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【事件名】チューリップ事件 【年月日】平成元年2月10日 千葉地裁 昭和55年(ワ)第558号、第1102号 著作権確認請求事件 判決 原告(亡X1訴訟承継人) X2 原告(亡X1訴訟承継人) X3 原告(亡X1訴訟承継人) X4 原告(亡X1訴訟承継人) X5 右原告4名訴訟代理人弁護士 大村武雄 同 西山宏 同 中山秀行 同 馬場俊一 被告 Y2 同 Y3 同 Y4 同 Y5 同 Y6 右被告5名訴訟代理人弁護士 小坂嘉幸 主文 1 原告らの請求をいずれも棄却する。 2 訴訟費用は原告らの負担とする。 事実 第1 当事者の求めた裁判 一 原告ら 「原告らが別紙楽曲目録記載の楽曲及び別紙歌詞目録記載の歌詞について著作権を有することを確認する。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決 二 被告ら 主文同旨の判決 第2 当事者の主張 一 請求原因 1 X1の経歴等 (一)原告らの父であるX1(訴訟承継前の原告、以下「X1」という。)は、明治30年8月14日新潟県に生まれ、大正10年3月東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業後、香川師範学校、東京市赤坂尋常小学校(以下「赤坂小学校」という。)等の教員を歴任し、昭和12年8月学習院助教授、同16年4月から同38年3月まで同教授、同40年4月東邦音楽大学教授となったが、同61年3月17日満88歳で死亡した。 (二)X1は、この間、我が国で初めて音楽教育に学年別基礎指導、レコードによる音楽鑑賞指導、器楽指導、創作指導を取り入れるなど一貫して日本の音楽教育に力を注ぎ、これに関連して「唱歌新教授法」、「音楽教育実践諸問題」等多数の著書を発表している。その後教職のかたわら日本教育音楽協会の会長として各種の学校音楽コンクールを主催するなどの活動をしてきた。 (三)また、X1は「こいのぼり」の作詞作曲をはじめ、900余校の学校校歌の作曲を行うなど歌曲の作詞作曲も多数にのぼっている。 2 チューリップ曲の創作について (一)X1は、大正11年ころ、前記のとおり赤坂小学校に在職し、音楽を担任していたが、右小学校は明治時代の学制頒布と同時に創立され、大正11年が創立50周年に当たっていたため、当時右小学校では学校を挙げて創立50周年祝賀行事に取り組んでいた。右創立50周年記念式典は、当初同年11月11日に行われることとされていたが、右式典に出席されることになっていた澄宮殿下(現三笠宮殿下)の都合により日曜日である翌12日に変更された。 X1は、右のとおり大正11年11月12日に挙行された右小学校における「創立50年記念式」の式場係の一人に選ばれ、また翌13日に催された「創立50年記念童謡童話大会」にも唱歌担当の教師として児童の指導、作曲作品の提供にあたるなど右創立50周年記念行事に際して中心的な役割を果した。 (二)X1は、右小学校から創立50周年式典に際して同校の児童が歌う唱歌の作曲を依頼され、大正11年8月から9月ころ、別紙楽曲目録記載の楽曲(以下この楽曲を「チューリップ曲」という。)を作曲した。この曲には同校教師B作詞に係る次の歌詞が付されて「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」と題された。 「1番 かざれ かざれ きれいにかざれ 今日は たのしい 創立記念日 どのこの顔も うれしさう 2番 ならべ ならべ 正しくならべ 今日は うれしい 創立記念日 澄宮様 お成りです 3番 歌へ 歌へ 聲はりあげて 今日は たのしい 創立記念日 赤坂小学 萬々歳」 (三)右楽曲は、大正11年11月12日前記赤坂小学校の創立50周年記念式典において多数参列者の中で演奏、唱歌されて公表された。右公表にあたってはX1の氏名が作曲者として明示された。 (四)このことは、甲第1号証及び第18号証(以下これらを「本件楽譜」ともいう。)の存在によって明白である。 即ち、甲第1号証は別紙のとおり「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」と題する楽譜(詞を含む)であるが、これは、X1が前記のとおり同小学校の右記念日のために、これに先立って作曲し、同記念日の演奏に用いるためにX1自らが、がり版で筆記した上多数部(数百部)謄写印刷したものの一部である。そして甲第1号証は、後述のとおり同記念日にこれを歌った声楽家C(以下「C」という。)が、同人のもとに長く保存していたものを、X1のために手渡してくれたものであり、また、甲第18号証は、X1の死後同人の遺品の中から発見されたものである。 (五)被告らは本件楽譜(甲第1号証、第18号証)は、戦後に至って偽造されたものであると主張するが、右主張は以下のとおり理由がない。 (1)鑑定結果によれば、本件楽譜の紙は、国産パルプ材を原料としており、未晒亜硫酸パルプ(広葉樹)及び晒亜硫酸パルプ(針葉樹)の可能性があり、前者は昭和30年代以降のものであるが、後者は大正年間にも樺太、北海道の蝦夷松、椴松を原料としたものが使用されていたということであり、使用されたインキについては、立証できる基礎資料が無いため正確を期しえないが、大正初期から使用され、戦後は使われていない亜麻仁油が用いられている可能性が強いのであって、いずれにしても戦後作成されたものではない。 (2)「周年」という用語は、戦後になってはじめて使用されるようになったものではなく、戦前にもその用語例がある。 (3)澄宮殿下の来校日が大正11年11月11日ではなかったとしても、甲第1、第18号証の記載は不自然ではない。なぜなら、作曲は記念式典当日よりかなり以前になされたものであり、学校当局も、当時大正11年11月11日と、11の続くことに縁起をかついで計画していたところ、たまたま皇室の都合で日曜日である12日に変更されたに過ぎないからである。 (4)「作詞」という言葉が、大正時代それほど一般的ではなかったとしても、全く使用されていなかったわけではなく、その用語例がみられる。 (5)「澄宮」及び「萬々歳」の記載が当時不敬罪にも該当するとの根拠は不明である。 (6)楽譜の歌詞について1番が片仮名、2番が平仮名、3番が片仮名という記載例は、絶対的なものではない。 (7)大正11年当時も「尋」、「平」の字は本件楽譜と同様に記載されていたものである。被告らの主張は活字体と筆記による場合とを混同するものである。また、「学」という略字も、当時から使用されており、このような慣用を基礎として、戦後当用漢字が定められたものである。 (六)本件楽譜に記載の旋律(メロディー)は、チューリップ曲と同一である。 3 チューリップ詞の創作について (一)大正11年教育音楽を全国に普及するため、D、E、F、Gら12名が理事となり、日本教育音楽協会(以下「音楽協会」という。)が設立された。X1は、右Gの代理として設立当時より理事会に参加していた。 (二)音楽協会では昭和5年10月ころ「新時代に適する幼稚園唱歌」と銘打って一般から歌詞を募集することを企画し、機関誌「教育音楽」の誌上に応募要領を掲載した。その際31の題目が募集されたが「チューリップ」もそのうちの一つであった。 (三)しかし、右公募の方法によってもよい歌詞が集まらなかったため、X1は、自らいくつかの題目について作詞を試ることとし、その一つとして「チューリップ」を選んだが、その際、前記のとおり、以前自分が作曲した「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」を思い出し、この曲に合わせて詞を作った。これが別紙歌詞目録記載の歌詞(以下「チューリップ詞」という。)であり、現在、唱歌「チューリップ」の1番とされているものである(以下「チューリップ曲とチューリップ詞の合体したものを「チューリップの歌」という。)。 (四)なお、X1は右曲が歌い易く唱歌に適した曲であることを自負し、いつかこの曲に詞を付して広めようと考えていたことから、昭和5年5月5日にも自分の次男(原告X4)の初節句に際し、右曲に合わせて次のような歌詞を作ったことがある。 「(1番)わらった わらった ゆたかがわらった アハハ アハハ 大きな声でわらった わらった声も 可愛いな (2番)泣いた 泣いた ゆたかが泣いた ギャギャギャー ギャギャギャー 大きな声で泣いた 泣いた顔も 可愛いな」 (五)チューリップ詞は、同曲と共に昭和7年7月18日音楽協会発行「ヱホンシヤウカ(ナツノマキ)」絵本唱歌夏の巻)に無名著作物「チューリップ」として掲載出版され、公表された。 当時、著作者名を公表しなかったのは文部省から教材として使用する著作物については、著作者名を公表しないようにとの指導があり、これに従ったものである。文部省の「新訂尋常小学校唱歌」、音楽協会編の「新尋常小学唱歌」等で著作者名が記入されないのは、このような方針に基づくものであり、これがまた当時の慣習といえるものである。右協会は、「ヱホンシヤウカ」の編集にあたっても幼稚園の唱歌教材ということで、この慣習に従ったものである。 (六)チューリップ詞が無名著作物として公表された年の翌年から起算して昭和58年1月1日をもって50年を経過したが、その経過前である昭和56年5月1日株式会社主婦の友社発行「わたしの赤ちゃん」5月号に「X1・Y1共作」と表示され掲載されてその著作物が公表された。 4 紛争に至る経緯について (一)Y1(以下「Y1」という。)は、戦後、チューリップ曲の作曲者は自分であると主張するようになった。X1が右事実を知ったのは、前記のとおりX1がチューリップ曲を「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」として作曲して公表し、同記念日にこれを歌った声楽家Cの指摘によるものであった。即ち、Cは、戦後チューリップ曲の作曲者がY1であると教科書に記載されており、Y1自身もその旨主張しているのを知って、このことをX1に教え、機会をみて訂正方を申し入れるようにと喩した。その際Cは、チューリップ曲がX1の作曲にかかる曲であることを証するものとしてX1自らが筆耕し、謄写印刷した「赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌」と題する楽譜(甲第1号証)をX1に贈ってくれたのである。右Cは、右楽曲を記念式典で歌った記念にもらい受け、それ以降思い出のために保管してきたものであるが、X1が戦争による罹災で戦前の資料を殆ど失ったことを知って1部しかなかった右楽譜をわざわざX1のために手渡してくれたのである。なお、その後X1の死亡後同人の遺品の中から、甲第1号証が印刷されたのと同時に刷られた楽譜である甲18号証が発見された。 (二)Y1が音楽協会の理事長を勤め、X1が同協会の常務理事であったころ、協会の理事会で顔を合わせるたびに、X1は、Y1に対し自分がチューリップ曲の作曲者であり、Y1もこのことを十分に知っているはずであるとして追及した。これに対してY1は、曲は似ているがX1のものは赤坂小学校の記念式典の歌であり、自分のものはチューリップとして作曲したものである旨答えていた。右のような経過があったものの、X1としては、Y1とは志を同じくして音楽教育に尽力してきた仲間であり、東京音楽学校ではY1が先輩、X1が後輩の間柄であったうえ、X1の長男と次男が、かつて東京高等師範附属小、中学校でY1の薫陶を受けたことがあり、またX1がY1の長女の結婚の仲人の労をとったことがあるなど私生活上も非常に懇意にしていたこともあってこの問題を話し合い以外の方法で解決することは望んでいなかった。そして、X1はもともと著作権についての関心が低かった上に自らの著作権使用料につきその受領の都度音楽協会に右使用料を贈与し、自らは経済的利益を享受していなかったので、同人にとって、チューリップの歌の著作権帰属の問題は、経済的利害よりも名誉感情に係る問題であった。 (三)X1とY1との間でチューリップ曲及び詞の創作をめぐって争いのあることは、音楽協会の理事から伝え拡げられたため、昭和33年頃東京音楽学校の同窓生組織である「同声会」が両者の斡旋を行い、H、I、Jらが中心となっていくつかの斡旋案が示された。X1は、当初は斡旋そのものに乗り気でなく、2年以上の間右斡旋案を受け入れなかったが、Y1との長年にわたる交遊関係を考え、また先輩、同僚の協力に酬いるためにもという気持から、結局昭和36年頃になってチューリップ曲及び詞のいずれもY1とX1との共作とするという同声会の斡旋案を受け入れることとし、それ以降は少なくとも外部に対してはチューリップ曲及び詞をY1との共作である旨の態度をとり続けた。ところが、Y1はその後もチューリップ曲の作曲者が自分一人であるとの態度を変えようとせず、X1が追求すると「印刷物は版が出来てしまっているんだ。面倒なことを言うな。どうせお前の著作権使用料は協会(音楽協会)に行っているのだからいいだろう。」などと言ってとり合わず、結局右斡旋も不調に終った。 (四)昭和57年末に無名著作物の保護期間が経過するので、X1は社団法人日本音楽著作権協会(以下「著作権協会」という。)に対し、著作権法52条2項3号による同法同条1項の適用除外を申請したところ、Y1の相続人である被告Y2はこれに異議を述べた。そのため、著作権協会がX1に対してなしていたチューリップ詞についての著作権使用料の分配が留保されるに至り、X1は前記のとおり、自分の著作権使用料をすべて音楽協会に贈与していたことから、その音楽協会の最大の資金源を確保すべく、本件訴訟を提起したのである。 5 X1は、前記のとおり、昭和61年3月17日死亡したが、原告らは同人の相続人であり、同人の有していた著作権等一切の権利を承継した。 6 よって、原告らはチューリップ曲及びチューリップ詞について原告らが著作権を有することの確認を求める。 二 請求原因に対する答弁 1(一)請求原因1(一)の事実は認める。 同1(二)のうち、X1が、主張の著書を発表し、また、音楽協会の会長を勤めたことは認め、その余の事実は否認する。 同1(三)の事実は否認する。 (二)同2(一)のうち、X1が、大正11年ころ赤坂小学校の教員として音楽を担当していたこと、右小学校では大正11年に創立50周年の記念祝賀行事が行われたことは認め(なお、澄宮殿下の来校は同年11月13日であった。)、その余の事実は知らない。 同2(二)のうち「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」が存在したことは否認し、その余の事実は知らない。 同2(三)の事実は否認する。 同2(四)は否認する。甲第1、第18号証は、後に主張するとおり、戦後に至って偽造されたものである。 同2(六)は認める。 (三)同3(一)のうち、第1文の事実は認め、その余の事実は知らない。 同3(二)は認める。 同3(三)のうち「チューリップ」の題目を含めて公募によって歌詞の募集をしたが、よい歌詞が集まらなかったことは認め、その余の事実は否認する。外国の曲に日本の詞を付ける場合は別として、一般に童謡や歌謡曲などは良い詞が存在して初めて作曲が可能であり、原告らの主張するように大正11年に作曲された曲に後日作詞するということは本末転倒であってありえないことである。 同3(四)のうち、X1が、次男の初節句に作詞したことは知らず、その余の事実は否認する。X1が、公に発表した赤坂小学校創立50周年記念の歌に、次男の初節句の際作詞したり、チューリップ詞を作詞するなどということは異常なことというほかはない。また「ヱホンシヤウカ」の作詞は、後述のとおりAの作を除き、一般から公募されたものであり、当時の編集者の中には作詞した者がいないのに、原告らが編集者の一人と主張するX1のみが作詞したことも不可解である。 同3(五)のうちチューリップ詞が「ヱホンシヤウカ(ナツノマキ)」に無名の著作物として公表された事実は認め、その余は否認する。右「ヱホンシヤウカ」は、当時子供達にとって歌いやすい童謡が少なかったため、音楽協会が一般から詞を募集し作曲したうえ、絵入りの本を発行して一般大衆に新しい童謡を提供したものであり、幼稚園の唱歌教材として発行されたものではない。従って、文部省の指導によって著作者名を公表しなかった旨の原告らの主張は疑わしい。 同3(六)の事実は認める。X1は、N他1名の編集で昭和54年7月15日に株式会社講談社から発行された「日本の唱歌(中)」の編集に際し、チューリップ詞はX1とY1の合作であると虚偽の事実を述べてその旨公表させたものである。また、X1は、株式会社主婦の友社が昭和56年5月1日発行した「わたしの赤ちゃん」5月号で、「チューリップ」の作詞作曲の記事を掲載する際、同社第2編集部長のOに対し、前同様、チューリップの詞と曲は自分とY1が話し合いながら作ったものである旨虚偽の事実を述べてその旨誤信したOをして「チューリップ」の作詞作曲はX1とY1の共作であると公表させたものである。 (四)同4(一)のうち、X1が、赤坂小学校創立50周年記念日の歌を作曲し、Cが赤坂小学校の記念式典でこれを歌った事実は否認する。CとX1との交渉の経緯は知らない。その後、X1の死亡後同人の遺品の中から、甲第1号証が印刷されたのと同時に刷られた楽譜である甲第18号証が発見されたという事実は否認する。 同4(二)のうちY1とX1が東京音楽学校のそれぞれ先輩、後輩の間柄であったこと、X1の長男、次男がY1に小、中学校で教えを受けたこと、X1がY1の長女(被告Y3)の仲人をしたことは認め、その余の事実は知らない。なお、X1は著作権協会の前身である大日本音楽著作権協会の設立委員であり、その後右協会の評議員に就任するなど著作権関係には詳しい者である。 同4(三)の事実は知らない。 同4(四)のうちX1が著作権協会に「チューリップ」の作詞作曲者として登録しようとした際、被告Y2が異議の申立をしたことは認めるが、その余の事実は知らない。 (五)同5のうち、X1が主張の日に死亡したこと、原告らが同人の相続人であることは認めるが、その余の事実は争う。 2 本件楽譜(甲第1、第18号証)は戦後に至って偽造されたものである。このことは以下の事実によって明らかである。 (一)鑑定結果によれば、本件楽譜の紙は、戦後昭和30年代に製造された確率が極めて高い。 (二)「何周年」という表現は、戦後使用されるようになったもので戦前には使用されなかった。赤坂小学校の当時の新聞、童謡童話大会のパンフレット、記念式の式次第、記念誌の表題においては、いずれも「五十周年」という表現は用いられていない。 (三)澄宮殿下の赤坂小学校への来校は本件楽譜に記載されている大正11年11月11日ではなく同月13日である。変更されたとしても、皇族の予定は警備上通常数か月前に決定されているはずで突然何の理由もなく変更されるというのは不自然である。また、同殿下の来校に変更があり、新たに楽譜を作成したとすれば変更前の楽譜は破棄したはずであり、Cが記念のために所持していたとするならば、変更後の楽譜を所持しているはずなのに変更前の楽譜を所持し続けたことは不自然である。 (四)本件楽譜には、Bが「作詞」した旨記載されている。しかし、大正時代に「作詞」という言葉は全く使用されておらず、「作歌」とされていたことは、当時の音楽教科書、楽譜等の記載から明らかである。 (五)「澄宮殿下」の「澄」の字に誤記があり、「萬々歳」と「萬」の字に略字を用いているが、これは戦前では不敬罪にも該当することである。 (六)本件楽譜の歌詞は1番から3番まですべて平仮名で記載されているが、戦前は1番を片仮名、2番を平仮名、3番を片仮名の順序で記載し、歌唱の際読み違えのないように配慮されていたのであり、すべて平仮名で記載するようになったのは戦後のことである。 (七)本件楽譜では、尋常小学校について「尋」と記載されているが戦前は「[尋]」と書いたはずであり、「学」の字も昭和21年11月16日内閣告示第32号当用漢字表で初めて認められた字で戦前は全く使用されていないものである。また、「校閲」の「閲」も戦前は「[閲](正字体)」と書き、「X1」の「○」も戦前は「[●] と書かれていた。 3 チューリップ曲及び同詞の創作について (一)大正11年教育音楽を全国に普及するため、D、E、Fにより、音楽協会(日本教育音楽協会)が設立されたのであるが、右協会は大正12年1月31日機関誌「教育音楽」を発行すると共に幼稚園唱歌集、新尋常小学唱歌集を編纂し、全国の音楽教育関係者に新しい唱歌教材を提供しようと計画した。 (二)右協会は昭和5年6月、幼稚園唱歌研究部を設置し、「チューリップ」、「コヒノボリ」を含む新しい童謡の歌題31項目を選び、同年11月発行の「教育音楽」紙上で全国から歌詞を募集した。 (三)しかし、良い作品が集まらなかったため、右協会の中心人物であり編集責任者であったFは、昭和6年9月、近世日本文学の権威者であり東京帝国大学文学部助教授、東京音楽学校講師であったKに、10篇の題目について作詞を依頼したのである。 Kの妻Lは、Fと東京音楽学校の同級生であった関係から、K家とF家は親戚同然の付き合いがあり、大正時代から、K作詞、F作曲の唱歌も多く、FからKに校歌の作詞を依頼することもたびたびあり、またFが武蔵野音楽学校を創立するに際しては、Kが物心両面にわたる援助をし、その理事に就任する程の間柄であった。 (四)ところが、Kは、幼稚園唱歌の作詞は自分には無理であるとして、同人の長女A(現A)に作詞を命じたのである。そこで、約1か月の期間内に「チューリップ(1番)」、「コヒノボリ」、「オウマ」、「タンポポ」、「カミナリサマ」等を作詞し、かつ新尋常小学唱歌の作詞や修正を担当していた夫Mの要請により「兎狩」も父親Kと共に作詞したのである。 (五)右の経緯で新幼稚園唱歌の詞が出来た後、昭和6年10月ころ、当時新幼稚園唱歌編纂委員であったY1が、Aの作詞に係るチューリップ詞に合わせてチューリップ曲を作曲し、昭和38年4月7日ポリドールレコードの依頼により2番、3番を作詞したのである。 (六)このようにして「コヒノボリ」の詞は、音楽協会が昭和6年12月25日発行した「ヱホンシヤウカ(ハルノマキ)」に、また、チューリップ詞と曲は右協会が発行した「ヱホンシヤウカ(ナツノマキ)」にそれぞれ発表された。この「ヱホンシヤウカ」に作詞者名、作曲者名を記載しなかったのは、音楽協会が協会の出版物として発表したためであって、当時、原告らの主張するように作詞者名、作曲者名を明らかにしない慣習が存在したからではない。 (七)以上のことから明らかなとおり、チューリップ曲の作曲者はY1であり、チューリップ詞の作詞者はAである。従って、右作曲者及び作詞者がX1であるとする原告らの主張は誤っている。 4 チューリップ曲の作曲者がX1ではなく、Y1であることは、文部省検定済教科書(例えば、昭和26年音楽之友社発行「おんがく、しょうがく一ねんせい」)、一般書籍(例えば、昭和33年岩波文庫「日本唱歌集」)、雑誌(例えば、「教育音楽」昭和26年5月号)等多数の出版物に、その旨が記載されていることからも明らかである。また、昭和29年7月3日東京新宿文化会館ホールで開催された「Y1先生作品集発表演奏会」にチューリップの歌も演奏されているが、X1は右演奏会に出席して挨拶をしており、チューリップ曲がY1の作曲であることを自認している。 5 チューリップ詞の作詞者がX1ではなく、Aであることは、新聞「赤旗」(昭和45年5月7日号)及び書籍「日本の歌」(実業之日本社昭和45年発行)の記載からも明らかである。なお、チューリップの歌詞2番、3番の作詞者はY1であり、このことは、「日本学校唱歌選集」(株式会社カワイ楽譜昭和39年発行)の記載から明らかである。 三 抗弁 1 Y1は、昭和24年頃、G・H・Qの指示により、昭和6年「ヱホンシヤウカ」紙上に無名で発表した「チューリップ」の作曲者として、著作権協会に届出をし、昭和49年11月8日死亡するまで、右著作権協会から著作権使用料の交付を受けていた。そして、Y1Y1の死亡後は、被告らが、本件訴訟提起の直前まで、著作権協会からチューリップ曲の著作権使用料の交付を受けていた。 また、Y1がチューリップ曲の作曲者であることは、前述のとおり教科書、一般書籍、雑誌等多数の出版物に公表されており、演奏会等においてもこの事実は公に是認されていたのである。 2 以上のとおり、「チューリップ」の作曲者は今日までY1である旨公表、是認されてきたところであるから、遅くとも、Y1は著作権協会に届出た翌年である昭和25年から20年を経過した昭和45年12月末日をもって、チューリップ曲につき、著作権を時効取得した。 なお、著作権協会への届出(登録)は、単に著作権の登録のほかに、著作権信託の申込を伴うものであり、著作権登録者は、以後、右協会から著作権使用料の交付を受けることが出来るのである。従って、右登録は権利行使の明白な意思表示であるから、取得時効は右登録時から起算するのが相当である。 3 被告らは、Y1が取得したチューリップ曲の著作権に関する権利を、同人が死亡したので、相続により承継取得しており、右時効を援用する。 四 抗弁に対する答弁 1 抗弁事実1のうち、Y1がチューリップ曲の作曲者として著作権協会に届出をし、以来死亡するまでは同人が、その後昭和58年2月ころまでは被告らがY1の相続人として著作権使用料の支払を受けていた事実は認め、その余の事実は知らない。 2 著作権は、財産権ではあるが、権利の性質上時効によって取得するということはありえない。 従って、被告の抗弁は主張自体失当である。 第3 証拠関係 本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。 理由 一 X1の経歴等について 請求原因1(一)の事実及び同1(二)のうちX1が原告ら主張の著書を発表したこと、音楽協会の会長を勤めたことは当事者間に争いがない。右争いのない事実に訴訟承継前の原告X1(以下「X1」という。)本人尋問の結果及び被告Y2の本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。 1 原告らの父であるX1は、明治30年8月14日新潟県に生れ、大正10年3月東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を卒業後、香川師範学校の教諭となり、翌大正11年5月に赤坂小学校の音楽担当教員となり、その後日本橋区の坂東尋常小学校の勤務を経て、昭和12年8月に学習院初等科の音楽担当助教授、同16年4月同教授となり、同39年3月に学習院をやめ、東邦音楽大学教授となったが、同61年3月17日満88歳で死亡した。X1は、右のとおり教鞭をとるかたわら長年に亘り音楽協会の役員を勤め、昭和44年以降同人の本人尋問が行われた昭和59年8月現在に至るまで音楽協会会長の地位にあり、日本の教育音楽の発展に重要な役割を果してきた。 2 一方、被告らの父であるY1は、明治27年8月6日群馬県に生れ、大正7年3月に東京音楽学校甲種師範科を卒業後、台湾総督府国語学校附属学校教諭となり、翌大正8年長野県師範学校教諭、大正13年横浜市小学校唱歌科指導員を経て、昭和6年から昭和28年8月まで東京高等師範学校(後の東京教育大学)附属小学校、中学校、高等学校教諭となり、昭和28年9月から昭和36年8月まで東京芸術大学音楽学部講師、昭和38年4月から昭和44年3月まで東京音楽大学教授を勤め、教育音楽のために尽力し、また、役職として文部省の教科書の編集委員、教材等調査審議会委員、全日本児童音楽家連盟会長、日本学校歌劇協会会長、音楽協会会長、東京芸術大学音楽学部「同声会」会長、音楽著作権協会監事などを歴任し、昭和49年11月8日死亡した。Y1も右のとおり日本の音楽教育において重要な役割を果してきた。 3 X1とY1とは、東京音楽学校の先輩(Y1)、後輩(X1)の間柄にあり、音楽協会において共に役員をし、X1の子らが小学校でY1の薫陶を受けるなど公私に亘って近〈緊?〉密な関係にあった。 二 チューリップ曲の創作(作曲)について そこで、まずチューリップ曲の創作(作曲)について検討する。 1 X1が大正11年5月、赤坂小学校の音楽担当教員であったことは前記のとおりであり、また、同小学校では大正11年に創立50周年の記念祝賀行事が行われたことは当事者間に争いがない。右争いのない事実に、原本の存在と成立に争いのない甲第2号証(同小学校の小学生新聞)、第3号証(記念行事のプログラム)及び第4号証の1、2(同小学校の創立50年祝賀に関する記録綴)並びにX1本人尋問の結果を総合すると次の事実が認められ、この認定と異る証拠はない。 「赤坂小学校では昭和11年11月12日に創立50年記念式が行われ、また、翌13日には創立50年記念童謡童話大会が開催されたが、X1は右記念式の式場係の一人であり、右記念式において、唱歌が歌われた。また、右童謡童話大会ではその年学習院初等科に入学した澄宮殿下の来校があり、その大会においてCが「楽しげなる農夫」と「愉快」の2曲を独唱した。」 2 ところで原告らは、X1が右記念式のために「赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌」と題する歌を作曲し、右記念式典において右記念歌が演奏、唱歌されたこと、本件楽譜は、X1が右のとおり作曲後右記念日の演奏唱歌に用いるため自らがり版で筆記した上多数部謄写印刷したものの1部である旨主張する。そして、本件楽譜に記載された旋律(メロディー)が、チューリップ曲と同一であることは、当事者間に争いがない。 3 そこで、まず本件楽譜(甲第1号証、第18号証)の形態、記載態様等について検討する。 (一)甲第1号証は、縦約27センチメートル、横約38センチメートル(A3型の変型)の白紙に青色の謄写インキにより別紙のとおり謄写印刷(俗に、がり版印刷)され(欄外部分の記載を除く。)、五線下の歌詞第1番は黒色で塗りつぶされた形態のものであり、甲第18号証は、歌詞1番が塗りつぶされておらず、また欄外の記載がないことを除いて甲第1号証のものと同一形態のものであることが認められる。そしてX1本人尋問の結果及び後記鑑定の結果によれば、甲第1号証、第18号証は、第1号証の欄外の記載を除き、すべてX1が鉄筆を用いてがり板〈「板」は「版」?〉で筆記したものを謄写印刷したものであることが認められる(被告らもこのことは明らかに争わない。)。 (二)本件楽譜の紙質等について 鑑定人Pの鑑定の結果によれば、ウィルソン染色液による測定により、甲第1号証、第18号証とも無色ないし白色を示し、このような反応を示す素材(パルプ)としては、昭和30年代から製造された未晒亜硫酸パルプのうちの広葉樹パルプと大正時代から樺太、北海道で産出された蝦夷松、椴松を原料として作られた晒亜硫酸パルプのうち針葉樹パルプがありうることが認められる。そうすると、本件楽譜が大正11年ころに作成されたものであるか、或いは戦後に至って作成されたものであるかは、用紙の素材(パルプ)からは断定できない。 次に、本件楽譜に使用されているインキについてみるに、前記鑑定の結果によれば、謄写インキの技法は大正初期にオランダから技術輸入され、わが国でも謄写インキが製造販売されるようになったこと、そしてこれに用いられていた亜麻仁油は戦後使用されなくなったこと、しかし本件楽譜に使用されたインキが亜麻仁油であるか否かが不明であることが認められる。そうすると謄写用インキからも本件楽譜の作成年代を前記いずれとも確定することはできない。 (三)本件楽譜の文字・表現等について (1)「創立50周年」の「周年」という表現について 「周年」という語が戦後になって用いられることとなったと断定することはできない。 しかし、証人渋谷義雄の証言によれば、前掲甲第2、第3号証、第4号証の1、2及び第5号証は、その各原本が赤坂小学校に保管されている記念行事に関する記録であることが認められる。そして、右甲第2号証によれば、同号証は赤坂小学校において前記創立記念日直後の大正11年12月5日に発行された学校新聞であることが認められるところ、同号証には「創立満五十年記念」と記載されていること、前掲甲第3号証によれば、同号証は右創立記念として行われた童謡童話大会のプログラムであることが認められるが、これには「創立五十年記念」と標記されていること、前掲甲4第号証の1、2によれば、これらは、右創立記念の記念行事に関する事実をその当時記載した一件記録であることが認められるが、これには、「創立五十年祝賀ニ関スル記録」、「創立五十年記念式」などと記載されていること、原本の存在と成立に争いのない甲第5号証の1、2によれば、同号証はその頃作成、発行された赤坂小学校の記念誌であることが認められるが、これにも「開校五十年記念誌」と記載されていることが認められ、以上のとおり、当時の記念祝賀に関する記録には一貫して創立(開校)「五十年記念」などと記載されており右記録中に「周年」という表現は見当らない。 一方、本件楽譜は標題が「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」と題されているところ、これが右記念行事の一環としてその当時作成されたものとすれば、その表現は異例のものというほかはない。しかもこの点は、右行事が「創立50年記念」と銘打ってなされていることからすれば、本件楽譜にのみ前記のとおり「赤坂尋常小学校創立50周年記念日の歌」と題されていることはただ単に文章中に用いられた用語の差異にとどまらないもので極めて不自然なものというほかはない。 (2)五線下の歌詞の記載方法について 本件楽譜では五線下に記載された歌詞が第1番から第3番まで全部平仮名で書かれている(甲第1号証では第1番が肉眼では不明であるが、前記Pの鑑定の結果及び鑑定人Qの鑑定の結果によれば、右第1番も平仮名で書かれていることが認められる。)。しかし、成立に争いのない乙第73号証の1ないし4、第75号証の1ないし7、第76号証の1ないし3、第77号証ないし第80号証の各1ないし4及び被告Y2の本人尋問の結果によると、明治27年頃から大正を経て昭和22年頃までは、全く例外がなかったわけではないが、五線下の歌詞は第1番が片仮名、第2番が平仮名、第3番が片仮名と交互に書かれ、読み違いのないように配慮するのが通例であり、昭和23年頃からは、仮名教育の変革もあってすべて平仮名で記載するのが通例となったことが認められる(この点についてはX1の本人尋問の結果中にもこれを是認する供述部分がある。)。そうすると、本件楽譜の五線下に記載された歌詞の記載の方式は、戦後相当期間を経過して後に記載されたものとすれば、通常の方式であるが大正11年当時のものとすれば、異例のものといわざるをえない。 3 次に、本件楽譜とこれに関するX1の供述について検討する。 (一)X1本人尋問の結果中には、チューリップ曲の作曲の経緯について、「@自分が赤坂小学校に赴任した年(大正11年)の7月に、創立50年記念に因んで記念歌を作曲するよう校長(及びZ)らから依頼され、同校の教員Bの詞に作曲することになった。A同小学校にあっては、一大事業なので苦心の末同年8月頃作曲を完了し、同月頃自らがり版刷りを行った。B当初は大正11年11月11日に記念式を行うことになっていたので、その旨記載したものを刷り上げたが、直前になって澄宮殿下の来校が同月12日に変更したのでそれに合わせて急遽もう1枚刷り直した。」との趣旨の供述がある。 (二)そこで検討するに、前記X1供述が事実であるとすれば、本件楽譜(甲第1号証、第18号証)はいずれも「大正11年11月11日」とあるから当初の印刷であり、従って記念日の数か月前に刷り上げられたことになる。しかし、それにしては、その記載は総体的に見ても粗雑であるばかりでなく、「小学校」、「萬々歳」などと略字が用いられた簡略なものであり(今日では、このような用字は極く普通のものであるが、大正11年当時の公式の書面にこのような略字を用いることは異例のものと解するほかはない。)とりわけ、前掲甲第2、第3号証、第4、第5号証の各1、2から窺われるように記念事業に残された他の資料が整然としている(特に、前記プログラムは、活版印刷されている。)のと対比して著しく不均衡の感を免れない。 (三)前掲甲第2、第3号証及び第4、第5号証の各1、2の前記創立50年に関する一件記録によると、記念行事について克明な記載があるので、X1の前記供述が真実とすれば、記念歌の作詞及び作曲が記念事業の一環をなすものであることは明らかであるから、右資料の中にこれに関する記載があるのが自然であると解すべきところ、右証拠を検討しても、右の点に関する記載は見当らない。 4 次に、本件楽譜中甲第18号証の発見経緯についてみるに、鑑定人Q、同Pの各鑑定の結果によると、甲第18号証は甲第1号証と同一人によって同時に謄写印刷されたものであることが認められ、従って甲第18号証もX1が筆記し甲第1号証と同じ頃謄写印刷したものであることは明らかである。そして、原本の存在と成立に争いのない乙第116号証(Rの証人調書)によると、甲第18号証はX1の死後同人の書棚から発見されたことが認められる。 しかし、X1本人尋問の結果中には「自分は震災(関東大震災)及び戦火(第2次世界大戦)に遭い、この種の資料を失ってしまったのでいろいろな方面に当って集めていた。ところが赤坂小学校の創立50年記念日に記念歌を歌った声楽家のCが当時の楽譜(甲第1号証)を保存しており、同人が自分とY1とのチューリップ曲等をめぐる紛争の解決の参考にするようにといって交付してくれたものである。」との供述部分がある。 本件楽譜が大正11年に作成されたものであり、かつ、前記X1の供述が真実であるとすれば、甲第18号証が同人死後同人書棚の中から発見されたことは極めて不可解というほかはなく、この点について首肯するに足りる証拠は全くない。 5 次に、チューリップ曲の出版等とこれに対するX1の対応等について検討する。 (一)Y1がチューリップ曲の作曲者(著作権者)として著作権協会に届出をし、以来、同人死亡時(昭和49年11月8日)までは同人が、その後本件訴訟提起直前までは被告らが著作権使用料の支払を受けていたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実にX1本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、Y1が右のとおり著作権協会に届出を行ったのは、昭和24年頃、戦前に無名で発表された著作物のうち、著作権者が判明するものは届け出るようにとの占領軍からの指示によったものであることが認められる。 (二)また、@成立に争いのない乙第31、第32号証の各1ないし5、第33号証の1ないし4、第34号証の1ないし5、第35号証の1ないし4によれば、いずれも文部省検定済教科書である昭和26年音楽之友社発行「おんがく しょうがく一ねんせい」、昭和29年大日本雄弁会講談社発行「しょうがくのおんがく1」、昭和30年音楽之友社発行「しょうがくせいのおんがく1」、昭和42年同社発行「おんがく1ねん」、昭和45年同社発行「しょうがくせいのおんがく1」に、それぞれチューリップの歌が、作曲者をY1として掲載されていることが認められ、A成立に争いのない乙第36号証の1ないし4、第37号証の1ないし5、第38号証の1ないし4、第39号証の1ないし8、第40号証の1ないし5、第41号証の1ないし4、第43号証の1ないし5によれば、昭和33年岩波書店発行「日本唱歌集」、昭和37年野ばら社発行「こどものうた」、昭和39年株式会社カワイ楽譜発行「日本学校唱歌選集」、昭和43年音楽之友社発行「Y1作曲集」、昭和45年実業之日本社発行「定本日本の唱歌」、昭和47年音楽之友社発行「日本唱歌全集」、昭和54年全音楽譜出版社発行「みんなでうたおうこどものうた1」にも、それぞれチューリップの歌が作曲者をY1として掲載されていることが認められ、更に、B成立に争いのない乙第19ないし第22号証、第27号証、第29号証及び第30号証によれば、音楽協会の編集に係る雑誌「教育音楽」の昭和26年5月号、同28年4月号、同29年4月号、同年9月号、同31年4月号、同33年8月号、同34年4月号には、教材解説、曲の教育指導等に関してチューリップの歌が「Y1作曲」と表示して掲記されていることが認められる。 (三)X1の前記経歴等からみて、同人が右(一)、(二)のような状況を充分に了知していたことは容易に推認できる(殊に、前掲乙第19号証以下の乙各号証によれば、X1は前記雑誌「教育音楽」の発行当時いずれも編集人又は代表編集人であったことが認められる。)ところ、このように長期間多数の出版物にY1の作曲であることが公にされているのにもかかわらず、X1はこれに対してチューリップ曲の創作者が自己であることを明らかにするような確固たる措置を講じた形跡がない(X1本人尋問の結果中には、Y1と会うたびに文句を言ったが、Y1は聞き入れようとしなかったとの供述があるが、これもにわかに措信し難い。)。そればかりでなく前掲乙第30号証(雑誌「教育音楽」昭和34年4月号、昭和34年3月25日発行)によれば、X1は「教育音楽」の誌上に「第一学年の音楽指導資料」と題する解説記事を載せ、その中でチューリップ詞、同曲の解説を行っているが、これには「文部省作詞、Y1作曲」と表示されているのである。 6 以上3ないし5において検討してきたところを併せ考えると、本件楽譜は、原告らが主張する経緯によって作成されたものとは到底認め難いところであり、また、請求原因2の(一)ないし(三)の主張に副うX1本人尋問の結果部分も措信することができない(従って、赤坂小学校の前記記念式で歌われた唱歌は、原告らの主張する「赤坂尋常小学校創立五十年記念日の歌」であると認めることはできない)。そして、他に原告らの右主張を認めるに足りる証拠はない。 7 そうすると、チューリップ曲は、X1が創作(作曲)したものであると認めることはできない。 三 チューリップ詞の創作(作詞)について 次にチューリップ詞の創作(作詞)について検討する。 1 まず、音楽協会の設立(大正11年)と絵本唱歌(ヱホンシヤウカ)出版までの経緯についてみるに、請求原因3(一)のうち大正11年教育音楽を全国に普及するため、D、E、F、Gら12名が理事となり、音楽協会が設立されたこと、同3(二)の事実、同3(三)のうちチューリップの題目を含めて公募によっても歌詞の募集をしたが、よい作品が集まらなかったことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実に成立に争いのない乙第1号証ないし第13号証、甲第14号証の1ないし3によれば以下の事実が認められる。 「大正11年にFらによって音楽協会が設立され、昭和5年6月頃、同協会の評議員としてF、Y1、X1、C、Sらが名を連らねていた。同じ頃、右協会の中に幼稚園唱歌研究部が設置された(同時期に尋常小学唱歌の編集も進められた。)。そして、同会の機関誌「教育音楽」第8巻第11号(昭和5年11月発行)の誌上で「チューリップ」を含む31題目について幼稚園唱歌歌詞の募集(締切は同年11月15日)が行われた。これに対する応募は70余と多数あったが、よい作品は少なく、審査の結果、半数ほどが未決定となった。そこで音楽協会は、残りの題目について再募集をすると共に専門家に委嘱し、ようやく全題目について歌詞が選定され、右選定された歌詞について曲を募集して審査を終え、昭和6年11月に「チューリップ」を含む40曲の選定が終了し、同年12月25日からは新尋常小学唱歌とともに新幼稚園唱歌40曲の紹介と指導のための講習会が開催された(なお、前掲乙第3号証においては募集された題目は31であったにもかかわらず、前掲乙第10号証では「40歌曲全部の選定が終り」とあり完成した歌曲は9曲増えている。)。そして、昭和6年12月に「コヒノボリ」が掲載されている「ヱホンシヤウカハルノマキ」が、昭和7年7月には「チューリップ」が掲載されている「ヱホンシヤウカナツノマキ」が発刊された。」 2 ところで、原告らは右の公募によってもよい詞が集まらなかったことから、X1は「チューリップ」の題目を選び、その際、「赤坂尋常小学校創立五十周年記念日の歌」を思い出してこれに合わせて作ったのがチューリップ詞である旨主張し、X1本人尋問の結果中には右主張に副う供述部分がある。 3 しかし、X1が、赤坂小学校の前記記念日に際してチューリップ曲と同一の旋律である「赤坂尋常小学校創立五十周年記念の歌」(本件楽譜)を作曲したものと認めることはできないことは、前記二において詳細に判示したところである。 4 また、絵本唱歌出版までの過程において、X1の果した役割についてみるに、前掲乙第3号証ないし第13号証によれば、X1は、Y1とともに小学唱歌の研究部委員であったが、幼稚園唱歌の協議会に出席した形跡がないばかりでなく、小学唱歌の協議会にも昭和5年9月30日を最後に出席した形跡がなく、昭和5年6月2日には音楽協会の評議員として名を連らねているが、昭和6年5月18日と同年7月29日の理事会に出席した形跡もないのである。そうすると、X1は絵本唱歌編纂(右編纂は昭和5年11月頃から昭和6年12月頃なされた。)に関与していなかった可能性が高く、この点からも前記のX1本人尋問の結果部分はたやすく信用できない。 5 更に付言するに、成立に争いのない乙第46号証(昭和45年5月7日付新聞「赤旗」)、原本の存在と成立に争いのない乙第105号証(Aの本人尋問調書)、証人Aの証言により真正に成立したと認められる乙第47号証の1ないし6、乙第48号証の1、2(官署作成部分は成立に争いがない。)及び証人Aの証言を併せ検討すると、チューリップ詞は、被告らの主張(請求原因に対する答弁3の(二)ないし(四))するような経緯によって、Aが作詞したようにも・0517えないではない。従って、前記各証拠もまた、チューリップ詞がX1の創作であるとの認定を妨げるに足りるものというほかはない。 6 そうしてみると、チューリップ詞もまたX1が創作(作詞)したものと認めることはできない。 四 結論 以上のとおりであるから、チューリップ曲及びチューリップ詞について原告らが著作権を有することの確認を求める本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がない。 よって、原告らの本訴請求をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法89条、93条を適用して、主文のとおり判決する。 千葉地方裁判所民事第3部 裁判長裁判官 清野寛甫 裁判官 丸山昌一 裁判官 澤野芳夫 |
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