判例全文 line
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【事件名】「チューリップ」・「コヒノボリ」事件(2)
【年月日】平成5年3月16日
 東京高裁 平成元年(ネ)第2844号、同第2886号、同第2899号 著作権確認等請求控訴事件
 (原審・東京地裁昭和58年(ワ)第12198号)

判決
第2844号事件控訴人(第2899号事件附帯控訴人) 社団法人日本音楽著作権協会(以下「控訴人協会」という。)
右代表者理事 Y
右訴訟代理人弁護士 柳井義郎
亡P9訴訟承継人、第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯控訴人) P1
同 P2
亡P9訴訟承継人、亡P60訴訟承継人、第2866号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人) P3
同 P4
亡P9訴訟承継人、第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人) P5
右5名訴訟代理人弁護士 大村武雄
同 西山宏
第2844号事件及び第2886号事件被控訴人(第2899号事件附帯控訴人) X(以下「被控訴人」という。)
右訴訟代理人弁護士 加藤文也
同 斉藤豊
同 井澤光朗


主文
一 原判決主文二項ないし四項を次のとおり変更する。
1 被控訴人に対し、第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)P1、同P2、同P3、同P4はそれぞれ5万円を、同P5は10万円をそれぞれ支払え。
2 控訴人らは、被控訴人に対し、次のとおり連帯して支払え。
(一)第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)P1及び控訴人協会は20万円
(二)第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)P2及び控訴人協会は20万円
(三)第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯控訴人)P3及び控訴人協会は20万円
(四)第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)P4及び控訴人協会は20万円
(五)第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)P5及び控訴人協会は40万円
3 被控訴人のその余の請求を棄却する。
二 控訴人らのその余の各控訴をいずれも棄却する。
三 被控訴人の附帯控訴をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、これを4分し、その3を被控訴人の負担とし、その余については、これを更に10分し、その4を控訴人協会の、その2を第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)P5、その各1をその余の各第2886号事件控訴人(第2899号事件附帯被控訴人)の、各負担とする。

事実
第1 当事者の求めた裁判
一 第2344号事件及び第2886号事件
1 控訴人(第1審被告)ら
 「原判決中控訴人ら敗斥部分を取り消す。被控訴人の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は第1、2審を通じて被控訴人の負担とする。」との判決
2 被控訴人(第1審原告)
 「本件控訴をいずれも棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする。」との判決
二 第2899号(附帯控訴)事件
1 被控訴人
 「原判決を次のとおり変更する。被控訴人が原判決別紙歌詞目録1ないし6記載の歌詞について著作者人格権を有すること及び同目録4ないし6記載の歌詞について著作権を有することをそれぞれ確認する。被控訴人に対し、控訴人P1及び同協会は金400万円、同P2及び同協会は金400万円、同P3及び同協会は金400万円、同P4及び同協会は金400万円、同P5及び同協会は金800万円をそれぞれ連帯して支払え。訴訟費用は第1、2審を通じて控訴人らの負担とする。」との判決及び三項につき仮執行宣言
2 控訴人ら
 「被控訴人の附帯控訴をいずれも棄却する。附帯控訴費用は被控訴人の負担とする。」との判決
第2 当事者の主張
 当事者双方の主張は、次に付加する他は、原判決事実摘示のとおりであるからこれをここに引用する。
一 控訴人協会
1 原判決は、被控訴人の原審における供述の信憑性は高いとして、原判決別紙歌詞目録1ないし6記載の歌詞(以下「本件歌詞」といい、個別に称する場合には、それぞれの歌詞の題名で呼ぶこととする。)の著作者は被控訴人であると認定しているが、右認定は以下に述べるように誤っている。
 すなわち、原判決が信憑性が高いとする被控訴人の本件歌詞を作詞した当時の着想、心境、情景に関する供述内容は、作詞活動と作詞された歌詞を鑑賞することの質的相違に照らすと、その歌詞を構成する言葉の平易さからして、作詞された歌詞を前提として様々な情景を想起し、心象を構成することは、被控訴人と同年配者であれば、現実に作詞に関与しない者でもこれを容易に想起し、具体的かつ詳細に表現することが可能な事柄であるから、これが具体的かつ詳細であるからとの理由で、その供述に信憑性があるとすることはできない。
 しかも、被控訴人の本件歌詞中の「チューリップ」の着想に関する供述のうち、客観的証拠によって着想した対象物の存在を証明することの可能な供述部分であるところの「当時、小学校の1年度の最初の1番冒頭がサイタ サイタ サクラガ サイタという詩でございました。そしてそれが頭にあったものですから幼稚園のほうはサイタ サイタ チューリップガ サイタで、いいんじゃないかというような気がいたしましてね」(被控訴人の昭和60年9月19日付け本人調書)における「サクラ読本」について、この読本が当時存在していなかった事実は、被控訴人の供述全体の信憑性を疑わしめるものである。
 また、原判決が被控訴人を本件歌詞の著作者と認定するその余の事実は、いずれも状況証拠にすぎず、かえって原判決の摘示する事実関係の状況下において、被控訴人が本件歌詞を著作したことに関し、風聞に類する程度のことですら証言する第三者が存在しないことは不可解といわなければならない。原判決の認定するような状況下であるならば、日本教育音楽協会(以下「訴外協会」という。)における理事会等の席上で、同協会が募集した歌詞31編のうち6編を作詞したとする被控訴人の著作の件及びその著作について高額の謝金を支出した件が話題ないし議題とされないはずはないのに、理事総員12名にすぎない同協会において、当時理事の職にあったP6及びP7の両名が、いずれもかかる事実を全く聞知していない事実は、被控訴人の主張が真実でないことを積極的に裏付けているものである。殊にP6は「チューリップ」の作曲者と主張する者であったから、その歌詞の作詞者についても格別の関心を持つべき立場にあったことからすると、同人がP8らと共に幼稚園唱歌の作曲に関する打合会に出席している事実がある(甲第7号証)のに、被控訴人の「チューリップ」に関する著作の事実を知らなかったという事実は、被控訴人がその著作者ではないということを物語っているものである。
 さらに、被控訴人が「チューリップ」の著作者でないと思料されることは、被控訴人の本人調書、甲第141号証の聴取書及び同第143号証の書簡並びに甲第47号証のP6から被控訴人に宛てられた書簡の各内容を対比すれば、明らかである。
 すなわち、被控訴人の右供述及び書簡内容によれば、P8は幼稚園唱歌に深い関わりを有し、「チューリップ」の著作者が被控訴人であることを知る者であったことが推認される。これに対し、P6の右書簡によれば、同人は右P8と極めて深い親交を有していたことが認められることからすると、「チューリップ」の作詞者を長い間探していたP6が、時期を同じくして訴外協会の理事をしていたP8に対し、「チューリップ」の著作者について質問をしていなかったとすれば、P8が幼稚園唱歌に深い関わりを有したとする被控訴人の前記供述の信頼性は疑わしく、また、P6がP8に対し前記質問をしていたとすれば、同人から「チューリップ」の作詞者が被控訴人であることを告げられていなかったと解さざるを得ず、かかる一連の事柄は、被控訴人が「チューリップ」の著作者ではないことを推測せしめるものである。
 更にこの点について付言するならば、前記P6は、幼稚園唱歌の選定及び「ヱホンシヤウカ」の編集時における訴外協会の理事で、その後も継続して理事の職にあり、戦後長期間にわたって会長の地位にあったのであるから、幼稚園唱歌の選定に関与していた者が誰であったかを知悉する立場にあった。したがって、前記の「チユーリツプ」の作詞者を長い間探していたとのP6の前記書簡が真実であるとするならば、同人は幼稚園唱歌の選定に関与していた者に対する探索にもかかわらず、被控訴人が著作者であるとの情報を得ていなかったことを意味するものである。
 被控訴人の供述内容のうち、本件歌詞の著作に関する立証の可能な客観的事実についての供述部分は、@「チユーリツプ」の歌詞について「サクラ読本」を下敷きにしたとする事実、AP8から「コヒノボリ」の歌詞の訂正について連絡があったとする事実、及びB本件歌詞の著作について200円の謝金を受領したとする事実の3点のみであるが、@が事実でないことは前述したとおりであるし、A及びBについては、全く立証されていない。かえって、Bについては、学校音楽研究会が昭和10年8月1日発行の「学校教育」及び同年11月1日発行の「学校教育」の各誌上で募集した唱歌の作曲及び作詞における賞品がいずれも1等5円、2等3円、3等1円の図書券であることと比較して、被控訴人の供述する謝金の額は余りにも高額に過ぎるもので、しかも、謝金交付の事実を証する訴外協会の決議、承認等の証拠は全くないのであるから、右の点に関する被控訴人の供述は信憑性に欠けるというべきである。
 さらに、被控訴人の供述のうち、控訴人協会の者から「チユーリツプ」の作詞者が被控訴人であることの確認の電話があったとの点、被控訴人を控訴人協会に呼び出したとの点、控訴人協会の職員が文化庁への登録手続を勧めたとの点及び被控訴人協会の職員が被控訴人に同道して東邦音楽大学に行ったとの点は、いずれも事実に反するものであり、被控訴人の供述の信憑性を疑わしめるものである。
 以上のとおり、本件歌詞を著作したとする被控訴人の供述内容は、客観的証拠による裏付けのない真実性の乏しいものであるから、被控訴人を本件歌詞の著作者とする合理的理由は存在しないのであり、原判決の認定は誤っている。
2 原判決は、控訴人協会は、「チユーリツプ」の歌詞の作詞者がP9であるか否かについて疑問があったのに、右歌詞の作詞者をP9として第三者に対する使用許諾業務を行うことを決定し、この決定に基づく許諾によって「チユーリツプ」の歌詞の使用者に作詞者をP9と表示せしめ、被控訴人の氏名表示権を侵害したとして、控訴人協会に賠償を命じた。
 しかし、前項に述べたように、被控訴人を「チユーリツプ」の歌詞の著作者とすることについては、前記のような疑問があるのみならず、仮に、真実そうであるとしても、控訴人協会には、前記氏名表示権の侵害について故意、過失はなく、損害賠償責任はない。
 すなわち、控訴人協会は、昭和58年1月1日以降、「チユーリツプ」の作詞者をP9として、第三者に対する使用許諾業務を行い、同年2月8日の通常理事会において、右取扱いを正式に決定しているが、この決定は、「チユーリツプ」の歌詞の作詞者はP9であるとする昭和57年12月27日付けの訴外協会及びP9から連名で提出された届出に基づくものである。しかして、右届出に記載された昭和56年、主婦の友社発行の「わたしの赤ちゃん」5月号による公表は、著作権法14条の公表に該当し、P9は「チユーリツプ」の著作者と法律上推定される者であるから、右推定を覆す合理的理由のない状況下において、右法律上の推定に従った控訴人協会の前記決定に誤りはないというべきである。
 以上のように、控訴人協会の前記決定は法律上の推定に従った正当な業務執行というべきであるが、右決定当時において、前記推定を否定するに足りる疑いの存しなかったこと、及びP9以外の者が「チユーリツプ」の歌詞の著作者であることを認識し、あるいは認識すべき状況の存在しなかったことは、以下の事情からも明らかである。
(一)控訴人協会が前記決定をした当時における「チユーリツプ」の作詞者の確定資料は、訴外協会からの届出関係資料を主たるものとするものであった。
 右関係資料のうち甲第106号証、同第108号証、同第110号証及び同第112号証は、控訴人協会が無名著作物として公表された著作物の著作者名の照会に対する回答文書で、その回答内容が単に著作権の存続を目的とするにすぎない安易な届出と解される余地があり、このことから「チユーリツプ」の歌詞についてのP9の著作者性についても疑義なしとすることはできないが、疑義の内容は具体性を欠く抽象的なもので、著作者であることの真実性に影響を与えるに足りる合理的な疑義と解されるものではない。
(二)訴外協会からの前記届出書類中の甲第108号証、同第110号証及び同第112号証にも、「チユーリツプ」の作詞者としてP9の名が連記されている。
(三)P9は、前記の届出に際し、「チユーリツプ」の曲について、右楽曲は、大正11年11月11日、赤坂尋常小学校創立50周年記念の奉祝歌として発表した旨主張するとともに、その資料として楽譜を提出しているが、その内容は「チユーリツプ」の曲とほぼ同一であることから、右主張の真実性を裏付けるもので、その作詞に関する届出内容の真実性を間接的に保証する性質を有するものである。
(四)昭和45年6月5日頃、被控訴人から控訴人協会の常務理事P10に対し、本件歌詞について被控訴人が作詞したとの申出があり、同理事及び控訴人協会職員から、それが真実であるならば、文化庁への実名登録の手続ができる旨教示したことはあるが、その後、控訴人協会の前記決定に至るまでの間、被控訴人から控訴人協会への何らの報告あるいは届出もなされていない。
(五)「チユーリツプ」の歌詞について、P9、被控訴人以外の第三者から控訴人協会へ、自己の著作物である旨の報告あるいは届出がされたことがない。
(六)P9は、長期間にわたり教職に従事し、「チユーリツプ」の歌詞に関する前記届出の当時、訴外協会の会長及び東邦音楽大学教授の身分を有する者で、また、過去に学習院教授として音楽教育を通じて皇室関係者と深い関わりを持ち、これらのことはP9を知る者の間においては周知の事柄であり、その言動はかかる経歴及び社会的地位を背景とした高い信頼性を有していた。
 なお、原判決の「チユーリツプの著作権の帰属には疑義があることを認めながら」との認定は、控訴人協会が昭和58年2月28日付けで「『チユーリツプ』について」と題して関係者に通知した連絡文書(甲第91号証)の「標記作品の著作権の帰属について疑義があると認め、この疑義の解消されるまでの間、次の通り取り扱うことに決定しましたので、ご連絡いたします。」との文言に基づくものと推定されるが、右文言中の「著作権の帰属について疑義」とは、P9からの「チユーリツプ」の曲に関する届出が、これを証する資料として提出された前記楽譜の内容に照らして真実性が高いことから、P6を「チユーリツプ」の曲の著作者とすることに疑義が生じていたことによるもの、すなわち、曲に関する疑義であり、歌詞に関し疑義が生じていたことを意味しているものではない。また、詞及び曲の両者の使用料の分配を保留した理由は、控訴人協会において両者を一体として管理し、いずれかに使用料分配保留に該当する事実が発生したときには、両者を同時に保留するという実務上の取扱をしていたことによるものである。
 以上のような諸事情を考慮すると、P9の著作者性について、法律上の評価の対象とするに足りる程度の疑義が存在し、P9以外の者が著作者であると認識し、認識すべきであったとすることはできず、したがって、控訴人協会に侵害行為の結果についての認識、あるいは結果発生に関する予見可能性があったと認めることはできない。
 仮に、本件において、法律上の評価の対象とするに足りる程度の疑義が存在し、侵害行為の結果発生に関する予見可能性があったとしても、以下に述べるように、控訴人協会には回避可能性がなかった。
 すなわち、控訴人協会は、我が国における唯一の著作権仲介団体で、著作権信託契約の委託者からの著作権管理の申出を拒否するときは、委託者に事実上その著作権使用料の徴収不能という結果を生ぜしめ、回復することのできない損害を与えるおそれがある。したがって、法律上の著作者推定を前提とし、著作権信託契約の保証条項に基づき、万一の場合の責任の負担を約してなされた「チユーリツプ」の歌詞についての著作権管理継続に関する前記届出に対して、著作者性の疑義が確定判決その他の裁判手続等による公的判断を経ていない単なる疑義に止まる限り、著作者判定に関する権能を有しない控訴人協会は法律上推定される著作者を著作者として業務を遂行すべきであり、単なる疑義の存在を理由として著作権管理を拒否できないものである。
 したがって、控訴人協会において「チユーリツプ」の歌詞の著作者をP9として著作権の管理継続を決定した行為は、正当な業務行為に該当し、これによって生じた侵害の結果は、控訴人協会の回避できない状況下で発生したことに帰するものである。
 なお、控訴人協会は、音楽著作物を使用するレコード会社、出版社等に対する音楽著作物の使用許諾に当たり、その著作者を表示することを使用許諾の条件としている。この結果、控訴人協会が「チユーリツプ」の著作者をP9と決定すれば、控訴人協会の使用許諾を受けてその歌詞を使用するレコード会社等は、歌詞を公衆に提供ないし提示するときは、「チユーリツプ」の著作者をP9と表示することになる。
二 その余の控訴人ら
  原判決の被控訴人を「コヒノボリ」及び「チユーリツプ」の著作者であるとした認定判断は、以下に述べるように誤っている。
1 被控訴人の供述の信憑性について
 原判決は、被控訴人の供述について「具体的かつ詳細なその供述内容に照らし、全体として信憑性の高いものということができる」(63頁)としているところであるが、右認定判断は以下に述べるように誤っている。
(一)被控訴人は、原審における本人尋問において、「チユーリツプ」の詞の作成経緯について、「当時、小学校の1年生の最初の読本の1番冒頭が サイタ サイタ サクラガ サイタという詩でございました。そして、それが頭にあったものですから幼稚園のほうはサイタ サイタ チユーリツプガ サイタでいいんじゃないかそういうような気がいたしましてね」等と答え、当時小学校の国語の読本に出ていた歌を下敷きに作詞した旨供述し、その約4箇月後の昭和61年1月29日付け東京地方裁判所宛報告書と題する書面において、前記国語の読本に関する書類資料等が、父親の書斎にあり、これを参考にして作詞した旨、前記供述を訂正しているところである。
 右訂正は、サクラ読本は昭和8年4月から実施されたものであり、被控訴人が作詞したとする昭和6年9月頃にはまだ出版されていなかったことに気づいたためであると思われる。しかし、右の核心部分における記憶違いは被控訴人の供述の信憑性を判断する上で致命的ともいうべきものである。しかるに、この点について原判決は、「供述の細目を変更しながらも、サクラ読本からそのイメージを得たとの供述の大筋は維持していることからすれば、原告が右のように供述の細目を変更した経緯は、むしろ、原告が当初から自己の記憶を追ってこれを忠実に述べようとしていることを推認させるものである」としている。
 しかしながら、前記訂正後も、「サクラ読本からそのイメージを得た」との供述を維持するためには、@昭和6年9月頃、サクラ読本の冒頭部分が、人の目に見える形で成立していたこと、A未公刊の国定教科書の資料が父親の書斎にあったことの2点の前提事実の立証がなければならないところ、@が認められないことは、以下のとおりである。すなわち、小学校国語読本は、大正12年10月及び昭和6年9月になされた教科書調査会の決議等を参酌して編纂されたものである(乙第16号証)から、右決議の時期以前に、具体的な「サイタ サイタ サクラガ サイタ」という部分が成立していたとは、到底考えられないし、また、仮に、右編纂の中心人物であったP11が個人的に右の構想を有していたとしても、いまだ腹案程度とみるのが自然であるというべきであるし、右P11自身最後まで「コイ コイ シロ コイ」を巻頭としたかったと述べていることからしても、「サクラ」が前面に出るとは考えられないのであり、これらのことは、昭和6年秋頃には、サクラ読本の原型は出来上がっていなかったことを推測させるのである。次にAが認められないことは、以下のとおりである。編纂過程にある教料書の草案が外部に漏れること自体考えられない上、前記P11が教料書編纂に当たり意見を参考にしていたのは、言語学者P12、教育学者P13、心理学者P14であり(乙第17、18号証)、共に研究していたのは「高師附属その他実際家諸君」(右17号証)であって、被控訴人の父P15ではなく、また、右P15は当時の教科書編纂過程においては、国語教育の指導的立場にあったということはないし、その名前が国語審議会の委員の名簿に現れるのは昭和10年1月1日以降である(乙第19号証)からである。
(二)訴外協会編纂に係る(ヱホンシヨ〈「ヨ」は「ヤ」の誤?〉ウカ」の編纂過程についてみると、@昭和5年6月、幼稚園唱歌研究部委員会が設置され、同年10月13日までに題目を31選定の上、「教育音楽」18巻11号の誌上で公募した、A右31題目に対して70編以上の応募があったが、20編が採用され、残り11編について更に募集し、昭和6年7月18日までに右再募集10編が選ばれた、B当初の31題目のうち1題目(「おいしやさま」)を除く30題目に、公募しなかった10題目を加えて40題目とすることとし、この10題目については専門家に委嘱した、との経緯があり、この経緯と被控訴人の供述を対比すると、同人が作歌の委嘱を受けたのは専門家に委嘱した右10編ということになる。しかし、「コヒノボリ」及び「チユーリツプ」はいずれも当初の公募題目31編の中に含まれていたのであるから、被控訴人の供述は、事実と食い違うものである。
(三)被控訴人は、本件歌詞を作詞した謝金として200円を受領したと供述しているが、右金額は当時の謝金としては破格の金額であるのに、「教育音楽」誌上の会計報告書等にもこれを裏付ける記事は見当たらないのであり、極めて不自然というほかない。
(四)右サクラ読本の冒頭の部分が「チューリップ」の1番の歌い出し部分と似ていたとしても、このことは、被控訴人がチューリップを鑑賞して感ずることも可能であるから、このこと自体から、被控訴人の作詞の際の事情を説明するものと解することは、逆転した考えといわなければならない。さらに、被控訴人は、「チユーリツプ」の「ドノ ハナ ミテモ キレイダナ」との部分について、「何事においてもそれぞれのいいところを見て過ごそうという自分の人生の基本的な考え方、殊に、弱いものには目を配りたいという気持に基づくものであった」としているが、作品の評価鑑賞の態度として右のようにいえる、感じ取る、思い込める、としても、何ら、作詞の事情を物語るものではない。
2 P9による作詞について
 原判決は、「チユーリツプ」の作詞がP9でないことの理由の一つとして、赤坂小学校においてP9が作成した2枚の楽譜、すなわち、甲第83号証及び乙第5号証が大正11年当時のものとは認められないとする。しかし、この認定はその結論と矛盾する事実に全く触れないものであって、到底納得し得るものではない。特に、甲第83号証の2には、「記念の思出 P16」との書き込みがあり、右書き込みはP16の筆跡であることが確定されているにもかかわらず、これに対する判断が全く示されておらず、致命的欠陥を有するものといわざるをえない。なぜなら、右2枚の楽譜が大正11年当時に作成されたものでないならば、何故、その1枚に前記の書き込みがあるのかについて合理的な判断が必要となるからである。
 また、原判決は、戦後のP9の一連の言動を挙示した上、「コヒノボリ」、「チユーリツプ」の作詞者であるとすれば、これらの一連の言動を採るということは経験則上到底考えられないとする。しかしながら、戦後の訴外協会における状況を理解すれば、P9の前記一連の言動を正当に理解することができ、これらの言動は何ら不自然とはいえないのである。すなわち、訴外協会の出版事業として編纂、発行された「ヱホンシヤウカ」に掲載された全ての曲及び詞については、昭和25年、訴外協会が著作権者であるとして、控訴人協会に著作権信託されてきた。ところが、「チユーリツプ」の曲のみは、いかなる経緯か、著作権者はP6個人とされてしまった。その頃、訴外協会は著作権使用料を財源の一つとして運営されていたが、会長であるP6がこれを一人で掌管し、その管理状況は非公開とされていたところ、その管理が問題となり、「チユーリツプ」の著作権料をP6士個人が受領していることが判明し、会長にあるまじき行為と非難する声が会員からあがった。このような経緯で、昭和42年5月13日の総会でP9が会長に選出され、P6は名誉会長に選出されたものの、訴外協会の運営からはずれていった。ところで、「チユーリツプ」の曲については、同声会有志によって昭和36年頃、詞及び曲共両者の共作とする調停工作がされ、P9は不本意ではあったがこれを受け入れていたため、一応の決着がついていたのであり、P9は右調停案を守り、以後、これに従って行動したのである。その後、昭和57年12月に「ヱホンシヤウカ」掲載の各著作物の無名著作物としての保護期間が終了するに際し、前記P6の遺族側から「チユーリツプ」の著作権使用料を訴外協会が引き続いて受け取ることに異議が出されるに及んで、やむなく、訴外協会の存続を賭け、「チユーリツプ」の曲及び詞の著作権確認訴訟を千葉地方裁判所に提起したものである。さらに、以上のような経緯の中にあったP9にとって、被控訴人の出現は全く予想もしないところであり、「赤旗」の記事も知らないP9は、被控訴人の来訪を受けた際にも良く事情が飲み込めなかったものであり、被控訴人との面談も物別れに終わり、その後、被控訴人からも何ら連絡はなかったものである。
 したがって、以上のような訴外協会におけるP6とP9との確執という背景事情を考慮すれば、P9の前記言動を経験則上到底考えられないとはいえないのである。
三 被控訴人
1 被控訴人が本件歌詞の著作者である点について
(一)被控訴人が本件歌詞の著作者であるとする原審の認定に何ら誤りはない。すなわち、被控訴人は本件歌詞の作詞に当たり、作歌的観点や詩としての技巧や修飾的なものを一切排除し、できるだけ分かりやすく、平明なものを作るという気持ちで行ったと述べている。このような作歌の姿勢は、当時の社会状況からすると極めて新鮮であり、誰にもできるというものではなかった。また、被控訴人が、「チユーリツプ」の歌詞の最初の部分をサクラ読本の原稿を基に作詞したことも、被控訴人の父親であるP15とサクラ読本の作成者であるP11らとの懇意な付き合いからすると、十分裏付けられているところである。また、「チユーリツプ」の歌詞の中の「ドノ ハナ ミテモ キレイダナ」の部分について、被控訴人は自分自身の生き方をこの歌詞に込めたと述べている点は、直接、作詞したものでなければいえないことであることは明らかである。このように、被控訴人が本件歌詞について述べていることは、いずれも具体的で、実際に作詞したものでなければ、明らかにし得ない内容であり、本件歌詞の作詞者であることを雄弁に物語っているのである。
(二)被控訴人が、本件歌詞を作詞したのは、訴外協会の公募で良い歌詞が集まらなかったことから、公募期間経過後に、右協会の中心人物であったP17から被控訴人の父P15を通じて作詞の依頼を受けたことによるもので、かかる経緯からすると、被控訴人の作詞は専門家としての立場において行われたものである。
 そして、「チユーリップ」、「コヒノボリ」等の作曲は、訴外協会に属していた専門家が行っており、いずれも「ヱホンシヤウカ」誌上に作詞、作曲共無名著作物として公表されているところであるから、被控訴人の「チユーリップ」、「コヒノボリ」等の作詞の著作権についても、右専門家らによる作曲の場合と同様の取扱を受けるのが相当である。ところで、「チユーリップ」については、P6が昭和42年ころ、作曲者として控訴人協会に届出を行い、著作権使用料の交付を受けていたことからすると、専門家が作詞、作曲したものについては、著作権の譲渡がなかったことを意味するものである。したがって、専門家の場合には、著作権の保護期間が切れる前に、著作権者であることを公表すれば、著作権保護の対象となるところ、被控訴人は右期間内に著作権者であることを公表しているから、当然、著作権者として保護されなければならない。
 なお、原判決は、控訴人〈「控訴人」は「被控訴人」の誤?〉が200円を受領したことを著作権譲渡の対価としているが、専門家の場合には、作詞、作曲に対して謝礼を払っていることからすると、右謝礼は著作権譲渡と何ら関連がないし、また、当時の事情からすると、右200円は謝礼として決して高額に過ぎるということもない。
2 控訴人協会の賠償責任について
 控訴人協会は、日本国内における音楽著作権の仲介業務をなす唯一の団体であり、その定款4条には、「音楽の著作物の著作権に関する調査および研究ならびにこれに関する文献資料の収集および出版」を事業内容の一つとしており、著作権の所在についての最終決着は裁判所であると決められるとしても、実際上、音楽著作権の所在に関する資料を大量に所持し、著作権の所在について調査し得る能力を有しており、現に、紛争処理機関としての役割を果たしている。さらに、控訴人協会は、著作権の信託に当たっては、直接著作者からあるいは音楽出版社から委託される形をとり、通常、演奏・録音権はもとよりそれ以外の権利についても一括して委託されている。そして、レコード会社、出版社等の第三者が控訴人協会の許可を得てその受託された著作物を使用する場合には、作成者が分かっている場合、作成者の名前を表示することは自明のこととなっている。
 著作権法14条は、「著作物の原作品に、又は公衆への提供若しくは提示の際に、その氏名若しくは名称(以下「実名」という。)又はその雅号、筆名、略称その他実名に変えて用いられるもの(以下「変名」という。)として周知のものが著作者〈「名」が脱落〉として通常の方法で〈「で」は「により」の誤〉表示されている者は、〈「その」が脱落〉著作〈「物の著作」が脱落〉者と推定する」と規定するが、本件のように長年無名著作物とされてきたものには、右推定規定の適用はない。このことは、長年無名著作物とされてきたものについて、著作物の保護期間が切れる間際になって、自己の都合のみで何の根拠も示さず、公衆へ提示するものに著作者〈「名」が脱落?〉を表示することにより、右推定を受けられることの不合理を考えれば、明らかである。
 控訴人協会は昭和52年頃から、訴外協会に対して、「ヱホンシヤウカ」に無名著作物として公表された著作物について、著作者についての資料の提出を求めているが、訴外協会は資料を提出できなかったため、控訴人協会はその都度、資料に不備がある旨通知してきた。P9が昭和57年末に提出した資料も著作者であることを示す新たな資料ではなかったのであるから、控訴人協会としては、従前と同様の対応をすべきであった。それにもかかわらず、P9を著作者とすることに疑義があることを認めながら、「チユーリツプ」の著作者を作詞P9、作曲P6として第三者に許諾することを決定したのである。
 このことは、P9ら第三者による「チユーリツプ」についての被控訴人の氏名表示権侵害行為を積極的に是認し、これを助長するのみならず、その原因を形成する行為であって、右P9と共同して被控訴人の氏名表示権を侵害する行為というべきである。
 なお、控訴人協会における使用許諾の際の著作者の表示に関する取扱に関する主張は認める。
第3 証拠
 証拠関係は原審及び当審における書証目録及び証人等目録記載のとおりであるからこれを引用する。

理由
一 本件歌詞が雑誌「ヱホンシヤウカ」で公表されるに至る経緯
 いづれも原本の存在及び成立について争いのない甲第1号証ないし第14号証、同第92号証の1ないし5及び同乙第27号証の1ないし3、いずれも成立に争いのない甲第63号証、同第134号証及び同第140号証、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第64号証によれば、以下の事実を認めることができ、この認定に反する原本の存在及び成立に争いのない甲第94、95号証及び同第119号証の各記載部分は前掲各証拠に照らして採用できない。
1 訴外協会は、昭和5年当時、文部省発行の小学唱歌集が刊行後約20年を経過し、既に時代の要求に即応し難いものとなっていたにもかかわらず未改訂のままとなっていたことから、同協会において、新しい歌曲の要望に応えるべく、前記の小学唱歌集の補助教材となる新しい唱歌集を編纂することとし、同年5月ころ同協会内に唱歌研究部を設置した。そして、同年7月1日、新唱歌集編纂の具体的な作業の担当者として、新尋常小学唱歌については、P18、P6、P8、P19、P16、P20、P9、P21、P22、P23、P7、P24、P25、P26、P27、P28、P29、P30、P31、P32を尋常小学唱歌研究部委員に、また、新幼稚園唱歌については、P33、P34、P35、P36、P37、P17、P38、P39、P40、P41を幼稚園唱歌研究部委員にそれぞれ委嘱した。なお、更に同年9月27日、幼稚園唱歌研究部委員に、P42、P43、P44、P45、P46、を追加委嘱した。
2 幼稚園唱歌研究部委員会は、昭和5年10月8日、幼稚園唱歌歌詞歌曲の標準調査を行い、同月11日及び同月13日に幼稚園唱歌の題目の選定を行い、訴外協会は、同年11月1日発行の「新育音楽」8巻11号において、本件歌詞6編の題目すべてを含む31題目について、「一、歌詞はなるべく幼児の日常使用する言葉を用ひ其発音を美化し得べきものたること、一、歌詞の内容は教訓的に偏せざること、一、当選者には薄謝を呈す、一、当選歌の版権は本会の所有とす、一、応募歌詞の原稿は返戻せず、一、締切は11月15日とす」との条件を付して募集広告を出したところ、右11月中に70余編の応募が、多くの幼児教育の関係者から寄せられた。その後、新幼稚園唱歌の題目は合計40題目とされ、このうち30題目を応募歌詞から選定し、残りを専門家に委嘱し、昭和6年9月中旬頃には、右40題目の歌詞の殆どの審査を終了するとともに、これらの歌詞に対する曲の募集をし、同年12月上旬頃までに、応募曲に対する審査を終了した。そして、これらの歌曲の各10曲ずつがそれぞれ、編纂者を訴外協会として、各曲の作詞者及び作曲者を一切明記せずに、「ヱホンシヤウカ」の「ハルノマキ」、「ナツノマキ」、「アキノマキ」、「フユノマキ」の4巻に編集され、昭和6年12月25日発行の「ハルノマキ」には、「テフテフ」、「タンポポ」、「コヒノボリ」が、同7年7月18日発行の「ナツノマキ」には、「チユーリツプ」、「カミナリサマ」、「オウマ」がそれぞれ掲載された。
3「ヱホンシヤウカ」の編纂は、前記のように応募作中から選定された30編の歌詞(なお、この30編が具体的にいかなる題目の歌詞であるかについては本件全証拠によっても確定することはできない。)について、専門家の批評、訂正及び実際家の意見を徴してそれぞれ修正を加え、専門家に委嘱した10編と共に、応募曲から、歓詞1編について2曲を選び、これを幼稚園唱歌研究部委員が審議し、必要な修正を加えて40歌曲を確定したものである。なお、「ヱホンシヤウカ」の対象は、幼稚園児のみに限定されるものではなく、小学1年の児童をも対象とするものであるところ、右小学1年生から6年生を対象とする新尋常小学唱歌の編集に関しては、訴外協会における唱歌編纂の中心的役割を果たした訴外協会の理事で作曲家であるP17が昭和6年5月30日から同年6月1日にかけて開催された新尋常小学唱歌講習会(第1、2学年用)においてした「新尋常小学唱歌の編纂に就て」と題する講演において、「誤りのない穏健な教材によつて、子供に正して(原文のママ)音楽的の素地を付けてゆくことが大切なので、本書の歌詞楽曲共に各々その一個々々につき或はその相互連絡についても、それぞれ十分の考慮を致してある」(前掲甲第5号証11頁34行)と説明し、かかる観点から、編纂に当たっては「本来一人に一曲宛の製作を依頼したのでありますから、……思ひ思ひのものが出来て参りましたのであります。しかしそれを書物として取り纏めて行くには、一年なら一年、二年なら二年と云ふ風に、子供に教え〈「え」は「へ」の誤?〉て行く上にその連絡関係をつけなければなりませぬ。其の纏まりをつけますに就いては、勢ひ歌詞なり楽曲なりに修正を加へたり變改を施したり、適当に手を入れなければ(ならない)」(同頁4行ないし8行)と述べ、かかる編纂方針の結果、「顕著な特徴とか、強烈な色彩とか云ふものが薄らげて参りますので、思ひ切りの良い水際立つたものにはならないといふ巳むを得ざる事情である」(同頁8、9行)が、「児童の心情にピツタリ合つた内面的価値の豊かなもの」(16頁15、16行)を目指したと、それぞれ述べていることが認められるところ、新幼稚園唱歌と新尋常小学唱歌との前記の関係に照らすと、これらの説明から認められるところの基本的な編纂方針は、新幼稚園唱歌の編纂においても同様に当てはまるものとみるのが相当である。
4 以上認定の1ないし3の事実に照らすと、「ヱホンシヤウカ」は、子供に対して、「児童の心情にピツタリ合つた内面的価値の豊かな」唱歌を与えることにより、児童に音楽的素地を付与していくべく編纂された新尋常小学唱歌の導入的部分の役割を果たすことを期待して編纂されたものであり、かかる方針のもとに、応募された歌詞及び曲は、専門家や実際家の意見を徴した上、幼稚園唱歌研究部委員会において慎重に合議された結果、前記のような観点から必要な訂正、改変が加えられて採択されたものである。したがって、「ヱホンシヤウカ」のこのような編纂目的及び編纂の基本的方針に照らして、訴外協会の編纂として発刊されたものと解され、発表された唱歌の作詞者及び作曲者の氏名は一切公表されないことが当然のこととして予定されていたものということができ、このような点からすると、応募者の著作権は訴外協会に帰属することが応募の条件とされたものと解するのが相当である。また、専門家に委嘱されたものについても、前記のような編纂上の基本的方針及び編纂経緯からすると、その著作権の帰属は当然に訴外協会に帰属するとの条件が付されていたものと推認することができるものであり、この推認を左右する証拠はない。
二 そこで、以上の経緯を踏まえて、本件歌詞の作詞者は被控訴人であるとする主張について検討する。
1 まず、被控訴人が本件歌詞の作詞者であることを推認せしめる間接事実のうち、本件歌詞が作成された当時の諸事情から検討することとする。
 @前掲甲第63号証及び原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、被控訴人の父親であるP15は、明治34年東京帝国大学文学部国文科を卒業し、後に同大学国文科の教授を務めたが、その妻P47が前記P17と東京音楽学校の同期生であり、右P17の妻が東京音楽学校におけるP47の1年後輩であることもあり、家族ぐるみの親交を結んでおり、P17は、昭和6年4月15日に行われた被控訴人の結婚披露宴にも出席していること、及び、A前掲甲第63号証によれば、P15は、P17が大正3年に出版した「音程教本伴奏譜」、同4年に出版した「師範学校楽典教本」及び「高等女学校楽典教本」、同5年に出版した「尋常小学唱歌教授提要」、同6年に出版した「三重唱歌教本」並びに同7年に出版した「単唱歌教本」及び「二重唱歌教本」の作歌をしている事実がそれぞれ認められ、これを左右する証拠はない。また、前記一に認定の訴外協会の唱歌編纂との関連についてみると、B前掲甲第5号証、同第8、9号証、同第12号証及び同第134号証並びに前掲乙第27号証の1ないし3によれば、被控訴人の夫であるP48は、訴外協会が新尋常小学唱歌の普及を図るべく主催した講習会が昭和6年5月30日から同年6月1日、同年10月16日から同月18日及び同年12月25日から同月29日にかけてそれぞれ開催された際、並びに、新幼稚園唱歌の普及を図るべく同協会が主催した講習会が昭和6年12月25日から同月29日にかけて開催された際、右各唱歌の歌詞について、東京音楽学校講師として講演をしているところ、右講演中で、各歌詞の解説を行うに止まらず、新尋常小学唱歌の歌詞確定の手続につき、「其の組織、手続を概略申上げますと先づ委員会と云ふものが此の学校内に設けられてあります。其の委員会に草案が提出されまして其所で充分練られました上で、改めて文部省の方に提出されます。」などと言及している(前掲甲第5号証19頁末行ないし20頁2行)事実が認められ、これを左右する証拠はない。また、C前掲甲第12号証及び第14号証並びに前掲乙第27号証の1によれば、訴外協会は、新幼稚園唱歌及び新尋常小学唱歌に続いて昭和7年から新高等小学唱歌の編纂に入っていたが、P15は、新高等小学唱歌の歌詞の作成に従事し、同人の責任においてその歌詞全編を作成したことが認められ、これを左右する証拠はない。
 以上の@ないしCの各事実によれば、被控訴人の父親であるP15とP17とは、訴外協会が前記各唱歌集の編纂に着手する以前から、家庭的な付合いの面において親密な関係にあったというに止まらず、作詞家と作曲家という面においても極めて密接な関係にあったということができるばかりか、訴外協会が編纂した前記一連の唱歌集の中の新高等小学唱歌の歌詞の作成に当たっても極めて重要な役割を果たしたものということができる。また、被控訴人の夫であるP48は、前記一に認定の訴外協会の唱歌研究部委員会等との関係は明らかではないが、訴外協会主催の講習会における前記講演内容からみて、訴外協会編纂の新幼稚園唱歌及び新尋常小学唱歌の歌詞選定作業に相当深く関与していたものと推認することができる。そして、新幼稚園唱歌集の歌詞選定に当たり、予定歌詞40題目に対し、10題目については応募歌詞中に適当なものがないため、専門家に作成を委嘱したこと、及び、P17が右唱歌集の編纂の中心的役割を果たしていたことは前記一に認定したとおりであるところ、かかる事実に、P17とP15及びP48との前記の関係を考慮すると、前記の歌詞委嘱に当たり、右P17がP15に歌詞作成を依頼し、あるいはその作成について、P15あるいはP48に相談する事態は充分にあり得ることであるというべきである。
2 成立に争いのない甲第57号証、同第132号証及び同第141号証、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第121号証及び前記被控訴人本人尋問の結果により成立の認められる甲第56号証並びに右尋問の結果によれば、被控訴人は、明治40年3月21日、P15及びP47の長女として出生し、大正15年3月、東京府立第三高等女学校を、同15年3月、同校高等科(国文学専攻)をそれぞれ卒業した後、父P15作の仕事を手伝う傍ら短歌の勉強をするなどしてすごし、昭和6年4月3日、P48と結婚した事実が認められ、他にこれを左右する証拠はない。
 ところで、被控訴人が本件歌詞を作詞したとする事情について、前掲甲第141号証及び同第121号証並びにいずれも成立に争いのない甲第46号証及び同第65号証、いずれも弁論の全趣旨より成立の認められる甲第114号証の1ないし9及び同第143、144号証において述べるところの要点は、以下のとおりであることが認められる。すなわち、@昭和6年8月頃から同年9月頃にかけての間に、訴外協会から父親に対し本件歌詞を含む10題目程度について作詞の依頼があり、父親から右題目の幼稚園唱歌の作詞を勧められ、1箇月位の間に本件歌詞を作詞した、A「チユーリツプ」の歌詞(1番)については、いわゆるサクラ読本冒頭の「サイタ サイタ サクラガ サイタ」を参考に作詞した(もっとも、被控訴人は、昭和6年当時、サクラ読本が刊行されていなかったことを指摘された後、父の書斎にあったサクラ読本の資料をもとに作詞したとその供述を変更した。)、B「テフテフ」は、当時よく歌っていた「落花散る花」を下敷きに作詞した、C「オウマ」は、子供時代に隣家の陸軍官舎にいた馬と馬車屋の馬を対比して作詞した、D「タンポポ」は、子供時代の千駄ヶ谷の野原一面に咲いていたタンポポの花を思い浮かべて作詞した、E「コヒノボリ」は、自宅から眺望できる鯉幟の情景を見て、かつては大きいマゴイとヒゴイだけであったが、小さいマゴイがついたのが印象的であり、可愛らしく感じて作詞した、また、F「コヒノボリ」の原案は「アオゾラ タカク」、「オオキイ マゴイ」、「チイサイ ヒゴイ」であったが、編集会議で「ヤネヨリ タカイ」、「オオキイ コイ」、「チイサイ コイ」と変更されたが、後2者については変更に同意せず、原案のままとなった経緯があること、(なお、右歌詞の変更の点は、昭和58年5月4日のフジテレビからの取材に対して明らかにしたものであるとする。)、G作成した歌詞は訴外協会の担当者であるP8に渡した、H訴外協会から、作詞の謝礼として、昭和6年暮にP48令夫人と書かれた袋に入れて金200円を受領した(もっとも、この中には夫に対する講師謝金も含まれているかも知れないとする。)、などがある。
 そこで、これらの点について以下、検討する。まず、前記Aからみるに、いずれも原本の存在及び成立に争いのない乙第17号証並びに成立に争いのない丙第1号証の1ないし3によれば、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まるいわゆるサクラ読本と呼ばれた「小学国語読本」巻1は、昭和8年1月31日に発行されたことが認められ、この事実によれば、被控訴人がこのサクラ読本を参考にして「チユーリツプ」の作詞を昭和6年に行うことは不可能というほかない。そこで、進んで父の書斎にあったサクラ読本の資料を参考にしたとする点についてみるに、前掲乙第17号証及び同丙第1号証の1ないし3並びに成立に争いのない甲第131号証、原本の存在及び成立に争いのない乙第18号証によれば、サクラ読本編集の実務上の中心者は当時文部省に勤務していたP11であり、同人は欧米留学の成果を踏まえ、新たな思想に基づく国語読本の完成を図るべく、昭和7年度の実施を目指して新仮名遣いによる国語読本を準備したが、歴史的仮名遣いに編成替えを余儀なくされ、実施が昭和8年に延期された事実が認められるから、この事実によれば、サクラ読本の内容自体は既に昭和6年中に準備が整っていたものと推認して間違いがない。そこで進んで、この事実を前提とした場合、果たしてP15のもとにかかる資料が有り得たか否かについてみるに、成立に争いのない乙第19号証の1ないし11によれば、P15は、昭和6年から同11年当時、文部省教科書調査会の委員ではなかったことが認められ、この点からすると、右委員としての職務上、前記のような資料を入手することは有り得ないところというべきである。しかしながら、前掲乙第17号証、同丙第1号証の1ないし3、同甲第131号証及び同乙第18号証によれば、前記P11は、新しい思想に基づく小学国語読本を編集すべく、心理学者から児童の精神発達に関する意見を聴取したり、高等師範学校附属小学校の教師、その他の実際家等との共同研究の成果等も参考にしながら前記読本における教材の配列を構想した事実が認められるところ、これによれば、前記P11は小学国語読本を構想するに当たり、相当広範囲の者から参考意見を聴取したものと推認されるところである。一方、前掲甲第131、132号証によれば、前記P11は、昭和4年、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業したもので、被控訴人の結婚披露宴にも出席するなどP15と親交を有していた事が認められるのである。そして、前掲甲第14号証及び同乙第19号証の8、9によれば、P15は昭和6年当時、文部省が高等小学唱歌を作成する際の委員を務め(甲第14号証、3頁6行)、また、同10年1月1日には文部省の国語審議会委員に就任している事実が認められるところ、これらの事実からすると、前記P11が新しい思想に基づくサクラ読本を構想するに当たり、同学の先輩であり、かつ文部省との接触を有していたP15の意見を徴したとしても不思議ではないというべきである。してみると、被控訴人の前記Aの供述を排斥することはできないものというべきである。
 次に前記Fの点についてみるに、前掲甲第65号証によれば、P9は、昭和58年5月5日付け読売新聞において、「コヒノボリ」の歌詞は一般から募集した歌詞に自分が手を加えて作詞したものであると述べる中で、当初の原案は「屋根より高い」ではなく、「青空高い」であったと述べている事実が認められるところである。これに対し、被控訴人は、前記被控訴人本人尋問において、右記事が発表される前日の昭和58年5月4日、フジテレビの取材に対し右歌詞変更の話をしている旨供述しているところであり、このように、「コヒノボリ」の歌詞の一部が変更されたこと自体については両名の供述は一致しているのである。もっとも、原審証人P50の証言により成立の認められる乙第9号証には、編集会議における「コヒノボリ」の歌詞の一部の変更の経緯を述べたP9の思い出の記載が認められ、右乙号証が「P9顕彰碑建立実行委員会」の発行に係り、昭和54年11月4日に新潟県南魚沼郡塩沢町中之島小学校で行われた同碑の除幕式に関する文書であるところから、被控訴人がこれに基づいて前記Fの供述をしたごとくみられないでもない。しかし、右乙号証がその記載内容だけからみて、当然に被控訴人がフジテレビジョンの取材に応じた前記の昭和58年5月4日以前に作成公表されたものと認めることは相当ではなく、これを裏付ける証拠もない。仮に右乙号証が前記除幕式当時発行されたとしても、その形式内容に照らし、その配布対象は、P9縁の者に限られていることが窺われ、その内容も、原歌詞の「あお空たかい」「おとうさま」の部分を「やねより高い」「お父さん」と改めたとされていて、前記Fの「コヒノボリ」の歌詞変更に関する被控訴人の供述と異なるところからみて、被控訴人が右乙号証を事前に入手し、これに基づいて前記Fの供述をしたものと認めることはできず、被控訴人が自己の記憶に基づいて供述したものと認めるのが相当である。したがって、「コヒノボリ」の編集過程に関する供述としてみる限り、前記Fの供述はそれなりの証拠価値を有するものというべきである。
 さらに、前記Gの点をみるに、前掲甲第8号証によれば、P8は、昭和6年当時、訴外協会の評議員兼理事の地位にあり、また、同人が新尋常小学唱歌研究部委員を務めていたことは前記一に認定のとおりである。そして、被控訴人の夫であるP48が新尋常小学唱歌の歌詞の作成に深く関与していたことは既に認定のとおりであることからすると、前記P8が新幼稚園唱歌研究部委員でなかったとの一事をもって、前記Gの点に関する被控訴人の供述を排斥することは到底困難というべきである。なお、この点について、控訴人らは、もし、前記P8が被控訴人主張のような役割を果たしたのであるならば、「チユーリツプ」の作詞者を長いこと捜し求めていたP6は前記P8と親交があったのであるから、同人からかかる事情を聞いていたはずであると主張する。しかし、原本の存在及び成立に争いのない甲第118号証並びに前掲証人P50の証言によれば、P9とP6の間に「チユーリツプ」の作曲を巡って紛争が生じたのは昭和30年代以降であることが認められるところ、成立に争いのない丙第8号証によれば、P8はそれ以前の昭和27年2月27日に既に死亡しているのであるから、P6が前記P8に「チユーリツプ」の作詞者を確認していないことをもって、被控訴人の前記供述を排斥することはできないものというべきである。したがって、控訴人らの前記主張は採用できない。
 最後に前記Hの点についてみるに、成立に争いのない丙第7号証の1、2によれば、学校音楽研究会は昭和10年に募集した作曲及び作詞の1等入選者に対し5円図書券を呈する旨の募集広告をしている事実を認めることができ、右の1等賞品と対比すると、前記200円が本件歌詞6編に対するものであることを考慮しても相当の高額であることは控訴人らが指摘するとおりである。しかしながら、右200円が本件歌詞6編に対する謝礼として適当であるか否かを単純に学校音楽研究会の前記募集の場合と対比して論ずることができないことはもとより当然のことであり、謝礼の額の適否は、当該募集の趣旨、目的、効果等の諸事情を考慮して始めて決することができるものであるところ、前記一に認定のように、訴外協会にとって前記一連の唱歌集の編纂は一大事業であったのであり、かつまた、新幼稚園唱歌の歌詞については再募集にもかかわらず適当な歌詞が得られなかったという事情があったことを考慮すると、かかる事情の認められない学校音楽研究会の前記募集の場合と対比して論ずることは相当ではないというべきである。また、前掲乙第27号証の1ないし3によれば、訴外協会の昭和6年7月から同7年6月までの合計年度の会計報告において「原稿料及作歌謝儀」として3026円30銭が計上されている事実が認められるところ、この中に前記200円が含まれていないとする証拠はないのである。そうすると、以上のような点からみて、控訴人らの、前記200円は当時の作歌に対する謝金としては破格であり、また「教育音楽」誌上の会計報告等にもこれを裏付ける記事は見当たらないから極めて不自然であるとの主張は採用できない。
3 以上、被控訴人が本件歌詞を作詞したとする昭和6年当時の事情について検討したところによれば、個々の歌詞についての作詞の動機に関する前記2、BないしE以外のA及びFないしHの点に関する被控訴人の供述に格別不合理とする点がみられないことはいずれも前項に認定説示したとおりである。そして、前記BないしEの各歌詞の作詞の動機に関する点についても、それなりに作詞の動機として理解し得るものがあり、かつその具体性に照らすと、これらのできあがった歌詞の存在を前提として、被控訴人と同年配者であれば現実に作詞に関与しない者でもこれを容易に想起し具体的かつ詳細に表現することが可能な事柄であると断ずることは到底できないものというべきである。
4 次に、被控訴人が本件歌詞の作詞者であることを推認せしめる間接事実のうち、後記(一)のとおり、被控訴人が本件歌詞の作詞者であるとの新聞記事が公表された時期以降の諸事情について、控訴人らがP9の作詞とする「チユーリツプ」、「コヒノボリ」を中心として検討することとする。
(一)前記被控訴人本人尋問の結果及び前掲甲第46号証によれば、被控訴人は、昭和45年5月、「赤旗」記者の取材を受け、本件歌詞のうち「コヒノボリ」、「チユーリツプ」、「タンポポ」、「オウマ」がいずれも自己の作詞に係るものであることを公表し、この記事は同月7日付けの「赤旗」に掲載された事実が認められる。もっとも、右取材に至る経緯、殊に、右新聞において被控訴人を右各歌詞の作詞者と認定した根拠については、本件全証拠を検討しても明らかではない。
(二)前掲甲第56、57号証、同第95号証(一部)及び同第114号証の1ないし9、控訴人協会との間においてはいずれも成立に争いがなくその余の控訴人らとの間においては前記被控訴人本人尋問の結果により成立の認められる甲第49ないし51号証、右被控訴人本人尋問の結果により成立の認められる甲第47号証の1ないし6、同第48号証の1、2、同第53ないし55号証、同第58ないし62号証(但し、甲第53号証については控訴人協会との間においては成立に争いはない。)、弁論の全趣旨により成立の認められる甲第52号証の1、2並びに原審証人P10の証言(一部)及び当審証人P51、右被控訴人本人尋問の結果によれば、@被控訴人は、前記「赤旗」の記事を見たP6の勧めにより、昭和45年6月5日、長男を伴って控訴人協会を訪ね、右P6同席の上、控訴人協会の常務理事であったP10、同資料部長であったP52に面会した。Aこの席上において、右P10らは、前記公表に係る本件歌詞の作詞者が被控訴人であるとする点について格別の異論を呈することなく、被控訴人に対し、控訴人協会に対する前記公表に係る本件歌詞の著作権信託及び文化庁に対する実名登録等の手続を勧め、これに必要な書類一式を交付した。B被控訴人は、昭和45年7月頃、控訴人協会から呼出しを受け、長男と共に赴いたところ、同協会職員の案内により、東邦音楽大学にP9を訪ね、面談した。CP9は、右面談の席上における「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」の作詞者は自分であるとする被控訴人の主張に対して、自分が作詞者であるとの主張をせず、「コヒノボリ」の作詞者としてP37某の名前を挙げた他、「チユーリツプ」の著作権料が訴外協会の重要な財源となっていること及び著作権の関係資料は新潟にあり取り寄せるのに2箇月位を要する、などと述べた。D被控訴人は、P9から前記資料が提供されるのを待つとともに、「チユーリツプ」の著作権料が訴外協会の重要な財源として役立っていることや問題が金銭絡みの様相を呈してきたことから嫌気がさし、その後、著作権信託及び実名登録の登録手続を取ることなく放置してきた。
 以上の事実を認めることができ、前掲甲第95号証のこれに反する記載部分及び原審証人P10の証言部分は前掲各証拠に照らして採用し難い。
(三)前掲甲第65号証及び前記被控訴人本人尋問の結果によれば、被控訴人は、昭和58年5月5日付け読売新聞において、骨子、前項の@ないしDの事実を述べている事実が認められる。
 以上に認定の(一)ないし(三)の事実に照らせば、被控訴人は、自己が本件歌詞の作詞者であることを公表した以後において、一貫して、特に、P9が自作と主張する「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」について、その作詞者としての行動を採っているものと評価することができる。
5 前記1ないし3に認定判断した被控訴人が本件歌詞を作詞したとする昭和6年当時の諸事情、作詞の動機に関する供述の具体性及び同4に認定した被控訴人が「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」等の作詞者であるとの新聞記事が公表された時期以降の本件歌詞、特に「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」の作詞者としての一貫した行動を総合勘案すると、前記2、@の事実、すなわち、本件歌詞の作詞者は被控訴人であるとの事実を優に推認することが可能というべきである(なお、「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」を除くその余の本件歌詞について、本訴提起前において、P9及び控訴人協会がその作詞者が被控訴人であることを積極的に争ったことを認めるに足りる証拠はない。)。
三「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」の作詞者はP9であるとする主張について
1「チユーリツプ」の作詞者をP9とする主張は、その前提として、右作詞以前に、「チユーリツプ」の曲が同人により作曲されていたとする点を重要な根拠とするものであるから、まず、この点から検討することとする。
(一)いずれも原本の存在及び成立に争いのない甲第84号証、同第85号証の1、2及び同第86号証の1、2によれば、大正11年11月12日、当時、P9が勤務していた赤坂尋常小学校は創立満50年を迎え、同日と翌13日には澄宮殿下を迎えて記念式典が催された事実を認めることができ、そして、前掲甲第94号証によりP9がその原本を作成したと認められる甲第83号証の1、2(但し、「記念の思出 P16」とある部分を除く。)及び同乙第5号証によれば、P9は右創立記念日以前に、甲第83号証の2及び乙第5号証に記載されている「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」(以下「奉祝歌」という。)を作曲したとみえなくもない。
 そして、弁論の全趣旨により原本の存在及び成立の認められる乙第8号証によれば、右83号証の2の「P16」とある部分は右P16の自筆であることが認められるところ、前掲丙第8号証添付の資料によれば、右P16は昭和37年8月11日に死亡している事実が認められるから、この事実からすると、右83号証の2及び乙第5号証の楽譜は少なくとも右死亡時期より前に作成されたものであることまでは認めることができる。
 そこで、更に前掲甲第83号証の1、2、同乙第5号証についての検討を進めると、前掲甲第84号証によれば、赤坂尋常小学校は、創立50年を記念して、大正11年11月13日、澄宮殿下を招待し、同殿下がこれに応じて来校したものであることが認められる。しかして、前掲甲第83号証の2及び同乙第5号証に記載されている奉祝歌は、同校の創立50年を祝うとともに、来校した澄宮殿下を同校あげて歓迎する趣旨を表したものであることは、その歌詞自体から明らかであるところ、当時の社会情勢からみて、記念行事に皇族の来訪を得るということは、一般国民にとって破格の光栄と受け取られていたことに鑑みれば(そのことは、前掲甲第84号証の記事からも窺うことができる。)、もし、奉祝歌が同殿下の来校前に完成し、来校の際にこれが歌われていたのであれば、その事実は、同校の創立50年記念行事に関する記録に何らかの形でとどめられているはずである。しかしながら、澄宮殿下による赤坂尋常小学校来校について詳細な記事を掲載した大正11年12月5日発行の小学生新聞である前掲甲第84号証及び同年11月13日に行われた同校の創立50年記念童謡童話大会のプログラムである前掲甲第85号証の1、2には奉祝歌に関する記載は全くない。すなわち、前掲甲第84号証には、大正11年11月13日「澄宮殿下のお成りを忝ふし」、記念祝賀の意味で童謡童話大会を催したこと、同校としては、記念品として文鎮とプログラム(前掲甲第85号証の1、2と推定される)の奉呈、同校生徒による万歳三唱、旗行列、君が代合唱、同校校長による同校の諸施設の案内等により同殿下の奉迎の意を表したほか、同殿下の作詞に係りP9が作曲した歌を4年女子が歌い、振付をして踊ったことが記載されており、また、前掲甲第85号証の1、2には、右の同殿下作詞に係るもののほか、P9の作曲であることが明記されたいくつかの歌が歌われており、童話劇として演ぜられたことが記載されているが、前掲甲号各証のいずれにも、控訴人らがP9の作曲と主張する奉祝歌が歌われたとの記載はないのである(もっとも、前掲甲第85号証の1、2は童謡童話大会のプログラムであるから、これに奉祝歌の合唱を記載しないということも考えられないではないが、前記のようにこのプログラムを同殿下に奉呈していること、奉祝歌とされている歌詞には同殿下を歓迎する趣旨の文言があることに照らせば、もし奉祝歌が歌われたとすれば、これに記載されたものと考えるのが自然である。)。
 加えて、奉祝歌が真に澄宮殿下の来校前に完成していたならば、いずれも赤坂尋常小学校の作成に係り、現在なお関係者に保存されている創立50年記念に関する前掲甲第85、86号証の各1、2のように、奉祝歌の歌詞及び曲についても清書された体裁のものが同校により作成されているのが通常であると推測されるのに、その種のものの存在が明らかではなく、前掲甲第83号証の1、2のようなガリ版刷りによる下書き風のもののみが、個人的に保管されているにとどまるというのも不自然の感が拭えないし、また、同殿下の来校の日が大正11年11月13日であるのに、前掲甲第83号証の1、2にはこれが同月11日であると記載されていること(前掲甲第94号証には、同殿下の来校の日が変更された旨の供述記載があるが、この点を裏付ける証拠はない。)、赤坂尋常小学校が創立から50年を迎えたことの表現として、小学生新聞である前掲甲第84号証、赤坂尋常小学校作成に係る前掲甲第85、86号証の各1、2は、いずれも「50年記念」としていることからみて同校は「50年記念」を正式名称として祝賀行事を行ったと認められるのに対し、前掲甲第83号証の1、2は、これを「50周年記念」と記載していることをも勘案すれば、同殿下来校以前に奉祝歌の歌詞及び曲が完成していたとの心証を形成することは困難であり、そのことは、ひいて同殿下来校時に、前掲甲第83号証の1、2及び同乙第5号証が作成されていたことについても、強い疑念を抱かざる〈「を」が脱落〉得ない。
 これらの諸点に照らすと、前掲甲第94号証によって、同第83号証の2及び乙第5号証の楽譜が大正11年11月当時、既に作成されていたとまで認定することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠もない。(なお、前掲甲第94号証によれば、前掲甲第86号証の2に記載の「唱歌(記念式)」とあるのは前記の創立記念日の歌を指すというが、その同一性を裏付けるに足りる的確な資料はない。)
(二)前掲甲第94号証によれば、P9は、前掲甲第83号証の1、2を「チユーリツプ」の作曲についてP6との間に紛争があることを踏まえてP16から昭和33、34年頃入手していたことが認められる(なお、乙第5号証は、前記P50の証言によれば、P9が亡くなった後、同人の図書戸棚から発見されたものと認められる。)。
 してみると、右83号証の1、2は、P9にとって、同人が「チユーリツプ」を作詞、作曲した事実を証する最も有力な証拠というべきである。しかるに、「チユーリツプ」の作詞者であることを公表している被控訴人と面会した際に、右83号証の1、2が存在することはもとより自己が作詞者であるとの主張すらしていないことは既に認定のとおりである。
 確かに、既に、前記一に認定のように、訴外協会が編纂した前記の各唱歌集に掲載された全歌曲の作詞、作曲に関する著作権は訴外協会に帰属するものとし、訴外協会の編纂責任において、全て無名著作物として公表されたものであるとの立場を厳格に遵守する限り、各種の著作物等において自己が著作者であることを主張しないことは、一つの立場として理解し得ないことではない(例えば、いずれも原本の存在及び成立に争いのない甲第15号証、同第17、18号証においては、「コヒノボリ」の作詞について、P9が第三者的な立場からする解説をしている事実が認められるところである。)。
 しかしながら、一面識もない被控訴人が「チユーリツプ」、「コヒノボリ」等について自己が作詞者であると公表した事態に表面しても、なお前記のような立場を遵守しなければならないとする合理的理由は見出し難いにもかかわらず、無名著作物として公表した唱歌集編纂の過程について説明するでもなく、前記のとおりの消極的態度に終始したP9の態度は同人を作詞者とする観点からは極めて不可解というほかはなく、この点からしても前掲甲第83号証の1、2の証拠価値に疑問を抱かざるを得ないのである。
(三)そうすると、「チユーリツプ」の曲と殆ど同一の前記「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」を大正11年に作曲していたことを前提とし、これに「チユーリツプ」の歌詞をつけたとする控訴人P9らの主張はその前提を欠くこととなり、採用できない。
2 次に、「チユーリツプ」、「コヒノボリ」の作詞の経緯に関するP9の主張について検討するに、前掲甲第94、95号証及び成立に争いのない乙第4号証によれば、P9は「チユーリツプ」については、「次男が生れて泣いたり笑ったりするのを見て赤坂小学校のお祝いの曲と同じような気がしてそれをチユーリツプの歌にのせてみたのです。」、「そのころチユーリツプは日本ではさわがれずにどこかでチユーリツプを見て帰ったあとでチユーリツプに歌詞をつけてみたいと思って作った」、「新潟のある人が栽培し研究しているのを聞いてヱホンシヤウカに入れたいと思って『チユーリツプ』という題を選んだ」、「同郷の新潟県人で、この花の栽培、研究をしていた人から見せられて、童謡にしたいと思っていた」としていることが認められる。また、前掲甲第65号証及び同乙第4号証において、「コヒノボリ」の原案については、編纂の際、手を入れられた記憶があると述べていることが認められるところである。
 そこで、この点について検討するに、「チユーリツプ」の歌詞については、作曲に関する重要な前提事実が認定できないことは前項に述べたとおりである上(当審証人P53の証言も「チユーリツプ」の曲と同一の前記「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」をP9が大正11年に作曲していることを前提とする点において、同様に採用できない。)、作詞の動機に関する供述が被控訴人の供述するところと対比して抽象的といわざるを得ず、右証拠からP9が「チユーリツプ」を作詞したとまで認定することは困難である。さらに、前記のとおり、P9は「チユーリツプ」の作詞の動機として、「次男が生まれて泣いたり笑ったりするのを見て赤坂小学校のお祝いの曲と同じような気がしてそれをチユーリツプの歌にのせてみたのです。」と供述しているが、右供述も「チユーリツプ」という花に関する歌詞の作詞の動機としては不十分なものといわざるを得ない。また、「コヒノボリ」の編集経過については、甲第65号証及び乙第4号証のほか、前記のように、前掲乙第9号証にも編集会議における「コヒノボリ」の歌詞変更の経緯を述べたP9の思い出の記載があるが、前掲甲第94号証により認められるように、訴外協会の理事であり、前記のように新幼稚園唱歌の募集広告を提載した「教育音楽」の編集に携わっていたP9が、応募作品の取捨等に関する編集会議における経緯等の編集経過を知っていたからといって異とするには足りず、もとより、右各書証の右記載をもって「コヒノボリ」の作詞者をとする根拠とはなし得ないものというべきである。そして、乙第9号証の右記載に立脚する前掲証人P53の証言の証拠価値を認めることはできないといわざるを得ない。
3 以上を総合すると、「チユーリツプ」、「コヒノボリ」の歌詞がP9の作詞と認定するに足りる証拠はないといわざるを得ない。
四 著作権侵害を理由とする請求について
 以上の認定説示に照らせば、本件歌詞を作詞したのは被控訴人である。しかしながら、前記一に認定した編集の経緯に照らせば、本件歌詞についての著作権は、前記二、2に説示の被控訴人において受領を自認する200円の対価をもって訴外協会に譲渡されたものとみるべきものであることは明らかであるから、被控訴人に著作権が帰属することを前提とする前記請求は理由がない。
 この点について、被控訴人は、専門家に委嘱された作品については著作権は訴外協会に譲渡されていないと主張し、P6が「チユーリツプ」の曲についての著作権料を受領していた事実を指摘する。
 原本の存在及び成立に争いのない甲第91号証、いずれも成立に争いのない甲第116号証及び同第117号証の1、2、当審証人P54の証言により成立の認められる丙第4号証の2並びに同証言によれば、訴外協会編纂に係る「ヱホンシヤウカ」等の前記唱歌集については、訴外協会が著作権者であるとして、昭和25年、訴外協会から控訴人協会に対し著作権信託がされていたが、P6は昭和29年末か同30年初め、控訴人協会に対して自己が「チユーリツプ」の作曲者である旨の届出をし、以後、昭和58年2月28日付け控訴人協会の決定により、同曲の作曲に関する著作権の帰属に疑義があるとして著作権使用料の分配が保留されるまで、「チユーリツプ」の作曲者として著作権使用料の配分を受けていた事実が認められるところであり、これを左右する証拠はない。
 しかしながら、本件全証拠を検討しても、P6がいかなる経緯から、また、訴外協会との著作権の帰属問題をどのように処理して前記の変更届出をしたのかについては全く明らかではない。
 そうすると、P6が「チユーリツプ」の著作権使用料の配分を受けていた事実が被控訴人の前記主張を根拠付けるものとは到底いえないから、被控訴人の前記主張は採用できない。
五 著作者人格権の確認請求について
 原判決92頁6行目から同頁末行までを引用する(但し、同頁8行目「前一」とあるを「前二」と訂正する。)。
六 氏名表示権侵害を理由とする請求について
1 被控訴人は、P9及び控訴人協会は、被控訴人が昭和45年に本件歌詞について控訴人協会に対し著作権信託手続を、また、文化庁に対して著作者の実名登録申請を行おうとした際、これを共謀して妨害したと主張するので、以下、この点について検討する。
 被控訴人が、昭和45年に控訴人協会及びP9と接触した経緯及びその状況については、前記二、4、(二)に認定したとおりであり、この認定事実によれば、被控訴人が控訴人協会に対する著作権信託手続及び文化庁に対する実名登録手続を取ることなく放置してきたのは、「チユーリツプ」の著作権料が訴外協会の重要な財源として役立っていること、問題が金銭絡みの様相を呈してきたことに嫌気がさしたために、その後の著作権信託等の手続を取ることなく放置してきたというものであって、被控訴人自身の判断に基づくものというべきであり、本件全証拠によっても、P9及び控訴人協会が右各手続を妨害した事実はもとより共謀した事実も認めることはできず、したがって、被控訴人の前記主張は採用できない。
2 被控訴人は、P9は、P55に対し、「コヒノボリ」の作詞作曲はP9であり、また、「チユーリツプ」の歌詞は右P9とP6の合作である旨虚偽の事実を申し向け、同人編集の「日本唱歌(中)」(昭和54年7月15日株式会社講談社発行)にその旨記載させて被控訴人の氏名表示権を侵害したと主張するので、この点についてみるに、この点に対する当裁判所の判断は原判決98頁3行目「成立に争いのない」から同101頁2行目「理由がない。」までと同一である(但し、100頁末行「前(一)認定」とあるを「前一認定」と訂正する。)から、これを引用する。
3 被控訴人は、P9は、主婦の友社の第2編集部長P56に対し、「チユーリツプ」の歌詞は右P9とP6の合作である旨申し向け、昭和56年5月1日、主婦の友社発行の「わたしの赤ちゃん」5月号にその旨記載させて右雑誌を発行させ、被控訴人の氏名表示権を侵害したと主張するので、この点についてみるに、いずれも成立に争いのない甲第66号証の1ないし4によれば、被控訴人主張の前記雑誌には、「チユーリツプ」が「P9・P6共作」であるとの記載及び「チユーリツプ」が右両名の共作により生まれたとの作成経緯に関する記載が認められるところ、右の記事は、原本の存在及び成立に争いのない甲第120号証によれば、「チユーリツプ」の作詞者について前記P56がP9に確認したところ、同人から前記のとおりに記載してくれ、との回答を得たので、前記の記載がされたものであることが認められるから、この事実によれば、P9は事情を知らない主婦の友社をして被控訴人の氏名表示権を侵害せしめたものというべきであって、右虚偽の氏名表示行為により被控訴人が被った精神的損害を賠償すべき義務があるというべきである。
4 被控訴人は、P9は、「コヒノボリ」を自ら作詞したとして、昭和54年11月、出身地の新潟県南魚沼郡塩沢町中之島小学校校庭と東京都文京区本駒込の吉祥寺境内にその旨刻まれた歌碑を建立し、また、昭和56年8月「顕彰碑建立記念誌こいのぼり」と題する作曲集を刊行し「コヒノボリ」の作詞者を右P9と記載して、被控訴人の氏名表示権を侵害していると主張するので、以下、この点について検討する。
 前掲乙第9号証、いずれも成立に争いのない甲第69号証の1ないし4、6及び9並びに同乙第26号証によれば、被控訴人主張の前記各場所に、「コヒノボリ」の楽譜と作詞者をP9と刻した歌碑が建立されている事実が、また、昭和56年8月に「P9先生顕彰碑建立記念誌 こいのぼり」と題する書物が発行されており、右書物中には「コヒノボリ」の作詞者はP9である旨記載されている事実がそれぞれ認められるところである。しかしながら、前掲各書証によれば、右歌碑の建立及び書物の刊行はいずれもP9の教え子らにより構成された顕彰碑建立委員会によるものであることが認められ、これらがP9によってなされたものであることを認めるに足りる証拠はない。そうすると、被控訴人の前記主張は、その前提を誤るものであるから、採用できないというべきである。
5 被控訴人は、控訴人協会は、昭和57年12月、「チユーリツプ」、「コヒノボリ」の作詞者はP9であるから従来の無名著作物からその旨切り換えて管理されたいとする右P9からの申出に対し、右P9と共謀の上、同58年3月、レコード会社等に対して、「チユーリツプ」の歌詞1番の作詞者はP9、「コヒノボリ」の作詞者は右P9と変更する旨通知し、以後、録音許諾申請を右作詞者名で行わせ、また、レコードのラベル等の表示に右作詞者名を表示させ、被控訴人の氏名表示権を侵害していると主張するので、以下、この点について検討する。
(一)前掲甲第91号証、同丙第4号証の2、原本の存在及び成立に争いのない甲第89ないし90号証、同第124号証、成立に争いのない丙第9号証並びに前記証人P54の証言によれば、以下の事実が認められ、他にこれを左右する証拠はない。すなわち、
 控訴人協会は、訴外協会の著作物として著作権管理をしてきた「ヱホンシヤウカ」に掲載された著作物が、昭和57年末をもって、無名著作物として公表後50年を経過することになり、著作権法52条によりその著作権が消滅するため、これらの著作物の著作者に関する資料の確認提供を昭和57年9月1日付け及び同年11月29日付け文書をもって訴外協会に求めた。これに対し、訴外協会の会長であったP9は、昭和57年12月13日、控訴人協会に赴き、「コヒノボリ」については記念誌「こいのぼり」(甲第69号証の1ないし9)を、「チユーリツプ」については「わたしの赤ちゃん」5月号(同第66号証の1ないし4)及び「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」についての前記甲第83号証の1、2等の資料を持参した上で、右各曲はいずれも自分が作詞したものであり、右雑誌等でその旨公表されているとの口頭説明をしたところ、その旨の文書による管理継続の届出書の提出を求められた。そこで訴外協会は、P9との連署による同年12月20日付け文書をもって、「コヒノボリ」の作詞者はP9であるとする回答をしたので、控訴人協会は、公表に関する前記資料から「コヒノボリ」についてはP9を作詞者とすることに問題はないと考え、同人を著作権者として管理することとした。さらに、訴外協会は、同月27日付け文書をもって、@「チユーリツプ」の作曲者はP6として扱われているが、P9が大正11年11月11日に「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」として発表したものを「チユーリツプ」に当てはめたものであること、A歌詞については、「ヱホンシヤウカ」の発表に当たり、1番をP9が作詞し、2、3番については戦後P6が作詞したものであること、B「チユーリツプ」の著作権について、右P6との間に紛争が生じていたため、東京音楽学校の同窓会である同声会有志から、実際とは違うが、作詞、作曲共右両名の共作として著作権表示し、先輩であるP6の顔を立てるように説得され、やむなく承諾した経緯があること、C昭和56年「わたしの赤ちゃん」5月号(主婦の友社発行)に「チユーリツプ」を右両名の共作として発表したこと、D右公表は著作権法52条2項3号に該当するので、今後は、著作者を右両名の共作として管理されたいこと、EP6の遺族とは今後調査の上、改めて両名連名で届出を行う予定であること等を内容とする回答を、前記の資料を添付して行った。控訴人協は、「チユーリツプ」(1番)の歌詞についても、前記の公表に関する資料から、作詞者をP9とすることに問題はないと考えたが、前記回答によれば、従来、P9の作曲として管理してきた「チユーリツプ」の曲の著作者について疑義を生ずるため、右P6の著作権承継者であるP57に対し、前記添付資料の写しを添えて意見照会をしたところ、同人から、P9の前記申出には疑義があり、納得できない、従来どおり、作曲者P6作詞者不詳として管理されたいとの回答がされた。そこで、控訴人協会は、昭和58年2月8日開催の通常理事会において、「チユーリツプ」の管理について討議した結果、「チユーリツプ」の歌詞の著作者については、1番をP9、2、3番をp6とし、曲の著作者についてはP6として、それぞれの著作権を管理する。使用料の分配は、権利関係の決着がつくまで保留する、との暫定的措置〈「を」が脱落?〉とることにし、その旨を昭和58年2月28日付け文書で訴外協会及びP6に通知した。
 以上認定の事実によれば、控訴人協会が、従来、無名著作物として管理されてきた「コヒノボリ」及び「チユーリツプ」の作詞者をP9とし、これに基づいて右各曲の著作権の管理を行う旨決定したのは、P9を作詞者として公表した事実が前記の各資料によって証明されたとし、右公表の事実は著作権法52条2項3号に該当するものと判断したからにほかならない。
(二)そこで、以下、控訴人協会のした前記決定の当否について検討する。
 前掲丙第9号証及び成立に争いのない同第2号証によれば、控訴人協会は、「音楽の著作物の著作権者の権利を擁護し、あわせて音楽の著作物の利用の円滑を図り、もって音楽文化の普及発達〈「達」は「展」の誤〉に資することを目的」とし(定款4条)、「音楽の著作物の著作権に関する仲介業務を行うこと」を主たる業務とする(定款5条1号)、我が国における唯一の団体として昭和14年に設立された社団法人であることが認められる。控訴人協会のかかる目的、業務の性格等に照らすと、著作権者の確定の問題は、前記の「音楽の著作物の著作権者の権利を擁護」する上においてはもとより、控訴人協会の前記の業務を適正に行う上での出発点をなす重要な事項というべきである。したがって、音楽著作権の管理契約等の締結に当たって、著作者の確定に疑義が存し、控訴人協会において通常要求される職務上の注意義務を尽くしたならば著作者でないことが判明し得たにもかかわらず右注意義務を怠った場合はもとより、右注意義務を尽くしてもなお著作者であることに疑義が残存するにもかかわらず右疑義ある者を著作者と確定して取り扱うことは、特段の事情がない限り、違法となるというべきであり、これによって真実の著作者について生じた損害を賠償する義務があるというべきである。そこでこれを本件についてみるに、確かに、前記の公表された各資料にP9が「コヒノボリ」あるいは「チユーリツプ」の作詞者として記載されていることは既にみたとおりであるから、これをみる限りにおいては、控訴人協会の前記判断は一応の根拠を有するものということができる。しかしながら、「コヒノボリ」及び「チユーリツプ」の作詞者の問題については、前記二、4に認定したとおり、被控訴人であるとする記事が「赤旗」紙上に掲載され、この記事を読んだP6の仲介で控訴人協会において当時の常務理事であったP10や同資料部長のP52と被控訴人が面会し、被控訴人は、同人等から著作権信託等に必要な関係書類一式を交付されたという事実が既に昭和45年後半当時から存在しているのであり、かかる事実からすると、前記の各曲の作詞者をP9と確定することには疑義が存し、かつ、控訴人協会において右疑義の存在を認識していたものであることは明らかなところというべきであり、そうすると、前記の各資料は、公表の事実それ自体を証するものであるとはいえても、肝心のP9が作詞者であるという点については、何ら前記の疑義を解消するものでないことは明らかである。
 この点について、控訴人協会は、控訴人協会が前記決定をした当時における「チユーリツプ」の作詞者の確定資料からは、P9の著作者性について、法律上の評価の対象とするに足りる程度の疑義は存在しなかったと主張するが、前記の認定事実に照らすと、かかる主張が採用できないことは明らかというべきである。また、控訴人協会は、被控訴人から控訴人協会への何らの報告あるいは届出もなされていない以上、疑義は存在しなかったと主張するところ、被控訴人が東邦音楽大学でP9と面会した後、控訴人協会に著作権信託等の手続を採っていないことは.前記二、4に認定したとおりであるが、かかる事実があるからといって、前記の疑義が解消されたものでないことはいうまでもないところであるし、また、この点について何ら調査することなく、かかる事実のみから前記の疑義が解消したものと解することも相当ではないというべきである。したがって、この点に関する控訴人協会の主張も採用できないというべきである。
 また、控訴人協会は、前記決定は、昭和57年12月27日付けの訴外協会及びP9から連名で提出された届出に基づくものであるところ、右届出に記載された「わたしの赤ちゃん」5月号による公表は、著作権法14条の公表に該当し、P9はチユーリツプ〈「チユーリツプ」の前後に「 」が脱落〉の著作者と法律上推定されるから、右推定を覆す合理的理由のない状況下において、右法律上の推定に従った控訴人協会の前記決定に誤りはないと主張する。
 確かに、前掲甲第66号証の1、2(「わたしの赤ちゃん」5月号)によれば、作詩をP9とした「チユーリツプ」の楽譜が掲載されているのであるから、右は著作物の公衆への提供に際し、P9の実名が著作者名として通常の方法により表示されている場合に当たるから、著作権法14条により、右P9が「チユーリツプ」の歌詞の作詞者としての推定を受けるものというべきであり、被控訴人主張のように、無名著作物であるからといって右推定規定の適用がないと解すべき根拠はない。
 しかしながら、「チユーリツプ」に関して前記二、4に認定したとおりの控訴人協会が十分に認識しているべき事情が存したところ、いずれも成立に争いのない甲第40号証及び同第43号証によれば、昭和45年8月1日実業之日本社発行のP61著「定本 日本の唱歌」には、「チユーリツプ」の作詞者としてP58(これが被控訴人の変名であることは、前掲甲第46号証の「赤旗」の記事から明らかである。)が、また、昭和54年4月15日株式会社全音楽譜出版社発行のP59編「みんなでうたおう こどものうた 1」にも同様の記載が認められるところ、これらの記載によれば、被控訴人も著作権法14条の著作者としての推定を受けることは明らかであり、しかも、これらの書物は控訴人協会において、前記のような疑義の存在を契機として調査するならば極めて容易に知り得るものであることは弁論の全趣旨により十分認めることができるところであるから、控訴人協会が主張するとおりであるとしても、なお、前記の疑義が解消したとする合理的理由があるとはいえないというべきである。したがって、この点に関する控訴人協会の主張は採用できない。
 さらに、控訴人協会は、チユーリツプ〈「チユーリツプ」の前後に「 」が脱落〉の歌詞についての著作権管理継続に関する前記届出に対して、法律上推定される著作者を著作者として業務を遂行したものであり、単なる疑義の存在を理由として著作権管理を拒否できず、前記の管理継続の決定は、正当な業務行為に該当し、これによって生じた侵害の結果について控訴人協会に回避可能性がないと主張する。しかし、控訴人協会が主張する法律上の推定に関する主張が採用できないことは前記のとおりであり、前記認定の著作者の確定に関する疑義を単なる疑義ということは相当ではなく、かかる疑義がある場合に、疑義が解消されるまで著作者の確定を留保する取扱いをすることは何らできないことではないから、控訴人協会に回避可能性がないとすることはできない。したがって、この点に関する控訴人協会の主張も採用できない。
(三)そして、控訴人協会が「チユーリツプ」の著作者をP9と決定すれば、控訴人協会の使用許諾を受けてその歌詞を使用するレコード会社等は、右の歌詞を公衆に提供ないし提示するときに、「チユーリツプ」の著作者をP9と表示することになることは当事者間に争いがなく、このことは、控訴人協会がP9を著作者と決定した「コヒノボリ」についても同様の関係にあるものと認められるのであり、この事実によれば、控訴人協会の前記各曲の著作者をP9とした決定は、情を知らない出版社等をして被控訴人の氏名表示権を侵害させる結果を招来するものであるから、控訴人協会のした前記の著作者の決定行為は、違法であり、かつ、過失があることは明らかであるから、前記の届出行為をしたP9と連帯して、これによって被控訴人に生じた損害を賠償すべき義務があるというべきである。
6 そこで損害額について検討するに、被控訴人による「チユーリツプ」及び「コヒノボリ」の作詞の経緯及びその後の管理の状況、P9及び控訴人協会による侵害の態様、程度等の本件に現れた一切の事情を総合的に考慮すると、前記3及び5による被控訴人の精神的損害は、同3の侵害については30万円、同5の侵害については120万円の慰謝料がそれぞれ相当というべきである。
 そして、本件記録によれば、P9が昭和61年3月17日死亡したため、控訴人P1、同P2は各6分の1の限度で、同P60、同P5は各3分の1の限度で、それぞれP9の一切の権利義務を承継し、さらに右P60が平成元年12月29日死亡したため控訴人P3及び同P4が各2分の1の限度で右P60の権利義務を承継したものであることは明らかであるから、これによれば、前記3の慰謝料30万円については、控訴人P1、同P2、同P3及び同P4において各5万円、同P5において10万円の限度で、また、同5の慰謝料120万円については、控訴人P1、同P2、同P3及び同P4において各20万円、同P5において40万円の限度で、その支払義務を承継したものというべきである。
七 以上の次第であるから、本件各控訴は、前記各金員の支払いを命ずる部分を超えて支払いを命じた部分の取消しを求める限度で理由があるから、原判決主文二項ないし四項を主文のとおり変更し、その余の各控訴及び被控訴人の附帯控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法96条、92条、93条を各適用して、主文のとおり判決する。
 
東京高等裁判所第18民事部
 裁判長裁判官 松野嘉貞
 裁判官 濱崎浩一
 裁判官 田中信義
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