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【事件名】「ぼくのスカート」事件 【年月日】平成6年3月23日 東京地裁 平成2年(ワ)第16752号 損害賠償請求事件 判決 原告 X 右訴訟代理人弁護士 原誠 同 岡本敬一郎 同 加藤義明 被告 株式会社テレビマンユニオン 右代表者代表取締役 Y1 被告 Y2 右両名訴訟代理人弁護士 山本博 同 戸谷豊 主文 原告の請求をいずれも棄却する。 訴訟費用は原告の負担とする。 事実 第1 当事者の求めた裁判 一 請求の趣旨 1 被告らは、原告に対し、連帯して金1500万円及びこれに対する平成3年4月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 2 被告Y2は、原告に対し、金100万円及びこれに対する平成3年4月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 3 訴訟費用は被告らの負担とする。 4 仮執行の宣言 二 請求の趣旨に対する答弁 主文同旨 第2 当事者の主張 一 請求原因 1 原告及び被告ら (一)原告は、シナリオライター(脚本家)であり、これまでNHK大阪放送局連続ラジオドラマ「時はそよ風、時はつむじ風」、関西テレビ連続テレビドラマ「わんぱく天使」及びNHK名古屋放送局テレビドラマ「中学生日記」等多くの作品を発表している。 (二)被告株式会社テレビマンユニオン(以下、「被告会社」という。)は、放送番組、映画及び舞台の企画、制作及び販売等を業とする株式会社である。 (三)被告Y2は、シナリオライター(脚本家)である。 2 原告脚本 原告は、昭和63年8月頃、脚本「ぼくのスカート」(以下「原告脚本」という。)を著作し、これについて著作権を取得した。 原告脚本は、同年11月2日、昭和63年度NHK大阪放送局ラジオドラマ脚本募集の入選作品となり、同局より、FMシアター「ぼくのスカート」としてラジオドラマ化され、平成元年1月28日、放送された。 3 被告らの作品 被告会社は、平成2年春頃、テレビドラマ「4月4日に生まれて」(以下、「被告ドラマ」という。)を企画制作し、被告ドラマは同年6月25日から同月29日の5回にわたり、関西テレビから関西方面において放映された。 被告Y2は、被告ドラマの脚本(当初の仮題は「BOY・ななこ」。以下、「被告ら作品」という。)を作成した。なお、以下において、被告ドラマと被告ら作品とを「被告ら作品」と総称する。 4 原告脚本と被告ら作品との類似性 原告脚本と被告ら作品とは、ミスターレディーの主人公と、かつての主人公を知り、同人に近い関係にある初老の男性が出会い、心の交流を重ね、その後初老の男性は主人公が正体を知ることなく別れる、という設定において同一であり、以下のように、主題(テーマ)、題材、ストーリー(筋)、プロット(運び)及び構成において、原告脚本と類似しているから、被告ら作品は原告脚本を翻案したものである。 (一)主題について 原告脚本の主題は、親子の疑似恋愛・交流を通して主人公の成長を描くところにあるが、クライマックスをなす部分は、父親に恋心を持たれた主人公の困惑と、父親の気持ちを踏みにじれない主人公の心の葛藤である。 これに対して、被告ら作品は、その話のクライマックスが、恩師が男の自分を好きになっていることへの困惑とその気持ちに逆らえない自分の心の葛藤にあることは明らかであり、自分が父になって欲しかった恩師と教え子の交流・葛藤がテーマになっている。 (二)題材について 原告脚本及び被告ら作品とも、ゲイ・バーで女装して働いている青年とこの青年に近い関係にある退職後の初老の男性との出会いと疑似恋愛関係を、その題材としている。 (三)ストーリーについて 原告脚本と被告ら作品のストーリーは、別紙対比一覧表「ストーリー」記載のとおりであって、ゲイ・バーで女装して働いている青年と、この青年に近い関係にある退職後の初老の男性という二人が出会うところから始まり、二人が主人公の家その他で食事をしたりデートをしながら、心の交流を深め、主人公が男であることを告白することなく別れる点において、全く共通している。 (四)プロットについて 原告脚本と被告ら作品の各プロットは、別紙対比一覧表「プロット」記載のとおりであって、次の諸点において、共通している。 (1)副主人公について、原告脚本では企業戦士であった父が定年退職して、家族から粗大ごみ扱いをされ、東京の息子を訪ねてくるのに対し、被告ら作品では、山奥の分校で教師をしていた恩師が、分校の廃校により家族も仕事もなくなり、新しい場所を求めて東京に来る点。 (2)主人公と副主人公の出会いについて、副主人公は、女装した状態の主人公に出会い、それが自分の息子やかつて愛した女性の息子であると気づかないで、主人公に好意を抱くようになる点。 (3)副主人公から愛を告白されたり、好意に気付いたときの主人公のリアクションについて、原告脚本では、主人公は副主人公に愛を告白され、自らも愛していると告げるのに対し、被告ら作品では、副主人公の好意に気づき、戸惑いながらもその気持ちに抗えない点。 (4)職場の同僚が、主人公に対し、副主人公が主人公に好意を抱いていることを注意する点。 (5)副主人公が突然主人公のアパートにやって来るため、動転した主人公が小物を隠す点。 (6)副主人公が主人公の声又は喉を直そうと、何かをしてやる点。 (7)主人公が職場の同僚と、副主人公を傷つけないように別れることを話す点。 (8)副主人公が明日帰ると告げる場面や、駅頭での別れの場面がある点。 (五)構成について 原告脚本及び被告ら作品の各構成は別紙対比一覧表「構成」の、@登場人物の性格づけ、Aシーンのつなぎ方、Bディテールの取捨選択とその配列、Cト書き・台詞、D時間経過、E場面設定の各欄記載のとおりであって、類似している。 5 依拠性 被告Y2は、原告脚本に依拠して被告ら作品を作成し、また被告らは、このような被告ら作品に基づいて被告ドラマを制作したものである。 原告脚本は、前記のとおり、昭和63年度NHK大阪放送局ラジオドラマ脚本懸賞募集に入選した作品であり、受賞作品として同年12月8日に発売された月刊誌「ドラマ」昭和64年1月号等の雑誌に掲載された。また原告脚本はラジオドラマ化され、このラジオドラマは、平成元年1月28日にFMシアターとして全国に放送され、平成2年3月にも関西地方において再放送された。 被告Y2は、新進のシナリオライターであり、右の前年度である昭和62年度のNHKラジオドラマ脚本募集の佳作に入選しているから、入選した翌年の受賞作品に興味を持っているのは当然であって、原告脚本をラジオドラマ化したNHKラジオドラマ「ぼくのスカート」を聴き、又は原告脚本が掲載された雑誌を読む等して、原告脚本を知っており、また前記のような被告ら作品と原告脚本との類似の程度からすると、原告脚本に依拠し、これを翻案して被告ら作品を作成したことは明らかである。 被告会社は、被告会社従業員であるAをプロデューサーとして、同様に被告会社従業員であるBをディレクターとして、被告Y2を制作助手として用いる等して、右のような被告ら作品に基づいて被告ドラマを制作したものである。 6 損害 (一)被告Y2は、被告ら作品を作成して、故意又は過失により原告が原告脚本について有する著作権(翻案権)を侵害したから、原告に生じた損害を賠償すべき責任を負うものであるところ、同被告は右著作権侵害行為により100万円の利益を受けているから、著作権法114条1項により、右100万円が原告の受けた損害の額として推定される。 (二)被告会社は、被告ドラマの制作に当たり、被告Y2を制作助手として選任のうえ、その制作に関与させたから、使用者として被告Y2に対する選任監督上の責任があるところ、これを怠った過失があるから、被告Y2と連帯して、原告が被告ドラマの制作により被った損害を賠償すべき責任がある。 仮にそうでないとしても、被告会社は、被告Y2と共同して被告ドラマを制作したから、共同不法行為として、被告Y2と連帯して、原告が被告ドラマの制作により被った損害を賠償すべき責任がある。 被告会社は右著作権侵害行為により1500万円の利益を受けているから、著作権法114条1項により、右1500万円が原告の受けた損害の額として推定される。 7 結論 よって、原告は、被告らに対し、著作権侵害行為に基づく損害金として、連帯して1500万円及びこれに対する不法行為の後である平成3年4月25日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを、被告Y2に対し、著作権侵害行為に基づく損害金として、100万円及びこれに対する不法行為の後である平成3年4月25日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払いを、それぞれ求める。 二 請求原因に対する被告らの認否 1 請求原因1のうち、(二)及び(三)の事実は認めるが、その余は不知。 2 同2及び3は、認める。 3 同4ないし6は、否認する。 4 同7は、争う。 三 被告らの主張 1 原告脚本と被告らの作品との類似について (一)骨格の類似について 原告脚本と被告ら作品との間には、主人公にいわゆる「ミスターレディー」を採用したこと、主人公が「縁故者と遭遇する」という設定が類似し、このような作品の骨格をなす右2点が類似していたために、基本から必然的に派生するいくつかの支枝的情景部分が類似することになったが、そのことによって直ちに原告の著作権を侵害することにはならない。 また右の2点も別に珍しいものではなく、特に独創性をもつものではないから、著作物性はない。 第1に、主人公にミスターレディーを取り上げた点であるが、今日、ミスターレディー自体は特に珍しい現象ではなく、テレビ等のマスコミでしばしば取り上げられており、こうした新しい時代の傾向を多くの文芸作品が対象とするのも当然であって、この種の作品は枚挙に暇がないくらいである。 次に、ミスターレディーを主人公に想定した場合には、一般にミスターレディーになった男性は、素性、生い立ち、時には本当は男性であることを隠したり、またはミスターレディーになっていることを近親者ないし縁故者に言えないでいることが多いから、近親者又は縁故者を副主人公に仕立てることによって意外性や混乱の発生、両者の心理状態の交錯等によって劇的効果を生むであろうことは、文芸関係者ならば誰でも容易に思いつくことである。というよりは、ミスターレディーものを取り上げる以上、その「ばれる、ばれない」という点をプロットの中に組み入れることを抜きにして、この企画は成り立たない。 (二)基本的な相違点について (1)原告脚本は、客観的に見る限り、「父と子の心理的対照」という古くからあるモチーフを取り上げている。つまり、自分よりも偉い筈であった父が、ある時自分より低い存在であったことに気付くという、主人公のインフェリオリティー・コンプレックスとその解消を主軸として、女性優位、父権の没落という現代の風潮その他を組み合わせている。また原告脚本では、ミスターレディーを世間では卑しめられている存在と捉え、このようなミスターレディーである自分より、父が低い存在になっていることに気付かせることによって、主人公に自己意識を新たにさせている。 被告ら作品は、ミスター・レディーと呼ばれるこの種の人達を、原告のようなネガティブな存在とは捉えず、今日こうしたヤング達も存在しうるのであって、これはこれとして認めてやってもよいではないかという、新しい発想に基づいている。被告ら作品にあるのは、あらゆる人間を暖かく見る目であり、人間を性別、思想等によって差別しないヒューマニズムの立場である。そして、手法としてはコメディー・タッチを採り、現代社会に生きる若者の姿を生き生きと描くという目的のために、同じ職場で働く同僚達との対話にウェイトを置いている。 (2)副主人公の存在も、原告脚本と被告ら作品とでは意味合いが異なっている。副主人公は、原告脚本においては、虚像が破れ権威が失墜した存在として、主人公の変身、もとに戻る契機になっているが、被告ら作品においては、田舎で長く暮らしていたため都市の生活に慣れないだけの存在として描かれている。 (3)親子の関係も、原告脚本においては、父に対する子供のインフェリオリティー・コンプレックスとして捉えているが、被告ら作品においては、「子供も親になってはじめて親の思いを知る」という親を肯定する発想になっている。殊に、男の子が女の子になってみて母の気持ちが分かるという斬新なアイディアを提起している。 (三)支枝的部分の類似について 主人公を「ミスター・レディー」、副主人公を「縁故者」というプロットを設定すると、主人公そのもののキャラクターを説明するため、あるときはストーリーの流れを作るため、自然に生じたり、必要不可欠となる場面又は設定があるのである。原告が類似点と主張する以下の諸点も、殆どこのような性格を有するものである。 (1)主人公の体質 ミスター・レディーを想定する以上、女の子と見違えるようでなければならないし、また、そうした体質の子でなければ、ミスター・レディーにはならない。ところが、被告ら作品においては、主人公に体力がないという設定はしていない。鉄棒とか食事をよく食べるとか、体力の有無を示す情景は、原告と被告らの作品が全く違っていることを逆に示すものである。 (2)主人公の勤務先 ゲイ・バーは、若い男性が、ミスターレディーとして生きてゆくために選ぶ道として当然の成り行きであって、意外なものではない。こうした店で働くという設定をする以上、店自体の風景、働く情景、店の同僚と会話のシーンを作品の中に取り入れていくのは当然である。むしろ、これらの点をどのように表現するかということに創造性の問題がある。舞台、楽屋裏、友人達との関係、会話内容、友人に副主人公を預かってもらう等の幾つかの事件などについて、全く類似性は見られない。 (3)スカート 主人公がミスター・レディーである以上、女性を象徴させる何かの小道具が必要になること、そしてスカートを女性の象徴として取り上げることは当然のことであって、創造性の問題は、スカートという小道具をどのように視覚的・聴覚的に扱うかという点にあるのである。原告脚本においては、スカートを「パラシュート」と結び付け、空から良く見えるというイメージ、落ちるというイメージを連想させ、そのことが父の墜落・没落と結びつくことによって、プロット上重要な意味を持たせている。これに対し、被告らの作品においては、スカートは主人公が女になっていることを客に知らせる視覚的な技術に過ぎない。 (4)化粧品 主人公が女装する以上、化粧はつきものである。この点、被告ら作品はビジュアルであるので、真っ赤な口紅を塗るなど、このカットで視聴者に大きな印象を与えるようになっている。また、楽屋のシーンでも小道具で化粧品を扱っているがその物自体はそれほど重視していない。 また、原告脚本においては、父が突然現れたので、慌てて片づけるという発想から、女性用化粧品が倒れる点まで指定しているが、被告ら作品においては、遭遇などという偶然性が存在しないから、右のような指定はなく、ただ恩師を自宅に入れることとなるため、かみそり等の男性用小物を片づけているだけである。原告脚本と被告らの作品では、小道具まで女性用と男性用とで逆になっている。 (5)牛乳のキャップと小銭 原告脚本中の牛乳のキャップは、体力をつけたいという悲願と好きな女の子に物をあげたいという夢との結晶ないし象徴であり、主人公の宝物である。そして、それが・挫折するところに創作性があるのである。しかも、作品の終末に近くなってその女の子に再会すると、このキャップを覚えていてくれて、主人公が再び集めようと言い出すように、作品の流れの中でかなり重要なポイントとなっている。これに対して、被告ら作品の主人公の小銭集めは、主人公がミスターレディーであり、華麗かつ虚偽の職場に働きながら、その実生活は健全であって、決して軽佻浮薄な人生を送っているのではないという主人公の性格と生活態度を示すシーンとして使われているだけである。 このように、「牛乳のキャップ」と「小銭」とは、これを取り上げる視点と視聴者に訴える効果、つまり文芸活動としての目的・内容が全く異なっているのである。 (6)乾杯 劇の終わりを乾杯で締めくくる情景は映画・演劇でもよく見られるところであって、原告脚本に特有なものではない、また、同じ乾杯であっても、原告脚本と被告らの作品とでは、乾杯する場所、相手及び目的等がいずれもが異なっている。原告脚本では、主人公の成長についての表現かもしれないが、被告ら作品では、主人公の友人が誕生日を迎え、母親が主人公を生んだ歳になることを店の仲間が祝っているのであり、まさに、女の心をもったミスター・レディー達が母と一体化する瞬間であり、その乾杯はテーマそのものである。 (7)「靴」について 原告脚本における「靴」は、副主人公である父親の真面目な性格、質素ぶり、ないしは甲斐性なしの象徴として取り上げられているが、被告ドラマにおける「靴」のカットは、決してくたびれたイメージを出そうとしたものではなく、主人公の足と対にして登場させ両者の違いをビジュアルに表現しようとした映像上の試みにすぎない。同じ「靴」のシーンでも、その場面をつくる発想と視点が全く違っている。 (8)「歌」について 原告脚本は、ラジオドラマの脚本であり、挿入される音楽の曲名は重要であるから、脚本自体が曲目を選定している。これに対し、被告ドラマ中の「浜辺の歌」は、主人公の留守中に副主人公が「懐かしいメロディー」の歌をピアノで弾くというシナリオの設定から選んだ曲目であり、主人公と副主人公が生徒と先生の関係にあるということを連想させるために選んだものであり、原告脚本のように深い意味や特別の目的があるわけではない。 2 依拠性 被告Y2及び本件ドラマの制作に携わった被告会社の従業員は、原告から本件についての申入れを受けるまで、原告脚本を全く知らなかったものであり、被告ら作品及び被告ら作品〈「及び被告ら作品」は重複?〉は、原告脚本に依拠することなく、作成ないし制作したものである。 現在、日本において放送されているラジオドラマは、東京地方では、NHK及び民間放送を合わせると、月間平均28本、年間では約330本に及んでおり、これに地方放送局のものを合計すると約350本になるから、これらの内容を正確に知ることは困難である。また、被告Y2は、昭和61年以来専らテレビ作品の制作分野に従事し、日常の活動とその関心もテレビに向けられているから、ラジオ放送に関心を持っていない。また、被告Y2等は、月刊誌「ドラマ」に原告脚本が掲載されていることについては、本件の訴状を受け取って初めて知ったものである。 原告は、被告Y2が昭和62年にラジオドラマのコンクールに入賞していることから、翌年の受賞作品に興味を持つのは当然である旨主張するが、被告Y2が入賞したコンクールと原告が原告脚本により入賞したコンクールとは全く別のコンクールである。 右のとおり、被告ら作品は、原告脚本とは全く別のところで、全く別の発想から創作されたものであって、原告脚本に依拠したり、これに影響を受けて作成されたものではない。 四 被告らの主張に対する反論 1 原告脚本と被告ら作品との類似について 被告らは、ミスターレディーを主人公とし、縁故関係にある人物を副主人公にしたという、作品の骨格をなす2点が類似しているために、基本から必然的に派生するいくつかの支枝的情景部分が類似することになった旨主張するが、この2点だけで同じ作品になるわけではない。「ミスターレディー・ミスターマダム」「トッツィー」「夜明けのシンデレラ」等の映画や「つるばらつるばら」「バナナブレッドのプディング」等の漫画も、ミスターレディーを取り扱って、縁故関係にある人物を副主人公にする、いわゆる作品の骨格をなす2点が類似している作品ではあるが、どの作品もお互いに似てはいない。 被告らは、主人公としてミスターレディーを取り上げた観点が原告脚本と被告ら作品とでは異っており、原告脚本はミスターレディーをネガティブな存在として扱っているのに対して、被告ら作品では、ミスターレディーを今日の風俗の一つとして、有りのままの姿で視聴者に見せている旨主張するが、両作品におけるミスターレディーの取扱いに被告らの主張するような相違は見られない。原告脚本においても、ミスターレディーを描くのに、主要場面としてゲイ・バーを捉え、そこに生きるミスターレディーをあるがままの生態として描いており、被告ら作品との相違は全くない。 また、被告らは、被告ら作品はコメディータッチを採っていると主張するが、被告ら作品においてはコメディーというものが本来備えている価値の逆転、本末転倒、意外性、台詞における言葉の遊び、ひねった思考など、一切使用されているところは見られない。 2 依拠性について 原告脚本が掲載された月刊「ドラマ」昭和64年1月号は、前記のとおり昭和63年12月8日に発売されているところ、被告Y2は、その直後である平成2年1月11日に、被告ら作品の最初の企画書を被告会社に提出しているが、その内容の要旨は「主人公は都会の風俗営業の店で働く21才のミスターレディーのななここと山根健二であり、副主人公は母子家庭の健二の母を支えて、少年時代の健二の身近にいた唯一の大人の男であった小学校の恩師である。健二は少年の頃、先生が父さんであったらいいのにと思っていた。この恩師は、ななこが実は男であり、自分がかつて一番愛した女の息子であることに気付かないまま恋するようになり、奇妙なデートを重ねていく。」というものである。これは、原告脚本の基本的骨格をそのまま使ったものであり、被告ら作品が月刊ドラマ誌に掲載された原告脚本に依拠して、作成されたものであることが明らかである。 また、被告Y2は、原告が被告ドラマが〈「が」は「を」の誤?〉放映した関西テレビに問い合わせの電話をかけた平成2年7月2日のその夜に、原告宅に電話をかけてきて、原告に対し、ラジオドラマ「ぼくのスカート」の放送を聞いた旨述べたのである。また、同被告は、NHKのディレクターである保科義久にも、この放送を聞いた旨述べているのである。このように、被告Y2が原告脚本をほぼそのままラジオドラマ化した放送を聞いていることも明らかであって、同被告が原告からの申し入れがあるまで、原告脚本を知らなかったとの被告らの主張は、到底信用できるものではない。 第3 証拠 本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。 理由 一 請求原因1(二)(三)、2及び3の各事実は当事者間に争いがなく、また成立に争いのない甲第13号証及び原告本人尋問の結果によると、同1(一)の事実を認めることができる。 二 請求原因4(原告脚本と被告ら作品との類似性)について判断する。 1 成立に争いのない甲第1号証によると、原告脚本のストーリーは、次のとおりであると認めることができる。 主人公の進ノ助(24才)は、ゲイ・バーで、夢子という名前で働いており(以下、原告脚本の主人公を「夢子」ということがある)、女装して踊るのが仕事である。 夢子には、両親と兄弟がいるが、夢子がゲイ・バーで働いていることは家族の誰も知らない。 ある日、定年退職になった夢子の父親(58才)が、東京の友人に会うついでに、突然、夢子のアパートにやって来る。 父親が上京してくるのを、母からの留宅番電話で直前に知ったため、夢子は、女装のまま父親に対面し、自分は進ノ助の友人で、進ノ助がニューヨークに行っている間、置いてもらっているのだと嘘をつき、その場を取り繕う。この時、声を出すと自分が進ノ助であることがばれるので、夢子は、声が出せないと嘘をつき、ワープロを使って父親と会話をするが、父親は、夢子が進ノ助の友人であって、女であるものと思い込む。 なお、夢子の家を父親が訪問する直前に、夢子が、子供時代、体力のない子供であって、他の兄弟と比べて辛抱が足りず、父親から叱咤されたこと、銭湯で洗面器に顔をつけたまま気を失い、父親をあわてさせたこと等の思い出の場面が挿入されている。 夢子は、ワープロを使って父親と会話をした際、父親とコミュニケーションできるのではないかと一旦は期待する。しかしながら、進ノ助がニューヨークに踊りの勉強に行っているという夢子の話を聞いて、父親は、一流商社に入った兄等に比べ、三流大学を出て、未だに無職なのに踊りなど勉強している進ノ助は「いったい何を考えているんだ」などと非難する。そのため、夢子は、父親とは分かりあえる余地はなかったのだと思う。 その夜、夢子は、青い空に、自分が落ちてゆくといきなりスカートがパラシュートのように開き、速度が落ちて回りがよく見えるのに、回りの男達は灰色の背広を着て凄いスピードで落ちてゆき、その中には父親の姿もあったという夢を見る。 その夢の中で、女の子が出て来るが、それは、夢子の昔のクラスメートの大川さち子だった。そして、夢から覚めた夢子が、学生時代、キライな牛乳を毎日飲んで、牛乳のキャップが100枚たまったら、同女に自分の作った木彫りのペンダントをあげようと、牛乳のキャップを100枚ためるなどというバカなことに熱中したこと、100枚たまった牛乳のキャップを同女にあげに行き、キャップを渡したものの、渡した直後に、彼女の目の前でドブに落ち、捻挫し、同女におんぶしてもらって帰ったこと等の、大川さち子との思い出を語る場面になる。 そして、朝になり、父親から電話が入り、夢子は、食事をしないかとの誘いを受ける。夢子は、父親からの誘いを受け、ワープロを持って公園に出掛け、父親とデートすることになる。そこで、夢子と父親との公園でのデートの情景が描かれるが、食事のシーンは描かれていない。 夢子と父親との公園でのデートの情景に引き続いて、夢子の同僚であるゲイボーイ達の週刊誌を話題にした会話が挿入される。 翌日も、夢子は父親に誘われ、再び公園でデートする。そのデートにおいて、夢子と父親はボートに乗るが、父親は、夢子に対して、昔好きだった人がいて、よくボートに乗ったこと、その人が別の男と見合いをすることになったので、休暇を取ってプロポーズしようとしたが、丁度その時、自分の作った冷蔵庫がトラブルをおこし、プロポーズすることができず、結局その人は見合いの男と結婚してしまったこと等を話す。 そのシーンに続いて、再び、夢子の同僚であるゲイボーイ達の会話が挿入される。 その次の日も、夢子は父親に誘われ、公園でデートする。そのデートにおいて、父親は、カツラをつけて登場し、その朝、カツラをつけていた時、昔進ノ助が押入れの中で化粧をしているのを発見したこと、そのときには何か見てはならないものを見たような気がしたが、今は、進ノ助が化粧をすることによって自由になりたかったんだということが分かり、その気持ちをもっと早く分かってやればよかったと思う旨を夢子に告げる。 その後、二人は、ビルの屋上のガーデンレストランに行くが、そこで、父親は、夢子に対して、声を直すようにと200万円の小切手を渡し、夢子の声が聞けるなら200万円なんて惜しくはないと告げる。 場面がかわって、夢子の同僚達が、父親と息子の恋愛は、ヤバイのではないかと忠告し、夢子自信〈「信」は「身」の誤〉も、同じ考えをもつが、今更息子であるなどと名乗れないと悩む。その夜は、夢子は、自分が人魚になって、父親に別れを告げる夢を見るが、その直後に父親が訪れ、大阪に帰る用事が出来たため、明日大阪に帰るが、出来れば一緒に暮らしたいから、必ず迎えにくると夢子に告げる。 しかしながら、父親は大阪に帰ったきり連絡がなく、月日が過ぎていった。 夢子は、久しぶりに進ノ助として実家に帰り、父親と対面する。しかし、父親は、なぜ夢子のもとに戻ってこなかったのか、夢子と進ノ助の関係等について何も話をしようとせず、進ノ助も聞くことができなかった。 進ノ助が東京に帰る日、父親が新幹線のプラットホームに見送りに来る。そのとき、父親は、進ノ助に対して、不要品のまま人生を終わりたくなかったから、夢子と一緒に暮らそうと思ったこと、新幹線の車内から富士山が綺麗に見えたら離婚しようと決意し、実際に、いままで見たことのないような綺麗な富士山を見て自分は生ゴミなんかではなく、新しい人生をもう一度やるんだと決意したが、結局、妻に、離婚についてなかなか切り出せないまま今日まできてしまったことを話した。 駅で別れた後、どんどん父親が小さくなって行くのを見、進ノ助は、父親を飲み込んだと感じる。 それから1年後、父親が亡くなり、進ノ助は、夢子の姿のまま父親の葬式のために帰省し、周囲は大騒ぎとなるが、父親の死を境に、夢子は、元の進ノ助の姿に戻り、父親と同じサラリーマンになる。夢子は、店のママに、サラリーマンなんて不便なものだと忠告されるが、逆に、そのママに対して、人生にはつまらないこともはいっており、逃れられないと思うからサラリーマンになるのだと告げる。 サラリーマンになった主人公は、会社の歓迎パーティーで、かつての同級生であった大川さち子に再会し、昔、牛乳のキャップの入ったビニール袋を主人公が同女にあげたときのことに関し、話をする。 その後、出張のため、新幹線に乗った主人公は、隣に座りあわせたサラリーマンと一緒に、窓越しに素晴らしい富士山を見るが、富士山を見て富士山になったような気がするというそのサラリーマンに、実際の生活は情けないが、今は立派になったような気のままでいようと告げ、二人で乾杯する。 そして、最後に、大川さち子が大好きであるという主人公のセリフで原告脚本は終わる。 2 成立に争いのない甲第2号証及び被告ドラマを録画したビデオ・テープであることについて争いのない検甲第2号証によると、被告ら作品のストーリーは、次のとおりであると認めることができる。 主人公である山根健一(21才)は、東京の新宿にあるゲイ・バーで働いており、女装して踊るのが仕事である。店では、ななこと名乗っている(以下、被告ら作品の主人公を「ななこ」ということがある。)。ななこには、家族がいない(父親は、ななこの小さいころに亡くなり、母親も、ななこが、故郷の岩手から東京にでてきた後、ななこが中学に入学する前に亡くなっている。)ため、ななこがゲイ・バーで働いていることは誰も知らない。 ある日、ななこの恩師で、岩手の山の分校で働いていた副主人公の松造が、分校が廃校になったため、東京で職を探そうと突然東京に出てくる。 その日、ななこは、いつものように職場のゲイ・バーで働いていたが、店のママに頼まれタバコを買いにゆく途中、店の前で、旅館を探す松造から旅館の場所を訪〈「訪」は、尋」の誤?〉ねられ、その旅館に松造を案内する。最初は、恩師と気が付かなかったななこも、松造が、岩手の出身であり、分校の教師をしていたことを聞かされることによって、その男が恩師であることに気づき、一旦は、あわてて松造から別れる。 しかしながら、後日、松造が、ななこの店の近くでやくざに有り金を盗まれたのを知り、途方にくれていた松造を自分の家に連れてゆき、泊めてやることにした。ただ、女装したままでないと、恩師に女装しているのがかつての教え子である自分であると知られてしまうため、いつもと異なり、女装のまま帰宅する。 ななこは、家に着くと、男であることを恩師に悟られないようにするために、髭剃り等の男物をあわてて片付け、松造を部屋に入れ、直ぐに布団に潜り込む。ななこは、自分が女装していることを悟られないようにするため、なるべく早く休もうとするが、松造は、ななこにいろいろ話かけ、質問しようとする。そして、松造は、ななこの声を聴いて、ななこが風邪をひいているものと勘違いする。 翌朝、松造は、ななこのために朝食を作ってやり、一人暮らしが長かったために掃除や洗濯も好きであることをななこに話す。 ななこは、松造が炊事や洗濯が得意であることを知り、家政婦を探していた職場の同僚のユカリ(ななこと同じミスターレディーである)に、仕事が見つかるまで松造を預かってくれるように頼む。ユカリは、松造を引き取ることを渋々承知し、松造は、ミスターレディーではなく普通の男性に戻ったユカリの住む家で世話になることになる。 松造がユカリの家に引き取られていった次の日の夕方、ななこがユカリ宅を訪問し、ななこ、ユカリ、松造の3人で、夕食にすき焼きを食べる。その時、ユカリは、松造にその日の職探しの成果を訪〈「訪」は「尋」の誤?〉ねるが、松造は、なかなか見つからない旨告げる。 その後、職場のステージ裏で、ユカリは、ななこに対して、松造がななこの風邪は直ったか、今度いつ来るか等、家で、ななこのことばかり話していることから、松造がななこのことを好きになってしまったみたいだと告げる。 松造は、なんとかユカリの家でうまく生活していたのであるが、ある夜、ユカリの恋人(男)が訪ねて来た際、男性の姿のままユカリとその恋人という、男同志のラブシーンを目撃し、ショックのために、ななこの所に突然戻って来る。松造は、ななこの所に置いてくれるようななこに懇願し、ななこも仕方なく承知し、再び、松造は、ななこの所にやっかいになることになる。 松造は、昼間は職探しに行き、ななこの家にいる時には、食事の用意をするなど、ななこの面倒を見る。ある夜、松造は、仕事から夜遅く帰宅したななこに、卵酒をつくってやる。それは、ななこが風邪だと思い込んでいた松造が、ななこの風邪を直してやろうと思ってつくったものであった。 ななこは、松造が買い物をしてくれたお蔭で節約ができた為、美味しいものを食べようと松造に告げ、夕方、二人で商店街に買い物に行く。このとき、商店のウィンドーに写る二人の姿に続いて、ななこの心象風景として、男の背中ごしに見えるななこの母親が写し出され、ななこが、再び母親のことを思いだすシーンとなる。その後、同僚のユカリが、ななこのほうは懐かしいだけかもしれないが、松造にとっては恋なのだから、松造とあまり長くいない方がいいとななこに忠告する。 ユカリから右のような忠告を受けた後のある日、ななこは、化粧を落とし、ジーパンに着替えて帰宅する。買物から帰った松造は、ジーパン姿の男がななこの家にはいって行くのを目撃し、家に入るのをためらい、近くの公園のベンチで一人腰掛ける。そのとき、松造は、ななこの部屋の明かりが消えるのを目撃する。松造は、ブランコに座って、静かにゆらゆらしていたが、ななこの部屋の明かりが付き、ななこが、いつものように化粧をして出てくる。 この後二人は、ななこの部屋に入ってゆくが、部屋に入ると、松造は、仕事も見つからないし、東京で暮らせる人間でもないから、岩手の山に戻るとななこに告げる。 翌朝、ななこと松造は、上野駅で別れる。別れ際に、松造は、ななこが昔自分が好きだった人に似ていたため、つい懐かしくて、ななこのところに厄介になってしまったことを告白する。ななこは、改札に入ってゆく松造と見送るななこの姿が駅の鏡に写っているのを見たとき、自分の心象風景の中の男とその背中ごしに見える母の顔の構図が、今鏡に写っているななこと松造の姿と同じであることに気づき、松造が好きだった女性が、実は、自分の母親ではないかと感じる。 場面がかわり、ななこの職場でのユカリの誕生パーティーの場面となる。母親が自分を生んだ年になったユカリに同僚のミスターレディー達が乾杯する場面で物語は終わる。 3 そこで、原告脚本と被告ら作品との類似性について、検討する。 (一)被告ら作品における対応部分の不存在について 原告脚本と被告ら作品とは、ゲイ・バーに勤める女装の主人公が、以前の主人公をよく知っている副主人公の年配の男性と出合い付き合うが、主人公が本当は男性であることを副主人公が知ることなく別れる、との部分において共通しているが、被告ら作品においては、副主人公が主人公のもとから去っていくところで物語は終っているが、原告脚本においては、副主人公は、主人公に対し明確にプロポーズし、主人公を必ず迎えに来ると言い残して去ってゆくものの、これで物語は終わるわけではなく、主人公が男の姿に戻って副主人公である父親に会い、その際、父親から夢子のもとに行かなかった理由について説明を受けたり、その帰路、列車が走り出し、副主人公がだんだん小さくなったとき、主人公が副主人公を飲み込んだと感じたり、その後、副主人公が死亡したことによって、主人公がゲイ・バー勤めの生活をやめて、副主人公と同じサラリーマンになる等の話が続いて展開している。 右のような原告脚本の後半部分は、後記のとおり原告がその作品のテーマであると自認する主人公の成長を描いている部分に他ならず、作品の要になる部分であるものといわなければならないが、被告ら作品には右に対応する部分は存在せず、この点で大きく異なっている。 (二)ストーリー展開の相違について 原告脚本と被告ら作品とで共通している、女装の主人公と副主人公との出会いから別れまでの間のストーリー展開も、次の点で異なっている。 (1)主人公と副主人公との出会いについて、原告脚本においては、副主人公である父親は、息子である主人公のところに泊まりに来るのに対して、被告ら作品では、副主人公は、主人公に会いに東京に出てきているわけではなく、東京に出てきた副主人公が、偶然主人公と出会っている。 (2)出会った後の副主人公の居所について、原告脚本においては、副主人公は主人公とは別の場所に宿泊しているものの、その宿泊場所については描かれていないのに対し、被告ら作品においては、副主人公は、一旦主人公のアパートに宿泊し、その後、主人公の同僚のもとに引き取られていくものの、その同僚宅で男同志のラブシーンを目撃し、その後再び主人公のアパートに戻るものである。 (3)脇役についてみてみると、原告脚本においては、脇役達は、楽屋でのお喋りで登場するのみで、話の展開には直接は関係してこないが、被告ら作品においては、前記(2)のとおり、同僚のユカリが、主人公の頼みに応じて一旦は副主人公をその家に預かるものの、男性の恋人を家に招き入れ、部屋で抱き合うという行為に及んだため、それを目撃した副主人公が主人公のもとに戻るという展開になっており、同僚のユカリという脇役は、被告ら作品の話の展開に直接関与し、かなり重要な地位を占めている。 (4)女装の主人公と副主人公との交際も、原告脚本においては、副主人公が主人公をデートに誘うなど、副主人公側が積極的に主人公に働きかけることによって、主人公との心の交流が実現しているのに対して、被告ら作品においては、主人公がお金に困った副主人公の面倒をみているにすぎず、少なくとも副主人公から主人公に対する積極的な働きかけはない。 (5)主人公と副主人公との交際の内容も、原告脚本では、主人公と副主人公が公園に行き、そこでボートに乗ったり、ビル屋上のガーデンレストランで食事をする等のデートをするのに対し、被告ら作品においては、主人公と副主人公はこのようなデートをしておらず、アパートで食事をしたり、アパート近くの商店街で連れ立って買物をする程度である。 (6)主人公と副主人公との心の交流の程度・内容も、原告脚本においては、副主人公が、主人公と別れる際、「一緒に暮らしたい、必ず迎えにくる」と主人公に愛を告白するのに対し、被告ら作品においては、副主人公の主人公に対する何らかの好意を感じ取ることはできても、それが男女間の恋愛感情であるのかどうかは必ずしも明らかではない。 (7)女装の主人公と副主人公との別れ方も、原告脚本においては、副主人公は、友人が仕事を世話してくれることから主人公と別れるものであり、その別れ方も主人公を必ず迎えにくると約束して別れるのに対し、被告ら作品においては、副主人公は、仕事のあてもなく、主人公との再会等を約束するものでもなく別れるものである。 (三)基本的な性格の違いについて 前記認定のとおり、原告脚本は、ミスターレディーの主人公が突然上京してきた父親に女装のまま会ったことから、主人公の友達である等と嘘をつき、その後デートを重ねるうち父親から一緒に暮らしたいとプロポーズされ、このような過程で、かつては、仕事一筋の人間だと思っていた父親の、女性に接する際の自分の知らなかった違った一面を発見し、父親に対する思いを新たにした主人公が、父親の死をきっかけにして、人生にはつまらないこともあり、それから逃れることはできないという考えを抱くようになり、ミスターレディーの生活から普通のサラリーマンの生活に戻るという粗筋であって、息子という立場では到底知ることのできない多面的な父親の態度や心象風景を夢子の立場から知るとともに、このような父親に対する主人公のさまざまな思いを描くことにより、また少年時代の思い出を散りばめることにより、主人公の成長を描こうとしているものであり、後記のようなモノローグを中心とした展開により、主人公の内心の思いやその成長、更には主人公の人生を見つめる姿勢に共感や感慨を抱かせる内容の脚本であるということができる。 これに対し、被告ら作品は、前記認定のとおり、ミスターレディーの主人公が、郷里から突然上京してきた恩師が盗みにあって有り金をなくしたことから、恩師をアパートに引き取ったものの、男性の恋人がいるかのように装って恩師を郷里に帰すものであって、その過程で主人公は恩師がかつて好きであった女性は主人公の母親ではないかと感じるという粗筋であり、被告ら作品はテレビドラマということもあって、ミスターレディー同士の会話の面白さなどに重点が置かれたコミカルな内容の作品であるということができる。 (四)表現方法の相違について 前掲甲第1号証によると、原告脚本は、主人公自身のモノローグをストーリーの全般にわたり約90箇所に取り入れていること、このモノローグが、物語のナレーターとしての役割を果たすとともに、副主人公や幼なじみに対する内心の思いを表出し、更には少年時代の思い出や夢の内容等を語っていることが認められ、このような原告脚本は、主人公のモノローグを中心としてストーリーを展開させ、殊に副主人公に対する主人公の内心の思いを語らせることによって、原告脚本のテーマである主人公の精神的な成長を巧みに表現しているものであるから、このモノローグは、この原告脚本における表現方法を特徴付けているものということができる。 一方、前掲甲第2号証によると、被告ら作品は、主人公のモノローグを第1話に2箇所、第3話に3箇所、第4話に7箇所、第2及び第5話に1箇所、合計約14箇所に取り入れていること、このモノローグは、被告ら作品が5回に分けられた連続物であるところから、各回の導入部等において主人公やその時点までの話の説明をする役割が中心であって、主人公の内心の思いを語る部分は数箇所にすぎないことが認められ、このように被告ら作品においては、主人公のモノローグを中心としてストーリーが展開しているものではなく、前記のとおり、ミスターレディー同士の会話を中心としているものであり、またこの会話が被告ら作品にコミカルな味つけをしているものということができる。 そして、主人公のモノローグの位置づけの違いは、単に、原告脚本がラジオドラマの脚本であり、被告ら作品がテレビドラマ及びその脚本であるという違いからだけ生ずるものではなく、作品の主題や著作者の意図に結びついたものというべきである。すなわち、原告脚本は、息子の立場からは到底知りえない父親の女性に対する態度や過去を知った際の主人公の内心の思い、少年時代の思い出等を介して主人公の精神的な成長を表現しようとするものであるから、主人公のモノローグは、脚本家の意図あるいは原告脚本の主題と密接に結びついた表現方法ということができる。これに対し、被告ら作品は、ミスターレディー同士の会話の面白さを中心としたコミカルな物語であるから、主人公の内心の表白は必ずしも必要ではなく、主人公のモノローグは、表現方法として重要性のあるものではない。 (五)ところで、著作権法27条は、「著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し」と例示したうえ、「その他翻案する」権利を有すると規定しているから、「翻案」とは、翻訳、編曲、変形、脚色又は映画化と同じように、いずれか一方の作品に接したときに、接した当該作品のストーリーやメロディ等の基本的な内容と、他方の作品のそれとの同一性に思い至る程度に当該著作物の基本的な内容が同一であることを要するというべきであり、また、本件のようなドラマやその脚本においては、主題、ストーリー、作品の性格等の基本的な内容が類似することを要するというべきところ、本件においては、右認定のようなストーリーの相違、主題又は作者の意図の違い等を総合すると、原告脚本と被告ら作品は、基本的な内容において類似しているとは認められないというべきである。 4 原告主張に対する判断 (一)原告は、主題について、原告脚本のクライマックスをなす部分は、父親に恋心を持たれ主人公の困惑と、父親の気持ちを踏みにじれない主人公の心の葛藤であり、被告ら作品のクライマックスは、恩師が男の自分を好きになっていることへの困惑とその気持ちに逆らえない自分の心の葛藤であるとして、両者が類似している旨主張する。 しかしながら、原告脚本のテーマが主人公の成長であって恋愛ではないことは、原告自身も認めるところであり(甲第16号証)、一方被告ら作品においては、恩師であった副主人公や亡くなった母親を通じて、内心の思いが描かれているが、そうであるからといって主人公の成長を描いているものとはいうことができず、被告ら作品は、ミスターレディー同士の会話の面白さを主としたものであって、両作品のテーマないし作者の意図するところは異なっていることは明らかであり、テーマにおいて類似しているとの原告主張は採りえないものである。 (二)原告は、被告ら作品の主人公と副主人公との心の交流が、原告脚本と同様の疑似恋愛であるとして、原告脚本及び被告ら作品とも、ゲイ・バーで女装して働いている青年とこの青年に近い関係にある退職後の初老の男性との出会いと疑似恋愛関係を題材としている旨主張する。 なるほど、前掲甲第2号証によれば、被告ら作品の第5話の導入部には、主人公のモノローグとして、「ボクにとっては懐かしさなのだけど、先生にとっては恋なのだと、ユカリに忠告されている」との部分が存することが認められるが、これはユカリの見方であって、物語自体としてはそこまで明らかにしておらず、副主人公が主人公に対し、何らかの好意を抱いていることは窺えるものの、それが恋愛感情であるのか、宿泊させてもらっていることについての感謝の感情であるのかなどは定かではなく、少なくとも主人公が副主人公に抱いている感情は、久しぶりに再会した恩師に対するなつかしさであるから、これを疑似恋愛とすることは被告ら作品の見方として妥当とは言い難く、この点を題材であるとして、題材が同一ないし類似しているとの原告主張は、失当であるというほかない。 (三)また原告は、ストーリー、プロット及び構成において類似している旨主張し、多くの点を指摘しているが、被告ら作品が原告脚本を翻案したものであることを窺わせるような不自然に一致している部分が両作品の中に存在するものと認めることはできず、逆に、前記認定にかかるほか、次の点においても大きく異なっているから、原告の右主張も理由がない。 (1)原告脚本の場合、副主人公も、主人公との出合いを契機として、変化してゆく様子が描かれているが、被告ら作品の場合、副主人公が、主人公との出合いによって変化するという内容は描かれていないという大きな違いが存する。すなわち、原告脚本の場合、副主人公は、主人公との出合いを契機にして、不要品のまま終わりたくないから、離婚して、主人公と暮らそうと一旦は決意し、妻にそのことを打ち明けようとすることが描かれているが、被告ら作品の場合、副主人公は、自分の人生はもと暮らしていた岩手の山の中にあるんだということを自覚し、以前の生活に戻ると描かれている。 (2)両作品ともに、乾杯のシーンで作品が終了しているが、乾杯に込められた意味は、両作品で大きく異なっている。すなわち、原告脚本においては、少し成長したように感じられる主人公自身に対する乾杯を意味していると見ることができるが、被告ら作品においては、主人公が同僚であるゆかり〈「ゆかり」は「ユカリ」の誤〉の誕生日を他の同僚と皆で祝っているものであり、それ以上の意味を見出すことは困難である。 (3)副主人公は、両作品とも主人公と近い関係にある初老の男性である点では共通しているが、原告脚本の場合は、実の父親であるのに対して、被告ら作品の場合は、昔世話になったとはいえ、小学校時代の恩師にすぎないから、主人公との関係の近さにおいて、きわめて大きな差がある。 (4)上京の動機ないし理由についても、副主人公は、原告脚本では職探しのためではなく、主人公に会うために上京するのに対し、被告ら作品では職探しのために上京するのであるから、両者は異なっている。 (四)さらに、原告は、原告脚本と被告ら作品とは、ミスターレディーの主人公と、かつての主人公を知り、同人に近い関係にある初老の男性が出会い、心の交流を重ね、その後初老の男性は主人公が〈「が」は「の」の誤?〉正体を知ることなく別れる、という設定において同一であり、個々の多数の点において類似するから、被告ら作品は原告脚本を翻案したものであると主張する。 原告脚本及び被告ら作品のストーリーは、それぞれ前記認定のとおりであるから、両作品の設定を抽象化するならば、両作品とも原告主張のように表現する余地がないわけではなく、両作品に接する者の中には、いずれか一方の作品に接したときに他方の作品の存在を思い浮かべる者がいるかもしれない。しかしながら、前記説示のとおり、本件のようなドラマやその脚本においては、主題、ストーリー、作品の性質等の基本的な内容が類似することを要するというべきであって、単に抽象化された設定が同一ないし類似であったり、単に、一方の作品に接したときに他方の作品の存在を思い浮かべうるといった程度では、翻案したものということはできない。本件においては、原告脚本と被告ら作品の各ストーリーやその表現方法等は前記認定のとおりであって、両者は、その基本的な内容のみならず、個々の点においても、類似しているとは認められないから、原告脚本と被告ら作品のいずれかに接したことのある者が、もう一方の作品に接したときに、両作品の基本的な内容の同一性にまで思い至るということはないというべきである。したがって、被告ら作品が原告脚本を翻案したものということはできず、原告の右主張も理由がない。 三 結論 以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく、被告ら作品が原告脚本の翻案であるとの主張は理由がなく、原告の本訴請求は失当である。そこで、原告の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法89条を適用し、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第29部 裁判長裁判官 一宮和夫 裁判官 足立謙三 裁判官 前川高範 |
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