一、貞奴が舞台に出ないのはけしからん」
 「川上一座は何も新しいことをしてきたわけではなかったのである。歌舞伎をなぞったような芝居を見せてきて、しかも、乱暴な改悪までしてみせた。これは日本文化の正しい伝達ではなく、欧米人に媚びた見世物でしかない」
36d (94頁)
 「ギャフンとまいってアービングが褒めたなんて、とても信じられる代物ではない。アービングはただの好奇心で川上を担ぎ回ったのだ」と欧米での成功を全面否定するような批評なのである。
36e (94頁)
 さんざんの叩かれように音二郎もすっかりくさってしまった。
36f (94頁)
 出し物は『洋行中の悲劇』と『英国革命史』で、破格の入場料だったにもかかわらず、大当たりをとった。
37a (94頁)
 「ヨーロッパの演劇の本場で技を磨いてきたかと思ったら、少しの進歩もない。旧態依然の川上芝居。第一、貞奴が舞台に出ないのはけしからん」
37b (94頁)
 「川上一座、またまた海外興行へ」と新聞に記事が出たのは、それから間もなくである。
38a(95頁)
 各国を見てきた音二郎は威勢よく気炎をあげ、ついに「俳優学校を設立し、後輩を育てる仕事だけは自分がやりとげたい」といい出した。彼のなかにはこれからめざす方向がはっきりと見えはじめていたのである。
38b (95頁)
 「俳優の社会的地位の向上ーフランスでは、女優のサラ・ベルナールは大統領の次席に列しているし、男優のムネシュレーは音楽大学の教授として招かれている。イギリスのアービングは男爵の地位にあるし、アメリカのブースやバローも民衆からいたく尊敬されている。しかるに日本ではいまだに認められていない。演劇発展のために、その様な偏見がいかに害しているか、改めなければならない。俳優学校の設立も急務である。(略)」
38c (95頁)
 しかし、貞はいくら口説いても舞台には立たないという。
38d (95頁)
 2度目のヨーロッパ巡業から帰った音二郎は、さっそく、「世界的演劇を興すの必要」なる帰朝談をぶちあげた。
38e (95頁)
 自分の言葉を裏付けるためにも、帰朝公演はすばらしい舞台を見せなければならない。ところが、問題は女優である。貞奴しかいないのである。いい芝居はいろいろあったが、女優が2人しか出なくてすむということで、『オセロ』を選んだ。
39a (96頁)
 「おまえでなくてはできないんだよ。お前は川上と一緒になったときに何といった?『川上はいまは壮士芝居をやっていますが、ただいまのところは海のものとも山のものともつかない。夫婦になった以上は、私の力できっと大立て者にしてみせます』といったじゃないか。海外での成功はほんとうにお前の力があってこそだと思う。だからといって、それで事業が完成したわけではない。この日本で成功しなければ川上の男は立たないんだよ。失敗を恐れていてどうするんだ。日本でトップを切るのはおまえしかないよ」
39b (96頁)
 「もし、あたしが失敗したら、女優の発展がそれでおくれることになるんですよ。そんな重大なつとめがどうしてできましょう」
39c (95頁)
 しかし貞はいくら口説いても舞台には立たないという。音二郎は困り果て、仲人の金子堅太郎に頼んだが、それでも、貞は首を縦に振らないのである。
40a (96頁)
 明治36年2月、シェークスピア四大悲劇のひとつ『オセロ』の翻案劇は、明治座で上演された。
40b (96頁)
 当時のインテリ森鴎、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、上田敏、巌谷小波、新村出などがそろって明治座に足を運び、穏当な批評を語り、各紙もそろって好評を掲げた。『万朝報』も今回はさすがに当たりさわりのない批評を載せている。
40c (96頁)
 当時のインテリ森鴎外、坪内逍遥、尾崎紅葉、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、上田敏、巌谷小波、新村出などがそろって明治座に足を運び、穏当な批評を語り、各紙もそろって好評を掲げた。
40d (97、98頁)
 『江戸城明渡』はさんざんに叩かれた。というのも、たまたまこれを見物にきた歌舞伎役者たちが、
 「あの人たちは刀の差しよう、袴の着こなし、何ひとつできない。素人同様だ」と談話を載せたものだからたまらない。その前に音二郎が「俳優に踊りはいらぬ」といったことの腹いせらしく、遠慮なく川上演劇を批判しているのだった。
40e (97頁)
 「あたしもね、華やかなことをしているようだけど、ほんとうは舞台をつとめるのが苦痛なのよ」
41a (97頁)
 川上一座は明治座での『オセロ』成功ののち、大阪、神戸への巡業に出て、その6月、再び明治座で『マーチャント・オブ・ベニス』、『江戸城明渡』を演じた。
41b (97頁)
 『マーチャント・オブ・ベニス』ははじめての翻訳劇で、まあまあの評だったが
(以下略)
41c (97頁)
 『江戸城明渡』はさんざんに叩かれた。
41d (97、99頁)
 というのも、たまたまこれを見物にきた歌舞伎役者たちが、「あの人たちは刀の差しよう、袴の着こなし、何ひとつできない。素人同様だ」と談話を載せたものだからたまらない。その前に音二郎が「俳優に踊りはいらぬ」といったことの腹いせらしく、遠慮なく川上演劇を批判しているのだった。
41e (99頁)
 おまけに『万朝報』ではまたまた「川上は口癖のように『洋行』、『西洋演劇』、『アービング』などと吹聴するが、川上の洋行などはたいしたことではない。アメリカでは生活に追われて芝居を見るゆとりもなかったし、ロンドンでもパリでも興行に追いまくられてほとんど外出しなかった。フランス政府から勲章をもらったのは栗野大使のおかげである。バッキンガム宮殿に参上したのも真っ赤な嘘。そのくせ、歌舞伎を荒唐無稽だと貶めてシェークスピアをもち上げる。しかし、フランスでもドイツでもシェークスピアが親しまれているのは、日本人が『忠臣蔵』や『先代萩』に親しむようなもので、荒唐無稽というものではない。いかに演劇改良に気がはやるとはいえ、わけもわからぬ西洋談義と、柄にもない日本劇の改良を口にするのは無知文盲をみずからさらけ出すようなものである」と書きまくったのである。
41f (999頁)
 しかし、どんな酷評にもめげず、音二郎は演じつづけた。
42a (99頁)
 明治36年10月、川上座は子供向けのお伽芝居を上演した。久留島武彦という巌谷小波と並ぶ児童文学の推進者と話が合い、『狐の裁判』と『浮かれ胡弓』を貞奴が座長で演じたが、さしもの川上嫌いの面々もこぞって支持を表明した。
42b (99頁)
 明治36年10月、川上座は子供向けのお伽芝居を上演した。久留島武彦という巌谷小波と並ぶ児童文学の推進者と話が合い、『狐の裁判』と『浮かれ胡弓』を貞奴が座長で演じたが、さしもの川上嫌いの面々もこぞって支持を表明した。子供たちを喜ばせ、貞自身も心を洗われ、すべてを忘れて芝居に打ちこみながら、貞ははじめて、女優になってよかったと思うのだった。
43a (99頁)
 11月からは本郷座で『ハムレット』の公演が控えていた。
43b (99頁)
 上演時間――午後5時半開場、10時終演。このうち、休憩時間は約30分。
 入場料――従来の3分の1に減額し、入場券の制度を導入する。
 場内の飲食――ロビーや芝居茶屋はよいが、客席では厳禁のこと。
 人力車――劇場専用の人力車業者を設け、乗車券は終演前に発売する。
 舞台装置――歌舞伎の絵師を廃して、洋画家を主任にする。
43c (100頁)
 音二郎はこうした仕組みを廃止しようと五か条の改革案を出した(以下略)
43d (99頁)
 音二郎は今度こそ、劇界刷新のための改革をやりとげるつもりでいた。
43e (100頁)
 すったもんだのあげく、ようやく川上一座が劇場を1700円で借り受けること、そして「出方、座布団、下足」のため十五日間の興行収入の中から1250円を支払うということで折りあいがついた。
43f (100、101頁)
 事件が起きたのはその直後である。音二郎が麟介とともに本郷座から帰る夜道のことであった。突然、暗闇から数人の暴漢が2人に襲いかかってきた。本郷座に出入りしている出方たちである。2人は必死で防戦したが、多勢に無勢で、袋叩きにされてしまった。
 血みどろで家へ帰ってきた音二郎と麟介の姿を見て、貞は腰を抜かさんばかりに驚いた。欧米ではごく当たり前のことなのに、それを敢行しようとすれば、まさに命がけなのである。
 音二郎は警視総監に面会を求めて、「紳士淑女が来場する劇場に同じようなことが起こっては面目が立たないから取り締まってくれ」と願い出た。本郷座の関係者は本郷警察署に呼び出されて説諭を受け、音二郎に保証金千円を入れ、もし、今後暴行を働く者があれば、保証金没収という一条を契約書に入れることにして、ケリがついた。
43g (101頁)
 新聞は音二郎の勇気を褒めた。「ただ劇界のためのみならず、わが国文学、美術界のために感謝せざるべからず。実に正劇は功を多とす」と『読売新聞』も絶大なる賛辞を送った。
44 (74頁)
 音二郎はかねてから貞に伊藤博文を紹介してくれぬかともちかけていた。貞が伊藤の権妻であったことを知らぬわけではないのに、何のこだわりも抱いていないらしいのである。
45a (101頁)
 明治37年2月8日夜、近衛第2、第12師団に動員令が下され、太平洋岸のロシア艦隊を奇襲し、2月10日宣戦が布告された。
(中略)
 音二郎も大阪の朝日座で『マーチャント・オブ・ベニス』の千秋楽の舞台上から、戦況視察の意義を説き、翌日、麟介、高田実ら座員とともに宇品港から大陸に向かった。
45b (103頁)
 それからほどなく、音二郎と貞は劇界視察のためと称して、3度目のパリへ向かったのである。
46a (93頁)
 貞は亀吉を気にしながら、迎えによこした二頭立ての馬車に乗って音二郎とともに出かけた。
46b (103頁)
 明治41年6月、パリから帰国した音二郎、貞は、いよいよ女優養成所を設立することにした。
46c (104頁)
 かたわら音二郎率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
46d (104頁)
 「西洋ではこんなことはありゃしない。日本ってほんとうにイヤな国だねえ。世間が女優を育てようとしないんだから!」
47a (103頁)
 明治40年、財界人を中心とする有志の間に帝国劇場設立の運動が起こりはじめていた。音二郎は「俺のアピールがやはり効果を発揮したのだ」と大喜びである。 設立発起人は渋沢栄一や房子の兄の福沢捨次郎ら。株で設け、水力電気に目をつけて会社を興している桃介もその呼びかけに応じて帝国劇場設立の株を持つことにした。
47b (103頁)
 明治41年6月、パリから帰国した音二郎、貞は、いよいよ女優養成所を設立することにした。そして、帝国劇場設立のメンバーと懇談した際、貞の女優養成所に創立賛助金500円、毎月補助金100円を出してもらう約束をとりつけた。
48a (103、104頁)
 名称は「帝国女優養成所」。
 だが、世間は女優養成所の開設をごうごうたる非難でもって迎えた。女優の募集は年若い娘を堕落させるだけだというのである。
48b (104頁)
 貞も悲憤慷慨しながら、第1期生の生徒森律子らに演技を教え、かたわら音二郎率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
48c (104頁)
 「西洋ではこんなことはありゃしない。日本ってほんとうにイヤな国だねえ。世間が女優を育てようとしないんだから!」
48d (104頁)
 貞も悲憤慷慨しながら、第1期生の生徒森律子らに演技を教え、かたわら音二郎率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
48e (104、105頁)
 だが、42年、思ってもみないことが起きた。突如、「帝国女優養成所」は貞とは関係なく、帝国劇場の自主的な運営とすることを申し渡してきたのである。渋沢たち実業家ブレーンは、いまのうちに女優養成所を貞から引きとっておいて、帝劇完成のあかつきには、女優たちを自由に帝劇の舞台に立たせようという腹だったのである。
48f (104頁)
 貞も悲憤慷慨しながら、第1期生の生徒森律子らに演技を教え、かたわら音二郎率いる新演劇合同の革新興行の舞台に忙殺されていた。
48g (105頁)
 「おまえも立派な女優になったな」
49 (105頁)
 そんなある日、貞と音二郎は麻布の御用邸で催される韓国皇太子の12歳の誕生祝賀会に、アトラクションとして何か演じてもらいたいと金子堅太郎から頼まれた。2人が座員とともに出向くと、伊藤博文も皇太子のそばに付きっきりで来ていたが、ひどく顔色が悪い。
(中略)
 それが伊藤を見た最後だった。日本の植民地化への怒りに燃えた青年によって、伊藤は暗殺されたのである。貞はこの知らせに、舞台衣裳のまま、楽屋にくずおれた。
50 (107頁)
 その年の5月20日から7日間、新装なった帝国劇場において、坪内逍遥主宰によるところの文芸協会によって、『ハムレット』が公演された。
(中略)
 舞台を見終わったあと、音二郎はいったが、貞はオフィーリアに扮した松井須磨子に何かただならぬ脅威の片鱗を抱いていた。
51a (106頁)
 翌年、大阪では帝国座の竣工がなり、舞台開きが行われた。この劇場のために音二郎と貞は莫大な借金を抱える身となったが、自前の劇場をもててどれほどうれしかったかしれない。
 パリのテアトル・フランセを手本にし、日本の特色も生かした造りで、客席は円形にして声の回りをよくした。そして、2階3階へも下足のままで行けるようになっており、当時としては画期的な構造であった。
51b (106頁)
 こけらおとしは『天の岩戸』、『ボンドマン』を上演。初日から10日ばかりは満員の盛況だったが、詰めかける債権者が毎日仕切り場に押しかけ、入場料をかっさらっていく始末に、雰囲気はブチ壊しとなった。新聞にも「役者への給金は行き渡らず、衣裳、小道具方への支払いも打ち止め」などと書かれ、そんな噂を聞いてか、客足もしだいに遠のいていった。
52a (107頁)
 9月、川上一座は博多と広島で公演したが、その最中に音二郎の持病が悪化して、腹部が異常に腫れ上がってきた。心配した貞はさっそく彼を有馬温泉に連れていき、静養させることにした。だが、そのときはすでに手遅れだったのである。持病の盲腸炎は腹膜炎に発展しており、医者は「絶望」の診断を下した。
 文芸協会で島村抱月の演出によって準備されている『人形の家』の向こうを張って、川上一座では同じイプセン作の『民衆の敵』を10月に幕を開ける予定だったが、それももはや夢となってしまった。
52b (108頁)
 音二郎も死を自覚してか、貞を枕もとに呼んだ。
 「俺の育てた新派の家は、地震があれば倒れもするし、まだまだ不足の点が多い。俺が死ねば、おまえは俺の遺志を継いで、この家を立派に育ててくれよ」
 そういうと、音二郎は昏睡状態におちいった。
52c (108頁)
 もはや意識のない音二郎を帝国座に運ぶと貞は舞台に布団を敷き、そっと音二郎を寝かせた。
(中略)
 「あんた、みんな来てるんだよ」
 そのとき、座員たちの見守るなか、音二郎はパチリと目を開いた。そして数珠を持つ手を上げて、2、3度指図するかのような身振りをすると――息絶えた。
52d (109頁)
 一方、貞は音二郎の追善興行に何もかも忘れて没頭していた。だが、世間では貞奴は引退すべきだという声がかしましいのである。
53a (110頁)
 貞は松井須磨子への脅威を感じながら、帝国座の維持に苦しんでいた。
53b (109頁)
 桃介は彼女が地方都市での公演中もひょっこり楽屋に姿を現しては、労りの言葉をかけていく。そんな二人の関係を世間ではスキャンダルとして騒ぎ立てた。
 「おもしろからぬ醜聞が貞奴のせっかくの光栄ある生涯を奈落の底へ蹴とばしてしまった。近々芸壇から身を引くほかはあるまい」などと新聞にも書かれていた。
53c (110頁)
 貞は松井須磨子への脅威を感じながら、帝国座の維持に苦しんでいた。
(中略)
 そして、ついに彼女は亡き夫が執着してやまなかった帝国座を手放すことにした。
54 (110頁)
 谷中の天王寺の五重の塔の手前に、音二郎の銅像が建った。
 帝国座を手放しても何とか音二郎の姿を残しておきたいという貞の悲願が、やっと実現したのである。
 4回忌の当日、除幕式が行われたが、新俳優、演劇関係者をはじめ、桃介や又吉、野島、琴次、桜井夫婦ら大変な人数が集まった。
 音二郎は約4メートルの銅像になって、フロックコートを着こみ、フランス政府から贈られた「オフィシェ・ド・アカデミー」を着け、右手にステッキ、左手に山高帽を持っている。台座の文章は金子堅太郎、栗野慎一郎両子爵の揮毫であった。
55a (108頁)
 それから間もなく、帝国劇場では『人形の家』が公演され、大変な好評を博した。とくに松井須磨子のノラは絶賛の的であった。
 演劇の潮流は、いま、大きく脈うって変わりつつあったのである。
55b (109頁)
 ついに須磨子と抱月は手に手をとって、文芸協会を辞めて、新しく芸術座をつくってしまった。
56a (62頁)
 むろん、桃介の目には貞しか映らない。とはいえ、貞にとっては令嬢房子は別世界から降りてきたような存在であった。
56b (76頁)
 そのころ、桃介はすでに房子との間に男の子を2人もうけていたが、ある日、前触れもなしに喀血し、大磯の療養所に移された。
56c (92頁)
 「あなたの世話にはこれ以上なりたくないんです!」
(中略)
 「お言葉ですが、今後いっさい、あなたの助力はお断りします!」
(中略)
 養子の縁を切ってしまいたいと心から思い、房子から何を聞かれても答えなかった。
(中略)
 それから2日後、桃介は車の中で血を吐いたところを、付き添っていた部下によって病院へ担ぎこまれた。結核が再発したのだった。
57a (91頁)
 そのころ、桃介が興した丸三商会は大ピンチを迎えていた。
57b (94頁)
 北里療養所で再び病を養っていた桃介はその記事を読みながら、落ちぶれた自分の身にひき比べて、彼らの活躍がうらやましかった。あれ以来、房子には見舞いを禁じ、彼と房子の間には、もはやどうしようもない冷ややかな壁が立ちはだかっていた。そんなとき、「諭吉が危篤」という知らせが入り、つづいて、「諭吉死す」の知らせが入った。
(中略)
 盛大な葬儀の席上、房子は、夫が病気を押して顔だけでも見せてくれたらと願っていたが、それはついに空望みに終わった。
57c (77頁)
 一方、株は株でも桃介は相場に手を出していた。療養所で床に伏しながらも、彼特有の勘を働かせて大きく儲けていたのだが、これが福沢家にもれてしまった。当然、諭吉はいい顔をしなかった。相場は博打のようなもので、まじめな事業家のやることではないと苦い顔である。房子は大磯をおとずれて、株をやめるようにいった。そんな妻に桃介が見せたのは貯金通帳であった。
 何と3000円足らずの預金がいつの間にか10万円にもなっている。
57d (102頁)
 彼はたちまち株で巨万の富を得、兜町で飛将軍の名をとどろかすことになった。
57e (77頁)
 「もしかして、彼は私を愛して一緒になったのではないんじゃないかしら……」 疑いと恐れが彼女の胸を刺した。結婚前にその仲を噂されていた貞のことが、いまさらのように重くのしかかり、2人の間には埋めようのない冷たい溝ができているのは隠しようもなかった。
57f (110、112頁)
 貞の心のなかを、音二郎との想い出が駆けぬけていった。鉄道馬車の前から助けてもらった出会い、いく度にもわたった海外公演、金策に走り回った日々……。いまは、フロックコートですまして立っている音二郎であるが、いつだって何があったって大風呂敷をひろげ、ひろげた大風呂敷を実践するために豪快に笑いながら猪突猛進する人だったと、貞はふっとほほえんだ。
(中略)
 だが、貞は生前の夫そのままの銅像に心のなかで話しかけつづけていくうちに、少しずつ力がみなぎってくるのを感じていた。
 「あんた、いろんなことがあったね。そりゃつらいこともあったけど、あたし、やっぱりあんたと一緒になってよかった。おもしろかったもの。ほんとに考えもつかないようなおもしろいことばっかりだった……。ね、あんた……」
58 (エピソード人物事典 210頁)
 川上貞奴
 新派女優。明治4年−昭和21年(1871−1946)身長148センチ、小柄ではあったが、乗馬・柔道などを得意とする男まさりの激しい気性だった。
 4歳のとき、一時、兄倉吉が師事する彫金家のもとに預けられた。その家には、10歳と5歳の兄弟がいた。貞奴は、活発な下の子が好きだった。
 あるとき、上の男の子が「大きくなったら貞ちゃんはボクのお嫁さんになるんだ」といっているのを聞き、(あんなおとなしい子と一緒にさせられちゃかなわない)と、翌朝その家を逃げ出した。
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