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【事件名】「チューリップ」・「コヒノボリ」事件
【年月日】平成元年8月16日
 東京地裁 昭和58年(ワ)第12198号 著作権確認等請求事件

判決
原告 X
右訴訟代理人弁護士 加藤文也
同 齋藤豊
同 井澤光朗
亡P9訴訟承継人被告 P1
右同被告 P2
右P2法定代理人親権者母 P62
右同被告 P60
右同被告 P5
右4名訴訟代理人弁護士 大村武雄
同 西山宏
同 中山秀行
同 馬場俊一
被告 社団法人日本音楽著作権協会
右代表者理事 Y
右訴訟代理人弁護士 柳井義郎

 右当事者間の昭和58年(ワ)第12198号著作権確認等請求事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。


主文
一 原告が別紙歌詞目録1ないし6記載の歌詞について著作者人格権を有することを確認する。
二 原告に対し、被告P1及び被告P2は、それぞれ15万円を、被告P60及び被告P5は、それぞれ30万円を支払え。
三 被告らは、原告に対し、次のとおり連帯して支払え。
1 被告P1及び被告社団法人日本音楽著作権協会は50万円
2 被告P2及び被告社団法人日本音楽著作権協会は50万円
3 被告P60及び被告社団法人日本音楽著作権協会は100万円
4 被告P5及び被告社団法人日本音楽著作権協会は100万円
四 原告のその余の請求を棄却する。
五 訴訟費用は、これを10分してその9を原告の負担とし、その余については、これを更に10分し、その4を被告日本音楽著作権協会の負担とし、その4を被告P60及び被告P2の各負担とする。
六 この判決は、右二及び三に限り、仮に執行することができる。

事実
第1 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告が別紙歌詞目録1ないし6記載の歌詞(以下まとめて「本件歌詞」という。)について著作者人格権を有すること及び同歌詞目録4ないし6記載の歌詞(以下順次「チューリップ」、「カミナリサマ」、「オウマ」という。)について併せて著作権を有することを確認する。
2 被告らは、原告に対し、次のとおり連帯して支払え。
(一) 被告P1(以下「被告P1」という。)及び被告社団法人日本音楽著作権協会(以下「被告音楽著作権協会」という。)は972万円
(二) 被告P2(以下「被告P2」という。)及び被告音楽著作権協会は972万円
(三) 被告P60(以下「被告P60」という。)及び被告音楽著作権協会は1944万円
(四) 被告P5(以下「被告P5」という。)及び被告音楽著作権協会は1944万円
3 訴訟費用は、被告らの負担とする。
4 2について仮執行の宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とする。
第2 当事者の主張
一 請求の原因
1 原告は、次に述べるとおり、昭和6年8月末か9月初めころに作歌の依頼を受け、その後1か月の期間内に、本件歌詞を作歌した。
(一) 訴外日本教育音楽協会(大正11年設立。以下「訴外協会」という。)は、昭和5年ころ、幼稚園唱歌集、新尋常小学唱歌集を編纂し、全国の音楽教育関係者に新しい唱歌教材を提供しようと計画し、同年6月には、同協会に設置した幼稚園唱歌研究部においてチューリップ、コヒノボリを含む新しい童謡の歌題31項目を選び、同年11月発行の同協会の機関誌「教育音楽」の誌上で、右歌題について全国から歌詞を募集した。しかし、訴外協会が募集した幼稚園唱歌については、右募集により40篇中30篇が集まったが、残り10篇が集まらなかったため、訴外協会は、やむをえずこれを専門家に依頼することにした。そして、昭和6年当時訴外協会の理事で幼稚園唱歌研究部の委員でもあり、また、右機関誌の編集責任者でもあった訴外P17は、同年8月末から9月初めころ、当時東京帝国大学文学部国文科の教授であり、また東京音楽学校の講師でもあったP15に対し、右の10篇の題目について作歌を依頼した。P15は、それまでにP17から作歌の依頼を受けることが度々あって、P15作詞、P17作曲の歌は数多く、これらは、大正3年には「音程教本」の別冊として「音程教本伴奏譜」、同4年には「師範学校楽典教本」、「高等女学校楽典教本」、同5年には「尋常小学唱歌教授提要」、同6年には「三重唱歌教本」、同7年には「単唱歌教本」、「二重唱歌教本」として出版されていたのである。ところが、P15は、P17から作歌の依頼を受けたものの、幼稚園唱歌の作歌は自分には無理であるとの理由で、長女である原告にその作歌を命じ、原告は、それから1か月の期間内に本件歌詞を作歌した。なお、原告の母P47(以下「P47」という。)は、P17とは東京音楽学校師範科第1回の同級生であり、かつ、P17の妻は、同校でP47の1年下という関係であるということもあって、昭和6年当時、原告の家族とP17の家族とは親類同然の付合いをしていたのである。
(二) 原告の父P15は、昭和6年当時、国文学会の指導的な立場にあって、文部省の各種委員にも任命され、文部省唱歌のうち高等小学唱歌(昭和5年発行)の歌詞の編集委員の仕事をしたこともあり、また、昭和6年には訴外協会編の「新尋常小学唱歌」(昭和6年発行)の歌詞の編集に関与し、更に、同協会編の「新高等小学唱歌」(昭和7年発行)にも歌詞の編集責任者として関与していた。原告の母P47は、前述のとおり、東京音楽学校師範科第1回の卒業生であって、高等女学校の音楽教師及びピアノの個人教授の経験を有していた。原告は、明治34年11月10日に出生し、大正13年に東京府立第三高等女学校を卒業後、同校の高等科で2年間文学を学び、その後は、当時文部省唱歌の歌詞の編集委員や作歌の仕事をしていた父P15の秘書の仕事をして、父P15から作歌の指導を受けていた。そして、原告は、当時から、短歌を作っており、現在でも日本文芸家協会の準会員である。なお、原告の夫P48は、昭和5年から東京音楽学校の講師をしており、また、訴外協会主催、東京音楽学校後援の新幼稚園唱歌講習会、新尋常小学唱歌講習会において講師として講演も行っている。このように、原告は、その家庭環境から、自然と、本件歌詞の著作に必要な音楽的、文学的素養が身についていたのであり、また、訴外協会の仕事にも密接に関与していたのである。
(三) 原告は、父P15からの依頼を受け、10篇位の幼稚園唱歌を作成したが、現在記憶しているのは、本件歌詞6篇である。原告は、本件歌詞については、作家的な観点や詩としての技巧や修飾的なものを一切排除し、できるだけ分かりやすく、平明なものを作るという気持で作歌をした。原告は、チューリップについては、父P15の書斎にあった「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まる教科書(以下「サクラ読本」という。)のもとになった資料に目を通し、それを下敷にして作歌した。また、チューリップの歌詞の中にある「ドノ ハナ ミテ モ キレイ ダ ナ」は、赤も白も黄色もそれぞれの美しさ、良さがあるという意味であって、原告のこの考え方は、原告自身の生き方の姿勢でもあり、これを歌詞に反映させたものである。なお、原告の父P15は、前述のとおり、当時東京帝国大学文学部の主任教授であって、国文学、国語教育の指導的立場にあり、永らく文部省の国語審議会委員や検定委員をしていたため、昭和8年4月から使用されるようになったサクラ読本が編集された当時の発行課長であったP63、編集の中心であったP11などが、P15の自宅にしばしば来ていたこと、及び、サクラ読本は昭和7年4月から使用されることを前提に編集作業が進められていたところ、仮名遣い等の問題により完成が遅れ、翌年4月に刊行されたものであって、同6年秋にはサクラ読本の原稿は既にできていたのであるから、原告がサクラ読本の原稿ないし資料に目を通すことは可能であったのである。原告は、コヒノボリについては、当初、歌詞の最初のところは「青空高く」か「大空高く」であると考えて作歌していたところ、当時編集の事務主任をしていたP8が来て「屋根より高い」に変えてほしいというので、その変更を認めている。また、原告が「大きいマゴヒはお父さん、小さいヒゴヒは子供達」と作詞したところについて、P8は、「大きいコヒ」と「小さいコヒ」に直してほしいといってきたが、そこについては、原告は、当初の作詞どおり、「マゴヒ、ヒゴヒ」とした。このように、コヒノボリについては、最初の部分のみ原告の了解を得て変更されているのである。
 なお、訴外協会が昭和5年に幼稚園唱歌の歌詞を募集したときは、当選者には薄謝を呈すことになっていたが、原告は、昭和6年12月暮に、本件歌詞を作歌したことに対して、当時の金で200円の謝礼をもらっている。
(四) 本件歌詞中、別紙歌詞目録1ないし3記載の歌詞(以下順次「テフテフ」、「タンポポ」、「コヒノボリ」という。)は、訴外協会が昭和6年12月25日に発行した「ヱホンシヤウカ」(以下「エホンシヤウカ」という。)ハルノマキに、チューリップ、カミナリサマ及びオウマは、同協会が昭和7年7月18日に発行した「エホンシヤウカ」ナツノマキにそれぞれ無名の著作物として公表された。
(五) 原告が本件歌詞のうち、コヒノボリ及びチューリップの作詞者であることは、昭和45年5月7日発行の「赤旗」の2版紙上において公表され、また、チューリップの作詞者であることは、昭和45年8月1日実業之日本社発行のP61著「日本の唱歌」219頁と、昭和54年4月15日株式会社全音楽譜出版社発行の「みんなでうたおうこどものうたT」8頁に公表されている。
(六) 被告らは、後述のとおり、P9がチューリップの作詞、作曲者である旨主張しているところ、P9は、昭和26年株式会社音楽之友社(以下「音楽之友社」という。)発行の教科書「おんがく しょうがく一ねんせい」、同33年音楽之友社発行の教科書「改定版しょうがくせいのおんがく1」の編集者であったが、いずれの教科書においてもチューリップの作詞者を不詳としており、また、P9は、昭和34年4月1日音楽之友社発行の「教育音楽」小学版の編集責任者でもあったが、同誌115頁においてはチューリップの作詞者を文部省としている。また、P9は、右の教科書及び雑誌のいずれにおいても、チューリップの作曲者がP6であることを自ら認めているし、更に、昭和29年7月3日、東京新宿文化会館ホールで開催されたP6先生作品集発表演奏会において挨拶をしているが、そのなかでチューリップの作曲者がP6であることを自認している。
(七) 被告らは、後述のとおり、P9がコヒノボリの作詞、作曲者である旨主張しているが、同人は、昭和13年5月1日合資会社共益商社書店(以下「共益商社書店」という。)発行の「学校音楽」81頁、昭和14年5月1日同書店発行の同誌59頁、昭和15年5月1日同書店発行の同誌74頁において、コヒノボリについて自ら解説し、この歌詞がP71編輯の明治34年7月同書店発行の「幼稚園唱歌」の中にある「鯉幟」に似ている旨主張するものの、自ら作詞、作曲したとは一言も主張していない。また、P9は、昭和31年5月1日音楽之友社発行の「教育音楽」116頁において、コヒノボリについて自分が編曲した旨主張し、自ら作曲したとはいっていない。更に、P9は、昭和58年5月5日発行の読売新聞紙上において、「コヒノボリは一般から募集した歌詞に手を加え、私が作ったもの」と主張し、自ら作詞したものではなく、補作したことを自認している。
2 被告らは、原告が本件歌詞について著作者人格権、チューリップ、カミナリサマ、オウマについて併せて著作権を有することを争っている。
3(一) P9及び被告音楽著作権協会は、原告が昭和45年に本件歌詞について被告音楽著作権協会に対し著作権信託申込を、文化庁に対し著作者の実名登録申請をそれぞれしようとしたときに、次のとおりこれを妨害した。
(1) 原告は、前述のとおり、昭和45年5月7日発行の赤旗の紙上にコヒノボリ及びチューリップの作詞者であることを公表したところ、チューリップの作曲者であるP6から手紙がきて、本件歌詞について被告音楽著作権協会に対し著作権信託申込を、文化庁に対し著作者の実名登録申請をそれぞれするようにとの助言があった。原告は、同年5月下旬には、被告音楽著作権協会から、本件歌詞の作成経緯について電話による調査を受けて、これに回答し、続いて6月5日、被告音楽著作権協会に呼び出され、同協会において常務理事P10、業務局資料部部長P52、P6と会談し、本件歌詞の作成経過について調査を受けた。原告は、その席で、右P10から著作権信託の手続きを採るように勧められたので、被告音楽著作権協会も原告の話を了承したものと理解した。
(2) しかるに、P9及び被告音楽著作権協会は、原告の被告音楽著作権協会に対する著作権信託申込と文化庁に対する著作者の実名登録を阻止しようと共謀し、イ 被告音楽著作権協会は、同年7月初旬に原告を再度呼び出し、原告が被告音楽著作権協会に出向いたところ、同協会の職員は、原告に対し東邦音楽学校のP9に面会するように指示した。ロ 原告は、被告音楽著作権協会の指示であったので、同日、東邦音楽学校に赴き、P9と面談し、本件歌詞の作成経緯について説明したところ、P9は、原告に対し、「コヒノボリの作詞者はP37某である。」と述べ、更に、「10余年前の某月某月〈「月」は「日」の誤?〉までに著作権の申出のないときは、著作権は無効になる」旨の広告が記載されている幅2p、長さ20p程度のコピィ紙片を示しながら、「音楽関係の本に広告を出したから、原告のように届出をしなかった人の著作権は無効であり、本件歌詞の著作権も無効である」旨述べたため、原告は、P9の右言動を真実なものと誤信し、本件歌詞も長く放置していたので、著作権は無効となり、登録できないものと判断して、今日に至った。なお、P9は、右会談の際にも、チューリップの作詞を自分が行ったというようなことは、一言も述べていない。
(3) P9は、昭和14年12月20日設立の被告音楽著作権協会の前身である訴外大日本音楽著作権協会の設立会員であり、その後、被告音楽著作権協会の評議員に就任して活躍する等、被告音楽著作権協会と関係が深く、また、教育音楽家として知名度が高いため、被告音楽著作権協会に対し影響力を行使しうる立場にあった。また、P9は、昭和45年当時、訴外協会の会長として、同協会の運営に当たっていたが、同協会の財源は、コヒノボリ、チューリップ等「エホンシヤウカ」に掲載された童謡によって得られる著作物使用料に大きく依存していたので、原告がコヒノボリ、チューリップの作詞者であるということになると、被告音楽著作権協会から訴外協会に支払われていた著作物使用料が入らず、同協会の存立が危うくなるおそれが生じた。一方、被告音楽著作権協会は、従来から、コヒノボリ、チューリップの著作権者は訴外協会であるとして、レコード会社等から著作物使用料を徴収し、その一部から管理手数料を得ていたものであるから、全く無名で老齢の原告よりも、長年にわたり被告音楽著作権協会に功績がありながら財政的に苦境に陥った訴外協会の方を救おうと考え、P9と共謀して、原告の著作物の著作権信託及び実名登録を阻止しようとしたのである。
(二) P9は、(1)訴外P55に対し、コヒノボリの作詞作曲はP9であり、チューリップの歌詞はP9とP6の合作であると虚偽の事実を述べて、右P55編集の昭和54年7月15日株式会社講談社(以下「講談社」という。)発行の「日本の唱歌(中)」にその旨記載させて(同書158頁、178頁)、これを公表し、(2)株式会社主婦の友社(以下「主婦の友社」という。)第2編集部長P56に対し、チューリップの作詞作曲はP9とP6の共作であると虚偽の事実を述べ、昭和56年5月1日同社発行の「わたしの赤ちゃん」5月号にその旨記載させて、これを公表させ、また、(3)昭和54年11月、ヒコノボリを自ら作詞、作曲したと称して、出身地の新潟県南魚沼郡塩沢町中之島小学校校庭と東京都文京区本駒込の吉祥寺境内に、歌碑を建設し、更に、同56年8月、「顕彰碑建立記念誌こいのぼり」という作曲集を発行している。
(三) P9は、昭和57年12月、被告音楽著作権協会に対し、自己がチューリップ及びコヒノボリの著作者であるとして、無名著作物からP9の著作物に切り換えて管理するよう申し入れたところ、被告音楽著作権協会は、チューリップ及びコヒノボリが無名著作物として公表されているため、公表後50年で著作権が消滅してしまい、著作物使用料をレコード会社等から徴収することができなくなることをおそれ、昭和58年3月、P9と共謀して、レコード会社等に対して、従来訴外協会とされていたコヒノボリの作詞作曲者及びチューリップの1番の作詞者をいずれもP9に変更する旨通知し、その後、録音許諾申請をP9名で行わせ、また、レコードのラベル等にもP9の名前を表示させている。
4 被告音楽著作権協会は、昭和45年7月1日から同63年7月までの間、チューリップ及びコヒノボリの著作物使用料として、毎年少なくとも400万円を、レコード会社、出版社、放送局等から徴収しているところ、同45年7月から同57年12月までは、そのうち会社5200万円を訴外協会に対し、同58年1月から同63年7月までは、そのうち合計2200万円をP9又はその遺族である被告らに対し、コヒノボリ及びチューリップの著作物使用料として分配しているが、このうちチューリップについての使用料は、それぞれの半額の2600万円、1100万円である。
5 原告は、P9及び被告音楽著作権協会の右3の妨害行為により、コヒノボリ及びチューリップについての被告音楽著作権協会に対する著作権信託手続及び文化庁に対する実名登録の手続を採ることを阻害された。その結果、原告は、チューリップの著作権者として本来受けうる著作権使用料を受領できず、同額の損害を被ったものであるが、その金額は、前述の4のとおり合計で3700万円である。なお、テフテフ、タンポポ、コヒノボリは、前述のとおり、昭和6年12月25日発行の「エホンシヤウカ」ハルノマキに無名で公表されているので、昭和36年12月31日をもって、その著作権の保護期間は消滅している。
 また、P9及び被告音楽著作権協会は、本件歌詞の著作者が原告であることを知りながら、右3の各行為により著作者がP9であると主張して、原告の氏名表示権を侵害したものであるが、右3(一)、(二)の行為により原告が受けた精神的損害は2000万円、右3(三)の行為により原告が受けた精神的損害は1000万円を下らない。
 P9は、本訴提起後の昭和61年3月17日死亡し、被告P1、同P2は各6分の1の限度において、被告P60、同P5は各3分の1の限度においてそれぞれP9の一切の権利義務を相続により承継取得した(以下右被告ら4名を「被告P1ら4名」という。)。
6 よって、原告は、被告らに対し、本件歌詞について著作者人格権及びチューリップ、カミナリサマ、オウマについて併せて著作権の確認、並びに前記不法行為による損害賠償として前記損害金の合計6700万円のうち5832万円の支払いを求める。
二 請求の原因に対する被告P1ら4名の認否及び主張
1(一)(1) 請求の原因1柱書の事実は否認する。
(2) 同1(一)については、第1文の事実及び第2文のうち公募によっては歌詞がなかなか集まらなかったとの事実は認め、その余の事実は知らない。
(3) 同1(二)の事実は知らない。
(4) 同1(三)の事実は否認する。
(5) 同1(四)については、「エホンシヤウカ」ハルノマキが昭和6年12月25日に発行された事実は否認し、その余の事実は認める。
(6) 同1(五)の事実は認める。
(7) 同1(六)第1文の事実は認め、第2文の事実のうち、原告主張の教科書及び雑誌においてチューリップの作曲者をP6と認めているとの事実は認め、その余の事実は否認する。
(8) 同1(七)第1文及び第2文の事実は認め、第3文の事実については、読売新聞に同趣旨の記事が掲載されたことのみを認め、その余の事実は否認する。
(二) 同2の事実は認める。
(三)(1) 同3(一)柱書の事実は否認する。
(2) 同3(一)(1)の事実は知らない。同3(一)(2)については、原告がP9と面談した事実のみを認め、その余の事実は否認する。
(3) 同3(二)(1)、(2)の事実については、原告主張の書籍に原告主張の記載があることは認め、その余の事実は否認する。同3(二)(3)の事実は認める。
(4) 同3(三)の事実は知らない。
(四) 同4の事実は否認する。チューリップ及びコヒノボリの著作物使用料は、すべて著作権者である訴外協会に分配されており、P9は、個人として著作物使用料の分配を受けたことはない。
(五) 同5の事実については、相続に関する事実は認め、その余の事実は否認する。
2(一) P9は、明治30年8月14日出生し、大正10年3月東京音楽学校甲種師範科を卒業後、香川師範学校、赤坂尋常小学校等の教員を歴任、昭和12年8月学習院助教授を経て、同16年4月から同38年3月まで同教授、同40年4月から東邦音楽大学教授を歴任している。
(二) P9は、大正11年5月から東京市赤坂尋常小学校に訓導として在職し、唱歌(専科)を担任していたが、大正11年は、右小学校の創立50周年に当たっていたため、当時右小学校を挙げて創立50周年記念行事に取り組んでいた。P9は、大正11年11月12日挙行された「創立五十年記念式」の式場係の一人に選ばれ、また、翌13日に催された「創立五十年記念童謡大会」にも唱歌担当の教師として、児童の指導に当たり、更に、右小学校から創立50周年式典に際して児童の歌う唱歌の指導を依頼され、「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」(甲第83号証の2記載の楽曲)を作曲した。
(三) P9は、訴外協会設立後間もない大正14年9月、訴外協会の評議員に委嘱され、同時に評議員の互選により理事に指名委嘱され、その後も昭和2年、同4年11月、それぞれ評議員に委嘱され、同協会発行の機関誌「教育音楽」の編集を担当していた。訴外協会は、昭和5年10月ころ、「新時代に適する幼稚園唱歌」と銘打って、一般から歌詞を募集することを計画し、機関誌「教育音楽」の誌上に応募要領を掲載し、コヒノボリ、チューリップ等を含む31の題目について歌詞を公募した。しかし、なかなか適当な良い歌詞が集まらなかったため、P9は、自らいくつかの題目について作詞を試みることにし、コヒノボリとチューリップの作詞をした。P9は、チューリップについては、以前に自分が作曲した「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」を思い出し、これに合わせて作詞をした。なお、P9は、昭和5年5月5日にも次男の誕生祝に際し、右曲に合わせて作詞した経験を有しており、右曲が歌いやすく唱歌に適した曲であると自負し、いつかこの曲に詞を付して広めようと考えていたのである。原告は、後述の四1(二)において、作詞が先に存在して初めて作曲が可能であると主張するが、一般論としてはそうであっても、明治の文明開化以降、外国の曲に日本語の歌詞を付することが数多く行われ、その過程で多くの名曲が生れており、日本においては、作曲したものに作詞をすることは決して珍しいことではない。
(四) コヒノボリは、昭和7年1月初旬ころ、訴外協会発行の「エホンシヤウカ」ハルノマキに掲載され、チューリップは、昭和7年7月18日同協会発行の「エホンシヤウカ」ナツノマキに掲載された。コヒノボリ及びチューリップは、いずれも無名著作物として公表されているが、これは、当時、文部省から教材として使用する著作物については著作者名を表示しないようにとの指導がだされており、これに従ったためである。なお、「エホンシヤウカ」ハルノマキは、その奥付に昭和6年12月25日発行とあるが、実際には、訴外協会の当時の会長P64会長がヨーロッパ旅行中であったため、同会長の帰国後その承認を得て翌年1月初旬ころ公刊されたものである。
(五) チューリップの作詞者、作曲者については、P9とP6との間で争いがあったところ、昭和33年ころから東京音楽学校の同窓会組織である「同声会」有志による調停があり、その結果、P9とP6との間において、昭和36年ころ、チューリップの曲及び詞のいずれも両名の共作であるとの合意が成立した。そのため、P9は、その後は外部に対しても、チューリップの曲及び詞はP6との共作であるとの態度を取り続けた。例えば、昭和56年5月1日主婦の友社発行の「わたしの赤ちゃん」などにもその旨記載させている。しかし、チューリップは、無名著作物であるから、その著作権の保護期間が昭和57年末に終了するため、P9は、そのころ、被告音楽著作権協会に対し、同人が作詞者であるとして、著作権法53条2項の規定による同条1項の適用除外を申請したのである。
(六) 本件においては、原告が本件歌詞を作詞したことを積極的に証明するものは何もない。また、原告は、作詞について専門的な教育を受けたことはなく、それまで作詞の経験も全くないのに、短期間に本件歌詞を作詞し、しかも、それが音楽教育の専門家の集団である訴外協会に選ばれ、その後は現在にいたるまで1曲も作詞していないというのは、不自然である。また、原告は、訴外協会との関係も深く、その親密なつながりの中で、本件歌詞の作詞を依頼された旨主張するが、そうだとすれば、何故原告が作詞をしたとの事実が埋れてしまったのかという疑問が残る。
(七) 原告は、後述四1(一)のとおり、赤坂尋常小学校創立50周年記念式においては、赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌は歌われていない旨主張するが、「創立五十年祝賀ニ関スル記録」によれば、大正11年11月12日挙行された記念式において、右記念式の歌が歌われたことを伺わせる記録がある。また、原告は、後述の四1(三)のとおり、右記念日の歌の楽譜(甲第83号証の1、2)は戦後に偽造されたものであると主張するが、(1)原告が戦前には使用されなかったとする「尋」、「平」、「閲」等の字については、当時から使用されていたものであり(乙第1号証、甲第86号証の1参照)、原告は、活字体と筆記体による場合とを混同している。また、「学」の字の略字についても、当時から略字が使用されていたのである(甲第86号証の2参照)。更に、「澄宮」の「澄」の字の誤記、2字目の「萬」の字を略した記載が不敬罪に当たるというのは、何を根拠とするのか不明である。(2)原告は、戦前は「作詞」という言葉を使用しなかったと主張するが、全く使用しなかったという事実はない(甲第16号証参照)。(3)原告は、「V」記号は休止符号であり、ここで息を止めれば、歌を歌うことは不可能であると主張するが、右の記号は、息つぎ(ブレス)記号であって、休止符号とは、はっきり区別される。したがって、右の記号のところで息をつぐもので、息を止めてしまうものではない。息つぎは、歌唱表現上の記号であり、旋律の流れとして必然的な息つぎである。(4)原告は、「記念日」も「ん」が発音できず、「きねび」となってしまうと主張するが、1音1語が原則であっても、このような簡単な曲では、そこまで正確に楽譜を書くとかえって繁雑になるし、この程度のことは、演奏者に任されるものなのである。また、原告が主張するように、「すみのみ」と「やさま」に分裂してしまうことはない。なぜなら、旋律の構成は、2小節が一つのフレーズ(まとまり)をなしているからで、「すみのみやさま」が一息に2小節の中で歌われるのである。(5)原告が主張するような1番カタカナ、2番ひらがなという記載例が絶対的なものではないことは、甲第92号証の5の記載例からも明らかである。(6)右楽譜について千葉地方裁判所昭和58年・ワ第558号、第1102号事件において提出された鑑定書によれば、同楽譜の原本にある「記念の思出 P16」との書込みがP16の筆跡であることが認められている。
3 訴外協会は、昭和5年11月発行の機関誌「教育音楽」誌上で、同記載の募集要領に基づいて、チューリップ、コヒノボリ等の題目について歌詞を公募したのであるが、同募集要領には、「当選歌の版権は本会の所有とす」と記載されているのであるから、仮に原告が本件歌詞を著作したものであるとしても、本件歌詞の著作権は、訴外協会に帰属している。なお、原告は、訴外協会の理事のP17から、原告の父P15を介して依頼を受け本件歌詞を作歌した旨主張するが、本件歌詞のすべてが、右「教育音楽」において募集された歌詞の題目に含まれていることからみて、原告は、訴外協会の募集に応じ、本件歌詞を作歌して訴外協会に提供したものと解すべきである。
三 請求の原因に対する被告音楽著作権協会の認否及び主張
1(一)(1) 同1柱書の事実は知らない。
(2) 同1(一)第1文の事実については、幼稚園唱歌研究部の存在は知らないが、その余の事実は認める。
 同1(一)のその余の事実は知らない。
(3) 同1(四)の事実については、「エホンシヤウカ」ハルノマキが昭和6年12月25日に発行された事実は否認し、その余の事実は認める。
(4) 同1(五)の事実は知らない。
(二) 同2の事実は認める。
(三)(1) 同3(一)の柱書の事実は否認する。
(2) 同3(一)(1)の事実については、原告が原告主張のころ被告音楽著作権協会を訪問した事実は認め、原告が原告主張の赤旗紙上に原告主張の事実を公表したとの事実及びP6からの助言の事実については知らない。その余の事実は否認する。同3(一)(2)の事実のうち、P9との応対に関する事実については知らない。その余の事実は否認する。
(3) 同3(二)(1)、(2)の事実は知らない。
(4) 同3(三)の事実は否認する。
(四) 同4の事実は否認する。
(五) 同5第1段、第2段の事実は否認する。
2 被告音楽著作権協会は、昭和25年10月20日、訴外協会から本件歌詞について著作権信託の申込を受けた。訴外協会は、本件歌詞は、いずれも「エホンシヤウカ」ハルノマキ又はナツノマキに掲載されているが、これらは訴外協会が著作権取得を条件とする募集に応募した作品であり、その著作権は訴外協会にある旨届け出た。被告音楽著作権協会は、右の届出に基づき、本件歌詞についてその後管理を始めた。「エホンシヤウカ」ハルノマキは、昭和7年2月に、同ナツノマキは、同年7月にそれぞれ発行され、本件歌詞は、いずれも無名著作物として公表されたので、昭和57年12月31日の経過によりその著作権は消滅すべきものであったが、P9は、チューリップについては、昭和56年5月1日主婦の友社発行の「わたしの赤ちゃん」5月号に、コヒノボリについては、昭和56年8月1日音楽之友社のP9先生顕彰碑建立記念誌「こいのぼり」にそれぞれ自分が作詞者である旨公表し、その後、被告音楽著作権協会に対し、右公表をしたこと及び右2曲の歌詞の著作者であることを届け出た。そのため、被告音楽著作権協会は、本件歌詞のうち、チューリップ及びコヒノボリについては、現に著作権があるものとしてこれを管理しているが、本件歌詞のうち右2曲以外のものは、著作権が消滅しているので、これを管理していない。また、被告音楽著作権協会は、右の経緯でコヒノボリ及びチューリップの作詞者をP9としたものであり、この措置は、原告が本件歌詞の著作者であることが確定されていない段階においてなされたものであって、原告に対する不法行為を構成するものではない。
3 原告が昭和45年6月5日に被告音楽著作権協会を訪問した際に、被告音楽著作権協会の職員が原告に対してした説明の要旨は、(1)原告は、本件歌詞を作詞した旨説明するが、被告音楽著作権協会は、前2の経緯によって、訴外協会が著作権を有する著作物として管理しているのである、(2)原告が本件歌詞の著作権を有しないとしても、著作権法上の実名登録をすることは可能であり、その手続は、文化庁著作権課で取り扱っている、(3)原告が右の実名登録をしても、被告音楽著作権協会は、原告から著作権の信託を受けることはできない、(4)訴外協会が本件歌詞についての著作権を原告に移転すれば、被告音楽著作権協会は、原告からの信託申込を受け付けることができる、というものである。なお、被告音楽著作権協会の職員は、同日、原告に対し、信託申込に必要な用紙類を交付しているが、これは、前記説明の趣旨に基づくものである。また、被告音楽著作権協会の職員は、原告からの依頼により、訴外協会の会長であるP9に問い合せ、同人との面会の日時、場所を原告に連絡しているが、原告とP9との会談の内容については一切知らない。被告音楽著作権協会は、真実の著作者を判定する立場にないので、被告音楽著作権協会の会員ではない原告に対し、著作物の作成経緯を調査するために出頭するように指示するはずはない。
4(一) 原告は、訴外協会の機関誌の編集責任者であったP17から原告の父P15に作歌の依頼があり、父の命を受けて、本件歌詞を作歌した旨主張するが、そうであれば、原告が本件歌詞を作歌したことをP17が知らないはずはなく、そして、同人が知っていたとすれば、「エホンシヤウカ」の編纂会議の席上で本件歌詞の作詞者として原告の名前が話題にならなかったはずはない。しかし、当時訴外協会の理事であったP6及び同協会の理事であり、「エホンシヤウカ」の編簒委員でもあったP7は、原告の名前を聞いていなかったというのであるから、原告の主張の真実性には多大の疑問がある。
(二) 原告は、原告本人尋問において、「チューリップは、当時小学校1年生の読本の冒頭が、サイタ サイタ サクラガサイタであったので、これを下敷にした」旨陳述しながら、その後、チューリップは、昭和8年から教科書として採用されたいわゆる「サクラ読本」のもととなった資料をみて作詞したものであると主張している。しかし、昭和8年4月から採用された小学校の教科書の内容を、同6年当時既に資料によって知っていたということは、極めて特異な事柄に属するものであるから、原告が本人尋問に際し、これを全く忘却していたということは理解しがたい。したがって、原告本人尋問の陳述内容の真実性も疑問である。
5(一) 被告P1ら4名の主張3を援用する。
(二) 仮に、右(一)の主張が認められないとしても、訴外協会は、チューリップ及びコヒノボリについては、その公表時から同協会が著作権を有する著作物として管理し、被告音楽著作権協会にその管理を信託した後も、著作権者として著作物使用料の分配を受けていたものであるから、少なくともその公表時から20年を経過した時点において、その著作権を時効により取得している。
四 被告らの主張に対する原告の反論
1 被告P1ら4名の主張2について
(一) P9は、次に述べるとおり、大正11年に「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」を作曲していない。すなわち、現在港区立赤坂小学校に保存されている記録には、「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」のガリ版刷は存しない。また、赤坂尋常小学校が大正7年に増改築された当時発行された記念誌には、記念の歌が掲載されているにもかかわらず、赤坂尋常小学校の「開校五十年記念誌」には、右記念日の歌が記載されていない。更に、赤坂尋常小学校の「創立五十年祝賀ニ関スル記録」にも、右記念日の歌がP16によって歌われたとの記録もないし、その後、赤坂尋常小学校で大正11年11月13日開催された童謡大会で右記念日の歌が歌われたとの記録もない。
(二) 被告P1ら4名は、P9が、赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌に合わせてチューリップを作詞した旨主張するが、一般に、童謡や歌謡曲の場合、作詞が先に存在して初めて作曲が可能であり、作曲されたものに作詞するとは考えられない。
(三) 赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌の楽譜(甲第83号証の1、2)は、次に述べるとおり、戦後偽造されたものである。すなわち、(1)「尋常小学校」について「尋」の文字を用いているが、戦前は「[尋]」と書いたはずであり、「学」の字も、昭和21年11月16日内閣告示第32号当用漢字表で初めて認められた字であって、戦前は全く使用されていなかったものである。また、「校閲」の「閲」も、戦前は「[閲](正字体)」と書き「P9」の「○」も、戦前は「[●]」と書いたはずである。更に、「澄宮殿下」の「澄」の字を誤記したり、「萬々歳」と「萬」の字を略して記載することは、戦前では不敬罪にも該当する事案である。また、澄宮殿下は、大正11年11月13日に赤坂尋常小学校を訪問されているのに、この楽譜には「大正十一年十一月十一日本校にお成りになられます。」と誤った記載がされている。(2)また、戦前は、この楽譜のように「作詞」という言葉を使用することは全くなく、「作歌」、「歌」、「謠」、まれに「作詩」という言葉が使用されていたのである。(3)楽譜中、「V」の記号が記載されているが、これは休止符号であるから、ここで息を止めれば、歌を歌うことは不可能である。また、「今日は」という文句は、音符どおり歌うと、「協和」と発音せざるをえず、「記念日」も「ん」が発音できずに「きねび」となり、「澄宮様」も「すみのみ」と「やさま」に分裂してしまう等、詞と曲が合わず、後日、曲に詞を強引に挿入したとしか考えられないものである。(4)この楽譜の歌詞は、2番、3番がひらがなで記載されているが、戦前は慣習として、1番をカタカナ、2番をひらがな、3番をカタカナの順序で記載し、読み違えのないように配慮されていたのであって、ひらがなで記載するのは戦後のことである。以上によれば、この楽譜が戦後に偽造されたものであることは、明らかである。
2 被告P1ら4名の主張3及び被告音楽著作権協会の主張5(一)について
 原告は、作詞の専門家である原告の父P15が訴外協会の理事であるP17から依頼されたために、父から命じられて本件歌詞を作歌したものであって、訴外協会の一般公募のことは全く知らないで本件歌詞を作歌したものであるから、このような場合、原告については、一般公募の条件は適用されず、本件歌詞の著作権は、専門家として作歌した原告に帰属するというべきである。
第3 証拠関係
 本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由
一 本件歌詞の著作者について
1 請求の原因1(一)の第1文の事実は、幼稚園唱歌研究部の存在の点を除き、当事者間に争いがなく、右事実と原本の存在及び成立に争いのない甲第1ないし第11号証、第13号証、第92号証の1ないし5によれば、次の事実が認められる。
 訴外協会は、大正11年に設立され、翌年1月から機関誌「教育音楽」を毎月発行するとともに、全国の音楽教育関係者に新しい唱歌教材を提供しようと計画していたが、昭和5年6月には、同協会に幼稚園唱歌研究部を設置し、翌7月には、同協会の理事P17ほか9名を幼稚園唱歌研究部委員に委嘱し、同年11月1日発行の機関誌「教育音楽」において、同研究部委員会が選択したチュウリップ、こひのぼり、てふてふ、おうま、たんぽぽ、かみなりさま、おかあさん、あかちゃん及びおたんじょうび等の31の歌題について、幼稚園唱歌歌詞を募集した。この幼稚園唱歌歌詞の募集に対しては、幼児教育の関係者を中心に応募があり、同年11月中に応募歌詞70句が集まった。応募歌詞については、幼稚園唱歌研究部の委員が審査をし、修正を加え、当初は約20篇の歌詞ができあがり、その後再募集して更に10篇の歌詞を得、残りの10篇を専門家に委嘱して、昭和6年9月下旬には幼稚園唱歌の歌詞についての審査をほぼ終了し、合計40篇の歌詞ができあがった。作曲については、同年7月から作業に着手し、同年11月には40歌曲全部についての選定が終了し、この40歌曲は、「エホンシヤウカ」ハルノマキ、ナツノマキ、アキノマキ、フユノマキにおいて公表されることになった。昭和7年1月1日発行(同6年12月25日印刷)の「教育音楽」10巻1号にその宣伝広告が掲載されている「エホンシヤウカ」ハルノマキ(訴外協会編纂、同6年12月末公刊予定)において、本件歌詞のうち、テフテフ、タンポポ、コヒノボリが、作詞者、作曲者を明記せずに無名著作物として公表され、また、その後昭和7年7月に公刊された「エホンシヤウカ」ナツノマキ(訴外協会編纂)において、本件歌詞のうち、チューリップ、カミナリサマ、オウマが、同じく作詞者、作曲者を明記せずに無名著作物として公表された。
2 原告は、訴外協会の理事P17は、昭和6年8月末か9月初めころ、原告の父P15に対し、10篇の題目について作歌を依頼し、父P15は、長女である原告にその作歌を命じ、原告は、それから1か月の期間内に本件歌詞を作歌した旨主張し、これに対して、被告P1ら4名は、P9は、昭和5、6年当時、訴外協会の理事及び評議員であったところ、幼稚園唱歌について、適当な良い歌詞が集まらなかったため、自らコヒノボリ及びチューリップを作詞作曲した旨主張するので、以下この点について判断する。
(一) まず、原告の右主張に関連する事実及び証拠について検討する。
(1) 前掲甲第5号証、原本の存在及び成立に争いのない甲第12号証、第14号証、成立に争いのない甲第57号証、第63号証、第134号証、第140号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第128号証の1、2、第129号証の1ないし3、第130号証並びに原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。
 原告の父P15は、昭和6年当時は、東京帝国大学文学部国文科の主任教授であった。一方、P17は、訴外協会が大正11年に設立されたころから、同協会の理事であり、昭和9年には同協会の理事長に選任されるなど、昭和6年当時、訴外協会の中心人物の一人であり、また、幼稚園唱歌研究部の委員でもあったが、同人が大正3年に発行した「音程教本」の別冊である「音程教本伴奏譜」、同4年に発行した「師範学校楽典教本」、「高等女学校楽典教本」、同5年に発行した「尋常小学唱歌教授提要」、同6年に発行した「三重唱歌教本」、同7年に発行した「単唱歌教本」、「二重唱歌教本」などは、いずれもP15の作歌により、共益商社書店により出版したものであって、このように、P17は、P15に作歌を依頼することが多かった。また、原告の母P47とP17は、東京音楽学校の同期生であり、P17の妻はその1期下であること、更に、P17が武蔵野音楽学校を創立した際には、P15、P47夫婦が物心両面にわたってこれを援助していることにもみられるとおり、当時、P17家とP15家とは、家族ぐるみの親しい交際をしていた。なお、原告の父P15は、昭和7年11月には、訴外協会において、「新高等小学唱歌の歌詞に就て」と題してP17とともに講演をしており、更に、原告の夫P48は、当時東京音楽学校の講師であったが、昭和6年5月、10月、同年12月の3回にわたって、訴外協会において、「新尋常小学唱歌の歌詞について」、「新尋常小学唱歌第五・六学年歌詞の説明」と題して講演をしており、また、同じく同年12月には、「新幼稚園唱歌の歌詞について」と題して講演をしており、原告の父及び夫は、訴外協会とも密接な関係を有していた。
(2) 成立に争いのない甲第131号証、第132号証、第133号証の1、2、第142号証及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第121号証並びに原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。
 原告は、明治34年11月30日、父P15、母P47の長女として出生し、大正13年に東京府立第3高等女学校を卒業後、同校の高等科で2年間文学を学び、その後は、父P15の秘書のような仕事をして、父P15から作歌の指導を受け、また、その傍ら、ポトナムという短歌雑誌に短歌を寄稿していたが、昭和6年4月には、当時東京音楽学校の講師であったP48と結婚した。原告の父P15は、東京帝国大学の文学部国文科の教授であり、国文学、国語教育の指導的立場にあり、文部省の各種国語審議会委員や検定委員をしていた。また、原告の母は、東京音楽学校の師範科を卒業後、東京府立第3高等女学校の音楽の教師等の経歴を有していた。このように、原告の家庭環境は、本件歌詞の作詞をするのにふさわしいものであったし、殊に、原告は、父の仕事を秘書として手伝うことにより、作詞についての訓練も受けていた。なお、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」ではじまる「小学国語読本」巻1(サクラ読本)は、昭和8年4月に刊行されたが、もともとは、同7年4月に刊行を予定して、同6年からその準備を進めていたものの、原案の仮名遣いを歴史的仮名遣いに変更せざるをえなかったため、その刊行が1年遅れたものであるところ、同6年当時、原告の父P15は、サクラ読本の作成作業を進めていた文部省の官僚のP63、P11らから相談を受けることが多く、自宅には、サクラ読本の原稿等の資料があったので、P15の秘書をしていた原告は、チューリップの作歌に利用したというそれらの原稿等の資料に目を通す機会を十分に有していた。
(3) 原告本人尋問の結果及び前掲甲第121号証(原告作成の報告書)及び成立に争いのない甲第141号証(原告代理人加藤文也作成の原告の供述の聴取書)〈「に」が脱落?〉よれば、原告は、「原告は、訴外協会の理事P17から依頼を受けた父に命じられて本件歌詞を含む10篇位の歌詞を作歌して、訴外協会にこれを託し、本件歌詞が訴外協会に採用されたのであるが、本件歌詞の作歌に当たっては、当時文学少女であったため、文芸的になりがちになるのを抑えて、ごく子供らしく平明に簡単にということを基本として、作歌をした。
イ チューリップは、当時自宅にあったサクラ読本の資料をみて、その冒頭が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まっていたので、幼稚園唱歌の方は「サイタ サイタ チューリップガ サイタ」でいいんじゃないかと思った。また、チューリップの歌詞の「ドノ ハナ ミテ モ キレイ ダ ナ」は、赤も白も黄色もそれぞれの美しさ、良さがあるという意味であって、これは、何事においてもそれぞれにいいものがあり、弱いものや強いものにもそれぞれのいいところを見て過ごそうという自分の人生の基本的な考え方、殊に、弱いものには目を配りたいという気持ちに基づくものであった。ロ テフテフは、当時原告がよく歌っていた落花散る花という歌を下敷にして作歌した。落花散る花というのは、ヒラリ ヒラリ チラリ ヒラヒラヒラト カゼニチリクル ハナ オトナク シズカニ コケニ チルシク ハナ ウツクシ カグワシという歌であったと思うが、その歌を下敷にして作った記憶がある。ハ オウマについては、原告の子供時代の家が千駄ヶ谷にあって、その隣家の陸軍の官舎に馬小屋があり、原告がしょっちゅう馬をなでたりして遊んでいたことと、この軍人さんのお馬が非常によく手入れをされ、可愛がられて、さっそうと毎朝出かけるのに対し、同じく千駄ヶ谷にあった馬車屋の馬は、重い荷物を引かされたうえに、鞭で打たれているのが、非常に子供心に残り、それを歌の中で対比してみたのである。したがって、オウマの歌詞の中で「ヘイタイサンノ オウマハ」となっているのは、実際は軍人さんのお馬のことである。ニ タンポポについては、当時の千駄ヶ谷は、現在の千駄ヶ谷の駅の前の道路が全部野原であり、そこに敷き詰めたようにタンポポやクローバの花がいっぱい咲いていて、子供時代にそこでよく遊んだが、タンポポの白い綿毛を持って走ると飛んでしまうのがとても印象的な遊びであったので、そこを踏まえて、「タンポポ ノ ワタゲ シロクテ カルイ」と作歌した記憶がある。ホ コヒノボリについては、当時のコイノボリは、プラスチックがなく桧の丸太で揚げたので、2階の屋根より高いということはなかったし、また、ずっと以前は大きいマゴヒと大きいヒゴヒであったのに、次第に小さいヒゴヒがつくようになり、さっそうとした5月の風物詩としてのコヒノボリに小さいコヒがついてから大変可愛らしい印象になり、親子が楽しそうに翻っているのが何ともいえず愛らしいという印象を持ち、それを当初は「大空高いコヒノボリ(又は、青空高いコヒノボリ)大きいマゴヒはお父さん、小さいヒゴヒは子供たち、面白そうに泳いでる(又は、気持良さそうに泳いでる)」と作歌した記憶がある。そして、それについて、当時編集部員をしていたP8が「オオゾラタカク」となっていたのを「ヤネヨリタカク」に直して欲しいといってきた。当初の自分のイメージとは異なっていると思ったが、子供の発想としてはいいんじゃないかなという印象を持った。また、P8は、オホキイマゴヒとチヒサイヒゴヒをオホキイコヒとチヒサイコヒに直したいといってきたが、原告は、当初の歌詞どおりマゴヒとヒゴヒとし、その後、小さい子に分かるかしらと思って、はっとした記憶がある。ヘ カミナリサマについては、先に題名を出して、その後から大雨が来るというようなイメージを浮かべながら作歌をした記憶がある。ト 原告の夫P48は、昭和6年12月、訴外協会に講演に行った帰りに、原告が本件歌詞ほか数篇を作歌したお礼として、200円をもらってきたことがある。原告は、そのことについては、200円という金額が大変多額であったことと、お礼の封筒に「P48令夫人殿」と記載してあり、まだ結婚して間もないころに「令夫人」と言われたのは初めてであったせいもあって、よく覚えている。」旨述べていることが認められるところ、右供述は、具体的かつ詳細なその供述内容に照し、全体として信憑性の高いものということができる。なお、原告は、チューリップについて、原告本人尋問の結果においては、当時の小学校1年生の読本の冒頭が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まるのを見て、チューリップを作歌した旨述べ、その後前イのとおり訂正しているが、前認定のとおり、当時P15家には、父P15の仕事の関係上、サクラ読本の原稿等の資料があり、それに原告が目を通していたとしても、少しもおかしくはない状況であったこと、及び、50年以上も前のできごとを正確に記憶していることは極めて困難であり、かえって、原告が当初原告本人尋問の結果のように述べ、その後、サクラ読本の発行年月日が昭和8年4月であったことから、前イのように供述の細目を変更しながらも、サクラ読本からそのイメージを得たとの供述の大筋は維持していることからすれば、原告が右のように供述の細目を変更した経緯は、むしろ、原告が当初から自己の記憶を追ってこれを忠実に述べようとしていることを推認させるものである。
(二) 次いで、被告P1ら4名の主張に関連する事実について検討する。
(1) 原本の存在及び成立に争いのない甲第15号証ないし第18号証によれば、P9は、雑誌「学校音楽」の昭和13年5月号、同年11月号、同14年5月号、同15年5月号において、「幼稚園五月の音楽指導」、「幼稚園十一月の音楽指導」と題する解説の中で、コヒノボリほか数曲について説明をしているが、コヒノボリ以外の曲については、作詞者が判明しているものについて作詞者を明記しているのに対し、コヒノボリについては、その説明のいずれにおいても、コヒノボリの作詞者、作曲者が自分であるとも、他の第三者であるとも主張しておらず、かえって、この歌詞は、明治34年7月25日共益商社書店発行、P71編輯の「幼稚園唱歌」の中にある「鯉幟」に影響されたものかも知れないと思う旨述べていることが認められ、右認定の事実によると、P9は、コヒノボリは自分以外の者の作詞であるが、その作詞者が誰であるかについては自らは知らないことを前提にしてその説明をしているのである。また、原本の存在及び成立に争いのない甲第28号証によれば、P9が代表編集人となっている昭和31年5月1日発行の雑誌「教育音楽」において、P9は、「全学年音楽資料室」と題する解説の中で、コヒノボリについて「えほん唱歌より、P9編曲」と記載しており、ここで初めてP9編曲としているものの、P9作詞、作曲とはしていないことが認められる。更に、成立に争いのない甲第65号証によれば、P9は、コヒノボリの著作者が原告かP9かについて取上げた昭和58年5月5日の読売新聞の記事において、「コヒノボリは一般から募集した歌詞に手を加え私が作ったもの」と述べていることが認められ、右認定の事実によると、P9は、この段階においても、コヒノボリが一般から募集された歌詞に基づくものであるとし、自らが作詞したとはしていないのである。更にまた、成立に争いのない甲第32号証、第34、第35号証、第37号証によれば、昭和29年大日本雄弁会講談社発行の教科書「しょうがくのおんがくT」においてコヒノボリの作詞作曲が「えほんしょうかから」とされ、また、昭和42年音楽之友社発行の教科書「新訂おんがく1ねん」において、コヒノボリの作詞作曲が「絵本唱歌」とされ、同じく昭和49年音楽之友社発行の教科書「改定新版しょうがくせいのおんがく1」にも同様の記載があること、また、昭和37年株式会社野ばら社(以下「野ばら社」という。)発行の童謡集「こどものうた」において、コヒノボリの作詞作曲が訴外協会とされており、そのいずれにおいてもコヒノボリについてP9作詞、作曲との記載はないこと、以上の事実が認められる。
(2) 原本の存在及び成立に争いのない甲第19号証、第21、第22号証、第27号証、第29号証によれば、P9が編集人となっている昭和26年5月1日音楽之友社発行の訴外協会の機関誌「教育音楽」掲載のP65の「小学一年五月の音楽指導」と題する解説において、チューリップについて「だれかのうた、いのうえたけしきょく」と記載されており、また、P9が代表編集人となっている同29年4月1日発行の同誌のP66の「教材解説、四月の音楽指導」と題する解説、及び同31年4月1日発行の同誌のP36の「小学一年音楽資料室」と題する解説において、チューリップについて「作詞不明、作曲P6」と記述され、更に、同じくP9が代表編集人となっている同33年8月1日発行の同誌のP36の「唱歌戸籍調べ」と題する解説においても、チューリップの作曲はP6と記載されており、なお、同じくP9が代表編集人となっている同29年9月1日発行の同誌において、P6が、「ごまめのはぎしり」と題する随筆の中で、チューリップは自らが作曲したものである旨公表していることが認められる。また、原本の存在及び成立に争いのない甲第30号証、成立に争いのない甲第31号証、第33号証によれば、昭和34年4月1日音楽之友社発行の訴外協会の機関誌「教育音楽」において、P9自身が、「第一学年の音楽指導資料」と題する解説の中で、チューリッブについて文部省作詞、P6作曲と記載し、また、P9が編集人の一人となっている昭和26年及び同33年音楽之友社発行の教科書「おんがく しょうがく 一ねんせい」及び「改定版しょうがくせいのおんがく1」において、チューリップについて作詞者不明、作曲者P6と記載していることが認められる。更に、前掲甲第32号証、第34、第35号証及び第37号証並びに成立に争いのない甲第36号証、第39号証によれば、昭和29年株式会社大日本雄弁会講談社発行の教科書「しょうがくのおんがくT」、昭和33年12月20日株式会社岩波書店発行の岩波文庫、P61、P6編「日本唱歌集」、昭和42年音楽之友社発行の教科書「新訂おんがく1ねん」、昭和49年同社発行の教科書「改定新版しょうがくせいのおんがく1」及び昭和43年12月10日同社発行の「P6作曲集」において、チューリップについて「作詞者不明、P6作曲」とされ、また、昭和37年野ばら社発行の童謡集「こどものうた」において、チューリップについて作詞訴外協会、作曲P6とされていることが認められる。そして、成立に争いのない甲第40号証、第43号証及び第46号証によれば、昭和45年5月7日発行の赤旗において、原告がチューリップとコヒノボリの作詞者であるとの紹介記事が掲載され、その後、昭和45年8月1日実業之日本社発行のP61著「定本日本の唱歌」及び昭和54年5月14日株式会社全音楽譜出版社発行の「こどものうた1」において、チューリップについて作詞者P58(原告)、作曲者P6とされていることが認められる。なお、これに対して、成立に争いのない甲第66号証の1ないし4によれば、昭和56年5月1日主婦の友社発行の雑誌「わたしの赤ちゃん」において、チューリップについてP9及びP6共作と記載されていることが認められる。
(3) 原本の存在及び成立に争いのない甲第88号証ないし第91号証、第106号証ないし第112号証、原告と被告音楽著作権協会との間において原本の存在及び成立に争いがなく、右事実及び弁論の全趣旨により原告とその余の被告らとの間においても原本の存在及び成立が認められる甲第113号証によれば、次の事実が認められる。
 被告音楽著作権協会は、昭和52年11月9日、訴外協会に対し、同協会からの照会について、無名著作物として公表されたもののうち、昭和6年に公表されたものは、昭和36年に著作権が消滅し、昭和7年に公表されたものは、昭和57年に著作権が消滅すること、及び、無名著作物は、著作権存続期間内に著作者名を表示して公表したときは、その著作者のものとして著作権が存続するので、訴外協会が著作者に関する資料を所持する場合は、これを被告音楽著作権協会に提出するようにと説明したところ、当時P9が会長を務めていた訴外協会は、被告音楽著作権協会に対し、京浜女子大学教授P50作成の昭和52年11月17日付の「チューリップの作詞者はP26、作曲者はP6(原曲P9)、コヒノボリの作詞者はP19、作曲者はP9である。」旨記載された証明書を提出し、これに対して、被告音楽著作権協会は、同月30日、訴外協会に対し、右の証明書を採用することには問題がある旨回答した。訴外協会は、同年12月17日、被告音楽著作権協会に対し、エホンシヤウカその他の児童唱歌について、作詞者及び作曲者に関する報告書を提出し、その中で、「コヒノボリの作詞者は代表P19、P26、P37、作曲者はP9、チューリップの作詞者は代表P26、P9、P67、作曲者はP9原作、P6編曲である。」旨の報告をしたところ、被告音楽著作権協会は、同月12月21日、右報告の内容の信憑性について疑いを持たざるをえないので、資料を再提出するようにと返答した。訴外協会は、右返答を受けて、昭和53年2月8日、再び報告書を提出し、その中で、「コヒノボリの作詞者及び作曲者はいずれもP9、チューリップの作詞者はP26、P9、P67、作曲者はP9原作、P6編曲である。」旨報告したが、被告音楽著作権協会は、同年2月17日、訴外協会に対し、右報告では不備である旨を重ねて通知した。訴外協会は、更に、昭和54年5月12日の総会で、チューリップはP9、P6の合作であり、コヒノボリは作詞、作曲ともにP9であると決議し、同年6月9日、被告音楽著作権協会に対し、右決議内容を報告したが、被告音楽著作権協会は、同月18日、チューリップ及びコヒノボリの著作者を訴外協会の内部の手続のみによって決定することには法律上の問題がある旨返答した。その後、被告音楽著作権協会は、昭和57年9月1日、訴外協会に対し、「エホンシヤウカ」ハルノマキ、ナツノマキ、アキノマキ、フユノマキにおいて無名著作物として公表された本件歌詞を含む38の楽曲について、同年末をもって著作権の保護期間が満了し、著作権が消滅すること、及び、訴外協会が著作権を有する楽曲は、大半が無名著作物で占められており、その著作者について信憑性のある資料が提出されないまま今日に至っているので、著作権法52条2項の規定に該当する著作者の有無を再度点検、確認すべきこと、そして、今回著作権が消滅する楽曲の中には、極めて使用頻度の高いコヒノボリ及びチューリップが含まれていることを通知し、更に、被告音楽著作権協会は、昭和57年11月29日にも、訴外協会に対し、再度同旨の通知をし、著作権が消滅する前に、慎重かつ十分な調査をするように催促をした。これに対して、訴外協会は、当時もP9が会長であったが、同年12月27日、P9個人と連名で、「チューリップの著作者は、実際は、作詞、作曲ともにP9であるが、東京音楽学校の同窓会である同声会の調停により、作詞、作曲ともにP9とP6の共作であるとすることになっており、昭和56年には主婦の友社発行の「わたしの赤ちゃん5月号」に、P9、P6共作として発表したので、そのように取り扱ってほしい。」旨の文書を提出した。被告音楽著作権協会は、昭和58年2月28日、訴外協会、P9及び訴外P57に対し、右の文書及び訴外P57の昭和57年12月30日付文書に基づき検討した結果、チューリップの著作権の帰属については疑義があると認め、その疑義が解消されるまでの間、チューリップの作詞をP9、作曲をP6として第三者に許諾することとし、かつ、徴収した使用料の分配を保留することとする決定をした旨を通知した。
(4) 右(1)及び(3)によれば、P9は、昭和13年ないし同15年及び同31年ころに、コヒノボリを含む児童唱歌の作詞者、作曲者について記述する機会があり、現に、作詞者が判明している楽曲については作詞者を明記していたにもかかわらず、コヒノボリについては、いずれの機会にも自分が作詞者、作曲者であると記述していないばかりか、かえって、他人の作詞、作曲に係るものであることを前提とした解説をしているのであり、また、訴外協会の会長の地位にありながら、昭和52年11月から同57年12月末にかけて、被告音楽著作権協会から、エホンシヤウカに掲載された楽曲について、無名著作物として著作権の保護期間が満了するため、その著作者を明らかにするように求められたにもかかわらず、コヒノボリの作詞者について、当初はP19、次に代表P19、P26、P37とし、最後にようやくP9としているのであり、更に、本件の問題が生じている昭和58年5月の段階においても、コヒノボリが一般から募集された歌詞であることを認めるかのような発言をしているところ、仮にP9がコヒノボリの作詞者であるとすれば、右のような一連の言動を採るということは経験則上到底考えられず、したがって、P9の右の言動からすれば、コヒノボリについての作詞者をP9と認めることは到底困難であるというべきである。かえって、右(1)及び(3)によれば、P9が被告音楽著作権協会に対し、最後に自分がコヒノボリの作詞、作曲者である旨報告したのは、専ら、訴外協会の財源として重要であったコヒノボリの著作権を更に存続させ、その著作物使用料を訴外協会に帰属させることを目的としてなされたものと推認するに難くないほどである。
 また、右(2)及び(3)によれば、P9は、昭和26年、同29年、同30年、同31年ころに、自分が編集人となっている音楽の教科書及び雑誌において、チューリップについて「作詞不明、作曲P6」と記述されているにもかかわらず、何らこれに異議を唱えておらず、また、昭和34年には、自ら「第一学年の音楽指導資料」と題する解説の中で、チューリップについて「文部省作詞、P6作曲」と記述しているのであり、しかも、訴外協会の会長の地位にありながら、昭和52年11月から同57年12月末にかけて、被告音楽著作権協会から、エホンシヤウカに掲載された楽曲について、無名著作物として著作権の保護期間が満了するため、その著作者を明らかにするように求められたにもかかわらず、チューリップの作詞者について、当初はP26、次に代表P26、P9、P67とし、最後に実際はP9であるが、同声会の調停により、P9とP6の共作として取り扱ってほしい旨要望しているものであるところ、仮にP9がチューリップの作詞者であるとすれば、右のような一連の言動を採るということは経験則上到底考えられず、したがって、P9の右の言動からすれば、チューリップについての作詞者をP9と認めることは到底困難であるというべきである。なお、被告P1ら4名は、P9は、大正11年に赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌を作曲し、訴外協会が昭和5年に幼稚園唱歌を公募した際に、その曲をもとにチューリップを作詞したものである旨主張し、原本の存在及び成立に争いのない甲第83号証の1、2、前掲甲第92号証の1ないし5によれば、右の50周年記念日の歌の楽譜とチューリップの楽譜とは、1か所を除いて同じであり、また、その相違する点も、前者がミ(ヘ長調)の8分音符が二つ続いているのに対し、後者がミの4分音符一つとなっているだけの差があるにすぎず、全体として同一性のある楽曲と認められるのであるが、第1に、仮にP9が、右の50周年記念日の歌を大正11年に作曲したものであるとしても、右事実から同人が昭和5年ないし6年にチューリップの作詞をしたことを直接推定しうるわけではなく、むしろ、右の(2)及び(3)の事実に照らせば、P9がチューリップの作詞をしたとの事実を認めることが極めて困難であることは、前述のとおりである。また、第2に、前掲甲第83号証の1、2及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第8号証によれば、赤坂尋常小学校創立50年記念日の歌との題が記載されている表紙とその楽譜(甲第83号証の1、2。以下「本件楽譜」という。)が、ガリ版刷りで相当数印刷されており、そして、その楽譜に書き込まれている「記念の思出 P16」との部分が、右P16により真正に署名されたものであることが認められるが、一方、右乙第8号証によっても、本件楽譜が実際に印刷された時期を現時点で認定することは困難であることが認められ、更に、右甲第83号証の1、2及び原本の存在及び成立に争いのない甲第85、第86号証の各1、2によれば、本件楽譜においては、「澄宮様」の「澄」という文字が「〔澄〕」と不正確に記載されていること、「尋常小学校」の「尋」と「学」の文字が旧字体の「[尋]」、「學」と記載されていないこと、及び、赤坂尋常小学校において大正11年11月13日に開かれた創立50年記念童謡童話大会においては、赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌は歌われておらず、また、同年11月12日に同小学校において開かれた創立50年記念式の式次第においては、唱歌(記念式)との記載はあるが、右の記載が右の創立50周年記念日の歌の唱歌を意味しているか否か明らかでないこと、以上の事実が認められ、更に、仮にP9がチューリップを作曲していたのであれば、P9が編集人又は代表編集人となっている前記(2)の雑誌、教科書及びP9自身の解説等において、チューリップの作曲者をP6と記載することは、一般的に考えにくいことであり、以上の事情を総合すると、本件楽譜が大正5年に印刷されていたとの事実についても、多大の疑念をさしはさまざるをえないものであり、したがって、被告P1ら4名の右主張は、採用しえないものといわざるをえない。
3 右の1及び2に認定したところによれば、チューリップ及びコヒノボリの作詞者がP9であると認めることは到底困難であり、そして、本件歌詞の作詞者が原告であるか否かの点については、訴外協会の幼稚園唱歌募集の経緯、原告の父P15と訴外協会の理事P17との密接な関係、原告、原告の父母及び原告の夫の経歴と原告の家庭環境並びに本件歌詞の作成経緯についての原告本人尋問の結果及び原告作成の報告書等における原告の供述の信憑性など前認定の事実を総合すれば、本件歌詞は、原告主張の経緯で作詞されたものであって、その著作者は原告であると認めるのが相当である。なお、被告P1ら4名は、原告は、作詞について専門的な教育を受けたことはなく、それまで作詞の経験も全くないのに、短期間に本件歌詞を作詞し、しかも、それが音楽教育の専門家の集団である訴外協会に選ばれ、その後は現在にいたるまで1曲も作詞していないというのは、不自然であると主張するが、前認定判断によれば、原告の家庭環境は、本件歌詞の作詞をするのにふさわしいものであったし、また、原告は、殊に父の仕事を秘書として手伝うことにより、作詞についての訓練も受けていたものであり、また、原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件歌詞を作詞した後、子供が生まれ、その養育のために忙しく、作詞の仕事は継続しなかったものの、現在でも日本文芸家協会の準会員であり、短歌又は俳句の創作活動を継続していることが認められ、右認定の事実によれば、被告P1ら4名が主張するような不自然さも特に感じられず、したがって、被告らの右主張は採用することができない。また、被告P1ら4名は、原告は、訴外協会との関係も深く、その親密なつながりの中で、本件歌詞の作詞を依頼された旨主張するが、そうだとすれば、何故原告が作詞をしたとの事実が埋れてしまったのかという疑問が残ると主張するが、前掲甲第88号証によれば、当時一般から公募された歌詞は、すべて無名著作物として公表されたことが認められるのであるから、原告が作詞したものについても、これを一般公募の歌詞と同様に無名著作物として取り扱うことにし、そのため原告が本件歌詞の作詞者であることが公表されず、一般には知られないまま長年月が経過したとしても、何ら異とするに足りず、したがって、被告P1ら4名の右主張は、採用の限りでない。また、被告音楽著作権協会は、原告主張のとおり、P17が原告の父に作詞を依頼したのであれば、「エホンシヤウカ」の編纂会議の席上で本件歌詞の作詞者として原告の名前が話題にならないはずはなく、当時「エホンシヤウカ」の編纂委員であったP6やP7のいずれもが原告の名前を聞いていなかったというのはおかしい旨主張するが、前掲甲第2号証によれば、訴外協会において昭和5年7月1日に選任された幼稚園唱歌研究部委員の中には、P17ら10名が入っているが、P7及びP6は入っていなかったことが認められ、右認定の事実によれば、右両名が本件歌詞の作詞者である原告の名前を知らなかったとしても、何ら異とすべきものではなく、更に、原本の存在及び成立に争いのない甲第119号証(P7の証人証書写)によれば、P7自身、訴外協会が、昭和5、6年ころに幼稚園唱歌を募集した際、歌詞の募集及びその審査については直接関与していなかったことを自認していることが認められるところであり、したがって、被告音楽著作権協会の右主張も、採用するに由ないものといわざるをえない。
二 原告の著作権に基づく請求について
 前掲甲第3号証によれば、訴外協会は、昭和5年11月1日発行の機関誌「教育音楽」誌上において、チュウリップ、コヒノボリ、てふてふ、おうま、たんぽぽ、かみなりさま等の本件歌詞の題目を含む31の題目について、幼稚園唱歌の歌詞を募集し、その際、募集要項として、「歌詞はなるべく幼児の日常使用する言葉を用ひ其発音を美化し得べきものたること、歌詞の内容は教訓的に偏せざること、当選者には薄謝を呈す、当選歌の版権は本会の所有とす、応募歌詞の原稿は返戻せず、締切は11月15日とす、」と明示したことが認められ、右認定の募集要項及び当時の用語法によれば、「当選歌の版権」、すなわち、当選歌の著作権は、訴外協会に帰属するものと定められたことが明らかである。そして、幼稚園唱歌の募集に対しては、30篇余りが公募によって集まったが、10篇位が足りなかったため、これを専門家に依頼することとなり、訴外協会のP17が原告の父P15に対してこれを依頼し、P15は、娘である原告にその作詞を命じ、原告は、本件歌詞を含む10篇位の歌詞を作詞して、訴外協会にこれを託し、少なくとも本件歌詞6篇は、訴外協会において採用され、「エホンシヤウカ」ハルノマキ、ナツノマキにおいて、無名著作物として公表されたことは、前一1ないし3認定のとおりであり、また、原告本人尋問の結果によれば、原告は、昭和6年12月末ころ、訴外協会から本件歌詞ほか数篇を作詞したことに対する謝礼として200円を受領したこと、更に、原告は、昭和6年に本件歌詞を作詞してから、昭和45年あるいは同58年ころに至るまで、本件歌詞について著作権を行使する旨の特段の主張をしたことはなかったが、訴外協会又はP9らがこれまで無名とされてきたチューリップ及びコヒノボリの作詞者をP9等と主張し始めたため、本訴の提起に至ったこと、以上の事実が認められる。右認定の事実によれば、訴外協会は、「教育音楽」誌上において、不特定多数の者に対し、幼稚園唱歌の募集をし、募集要項として、当選歌を作詞したものに対しては報酬を与えること、当選歌の著作権は訴外協会に帰属することを期間を定めて広告して明示し、応募者は、これに応じて歌詞を提供しているのであるから、募集された幼稚園唱歌の著作権は、応募により訴外協会に譲渡されたものと解すべきであって、原告によって著作された本件歌詞の著作権についても、右認定の事実関係に照らし、右と同様に、訴外協会に譲渡されたものと解すべきである。この点に関し、原告は、作歌の専門家である原告の父P15が訴外協会の理事であるP17から依頼されたために、父から命じられて本件歌詞を作歌したものであって、訴外協会の一般公募のことは知らないで本件歌詞を作歌したものであるから、このような場合、原告については、右の一般公募の条件は適用されず、本件歌詞の著作権は、専門家として作歌した原告に帰属する旨主張するが、原告の父P15及び原告の夫P48は、昭和6、7年ころ、それぞれ訴外協会において、「新高等小学唱歌の歌詞に就て」あるいは「新幼稚園唱歌の歌詞について」等と題して譲演を行っていること、原告の父P15は、訴外協会から本件歌詞の作詞を依頼され、原告に対し本件歌詞の作詞を命じたことは、前2(一)認定のとおりであって、右事実によれば、原告の父P15及び原告の夫P48は、当時訴外協会と密接な関係を有していたのであるから、訴外協会の右募集要項は当然に了解していたはずであり、しかも、原告は、前述のとおり、昭和6年12月末に、訴外協会から本件歌詞ほか数篇の作詞をしたことに対する報酬を受領しているのであって、このような事実関係に照らせば、原告が訴外協会の前示募集要項を知らせなかったものと認めることはできず、したがって、原告の右主張は、採用するに由ないものといわざるをえない。
 以上によれば、原告が本件歌詞について著作権を有していたものと認めることはできないから、原告の本件歌詞についての著作権に基づく請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
三 原告の著作者人格権の確認請求について
 原告が本件歌詞を著作し、本件歌詞について著作者人格権を有するか否かについて、被告らが争っていることは、本件における被告らの主張から明らかであるところ、原告が本件歌詞を著作したことは、前一の判断のとおりであるから、原告は、本件歌詞について著作者人格権を有するものであり、したがって、原告の被告らに対する本件歌詞について著作者人格権を有することの確認を求める請求は、理由がある。
四 原告の氏名表示権侵害に基づく請求について
1 原告は、第1に、P9及び被告音楽著作権協会は、原告が昭和45年に本件歌詞について被告音楽著作権協会に対する著作権信託申込及び文化庁に対する実名登録申請をしようとした際に、請求の原因3(一)記載の行為によりこれを妨害したものであるところ、右行為は、原告が本件歌詞について有する氏名表示権を侵害するものである旨主張するので、まず、この点について判断するに、前掲甲第46号証、第57号証、原告と被告音楽著作権協会との間においては成立に争いがなく、原告と被告P1ら4名との間においては原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第49ないし第51号証、第53号証、原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第47号証の1ないし6、第48号証の1、2、第52号証の1、2、第54ないし第56号証、第58ないし第62号証、第114号証の1ないし9並びに原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。(1)原告は、昭和45年ころ赤旗の記者から取材を受け、その後同年5月7日発行の赤旗に、コヒノボリ及びチューリップを作詞したのはP58(原告)であるとの記事が掲載された。その後、原告は、当時チューリップの作曲者であるとされていたP6から同月18日付の手紙を受領したが、その手紙には、P6が長い間チューリップの作詞者を捜していたこと、原告のチューリップの著作権を被告音楽著作権協会に信託した方が良いとの助言が記載されていた。また、原告は、P6から同月30日付の葉書を受領したが、その中には、P6が同月29日、チューリップ及びコヒノボリの作詞者が判明したことを被告音楽著作権協会に文書により届けておいたので、いずれ被告音楽著作権協会のP10常務から連絡があると思う旨の内容が記載されていた。(2)原告は、昭和45年6月、被告音楽著作権協会からの連絡で同協会に出向き、P10常務理事、P52業務局資料部部長及びP6と会談し、その席で原告が本件歌詞を作詞した経緯を説明し、著作権信託申込に必要な書類を受領した。その後、原告は、著作権信託申込等に必要な事項を所定の書類に記載し、戸籍謄本も用意したうえで、同年6月末か7月初めころ、被告音楽著作権協会に出かけたが、同協会の職員の方から、東邦音楽学校へ行き、P9に会うようにといわれたので、同音楽学校へ出向き、P9と面談した。P9は、原告と面談した際、「チューリップやコヒノボリは公募されたものであること、チューリップやコヒノボリの著作物使用料は、訴外協会の重要な財源であるから、原告にこれを渡すことはできないこと、一定の届出期間内に著作権を届け出ないと無効になることがあるが、その関係の資料を後日原告に送ること。」等の話をしたが、原告は、もともと著作権を登録して金銭を取得するつもりはなかったし、金銭的な問題がからむことに嫌気がさしたことと、チューリップやコヒノボリが訴外協会の有力な財源であるとの話を聞き、訴外協会の役に立つことであれば、本件歌詞が読み人知らずのままであってもよいと思い、その話合いの後、被告音楽著作権協会に対する著作権の信託の申込又は文化庁に対する実名登録の申請はしなかった。
 ところで、原告の請求の原因3(一)の主張事実については、右に認定した以外の事実、すなわち、被告音楽著作権協会がP9と共謀して原告の著作権信託申込と著作者の実名登録を阻止したこと、及び、原告がP9の言葉を真実なものと誤信し、本件歌詞は長く放置していたので、著作権は無効となり、登録できないものと判断したとの事実を認めるに足りる証拠はない。したがって、被告音楽著作権協会がP9と共謀して原告の著作権信託申込及び著作者の実名登録を妨げたとの原告主張事実を認めることはできない。また、右認定の事実によれば、原告は、P9から、チューリップやコヒノボリが訴外協会の重要な財源になっているとの話を聞いて、訴外協会の役に立つことであれば、本件歌詞が読み人知らずのままであってもよいと思い、被告音楽著作権協会に対する著作権の信託申込や文化庁に対する実名登録の申請を自らの判断で中止したものと認められるのであるから、右に認定したP9の行為をもって違法に原告の氏名表示権を侵害したものと認めることもできない。
2 著作権法19条の規定にいう氏名表示権とは、第1に、その著作物の原作品にその著作者名(実名あるいは変名。以下同じ。)を表示し若しくは表示しない権利であり、第2に、その著作物の公衆への提供若しくは提示に際しその著作者名を表示し若しくは表示しない権利であるところ、
(一) 請求の原因3(二)(1)について検討するに、成立に争いのない甲第42号証及び弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第67号証の1ないし6によれば、昭和54年7月15日講談社発行のP55、P68編「日本の唱歌(中)」158、159頁には、コヒノボリの楽譜と歌詞が掲載されているところ、コヒノボリの歌詞の横に「エホンシヤウカ(ハルノマキ)」昭6・12と記載され、楽譜の右上に訴外協会作詞作曲と記載されていること、また、歌詞の下に注釈書きがあり、「P61氏の「定本日本の唱歌」には、P6詞とあるが、P9氏によれば、P9の作詞・作曲という。」と記載されていること、更に、同書178、179頁には、チューリップの楽譜と歌詞が記載されているところ、そのチューリップの歌詞の横に「エホンシヤウカ(ナツノマキ)」昭7・7と記載され、楽譜の右上に訴外協会作詞、P6作曲と記載されていること、また、歌詞の下に注釈書きがあり、「この歌の作られた事情は難しい。一般には、日本教育音楽協会で懸賞募集をして一般から募った歌詞に、P6が作曲したものとされている。……P58という女性が「赤旗」に、あれは自作であると投稿したことがあり、本によってはP58の作となっている。しかし、P9氏によれば、一般から募集した歌詞の中にはよいものがなかったので、P6とP9で全歌詞を合作したものという。ほかにP69の作だとしているものもある。」との記載があること、及び、P55は、原告の元の訴訟代理人であったP70に宛てた手紙において、右の記載のうち「P9氏によれば」とする部分は、同人の言葉を信じてそのまま記載したものであると述べていることが認められ、右認定の事実によれば、P55、P68編の右の本においては、コヒノボリ及びチューリップの歌詞は無名著作物であるという趣旨で訴外協会作詞と記載しているものと解され、ま、注釈書きにしても、コヒノボリ及びチューリップの作詞者については、いろいろな説があることを紹介しているにすぎないものであって、それぞれについてP9が作詞者であるとしているわけではないから、右の本の記載をとらえて、原告の氏名表示権を侵害するものということはできない(なお、原告が、チューリップ及びコヒノボリについて、その公表時から、作詞者不明の取扱いとすること、すなわち、右の著作物を公衆に提供又は提示するに際しその氏名を表示しないとの取扱いを是認していたことは、前(一)認定の事実から明らかでる。)。したがって、請求の原因3(二)(1)による原告の氏名表示権侵害に基づく請求は、理由がない。続いて、請求の原因3(二)(2)について検討するに、昭和56年5月1日主婦の友社発行の雑誌「わたしの赤ちゃん」において、チューリップについてP9及びP6共作と記載されていることは前一2(二)(2)認定のとおりであり、そして、原本の存在及び成立に争いのない甲第94号証によれば、P9とP6は、いずれがチューリップの作曲者であるかをめぐって争っていたところ、昭和36、37年ころ、東京音楽学校の卒業生から、チューリップの作詞作曲はP9とP6の共作とするとの調停案が出されたこと、そこで、P9は、右調停案を飲み、外部に対して、チューリップの作詞作曲はP6とP9との共作であるとの態度をとり、その結果、前記の雑誌にもその旨記載されたことが認められ、右認定の事実によれば、主婦の友社が、右の雑誌に作詞作曲についてP9、P6共作としてチューリップの歌詞を掲載したことは、まさに、著作物を公衆に提供する際に、著作者である原告の氏名を表示するとの原告の権利を侵害するものであるところ、P9は、前認定のとおりチューリップの作詞者ではなく、その著作者ではないにもかかわらず、主婦の友社をして、右の氏名表示権侵害行為をさせたものと認められるから、P9は、右の主婦の友社の行為により原告が被った精神的損害を賠償すべき義務がある。次に、請求の原因3(二)(3)について検討するに、成立に争いのない甲第69号証の1ないし9によれば、コヒノボリの楽譜と「P9先生顕彰歌碑」との文字が刻み込まれた歌碑が、昭和54年11月4日には新潟県南魚沼郡塩沢町中之島小学校の校庭に、同56年ころには東京都文京区本駒込の吉祥寺境内に、それぞれP9の音楽教育への功績に応えるため、顕彰碑建立委員会のメンバーを中心として建立され、その除幕式にはP9も出席したこと、及び、同委員会は、同56年8月、「P9先生顕彰建立記念誌こいのぼり」という作曲集を発行し、右の顕彰碑の写真及びP9作詞作曲としてコヒノボリの歌詞と楽譜を掲載していることが認められ、右認定の事実によれば、P9は、右の顕彰碑の建立及び右記念誌の発行により、P9がコヒノボリの作詞作曲者であることを一般人に強烈に印象付けたものであり、P9の右行為は、原告のコヒノボリについての氏名表示権を侵害するものであるといわざるをえない。したがって、P9は、前同様に、右の行為により原告が被った精神的損害を賠償すべき義務がある。
(二) 最後に、請求の原因3(三)について検討するに、前一2(二)(3)に認定したところによれば、被告音楽著作権協会は、昭和52年ころから、訴外協会に対し、エホンシヤウカに無名著作物として公表されたものの著作物が無名のままであると昭和57年末に著作権が消滅するので、その著作者に関する資料を所持する場合は、これを被告音楽著作権協会に提出するように通知していたが、訴外協会の方は、昭和57年末に至るまで、度々、被告音楽著作権協会に対し、エホンシヤウカに掲載された楽曲等について著作者名を報告するも、著作者に関する資料を提出しえなかったため、被告音楽著作権協会は、その都度、訴外協会の提出する報告書では不備である旨通知してきたこと、及び、チューリップやコヒノボリの作詞者についても、訴外協会の報告が、その都度変更されていったこと、並びに、訴外協会は、P9と連名で、昭和57年末になって、チューリップの作詞作曲者は、ともにP9とP6であるとの趣旨の文書を提出したところ、被告音楽著作権協会は、チューリップの著作権の帰属には疑義があることを認めながらも、今度は、チューリップの作詞をP9、作曲をP9として第三者に許諾する旨決定し、その旨訴外協会、P9及びP57に通知したのである。右認定の事実によれば、被告音楽著作権協会は、チューリップについて、無名著作物であるとその保護期間が満了してしまうために、その著作者がP9であるのか、原告であるのか、あるいは他の第三者であるのか疑義があるにもかかわらず、その作詞者をP9として第三者に許諾する旨決定したものであり、そして、著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律に基づき、文化庁長官の許可を得て日本国内における音楽著作権の仲介業務をなす唯一の団体である被告音楽著作権協会が、右の決定をしたということは、以後、レコード会社、出版社等の音楽著作物を使用する第三者が被告音楽著作権協会の許諾を得てチューリップの歌詞を公衆へ提供若しくは提示するときは、チューリップの作詞者をP9であると表示することになることを意味するところ、このことは、被告音楽著作権協会にとっても自明なことであり、したがって、被告音楽著作権協会の右の決定及びその後の右決定に基づく許諾行為は、右の第三者によるチューリップについての原告の氏名表示権侵害行為を積極的に是認し、これを助長するのみならず、むしろ、その原因を形成する行為であって、右の第三者と共同して原告の氏名表示権を侵害する行為であるといわざるをえない。また、P9は、前認定のとおり、被告音楽著作権協会が右の決定をなすことを申請したものであるから、被告音楽著作権協会と共同して右の氏名表示権侵害行為に加担したものというべきである。そうすると、被告音楽著作権協会及びP9は、いずれも右の氏名表示権侵害行為により原告が被った精神的損害について連帯して賠償すべき義務を負担したものと認められる。
3 そこで、損害の額について検討するに、前記2(一)に認定したP9によるチューリップについての原告の氏名表示権侵害の結果生じた原告の精神的損害に対する慰謝料は、原告のチューリップの作詞の経緯、P9による侵害行為の態様及び原告が本訴を提起せざるを得なかった経緯その他本件に現れた前認定の諸事情をすべて斟酌すれば、30万円と認めるのが相当であり、また、同じく前2(一)に認定したP9によるコヒノボリについての原告の氏名表示権侵害の結果生じた原告の精神的損害に対する慰謝料は、前同様の諸事情をすべて斟酌すれば、60万円と認めるのが相当である。次いで、前2(二)に認定した被告音楽著作権協会及びP9によるチューリップについての原告の氏名表示権侵害の結果生じた精神的損害に対する慰謝料は、前同様の諸事情及び特に被告音楽著作権協会が日本において音楽著作権の仲介業務を行っている唯一の団体であり、一般社会に対する影響力が前2(一)の場合に比べ格段に大きいことに鑑みれば、300万円と認めるのが相当である。
 なお、本件記録によれば、P9が本訴提起後の昭和61年3月17日死亡し、被告P1、同P2は各6分の1の限度において、被告P60、同P5は各3分の1の限度において、それぞれP9の一切の権利義務を相続により承継取得したことが明らかであり、右事実によれば、前2(一)のP9の行為により生じた慰謝料合計90万円については、被告P1、同P2において、各15万円の限度で、被告P60、同P5については、各30万円の限度でその支払義務を相続したものであり、また、前2(二)のP9の行為により生じた慰謝料300万円については、被告P1、同P2については各50万円の限度で、被告P60、同P5については各100万円の限度でその支払義務を相続したものである。
五 結論
 以上によれば、原告の本訴請求は、本件歌詞についての著作者人格権の確認請求及びチューリップとコヒノボリ氏名表示権侵害による損害賠償請求の一部について右に認定した限度で理由があるから、これを認容し、その余は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法89条、92条本文、93条1項本文の規定を、仮執行の宣言について同法196条1項の規定をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第29部
 裁判長裁判官 清永利亮
 裁判官 設楽隆一
 裁判官 富岡英次は、転補のため署名捺印することができない。
裁判長裁判官 清永利亮
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