判例全文 | ||
【事件名】「智惠子抄」事件(2) 【年月日】平成4年1月21日 東京高裁 昭和63年(ネ)第4174号 著作権登録抹消等請求控訴事件 (原審・東京地裁昭和41年(ワ)第12563号、昭和42年(ワ)第1635号) 判決 控訴人(原審被告(反訴原告)亡Y1相続人) Y2 控訴人(原審引受参加人) 株式会社龍星閣 右代表者代表取締役 Y2 右両名訴訟代理人弁護士 渡辺卓郎 同 藤原寛治 控訴人Y2訴訟復代理人兼控訴人株式会社龍星閣訴訟代理人弁護士 坂東司朗 被控訴人(原審原告(反訴被告)) X 右訴訟代理人弁護士 中村稔 主文 本件控訴を棄却する。 控訴費用は控訴人らの負担とする。 事実 第1 当事者の求めた裁判 一 控訴人ら (本訴請求につき) 1 原判決を取り消す。 2 被控訴人の本訴請求をいずれも棄却する。 (主位的反訴請求) 3 原判決の別紙第1表記載の詩文により構成され、昭和16年8月20日に初版が発行された詩集「智恵子抄」(以下、単に「智恵子抄」という。)について、控訴人Y2が編集著作権を有することを確認する。 (予備的反訴請求) 4「智恵子抄」について、控訴人Y2が編集著作権の持分2分の1を有することを確認する。 5 訴訟費用は、1、2審とも被控訴人の負担とする。 二 被控訴人 主文と同旨。 第2 当事者の主張 当事者双方の主張は、次に削除、訂正、付加するほかは、原判決摘示のとおりであり、当審における証拠関係は当審記録中の証拠目録記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。 一 原判決の削除、訂正 1 6丁裏2行から3行にかけての「別紙付表Uの被告Y1原案欄記載」を「別紙付表Tの記載順序」と改める。 2 7丁表末行「35編」を「36編」と改め、同丁裏1行「33編」を「34編」と改める。 3 25丁裏6行「ただし、」から8行末までを削除する。 4 27丁表9行から末行にかけての「制作年代」を「制作年月日」と改める。 5 33丁裏8行「詩文加筆変更一覧表」を「別紙智恵子抄収録詩作品推敲一覧表」と改める。 6 48丁表末行「光太郎の詩を」から同丁裏3行「まとめた。」までを「光太郎の詩と「智恵子の半生」及び「智恵子の切抜繪」の2編の散文を巻末に加えた別紙付表Tの記載順序のとおり第1次案をまとめた。」と改める。 7 49丁表1行から2行にかけての「別紙第2表中の「被告Y1原案」欄」を「別表付表T」と改める。 8 55丁表7行ないし9行「その結果、「あなたはだんだんきれいになる」と「あどけない話」の2編の詩の順番が入れ替わった。」を「「あどけない話」「樹下の二人」「あなたはだんだんきれいになる」の3編の詩が原判決第3表『被告Y1が第2次案に加えた作品(◎印)と採録箇所並びに編集順序』欄記載のとおりに入れ替わった。」と改める。 9 81丁表7行「別紙第2表中の「被告Y1原案」欄」を「別紙付表1」と改める。 10 81丁表10行から同丁裏1行までの「(ただし、第1次案の配列は、正確には別紙付表T又は別紙付表Uの「被告Y1原案」欄記載のとおりである。)」を削除する。 11 81丁裏5行から6行にかけての「(その配列は、正確には別紙付表T又は別紙付表Uの「被告Y1原案」欄記載のとおりである。)」を削除する。 12 別紙第2表、同詩文加筆変更一覧表を削除し、詩文加筆変更一覧表に代えて別紙『智恵子抄』収録詩作品推敲一覧表を加える。 13 別紙第3表の「樹下の二人」についての「被告Y1の第1次原案に採用された詩文(○印)と採録個所」欄に「N」とあるのを「O」と、「あどけない話」の同欄に「O」とあるのを「N」と、それぞれ改める。 二 原判決に付加すべき控訴審における当事者の主張 (控訴人らの主張) 1「智恵子抄」の編集経緯の実際に関する原判決の認定の誤り (一)Y1による第1次案の作成と光太郎に対する提示の意義 第1次案の内容は、@光太郎と智恵子の求愛、恋愛時代の詩9編、A同棲、結婚時代の第8編(但し、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の2編については、第1次案中には正確な詩稿はなかった。)、B智恵子の狂気時代の詩5編、C智恵子の死についての詩1編、D智恵子の没後の回想の詩2編、及び、E散文2編から成り立っている。それは、甘美な求愛、恋愛時代から始まり、慈しみと理解にみちた芸術生活、至福の抱擁の時が次に用意された残酷な運命に引き裂かれるさま、そして、狂った智恵子を凝視しながらその詩の一瞬についての智恵子への永遠の愛を悟る光太郎の姿をうたい、智恵子の愛の世界を浮き彫りにしているものである。 第1次案と「智恵子抄」とを編集物として対比した場合、全体的な構成では、第1次案は詩25編と散文2編から成り立っているのに対し、「智恵子抄」は詩29編、散文3編及びひとまとめにされた短歌6首から成り立っていて、収録作品の数並びにそれら収録作品の重なり方に著しい差がないこと、詩の配列方法についても、「智恵子抄」で新たに加わった「荒涼たる歸宅」の配列を除けば、第1次案と「智恵子抄」との間で顕著な差がないこと、編集物上での内容区分ごとに収録作品を対比しても、第1次案と「智恵子抄」との間でその構成内容に変化が何ら生じていないことは明らかである。 以上によれば、第1次案は「智恵子抄」の単なる素材ではなく、「智恵子抄」の原型をなすものであったと認められるべきであり、これをまとめたY1の行為は、「智恵子抄」の編集に関与したと評価されなくてはならない。 反対に、光太郎は、Y1から第1次案の提示を受けるまで智恵子に関する詩文のみで新詩集を自らの手で作る意図を全く持っていなかった。したがって、当然のことながら、そのような詩集の構想を自ら練ったこともなかった。そして、光太郎は、Y1から第1次案を提示されて初めてY1の構想を具体的なものとして理解するとともに、やがてこの第1次案を中心にして新詩集の収録作品について自らの意見をY1に述べることとなったものである。 このことは、「智恵子抄」の成立過程での光太郎の行為なるものが結局は第1次案によって具体的に示されたY1の構想の線に添って行われたことを示している。できあがった「智恵子抄」と第1次案との対比によってみられる前記のような構成上の類似性は、このことを客観的に裏付けるものといえよう。 (二)光太郎による編集行為の有無 原判決は「光太郎は、昭和16年6月11日、……「荒涼たる歸宅」を制作するとともに、そのころ智恵子に関する詩集を編集著作しようと決意し、同月16日ころから20日ころまでの間に電話で被告を呼び寄せ」たたが、「……この時までに……智恵子に関する詩歌、散文を取捨選択、推こう、配列した。」と判示した(110丁表10行ないし111丁7行)が、このように、1週間か10日のうちに、光太郎が構想を練り、智恵子に関する自作の全詩歌、散文を一々検討して取捨を決め、推こうし、各作品の制作年月日を確定し、配列を決定することは、時間的な余裕の点からしても極めて不自然であり、到底容認しがたい事実認定である。 光太郎がY1に対して智恵子に関する新詩集の刊行の許諾を与えた際の光太郎の行為のうち、詩集の成り立ちに関わりのある光太郎の具体的な行為として証拠上認められるのは、@「あれをやろうじゃないか」といってY1を呼んだこと、A第1次案をY1に返還したこと、B作成年月日をその上に朱筆した5編の詩及び「歌〈「歌」は「うた」の誤記?〉六首」の肉筆原稿、並びに、「同棲同類」及び「美の監禁に手渡す者」が掲載された雑誌の切抜を編綴しないままY1に手渡したこと、C「人に」(遊びじゃない)を第1次案から削除することをY1に求めたこと、だけである。これに対して、「「樹下の二人」について、これが掲載されている「道程」(改訂版)により詩稿を作成するように指示した」とか、「詩の配列について制作年代順の原則によること、「荒涼たる歸宅」については右原則を崩して「亡き人に」の直前に配列すること……を指示した」という原判決の認定を可能ならしめる証拠は全くない。 そして、これら合理的な証拠の解釈によって認定可能な事実だけから、原判決のいうように光太郎が「……この時までに……智恵子に関する詩歌、散文を取捨選択、推こう、配列した。」と一挙に結論することができないのは自明の理である。蓋し、右の@ないしCの光太郎の行為があったにしても、それがY1の第1次案によって提示された詩集構成上の構想とどのように異なる構想に基づいてのことなのかが明らかにされなくては(そして、原判決は、その点について何ら触れず、ただ、完成した「智恵子抄」の形態をなぞって、光太郎がそうするように指示したというのみである。)、それらの行為をもって編集行為の一環と位置付けることはできないからである。 (三)第1次案返還後のY1の行為が「智恵子抄」と編集上でもつ意義 光太郎から第1次案と肉筆原稿等の返還を受けたY1は、それから1週間ないし10日後に第2次案を光太郎に提示したこと(114丁表7行ないし10行)、この第2次案は、その後に光太郎の意向に添って削除された「婚姻の栄誦」と「淫心」の2編の詩が収録されている以外は完成した「智恵子抄」と収録作品及び配列において一致していたこと(原判決添付の別紙第3表参照)は、原判決も認めるところである。 完成した「智恵子抄」と第1次案とを比較すると、その内容にみられる詩集としての特質(構想や構成方法)が両者に共通していることは既に述べたとおりであり、「婚姻の栄誦」と「淫心」の2編の詩が収録されている以外は完成した「智恵子抄」と収録作品及び配列において一致している第2次案の内容上の特質が第1次案と共通していることはいうまでもない。 そうだとすれば、第1次案がY1の独創にかかるものであることに疑問の余地がない以上、第2次案もY1の独創にかかるものとみるのが常識に合致する。 2 控訴人Y2の権利の承継について 原審被告(反訴原告)Y1は、昭和63年10月8日死亡し、相続人たる控訴人Y2がその地位を承継した。 (被控訴人の主張) 1 控訴人らの原判決の認定の誤りの主張に対する反論 (一)Y1による第1次案の作成と光太郎に対する提示の意義 昭和15年12月ころ、Y1がいわゆる第1次案を作成し、これを光太郎に提示したことは当事者間に争いがない。しかし、第1次案としてY1が持参したものは、「内容順序表」、赤い紙もしくは付箋をはさんだ「道程」(初版)、「風にのる智恵子」以降の雑誌の切抜きのみであり、このような第1次案の提示の仕方そのものが、第1次案が単に企画、構想の域に止まるものであることを雄弁に語っている。 第1次案は当時Y1が知っていた智恵子に関する光太郎の作品の全部を集めたものである。これに対し、「智恵子抄」に収められている作品は取るべき作品のみを取り、捨てるべき作品を捨て、取捨選択を行った上で収められたものであり、その編集の基本となる思想において両者は全く異なっている。両者の間に重複する作品が相当数存在することは、智恵子に関する詩、散文等で1冊の詩集を制作するという企画、構想が同じである以上、当然の結果にすぎない。 また、配列方法の点も、第1次案は、「道程」(初版)所収の詩14編は同詩集に収録されている順序で、以後の作品については「彼女の半生」中の詩3編は同文章中の引用の順序で、「風にのる智恵子」以降「梅酒」までの作品は雑誌発表の順序で配列したものであるのに対し、「智恵子抄」における配列は、全ての作品の制作年時を確定した上で、「荒涼たる歸宅」1編を除いては厳密に制作年時順に配列したものであり、いかに配列するかという方針、思想において両者の配列は全く相異なるものである。「風にのる智恵子」以下の詩の配列が同じになったのはたまたま発表の順序と制作の順序が同じであったという偶然の結果にすぎない。「彼女の半生」中に引用されている「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の3編の配列の違いも、こうしたいかに配列するかという方針、思想の違いに由来するものである。 控訴人らは、第1次案の内容は、@光太郎と智恵子の求愛、恋愛時代の詩9編、A同棲、結婚時代の詩8編(但し、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の2編については、第1次案中には正確な詩稿はなかった。)、B智恵子の狂気時代の詩5編、C智恵子の死についての詩1編、D智恵子の没後の回想の2編、及び、E散意2編から成り立っている旨主張するが、第1次案はこのような構成にはなっていないし、「智恵子抄」でもこうした区分は全くなされていない。殊に、Y1の第1次案には「道程」以降、すなわち大正3年作の「晩餐」から昭和10年作の「風にのる智恵子」に至るまでの間の約20年間の作品が欠落している。これは作品数でいえば「智恵子抄」所収の詩作品29編のうち「樹下の二人」から「人生遠視」に至るまでの9編、すなわち約3分の1に近い作品である。そしてそのうちの「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」の3編は「彼女の半生」に引用されていることからY1が承知していたものであるが、「樹下の二人」「あなたはだんだんきれいになる」の2編は一部しか引用されていないし、「あどけない話」の引用もそれが全文であるか一部であるかをY1は知らなかった。智恵子という女性の生涯を浮き彫りにするのがY1の意図であるといいながら、約20年間の作品の欠落を全くY1が意に介していないということ自体、Y1の示した第1次案が単に詩集刊行の企画の域を出ていないことを示している。しかも、「樹下の二人」から「人生遠視」に至るまでの9編のうち「樹下の二人」「夜の二人」「あどけない話」「同棲同類」の4編は「現代日本文学全集」、「樹下の二人」「狂奔する牛」「鯰」「夜の二人」「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」の6編は「現代詩人全集」という、いずれも極めて手に入りやすい出版物に掲載されていたものであり、これらについてY1が関心を持っていなかったことは、Y1が真に智恵子の生涯を浮き彫りにするような作品を集めて編集するという意図を持っていなかったことを示唆している。 以上、要するに、Y1の第1次案は、「道程」から智恵子に関するものとして収録したいとY1が考えた作品を「道程」の順序で記し、「彼女の半生」中引用の3編を引用の順序で題名のみを記し、「風にのる智恵子」以降の作品(「荒涼たる歸宅」を除く)を発表の順序で収め、これに「彼女の半生」と「智恵子の切抜繪」を加えるという、出版の企画の域を出ないものであり、光太郎による「智恵子抄」編集、刊行の動機となった以上の意味はないものである。 (二)光太郎による編集行為の有無 原判決は「光太郎は、昭和16年6月11日……「荒涼たる歸宅」を制作するとともに、そのころ智恵子に関する詩集を編集著作しようと決意し、同月16日ころから20日ころまでの間に電話で被告を呼び寄せ」たが、「……この時までに……智恵子に関する詩歌、散文を取捨選択、推こう、配列した。」と判示した(110丁表10行ないし111丁7行)が、原判決の右認定は誤りであり、「智恵子抄」刊行の経緯は次のとおりである。 (1)光太郎は、昭和16年6月16日か17日ころ、「智恵子抄」の刊行を決意し、その旨をY1に告げ、その直後に詩集の題名も決定してY1に通知した。 (2)その後、光太郎は、作品の取捨選択、制作年月日の確定、配列の決定、各作品についての推敲等、原稿の整理をした。 (3)7月前半、光太郎は完全原稿の資料をY1に渡した。 (4)1週間ないし10日後、Y1は印刷所に廻せるように原稿を整理し、清書し、光太郎の許に持参した。 (5)その後2、3日の間に光太郎は校閲を終え、印刷用原稿をY1に返還し、Y1はこれに基づいて印刷、製本等の作業にかかった。 (6)その結果、8月15日「智恵子抄」は刊行された。 一方、控訴人の主張する、Y1が第2次案を光太郎に提出した事実は認められず、もし第2次案なるものがあったとすれば、せいぜい光太郎の原案に「婚姻の栄誦」と「淫心」を加えたいといった程度のことにすぎなかったものである。 控訴人らは、「光太郎がY1に対して智恵子に関する新詩集の刊行の許諾を与えた際の光太郎の行為のうち、詩集の成り立ちに関わりのある光太郎の具体的な行為として証拠上認められるのは、@「あれをやろうじゃないか」といってY1を呼んだこと、A第1次案をY1に返還したこと、B作成年月日をその上に朱筆した5編の詩及び「歌<「歌」は「うた」の誤記?〉六首」の肉筆原稿、並びに、「同棲同類」及び「美の監禁に手渡す者」が掲載された雑誌の切抜きを編綴しないままY1に手渡したこと、C「人に」(遊びじゃない)を第1次案から削除することをY1に求めたこと、だけである。」旨主張するが、光太郎の行為がこれに止まるものでないことは、次の点からも明らかである。すなわち、第1に、Y1は、「智恵子抄」に収められている「樹下の二人」「狂奔する牛」「鯰」「あどけない話」の4編及び散文「九十九里濱の初夏」について、「智恵子抄」の目次並作品年表のようなきっちりした制作年月日を知らず、目次並作品年表を作りようがないこと、第2に、「同棲同類」「美の監禁に手渡す者」の制作年月日もY1には分らないこと、第3に、「風にのる智恵子」以降の詩のうち、作成年月日をその上に朱筆して手渡されたという「風にのる智恵子」「荒涼たる歸宅」の2編を除く7編については、やはりY1には制作年月日が分らないことから、Y1は「智恵子抄」の目次並作品年表を作成しようがなく、一方、各作品の制作時期を正確に知っていたのは光太郎であるから、光太郎は、前記@ないしCの行為とは別に各作品の制作年月日または制作年月を記した一覧表若しくはそれにかわる資料をY1に与えたとみざるを得ないからである。更に、「人に」(遊びじゃない)の削除を光太郎がY1に求めたというが、これに伴って「道程」では「・・に」という題名であった「いやなんです」とはじまる作品を「人に」と改題することも光太郎が指示したとみなければならないし、その他の多くの推敲の結果についても同様である。 (三)第1次案返還後のY1の行為が「智恵子抄」の編集上でもつ意義 控訴人らは、「完成した「智恵子抄」と第1次案とを比較すると、その内容にみられる詩集としての特質(構想や構成方法)が両者に共通しており、「婚姻の栄誦」と「淫心」の2編の詩が収録されている以外は完成した「智恵子抄」と収録作品及び配列において一致しているところ、第1次案がY1の独創にかかるものである以上、第2次案もY1の独創にかかるもの」である旨主張するが、Y1による第2次案の提示がなかったとみるべきことは前述のとおりであり、「智恵子抄」と第1次案が本質的に異なることも前述のとおりである。 理由 当裁判所も、控訴人らの請求はいずれも理由がなく、これを棄却すべきものと判断する。その理由は、次のとおり削除、訂正、付加するほかは原判決の理由と同一であるから、これを引用する。 一 原判決の削除、訂正、付加 1 103丁裏4行「第53号証の1ないし4」の次に「第54号証の1ないし4」を、同丁裏5行「第19号証」の次に「第20号証」をそれぞれ加え、同丁裏9行「弁論の全趣旨」を「証人Iの証言」と訂正し、同丁裏末行冒頭に「弁論の全趣旨により真正に成立したことが認められる」を加える。 2 104丁裏1行「おり、既に」から同3行「なっていた」との部分を「いた。すなわち、光太郎の詩、短歌、(以下、詩、短歌、散文を当審の付加訂正部分においては、総称して「作品」という。)は、昭和12年以降、「智恵子抄」に収録された作品についていえば、「千鳥と遊ぶ智恵子」及び「値ひがたき智恵子」が「改造」昭和12年8月号に、「山麓の二人」が「新女苑」昭和13年8月号に、「或る日の記」が同年10月号に、「レモン哀歌」が昭和14年4月号に、「亡き人に」が同年9月号に、「梅酒」が「人形」昭和15年5月号に、「うた六首」のうち5首が「中央公論」昭和14年5月号及び「知性」昭和14年9月号に発表され、「智恵子抄」収録作品以外の詩についても、雑誌「中央公論」、「改造」、「婦人公論」、「新女苑」及び「朝日新聞」をはじめとする各種新聞などに発表されていた。このように、昭和14、5年ころにおいて、光太郎は既に詩歌に関心を寄せる一般大衆の間においても著名な詩人となっていた」と改める。 3 105丁裏10行「出したい。」を「出版したい。」と改める。 4 106丁表5行「出させて」を「出版させて」と改める。 5 106丁裏7行及び17〈「17」は「107」の誤〉丁裏2行の各「出したい」をいずれも「出版したい」と改める。 6 107丁裏10行から末行にかけての「及び別紙付表Uの「被告Y1原案」欄記載の配列」を削除する。 7 108丁表1行「別紙第2表」を「別紙付表U」と改め、同丁2行「及び」の次に「別紙付表T26、27の記載の」を加える。 8 108丁表9行「冬が来る」を「冬が來る」と改める。 9 108丁裏2行の「別紙付表Uの「被告Y1原案」欄記載」を「別紙付表Tの記載」と改め、同丁2行「及び」の次に「別紙付表T26、27の記載の」を加える。 10 108丁裏4行「別紙第2表中の「被告Y1原案」欄記載の詩文」を「別紙付表U中の「被告Y1原案」欄記載の詩及び別紙付表T26、27の記載の散文」と改める。 11 109丁表1行から2行にかけての「別紙付表Uの「被告Y1原案」欄記載」を「別紙付表Tの記載順序」と改める。 12 109丁裏4行から5行にかけての「別紙第2表中の「被告Y1原案欄」」を「別紙付表T」と改め、同丁6行「詩7編」を「詩8編」と改める。 13 109丁裏9行「出させて」を「出版させて」と改める。 14 110丁表6行から7行にかけての「(ただし、配列を除く。)」を削除する。 15 110丁表10行「光太郎は」から同丁裏5行「許諾した」までを、「しかし、その後光太郎は次第に智恵子に関する作品を編集著作して出版する気持ちをいだくようになり、手元の詩稿、全集や雑誌等に掲載された智恵子に関する全作品を対象に取捨選択して整理しつつ、これと並行して、右作品集に収録すべく智恵子のなきがらを主題とした詩「荒涼たる歸宅」の制作に着手し、昭和16年6月11日これを完成したうえ、同月16日から20日ころまでの間に、電話でY1を呼び寄せ、「あれをやろうじゃないか。」といって、智恵子に関する作品を編集著作すること及びY1がこれを出版することを告げた。」と改める。 16 113丁裏3行「交付し、」から同6行「指示した。」までの部分を「交付した(光太郎は収録を指示した作品のうち、「あどけない話」はY1が提示した第1次案中の「智恵子の半生」に、「樹下の二人」は昭和16年1月ころY1に送った「道程」(改訂版)にそれぞれ全文が掲載されているので、特に自筆原稿、雑誌の切抜等の資料を交付しなかったものと推察される。)。」と改める。 17 114丁表6行「手紙」を「葉書」と改める。 18 114丁表8行から9行にかけての「指示されたとおりに配列、整理して」を「基に、別紙付表Tないし6、9ないし14及び16については、これらがいずれも「道程」(改訂版)に載っているところから「道程」(改訂版)の切抜を、同付表8の「深夜の雪」については「道程」から書き写したものを、同付表15の「あどけない話」については「智恵子の半生」から書き写したものを、同付表17、18及び光太郎から新たに収録を指示された「夜の二人」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」、「歌〈「歌」は「うた」の誤記?〉六首」については光太郎の自筆原稿を浄書したものを、同じく光太郎から新たに収録を指示された「同棲同類」及び「美の監禁に手渡す者」については光太郎から交付された雑誌の切抜から書き写したものを、同付表19ないし25については第1次案として光太郎に交付した雑誌の切抜を書き写したものを、同付表26及び27の散文については第1次案として光太郎に交付した雑誌の切抜そのものを、それぞれ光太郎に指示された配列どおりに配列したものを紙挟みのようなものに挟んで、」と改める。 19 115丁表5行「散文の最後」を「「智恵子の半生」と「智恵子の切抜繪」の間」と改める。 20 117丁裏9行「配列の点を除いて」を削除する。 21 118丁裏末行「新詩集の」から119丁表末行「実際にも」までを「散文を含め新詩集の編集著作のための企画案としてその素材となる智恵子に関する作品のうち短歌を除く詩、散文の一部を集めたものにとどまり(しかも、後に述べるように、第1次案は光太郎の制作した智恵子に関する全作品を対象として取捨選択されたものではない。)、光太郎も第1次案をそのようなものと考えていたと推認される。そして、Y1として、光太郎が右企画案提供を契機に妻智恵子に関する自らの作品について編集に着手しそれを進めていることを知った以上、企画案提供者として意見を述べることはあっても、その採用を強く求めたりすることのできる立場にはなく、完成を期待して、光太郎の編集作業を見守り、これに従う立場にあったと考えるのが自然である。後にも触れるように、現に、前掲甲第52号証の1ないし3によれば、Y1は、Hに宛てた昭和16年6月22日到達の書面に「目下原稿御整理中だと私は信じて居ます。」と述べていることが認められ、また、」と改める。 22 120丁裏9行「る」の次に「(但し、第1次案の内容は、右に記載されたように智恵子に関する一切の資料が本になるばかりにまとめられていたものではない。)」を加える。 23 119丁表2行、120丁裏10行、142丁裏1行及び同丁2行の各「素材」をいずれも「企画案」に改める。 24 122丁〈「122丁」は「123丁」の誤?〉裏7行「ことが」の次に「証人Iの証言及び」を加える。 25 123丁〈「123丁」は「122丁」の誤?〉裏6ないし7行の「昭和16年6月22日付けの手紙で、」を「昭和16年6月20日ころまでに葉書で、」と改める。 26 原判決中「呈示」を「提示」と改める。 二 次のとおり、当裁判所の判断を付加する。 1 前記一15の当裁判所の判断について説明する。 Y1が光太郎から「あれをやろうじゃないか」と電話を受けて呼び出され、出版許諾を告知された時に、「内容順序表」及び第1次案の返還を受け、制作年月日を記載した「夜の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「人生遠視」、「風にのる智恵子」、「荒涼たる歸宅」の5編の詩及び制作年月日の記載のない「うた六首」の自筆原稿(乙第25号証の1ないし6)並びに「同棲同類」及び「美の監禁に手渡す者」の掲載雑誌の切抜の交付を受けたものであることは、Y1が原審の被告本人尋問(第1、2回)において再三に亙り一貫して述べており、また、そのことは同人にとって希求していた印象的な出来事であるということができるから、この点に関する同人の記憶に誤りはなく、その供述内容に副う事実があったものと認めるのが相当である。すなわち、光太郎がY1に対し出版許諾を告知(それは同時に編集著作の告知でもある。)したのと自筆原稿等を交付したのは同時期であると認めるのが相当である。但し、その時期に関し、右被告本人尋問において、Y1は、光太郎から電話で呼び出されたのは、光太郎が中央協力会議に出席した忙しい頃であり、同人から指定された日時に同人方に赴いたが、その時期は「夏の暑い時、7月ころである」頃供述しているところ、前掲甲第53号証の1ないし4によれば、光太郎は、昭和16年6月16日から20日まで翼賛会本部会議室で開催された第1回中央協力会議に出席していること、及び、これに続く第2回中央協力会議は同年12月8日であることが認められるから、第1回中央協力会議の開催日を基にすれば、Y1が光太郎から電話による呼出しを受けて同人方に赴き編集著作及び出版許諾の告知を受けたのは、昭和16年6月16日から同月20日までの間であると推定される。他方、前掲甲第52号証の1ないし3によれば、Y1はHに宛てた昭和16年6月22日到達の電信の中で、光太郎による「智恵子抄」の刊行に触れ、「先日、先生(光太郎を指す。)をお伺ひ致しました節、先生が御自分の著を『発行してもよい気持になった』と仰せられたことを確かめただけであります。……そして詩集の題名も御自分で葉書で御通知下さいました。目下原稿御整理中だと私は信じています。」と記述していることが認められる。しかして、Hが右書信を受領したのが6月22日であるところからみて、その発信日は同月20日か21日であると推定されるところ、右の記述によれば、光太郎は、前記第1回中央協力会議が開催された時期に符合する同月20日頃以前に自宅を訪れたY1に対し編集著作及び出版許諾の告知をしたものと推定される。 このように、光太郎がY1を電話で呼び出し同人に対し智恵子に関する編集著作及び出版許諾を告知した時期について、「夏の暑い時7月ころである」とする原審の被告本人尋問におけるY1の供述と前掲甲第52号証の1ないし3及び同第53号証の1ないし4によって推定される日時とは食い違っているが、原審の被告本人尋問において、Y1が最初にこの点に触れたのは、原審の第16回口頭弁論期日(昭和43年12月9日)であり(その後第26回口頭弁論期日(昭和55年4月2日)、第29回口頭弁論期日(昭和55年7月9日)にも同旨の供述がある。)、時期的にみて、光太郎から編集著作及び出版許諾の告知を受けてから27年半が経過しており、具体的時期に関する記憶は年月の経過とともに薄れ勝ちであることを考えれば、右各書証から認められる時期は、客観的な裏付けをもって認められる年月日であるから、前記被告本人尋問におけるY1の供述に比してはるかに正確性の高いものであると認められる。したがって、光太郎による編集著作及び出版許諾告知の時期は、昭和16年の6月16日から20日ころまでの間と認めるのが相当である。なお、前掲甲第52号証の1ないし3に引用されたY1の書信における「先生が御自分の著を『発行してもよい気持ちになった』と仰せられたことを確かめただけであります。……目下原稿御整理中だと私は信じています。」との記述からは、光太郎は、昭和16年6月20日ころ以前に自宅を訪れたY1に対し、同人がかねて進言していた智恵子に関する作品を編集著作することを決意したことを伝えただけで、その際Y1に対し自筆原稿等は一切交付しなかったようにも受け取れなくはないが、同号証によれば、右書信は「智恵子抄」の出版が時期の点も含めて確定的になるまで近刊予告を差し控えて欲しい旨の要望を伝えるためのものであることが認められるところ、このような書信においては、出版が具体化するのはまだ先のことであるかのような印象を相手に与えるために、実際の進捗状況を正確に知らせずにおくことも考えられることであるから、右記述のみから、編集著作及び出版許諾の時にY1が光太郎から全く自筆原稿等の交付を受けなかったものと即断することはできない。 このように、光太郎がY1に編集著作及び出版許諾を告げたのが昭和16年6月16日から20日ころまでの間であり、かつ右告知の時に自筆原稿等が交付されたものと認められる以上、作品についての取捨選択、推こう、配列等に要する日時というものを考えれば、光太郎が智恵子に関する作品を編集著作することを決意した時期を「荒涼たる歸宅」が完成した同月11日であるとみるのは不自然であるといわざるを得ない。そうであれば、光太郎による編集著作の決意の時期をそれ以前であると推認するほかない。すなわち、光太郎が「荒涼たる歸宅」の制作を完了したのは昭和16年6月11日であるとしても、同詩の着想、推こうはそれより以前になされていたものと推認するのが相当であり、同詩の制作の過程において、光太郎が、智恵子に関する作品を編集著作しようと決意し、或いは、右決意を契機として編集著作物に収録する意図のもとに同詩の制作に着手し、その制作と並行して、智恵子に関する作品の編集著作についての構想を練り、智恵子に関する自作の詩、短歌、散文を全て検討して取捨を決め、推こうし、各制作年月日を確定し、配列を決定したものと認定することは経験則に照らし合理的なものというべきであり、かように認定すれば、光太郎は時間的な余裕をもって作品の取捨選択等をすることが可能であったということができる。控訴人らが光太郎による智恵子に関する作品の取捨選択等が時間的余裕がなく不自然であると主張する点は、光太郎の編集著作の決意の時期が昭和16年6月11日であることを前提とするものであるから、失当といわざるを得ない。 2 控訴人らは、当審において、Y1が「智恵子抄」の編集著作権者である理由として、第1次案と「智恵子抄」を対比し、収録された作品の重なり方、「荒涼たる歸宅」を除く全体としての構成内容に顕著な差がないこと、光太郎がY1から第1次案の提示を受けるまで智恵子に関する作品を集めた著作物を作る意図を持っていなかったこと、「智恵子抄」成立過程での光太郎の行為が第1次案に示されたY1の構想の線に添って行われていることなどを挙げているので、判断する。 著作者が企画案ないし構想を提供する第三者の進言により、はじめて著作を決意し、その協力により著作物を完成するという経過をたどることは、決して稀ではなく、その場合進言をした第三者が当然に著作権者となるものではない。著作物をもととして完成される編集著作物について、第三者が進言した場合でも同様である。編集物で著作物として保護されるのは、「その素材の選択又は配列によって創作性を有する」ことが必要であるから(著作権法12条1項)、Y1が「智恵子抄」の編集著作権者であるというためには、その素材となった智恵子に関する光太郎の作品を自ら選択し配列したと認められることが必要である。すなわち、Y1の編集著作というためには、「荒涼たる歸宅」のように後日制作された作品を除き、可能な限り、智恵子に関する作品全てを認識し把握したうえで、これら作品について必要な取捨選択を経て配列を完成するという作業がY1自身によりなされることが何よりも先ず必要であって、それによってはじめて控訴人らが主張する光太郎と智恵子の愛を浮き彫りにした創作性ある編集著作がなされたと認め得る余地があるのであり、かかる作業がなされないまま、光太郎の作品の一部を集めても、それは光太郎と智恵子の愛を浮き彫りにするという編集著作という観点からは、企画案ないし構想の域にとどまるにすぎないものというべきである。 そこで、この点について検討するに、原判決の理由第一、二1(三)ないし(五)(105丁表10行ないし107丁裏5行)認定のように、Y1は、「風にのる智恵子」を読み感動を覚えて「道程」を読み返し、光太郎に対する認識を改め、更に、「レモン哀歌」、「亡き人に」、「智恵子の半生」等一連の智恵子に関する作品に接し、どうしても智恵子に関する作品を系統的に収集して智恵子の生涯を浮き彫りにするような詩集を出版したいと考えるに至ったものであるところ、Y1が当時智恵子に関する作品であると認識していたものは、原判決の事実摘示本訴請求の原因一3(二)(2)(4丁裏1行ないし6丁表4行)のとおりであり、これら作品について本判決により訂正された同(3)(6丁表5行ないし同裏5行)のように内容順序表及び第1次案が作成されたものであることは当事者間に争いがないが(Y1は前記作品のほか、「道程」に収録されていた「あをい雨」、「梟の族」、「冬が來る」も智恵子に関する作品と考えていたが、結局第1次案にこれら作品を取り入れなかったことは原判決の理由108丁表8行ないし同丁裏1行に認定するとおりである。)、「智恵子抄」に収録されていて第1次案に欠落しているか又は題名のみが記載されている作品について検討すると、本判決により削除、訂正、付加された原判決の認定によれば、「智恵子抄」に収録されていて第1次案に欠落している作品である「狂奔する牛」、「鯰」、「夜の二人」、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」、「うた六首」及び「九十九里濱の初夏」のうちY1がその作品の存在を認識していたものは、「道程」(改訂版)中に存在したことから第1次案提出後にその存在に気付いて「智恵子抄」への収録を光太郎に進言した「狂奔する牛」、「鯰」の2編の詩及び昭和16年7月刊行の雑誌「新若人」に掲載された散文「九十九里濱の初夏」のみであり(114丁表10行ないし同丁裏5行〈「5行」は「3行」の誤?〉)、右以外の作品については、いずれも光太郎自身が、自分の手元にあった詩稿等の資料から選択し、「夜の二人」、「人生遠視」、「荒涼たる歸宅」、「うた六首」については自筆原稿を、「同棲同類」、「美の監禁に手渡す者」についてはこれが掲載された雑誌の切抜を、それぞれY1に交付してその収録の〈「の」は「を」の誤?〉指示したものであって、これらの作品については、Y1は光太郎に収録を指示されて初めてその存在を知ったものであること(111丁裏1行ないし末行及び113丁表8行ないし同丁裏3行。なお、Y1が、これら光太郎に収録を指示された作品について、その存在を認識していなかったことについては、4丁裏1行ないし6丁表4行及び54丁裏1行ないし4行の当事者の主張内容からみて、当事者間に争いがないものと思われる。)、また、第1次案に題名のみが記載されている「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の3編の詩についても、その全文が「智恵子の半生」に引用されている「あどけない話」以外の2編は、その内容の一部分を知っているのみであったこと(108丁表2行ないし6行)が認められるところ、前掲甲第35号証の1ないし4、第36号証の1ないし7、第37号証の1ないし4によれば、「狂奔する牛」及び「鯰」はいずれも「道程」(改訂版)及び「現代詩人全集第9巻」(新潮社)に、「夜の二人」は「現代日本詩集」(改造社)及び「現代詩人全集第9巻」(新潮社)に、「同棲同類」は「現代日本詩集」(改造社)に、「人生遠視」は「現代詩集第1巻」(河出書房)に、「樹下の二人」は「道程」(改訂版)、「現代日本詩集」(改造社)及び「現代詩人全集第9巻」(新潮社)に、「あどけない話」は「現代日本詩集」(改造社)及び「現代詩人全集第9巻」(新潮社)に、「あなたはだんだんきれいになる」は「現代詩人全集第9巻」(新潮社)に掲載されていることが認められる。この事実によれば、第1次案において欠落し又は題名のみが掲載された智恵子に関する作品のうち、第1次案の提出後に制作された「荒涼たる歸宅」、第1次案の提出後の昭和16年7月刊行の「新若人」に掲載された「九十九里濱の初夏」は別論として、第1次案提出以前に公表されている作品については、雑誌「鬣」に掲載された「美の監禁に手渡す者」を除き、いずれも第1次案作成以前に刊行され市販されている光太郎の詩集、全集又は雑誌類である「道程」(改訂版)、「現代日本詩集」(改造社)、「現代詩人全集第9巻」(新潮社)、「現代詩集第1巻」(河出書房)のいずれか一つ又は二つないしは三つに収録されており、更に、前記のとおり、「うた六首」は現代短歌集、中央公論、知性に収録されており、右書籍又は雑誌から右作品を見い出し抽出することはさして困難な作業とは認められない。また、「美の監禁に手渡す者」が掲載されている雑誌「鬣」は同人誌であって入手が容易でないと推察されないではないが、原判決の理由第一、二1(二)(104丁裏8行ないし105丁表9行)認定のように若い頃から文学に親しみ、自ら詩に関する雑誌を主宰し、その後龍星閣の名で詩を含め文学関係の本を出版しているY1にとっては調査をしさえすれば、少なくとも、掲載されている右の詩の存在を知ることは可能であったものと推認される。しかるに、原審における被告本人尋問の結果(第1、2回)によれば、Y1は自己が智恵子に関するものとして認識していた前記の作品以外の智恵子に関する作品の存在について調査せず、したがって、これら欠落し又は題名のみを記載した作品について特に前記の文献等に当たることはしていないことが認められる。このように、入手可能な全部の作品について取捨選択の検討を欠いたまま作成された第1次案をもって、控訴人ら主張のような光太郎と智恵子の愛の世界を浮き彫りにしたものと評価することはできず、同案は光太郎に智恵子に関する作品を編集著作させるための企画案ないし構想の提供の域を出ないものというほかない(これまで挙示した作品のほか、大正元年9月発行の「スバル」掲載の「涙」、「からくりうた」、大正15年2月号の「彫塑」掲載の「金」(以上詩)、昭和10年5月号執筆の「新茶の幻想」、昭和14年4月号及び5月号の「歴程」掲載の「某月某日」(以上散文)が智恵子に関する光太郎の作品であることは当事者間に明らかに争いがないが、これらについては、第1次案作成に当たりY1がこれら作品を取捨選択の対象としたことを認めるに足りる証拠はない(原審におけるY1の被告本人尋問の結果によれば、Y1はこれら作品のうち「某月某日」の存在のみを知っていたにすぎないものと認められる。))。 その後出版に至るまでの経緯、すなわち当裁判所の訂正に係る原判決の理由第一、二、1(八)ないし(十一)(110丁表10行ないし116丁裏2行)の認定事実によって認められるY1の行為のうち、光太郎の自筆原稿の浄書、「智恵子抄」に収録が決まった作品についての「道程」(改訂版)からの切抜の作成又は掲載雑誌からの書写し、及び、これらを光太郎の指示に従って配列し紙挾みのようなものに挾んだことは、光太郎の指示に従った原稿の整理にとどまるものと評価すべきであり、その間「狂奔する牛」、「鯰」、「九十九里濱の初夏」についての選択の進言も企画案提供者として意見を述べたにすぎず、かかる事実があったとしても、「智恵子抄」がY1の編集著作に係るものと認めることはできない。 これに対し、智恵子に関する作品の編集著作決意後の光太郎の行為及びその評価は、前記原判決の理由第一、二2〈「2」は「3」の誤?〉(八)ないし(十一)(当裁判所による付加訂正部分を含む。)に認定し説示したとおりであり、これによれば、その契機がY1の進言にあったにせよ、光太郎は、智恵子に関する全作品を取捨選択の対象とし(そのことは、光太郎が作品すべてについて完全原稿を所持していたと否とにかかわりなく作品の掲載された雑誌、詩集、全集等の刊行物があれば可能であるし、前記「涙」、「からくりうた」、「金」、「新茶の幻想」、「某月某日」についても、自己の作品である以上当然その存在を認識し、取捨選択の対象としたものと推認して差支えない。)、全体を詩、短歌(これは第1次案には全くなかった。)、散文の順で配列することとし、第1次案に欠落していた作品及び新作の「荒涼たる歸宅」を加え、題名だけで内容が欠落していた作品の内容を補充し、「道程」により制作年月が確定していた11編の詩を除いたその余の作品についての制作年月日を確定し、或いは収録するのが相当でないと判断した作品を第1次案から削除するなどして、詩については、「荒涼たる歸宅」の例外を除き、制作年代順の配列構成とし(「智恵子抄」の目次並作品年表によれば、第1表1ないし11の「道程」に収録されていた作品については「おそれ」を除き制作年月日が「道程」に記載されていたにもかかわらず、制作年月日のみを記載し、その他の作品については制作年月日を記載しており、光太郎が制作時の記載につき何故にかかる区別をしたのか明らかでないが、いずれにせよ詩全体の配列が制作年代順であることには変わりはない。)、また、6首の短歌、三つの散文(これは年代順配列ではない)の配列順を決めて、出版業者としてのY1に原稿整理をさせたものと認められるのであり、また、Y1の進言により加えられることとなった前記「狂奔する牛」、「鯰」はいずれも「道程」(改訂版)(甲第34号証)、「現代詩人全集」(甲第35号証の1ないし4)に、「九十九里濱の初夏」は昭和16年7月刊行の「新若人」にそれぞれ収録されていたものであるから、光太郎がこれを見落としていたとは考えられず、これら作品をも取捨選択の対象としたうえ一旦は不収録と決めたもののY1の進言を採用したものと認めるのが相当である。そうであれば、「智恵子抄」は、光太郎が智恵子に関する作品から二人の愛を浮き彫りしたものと自らが認めたもののうちから、当時の時局を配慮して最終的に不適切と判断したものを除き、これを配列したものと認めることができるから、光太郎の編集著作に係るものというべきである。「智恵子抄」と第1次案との構成、構想の点で共通するものがあるとしても、Y1の第1次案による進言の趣旨が、光太郎による智恵子に関する作品の編集著作にある以上、あえて異とするに足りないところであり、そのことが「智恵子抄」の著作権者〈「著作権者」は「編集著作権者」の誤誦以下同じ〉がY1であると認める根拠となるものではない。 更に、控訴人らは、Y1が著作権者である理由として、第2次案(出版許諾の告知から1週間ないし10日後に作品を配列、整理して光太郎に交付したものを指称する。)と「智恵子抄」の共通性を主張するが、右第2次案が光太郎が取捨選択したうえ配列したものに基づき作成され、これから光太郎により「婚姻の榮・1801」、「淫心」が除外され「智恵子抄」へと継承されていくのであるから、両者に共通性が認められるのは当然であり、前同様そのことが「智恵子抄」の著作権者がY1であると認める根拠となるものではない。 また、控訴人らは、光太郎が詩の配列について制作年代順の原則によること、「荒涼たる歸宅」については右原則を崩して「亡き人に」の直前に配列したことを指示したことを認めるに足りる証拠はない旨主張し、原審における被告本人尋問の結果(第1、2回)中にも、「智恵子抄」の作品の配列は、全てY1が作品の内容感を考慮して決定し、これに対し光太郎も特に異論を述べなかった旨の供述部分が存在する。しかしながら、第1次案における作品の配列が別紙付表Tの記載順序であることについては当事者間に争いがないところ、前掲甲第40号証、同第39号証の1ないし3、及び、被告本人尋問の結果(第1、2回)によれば、同配列は最初に「道程」から選択した詩(別紙付表T1ないし14)を「道程」の収録順に配し、次に昭和15年12月1日発行の婦人公論掲載の「智恵子の半生」に引用されている詩(同付表15ないし17)をその引用されている順に配し、次に雑誌等に掲載された詩(同付表18ないし25)を雑誌に発表された順に並べて配列し、最後に散文2編を制作年代あるいは発表年代とは関係なく配列したものであることが認められ、したがって、第1次案における作品の配列は作品の内容感を考慮したと評価し得るようなものではないうえ、右第1次案の各詩の配列において、「智恵子の半生」に引用されている3編の詩(同付表15ないし17)のみが、制作年代順に正しく配列されていないものであるところ、これら3編の詩のうち、「あどけない話」についてはその全文が引用されていたためY1はその内容を知っていたが、「樹下の二人」及び「あなたはだんだんきれいになる」の各詩についてはY1はその一部分を知っているのみであったことは、原判決108丁表1行ないし6行に認定のとおりであるから、第1次案の詩における制作年代順の原則に対する例外的配置は、Y1が作品の内容感を考慮して決定したものと解する余地のないことは明白である。更に、原判決認定にかかる第1次案の作品の配列から現在の「智恵子抄」の作品の配列に至る経緯を基にこの点を検討するに、第1次案から削除されずに現在の「智恵子抄」に収録されている詩のうち第1次案からその順番が入れ替ったものは、第1次案では制作年代順となっていなかった「あどけない話」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」の3編の詩のみであるところ、これらは現在の「智恵子抄」においては正しい制作年代順になるように入れ替ったにすぎないものであるが、これら3編の詩の制作年月日を確定したのは光太郎であること、第1次案の後に追加収録された各詩は、Y1の進言により追加されたものも光太郎の指示により追加されたものも含めて、「荒涼たる歸宅」を除くその余の詩は全体として制作年代順となるように第1次案の中に配列され、「荒涼たる歸宅」のみが右制作年代順の原則に対する唯一の例外をなしているものであるところ、右「荒涼たる歸宅」は光太郎の指示により追加された詩であること、その配列が必ずしも制作年代順ではない「うた六首」の配列は、光太郎がその追加を指示してY1に交付した自筆原稿の順番どおりの配列であること、現在の「智恵子抄」における3編の散文のうち、2編は第1次案に既にあったものであるが、これら2編の散文は第1次案では制作年月が不明だったものを、光太郎は、追加された散文である「九十九里濱の初夏」のY1からの追加の進言があった後に、右追加の散文も含めて制作年月を確定したものであることが認められ、一方、証人Iの証言によれば、光太郎は詩集における作品の配列を制作年代順とするのを原則としていたが、このような配列は当時の詩集としては珍らしいものであったことが認められ、これらの事実からすれば、制作年代順を原則とする配列そのものが光太郎の編集方針であるほか、右制作年代順の原則に対する例外であるもののうち、「うた六首」の配列は光太郎が確定したものであると認められることは勿論のこと、詩における例外である「荒涼たる歸宅」の配列は光太郎が同詩の追加を指示したときにその配列も確定し、3編の散文の配列も散文の制作年月を確定したときに合わせてその配列を指示したものと推認したうえで、現在の「智恵子抄」における作品の配列は全て光太郎の意向によって確定されたものとする原判決の認定は肯認し得るものであるということができる。 三 控訴人らは、仮定的にY1が「智恵子抄」の編集著作権について2分の1の持分を有する旨主張するが、以上の認定に照らせば、Y1の行為は編集著作者としての行為ということはできないのであるから、右主張も採用することはできない。 四 原審被告(反訴原告)Y1は、昭和63年10月8日死亡し、相続人たる控訴人Y2がその地位を承継したことは、本件記録上明らかであるところ、以上によれば、被控訴人の控訴人らに対する請求はいずれも理由があるが、控訴人らの被控訴人に対する請求は、いずれも理由がない。よって、被控訴人の請求を認容し、控訴人らの請求を棄却した原判決は相当であるから、本件控訴は理由がないものとして、いずれもこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法95条、89条、93条1項本文を適用して、主文のとおり判決する。 東京高等裁判所第18民事部 裁判長裁判官 松野嘉貞 裁判官 田中信義 裁判官 杉本正樹 別紙1
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